地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 山あいの集落に、決まった曜日になると一台の診療車がやって来る。公民館の前に車が止まり、地域の高齢者が順番を待つ。巡回診療という言葉から連想されるのは、いまでもそんな風景かもしれない。それは医療機関の少ない地域を長く支えてきた仕組みでありながら、一方では「病院へ行けない人に最低限の診療を届けるもの」という印象もまとっている。

 しかし、2026年の医療技術と通信環境を前提に、この巡回診療をもう一度考え直してみると、まったく別の姿が見えてくる。超音波診断装置や心電計は小型化し、少量の検体で結果を得られる検査装置も広がった。高速通信によって、患者のいる場所と専門医のいる場所が同じである必要もなくなりつつある。電子処方箋や診療情報の電子的な共有も整備が進み、2026年4月からはオンライン診療が医療法上に明確に位置付けられ、一定の条件を満たせば車両をオンライン診療の受診施設として用いる制度的な道も開かれている。

 そうなると、問いは「巡回診療を残すべきか」というところにはとどまらない。昔からある巡回診療を、現在の医療技術によってどこまで別の医療システムへ進化させられるのか、という問いに変わってくる。

 本稿では、その仕組みを便宜上「巡回型高度診療体制」と呼んでみたい。ただし、これは現在存在する正式な制度名称ではない。また、大型病院をそのまま車輪の上に載せるような未来構想でもない。むしろ現実的なのは、病院が持っている機能のすべてではなく、そのうち「患者の状態を知り、次に何をすべきか判断する機能」を切り出して地域へ運ぶという考え方である。

高度化とは、巨大な医療機器を積み込むことなのか

 高度な巡回医療と聞けば、CT(Computed Tomography・コンピュータ断層撮影)装置や高度な検査設備を積んだ巨大な診療車を想像するかもしれない。実際、海外ではCTを搭載したMSU(Mobile Stroke Unit・脳卒中専用移動診療車)が運用されており、脳卒中が疑われる患者のもとへ診断機能そのものを運び、現場で画像診断を行って血栓溶解療法を早く始める試みが行われている。

 研究では、通常の救急搬送に比べて治療開始までの時間が二十分から四十分程度短縮された例が報告され、患者の機能的な予後についても改善を示した研究がある。つまり、高度医療の一部を患者の側へ移動させるという考え方そのものには、すでに医学的な実例が存在している。

 ただし、ここには重要な境界線がある。脳卒中は一分でも早く治療を始めることの価値が大きい、時間依存性の非常に高い疾患であり、そこで得られた成果を、高血圧や糖尿病、慢性心不全などを中心とする一般的な巡回診療へそのまま当てはめることはできない。まして全国の過疎地域へ高価なCT搭載車を走らせればよい、という結論にはならない。

 CTを載せれば、重量、電源、放射線管理、機器保守、操作人員など多くの問題が生まれる。一日に数人しか診療しない地域で巨額の設備を動かせば、病院に据え置くより利用効率が悪くなることもあり得る。技術的に可能だからといって、社会システムとして合理的とは限らないのである。

 そこで「高度」という言葉を、機械の値段や大きさから切り離してみる必要がある。

「とりあえず病院へ」の前にできること

 たとえば、高齢者が巡回診療で「このところ少し息切れがする」と訴えたとする。

 従来型の小規模な巡回診療なら、問診をし、胸の音を聞き、血圧を測り、異常が疑われれば「一度病院へ行って詳しく調べてもらってください」と説明するところまでだったかもしれない。それは決して間違った医療ではないが、患者から見れば、その時点ではまだ何が起きているのかほとんど分からない。

 ところが、そこに心電図、血中酸素飽和度測定、携帯型超音波診断装置、POCT(Point of Care Testing・患者のそばで行う臨床現場即時検査)などが加わると状況は変わる。心不全、不整脈、感染症、貧血などを疑うための情報が増え、必要であれば画像や心電図を離れた病院の専門医へ送ることもできる。

