地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

いすみ市・勝浦市で考える「車のない老後」の家計

運転免許証を返納した日から、ガソリン代はかからなくなる。自動車税も、車検も、任意保険も、タイヤ交換も、やがて家計から消えていく。

それだけを見れば、車を手放した老後はずいぶん身軽になるように思える。しかし、暮らしから一緒に消えてくれるわけではないものがある。それが「移動」である。

冷蔵庫の牛乳がなくなれば買い物へ行かなければならず、薬が切れれば病院へ行かなければならない。銀行にも市役所にも美容院にも行く。ときには駅まで出て、少し遠くの病院へ向かうこともあるだろう。

自分の車を持っていた頃には、こうした一回一回の移動に値札は付いていなかった。もちろん実際にはガソリンも減っていたし、車そのものも少しずつ消耗していた。それでも、スーパーへ出掛けるたびに「今日は往復いくら」と財布からお金を取り出すわけではない。

ところが免許を返納すると、それまで自動車保有費の中に埋もれていた「移動そのもの」に、200円、300円、500円、あるいは2,000円を超える価格が見えるようになる。

だから免許返納を考えるとき、本当に知りたい数字は「タクシーは高いのか」ではない。

75歳で免許を返したとして、85歳までの10年間、日常生活を続けるために移動費としていくら用意しておけばよいのか。

今回は御宿町ではなく、いすみ市と勝浦市をモデルに、この金額を考えてみたい。

車を手放した瞬間、同じ5キロメートルが別の距離になる

東京の住宅地なら、免許を返したあとも徒歩圏にスーパーがあり、駅があり、その先には複数の病院があるという生活を想像しやすい。

しかし、いすみ市や勝浦市では事情が違う。

海岸沿いの市街地だけでなく、丘陵部や農村部にも住宅が広がり、自宅から駅や病院、スーパーまで数キロメートル離れていることもある。自動車を運転できる間、その距離はそれほど大きな問題にはならない。玄関を出て車に乗れば、そのまま目的地へ向かえるからである。

ところが車を失うと、同じ5キロメートルが突然違う意味を持ちはじめる。

歩くには遠い。自転車は年齢や天候に左右される。バスが走っていても、自宅から停留所まで歩かなければならないこともある。その空白を埋めるものが、路線バス、乗合交通、そして普通のタクシーである。

幸い、いすみ市では事前予約型の市民乗合タクシーが運行されており、2026年8月時点の利用料金は一人1回300円である。原則として月曜日から金曜日まで運行し、運行区域内であれば自宅などから目的地まで利用できる。一般のタクシーとは違って乗り合わせで運行されるため、予約や時間の余裕は必要になるが、車を持たない人にとって重要な交通手段である。

さらに、いすみ市に住民票がある75歳以上の人には、市内循環バスといすみシャトルバスの運賃が免除される無料パスポートがあり、65歳以上でも運転経歴証明書の交付を受けた免許返納者なら対象になる。

勝浦市にも予約制のデマンドタクシーがあり、一般の大人運賃は1回500円だが、運転経歴証明書を持つ免許返納者は200円で利用できる。運行日は原則として月曜日から土曜日である。ただし、市内のどこからでも自由に利用できるわけではなく、自由に乗降場所を指定できる区域と、駅、病院、金融機関、商業施設などの共通乗降場所を組み合わせた仕組みになっている。

つまり、いすみ市も勝浦市も「免許を返したら、すべての移動を普通タクシーに置き換えるしかない」という地域ではない。

そして、この点こそが10年間の移動費を大きく左右する。

75歳で免許を返し、月8回外出する生活を考える

ここからは、比較のために一人の住民を想定する。

75歳で運転免許を返納し、85歳まで暮らす。買い物、通院、金融機関、役所、知人との交流などを合わせ、自宅から月8回出掛けることにする。

一回の外出には行きと帰りがあるから、交通機関への乗車は月16回になる。

年間では192回、10年間なら1,920回である。

月8回の外出という数字は、日本の高齢者全体の平均値として設定したものではない。あくまで「週におおむね2回外出する生活」を数値化した、この記事独自のモデルケースである。

この区別は重要である。

以下で計算する150万円、250万円、400万円という数字も、「免許を返納した高齢者は一般にこれだけ必要になる」という統計ではない。一定の生活条件を置いたときに、10年間の移動費がどの程度になるかを見るためのシミュレーションなのである。

普通タクシーについては、自宅から目的地まで片道5キロメートルという条件を置いた。

千葉県内のタクシー運賃は2026年3月16日に改定され、普通車の上限運賃では初乗り1.06キロメートルまで500円、その後221メートルまでを増すごとに100円となった。いすみ市、勝浦市を含む外房地域も現在の千葉地区運賃の対象となっている。

この上限運賃を使い、渋滞や信号待ちなどによる時間距離併用運賃を考えずに5キロメートルを計算すると、片道はおよそ2,300円になる。

もちろん、これは実際の乗車料金を保証する数字ではない。迎車回送料金は事業者によって異なり、時速10キロメートル以下で走行した場合には時間距離併用運賃も加算される。したがって2,300円は、あくまでこの記事で比較するための基準値である。

それでも片道2,300円なら往復4,600円になる。

車を運転していた頃には何気なく往復していた5キロメートルが、免許を返したあとには4,600円の行動になる可能性がある。

同じ月8回の外出でも、10年間で100万円台から400万円台まで開く

そこで、月8往復の外出を三つの方法に分けて考えてみよう。

最初は、8往復のうち6往復を自治体の乗合交通で済ませ、普通タクシーを使うのは2往復だけという生活である。次は4往復ずつを乗合交通と普通タクシーに分ける。最後は、時間や行き先の自由度を優先し、8往復すべてを普通タクシーで移動する場合である。

いすみ市では市民乗合タクシーを1回300円、勝浦市では運転経歴証明書を持つ人のデマンドタクシーを1回200円として計算する。普通タクシーは両市とも片道2,300円とする。

さらに、75歳で返納したという今回の設定では、いすみ市の福祉タクシー助成と勝浦市の高齢者タクシー助成を利用できる可能性があるため、その最大額も差し引く。

いすみ市では、自主的に運転免許を返納した満75歳以上で運転経歴証明書などを持つ人は福祉タクシー事業の対象となり、タクシー1回につき1,500円を上限として、年間最大24シートの利用券が交付される。年度初めから最大限利用できるなら、一年間では最大3万6,000円相当になる。

勝浦市では、自主返納した75歳以上の人などを対象として1枚400円の高齢者タクシー利用券が交付され、6月30日までの申請なら24枚、年間最大9,600円相当になる。

これらの制度が現在と同じ内容で10年間続き、毎年最大限利用できるという仮定を置くと、次のようになる。

10年間の利用モデル いすみ市 勝浦市
6往復を乗合交通、2往復を普通タクシー 約117万6,000円 約129万6,000円
4往復を乗合交通、4往復を普通タクシー 約213万6,000円 約230万4,000円
月8往復を普通タクシー中心で移動 約405万6,000円 約432万円

ここで見るべきなのは、いすみ市と勝浦市の数十万円の差ではない。

同じ市に住み、同じ月8回の外出をしていても、自治体の乗合交通をどこまで利用できるかによって、10年間の支出が300万円近く変わり得るという点である。

免許返納後の生活費を決めるのは、自治体名だけではない。

自宅が乗合交通を利用しやすい場所にあるか。病院やスーパーがその交通網の中にあるか。そして予約時間に自分の生活を合わせられるか。

同じいすみ市、同じ勝浦市でも、この条件によって老後の移動費は大きく変わる。

75歳で返納したモデルでは、いすみ市の助成効果が大きい

今回のシミュレーションでは75歳で免許を返納した設定にしたため、いすみ市では福祉タクシー助成を計算に入れている。

自主返納した満75歳以上で所定の証明書を持つ人なら、一回1,500円を上限とする利用券を年間最大24シート利用できる。最大限使えば年間3万6,000円、現在と同じ制度が10年間続けば累計36万円に相当する。

さらに、75歳以上なら市内バス無料パスポートの対象となり、65歳以上でも運転経歴証明書を持つ免許返納者なら同じ制度を利用できる。

ただし、これは「助成を受けるために75歳まで運転を続けた方が得」という意味ではない。

運転を続けられるかどうかは、制度上の年齢よりも本人の認知機能、視力、身体能力、運転技能、安全性によって判断すべき問題である。この記事では両市の制度を比較しやすくするため、75歳で返納するモデルを採用しているにすぎない。

この区別をしたうえで見ると興味深いことが分かる。

車を持っている間、「バスが無料になる」「タクシー券がもらえる」という制度は家計にほとんど存在感を持たない。しかし車を手放した瞬間、それまで利用価値を感じなかった地域交通制度が、一年間の生活費を左右する重要な資産へと変わるのである。

いすみ市では公共ライドシェアも広がり始めている

そして2026年のいすみ市では、もう一つ新しい動きがある。

旧夷隅町地域では以前から、自家用車を活用した自家用有償旅客運送が行われていたが、タクシー事業者の営業終了や休止によって交通空白地域となっていた岬地域でも、2026年4月から公共ライドシェアの運行が始まった。いすみ市の地域公共交通計画でも、旧夷隅町地域に続いて旧岬町地域へ運送サービスが拡大されたことが確認できる。

