地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

~「医者がいる町」から「医療につながる町」へ

地方の町では、診療所の時計だけが、町とは別の時間を刻んでいるように見えることがある。

午前八時半。玄関の自動ドアが開くより少し前から、数人の高齢者が待っている。受付が始まれば、血圧の薬をもらいに来た人、腰の痛みを相談する人、健康診断の結果を聞きに来た人が、いつもの椅子に腰を下ろす。医師は一人、看護師が数人、受付には長く勤めている職員がいる。患者の名前だけでなく、その人の家族や暮らしまで何となく分かっている。

それは大病院とはまったく違う医療の風景である。

ところが、この診療所をそのまま30年先へ移動させようとすると、急に話が難しくなる。建物が古くなるからではない。医療機器が壊れるからでもない。もっと根本的な問題として、患者も医師も、そして町そのものも変わってしまうからである。

2026年から30年後は2056年である。国立社会保障・人口問題研究所の出生中位・死亡中位推計では、日本の総人口は2056年に約9965万人となり、1億人を割り込む。さらに2055年には65歳以上人口の割合が37%を超えると推計されている。しかも人口減少は全国一様に進むわけではなく、多くの地方では大都市より早く、そして深く進行する。市区町村別の将来推計も、2050年までの段階ですでに大きな地域差を示している。

では、地方の診療所は30年後も残っているのだろうか。

結論から言えば、現在と同じ形の診療所を、現在と同じ密度で維持することはかなり難しい。しかし、地方から診療所という存在そのものが消えるとも考えにくい。残るのはおそらく、「毎日一人の医師が診察室で患者を待つ診療所」ではなく、複数の医療機関、訪問看護、薬局、介護、オンライン診療、巡回診療などが結びついた、小さな地域医療拠点としての診療所である。

30年後に問われるのは、診療所を残せるかというより、「診療所とは何か」という定義そのものなのかもしれない。

患者が減るのに、医療が楽になるとは限らない

人口が減れば患者も減る。それなら診療所の負担も小さくなるのではないか、と考えたくなる。

しかし、地方医療では、この直感が必ずしも成立しない。

仮に人口1万人の町に診療所が5か所あり、それぞれが2000人程度の住民を背景人口として成立していたとする。その町の人口が30年後に6000人になれば、単純計算では一診療所当たり1200人になる。医療需要が人口に比例するなら、診療所の経営は当然苦しくなる。

ところが、高齢化を加えると事情が変わる。

30歳の住民一人と85歳の住民一人では、一般に必要とする医療の量が同じではない。高齢になるほど複数の慢性疾患を抱えやすく、薬剤管理、定期検査、認知機能への対応、在宅医療なども必要になりやすい。そのため人口が3割減ったからといって、医療需要までそのまま3割減るとは限らない。

厚生労働省も2040年に向けた医療提供体制について、人口減少に伴って外来需要全体は減少する一方、高齢化や医療従事者の確保、在宅医療などへの対応が必要になると整理している。つまり地方では、「患者が少なくなる」と「医療が簡単になる」が同時には起こらないのである。

ここに、地方診療所の最初の難しさがある。

待合室に座る人数は減っているのに、一人一人の患者に必要な医療は重くなる。

診療所から見れば、売上を支える患者数が減少する一方で、診療に必要な時間や連携業務は必ずしも減らないという現象が起こり得る。人口減少社会の医療とは、単なる「縮小」ではない。量が減りながら、質的には複雑になるのである。

本当に不足するのは「医師の数」だけではない

現在の日本には、一般診療所そのものは数多く存在する。2023年10月時点の一般診療所は10万4894施設で、その大半を無床診療所が占めている。数字だけを見れば、明日にでも診療所網が崩壊するような状態ではない。

しかし、30年という時間を考える場合、施設数より重要なのは、その診療所を誰が継ぐのかという問題である。

地方の小さな診療所は、一人の開業医に大きく依存していることが少なくない。病院なら一人の医師が退職しても組織は残るが、一人医師の診療所では、その医師の引退がそのまま診療所の閉鎖につながることがある。

厚生労働省も将来の外来医療を検討する際、診療所医師の高齢化と医師偏在を明示的な問題として取り上げている。さらに現在の医師政策では、単に全国の医師総数を見るのではなく、都道府県や二次医療圏ごとに「医師偏在指標」を用いて地域差を把握する仕組みがとられている。2024年末には「医師偏在の是正に向けた総合的な対策パッケージ」も策定された。

これは重要な意味を持っている。

日本全体で医師が存在することと、人口5000人の町に医師が一人住んでいることは、まったく別の問題だからである。

若い医師から見れば、地方で一人診療所を経営することには大きな責任が伴う。診療だけではなく、人を雇い、設備を管理し、診療報酬を請求し、休日や夜間への対応を考え、場合によっては学校医や予防接種、在宅患者の看取りまで担う。都市部の病院や複数医師のクリニックで勤務するという選択肢がある中で、その生活を積極的に選ぶ人が将来十分に存在するかは分からない。

したがって地方診療所の問題を「医学部の定員を増やせば解決する」と考えることもできない。

必要なのは医師という人数ではなく、その地域で働き続ける医師だからである。

一軒の診療所が消えると、町では距離が伸びる

都市では、一つのクリニックが閉院しても、数百メートル先に別の医療機関が見つかることがある。

地方では違う。

診療所が一軒なくなることによって、「次の診療所まで15キロ」ということが起こる。

しかも30年後、その15キロを運転する住民自身が高齢になっている。

ここに地方医療の問題が、医療政策だけでは解けない理由がある。

診療所へのアクセスは、道路、バス、タクシー、家族構成、免許返納、介護サービスまで含めた生活圏の問題だからである。医師が町にいなくても、自動車で20分走れば診療を受けられるのであれば、医療アクセスはある程度保たれる。しかし高齢者が一人暮らしで、自動車を運転できず、バスも一日に数本しかなければ、同じ20キロは突然、巨大な距離になる。

地図上では20キロでも、生活上は100キロに等しいことがある。

反対に、医師が毎日診療所に常駐しなくても、週に数回医師が巡回し、看護師が常駐し、必要な場合だけオンラインで専門医につなぎ、検査や入院が必要になれば地域の中核病院へ移送できる仕組みが成立していれば、物理的な診療所の数が減っても医療への接近可能性は必ずしも同じ割合では低下しない。

この違いこそ、30年後の地方医療を考える鍵になる。

診療所は「店」から「ネットワークの入口」へ変わる

これまでの診療所は、かなり完成された自己完結型の施設だった。

患者が診療所へ行き、医師が診察し、必要なら検査をし、薬を処方する。高度な治療が必要になれば病院へ紹介する。町の診療所とは、一つの小さな医療世界だった。

しかし人口が減り、人材も不足する地域で、この方式をすべての集落に残そうとすれば無理が生じる。

そこで今後重要になるのが、医療機能を分けながら接続するという考え方である。

厚生労働省が進めている2040年に向けた新たな地域医療構想も、病院の病床だけではなく、外来、在宅医療、介護、人材確保までを一体として考える方向へ広がっている。また、医療アクセスに問題のある地域について、オンライン診療を含む遠隔医療、医師派遣、巡回診療などを組み合わせる方向性も示されている。

この延長線上に30年後を置いてみると、地方の診療所の姿はかなり変わって見える。

たとえば、一人の医師が毎日午前九時から午後六時まで診察するのではなく、地域の複数の医師が曜日を分担するかもしれない。診療所には看護師などが常駐し、慢性疾患の状態確認を行いながら、必要な時間だけ医師がオンラインで診察するかもしれない。在宅患者には訪問看護が入り、電子的に共有された情報を中核病院の医師が確認する。画像診断や専門診療だけは都市部の医療機関につなぐ。

そうなれば診療所は、医療が完結する「場所」ではなくなる。

地域住民を医療システムにつなぐ「入口」になる。

この変化を退歩と見るか、進歩と見るかは簡単ではない。毎日同じ医師が診てくれる安心感は薄れるかもしれない。その一方で、一人の高齢医師に地域医療全体を背負わせる危うさは小さくなる。