 携帯型超音波検査については、十分な訓練を受けた医療者が使用した場合、専門医の正式な超音波検査を完全に置き換えるものではないものの、心機能などを評価する補助的な手段として有用であることが研究で示されている。重要なのは、巡回車の中で確定診断まですべて終えることではなく、従来より多くの情報を持った状態で次の行動を決められるようになることである。

 今日すぐ病院へ行く必要がある人なのか、数日以内に精密検査を受ければよいのか、それとも地域で経過観察できるのか。この判断精度を上げられることこそ、巡回診療の高度化と呼ぶにふさわしい。

 つまり、病院を車に載せる必要はない。病院で行われている「判断」の一部分を地域へ持ち出せればよいのである。

専門医を配置するのではなく、専門医につなぐ

 地方医療が抱える難問の一つは、専門医の配置である。循環器内科、脳神経内科、皮膚科、眼科などの専門医を人口数千人規模の地域へ常勤配置することは、患者数から考えても人材確保の面から考えても難しい。人口減少が進むほど、その困難はさらに大きくなる。

 しかし、専門医の身体を常に地域へ置くことができないからといって、その専門知識まで地域から切り離さなければならないわけではない。

 日本国内ではすでに、医療機器と通信設備を搭載した車両に看護師などが乗り、離れた医療機関にいる医師がオンラインで診療する取り組みが行われている。鹿児島県薩摩川内市では「走る診察室」と呼ばれる医療MaaS(Mobility as a Service・移動サービスと医療を組み合わせた仕組み)が始まり、高知県でも携帯型心電計や超音波診断装置などを搭載した車両を用いて、医療従事者が患者の近くに行き、遠隔の医師と接続するモデルが実際に運用されている。

 ここから見えてくるのは、巡回診療車を一人の医師が乗って地域を回るだけの「移動する診療所」から、地域と複数の専門医療をつなぐ「移動する医療接続拠点」へ変えられる可能性である。

 同じ車両であっても、ある日は循環器専門医に心電図や超音波画像を送り、別の日には皮膚病変の画像を皮膚科医へ送り、慢性疾患患者については地域のかかりつけ医と基幹病院が検査結果を共有することができる。もちろん、すべての診療科をオンラインで代替できるわけではないが、人口数千人の町に五人の専門医を常勤させることと、必要なときだけ五人の専門医につながることでは、必要な資源の意味がまったく違う。

 地方の医師不足という問題を、「医師を全国へ均等に配置する」という方法だけで解こうとすると限界がある。これからは、人の配置を完全に均等にするのではなく、専門的な判断へアクセスできる機会をどう均等に近づけるかという発想も必要になるだろう。

医療までの距離は、道路の長さだけではない

 地方医療について語るとき、「病院まで三十キロ」「救急病院まで車で四十分」という表現がよく使われる。しかし、病気にとって意味があるのは地図上の距離ではなく、必要な医療に到達するまでの時間である。

 病院が十キロ先にあっても、自動車を運転できない高齢者が一日に数本しかないバスを使わなければならないなら、その病院は生活上かなり遠い。反対に病院が三十キロ離れていても、定期的に巡回する医療車両で初期診察や検査を受け、必要な患者だけが予約された病院へ向かえるなら、医療への実質的な距離は縮まる。

 この視点から見ると、巡回型高度診療体制の役割は「病院の代替」ではなく、「病院へ行かなければならない人を適切に見極める入口」にある。

 現在の地方医療で住民が負担しているのは、重病になったときの長距離搬送だけではない。血圧の薬をもらうために半日を使い、慢性疾患の定期検査のために家族が仕事を休んで送迎し、症状の程度が分からないため念のため遠くの医療機関まで出かける。患者の時間だけではなく、家族の時間、自家用車の費用、交通サービス、医療機関の受付や診療時間まで含めれば、通院には社会全体としてかなりの資源が投入されている。

 巡回診療によって、こうした移動の一部を地域内で完結させられる可能性はある。また、症状の初期評価が充実すれば、結果として不必要な救急受診や遠距離受診を減らせる可能性も考えられる。ただし、この点については、巡回型高度診療そのものが救急受診をどの程度減らすかを示す十分な実証データがまだあるわけではない。期待できる効果と、すでに証明された効果とは分けて考える必要がある。

