地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 市町村の将来について話し合う会議では、しばしば一枚の人口グラフが議論の空気を決める。現在一万人の町が十年後には八千人になり、その先には六千人になるという右肩下がりの線を見せられると、この線を何とか上向かせなければならないという感覚が生まれる。移住者を呼び込み、若い世帯に住んでもらい、出生数を増やし、企業を誘致して働く場所をつくる。人口が減ることが問題なら、人口を増やすことが解決策になるという考え方は、確かに分かりやすい。

 もちろん、実際の自治体が文字どおり「人口最大化」だけを目的として動いているわけではない。近年は国の地方創生政策でも、人口減少を前提として地域社会をどう維持するかという考え方が強くなり、住民の幸福や暮らしやすさを政策評価に取り込もうとする動きも広がっている。それでも、人口の増減が自治体の将来を語る際の非常に強い指標であり続けていることも事実である。「人口が増えた町」は成功しているように見え、「人口が減った町」は何かに失敗したように見える。この感覚は、自治体政策を考える私たちの中にかなり深く入り込んでいる。

 そこで、一度だけ評価の物差しを入れ替えてみたい。人口をできるだけ減らさないことを中心に据えるのではなく、「その町で暮らす住民一人一人が得られる生活上の価値を、持続可能な範囲でできるだけ高くすること」を自治体経営の中心目標に置いたら、町の姿はどのように変わるのだろうか。

人口一万人の町は、人口八千人の町より豊かなのか

 仮に二つの町があるとする。一方は人口一万人を維持しているが、病院まで車で四十分かかり、買い物にも自動車が欠かせず、高齢者が運転免許を返納すると日常生活そのものが難しくなる。空き家は増え続けているのに住宅地は広く分散し、道路、水道、公共施設を少ない利用者で支えている。

 もう一方の町では人口が八千人まで減っているものの、住宅や商業、医療、行政機能がある程度まとまり、日常の買い物には十五分程度で行くことができ、公共交通や乗合サービスによって自動車を運転できなくなっても生活を続けられる。医療へのアクセスも改善し、老朽化した公共施設は整理され、自治体財政にも一定の余裕が残っている。

 人口だけで評価すれば、一万人の町の方が優れている。しかし、そこに暮らす人間から見たとき、本当にそう言い切れるだろうか。この疑問から見えてくるのは、人口には確かに重要な意味があるものの、それ自体が住民生活の最終目的ではないということである。

 人口が多ければ税収を確保しやすくなり、スーパーや飲食店も営業しやすくなる。学校、病院、公共交通なども一定数の利用者がいるから成立するのであり、人口が減り過ぎればそれらを維持できなくなる。この意味で人口は極めて重要である。しかし、その重要性は「人が多いほど無条件に良い」から生じているのではなく、人口が地域のサービスや経済や人間関係を支える基盤になっているから生じている。

 そう考えると、人口は自治体の最終目的というより、良い生活を成立させるための重要な条件の一つだと考えた方が自然になる。

人口を目的から「制約条件」へ移してみる

 この考え方を採用すると、人口政策をやめる必要はない。むしろ人口が持つ意味を、より正確に考えられるようになる。

 病院を維持するためには一定の診療圏人口が必要であり、商店にも一定の購買人口が必要になる。公共交通にも利用者が必要で、地域産業を維持するには働く人がいなければならない。したがって、自治体には生活サービスを成立させるために必要な人口規模や人口構成が存在する。

 しかし、その必要水準を超えて人口を増やすことが、常に同じ大きさの利益を住民にもたらすとは限らない。人口を一万人から一万一千人に増やすための政策よりも、現在住んでいる一万人の通院時間を短くしたり、交通費を下げたり、生活必需品を買える場所を維持したりする政策の方が、住民生活に大きな効果を及ぼす場合もあり得る。

 人口をこうした「制約条件」として見ると、政策の問いも変わる。「人口を何人まで増やすか」ではなく、「医療、商業、交通、教育、地域経済を成立させるためには、どのような人口構成が必要なのか」を考えるようになるからである。

自治体の成績表が変わる

 自治体の目標が変われば、政策の成績を測る方法も変わる。転入者が何人増えたか、出生数がどれだけ増えたか、人口減少率がどれだけ改善したかという数字は引き続き重要だが、それだけでは自治体の成果を十分に説明できなくなる。

 代わりに重要になるのは、住民の日常生活そのものに近い数字である。病院まで到達するために必要な時間がどれだけ短くなったのか、高齢者が自動車を使わずに買い物できる割合がどれだけ増えたのか、子どもが保護者の送迎なしに学校や公共施設へ移動できる範囲がどれだけ広がったのか、住宅費と交通費を支払った後に手元へ残る所得がどう変化したのか、といった指標である。

 近年、こうした考え方に近い政策評価はすでに現れ始めている。地域の豊かさを所得や人口だけで測るのではなく、健康、住宅、教育、安全、環境、行政サービスへのアクセス、人とのつながり、生活満足度など複数の側面から評価するWell-Being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態)の考え方が、国や国際機関でも使われるようになっている。

 ここで重要なのは、「幸福度」という曖昧な感覚だけに政策を置き換えることではない。所得、時間、交通、医療、住宅、安全性など、実際に測定可能な生活条件と、住民自身が感じる満足度の両方を見ることで、人口という一つの数字では捉えられなかった地域の実像を測ろうとすることである。

「移住者百人」の意味まで変わる

 政策の評価軸が変われば、移住政策にも別の姿が見えてくる。

 人口を主な成果指標にすれば、二十人の移住者は基本的に二十人である。しかし地域生活の維持という視点に立つと、その二十人が地域にどのような機能を加えるのかによって意味は異なる。地域に医師が不足しているなら医師一人の移住が医療アクセスを変えるかもしれず、電気工事業者がいなくなる地域なら一人の技術者が生活インフラの維持に大きく貢献する可能性がある。スーパーや飲食店を引き継ぐ人、介護や福祉を担う人、地域交通を運営する人も同様である。

 これは人間そのものに価値の高低をつける話ではない。政策が見るべきなのは人間の価値ではなく、その地域で不足している機能に対して、どの政策がどの程度の効果を与えるかということである。

 その意味では、人口千人を増やす政策より、地域唯一の食品店一軒を存続させる政策の方が、ある町では多くの住民の日常生活を支えることもある。人口という数字では小さく見える変化が、生活価値という視点では非常に大きな変化として現れるのである。

町を小さくすることが、生活を大きくする場合もある

 生活価値を中心に置いた自治体経営では、町の空間的な形も変わる可能性がある。

 人口が減少しているにもかかわらず、住宅地、道路、水道管、公共施設などが人口の多かった時代と同じ範囲に広がったままであれば、少ない人数で広大な都市設備を支えることになる。人口密度が低くなれば、一人当たりに必要なインフラ維持費が高くなり、公共交通も利用者を集めにくくなる。

 そこで住宅、医療、買い物、行政サービス、交通拠点などを一定の地域へ少しずつ集めることができれば、住民の移動距離を短縮しながら、公共交通や商業サービスを成立させやすくできる場合がある。国が進めてきた「コンパクト・プラス・ネットワーク」も、人口減少のなかで都市機能と居住をある程度集約し、それらを交通で結ぶという方向性を持っている。

 もちろん、集約すれば必ず行政費が下がり、住民生活が良くなるわけではない。地形、歴史的な集落構造、土地価格、住民の移転負担などによって結果は変わる。それでも、人口が減る地域で「すべての場所を以前と同じ形で維持すること」が無条件に最善だとは考えにくくなっている。

 町の地図が少し小さくなったとしても、その中で病院、商店、交通、行政サービスが以前より近くなるのであれば、地図上の縮小をそのまま生活上の衰退と呼ぶことはできない。人口減少社会では、「町が小さくなること」と「暮らしが悪くなること」を別の問題として考える必要がある。

しかし「一人当たり最大化」には危険な罠がある

 ここまで読むと、人口の代わりに住民一人当たり生活価値を最大化すれば、ほとんど問題が解決するようにも見える。しかし、この考え方には重大な弱点がある。「一人当たり」という言葉には、平均値によって社会の一部を見えなくしてしまう危険があるからである。