30年前までの地方医療を再現することではなく、人口が半分になった町でも成立する医療の形を作ることが必要になるのである。

オンライン診療だけでは、地方医療は救えない

未来の医療を語ると、しばしばオンライン診療が万能薬のように登場する。

だが、画面の向こうから腹部を触診することはできない。

採血もできない。傷口を縫うこともできない。息苦しい患者の顔色を見て救急搬送を判断するとき、映像だけでは不足する場合もある。

だから「地方には医師がいなくても、オンライン診療があればよい」という考え方は現実的ではない。

むしろオンライン診療の価値は、医療従事者を完全に不要にすることではなく、少ない医療従事者の能力を広い地域で共有できることにある。

診療所に看護師がいて、血圧、体温、酸素飽和度などを測定し、患者の状態を確認する。その情報を遠隔地にいる医師と共有する。必要なら医師がオンラインで患者と話し、対面診療が必要と判断すれば巡回日を早めたり、中核病院を受診させたりする。

このような仕組みなら、オンライン診療は「医師の代用品」ではなく「距離を縮める道具」になる。

鉄道が町を結んだように、通信回線が診察室を結ぶのである。

ただし、その回線のこちら側には人が必要だ。

30年後の地方医療を支えるのは、派手な人工知能だけではなく、患者の腕に血圧計を巻き、「今日は少し顔色が悪いですね」と気づく人なのだろう。

経営できない診療所を、誰が残すのか

もう一つ避けて通れない問題がある。

採算である。

民間の診療所は医療機関であると同時に事業体でもある。患者が少なくなれば収入も減り、看護師や事務職員の給与、医療機器、建物、光熱費などの固定費が重くなる。

人口数千人の地域で、複数の診療所がすべて独立採算で存続することは難しくなる可能性がある。

ここで発想を変えなければならない。

スーパーなら、客が減り続ければ撤退する。それは企業として合理的な判断である。しかし、その町で最後の診療所が消える場合、同じ論理だけで判断できるだろうか。

医療には市場サービスとしての側面と、社会インフラとしての側面が同時に存在する。

道路を利用する自動車が少なくなったからといって、人口の少ない集落へ通じる道路をただちに撤去するわけではない。消防署も、年間の火災件数だけで採算計算されているわけではない。

30年後の地方診療所にも、同じ議論が必要になる可能性が高い。

一定の人口密度を下回った地域では、民間診療所を市場原理だけで維持するのではなく、公設民営、病院によるサテライト診療所、自治体間共同運営など、地域インフラに近い制度へ移行するところが出てくるだろう。

そう考えると、地方診療所の将来を左右するのは医師数だけではない。

国と自治体が、「医療へのアクセスそのものにどこまで公共的な費用を投入するのか」という政治的な選択でもある。

そして2056年、診療所の玄関は開いているか

2056年のある朝を想像してみる。

人口は現在より少ない。町を歩く人も少ない。

かつて商店だった建物のいくつかは空き家になり、学校は統合されているかもしれない。

それでも、旧役場の近くに小さな診療所がある。

玄関を開けると受付があり、看護師がいる。ただし医師は毎日はいない。月曜日と木曜日は地域の病院から医師が来る。火曜日には循環器の専門医がオンラインで診療する。水曜日には訪問診療の車が山側の集落を回る。患者の検査データは地域の中核病院と共有され、救急時には搬送先もあらかじめ決められている。

今の感覚から見れば、「医師が常駐していない診療所」と映るだろう。

しかし30年後の住民から見れば、それこそが普通の診療所なのかもしれない。

厚生労働省自身も、2040年とその先を見据え、医療機関の連携・再編・集約化、外来・在宅医療、介護との連携、医療従事者の確保、アクセス困難地域への対応を一体として考える方向へ政策を動かしている。現在の制度設計は2056年そのものを予言するものではないが、「すべての医療機関を現在の形のまま残す」のではなく、「地域全体で必要な医療機能をどう残すか」へ政策の焦点が移っていることは明らかである。

だから、地方の診療所は30年後も維持できるのか、という問いへの答えは少し複雑になる。

診療所という建物を一軒ずつ守ろうとするなら、維持できない地域は増えるだろう。

しかし、

住民が必要なときに診察を受け、薬を受け取り、検査を受け、必要なら病院へつながる仕組みを「診療所」と呼ぶのであれば、維持する方法はまだある。

問題は、医療を建物の数で考えるか、人と医療との距離で考えるかである。

人口5000人の町に診療所が三つあることより、診療所が一つしかなくても、すべての住民がそこへ到達でき、そこから必要な医療へ確実につながることのほうが重要になるかもしれない。

地方ではこれから、病院も、診療所も、薬局も、バスも、介護も、それぞれ単独では維持しにくくなる。

だからこそ、それらを別々の制度として眺め続けることも難しくなる。

医療の問題は交通の問題になり、交通の問題は人口配置の問題になり、人口配置の問題は町そのものをどう残すのかという問題へつながっていく。

30年後の地方で最後まで必要とされるものは、立派な建物ではない。

具合が悪くなったとき、「ここへ連絡すれば大丈夫だ」と住民が思える場所である。

かつて、その役割を一人の町医者が担っていた。

2056年には、一人の医師ではなく、一つのネットワークがそれを担っているのかもしれない。

診療所の白い看板は、今と同じ場所には残っていないかもしれない。

それでも、その町から医療までの道が途切れていなければ、地方医療はまだ生きている。

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田んぼがなくなると地域の排水はどう変わるのか

地域の風景から田んぼが減っていくとき、多くの場合は農業や景観の問題として語られます。しかし、水の流れという視点から見ると、田んぼの減少はそれだけでは済みません。田んぼは米を生産する場所であると同時に、大雨が降ったときには雨水を一時的に受け止め、排水路や河川へ流れ込む水の量と時間を調整する空間でもあるからです。

そのため、田んぼが宅地や駐車場、道路などに変わると、同じ雨が降ったとしても地域の排水の仕方は変わります。問題になるのは雨の総量だけではありません。雨が降ってから、どのくらいの時間で、どれだけの水が排水路へ集中するのかという「流れ方」が変化することが重要です。

田んぼは巨大な排水施設ではないが、雨水を一時的に受け止めている

田んぼを見ると、平らな土地に水が張られているだけのように見えます。しかし、水田の周囲には畦があり、降った雨を一定時間その場所にとどめる構造になっています。農林水産省も、水田には雨水を一時的に貯留することで洪水を防止・軽減する機能があると位置付けています。

重要なのは、田んぼが雨を「消している」わけではないということです。降った雨の一部は土壌へ浸透し、一部は水田にとどまり、残った水が排水口から徐々に水路へ流れていきます。したがって、水田の役割を理解するときには、貯水池のように大量の水を永久に蓄える施設と考えるのではなく、雨水が地域の排水系統へ入っていく時間を遅らせる場所と考えた方が実態に近くなります。

農研機構も、水田には雨水を貯めて河川への流れを緩やかにする洪水防止機能があると説明しています。

ここに、田んぼと宅地との大きな違いがあります。

宅地化すると雨水が短時間で排水路へ向かう

田んぼだった土地に住宅が建ち、屋根、道路、駐車場、コンクリートなどの面積が増えると、雨水が地面にとどまる時間は短くなります。

屋根に降った雨は雨どいから側溝へ入り、舗装された道路や駐車場に降った水も地表を流れて排水施設へ向かいます。つまり、田んぼのときには数十分から数時間かけて移動していた水の一部が、宅地化によって比較的短時間で排水路へ流れ込むようになります。

ここで問題になるのが、排水量そのものよりも「ピーク」です。

たとえば、ある地域に同じ量の雨が降ったとしても、雨水が3時間かけて排水路へ入る場合と、1時間程度に集中して流れ込む場合とでは、排水路にかかる負荷は大きく違います。排水路や河川には一度に流すことのできる水量に限界があるため、短時間に流量が集中するほど水位が上がりやすくなります。

農林水産省が紹介している三重県津市の安濃川流域のシミュレーションでも、水田がある場合と、水田がすべて宅地化された場合を比較すると、水田が存在することで降雨後の河川のピーク流量が低下し、そのピークが現れる時刻も遅くなることが確認されています。

この「ピークを低くし、到達を遅らせる」という作用こそ、地域の排水を考えるうえで水田が持つ重要な意味です。

排水路の能力は土地利用の変化に合わせて自動的に増えるわけではない

ここで別の問題が生じます。

田んぼが住宅地になれば、土地から排出される雨水の流れ方は変わります。しかし、地域に昔からある側溝、農業用排水路、小河川などの能力まで自動的に大きくなるわけではありません。

