地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 町から店が一軒消えるとき、失われるのは看板一枚ではない。魚屋がなくなれば魚を買う場所が減り、文房具店がなくなればノート一冊を買うために車を走らせる距離が伸び、クリーニング店が閉じれば衣類を預ける場所がなくなる。銀行の支店が撤退すれば、これまで窓口で済ませていた用事を別の町まで出向いたり、慣れないスマートフォンやパソコンで処理したりしなければならない。人口の多い都市なら一つの店が消えても別の店が役割を代替するが、人口の少ない町では、一軒の撤退が生活を支えていた機能そのものを少しずつ剥がしていく。

 だからといって、昔あった店を昔と同じ形で復活させればよいわけではない。人口が減り、客数が減った結果として店が維持できなくなったのであれば、新しい看板を掲げただけで市場が元に戻るはずもなく、スーパー、書店、電器店、旅行代理店、銀行、宅配窓口と、それぞれの用途ごとに建物を構え、人を置き、光熱費を払い、設備を維持するという商業の形そのものが、人口密度の低下に耐えにくくなっていると考えた方が自然である。

 そこで発想を変える余地が生まれる。店の数を昔の水準に戻そうとするのではなく、残る一つの店が担う役割を増やせないかと考えるのである。

 食料品を売る店で宅配便を受け付け、コピーや印刷ができ、地元の商品を取り寄せられ、インターネット通販の商品を受け取れるようにする。さらに、その地域の実情に合うのであれば、高齢者がスマートフォンの基本操作を相談したり、地域交通の予約を頼んだり、住宅の修繕や草刈りをしてくれる事業者を紹介してもらったりする場所にもなる。何も巨大な商業施設を造る必要はなく、一軒の小さな店に、生活上のいくつかの入口を重ねるのである。

 ここでは、そうした店を「複合店」と呼んでみたい。

 複合店の価値は、何でも売ることにはない。むしろ、一つ一つでは商売にならないほど小さな需要を、一か所に集められることにある。人口の少ない町では、電球を買いたい人、荷物を送りたい人、コピーを使いたい人、スマートフォンの操作を相談したい人は、それぞれ確かに存在していても、一つ一つの需要は専門店一軒を維持できるほど大きくない。しかし、それらの需要が同じ場所に流れ込むなら、一つの店が複数の小さな市場を束ねることができる。

 過疎地の商売が難しいのは、需要が完全に消えてしまうからではない。多くの場合、需要が薄く、広く、ばらばらに散らばってしまうからである。

 米も買いたい、荷物も送りたい、コピーもしたい、スマートフォンの使い方も聞きたいという需要は残っている。それにもかかわらず、それぞれを別々の専門店として成立させるには客数が足りないのであれば、需要を業種ごとに切り分けるのではなく、一つの場所に集約する方が合理的になる。この考え方は単なる思いつきではなく、人口減少地域で生活サービスを維持する方法として、実際に各地で進められている「小さな拠点」の発想とも重なる。買い物、郵便、飲食、交通など複数の機能を一か所に集めようとする地域はすでに全国各地に存在しており、サービスの複合化そのものは現実の政策や地域運営でも使われている。

 経営の側から見ても、この仕組みには理屈がある。店を一軒構えれば、売上がゼロの日でも家賃や建物費、電気代、通信費、設備費などが発生するが、食品を売る仕事に宅配受付やコピーサービスを加えたからといって、建物の費用が二倍になったり、駐車場が三倍必要になったりするわけではない。同じ建物、同じレジ、同じ通信回線、同じ店員を複数の仕事で共有できれば、一つ一つのサービスが単独で店舗全体の固定費を背負う必要がなくなる。

 これは経済学でいう「範囲の経済」に近い。複数の商品やサービスを別々に提供するよりも、同じ設備や人員を使って一緒に提供した方が総費用を抑えられるなら、複合化には経済的な意味がある。

 ただし、ここには重要な条件がある。サービスを増やせば増やすほど利益が大きくなるわけではない。

 新しいサービスを始めるたびに専用設備を買い、在庫を増やし、店員に専門的な教育を施し、一件ごとに長時間の接客が必要になるのであれば、複合化によって浮く費用よりも、新しく発生する費用の方が大きくなる。したがって成功する複合店とは、十種類、二十種類の業務を無秩序に詰め込んだ店ではなく、すでにある場所、人、時間、設備を使って処理できる仕事を慎重に選んだ店である。

 複合化で本当に重要なのは、サービスの数ではない。同じ客、同じ場所、同じ設備、そして店員の同じ時間を、どこまで無理なく共有できるかである。

 例えば、店員が一日中休む暇もない店で新たな相談業務を始めれば、そのために人を増やさなければならず、人件費がそのまま上乗せされる。しかし一日のうち何度も客足が途切れ、店員に一定の待機時間がある店なら、その時間に宅配便を受け付けたり、短時間の操作支援をしたりすることで、新しく人を雇わずに追加収入を得られる可能性がある。

 ここに、小さな町の複合店を考えるうえで大切な視点がある。売上を増やすこと以上に、これまで使われていなかった時間や設備を売上に変えられるかどうかが重要なのである。

 仮に一日に三十人が来店し、月に二十六日営業する店なら、一か月の来店回数は約七百八十回になる。もしその店が月五万円だけ収支不足だったとすれば、すべての来店に均等に追加利益を求めるなら、一回来店当たり六十数円程度の利益増加で埋められる計算になる。しかし、実際に追加サービスを利用する人が来店者の四分の一しかいなければ、一件当たりに必要な追加利益は二百円を超える。

 そこへ接客時間が加わると話はさらに変わる。仮に一時間当たりの人件費を千三百円程度と考え、一件の相談に十分かかるなら、それだけで二百円を超える労働費用が発生する。したがって数百円の料金を取っても、追加で人を雇って対応するなら利益が残らない場合があり、反対に、店員の既存の待機時間を使えるのであれば、同じ売上でも採算は大きく改善する。

 複合店は、少額の売上を無数に積み上げれば必ず成功する魔法の仕組みではない。その成否を決めるのは、追加サービスから得られる収入から、そのサービスのために新しく発生する人件費、設備費、事務費などを差し引いた利益がどれだけ残るかであり、その利益が店舗全体の固定費をどこまで支えられるかである。

 この点を無視すると、「住民に喜ばれる店」と「事業として続く店」を取り違える。

 無料でスマートフォンの操作を三十分説明すれば住民には喜ばれるかもしれないが、その時間が毎日積み重なれば店側の負担になる。買い物代行で車を十キロ走らせ、数百円しか受け取らないのであれば、燃料費や車両費だけでなく移動時間まで考えた瞬間に採算が崩れる可能性がある。地域ビジネスでは、必要とされているサービスだから成立するのではなく、利用者がいくらまで払えるのか、一日に何件発生するのか、一件を処理するのに何分かかるのかという数字まで確認して、初めて事業になる。

 一方で、一つの場所に複数の用事を集めることには、売上を直接生む以上の効果も考えられる。宅配便を送りに来た人が牛乳やパンを買い、コピーを使いに来た人が飲み物を買い、商品の取り寄せを頼みに来た人がそのまま日用品も購入することがあれば、一つのサービスが別の売上を呼び込む。

 もっとも、この効果を当然のものとして見込むのは危険である。宅配受付を始めれば来店者が何人増え、その何割が商品を購入するのかは、地域人口、店舗立地、営業時間、競合店の有無などによって大きく変わるからだ。したがって「宅配を始めれば物販も伸びる」と決めつけるのではなく、実際に一定期間試して、来店数、併売率、一人当たり購入額がどう変化したかを測る必要がある。

 このように考えると、複合店は壮大な地方創生策というより、小さな実験を積み重ねる経営に向いている。

 最初から十種類のサービスを始める必要はない。宅配受付を加え、その利用状況を記録し、次に商品の取り寄せを加え、それでも店員の負担が大きくないなら別のサービスを試す。利用件数、売上、必要時間、追加費用を記録して、利益の残らない仕事はやめる。このように一つずつ検証していけば、地域ごとに異なる「採算の取れる組み合わせ」が見えてくる。

 そして複合店の役割をもう少し広げて考えると、「商品をたくさん置く店」というより、「町の小さな受付窓口」という姿が見えてくる。

 現在はインターネット通販や物流網が発達しているため、小さな店があらゆる商品を倉庫に抱える必要はない。注文を受け、商品が届いたら渡すだけでよいものもある。住宅の修繕も店員自身が直す必要はなく、地域の工務店や電気工事業者などにつなぐ役割であれば、在庫や大規模な設備を持たなくてもよい。

 高齢者から「庭木を切ってくれる人はいないか」「エアコンを掃除してくれるところを知らないか」「水道の調子がおかしいが、どこへ頼めばよいのか分からない」と相談を受け、適切な事業者につなげることができれば、店は商品を売る場所だけではなく、地域内の需要と供給を結ぶ場所へ変わっていく。

 ここで店が解決するのは、商品不足だけではない。「誰に頼めばよいのか分からない」という不便である。

 人口の多い都市なら、インターネットで検索すれば多数の業者が見つかるが、小さな町では検索結果そのものが少なく、近隣で実際に仕事を頼める事業者かどうかも分かりにくい。反対に、草刈り、清掃、電気工事、住宅修繕などを行う小規模事業者も、一軒ずつ顧客を探すために時間を使っている。

 この両者を地域の店が結びつければ、住民が事業者を探す手間と、事業者が顧客を探す手間の双方を減らせる可能性がある。

 さらに、複数の依頼をまとめることができれば、事業者側の移動効率も改善する。例えば、ある地区から草刈りの依頼が一件だけ届けば、往復の移動時間を考えると受けにくい仕事でも、複合店が同じ地区から五件をまとめて「火曜日にこの地区で五件あります」と渡せれば、一回の移動で複数の仕事を処理できる。

 人口密度の低い地域では、客を増やすことと同じくらい、移動一回当たりに処理できる仕事を増やすことが重要になる。複合店が地域の注文を集める場所になれば、住民には頼みやすく、事業者には移動効率がよく、店側にも受付や仲介による収入が残るという形をつくれる可能性がある。

 ただし、仲介業務には慎重さも必要になる。

 何を取り次ぐかによっては、資格、契約、個人情報の取扱い、事故が起きた場合の責任、紹介先の品質管理などを考えなければならない。店が単に連絡先を紹介するのか、正式に依頼を受け付けて料金まで集めるのかでも責任の範囲は変わるため、「地域の困りごとは何でも引き受ける」という曖昧な仕組みにするのではなく、どこまでが店の仕事で、どこからが専門事業者の責任なのかを明確にする必要がある。

 つまり、複合店は何でも屋になればよいのではない。小さな需要を集約しながら、専門的な仕事は専門家に渡す「接点」になることに価値がある。

 ここまで考えると、一つの疑問が残る。これほど合理的な仕組みなら、複合店をつくれば人口の少ない町でも簡単に商売が成立するのだろうか。

 答えは、そこまで単純ではない。

 生活サービスを一か所に集める仕組みは全国で実際に広がっているが、そのすべてが完全な民間事業として利益を出しているわけではなく、地域運営組織や自治体などが関わって維持されている例もある。移動販売や生活支援サービスでも、住民に必要とされながら、自治体などの支援がなければ収支が合いにくい事例は存在する。

 ここには、地方ビジネスを考えるうえで避けて通れない問題がある。社会的に必要であることと、民間事業として利益を出せることは同じではない。

 人が少ない地域ほど、一人当たりのサービス提供費用は高くなりやすい。十分な利益を取れば住民が利用できなくなり、料金を下げれば事業者が続けられなくなる。この境界線にあるサービスについては、行政や地域組織の支援を組み合わせる方が合理的な場合もある。

 したがって複合店を過疎地の万能策として語るべきではない。複合化には、一つ一つのサービスを単独で運営するよりも固定費を共有し、損益分岐点を下げられる可能性があるというのが、より正確な表現になる。

 それでも、この違いは小さくない。

 人口が少ないから何もできないのではなく、一つの商売だけでは成立しなくなった地域で、複数の小さな需要を束ねれば成立する仕事が残っている可能性があるからである。

 都市では市場規模が大きいため、一つの分野に特化し、専門性を高めることが競争力になる。しかし人口の少ない町では、専門化しすぎれば市場そのものが小さくなり、客を確保できなくなる。人口密度が低下するほど、「狭く深く」よりも「近くでいくつもの用事が済む」という価値が相対的に高くなる。

 昔の町には「よろず屋」があった。食料品から日用品まで、住民が必要とするものを店の棚にできるだけ多く置いていたが、現在の複合店は、それと似ているようで少し違う。

 これからの店が抱えるべきなのは、大量の商品ではないのかもしれない。

 注文、受取、相談、予約、仲介といった「機能」である。

 商品そのものは遠くの倉庫から運んでもよいし、専門的な作業は別の町の事業者が担当してもよい。しかし、住民が困ったときに最初に尋ねる場所まで遠くにする必要はない。

 人口が減る社会で、昔と同じ数の銀行、商店、行政窓口、専門店をそのまま残し続けることは難しい。それならば、建物や業種を残すことにこだわるのではなく、そこで提供されていた「生活機能」を取り出し、別の場所へ移し替えることを考えた方がよい。

 専門店がなくなっても、商品を注文して受け取れる場所があれば困らない人は多い。行政窓口が遠くなっても、必要な手続きの方法を教えてくれる場所が近くにあれば助かる。地域交通の営業所がなくても、乗車予約を受け付ける場所があれば利用できる人はいる。

 地域から建物が一つなくなったからといって、その建物が担っていた機能まで同じ割合で失われなければならないという決まりはない。

 そこに、小さな町の商機がある。

 もっとも、その商機は派手ではない。短期間で全国展開できる事業でも、一店舗で巨額の利益を上げる商売でもないだろう。一日に数件発生する小さな不便を拾い、既存の店、人員、設備を使いながら、一件数百円、数千円の利益を積み重ね、店舗全体の固定費を少しずつ支えていく。