 例えば中心市街地の千人に対するサービスを改善する政策と、山間部に住む十人を支援する政策を比較すれば、一人当たりの行政効率では前者が有利になる場合が多い。障害のある人への支援や、医療・介護を大量に必要とする高齢者へのサービスも、単純な費用対効果だけで評価すれば不利になりやすい。

 もし住民全体の平均的な生活価値だけを最大化すれば、多数派の生活を少し便利にする代わりに、少数の住民の生活を大幅に悪化させても、平均値だけは改善するという事態が起こり得る。その町を「良い町」と呼ぶことには大きな問題がある。

 したがって自治体政策に必要なのは、単純な平均値の最大化ではない。平均的な生活条件を改善すると同時に、もっとも条件の悪い住民が一定水準以下に落ちないようにする仕組みが必要になる。医療、交通、教育、買い物などについて最低限保障する水準を定め、その水準を守ったうえで全体の生活価値を高めるという考え方である。

 ここまで来ると、自治体経営は単なる効率化ではなくなる。効率性を求めながら、公平性をどこまで保障するのかという、政治そのものの問題になる。

そもそも「生活価値」は一つの数字にできるのか

 さらに難しい問題がある。生活価値というものを、本当に一つの数字として測ることができるのかという問題である。

 例えば、平均所得が五%上昇した一方で通院時間が十分長くなった町と、所得は変わらないが医療へのアクセスが大きく改善した町を比較するとき、どちらの生活価値が高くなったと判断すればよいのだろうか。住宅費、健康、教育、自然環境、安全性、人とのつながりなどを一つの指数にまとめようとすれば、それぞれにどの程度の重みを置くか決めなければならない。

 しかし「健康は所得の何倍重要なのか」という問いに、統計だけで唯一の答えを出すことはできない。そこには必ず価値判断が入り込む。

 したがって「生活価値最大化」という言葉は、一つの万能指数をつくり、その数字だけを上げればよいという意味に理解すべきではない。むしろ人口だけでは見えなかった複数の生活指標を並べ、住民や議会が何を重視するのかを明らかにしながら政策を判断するための考え方として使った方がよい。

 人口一万人という数字は誰が見ても一万人だが、「良い暮らし」とは何かについては社会的な議論が必要になる。その意味では、生活価値を中心に据える自治体経営は、人口目標よりも簡単になるのではなく、むしろ難しくなる。

現在の住民だけ幸せなら、それでよいのか

 さらに時間という視点を加えると、もう一つの問題が現れる。

 例えば自治体が積み立ててきた基金を大きく取り崩し、交通を無料にし、公共施設を増やし、行政サービスを充実させれば、現在暮らしている住民の生活満足度を短期間で高められるかもしれない。しかし十年後に財政余力を失い、道路や上下水道の更新費を負担できなくなれば、その政策を成功と呼ぶことはできない。

 したがって最大化すべきものは「現在の住民一人当たり生活価値」だけではない。現在の住民の暮らしを改善しながら、将来世代にも同程度の生活基盤を残せるかどうかを見る必要がある。

 人口、財政、インフラ、自然環境、地域産業、人材は、現在だけのために存在しているわけではない。生活価値という考え方に持続可能性を組み込まなければ、未来から資源を借りて現在を豊かに見せる政策まで高く評価してしまうことになる。

人口減少そのものに問題がないわけではない

 ここで一つ誤解してはいけないのは、生活価値を重視すれば人口減少を気にしなくてよいということではない。

 人口が急激に減れば、税収、労働力、商業需要、医療、交通、教育など多くの分野に負担が生じる。年齢構成が大きく偏れば、人口総数以上に地域サービスの維持が難しくなる場合もある。研究でも、人口減少は生活満足度などに負の圧力を与える可能性が示されており、人口減少そのものを無害な現象と考えることはできない。

 それでも重要なのは、「人口が減少した」という事実と、「町が悪くなった」という評価を完全に同一視しないことである。

 人口八千人の町が十年後に七千人になったとしても、その間に救急医療への到達時間が短縮され、高齢者が自動車なしで生活できるようになり、空き家が減少し、子どもが移動しやすくなり、住民の可処分所得が増え、自治体の将来負担も軽くなったのであれば、その十年間を単純な失敗と呼ぶことは難しい。

 人口は減った。しかし町は暮らしやすくなった。この二つは十分に両立し得る。

「人数を増やす自治体」から「暮らしを設計する自治体」へ

 人口減少が長期的に続く地域では、人口を増やす政策と同時に、人口が減った場合にも暮らしを維持できる設計を進めなければならない。人口が再び増加することだけを前提に道路、学校、病院、住宅、公共交通を考えるのではなく、人口が減少しても必要な機能を維持できる形に町そのものを組み替えていくのである。

 そのとき自治体間の競争も少し違ったものになる。人口十万人の自治体が人口九万人の自治体より優れているとは限らず、人口を何人獲得したかだけで政策の巧拙を判断することもできなくなる。むしろ住民一人が日常生活でどれだけ多くの選択肢を持てるのか、病気や老化によって生活条件が変化してもその町に住み続けられるのか、行政サービスを将来世代まで維持できるのかという点が自治体の本当の実力として見えてくる。

 人口という数字には強い視覚的な力がある。一万人より九千人、九千人より八千人の方が町そのものが小さくなったように感じられる。しかし人間は人口表の中で暮らしているわけではない。朝起きて家を出て、仕事へ行き、買い物をし、病院へ行き、誰かと話し、家へ帰る。その一日の連続の中に自治体が存在している。

 スーパーまで十五分なのか四十分なのか、病気になったときに治療へたどり着けるのか、運転免許を返納した後も自分の家で生活できるのか、子どもがこの町から出ていったとしても、ここで過ごした時間を良いものだったと思えるのか。自治体の価値とは、本来そうした日常の小さな条件が積み重なったところにある。

 だから自治体の目標を人口から生活価値へ移すということは、人口問題を無視することではない。人口を王様の座から降ろし、財政、交通、医療、住宅、教育、地域経済と並ぶ重要な変数の一つとして扱うことである。

 そして最終的に目指すものも、単純な「住民一人当たり生活価値の最大化」だけでは足りない。より正確には、人口構成、財政、インフラ、環境などの制約の中で住民の生活価値を高めながら、条件の悪い住民の最低生活水準を守り、さらに将来世代にも暮らしを維持できる基盤を残すことになる。

 効率性だけでもなく、公平性だけでもなく、現在だけでも未来だけでもない。その三つを同時に考える自治体経営である。

 人口減少時代に必要なのは、「どうすれば町をもっと大きくできるか」という問いだけではない。

 小さくなっていく町の中で、一人の暮らしをどこまで豊かにできるのか。

 自治体の本当の成績表は、人口グラフの向こう側にあるのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の人口減少対策という言葉から、多くの人がまず思い浮かべるのは「人を呼ぶこと」だろう。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、空き家を改修し、子育て世帯を歓迎する。自治体の広報には、都会から移り住んできた家族が笑顔で写り、「この地域を選びました」と語る。そうした姿は確かに明るいニュースであり、新しい住民を迎えること自体に意味がないわけではない。

 しかし、自治体庁舎の正面玄関から新しい住民を迎えているあいだにも、別の出口から、これまでそこで暮らしてきた住民が静かに出て行っているとしたらどうだろう。大学へ進学したいから地域を離れる若者もいれば、もっと大きな仕事に挑戦したいから都会へ出る人もいる。それは人生の選択であって、自治体が止めるべきものではない。

 問題は、それとは別の転出である。本当はここに住んでいたいのに、車を運転できなくなれば買い物が難しくなり、子どもが高校生になると通学が負担になり、診療所では対応できない病気になれば遠くの病院まで通わなければならない。配偶者を亡くして一人になった途端、それまで何とか成り立っていた日常生活が急に難しくなることもある。

 こうした人たちは、必ずしも地域が嫌いになったわけではない。ただ、その地域で暮らし続けるための条件が少しずつ失われたのである。人口減少時代の地域政策を考えるなら、ここにはかなり重要な問いが隠れているのではないだろうか。「どうしたら人に来てもらえるか」を考える前に、「なぜ今ここにいる人が、出て行かなければならないのか」を調べる。人口問題を見る方向を、ほんの少し反対側へ向けてみるのである。