もともと農地が広がっていた地域では、水田や畑が雨水を一時的に受け止めることを前提とした水の流れが長い年月をかけて形成されています。その一部が宅地化されても、下流側にある排水路の幅や河川の断面がそのままであれば、上流から短時間に流れ込む水だけが増えることになります。

すると、大河川が氾濫するほどの豪雨ではなくても、住宅地の側溝から水があふれたり、道路が冠水したり、低い土地に水が集まったりする現象が起こりやすくなります。

これは河川から水があふれる外水氾濫だけではなく、市街地や集落の排水能力を降雨量が上回ることで起こる内水氾濫とも関係しています。

つまり、田んぼの減少を考えるときには、「ここに住宅を何戸建てられるか」という土地利用だけを見るのでは不十分で、その土地から流れ出した水が最終的にどこを通り、どこまで流れていくのかまで考える必要があります。

一枚の田んぼがなくなっただけでは大きな変化が見えない

もっとも、田んぼが一枚宅地になっただけで直ちに洪水が起こるわけではありません。

この点は冷静に考える必要があります。

水田の洪水緩和効果は、土地の傾斜、畦の高さ、土壌、排水口の構造、雨の降り方、河川や排水路の能力などによって変わります。そのため、「田んぼがなくなると必ず洪水になる」と単純化するのは正確ではありません。

問題は、一つ一つの土地利用変更が積み重なることです。

ある田んぼが住宅になり、その隣が店舗になり、さらに別の水田が駐車場になる。それぞれの開発では十分な排水対策が行われていたとしても、流域全体で不浸透面が増え続ければ、最終的に同じ河川や排水路へ集まる水の性質は少しずつ変化していきます。

このため排水問題は、一つの土地だけで完結する問題ではなく、「流域」という単位で考える必要があります。

上流の土地利用が下流の排水を変える

水は行政区域や土地の所有境界を意識して流れるわけではありません。

上流で降った雨は、水路や小河川を通じて下流へ移動します。そのため、上流部で田んぼが減少して雨水が早く流れるようになれば、その影響を受けるのは開発された土地の周辺だけではありません。

数百メートル、場合によっては数キロメートル下流にある集落や市街地で、水位上昇が早くなる可能性があります。

ここに地域の排水問題の難しさがあります。

宅地開発を行った場所では浸水が発生しなくても、その土地から排出された水が集まる下流側で負荷が高まることがあるからです。したがって、個々の宅地について排水設備が整備されていることと、地域全体として排水能力が十分であることは同じではありません。

この考え方は、現在進められている「流域治水」とも共通しています。流域治水とは、河川だけで洪水を処理するのではなく、流域にある水田、農業用施設、都市、住宅地などを含めて水害を減らそうとする考え方です。

農林水産省によれば、2025年3月末時点で全国の一級水系における流域治水プロジェクトの多くに、農地や農業水利施設の活用が位置付けられています。

「田んぼダム」が注目される理由

こうした水田の性質を、より積極的に治水へ利用しようとしているのが「田んぼダム」です。

田んぼダムという名称から大規模な構造物を想像するかもしれませんが、実際には水田の排水口に調整板などを設置し、大雨のときに水が一度に流れ出さないようにする仕組みです。

通常の水田にも雨水を一時的に保持する機能がありますが、排水口から流れる量をさらに調整することで、その機能を強化します。農林水産省は、田んぼダムを水田の雨水貯留機能を利用して周辺地域や下流域の浸水リスクを低下させる取り組みとして推進しています。

農研機構でも、水位調整器によって豪雨時の水田からの排水量を抑え、下流の水位上昇を抑制する研究が行われています。

つまり現在では、田んぼの治水機能は単なる副次的な効果としてではなく、地域の水害対策の一部として意識的に利用されるようになっています。

ただし、耕作放棄地なら同じ機能が続くとは限らない

ここで注意したいのは、「田んぼが残っていればよい」という単純な話でもないことです。

水田の雨水貯留機能は、畦や排水口、水路が維持されていることによって成立しています。

耕作が行われなくなり、畦が崩れ、排水路が土砂や植物で塞がれると、水の流れは変わります。場所によっては雨水を保持する能力が低下することもあれば、反対に排水が悪くなって周囲に水が滞留することもあります。

農林水産省も、水田や農村が持つ多面的機能は農業活動が継続されることで発揮されると説明しています。

したがって、

「水田」

「耕作放棄された水田」

「宅地」

「舗装された駐車場」

では、水の流れ方は同じではありません。

地域の排水を考える場合には、土地利用の名称だけではなく、その土地が現在どのような状態にあり、雨水がどこへ向かって流れているのかを見る必要があります。

田んぼの価値は米の生産額だけでは測れない

人口減少地域では、水田を維持する経済的な意味が問われることがあります。

米の販売収入だけを見れば、条件の悪い小規模農地を維持する合理性が低下する地域もあるでしょう。その結果として耕作放棄や宅地転用が進むこと自体は、経済構造から考えれば不自然ではありません。

しかし、土地利用を地域全体から評価するなら、農産物の生産額だけでは十分ではありません。

水田を失った結果として雨水流出量のピークが高まり、排水路の拡幅、ポンプ設備、調整池などの整備が必要になれば、それまで水田が無償に近い形で担っていた機能を、公共事業によって代替することになります。

もちろん、水田だけですべての洪水を防げるわけではありません。巨大な豪雨に対しては河川改修、排水機場、調整池などの施設整備が必要です。

それでも、地域に水を一時的に置いておける場所が多いほど、下流へ水が集中する速度を抑えることができます。

この意味では田んぼは、農業用地であると同時に、地域の水循環を構成する一つの「余白」でもあります。

人口が減る地域ほど、土地利用と排水を一緒に考える必要がある

人口減少が進む地域では、今後さらに農地の利用方法が変わっていく可能性があります。

農業の担い手が減れば耕作放棄地が増え、一方で交通条件の良い場所では住宅、物流施設、太陽光発電施設などへの転用が進む場合もあります。

このとき重要なのは、開発するか保存するかという二者択一ではありません。

どの土地を宅地化し、どの土地を農地として維持し、どこに雨水を一時的に貯める空間を残すのかという地域全体の配置を考えることです。

水は高い場所から低い場所へ流れます。その単純な物理法則の上に、住宅地、道路、農地、側溝、河川が重なっています。

したがって、土地利用計画と治水計画を別々に考えるほど、将来の排水問題は見えにくくなります。

地域を見るときは「雨が降った後、水はどこへ行くのか」を考える

普段の晴れた日に地域を歩いていても、田んぼが持つ排水上の役割を実感することはほとんどありません。

しかし、大雨が降ったときには土地の性質が一気に表面化します。

田んぼに落ちた雨は一度そこにとどまり、道路に落ちた雨は側溝へ向かい、屋根に落ちた雨は雨どいから排水管へ流れます。そして、それらの水は最終的に地域の水路や河川へ集まっていきます。

だからこそ、地域を分析するときには土地の面積や人口だけではなく、

「雨が降ったら、この水はどこへ行くのか」

という視点を持つことが重要です。

田んぼが減るという変化は、農業が縮小するというだけの出来事ではありません。それまで地域の中に存在していた雨水を一時的に受け止める空間が減り、水が排水路へ到達する速度が変わるという、地域の水循環そのものの変化でもあります。

その影響は一枚の田んぼではほとんど見えないかもしれません。しかし、何十年という時間の中で土地利用の変化が積み重なれば、同じ雨が降っても、かつてとは異なる場所で道路冠水や内水氾濫が起こる可能性があります。

地域の防災を考えるうえで必要なのは、堤防や排水ポンプだけを見ることではありません。

田んぼ、畑、山林、住宅地、道路、排水路、河川がどのようにつながり、水がどの速度で移動しているのか。その全体を一つのシステムとして見ることによって初めて、田んぼがなくなることの意味が見えてきます。

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台風が通り過ぎた翌朝、いつもの道路を車で走ろうとすると、大きな木が道を塞いでいる。幹は道路を横切り、枝は電線に絡み、向こう側へ進むことができない。山間部では珍しくない光景であり、外房のように丘陵、山林、住宅地が入り交じる地域でも十分に起こり得る。