 だが人口減少社会では、その「小ささ」がむしろ重要になる。

 人口が減れば、大量の客を集めることは難しくなる。しかし、一人の住民が抱える困りごとまで一つになるわけではない。食品も必要で、荷物も送り、家も修繕し、交通も使い、スマートフォンも操作しなければならないのであれば、一人の住民との取引を深くする余地は残る。

 これからの地方商業で問うべきなのは、「何人の客を新しく呼べるか」だけではない。

 一人の住民が日常生活の中で発生させる複数の需要を、どこまで一つの場所で受け止められるかという視点も必要になる。

 そして、それが本当に商売になるかどうかは、理念ではなく数字で判断しなければならない。利用者数、利用率、一件当たりの料金、処理時間、追加人件費、追加設備費、そして他の商品への購買波及を実際に記録し、小さく試しながら組み合わせを変えていく必要がある。

 複合店は、過疎地を救う魔法ではない。

 しかし、一つの専門店では採算が取れなくなった地域でも、複数の小さな需要と既存資源を組み合わせれば、新しい商売の形をつくれるかもしれないという点では、十分に検討する価値がある。

 日本全体の人口が減少していけば、現在の過疎地で起きていることは、一部の山間部や漁村だけの出来事ではなくなる可能性がある。商圏人口が減り、専門店が撤退し、生活のための移動距離が伸び、残った店や事業者に複数の役割が求められるという現象は、やがて地方都市や郊外住宅地でも珍しくなくなるだろう。

 そう考えれば、小さな町は衰退した市場であると同時に、人口減少社会の新しい商業モデルを、ほかの地域より早く試している場所ともいえる。

 店が減る流れそのものを止めるのは難しい。

 しかし、店の数が半分になったから、地域で利用できる機能まで半分にしなければならないわけではない。

 一軒の店が二つ、三つ、五つの役割を無理なく担い、なおかつ一つ一つの仕事について採算を確認しながら続けていけるなら、小さな町の商業を「店舗数」だけで測る必要はなくなる。

 これから価値を持つのは、商品を最も多く並べた店ではないのかもしれない。

 「あそこへ行けば、とりあえず相談できる。頼める。受け取れる。そして、必要なら誰かにつないでもらえる」

 住民からそう思われる場所をつくり、その信用と利便性を、無理のない料金と小さくても継続可能な利益へ変えていくことができるかどうか。人口減少によって店が消えていく時代だからこそ、一つの店に何を足せるかではなく、一つの場所にどの需要を重ねれば持続可能になるのかを考えるところに、小さな町の次の商売が隠れている。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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数字で比較するサービスを見る

 人が住まなくなった家は、ある日突然、廃屋になるわけではない。昨日まで誰かが開けていた雨戸が閉じたままになり、庭の草が少しずつ伸び、郵便受けには広告が重なっていく。数か月ならまだ「留守の家」に見えるが、一年、二年と時間がたつにつれて、家は不思議なほど早く町の風景から浮き始め、誰も住んでいないことが、外から見ても少しずつ分かるようになっていく。

 空き家問題というと、私たちは老朽化した建物や倒壊の危険、雑草、害虫、防犯といった問題を思い浮かべる。しかし商売という視点から見るなら、建物が壊れてから解体する仕事だけを見るのでは少し遅い。家がまだ使える状態にありながら、そこへ定期的に足を運び、異常がないか確かめる人がいなくなるという「管理の空白」が、空き家が生まれた瞬間から始まっているからである。

 この空白は、単純に人口が減ったから生じるのではない。より重要なのは、住宅と所有者の生活圏が離れていくことである。

空き家900万戸の時代に起きていること

 2023年の住宅・土地統計調査によれば、日本全国の空き家は900万戸、空き家率は13.8%となり、いずれも過去最高となった。賃貸用や売却用、別荘などを除き、明確な使用目的を持たない空き家も385万戸に達しているため、もはや一部の過疎地だけに起きている特殊な現象ではなく、日本の住宅市場そのものが大量の「使われない家」を抱える時代に入ったと考えた方がよい。

 さらに重要なのは、その家がなぜ空き家になったのかという点である。国土交通省の調査では、空き家の取得理由の過半数を相続が占めており、親が亡くなり、地方の実家を都市部に暮らす子どもが受け継ぐというケースは、珍しい例ではなく空き家発生の中心的な経路になっている。高齢になった親が施設へ入り、それまで暮らしていた家だけが残る場合もあれば、転勤や住み替えを契機に「いずれ使うかもしれない」と考えながら住宅を手放さない場合もあり、こうして人と住宅の関係は完全に切れるのではなく、細い糸でつながったまま遠距離になる。

 もっとも、日本の空き家所有者の大半が東京や大阪など遠く離れた地域に住んでいるわけではない。調査では、空き家まで徒歩圏内または交通機関などを利用して一時間以内という所有者が全体の四分の三程度を占めるため、「空き家の持ち主はみな遠隔地にいる」と考えるのは正しくない。その一方で、一時間を超える距離に住む所有者も二割を超え、管理上の問題として「遠方に住んでいるため往訪が難しい」と答える人も二割程度存在していることから、遠隔管理の市場は空き家所有者全体ではなく、その中に存在する一定の層を対象とする市場だと考える方が現実に近い。

 ここに、普通の地域ビジネスとは少し違う構造が現れる。一般の小売業や飲食業なら、店の近くに住んでいる人が顧客になるため、人口が減れば客も減り、人口密度が下がれば商売は難しくなる。しかし空き家管理では、サービスを受ける建物は地方にありながら、料金を払う人は県外や都市部に暮らしている可能性がある。

 つまり、家は地域に残り、財布は地域の外へ移動する。この関係が成立するなら、人口減少地域にありながら町外の人から地域へお金を呼び込む、少し変わったサービス市場が生まれることになる。

誰がお金を払うのか

 空き家の隣に住む人が雑草や防犯を心配しているからといって、その人が毎月の管理料を払うわけではない。自治会が困り、自治体が対応に追われていても、通常の民間サービスとして継続的に料金を負担する主体になるとは限らないため、この商売を考えるとき最初に確認すべきなのは、「困っている人は誰か」ではなく、「その困り事を解消するために実際にお金を払う人は誰か」ということである。

 もっとも有力なのは、やはり所有者本人か、その家を事実上管理している家族である。ただし、ここでいう所有者は、積極的に家を保有したい人ばかりではない。「売るか残すか決められない」「兄弟で話がまとまらない」「親の家なので気持ちの整理がつかない」「年に何度も様子を見に行くのは大変だ」といった事情を抱えながら、結論を先送りしている人も少なくない。

 実際の支払者が名義上の所有者本人とは限らないところも重要である。高齢の親名義の住宅を遠方の子どもが管理していたり、兄弟のうち一人が代表して維持費を負担していたりすることもあるため、このサービスの本当の顧客は「家を所有している人」というより、「その家を気にし続けなければならない人」だと考えた方が分かりやすい。

 東京から地方の実家を見るために何時間もかけて往復し、交通費を払い、休日を一日使う。その負担を年に数回繰り返している人にとって、月に数千円という費用は単なる住宅維持費ではなく、自分が現地へ行かなくても誰かが代わりに確認してくれる状態を買うための料金になる。

 ただし、ここで注意しなければならない。困っていることと、お金を払うことは同じではない。

「困っている人」は多いが、「お金を払う人」はまだ少ない

 空き家所有者への調査では、「管理の作業が大変」と感じる人は三割前後、「遠方に住んでいるため往訪が難しい」とする人も二割程度存在しているため、管理負担という問題そのものは明確に存在している。しかし現実には、空き家の管理を所有者本人や親族が行っている割合が非常に高く、不動産会社、建設会社、管理専門業者などへ主な管理を委託している割合は数%程度にとどまっている。

 この数字は、遠隔住宅管理という商売を考えるうえで極めて重要である。空き家900万戸という数字だけを見て、「巨大な市場がある」と考えるのは危険であり、900万戸がそのまま900万件の顧客になるわけではない。むしろ現状は、管理に困る人はすでに存在する一方で、その困り事を有料サービスへ置き換える習慣がまだ十分には形成されていない市場なのである。

 空き家所有者の中には、親族に頼めば済むと考える人もいれば、自分で年に数回見に行けばよいと判断する人もいる。また、管理費そのものを負担に感じている人も少なくなく、調査でも管理費用の負担を課題とする回答が二割程度あるため、「月五千円なら誰でも払う」という発想は成り立たない。

 だからこそ、この商売では空き家所有者全体を狙うより、料金を払う合理的な理由が強い人を探す必要がある。遠距離に住み、往復の交通費が高く、仕事や介護などで時間を取りにくく、将来的には売却や再利用を考えている人にとっては、外部委託の価値が大きくなる一方、自宅から十分程度の場所に空き家があり、本人が元気で月に一度見に行けるなら、有料管理サービスを利用する理由は弱い。

 需要は空き家の数だけでは決まらない。距離、時間、所有者の年齢、資産価値、交通費、家族構成、そして家を今後どうするつもりなのかという条件が重なったとき、初めて支払意思が生まれるのである。

売るのは「見回り」ではなく「現地に目がある状態」

 遠隔住宅管理というと、玄関を確認し、窓を開け、郵便物を整理し、庭を眺めて帰るだけの仕事に見える。作業そのものを並べれば高度な技術ではなく、それだけなら近所の知人に頼めば済むため、毎月料金を払って専門業者へ依頼する理由は弱い。

 商品になるのは、その確認を一定の基準で繰り返し、遠方の所有者に「今月も異常はなかった」と見える形で証明するところまで含めたときである。毎回同じ場所から建物を撮影し、外壁、屋根、窓、庭、郵便受けなどの変化を記録し、大雨や台風の後には必要に応じて臨時確認を行い、異常が見つかれば写真とともに知らせる。そして修繕が必要なら地域の事業者へつなぐところまで仕組みにすれば、それは単なる見回りではなく、所有者に代わって住宅と地域との関係を維持するサービスになる。

 遠隔地にいる顧客には、サービス提供者が本当に現地へ行ったのかを直接確認できないという問題もあるため、この商売では技術力と同じくらい「証拠」が重要になる。撮影日時の分かる写真、一定形式の報告、前月との比較、異常時の記録が蓄積されれば、所有者は離れた場所にいながら家の変化を時間の流れとして把握できる。

 考えてみれば、ここで売られているのは住宅の見回り作業そのものではない。数十キロ、数百キロ離れた町に、自分の代わりに一組の目が存在するという状態なのである。

月額五千円は高いのか、安いのか

 遠隔住宅管理の市場では、屋外巡回を中心とした簡易なサービスなら月額数千円程度、室内換気や通水などを含むサービスではそれより高い料金設定が実際に存在しているため、月額五千円程度という価格は現実離れした水準ではない。

 しかし、価格が市場に存在することと、多くの人がその価格を払うことは別問題である。空き家所有者の年間維持管理費を見ると、五万円未満という世帯もかなり多いため、月額五千円なら年間六万円となり、それだけで現在の年間管理費を超えてしまう所有者もいる。したがって、月五千円という価格は「安いから売れる」のではなく、所有者自身が現地へ行く場合の交通費や時間、精神的負担と比べて初めて価値が生まれる価格だと考えるべきである。

 たとえば往復の交通費が一回一万円かかり、一日を使って年に六回確認している人なら、交通費だけで年間六万円になるため、月五千円の管理サービスには十分な比較対象が生まれる。一方、自宅から車で十五分のところに空き家がある人なら、年間六万円を払う合理性はかなり小さい。

 ここでも結局、「空き家であること」より「所有者と空き家との距離」が重要になる。

月額五千円の商売は、本当に利益になるのか

 需要が存在すると分かったところで安心することはできない。必要とされることと、利益が出ることは別だからである。

 月額五千円で三十軒契約すれば月十五万円、百軒なら月五十万円になるため、売上だけを見ると地域の小規模事業として成り立ちそうに見える。しかし、三十軒が同じ住宅地に集まっている場合と、山間部や沿岸部に一軒ずつ散らばっている場合とでは、同じ十五万円でも利益はまったく違う。

 一軒の確認作業が二十分で済んだとしても、次の家まで三十分走れば、仕事の中心は住宅管理ではなく移動になってしまう。仮に人件費や車両費を含めて一時間当たり三千円程度の経済コストが発生すると考えれば、移動、確認、写真撮影、報告作成まで一軒当たり一時間前後で処理できなければ、月額五千円という料金では十分な利益を残しにくい。

 反対に、同じ地区に十軒、二十軒と契約が集まり、数分の移動で次の家へ行けるなら採算は大きく改善する。つまり、この商売では顧客数以上に顧客密度が重要であり、一軒獲得することより、同じ巡回経路の中で二軒目、三軒目を獲得することの方が経営上の価値が高い。

 人口減少地域で商売をするとき、最大の敵になるのは需要不足だけではなく、需要が薄く広く散らばっていることである。遠隔住宅管理は、この「密度の経済」を無視すると、契約が増えるほど忙しいのに利益が残らないという状態になりかねない。

基本料金だけで何でも引き受けてはいけない

 もう一つ注意すべきなのは、月額料金の中にどこまで作業を含めるかである。庭木が伸びた、雨樋が外れた、蜂の巣ができた、台風の後に屋根を確認してほしい、室内を清掃してほしいといった依頼まで基本料金に含めてしまえば、少数の手間のかかる住宅によって利益が簡単に消えてしまう。

 そのため、定期巡回、外観確認、写真報告などを基本料金とし、草刈り、清掃、災害後の臨時確認、修繕手配などは別料金とする方が合理的である。月額料金は安定した収入の土台となり、追加作業は必要が発生したときだけ料金を受け取る仕組みにすれば、所有者にとってもサービス内容が分かりやすく、事業者側も過剰な負担を抱えにくい。

 さらに、定期的に家を見ているからこそ小さな異常を早く見つけることができ、その結果として清掃、庭木管理、修繕、解体、不動産売却といった地域の別の仕事へ需要をつなぐこともできる。遠隔住宅管理そのものだけで大きな利益を狙うより、住宅に関する地域サービスの入口になる事業として考えた方が、経済的には強い可能性がある。

