地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

地域経済

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 自治体の予算が過去最大になったと聞けば、住民は地域の暮らしが少しずつ良くなることを期待するだろう。傷んだ道路の補修が進み、公共施設の設備が新しくなり、子育てや高齢者への支援にも財源を振り向けられる。ところが、自治体の予算書を詳しく調べると、予算総額が増加しているにもかかわらず、既存事業の見直しや公共施設の統廃合、将来の財政負担への対応を迫られている例が見つかる。予算が増えたことと、行政が自由に使えるお金が増えたことは、必ずしも同じではないのである。

 家計であれば、収入が増えても食費や光熱費、住宅ローンの返済がそれ以上に増加すれば、自由に使えるお金は減ってしまう。自治体にもこれと似た構造があるが、行政の場合はさらに複雑である。国が制度を定めた社会保障給付、職員の給与、過去の借入金の返済、公共施設の維持管理など、自治体が短期間で削減することの難しい支出が数多く存在するうえ、国や都道府県から交付される財源のなかには、使い道が定められているものもあるからだ。

 もっとも、予算が増えても行政に余裕がないという説明を、そのまま全国すべての自治体に当てはめることはできない。税収が増えて財政の柔軟性を取り戻す自治体もあれば、財源の増加以上に経費が膨らみ、厳しい選択を迫られる自治体もある。大切なのは、予算が増えたという事実から直ちに財政が豊かになったと判断せず、反対に、経費が増えたという理由だけで財政が悪化したと断定しないことである。

 では、自治体の予算は実際にどのように変化し、その増加は何に使われているのだろうか。千葉県内54市町村の2026年度当初予算と2025年度決算見込みを調べると、数字が大きくなることと、行政の選択肢が広がることの間にある、見えにくい関係が浮かび上がってくる。

過去最大の予算、その増加分はどこへ向かったのか

 千葉県が2026年5月に公表した市町村当初予算によると、県内54市町村の2026年度普通会計予算総額は約2兆9,347億円となり、前年度より約777億円、率にして2.7%増加した。これは過去最大の規模であり、54市町村のうち35団体が前年度を上回り、そのうち28団体で過去最大となった。普通会計とは、自治体ごとに異なる会計の構成を統一的な基準で整理し、自治体間の財政比較を可能にするための会計区分である。

 この777億円という増加額だけを見ると、新しい政策を実施するための財源が大きく膨らんだように思える。しかし、歳出の内訳を確認すると、別の数字が目に入る。人件費、扶助費、公債費を合わせた義務的経費が、前年度から約733億円、5.0%増加しているのである。義務的経費の総額は約1兆5,493億円に達し、歳出全体に占める割合は52.8%となった。義務的経費の増加は14年連続であり、2026年度だけに突然生じた現象ではない。

 ここで、義務的経費の増加額732億83百万円を、予算総額の増加額776億69百万円で割ると、94.4%となる。予算全体の増加額に対して、義務的経費の増加額がそれほど大きな規模に達しているという意味であり、行政財政の変化を考えるうえで興味深い数字である。ただし、増えた財源の94.4%がそのまま義務的経費に配分されたわけではなく、この割合を行政の自由に使えるお金の減少率と解釈することもできない。財源と支出には異なる分類があり、予算全体はさまざまな経費の増減が相殺された結果だからである。

 実際、2026年度の千葉県内市町村では、投資的経費が前年度から約379億円減少する一方、施設管理費やシステム運用費などを含む物件費は約149億円、補助費等は約136億円、特別会計などへの繰出金は約81億円増加している。投資的経費の減少には、大規模な建設事業が進捗したことによる自然な減少も含まれるため、これを直ちに公共投資の切り捨てと評価することはできない。それでも、毎年度繰り返し必要となる支出が増加する一方で、建設事業の支出が縮小するという構図は、予算総額だけでは読み取れない変化である。

それでも増えている自由な財源を、どう考えるべきか

 ところが、歳入に目を移すと、財政が厳しいという説明に対して反論となりそうな数字が現れる。2026年度の県内54市町村の一般財源等は約1兆6,680億円となり、前年度から約765億円、4.8%増加している。一般財源等とは、市町村税、地方譲与税、各種交付金、地方交付税などを中心とした、原則として使途が特定されない財源である。使い道に制約のある国庫支出金などとは異なり、自治体が自らの判断で行政サービスに振り向けられる性質を持っている。

 一般財源等の増加額約765億円は、予算総額の増加額約777億円にかなり近い。しかも、その増加率は予算全体の2.7%を上回る4.8%である。この事実を無視して義務的経費の増加だけを強調すれば、自治体財政を実態以上に悲観的に描いてしまう。財源面では改善が見られることも、同時に認めなければならないのである。

 では、一般財源が増えたのであれば、行政は以前より自由になったと考えてよいのだろうか。ここで問題になるのは、使い道が法律上限定されていないことと、実際に自由な政策へ振り向けられることの違いである。自治体は一般財源から、既存の福祉制度に必要な地方負担分や職員給与、公共施設の運営費なども支払わなければならない。一般財源が増えても、それを必要とする既存の支出が同時に増加すれば、新しい政策へ使える財源がどれほど増えるかは分からない。

 この関係を正確に捉えるには、一般財源の増加額から義務的経費の増加額を単純に差し引くだけでは不十分である。義務的経費のなかにも国庫支出金などの特定財源が充当される部分があり、義務的経費以外にも一般財源で賄う必要のある支出が存在するからだ。行政の自由度を判断するには、経費の総額だけでなく、その経費にどの財源が充てられているのかを調べる必要がある。

 つまり、千葉県内市町村の2026年度予算から確認できるのは、一般財源が増える一方で、義務的経費も大きく増加しているという2つの事実である。この段階で財政が一律に悪化しているとは結論できないが、予算総額の増加をそのまま政策的な余裕の拡大と受け止めることもできない。財政の評価が難しいのは、増えたお金の性質と、そのお金を必要とする支出の性質が異なっているためである。

福祉費が増えることは、行政が豊かになることなのか

 義務的経費のなかで最も大きな割合を占めるのが扶助費である。千葉県内54市町村の2026年度扶助費は約8,019億円で、前年度から約402億円、5.3%増加した。歳出総額の27.3%に相当する規模であり、人件費や公債費を大きく上回っている。扶助費には、子育て支援や障害福祉、生活保護などの給付に必要な経費が含まれ、国の制度改正や給付単価の変更によって自治体の負担が変動する。

 福祉費の増加を、ただちに財政悪化と受け取るのは適切ではない。保育士の待遇改善によって必要な人材を確保できたり、障害のある人が安心して生活できる支援体制が整ったりすれば、そこに投入されたお金には社会的な価値がある。千葉県の資料では、2026年度の扶助費が増加した要因として、保育所等における公定価格の見直しなどが挙げられている。公定価格の引き上げが職員の処遇改善につながるのであれば、支出額の増加は必ずしも無駄ではない。

 ただし、制度に必要な費用が増えることと、住民が受けられるサービスの量が増えることは、同じではない。例えば、100人を対象としていた福祉サービスについて、対象者数を変えずに1人当たりの提供費用が10%上昇した場合、必要な予算も基本的には増加するが、利用者数は変わらない。支出額だけで行政サービスの充実度を評価すれば、単価の上昇とサービス量の増加を取り違えることになる。

 もっとも、単価の上昇には職員の処遇改善や設備の充実など、サービスの質を向上させる効果が含まれる場合もある。したがって、福祉費を評価する際には、給付対象者数、利用件数、1件当たりの費用、利用者の生活改善、制度改正による影響を分けて考えることが重要になる。財政支出の増加が負担の拡大なのか、社会的な成果の向上なのかは、予算額だけでは判断できないのである。

黒字が続いているのに、なぜ財政は厳しいと言われるのか

 自治体財政の実態をさらに調べると、予算の増加以上に意外な数字が見つかる。千葉県が2026年9月に公表した2025年度市町村決算見込みによれば、県内54市町村の実質収支はすべて黒字であり、全市町村の黒字は19年連続となった。54市町村を合計した実質収支の黒字額は約767億円で、前年度から約44億円増加している。行政に余裕がないという説明を聞いた住民が、この数字を見て疑問を感じるのは当然だろう。

 しかし、決算上の黒字と、財政運営の自由度は別の概念である。実質収支は、歳入と歳出の差額から翌年度に繰り越すべき財源を差し引いたものであり、年度内に必要な支出を調整し、予算を管理した結果として黒字が生じる場合もある。既存事業を見直したり、施設整備の実施時期を変更したりすることで収支を確保することもあり、黒字だから新規事業を自由に拡大できるとは限らない。一方で、黒字が継続していること自体は、財政運営を評価する際の前向きな材料でもあり、無視してよい数字ではない。

 そこで財政の柔軟性を考える指標として用いられるのが、経常収支比率である。これは、市町村税や普通交付税など、経常的に収入される一般財源に一定の地方債を加えた財源に対し、人件費、扶助費、公債費などの経常的な支出へ充当した一般財源が、どの程度の割合を占めるかを表したものである。比率が高いほど、毎年度必要となる経費に財源が使われており、新たな政策へ振り向けられる余地が限られる傾向にある。

 2025年度決算見込みでは、千葉県内54市町村の経常収支比率の平均は92.2%となり、前年度の92.6%から0.4ポイント改善している。これは重要な事実であり、少なくともこの指標から、県内市町村の財政が一斉に硬直化したとは言えない。税収などの増加によって経常的な財源が拡大し、財政の柔軟性が改善した自治体も存在する可能性がある。

