地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 山の斜面に沿うようにつくられた墓地へ行くと、墓石の新しさよりも、足元の草の伸び方に目が向くことがある。よく手入れされた墓の隣に、しばらく誰も訪れていないらしい墓があり、そのさらに隣には花立てだけが妙に新しい墓がある。墓地という場所は一見すると変化の少ない空間だが、よく見れば、そこには町の人口移動や家族構成の変化が静かに刻まれている。

 かつて墓は、そこに住み続ける家族が守ることを前提にできた。子どもが同じ町に残り、盆や彼岸になれば親族が集まり、誰かが草を刈り、誰かが花を替える。その役割はサービスとして購入するものではなく、家族の生活の一部として受け継がれていた。しかし人口が減り、若い世代が都市へ移り、結婚や就職によって家族が全国に散らばるようになると、この仕組みそのものが成り立ちにくくなる。

 ここで重要なのは、「墓を大切にしたい気持ち」が消えたわけではないということだ。問題になっているのは、気持ちではなく距離と時間である。東京で暮らす70代の夫婦が、房総半島や東北、九州の実家の墓まで年に何度も出かけることは簡単ではなく、本人が80代になれば、電車を乗り継ぎ、坂道を歩き、暑さの中で草取りをすること自体が負担になる。その子ども世代まで時間が進めば、墓の正確な場所や管理する寺院の名前さえ十分に知らないということも起こり得る。

 こうした変化から生まれたサービスの一つが墓参り代行である。依頼を受けた事業者が墓地へ行き、墓石を清掃し、草を取り、花や線香を供え、作業後の写真を送るという仕組みはすでに存在している。ただし、人口減少地域を新しい商いの視点から眺めるなら、墓参り代行は完成形ではなく、むしろ入口として考えた方がよい。

 なぜなら、遠方に住む家族が本当に困るのは、「今年の盆に墓参りへ行けない」という一回の問題だけではないからである。本当の不安は、この墓をこれから10年、20年、誰が見ていくのかという時間の問題にある。墓石が傾いていないか、雑草が周囲まで広がっていないか、寺や霊園から連絡が来ていないか、管理料の支払いはどうなっているのか、そして自分が亡くなったあと、この墓を誰が引き継ぎ、あるいはどう終えるのかまで考え始めると、必要になるのは単なる「墓参りの代理」ではなく、「離れた場所にある家族の墓を継続して見守る存在」へと変わっていく。

 ここから、墓参り代行の次に生まれるサービスが見えてくる。それは墓を掃除する仕事ではなく、墓の状態を継続して確認し、その変化を記録し、必要なときには次の対応へつなぐ仕事である。

 たとえば年に数回墓地を巡回し、墓石、外柵、花立て、雑草、周囲の樹木などを確認して写真を残す。台風や大雨のあとには、希望する顧客から追加依頼を受けて異常がないか確認し、修繕が必要であれば石材店や寺院への相談につなぐ。依頼者は遠く離れた自宅にいながら、自分の家の墓がどのような状態になっているのかを知ることができるため、このとき顧客が買っているのは「掃除そのもの」より、「知らない間に墓が荒れているかもしれない」という不安を減らす機能だと考えた方が近い。

採算を決めるのは、単価よりも移動と集約である

 このサービスを商売として見るなら、最初に注意しなければならないのは、墓参り代行が見た目ほど簡単に利益を残せる仕事ではないという点である。大掛かりな店舗や高価な機械がなくても始められる一方、地方の訪問サービスでは、作業時間そのものよりも「何も売上を生んでいない移動時間」が利益を削るからである。

 仮に、一件の簡易な現地確認を5,000円で引き受け、墓地まで片道30分、現地確認と軽い清掃に40分、写真整理と報告に20分、帰路に30分かかったとすると、一件の仕事に合計2時間を使うことになる。この場合、経費を差し引く前の時間当たり売上は2,500円であり、ここからガソリン代、車両費、清掃用品、通信費、保険、事務作業などを負担しなければならないため、5,000円という価格は、注文が入れば売上にはなるものの、それだけで十分な利益が残る水準とは限らない。

 さらに注意したいのは、5,000円という数字が墓参り代行全体の標準価格を意味するわけではないことである。簡易な現地確認なら数千円台も考えられる一方、草取り、墓石清掃、供花、線香、写真報告まで含むサービスでは、一件当たり1万円前後あるいはそれ以上の価格になることもある。そのため採算を論じるときには、「墓参り代行は一回5,000円である」と固定するのではなく、作業範囲によって価格も必要時間も変わるサービスとして考える必要がある。

 それでも、同じ墓地に複数の契約者が集まれば採算が改善するという考え方そのものは、数理的にかなり強い。先ほどの条件をそのまま使い、一件当たり現地作業と報告に合計1時間かかるとすると、一件だけなら往復移動1時間を含めて合計2時間必要になるが、同じ墓地で二件を処理すれば合計3時間、五件なら合計6時間となる。このとき一件5,000円なら、一件だけでは売上5,000円を2時間で割って時間当たり2,500円、二件なら売上1万円を3時間で割って約3,333円、五件なら売上2万5,000円を6時間で割って約4,167円となり、同じ墓地に顧客が集まるほど共通の移動時間を複数の契約で分担できる効果が現れる。

 ただし、この効果には明確な上限がある。一件ごとの作業時間そのものは消えないため、顧客数を増やせば時間当たり売上が無限に高くなるわけではない。先ほどの条件では、顧客数が増えるにつれて共通移動時間の影響が小さくなり、時間当たり売上は一件当たり単価である5,000円に近づいていくが、それを超えることはない。したがって、共通の移動時間だけが薄まり、個別作業時間は必ず残るという構造で考える必要がある。

 ここから、この商売で見るべき数字が変わってくる。単純な契約者数より重要なのは、一つの墓地に平均何件の契約が集まるのかという「墓地単位の集約度」である。人口が少ない町だから事業が成立しないとは限らず、町内にいくつかの大きな墓地があり、そこに都市部へ転出した家族の墓がまとまっているなら、一回の巡回で複数件を処理できる可能性がある。反対に、契約者が20人いても墓地が広い地域に散らばり、それぞれ長時間の移動が必要なら、契約者数だけを見て「顧客が増えた」と判断することはできない。

年間契約は安定には効くが、利益率まで自動的に高めるわけではない

 墓参りには季節性がある。盆や彼岸の前には依頼が集中しても、それ以外の時期には仕事が少なくなる可能性があるため、一件ごとの依頼だけを待つ経営では年間売上を読みづらい。そこで有効になるのが年間契約だが、年間契約には長所と同時に注意点もある。

 ここでは一例として、年四回の状態確認と年二回の簡易清掃を組み合わせ、年間六回訪問する契約を考えてみる。台風や大雨のあとの緊急確認まで定額料金に無制限で含めると年間の訪問回数が事前に読めなくなるため、災害後の特別確認は追加料金とした方が、事業者にとっても顧客にとっても料金体系が分かりやすい。

 年間料金を仮に3万円とすると、年間六回の予定訪問だけで単純平均すれば一回当たり売上は5,000円になる。ただし、四回の状態確認と二回の簡易清掃では作業量が異なるため、一回当たり5,000円という数字だけで採算を判断するのは適切ではない。年間全体で何時間の作業が必要になるかを見る必要がある。

 そこで、状態確認一回につき現地30分と報告15分の計45分、簡易清掃一回につき現地60分と報告15分の計75分かかると仮定する。年四回の状態確認には合計3時間、年二回の簡易清掃には合計2時間30分が必要になるため、一契約当たりの年間直接作業時間は合計5時間30分となる。

 事業者自身の労働時間を一時間2,000円で評価すれば、年間直接人件費は1万1,000円になる。さらに清掃用品などの年間消耗品費を1,500円と仮定すると、移動費を除いた一契約当たりの年間直接費は1万2,500円となる。

 次に移動を考える。一回の墓地への往復について、移動時間に相当する人件費と燃料・車両費を合わせて2,800円かかると仮定すれば、年間六回の訪問に必要な共通移動費は1万6,800円となる。ただし、この1万6,800円は同じ墓地に複数の契約者がいれば分担できる。

 一つの墓地に一件しか契約がない場合、一件当たり年間費用は1万2,500円に1万6,800円を加えた2万9,300円となり、年間売上3万円から差し引くと残るのは700円にすぎない。二件なら移動費を二件で分けられるため、一件当たり費用は2万900円、残額は9,100円となり、五件なら一件当たり費用は1万5,860円、残額は1万4,140円、十件なら一件当たり費用は1万4,180円、残額は1万5,820円となる。

 もちろん、この残額はそのまま事業者の利益ではない。ここから広告費、通信費、保険料、決済手数料、会計費用、車両の減価償却、契約管理などの間接費を負担する必要がある。それでも、この試算からは、一墓地一件では採算が極めて厳しく、同じ墓地に複数件の契約を集めることによって初めて事業としての余裕が生まれるという構造が見えてくる。

 重要なのは、これらの数字が墓参り代行業界の平均実績を示したものではなく、一定の条件を置いた感度分析だということである。実際の価格、作業時間、移動距離、車両費、清掃範囲によって結果は変化するため、この数字そのものよりも「どの変数が利益を左右するのか」を見ることに意味がある。

「100件で300万円」という数字だけでは、事業性は判断できない

 年間3万円の契約者が100件いれば年間売上は300万円になる。この計算自体は正しいが、その数字だけで事業が成立するかどうかは判断できない。

 同じ100件でも、十か所の墓地に平均十件ずつ集まっている場合と、百か所の墓地に一件ずつ散らばっている場合では、必要な移動回数がまったく違う。仮に一件当たり年六回訪問するとすれば、契約単位では年間延べ600件分の作業が発生するが、一回の巡回で平均五件をまとめて処理できれば、必要な墓地訪問は年間120回となり、月平均では10回程度になる。

 一方、一回の巡回で平均1.5件しか処理できなければ、600件分の作業を1.5件ずつ処理するため、墓地訪問は年間400回になる。同じ年間売上300万円でも、前者と後者では移動に必要な時間と車両費が大きく異なるため、事業の採算性もまったく違ってくる。

 そのため事業計画で本当に見るべきなのは、「100件集める」という数字ではなく、年間契約件数、年間訪問回数、一巡回当たり平均処理件数、平均移動時間、一件当たり作業時間を組み合わせた運営構造である。墓地単位で仕事をまとめられるなら比較的少ない契約数でも効率が上がるが、顧客が広域に散らばれば、件数が増えるほど忙しくなるのに利益が残らないということも起こり得る。