この制度は、今回の三つの基本シミュレーションには加えていない。

理由は、地域や利用条件によって使える交通手段が異なり、市民乗合タクシーと同じ条件で一律に比較することが難しいからである。

しかし、制度の存在そのものは重要である。

公共ライドシェアが拡大した背景には、「新しい便利なサービスを増やした」という面だけではなく、既存のタクシー事業者が営業を終了・休止し、地域の交通供給に空白が生まれたという事情がある。

これは免許返納後の生活を考えるうえで、別の問題を浮かび上がらせる。

将来必要になるのは、単にタクシー料金を払えるだけのお金ではない。

その地域に、そもそも人を運んでくれる仕組みが残っていることなのである。

勝浦市では「200円で移動できる場所に住んでいるか」が大きい

勝浦市では、運転経歴証明書を持つ免許返納者ならデマンドタクシーを1回200円で利用できる。往復しても400円である。

この記事の普通タクシーのモデルでは5キロメートル往復を4,600円としているから、同じような生活目的の移動がデマンドタクシーで成立するなら、交通費には大きな差が生まれる。

75歳以上の自主返納者については、高齢者タクシー利用券もあり、6月30日までに申請すれば400円券が24枚交付される。

さらに勝浦市では2026年度から、総野地区の一部と勝浦市街地を住民ドライバーの自家用車で結ぶ「ノッカルかつうら」の有償実証運行も始まっている。蟹田・松野・中倉からは片道500円、市野川・花里からは700円で、水曜日から金曜日まで運行されている。

ただし、ここでも重要なのは、勝浦市民なら誰でも同じ交通条件になるわけではないことである。

デマンドタクシーにも区域があり、「ノッカルかつうら」にも対象地域がある。

つまり、勝浦市における免許返納後の暮らしは、市役所から何キロ離れているかよりも、自宅がどの交通網に接続しているかによって大きく変わる。

行政上は同じ勝浦市でも、老後の移動という観点から見れば、まったく違う町に住んでいるような差が生じる可能性がある。

普通タクシー中心になると10年間で400万円を超える

先ほどの表に戻ると、最も目を引くのは400万円という数字だろう。

月8回外出するだけである。

週に直せば、おおむね2回にすぎない。買い物へ行き、病院へ行けば、それで一週間の外出回数をほぼ使い切ってしまう程度の生活である。

それでも普通タクシーを中心に片道5キロメートル移動すると、現在の運賃と現在の助成制度を10年間固定したモデルでは、いすみ市で約405万6,000円、勝浦市で約432万円になる。

ここで注意したいのは、この400万円を「免許返納すると必ず必要になる費用」と読んではいけないことである。

反対に、「そんなにタクシーを使う人はいない」と切り捨てるのも違う。

この数字が示しているのは、自家用車で行っていた移動を、そのまま普通タクシーに置き換えると、地方では非常に大きな費用になる可能性があるということである。

だからこそ、免許返納後の家計では「タクシーを安く使う方法」を探すだけでなく、普通タクシーを使わなくても済む場所に住んでいること自体が大きな経済価値になる。

それでも「車を持ち続けた方が安い」とは簡単には言えない

400万円という数字を見ると、車を持ち続けた方が安いのではないかと思えてくる。

しかし、そこには一つの錯覚がある。

自家用車の移動費を考えるとき、多くの人はガソリン代を思い浮かべる。5キロメートル走ったとしても、運転するたびに財布から2,300円が消えるわけではないからである。

だが車には、車両購入費や減価、任意保険、自動車税、車検、整備、タイヤ、バッテリー、燃料などが必要になる。

免許返納とは、それまで存在しなかった移動費が突然現れる出来事ではない。

それまで「自動車を所有する費用」としてまとめて支払っていたものが、返納後には「一回移動するごとの費用」として目に見えるようになるのである。

したがって合理的な比較は、「タクシー代400万円は高い」というものではない。

今後10年間自動車を所有し続ける総費用と、自動車を手放してバス、乗合交通、普通タクシーを利用する総費用を比較することである。

さらにそこには、金額だけでは測れない交通事故の危険性も加わる。

経済的に少し有利だからという理由だけで運転を続けるという結論にはならない。

10年間なら「今の料金が続く」と考えない方がよい

ここまでは2026年時点の運賃と助成制度を10年間固定して計算してきた。

しかし、現実には2036年まで同じ料金である保証はない。

実際、千葉地区のタクシー運賃は2026年3月16日に改定されたばかりであり、今後も人件費、燃料費、事業者数などによって料金が変わる可能性がある。

そこで、交通運賃だけが毎年2%ずつ上昇し、自治体から受けられる助成額は現在の金額のまま10年間変わらないという、もう少し厳しい条件を置いてみる。

この2%は将来の物価上昇率を予測した数字ではない。10年間の資金計画に価格上昇への余裕を持たせるための試算条件である。

この条件で再計算すると、10年間の移動費は次のようになる。

10年間の利用モデル いすみ市 勝浦市
6往復を乗合交通、2往復を普通タクシー 約132万円 約143万円
4往復を乗合交通、4往復を普通タクシー 約237万円 約253万円
月8往復を普通タクシー中心で移動 約448万円 約474万円

ここでは助成券まで毎年2%増えるとは考えず、いすみ市の年間最大3万6,000円、勝浦市の年間最大9,600円は現在額のまま固定している。

そのため、物価が上がるほど自治体助成が移動費全体をカバーする割合は徐々に小さくなる。

10年間という期間を考えると、この違いは無視できない。

「150万円・250万円・500万円」は平均値ではない

ここまでの試算から、いくつかの金額が見えてくる。

しかし、「免許返納後には150万円あればよい」「普通なら250万円必要」「地方では500万円かかる」と一般化するのは適切ではない。

今回の数字はすべて、月8往復、普通タクシーを利用するときは片道5キロメートル、75歳で返納し、現在の自治体助成を利用できるという条件を置いたシミュレーションである。

そのうえで言えるのは、今回設定したモデルでは、乗合交通をかなり利用できる住宅なら10年間で130万~150万円程度、乗合交通と普通タクシーを半分程度ずつ使うなら240万~250万円程度、普通タクシーへの依存が大きければ450万~500万円近くまで移動資金が膨らむ可能性がある、ということである。

本当に必要な金額は、自宅の位置、病院までの距離、買い物頻度、家族による送迎の有無、交通制度、健康状態によって大きく変わる。

だから、この数字を答えとして使うより、自分の生活条件を当てはめるための物差しとして使う方がよい。

本当に怖いのは「高いこと」ではなく、「お金を払っても車がないこと」かもしれない

そして、外房の免許返納問題を家計だけで終わらせると、もっと重要な問題を見落とす。

500万円を用意しておけば必ず移動できるわけではない。

いすみ市の市民乗合タクシーは原則として平日の運行であり、事前予約が必要で、予約状況によっては希望した便を利用できない場合もある。

勝浦市のデマンドタクシーにも運行区域と時刻があり、「ノッカルかつうら」にも対象地域と運行曜日がある。

病院の定期診察なら交通機関に合わせて予約できるかもしれない。

しかし、突然歯が痛くなる日まで交通機関に合わせてはくれない。冷蔵庫が空になる日も、家族が急に入院する日もある。

公共交通には、「いくら払えば乗れるか」という価格の問題と、「その時間、その場所に移動手段が存在するか」という供給の問題がある。

人口が少なくなる地域では、後者の方が深刻になる可能性がある。

いすみ市で公共ライドシェアが拡大された背景にタクシー事業者の営業終了や休止があったという事実は、その問題を象徴している。

地方の免許返納問題とは、交通費の問題であると同時に、交通そのものが地域に残るかという問題なのである。

老後の家選びでは「駅まで何分」より返納後の交通を考える

ここから逆算すると、住宅の価値についても別の見方ができる。

65歳で自動車を運転しているときには、スーパーまで5キロメートルでも10キロメートルでも、大きな違いには感じないかもしれない。

しかし75歳で免許を返し、その家で85歳まで暮らすと考えれば、その数キロメートルが100万円、200万円という差へ変わることがある。

駅まで歩ける家、バス停に近い家、乗合交通の対象区域にある家、病院とスーパーを一度の外出で回れる家。

こうした住宅には、土地や建物の販売価格には表示されない経済的価値がある。

反対に、眺望がよく、敷地が広く、静かで価格の安い住宅でも、生活施設から離れ、代替交通を利用しにくければ、購入時に節約した金額を免許返納後の交通費が少しずつ食べていく可能性がある。