最大の難関は、空き家を見つけることではない

 空き家そのものを見つけるのは、それほど難しくない。町を歩けば、雨戸の閉じた家、伸びた庭木、使われなくなった駐車場が目に入る。しかし、その家の前に「私は東京に住んでいます。月五千円なら管理を頼みたいです」と所有者の連絡先が書かれているわけではない。

 ここに、この商売の面白さと難しさが同居している。仕事をする場所は地域なのに、営業すべき相手は地域の外にいる場合があるからである。

 したがって、遠隔住宅管理で本当に難しいのは巡回作業そのものではなく、遠方の所有者と出会う仕組みをつくることである。地域の不動産会社、相続に関わる専門家、工務店、解体業者などとつながり、家が空き家になる段階でサービスの存在を知ってもらえれば、何年も放置された後で所有者から連絡が来るのを待つよりはるかに効率がよい。

 しかも遠隔地の顧客ほど、価格だけで業者を選ぶことは難しい。知らない町の知らない事業者へ家の状況確認を任せ、ときには鍵を預けることもある以上、会社の規模よりも、誰が訪問するのか、何を確認するのか、どのように報告するのか、異常時にどう対応するのかが明確でなければならない。

 地域密着という言葉だけでは足りない。地域にいるという強みを、遠くにいる顧客にも見える形へ翻訳することが必要なのである。

管理し続けることが目的ではない

 空き家管理会社にとって最もありがたい顧客は、何十年も空き家を持ち続け、毎月管理料を払ってくれる人のように見える。しかし、社会全体から考えれば、それが望ましい状態とは限らない。

 空き家には、いつか出口が必要になる。再び住むのか、貸すのか、売るのか、取り壊すのか、その判断を永遠に先送りすることはできない。所有者調査でも、今後も空き家のまま所有する意向を持つ人が一定割合存在する一方、売却や除却を考えている人も少なくないため、遠隔住宅管理は「空き家を永久に保存するサービス」ではなく、所有者が次の判断をするまでの時間を安全に管理する仕事だと考えた方がよい。

 毎月の写真が数年分残っていれば、建物がどの程度傷んできたのかも見える。「そろそろ大きな修繕が必要になりそうだ」「維持費を考えると売却を検討した方がよいかもしれない」と判断する材料になり、必要になれば不動産、建築、解体など、それぞれの専門事業者へつなぐこともできる。

 遠隔住宅管理の本当の価値は、空き家を空き家のまま維持することではなく、「放置」と「処分」の間に存在する数年間を、管理可能な時間へ変えることにある。

制度の変化も「放置するだけ」を難しくしている

 空き家は個人の財産なので、使わなくても所有者が自由に放置してよいように見える。しかし現在の制度では、適切に管理されない空き家について行政から指導や勧告を受ける可能性があり、一定の条件では住宅用地に認められている固定資産税などの特例から外れることもある。

 もちろん、空き家になっただけで直ちに税負担が増えるわけではないため、「空き家を持っていると固定資産税が上がる」と単純化するのは正しくない。それでも、所有者に対して適正管理を求める制度が強化されている方向そのものは明確であり、「何もしないで放置する」という選択のコストは以前より重くなっている。

 この変化は遠隔住宅管理という商売を自動的に成長させるものではないが、所有者が家の状態を定期的に確認する理由の一つにはなるだろう。

空き家900万戸は、市場900万件ではない

 地域ビジネスを考えるとき、大きな数字は魅力的に見える。空き家900万戸と聞けば、その一%だけでも九万件の市場になると考えたくなるが、現実はそれほど単純ではない。

 近くに住んで自分で管理できる人、親族へ頼める人、費用を払いたくない人、ほとんど資産価値のない住宅を所有している人まで含まれているため、空き家戸数から直接市場規模を計算することはできない。遠隔住宅管理の顧客になりやすいのは、距離が遠く、管理負担が重く、ある程度の資産価値が残り、将来的な売却や活用を考えている所有者など、いくつかの条件が重なった層である。

 だから、この事業の可能性を判断するには、「町に空き家が何軒あるか」だけでは不十分であり、その所有者がどこに住んでいるのか、どれくらいの頻度で管理しているのか、現在いくら維持費を払っているのか、管理を外注する意思があるのか、さらに管理対象住宅がどの程度まとまって存在しているのかまで見なければならない。

 商機とは、困り事の数ではなく、困り事と支払意思と採算性が同じ場所で重なったところに生まれる。

人口が減るからこそ増える仕事もある

 人口が減る町では、商売も減ると考えたくなる。実際、多くの小売店や飲食店にとって人口減少は厳しい。しかし人口減少によって、反対に増える仕事も存在する。人がいなくなれば家が残り、子どもが町を離れれば親の住宅との距離が広がり、かつて家族が無償で担ってきた管理を、誰かが代わりに引き受けなければならなくなるからである。

 ここで興味深いのは、この市場では「そこに住んでいる人の数」と「顧客になり得る人の数」が一致しないことである。一万人の町に管理対象となり得る住宅が二百軒あり、その所有者が全国各地に散らばっているなら、その町は人口一万人の市場であると同時に、町外に暮らす所有者へサービスを販売できる市場でもある。

 もっとも、その二百軒すべてが顧客になるわけではなく、実際に料金を払う人はその一部だろう。それでも、地域内の所得だけを奪い合う商売とは違い、地域外から管理料を受け取り、そのお金を地域の巡回、清掃、修繕、庭木管理、不動産、解体などへ循環させる可能性があるところに、この事業の特徴がある。

 地方に足りないのは、いつも顧客とは限らない。困り事は地域に存在しているのに、お金を払う人が遠く離れた場所にいるため、両者がまだ出会っていないだけなのかもしれない。

 夕方、誰も帰ってこない家の前を通れば、そこには「空き家が一軒ある」としか見えない。しかし商売の目でその家の向こう側を想像すれば、遠く離れた町で「そろそろ一度見に行かなければ」と気にしている誰かがいる可能性がある。その人が欲しいのは、新しい住宅設備でも豪華なサービスでもなく、自分がいない町で、自分の代わりに家を気にしてくれる人である。

 空き家が増える町で生まれる新しい商売は、家を管理する仕事のように見えて、実は住宅と所有者の間に生まれた「距離」を埋める仕事なのかもしれない。そして、その距離に本当にお金を払う人がどれだけいるのかを冷静に見極めることこそ、この商売を単なる思いつきから事業へ変える最初の条件なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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買い物に困る人がいるなら、それは商売になるのか

 夕方のスーパーで買い物かごをのぞけば、牛乳、豆腐、卵、野菜、総菜が入っている。どれも特別なものではないが、車を運転できる人にとって何でもないこの買い物が、車を手放した途端、一日の中で最も大きな仕事になることがある。最寄りのスーパーまで数キロあり、バスは一日に数本しかなく、タクシーを使えば買った食品より運賃の方が高くなる。人口減少と高齢化が進んだ地域では、こうした日常が少しずつ珍しいものではなくなっている。

 農林水産政策研究所が2020年の国勢調査などを基に推計したところ、店舗まで500メートル以上あり、自動車の利用が困難な65歳以上の「食料品アクセス困難人口」は全国で904万人、65歳以上人口の25.6%に達している。これは過疎地だけの問題ではないものの、店と住宅が離れ、公共交通も弱い地域ほど、買い物という日常行為が「移動できる人だけが簡単にできる仕事」へ変わりやすいことを示している。

 ただし、この904万人をそのまま「買い物代行の顧客候補」とみなすことはできない。地理的に店が遠くても家族が買ってくれる人もいれば、宅配を利用できる人もいるし、そもそも有料サービスにはお金を払いたくない人もいる。統計が示しているのは社会課題の大きさであって、市場規模そのものではないのである。

 それでも、買い物に困る人が一定数いることは間違いない。そこで思いつくのが買い物代行である。電話やメッセージで注文を聞き、スーパーで商品を買い、玄関まで届ける。困っている人がいて、自分には車があるのだから、商売としてこれほど分かりやすいものはないように見える。

 しかし、ここに地方の小さな商売を考えるときの厄介な罠がある。必要とされるサービスと、採算の取れるサービスは同じではない。

買い物代行が売っているのは、商品ではなく移動時間である

 仮に一回の買い物代行料を800円としよう。利用者から注文を聞き、スーパーへ向かい、商品を選び、会計を済ませ、家まで届けるまで45分かかったとすれば、一時間当たりの売上は約1,067円になる。これは利益ではなく、あくまで売上であり、ここからガソリン代、車両費、保険料、通信費、事務処理の時間などが差し引かれる。

 さらに重要なのは、事業者自身の労働時間にも価値があるということである。一時間働いて1,067円の売上しか生まれず、そこから車両経費まで支払うのであれば、地域に必要とされていても、事業としては長く続けにくい。

 都市であれば、同じマンションや近接した住宅へ短時間で何件も届けられるかもしれない。しかし過疎地では、一軒届けたあと次の家まで車で十分、十五分と走ることがある。この時間には商品もサービスも売れていないのに、人件費と車両費は発生している。つまり買い物代行の採算を壊しやすい最大の要因は、買い物そのものではなく、家と家の間に横たわる「売上を生まない移動時間」なのである。

 これは買い物代行に限らず、訪問型の生活支援サービス全般に共通する。困っている人が百人いるとしても、その百人が半径500メートル以内に暮らしている場合と、山や田畑を挟んで二十キロ四方に散らばっている場合では、市場としての性質がまるで違う。地方の商売では人口そのものより、一時間に何件の利用者へ接触できるかという顧客密度が採算を左右する。

 したがって「高齢者が多い町だから買い物代行が成り立つ」とは限らない。見るべきなのは高齢者人口だけではなく、実際に利用する人がどの範囲に何人いて、一人が月に何回利用し、一件当たりどれだけの粗利益を生み、それを一時間に何件積み重ねられるかである。

単発で一軒ずつ走るから、利益が消えていく

 買い物代行そのものが事業として成り立たないわけではない。料金が十分に高く、利用者が近い範囲にまとまり、複数世帯の注文を一度に処理できるのであれば、単独サービスでも成立する可能性はある。問題なのは、低料金の依頼を受けるたびに一軒ずつ走る形である。

 仮にスーパーまでの往復や店内での共通作業に20分かかり、一世帯ごとの商品選択、仕分け、配送、受け渡しに18分かかるとする。一世帯だけなら合計38分を使って売上800円だが、五世帯分をまとめれば、共通の20分を五世帯で共有できるため、110分で4,000円の売上になる。一時間当たりの売上は約1,263円から約2,182円へ上がる計算になり、同じ800円のサービスでも、注文のまとめ方によって採算構造は大きく変わる。

 ここに過疎地ビジネスの重要な特徴がある。売上を増やすために遠くの客まで集めればよいとは限らず、むしろ同じ地域で利用者を増やした方が一件当たりの移動時間が短くなり、利益が改善することがある。地方では「客数」だけではなく、「客同士の距離」が売上と同じくらい重要なのである。

一度の訪問に、一つしか価値を載せないという常識を捨てる

 さらに発想を変えてみる。買い物代行を「スーパーから食品を運ぶ仕事」と考えるから、800円なら800円だけで移動時間を回収しなければならなくなる。しかし、利用者が困っていることは買い物だけとは限らない。

 玄関まで食品を届けたとき、「電球が切れたけれど高いところに上がれない」と言われるかもしれないし、「スマートフォンに変な表示が出たので見てほしい」「役所から封筒が届いたが、どこを読めばいいのか分からない」と相談されることもあるだろう。介護、医療、法律相談、廃棄物運搬などには資格、許認可、専門的責任の境界があるため、何でも引き受ければよいわけではないが、暮らしの中には専門業者を呼ぶほどではなく、本人だけでは処理しにくい小さな仕事が数多く存在する。

 過疎地で考えるべきなのは、こうした仕事を一つずつ別のサービスとして増やすことではなく、一度の訪問ですでに発生している移動時間の上に、追加時間の少ない価値を重ねられるかということである。

 買い物を届けたついでに数分で電球を交換し、次回必要な日用品を確認し、スマートフォンの基本的な操作を手伝い、本人が希望するなら離れて暮らす家族へ「今日はいつも通りでした」と伝える。一度の移動に複数の価値が載れば、一件当たりの売上は増える一方で、移動時間そのものはほとんど増えない。

 ただし、この「複合化」も万能ではない。500円の追加料金を得るために五分余計に働くのであれば採算改善につながりやすいが、500円のために三十分余分にかかるなら、仕事を増やしたことで利益率が悪化する。大切なのはサービスの種類を増やすことではなく、追加される時間と費用に対して、どれだけ追加収益を得られるかという限界利益を見ることである。

「何でも屋」ではなく、「決まった道を回る商売」にする

 ここを間違えると、買い物、草取り、家具移動、スマートフォン相談、役所への同行まで何でも受け、朝から晩まで忙しいのに利益が残らない便利屋になってしまう。依頼が増えたのに儲からないという状態は、地方の生活支援サービスで最も避けたい形である。

 必要なのは、仕事を増やすことではなく移動を束ねることである。例えば毎週火曜日の午前は同じ地区を回ると決め、買い物の注文は前日までに受ける。スーパーで複数世帯分をまとめて買い、その地区を順番に訪問し、買い物の受け渡しと短時間の生活支援を行う。こうすれば「呼ばれるたびに走る商売」から「決められた道を回りながら売上を積み上げる商売」へ変わる。

 宅配便や移動販売の効率が、単に一個の荷物や一品の商品から高い料金を取ることで生まれているわけではないのと同じである。同じ地域へ向かう仕事をまとめ、移動という共通コストを複数の顧客で分けるから効率が上がる。小さな地域事業でも、この原理は変わらない。

「誰が使うか」と「誰がお金を払うか」を分けて考える

 もう一つ重要なのが、サービスを利用する人と料金を負担する人が同じとは限らないという点である。

 地方の実家に80代の母親が一人で暮らし、子どもは東京や大阪で働いている家庭を考えてみる。母親自身は買い物一回に千円を払うことを「もったいない」と感じるかもしれないが、遠方に暮らす子どもにとっては、毎週誰かが実家を訪ね、食品を届け、少し話をし、普段と違う様子があれば連絡してくれることには別の価値がある。