 その一方で、経常収支比率が95%以上となった自治体は15団体あり、県内54団体の27.8%に相当する。千葉市、船橋市、松戸市などの都市部だけでなく、鴨川市、館山市、大多喜町なども含まれており、財政の硬直化が特定の人口規模の自治体だけに生じる問題ではないことが分かる。ただし、95%という数字は、一般財源のうち自由に使えるお金が必ず5%しかないことを意味するものではない。臨時的な歳入や支出、基金の活用、事業別の財源構成なども財政運営に関係するため、経常収支比率だけで行政の余裕を金額として算出することはできない。

 黒字が続いていることと、経常収支比率の高い自治体が存在することは矛盾しない。単年度の収支を保ちながらも、新しい政策を実施するためには既存事業の見直しや財源の組み替えが必要になる場合があるからだ。行政の余裕を考える際には、赤字か黒字かという結果だけでなく、どのような財政構造によってその結果が生まれたのかを調べる必要がある。

自治体の貯金は増えているのか、それとも減っているのか

 自治体の財政を家庭の家計に例えるなら、基金は将来の支出や予期しない事態に備えて積み立てられた資金に相当する。ただし、基金には性質の異なるものがあり、財政上の不足や災害などに備える財政調整基金、地方債の償還に備える減債基金、特定の事業に使うその他特定目的基金を、すべて自由に使える貯金として扱うことはできない。

 千葉県の2025年度市町村決算見込みによると、54市町村の積立基金残高は約5,361億円となり、前年度より約90億円、1.7%増加している。この数字だけを見れば、自治体の財政的な備えは強化されたように感じられる。しかし、内訳を確認すると、財政調整基金は約2,279億円となり、前年度から約133億円、5.5%減少している一方、その他特定目的基金は約223億円増加している。基金全体は増えていても、比較的柔軟に活用できる財政調整基金は減少しているのである。

 さらに、標準的な一般財源の規模に対する財政調整基金と減債基金の残高の割合を示す、財政調整基金等残高比率は、2024年度の27.9%から2025年度には26.8%へ低下している。標準財政規模に対してどれほどの財政的な備えがあるかを考える指標であり、基金総額の増加とは異なる方向の変化が生じていることが分かる。もっとも、基金の減少には災害対応や計画的な事業実施など合理的な理由もあり、取り崩しだけを根拠に財政運営が悪化したと判断することはできない。

 では、2026年度にはどうなるのだろうか。千葉県が2026年5月に公表した当初予算の集計では、54市町村の基金について、2025年度末残高を約5,240億円と見込み、2026年度中に約1,054億円を取り崩す一方、約293億円を積み立て、2026年度末残高は約4,479億円になると想定していた。この予算編成時の見込みでは、基金残高は約761億円、14.5%減少する計算になる。

 ただし、この2025年度末残高約5,240億円は、2026年5月時点での推計値であり、その後、2026年9月に公表された2025年度決算見込みの約5,361億円とは異なっている。したがって、当初予算時点の2026年度末見込みと、後に更新された2025年度末見込みをそのまま接続して、基金の減少額を計算することは適切ではない。また、当初予算における基金取り崩し予定は、年度途中の補正予算や決算時の収支状況によって変わるため、予定どおり残高が減少すると断定することもできない。

 ここから読み取るべきなのは、基金が必ず大幅に減少するという結論ではなく、当初予算の編成段階で相当規模の基金活用が予定されているという事実である。自治体が基金を取り崩す理由には、施設整備のために積み立てた資金を予定どおり使う場合もあれば、経常的な財源不足を補う場合もあり、その意味は大きく異なる。財政の余裕を調べるのであれば、基金残高の総額だけでなく、基金の種類、取り崩しの目的、毎年度の積立状況まで確認しなければならない。

物価が上がれば、同じ仕事にも多くのお金が必要になる

 自治体の予算が増加する背景には、社会保障や給与改定だけでなく、物価上昇も存在する。自治体は学校給食の食材を購入し、公共施設の電気料金を支払い、道路補修や建物管理を民間事業者へ委託している。住民が日常生活で感じる物価上昇は、役場のなかで行われる行政事務や公共サービスの提供にも影響するのである。

 総務省統計局の消費者物価指数によれば、2025年度の全国の総合指数は、2020年を100として112.3となっている。これは家計が購入する財やサービスの価格水準が、基準年に比べて約12.3%上昇したことを意味する。仮に自治体が購入するものの価格も同じ割合で上昇したとすれば、2020年に1億円で購入できたものと同じ量を確保するには、約1億1,230万円が必要になる。予算が1,000万円以上増加していても、調達できる数量は以前と変わらないという状況が起こり得る。

 もちろん、消費者物価指数を自治体の経費全体にそのまま適用することはできない。道路工事の資材価格や建設業の労務費、学校給食の食材価格、情報システムの保守費用などは、それぞれ異なる動きをするためである。行政サービスの実質的な費用変化を測定するには、支出の内容に適した価格指標を使い、名目上の予算増加と実際に購入できるサービス量の変化を区別する必要がある。

 千葉県の2026年度当初予算では、54市町村の物件費が約149億円増加している。千葉県はその背景として、物価高騰に伴う施設管理経費、住民基本台帳などのシステム運用経費、学校給食の材料費の増加などを挙げている。施設の利用者数が増えず、学校で提供される給食の回数も変わらなかったとしても、これらの価格が上昇すれば必要な予算は膨らむ。

 住民から見れば、昨日と同じようにごみが収集され、学校で給食が提供され、公民館の照明がともっているだけかもしれない。しかし、その変わらない日常を維持するための費用が上昇していれば、予算総額は増えていく。自治体の財政規模が拡大しても、行政サービスの充実を実感しにくい理由の1つは、支出の増加がサービス量の拡大ではなく、既存サービスの維持費用の増加に使われる場合があることだ。

人口が減る地域ほど、1人当たりの負担が重くなるのか

 物価上昇とは別に、自治体の財政を長期的に変化させるのが人口動態である。人口が減れば行政サービスの利用者も減るため、必要な予算も自然に小さくなると考えたくなるが、行政経費には利用者数に比例して減少するものと、そうでないものがある。例えば、学校給食の食材費は児童数によって変化しやすい一方、道路や橋の維持管理費は人口が減少しても同じ割合では減らない。

 仮に、人口2万人で管理道路延長が200キロメートルの自治体を想定してみよう。この場合、道路1キロメートル当たりの人口は100人である。その後、人口が20%減少して1万6,000人になっても、管理する道路が200キロメートルのままであれば、道路1キロメートル当たりの人口は80人になる。道路維持管理費が変わらないと仮定すると、住民1人当たりの負担は25%増加する計算になる。

 この25%という数字は実在の自治体を分析した結果ではなく、固定費と人口減少の関係を説明するための数理的な例である。実際の道路維持費は、道路の幅員、交通量、舗装状態、地形、橋の数などによって変化し、人口減少によって交通量が減れば維持費が減少する可能性もある。しかし、人口が減少したからといって道路や公共施設の規模が自動的に縮小するわけではないという問題は、地域財政を考えるうえで避けられない。

 さらに、人口減少の状況も地域によって異なる。千葉県の毎月常住人口調査では、2026年4月1日現在の県人口は627万5,486人で、前年同月から4,408人増加している。県全体の人口が増えている時期であっても、個々の自治体や地区では人口減少が進んでいる場合があり、県全体の数字だけから地域の行政需要を判断することはできない。

 人口が少なく、集落が広い範囲に分散する地域では、利用者1人当たりの行政コストが高くなりやすい一方、施設やサービスを集約すれば住民の移動距離が長くなる場合がある。学校の統廃合では通学時間が、医療機関の集約では受診に必要な移動時間が問題となり、高齢者の多い地域では公共交通の不足が生活の制約につながることもある。したがって、人口1人当たりの歳出が大きい自治体を、直ちに非効率と評価することはできない。地理的条件と行政サービスの必要性を考慮したうえで、どこに改善の余地があるのかを判断する必要がある。

住民1人当たり46万8,000円という数字の意味

 予算総額が大きすぎて実感しにくい場合には、人口1人当たりに換算する方法が有効である。千葉県内54市町村の2026年度普通会計当初予算約2兆9,347億円を、2026年4月1日現在の県推計人口627万5,486人で割ると、住民1人当たり約46万8,000円となる。この金額は住民に直接給付されるものではなく、行政サービスや公共施設の運営などに使われる予算総額を、人口で標準化した指標である。

 同じ人口を使って2026年度予算の増加額約777億円を割ると、住民1人当たり約1万2,400円となり、義務的経費の増加額約733億円は、住民1人当たり約1万1,700円に相当する。これらの計算は、県内市町村の合計額を同一時点の人口で割った参考値であり、個々の自治体の増加額や、住民1人が実際に受け取る便益を示すものではない。また、歳出の増加と財源の増加を直接対応させたものでもなく、財政的な余裕が1人当たり700円しか増えなかったという意味ではない。

 それでも、人口1人当たりに直すことで、巨額の予算の変化を理解しやすくなる。さらに、同じ会計区分と人口の定義を使い、過去の年度と比較すれば、行政サービスを支える財政規模が住民1人当たりでどのように変化したかを確かめられる。ただし、実際に行政サービスの量や質が改善したかどうかを調べるには、物価の変動や住民の年齢構成、施設数、サービス利用件数なども合わせて考える必要がある。

 例えば、高齢者人口が増えて介護関連の支出が増加した自治体と、子育て世帯が増えて教育関連の支出が増加した自治体では、同じ人口1人当たり歳出額でも、その内容は大きく異なる。道路や橋が多い地域、観光客による行政需要が大きい地域、人口が密集する都市部でも、必要となる支出は同じではない。人口1人当たり予算は有効な比較の出発点になるが、それだけで行政の効率性やサービス水準を判断することはできないのである。

大都市では、予算が減っても義務的経費が増えている

 こうした財政構造の複雑さは、大都市の予算を見ると別の形で現れる。千葉市の2026年度一般会計当初予算は5,417億円で、前年度から95億円、1.7%減少した。県内54市町村の普通会計予算が全体として増加しているのに対し、千葉市の一般会計は縮小していることになる。ただし、普通会計と一般会計は厳密には同じ会計区分ではないため、金額を直接比較するのではなく、予算構成の変化に注目する必要がある。