そのとき、多くの人がまず考えるのは、「役所に連絡すれば片づけてもらえるだろう」ということである。

実際、道路を通れない状態のまま放置するわけにはいかない。救急車も消防車も、ごみ収集車も宅配便も通れなくなる。しかし、ここには意外に難しい問題がある。

道路は行政が管理していても、倒れてきた木まで行政のものとは限らないからである。

道路脇の山林から倒れてきた一本の木をたどっていくと、その先には、日本の地方がこれから直面する「土地を持っている人が分からない」という問題が見えてくる。

道路を管理する人と、木を管理する人は同じではない

道路そのものについては、国道、県道、市町村道などによって道路管理者が決まっている。舗装が壊れたり、道路上に障害物があったりすれば、道路管理者が安全な通行を確保する役割を担う。

しかし、道路の横に立っている木が私有地に生えている場合、その木は道路管理者の所有物ではない。

千葉県も、道路上に張り出した樹木や倒木の危険がある樹木について、基本的には土地の所有者や管理者による適切な管理を求めている。千葉市も同様に、私有地から道路にはみ出した樹木については、原則として市が自由に剪定や伐採をできるものではないとしている。

ここに、道路管理の難しさがある。

道路の安全を守らなければならない行政と、樹木を管理すべき土地所有者とが、別の主体なのである。

もちろん、すでに木が道路へ倒れ、完全に通行不能になっているのであれば、状況は変わる。実際、御宿町議会の過去の答弁でも、道路上へ直接倒れて通行不能となった倒木について町が処理した事例が確認できる。一方で、まだ電線にもたれかかっている木については、土地所有者との関係もあり、直ちに処理できるとは限らない状況が説明されていた。

つまり現実の道路管理では、

「誰の木なのか」

という所有権の問題と、

「今すぐ道路を通れるようにしなければならない」

という公共の安全の問題が、同時に存在しているのである。

一本の倒木の向こうに所有者が何人もいる

昔からその土地に住んでいる人が所有する山林なら、話は比較的分かりやすい。

役所が所有者へ連絡し、危険な木の伐採を依頼することができる。

ところが、人口減少地域では、この前提そのものが崩れ始めている。

土地の名義人はすでに亡くなっている。子どもは東京や千葉市に住んでいる。さらにその子どもも土地の存在をほとんど知らない。相続が何世代にもわたれば、一筆の山林に多数の相続人が関係していることもあり得る。

登記簿を見ても、そこに書かれている住所へ手紙を送れば所有者と連絡できるとは限らない。

法務省も、登記簿を調べても所有者が直ちに判明しない土地や、所有者が分かっても所在が分からず連絡できない土地を「所有者不明土地」の問題として位置づけている。こうした土地は公共事業や災害復旧、民間取引などの障害になるため、近年、民法や不動産登記制度の大きな見直しが進められてきた。

倒木問題も、この延長線上にある。

山林そのものは動かない。

土地の所有者が高齢になっても、亡くなっても、相続人が遠くへ移っても、そこには木が生え続ける。

むしろ人が入らなくなれば、木はさらに成長する。

そして何十年か後、管理されなくなった木が道路側へ傾き始める。

人口が減るということは、木が減ることではない。

人間だけが減っていくのである。

「誰も管理しない土地」が道路の安全に影響する

この問題を考えるとき重要なのは、山林や空き地を「所有者だけの問題」と考えないことである。

一本の木が敷地内で倒れるだけなら、影響はその土地の中に収まるかもしれない。しかし道路沿いの土地では、管理不足による影響が土地の境界を越える。

枝が道路へ張り出す。

落ち葉が側溝を塞ぐ。

竹が道路方向へ伸びる。

枯れ木が電線へ倒れかかる。

台風で幹が倒れ、道路そのものを塞ぐ。

土地は私有財産であっても、その管理状態は周囲の公共空間へ影響するのである。

経済学的に考えれば、これは一種の外部性の問題と見ることができる。

土地を管理しないことによる費用を、所有者だけではなく、道路利用者や行政、電力会社、近隣住民が負担するようになるからである。

ある山林を年間数万円かけて管理する人がいなくなった結果、数年後に道路が塞がれ、行政が作業員や重機を手配することになれば、その費用は最終的には社会全体の負担になる。

しかも倒木処理は、普通の草刈りとは違う。

風で折れた木や傾いた木には大きな力がかかっており、切断した瞬間に幹が跳ねたり転がったりする危険がある。千葉県も、風倒木や欠損木の処理について、通常の伐採以上に危険度が高いとして専門事業者への依頼を勧めている。

さらに電線が絡めば、電気事業者との調整も必要になる。

「木を一本切れば終わり」という仕事ではないのである。

法律を変えても、山の木が自動的に切られるわけではない

所有者不明土地の増加に対応するため、日本の民法制度も変わってきた。

2023年4月に施行された改正民法では、隣地から越境してきた枝について、竹木の所有者が分からない場合や所在が分からない場合、あるいは急迫した事情がある場合などには、一定の条件の下で越境された側が枝を切ることができる仕組みが設けられた。国や地方公共団体が所有する道路に隣接地の枝が越境した場合にも、この仕組みを利用できる。

また、所有者そのものが分からない土地については、裁判所が所有者不明土地管理人を選任し、その土地を管理する制度も整備されている。

制度は以前より動きやすくなっている。

しかし、ここで重要なのは、法律上の手段があることと、日常の道路管理が簡単になることは同じではないということである。

道路沿いに危険な木が百本あったとする。

所有者が分からない土地について一つ一つ調査し、必要であれば法的な手続きを取り、伐採業者を確保し、予算を用意するには、人と時間が必要になる。

そして人口減少地域では、その「人」の側も減っていく。

自治体職員も減る。

森林を管理する人も減る。

伐採できる事業者も減る。

地域を知る住民も高齢になる。

問題は土地の所有者がいなくなることだけではない。

土地を調べる人、木を切る人、道路を管理する人まで同時に少なくなっていくことなのである。

山間部より住宅地のほうが難しい場合もある

倒木という言葉から、多くの人は山奥を想像する。

しかし今後深刻になる可能性があるのは、むしろ人家と山林の境界である。

高度経済成長期以降に造成された住宅地の背後に小さな山林が残っている。住宅地の端に細長い雑木林がある。空き家の裏側から竹が伸びてくる。

こうした場所では、一見すると普通の住宅街なのに、土地の所有関係だけは何十年前のままということが起こり得る。

住民は入れ替わっている。

元の地主は亡くなっている。

相続人は地域外にいる。

しかし木だけはそこに残っている。

台風が来るまでは何も起きないため、危険が目に見えにくい。

これが道路や水道管の老朽化とは違うところである。

道路なら舗装のひび割れが見える。

橋なら点検できる。

水道管なら自治体が資産として把握している。

ところが道路脇の私有林にある一本一本の木まで、自治体が公共インフラとして管理しているわけではない。

そのため危険が顕在化するのは、枝が道路へ出たときか、木が傾いたときか、実際に倒れたときになる。

一本の木のために道路が使えなくなる

地方の道路網には、都市部とは異なる弱点がある。

迂回路が少ないことである。

都市部なら一本の道路が通れなくなっても、数百メートル先の別の道路へ回れる場合が多い。しかし山間部や海岸と丘陵に挟まれた地域では、一つの道路が生活道路そのものになっていることがある。

倒木一本で、その先にある十軒、二十軒の住宅が事実上孤立する。

普段なら数分で行ける病院への道が、大きく迂回しなければならなくなる。

介護サービスの車が入れない。

救急車が通れない。

停電しているのに電力会社の作業車も現場へ入れない。

このとき、倒木はもはや「山林管理」の問題ではない。

地域インフラの問題になる。

だからこそ、千葉市では2026年度から、災害時の緊急輸送道路を守る目的で、沿道民有地の危険な樹木について所有者による伐採を支援する制度も設けている。私有地の樹木を行政がすべて直接管理するのではなく、所有者による事前管理を支援して、道路閉塞そのものを防ごうという考え方である。