 このとき売っているものは、もはや買い物だけではない。「離れて暮らす親の日常が大きく崩れていないことを確認できる安心」が商品に含まれている。

 こう考えると、利用者は高齢者、直接の受益者は高齢者とその家族、支払者は遠方に暮らす家族という形もあり得る。地域内の所得だけを市場の上限と考える必要はなく、地域外に住む家族まで含めれば支払者の範囲は広がる。

 もっとも、「遠方の家族なら月数千円を払うだろう」と決めつけることはできない。実際に商売として始めるなら、月3,000円、5,000円、8,000円といった価格を提示したとき、何人が申し込むのかを調べなければならない。社会的に価値があることと、その価値に実際にお金が支払われることは別であり、ここでも必要性と支払意思を分けて考える必要がある。

単発利用を定期訪問へ変えると、商売の形が変わる

 買い物代行が不安定になりやすいもう一つの理由は、必要になったときだけ呼ばれることである。雨の日は注文が増え、体調がよい週には注文がなく、利用者が入院すれば突然利用が止まる。これでは翌月の売上を予測しにくい。

 そこで生活支援を定期訪問型にすると、事業の性格が変わる。例えば月に四回訪問する基本契約を設け、買い物の受け渡し、簡単な生活確認、短時間の日常支援をその範囲に含め、時間のかかる作業は別料金とする。価格は地域の所得、競合サービス、移動距離によって調整する必要があるが、重要なのは「一回の用事」を売るのではなく、「定期的に暮らしを支える関係」を商品にすることである。

 利用者側にも利点がある。電球一個を交換するためだけに業者を呼ぶのは気が引けても、「次に来たときに頼もう」と言える人が決まっていれば頼みやすい。提供側も毎週ほぼ同じ道を走るため予定が立ち、利用者が一定の地域に集まれば、一日に訪問できる件数も増えていく。

 人の暮らしを一日だけ見れば、困り事は偶然発生しているように見える。しかし一か月、一年という長さで眺めれば、食品は繰り返し必要になり、電球は切れ、庭には草が生え、家には小さな不具合が起こり、デジタル機器の操作にも迷う。単発ではばらばらに見える需要が、一人の暮らしの中では繰り返されているのである。

 そこに定期契約という形を与えることができれば、偶発的な小仕事の集まりが、ある程度予測できる継続収入へ変わる可能性が生まれる。

過疎地では、客を増やしすぎても儲からないことがある

 一般的な商売では、客は多いほどよいと考えがちである。しかし過疎地では少し事情が違う。北へ二十キロ、南へ十五キロ、山を越えて一軒、海沿いに一軒という具合に利用者が増えれば、売上と同時に移動時間まで増えてしまうからである。

 だから開業当初から町全域を商圏にする必要はない。むしろ狭い地域で十軒、二十軒と利用者を重ねられるかを考えた方がよい。一軒の利用者を獲得したら、その周辺に似た困り事を持つ人がいないかを見る。口コミで近所の利用者が増えれば、次の利用者までの距離が縮まり、一件増えるごとに運営効率が改善する地域が生まれる。

 その意味では、高齢者人口の多い自治体を探すだけでは不十分である。車を使えない高齢者が比較的まとまって暮らし、近くに競合する支援サービスが少なく、スーパーや公共交通までの距離に不便がある地域の方が、事業としては有望な場合がある。人口統計に加え、住宅地の形、道路、坂道、スーパー、病院、バス路線、宅配サービスの有無まで見なければ、実際の商圏は見えてこない。

 過疎地で恐れるべきなのは、人口が少ないことだけではない。顧客が薄く、遠く、ばらばらに存在することである。

商売になるかどうかは「困っている人の数」だけでは決まらない

 ここまで考えると、過疎地の生活支援ビジネスを評価するときに見るべき数字も変わってくる。単純な人口や高齢化率だけではなく、実際に利用する割合、一人当たりの利用頻度、一件当たりの粗利益、一時間に訪問できる件数、移動距離、継続率が重要になる。

 同じ高齢者千人の町でも、そのうち有料サービスを利用する人が二十人なのか百人なのかで市場は大きく違い、その百人が一か所に集まっているのか町中に散らばっているのかでも採算は変わる。さらに一人当たりの利用額が高くても、訪問に長い時間がかかれば利益は残らない。

 したがって、この事業を考えるときの本当の判断基準は「一件いくら取れるか」だけではない。一時間動いたときに、最終的にどれだけの粗利益を残せるかである。

 買い物代行800円だけで45分使うより、同じ地区で複数の注文をまとめ、一回の訪問に短時間の追加サービスを載せ、定期契約によって毎月の利用回数を安定させる方が、一時間当たりの収益は改善しやすい。ただし、それが本当に成立するかどうかは、机上の計算だけでは決まらない。実際の地域で料金を提示し、何人が利用し、どの程度継続するのかを小規模に試す必要がある。

「買い物」を入口にして、暮らし全体を見る

 これから人口減少が進めば、地域から店や交通が消えるだけではなく、これまで家族や近所の人が無料で引き受けてきた小さな仕事も、少しずつ担い手を失っていく可能性がある。若い家族は遠くに住み、近所の人も高齢になれば、「ちょっと車を出してくれないか」「ついでに買ってきてくれないか」という昔ながらの助け合いだけでは支えきれなくなる。

 その空白をすべて行政が埋めることは難しいだろうが、だからといって、困っている人がいる場所に自動的に商機が生まれるわけでもない。必要性がどれほど高くても、一件訪問するたびに赤字になる仕組みなら長く続かない。

 そこで必要になるのが、一つの困り事を一つの商品にする発想から離れることである。買い物、短時間の日常支援、生活状況の確認、遠方家族への連絡といった複数の価値を、一度の訪問へ無理なく重ねる。そのうえで訪問地域を狭くまとめ、移動時間を減らし、単発利用より継続利用を増やし、追加サービスについては「いくら売れるか」ではなく「何分追加され、いくら利益が増えるか」で判断する。そうして初めて、必要とされる仕事が続けられる商売へ近づいていく。

 スーパーの袋を玄関へ届けることだけを見れば、買い物代行は小さな仕事である。しかしその玄関の向こうには、車を手放した人の暮らしがあり、遠く離れた家族の心配があり、昨日まで誰かが無償で担ってきた小さな仕事が積み重なっている。

 過疎地で探すべき商機は、派手な新産業ばかりではないのかもしれない。昨日まで家族や近所の人が「ついでに」やっていたことが、今日は誰にもできなくなっている。その小さな空白を見つけ、一度の移動に複数の価値を載せ、誰がその価値にお金を払い、どれだけの頻度で利用し、どれほど近い範囲に顧客を集められるかを考える。

 人口が減る時代の商売とは、大量の客を集めることだけではない。少ない顧客の暮らしを少し深く理解し、一回走った道からできるだけ多くの価値を生み出すことである。「単発の買い物代行だけでは儲かりにくい」という事実は、地方に商機がないことを意味しているのではない。むしろ、地方では何を売るかだけでなく、どう束ね、どこで回り、誰に払ってもらうかまで設計しなければ商売にならないことを教えているのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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「この町の人ですか」と聞かれたら

 週末になると東京を離れ、海辺の町へ向かう。そこに小さな家を持ち、近所のスーパーで食料を買い、顔なじみになった食堂で昼を食べ、ときには伸びた草を刈る。春になれば祭りを見に行き、台風が来れば自分の家だけではなく、近所の様子まで少し気になる。それでも住民票は東京にある。

 この人を、その町の「住民」と呼んでよいのだろうか。行政制度から見れば、答えは簡単ではない。住民基本台帳では生活の本拠となる住所を基礎として住民が登録され、国勢調査では住民票の所在地とは別に、普段住んでいる場所を基準として人口が把握される。国勢調査では原則として3か月以上住んでいる場所、または3か月以上住むことになっている場所が調査対象となり、二つの住居を持つ人については、普段寝泊まりする日数の多い住居で調査する扱いがある。いずれも、一人を二つの自治体に同時に常住人口として計上する仕組みではない。

 ところが、町の日常を眺めると、その区分だけでは説明しきれない人がいる。その人は年に一度訪れる観光客よりも頻繁に町へ来て、同じ店で買い物をし、住宅を維持し、ときには地域の人間関係にも入り込んでいる。しかし、生活のすべてをその町へ移したわけではない。行政上は地域外に住所を持つ人であっても、実際には地域の消費、労働、社会活動、住宅需要の一部を担っている場合がある。

 ここでは、そうした人たちを少し大胆に「第三の住民」と呼んでみたい。もちろん正式な制度用語ではなく、法律上の住民資格を新たに与えるという意味でもない。地域との関係を、住民票の有無だけでは十分に説明できないという問題を考えるための比喩である。

 人口が減っていく日本では、こうした人の存在が地域の将来を考える一つの手がかりになるかもしれない。ただし、人口統計に表れにくいからといって、その人たちが必ず地域を豊かにするわけではない。何をもたらし、何を必要とし、地域側にどのような負担が生じるのかを、冷静に考える必要がある。

すべての自治体が人口を増やすことはできない

 地方創生について語ると、長いあいだ「人口をどう増やすか」という問いが中心に置かれてきた。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、子育て支援を充実させ、都市から若い世帯を呼び込もうとする。しかし、日本全体の人口が減少している以上、すべての自治体が同時に人口を増やし続けることは数学的に成り立たない。

 同じ時点、同じ人口の定義で全国の自治体人口を合計すれば、日本全体の人口になる。したがって、全国人口が減少しているときに、すべての自治体の人口だけが増加することは不可能である。もちろん出生、死亡、海外との人口移動があるため、個々の自治体の人口増減を単純なゼロサムゲームと呼ぶのは正確ではない。それでも国内の自治体が移住者の獲得を競う場合、ある自治体への転入は、多くの場合、別の自治体からの転出を伴う。

 ただし、この数学的な制約から、移住政策が無意味だという結論は導けない。人口が集まることで企業活動の効率が高まったり、公共交通や医療サービスを維持しやすくなったりする可能性がある一方、人口の集中によって住宅費や混雑などの問題が生じることもある。人口移動の効果は単なる人数の増減だけでは評価できず、移動した人の生活、仕事、所得、地域社会への影響まで含めて考える必要がある。

 問題なのは、地方創生を「住民票を何人獲得したか」という競争だけで評価してしまうことである。人口減少が続く社会では、移住者を増やす努力とともに、住民票を移さなくても地域との継続的な関係を持つ人を増やすという発想が重要になる。

 東京で働きながら長野でも暮らす。大阪に住みながら和歌山の小さな町へ毎月通う。都市に住民票を置いたまま、房総や伊豆、瀬戸内で生活の一部を過ごす。これは人口を一方の地域から他方へ完全に移すというより、一人が持つ時間、消費、関心、労働、社会関係の一部を複数の地域に配分する暮らし方である。

 二地域居住の新しさは、別荘を持つことそのものではない。人間の生活や地域との関係が、一つの自治体の人口だけでは十分に表現できないという事実を、改めて政策の課題として浮かび上がらせているところにある。

二地域居住者は実際にどれだけいるのか

 二地域居住が地域政策として注目されるようになった背景には、実践者が一定数存在するという調査結果がある。国土交通省が2022年に全国の18歳以上を対象として実施したインターネット調査では、主な生活拠点以外に滞在する地域がある人などを基礎に、二地域居住等を実践している人は約701万人、18歳以上人口の約6.7%と推計された。

 約701万人という数字だけを見れば、非常に大きな市場が存在するように感じられる。しかし、この数字を年間の相当日数を二つの住居で暮らす人の数と、そのまま読み替えることはできない。調査には幅広い滞在形態が含まれており、住宅の所有形態、滞在頻度、生活の実態によって地域への関わり方は大きく異なる。また、インターネット調査による推計であり、すべての対象者を直接数えたものでもない。

 似た概念に「関係人口」がある。これは、移住や単なる観光とは異なり、特定の地域と継続的かつ多様な関わりを持つ人を指す。国土交通省が2025年6月に公表した2023年度の調査結果では、全国の18歳以上の関係人口は約2,263万人、全体の約22%と推計されている。ただし、関係人口は二地域居住者より広い概念であり、地域活動に参加する人や、遠隔地から継続的に地域を支援する人なども含まれるため、この数字を二地域居住者数として扱うことはできない。

 この関係人口調査では、実際に地域を訪れる「訪問系」の人の年間訪問日数について、2日から7日が約49%、8日以上が約31%だった。つまり、特定の地域と継続的に関わっていても、年間の滞在日数がそれほど多くない人もいる。月に何度も訪れる人と年に数日だけ訪れる人では、地域経済や日常生活への影響が同じとは限らない。

 さらに、二地域居住者が全国で増えていると断定するには、同じ定義、同じ調査方法で継続的に測定された時系列データが必要である。異なる年の調査で人数が変わっていても、対象年齢や調査方法、二地域居住の定義が違えば、その差を増加率として解釈することはできない。

 したがって、現時点で重視すべきなのは、二地域居住者が何百万人いるかという数字そのものよりも、その内訳を明らかにすることである。地域に何日滞在し、どのような活動をし、いくら消費し、どの程度継続して関わっているのか。全国の推計人口だけでは、個々の町にとっての意味は十分に分からない。

住民票だけでは測れない関係を制度はどう扱うのか

 二地域居住をめぐる国の政策も変化している。2024年11月には、改正された「広域的地域活性化のための基盤整備に関する法律」が施行され、二地域居住を促進するための制度が整備された。法律上は「特定居住」という考え方が用いられ、自治体が促進計画を策定する仕組みや、住まい、仕事、地域との交流を支援する法人の指定制度などが設けられている。

 これは、単に都市から地方へ人を呼び込むだけではなく、二地域で生活するための環境を整える方向へ政策が広がっていることを示している。住居を確保できても仕事がなければ暮らし続けられず、働く場所があっても交通や地域との関係に問題があれば継続は難しい。そのため、住宅、就労、交通、地域交流などを組み合わせて支援することが課題となる。