 千葉市の公表資料によると、2026年度の市税収入は前年度から109億円増加する一方、扶助費や人件費の増加によって義務的経費も148億円増える見込みとなっている。ところが、新清掃工場の整備が完了したことなどにより投資的経費は340億円減少し、結果として一般会計全体の予算規模が縮小した。義務的経費が増加しているにもかかわらず、予算総額は減少するという現象が起きているのである。

 この千葉市の例は、予算総額の増減だけで財政運営を評価することの難しさを示している。大型施設の建設が終了すれば、その事業に必要だった費用が減少するため、予算総額が小さくなっても行政サービスが後退したとは限らない。一方、建設事業の支出が減少するなかで毎年度必要となる経費が増加していれば、将来の財政構造に影響する可能性がある。

 大都市には比較的厚い税収基盤や人口集積による効率性があるものの、福祉、教育、交通、都市基盤、防災など、多様で大規模な行政需要も存在する。人口の少ない自治体では道路や公共施設を少人数で維持する負担が問題になりやすく、都市部ではサービスの対象者数や施設規模の大きさが負担となることがある。行政の余裕を制約する要因は自治体ごとに異なっており、人口規模や予算額だけで財政状況を序列化することは難しい。

国からの財源が増えても、自治体の仕事は軽くならない

 自治体の財政を理解するには、国と地方の役割分担にも目を向ける必要がある。2026年度の国の地方財政計画では、通常収支分の規模が約102兆4,400億円となり、前年度から約5.5%増加した。地方財政計画は、全国の地方自治体の歳入歳出総額について国が作成する見通しであり、個々の自治体の当初予算や決算とは性質が異なる。国はこの計画のなかで、一般財源総額の確保に加え、社会保障関係費や人件費、物価高騰による行政経費の増加などへの対応を図っている。

 国が地方財源を確保することは、自治体が安定的に行政サービスを提供するうえで重要である。しかし、国から交付されるお金には性質の違いがある。地方交付税は、地域間の財源格差を調整し、一定の行政サービスを維持できるようにするための制度であり、原則として使途が限定されない一般財源である。一方、国庫支出金には対象事業や使い道が定められているものが多く、自治体の歳入が増えても、その金額を別の政策へ自由に振り向けられるわけではない。

 例えば、保育士の処遇改善に伴う給付や、障害福祉サービスに必要な負担金が増加した場合、自治体の歳入と歳出は同時に拡大することがある。国からの交付額が増加していても、その財源は対象となる制度の実施に必要であり、道路整備や産業振興などに転用できるものではない。さらに、制度によっては地方にも費用負担が発生するため、自治体は既存の一般財源の配分を調整する必要がある。

 もっとも、国の制度拡充によって住民の生活が改善し、その地方負担についても十分な財源措置が講じられているなら、予算の増加は必ずしも自治体財政を圧迫しない。重要なのは、制度の対象者数や給付額、国と地方の負担割合、地方に必要となる事務経費を区別して確認することである。国の制度による支出増加と、自治体独自の政策判断による支出増加を混同すると、財政負担が生じた理由を正確に理解できなくなる。

財政の余裕と、行政の仕事の余裕は同じではない

 ここまで検討してきたのは、主として財政上の余裕である。しかし、住民が行政に余裕がないと感じる場面には、財政だけでは説明できないものもある。役場の窓口で手続きに時間がかかること、道路補修の要望にすぐ対応できないこと、施設の管理や地域課題への対応が遅れることなどは、財源不足だけでなく、職員配置、業務の仕組み、外部委託先の確保などにも関係する。

 予算が増えても、職員1人当たりの業務量が増加していれば、行政の処理能力に余裕が生まれない場合がある。例えば、制度改正によって申請書類の審査項目が増えたり、給付制度の対象者が拡大したりすれば、人件費やシステム運用費の増加と同時に業務量も増える可能性がある。一方、情報システムの導入によって事務処理が効率化されれば、予算の増加が将来の業務負担を軽減することも考えられる。

 したがって、行政の仕事にどの程度の余裕があるかを測るには、財政指標だけでなく、職員1人当たりの申請処理件数、事務処理に必要な時間、窓口の待ち時間、施設管理の対象面積などを調べる必要がある。ただし、職員1人当たりの処理件数が多いから効率的とは限らず、審査の難易度や住民への説明に必要な時間、サービスの質を考慮することも欠かせない。

 財政の硬直化と職員の業務負担は関連する可能性があるものの、両者が常に同じ方向へ変化するわけではない。財政に余裕があっても人材不足によって業務が滞る自治体はあり得るし、限られた予算のなかでも業務の見直しによって行政サービスを改善できる場合がある。予算総額だけで行政の余裕を判断できない理由は、財源の問題に加えて、行政が持つ人員や施設、業務運営の能力が別に存在するためである。

予算を増やすより、使い方を変える方が難しいこともある

 行政の余裕を確保するには、歳入を増やすだけでなく、既存の支出が現在の地域社会に適しているかを検証する必要がある。人口構成や生活様式が変化しているにもかかわらず、以前と同じ施設配置や事業内容を維持していれば、必要性の低下した支出が残る可能性がある。反対に、表面的な経費削減だけを重視すると、将来の維持管理費や住民の生活負担を増やしてしまうこともある。

 例えば、道路補修を先送りすれば、その年度の支出は抑えられる。しかし、劣化が進んだ結果、後年に大規模な工事が必要となれば、長期的な費用は増加する可能性がある。公共施設を統廃合すれば建物の維持管理費を削減できる場合もあるが、その施設を利用していた住民の移動距離が長くなれば、行政が負担していた費用の一部が、交通費や移動時間という形で住民へ移ることになる。

 このため、行政改革の成果を単年度の歳出削減額だけで評価することは適切ではない。公共施設であれば今後の更新費用を含めた長期的な費用、道路であれば維持管理水準と事故防止効果、福祉事業であれば給付額だけでなく生活改善への効果など、支出によって何が実現したのかを合わせて調べる必要がある。行政の効率化とは単にお金を使わないことではなく、限られた財源で必要な公共サービスを安定的に提供することである。

 もちろん、すべての自治体に同じ改革方法が適しているわけではない。人口の多い都市では窓口業務の集約や情報システムの効率化に効果が期待できる一方、集落が分散する地域では施設の集約によって移動負担が増える可能性がある。財政上の費用だけでなく、住民の利便性や安全性、地域の地理的条件を考慮して政策を選択することが求められる。

過去最大の予算を、私たちはどう読めばよいのか

 自治体の財政を正確に評価するには、予算総額の増減だけでは不十分である。千葉県内54市町村の2026年度当初予算では、予算総額と一般財源等が増加する一方で、義務的経費も大きく増えている。2025年度決算見込みでは、全市町村が黒字を維持し、経常収支比率の平均は改善したが、比率の高い自治体も存在している。基金についても、全体の残高は増加している一方、財政調整基金は減少しており、財政の状況を1つの数字だけで評価することはできない。

 さらに、2026年度当初予算と2025年度決算見込みは、それぞれ将来の計画と過去の実績を示したものであり、両者の金額をそのまま比較して財政が改善したかどうかを判断することはできない。予算は執行の過程で補正され、実際の歳入歳出も当初の見込みから変化する。千葉県内54市町村の2026年度当初予算には、首長選挙などのために骨格予算を編成した5団体も含まれており、その後の補正によって事業費が変化する可能性がある。こうした制度上の違いを踏まえ、同じ会計区分で複数年度の予算と決算を比較することが重要になる。

 地域間の比較でも同様である。人口1人当たりの歳出額が高い自治体でも、道路延長や公共施設の数、高齢者人口の割合などが異なれば、必要となる行政経費は変わる。予算総額だけでなく、人口1人当たりの行政経費、道路1キロメートル当たりの維持管理費、公共施設の延床面積1平方メートル当たりの管理費、職員1人当たりの業務量などを組み合わせて調べることで、初めて地域の事情に即した評価が可能になる。ただし、これらの指標と財政の悪化が同時に観察されたとしても、それだけで因果関係が証明されるわけではなく、制度変更や人口構成、地理的条件などを別に検証する必要がある。

 住民が自治体の予算書を見るときにも、過去最大という数字に注目するだけではなく、その増加が何を実現するためのものなのかを問い直すことができる。増えた予算によって新しいサービスが始まったのか、既存のサービスの質が向上したのか、それとも物価や人件費の上昇によって従来の仕事を維持するための費用が増えたのか。さらに、今後必要となる施設更新や災害対策のために、どの程度の財源が確保されているのかを確認することで、予算総額とは異なる行政の姿が見えてくる。

 財政には余裕があるのに行政が非効率な場合もあれば、財政的には厳しくても適切な事業選択によって良質なサービスを維持している場合もある。予算が増えているという事実だけで自治体を高く評価することも、義務的経費が増えているという理由だけで悲観的な結論を出すことも適切ではない。重要なのは、増加した財源がどのような行政需要に使われ、住民生活にどのような成果をもたらし、将来の政策選択にどれほどの余地を残しているかという点である。

 朝になれば道路を車が走り、学校では授業が始まり、役場の窓口では住民の手続きが続く。そうした日常は、行政サービスが大きく変化しない限り、特別に意識されることは少ない。しかし、その当たり前の生活を維持するための費用は、物価や人口構成、制度の変化によって少しずつ動いている。かつてより多くのお金を使わなければ同じ仕事を続けられないとすれば、予算が増えたという事実だけで自治体が豊かになったとは言えないだろう。