継続率は重要だが、高い更新率を当然視してはいけない

 この事業では継続契約が増えるほど新規営業の負担が下がるため、更新率は非常に重要な指標になる。しかし、「毎年九割程度の顧客が継続する」といった数字を、実績の裏付けなしに当然の前提とするのは危険である。

 たとえば年間継続率が90%なら翌年には100件中90件が残るが、80%なら80件、70%なら70件しか残らない。契約数を100件に維持しようとすれば、それぞれ年間10件、20件、30件の新規契約を獲得しなければならず、継続率が10ポイント違うだけでも営業負担は大きく変わる。

 したがって、高い更新率を実現できれば経営が安定するという方向性は正しいものの、「墓管理だから自然に更新率が高くなる」と考えることはできない。実際に何%が翌年も契約するのかは、事業を始めたあとに検証すべき重要な数字である。

 その意味で、この事業の本当の資産は清掃道具でも車でもなく、特定地域に積み上がった継続契約と、それぞれの墓について蓄積された記録である。毎回同じ角度から墓石を撮影しておけば、ひび割れや傾きの変化を確認でき、雑草の状態や補修履歴、寺院や霊園からの連絡事項まで残していけば、その事業者は単なる清掃業者ではなく、その墓の経過を最もよく知る外部管理者になっていく。

低価格競争を避けるには、「掃除」以外の価値が必要になる

 墓石を洗い、草を取り、花を供え、写真を送るだけなら、利用者から見た事業者の違いは小さくなり、最終的には価格競争へ向かいやすい。ところが、数年間の記録が残り、「昨年よりここに細いひびが増えている」「この時期は草が伸びやすい」「前回は石材店にこの補修を依頼した」といった情報まで蓄積されれば、サービスの価値は清掃作業そのものから離れていく。

 この差は大きい。安い業者が新しく現れたとしても、何年間も状態を記録し、自分の家の事情や寺院との関係を理解している事業者を簡単に変更するとは限らないため、継続性が生まれやすくなる。価格ではなく「自分の墓について誰が最もよく分かっているか」が選択理由になれば、地域密着型事業者が大きな会社に対して持てる優位性も見えてくる。

次の商機は、墓を売ることではなく、次の問題へつなぐことにある

 ただし、墓の管理だけで十分な市場規模を確保できるとは限らない。墓を自分で管理する人もいれば、寺院が管理サービスを提供している地域もあり、将来的に墓じまいが進めば管理対象そのものが減る可能性もある。そのため、「高齢化するから墓管理市場は必ず拡大する」と単純化するのは適切ではない。

 むしろ長期的には、墓を入口として家族が抱える別の問題へ自然につながっていくことに意味がある。墓を管理している顧客から、「実家も空き家になっている」「仏壇をどうすればよいかわからない」「子どもは墓を継がないと言っている」「墓じまいについて誰に相談すればよいかわからない」といった話が出てくれば、空き家管理、家財整理、墓じまいの準備、寺院や石材店への連絡補助など、別の困りごとが見えてくる。

 ここで大切なのは、自社ですべてを施工しようとしないことである。石材工事を自分で行う必要もなく、法律や税務に関する専門判断まで抱え込む必要もない。地域の石材店、寺院、行政書士など、それぞれの分野を担当できる人へつなぐ調整役になるだけでも価値は生まれる。小規模事業者が何でも自前で抱えれば、設備投資と固定費が増え、かえって採算を悪化させる可能性があるからである。

広告より、地域内の紹介経路が重要になる可能性が高い

 墓というものには、一般的な家事代行とは違う難しさがある。依頼者にとって墓は単なる石ではなく、家族の記憶や宗教観、感情と結びついているため、広告を見ただけで知らない事業者へすぐ任せるとは限らない。

 そのため、年間3万円の契約を得るために高額な広告費を使えば、初年度の利益がほとんど消えてしまう可能性がある。むしろ寺院、石材店、葬祭事業者、不動産事業者など、すでに地域で信頼を持っている人から紹介される仕組みの方が相性はよい。ただし、これらの事業者の仕事を奪うような入り方をすれば紹介は生まれないため、自分は現地確認や依頼者との連絡を担当し、専門的な施工や宗教的手続きは既存の専門家へ渡すという役割分担が必要になる。

「小さい市場だから儲かる」とは限らない

 人口減少地域の商機を考えるとき、「大企業には小さすぎ、一人で営むには十分な市場」という表現には魅力があるが、これは条件付きでしか成立しない。市場が小さいということは、大企業が参入しにくいという利点と同時に、そもそも十分な顧客が存在しないという欠点も意味するからである。

 したがって、小規模事業者に向く市場とは、単に人口が少ない市場ではない。一定の支払意思を持つ顧客が特定の墓地や地域にある程度まとまり、大手企業が店舗や人員を配置するほどの規模ではない一方、一人あるいは少人数の事業者には十分な売上が見込める場合に初めて、地域型のニッチ市場として成立する。

 この条件を満たすかどうかは、地域ごとに調べなければわからない。墓地の数、区画数、都市部へ転出した世帯の割合、寺院や霊園がすでに提供しているサービス、現在の管理状況、価格に対する支払意思などを確認しなければ、本当の市場規模は見えてこない。つまり、この事業は「高齢化している町だから成立する」のではなく、「困っている人が一定数いて、その人たちが一定の価格を払い、しかも効率よく訪問できる場所に集まっている」という複数の条件が重なったときに初めて成立するのである。

墓の記録は、やがて家族の記録へ変わっていく

 この仕事は、やがて「墓の状態を記録するサービス」から、「家族の記憶を整理するサービス」へ発展する可能性もある。墓石には亡くなった人の名前や年月日が刻まれているが、その人がどのような人物で、現在の家族とどのようにつながっているのかまでは残らない。親が亡くれ、叔父や叔母が亡くれ、墓について詳しく知る人がいなくなると、墓石だけが残り、そこに眠る人と現在の家族との関係がわからなくなることもある。

 そこで、墓の所在地、墓石の写真、刻まれている名前、建立時期、管理する寺院や霊園、親族関係などを整理し、家族へ渡すサービスが考えられる。これは華やかなデジタル事業ではないが、「父が元気なうちに実家の墓について整理しておきたい」と考える人にとっては現実的な価値を持つ可能性があり、家系図まで大げさに作らなくても、最低限の情報を冊子や電子データとして残すだけで、次の世代が困る可能性を減らすことができる。

 さらに時間が進めば、問題は「墓を守る」ことから「墓をどう終えるか」へ移っていく。墓じまいを考え始めても、寺院、霊園、石材店、行政、親族など複数の関係者が登場し、何から始めればよいのかわからない人は少なくない。遠方に住んでいれば現地で相談すること自体が難しいため、依頼者の代わりに現地を確認し、必要な作業を整理し、適切な専門家へつなぐ「墓の相談窓口」という役割も考えられる。

 ここまで来ると、この仕事は墓石の清掃業からかなり離れ、高齢社会における家族資産の遠隔管理へ近づいていく。空き家管理と墓地管理は一見すると別の仕事に見えるが、遠方にある家族の資産を定期的に確認するという点ではよく似ており、実家、墓、仏壇、寺院との連絡などをまとめて扱うサービスへ発展する可能性もある。ただし、それが実際に事業として成立するかどうかは、需要の存在だけではなく、顧客がどこまでお金を払うのかを確かめなければ判断できない。

人口減少は、「家族が無償でしていた仕事」が市場へ出てくる現象でもある

 人口が減少する地域では、店が減り、交通が減り、仕事も減っていくため、地域経済について語るとどうしても悲観的な話になりやすい。しかし人口減少とは、単に人が少なくなる現象ではなく、これまで家族の内部で無償に近い形で処理されていた仕事を担当する人がいなくなる現象でもある。

 親の様子を見る人がいなくなれば見守りサービスが必要になり、庭を手入れする人がいなくなれば草刈りサービスが生まれ、買い物へ行く人がいなくなれば配送サービスが必要になる。同じように、墓を守る人がいなくなれば、その役割の一部を地域の誰かが引き受ける余地が生まれるため、人口減少地域で新しい商売を探すときには、「まだ誰も思いついていない画期的な商品」より、「これまで家族が黙って引き受けていた仕事のうち、これから誰もできなくなるもの」を探した方が現実的なのかもしれない。

 ただし、そこに困りごとがあるからといって、すぐに市場になるわけではない。困っている人がいても、自分で解決する人、親族に頼む人、寺院へ相談する人、何もしない人もいるため、「困っている人数」と「お金を払ってサービスを買う人数」は一致しない。事業として成立するかどうかを判断するには、その間にある支払意思を確かめる必要がある。

 したがって、この墓管理サービスを「これから必ず伸びる市場」と断定することはできない。一方で、墓の承継や管理が難しくなる社会背景は現実に存在し、地理的に顧客を集約できれば採算が改善することも数理的には説明できるため、少なくとも検討に値する事業仮説ではある。

 十年後、地方の墓地を歩けば、今以上に空いている区画や管理されていない墓が目立つようになるかもしれない。しかし、その風景を単なる衰退として見るだけでは、地域でこれから必要になる仕事は見えてこない。誰も来なくなった墓の向こう側には、遠く離れた町でその墓を気にしながら、自分では簡単に行くことのできない家族がいる可能性がある。

 その距離を埋める仕事に商機があるとしても、成立条件は厳しい。高い料金をつければよいわけでも、契約数だけを増やせばよいわけでもなく、同じ墓地に顧客を集め、移動を減らし、年間契約を無理のない頻度で設計し、長く付き合える関係をつくる必要がある。それができなければ、墓参り代行は善意に近い便利屋仕事のまま終わる可能性があり、逆にこの条件を丁寧に積み上げることができれば、小さくても持続する地域サービスになる余地がある。

 墓地に生える一本の草は、人口減少そのものを表しているのではない。それは、これまで家族の中で処理されていた役割が、少しずつ担い手を失っていることを知らせる兆候である。その兆候を見て、「誰もいなくなる」と嘆くだけではなく、「では、この仕事を誰が引き受けるのか」と問い直したところから、過疎地の新しい商いは始まる。ただし、その答えは希望だけでは完成せず、需要、支払意思、移動時間、顧客密度、継続率という冷静な数字を通過して初めて、現実の事業へ変わるのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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数字で比較するサービスを見る