令和の巡回診療は「孤立した診察室」でなくなる

 昔の巡回診療には、構造的な弱点があった。

 診療車が地域にやって来ても、患者の過去の検査結果は病院にあり、薬の情報は薬局にあり、以前どの病院で何を診断されたかは患者本人の記憶に頼ることも少なくなかった。診察する場所だけを患者の近くへ動かしても、その場に医療情報がなければ診療能力には限界がある。

 ところが現在は、オンライン資格確認による診療・薬剤情報の参照、電子処方箋、オンライン服薬指導などが少しずつ一つの流れとしてつながり始めている。

 電子処方箋は2026年5月時点で九割以上の薬局に導入されている一方、医療機関を含む全体では同年六月時点で導入率は四割程度にとどまり、全国どこでも完全に情報がつながる状態にはまだ達していない。この数字はむしろ重要で、医療のデジタル化が完成した社会を前提に地域医療を論じるのは早すぎることを示している。

 それでも方向は見えている。

 巡回車で患者を診察し、過去の薬剤情報などを参照し、その日の診療内容を記録し、電子処方箋を発行し、地域の薬局が調剤する。条件が整えばオンライン服薬指導や薬剤配送につなぐこともできる。この流れが成立すれば、診療車は町から町へ孤独に走る小さな診療所ではなく、既存の病院、診療所、薬局をつなぐ医療ネットワークの入口になる。

 実は、巡回車の価値を決めるのは、どれだけ高価な機械を積んでいるかより、こちらの接続性なのかもしれない。

病院はなくならない。それどころか、むしろ重要になる

 技術について語ると、議論はしばしば「それなら病院はいらなくなるのではないか」という方向へ飛躍する。しかし、巡回診療が高度化しても病院の役割がなくなることはない。

 急性心筋梗塞に対するカテーテル治療、脳卒中に対する高度画像診断や血管内治療、手術、輸血、人工呼吸管理、集中治療などは、十分な設備と多数の医療職が存在する病院でなければ行えない。オンライン診療についても、得られる情報が対面診療より限定されるため、対面診療と適切に組み合わせることが基本とされ、患者が急変した場合などには対面診療へ移行できる体制が求められている。

 したがって、巡回型高度診療体制は病院を消す仕組みではなく、病院の機能をより合理的に使うための仕組みとして考えた方がよい。

 これまで患者は、病院の玄関をくぐらなければ多くの診察や検査を受けられなかった。その一部分を患者の生活圏まで前へ出し、地域で完結できる患者はそこで診療し、高度な設備が必要な人だけを病院へ送る。そうなれば病院は、軽症者や定期通院者まで大量に抱える場所ではなく、本当に病院でなければできない医療へより多くの資源を集中できる可能性がある。

 巡回診療と病院は競争相手ではない。うまく設計すれば、むしろ互いの弱点を補う関係になる。

最大の障害は医療技術ではなく、稼働率である

 ここまでを見ると、巡回型高度診療体制はかなり実現可能なように見える。実際、必要となる技術の多くはすでに存在し、制度的にも使える範囲が広がっている。

 しかし、技術的にできることと、持続可能な医療制度になることは同じではない。

 診療車を購入すること自体はできる。補助金を使って最新機器を載せることもできるだろう。難しいのは、それを十年、十五年と使い続けることである。

 医師や看護師を誰が確保するのか、車両を誰が運転するのか、医療機器を誰が管理し、故障したときに誰が修理するのか、通信が途切れたときにどう診療を継続するのか、遠隔側の専門医が診療に参加する時間をどう確保するのかという問題が続く。さらに深刻なのは、一日に何人の患者を診られるのかという問題である。

 患者が一日三人しかいない地域へ、医療職と高価な機器を積んだ車を一日かけて走らせれば、一人当たりの診療コストは非常に高くなる。逆に、一日に二十人、三十人を診察でき、複数の集落を効率的に巡回できるのであれば、同じ車両でも意味は変わる。