仮に50万円安く家を買えても、返納後の交通費が毎年10万円多くかかれば、5年間でその差は消える。

地方の中古住宅を見るとき、「この家はいくらで買えるのか」だけを見るのでは足りない。

80歳になった自分が、この玄関からどうやって病院へ行くのか。

そこまで考えて初めて、その家の本当の価格が見えてくる。

免許返納とは、10年間の交通手段を組み替えることである

自動車は不思議な道具である。

持っている間、人は移動の自由をそれほど意識しない。

朝になって病院へ行こうと思えば行ける。午後に買い忘れに気づけば、もう一度スーパーへ出掛けられる。雨が降っていても、荷物が重くても、予定をそれほど変えずに済む。

免許返納によって失われるものは、自動車という機械だけではない。

「思いついたときに移動できる自由」である。

その自由を普通タクシーだけで買い戻そうとすると、今回のモデルでは10年間で400万円を超え、運賃が毎年2%上がる条件なら500万円近くに達する可能性がある。

しかし、乗合交通やバスを生活の中に組み込めれば、同じ月8回の外出でも100万円台に収まる可能性がある。

つまり、免許返納後の移動費には一つの正解はない。

同じいすみ市でも、同じ勝浦市でも、家の場所と交通手段の組み合わせによって結果はまるで違う。

だからこそ、免許返納を考える人にとって最も有効な準備は、75歳になって突然タクシー料金を調べることではない。

まだ自分で運転できるうちに、一度、自動車を使わず生活してみることである。

自宅からバス停まで歩き、時刻表を調べ、乗合タクシーを予約する。スーパーへ行き、買った荷物を持って帰る。病院へ公共交通だけで行き、玄関を出てから帰宅するまで何時間かかるのかを測ってみる。

その一日には、10年後の暮らしがかなり正確に映っている。

免許を返す日とは、突然「車のない老後」が始まる日ではない。

本当は、その何年も前から準備できる。

自分の住んでいる家から、車なしでどこまで行けるのか。月に何回移動するのか。そのために10年間でいくら必要になるのか。そして、その交通手段は10年後にも地域に残っているのか。

地方で老後を暮らすということは、家を所有することだけではない。

その家から、年を取っても外へ出られる可能性まで含めて暮らしを選ぶことなのである。

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若いころ、町は思っているより広い。

少し遠いスーパーへ行くことも、隣の市の病院へ行くことも、駅まで車を走らせて電車に乗ることも、それほど特別な行動ではない。二十キロ、三十キロ離れていても、そこまでの道路と交通手段がつながっていれば、その場所は自分の日常の中にある。地図の上では遠くても、心理的には近いのである。

ところが年齢を重ねると、この関係が少しずつ逆転していく。

道路は昨日までと同じ場所にある。スーパーも病院も移転していない。それなのに、以前は「いつでも行ける場所」だったところが、やがて「用事がなければ行かない場所」になり、その次には「誰かに連れていってもらわなければ行けない場所」になっていく。最後には、わずか数キロ先にある店さえ、自分の日常から消えることがある。

高齢者の生活圏が小さくなるとは、町そのものが小さくなることではない。自分が自由に動かせる地図の範囲が、小さくなっていくことである。

そして、この変化を70歳、80歳、90歳という三つの年代から眺めてみると、高齢社会の町づくりにとって非常に重要な問題が見えてくる。

70歳~町全体がまだ自分の生活圏にある時代

70歳という年齢だけを見て、「生活圏が狭くなる」と考えるのは適切ではない。70代でも仕事を続け、旅行をし、自動車を運転し、趣味のために遠方へ出掛ける人は珍しくないからである。年齢には大きな個人差があり、70歳になった瞬間に行動範囲が変わるわけではない。

ただし、統計を大きく眺めると、変化の入口はすでに見え始めている。国土交通省の全国都市交通特性調査では、60代に比べて70代では仕事のための移動が大きく減り、買い物や散歩などの日常生活に近い移動の比重が高くなる。また、70代の外出率は60代より低くなる傾向も確認されている。つまり70代では、単純に「動けなくなる」というより、生活圏を構成していた移動の目的そのものが変わり始めるのである。

会社へ向かう毎朝の道がなくなり、仕事先の近くにあった店へ行かなくなる。仕事帰りに立ち寄っていた書店も、駅前の飲食店も、生活上の必要がなければ少しずつ日常の地図から外れていく。身体的には行くことができても、行く理由がなくなることで、最初の生活圏縮小が起きる。

それでも70代前半くらいまでなら、多くの人にとって町はまだ「選べる場所」である。今日は近くのスーパー、明日は隣町の大型店、具合が悪ければ少し遠い専門病院というように、複数の選択肢から行き先を選ぶことができる。

この「選べる」という点が重要である。

生活圏の大きさは、単に何キロ移動できるかだけでは決まらない。三つのスーパーから好きな店を選べる人と、一番近い一店舗にしか行けない人では、同じ町に住んでいても生活圏の質が違う。70代は、少しずつ移動量が減りながらも、まだこの選択権を保っている人が多い年代だと考えることができる。

しかし地方では、この状態を支えているものがある。

自動車である。

内閣府の調査では、外出手段として自分で運転する自動車を使う割合は都市規模が小さくなるほど高くなる傾向があり、町村では高齢者の生活と自動車の結び付きが強い。大都市なら徒歩、鉄道、バス、自動車を組み合わせることができても、地方では自動車という一本の太い線によって、スーパー、病院、銀行、役所が結ばれている場合が多い。

そのため地方の70代は、一見すると非常に広い生活圏を保っているように見える。しかしその広さは、必ずしも町の便利さによって生まれているわけではない。自分で車を運転できるという一つの能力によって、広い生活圏を人工的に維持している面がある。

ここに、80代へ向かうときの大きな境目がある。

80歳~生活圏が「面」から「線」へ変わる

80歳になると、生活圏は必ず狭くなるのだろうか。

もちろん、そうとは限らない。80代でも自動車を運転し、旅行をし、日常的に外出する人はいる。しかし集団として眺めると、移動手段の構成は明らかに変わってくる。

内閣府の調査では、80歳以上で外出時に「自分で運転する自動車」を利用すると答えた人は26.4%である一方、「徒歩」は58.5%、「家族などの運転する自動車」は36.1%となっている。複数回答なので単純な比較はできないが、年齢が上がるにつれて、自分自身の運転から徒歩や家族による送迎へ比重が移っていく姿ははっきりしている。

ここで生活圏に大きな変化が起こる。

70代までの生活圏が地図上の「面」だったとすれば、80代ではそれが何本かの「線」になっていく。

自宅からスーパーへ行く線、自宅から病院へ行く線、自宅から銀行へ行く線。以前なら途中で別の店に寄ったり、その日の気分で違う道路を通ったりしたものが、次第に決まった目的地と決まった経路に集約されていく。

遠くへ行けないわけではない。家族が車で連れていってくれれば、50キロ離れた病院にも行けるかもしれない。しかし、自分の意思だけで「ちょっと行ってみよう」と動ける範囲は狭くなっている。

この違いは大きい。

誰かに送ってもらえば行ける場所は、地理的には生活圏に含まれていても、自立した生活圏とは言いにくい。相手の都合を聞き、日程を合わせ、お願いしなければならないからである。距離そのものは変わっていないのに、移動に社会的な手続きが一つ加わる。

そして地方では、この変化が都市以上に大きな意味を持つ。

都市なら、自動車を運転しなくなった後でも、駅まで500メートル、スーパーまで700メートル、診療所まで800メートルという環境が存在し得る。ところが自動車を前提として造られた地域では、スーパーまで五キロ、病院まで十キロという距離が珍しくない。若いころには十分近かった五キロが、運転しなくなった瞬間に突然遠くなるのである。

道路は同じである。

距離も同じである。

変わったのは人間の側である。

だから、高齢社会の生活圏を考えるとき、「施設まで何キロあるか」だけを測っても十分ではない。「その距離を誰の力で移動できるのか」を考えなければならないのである。

高齢者の生活空間に関する研究でも、生活空間は単なる最大移動距離ではなく、どこまで移動したか、それをどのくらいの頻度で行ったか、さらに他人の助けを必要としたかという組み合わせで捉えられている。つまり、一か月に一度家族の車で遠方へ行く人と、毎日自分で近所へ出掛ける人を、単純な移動距離だけで比較することはできない。

80代とは、町から切り離される年代というより、町とのつながり方が変わる年代なのかもしれない。

90歳~生活圏は「場所」から「人」へ変わっていく

90歳になるとどうなるのか。

ここは特に慎重に考える必要がある。90歳だから自宅周辺しか動けない、と一律に決めることはできない。90代でも一人で外出する人もいれば、80歳になる前から移動に介助を必要とする人もいるからである。70歳、80歳、90歳という区切りは、生物学的な境界線ではなく、生活圏が変化していく過程を考えるための目安にすぎない。

それでも、非常に高齢になるにつれて生活圏が自宅や近隣へ集約されやすくなることは、多くの研究が示している。高齢者自身が感じる生活圏を調べた研究では、65~79歳では市全域を生活圏と感じる人が多い一方、80歳以上では自治会・町内会程度の身近な範囲を生活圏と感じる人が増えていた。また、外出頻度が低くなるほど、認識される生活圏も狭くなる傾向が確認されている。

90歳前後になると、生活圏はさらに別の姿を見せる可能性がある。

近所の店へ自分が行くのではなく、家族が買ってくる。薬局へ薬を取りに行くのではなく、誰かに頼む。遠くの友人に会いに行く代わりに、電話をする。美容院、銀行、役所、病院という目的地のうち、自分自身が出向く場所は少なくなり、反対に人やサービスの側が自宅へ近づいてくる。