 人口が減る地域で医療の問題を考えると、議論はどうしても「病院が少ない」「医師が足りない」というところから始まる。確かに、それは間違っていない。しかし、人口そのものが減少し、医師や看護師の確保も難しくなる地域で、新しい病院や診療所を次々につくることは現実的ではない。建物だけを用意しても医療は成立せず、医師、看護師、検査技師、医療事務などを確保し続けなければならない以上、患者数が減り続ける地域では経営そのものが難しくなるからである。

 では、病院を増やせない地域では、住民の通院負担を減らすこともできないのだろうか。そこで発想を少し変えてみると、病院そのものを増やすこととは別の市場が見えてくる。病院へ行くことが大変なのであれば、病院を近くにつくることだけを考えるのではなく、患者が病院へ行き、診察を受け、薬を受け取り、家に帰るまでの一連の過程に存在する負担を減らせばよいのである。

 地方の高齢者にとって、通院とは診察室で医師と話している十数分だけを意味しない。予約日を確認し、保険証や診察券を準備し、家族に送迎を頼み、病院へ移動し、診察まで待ち、検査を受け、診察が終われば薬局へ行き、ときにはその外出に合わせて買い物まで済ませて帰宅する。本人が自動車を運転できなくなれば、その一連の行動は突然難しくなり、道路上の距離は変わっていないのに、病院だけが急に遠くなったように感じられる。

 実際、高齢者の医療アクセスを扱った研究では、病院の数や医師数だけでなく、交通手段、運行時間、家族への依存、予約のしにくさなどが受診を妨げる要因になることが繰り返し指摘されている。したがって、地域医療の問題を「医療資源が足りない」という一つの問題だけとして見るのではなく、「医療資源は存在しているが、そこへ到達するまでの生活上の摩擦が大きい」と捉えることには、十分な合理性がある。

通院の問題は、交通だけではない

 そこで思いつきやすいのが、高齢者を病院まで送迎するサービスである。しかし、通院負担を送迎だけの問題として捉えると、見落とすものが多い。高齢者本人が困っているのは、自宅から病院までの数キロメートルだけではなく、予約日を忘れないこと、必要な持ち物を揃えること、時間どおり家を出ること、診療が何時に終わるか分からないこと、薬局まで移動することなどを含めた一連の段取りだからである。

 例えば、利用者に前日に連絡して翌日の受診を確認し、当日は病院まで同行し、受診後には薬局や買い物へ寄り、帰宅したことを離れて暮らす家族へ知らせる。こうして考えると、医療行為そのものではないが、通院を成立させるためには欠かせない仕事が数多く残されていることが分かる。

 重要なのは、こうした仕事の多くは医師や看護師でなければできないものではないという点である。医療そのものを提供するのではなく、既存の医療へ人をつなぐ仕事であれば、小さな事業者にも関与できる余地が生まれる。ただし、ここで「困っている人がいるから市場がある」と短絡してはいけない。必要とされるサービスが存在することと、それに十分な料金を払う人が存在すること、さらにその料金で事業者が利益を残せることは、まったく別の問題だからである。

「必要とされる」と「商売になる」は違う

 地域ビジネスを考えるとき、最も危険なのは、社会的に必要なものは必ず事業になると思い込むことである。通院に困っている高齢者が多く、そのうち相当数が送迎や同行を希望していたとしても、それだけでは民間事業として成立することを意味しない。

 調査によっては、高齢者の多くがドア・ツー・ドア型の移動支援を利用したいと答えている一方、支払ってもよい金額として実費程度を挙げる人が多いことも報告されている。利用したいという意思は存在しても、人件費、車両費、保険、予約管理などを含めた十分な料金を支払う意思があるとは限らないのである。

 この違いは大きい。事業を成立させるためには、「困っている人が何人いるか」だけでなく、「そのうち何人が有料サービスを利用するのか」「一回当たりいくらまで払えるのか」「月に何回利用するのか」まで調べなければならない。

 したがって、通院支援を新規事業として考えるなら、高齢化率や人口だけを眺めていても不十分である。実際に住民がどの医療機関へ通っているのか、家族送迎がどの程度使われているのか、タクシー料金を負担に感じているのか、自治体の交通支援がどこまであるのかを確認し、そのうえで初めて市場の大きさを推定できる。

この仕事の採算を壊すのは、距離だけではなく「時間」である

 通院支援事業を考えると、まず燃料代や走行距離に目が向きやすい。しかし、実際に採算を大きく左右するのは、むしろ人員が何時間拘束されるかである。

 例えば、一人の利用者から三千円を受け取り、病院への往復と付き添いに三時間半かかったとする。仮に人件費を一時間千五百円と考えれば、人件費だけで五千二百五十円になり、そこへ燃料、車両の減価、保険、予約管理などが加わる。これでは一人を一回送迎するだけでは赤字になりやすく、一人当たりの料金を大幅に引き上げるか、一回の運行で複数人をまとめなければ採算は取れない。

 ところが、複数人を同じ病院へ運べば必ず効率化できるとも限らない。ある利用者は三十分で診察が終わり、別の利用者は検査が追加されて二時間かかることがあるため、診療終了時刻のばらつきによって車両とスタッフが長時間拘束されるからである。

 つまり、通院支援事業の経営を難しくするのは距離だけではない。診療終了時間を予測しにくいという「時間の不確実性」が、稼働率を下げるのである。

 この問題を小さくするには、サービスをすべて付き添い型にしないという発想が必要になる。予約確認だけをする利用者、出発時刻を電話で知らせる利用者、病院まで同行する利用者、帰宅確認だけを家族へ知らせる利用者というように、必要な支援を分けることができれば、一人に数時間付き添うモデルよりも効率は上がる可能性がある。

「患者」だけを顧客だと考えない

 ここで、もう一つ重要な視点が出てくる。

 サービスの利用者が高齢者本人であっても、料金を支払う人まで本人である必要はない。地方に暮らす高齢の親を、東京や千葉市など離れた地域で暮らす子どもが心配しているケースは少なくない。家族が仕事を休んで通院に付き添えば、交通費だけでなく、休暇や移動時間という見えないコストも発生する。

 この負担を考えれば、「親を病院まで送るサービス」よりも、「親が予定どおり病院へ行き、無事に帰宅したことまで確認できるサービス」に価値を感じる家族が存在する可能性がある。

 ただし、ここでも可能性と事実を混同してはいけない。家族が心配していることは確認できても、その家族が月額いくらまで支払うのかについては、地域や所得、親子関係によって大きく異なる。したがって、遠方の子世代を支払者とするモデルは有望な仮説ではあるが、本当に事業になるかどうかは、実際の聞き取りや小規模な実証によって確かめる必要がある。

 むしろ、このような検証を行わずに料金を決めることの方が危険である。月三千円なら利用者が多いが採算が取れず、月一万円なら採算は取れるが契約者がほとんどいないということも十分にあり得る。必要なのは、利用人数と料金の両方を同時に考えることである。

医療情報を扱わない方が、かえって事業はつくりやすい

 家族向けのサービスを考えると、「診察結果まで報告してくれれば便利だ」という話になりやすい。しかし、ここには慎重さが必要である。

 病歴や診療内容は個人情報の中でも特に慎重な取扱いが求められる情報であり、本人の同意なく第三者へ伝えるべきものではない。さらに、付き添い事業者が医師の説明を解釈して家族へ伝えるようになれば、単なる生活支援の範囲から離れてしまう危険もある。

 したがって、事業を安全に設計するなら、「病院へ到着した」「受診が終わった」「薬局へ寄った」「自宅へ戻った」といった生活上の事実だけを共有し、診断名や医師の説明そのものは本人または医療機関から家族へ伝えてもらう方がよい。

 医療の代わりをしないからこそ、この仕事は成立しやすくなる。病気を判断する仕事ではなく、必要な医療へ確実につながれるよう支援する仕事と定義した方が、利用者にも事業者にも分かりやすい。

送迎サービスを始めればよい、というほど簡単ではない

 さらに、日本でこの仕事を考えるなら、法律上の整理も避けられない。

 自家用車に利用者を乗せ、運送の対価として料金を受け取る場合には、道路運送法との関係を確認する必要がある。単に自分の車で高齢者を病院へ送り、料金を受け取ればよいというものではない。

 一方で、一定の条件のもとで自治体や非営利団体などが行う自家用有償旅客運送という制度があり、また、運転そのものとは別に実態のある付き添いや生活支援サービスについて料金を受け取る形が考えられる場合もある。ただし、「送迎料金」という名称を「付き添い料金」に変えればよいという単純な話ではなく、実際にどのようなサービスを提供しているのかによって判断される。

 したがって、通院支援事業を考えるなら、最初に車を買うのではなく、最初に事業の範囲を決めるべきである。既存のタクシー会社と連携し、自分は予約、同行、待ち時間の支援を担当する方法もあるし、自治体や地域交通との連携を前提にする方法もある。

 新しい事業とは、必ずしもすべてを自社で抱えることではない。既に存在する交通と医療をつなぐ役割に徹する方が、小さな地域事業としては現実的な場合もある。

オンライン診療が広がれば、この仕事はなくなるのか

 オンライン診療の普及によって、通院そのものが減る可能性はある。しかし、それによって通院支援が不要になるとは考えにくい。

 オンライン診療では画面越しに医師と話すことはできても、採血、画像検査、処置など、医療機関へ行かなければ受けられないものは残る。また、高齢者の場合には、スマートフォンやタブレットの操作、予約、通信接続、決済などが新たな障壁になることもある。

 すると、将来の通院支援は「病院まで運ぶ仕事」だけではなくなるかもしれない。普段は自宅でオンライン診療の接続を支援し、必要な検査があるときだけ病院への移動を支援するようになれば、利用者の通院回数そのものを減らしながら必要な医療を維持できる。

 ここでも重要なのは、医療そのものを提供しようとしないことである。専門家に代わるのではなく、専門家へつながるための障害を取り除くのである。

地方の商機は、大きな不足より「小さな摩擦」にある

 地方の新規事業を考えると、どうしても「病院がない」「スーパーがない」「公共交通がない」という大きな問題に目が向く。しかし、小さな事業者がそれらを丸ごと解決することは難しい。

 ところが、生活の中で人を苦しめているのは、大きな不足だけではない。雨の日には病院まで行けない、診察が何時に終わるか分からないので迎えを頼みにくい、薬局まで歩くのがつらい、遠くの子どもに毎回頼むのは気が引けるといった、一つ一つは小さく見える不便が積み重なることで、生活全体の自由度は低下していく。