 つまり、巡回型医療の成否を決める最大の変数は、最新医療機器ではなく「一台をどれだけ使い切れるか」なのである。

患者の家まで行けばよいとは限らない

 巡回診療というと、患者の自宅まで医療者が訪ねていく姿を理想と考えがちだが、それが必ずしも最も効率的とは限らない。

 人口が広く分散した地域で、一軒ずつ患者宅を訪問すれば、診療時間より移動時間の方が長くなることがある。そこで、集会所、公民館、道の駅、既存の福祉施設などを小さな診療拠点として使い、周囲数キロの住民だけがそこへ移動し、診療車は集落間を長距離移動する方式も考えられる。

 患者を一歩も動かさないことが医療アクセスの最適化ではない。高齢者が数キロ移動し、診療車が数十キロ移動し、専門医は都市部から一歩も動かない。その組み合わせによって、社会全体の移動時間が最も小さくなる配置を探す方が合理的である。

 この発想に立つと、巡回診療は医療だけの問題ではなくなる。デマンド交通、福祉送迎、公共施設配置、薬剤配送などと組み合わせて考えた方が効率がよい場合も出てくるからである。

 医療だけを最適化した結果、交通システム全体として非効率になるなら意味がない。人口減少地域では、医療、交通、介護、物流を一つの生活インフラとして設計する視点が必要になる。

どの町にも導入すればよいわけではない

 巡回型高度診療体制は、全国の過疎地域を一つの処方箋で救える仕組みではない。

 既存病院まで十五分程度で到達でき、人口も非常に少ない地域なら、高価な診療車を新しく導入するより、タクシー券やデマンド交通を充実させた方が安く、住民にとって便利かもしれない。一方で、高齢者が多く公共交通が乏しく、複数の集落が一定の範囲にまとまり、基幹病院まで長時間を要する地域なら、巡回診療の価値は高まる可能性がある。

 だからこそ、導入前に比較しなければならない。

 車両の購入費だけを見るのではなく、年間何人が利用するのか、何回の長距離通院を減らせそうなのか、患者や家族の移動時間がどれだけ変わるのか、医療職の移動時間はどうなるのか、車両、人件費、通信費、機器保守費を合わせると一人当たりいくらになるのかを調べ、そのうえで同じ予算を訪問診療、既存診療所への支援、無料送迎、デマンド交通などへ投入した場合と比較する必要がある。

 現在のところ、「巡回車、携帯型検査、看護師、遠隔専門医、電子処方箋、薬剤配送」を一体化した仕組みが、日本の人口減少地域で固定診療所や通院支援より必ず費用対効果に優れることまで科学的に証明されているわけではない。

 ここを曖昧にすると、未来的な車両を導入することそのものが目的になってしまう。

 最新設備を載せた診療車が完成した瞬間には自治体の成功事例として紹介されても、数年後には患者数不足や人員不足によって稼働日が減り、やがて庁舎の駐車場に置かれたままになる可能性もある。新しい医療制度を評価するなら、導入したかどうかではなく、五年後にも日常的に使われているかを見るべきだろう。

「診療所を残す」という発想から離れてみる

 地方医療では、長い間「病院を残すか」「診療所を残すか」という議論が繰り返されてきた。住民にとって、地域から医療施設がなくなることへの不安は大きく、建物が存在すること自体が安心感にもなってきた。

 しかし人口減少がさらに進めば、建物を残すことと医療を残すことが一致しなくなる地域も増えてくる。

 診療所があっても医師が週に一度しか来ないのであれば、医療機能はすでに限定されている。反対に診療所という固定した建物がなくても、週に複数回診療車が来て、看護師が検査を行い、かかりつけ医や専門医につながり、必要なら基幹病院の予約までその場で行えるのであれば、住民が実際に受けられる医療はむしろ充実する場合がある。