 さらに、2026年には「ふるさと住民登録制度」の具体化が進んでいる。この制度は、住所地以外の地域に関心を持つ人や、継続的に関わる人を登録し、その関係を可視化しようとする仕組みである。2026年3月に公表されたガイドラインでは、幅広い関心層を対象とする「ベーシック登録」と、地域での担い手活動など、より深い関わりを対象とする「プレミアム登録」という二つの区分が示されている。

 ただし、これは住民票を二つ持つ制度ではない。登録しただけで住所地が変わるわけでも、その地域の地方選挙に参加する権利が得られるわけでもない。また、ふるさと住民登録の対象となる人がすべて二地域居住者であるとは限らない。地域に住宅を持たなくても、継続的な活動や支援を通じて関わる人がいるからである。

 この制度の意義は、人と地域との関係を住民票とは別の形で把握しようとする点にある。一方で、登録者数が増えたことだけを成果とすれば、従来の移住者数を競う政策と似た問題が生まれる。登録した人が実際に地域を訪れたのか、活動を継続しているのか、地域側にどのような効果と負担が生じたのかを確認しなければ、制度の実質的な成果は評価できない。

観光客とは違うお金の使い方

 観光客は地域にとって重要な存在である。宿泊し、食事をし、土産を買い、観光施設を利用する。ただし、その関係は一時的であることが多い。気に入った町でも、次の旅行では別の場所へ行くかもしれない。

 二地域居住者の消費は、これとは少し性格が異なる。毎月のように訪れるようになると、土産物店よりスーパーマーケットを利用する機会が増え、観光客向けの店だけでなく町の定食屋へ入り、住宅があれば修繕を頼み、庭があれば草刈りが必要になる。家具や日用品を買い、場合によっては車を整備し、家の設備が故障すれば地元の業者へ連絡するなど、日常生活を維持するための支出が発生する。

 つまり、消費の性格が「非日常を楽しむための支出」から「その場所で暮らし続けるための支出」へ少しずつ広がっていくのである。観光では季節や行楽需要に左右されやすい消費が、生活のための継続的な需要へ変わる場合もある。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、二地域居住者が増えれば、その分だけ地域経済が豊かになるとは限らないことである。通信販売でほとんどの商品を購入し、地域では都市資本のチェーン店だけを利用する場合、地元事業者への直接的な売上は限定される。もっとも、チェーン店であっても地域の従業員に賃金が支払われたり、地元から商品を調達したりすれば一定の経済効果は生まれる。逆に、地元経営の商店でも、仕入れの多くを地域外に依存していれば、売上のすべてが地域内に残るわけではない。

 したがって見るべきなのは、二地域居住者の人数だけではない。その人が一年に何回来るのか、一回の滞在でいくら使うのか、どの事業者へ支払うのか、その売上のうちどれだけが地域の賃金や利益になるのかという組み合わせである。

人が来れば地域経済は豊かになるのか

 ここで、簡単な計算を考えてみたい。ある町に二地域居住者が100人いて、それぞれが年間12回訪れ、一回当たり8,000円を地域内で使うとする。この場合、年間の消費総額は960万円になる。もし、その半分が地元事業者への支払いであれば、直接的な売上は480万円である。

 しかし、この480万円を地域の利益と呼ぶことはできない。事業者は売上から商品仕入れ、光熱費、設備費などを支払い、その一部は地域外へ流れる。地域の経済活動によって新たに生み出された付加価値を考えるには、売上高だけでなく、中間投入や域外への支払いを区別する必要がある。

 さらに、最も重要なのは、その消費が本当に追加的に発生したものなのかという点である。二地域居住者が利用した飲食店の席が、もともと利用するはずだった観光客の席を置き換えているなら、売上全体が増えるとは限らない。逆に、観光需要が少ない平日に来店し、空いている施設やサービスを利用するなら、既存需要を圧迫せずに売上を増やせる可能性がある。

 このように、二地域居住の地域経済効果を測る際には、消費総額、地元事業者の売上、地域内で生み出された付加価値、二地域居住がなかった場合と比較した純増効果を区別する必要がある。人数に平均消費額を掛けるだけでは、地域経済への本当の貢献は分からない。

 近年は銀行取引などのデータを用いて、二地域居住者と考えられる人の経済行動を分析する試験的な調査も行われている。ただし、都市と地方の間で資金が移動したことと、地域で実際に消費が行われたこと、さらに地域内で付加価値が生まれたことは同じではない。取引データを使う場合も、対象者の選び方や取引の性質を確かめなければ、地域全体の経済効果を過大評価する可能性がある。

 二地域居住者が増えることは、地域に新しい需要が生まれる可能性を意味する。しかし、その可能性が実際の所得や雇用の増加につながるかどうかは、地域の産業構造と事業者の対応によって決まる。

「救世主」と呼んだ瞬間に話がおかしくなる

 二地域居住者が地域で消費するのだから、人口減少地域にとって歓迎すべき存在だという結論は魅力的である。しかし、ここで話を終えると地方創生の記事としては都合がよすぎる。

 地域に人が来れば、便益と同時に費用も生まれる。人気の高い地域では住宅需要が高まり、空き家の活用が進む一方で、住宅価格や家賃を押し上げる可能性がある。海外のセカンドホーム地域でも、住宅需要の増加と供給制約が重なることで、地元住民が住宅を確保しにくくなる問題が研究されてきた。

 ただし、日本のすべての二地域居住地域で同じ現象が起きるとは限らない。空き家が多く、住宅需要が弱い地域では、二地域居住者の購入によって老朽住宅の改修が進み、建設業や住宅管理業への需要が生まれる場合もある。一方、住宅供給が少なく、交通の便がよい地域では、限られた住宅を地元住民と二地域居住者が競い合う可能性がある。

 ここで重要なのは、住宅価格の上昇を一律に利益とも損失とも評価できないことである。住宅所有者には資産価値の上昇という利益が生まれても、賃貸住宅に住む人や、これから住宅を購入する若年世帯にとっては負担が増えることがある。地域全体の経済規模が拡大しても、その利益が誰に配分されるかによって住民生活への評価は変わる。

 行政サービスについても同じである。二地域居住者が道路、水道、ごみ処理、公共施設などを利用すれば、利用状況に応じて行政費用が発生する。年間の滞在日数が少なくても、週末や大型連休に利用が集中すれば、ごみ処理や交通施設の需要が一時的に高まる場合がある。地域の財政負担を評価するには、年間平均の滞在者数だけでなく、季節や曜日による利用の偏りも考慮しなければならない。

 さらに、二つの生活拠点を行き来するための交通も無視できない。国土交通省の関係人口調査では、地域への主な交通手段として自家用車を挙げる人が多い。自動車移動が増えれば、交通混雑、駐車場需要、燃料消費、温室効果ガスの排出などが増える可能性がある。一方で、長期滞在によって一日当たりの移動回数が減る場合や、鉄道などの公共交通を利用する場合もあるため、環境負荷は移動距離、交通手段、滞在日数、二つの住宅のエネルギー消費を合わせて評価する必要がある。

 二地域居住を歓迎するか拒むかという感情論ではなく、誰に利益が生まれ、誰が費用を負担するのかを確かめることが重要なのである。

住民票がなくても税と行政負担は発生する

 二地域居住者は住民票を置いていないのだから、行政サービスを利用するだけで地域に税金を払っていないという見方がある。しかし、これは制度の実態を正確に表していない。

 例えば、住宅を所有していれば、通常、その所在地の自治体に固定資産税を納める。また、住所地以外に自分や家族が居住できる家屋敷を持つ人には、一定の要件のもとで、個人住民税の均等割が課税される場合がある。これは一般に「家屋敷課税」と呼ばれ、固定資産税とは別の制度である。建物を所有していなくても、一定の要件を満たす賃貸住宅などが対象になる場合がある。

 房総地域でも、大多喜町は住所地以外に家屋敷を持つ人への均等割課税について案内している。つまり、住民票がないという理由だけで、その地域に対して税負担がないと判断することは適切ではない。

 もちろん、固定資産税や家屋敷課税があるからといって、二地域居住者によって追加的に発生する行政費用がすべて賄われるわけではない。道路や上下水道などには利用人数が少なくても維持するための固定費があり、利用者が増えることで追加費用が発生する場合もある。反対に、既存設備に余裕があれば、利用者が増えても追加費用がそれほど増えない場合もある。

 自治体財政の観点では、税収や使用料などの追加収入と、行政サービスに必要となる追加費用を比較する必要がある。また、地域の商店の売上が増えても、その増加分がそのまま自治体の税収になるわけではない。地域経済の利益と自治体財政の利益は、分けて考えるべきものである。

 さらに、地方選挙への参加など、住民としての権利は原則として住所に基づく制度と結びついている。二地域居住者が地域で長く生活していても、住民票を移していなければ、その自治体の地方選挙に参加できない場合がある。地域に関わっていても、意思決定に直接参加できる範囲には制度的な限界がある。

 住民票がない人を単純に「ただ乗り」と呼ぶことも、納税しているから完全な住民と同じだと考えることも正確ではない。重要なのは、実際にどのような負担と貢献があり、どのような権利や行政サービスが認められているかを区別することである。

地域側が救世主を求めすぎる危険

 もう一つ厄介なのは、地域側が二地域居住者に「せっかく来たのだから地域のために働いてほしい」と期待しすぎる場合である。草刈りを手伝ってほしい、祭りにも出てほしい、自治会にも関わってほしい、空き家再生にも協力してほしい、地域産品も買ってほしいという期待が積み重なれば、第二の生活拠点を持ったはずの人が、別の場所でも義務に追われることになる。

 もちろん地域活動への参加を望む二地域居住者もいる。しかし、すべての人がより深い関係を求めているわけではない。自然の中で過ごしたい人もいれば、仕事に集中したい人、家族と静かに暮らしたい人、地域活動に積極的に参加したい人もいる。地域との距離を自分で選べることそのものに価値を感じている人もいるだろう。

 国土交通省が2022年に実施した二地域居住等の実践者への調査では、メリットとして「心身を休めて健康の維持や増進につながった」と回答した人が28.5%だった一方、「地域貢献ができたことに喜びを感じた」と回答した人は5.2%だった。これは複数回答による調査であり、実際に地域活動へ参加した人の割合を直接示したものではない。しかし、二地域居住者が地域に求める価値が、地域貢献だけではないことを考える材料にはなる。

 同じ調査では、移動の負担をデメリットとして挙げる人もいた。二地域で生活することは、一つの地域に住む場合よりも移動、住宅管理、生活費などの負担が増えやすい。そこに地域活動への義務まで加われば、暮らし方そのものを続けにくくなる人が出てきても不思議ではない。

 したがって「地域に来た人は、いずれ地域活動の担い手になる」という前提を置くべきではない。むしろ、地域への関わり方に濃淡を認め、活動に参加する人にも参加しない人にも、それぞれ無理のない関係を認めることが重要である。

 また、地域側にも受け入れのための負担がある。外部から来た人に活動を説明し、役割を調整し、地元住民との関係を整えるには時間と労力が必要になる。地域貢献を期待するだけでなく、受け入れる側が無理なく対応できる仕組みを作らなければ、善意が新たな負担を生むこともある。

 地域側が救世主を求めすぎれば、その人に期待を集中させ、結果として地域との関係が続かなくなる可能性がある。この逆説は、二地域居住を考えるうえで見落としてはならない。

「住んでいるか」ではなく「どれだけ関わっているか」

 従来の行政人口では、地域との関係はどうしても「住民か、住民でないか」という二分法になりやすい。しかし実際の地域との関係は連続している。

 一年に一度訪れる人もいれば、毎月来る人もいる。年間数十日を過ごす人もいれば、半年近く滞在する人もいる。地元の店で買い物をするだけの人、農作業を手伝う人、地域の事業者に専門知識を提供する人、地域行事に参加する人、静かに自分の生活だけを送る人もいる。同じ「住民票がない人」でも、地域との関係の深さや性質はまったく違うのである。

 ただし、関係の深さを一つの数字で測ることも難しい。年間100日滞在していても地域内ではほとんど消費しない人がいる一方、年間10日しか滞在しなくても、地元企業の経営を継続的に支援している人もいる。滞在日数が多いほど地域活動への貢献が大きいとも限らず、地元で多額の消費をしているからといって地域の人間関係に深く関わっているとは限らない。

 したがって、地域との関係を評価するには、滞在日数、消費額、就労、地域活動への参加、継続期間など、複数の指標を組み合わせて考える必要がある。その際も、すべての人に同じ行動を期待するのではなく、関係の種類が異なることを前提にするべきだろう。

 ふるさと住民登録制度のような仕組みは、こうした関係を可視化する一つの手段になる。しかし、登録人数が多くても実際の訪問や活動につながっていなければ、地域との関係が深まったとは言い切れない。また、個人の訪問履歴や消費行動を把握する場合には、本人の同意や個人情報の適切な管理が必要である。

 私たちは買い物履歴や移動履歴を細かく分析できる時代に生きているが、人と地域との関係については、長いあいだ住民票や観光客数のような限られた指標に頼ってきた。二地域居住は、その尺度では十分に測れない生活の実態を、改めて考えさせる現象なのである。

本当に重要なのは「関係の反復」である

 地域にとって、一万人が一度だけ訪れることと、千人が毎月訪れることは同じではない。前者は年間一万回の来訪だが、後者は年間一万二千回になる。しかし違いは単純な延べ人数だけではない。

 毎月来る人なら、店員が顔を覚えるかもしれない。客も店の事情を知り、季節ごとの変化に気づき、閉店すれば惜しいと思い、知っている人が困っていれば少し気になるようになるかもしれない。地域側も、その人が来月また戻ってくることを想定して、商品やサービスを提供しやすくなる場合がある。

 経済学では、同じ相手と繰り返し関係を持つ状況を考える反復ゲームの理論がある。一回限りの取引では相手との将来の関係を考慮する必要が小さくても、繰り返し接触する場合には、信用や評判を維持することが協力的な行動につながる可能性がある。地域社会でも、継続的な接触を通じて互いの事情を理解し、信頼や協力関係が形成される場合がある。