人口は「来た人」だけで決まるわけではない

 人口の変化そのものは、実はそれほど複雑な話ではない。出生した人が加わり、死亡した人が減り、転入した人が加わり、転出した人が減る。その結果として、ある年の人口が決まる。ところが地域政策の世界では、この四つの要素のうち「転入」だけが妙に目立つことがある。

 年間百人が移住した地域は成果を説明しやすい。だが、百人が移住してきても百二十人が転出すれば、社会移動だけを見れば人口は二十人減る。一方で、移住者が三十人しかいなくても、これまで毎年百人出ていた地域から七十人しか出なくなれば、同じ三十人分だけ人口減少は緩和される。算数としてはごく当たり前の話だが、政治や広報の世界になると、この二つは同じようには扱われない。

 その理由の一つは、新しく来た人には「物語」があるからだろう。東京から移住してカフェを始めた夫婦、海の近くで子育てを始めた家族、古民家を改修して事業を始めた若者には、写真があり、言葉があり、「地方創生」という言葉によく似合う印象的な場面がある。

 ところが、七十八歳の住民が今年も転居しなかったことには、ニュースらしい出来事がない。買い物の送迎サービスができたので、免許を返納したあとも同じ家で暮らせた。診療所へ行く方法が確保されたので、自治体外に住む子どもの家へ移らなくて済んだ。統計上、その人にはほとんど何も起きていないように見えるが、人口減少社会では、その「何も起きなかった」という事実こそ、政策の成果なのかもしれない。

「住みたい地域」と「住み続けられる地域」は同じではない

 人口政策を考えるうえで、もう一つ大切な区別がある。「この地域に住みたいか」と「この地域に住み続けられるか」は、同じ問いではない。人はある地域を気に入っていても、交通、仕事、教育、医療などの条件によって、その地域から離れざるを得ないことがある。

 考えてみれば、これは不思議なことではない。海が好きだと感じている人でも、病院へ通えなくなれば海を離れるかもしれない。近所付き合いが心地よくても、子どもが学校へ通えなければ家族は転居を考える。地域への愛着がどれほど強くても、それだけでスーパーまでの距離が縮まるわけではなく、運転できなくなった高齢者の足が自動的に確保されるわけでもない。

 つまり転出には、少なくとも性質の異なる二つの形がある。もっと別の場所で暮らしたいから出て行く移動と、ここで暮らしたいのに生活条件のために出て行く移動である。前者は人生上の選択に近く、後者は生活上の制約に近い。

 自治体が人口政策として減らすべきなのは、人が地域を出る自由ではない。減らすべきなのは、「出たくないのに出なければならない理由」なのではないだろうか。地域の居住意向を扱った調査や研究でも、買い物、医療・福祉、仕事や学校、移動の利便性といった生活そのものに関わる条件が、住み続けたいという意向や転出の判断と結び付くことが指摘されている。

 ここから見えてくるのは、地域の人口流出が、必ずしも地域そのものの魅力不足だけで起きるわけではないということである。観光地として美しく、住民同士の関係も良好で、それでも暮らしのどこかに小さな「行き止まり」ができれば、人はその地域から出て行かざるを得なくなる。

人を呼ぶ政策は長所を探し、人が残れる政策は欠点を探す

 移住政策をつくるとき、自治体は地域の良いところを探す。海があります、山があります、魚がおいしい、土地が安い、都会まで二時間です、子育て環境が充実しています、といった具合に、「この地域を選ぶ理由」を一つずつ見つけていく。

 ところが、住民が出て行かなくてもよい地域をつくろうとすると、行政が見る景色はほとんど反対になる。なぜ七十五歳になると暮らしにくくなるのか。なぜ子どもが高校生になると家族まで地域を離れるのか。なぜ配偶者を亡くした高齢者は自治体外の子どもの近くへ移るのか。なぜ仕事を続けたい世代が残れないのか。こちらは地域の長所を集めるのではなく、地域の弱点を一つずつ見つけていく作業になる。

 この作業は、移住パンフレットほど華やかではない。しかし、人口減少地域に本当に必要なのはこちらかもしれない。一日に数本しかない路線バスを昔と同じ形で維持することが難しいなら、乗り合い交通という別の方法を考える。スーパーそのものを残せないなら、配送や移動販売によって買い物の機能を残す。すべての診療科を自治体内に置けないなら、オンライン診療や広域病院への移動手段を組み合わせる。

 大切なのは、過去に存在したサービスをそっくりそのまま残すことではない。住民の生活が途中で行き止まりにならないように、必要な機能を別の形で残すことである。

人口減少時代には「便利な地域」より「詰まない地域」が重要になる

 大都市と地方を、店の数や鉄道の本数、病院の数で競わせれば、地方が勝つことは難しい。地方都市に百貨店を何軒も置くことはできず、鉄道を十分間隔で走らせることもできない。すべての地域に総合病院を置くことも現実的ではない。

 しかし、便利さが少ないことと、暮らせないことは同じではない。スーパーが一軒しかなくても、その店へ行く方法があれば生活はできる。病院が自治体外にあっても、必要なときに無理なく到達できればよい。高校が自治体内になくても、安定した通学手段が確保されていれば、それだけを理由に家族全員が引っ越す必要はない。

 反対に、車を運転できなくなった瞬間に、買い物、通院、銀行、行政窓口への移動が一斉に難しくなる地域は脆い。一つの条件が崩れただけで、生活全体が成立しなくなるからである。これは地域を一つのシステムとして見ると、より分かりやすい。

 丈夫なシステムには、何かが失われたときの代わりの経路がある。路線バスが維持できなくても乗り合い交通があり、自分で店へ行けなくても配送があり、診療所だけで完結できなければ遠隔診療や広域医療との接続がある。人口減少や高齢化が進む地域では、従来と同じ形の公共サービスを無理に残すより、複数のサービスを柔軟に組み合わせる方が合理的になる場合がある。

 人口減少時代の地域に求められるのは、何もかもそろった豪華な地域ではない。一つを失っても、別の道がまだ残っている地域である。言い換えるなら、「便利な地域」を競う前に、「詰まない地域」をつくる。この発想は、これからの地域政策を考えるうえで、かなり重要になってくるのではないだろうか。

では、一人を呼ぶより一人を残す方が安いのか

 ここまで読むと、「それなら移住者を呼ぶより、転出を防ぐ方が効率的なのだ」と結論づけたくなる。しかし、この点については少し慎重になった方がよい。

 人口の算術だけを見れば、転入を一人増やすことと、転出を一人減らすことは、人口に対して同じ一人分の効果を持つ。しかし、そのために必要な費用まで同じとは限らない。ある地域では、年間数十万円程度の買い物支援や交通支援によって何世帯もの居住継続を支えられるかもしれず、その場合には、全国から移住希望者を探し、住宅補助や広報費を投じるより効率的である可能性がある。

 反対に、山間部のごく少数の住民のために長い道路、水道、公共交通を維持し続ければ、一人当たりの社会的費用が非常に大きくなることもある。そのような地域では、現在地に住み続けてもらうことだけを政策目標にするのが合理的とは限らず、居住地の集約や近隣地域への移動支援を含めて考えた方がよい場合もある。

 したがって、「転出を防ぐ方が必ず安い」という一般法則を置くことはできない。必要なのは、一人の移住者を増やすために自治体がいくら使っているのか、一人の住民が本人の希望に反して転出しなくても済むようにするにはいくら必要なのかを、同じ物差しで比較することである。

 考えてみれば当然の比較なのだが、移住者数だけが成果として注目されると、この視点は意外に抜け落ちやすい。人口減少時代の政策評価では、「何人呼んだか」に加えて、「何人が生活上の理由で出て行かずに済んだのか」という数字も、同じ程度に重視されてよいのではないだろうか。

ただし「住み続けること」そのものを善にしてはいけない

 もう一つ注意しなければならないことがある。住民が地域に残ることを政策目標にすると、いつの間にか「転出しないことが望ましい」という価値観に変わりかねない。

 しかし、住み続けることそのものが幸福とは限らない。高齢者の地域居住をめぐる研究には、「Aging in Place(住み慣れた地域で老いること)」という考え方がある一方で、「Stuck in Place(移動したくても移動できず、その場所にとどまること)」という問題もある。同じ「地域に残った」という結果でも、自分の意思で残ったのか、それとも経済的事情や移動手段の不足によって動けなかったのかでは、意味がまったく違う。