 これから重要になるのは、「医療施設が町にあるか」ではなく、「住民が必要な医療機能へどれだけ容易に到達できるか」という評価なのかもしれない。

 国の医師偏在対策でも、医師不足地域についてオンライン診療を組み合わせて不足する診療機能を補完する方向が検討されている。すべての地域へすべての専門医を配置できない時代になれば、人を均等に置く政策だけではなく、専門医療へ接続できる仕組みを広げる政策が必要になる。

昭和の巡回診療が、令和になって別の意味を持ち始める

 ここまで考えると、不思議なことに気づく。

 巡回診療そのものは決して新しい発明ではない。むしろ古い医療の形である。それが、携帯型医療機器、高速通信、オンライン診療、医療情報の電子化という新しい技術と結びついたことで、もう一度別の可能性を持ち始めている。

 かつての巡回診療は、医療機関のない場所へ医師を運ぶ仕組みだった。

 これからの巡回診療は、医師だけを運ぶ必要はない。検査装置を運び、患者情報をネットワークから呼び出し、必要な専門医へ接続し、処方を薬局へ送り、それでも病院でなければ治療できない患者だけを後方の医療機関へつなぐ。一台の車がすべてを行うのではなく、一台の車が離れた場所に存在する医療機能を結び付けるのである。

 そこに「巡回型高度診療体制」という考え方の現実的な姿がある。

 技術的な部品の多くは、すでに存在している。制度上の環境も以前より整ってきた。国内でも、それらを組み合わせた実践が少しずつ始まっている。したがって、この構想そのものを空想と考える理由はない。

 ただし、本当に難しい問題はここから始まる。

 どの地域なら固定診療所より合理的なのか。人口密度がどこまで低下すると成立しなくなるのか。一日に何人診察すれば採算性が生まれるのか。何台の車両で何集落を担当するのがよいのか。看護師を配置する方式と医師が同乗する方式では、どこで費用と医療の質が逆転するのか。

 こうした問いに対する答えは、最新医療機器のカタログには載っていない。

 地域ごとの人口、年齢構成、道路網、医療機関までの所要時間、慢性疾患患者数、公共交通、医療従事者数を使って初めて計算できる問題だからである。

 その意味で、巡回型高度診療体制は単なる医療技術の話ではない。人口減少社会で、限られた医療資源をどこに固定し、どこを動かし、どこを通信で結ぶのかという地域設計の問題である。

 これまで地域医療では、「病院をどこに残すか」が大きな問いだった。

 これからは、それにもう一つ問いを加える必要がある。

 医療をどこに置くかではなく、医療機能をどこまで動かせるのか。

 古くから日本の山間部や離島を走ってきた巡回診療車は、人口減少の時代になって、思いがけずその問いの最前線に戻ってくるのかもしれない。

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~「医者がいる町」から「医療につながる町」へ

地方の町では、診療所の時計だけが、町とは別の時間を刻んでいるように見えることがある。

午前八時半。玄関の自動ドアが開くより少し前から、数人の高齢者が待っている。受付が始まれば、血圧の薬をもらいに来た人、腰の痛みを相談する人、健康診断の結果を聞きに来た人が、いつもの椅子に腰を下ろす。医師は一人、看護師が数人、受付には長く勤めている職員がいる。患者の名前だけでなく、その人の家族や暮らしまで何となく分かっている。

それは大病院とはまったく違う医療の風景である。

ところが、この診療所をそのまま30年先へ移動させようとすると、急に話が難しくなる。建物が古くなるからではない。医療機器が壊れるからでもない。もっと根本的な問題として、患者も医師も、そして町そのものも変わってしまうからである。

2026年から30年後は2056年である。国立社会保障・人口問題研究所の出生中位・死亡中位推計では、日本の総人口は2056年に約9965万人となり、1億人を割り込む。さらに2055年には65歳以上人口の割合が37%を超えると推計されている。しかも人口減少は全国一様に進むわけではなく、多くの地方では大都市より早く、そして深く進行する。市区町村別の将来推計も、2050年までの段階ですでに大きな地域差を示している。