これは今後の地方道路管理を考えるうえで重要な方向性かもしれない。

倒れてから片づけるより、倒れる前に切るほうが合理的だからである。

本当の問題は「倒木処理費」ではなく「予防管理費」である

ここで地域全体を数理的に考えてみる。

仮にある町に、道路沿いの管理が必要な民有林や空き地が1000か所あるとする。

現在はそのうち900か所で所有者が管理しているので、行政が直接問題にする土地は100か所しかない。

ところが30年後、人口減少と相続によって、実質的に管理されない土地が300か所、400か所へ増えたらどうなるだろう。

道路延長はほとんど変わらない。

山林もなくならない。

木も生え続ける。

ところが管理する人だけが減る。

つまり一人の職員、一社の伐採業者、一つの自治体が対応しなければならない土地の量が増えていく。

これは、これまで地域分析ブログで考えてきた道路、水道、水路、側溝、草刈りと同じ構造である。

人口が半分になったからといって、道路が半分になるわけではない。

そして人口が半分になっても、道路沿いの木が半分になるわけでもない。

むしろ放置される木は増える可能性がある。

地方インフラ問題の本質は、施設が古くなることだけではない。

施設や土地を管理する人間の密度が低下することにある。

「誰の土地か分からない」を例外扱いできない時代

これまでは、所有者不明の土地は特殊な土地と考えることができた。

少数ならば、役所が時間をかけて調査することもできる。

近所の人に聞けば、昔の所有者を知っている人もいた。

しかし人口減少と高齢化がさらに進めば、事情は変わる。

「昔は誰の山だったか」を知っている人自身がいなくなる。

地域外の相続人にとっては、固定資産税がほとんどかからない小さな山林を所有しているという認識さえないかもしれない。

そうなると所有者不明土地は、例外ではなく地域管理の前提条件になってくる。

千葉地方法務局でも、所有者の氏名や住所が正常に登記されていない「表題部所有者不明土地」について所有者探索が行われている。所有者不明という問題は、遠い山村だけに存在する話ではない。

土地制度は、「誰かが土地を所有し、その人が管理する」という前提で成り立ってきた。

しかしこれからの地方では、

所有者はいるが地域にいない。

相続人はいるが土地を知らない。

所有者は分かるが管理する意思がない。

管理したくても高齢でできない。

という土地が増えていく。

法律上の所有者と、現実に土地を管理できる人との距離が広がっていくのである。

30年後、道路管理は道路の中だけを見ていてはできない

これからの道路行政は、舗装や橋だけを管理していれば成立するものではなくなるのかもしれない。

道路に隣接する山林。

空き家。

竹林。

耕作放棄地。

崖。

水路。

こうした周辺土地の状態が道路の安全を左右する。

しかし、それらすべてを行政所有にすることは現実的ではない。

だから将来必要になるのは、行政がすべてを直接管理する仕組みではなく、「所有者が管理できなくなった土地を、地域としてどう管理へ戻すか」という仕組みなのだろう。

所有者を早い段階で把握する。

危険木を倒れる前に発見する。

所有者だけに高額な伐採費を背負わせることが合理的でなければ、一定の公的支援を行う。

それでも所有者が分からない土地については、現在整備されている管理制度を使って対応できる体制をつくる。

そして何より、道路が塞がれてから初めて一本の木の存在に気づくのではなく、地域全体の危険箇所を平常時から見ておく。

人口が多かった時代には、土地所有者、農家、自治会、森林業者、近隣住民が日常的に行っていた小さな管理が、結果として道路を守っていた。

それが見えにくかったのは、行政サービスではなく、人々の生活の中で自然に行われていたからである。

人口減少によって失われるのは、人の数だけではない。

そうした「誰かがついでに見ていた」という地域の管理機能そのものなのである。

倒木一本から見える人口減少社会

道路に倒れている一本の木だけを見れば、チェーンソーで切り、道路脇へ移動させれば問題は解決したように見える。

しかし、その木がなぜそこまで放置されていたのかを考えると話は変わる。

土地の所有者が高齢になったのかもしれない。

相続後、誰も山へ入らなくなったのかもしれない。

所有者そのものが分からなくなっているのかもしれない。

近所に伐採を頼める人がいなくなったのかもしれない。

そして行政もまた、限られた人数と予算で長い道路を維持している。

倒木は突発的な自然災害に見える。

しかし人口減少地域では、その背後に長い時間をかけて進んできた「管理する人の減少」がある。

30年後も地方の道路を安全に使い続けられるかどうかは、道路そのものを何キロ補修できるかだけで決まるのではない。

道路の両側にある土地を誰が見ているのか。

危険な木を誰が見つけるのか。

所有者を誰が探すのか。

そして、倒れる前に誰が切るのか。

道路を維持するという言葉の中には、これからはそこまで含めて考える必要がある。

人口が減っても、山は残る。

道路も残る。

木も伸び続ける。

減っていくのは、それを見て、直し、守る人間のほうなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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外房の住宅地で暮らしていると、野生動物は必ずしも「山の中にいるもの」ではない。夜、自動車で細い県道や市町村道を走っていると道路脇に動物の姿が見えたり、朝になって庭を見ると植えていた花が食べられていたり、畑の一角が掘り返されていたりすることがある。キョンの独特な鳴き声を聞いたことがある人も少なくないだろう。こうした出来事は、一度だけなら自然の豊かな地域で暮らす面白さの一つとして受け止めることもできる。しかし、それが日常の風景になり、しかも住民の高齢化が進んでいくと、獣害は単に農作物を守るための問題ではなくなる。

千葉県では、特定外来生物であるキョンの生息域が長期的に拡大してきた。県が2026年にまとめた第3次千葉県キョン防除実施計画では、県内の推定生息数は2024年度時点の中央値で約9万4千頭とされ、2006年度の約1万3千頭から大幅に増加している。もっとも、外房のすべての市町村で同じように増えているわけではなく、近年は勝浦市や御宿町で推定生息数が減少し、いすみ市でも横ばいまたは減少傾向がみられる一方、大多喜町や鴨川市などでは依然として高い水準にある。したがって、「外房ではどこでもキョンが増え続けている」と単純化するのは正確ではない。それでも、房総半島全体として見れば、野生動物と人間の生活圏が重なる地域が広く存在していることは間違いない。

ここで考えてみたいのは、野生動物が何頭いるかという問題だけではない。もっと生活に近いところで、「その地域で80歳になっても普通に暮らせるのか」という問いである。

獣害は農家だけの問題ではなくなっている

獣害という言葉から、多くの人が最初に思い浮かべるのは田畑の被害だろう。イノシシに稲や野菜を荒らされたり、キョンに農作物を食べられたりする被害は確かに大きな問題である。しかし、住宅地まで野生動物が出てくるようになると、被害の意味は変わってくる。千葉県もキョンについて、農作物だけでなく花壇や植木への食害、鳴き声などによる生活環境被害を防除計画の対象としている。つまり行政の側でも、獣害はすでに農業だけに閉じた問題ではなく、住民の日常生活に関わる問題として認識されている。

たとえば、高齢者が一人で暮らしている家を考えてみる。庭には長年育ててきた花や低木があり、朝には庭へ出て水をやり、少し草を抜くことが生活習慣になっている。その庭にキョンが繰り返し入り込み、植木や花を食べるようになれば、対策として柵を設ける必要が出てくる。しかし柵は一度設置すれば終わりではない。草が絡めば刈らなければならず、傾けば直し、破損すれば交換する必要がある。若いうちは容易にできた作業でも、80歳を超えて脚立を使ったり、杭を打ったり、斜面の草を刈ったりすることは次第に難しくなる。

すると獣害は、花が食べられたという被害だけではなく、その住宅を維持するために必要な労働量を増やす問題へと変わる。地方の戸建住宅で高齢者が暮らし続けるためには、屋根や外壁を修理する人、水道や電気を直す人、庭木を剪定する人が必要になるが、野生動物が増えれば、そこに「動物から敷地を守る」という新しい管理作業まで加わることになる。獣害を生活インフラとして考えるとは、まさにこの部分を見ることである。

「怖いから外へ出ない」という被害は統計には現れにくい

イノシシの場合は、さらに別の問題がある。キョンと違い、大型のイノシシに至近距離で遭遇すれば人身事故につながる可能性がある。そのため、農作物にどれだけ被害が出たかという数字だけでは、住民が感じている生活上の負担を十分に測ることができない。

冬の夕方を想像すると分かりやすい。午後5時を過ぎれば、外房の住宅地でもすでに暗い。80代の一人暮らしの人が、ごみを出すために家から100メートル先の集積所まで歩くとする。道路は舗装されており、集積所もきちんと設置されている。それだけを見れば、この地区の生活インフラには特に問題がないように見える。しかし近くの空き地や竹やぶにイノシシが出ることを知っていたら、その100メートルの意味はまったく違ってくる。