 ただし、繰り返し会えば必ず信頼が生まれるわけではない。もともと親しい人がいるから頻繁に訪れるという、逆方向の関係も考えられる。また、訪問回数が増えたことで生活習慣や価値観の違いが表面化し、摩擦が生じることもある。反復訪問と信頼の間に関連が見られても、それだけで訪問が信頼を生み出したと断定することはできない。

 商売についても同じである。一度二万円使う観光客より、毎月八千円ずつ使う人の方が年間消費額は九万六千円になる。もちろん、毎回来ても地域内ではほとんど消費しない人もいるため、訪問回数だけを見ればよいわけではない。また、観光客でも同じ地域へ頻繁に戻ってくる人はいるため、反復性は二地域居住者だけの特徴ではない。

 それでも、地域ビジネスにとって、一回当たり消費額だけでなく、一人が一年を通してどれだけ利用し、翌年も利用を続けるかという視点は重要である。特に観光需要が季節に集中する地域では、観光客の少ない時期にも継続して訪れる人がいれば、事業者の売上変動を小さくできる可能性がある。

 人口減少地域では、一度に大量の人を呼ぶことより、少人数でも繰り返し戻ってくる人を増やす方が、事業の安定につながる場合がある。ただし、これは地域や業種によって異なるため、訪問頻度、消費額、季節性、継続率を実際に測定して判断する必要がある。

「第三の住民」が生むのは人口ではなく市場かもしれない

 二地域居住を地域ビジネスの側から見ると、さらに興味深いことが見えてくる。二つの生活拠点を行き来する暮らしには、一つの家だけで暮らす場合には少なかった不便が生まれるからである。

 都市の家を出るときには、地方の家が無事か気になる。地方へ着けば、しばらく使っていなかった家の換気や掃除が必要になる。庭は伸び、郵便物はたまり、台風が来れば屋根が心配になる。車を置いていなければ駅から家までの移動手段が必要になり、高齢になれば二つの地域を行き来すること自体が負担になる。

 こうした問題の一つ一つは、それだけでは大きな産業には見えない。しかし人口の少ない地域で新しい商いを考える場合、むしろこうした「小さくて、何度も繰り返す不便」に市場の種が隠れている。

 例えば、住宅の定期巡回、換気、清掃、庭仕事、設備点検をまとめて引き受けるサービスが考えられる。別々の業者へ依頼していた業務を一つにまとめれば、利用者にとって手間が減り、事業者にとっても巡回や作業の効率化につながる可能性がある。また、駅から住宅までの移動、到着前の食料品の準備、地域の商店や医療機関に関する生活情報の提供なども、繰り返し利用されるサービスになり得る。

 ただし、これらのサービスには制度上の制約がある。人を有償で運ぶ事業には、道路運送法などの関係法令に基づく許可や登録等が必要となる場合があり、単に需要があるからといって自由に営業できるわけではない。医療に関する支援についても、情報提供や受診先の案内と、医療行為そのものは区別しなければならない。また、住宅の鍵を預かり、留守中に立ち入るサービスでは、契約、損害賠償責任、個人情報保護、防犯対策などが重要になる。

 つまり、二地域居住者向けのサービスを考える場合には、地域に不便が存在することだけでなく、それを合法的かつ安全に解決できる仕組みが必要なのである。

「困っている」は「お金を払う」とは限らない

 新規ビジネスを考えるとき、最も危険なのは「困っている人がいるから売れる」と考えてしまうことである。

 利用者が困っていても、自分で解決できるならお金は払わないかもしれない。近所に頼める人がいれば、事業者へ依頼する必要を感じないこともある。月千円なら払ってもよいが、一万円なら使わない人もいるだろう。さらに、需要が存在しても利用者が広い地域に分散していれば、事業者の移動時間や人件費を賄えない場合がある。

 例えば、空き家管理に困っている人が100人いても、全員が月千円しか払う意思を持たなければ、月間売上は最大でも10万円である。実際には100人全員が契約するとは限らないため、現実の売上はさらに小さくなる可能性がある。

 一方、月額一万円の管理サービスを考え、契約者一人当たりの巡回や作業に必要な変動費が月三千円、事業の固定費が月25万円と仮定すると、一人の契約によって固定費の回収に充てられる金額は月七千円になる。この条件なら、36人以上の契約で月間の収支が黒字になる計算である。ただし、これは説明のための仮定であり、実際の人件費や移動距離、車両費、保険料、修繕対応などによって損益分岐点は変わる。

 特に重要なのは、顧客の密度である。住宅が近接していれば、一度の移動で複数の住宅を巡回できるため、一件当たりの移動費用を抑えやすい。反対に、契約者が町の各地に分散している場合には、契約件数が増えても移動時間が長くなり、十分な利益が残らない可能性がある。

 また、新たに会社を設立して専用車両や従業員を確保する場合と、既存の清掃業者や造園業者が巡回業務の一部として引き受ける場合とでは、必要な固定費が異なる。人口の少ない地域では、専業の新規事業よりも、既存事業者が複数の生活支援サービスを組み合わせて提供する方が採算に合う場合もある。

 したがって、二地域居住者向けのビジネスを見る場合には、潜在的な利用者数だけでなく、実際に契約する割合、利用頻度、支払意思額、顧客の分布、継続率、人件費、移動費、固定費を合わせて評価しなければならない。

 二地域居住は自動的に新しい市場を作るわけではない。しかし、従来の観光需要とは異なる、継続的な生活需要を生み出す可能性がある。地域の事業者がそれを採算の合う形で提供できるなら、小規模でも持続的なビジネスが成立する余地がある。

観光ビジネスとは発想そのものが違う

 観光ビジネスが「この町に何を見に来てもらうか」を考える産業だとすれば、二地域居住を支えるビジネスは「どうすればこの町で無理なく暮らし続けられるか」を考える産業になる。

 観光なら絶景、温泉、食事、イベントが商品になる。しかし二地域居住では、家の管理、移動、買い物、医療機関へのアクセス、日常生活の手間といった、これまで観光の魅力とは考えられなかったものが商品になる可能性がある。

 ただし、観光客と二地域居住者を完全に別の集団として区別することも適切ではない。毎月同じ地域を訪れ、決まった店で買い物をする観光客もいれば、地方に住宅を所有していても、年間に数回しか訪れない人もいる。住宅を所有せず、賃貸住宅や宿泊施設を継続的に利用しながら二地域居住を実践する人もいる。

 つまり、観光と二地域居住の間には連続性がある。観光をきっかけに地域を好きになり、訪問を繰り返し、その後に生活拠点を持つ人もいるだろう。一方で、観光客として何度も訪れることに満足し、住宅を持たない人もいる。すべての観光客を二地域居住者へ転換する必要はないし、すべての二地域居住者を移住者へ転換する必要もない。

 それでも、地域に滞在する目的が「楽しむこと」から「生活を維持すること」へ広がると、必要とされるサービスの性質が変わる。地域の魅力を伝える仕事に加えて、地域で暮らすための不便を解消する仕事が重要になるのである。

「たくさん来る町」より「何度も戻る町」

 これまで多くの地域政策は、とにかく人を呼ぶことに力を注いできた。観光客を呼び、移住者を呼び、企業を呼び、若者を呼ぶ。しかし二地域居住という現象を考えると、最初の一回来てもらうこと以上に、その人が二回目、三回目と戻ってくる理由を作ることが重要になる。

 美しい海があるから一度訪れる。しかし顔を覚えてくれる店があるからまた来る。安い空き家があったから家を買う。しかし留守中に面倒を見てくれる人がいるから暮らし続けられる。自然にひかれて地域を知るが、そこで自分に合った居場所ができれば、その町は単なる旅行先ではなくなっていく。

 ただし、地域への愛着だけで反復訪問が維持されるとは限らない。交通費が高くなれば訪問回数は減るかもしれず、仕事や家族の事情が変われば滞在する余裕がなくなることもある。二つの住宅を維持する負担が大きければ、生活の継続自体が難しくなる。したがって、「戻りたくなる理由」を作るだけでなく、「無理なく戻れる条件」を整えることが必要になる。

 地域にとっても、訪問者数を増やすことと、継続的な利用者を維持することでは施策が異なる。新しい観光客を呼ぶには情報発信や観光資源の整備が重要になるが、二地域居住者との関係を維持するには、住宅管理、交通、日常の買い物、生活情報、地域との適切な距離感が重要になる場合がある。

 人口減少地域では、観光客数や移住者数のような新規獲得の指標に加えて、再訪率、年間滞在日数、翌年の継続率、地域内の利用額などを見ることが重要になっていく。ただし、再訪率が高ければ必ず地域に利益が生まれるわけではないため、消費や行政負担との関係も合わせて評価する必要がある。

房総の町で考える「第三の住民」

 例えば、御宿町、勝浦市、いすみ市、大多喜町などの地域を考えてみたい。これらの地域には、海や里山、歴史的な町並みなど、それぞれ異なる魅力がある。一方で、地域ごとの交通条件、住宅事情、産業構造、観光需要は同じではない。

 海辺の住宅を求める人もいれば、里山の古民家で静かに過ごしたい人もいる。都市からの移動時間、鉄道や道路の利便性、買い物ができる場所、医療機関への距離などによって、二地域居住の実現可能性は変わる。したがって、房総という一つの地域名でまとめてしまうのではなく、自治体ごと、さらに地区ごとの条件を調べる必要がある。

 例えば、住宅需要が弱く空き家が多い地区では、二地域居住者による住宅取得や改修が地域の住宅維持に役立つ可能性がある。一方、需要が集中する地区では、住宅価格や賃料への影響を確認する必要がある。また、鉄道駅から離れた住宅が多い地域では移動支援への需要が考えられるが、利用者が広く分散していれば、通常の有償サービスだけでは採算が難しい場合もある。

 地域の事業者にとっては、二地域居住者がどこに何人いるかという情報だけでなく、どの時期に訪れ、どのような生活上の不便を感じ、何に対価を支払っているかを知ることが重要になる。ただし、個人の住宅所在地や行動履歴は私生活に関わる情報であるため、調査には本人の同意や適切な管理が必要である。

 このような情報があれば、地域の商店、住宅管理業者、清掃業者、造園業者、交通事業者などが、それぞれの需要に応じたサービスを考えやすくなる。ただし、地域ごとの潜在需要が小さい場合には、一つの業種だけで新規事業を成立させることが難しいため、既存の事業者同士が連携して複数のサービスを提供する方法も検討に値する。

 地域経済の将来を考えるとき、観光客の増加だけを目指すのでも、移住者の獲得だけを目指すのでもなく、地域外に生活の本拠を置きながら継続的に地域を利用する人との関係を把握することには意味がある。ただし、それが実際に地域所得の増加や生活環境の改善につながるかどうかは、個々の地域で確かめなければならない。

二地域居住の価値を測るなら

 二地域居住者が地域にとってどのような価値を持つかを冷静に考えるなら、地域に入ってくるものと、地域が負担するものの両方を見る必要がある。

 地域内での消費が増え、地元の事業者に仕事が生まれ、雇用や所得が増えれば経済的な利益になる。地域活動に参加する人が増えたり、住宅の維持管理が進んだりすれば、経済指標に直接表れにくい便益も生まれる。一方で、住宅価格の上昇、行政サービスの追加費用、交通混雑、環境負荷、既存住民との摩擦などが生じれば、利益の一部が相殺されることになる。

 したがって、地域への効果を一つの金額にまとめることには限界がある。地域経済については、追加的な消費、事業者の売上、地域内付加価値、雇用や所得の変化を見る必要がある。自治体財政については、追加税収や使用料収入と、行政サービスに必要な追加費用を比較する必要がある。さらに住民生活については、住宅の確保しやすさ、生活環境、地域活動の負担、住民の満足度などを別に確認しなければならない。

 研究として二地域居住の効果を検証する場合にも、二地域居住者が多い町と少ない町を単純に比較するだけでは不十分である。もともと交通の便がよく、自然環境や商業施設に恵まれた町には、二地域居住者が集まりやすい可能性がある。そのような町の経済状況が良好だったとしても、二地域居住者が経済を改善した結果なのか、経済条件のよい町に二地域居住者が集まったのかは区別できない。

 より厳密に調べるなら、二地域居住を促進する施策を始める前後の変化を観察し、人口構成、産業構造、観光需要、交通条件などが似た地域との比較を行う方法が考えられる。その際には、施策がなかった場合に地域経済がどのように変化したかという反実仮想を意識する必要がある。ただし、比較可能な地域を見つけること自体が難しく、施策以外の要因を完全に取り除くことも容易ではない。

 大切なのは、二地域居住者が増えたという事実と、それによって地域が豊かになったという結論を混同しないことである。地域への経済効果や社会的効果を把握するためには、人数だけではなく、滞在、消費、雇用、住宅、行政費用、住民生活を継続的に測定する必要がある。

救世主ではなく「少しずつ町を支える人」

 二地域居住者は地域の救世主なのか。

 おそらく、この問いへの答えは「救世主と考えない方がうまくいく」である。ただし、それは二地域居住者の価値が小さいという意味ではない。むしろ、特定の人に過大な期待をかけず、地域との多様な関わり方を認めることが、長期的な関係を維持するうえで重要だということである。

 一人の移住者に人口減少を止めてもらう必要はない。一人の二地域居住者に地域活動をすべて手伝ってもらう必要もない。ただ、その人が毎月数日滞在し、地域の店で買い物をし、必要なサービスに対価を払い、ときには誰かと会話をし、翌月もまた戻ってくる。それだけでも、同じような人が百人、千人と増えれば、町の経済や人間関係に変化が生まれる可能性がある。

 もちろん、百人、千人という人数だけでは地域の将来は決まらない。年間の滞在日数が短く、消費も少なければ経済効果は限定されるかもしれない。逆に、少人数でも継続的に地域の仕事を支えたり、地域で事業を営んだりする人がいれば、人数以上の影響を持つ場合がある。また、地域への利益が一部の事業者や住宅所有者に集中し、既存住民の負担が増える可能性にも目を向けなければならない。