では、地方の診療所は30年後も残っているのだろうか。

結論から言えば、現在と同じ形の診療所を、現在と同じ密度で維持することはかなり難しい。しかし、地方から診療所という存在そのものが消えるとも考えにくい。残るのはおそらく、「毎日一人の医師が診察室で患者を待つ診療所」ではなく、複数の医療機関、訪問看護、薬局、介護、オンライン診療、巡回診療などが結びついた、小さな地域医療拠点としての診療所である。

30年後に問われるのは、診療所を残せるかというより、「診療所とは何か」という定義そのものなのかもしれない。

患者が減るのに、医療が楽になるとは限らない

人口が減れば患者も減る。それなら診療所の負担も小さくなるのではないか、と考えたくなる。

しかし、地方医療では、この直感が必ずしも成立しない。

仮に人口1万人の町に診療所が5か所あり、それぞれが2000人程度の住民を背景人口として成立していたとする。その町の人口が30年後に6000人になれば、単純計算では一診療所当たり1200人になる。医療需要が人口に比例するなら、診療所の経営は当然苦しくなる。

ところが、高齢化を加えると事情が変わる。

30歳の住民一人と85歳の住民一人では、一般に必要とする医療の量が同じではない。高齢になるほど複数の慢性疾患を抱えやすく、薬剤管理、定期検査、認知機能への対応、在宅医療なども必要になりやすい。そのため人口が3割減ったからといって、医療需要までそのまま3割減るとは限らない。

厚生労働省も2040年に向けた医療提供体制について、人口減少に伴って外来需要全体は減少する一方、高齢化や医療従事者の確保、在宅医療などへの対応が必要になると整理している。つまり地方では、「患者が少なくなる」と「医療が簡単になる」が同時には起こらないのである。

ここに、地方診療所の最初の難しさがある。

待合室に座る人数は減っているのに、一人一人の患者に必要な医療は重くなる。

診療所から見れば、売上を支える患者数が減少する一方で、診療に必要な時間や連携業務は必ずしも減らないという現象が起こり得る。人口減少社会の医療とは、単なる「縮小」ではない。量が減りながら、質的には複雑になるのである。

本当に不足するのは「医師の数」だけではない

現在の日本には、一般診療所そのものは数多く存在する。2023年10月時点の一般診療所は10万4894施設で、その大半を無床診療所が占めている。数字だけを見れば、明日にでも診療所網が崩壊するような状態ではない。

しかし、30年という時間を考える場合、施設数より重要なのは、その診療所を誰が継ぐのかという問題である。

地方の小さな診療所は、一人の開業医に大きく依存していることが少なくない。病院なら一人の医師が退職しても組織は残るが、一人医師の診療所では、その医師の引退がそのまま診療所の閉鎖につながることがある。

厚生労働省も将来の外来医療を検討する際、診療所医師の高齢化と医師偏在を明示的な問題として取り上げている。さらに現在の医師政策では、単に全国の医師総数を見るのではなく、都道府県や二次医療圏ごとに「医師偏在指標」を用いて地域差を把握する仕組みがとられている。2024年末には「医師偏在の是正に向けた総合的な対策パッケージ」も策定された。

これは重要な意味を持っている。

日本全体で医師が存在することと、人口5000人の町に医師が一人住んでいることは、まったく別の問題だからである。

若い医師から見れば、地方で一人診療所を経営することには大きな責任が伴う。診療だけではなく、人を雇い、設備を管理し、診療報酬を請求し、休日や夜間への対応を考え、場合によっては学校医や予防接種、在宅患者の看取りまで担う。都市部の病院や複数医師のクリニックで勤務するという選択肢がある中で、その生活を積極的に選ぶ人が将来十分に存在するかは分からない。

したがって地方診療所の問題を「医学部の定員を増やせば解決する」と考えることもできない。

必要なのは医師という人数ではなく、その地域で働き続ける医師だからである。

一軒の診療所が消えると、町では距離が伸びる

都市では、一つのクリニックが閉院しても、数百メートル先に別の医療機関が見つかることがある。

地方では違う。

診療所が一軒なくなることによって、「次の診療所まで15キロ」ということが起こる。

しかも30年後、その15キロを運転する住民自身が高齢になっている。

ここに地方医療の問題が、医療政策だけでは解けない理由がある。

診療所へのアクセスは、道路、バス、タクシー、家族構成、免許返納、介護サービスまで含めた生活圏の問題だからである。医師が町にいなくても、自動車で20分走れば診療を受けられるのであれば、医療アクセスはある程度保たれる。しかし高齢者が一人暮らしで、自動車を運転できず、バスも一日に数本しかなければ、同じ20キロは突然、巨大な距離になる。