ここまで来ると、生活圏は単なる地理ではなくなる。

70歳の生活圏が「自分が行ける場所」であり、80歳の生活圏が「助けがあれば行ける場所」まで含むものだとすれば、90歳の生活圏では「自分のところへ来てくれる人」が極めて重要になる。

家族が週に何回来るのか。宅配が利用できるのか。訪問診療を受けられるのか。介護サービスが来てくれるのか。近所に声を掛けてくれる人がいるのか。

若いころには地図上の距離で決まっていた生活圏が、最後には人間関係とサービスの網によって決まるようになる。

これは少し不思議な逆転である。

人生の前半では、人間が町の中を動き回ることで生活圏を広げる。人生の後半では、人や物やサービスが自分のところへ来てくれることで生活圏を維持するようになるのである。

生活圏はゆっくり縮むとは限らない

ただし、実際の生活圏は70歳から80歳、80歳から90歳へと、定規で測ったように少しずつ縮んでいくわけではない。

むしろ、ある日突然小さくなることがある。

長年運転していた人が免許を返納する。その日まで十キロ先のスーパーが日常の買い物先だったのに、翌日からそこへ一人では行けなくなる。夫婦のどちらかが運転していた家庭なら、その人が運転できなくなっただけで、もう一人の生活圏まで同時に縮む。

あるいは、近所のスーパーが閉店する。

昨日まで800メートルだった買い物先が、突然五キロ先になる。若い人なら自動車で数分の違いにすぎない。しかし徒歩を中心に生活する高齢者にとっては、これは「店が少し遠くなった」のではなく、「店が生活圏から消えた」ことに近い。

高齢者の買い物を調べた内閣府の調査でも、町村では買い物に自動車を使う割合が非常に高い一方、75歳以上の女性では自分で運転する割合が大きく低下し、徒歩や家族の支援へ移っている。施設の有無と、その施設を実際に利用できるかどうかは別の問題なのである。

高齢者の生活圏を一気に狭めるのは、年齢そのものより、このような「一本の線が切れる瞬間」なのかもしれない。

70歳では「面」、80歳では「線」、90歳では「点」になる

生活圏の変化を一枚の地図として想像してみる。

70歳の地図には、自宅を中心として多くの場所が描かれている。スーパーが三つあり、病院が二つあり、銀行があり、友人の家があり、少し遠くには大型商業施設もある。それぞれの場所は複数の道路で結ばれ、今日はどこへ行くかを自分で決めることができる。生活圏はまだ「面」として広がっている。

80歳になると、その面の中から、よく使う経路だけが残り始める。いつものスーパー、いつもの病院、いつもの銀行へ向かう道である。行動範囲は地図全体ではなく、何本かの線によって構成されるようになる。

そして90歳前後になると、その線さえ少なくなり、自宅、近所、病院、家族の家といった少数の場所が生活の中心になる場合がある。地図は点の集まりに近づいていく。

しかし、その「点」が孤立しているとは限らない。

家族が来る。宅配便が来る。医療や介護の人が来る。友人から電話が来る。行政から情報が届く。自分自身が遠くまで移動できなくなっても、外の社会と結ばれていれば、生活そのものまで小さくなるとは限らない。

ここに、高齢社会を考えるうえで非常に重要な違いがある。

身体的な生活圏が小さくなることと、社会的な生活圏が小さくなることは同じではない。

高齢者に必要なのは「何でも近くにある町」だけではない

高齢社会の町づくりというと、病院やスーパーを近くに集めるコンパクトな町を想像しやすい。それは確かに重要である。しかし、すべての住民を病院やスーパーの徒歩圏に住ませることは現実には難しい。

特に地方では、すでに広い範囲に住宅が存在している。そこに暮らしてきた人へ、80歳になったから中心部へ引っ越してくださいと言っても簡単ではない。

だから必要なのは、生活圏が縮小していくことを前提とした地域の仕組みである。

70代までは自分で移動できる。その後、運転が難しくなれば公共交通や送迎へ移る。そして外出そのものが難しくなれば、買い物、医療、介護、行政といったサービスの一部が家の近くまで来る。

つまり、人間の生活圏が小さくなるのなら、社会のサービス圏を反対に広げなければならない。

この二つがすれ違ったとき、高齢者は地域に住んでいながら地域から切り離される。

スーパーはある。

病院もある。

役所もある。

道路もある。

それなのに、そこへ行けない。

高齢社会で本当に恐ろしいのは、施設が完全になくなることだけではない。施設が存在しているのに、自分の日常からは消えてしまうことである。

90歳になった自分の地図から町を眺めてみる

地域の将来を考えるとき、人口推計や財政数字を見ることはもちろん重要である。しかし、ときにはもっと単純な方法が、その町の弱点を教えてくれる。

自分が90歳になったと想像してみるのである。

自動車を運転しない。長い距離を歩くのは難しい。夜の外出はできるだけ避けたい。それでも食料を買い、薬を受け取り、病院へ行き、現金を用意し、役所の手続きをしなければならない。

そのとき、自宅の玄関からどこまで一人で行けるだろう。

現在の町の地図を眺めると、道路や施設の位置は分かる。しかし、高齢者の暮らしを考えるなら、本当に必要なのはもう一枚の地図である。

70歳の人が行ける町。

80歳の人が行ける町。

90歳の人が行ける町。

同じ住所に住み続けていても、この三枚の地図は同じではない。

人口減少が進む地方では、これからスーパーや診療所、銀行、ガソリンスタンド、公共交通などの配置も変わっていくだろう。その一方で住民自身も年齢を重ね、移動できる範囲を変えていく。施設が遠くなる変化と、人間の生活圏が小さくなる変化が同時に進むのである。

だから、これから地域を見るときに問うべきなのは、「この町には病院があるか」だけではない。

「80歳になっても、その病院へ行けるか」。

「スーパーが残っているか」だけでもない。

「90歳になったとき、その食料を自分の家まで運べる仕組みがあるか」。

町の本当の大きさは、行政区域の面積では決まらない。

そこに暮らす人が、自分の力で、あるいは誰かの力を借りながら、どこまで社会とつながっていられるかによって決まる。

年を取るにつれて、私たちの地図は少しずつ折りたたまれていく。

問題は、その地図が小さくなることではない。

最後に残った小さな地図の中でも、買い物ができ、医療を受け、人と話し、誰かに必要とされながら暮らしていけるかどうかである。

それができる町なら、生活圏が小さくなっても、人生まで小さくなる必要はない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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地方で老後を暮らすことを考えるとき、病院までの距離はどうしても気になる。

スーパーなら多少遠くてもまとめ買いができるし、役所なら用事そのものを減らすこともできる。けれども病院だけはそうはいかない。まして定期的な治療が必要になれば、病院までの距離は、そのまま日常生活の条件になる。

そこで地図を開いて、自宅から透析施設までの距離を測ってみる。

30km。

この数字を見て、「もし将来透析になったら、ここでは暮らせないのではないか」と感じる人は少なくないだろう。一般的な血液透析は週3回行われることが多いから、往復60kmを週3回と考えれば、一週間で180km、年間では9,000kmを超える。数字だけを積み上げれば、確かに相当な距離になる。

しかし、ここで一度立ち止まる必要がある。

透析医療の通院は、普通の外来通院と少し事情が違うからである。

現在の透析医療では、医療機関による患者送迎がかなり広く行われている。日本透析医会が2023年に行った調査では、回答した822施設の70.9%が施設負担による患者送迎を実施していた。また、患者側を対象とした2021年度の調査でも、透析施設の送迎を実際に利用している患者は24.8%に達している。

ここで重要なのは、70.9%という数字をそのまま全国すべての透析施設に当てはめることではない。この調査は回答施設を対象としたものであり、全国の全施設を完全に網羅したものではないからである。それでも、透析施設による送迎が一部の特殊な病院だけで行われているサービスではなく、現在の透析医療を支えるかなり一般的な仕組みになっていることは読み取れる。

そうなると、「施設まで30km」という数字の見え方も変わってくる。

自分で週3回、片道30kmを運転する生活と、自宅付近まで施設の送迎車が迎えに来る生活では、同じ30kmでも負担の中身がまったく違う。本人が運転しなくてよいのであれば、高齢になって自動車を手放したとしても、透析施設への交通手段だけは残る可能性がある。

ここに、透析医療の少し不思議なところがある。

地方では、近所の眼科へ行くには家族の自動車が必要なのに、それよりはるかに遠い透析施設には病院の車が迎えに来るということが起こり得る。公共交通が弱い地域ほど、透析施設の送迎車が事実上の医療交通として機能している場合があるからだ。

そう考えると、片道30kmという距離だけを見て、「この地域では透析生活が成立しない」と判断するのは現実的ではない。

けれども、送迎車が迎えに来るからといって、30kmという距離そのものが消えてなくなるわけでもない。

患者は運転しなくてよくなるが、移動時間は残る。

むしろ送迎車の場合、自家用車で直接病院へ向かうより時間がかかることもある。何人かの患者を順番に迎えながら施設へ向かうなら、自宅から病院までの直行時間より乗車時間は長くなる。透析そのものが一般に1回4時間程度かかることを考えれば、送迎時間を含めた透析日は、朝から午後まで、あるいは午後から夕方まで、一日のかなり大きな部分を占めることになる。