 だからこそ、二地域居住を地域政策の新しい万能薬として扱うべきではない。人口減少を直接止める政策ではなく、人口減少のなかでも地域の経済活動や生活の基盤を維持するための、一つの選択肢として考えるのが適切だろう。

 住民票はない。しかし、この町がなくなったら困る。その自治体の地方選挙には参加できなくても、行きつけの店が閉まれば寂しい。生まれ育った場所ではない。それでも台風が来れば心配になる。そういう人の存在は、行政人口だけでは見えにくい地域との結びつきを教えてくれる。

 その人が一年に何日町へ来て、何を買い、誰と関わり、どのような不便を感じ、その不便にいくらなら払うのか。そして、地域側はその人との関係を維持するために何を提供し、どれだけの費用を負担しているのか。これらを実際に調べることができれば、地域経済の見え方は変わるかもしれない。

 観光客でもなく、完全な移住者でもない「第三の住民」を考えることは、結局のところ、これからの地域にとって「住む」とは何なのかを考え直すことである。住民票のある人だけが地域を支えているわけではなく、地域との関係のすべてを人口という一つの数字に置き換えることもできない。

 人口が減り続ける日本では、人を一つの場所に完全に囲い込もうとする地域政策だけでは、対応できない課題が増えていくだろう。一人の人生の一部分を継続的に受け入れ、その人が無理なく何度も戻ってこられる仕組みを持つ地域には、新しい可能性がある。

 ただし、その可能性を現実の地域活性化へ変えるには、地域外から来る人の希望だけでなく、地域に暮らす人の生活、事業者の採算性、行政の財政負担まで含めて、利益と費用を確かめる必要がある。

 二地域居住者は、地域の人口減少を止める救世主ではない。それでも、互いに無理のない関係を築き、地域に必要なものを対価とともに交換し、何度でも戻ってこられる暮らしが成立するなら、少しずつ町を支える存在になり得る。

 地域にとって本当に重要なのは、救世主を探すことではない。住民票の有無を超えて、その町と関わり続けたい人が自然に戻ってこられる条件を整え、その関係が地域にとっても持続可能なものになっているかを、丁寧に確かめていくことなのではないだろうか。

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 昼下がりの地方の町を歩いていると、不思議な静けさに出会うことがある。かつて人が行き交った商店街にはシャッターが下り、銀行だった建物には別の看板が掛かり、駅前の広場には広さに見合うほどの人影がない。バス停の時刻表をのぞけば、次の便まで長い時間が空いている。古くから続いた店が閉じ、その跡地が駐車場になり、子どもの声が聞こえなくなった住宅地では、庭木だけが昔と変わらぬ勢いで伸び続けている。

 こうした風景を見ると、私たちはつい「衰退」という言葉で町を説明したくなる。人口が減ったから衰えた、若者が出ていったから未来がなくなった、と考えれば話は分かりやすい。しかし、そこで少し見方を変えてみると、この風景には別の意味があることに気づく。この町で起きていることは、本当にこの町だけの問題なのだろうか。あるいは、日本社会がこれから経験する変化の一部が、すでにこの場所で起きているのではないだろうか。

 少なくとも人口減少と高齢化という側面に限れば、高齢化の進んだ過疎地域の一部では、日本社会が今後広く経験する人口構造の変化が先行して現れている。総務省が2026年9月に公表した人口推計によると、日本の65歳以上人口は3,624万人で、総人口に占める割合は29.6%に達している。国立社会保障・人口問題研究所の将来推計でも、今後の総人口の減少と高齢化率の上昇が見込まれており、人口が増え続けることを前提としてきた社会の仕組みは、長期的な見直しを迫られている。

 ただし、過疎地の現在が、そのまま東京や大阪の未来になるわけではない。都市には人口集積による効率性があり、交通網や医療機関、商業施設の配置も異なる。また、過疎地域という区分は法律上の人口減少や財政力などの要件によって定められるもので、高齢化率が高い地域と完全に一致するわけでもない。それでも、人口が減ったときに何が維持できなくなり、どのような不便が生じ、これまで必要とされなかった何が求められるようになるのかを考えるうえで、過疎地は重要な先行事例となる。

 そう考えると、人の少なくなった駅前の見え方まで変わってくる。そこにあるのは、過去の繁栄が失われた痕跡だけではない。人口が増える社会に合わせて作られた商業、交通、医療、住宅管理、地域の助け合いといった仕組みが、人口の減る社会でどのように変化するのかを示す場所でもある。衰退という一つの言葉で片づけてしまえば見落とすものが、そこには残されている。

 商売の世界には、世の中の変わり目こそ商人にとって大きな舞台になる、という考え方がある。景気が変わり、技術が変わり、人の暮らし方が変われば、それまで成り立っていた需要と供給の均衡が崩れ、その隙間に新しい商いが生まれる。ただし、変化そのものが利益を生むわけではない。社会の変わり目とは、新しい商売が生まれる時期であると同時に、古い商売が消えていく時期でもある。重要なのは、変化によって生じた新しい不便や、まだ十分に満たされていない需要を、他人より少し早く発見できるかどうかである。

 過疎地を歩くと、その隙間は決して抽象的なものではなく、日常の細かなところに現れている。自動車を運転できる間は、町外れの大型店まで十五分で買い物に行けた人が、運転免許を返納した途端に、その店をはるか遠い場所に感じるようになる。道路の距離は何も変わっていないのに、その人にとっての生活圏は一日にして縮んでしまう。電球を交換する、庭木を切る、粗大ごみを片づける、役所のオンライン手続きをするといった、以前なら何でもなかったことも、身体機能や家族環境の変化によって少しずつ難しくなる。

 こうした不便は、単なる印象ではない。農林水産政策研究所が2024年に公表した推計では、2020年時点で、食料品を扱う店舗まで直線距離で五百メートル以上あり、自動車を利用できない65歳以上の人は全国で約904万人に上り、65歳以上人口の25.6%を占めていた。そのうち75歳以上は約566万人である。この数字は、食料品の購入に不便を生じやすい人が相当数存在することを示している。ただし、一定の条件に該当する人を推計したものであり、全員が実際に買い物に困っていると回答したわけでも、有料の買い物代行を希望しているわけでもない。生活上の不便を示す人口と、商売の顧客になる人口は、分けて考える必要がある。

 ここで興味深いのは、人口が減れば、あらゆる需要まで同じ割合で減るわけではないということである。地域の人口が減っていても、一人当たりの生活支援サービスの利用回数や支払額がそれ以上の割合で増えれば、特定の市場規模が拡大することは数理的にあり得る。例えば、ある地域の人口が二割減少しても、一人当たりの年間サービス利用回数が三割増え、利用料金が変わらなければ、地域全体の売上規模は計算上四%増加する。これはあくまで仮定に基づく計算であり、実際にそのような需要増加が起きることを保証するものではないが、人口減少と市場拡大が必ずしも矛盾しないことを示している。

 食品を食べる量そのものは増えなくても、食品を自宅まで届けてもらう需要は増えるかもしれない。住宅の数が増えなくても、所有者が遠方に住む空き家を見回り、草を刈り、換気をする需要は増えるかもしれない。高齢者の人口が減少していても、家族による支援が受けにくくなったり、公共交通が縮小したりすれば、外部に依頼したい仕事が増えることも考えられる。つまり、人口減少社会では、商品の消費量だけでなく、商品やサービスを必要な人に届ける方法そのものが新たな価値を持つ場合がある。

 空き家についても、変化はすでに数字に現れている。総務省の2023年住宅・土地統計調査では、全国の空き家は約900万戸、住宅総数に占める割合は13.8%となり、そのうち賃貸用、売却用、二次的住宅などを除いた空き家は約385万戸と推計されている。ただし、空き家が900万戸あるからといって、それだけの有料管理契約が期待できるわけではない。自分で管理する所有者もいれば、費用を払ってまで管理を委託する意思のない所有者もいる。住宅が存在すること、管理の必要性があること、管理費を支払う契約者がいることは、それぞれ異なる問題なのである。

 同じことは高齢者向けのサービスにも当てはまる。高齢化率が高い町ほど、高齢者向けの商売が大きくなるとは限らない。人口一万人で高齢化率が四割の町には高齢者が四千人いるが、人口五千人で高齢化率が五割の町では、高齢者は二千五百人である。後者の方が高齢化率は高くても、対象となる人の絶対数は少ない。さらに、年齢が同じでも健康状態、所得、家族関係、交通手段は人によって異なる。高齢化率という一つの数字だけで、その地域の商売の可能性を判断することはできない。

 それでも人口減少は、すべての市場が同じように縮小することを意味しない。大量の商品を大量の顧客に販売する商売には逆風であっても、人の暮らしの中にある細かな不便を引き受けるサービスには、別の需要が生じる可能性がある。ただし、その市場が拡大するかどうかは、対象となる人数だけでなく、利用頻度、料金、競合するサービス、そして実際に料金を支払える人がどれだけいるかによって決まる。

 もっとも、ここで「需要がある」という言葉には注意が必要である。高齢者が困っているからといって、その困り事がそのまま商売になるわけではない。必要だと思うことと、実際に料金を払って利用することとの間には大きな距離がある。買い物に困っていても、配達料金を負担する余裕がない人はいるだろうし、庭の手入れが難しくても、年間数万円の管理費を払うことをためらう人もいるだろう。逆に、料金を払う余裕があっても、知らない人を自宅に入れることへの抵抗感から利用しない人もいる。生活上の必要性だけでなく、支払能力、利用意思、信頼関係まで考えなければ、実際の市場規模は見えてこない。

 さらに、料金を支払う人が、必ずしもサービスを利用する本人とは限らない。高齢の親が暮らす家の見守りを、都市部に住む子どもが契約する場合もあれば、空き家の草刈りや点検を、遠方に住む所有者が依頼する場合もある。地域交通や買い物支援では、利用者からの料金だけでは採算が合わず、自治体による委託や補助、ほかの事業との連携が必要になることもある。誰が困っているのかという問いに加えて、誰がその問題を解決する費用を負担するのかという問いが、商売の成立を左右するのである。

 人口密度の低さも、地域ビジネスにとって大きな制約となる。一軒の家を訪ねたあと、次の利用者まで十キロ走らなければならない地域では、千円の作業を一件提供するために、移動時間と燃料費が売上を上回ることもある。都会なら一つのマンションで十件の仕事をこなせるところを、地方では同じ十件を回るために何十キロも走らなければならない。人口密度の低さは、顧客が少ないという問題であると同時に、顧客一人にサービスを届けるための費用が高くなりやすいという問題でもある。

 例えば、一回三千円の生活支援サービスを提供し、人件費や移動費などの変動費が一回千八百円、月間固定費が十二万円かかる事業を考えてみる。一回当たりの限界利益は千二百円なので、固定費を回収するには月間百件の利用が必要になる。これはあくまで採算構造を示すための試算だが、利用希望者が百人いるだけでは十分ではなく、それぞれが実際にどのくらい利用するかが重要になる。また、事業者自身の労働報酬、社会保険料、車両の更新費用、キャンセルによる損失などを計上しなければ、帳簿上は利益が出ていても、事業として継続できない場合がある。

 だから、高齢者が多いから高齢者向け事業なら成功する、空き家が多いから空き家ビジネスなら儲かる、買い物が不便だから移動販売を始めればよい、と単純に考えるのは危険である。ある地域に多くの困り事が存在することは、商機を探す出発点にはなるが、収益が得られることの証明にはならない。顧客の人数、利用頻度、料金、原価、競合状況を確認し、それでも利益が残る仕組みを作れなければ、事業は長く続かない。さらに、採算が取れないからといって、その困り事が社会的に重要でないということにもならない。民間事業だけで対応するのが難しい問題には、行政支援や地域の共同的な仕組みが必要になる。

 それでも、新しい商いの可能性が消えるわけではない。むしろ重要なのは、困り事を一つずつ単独の商売にするのではなく、複数の需要を組み合わせることである。買い物代行の訪問時に、本人が希望する別の生活支援も引き受ける。空き家の見回りと同時に、庭木や雨どいの状態を確認する。定期的な配達が、高齢者の異変に気づく機会にもなるようにする。一回の移動で複数の価値を生み出せれば、人口密度の低さという弱点を、ある程度補うことができる。

 経営学では、異なる商品やサービスを組み合わせて提供することで、別々に提供するよりも総費用を抑えられる場合を、範囲の経済性という。移動時間や車両費を共通化したり、既存の顧客との信頼関係を複数のサービスに活用したりできれば、事業効率が改善する可能性がある。もっとも、何でも組み合わせれば有利になるわけではない。新しいサービスを加えるために専門人材や設備が必要になり、かえって費用が増える場合もある。複数の仕事を組み合わせることが合理的なのは、それによる売上増加や費用削減の効果が、追加の負担を上回る場合に限られる。

 ここでは、制度面の確認も欠かせない。買い物への有償送迎には道路運送法上の制限があり、家庭から出る廃棄物の収集運搬には廃棄物処理法上の許可が問題になる。行政手続きの代行には行政書士法などによる業務制限があり、医薬品の受け取り支援についても、本人の同意や薬局との適切な連携が必要になる場合がある。また、高齢者の見守りでは、個人情報の保護や緊急時の対応も重要になる。生活支援という一つの言葉でまとめられる仕事でも、法制度上の扱いは異なるため、事業化に当たっては個別に確認しなければならない。

 もう一つ見落とせないのは、サービスを提供する働き手そのものが不足することである。人口減少によって利用者が少なくなる地域では、働き手も同時に少なくなる。高齢者向けサービスの必要性が高まっていても、訪問できる人がいなければ、仕事を引き受けることはできない。人件費が上昇すれば、利用料金を上げざるを得なくなり、その結果として利用者が減ることもある。需要が存在しても供給できないという状況では、新しい店を作ることより、既存の人員や設備を効率よく使う仕組みの方が重要になる場合がある。