 したがって、この地域が好きだから残った人と、引っ越す資金もなく、他に行く場所もなく残った人を、同じ政策上の成功として数えてはいけない。目標は「住民を引き留めること」ではなく、住みたい人が住み続けられ、出たい人は自由に出られることにある。

 地域に人を縛り付けるのではなく、居住することを一つの現実的な選択肢として残しておく。この違いは言葉の上では小さく見えるが、地域政策の目的を考えるうえでは決定的に重要である。

人口減少そのものを止められなくてもよい

 地方の人口問題を考えると、どうしても「人口を増やすか、少なくとも維持する」という結論へ向かいやすい。しかし、多くの自治体では、今後数十年間に人口そのものが減ることを完全に避けるのは容易ではない。

 理由は転出だけではなく、高齢化した地域では、仮に転入と転出が同数になったとしても、出生数より死亡数が多ければ人口は自然に減っていくからである。そうであるなら、人口が減ったという一点だけをもって地域政策を失敗と評価することが、本当に適切なのかを考え直す必要がある。

 たとえば人口八千人だった自治体が七千人になったとする。それだけを見れば明らかな縮小である。しかし同じ期間に、高齢者が車を運転できなくなっても買い物や通院を続けられるようになり、子育て世帯が高校進学を理由に家族ごと転居する必要がなくなり、一人暮らしになった高齢者も安心して生活できるようになったとしたら、その地域は単純に「悪くなった」と言えるのだろうか。

 人口は減っていても、「ここで暮らし続けることができる人」は増えているかもしれない。ここには、人口という一つの数字だけでは捉えきれない地域の価値がある。

一軒の閉店から始まる連鎖

 人口減少地域で怖いのは、人が毎年少しずつ減ることだけではない。ある瞬間から、暮らしの条件そのものが連鎖的に失われる可能性があることだ。

 たとえば地域から一軒の店がなくなったとする。車を使える人は少し遠くの大型店へ行くようになり、その結果、残った地元商店の客まで減るかもしれない。別の店も経営が難しくなり、そこまで閉店すると、車を持たない高齢者の生活はさらに不便になる。そのため自治体外の子どもの近くへ転居する人が増えれば、人口が減り、地域サービスの利用者も減り、さらに別のサービスの維持が難しくなる可能性がある。

 もちろん、現実の地域では、これほど一直線に物事が進むわけではない。人口減少が店舗閉鎖を引き起こす場合もあれば、雇用の減少が人口流出と店舗閉鎖の双方を生む場合もあり、原因と結果は複雑に絡み合っている。

 それでも重要なのは、地域のサービスが互いに独立して存在しているわけではないという点である。一つの機能が失われることで別の機能の需要が減り、さらに次の撤退につながることがある。人口そのものは毎年ゆっくり減っているのに、暮らしの条件だけはある時点で急に悪化することがあるとすれば、地方の衰退の本当の怖さは、この非連続性にあるのかもしれない。

「何人いる地域か」ではなく「何歳まで暮らせる地域か」

 そこで、人口とは別の数字を考えてみたくなる。その地域では、人は何歳まで普通に暮らせるのか。車を運転できなくなっても生活できるのか、配偶者を失って一人になっても暮らせるのか、慢性疾患を抱えても通院できるのか、子どもが高校生になっても家族で住み続けられるのか。

 もし七十歳になると暮らしが難しくなる地域を、八十歳まで無理なく暮らせる地域にできたなら、それはかなり大きな政策成果である。人口統計にはほとんど表れないかもしれないが、百人の住民がそれぞれ五年間長く自分の望む地域で暮らせるようになったなら、考え方によっては、自治体は住民に合計五百年分の「居住可能な時間」を生み出したとも言える。

 もちろん、「居住可能な時間」は公的に確立された統計指標ではない。しかし人口減少時代には、人口そのものとは別に、「この地域で無理なく普通の生活を続けられる期間」を測る発想があってもよいのではないだろうか。

 地域の成功を、人間の頭数だけで測る必要はない。むしろ人口そのものを簡単には増やせない時代だからこそ、一人ひとりがどれだけ長く、自分の望む暮らしを続けられるかという別の尺度が必要になる。

そして、住民が出て行かなくてもよい地域は、移住者にも選ばれる

 興味深いのは、こうした政策が移住促進と対立しないことである。むしろ住民が長く暮らせる地域をつくることは、結果としてかなり強い移住政策になる可能性がある。

 移住希望者が本当に知りたいのは、美しい海や安い土地だけではない。子どもが大きくなったらどうなるのか、親が高齢になったらどうなるのか、自分自身が七十歳になったときに車なしで暮らせるのかといった、その土地で過ごす将来の生活条件も重要である。

 移住とは、現在の風景だけを選ぶ行為ではない。その土地で過ごす十年後、二十年後の生活まで含めて選ぶことである。自治体の観光パンフレットにどれほど美しい夕日が載っていても、そこに暮らす高齢者が生活上の理由で次々と地域を離れているなら、その事実は移住希望者にとって無視できない情報になる。

 反対に、人口そのものは減っていても、「ここなら歳を取っても暮らせる」と既存住民が感じている地域には、一種の信用が生まれる。そう考えると、住民の転出理由を減らすことは決して内向きの政策ではなく、長い時間軸で見れば、最も説得力のある移住政策の一つにもなり得る。

人を増やすことから、人の選択肢を守ることへ

 地方創生という言葉には、どこか成長の響きがある。人口を増やし、観光客を増やし、企業を増やし、税収を増やすことが成功として語られやすい。

 しかし人口そのものが減っていく時代に、増加だけを成功の基準にしてしまえば、多くの地域はどれほど暮らしやすくなっても、人口統計の上では永遠に「失敗した地域」になってしまう。

 そこで、もう一つの尺度を持ってみる。この地域では、どれだけの人が自分の意思に反して出て行かずに済んだのか。車に乗れなくなっても暮らせるのか、病気になっても暮らせるのか、一人になっても暮らせるのか、子どもが成長しても同じ地域で生活を続けられるのかを見るのである。

 もちろん、別の場所へ行きたい人は行けばよい。大学へ進学したい若者を地域に閉じ込める必要はなく、新しい仕事に挑戦したい人を引き留める理由もない。目指すべきなのは、人を囲い込む地域ではなく、出て行く自由を持ちながら、それでも出て行かなくてよい地域である。

 この視点に立てば、人口減少という現象そのものを消すことができなくても、人口減少によって住民の人生の選択肢まで狭くなることは防げるかもしれない。

 地域の価値とは、何人を新しく集めたかだけで決まるものではない。そこに暮らしたいと思った人が、その願いを交通や買い物、医療や教育といった生活上の事情だけで諦めずに済むことにも、確かな価値がある。

 これからの地方が競うべき数字は、ひょっとすると人口だけではないのだろう。「この地域には何人いるのか」という問いだけではなく、「この地域なら、あと何年、自分らしく暮らせるのか」と尋ねてみる。

 人口が減る時代だからこそ、その問いの方が、そこに暮らしている住民にとっては、ずっと切実なのである。

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家は、売れなくなっても消えてはくれない

 人がいなくなったあとにも、家は残る。屋根は雨を受け、雨樋には落ち葉が詰まり、締め切られた部屋では湿気が壁紙の裏へ入り込んでいく。持ち主が亡くなったからといって住宅まで一緒に消えてくれるわけではなく、むしろ人の生活が終わったところから、建物だけの長い余生が始まることがある。

 日本の空き家政策では、これまで「どう使うか」が重要な問いになってきた。空き家バンクへ登録し、移住者へ売る。中古住宅として流通させる。賃貸住宅にしたり、店舗や地域施設へ転用したりする。まだ十分に使える住宅を取り壊すより、次の利用者へ渡す方が経済的にも環境的にも合理的であり、この方向自体を否定する理由はない。

 しかし人口が減り、世帯数の増加もいずれ止まる社会では、「使いたい家」より「残される家」の方が多くなる地域が現れる。そこで空き家問題を売買の仕組みだけで解決しようとすると、どうしても答えの出ない住宅が残ってしまう。