 過去最大の予算という知らせに接したとき、本当に問うべきなのは、前年より何億円増えたのかということだけではない。その増加は、何を守るために必要だったのか。どのような暮らしの改善につながったのか。そして、これから生まれる地域の課題に対して、自治体にはどれほどの選択肢が残されているのか。

 自治体の財政的な豊かさは、予算書に並ぶ金額の大きさだけでは測れない。今の住民生活を支えながら、将来の変化にも対応できる財源と行政能力をどれだけ確保できているか。過去最大の予算の意味を理解するためには、その数字の大きさではなく、数字の内側にある行政の選択肢を見なければならないのである。

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 地方の人口減少を語るとき、私たちはどうしても「住んでもらう」という発想から離れにくい。移住者を増やし、若い世代を呼び込み、子どもの数を増やして地域を維持するという筋書きは分かりやすいが、日本全体の人口が減少している以上、すべての町が同時に定住人口を増やすことはできず、しかも仕事、学校、医療、人間関係まで都市側に築いている人に対して、生活の中心そのものを地方へ移してくださいと求めるのは、本人にとってかなり大きな決断になる。

 しかし、「住民になってもらわなければ意味がない」という前提を外してみると、地方と都市の関係は少し違って見えてくる。月に2度来る人、週末だけ滞在する人、春から秋にかけて頻繁に訪れる人、仕事は都市に残したまま地方にも住まいを持つ人は、住民票を基準にした人口統計には十分現れないかもしれないが、実際には食料を買い、ガソリンを入れ、飲食店を利用し、住宅を維持し、ときには草刈りや修繕を地域の誰かに頼んでいる。

 その1回1回の支出は小さい。それでも、1度だけ訪れて帰る観光客とは違い、同じ人が翌月も、半年後も、数年後も戻ってくるのであれば、そこには「反復される需要」が生まれる。二地域居住の経済的な意味を考えるとき、まず見るべきなのは地域を劇的に変える一人の移住者ではなく、何度も来て少しずつお金を使う人がつくる、小さいけれど繰り返される市場なのである。

「一人増える」より「何回来るか」

 人口政策では「何人住んでいるか」が重要になるが、商売の側から見ると、それだけでは十分ではない。重要なのは、地域を利用する人が1年間に何回来て、そのたびにどれくらいの支出を行い、その支出のうちどれだけが地域内の事業者に届くかということである。

 たとえば説明のための仮定として、ある二地域居住者が月に2回町を訪れ、1回の滞在で食料、外食、燃料、日用品などに5,000円を地域内で使うとする。この場合、1年間の支出は24回掛ける5,000円で12万円となり、同じ程度の利用をする人が百人いれば、年間の地域内支出は1,200万円になる。

 もちろん、これは二地域居住者の全国平均を示した数字ではなく、あくまで経済の仕組みを考えるための仮定である。また、1,200万円の支出がそのまま地域住民の所得として残るわけでもない。スーパーで買った商品の仕入代金は地域外へ出ていき、ガソリンや家電も地域外で生産されていることが多いため、地域で支払われた金額と地域に残る所得は区別して考えなければならない。

 そこで重要になるのが、地域内で発生した支出のうち、どれだけが地域の人件費、利益、地域内仕入れとして残るかという割合である。同じ1,200万円の支出でも、ほとんどの商品を外部から仕入れている店に流れる場合と、地域の人が提供する草刈り、修繕、清掃、飲食、農産物販売などに流れる場合とでは、地域経済への影響はかなり違ってくる。

 二地域居住者の人数だけを数えても、地域への影響は十分に分からない。「何人いるか」に加えて、「年間何回来るか」「1回いくら使うか」「その支出を地域内でどれだけ受け止められるか」を見る必要があり、この三つを分けて考えると、地方における二地域居住の経済的な意味がかなり見えやすくなる。

観光客とも住民とも違う「半分知っている客」

 観光客は、その土地をまだよく知らないため、有名な観光施設や検索で見つけた飲食店を利用しやすい。一方、長く住んでいる住民は地域をよく知っているため、生活上の支出をできるだけ効率的に済ませようとすることが多い。二地域居住者はその中間に位置し、何度も町を訪れるうちに観光客ではなくなるが、完全な日常生活者にもならないという特徴を持つ。

 最初は評判の店を探して歩いていた人が、何度も通ううちに気に入った魚屋やパン屋を見つけ、帰宅前には同じ直売所で野菜を買うようになることがある。その行動が毎月繰り返されれば、1回限りの観光消費ではなく、ある程度予測できる反復需要に変わっていく。

 ただし、ここには注意も必要である。地域に慣れた人が必ず高い商品を買うとは限らず、土地を知るほど安い店や便利な店を選ぶようになることもあるため、二地域居住者は価格を気にしない優良顧客になると単純に考えるべきではない。それでも、店の商品や店主との関係に愛着が生まれれば、価格だけでは説明できない反復利用につながる可能性があり、地域の小さな商売にとって重要なのは、1度に大きな金額を使う客を探すことより、何度も戻ってくる客との接点を失わないことである。

人が来ても、買える場所がなければ消費は生まれない

 二地域居住者が増えれば、その人数に比例して地域の売上も増えると考えたくなるが、現実はそれほど単純ではない。地域に欲しい商品やサービスを提供する店がなければ、食料を都市から持ってきたり、インターネット通販を利用したり、隣の市まで買い物に出たりするため、地域に人が滞在していても、その消費が地元の事業者には届かない場合がある。

 つまり、二地域居住者が持ち込む購買力と、その購買力を地域で受け止める供給力は別の問題であり、「人を呼ぶこと」と「地域でお金を使ってもらうこと」の間には一段階がある。飲食店が閉まる時間が早すぎる、必要なものをどこで買えるのか分からない、住宅の修理を頼める事業者を探せないといった小さな不便が積み重なれば、せっかく地域に持ち込まれた需要は外へ流れてしまう。

 だから二地域居住を経済政策として考えるのであれば、人数を増やすことだけを成果にしてはいけない。重要なのは、外から持ち込まれた需要を地域の商いがどれだけ捕まえられるかであり、その意味では店の存在、営業時間、サービス情報、注文のしやすさ、支払い方法といった、一見地味な条件の方が、華やかな移住促進イベントより実際の消費に直結することがある。

「住んでいない時間」が新しい市場になる

 二地域居住の経済が興味深いのは、飲食や買い物だけではない。むしろ地域にとって特徴的なのは、「そこに住んでいない時間」があるために、定住者とは違ったサービス需要が生まれることである。

 家を持てば草は伸び、湿気はたまり、排水溝には葉が入り、台風のあとには屋根や雨戸が気になる。毎日住んでいる人なら自分で確認できることでも、月に数回しか訪れない人には確認すること自体が難しく、そこで誰かにお金を払って任せる理由が生まれる。

 たとえば月に1度の換気や簡単な清掃、庭の状態確認、郵便物の確認、台風通過後の外観点検、冬期の水道確認、設備の異常確認などは、1件ごとの仕事として見れば小さい。しかし、二地域居住者が一定数集まる場所では、こうした仕事を定期的に束ねることで、一つのサービスとして成立する可能性がある。

 ここで大切なのは、何でも代行する便利屋を始めれば成功するということではない。地方では顧客同士の距離が離れていることが多く、1件3,000円の仕事のために片道30分かけて移動すれば、それだけで採算が崩れてしまうことがあるため、小さな需要を商売にするには、その需要を地理的に束ねなければならない。

地方の商売では「顧客数」より「顧客密度」が効く

 二地域居住者向けサービスの成否を考えるうえで、人数以上に重要になるのが顧客密度である。百人の顧客が広い町全体に散らばっている場合と、同じ百人が一つの住宅地や別荘地に集中している場合では、売上の総額が同じでも利益は大きく異なる。

 1日に十軒を回れる地域と、1日に三軒しか回れない地域では、1件当たりの料金が同じでも事業者の収益性は変わるため、地方の生活サービスでは「市場人口が何人いるか」という問いだけでは十分ではない。「1時間で何人の顧客に会えるか」「1回の移動で何件処理できるか」という視点が必要になる。

 このため二地域居住者を対象とする小規模サービスには、町全域を広く取りに行くより、二地域居住者が比較的多い住宅地や別荘地など、狭い範囲にサービスを集中させる方が向いている。人口減少地域の新しい商売では、大規模な市場を探すことより、散らばっている小さな需要を採算の取れる密度まで束ねられるかどうかが重要になるのである。

「歓迎します」だけではお金は動かない

 二地域居住や関係人口を推進するとき、自治体や地域団体は交流会、イベント、移住相談会といった人間関係をつくる施策を考えやすい。しかし、人と人がつながることと、その地域で継続的な経済活動が生まれることは同じではない。

 二地域居住者が本当に困るのは、住宅に着いたら庭が荒れていたとき、夕方に食料を買える場所が分からないとき、壊れた網戸を誰に頼めばよいのか分からないとき、台風のあとに屋根が心配だが遠くにいて確認できないときである。こうした問題は一つ一つが小さいため行政課題として目立ちにくいが、商売の視点で見ると、小さいからこそ全国企業が参入しにくく、地域の個人事業者や小規模事業者が扱える余地が残っている。

 町が二地域居住者を増やしたいのであれば、「この町を好きになってください」と呼びかけるだけでは十分ではない。「困ったときには誰に頼めるのか」「何をどこで買えるのか」「留守中に何を任せられるのか」が分かる仕組みを整えることで、地域に持ち込まれた購買力が実際の商売へ変わりやすくなる。

月3,000円のサービスは商売になるのか

 二地域居住者向けの小さなサービスを考えるとき、売上と利益を分けて考える必要がある。仮に一人から月3,000円を受け取り、百人の顧客がいれば、月間売上は30万円、年間売上は360万円となる。