 そう考えると、過疎地では商売の考え方そのものを都市型から変える必要があるのかもしれない。多くの客に同じ商品を販売するのではなく、少ない顧客に複数のサービスを適切に組み合わせる。大きな店舗を構えるのではなく、必要な場所へ出向く。単独では採算が取れない仕事を既存の業務と組み合わせ、配達や訪問の経路を工夫する。場合によっては、地域内の商店、運送事業者、医療機関、福祉事業者、自治体などが、それぞれの役割を分担する。大量消費社会で磨かれた商売の仕組みをそのまま小さくするのではなく、人口減少社会に合わせて組み直すのである。

 そのとき、何より重要になるのが情報である。ただし、ここでいう情報とは、新聞やインターネットの記事を大量に読むことだけではない。むしろ価値があるのは、町の中に落ちている小さな違和感である。なぜこの店だけ客が絶えないのか、なぜこの時間だけ病院の駐車場が混むのか、なぜ空き家は増えているのに中古住宅は売れないのか、なぜタクシー会社の電話がつながりにくいのか、なぜ子どもが減っているのにドラッグストアが増えているのか。そうした何気ない現象の背後に、人口構造や世帯構成、交通手段、所得、家族関係の変化が隠れていることがある。

 もっとも、目についた現象から、すぐに原因を決めつけてはいけない。病院の駐車場が混んでいるのは高齢者が増えたからとは限らず、診療日の変更や近隣医療機関の閉鎖が原因かもしれない。ドラッグストアが増えているのも、高齢化による医薬品需要だけでなく、食品販売の拡大や企業の出店戦略によるものかもしれない。複数の現象が同時に起きていることと、一方が他方の原因になっていることは異なる。商売の仮説を考えるときには、もっともらしい説明を見つけるだけでなく、ほかの説明が成り立たないかを調べる姿勢が必要になる。

 統計は、その違和感が思い込みではないかを確かめるための重要な道具となる。人口が減っている、高齢化率が高い、単身世帯が増えているという数字だけを見ても、新しい商売はなかなか見えてこない。しかし、一人暮らしの高齢者に関する統計と、庭の手入れを頼める人がいないという住民の声と、地元の業者は小さな作業を受けにくいという供給側の事情が一つにつながったとき、市場の空白を考える手掛かりが生まれる。そのうえで、実際に何人が困っていて、どの程度の頻度でサービスを必要とし、いくらなら料金を支払うのかを確認していけば、仮説は少しずつ具体的な事業計画へ近づいていく。

 このとき、統計の読み方にも注意が必要である。自治体全体の高齢化率が高くても、駅前と山間部の集落では生活条件が異なる。人口一万人の町を一つの市場として扱っても、その人口が狭い範囲に集まっているのか、広い地域に分散しているのかによって、移動サービスの採算は大きく変わる。所得の平均値が同じでも、低所得世帯が多い地域と比較的所得の均等な地域では、有料サービスへの反応が違う可能性がある。地域の実態を理解するためには、市町村全体の数字だけでなく、可能な範囲で小地域の人口、世帯構成、交通条件、所得などを組み合わせて考える必要がある。

 商人にとって情報とは、情報そのものではなく、別々の事実を結びつける材料なのだろう。同じ町を歩き、同じ店を見て、同じ統計を読んでも、そこから商売を思いつく人と何も感じない人がいるのは、持っている情報量の差だけではない。観察した事実から因果関係の仮説を組み立て、その仮説が本当に正しいかを確かめようとする姿勢の違いでもある。ただし、仮説を思いつくことと、それが市場で支持されることは別である。商人の直感は出発点として価値を持つが、その正しさを判断するのは、実際の顧客の行動と事業の収支なのである。

 この観点から見ると、これまで家庭や地域の中で無償に近い形で処理されてきた仕事にも、新しい市場の芽がある。買い物への送迎、家の掃除、庭仕事、行政手続きの補助、家電の設定、病院への付き添い、空き家の管理といった仕事の多くは、かつては家族や近所の人が自然に引き受けていた。ところが、世帯規模が小さくなり、子どもが遠方で暮らし、近所に住む人も高齢になれば、それまでの仕組みを維持することが難しくなる。国立社会保障・人口問題研究所の世帯数将来推計でも、高齢者の単独世帯が今後さらに重要な割合を占めることが見込まれており、家族構造の変化は地域で必要とされるサービスの形を変えていく可能性がある。

 ただし、一人暮らしの高齢者が増えることと、有料の生活支援サービスを利用する人が同じ割合で増えることは同義ではない。単身でも自立して暮らせる人はいるし、家族と同居していても支援を必要とする人はいる。また、近所同士の助け合いが強く残る地域では市場化が進みにくいかもしれないし、所得水準が低い地域では有料サービスより行政支援を求める声が強くなるかもしれない。家族や地域の無償労働がすべて市場に置き換わるのではなく、その一部が必要に応じて外部サービスへ移行する可能性があると考える方が、現実に近いだろう。

 この変化には、もう一つ重要な意味がある。それは、地域で発生した困り事が、必ずしも地域住民だけを顧客とするわけではないということである。都市部に暮らす子どもが、離れて暮らす親の生活支援を契約する。町外に住む相続人が、故郷の空き家の管理を依頼する。都市部の事業者が、地域内の巡回や現地確認を地元の事業者に委託する。このような仕組みでは、サービスが提供される場所は過疎地であっても、料金を支払う人は地域の外にいる。人口の少ない町に商売を作ることを考えるとき、顧客を町内だけに限定しない発想も必要になる。

 もっとも、同じような困り事が存在していても、地域によって成立する事業は違ってくる。交通条件、住宅の密度、所得、観光客の数、移住者の割合、既存事業者の有無などが異なれば、同じ料金、同じサービス、同じ営業方法では通用しない。観光客が多い町では住民向けの仕事と観光関連の仕事を組み合わせられるかもしれないが、観光需要が少ない山間部ではその方法は使えない。人口一万人の町で成立した仕組みが、別の人口一万人の町でも成立するとは限らないのである。

 それでも、一つの地域で成立した仕組みを、条件の似た別の地域へ展開する可能性は残されている。大切なのは、成功した事業の外見をそのまま模倣することではなく、なぜ成功したのかを理解することである。顧客が一定の距離に集まっていたからなのか、別居家族が費用を負担していたからなのか、既存事業との組み合わせで移動費を抑えられたからなのか。こうした成立条件を把握すれば、人口密度や所得、交通条件などを調整しながら、別の地域でも再現できるかを検討できる。ここに、地域ビジネスをその町だけの小商いで終わらせない可能性がある。

 ただし、成功事例を調べるときには、うまくいかなかった事業にも目を向けなければならない。行政や報道で紹介されるのは、どうしても成果の上がった取組に偏りやすい。しかし、同じ発想で開業しながら利用者不足で撤退した事業、補助金がなくなると継続できなかった事業、人手不足によって営業範囲を縮小した事業も存在するだろう。成功した事業だけから成功確率を判断すると、実際より有利な結論になりかねない。新しい商いの可能性を冷静に評価するためには、成功と失敗の両方から、事業が成立する条件を探ることが必要になる。

 現在、買い物、交通、医療、住宅管理などの問題は、山間部や半島部の集落だけに限られた現象ではなくなりつつある。大都市そのものが過疎地になるわけではないとしても、都市郊外の住宅団地や高齢化したニュータウンでは、住民の高齢化とともに商店が撤退し、病院や買い物への移動が難しくなるという問題が起こり得る。実際、農林水産政策研究所の食料品アクセス困難人口の推計では、三大都市圏にも相当数の対象者が存在している。人口が集中する都市圏の中でも、生活サービスへのアクセスに問題を抱える人がいることは、重要な事実である。

 東京や大阪にも、人口が密集した地域と、日常生活に必要なサービスが十分に届きにくい地域が同時に存在する状況は、すでに見られる。もっとも、都市郊外の生活上の不便と、山間部の過疎集落の不便は、原因も解決方法も同じではない。人口密度、交通網、住宅の形態などの違いによって、適切な事業モデルは変わる。それでも、現在の過疎地で試されている仕組みの一部が、条件を変えることで都市郊外にも応用できる可能性はある。

 その意味で、過疎地は日本全体の未来をそのまま映す鏡ではない。しかし、人口減少と高齢化によって社会の仕組みがどのように変わるのかを、先に見せている場所の一つだと考えることはできる。だから、過疎地を見るときに「どうすれば昔の人口に戻せるか」という問いだけを立てると、重要なものを見落とすかもしれない。もちろん、移住者を増やし、子育て環境を整え、働く場所を作ることには意味がある。しかし、日本全国のすべての町で若者が急増し、出生数が増え、昔のような商店街が復活することを前提に将来を考えるのは現実的ではない。人が少なくなった社会でも、どうすれば便利に、安心して、できれば豊かに暮らせるのかという、もう一つの問いが必要になる。

 この問いに答えることのできる事業には、これから価値が生まれる可能性がある。ただし、社会的に価値があることと、民間事業として利益が出ることは分けて考えなければならない。利用者が十分な料金を支払えるサービスであれば、民間事業として独立採算を目指すことができるだろう。一方、生活に不可欠であっても採算の難しいサービスについては、自治体の支援や既存事業者との連携などを含めた仕組みが必要になる。すべての困り事を商売に変えることが、人口減少社会への正しい対応というわけではないのである。

 そして商売を考えるうえで大切なのは、十年後の未来を完璧に言い当てることではない。むしろ、来年この町で自動車を運転できなくなる人がどのくらいいるのか、五年後には誰がこの家を管理するのか、地元の商店が一軒なくなったときに誰が困るのか、といった小さな未来を丁寧に考えることである。人口推計や世帯統計は、こうした変化の方向を知るための手掛かりになる。しかし、実際に誰が困り、何を必要とし、どのような方法なら利用するのかは、住民や事業者の声を聞かなければ分からない部分も多い。

 仮説を立てたら、小さく試せばよい。最初から大きな建物を借り、大勢を雇い、設備に何百万円も投じる必要はない。一つの地域で少人数にサービスを提供し、本当に料金を払ってもらえるのか、何度も利用してもらえるのか、移動時間まで含めて採算が合うのかを確かめる。ただし、最初の数人の反応だけで地域全体の需要を判断するのは危険である。知人や好意的な人だけを対象にした試験では、実際より利用率が高くなることもある。小さな実験は市場の成功を証明するものではなく、仮説の問題点を見つけ、次の判断に必要な情報を得るためのものだと考えるべきだろう。

 その際には、利用者の人数や売上だけでなく、継続率、作業時間、移動費、キャンセル、苦情、利用を断った人の理由なども確認する必要がある。思ったほど需要がなければ、小さな段階で撤退することもできる。利用者の反応がよくても、移動費や人件費を計算すると赤字になるなら、料金や提供方法を見直さなければならない。逆に、少人数でも継続利用があり、十分な利益が残ることを確認できれば、慎重に営業範囲を広げることができる。商売において重要なのは、未来を百パーセント当てることではなく、予想が外れたときの損失を小さく抑え、成果が確認できたときに拡大できる仕組みを持つことなのだろう。

 世の中の変わり目とは、古い商売が壊れる時代であると同時に、古い常識が通用しなくなる時代でもある。人口が増えるから店を出す、若者が多いから新しい商品が売れる、人が集まる場所に商売が生まれるという成長社会の常識だけでは、人口減少時代の市場を十分には説明できない。人が減ることで必要になる仕事があり、高齢化や家族構成の変化によって外部に任せる仕事が増え、働き手が不足するからこそ省力化や共同化に価値が生まれる場合もある。ただし、その変化は一様ではなく、新しい需要が生まれる一方で、利用者も担い手も減り、事業の継続が難しくなる地域もあるだろう。

 商人に必要なのは、人口減少を楽観的に捉えることでも、悲観的に捉えることでもない。変化によって何が失われ、何が不足し、誰がどのような不便を感じているのかを具体的に理解することである。そして、その不便を解決する方法が、利用者にとって無理のない料金で提供でき、事業者にとっても継続可能なのかを確かめることである。人口が減っているという事実だけでは、商売が成立するかどうかは決まらない。重要なのは、その地域で実際に起きている生活の変化と、それに対応できていない供給の仕組みなのである。

 その兆候は、未来予測の本の中だけにあるのではない。すでに日本各地の小さな町に、生活の変化として現れている。シャッターの下りた商店街を見て、「何もなくなった」と考えるのか。それとも、「何がなくなり、その結果、誰がどのように困っているのか」と考えるのか。同じ景色を見ても、そこから得られる情報はまったく違ってくる。商人の目とは、おそらく後者なのだろう。

 もちろん、変化そのものを歓迎する必要はない。高齢化も人口減少も、そこで暮らす人々に現実の不便や負担を生じさせている。商店が閉まり、交通手段が失われ、家族の支援が受けられなくなることを、安易に商機と呼ぶことには慎重であるべきだろう。しかし、その不便を減らすことで利用者から納得できる対価を得る商売であれば、人口減少を利用するのではなく、人口減少によって生じた問題を解決することで成り立つ。ここには大きな違いがある。

 世の中が安定しているときには、昨日と同じ商売を今日も続けることができる。しかし、社会そのものが変わるときには、昨日まで必要とされなかったものが、明日には欠かせないものになることがある。その境目を探すために、いつも大都会の新しい店や海外の流行ばかりを見る必要はないのかもしれない。むしろ一度、日本各地の過疎地を歩いてみるとよい。そこにある生活の不便を見つめ、人口や世帯の統計を確かめ、人々の声を聞き、何が変わったのかを考えてみるのである。

 そこには、単なる「日本の終わり」があるわけではない。失われていくものがある一方で、暮らしを支える新しい方法を必要としている人々がいる。かつての賑わいをそのまま取り戻すことはできなくても、人が少なくなった社会にふさわしい別の仕組みを作ることはできるかもしれない。すべての地域に成功の保証があるわけではなく、すべての困り事が利益を生むわけでもない。それでも、人口減少と高齢化という限られた側面ではあるが、少し気の早い「日本のこれから」が、すでに各地の小さな町で静かに始まっている。

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