地図上では20キロでも、生活上は100キロに等しいことがある。

反対に、医師が毎日診療所に常駐しなくても、週に数回医師が巡回し、看護師が常駐し、必要な場合だけオンラインで専門医につなぎ、検査や入院が必要になれば地域の中核病院へ移送できる仕組みが成立していれば、物理的な診療所の数が減っても医療への接近可能性は必ずしも同じ割合では低下しない。

この違いこそ、30年後の地方医療を考える鍵になる。

診療所は「店」から「ネットワークの入口」へ変わる

これまでの診療所は、かなり完成された自己完結型の施設だった。

患者が診療所へ行き、医師が診察し、必要なら検査をし、薬を処方する。高度な治療が必要になれば病院へ紹介する。町の診療所とは、一つの小さな医療世界だった。

しかし人口が減り、人材も不足する地域で、この方式をすべての集落に残そうとすれば無理が生じる。

そこで今後重要になるのが、医療機能を分けながら接続するという考え方である。

厚生労働省が進めている2040年に向けた新たな地域医療構想も、病院の病床だけではなく、外来、在宅医療、介護、人材確保までを一体として考える方向へ広がっている。また、医療アクセスに問題のある地域について、オンライン診療を含む遠隔医療、医師派遣、巡回診療などを組み合わせる方向性も示されている。

この延長線上に30年後を置いてみると、地方の診療所の姿はかなり変わって見える。

たとえば、一人の医師が毎日午前九時から午後六時まで診察するのではなく、地域の複数の医師が曜日を分担するかもしれない。診療所には看護師などが常駐し、慢性疾患の状態確認を行いながら、必要な時間だけ医師がオンラインで診察するかもしれない。在宅患者には訪問看護が入り、電子的に共有された情報を中核病院の医師が確認する。画像診断や専門診療だけは都市部の医療機関につなぐ。

そうなれば診療所は、医療が完結する「場所」ではなくなる。

地域住民を医療システムにつなぐ「入口」になる。

この変化を退歩と見るか、進歩と見るかは簡単ではない。毎日同じ医師が診てくれる安心感は薄れるかもしれない。その一方で、一人の高齢医師に地域医療全体を背負わせる危うさは小さくなる。

30年前までの地方医療を再現することではなく、人口が半分になった町でも成立する医療の形を作ることが必要になるのである。

オンライン診療だけでは、地方医療は救えない

未来の医療を語ると、しばしばオンライン診療が万能薬のように登場する。

だが、画面の向こうから腹部を触診することはできない。

採血もできない。傷口を縫うこともできない。息苦しい患者の顔色を見て救急搬送を判断するとき、映像だけでは不足する場合もある。

だから「地方には医師がいなくても、オンライン診療があればよい」という考え方は現実的ではない。

むしろオンライン診療の価値は、医療従事者を完全に不要にすることではなく、少ない医療従事者の能力を広い地域で共有できることにある。

診療所に看護師がいて、血圧、体温、酸素飽和度などを測定し、患者の状態を確認する。その情報を遠隔地にいる医師と共有する。必要なら医師がオンラインで患者と話し、対面診療が必要と判断すれば巡回日を早めたり、中核病院を受診させたりする。