 しかし、ここから車両費、燃料費、保険、通信費、消耗品、決済費用、広告費、移動時間などを負担しなければならないため、360万円すべてが所得になるわけではない。二人分の生活を支える専業事業として考えれば十分な規模とは言いにくいが、一人で運営する小規模事業、副業、あるいは造園、清掃、修繕、不動産管理など既存事業の追加サービスとして考えるなら、意味を持つ可能性がある。

 ここでも重要なのは、1件当たりの売上を無理に高くすることではなく、同じ移動の中で複数の顧客を回れるかどうかである。月3,000円という小さな支払いでも、百軒が狭い地域に集まれば事業になる可能性がある一方、十軒ずつ十地区に散らばれば、同じ売上でも移動費によって利益が消えることがある。

 地方で新しい商売を考えるとき、「何人買ってくれるか」だけを見るのではなく、「その人たちはどこにいるのか」という問いを加える必要があるのは、このためである。

二地域居住は、必ず地域を豊かにするわけではない

 二地域居住には経済的な可能性があるが、それを無条件に地域にとって良いものだと考えるのも危険である。外部から住宅需要が増えれば、地域によっては土地や住宅の価格を押し上げ、地元で暮らす若者やサービス業従事者が住宅を取得しにくくなる場合もある。

 とくに住宅供給が少なく、観光需要の強い地域では、二地域居住や別荘需要が地元住民の住宅需要と競合する可能性がある一方、空き家が多く、住宅需要が弱い地域では、使われなくなった住宅を維持し、固定資産の価値を保つ方向に働くこともある。同じ二地域居住でも、住宅が不足している地域と空き家が余っている地域では意味がまったく異なるため、一つの成功例を全国へそのまま当てはめることはできない。

 また、地域内に十分な店や事業者がなければ、二地域居住者が持ち込んだ支出の多くが地域外へ流れる可能性もある。したがって、二地域居住そのものを経済効果と考えるのではなく、住宅市場の状況、地域の商業構造、顧客密度、地域内で供給できるサービスの種類まで含めて考える必要がある。

地方に必要なのは「大当たり」ではない

 人口減少地域で新しいビジネスを考えるとき、全国から顧客を集められる商品や、急成長する事業が理想として語られやすい。しかし、そのような事業が生まれる確率は高くなく、地方の小さな経済では、すでに地域を利用している人たちの未処理の需要を見つけ、少額でも繰り返し購入してもらう方が現実的な場合が多い。

 一人の顧客から年間数万円しか得られなくても、その顧客が百人、二百人と一定の範囲に集まり、しかも翌年も利用し続けるなら、1度きりの大型契約とは違った安定性が生まれる。市場が小さいことは弱点だが、その市場が小さすぎるため大企業が入りにくく、地域の小規模事業者には競争が少ない市場として残る場合もある。

 ただし、その小さな市場を見つけるには、「地方だから何か需要があるだろう」と考えるのではなく、誰が、何に困り、何回必要とし、いくらなら払い、どの地域に集まっているのかまで確かめる必要がある。二地域居住者という言葉そのものが商機なのではなく、その人たちが繰り返し経験する具体的な不便の中に商機があるのである。

「町を救う人」にしない

 地方政策では、人に役割を背負わせすぎることがある。移住者には自治会活動への参加を求め、若者には地域を変えることを期待し、起業家には雇用創出を期待するうちに、二地域居住者にも「地域を活性化してくれる人」という役割が与えられかねない。

 しかし、月に2度やって来る人は、その町を救うために来ているわけではない。海が好きだから来る人もいれば、小さな畑を楽しみたい人もいて、都会とは違う静かな時間を過ごしたいだけの人もいる。その人に地域貢献を要求する必要はなく、町へ来て、食事をし、必要なものを買い、家の手入れを地域の誰かに頼み、また都市へ戻っていけばよい。

 その往復が何年も続けば、一人の生活の中にその町が組み込まれていく。住民票はなくても、いつものスーパーがあり、いつもの飲食店があり、頼めば来てくれる職人がいて、道ですれ違えば挨拶する人がいるという関係が生まれれば、それはもはや単なる観光ではない。

 町の側から見れば、その人が使う1回数千円のお金は小さい。しかし、その数千円が年に20回、30回と繰り返され、同じような人が百人、二百人と存在すれば、それは一つの市場になる可能性がある。ただし市場になるかどうかを決めるのは人数だけではなく、来訪頻度、支出額、地域内で支出を受け止める割合、そして顧客同士の距離である。

 人口減少の町を一気に反転させるほどの力は、二地域居住にはないだろう。しかし、それは弱点ではない。人口減少の時代に必要なのは、すべてを元に戻す巨大な政策だけではなく、減っていく需要の隙間に小さな需要を差し込み、それを地域の商いへ変える仕組みでもある。

 二地域居住者は町を救わなくてもいい。月に何度かやって来て、昼を食べ、野菜を買い、ガソリンを入れ、伸びた草を刈ってもらい、壊れた雨戸を直してもらい、また翌月戻ってくる。その何でもない往復の中で、一つの店の売上が少し増え、一件の仕事が生まれ、使われなくなるはずだった住宅がもう少し長く維持されるなら、それだけでも地域経済にとって意味がある。

 地方の未来は、必ずしも劇的な人口増加によって始まるとは限らない。ときには、住民でも観光客でもない人が月に数回来るという、統計では見えにくい生活の往復から、小さく、静かで、それでも繰り返される経済が始まるのである。

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「この町の人ですか」と聞かれたら

 週末になると東京を離れ、海辺の町へ向かう。そこに小さな家を持ち、近所のスーパーで食料を買い、顔なじみになった食堂で昼を食べ、ときには伸びた草を刈る。春になれば祭りを見に行き、台風が来れば自分の家だけではなく、近所の様子まで少し気になる。それでも住民票は東京にある。

 この人を、その町の「住民」と呼んでよいのだろうか。行政制度から見れば、答えは簡単ではない。住民基本台帳では生活の本拠となる住所を基礎として住民が登録され、国勢調査では住民票の所在地とは別に、普段住んでいる場所を基準として人口が把握される。国勢調査では原則として3か月以上住んでいる場所、または3か月以上住むことになっている場所が調査対象となり、二つの住居を持つ人については、普段寝泊まりする日数の多い住居で調査する扱いがある。いずれも、一人を二つの自治体に同時に常住人口として計上する仕組みではない。

 ところが、町の日常を眺めると、その区分だけでは説明しきれない人がいる。その人は年に一度訪れる観光客よりも頻繁に町へ来て、同じ店で買い物をし、住宅を維持し、ときには地域の人間関係にも入り込んでいる。しかし、生活のすべてをその町へ移したわけではない。行政上は地域外に住所を持つ人であっても、実際には地域の消費、労働、社会活動、住宅需要の一部を担っている場合がある。

 ここでは、そうした人たちを少し大胆に「第三の住民」と呼んでみたい。もちろん正式な制度用語ではなく、法律上の住民資格を新たに与えるという意味でもない。地域との関係を、住民票の有無だけでは十分に説明できないという問題を考えるための比喩である。

 人口が減っていく日本では、こうした人の存在が地域の将来を考える一つの手がかりになるかもしれない。ただし、人口統計に表れにくいからといって、その人たちが必ず地域を豊かにするわけではない。何をもたらし、何を必要とし、地域側にどのような負担が生じるのかを、冷静に考える必要がある。

すべての自治体が人口を増やすことはできない

 地方創生について語ると、長いあいだ「人口をどう増やすか」という問いが中心に置かれてきた。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、子育て支援を充実させ、都市から若い世帯を呼び込もうとする。しかし、日本全体の人口が減少している以上、すべての自治体が同時に人口を増やし続けることは数学的に成り立たない。

 同じ時点、同じ人口の定義で全国の自治体人口を合計すれば、日本全体の人口になる。したがって、全国人口が減少しているときに、すべての自治体の人口だけが増加することは不可能である。もちろん出生、死亡、海外との人口移動があるため、個々の自治体の人口増減を単純なゼロサムゲームと呼ぶのは正確ではない。それでも国内の自治体が移住者の獲得を競う場合、ある自治体への転入は、多くの場合、別の自治体からの転出を伴う。

 ただし、この数学的な制約から、移住政策が無意味だという結論は導けない。人口が集まることで企業活動の効率が高まったり、公共交通や医療サービスを維持しやすくなったりする可能性がある一方、人口の集中によって住宅費や混雑などの問題が生じることもある。人口移動の効果は単なる人数の増減だけでは評価できず、移動した人の生活、仕事、所得、地域社会への影響まで含めて考える必要がある。

 問題なのは、地方創生を「住民票を何人獲得したか」という競争だけで評価してしまうことである。人口減少が続く社会では、移住者を増やす努力とともに、住民票を移さなくても地域との継続的な関係を持つ人を増やすという発想が重要になる。

 東京で働きながら長野でも暮らす。大阪に住みながら和歌山の小さな町へ毎月通う。都市に住民票を置いたまま、房総や伊豆、瀬戸内で生活の一部を過ごす。これは人口を一方の地域から他方へ完全に移すというより、一人が持つ時間、消費、関心、労働、社会関係の一部を複数の地域に配分する暮らし方である。

 二地域居住の新しさは、別荘を持つことそのものではない。人間の生活や地域との関係が、一つの自治体の人口だけでは十分に表現できないという事実を、改めて政策の課題として浮かび上がらせているところにある。

二地域居住者は実際にどれだけいるのか

 二地域居住が地域政策として注目されるようになった背景には、実践者が一定数存在するという調査結果がある。国土交通省が2022年に全国の18歳以上を対象として実施したインターネット調査では、主な生活拠点以外に滞在する地域がある人などを基礎に、二地域居住等を実践している人は約701万人、18歳以上人口の約6.7%と推計された。