 この一つ一つの不便を経済学的に見れば、「摩擦」と考えることができる。

 施設そのものを増やすには大きな資本が必要だが、施設と利用者の間にある摩擦を減らすことなら、小規模な事業でも可能である。人口が減る社会では、施設そのものを増やす事業より、既存施設を使いやすくする事業の重要性が高くなる可能性がある。

ただし、成立する地域と成立しない地域がある

 このモデルがどこでも成り立つと考えるのも危険である。

 利用者が広い地域に一人ずつ散らばっていれば、移動時間だけで採算が悪化する。家族送迎が十分に機能している地域では、有料サービスへの需要は小さいかもしれない。自治体の無料送迎や病院の送迎車が充実している地域では、民間事業者が料金を取って参入する余地も小さくなる。

 一方で、高齢者が比較的まとまって居住し、主要な通院先がいくつかの病院に集中し、子ども世代が地域外へ出ている地域では、条件は変わる。一定の範囲に利用者が集まっていれば移動効率は高まり、同じ病院へ通う利用者をある程度まとめることも可能になる。

 事業成立を左右するのは、単純な人口規模ではなく「顧客密度」である。

 例えば高齢者が一万人いる市町村でも、広大な地域に分散していれば支援コストは高くなる。一方、高齢者が千人しかいなくても、一つの住宅地に集中し、同じ病院へ通っているなら、小規模サービスが成立する可能性はむしろ高くなる。

 人口統計だけでは、この違いは見えてこない。

最初に調べるべきなのは病院数ではなく、人の動きである

 この事業を本当に検討するのであれば、地域の高齢化率だけを調べて終わるべきではない。

 住民がどの医療機関へ通っているのか、一か月に何回通院するのか、何曜日に集中しているのか、現在どのような交通手段を使っているのか、送迎している家族はどこに住んでいるのか、現在の交通費はいくらなのかを調べる必要がある。

 そのうえで、例えば百世帯に聞き取りを行い、「月三千円なら利用する」「五千円なら利用する」「一万円でも家族が払う」といった支払意思を確認すれば、初めて売上の推定ができる。

 さらに、その利用者の自宅と病院の位置を地図上に置けば、走行距離や一日の対応件数も推定できる。

 ここまで行えば、「高齢者が多いから需要があるはずだ」という曖昧な発想から、「一日平均何件を対応でき、月に何件の契約があれば固定費を回収できるか」という経営判断へ進むことができる。

病院を一軒建てることはできなくても

 人口減少地域で、新しい病院を一軒つくることは容易ではない。しかし、既にある病院を使いやすくする仕事なら、規模の小さな事業者にも可能性はある。

 その仕事は、単なる送迎ではないかもしれない。予約確認、付き添い、交通手段の手配、薬局への移動、オンライン診療の接続支援、家族への帰宅確認などを組み合わせた「通院管理サービス」のような形になる可能性もある。

 ただし、需要があることだけを理由に始めてはいけない。料金を払う人が存在するのか、待ち時間を含めても採算が合うのか、道路運送法上どのような形なら実施できるのか、医療情報をどこまで扱わない設計にできるのかを、一つずつ確認しなければならない。

 それでも、この市場を考える意味はある。

 人口が減る社会では、病院も商店も銀行も行政窓口も、住民のすぐ近くに置き続けることが難しくなる。しかし、施設が遠くなることと、生活まで不便なままにしておくことは同じではない。

 施設を増やすことが難しくなるほど、施設と人との間を埋める仕事の価値は高くなる。

 地方の新しい商機とは、必ずしも巨大な産業を生み出すことではない。以前なら家族や地域のつながりの中で自然に処理されていた小さな不便が、人口減少、高齢化、家族の分散によって少しずつ処理できなくなっていく。その隙間を見つけ、無理のない価格と仕組みで引き受けられるかどうかを考えることが、新しい商いの出発点になる。

 病院を増やすことはできなくても、病院までの距離を生活の中で短くすることはできる。

 そして人口減少時代の地域ビジネスでは、おそらく、その「距離を縮める仕事」の方が、これから重要になる。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 午後7時を過ぎるころから、町の景色が少しずつ変わっていく。スーパーの駐車場から車が減り、ドラッグストアの看板が暗くなり、個人商店のシャッターが下りる。午後8時ともなれば、昼間にはそれなりに生活の気配があった通りが、驚くほど静かになる地域もある。都会から移り住んだ人なら、最初はその静けさを「地方らしい落ち着き」と感じるかもしれないが、牛乳を買い忘れた、翌朝のパンがない、帰宅が遅れて夕食を用意できなかった、子どもに必要な日用品が突然切れた、という瞬間に、その静けさは風情ではなく生活上の制約へ姿を変える。

 この問題を単に「地方には店が少ない」と考えるだけでは、本質の半分しか見えてこない。人口減少地域では店舗数だけでなく、住民が商品を必要とする時間と、商品を購入できる時間との間にずれが生まれている場合があるからである。言い換えれば、地理的な買物空白だけでなく、時間的な買物空白が存在する可能性がある。

 ただし、ここで慎重でなければならない。午後8時以降に店が閉まっているからといって、その時間帯に十分な購買需要が必ず存在するとは限らない。「買えない人がいる」ということと、「事業として採算が取れるほど買いたい人がいる」ということはまったく別だからである。

 それでも、この時間の空白を市場として測ってみる価値はある。

店が早く閉まるのには合理的な理由がある

 地方の店が早く閉店するのは、経営者の努力不足でも、サービス精神が足りないからでもない。午後8時、午後9時まで営業したとしても、その時間帯に来店する客が数人しかいなければ、人件費、照明、冷暖房、レジ管理、防犯、在庫管理などの追加費用を回収できない。人口が減少すれば商圏そのものが小さくなり、高齢化が進めば買物時間が昼間に集中する傾向も強くなるため、「夜は客が少ないから閉める」という判断には経済合理性がある。

 その一方で、店が早く閉まるようになると、住民も「夜には買えない」という前提で生活するようになる。昼間に買い物を済ませ、夜に必要なものが出ても我慢するようになり、やがて夜間の購買実績そのものが消えていく。その結果、店側には「夜には売れない」という数字だけが残るが、それが本当に需要の不存在を意味するのか、それとも供給がないため購買行動として観測されなくなったのかは分からない。

 ここには、地方の小さな市場を分析するとき特有の難しさがある。

「売れていない」と「欲しくない」は同じではない

 たとえば午後9時に牛乳が必要になった人がいるとする。しかし、町の店がすべて閉まっていれば、その人は商品を購入できない。翌朝まで我慢するか、別の商品で代用するか、遠方の店まで車を走らせることになるが、地域内の夜間売上として記録される数字はゼロである。

 このときゼロなのは、需要そのものではなく「観測された販売量」である。人が欲しいと思ったこと、買いたいと思ったこと、しかし買えなかったことは通常の販売データには残らない。

 この違いは重要である。

 しかし逆に、「売上が記録されていないのだから、隠れた巨大需要がある」と考えるのも誤りである。潜在需要が存在する可能性と、その需要が事業として十分な大きさを持っていることは別問題だからだ。

 したがって、「夜間需要は確実に存在する」と結論づけるのではなく、「供給されていないため観測できていない需要が存在する可能性があり、その規模を測定する必要がある」と考える方が科学的である。

商機になるかどうかは、客数だけでは決まらない

 夜間に数人の需要が存在すると分かったとしても、それだけで店を夜10時まで開けるべきだという結論にはならない。むしろ人口の少ない地域では、「何人来るか」と同じくらい、「何人来れば採算が合うのか」という損益分岐点の方が重要になる。

 仮に、夜間の客一人が千円の商品を購入し、その販売によって実際に事業者の手元に残る金額が二百円だったとする。夜間営業を維持する追加費用が一日五千円なら、二十五人ほどの利用客が必要になる。一方、人を配置せず、既存店舗の商品を無人受取設備で渡す仕組みにして追加費用を一日千五百円まで下げられれば、必要な利用客は八人程度になる。

 もちろん、これは実際の事業費を示した数字ではなく、構造を説明するための単純な例にすぎない。しかし、ここから重要なことが分かる。人口減少地域では、需要を大きくすること以上に、少ない需要でも成立するように固定費を下げることが事業成立の鍵になるのである。

 つまり、商機は「夜まで開いている店を作ること」ではなく、「夜まで人を置かなくても商品を受け取れる仕組みを作ること」にあるかもしれない。

営業時間を延ばすのではなく、販売と受取を分ける

 この考え方を進めると、夜間営業そのものを行う必要がなくなる。昼間にスーパーや商店で商品を準備し、夕方までに注文を確定し、住民が夜になってから指定場所で受け取る仕組みにすればよい。冷蔵品や冷凍品であれば適切な設備が必要になるが、店舗全体を夜まで営業させるより固定費を抑えられる可能性がある。

 重要なのは、商品の販売時間と受取時間を分離することである。

 従来の小売業では、客が店に来る時間に店員もいなければならなかった。しかし、注文、決済、商品の準備、受け取りを別々の時間に分ければ、人を常駐させる必要はなくなる。人口密度の低い地域では、この時間分離が採算性を大きく左右する。

 これなら既存商店とも競争しにくい。新規事業者が商品を大量に仕入れて在庫を抱えるのではなく、既存店舗の商品を夜でも受け取れるようにする仕組みを提供すれば、地域内の売上を奪い合うのではなく、これまで売上になっていなかった時間帯の需要を拾える可能性がある。

本当の競争相手は「翌朝まで我慢すること」

 夜間需要の商品を考えるとき、都会のコンビニエンスストアの品揃えをそのまま再現してはいけない。人口の少ない地域で数千種類の商品をそろえれば、販売量の少ない在庫が増え、廃棄と資金負担だけが大きくなる。

 むしろ考えるべきなのは、「夜になってから突然必要になりやすい商品」である。牛乳やパン、飲料、冷凍食品、簡単な夕食、紙おむつ、衛生用品、電池などには、計画的に購入する商品とは少し違った性格がある。昼間に買っておける商品であっても、人は買い忘れるし、予想外に消費することもある。

 こうした商品で重要なのは、競争相手が他店だけではないという点である。

 本当の競争相手は、「今日は買わずに明日まで待とう」という行動である。

 五百円の商品を買うために車で二十分走らなければならなければ、多くの人は諦めるかもしれない。しかし、家から数分の場所で受け取れるなら購入する人が出てくる可能性がある。地方では、商品価格そのものだけではなく、「今入手できること」「遠くまで行かなくてよいこと」が付加価値になる。