 総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」の確報によれば、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸に達し、総住宅数に占める空き家率は13.8%となった。どちらも過去最高である。さらに、賃貸用、売却用、二次的住宅などを除いた空き家だけでも385万6千戸あり、2018年から36万9千戸増えている。

 900万という数字の大きさだけを見れば、空き家を市場へ戻せばよいようにも思える。しかし、この数字が意味しているのは、単に「中古住宅が大量に売れ残っている」ということではない。住宅を欲しがる人と、住宅を手放したい人との数そのものが、地域によっては次第に合わなくなってきているということである。

売るための制度には、買う人が必要である

 住宅市場が市場である以上、売却政策には必ず買い手が必要になる。人口が増えている都市なら、売りに出された住宅へ次の世帯が入る循環を期待できる。しかし、空き家が増えている原因そのものが人口減少や世帯減少にある地域では、空き家情報を充実させただけで住宅需要まで増えるわけではない。

 単純化して考えてみよう。ある地域に、今後住宅として使える空き家が100戸あり、その地域で新たに住宅を求める世帯が10世帯しかなければ、仲介制度を改善し、写真を美しく撮影し、空き家バンクの検索機能をどれほど便利にしても、100戸すべてを住宅として流通させることはできない。実際の市場には地元住民の住み替えや別荘需要、事業利用などもあるため現実はこれほど単純ではないが、住宅需要そのものが縮小する地域では、流通政策だけでは処理できない住宅が生まれるという基本構造は変わらない。

 しかも、その空き家の多くは、不動産投資の失敗によって突然市場へ現れた住宅ではない。

 国土交通省が2025年8月に公表した「令和6年空き家所有者実態調査」によれば、調査対象となった空き家の57.9%は相続によって取得されたものであり、その相続空き家の7割超が1980年以前に建築されていた。また、住宅が空き家になった契機についても、所有者の死亡が約6割を占めている。

 つまり、日本の空き家問題のかなりの部分は、「売りたい中古住宅が売れない問題」というより、親が住んでいた古い住宅が、親の死とともに子どもの所有物へ移り、その子どもにはすでに別の生活と別の住宅があるという問題なのである。

 人は相続によって財産を受け取る。しかし住宅の場合、その財産には、屋根の補修、庭木の管理、固定資産税、そしていつか訪れる解体という未来の支出まで一緒についてくる。

 家だけが、家族の世代交代についていけずに、その場所へ残されるのである。

本当の負担は、住宅価格の後ろに隠れている

 住宅を一つの長寿命の商品として考えれば、本来そこには建築、使用、修繕、そして最後の解体までが含まれているはずである。それでも私たちは家を買うとき、建築費や住宅ローンについては何十年先まで計算する一方で、その住宅を最後に誰が壊し、その費用を誰が払うのかについてはほとんど考えない。

 30歳で建てた家に90歳まで住めば、その建物を処分する人は所有者本人ではないかもしれない。子どもが相続するかもしれず、中古住宅として購入した別の所有者かもしれない。誰も引き受けず、建物が危険な状態まで残れば、最終的には近隣住民や自治体まで対応を迫られる可能性がある。

 しかも、解体費用が現実に住宅処分の障壁となっていることは、所有者自身の回答からも確認できる。令和6年空き家所有者実態調査では、今後5年間程度、空き家として所有し続ける意向を持つ世帯について、その理由の第1位として「解体費用をかけたくない」と答えた割合が14.2%に達し、第2位の理由としても13.7%だった。第1位の理由では「物置として必要」が30.4%で最も多いため、解体費だけが空き家発生の原因だと考えるべきではないが、少なくとも住宅を処分しない判断の一つの重要な障壁になっていることは確かである。

 ここに現在の住宅制度が抱える時間的なねじれがある。

 家を使った時代と、家を処分する時代が違う。住宅から便益を得た世代と、その最後の費用を支払う世代が一致しないのである。

住宅にも「最後の日」の費用を準備できないか

 そこで考えられるのが、「住宅解体積立制度」である。

 これは現時点で全国的に実施され、効果が実証された制度ではない。したがって、「この制度を導入すれば空き家問題が解決する」と結論づけることはできず、ここから先は統計から直接導かれる事実ではなく、空き家の発生構造を踏まえた政策仮説として考える必要がある。

 それでも発想そのものは単純である。住宅の所有期間中に、将来必要になる除却費の一部を少しずつ積み立てておき、その住宅を取り壊す段階で使えるようにする。住宅が売却された場合には積立残高を建物とともに次の所有者へ承継し、相続された場合にも相続人へ引き継ぐ。住宅の所有者個人にひも付けるのではなく、住宅そのものにひも付いた資金として設計するのである。

 積立額を仮に年間3万円とすれば40年間で120万円、年間5万円なら200万円になる。実際には物価変動や運用、建物ごとの解体費の違いを考慮する必要があるため、この単純計算がそのまま制度になるわけではない。それでも、空き家になった日に突然まとまった解体費を要求される社会と、住宅を利用していた数十年間に少しずつ費用を準備してきた社会とでは、所有者が取り得る選択肢は違ってくる。

 売れるなら売る。貸せるなら貸す。地域施設として利用価値があるなら使う。しかし、それらがどれも成立せず、住宅としての役割も終わっているなら、安全に除却する。

 積立制度の目的は住宅を壊すことではなく、この最後の選択肢だけが「お金がないから実行できない」という状態を減らすことにある。

現在の制度も、すでに「しまう」方向へ動いている

 もちろん、現在の日本に住宅を除却する仕組みがないわけではない。

 2023年12月13日に施行された改正空家法では、放置すれば「特定空家等」になるおそれのある住宅について、市区町村が「管理不全空家等」として指導や勧告を行えるようになった。勧告を受けた管理不全空家等の敷地については、固定資産税の住宅用地特例も解除される。これは、住宅が周囲へ深刻な危険を及ぼす段階まで待つのではなく、その前から適切な管理や処分を促そうという制度変更である。

 国土交通省自身も、現在の空き家対策を「活かす」だけでなく「しまう」という言葉で説明している。空き家の将来を考えるとき、売却、賃貸、利用だけでなく、除却も正式な選択肢として位置づけられ始めているのである。

 除却への公的支援も存在する。2026年度の国土交通省関係資料では、空家等対策計画が対象とする地区で、不良住宅の除却や、跡地を地域活性化のため計画的に利用する除却などについて、所有者が実施する場合に国が5分の2、地方公共団体が5分の2、所有者が5分の1を負担する仕組みが示されている。

 ただし、ここは誤解してはいけない。一般の空き家なら全国どこでも所有者が費用の5分の1だけを払えば解体できる、という制度ではない。対象となる地区や建物、事業内容には要件があり、市区町村側にも制度の整備が必要になる。既存の公的支援は、あくまで政策上支援する必要性が認められた除却を助ける仕組みなのである。

 そこが、解体積立という発想との違いでもある。現在の補助制度が空き家になった後に発生した問題へ公費を投入する仕組みだとすれば、積立制度は住宅を利用している時期から将来の処分費を準備しておく。

 前者が問題発生後の支援なら、後者は問題が起こる前から費用を時間の中へ分散させる仕組みなのである。

公費だけで壊す制度には、別の不公平が生まれる

 危険になった住宅をすべて税金で取り壊せばよいという考え方も、一見すれば分かりやすい。しかし、そこには公平性の問題が残る。

 住宅を長年きちんと管理し、最後には自費で取り壊した人がいる一方で、何十年も放置した住宅だけ公費で解体されるなら、適切に処分した人より放置した人の方が経済的に有利になる場合がある。それが一般化すれば、「自分で壊すより、行政が対応せざるを得なくなるまで待つ」という望ましくない誘因を生む可能性も否定できない。

 住宅を所有するということは、その価値を利用する権利だけを意味しない。住むことができ、貸すことができ、売ることができ、相続することができるという利益の裏側には、建物を安全に管理する責任も存在する。