実際にイノシシと遭遇する確率が低かったとしても、「暗くなってから歩くのは怖い」と感じれば、その人は外出時間を変えるようになるかもしれない。夕方の散歩をやめ、日が暮れてからはごみ集積所まで行かず、近所の人の家を訪ねることも減る可能性がある。その一つ一つは小さな変化だが、積み重なれば高齢者の生活圏を確実に狭くしていく。

しかも、この種の影響は農作物被害額にも人身事故件数にも表れない。「怖いから歩かなくなった」という行動変化は、通常の獣害統計では数えられないからである。しかし高齢社会を考えるなら、この見えない被害の方が重要になる可能性がある。高齢者にとって、毎日安心して家の周囲を歩けることは、道路や街灯と同じくらい基本的な生活条件だからである。

人が減ると、野生動物が増えるというより「境界」が消えていく

では、なぜ野生動物が住宅地の近くまで現れるようになるのだろうか。単純に動物の数だけで説明すると、地域で起きていることの半分しか見えない。

地方では人口減少と高齢化によって、人が日常的に管理してきた土地が少しずつ減っている。田畑を耕す人がいなくなり、農地が草地に変わる。山際の草刈りが行われなくなり、低木や竹が伸びる。空き家の庭は荒れ、かつて人が頻繁に歩いていた農道にも人が入らなくなる。人間から見れば「使われなくなった土地」だが、野生動物から見れば、住宅地の近くまで身を隠しながら移動できる場所が増えたことになる。

ここで重要なのは、山と住宅地の間には本来、はっきりした線が引かれているわけではないということである。その間には田畑があり、農道があり、草刈りされた斜面があり、人が毎日のように出入りする空間があった。その人間の活動そのものが、結果として野生動物と住宅地との間に一定の距離をつくっていた。ところが人口が減り、その活動が薄くなると、地図上では何も変わっていなくても、実際の土地利用は少しずつ野生動物にとって入りやすい環境へ変化していく。

したがって、外房で起きている獣害を「自然が増えた」と表現するだけでは本質を捉えにくい。むしろ「人間が管理していた空間が減った」と考えた方が、人口減少との関係を理解しやすい。

人口が半分になっても、管理する土地は半分にならない

この問題には、人口減少地域のインフラ問題とよく似た構造がある。

人口が1万人から5千人に減ったからといって、道路の延長が半分になるわけではない。水道管も橋も側溝も半分にはならない。そのため人口一人当たりで支えなければならないインフラ量は増えていく。同じことが土地の管理にも起きる。

仮に、ある地域に100人の住民がおり、その周囲に100ヘクタールの農地や山林、空き地が存在すると考えてみる。実際には住民全員が均等に土地を管理するわけではないが、地域全体の管理能力という意味では、住民一人当たりに対応する土地は1ヘクタールである。人口が50人に減っても土地が50ヘクタールになるわけではないため、一人当たりの土地は2ヘクタールになる。さらに25人まで減れば4ヘクタールになる。

これは単なる計算上の話ではない。草を刈る人、田畑を耕す人、山林を見回る人、倒木を処理する人、罠を管理する人といった地域の担い手が減る一方で、管理対象となる土地の面積はほとんど変わらないという現実を表している。

人口減少とは、消費者や納税者が減ることだけではない。地域を日々管理してきた「作業する人」が減ることでもある。獣害は、その変化が目に見える形で現れた現象の一つなのである。

捕獲を増やせば解決するのか

もちろん、イノシシやキョンが増えれば捕獲は必要になる。千葉県もイノシシの捕獲を続けており、キョンについても防除の強化が進められている。しかし、「捕獲数を増やせばよい」と言うのは簡単でも、実際の捕獲には人手が必要になる。罠を設置し、定期的に確認し、捕獲した個体を処理し、安全管理を行い、必要な手続きを進めなければならない。その仕事は、野生動物が増えれば自動的に増えてくれるものではない。

ここにも人口減少の矛盾がある。獣害が深刻化しやすい地域ほど人口密度が低下している一方、その獣害に対応するためには一定数の人間が必要になるからである。捕獲する人が高齢化し、農家が減り、地域活動を担う人が少なくなれば、動物側の問題より先に、人間側の管理能力が限界を迎える可能性もある。

獣害対策を持続させるためには、「何頭捕るか」だけではなく、「誰が10年後も捕るのか」という問いを同時に考えなければならない。

自動車があっても獣害からは逃れられない

外房では、自動車を使えば野生動物の問題をある程度避けられるようにも思える。徒歩で暗い道を歩かなければイノシシに出会う機会は減るし、買い物や通院も車で移動すればよい。しかし車社会には車社会なりの獣害がある。

夜間、道路脇の草むらや林から動物が突然飛び出してくれば、衝突そのものだけでなく、それを避けようとする急ブレーキや急ハンドルが事故につながる可能性がある。特に外房には、街路灯が少なく、山林や田畑の間を抜ける道路が少なくない。運転者が高齢になり、夜間視力や反応速度が低下していけば、野生動物との遭遇は交通安全の問題としても無視できなくなる。

これは「獣害」と「高齢者の運転」という二つの別々の問題ではない。自動車に依存しなければ生活しにくい地域で、高齢者の運転と野生動物の出没が同時に存在すれば、その二つは一つの生活問題として重なってくる。

道路が舗装されているだけでは、移動インフラが整っているとは言えない。高齢者が安心して運転できることまで含めて考えるなら、道路周辺の草刈り、動物の出没情報、捕獲、街灯なども広い意味で交通インフラの一部になってくる。

高齢者が暮らせる町とは、動物のいない町ではない

ここまで考えると、イノシシやキョンのいる地域では高齢者が暮らせないようにも見える。しかし、そう結論づけるのは適切ではない。

外房の魅力は、そもそも都市とは違う自然環境にある。海があり、里山があり、田畑があり、人口密度が低く、住宅の周囲にも緑が残っている。その環境から野生動物だけを完全に切り離すことは現実的ではないし、すべての野生動物が人間にとって危険な存在というわけでもない。

問題は、野生動物がいることではなく、人間との距離を地域として管理できるかどうかである。

住宅地周辺の草地をどの程度管理するのか、耕作放棄地や空き家をどう扱うのか、個人では負担の大きい防護柵をどう支援するのか、捕獲を担う人をどう確保するのか、高齢者が夜間に歩かなくてもごみを出したり移動したりできる仕組みを作れるのか。こうして考えると、獣害対策は農林行政だけの問題ではなく、福祉、住宅、交通、防災、空き家対策、土地管理と密接につながっていることが分かる。

だからこそ、獣害を「生活インフラ」として見る必要がある。

「動物が増えた町」の裏側にあるもの

人口減少について語るとき、私たちは学校がなくなる、スーパーがなくなる、病院が遠くなるといった「施設が減る問題」を考えがちである。しかし地方の暮らしを支えているのは、目に見える施設だけではない。

田畑を耕す人がいること、道路脇の草を刈る人がいること、山際を見回る人がいること、空き家の庭を管理する人がいること、野生動物を捕獲する人がいること。そうした無数の作業によって、人間が安心して暮らせる範囲は保たれてきた。

ところが人口が減ると、それらの仕事も少しずつ担い手を失う。田畑が荒れ、山林と住宅地との境界が曖昧になり、野生動物が人の暮らす場所まで近づいてくる。それを見て私たちは「イノシシが増えた」「キョンが増えた」と言う。しかし、現象を逆側から見れば、「地域を管理する人間が減った」と表現することもできる。

これは、外房の将来を考えるうえで非常に重要な違いである。

では、外房の獣害をどう解決すればよいのか

ここまでの議論から考えると、解決策を「捕獲数を増やす」という一点だけに求めるのは十分ではない。もちろん個体数管理は必要であり、イノシシやキョンの生息数を適正な水準に抑えることは対策の中心になる。しかし、それだけで住宅地への侵入がなくなるとは限らない。獣害が人口減少、耕作放棄地、空き家、草地管理、捕獲者不足など複数の要因によって発生しているのであれば、解決策も複数の仕組みを組み合わせる必要がある。

まず考えられるのは、地域全体を一様に守ろうとするのではなく、「人間が優先的に守る区域」を明確にすることである。人口が減少していく地域で、すべての山林、農地、空き地をかつてと同じ密度で管理することは現実的ではない。そこで住宅地、通学路、医療施設周辺、ごみ集積所、主要道路など、人間の日常生活に直接関係する場所を重点管理区域として位置づけ、その周囲の草刈りや藪の除去、侵入防止設備、捕獲を集中させる方が合理的である。