 ただし、その価値に住民がいくら支払うのかは実際に測らなければ分からない。

アンケートより重要なのは「本当に払うか」

 新しいサービスを考えると、「夜でも買い物ができたら利用しますか」と住民に尋ねたくなる。おそらく多くの人が好意的に答えるだろう。しかし、「利用したい」と「実際に千円を支払う」の間には大きな差がある。

 市場調査では、口頭で答えた希望よりも、実際の購買行動の方が信頼性が高い。

 そのため、この事業を検証するなら、大規模な設備投資をする前に小さな実験を行うべきである。数十世帯から百世帯程度を対象に一定期間、午後8時以降に何を必要としたかを記録し、その後、実際に予約販売や夜間受取サービスを試験的に始める。すると「利用したい人の割合」だけでなく、「実際に買った人の割合」「一人あたり購入金額」「何度繰り返し利用したか」「どの商品が売れたか」まで測定できる。

 この段階まで進んで初めて、「時間的な買物空白が商機であるか」を客観的に判断できるようになる。

配送は便利だが、必ずしも安くない

 夜間の買物問題を考えると、宅配すればよいという発想も自然に出てくる。しかし、ここには注意が必要である。

 仮に千円の商品を販売して、粗利益として二百五十円が残るとする。それを一件の家庭まで届けるために三百円の追加費用がかかれば、商品を売るほど五十円ずつ赤字になる。

 地方では住宅間の距離が長くなるため、配送コストが都市部以上に重くなることもある。したがって、夜間対応では一件ずつの個別配送より、地域ごとの受取拠点、決まった時間の巡回、複数世帯へのまとめ配送、既存配送網との共同運行などの方が経済的に成立しやすい。

 配送という言葉には便利な印象があるが、事業者から見れば、移動距離はそのまま費用になる。

 そのため「店舗を開けるより配送すれば安い」と単純化することはできない。

客が少ないなら、需要を束ねる

 人口の少ない地域で夜間の商品受取だけを事業にすると、利用回数が少なすぎる可能性がある。そこで考えられるのが、一つの設備や配送網に複数の生活サービスを載せる方法である。

 高齢者向けの日用品、共働き世帯向けの夕食、地域農産物、クリーニングの受け渡しなどを、同じ受取拠点や同じ注文システムで扱えれば、一つのサービスだけでは回収できなかった費用を複数の事業で分担できる。

 これは人口密度の低い地域に適した考え方である。

 ただし、何でも加えればよいわけではない。商品ごとに別の冷蔵設備が必要になったり、配送時間が増えたり、在庫管理が複雑になったりすれば、かえって費用が膨らむ可能性がある。

 したがって重要なのは、同じ設備、同じ車両、同じ注文システム、同じ顧客管理を共用できる需要だけを束ねることである。

 その条件を満たして初めて、複数サービスを扱うことが経営効率につながる。

「店がない」のは需要がない証拠ではない

 「もし夜間に大きな需要があるなら、すでに誰かが店を開いているはずだ」という考え方には一理ある。しかし、それだけで需要の不存在を証明することはできない。

 人口の少ない地域では、需要が存在していても、初期投資が大きい、人手を確保できない、事業者が需要の存在を知らない、採算性を測るデータがない、既存の商店が高齢化している、といった理由で新しい供給が生まれないことがある。

 したがって、供給されていない市場には二種類ある。

 本当に需要がなくて誰も参入しない市場と、需要はあるが従来の事業モデルでは採算が合わず、誰も参入できない市場である。

 新しい商機が存在するとすれば、後者である。

無人店舗にも魔法はない

 ここまで読むと、無人店舗や無人受取設備を置けば問題が解決するように見えるかもしれない。しかし、無人化しても費用がゼロになるわけではない。

 設備費、電気代、冷蔵・冷凍設備、防犯、決済手数料、補充作業、故障対応、清掃などは残る。利用者が一日に数人しかいなければ、設備費の回収に長い年月がかかる可能性もある。

 したがって、最初に調べるべきなのは「どの設備を買うか」ではない。

 午後8時以降に何人が何を必要としており、どの程度の頻度で利用し、便利さにいくらまで支払うのかを確かめることである。

 設備は、その数字が見えてから考えればよい。

全国展開より先に、一つの町で数字を取る

 営業時間の空白は、一つの町だけに存在する特殊な現象ではない。人口減少や小売店舗の撤退が進む地域では、似た問題が起きている可能性がある。

 そのため、一つの地域で成立した仕組みを別の地域へ展開できる可能性はある。

 しかし、ここでも注意が必要である。

 人口構成、車の保有率、既存店舗までの距離、高齢者の割合、観光客の数、通勤者の帰宅時間などは地域によって大きく違うため、一つの町で成功したからといって、全国どこでも同じように成立するとは限らない。

 それでも、注文、決済、受け取り、在庫連携といった仕組み自体を標準化できれば、地域ごとにすべてを一から作る必要はなくなる。

 新規事業として狙うべきなのは、全国に同じ商品を売ることではなく、「人口密度が低い地域でも成立する販売方式」を作ることなのかもしれない。

小さな不便だからこそ、大企業には入りにくい

 人口減少地域には、住民にとっては困るが、大企業には市場が小さすぎる問題が数多く存在する。

 夜間の買物も、その一つになり得る。

 一つの町で一日に十人しか利用しないサービスを、大企業が全国規模の事業として運営するのは難しい。しかし、店舗を持たず、既存商店と連携し、固定費を小さくした地域事業者であれば成立する可能性がある。

 ここでは事業規模の違いが重要になる。

 年間何十億円もの売上が必要な企業にとって魅力がなくても、地域内で月数十万円、百万円規模の売上を積み重ねる小規模事業者にとっては意味のある市場かもしれない。

 地方の新規ビジネスでは、「市場が小さい」という事実だけで可能性を否定するのではなく、「どの規模の事業者なら成立する市場なのか」を考える必要がある。

午後8時の暗さを、市場として測ってみる

 夜8時、町から店の明かりが消える。

 その景色を人口減少の象徴として眺めることもできる。商店が減り、営業時間が短くなり、生活の選択肢が少なくなっていることは事実である。

 しかし、明かりが消れたあとも、人々の暮らしは続いている。仕事から帰り、夕食を食べ、子どもを寝かせ、翌日の支度をする。その途中で牛乳がないことに気づき、明日のパンを買い忘れたことを思い出し、今日は料理を作りたくないと思うこともある。

 その一つ一つが商売になるとは限らない。

 むしろ、多くはそのまま我慢され、翌朝まで持ち越されるだろう。

 それでも、その中に一定の頻度で繰り返され、一定の金額を支払ってでも解決したい不便があるなら、そこには市場が存在する。

 重要なのは、最初から「商機がある」と信じることではない。

 どれほどの人が、どのくらい困っており、いくらなら支払うのかを小さく測定することである。そして利用者が少なくても成立するように、人を常駐させず、在庫を持ちすぎず、既存店舗を利用し、受取拠点や配送網を共用する。

 その数字が合ったときに初めて、「営業時間の空白」は商機になる。

 午後8時の暗さそのものに価値があるのではない。

 その暗さの中で、住民がどんな不便を何度も諦めているのか。それを感覚ではなく行動として測り、少ない需要でも成立する仕組みに変えられるかどうか。

 地方の新しい商売は、そこから始まるのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

 「何でも屋」と聞くと、どこか昭和の商店街を思わせる響きがある。電球を交換し、庭の草を刈り、重い家具を動かし、壊れた戸を見て、頼まれれば買い物まで手伝う。専門店でもなければ、最先端のスタートアップでもなく、看板を見ただけでは何を売っているのかさえはっきりしないため、専門化が進んだ現代社会から見れば、時代に取り残された商売のようにも映る。

 ところが人口が減り、店が減り、職人も減り、家族まで遠くに住むようになった地域を眺めると、この曖昧な商売が別の姿を見せ始める。人口が増えていた時代には、仕事を細かく分けても、それぞれの専門分野に十分な客が存在したが、人口密度が下がれば、同じ仕組みを維持することは次第に難しくなる。専門化によって効率を高めてきた社会が、人口減少によって逆向きの力を受け始めるのである。

専門店が成立するには、見えない「人口の土台」が必要になる

 専門化は効率的である。しかし、その効率性には条件があり、ある種類の仕事だけを引き受ける事業者が存在し続けるためには、その仕事を一定の頻度で依頼する顧客が、通える範囲、あるいは訪問できる範囲に十分存在していなければならない。都市であれば人口密度が高いため、一つの狭い分野に特化しても顧客を集めやすいが、住宅が点在する地域では、同じ専門化がそのまま有利になるとは限らない。

 仮に三十分で終わる仕事のために往復一時間かかるとすれば、事業者が費やしているのは三十分ではなく一時間半であり、その間には車両費や燃料費も発生する。それでも次の家で同じ種類の仕事が続けば効率は改善するが、人口密度が下がるほど、そのような連続受注は難しくなり、「仕事そのものは存在しているのに、一つの業種だけでは十分な仕事量にならない」という状態が起こりやすくなる。

 そこで発想を少し変えると、人口密度の低い地域では、一つの需要を深く掘るよりも、一人の顧客が抱える複数の小さな需要をまとめて扱うほうが合理的なのではないかという仮説が生まれる。庭の草を刈ったあとに家具を動かし、照明器具の交換を手伝い、スマートフォンの設定を確認するという仕事は、一つずつ見れば小さいが、一回の訪問という単位でまとめれば、移動時間を何度も発生させずに済む。

 これは経済学でいう「範囲の経済」に近い考え方である。異なるサービスを別々の事業者が別々に提供するより、一人の事業者が共通する移動、車両、道具、受付、顧客関係を利用しながら複数の仕事を提供したほうが、全体の費用を抑えられる場合がある。何でも屋という古い名前の背後には、人口密度が下がった地域に適応するための、意外に現代的な経済合理性が隠れている。

高齢化が生み出すのは、「できない仕事」だけではない

 人口減少地域で生活支援を考えるとき、高齢化という言葉がすぐに浮かぶが、本当に増えている困りごとは、介護や医療のように制度化された大きな問題だけではない。むしろ日常生活の中には、制度の対象にはなりにくいが、本人にとっては確実に負担となる小さな作業が無数に存在している。

 脚立に乗れば交換できる照明、少し力を入れれば移動できる家具、車があれば運べる荷物、操作を知っていれば設定できるスマートフォンなどは、若いころには誰かに頼む必要すら感じなかった仕事かもしれない。しかし年齢を重ねれば、転倒への不安が増え、筋力が落ち、車を手放し、細かなデジタル操作も負担になるため、「自分でやれば済む仕事」が少しずつ外部サービスへ移っていく。