 約701万人という数字だけを見れば、非常に大きな市場が存在するように感じられる。しかし、この数字を年間の相当日数を二つの住居で暮らす人の数と、そのまま読み替えることはできない。調査には幅広い滞在形態が含まれており、住宅の所有形態、滞在頻度、生活の実態によって地域への関わり方は大きく異なる。また、インターネット調査による推計であり、すべての対象者を直接数えたものでもない。

 似た概念に「関係人口」がある。これは、移住や単なる観光とは異なり、特定の地域と継続的かつ多様な関わりを持つ人を指す。国土交通省が2025年6月に公表した2023年度の調査結果では、全国の18歳以上の関係人口は約2,263万人、全体の約22%と推計されている。ただし、関係人口は二地域居住者より広い概念であり、地域活動に参加する人や、遠隔地から継続的に地域を支援する人なども含まれるため、この数字を二地域居住者数として扱うことはできない。

 この関係人口調査では、実際に地域を訪れる「訪問系」の人の年間訪問日数について、2日から7日が約49%、8日以上が約31%だった。つまり、特定の地域と継続的に関わっていても、年間の滞在日数がそれほど多くない人もいる。月に何度も訪れる人と年に数日だけ訪れる人では、地域経済や日常生活への影響が同じとは限らない。

 さらに、二地域居住者が全国で増えていると断定するには、同じ定義、同じ調査方法で継続的に測定された時系列データが必要である。異なる年の調査で人数が変わっていても、対象年齢や調査方法、二地域居住の定義が違えば、その差を増加率として解釈することはできない。

 したがって、現時点で重視すべきなのは、二地域居住者が何百万人いるかという数字そのものよりも、その内訳を明らかにすることである。地域に何日滞在し、どのような活動をし、いくら消費し、どの程度継続して関わっているのか。全国の推計人口だけでは、個々の町にとっての意味は十分に分からない。

住民票だけでは測れない関係を制度はどう扱うのか

 二地域居住をめぐる国の政策も変化している。2024年11月には、改正された「広域的地域活性化のための基盤整備に関する法律」が施行され、二地域居住を促進するための制度が整備された。法律上は「特定居住」という考え方が用いられ、自治体が促進計画を策定する仕組みや、住まい、仕事、地域との交流を支援する法人の指定制度などが設けられている。

 これは、単に都市から地方へ人を呼び込むだけではなく、二地域で生活するための環境を整える方向へ政策が広がっていることを示している。住居を確保できても仕事がなければ暮らし続けられず、働く場所があっても交通や地域との関係に問題があれば継続は難しい。そのため、住宅、就労、交通、地域交流などを組み合わせて支援することが課題となる。

 さらに、2026年には「ふるさと住民登録制度」の具体化が進んでいる。この制度は、住所地以外の地域に関心を持つ人や、継続的に関わる人を登録し、その関係を可視化しようとする仕組みである。2026年3月に公表されたガイドラインでは、幅広い関心層を対象とする「ベーシック登録」と、地域での担い手活動など、より深い関わりを対象とする「プレミアム登録」という二つの区分が示されている。

 ただし、これは住民票を二つ持つ制度ではない。登録しただけで住所地が変わるわけでも、その地域の地方選挙に参加する権利が得られるわけでもない。また、ふるさと住民登録の対象となる人がすべて二地域居住者であるとは限らない。地域に住宅を持たなくても、継続的な活動や支援を通じて関わる人がいるからである。

 この制度の意義は、人と地域との関係を住民票とは別の形で把握しようとする点にある。一方で、登録者数が増えたことだけを成果とすれば、従来の移住者数を競う政策と似た問題が生まれる。登録した人が実際に地域を訪れたのか、活動を継続しているのか、地域側にどのような効果と負担が生じたのかを確認しなければ、制度の実質的な成果は評価できない。

観光客とは違うお金の使い方

 観光客は地域にとって重要な存在である。宿泊し、食事をし、土産を買い、観光施設を利用する。ただし、その関係は一時的であることが多い。気に入った町でも、次の旅行では別の場所へ行くかもしれない。

 二地域居住者の消費は、これとは少し性格が異なる。毎月のように訪れるようになると、土産物店よりスーパーマーケットを利用する機会が増え、観光客向けの店だけでなく町の定食屋へ入り、住宅があれば修繕を頼み、庭があれば草刈りが必要になる。家具や日用品を買い、場合によっては車を整備し、家の設備が故障すれば地元の業者へ連絡するなど、日常生活を維持するための支出が発生する。

 つまり、消費の性格が「非日常を楽しむための支出」から「その場所で暮らし続けるための支出」へ少しずつ広がっていくのである。観光では季節や行楽需要に左右されやすい消費が、生活のための継続的な需要へ変わる場合もある。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、二地域居住者が増えれば、その分だけ地域経済が豊かになるとは限らないことである。通信販売でほとんどの商品を購入し、地域では都市資本のチェーン店だけを利用する場合、地元事業者への直接的な売上は限定される。もっとも、チェーン店であっても地域の従業員に賃金が支払われたり、地元から商品を調達したりすれば一定の経済効果は生まれる。逆に、地元経営の商店でも、仕入れの多くを地域外に依存していれば、売上のすべてが地域内に残るわけではない。

 したがって見るべきなのは、二地域居住者の人数だけではない。その人が一年に何回来るのか、一回の滞在でいくら使うのか、どの事業者へ支払うのか、その売上のうちどれだけが地域の賃金や利益になるのかという組み合わせである。

人が来れば地域経済は豊かになるのか

 ここで、簡単な計算を考えてみたい。ある町に二地域居住者が100人いて、それぞれが年間12回訪れ、一回当たり8,000円を地域内で使うとする。この場合、年間の消費総額は960万円になる。もし、その半分が地元事業者への支払いであれば、直接的な売上は480万円である。

 しかし、この480万円を地域の利益と呼ぶことはできない。事業者は売上から商品仕入れ、光熱費、設備費などを支払い、その一部は地域外へ流れる。地域の経済活動によって新たに生み出された付加価値を考えるには、売上高だけでなく、中間投入や域外への支払いを区別する必要がある。

 さらに、最も重要なのは、その消費が本当に追加的に発生したものなのかという点である。二地域居住者が利用した飲食店の席が、もともと利用するはずだった観光客の席を置き換えているなら、売上全体が増えるとは限らない。逆に、観光需要が少ない平日に来店し、空いている施設やサービスを利用するなら、既存需要を圧迫せずに売上を増やせる可能性がある。

 このように、二地域居住の地域経済効果を測る際には、消費総額、地元事業者の売上、地域内で生み出された付加価値、二地域居住がなかった場合と比較した純増効果を区別する必要がある。人数に平均消費額を掛けるだけでは、地域経済への本当の貢献は分からない。

 近年は銀行取引などのデータを用いて、二地域居住者と考えられる人の経済行動を分析する試験的な調査も行われている。ただし、都市と地方の間で資金が移動したことと、地域で実際に消費が行われたこと、さらに地域内で付加価値が生まれたことは同じではない。取引データを使う場合も、対象者の選び方や取引の性質を確かめなければ、地域全体の経済効果を過大評価する可能性がある。

 二地域居住者が増えることは、地域に新しい需要が生まれる可能性を意味する。しかし、その可能性が実際の所得や雇用の増加につながるかどうかは、地域の産業構造と事業者の対応によって決まる。

「救世主」と呼んだ瞬間に話がおかしくなる

 二地域居住者が地域で消費するのだから、人口減少地域にとって歓迎すべき存在だという結論は魅力的である。しかし、ここで話を終えると地方創生の記事としては都合がよすぎる。

 地域に人が来れば、便益と同時に費用も生まれる。人気の高い地域では住宅需要が高まり、空き家の活用が進む一方で、住宅価格や家賃を押し上げる可能性がある。海外のセカンドホーム地域でも、住宅需要の増加と供給制約が重なることで、地元住民が住宅を確保しにくくなる問題が研究されてきた。

 ただし、日本のすべての二地域居住地域で同じ現象が起きるとは限らない。空き家が多く、住宅需要が弱い地域では、二地域居住者の購入によって老朽住宅の改修が進み、建設業や住宅管理業への需要が生まれる場合もある。一方、住宅供給が少なく、交通の便がよい地域では、限られた住宅を地元住民と二地域居住者が競い合う可能性がある。

 ここで重要なのは、住宅価格の上昇を一律に利益とも損失とも評価できないことである。住宅所有者には資産価値の上昇という利益が生まれても、賃貸住宅に住む人や、これから住宅を購入する若年世帯にとっては負担が増えることがある。地域全体の経済規模が拡大しても、その利益が誰に配分されるかによって住民生活への評価は変わる。

 行政サービスについても同じである。二地域居住者が道路、水道、ごみ処理、公共施設などを利用すれば、利用状況に応じて行政費用が発生する。年間の滞在日数が少なくても、週末や大型連休に利用が集中すれば、ごみ処理や交通施設の需要が一時的に高まる場合がある。地域の財政負担を評価するには、年間平均の滞在者数だけでなく、季節や曜日による利用の偏りも考慮しなければならない。

 さらに、二つの生活拠点を行き来するための交通も無視できない。国土交通省の関係人口調査では、地域への主な交通手段として自家用車を挙げる人が多い。自動車移動が増えれば、交通混雑、駐車場需要、燃料消費、温室効果ガスの排出などが増える可能性がある。一方で、長期滞在によって一日当たりの移動回数が減る場合や、鉄道などの公共交通を利用する場合もあるため、環境負荷は移動距離、交通手段、滞在日数、二つの住宅のエネルギー消費を合わせて評価する必要がある。