この考え方は、人口減少時代のインフラ維持とよく似ている。利用者が減る中で、すべての道路や公共施設を同じ水準で維持することが難しくなれば、重要度に応じて維持管理の優先順位をつけざるを得ない。獣害についても、人間と野生動物の境界をどこに設定し、どこを集中的に守るのかという「土地利用の設計」が必要になってくる。

次に必要なのは、個人宅の問題を個人だけに負わせない仕組みである。高齢者世帯が自費で防護柵を設置し、その後何年も自分で維持するという方法には限界がある。とりわけ高齢単身世帯が増えれば、「対策方法は分かっているが自分では作業できない」という世帯も増えるだろう。行政が資材費だけを補助する仕組みでは、資材を運び、設置し、修理する労働力の問題までは解決しない。

そこで、地域単位で防護設備を整備したり、草刈りや柵の補修を請け負う仕組みを作ったりする必要がある。農業者向けだった獣害対策を、高齢者住宅や住宅地の生活環境対策へ広げていく発想である。これは福祉政策との接点も大きい。庭の草刈りやごみ出しと同じように、獣害対策も高齢者の在宅生活を支えるサービスの一部として考える余地がある。

さらに重要なのが、捕獲する人を地域の善意だけに依存しないことである。これまで地域の鳥獣対策は、猟友会や農家など、地域に詳しい人々の協力によって支えられてきた。しかし、その担い手自身が高齢化しているのであれば、今後も同じ方法が続くとは限らない。自治体が捕獲を専門的な仕事として位置づけ、報酬や装備、研修、安全管理を整えることや、複数の市町村が共同で専門人材を確保することも検討する必要がある。

特に外房では、一つの市町村だけで対策しても動物は行政境界を越えて移動する。市町村境は人間が決めた線であって、イノシシやキョンには意味がない。そのため、生息域を単位とした広域的な対策が合理的である。隣接自治体がそれぞれ別々に捕獲計画を立てるだけでなく、出没情報や捕獲データを共有し、地域全体としてどの方向へ個体群が移動しているのかを把握する必要がある。

道路についても同じ考え方ができる。野生動物との衝突が繰り返される場所が分かれば、道路脇の草木を重点的に刈り、見通しを確保し、注意喚起を強化することができる。高齢者が多い地域では、単に「動物注意」の標識を設置するだけではなく、出没しやすい時間帯や地点を地域住民に伝える仕組みも重要になる。

技術を利用する余地もある。センサーやカメラで出没状況を把握し、その情報を捕獲計画に利用すれば、人が闇雲に山林を見回るより効率的になる可能性がある。ただし、技術を導入すれば人手が不要になるわけではない。カメラの設置や保守、データの確認、捕獲後の処理には依然として人が必要であり、技術はあくまで限られた人員を効率的に使うための道具として考えるべきだろう。

解決の鍵は「動物を減らすこと」と「人間側の管理能力を維持すること」

以上を整理すると、外房の獣害対策には二つの方向が必要になる。一つは捕獲や侵入防止によって野生動物側の圧力を下げることであり、もう一つは草刈り、土地管理、道路管理、住宅支援などによって人間側の管理能力を維持することである。

前者だけを進めれば、捕獲を続ける人が不足したときに対策が立ち行かなくなる。後者だけを進めても、生息数が高いままなら住宅地への侵入を完全には防げない。したがって、獣害対策を長期的に成立させるためには、この二つを同時に進めなければならない。

さらに人口減少を前提にするなら、「昔と同じ状態へ戻す」ことを目標にするのも現実的ではないだろう。かつて農家が多く、田畑が広く耕され、山際まで人が頻繁に入っていた時代の土地管理を、そのまま少ない人口で再現することは難しい。必要なのは、人口が減った後でも維持できる新しい境界の作り方である。

住宅地の周囲は重点的に管理し、その外側では自然への回帰をある程度受け入れる。高齢者が暮らす区域では行政や地域による管理を厚くし、捕獲については専門人材を広域的に配置する。このように、人間が守る場所と自然に委ねる場所を意識的に分けていく発想が、人口減少時代には必要になるのかもしれない。

30年後にも「普通に外へ出られる町」であるために

水道が出ること、電気が使えること、道路があること、車でスーパーまで行けることは、地方生活の基本的な条件である。しかし、それだけで高齢者が安心して暮らせるとは限らない。家の周囲を普通に歩けること、庭の管理が極端な負担にならないこと、夜の道路をある程度安心して走れること、野生動物が住宅地まで入り込んだときに対応する人が地域にいることもまた、生活を成立させる条件だからである。

外房の30年後を考えるとき、問うべきなのは「イノシシやキョンを何頭減らせるか」だけではない。人口が減り、高齢者が増え、農地や山林を管理する人が少なくなっていく中で、人間と野生動物との間に存在してきた境界を、誰が、どの範囲まで、どのような費用と仕組みで維持するのかという問題である。

その答えは、野生動物を完全に排除することでも、昔の里山へそのまま戻すことでもないだろう。限られた人員と財源の中で、住宅地や生活道路など守るべき場所を明確にし、捕獲、土地管理、高齢者支援、交通安全を一つの政策として組み合わせていくことにある。

獣害を生活インフラとして考えるということは、野生動物の問題を「山の問題」から「町の暮らしの問題」へ移すことである。そして高齢者が30年後にも、玄関を開けて庭へ出て、近所を歩き、夜には安心して家へ戻れる地域を残せるかどうかは、道路や水道を維持することと同じように、これからの外房が考えなければならない生活基盤の一つなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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停電という言葉から、多くの人が最初に思い浮かべるのは「照明がつかなくなること」かもしれません。しかし、現在の住宅で電気が担っている役割は照明だけではありません。冷蔵庫、エアコン、給湯器、調理器具、電話、インターネット、給水ポンプ、医療機器まで、生活のさまざまな機能が電気を前提として組み立てられています。

とりわけ外房のように、高齢者世帯が多く、自動車への依存度が高く、住宅が広い範囲に分散している地域では、24時間の停電が単なる「不便」では終わらない可能性があります。

2019年9月の令和元年房総半島台風では、千葉県内で最大64万1千軒という大規模停電が発生し、それに伴って広範囲の断水も起きました。千葉県はその後の検証で、長期間の停電だけでなく、通信遮断や断水が同時に発生したことを重要な教訓として挙げています。つまり外房で考えるべきなのは、「電気が24時間来なかったらどうするか」だけではありません。電気を入口として、水、通信、食事、医療、移動という生活機能がどこまで連鎖的に失われるかを考える必要があります。

停電直後は、まだ「少し不便」なだけに見える

停電して最初の数十分であれば、多くの住宅ではそれほど深刻な状況には見えません。

昼間なら室内は明るく、水道も出る住宅があります。スマートフォンにはまだ十分な電池が残っています。冷蔵庫も扉を閉めていれば庫内温度はすぐには上昇しません。

この段階では、「そのうち復旧するだろう」と考える人も多いでしょう。

しかし、この判断が難しいところです。

普通の停電であれば数分から数時間で復旧することもありますが、台風によって電柱、電線、倒木などが広範囲に被害を受けた場合には事情が変わります。令和元年房総半島台風では倒木や飛来物が電線に接触し、大規模で長期間の停電が発生しました。経済産業省による検証でも、広い範囲に多数の事故地点が存在したため、被害全体を把握すること自体が容易ではなかったことが示されています。

したがって、外房で停電が発生したとき、「何時間で復旧するのか」が住民には分からないということ自体が、一つのリスクになります。

数時間たつと「電気がない」から「生活機能がない」に変わっていく

停電が数時間続くと、問題の性質が変わってきます。

夏なら最も早く深刻化するのが室温です。エアコンも扇風機も使えません。高齢者の場合、暑さを感じる感覚や体温調節機能が若い世代より低下している場合があるため、暑い室内に長時間とどまることは単なる不快感では済まなくなります。

冬にも別の問題があります。エアコン暖房は当然止まり、石油ファンヒーターも電気を必要とする機種が一般的です。ガスや灯油が家にあったとしても、それだけで住宅の暖房や給湯が維持できるとは限りません。