 しかも高齢化と同時に単身世帯や高齢夫婦のみの世帯が増えれば、家庭内で助け合う余地も小さくなる。以前なら夫婦のどちらかができたこと、近所の家族が手伝ったこと、子どもが帰省したときに済ませていたことが、誰にも頼めないまま残りやすくなるのである。

 ここで生じる問題は、「できない」ことだけではない。「誰に頼めばよいのか分からない」という問題がある。大きな修理なら専門業者へ連絡できるが、電球一個、家具一つ、スマートフォンの設定一件となると、どこへ電話すればよいのか判断しにくく、業者に頼むほどのことではないという遠慮まで加わる。この心理的な空白こそ、何でも屋が扱う市場の一部になる。

 したがって何でも屋の本当の商品は、草刈りでも家具移動でもなく、「これは誰に頼めばよいのだろう」と悩む時間を減らすことである、と考えることもできる。相談の入口が一つであれば、利用者は仕事の分類をする必要がなく、まず相談し、その後に対応できることと専門業者へ渡すことを分けてもらえばよい。

ただし、「需要がある」ことと「商売になる」ことは違う

 ここで最も注意しなければならないのは、生活上の小さな困りごとが多いからといって、それだけで民間事業が成立するわけではないということである。需要の存在と支払意思は別の問題であり、さらに支払意思があっても、そこから移動費、人件費、車両費、道具代、保険料、広告費、事務作業の時間を差し引いたあとに利益が残らなければ事業にはならない。

 たとえば一回五千円の仕事でも、往復一時間、作業一時間、連絡や準備に三十分かかれば、事業者が拘束される時間は二時間半になる。そこから燃料費や車両維持費を差し引けば、見かけ上の五千円ほどには利益が残らない。逆に一度の訪問で三つの仕事をまとめ、合計一万円の売上にできれば、同じ移動時間を使いながら一件当たりの採算は大きく改善する可能性がある。

 つまり、この事業で重要なのは単なる客数ではない。仮に百世帯の顧客名簿を持っていたとしても、それぞれが年に一回しか利用しなければ売上は小さい一方、五十世帯でも利用頻度が高く、一回の利用額が大きければ事業としては安定しやすい。成立性を考えるなら、顧客数だけではなく、一世帯当たりの年間利用回数、一回当たりの平均利用額、移動時間、作業時間、再利用率を一緒に見なければならない。

 したがって、「五十軒あれば成立する」「百軒なら十分だ」というような単純な数字には意味がない。同じ百軒でも、年一回三千円しか使わない顧客と、月一回五千円使う顧客では年間売上が何倍も違うからである。何でも屋の商機を判断するなら、「何人いるか」より「どの程度の頻度で、いくら支払うのか」を確かめる必要がある。

一回の訪問を、単発仕事から「生活の維持管理」へ変えられるか

 採算性を考えると、何でも屋の事業モデルは単発の雑用代行だけでは弱い。遠くまで走って二千円、三千円の仕事を拾い続ける方式では、仕事はあるのに利益が残らないという状態になりやすく、人口密度の低い地域ほどその危険は大きくなる。

 そこで重要になるのが、一回の訪問そのものに価値を持たせる考え方である。たとえば月に一度、一時間から二時間程度訪問し、その家で発生している小さな困りごとをまとめて処理する方式なら、草刈り、家具移動、簡単な清掃、機器設定などを一つずつ別の商品として販売するよりも、利用者にとって分かりやすくなり、事業者側も移動コストを分散しやすくなる。

 このとき顧客が購入しているのは、個々の作業ではなく、「月に一度、家の中と周囲を一緒に見てくれる時間」である。すると何でも屋は、単発の便利屋から、暮らしを維持するための継続的な訪問サービスへ近づいていく。

 ただし、ここでも安易に定額制へ進めばよいわけではない。定額料金を低く設定しすぎれば、利用回数が多い顧客ほど赤字になり、逆に高く設定すれば利用者が集まらないため、実際には訪問時間、対応範囲、追加料金、作業上限を慎重に設計する必要がある。定額制が魅力的に見えるのは、売上が安定するからであって、採算まで自動的に安定するわけではない。

公的サービスやシルバー人材センターは、競争相手にもなる

 地域にはすでに、生活上の小さな困りごとを支援する仕組みが存在している。自治体、社会福祉協議会、シルバー人材センターなどが、草刈り、清掃、買い物支援、簡単な家事援助を比較的低料金で行っている地域もあり、民間の何でも屋が同じ内容を同じ価格帯で競えば、採算面では不利になる可能性がある。

 この事実は、「何でも屋には需要がない」という意味ではない。むしろ需要が存在するからこそ、公的・準公的なサービスも成立しているのであり、問題はその需要のどこまでが民間料金を支払ってもらえる市場なのかという点にある。

 公的サービスには、利用対象者、作業内容、利用時間、申込手続きなどに一定の条件が付くことが多い。そのため民間事業者が目指すべき場所は、単純な値下げ競争ではなく、「今日頼みたい」「複数の仕事を一度に済ませたい」「高齢者に限らず利用したい」「細かな相談をまとめてしたい」といった、公的サービスでは処理しにくい部分になる。

 したがって、成功する何でも屋があるとすれば、それは「何でも安くやる人」ではなく、「地域にすでにある仕組みでは埋まらない小さな隙間を、速さと柔軟性で埋める人」だろう。

「何でもする」と「何でもできる」は違う

 何でも屋という名称には、もう一つ注意すべき問題がある。「何でも相談できる」ことと、「何でも自分で作業する」ことは同じではない。

 電気工事、廃棄物の収集運搬、一定の建設工事などには資格や許可が関係する場合があり、医療や介護に近い仕事になればさらに慎重な判断が必要になる。何でも屋という名称だけを頼りに、自分にできそうだからという理由で仕事を引き受ければ、事故だけでなく法的な問題にもつながる。

 むしろ現代型の何でも屋に必要なのは、自分のできる範囲を広げ続けることではなく、どこから先を専門家へ渡すかを判断する能力である。家具の移動はできても配線工事は電気工事士へつなぎ、庭の手入れはできても危険な高木伐採は専門業者へ渡し、スマートフォンの操作は説明しても銀行口座の暗証番号には触れないという境界を持たなければならない。

 その境界が明確であるほど、利用者から見れば安心して相談できる。何でも屋とは、万能な職人ではなく、「まず相談を受け、できることとできないことを整理する地域の入口」と考えたほうが、現代社会には合っている。

人口減少は、客が減るだけでなく「頼める人」も減らす

 人口減少について語るとき、多くの場合は消費者の減少が問題になる。人口が減れば客も減り、市場は縮小するという説明である。それ自体は間違っていないが、供給側も同時に減っていくことを忘れると、地方の実態を見誤る。

 地域の人口が一割減ったとき、商店や職人も一割ずつ均等に減るとは限らない。後継者のいない個人事業者が相次いで廃業すれば、人口は一割しか減っていないのに、あるサービスの供給者は半分になることもあり得る。すると市場全体は縮小しているにもかかわらず、残った一人の事業者には依頼が集中するという現象が起こる。

 この構造は人口減少地域の商機を考えるうえで重要である。人口が減っているから需要がすべて消えるのではなく、需要より速く供給が減る分野では、むしろ「頼める相手がいない」という不足が生まれる可能性がある。

 スーパーがなくなり、電器店が閉まり、近所の大工が引退し、子ども世代も遠くへ移れば、地域に残った住民の人数は減っているにもかかわらず、一人当たりが外部へ頼みたい仕事は増えることがある。人口減少時代の新しい市場は、「人が増える場所」だけでなく、「供給の消え方が需要の減り方より速い場所」に生まれるのである。

大企業が不得意でも、競争相手がいないわけではない

 小さく内容の異なる仕事を一件ずつ処理する事業は、大企業が得意とする標準化とは確かに相性がよくない。今日は草刈り、明日は家具移動、その次はスマートフォン支援という仕事を社員組織で大量に処理しようとすれば、教育や料金設定、作業管理が複雑になるからである。

 しかし、だからといって大規模な競争相手が現れないとは限らない。現代には、事業者自身が作業員を雇わなくても、インターネット上で依頼者と地域の個人事業者を結び付けるプラットフォーム型の仕組みがあり、小さな仕事を大量に集めて分配することもできる。

 したがって「大企業にはできないから地域の個人事業者が安泰だ」という結論は危険である。むしろ地域の何でも屋が競争力を持つとすれば、インターネット上で初めて会う人には提供しにくい、継続的な信頼関係の部分になる。

 高齢者宅へ毎月入り、前回直した場所を覚え、家の状態を知り、本人の性格まで理解している事業者は、単発依頼を仲介する仕組みとは異なる価値を持つ。価格だけではなく、「この人なら家に上げられる」という信頼そのものが参入障壁になるのである。

最も大きな壁は、支払意思かもしれない

 人口減少地域の新規ビジネスを考えると、「困っている人がいる」という事実が強調されやすい。しかし、事業として最も重要なのは、困っているかどうかだけではなく、その問題を解決するためにいくらまで支払う意思があるのかという点である。

 たとえば電球交換に困っている高齢者が百人いても、一回五千円なら誰も依頼しないのであれば、市場規模は事実上ゼロに近い。逆に百人のうち二十人しか困っていなくても、月一回五千円の訪問サービスを継続して利用するなら、小さいながらも明確な市場が生まれる。

 したがって、地域で何でも屋を始める前に必要なのは、人口統計を見ることだけではない。実際に住民へ聞き、「どのような仕事なら頼みたいか」「現在は誰に頼んでいるか」「いくらなら利用するか」「年に何回程度必要になるか」を確かめなければならない。

 人口、高齢化率、単身世帯率は市場の存在を推測する材料にはなるが、売上を決めるのは最終的に支払意思と利用頻度である。ここを確認しないまま「高齢者が多いから需要がある」と考えると、社会的には必要でも商売としては成立しないという結果になりかねない。

「困りごとの数」より「一回の訪問価値」を測る

 数理的に見ても、この商売では一つひとつの仕事の数より、一回の訪問から得られる粗利益が重要になる。訪問するためには、電話や予約の対応、移動、駐車、車両、準備という固定的な負担が発生するため、その費用を一つの小さな仕事だけで回収しようとすると料金が高くなりやすい。

 逆に一回の訪問で二つ、三つと作業をまとめれば、同じ移動費を複数の仕事へ分散できる。人口密度の低い地域で何でも屋が合理的かもしれないという核心は、まさにこの点にある。