ここで問題の姿が変わる。

30kmの問題は、運転の問題ではなく、時間の問題になる。

週3回という頻度がある以上、透析日は一週間の中に規則的に現れる。月曜、水曜、金曜に透析する人なら、その三日は透析を中心に生活を組み立てることになる。通院距離が短ければ、その前後に買い物や家事を入れやすい。ところが送迎を含めて移動時間が長くなると、透析日はほぼ「治療の日」として使われるようになる。

だから30kmという距離を評価するとき、「通えるかどうか」だけでは十分ではない。

「その通院時間を含めた生活を、週3回繰り返しても無理がないか」というところまで考えなければならないのである。

そして、この問題は年齢を重ねるほど重要になる。

65歳で透析を始めた人なら、自分で30km先まで運転することもできるかもしれない。ところが75歳になり、さらに80歳になれば、雨の日や夕方の運転が負担になったり、自動車そのものを手放したりする可能性が出てくる。

そこで無料送迎が大きな意味を持つ。

本人が運転できなくなっても、送迎車が来るなら透析生活は続けられる。家族が毎回60kmを往復しなくてもよい。高齢の夫が高齢の妻を送り、数時間待ち、また連れて帰るという生活を避けられる可能性もある。

つまり透析施設の送迎は、単なる「病院の親切なサービス」と考えるより、地方の高齢者を医療につなぎ続ける生活インフラの一つと考えた方が実態に近い。

そう考えたとき、片道30kmという問題の核心もさらに変わってくる。

患者が30kmを移動できるかではなく、その患者を30km運ぶ仕組みを地域が維持できるかという問題になるのである。

患者にとって無料送迎であっても、送迎そのものに費用がかからないわけではない。車両を購入し、燃料を入れ、点検し、運転手を確保しなければならない。患者が広い地域に点在するほど、一人を迎えに行くための走行距離も長くなる。

この点は、人口減少地域を考えるうえで特に重要になる。

例えば十人の患者が施設から5km以内にまとまって暮らしている地域と、同じ十人が30km四方に散らばって暮らしている地域を考えてみる。

患者数は同じ十人でも、送迎に必要な車両の走行時間はまったく違う。

つまり透析施設の送迎を考えるとき、本当に効いてくるのは単純な人口ではなく、患者がどの程度の密度で分布しているかという地理なのである。

人口が減れば必ず透析患者が同じ割合で減るとは限らない。高齢化率や基礎疾患の状況によっても変わるからである。しかし、人口密度が低下して患者が広く散らばれば、少ない人数を集めるために送迎車が長い距離を走らなければならなくなる可能性は高くなる。

ここから先は、「患者が減るから透析施設がなくなる」という単純な話ではない。

実際、日本の透析患者数は近年減少に転じているものの、全国の透析収容能力まで同じように減っているわけではない。施設が統合され、大きな施設がより広い範囲の患者を受け入れるという形も考えられる。

もしそうなれば、患者から見た施設までの距離は今より伸びるかもしれない。

しかし、その距離を送迎が埋めてくれるなら、生活そのものは維持できる。

ここに地方医療の一つの可能性がある。

病院をすべての町に残すことが難しくなったとしても、一定規模の医療施設と広域送迎を組み合わせることで、医療へのアクセスを維持するという考え方である。

ただし、その場合には病院だけを医療インフラと考えてはいけなくなる。

送迎車まで含めて一つの医療システムとして考えなければならない。

病院の建物が30km先に存在しているだけでは、医療は届かない。患者の家と病院の間を往復する車があり、その車を運転する人がいて、毎週決まった曜日に患者を連れて行く。その一連の流れが維持されて初めて、「30km先に透析施設がある」という事実が生活上の意味を持つ。

この視点に立つと、地方の医療アクセスを地図だけで評価することの危うさも見えてくる。

同じ「透析施設まで30km」の町でも、一方では週3回送迎車が自宅近くまで来るのに、もう一方では自力通院しかできないとすれば、両者の生活条件は同じではない。

地理上は同じ30kmでも、生活上の距離は違う。

そして、この違いは年齢を重ねるほど大きくなる。

若いうちは自動車を運転できるから、送迎の有無をそれほど重要に感じないかもしれない。ところが自分で運転できなくなったとき、初めて送迎サービスの有無が生活を左右する。

この意味では、老後の移住先を考える人が透析施設までの距離を調べるなら、「何km先にあるか」だけでは不十分である。

その施設が実際に患者送迎を行っているのか、自宅の地区まで来てくれるのか、どのような条件で利用できるのかを確認した方が、はるかに重要である。

ただし、ここでも一つ注意しなければならない。

「40km以内なら、ほぼすべての透析施設が無料送迎する」と全国一律に考えることはできない。

実際には送迎範囲や条件は施設によって違う。自宅まで迎えに来る施設もあれば、一定の集合場所まで出なければならない場合もある。道路事情や車椅子対応などによって送迎できる地域が限定されることもある。

だから30kmという数字だけで大丈夫とも危険とも言えないのである。

必要なのは、その30kmが実際の送迎区域の中に入っているかを確認することだ。

さらに、平常時には問題なく送迎できても、台風や大雨となれば話は変わる。

外房のような地域では、倒木や冠水によって道路が一時的に使えなくなることがある。いつもの道を通れなければ、送迎車が大きく迂回しなければならないかもしれないし、そもそも迎えに行けないことも考えられる。

透析は、買い物のように「今日はやめて明日にしよう」と簡単に延期できるものではない。

そのため透析医療では、大規模災害時にどの施設が透析可能なのか、どこへ患者を移すことができるのかを共有する仕組みが整備されている。

ここで30kmという距離は、もう一度姿を変える。

平常時には送迎によってほとんど意識しなくてよかった30kmが、道路が途切れた瞬間、地理そのものとして現れる。

だから本当に強い地域とは、単に近くに透析施設がある地域ではないのかもしれない。

通常利用している施設へ行けなくなったとき、別の透析施設へ行く道があり、そこまで患者を運ぶ仕組みがある地域の方が、医療の持続性という意味では強い。

そう考えると、老後の透析生活を考えるときに見るべきものは、一つの施設までの距離だけではなくなる。

最寄りの透析施設はどこにあるのか。

その施設は自宅まで送迎してくれるのか。

さらに、その施設が使えないとき、次の施設はどこにあるのか。

この三つを一つの地図の上で考える必要がある。

そして、そこまで考えたとき、「片道30kmの透析生活は成立するのか」という問いへの答えも、かなりはっきりしてくる。

無料送迎が利用でき、自宅が送迎区域に入り、通常時に無理のない時間で施設まで行けるのであれば、片道30kmという距離だけを理由に生活が成立しないとは考えにくい。

むしろ地方における透析医療では、自動車を運転できない高齢者でも、送迎によって比較的遠い施設まで通える可能性がある。

だから問題は、30kmという数字ではない。

その30kmの間に何があるかである。

迎えに来る車があるのか。

その車を運転する人がいるのか。

施設は安定して患者を受け入れられるのか。

道路が使えない日には別の経路があるのか。

そして、その仕組みを十年後にも維持できるのか。

ここまで考えて初めて、距離は生活の問題になる。

地図の上では、病院は30km先にある。

けれども毎週決まった日に車が迎えに来てくれるなら、その30kmは必ずしも「遠い病院」ではない。

逆に、病院が10km先にあっても、そこへ行く手段がなければ、老後には遠い病院になる。

距離とは、道路の長さだけでは決まらない。

そこへ人を運ぶ仕組みがあるかどうかによって、同じ30kmでも生活上の意味は変わる。

人口減少が進む地方で本当に残さなければならないものは、透析施設という建物だけではないのだろう。

患者の家々とその施設の間を、月曜日にも、水曜日にも、金曜日にも走り続ける送迎車まで含めて、一つの地域医療なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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外房の住宅地で暮らしていると、野生動物は必ずしも「山の中にいるもの」ではない。夜、自動車で細い県道や市町村道を走っていると道路脇に動物の姿が見えたり、朝になって庭を見ると植えていた花が食べられていたり、畑の一角が掘り返されていたりすることがある。キョンの独特な鳴き声を聞いたことがある人も少なくないだろう。こうした出来事は、一度だけなら自然の豊かな地域で暮らす面白さの一つとして受け止めることもできる。しかし、それが日常の風景になり、しかも住民の高齢化が進んでいくと、獣害は単に農作物を守るための問題ではなくなる。

千葉県では、特定外来生物であるキョンの生息域が長期的に拡大してきた。県が2026年にまとめた第3次千葉県キョン防除実施計画では、県内の推定生息数は2024年度時点の中央値で約9万4千頭とされ、2006年度の約1万3千頭から大幅に増加している。もっとも、外房のすべての市町村で同じように増えているわけではなく、近年は勝浦市や御宿町で推定生息数が減少し、いすみ市でも横ばいまたは減少傾向がみられる一方、大多喜町や鴨川市などでは依然として高い水準にある。したがって、「外房ではどこでもキョンが増え続けている」と単純化するのは正確ではない。それでも、房総半島全体として見れば、野生動物と人間の生活圏が重なる地域が広く存在していることは間違いない。