 二地域居住を歓迎するか拒むかという感情論ではなく、誰に利益が生まれ、誰が費用を負担するのかを確かめることが重要なのである。

住民票がなくても税と行政負担は発生する

 二地域居住者は住民票を置いていないのだから、行政サービスを利用するだけで地域に税金を払っていないという見方がある。しかし、これは制度の実態を正確に表していない。

 例えば、住宅を所有していれば、通常、その所在地の自治体に固定資産税を納める。また、住所地以外に自分や家族が居住できる家屋敷を持つ人には、一定の要件のもとで、個人住民税の均等割が課税される場合がある。これは一般に「家屋敷課税」と呼ばれ、固定資産税とは別の制度である。建物を所有していなくても、一定の要件を満たす賃貸住宅などが対象になる場合がある。

 房総地域でも、大多喜町は住所地以外に家屋敷を持つ人への均等割課税について案内している。つまり、住民票がないという理由だけで、その地域に対して税負担がないと判断することは適切ではない。

 もちろん、固定資産税や家屋敷課税があるからといって、二地域居住者によって追加的に発生する行政費用がすべて賄われるわけではない。道路や上下水道などには利用人数が少なくても維持するための固定費があり、利用者が増えることで追加費用が発生する場合もある。反対に、既存設備に余裕があれば、利用者が増えても追加費用がそれほど増えない場合もある。

 自治体財政の観点では、税収や使用料などの追加収入と、行政サービスに必要となる追加費用を比較する必要がある。また、地域の商店の売上が増えても、その増加分がそのまま自治体の税収になるわけではない。地域経済の利益と自治体財政の利益は、分けて考えるべきものである。

 さらに、地方選挙への参加など、住民としての権利は原則として住所に基づく制度と結びついている。二地域居住者が地域で長く生活していても、住民票を移していなければ、その自治体の地方選挙に参加できない場合がある。地域に関わっていても、意思決定に直接参加できる範囲には制度的な限界がある。

 住民票がない人を単純に「ただ乗り」と呼ぶことも、納税しているから完全な住民と同じだと考えることも正確ではない。重要なのは、実際にどのような負担と貢献があり、どのような権利や行政サービスが認められているかを区別することである。

地域側が救世主を求めすぎる危険

 もう一つ厄介なのは、地域側が二地域居住者に「せっかく来たのだから地域のために働いてほしい」と期待しすぎる場合である。草刈りを手伝ってほしい、祭りにも出てほしい、自治会にも関わってほしい、空き家再生にも協力してほしい、地域産品も買ってほしいという期待が積み重なれば、第二の生活拠点を持ったはずの人が、別の場所でも義務に追われることになる。

 もちろん地域活動への参加を望む二地域居住者もいる。しかし、すべての人がより深い関係を求めているわけではない。自然の中で過ごしたい人もいれば、仕事に集中したい人、家族と静かに暮らしたい人、地域活動に積極的に参加したい人もいる。地域との距離を自分で選べることそのものに価値を感じている人もいるだろう。

 国土交通省が2022年に実施した二地域居住等の実践者への調査では、メリットとして「心身を休めて健康の維持や増進につながった」と回答した人が28.5%だった一方、「地域貢献ができたことに喜びを感じた」と回答した人は5.2%だった。これは複数回答による調査であり、実際に地域活動へ参加した人の割合を直接示したものではない。しかし、二地域居住者が地域に求める価値が、地域貢献だけではないことを考える材料にはなる。

 同じ調査では、移動の負担をデメリットとして挙げる人もいた。二地域で生活することは、一つの地域に住む場合よりも移動、住宅管理、生活費などの負担が増えやすい。そこに地域活動への義務まで加われば、暮らし方そのものを続けにくくなる人が出てきても不思議ではない。

 したがって「地域に来た人は、いずれ地域活動の担い手になる」という前提を置くべきではない。むしろ、地域への関わり方に濃淡を認め、活動に参加する人にも参加しない人にも、それぞれ無理のない関係を認めることが重要である。

 また、地域側にも受け入れのための負担がある。外部から来た人に活動を説明し、役割を調整し、地元住民との関係を整えるには時間と労力が必要になる。地域貢献を期待するだけでなく、受け入れる側が無理なく対応できる仕組みを作らなければ、善意が新たな負担を生むこともある。

 地域側が救世主を求めすぎれば、その人に期待を集中させ、結果として地域との関係が続かなくなる可能性がある。この逆説は、二地域居住を考えるうえで見落としてはならない。

「住んでいるか」ではなく「どれだけ関わっているか」

 従来の行政人口では、地域との関係はどうしても「住民か、住民でないか」という二分法になりやすい。しかし実際の地域との関係は連続している。

 一年に一度訪れる人もいれば、毎月来る人もいる。年間数十日を過ごす人もいれば、半年近く滞在する人もいる。地元の店で買い物をするだけの人、農作業を手伝う人、地域の事業者に専門知識を提供する人、地域行事に参加する人、静かに自分の生活だけを送る人もいる。同じ「住民票がない人」でも、地域との関係の深さや性質はまったく違うのである。

 ただし、関係の深さを一つの数字で測ることも難しい。年間100日滞在していても地域内ではほとんど消費しない人がいる一方、年間10日しか滞在しなくても、地元企業の経営を継続的に支援している人もいる。滞在日数が多いほど地域活動への貢献が大きいとも限らず、地元で多額の消費をしているからといって地域の人間関係に深く関わっているとは限らない。

 したがって、地域との関係を評価するには、滞在日数、消費額、就労、地域活動への参加、継続期間など、複数の指標を組み合わせて考える必要がある。その際も、すべての人に同じ行動を期待するのではなく、関係の種類が異なることを前提にするべきだろう。

 ふるさと住民登録制度のような仕組みは、こうした関係を可視化する一つの手段になる。しかし、登録人数が多くても実際の訪問や活動につながっていなければ、地域との関係が深まったとは言い切れない。また、個人の訪問履歴や消費行動を把握する場合には、本人の同意や個人情報の適切な管理が必要である。

 私たちは買い物履歴や移動履歴を細かく分析できる時代に生きているが、人と地域との関係については、長いあいだ住民票や観光客数のような限られた指標に頼ってきた。二地域居住は、その尺度では十分に測れない生活の実態を、改めて考えさせる現象なのである。

本当に重要なのは「関係の反復」である

 地域にとって、一万人が一度だけ訪れることと、千人が毎月訪れることは同じではない。前者は年間一万回の来訪だが、後者は年間一万二千回になる。しかし違いは単純な延べ人数だけではない。

 毎月来る人なら、店員が顔を覚えるかもしれない。客も店の事情を知り、季節ごとの変化に気づき、閉店すれば惜しいと思い、知っている人が困っていれば少し気になるようになるかもしれない。地域側も、その人が来月また戻ってくることを想定して、商品やサービスを提供しやすくなる場合がある。

 経済学では、同じ相手と繰り返し関係を持つ状況を考える反復ゲームの理論がある。一回限りの取引では相手との将来の関係を考慮する必要が小さくても、繰り返し接触する場合には、信用や評判を維持することが協力的な行動につながる可能性がある。地域社会でも、継続的な接触を通じて互いの事情を理解し、信頼や協力関係が形成される場合がある。

 ただし、繰り返し会えば必ず信頼が生まれるわけではない。もともと親しい人がいるから頻繁に訪れるという、逆方向の関係も考えられる。また、訪問回数が増えたことで生活習慣や価値観の違いが表面化し、摩擦が生じることもある。反復訪問と信頼の間に関連が見られても、それだけで訪問が信頼を生み出したと断定することはできない。

 商売についても同じである。一度二万円使う観光客より、毎月八千円ずつ使う人の方が年間消費額は九万六千円になる。もちろん、毎回来ても地域内ではほとんど消費しない人もいるため、訪問回数だけを見ればよいわけではない。また、観光客でも同じ地域へ頻繁に戻ってくる人はいるため、反復性は二地域居住者だけの特徴ではない。

 それでも、地域ビジネスにとって、一回当たり消費額だけでなく、一人が一年を通してどれだけ利用し、翌年も利用を続けるかという視点は重要である。特に観光需要が季節に集中する地域では、観光客の少ない時期にも継続して訪れる人がいれば、事業者の売上変動を小さくできる可能性がある。

 人口減少地域では、一度に大量の人を呼ぶことより、少人数でも繰り返し戻ってくる人を増やす方が、事業の安定につながる場合がある。ただし、これは地域や業種によって異なるため、訪問頻度、消費額、季節性、継続率を実際に測定して判断する必要がある。

「第三の住民」が生むのは人口ではなく市場かもしれない

 二地域居住を地域ビジネスの側から見ると、さらに興味深いことが見えてくる。二つの生活拠点を行き来する暮らしには、一つの家だけで暮らす場合には少なかった不便が生まれるからである。

 都市の家を出るときには、地方の家が無事か気になる。地方へ着けば、しばらく使っていなかった家の換気や掃除が必要になる。庭は伸び、郵便物はたまり、台風が来れば屋根が心配になる。車を置いていなければ駅から家までの移動手段が必要になり、高齢になれば二つの地域を行き来すること自体が負担になる。

 こうした問題の一つ一つは、それだけでは大きな産業には見えない。しかし人口の少ない地域で新しい商いを考える場合、むしろこうした「小さくて、何度も繰り返す不便」に市場の種が隠れている。

 例えば、住宅の定期巡回、換気、清掃、庭仕事、設備点検をまとめて引き受けるサービスが考えられる。別々の業者へ依頼していた業務を一つにまとめれば、利用者にとって手間が減り、事業者にとっても巡回や作業の効率化につながる可能性がある。また、駅から住宅までの移動、到着前の食料品の準備、地域の商店や医療機関に関する生活情報の提供なども、繰り返し利用されるサービスになり得る。

 ただし、これらのサービスには制度上の制約がある。人を有償で運ぶ事業には、道路運送法などの関係法令に基づく許可や登録等が必要となる場合があり、単に需要があるからといって自由に営業できるわけではない。医療に関する支援についても、情報提供や受診先の案内と、医療行為そのものは区別しなければならない。また、住宅の鍵を預かり、留守中に立ち入るサービスでは、契約、損害賠償責任、個人情報保護、防犯対策などが重要になる。