 そう考えれば、解体積立は新たな罰金を課すという発想とは異なる。

 住宅の価格表には書かれてこなかった「最後の費用」を、住宅所有の期間の中へ戻していく仕組みなのである。

それでも積立制度は、簡単には作れない

 もっとも、この制度にも難しい問題がある。

 第一に、家を壊す費用は一律ではない。住宅の延べ床面積や構造だけでなく、重機が入れる道路があるか、隣家との距離がどの程度か、廃材をどこまで運ぶ必要があるかによって費用は変わる。吹き付けアスベストなどが見つかれば費用はさらに増える可能性があり、国の補助制度でも、崖地、狭小敷地、無接道敷地、離島、アスベストなどについて通常より高い除却費が生じる場合が想定されている。

 したがって、すべての住宅について月額いくらと全国一律に定めればよいというほど簡単ではない。積立額が少なすぎれば解体時に不足し、多すぎれば住宅所有者から必要以上の資金を長期間拘束することになる。

 さらに難しいのは、すでに存在している古い住宅をどう扱うかである。新築住宅なら完成時から40年、50年かけて準備できるが、築50年の住宅を所有する高齢者へ突然高額の積立義務を課せば、住宅を処分できない人に別の負担を加えるだけになる。制度を作るなら、新築住宅から段階的に始めるのか、既存住宅には公的補助と組み合わせた別制度を設けるのかという移行設計が避けられない。

 災害で住宅が失われたときは積立金をどうするのか、住宅を大規模改修してさらに数十年使う場合はどうするのか、建物を売却したとき積立残高を価格へどう反映させるのかという問題もある。

 だから、解体積立制度は「思いついたから導入すればよい制度」ではない。

 むしろこれほど長期間にわたる制度だからこそ、小規模な地域や新築住宅などから試行し、積立額、利用率、除却費との差額、所有者の行動変化を検証しながら制度設計を調整する必要がある。政策として提案するなら、理論上の合理性と実際の効果を区別して考えなければならない。

相続する前に考えなければ、家は突然「問題」になる

 空き家問題が難しいもう一つの理由は、多くの家庭で住宅の将来について話す時期が遅いことである。

 令和6年空き家所有者実態調査では、相続空き家について、相続前に何らかの対策を行っていた世帯は23.0%にとどまった。反対に77.0%では相続前の対策が行われていない。さらに、事前対策をしていなかった住宅では、対策をしていた住宅よりも、その後も特に活用や解体をせず空き家として所有され続ける割合が高かった。

 ただし、ここから「事前に話し合えば必ず空き家にならない」と因果関係まで断定することはできない。もともと住宅処分への意識が高い家庭ほど事前対策も行う可能性があるからである。それでも、相続が発生してから初めて家の将来を考えるより、所有者が元気なうちに家族で考えておく方が合理的であることは理解しやすい。

 国土交通省が日本司法書士会連合会などと共同で「住まいのエンディングノート」を作成したのも、そのためである。そこでは所有する土地や建物の情報だけでなく、将来その住宅をどうしてほしいかを記録し、家族が元気なうちから「活かし方」と「しまい方」を話し合うことが勧められている。

 話し合いによって住宅の行き先を決めるなら、その隣には、行き先を実行するためのお金の準備があってもよい。

 住宅のエンディングノートと住宅のエンディング資金は、本来それほど遠い発想ではない。

「売るか、壊すか」ではなく、住宅に出口をつくる

 ここまで考えると、本当に必要なのは「空き家を売る政策をやめて、壊す政策へ変えること」ではないことが分かる。

 まだ十分な価値があり、買いたい人が存在する住宅なら、できるだけ市場へ戻した方がよい。賃貸住宅として必要なら貸し、店舗や福祉施設、仕事場、地域拠点として価値があるなら利用する。それを無理に壊せば、利用可能な資産と建築時に投入された資源を失うことになる。

 一方で、需要がなく、老朽化が進み、将来も住宅として利用される可能性が低い建物まで、何十年も「いつか誰かが買うかもしれない」という前提で残しておくことも合理的とは言いにくい。

 つまり、売却政策と除却政策は競争相手ではない。

 住宅として生き続けられるものを市場へ戻す仕組みと、住宅としての役割を終えたものを安全に市場から退出させる仕組みは、人口減少社会ではむしろ一組の政策として考えるべきなのである。

 空き家バンクは、家に次の住人を探す制度である。

 しかし、すべての家に次の住人が現れるわけではない。

 そのとき必要なのが、「次の住人が最後まで現れなかった家をどうするか」という制度であり、解体積立はその答えの一候補になる。

家を建てる時代から、家を終わらせる時代へ

 日本では長い間、「家を持つ」ということには、財産を持つという意味が付いていた。

 住宅ローンを払い終えれば自分の資産になり、土地は残り、最後には子どもへ渡せる。人口が増え、住宅需要も増えていた時代には、この物語はかなり現実と一致していた。

 しかし人口が減る社会では、すべての家が同じ意味で資産になるとは限らない。

 売却価格がほとんど付かず、管理費と固定資産税がかかり、最後には解体費まで必要になる住宅であれば、それは財産であると同時に将来の支出でもある。

 だからこそ住宅政策も、家を建てるところだけで終わるわけにはいかない。

 人口が増えていた時代の町づくりでは、道路を延ばし、宅地を造成し、住宅を建てることが発展だった。しかし人口が減る時代には、町づくりの一部は「何を残すか」を選ぶ仕事へ変わっていく。そして残さないものについても、荒れるまで放置するのではなく、安全に役割を終わらせなければならない。

 誰も住まなくなった住宅の屋根に、何十年も雨を降らせ続けることが地域を守ることではない。

 売れる家は次の人へ渡す。使える家は使い続ける。新しい役割を持てる家は用途を変える。そして、それでも役割を見つけられなかった家には、安全に終わるための資金と制度を用意する。

 900万2千戸という空き家の数字が問いかけているのは、「どうすればもっと家が売れるのか」ということだけではない。

 私たちは長い間、家の誕生には住宅ローンを用意し、家の暮らしには保険を用意し、家の修繕には積立を考えてきた。

 それなのに、家の最後の日についてだけは、未来の誰かに任せてきた。

 人口が減っていくこれからの日本で必要なのは、空き家を売る制度を捨てることではない。その制度の先に、どうしても売れなかった住宅を安全に社会から退出させる出口をつくることである。

 家にも始まりがあるように、終わりがある。

 その最後の日の費用まで、家を所有するということのに含めて考える時代が来ているのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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地方の将来を語る資料を開くと、かなりの確率で最初に人口のグラフが現れる。現在何人が住んでいて、十年後には何人になり、若い世代を何人呼び込み、出生数をどこまで回復させるのか。右肩下がりの折れ線が描かれ、その傾きを少しでも緩くすることが地域政策の使命であるかのように話が進んでいく。

それは決して不合理なことではない。人が減れば商店の客は減り、公共交通の利用者も少なくなる。広い地域に道路や水道管が張り巡らされたまま住民だけが減れば、一人当たりで支えなければならない社会基盤の負担も重くなりやすい。学校、医療、介護、商業にも利用者が必要であり、人口は地域の持続可能性を考えるうえで欠かせない数字である。

しかし、人口が重要な数字であることと、人口そのものを町の最終目標にすることは同じではない。

人口が増えた町は、本当にそれだけで「良い町」になったと言えるのだろうか。反対に、人口が減った町は、その減少率だけ暮らしまで悪くなったと考えてよいのだろうか。

人口減少が日本社会の日常になったいま、この一見当たり前に見える問いを、もう一度考え直す必要がある。

人口という数字が、いつの間にか町の成績表になった

人口が増えることを自治体が望むのには理由がある。若い世代が入り、子どもが生まれ、住宅が建ち、店に客が来る。税収や労働力の面でも有利になる場合が多い。人口増加期の日本では、人口と地域の発展はかなり近い方向を向いていた。

その時代には、人口は町の勢いを測る便利な指標だった。

ところが、前提そのものが変わった。

総務省統計局が2026年8月20日に公表した人口推計によれば、2026年8月1日現在の日本の総人口は概算で1億2268万人となり、前年同月より59万人、0.48%減少している。2026年3月1日の確定値でも総人口は1億2281万1千人で前年同月より61万人減っており、日本人人口は86万6千人減少する一方、外国人人口は25万7千人増加している。人口減少という大きな流れの中にも、自然増減、国内移動、国外との移動という異なる力が同時に働いていることが分かる。