このような仕組みなら、オンライン診療は「医師の代用品」ではなく「距離を縮める道具」になる。

鉄道が町を結んだように、通信回線が診察室を結ぶのである。

ただし、その回線のこちら側には人が必要だ。

30年後の地方医療を支えるのは、派手な人工知能だけではなく、患者の腕に血圧計を巻き、「今日は少し顔色が悪いですね」と気づく人なのだろう。

経営できない診療所を、誰が残すのか

もう一つ避けて通れない問題がある。

採算である。

民間の診療所は医療機関であると同時に事業体でもある。患者が少なくなれば収入も減り、看護師や事務職員の給与、医療機器、建物、光熱費などの固定費が重くなる。

人口数千人の地域で、複数の診療所がすべて独立採算で存続することは難しくなる可能性がある。

ここで発想を変えなければならない。

スーパーなら、客が減り続ければ撤退する。それは企業として合理的な判断である。しかし、その町で最後の診療所が消える場合、同じ論理だけで判断できるだろうか。

医療には市場サービスとしての側面と、社会インフラとしての側面が同時に存在する。

道路を利用する自動車が少なくなったからといって、人口の少ない集落へ通じる道路をただちに撤去するわけではない。消防署も、年間の火災件数だけで採算計算されているわけではない。

30年後の地方診療所にも、同じ議論が必要になる可能性が高い。

一定の人口密度を下回った地域では、民間診療所を市場原理だけで維持するのではなく、公設民営、病院によるサテライト診療所、自治体間共同運営など、地域インフラに近い制度へ移行するところが出てくるだろう。

そう考えると、地方診療所の将来を左右するのは医師数だけではない。

国と自治体が、「医療へのアクセスそのものにどこまで公共的な費用を投入するのか」という政治的な選択でもある。

そして2056年、診療所の玄関は開いているか

2056年のある朝を想像してみる。

人口は現在より少ない。町を歩く人も少ない。

かつて商店だった建物のいくつかは空き家になり、学校は統合されているかもしれない。

それでも、旧役場の近くに小さな診療所がある。

玄関を開けると受付があり、看護師がいる。ただし医師は毎日はいない。月曜日と木曜日は地域の病院から医師が来る。火曜日には循環器の専門医がオンラインで診療する。水曜日には訪問診療の車が山側の集落を回る。患者の検査データは地域の中核病院と共有され、救急時には搬送先もあらかじめ決められている。

今の感覚から見れば、「医師が常駐していない診療所」と映るだろう。

しかし30年後の住民から見れば、それこそが普通の診療所なのかもしれない。

厚生労働省自身も、2040年とその先を見据え、医療機関の連携・再編・集約化、外来・在宅医療、介護との連携、医療従事者の確保、アクセス困難地域への対応を一体として考える方向へ政策を動かしている。現在の制度設計は2056年そのものを予言するものではないが、「すべての医療機関を現在の形のまま残す」のではなく、「地域全体で必要な医療機能をどう残すか」へ政策の焦点が移っていることは明らかである。

だから、地方の診療所は30年後も維持できるのか、という問いへの答えは少し複雑になる。

診療所という建物を一軒ずつ守ろうとするなら、維持できない地域は増えるだろう。

しかし、

住民が必要なときに診察を受け、薬を受け取り、検査を受け、必要なら病院へつながる仕組みを「診療所」と呼ぶのであれば、維持する方法はまだある。

問題は、医療を建物の数で考えるか、人と医療との距離で考えるかである。

人口5000人の町に診療所が三つあることより、診療所が一つしかなくても、すべての住民がそこへ到達でき、そこから必要な医療へ確実につながることのほうが重要になるかもしれない。

地方ではこれから、病院も、診療所も、薬局も、バスも、介護も、それぞれ単独では維持しにくくなる。

だからこそ、それらを別々の制度として眺め続けることも難しくなる。

医療の問題は交通の問題になり、交通の問題は人口配置の問題になり、人口配置の問題は町そのものをどう残すのかという問題へつながっていく。

30年後の地方で最後まで必要とされるものは、立派な建物ではない。

具合が悪くなったとき、「ここへ連絡すれば大丈夫だ」と住民が思える場所である。

かつて、その役割を一人の町医者が担っていた。

2056年には、一人の医師ではなく、一つのネットワークがそれを担っているのかもしれない。

診療所の白い看板は、今と同じ場所には残っていないかもしれない。

それでも、その町から医療までの道が途切れていなければ、地方医療はまだ生きている。

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