 ただし、何でも扱えば扱うほど利益が増えるわけでもない。作業範囲を広げすぎれば、多くの道具が必要になり、技術習得に時間がかかり、仕事ごとの作業時間も予測しにくくなるため、逆に運営は非効率になる。したがって実際には、「何でも」ではなく、同じ顧客が繰り返し必要とし、同じ車両や基本的な道具で対応できるいくつかのサービスに絞るほうが合理的だろう。

 外から見れば何でも屋でも、内部では仕事をかなり選んでいるという状態が、おそらく最も強い。

何でも屋は、古いのではなく「市場の粒が小さくなった時代」の商売かもしれない

 かつての村や町には、一人で複数の仕事をこなす人が珍しくなかった。農家が家を修理し、商店が配達を行い、町の電器店が商品を売るだけでなく設置や修理まで引き受けるという姿は、技術が未熟だったからだけではなく、人口の少ない社会では一人が複数の役割を持つほうが合理的だったからでもある。

 高度成長と都市化は、その構造を逆転させた。人口が増え、所得が増え、消費が増えたことで、市場を細かく分けても、それぞれの分野に十分な客が存在するようになった。その結果、「何でもできる人」より「一つのことに非常に詳しい人」が高く評価される社会が形成された。

 しかし人口が減る時代には、再び異なる合理性が現れる可能性がある。もちろん昔と同じ社会に戻るわけではなく、現代にはインターネットがあり、スマートフォンがあり、専門業者との連携も容易になっているため、未来の何でも屋は昔の雑用屋をそのまま復活させた存在ではない。

 むしろ、地域の小さな問題を一度受け止め、自分で処理できるものは処理し、資格や高度な技能が必要なものは専門家へつなぎ、公的サービスで対応できるものならそちらを案内する「暮らしの総合窓口」に近づいていく可能性がある。

何でも屋の商機は、「人口減少」だけでは証明できない

 ここまで考えると、何でも屋が人口減少時代に合理的であるという仮説には、かなり強い理論的な根拠がある。人口密度が下がれば一業種だけでは市場が小さくなり、移動コストの比重が高まり、複数のサービスをまとめる意味が大きくなる。また高齢化、単身化、商店や職人の減少によって、小さな生活支援への需要が残る可能性も高い。

 しかし、ここから「だから何でも屋は儲かる」と進むことはできない。実際の採算性は、その地域でどれだけの住民が有料サービスを利用するのか、一回当たりいくら支払うのか、年間何回使うのか、一件当たり何分移動するのか、公的サービスや既存事業者がどの程度存在するのかによって決まる。

 つまり人口減少は商機の存在を示す一つの条件にすぎず、それだけで事業性を証明するものではない。人口統計を見て「高齢者が多いから成功する」と判断するのではなく、実際の料金、利用頻度、移動距離、競合状況を調べ、それでも利益が残るかを確かめる必要がある。

 その意味では、「何でも屋」という商売は、派手な成長市場ではない。全国へ一気に拡大するような事業でもなく、一人の事業者が何万人もの顧客を獲得するモデルでもないだろう。

 それでも、地域ごとに小さく成立する余地はある。

 人口が増えていた時代には、一つの大きな需要を見つけ、それを深く掘ることで事業を成長させることができた。人口が減る時代には、同じ地域に散らばっている小さな需要を横につなぎ、一回の訪問、一人の顧客、一軒の家という単位で束ね直すことが重要になるかもしれない。

 地方には大きな市場がない、とよく言われる。それはかなり正しい。しかし、大きな市場がないことと、商売が存在しないことは同じではない。

 草を刈ってほしい人、家具を動かしてほしい人、スマートフォンの設定を手伝ってほしい人を、それぞれ別の市場として数えれば、どの市場も小さいかもしれない。ところが、それらは別々の人ではなく、同じ一人の生活者が抱えている困りごとかもしれない。

 人口減少社会で探すべき新規ビジネスは、まったく新しい需要を発明することだけではない。経済が拡大する過程で細かく分割され、専門化され、いつの間にか誰もまとめて扱わなくなった需要を、もう一度生活者の側から束ね直すことも、新しい商売になる可能性がある。

 「何でも屋」という看板だけを見れば、確かに古い。

 しかし、その中身を、移動コスト、人口密度、範囲の経済、高齢化、単身化、支払意思、信頼関係という現在の条件から見直してみると、それは昔の商売の生き残りではなく、人口が減る社会に合わせて再設計される、小さな地域ビジネスの一つの原型なのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 町から店が一軒消えるとき、失われるのは看板一枚ではない。魚屋がなくなれば魚を買う場所が減り、文房具店がなくなればノート一冊を買うために車を走らせる距離が伸び、クリーニング店が閉じれば衣類を預ける場所がなくなる。銀行の支店が撤退すれば、これまで窓口で済ませていた用事を別の町まで出向いたり、慣れないスマートフォンやパソコンで処理したりしなければならない。人口の多い都市なら一つの店が消えても別の店が役割を代替するが、人口の少ない町では、一軒の撤退が生活を支えていた機能そのものを少しずつ剥がしていく。

 だからといって、昔あった店を昔と同じ形で復活させればよいわけではない。人口が減り、客数が減った結果として店が維持できなくなったのであれば、新しい看板を掲げただけで市場が元に戻るはずもなく、スーパー、書店、電器店、旅行代理店、銀行、宅配窓口と、それぞれの用途ごとに建物を構え、人を置き、光熱費を払い、設備を維持するという商業の形そのものが、人口密度の低下に耐えにくくなっていると考えた方が自然である。

 そこで発想を変える余地が生まれる。店の数を昔の水準に戻そうとするのではなく、残る一つの店が担う役割を増やせないかと考えるのである。

 食料品を売る店で宅配便を受け付け、コピーや印刷ができ、地元の商品を取り寄せられ、インターネット通販の商品を受け取れるようにする。さらに、その地域の実情に合うのであれば、高齢者がスマートフォンの基本操作を相談したり、地域交通の予約を頼んだり、住宅の修繕や草刈りをしてくれる事業者を紹介してもらったりする場所にもなる。何も巨大な商業施設を造る必要はなく、一軒の小さな店に、生活上のいくつかの入口を重ねるのである。

 ここでは、そうした店を「複合店」と呼んでみたい。

 複合店の価値は、何でも売ることにはない。むしろ、一つ一つでは商売にならないほど小さな需要を、一か所に集められることにある。人口の少ない町では、電球を買いたい人、荷物を送りたい人、コピーを使いたい人、スマートフォンの操作を相談したい人は、それぞれ確かに存在していても、一つ一つの需要は専門店一軒を維持できるほど大きくない。しかし、それらの需要が同じ場所に流れ込むなら、一つの店が複数の小さな市場を束ねることができる。

 過疎地の商売が難しいのは、需要が完全に消えてしまうからではない。多くの場合、需要が薄く、広く、ばらばらに散らばってしまうからである。

 米も買いたい、荷物も送りたい、コピーもしたい、スマートフォンの使い方も聞きたいという需要は残っている。それにもかかわらず、それぞれを別々の専門店として成立させるには客数が足りないのであれば、需要を業種ごとに切り分けるのではなく、一つの場所に集約する方が合理的になる。この考え方は単なる思いつきではなく、人口減少地域で生活サービスを維持する方法として、実際に各地で進められている「小さな拠点」の発想とも重なる。買い物、郵便、飲食、交通など複数の機能を一か所に集めようとする地域はすでに全国各地に存在しており、サービスの複合化そのものは現実の政策や地域運営でも使われている。

 経営の側から見ても、この仕組みには理屈がある。店を一軒構えれば、売上がゼロの日でも家賃や建物費、電気代、通信費、設備費などが発生するが、食品を売る仕事に宅配受付やコピーサービスを加えたからといって、建物の費用が二倍になったり、駐車場が三倍必要になったりするわけではない。同じ建物、同じレジ、同じ通信回線、同じ店員を複数の仕事で共有できれば、一つ一つのサービスが単独で店舗全体の固定費を背負う必要がなくなる。

 これは経済学でいう「範囲の経済」に近い。複数の商品やサービスを別々に提供するよりも、同じ設備や人員を使って一緒に提供した方が総費用を抑えられるなら、複合化には経済的な意味がある。

 ただし、ここには重要な条件がある。サービスを増やせば増やすほど利益が大きくなるわけではない。

 新しいサービスを始めるたびに専用設備を買い、在庫を増やし、店員に専門的な教育を施し、一件ごとに長時間の接客が必要になるのであれば、複合化によって浮く費用よりも、新しく発生する費用の方が大きくなる。したがって成功する複合店とは、十種類、二十種類の業務を無秩序に詰め込んだ店ではなく、すでにある場所、人、時間、設備を使って処理できる仕事を慎重に選んだ店である。

 複合化で本当に重要なのは、サービスの数ではない。同じ客、同じ場所、同じ設備、そして店員の同じ時間を、どこまで無理なく共有できるかである。

 例えば、店員が一日中休む暇もない店で新たな相談業務を始めれば、そのために人を増やさなければならず、人件費がそのまま上乗せされる。しかし一日のうち何度も客足が途切れ、店員に一定の待機時間がある店なら、その時間に宅配便を受け付けたり、短時間の操作支援をしたりすることで、新しく人を雇わずに追加収入を得られる可能性がある。

 ここに、小さな町の複合店を考えるうえで大切な視点がある。売上を増やすこと以上に、これまで使われていなかった時間や設備を売上に変えられるかどうかが重要なのである。

 仮に一日に三十人が来店し、月に二十六日営業する店なら、一か月の来店回数は約七百八十回になる。もしその店が月五万円だけ収支不足だったとすれば、すべての来店に均等に追加利益を求めるなら、一回来店当たり六十数円程度の利益増加で埋められる計算になる。しかし、実際に追加サービスを利用する人が来店者の四分の一しかいなければ、一件当たりに必要な追加利益は二百円を超える。

 そこへ接客時間が加わると話はさらに変わる。仮に一時間当たりの人件費を千三百円程度と考え、一件の相談に十分かかるなら、それだけで二百円を超える労働費用が発生する。したがって数百円の料金を取っても、追加で人を雇って対応するなら利益が残らない場合があり、反対に、店員の既存の待機時間を使えるのであれば、同じ売上でも採算は大きく改善する。

 複合店は、少額の売上を無数に積み上げれば必ず成功する魔法の仕組みではない。その成否を決めるのは、追加サービスから得られる収入から、そのサービスのために新しく発生する人件費、設備費、事務費などを差し引いた利益がどれだけ残るかであり、その利益が店舗全体の固定費をどこまで支えられるかである。