さらに国立社会保障・人口問題研究所の「日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)」では、2020年を基準とすると、2050年の人口が2020年以上になる市区町村は77、全体の4.5%にとどまる。一方、1,651市区町村、95.5%では2020年を下回り、約6割の市区町村で3割以上減少し、約2割では半数未満になると推計されている。もちろん、これは出生、死亡、人口移動などについて一定の仮定を置いた「推計」であり、2050年の未来を確定する予言ではない。それでも、日本の大部分の自治体が人口減少を前提として将来を考えなければならない可能性が高いことは、この数字から十分に読み取れる。

この社会で、すべての町が人口増加だけを成功の条件にしたら何が起こるだろう。

出生率の改善や海外からの人口流入もあるため、自治体人口の増減を単純なゼロサムゲームとみなすことは正確ではない。しかし、とりわけ国内の若者や子育て世帯の転入を人口対策の中心に置けば、全国人口が減少するなかで、限られた転入希望者を自治体間で競う側面は強くなる。

その競争自体が悪いわけではない。住みやすさを競うことによって政策が改善されることもある。しかし、ほとんどの自治体が長期的には人口減少すると推計されている社会で、人口増加だけを町の合格条件にすれば、多くの地域が何を改善しても「失敗」という通知表を受け取り続けることになる。

問題は人口対策をやめるかどうかではない。

人口を何のために維持したいのか。その順序を問い直すことである。

人が減ることと、暮らしが悪くなることは同じではない

人口1万人の町を想像してみる。

町には病院がある。しかし、車を運転できない高齢者がそこへ行くには家族の送迎が必要である。駅はあるが列車は一時間に一本しかなく、スーパーまで歩けば四十分かかる。行政手続きには役場へ出向かなければならず、高校生の通学にも家族の車が欠かせない。

十年後、その町の人口が8000人になったとしよう。

人口だけを見れば20%の縮小である。

ところが、その十年間に予約型の乗合交通が整備され、診療所と基幹病院の連携が進み、日用品を自宅まで届ける仕組みが定着したとする。行政手続きの多くを自宅からできるようになり、中心部では徒歩圏内に住宅、商業、医療がまとまり始めた。

人口は減っている。

それでも、そこで暮らす一人の住民から見れば、十年前より生活しやすくなっている可能性がある。

反対の町も考えられる。人口が1万人から1万500人に増えたものの、住宅が郊外へ広がり、自動車がなければ生活できなくなり、中心部の商店が減り、道路や上下水道の維持範囲だけが広がったとしたらどうだろう。

500人増えたという数字だけで、「町が良くなった」と結論づけることはできない。

人口は町の大きさを教えてくれる。

しかし、そこで暮らす人がどのような一日を送れるのかまでは教えてくれない。

人口と生活品質は無関係ではないが、同じものでもない。この区別こそ、人口減少時代の地域分析では重要になる。

人口を「目的」から「条件」へ移してみる

そこで、政策の順序を逆転させてみたい。

町の最終目的を「人口を最大化すること」ではなく、「そこに暮らす人が、できる限り安心して生活を続けられる状態をつくること」と考えるのである。

こうすると、人口の重要性が失われるわけではない。人口は、生活を支えるために必要な条件の一つになる。

診療所には一定の患者数が必要であり、商店には一定の需要が必要である。公共交通にも利用者が必要で、水道や道路にも維持費を負担する社会が必要になる。ただし、その成立条件は「人口何人」という一つの数字だけでは決まらない。人口密度、年齢構成、所得、利用頻度、商圏の広さ、観光客や周辺地域からの利用、運営費、技術、行政支援などによって変わる。

人口5000人なら店が成立し、4999人になった瞬間に成立しなくなるわけではない。

重要なのは、それぞれのサービスを持続させるだけの需要と供給の条件が成り立つかどうかである。

このように考えると、「人口1万人を守る」という目標の意味も変わる。

なぜ1万人なのか。

救急医療を一定時間以内に受けられる状態を維持するためなのか。商業を維持するためなのか。学校教育の選択肢を残すためなのか。上下水道の一人当たり負担を一定水準に抑えるためなのか。

守りたい暮らしが先にあれば、その暮らしに必要な人口や居住密度を逆算できる。

人口目標を捨てるのではない。

人口目標の上に、人口を維持する理由を置くのである。

「何人いる町か」ではなく「何ができる町か」

町の成績表を人口から生活品質へ広げるなら、評価の仕方も変わる。

たとえば高齢になって運転免許を返納した翌朝を想像してみればよい。

スーパーまで行く手段がなくなる町と、電話やスマートフォンで予約すれば乗合交通が来る町がある。同じ5000人の町でも、その5000人が持っている生活の可能性は違う。

子どもが進学するとき、自宅から複数の学校を選べる地域と、一校がなくなれば長距離通学や転居が必要になる地域も違う。

病気になったときも、自治体の境界内に病院が一つ存在するという事実だけでは十分ではない。住民が実際に受診できるのか、どのくらいの時間で治療へ到達できるのか、専門医療が必要になったとき次の医療機関へつながれるのかという方が、生活の実態に近い。

つまり、地域の価値は施設の「存在」だけでなく、住民が必要な機能へ到達できるかによって測る必要がある。

買い物ができる。移動できる。医療を受けられる。教育を選べる。働ける。人と会える。そして、一つの店、一つの交通手段、一つの医療機関がなくなったときにも、別の方法へ切り替えられる。

この最後の「代わりがある」という条件は、人口だけではほとんど見えない。

人口8000人で選択肢が複数ある町と、人口1万5000人でも一つのサービスに全面的に依存している町では、後者の方が一つの撤退によって生活が大きく変わることさえある。

町の強さは、単に人が多いことだけではなく、生活の選択肢と代替可能性をどれだけ残せるかにも左右されるのである。

世界でも「人口や経済規模だけでは測れない」という考え方が広がっている

この考え方は、人口減少に悩む日本の地方だけから生まれたものではない。

OECD(経済協力開発機構)の地域ウェルビーイングの枠組みでは、地域の生活を所得、雇用、住宅、健康、サービスへのアクセス、環境、教育、安全、市民参加とガバナンス、地域社会、生活満足度という11の領域から見ている。OECD自身も、GDP(Gross Domestic Product・国内総生産)などの経済統計を超えて、人々が実際にどのような生活をしているのかを見る必要性を示している。

日本でも方向は同じである。

内閣府の「満足度・生活の質に関する調査」は、日本の経済社会を人々の満足度、すなわちWell-being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態)の観点から多面的に把握し、政策運営に活用することを目的としている。2026年7月31日には「満足度・生活の質に関する調査報告書2026」が公表された。

さらにデジタル庁は、地域幸福度(Well-Being)指標を地域のまちづくりにおける「共通指標」として活用し、市民、行政、事業者などが共通目標を持つための仕組みを進めている。そこでは医療・福祉、買物・飲食、住宅環境、移動・交通、教育、雇用・所得、地域とのつながりなど24カテゴリーが扱われ、アンケートによる主観指標と、オープンデータによる客観指標の双方が用いられている。

人口だけでは町を測れないという考えは、もはや抽象的な理念だけではない。

政策評価そのものが、少しずつ「何人いるか」から「人がどう暮らしているか」へ広がり始めている。

ただし「人口を忘れて幸福度だけ見ればよい」わけでもない

ここで反対側へ振れすぎてはいけない。

人口目標を批判した結果、「人口など減っても構わない」「幸福度だけ高ければよい」と考えてしまえば、別の単純化に陥る。

人口減少には現実の制約がある。

商店には売上が必要であり、医療機関には患者が必要である。公共交通には利用者が必要で、広い地域に住宅が散らばったまま住民が半分になれば、ごみ収集、訪問介護、水道、道路などを一人当たりで支える負担は一般に重くなりやすい。

国土交通省が「コンパクト・プラス・ネットワーク」を進めている背景にも、この問題がある。人口が減少したまま市街地が薄く広がれば、医療、福祉、商業などの生活サービスや公共交通を維持することが難しくなるおそれがあるため、居住を公共交通沿線や生活拠点へ緩やかに誘導し、サービスへのアクセスを確保しようという考え方である。