ここで考えてみたいのは、野生動物が何頭いるかという問題だけではない。もっと生活に近いところで、「その地域で80歳になっても普通に暮らせるのか」という問いである。

獣害は農家だけの問題ではなくなっている

獣害という言葉から、多くの人が最初に思い浮かべるのは田畑の被害だろう。イノシシに稲や野菜を荒らされたり、キョンに農作物を食べられたりする被害は確かに大きな問題である。しかし、住宅地まで野生動物が出てくるようになると、被害の意味は変わってくる。千葉県もキョンについて、農作物だけでなく花壇や植木への食害、鳴き声などによる生活環境被害を防除計画の対象としている。つまり行政の側でも、獣害はすでに農業だけに閉じた問題ではなく、住民の日常生活に関わる問題として認識されている。

たとえば、高齢者が一人で暮らしている家を考えてみる。庭には長年育ててきた花や低木があり、朝には庭へ出て水をやり、少し草を抜くことが生活習慣になっている。その庭にキョンが繰り返し入り込み、植木や花を食べるようになれば、対策として柵を設ける必要が出てくる。しかし柵は一度設置すれば終わりではない。草が絡めば刈らなければならず、傾けば直し、破損すれば交換する必要がある。若いうちは容易にできた作業でも、80歳を超えて脚立を使ったり、杭を打ったり、斜面の草を刈ったりすることは次第に難しくなる。

すると獣害は、花が食べられたという被害だけではなく、その住宅を維持するために必要な労働量を増やす問題へと変わる。地方の戸建住宅で高齢者が暮らし続けるためには、屋根や外壁を修理する人、水道や電気を直す人、庭木を剪定する人が必要になるが、野生動物が増えれば、そこに「動物から敷地を守る」という新しい管理作業まで加わることになる。獣害を生活インフラとして考えるとは、まさにこの部分を見ることである。

「怖いから外へ出ない」という被害は統計には現れにくい

イノシシの場合は、さらに別の問題がある。キョンと違い、大型のイノシシに至近距離で遭遇すれば人身事故につながる可能性がある。そのため、農作物にどれだけ被害が出たかという数字だけでは、住民が感じている生活上の負担を十分に測ることができない。

冬の夕方を想像すると分かりやすい。午後5時を過ぎれば、外房の住宅地でもすでに暗い。80代の一人暮らしの人が、ごみを出すために家から100メートル先の集積所まで歩くとする。道路は舗装されており、集積所もきちんと設置されている。それだけを見れば、この地区の生活インフラには特に問題がないように見える。しかし近くの空き地や竹やぶにイノシシが出ることを知っていたら、その100メートルの意味はまったく違ってくる。

実際にイノシシと遭遇する確率が低かったとしても、「暗くなってから歩くのは怖い」と感じれば、その人は外出時間を変えるようになるかもしれない。夕方の散歩をやめ、日が暮れてからはごみ集積所まで行かず、近所の人の家を訪ねることも減る可能性がある。その一つ一つは小さな変化だが、積み重なれば高齢者の生活圏を確実に狭くしていく。

しかも、この種の影響は農作物被害額にも人身事故件数にも表れない。「怖いから歩かなくなった」という行動変化は、通常の獣害統計では数えられないからである。しかし高齢社会を考えるなら、この見えない被害の方が重要になる可能性がある。高齢者にとって、毎日安心して家の周囲を歩けることは、道路や街灯と同じくらい基本的な生活条件だからである。

人が減ると、野生動物が増えるというより「境界」が消えていく

では、なぜ野生動物が住宅地の近くまで現れるようになるのだろうか。単純に動物の数だけで説明すると、地域で起きていることの半分しか見えない。

地方では人口減少と高齢化によって、人が日常的に管理してきた土地が少しずつ減っている。田畑を耕す人がいなくなり、農地が草地に変わる。山際の草刈りが行われなくなり、低木や竹が伸びる。空き家の庭は荒れ、かつて人が頻繁に歩いていた農道にも人が入らなくなる。人間から見れば「使われなくなった土地」だが、野生動物から見れば、住宅地の近くまで身を隠しながら移動できる場所が増えたことになる。

ここで重要なのは、山と住宅地の間には本来、はっきりした線が引かれているわけではないということである。その間には田畑があり、農道があり、草刈りされた斜面があり、人が毎日のように出入りする空間があった。その人間の活動そのものが、結果として野生動物と住宅地との間に一定の距離をつくっていた。ところが人口が減り、その活動が薄くなると、地図上では何も変わっていなくても、実際の土地利用は少しずつ野生動物にとって入りやすい環境へ変化していく。

したがって、外房で起きている獣害を「自然が増えた」と表現するだけでは本質を捉えにくい。むしろ「人間が管理していた空間が減った」と考えた方が、人口減少との関係を理解しやすい。

人口が半分になっても、管理する土地は半分にならない

この問題には、人口減少地域のインフラ問題とよく似た構造がある。

人口が1万人から5千人に減ったからといって、道路の延長が半分になるわけではない。水道管も橋も側溝も半分にはならない。そのため人口一人当たりで支えなければならないインフラ量は増えていく。同じことが土地の管理にも起きる。

仮に、ある地域に100人の住民がおり、その周囲に100ヘクタールの農地や山林、空き地が存在すると考えてみる。実際には住民全員が均等に土地を管理するわけではないが、地域全体の管理能力という意味では、住民一人当たりに対応する土地は1ヘクタールである。人口が50人に減っても土地が50ヘクタールになるわけではないため、一人当たりの土地は2ヘクタールになる。さらに25人まで減れば4ヘクタールになる。

これは単なる計算上の話ではない。草を刈る人、田畑を耕す人、山林を見回る人、倒木を処理する人、罠を管理する人といった地域の担い手が減る一方で、管理対象となる土地の面積はほとんど変わらないという現実を表している。

人口減少とは、消費者や納税者が減ることだけではない。地域を日々管理してきた「作業する人」が減ることでもある。獣害は、その変化が目に見える形で現れた現象の一つなのである。

捕獲を増やせば解決するのか

もちろん、イノシシやキョンが増えれば捕獲は必要になる。千葉県もイノシシの捕獲を続けており、キョンについても防除の強化が進められている。しかし、「捕獲数を増やせばよい」と言うのは簡単でも、実際の捕獲には人手が必要になる。罠を設置し、定期的に確認し、捕獲した個体を処理し、安全管理を行い、必要な手続きを進めなければならない。その仕事は、野生動物が増えれば自動的に増えてくれるものではない。

ここにも人口減少の矛盾がある。獣害が深刻化しやすい地域ほど人口密度が低下している一方、その獣害に対応するためには一定数の人間が必要になるからである。捕獲する人が高齢化し、農家が減り、地域活動を担う人が少なくなれば、動物側の問題より先に、人間側の管理能力が限界を迎える可能性もある。

獣害対策を持続させるためには、「何頭捕るか」だけではなく、「誰が10年後も捕るのか」という問いを同時に考えなければならない。

自動車があっても獣害からは逃れられない

外房では、自動車を使えば野生動物の問題をある程度避けられるようにも思える。徒歩で暗い道を歩かなければイノシシに出会う機会は減るし、買い物や通院も車で移動すればよい。しかし車社会には車社会なりの獣害がある。

夜間、道路脇の草むらや林から動物が突然飛び出してくれば、衝突そのものだけでなく、それを避けようとする急ブレーキや急ハンドルが事故につながる可能性がある。特に外房には、街路灯が少なく、山林や田畑の間を抜ける道路が少なくない。運転者が高齢になり、夜間視力や反応速度が低下していけば、野生動物との遭遇は交通安全の問題としても無視できなくなる。

これは「獣害」と「高齢者の運転」という二つの別々の問題ではない。自動車に依存しなければ生活しにくい地域で、高齢者の運転と野生動物の出没が同時に存在すれば、その二つは一つの生活問題として重なってくる。

道路が舗装されているだけでは、移動インフラが整っているとは言えない。高齢者が安心して運転できることまで含めて考えるなら、道路周辺の草刈り、動物の出没情報、捕獲、街灯なども広い意味で交通インフラの一部になってくる。

高齢者が暮らせる町とは、動物のいない町ではない

ここまで考えると、イノシシやキョンのいる地域では高齢者が暮らせないようにも見える。しかし、そう結論づけるのは適切ではない。

外房の魅力は、そもそも都市とは違う自然環境にある。海があり、里山があり、田畑があり、人口密度が低く、住宅の周囲にも緑が残っている。その環境から野生動物だけを完全に切り離すことは現実的ではないし、すべての野生動物が人間にとって危険な存在というわけでもない。

問題は、野生動物がいることではなく、人間との距離を地域として管理できるかどうかである。

住宅地周辺の草地をどの程度管理するのか、耕作放棄地や空き家をどう扱うのか、個人では負担の大きい防護柵をどう支援するのか、捕獲を担う人をどう確保するのか、高齢者が夜間に歩かなくてもごみを出したり移動したりできる仕組みを作れるのか。こうして考えると、獣害対策は農林行政だけの問題ではなく、福祉、住宅、交通、防災、空き家対策、土地管理と密接につながっていることが分かる。

だからこそ、獣害を「生活インフラ」として見る必要がある。

「動物が増えた町」の裏側にあるもの

人口減少について語るとき、私たちは学校がなくなる、スーパーがなくなる、病院が遠くなるといった「施設が減る問題」を考えがちである。しかし地方の暮らしを支えているのは、目に見える施設だけではない。