 この点を無視すると、「住民に喜ばれる店」と「事業として続く店」を取り違える。

 無料でスマートフォンの操作を三十分説明すれば住民には喜ばれるかもしれないが、その時間が毎日積み重なれば店側の負担になる。買い物代行で車を十キロ走らせ、数百円しか受け取らないのであれば、燃料費や車両費だけでなく移動時間まで考えた瞬間に採算が崩れる可能性がある。地域ビジネスでは、必要とされているサービスだから成立するのではなく、利用者がいくらまで払えるのか、一日に何件発生するのか、一件を処理するのに何分かかるのかという数字まで確認して、初めて事業になる。

 一方で、一つの場所に複数の用事を集めることには、売上を直接生む以上の効果も考えられる。宅配便を送りに来た人が牛乳やパンを買い、コピーを使いに来た人が飲み物を買い、商品の取り寄せを頼みに来た人がそのまま日用品も購入することがあれば、一つのサービスが別の売上を呼び込む。

 もっとも、この効果を当然のものとして見込むのは危険である。宅配受付を始めれば来店者が何人増え、その何割が商品を購入するのかは、地域人口、店舗立地、営業時間、競合店の有無などによって大きく変わるからだ。したがって「宅配を始めれば物販も伸びる」と決めつけるのではなく、実際に一定期間試して、来店数、併売率、一人当たり購入額がどう変化したかを測る必要がある。

 このように考えると、複合店は壮大な地方創生策というより、小さな実験を積み重ねる経営に向いている。

 最初から十種類のサービスを始める必要はない。宅配受付を加え、その利用状況を記録し、次に商品の取り寄せを加え、それでも店員の負担が大きくないなら別のサービスを試す。利用件数、売上、必要時間、追加費用を記録して、利益の残らない仕事はやめる。このように一つずつ検証していけば、地域ごとに異なる「採算の取れる組み合わせ」が見えてくる。

 そして複合店の役割をもう少し広げて考えると、「商品をたくさん置く店」というより、「町の小さな受付窓口」という姿が見えてくる。

 現在はインターネット通販や物流網が発達しているため、小さな店があらゆる商品を倉庫に抱える必要はない。注文を受け、商品が届いたら渡すだけでよいものもある。住宅の修繕も店員自身が直す必要はなく、地域の工務店や電気工事業者などにつなぐ役割であれば、在庫や大規模な設備を持たなくてもよい。

 高齢者から「庭木を切ってくれる人はいないか」「エアコンを掃除してくれるところを知らないか」「水道の調子がおかしいが、どこへ頼めばよいのか分からない」と相談を受け、適切な事業者につなげることができれば、店は商品を売る場所だけではなく、地域内の需要と供給を結ぶ場所へ変わっていく。

 ここで店が解決するのは、商品不足だけではない。「誰に頼めばよいのか分からない」という不便である。

 人口の多い都市なら、インターネットで検索すれば多数の業者が見つかるが、小さな町では検索結果そのものが少なく、近隣で実際に仕事を頼める事業者かどうかも分かりにくい。反対に、草刈り、清掃、電気工事、住宅修繕などを行う小規模事業者も、一軒ずつ顧客を探すために時間を使っている。

 この両者を地域の店が結びつければ、住民が事業者を探す手間と、事業者が顧客を探す手間の双方を減らせる可能性がある。

 さらに、複数の依頼をまとめることができれば、事業者側の移動効率も改善する。例えば、ある地区から草刈りの依頼が一件だけ届けば、往復の移動時間を考えると受けにくい仕事でも、複合店が同じ地区から五件をまとめて「火曜日にこの地区で五件あります」と渡せれば、一回の移動で複数の仕事を処理できる。

 人口密度の低い地域では、客を増やすことと同じくらい、移動一回当たりに処理できる仕事を増やすことが重要になる。複合店が地域の注文を集める場所になれば、住民には頼みやすく、事業者には移動効率がよく、店側にも受付や仲介による収入が残るという形をつくれる可能性がある。

 ただし、仲介業務には慎重さも必要になる。

 何を取り次ぐかによっては、資格、契約、個人情報の取扱い、事故が起きた場合の責任、紹介先の品質管理などを考えなければならない。店が単に連絡先を紹介するのか、正式に依頼を受け付けて料金まで集めるのかでも責任の範囲は変わるため、「地域の困りごとは何でも引き受ける」という曖昧な仕組みにするのではなく、どこまでが店の仕事で、どこからが専門事業者の責任なのかを明確にする必要がある。

 つまり、複合店は何でも屋になればよいのではない。小さな需要を集約しながら、専門的な仕事は専門家に渡す「接点」になることに価値がある。

 ここまで考えると、一つの疑問が残る。これほど合理的な仕組みなら、複合店をつくれば人口の少ない町でも簡単に商売が成立するのだろうか。

 答えは、そこまで単純ではない。

 生活サービスを一か所に集める仕組みは全国で実際に広がっているが、そのすべてが完全な民間事業として利益を出しているわけではなく、地域運営組織や自治体などが関わって維持されている例もある。移動販売や生活支援サービスでも、住民に必要とされながら、自治体などの支援がなければ収支が合いにくい事例は存在する。

 ここには、地方ビジネスを考えるうえで避けて通れない問題がある。社会的に必要であることと、民間事業として利益を出せることは同じではない。

 人が少ない地域ほど、一人当たりのサービス提供費用は高くなりやすい。十分な利益を取れば住民が利用できなくなり、料金を下げれば事業者が続けられなくなる。この境界線にあるサービスについては、行政や地域組織の支援を組み合わせる方が合理的な場合もある。

 したがって複合店を過疎地の万能策として語るべきではない。複合化には、一つ一つのサービスを単独で運営するよりも固定費を共有し、損益分岐点を下げられる可能性があるというのが、より正確な表現になる。

 それでも、この違いは小さくない。

 人口が少ないから何もできないのではなく、一つの商売だけでは成立しなくなった地域で、複数の小さな需要を束ねれば成立する仕事が残っている可能性があるからである。

 都市では市場規模が大きいため、一つの分野に特化し、専門性を高めることが競争力になる。しかし人口の少ない町では、専門化しすぎれば市場そのものが小さくなり、客を確保できなくなる。人口密度が低下するほど、「狭く深く」よりも「近くでいくつもの用事が済む」という価値が相対的に高くなる。

 昔の町には「よろず屋」があった。食料品から日用品まで、住民が必要とするものを店の棚にできるだけ多く置いていたが、現在の複合店は、それと似ているようで少し違う。

 これからの店が抱えるべきなのは、大量の商品ではないのかもしれない。

 注文、受取、相談、予約、仲介といった「機能」である。

 商品そのものは遠くの倉庫から運んでもよいし、専門的な作業は別の町の事業者が担当してもよい。しかし、住民が困ったときに最初に尋ねる場所まで遠くにする必要はない。

 人口が減る社会で、昔と同じ数の銀行、商店、行政窓口、専門店をそのまま残し続けることは難しい。それならば、建物や業種を残すことにこだわるのではなく、そこで提供されていた「生活機能」を取り出し、別の場所へ移し替えることを考えた方がよい。

 専門店がなくなっても、商品を注文して受け取れる場所があれば困らない人は多い。行政窓口が遠くなっても、必要な手続きの方法を教えてくれる場所が近くにあれば助かる。地域交通の営業所がなくても、乗車予約を受け付ける場所があれば利用できる人はいる。

 地域から建物が一つなくなったからといって、その建物が担っていた機能まで同じ割合で失われなければならないという決まりはない。

 そこに、小さな町の商機がある。

 もっとも、その商機は派手ではない。短期間で全国展開できる事業でも、一店舗で巨額の利益を上げる商売でもないだろう。一日に数件発生する小さな不便を拾い、既存の店、人員、設備を使いながら、一件数百円、数千円の利益を積み重ね、店舗全体の固定費を少しずつ支えていく。

 だが人口減少社会では、その「小ささ」がむしろ重要になる。

 人口が減れば、大量の客を集めることは難しくなる。しかし、一人の住民が抱える困りごとまで一つになるわけではない。食品も必要で、荷物も送り、家も修繕し、交通も使い、スマートフォンも操作しなければならないのであれば、一人の住民との取引を深くする余地は残る。

 これからの地方商業で問うべきなのは、「何人の客を新しく呼べるか」だけではない。

 一人の住民が日常生活の中で発生させる複数の需要を、どこまで一つの場所で受け止められるかという視点も必要になる。

 そして、それが本当に商売になるかどうかは、理念ではなく数字で判断しなければならない。利用者数、利用率、一件当たりの料金、処理時間、追加人件費、追加設備費、そして他の商品への購買波及を実際に記録し、小さく試しながら組み合わせを変えていく必要がある。

 複合店は、過疎地を救う魔法ではない。

 しかし、一つの専門店では採算が取れなくなった地域でも、複数の小さな需要と既存資源を組み合わせれば、新しい商売の形をつくれるかもしれないという点では、十分に検討する価値がある。

 日本全体の人口が減少していけば、現在の過疎地で起きていることは、一部の山間部や漁村だけの出来事ではなくなる可能性がある。商圏人口が減り、専門店が撤退し、生活のための移動距離が伸び、残った店や事業者に複数の役割が求められるという現象は、やがて地方都市や郊外住宅地でも珍しくなくなるだろう。

 そう考えれば、小さな町は衰退した市場であると同時に、人口減少社会の新しい商業モデルを、ほかの地域より早く試している場所ともいえる。

 店が減る流れそのものを止めるのは難しい。

 しかし、店の数が半分になったから、地域で利用できる機能まで半分にしなければならないわけではない。

 一軒の店が二つ、三つ、五つの役割を無理なく担い、なおかつ一つ一つの仕事について採算を確認しながら続けていけるなら、小さな町の商業を「店舗数」だけで測る必要はなくなる。

 これから価値を持つのは、商品を最も多く並べた店ではないのかもしれない。

 「あそこへ行けば、とりあえず相談できる。頼める。受け取れる。そして、必要なら誰かにつないでもらえる」

 住民からそう思われる場所をつくり、その信用と利便性を、無理のない料金と小さくても継続可能な利益へ変えていくことができるかどうか。人口減少によって店が消えていく時代だからこそ、一つの店に何を足せるかではなく、一つの場所にどの需要を重ねれば持続可能になるのかを考えるところに、小さな町の次の商売が隠れている。

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