ここには、現代住宅の興味深い特徴があります。

エネルギー源そのものが電気でなくても、機器を制御するために電気が必要なのです。

ガス給湯器であっても制御や点火には電源が必要なものがあり、電気が止まればお湯が出なくなる場合があります。つまり、「うちはオール電化ではないから大丈夫」という単純な問題ではありません。

水道があるのに、水が出ない住宅もある

さらに注意したいのが水です。

水道管そのものに異常がなくても、住宅や建物の給水設備が電気に依存していれば、停電によって蛇口から水が出なくなる場合があります。

国土交通省も、増圧給水ポンプなどを使用している建物では、自家発電設備がなければ停電によって給水できなくなる場合があるとしています。実際、過去の災害では停電によるポンプ停止によって、建物そのものが浸水していなくても給水設備が使えなくなる事例が問題となりました。

外房では、これにもう一つの問題が加わります。

住宅によっては井戸を利用しています。井戸水は水道本管が断水しても利用できるという強みがありますが、電動ポンプで汲み上げている井戸なら停電時には水を取り出せません。

水が止まれば、飲み水だけの問題ではありません。

手を洗えない。食器を洗えない。トイレを流しにくくなる。入浴できない。

停電から数時間しかたっていないのに、住宅の衛生環境まで変わり始める可能性があります。

半日を過ぎると冷蔵庫が「食品保管庫」ではなくなってくる

停電が長期化すると、次に問題になるのが食料です。

高齢者世帯では、毎日スーパーへ行くのではなく、数日分の肉、魚、牛乳、総菜などを冷蔵庫に保管している家庭も珍しくありません。しかし冷蔵庫は電気がなければ冷却を続けられません。

厚生労働省は、家庭で食品を保存するときの目安として冷蔵庫を10℃以下、冷凍庫をマイナス15℃以下に維持することを示しています。また、災害時にはライフラインの寸断によって食品を低温保存できなくなり、食中毒が発生しやすくなると注意を呼びかけています。

重要なのは、「停電から何時間たったらすべて捨てる」という単純な時間だけで判断できないことです。

停電前の庫内温度、外気温、冷蔵庫の性能、食品の量、扉を何回開けたかによって状態は変わります。厚生労働省も停電時には冷蔵庫などの扉の開閉を控え、庫内温度への影響を抑えることを求めています。

つまり停電時には、「冷蔵庫に食べ物がある」ことと「安全に食べられる食べ物がある」ことが次第に別の意味になっていきます。

特に高齢者の場合、食中毒によって体調を崩したときの影響が大きくなる可能性があります。食料備蓄を考える場合には、冷蔵庫の中身だけではなく、電気も水も使わなくても食べられる食品を別に確保しているかどうかが重要になります。

12時間を超える頃から、スマートフォンも無限には使えない

現在の災害対策ではスマートフォンが重要な情報源になっています。

停電情報を見る。自治体からの防災情報を確認する。家族と連絡する。天気予報を見る。地図を見る。場合によっては懐中電灯の代わりにも使う。

ところが、スマートフォンそのものも電気で動いています。

停電直後に電池が100%残っていたとしても、長時間使えば当然減っていきます。停電情報を何度も確認し、家族に連絡し、画面を点灯させ続ければ消耗はさらに早くなります。

ここで問題になるのは単に「スマートフォンの充電がなくなる」ということではありません。

高齢者が一人で暮らしている場合、スマートフォンが使えなくなることによって、家族との連絡手段、行政からの情報、救援を求める手段を同時に失う可能性があることです。

令和元年房総半島台風では、停電とともに通信障害も長期化しました。千葉県の検証では、社会福祉施設との通信が途絶えたため、安否確認や必要な支援内容の把握に数日を要した事例も記録されています。

これは非常に重要な教訓です。

災害時には、「電話を持っているか」ではなく、「電話を使える状態が何時間続くか」を考えなければなりません。

在宅医療を受ける人にとっては、停電の意味がまったく違う

高齢者住宅の問題を考えるとき、最も慎重に扱う必要があるのが在宅医療です。

家庭で人工呼吸器、酸素濃縮装置、吸引器などの電気を必要とする医療機器を使用している人にとって、停電は生活上の不便ではなく、医療そのものに影響します。

厚生労働省は過去の大規模停電を受け、人工呼吸器の内部バッテリーの持続時間、外部バッテリーの準備、酸素濃縮装置利用者への酸素ボンベの確保、停電時の連絡体制などを事前に確認するよう医療機関などに求めています。

したがって、在宅医療機器を使用している家庭では、「停電したらどうするか」を災害発生後に考えるのでは遅い場合があります。

何時間バッテリーが持つのか。予備電源をどうするのか。停電が長期化した場合にはどこへ移動するのか。誰に連絡するのか。

これらがあらかじめ決められているかどうかで、同じ24時間でも意味は大きく変わります。

24時間後に見えてくるのは「停電」ではなく地域の構造である

そして停電が丸一日続いたとします。

家の中は暗い。しかし本当に重要なのは暗さではありません。

夏なら室温が問題になり、冬なら暖房が問題になります。冷蔵庫の食品は状態を確認しなければならなくなり、水が出ない住宅では衛生環境が悪化します。スマートフォンの電池も減っています。在宅医療機器を使用する世帯では電源確保が切迫した問題になります。

さらに外房では、ここから地域特有の問題が現れます。

近くに徒歩で行ける店がない。高齢者が車を運転できなければ水や食料を取りに行けない。道路が倒木などで通れなければ家族も簡単には来られない。給油所そのものが停電していれば、車があっても燃料を補給できない場合があります。

つまり、一戸の住宅の停電が地域全体の停電になった瞬間、「自分の家だけ準備していればよい」という考え方にも限界が生じます。

住宅、店舗、通信、医療、給油、交通が同じ電力網と道路網の上に存在しているからです。

外房では「24時間自立できる家」という考え方が必要になる

これまで住宅を評価するときには、広さ、価格、日当たり、駅までの距離、病院までの距離などが重視されてきました。

しかし、高齢化と災害を前提に外房で長く暮らすのであれば、別の評価軸を加える必要があるのではないでしょうか。

それは、その住宅が外部からの供給を失っても、一定時間生活を継続できるかという「住宅の自立性」です。

飲料水がある。常温保存できる食料がある。スマートフォンを充電できる。夜間の照明がある。暑さや寒さを逃れる方法がある。医療機器を使用しているなら予備電源と避難先が決まっている。

重要なのは、これらを大量に買いそろえることではありません。

その家で暮らしている人が「電気が止まったとき、何が止まるのか」を一度調べておくことです。

水道の蛇口は停電時にも使えるのか。井戸ならポンプはどうなるのか。給湯器は使えるのか。固定電話は停電時にも使える方式なのか。スマートフォンを何回充電できるのか。冷暖房がなくなった場合、どこへ移動できるのか。

住宅ごとに答えは違います。

だからこそ、防災用品の一般的なリストよりも、自分の住宅について「電気を切ったら何が使えなくなるか」を調べる方が実践的です。

高齢社会では「復旧まで待つ」という防災だけでは足りない

令和元年房総半島台風が示したのは、巨大災害だけが問題なのではありません。

電線に倒木や飛来物が接触し、地域の電力供給が長期間失われる。それだけで、断水、通信障害、福祉施設への連絡困難などが連鎖して発生しました。千葉県はこの経験を受け、現在も台風接近前の倒木や飛来物への対策を呼びかけています。

人口が多く、店舗や医療機関が近く、徒歩でも移動できる都市部と、住宅が分散し、自動車移動を前提としている外房では、同じ24時間の停電でも影響は同じではありません。

そして、高齢者にとっての24時間と若い世代にとっての24時間も同じではありません。

重い水を運ぶことができるか。暑い住宅から別の場所へ移動できるか。倒木のある道路を迂回して運転できるか。スマートフォンだけで行政情報を得られるか。避難所まで自力で行けるか。

電力会社が何時間で電気を復旧できるかだけでは、高齢社会の停電問題を説明できないのです。

外房でこれから必要になるのは、「停電しない地域」を期待することだけではなく、「停電しても一定時間は暮らしを維持できる地域」をつくるという考え方ではないでしょうか。

停電から24時間。

そのとき問われているのは、冷蔵庫や照明が使えるかどうかだけではありません。

水、食料、通信、医療、移動という生活を構成する機能が、一人の高齢者の周囲にどれだけ残っているのか。

24時間の停電は、普段は見えない外房の生活基盤を一気に表面化させる出来事なのです。

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