だから本当に問うべきなのは、「人口を増やすか、人口減少を受け入れるか」という二者択一ではない。

人口が減る可能性が高いなら、それでも生活を維持できるように町の形とサービスの提供方法をどう変えるかである。

ここに、人口減少政策と生活品質政策の接点がある。

町の大きさが変わるのに、町の形だけ昔のままでよいのか

人口が1万人から5000人になったとき、最も危険なのは「5000人になったこと」だけではない。

1万人だった時代につくった道路、水道、公共施設、住宅地、交通体系を、5000人で同じように支え続けようとすることが問題になる場合がある。

身体が小さくなったのに、昔の大きさの服をそのまま着続けるようなものである。

だから人口減少時代の町づくりでは、何を減らさないかだけでなく、何を組み替えるかが重要になる。

学校の数が減ることも、病院の数が減ることも、バス路線が減ることも、それだけを取り出せばサービス低下に見える。しかし、学校を再編したうえで通学手段を充実させ、医療機関を集約したうえで遠隔診療や送迎を組み合わせ、利用者の少ない固定路線を予約型交通へ転換した結果、住民が目的地へ到達しやすくなるなら、施設の数は減っても利用できる機能は必ずしも同じ割合で減るとは限らない。

ここで見るべきものは「何を残したか」ではない。

「何ができる状態を残したか」である。

施設ではなく機能を測り、距離ではなく到達可能性を測り、人口ではなく生活を見る。

そうすると、縮小と衰退は必ずしも同義ではなくなる。

「人を呼ぶ政策」と「出て行かなくてもよい政策」

人口増加を最上位目標から一段下げると、移住政策の見え方も変わってくる。

移住相談会を開き、住宅取得補助を設け、子育て世帯への支援を充実させ、一年間で百人の転入を実現すれば成果として分かりやすい。

しかし、転入した百人が五年後にもそこへ住んでいるかは別の問題である。

さらに、その一年に既存住民が百二十人転出しているなら、町の課題は「どうやって百人呼ぶか」だけでは解けない。

なぜ出ていくのかを見る必要がある。

ただし、ここでも因果関係を単純化すべきではない。人が地域を離れる理由には、就職、所得、進学、結婚、家族、住宅、医療、交通、子育てなど複数の要因が重なっている。生活環境を改善すれば必ず人口流出が止まる、というほど単純ではない。

それでも、現在住んでいる人が「この町では暮らし続けられない」と感じる原因を減らすことは、人口流出を抑える重要な条件の一つになり得る。

運転できなくなっても暮らせる。家族が病気になっても生活が破綻しにくい。子どもの教育を理由に転居しなくてもよい。仕事の形が変わっても住み続けられる。

こうした条件を増やしていく政策は、派手な転入者数としては現れにくい。

しかし、人口減少社会では、「何人呼んだか」と同じくらい「何人が出て行かずに済んだか」を考える必要がある。

100人増えた町と、1000人が便利になった町

ここで二つの町を比べてみよう。

一つの町は、一年間で移住者を100人増やした。

もう一つの町では人口は増えなかった。しかし予約型交通を改善し、それまで自動車がなければ通院や買い物に苦労していた1000人の移動環境を改善した。

どちらの政策成果が大きいのだろう。

人口だけを成果指標にすれば、答えは簡単である。100人増えた町が上になる。

しかし、行政の目的を住民生活の改善と考えるなら、比較は急に難しくなる。

100人の転入には、税収、地域経済、将来の担い手などさまざまな効果があり得る。一方、1000人の移動環境改善には、通院、消費、社会参加、自立した生活など広い効果があり得る。

どちらが上かは、単純には決められない。

そして、決められないという事実そのものが重要である。

人口という一つの数字だけでは、町づくりの成果を十分に評価できないからだ。

では、生活品質を一つの数字にすれば解決するのか

ここでも注意が必要になる。

人口だけでは町を測れないなら、代わりに「幸福度72点」のような一つの指数をつくればよい、と考えたくなる。

しかし、それでは人口という単一指標を、別の単一指標へ置き換えただけになる。

医療を重視する人もいれば、仕事を重視する人もいる。子育て世帯にとって重要な条件と、80歳の単身高齢者にとって重要な条件も同じではない。医療、交通、所得、安全、教育、自然環境をどのような比率で一つの点数へまとめるかには、必ず価値判断が入る。

デジタル庁の地域幸福度(Well-Being)指標も、自治体同士を一列に並べるランキングを目的としているわけではなく、地域自身が特徴や課題を把握し、まちづくりに利用することを重視している。

人口目標から生活品質目標へ移るということは、人口という一つの数字を捨て、幸福度という別の一つの数字を採用することではない。

むしろ、町は一つの数字では測れないと認めることである。

人口、所得、医療への到達時間、移動手段、買い物環境、住宅負担、教育機会、安全性、住民の満足度。それらを組み合わせて、どこが改善し、どこが悪化しているのかを見る。

少し面倒になる。

しかし、暮らしそのものが一つの数字ではない以上、その面倒さを引き受けなければ、本当の意味で町を測ったことにはならない。

「人口目標」をなくすのではなく、その上位に生活目標を置く

ここまで考えると、自治体の将来計画の書き方も変わってくる。

これまでの発想では、十年後の目標人口を決め、その人口を実現するために移住、子育て、産業、住宅などの政策を並べる。

これを逆にする。

十年後も、車を運転できない人が買い物と通院を続けられる町にする。救急医療への到達時間を悪化させない。子どもが教育機会を失わない。住宅と交通を合わせた生活負担を過度に増やさない。高齢になっても地域とのつながりを保てるようにする。

そうした生活目標を最初に置き、それを実現するためには、どの程度の人口が必要で、どの地域に居住を誘導し、どの施設を残し、何を統合し、どのサービスを別の方法へ置き換える必要があるのかを考える。

人口を無視するのではない。

人口を手段の側へ戻すのである。

小さくなることと、貧しくなることは同じではない

人口減少という言葉には、どこか敗北の響きがある。

人口3万人だった町が2万人になる。六つあった学校が四つになる。商店が閉まり、公共施設が統合される。地図から何かが消えるたびに、町が少しずつ失われているように見える。

その感覚を軽く扱うべきではない。学校にも商店にも、人の記憶がある。効率だけで地域を切り分ければよいわけではない。

それでも、残した施設の数だけで住民生活を測ることもできない。

六校をそのまま維持した結果、どの学校も極端な小規模化に直面するなら、四校へ再編して通学環境や教育内容を充実させるという選択肢もある。一日一本しか走らない路線を十本残すより、路線を整理して利用しやすい交通へ変える方が暮らしを支えられる場合もある。

何かが減ったから、必ず貧しくなったとは限らない。

大切なのは、減らした後に何を残せたかである。

自分で買い物へ行ける。必要な医療を受けられる。子どもが学べる。仕事を続けられる。誰かに会いに行ける。

そうした普通の行為が守られているなら、町の人口や施設数が小さくなっても、生活そのものまで同じように縮むとは限らない。

町の未来を決める「成績表」を変える

人口はこれからも地域分析に欠かせない。

出生数も、死亡数も、転入者数も、転出者数も、高齢化率も必要である。これらを見なくなれば、むしろ町の現実を見誤る。

しかし、それらは最終目的ではない。

人口5000人でも安心して暮らせる町と、人口1万人でも車を失った瞬間に生活できなくなる町があるなら、私たちが本当に知りたいのは人口の多さだけではない。

その数字の中で、人がどのような一日を送れるのかである。

これからの地方自治体の競争は、「昨年より何人増えたか」だけではなく、「昨年より何人が暮らしやすくなったか」を問う競争へ少しずつ変わっていく必要があるのではないだろうか。

人口を増やそうとする努力は必要である。

移住政策も、子育て支援も、産業政策も重要である。

ただ、その目的を見失ってはいけない。

町は人口表の数字を増やすために存在しているのではない。

人が暮らすために存在している。

朝起きて、食べるものを買い、必要なら病院へ行き、誰かと話し、働き、学び、年を取って車を運転できなくなった後も、できれば同じ土地で一日を終える。

人口減少時代に守るべきものは、そのような何でもない一日なのかもしれない。

人口を増やす政策から、人口を増やすことも含めて「普通の一日を守る政策」へ。

町を良くするとは、必ずしも昔の人口へ戻すことではない。

小さくなっても、そこで生きる人の暮らしまで小さくしないことなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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