田畑を耕す人がいること、道路脇の草を刈る人がいること、山際を見回る人がいること、空き家の庭を管理する人がいること、野生動物を捕獲する人がいること。そうした無数の作業によって、人間が安心して暮らせる範囲は保たれてきた。

ところが人口が減ると、それらの仕事も少しずつ担い手を失う。田畑が荒れ、山林と住宅地との境界が曖昧になり、野生動物が人の暮らす場所まで近づいてくる。それを見て私たちは「イノシシが増えた」「キョンが増えた」と言う。しかし、現象を逆側から見れば、「地域を管理する人間が減った」と表現することもできる。

これは、外房の将来を考えるうえで非常に重要な違いである。

では、外房の獣害をどう解決すればよいのか

ここまでの議論から考えると、解決策を「捕獲数を増やす」という一点だけに求めるのは十分ではない。もちろん個体数管理は必要であり、イノシシやキョンの生息数を適正な水準に抑えることは対策の中心になる。しかし、それだけで住宅地への侵入がなくなるとは限らない。獣害が人口減少、耕作放棄地、空き家、草地管理、捕獲者不足など複数の要因によって発生しているのであれば、解決策も複数の仕組みを組み合わせる必要がある。

まず考えられるのは、地域全体を一様に守ろうとするのではなく、「人間が優先的に守る区域」を明確にすることである。人口が減少していく地域で、すべての山林、農地、空き地をかつてと同じ密度で管理することは現実的ではない。そこで住宅地、通学路、医療施設周辺、ごみ集積所、主要道路など、人間の日常生活に直接関係する場所を重点管理区域として位置づけ、その周囲の草刈りや藪の除去、侵入防止設備、捕獲を集中させる方が合理的である。

この考え方は、人口減少時代のインフラ維持とよく似ている。利用者が減る中で、すべての道路や公共施設を同じ水準で維持することが難しくなれば、重要度に応じて維持管理の優先順位をつけざるを得ない。獣害についても、人間と野生動物の境界をどこに設定し、どこを集中的に守るのかという「土地利用の設計」が必要になってくる。

次に必要なのは、個人宅の問題を個人だけに負わせない仕組みである。高齢者世帯が自費で防護柵を設置し、その後何年も自分で維持するという方法には限界がある。とりわけ高齢単身世帯が増えれば、「対策方法は分かっているが自分では作業できない」という世帯も増えるだろう。行政が資材費だけを補助する仕組みでは、資材を運び、設置し、修理する労働力の問題までは解決しない。

そこで、地域単位で防護設備を整備したり、草刈りや柵の補修を請け負う仕組みを作ったりする必要がある。農業者向けだった獣害対策を、高齢者住宅や住宅地の生活環境対策へ広げていく発想である。これは福祉政策との接点も大きい。庭の草刈りやごみ出しと同じように、獣害対策も高齢者の在宅生活を支えるサービスの一部として考える余地がある。

さらに重要なのが、捕獲する人を地域の善意だけに依存しないことである。これまで地域の鳥獣対策は、猟友会や農家など、地域に詳しい人々の協力によって支えられてきた。しかし、その担い手自身が高齢化しているのであれば、今後も同じ方法が続くとは限らない。自治体が捕獲を専門的な仕事として位置づけ、報酬や装備、研修、安全管理を整えることや、複数の市町村が共同で専門人材を確保することも検討する必要がある。

特に外房では、一つの市町村だけで対策しても動物は行政境界を越えて移動する。市町村境は人間が決めた線であって、イノシシやキョンには意味がない。そのため、生息域を単位とした広域的な対策が合理的である。隣接自治体がそれぞれ別々に捕獲計画を立てるだけでなく、出没情報や捕獲データを共有し、地域全体としてどの方向へ個体群が移動しているのかを把握する必要がある。

道路についても同じ考え方ができる。野生動物との衝突が繰り返される場所が分かれば、道路脇の草木を重点的に刈り、見通しを確保し、注意喚起を強化することができる。高齢者が多い地域では、単に「動物注意」の標識を設置するだけではなく、出没しやすい時間帯や地点を地域住民に伝える仕組みも重要になる。

技術を利用する余地もある。センサーやカメラで出没状況を把握し、その情報を捕獲計画に利用すれば、人が闇雲に山林を見回るより効率的になる可能性がある。ただし、技術を導入すれば人手が不要になるわけではない。カメラの設置や保守、データの確認、捕獲後の処理には依然として人が必要であり、技術はあくまで限られた人員を効率的に使うための道具として考えるべきだろう。

解決の鍵は「動物を減らすこと」と「人間側の管理能力を維持すること」

以上を整理すると、外房の獣害対策には二つの方向が必要になる。一つは捕獲や侵入防止によって野生動物側の圧力を下げることであり、もう一つは草刈り、土地管理、道路管理、住宅支援などによって人間側の管理能力を維持することである。

前者だけを進めれば、捕獲を続ける人が不足したときに対策が立ち行かなくなる。後者だけを進めても、生息数が高いままなら住宅地への侵入を完全には防げない。したがって、獣害対策を長期的に成立させるためには、この二つを同時に進めなければならない。

さらに人口減少を前提にするなら、「昔と同じ状態へ戻す」ことを目標にするのも現実的ではないだろう。かつて農家が多く、田畑が広く耕され、山際まで人が頻繁に入っていた時代の土地管理を、そのまま少ない人口で再現することは難しい。必要なのは、人口が減った後でも維持できる新しい境界の作り方である。

住宅地の周囲は重点的に管理し、その外側では自然への回帰をある程度受け入れる。高齢者が暮らす区域では行政や地域による管理を厚くし、捕獲については専門人材を広域的に配置する。このように、人間が守る場所と自然に委ねる場所を意識的に分けていく発想が、人口減少時代には必要になるのかもしれない。

30年後にも「普通に外へ出られる町」であるために

水道が出ること、電気が使えること、道路があること、車でスーパーまで行けることは、地方生活の基本的な条件である。しかし、それだけで高齢者が安心して暮らせるとは限らない。家の周囲を普通に歩けること、庭の管理が極端な負担にならないこと、夜の道路をある程度安心して走れること、野生動物が住宅地まで入り込んだときに対応する人が地域にいることもまた、生活を成立させる条件だからである。

外房の30年後を考えるとき、問うべきなのは「イノシシやキョンを何頭減らせるか」だけではない。人口が減り、高齢者が増え、農地や山林を管理する人が少なくなっていく中で、人間と野生動物との間に存在してきた境界を、誰が、どの範囲まで、どのような費用と仕組みで維持するのかという問題である。

その答えは、野生動物を完全に排除することでも、昔の里山へそのまま戻すことでもないだろう。限られた人員と財源の中で、住宅地や生活道路など守るべき場所を明確にし、捕獲、土地管理、高齢者支援、交通安全を一つの政策として組み合わせていくことにある。

獣害を生活インフラとして考えるということは、野生動物の問題を「山の問題」から「町の暮らしの問題」へ移すことである。そして高齢者が30年後にも、玄関を開けて庭へ出て、近所を歩き、夜には安心して家へ戻れる地域を残せるかどうかは、道路や水道を維持することと同じように、これからの外房が考えなければならない生活基盤の一つなのである。

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停電という言葉から、多くの人が最初に思い浮かべるのは「照明がつかなくなること」かもしれません。しかし、現在の住宅で電気が担っている役割は照明だけではありません。冷蔵庫、エアコン、給湯器、調理器具、電話、インターネット、給水ポンプ、医療機器まで、生活のさまざまな機能が電気を前提として組み立てられています。

とりわけ外房のように、高齢者世帯が多く、自動車への依存度が高く、住宅が広い範囲に分散している地域では、24時間の停電が単なる「不便」では終わらない可能性があります。

2019年9月の令和元年房総半島台風では、千葉県内で最大64万1千軒という大規模停電が発生し、それに伴って広範囲の断水も起きました。千葉県はその後の検証で、長期間の停電だけでなく、通信遮断や断水が同時に発生したことを重要な教訓として挙げています。つまり外房で考えるべきなのは、「電気が24時間来なかったらどうするか」だけではありません。電気を入口として、水、通信、食事、医療、移動という生活機能がどこまで連鎖的に失われるかを考える必要があります。

停電直後は、まだ「少し不便」なだけに見える

停電して最初の数十分であれば、多くの住宅ではそれほど深刻な状況には見えません。

昼間なら室内は明るく、水道も出る住宅があります。スマートフォンにはまだ十分な電池が残っています。冷蔵庫も扉を閉めていれば庫内温度はすぐには上昇しません。

この段階では、「そのうち復旧するだろう」と考える人も多いでしょう。

しかし、この判断が難しいところです。

普通の停電であれば数分から数時間で復旧することもありますが、台風によって電柱、電線、倒木などが広範囲に被害を受けた場合には事情が変わります。令和元年房総半島台風では倒木や飛来物が電線に接触し、大規模で長期間の停電が発生しました。経済産業省による検証でも、広い範囲に多数の事故地点が存在したため、被害全体を把握すること自体が容易ではなかったことが示されています。

したがって、外房で停電が発生したとき、「何時間で復旧するのか」が住民には分からないということ自体が、一つのリスクになります。

数時間たつと「電気がない」から「生活機能がない」に変わっていく

停電が数時間続くと、問題の性質が変わってきます。

夏なら最も早く深刻化するのが室温です。エアコンも扇風機も使えません。高齢者の場合、暑さを感じる感覚や体温調節機能が若い世代より低下している場合があるため、暑い室内に長時間とどまることは単なる不快感では済まなくなります。

冬にも別の問題があります。エアコン暖房は当然止まり、石油ファンヒーターも電気を必要とする機種が一般的です。ガスや灯油が家にあったとしても、それだけで住宅の暖房や給湯が維持できるとは限りません。

ここには、現代住宅の興味深い特徴があります。

エネルギー源そのものが電気でなくても、機器を制御するために電気が必要なのです。

ガス給湯器であっても制御や点火には電源が必要なものがあり、電気が止まればお湯が出なくなる場合があります。つまり、「うちはオール電化ではないから大丈夫」という単純な問題ではありません。

水道があるのに、水が出ない住宅もある

さらに注意したいのが水です。

水道管そのものに異常がなくても、住宅や建物の給水設備が電気に依存していれば、停電によって蛇口から水が出なくなる場合があります。

国土交通省も、増圧給水ポンプなどを使用している建物では、自家発電設備がなければ停電によって給水できなくなる場合があるとしています。実際、過去の災害では停電によるポンプ停止によって、建物そのものが浸水していなくても給水設備が使えなくなる事例が問題となりました。

外房では、これにもう一つの問題が加わります。

住宅によっては井戸を利用しています。井戸水は水道本管が断水しても利用できるという強みがありますが、電動ポンプで汲み上げている井戸なら停電時には水を取り出せません。

水が止まれば、飲み水だけの問題ではありません。

手を洗えない。食器を洗えない。トイレを流しにくくなる。入浴できない。

停電から数時間しかたっていないのに、住宅の衛生環境まで変わり始める可能性があります。

半日を過ぎると冷蔵庫が「食品保管庫」ではなくなってくる

停電が長期化すると、次に問題になるのが食料です。

高齢者世帯では、毎日スーパーへ行くのではなく、数日分の肉、魚、牛乳、総菜などを冷蔵庫に保管している家庭も珍しくありません。しかし冷蔵庫は電気がなければ冷却を続けられません。

厚生労働省は、家庭で食品を保存するときの目安として冷蔵庫を10℃以下、冷凍庫をマイナス15℃以下に維持することを示しています。また、災害時にはライフラインの寸断によって食品を低温保存できなくなり、食中毒が発生しやすくなると注意を呼びかけています。

重要なのは、「停電から何時間たったらすべて捨てる」という単純な時間だけで判断できないことです。

停電前の庫内温度、外気温、冷蔵庫の性能、食品の量、扉を何回開けたかによって状態は変わります。厚生労働省も停電時には冷蔵庫などの扉の開閉を控え、庫内温度への影響を抑えることを求めています。

つまり停電時には、「冷蔵庫に食べ物がある」ことと「安全に食べられる食べ物がある」ことが次第に別の意味になっていきます。

特に高齢者の場合、食中毒によって体調を崩したときの影響が大きくなる可能性があります。食料備蓄を考える場合には、冷蔵庫の中身だけではなく、電気も水も使わなくても食べられる食品を別に確保しているかどうかが重要になります。

12時間を超える頃から、スマートフォンも無限には使えない

現在の災害対策ではスマートフォンが重要な情報源になっています。

停電情報を見る。自治体からの防災情報を確認する。家族と連絡する。天気予報を見る。地図を見る。場合によっては懐中電灯の代わりにも使う。

ところが、スマートフォンそのものも電気で動いています。

停電直後に電池が100%残っていたとしても、長時間使えば当然減っていきます。停電情報を何度も確認し、家族に連絡し、画面を点灯させ続ければ消耗はさらに早くなります。

ここで問題になるのは単に「スマートフォンの充電がなくなる」ということではありません。

高齢者が一人で暮らしている場合、スマートフォンが使えなくなることによって、家族との連絡手段、行政からの情報、救援を求める手段を同時に失う可能性があることです。

令和元年房総半島台風では、停電とともに通信障害も長期化しました。千葉県の検証では、社会福祉施設との通信が途絶えたため、安否確認や必要な支援内容の把握に数日を要した事例も記録されています。

これは非常に重要な教訓です。

災害時には、「電話を持っているか」ではなく、「電話を使える状態が何時間続くか」を考えなければなりません。

在宅医療を受ける人にとっては、停電の意味がまったく違う

高齢者住宅の問題を考えるとき、最も慎重に扱う必要があるのが在宅医療です。

家庭で人工呼吸器、酸素濃縮装置、吸引器などの電気を必要とする医療機器を使用している人にとって、停電は生活上の不便ではなく、医療そのものに影響します。

厚生労働省は過去の大規模停電を受け、人工呼吸器の内部バッテリーの持続時間、外部バッテリーの準備、酸素濃縮装置利用者への酸素ボンベの確保、停電時の連絡体制などを事前に確認するよう医療機関などに求めています。

したがって、在宅医療機器を使用している家庭では、「停電したらどうするか」を災害発生後に考えるのでは遅い場合があります。

何時間バッテリーが持つのか。予備電源をどうするのか。停電が長期化した場合にはどこへ移動するのか。誰に連絡するのか。

これらがあらかじめ決められているかどうかで、同じ24時間でも意味は大きく変わります。

24時間後に見えてくるのは「停電」ではなく地域の構造である

そして停電が丸一日続いたとします。

家の中は暗い。しかし本当に重要なのは暗さではありません。

夏なら室温が問題になり、冬なら暖房が問題になります。冷蔵庫の食品は状態を確認しなければならなくなり、水が出ない住宅では衛生環境が悪化します。スマートフォンの電池も減っています。在宅医療機器を使用する世帯では電源確保が切迫した問題になります。

さらに外房では、ここから地域特有の問題が現れます。

近くに徒歩で行ける店がない。高齢者が車を運転できなければ水や食料を取りに行けない。道路が倒木などで通れなければ家族も簡単には来られない。給油所そのものが停電していれば、車があっても燃料を補給できない場合があります。

つまり、一戸の住宅の停電が地域全体の停電になった瞬間、「自分の家だけ準備していればよい」という考え方にも限界が生じます。

住宅、店舗、通信、医療、給油、交通が同じ電力網と道路網の上に存在しているからです。

外房では「24時間自立できる家」という考え方が必要になる

これまで住宅を評価するときには、広さ、価格、日当たり、駅までの距離、病院までの距離などが重視されてきました。

しかし、高齢化と災害を前提に外房で長く暮らすのであれば、別の評価軸を加える必要があるのではないでしょうか。

それは、その住宅が外部からの供給を失っても、一定時間生活を継続できるかという「住宅の自立性」です。

飲料水がある。常温保存できる食料がある。スマートフォンを充電できる。夜間の照明がある。暑さや寒さを逃れる方法がある。医療機器を使用しているなら予備電源と避難先が決まっている。

重要なのは、これらを大量に買いそろえることではありません。

その家で暮らしている人が「電気が止まったとき、何が止まるのか」を一度調べておくことです。

水道の蛇口は停電時にも使えるのか。井戸ならポンプはどうなるのか。給湯器は使えるのか。固定電話は停電時にも使える方式なのか。スマートフォンを何回充電できるのか。冷暖房がなくなった場合、どこへ移動できるのか。

住宅ごとに答えは違います。

だからこそ、防災用品の一般的なリストよりも、自分の住宅について「電気を切ったら何が使えなくなるか」を調べる方が実践的です。

高齢社会では「復旧まで待つ」という防災だけでは足りない

令和元年房総半島台風が示したのは、巨大災害だけが問題なのではありません。

電線に倒木や飛来物が接触し、地域の電力供給が長期間失われる。それだけで、断水、通信障害、福祉施設への連絡困難などが連鎖して発生しました。千葉県はこの経験を受け、現在も台風接近前の倒木や飛来物への対策を呼びかけています。

人口が多く、店舗や医療機関が近く、徒歩でも移動できる都市部と、住宅が分散し、自動車移動を前提としている外房では、同じ24時間の停電でも影響は同じではありません。

そして、高齢者にとっての24時間と若い世代にとっての24時間も同じではありません。

重い水を運ぶことができるか。暑い住宅から別の場所へ移動できるか。倒木のある道路を迂回して運転できるか。スマートフォンだけで行政情報を得られるか。避難所まで自力で行けるか。

電力会社が何時間で電気を復旧できるかだけでは、高齢社会の停電問題を説明できないのです。

外房でこれから必要になるのは、「停電しない地域」を期待することだけではなく、「停電しても一定時間は暮らしを維持できる地域」をつくるという考え方ではないでしょうか。

停電から24時間。

そのとき問われているのは、冷蔵庫や照明が使えるかどうかだけではありません。

水、食料、通信、医療、移動という生活を構成する機能が、一人の高齢者の周囲にどれだけ残っているのか。

24時間の停電は、普段は見えない外房の生活基盤を一気に表面化させる出来事なのです。

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