 つまり、二地域居住者向けのサービスを考える場合には、地域に不便が存在することだけでなく、それを合法的かつ安全に解決できる仕組みが必要なのである。

「困っている」は「お金を払う」とは限らない

 新規ビジネスを考えるとき、最も危険なのは「困っている人がいるから売れる」と考えてしまうことである。

 利用者が困っていても、自分で解決できるならお金は払わないかもしれない。近所に頼める人がいれば、事業者へ依頼する必要を感じないこともある。月千円なら払ってもよいが、一万円なら使わない人もいるだろう。さらに、需要が存在しても利用者が広い地域に分散していれば、事業者の移動時間や人件費を賄えない場合がある。

 例えば、空き家管理に困っている人が100人いても、全員が月千円しか払う意思を持たなければ、月間売上は最大でも10万円である。実際には100人全員が契約するとは限らないため、現実の売上はさらに小さくなる可能性がある。

 一方、月額一万円の管理サービスを考え、契約者一人当たりの巡回や作業に必要な変動費が月三千円、事業の固定費が月25万円と仮定すると、一人の契約によって固定費の回収に充てられる金額は月七千円になる。この条件なら、36人以上の契約で月間の収支が黒字になる計算である。ただし、これは説明のための仮定であり、実際の人件費や移動距離、車両費、保険料、修繕対応などによって損益分岐点は変わる。

 特に重要なのは、顧客の密度である。住宅が近接していれば、一度の移動で複数の住宅を巡回できるため、一件当たりの移動費用を抑えやすい。反対に、契約者が町の各地に分散している場合には、契約件数が増えても移動時間が長くなり、十分な利益が残らない可能性がある。

 また、新たに会社を設立して専用車両や従業員を確保する場合と、既存の清掃業者や造園業者が巡回業務の一部として引き受ける場合とでは、必要な固定費が異なる。人口の少ない地域では、専業の新規事業よりも、既存事業者が複数の生活支援サービスを組み合わせて提供する方が採算に合う場合もある。

 したがって、二地域居住者向けのビジネスを見る場合には、潜在的な利用者数だけでなく、実際に契約する割合、利用頻度、支払意思額、顧客の分布、継続率、人件費、移動費、固定費を合わせて評価しなければならない。

 二地域居住は自動的に新しい市場を作るわけではない。しかし、従来の観光需要とは異なる、継続的な生活需要を生み出す可能性がある。地域の事業者がそれを採算の合う形で提供できるなら、小規模でも持続的なビジネスが成立する余地がある。

観光ビジネスとは発想そのものが違う

 観光ビジネスが「この町に何を見に来てもらうか」を考える産業だとすれば、二地域居住を支えるビジネスは「どうすればこの町で無理なく暮らし続けられるか」を考える産業になる。

 観光なら絶景、温泉、食事、イベントが商品になる。しかし二地域居住では、家の管理、移動、買い物、医療機関へのアクセス、日常生活の手間といった、これまで観光の魅力とは考えられなかったものが商品になる可能性がある。

 ただし、観光客と二地域居住者を完全に別の集団として区別することも適切ではない。毎月同じ地域を訪れ、決まった店で買い物をする観光客もいれば、地方に住宅を所有していても、年間に数回しか訪れない人もいる。住宅を所有せず、賃貸住宅や宿泊施設を継続的に利用しながら二地域居住を実践する人もいる。

 つまり、観光と二地域居住の間には連続性がある。観光をきっかけに地域を好きになり、訪問を繰り返し、その後に生活拠点を持つ人もいるだろう。一方で、観光客として何度も訪れることに満足し、住宅を持たない人もいる。すべての観光客を二地域居住者へ転換する必要はないし、すべての二地域居住者を移住者へ転換する必要もない。

 それでも、地域に滞在する目的が「楽しむこと」から「生活を維持すること」へ広がると、必要とされるサービスの性質が変わる。地域の魅力を伝える仕事に加えて、地域で暮らすための不便を解消する仕事が重要になるのである。

「たくさん来る町」より「何度も戻る町」

 これまで多くの地域政策は、とにかく人を呼ぶことに力を注いできた。観光客を呼び、移住者を呼び、企業を呼び、若者を呼ぶ。しかし二地域居住という現象を考えると、最初の一回来てもらうこと以上に、その人が二回目、三回目と戻ってくる理由を作ることが重要になる。

 美しい海があるから一度訪れる。しかし顔を覚えてくれる店があるからまた来る。安い空き家があったから家を買う。しかし留守中に面倒を見てくれる人がいるから暮らし続けられる。自然にひかれて地域を知るが、そこで自分に合った居場所ができれば、その町は単なる旅行先ではなくなっていく。

 ただし、地域への愛着だけで反復訪問が維持されるとは限らない。交通費が高くなれば訪問回数は減るかもしれず、仕事や家族の事情が変われば滞在する余裕がなくなることもある。二つの住宅を維持する負担が大きければ、生活の継続自体が難しくなる。したがって、「戻りたくなる理由」を作るだけでなく、「無理なく戻れる条件」を整えることが必要になる。

 地域にとっても、訪問者数を増やすことと、継続的な利用者を維持することでは施策が異なる。新しい観光客を呼ぶには情報発信や観光資源の整備が重要になるが、二地域居住者との関係を維持するには、住宅管理、交通、日常の買い物、生活情報、地域との適切な距離感が重要になる場合がある。

 人口減少地域では、観光客数や移住者数のような新規獲得の指標に加えて、再訪率、年間滞在日数、翌年の継続率、地域内の利用額などを見ることが重要になっていく。ただし、再訪率が高ければ必ず地域に利益が生まれるわけではないため、消費や行政負担との関係も合わせて評価する必要がある。

房総の町で考える「第三の住民」

 例えば、御宿町、勝浦市、いすみ市、大多喜町などの地域を考えてみたい。これらの地域には、海や里山、歴史的な町並みなど、それぞれ異なる魅力がある。一方で、地域ごとの交通条件、住宅事情、産業構造、観光需要は同じではない。

 海辺の住宅を求める人もいれば、里山の古民家で静かに過ごしたい人もいる。都市からの移動時間、鉄道や道路の利便性、買い物ができる場所、医療機関への距離などによって、二地域居住の実現可能性は変わる。したがって、房総という一つの地域名でまとめてしまうのではなく、自治体ごと、さらに地区ごとの条件を調べる必要がある。

 例えば、住宅需要が弱く空き家が多い地区では、二地域居住者による住宅取得や改修が地域の住宅維持に役立つ可能性がある。一方、需要が集中する地区では、住宅価格や賃料への影響を確認する必要がある。また、鉄道駅から離れた住宅が多い地域では移動支援への需要が考えられるが、利用者が広く分散していれば、通常の有償サービスだけでは採算が難しい場合もある。

 地域の事業者にとっては、二地域居住者がどこに何人いるかという情報だけでなく、どの時期に訪れ、どのような生活上の不便を感じ、何に対価を支払っているかを知ることが重要になる。ただし、個人の住宅所在地や行動履歴は私生活に関わる情報であるため、調査には本人の同意や適切な管理が必要である。

 このような情報があれば、地域の商店、住宅管理業者、清掃業者、造園業者、交通事業者などが、それぞれの需要に応じたサービスを考えやすくなる。ただし、地域ごとの潜在需要が小さい場合には、一つの業種だけで新規事業を成立させることが難しいため、既存の事業者同士が連携して複数のサービスを提供する方法も検討に値する。

 地域経済の将来を考えるとき、観光客の増加だけを目指すのでも、移住者の獲得だけを目指すのでもなく、地域外に生活の本拠を置きながら継続的に地域を利用する人との関係を把握することには意味がある。ただし、それが実際に地域所得の増加や生活環境の改善につながるかどうかは、個々の地域で確かめなければならない。

二地域居住の価値を測るなら

 二地域居住者が地域にとってどのような価値を持つかを冷静に考えるなら、地域に入ってくるものと、地域が負担するものの両方を見る必要がある。

 地域内での消費が増え、地元の事業者に仕事が生まれ、雇用や所得が増えれば経済的な利益になる。地域活動に参加する人が増えたり、住宅の維持管理が進んだりすれば、経済指標に直接表れにくい便益も生まれる。一方で、住宅価格の上昇、行政サービスの追加費用、交通混雑、環境負荷、既存住民との摩擦などが生じれば、利益の一部が相殺されることになる。

 したがって、地域への効果を一つの金額にまとめることには限界がある。地域経済については、追加的な消費、事業者の売上、地域内付加価値、雇用や所得の変化を見る必要がある。自治体財政については、追加税収や使用料収入と、行政サービスに必要な追加費用を比較する必要がある。さらに住民生活については、住宅の確保しやすさ、生活環境、地域活動の負担、住民の満足度などを別に確認しなければならない。

 研究として二地域居住の効果を検証する場合にも、二地域居住者が多い町と少ない町を単純に比較するだけでは不十分である。もともと交通の便がよく、自然環境や商業施設に恵まれた町には、二地域居住者が集まりやすい可能性がある。そのような町の経済状況が良好だったとしても、二地域居住者が経済を改善した結果なのか、経済条件のよい町に二地域居住者が集まったのかは区別できない。

 より厳密に調べるなら、二地域居住を促進する施策を始める前後の変化を観察し、人口構成、産業構造、観光需要、交通条件などが似た地域との比較を行う方法が考えられる。その際には、施策がなかった場合に地域経済がどのように変化したかという反実仮想を意識する必要がある。ただし、比較可能な地域を見つけること自体が難しく、施策以外の要因を完全に取り除くことも容易ではない。

 大切なのは、二地域居住者が増えたという事実と、それによって地域が豊かになったという結論を混同しないことである。地域への経済効果や社会的効果を把握するためには、人数だけではなく、滞在、消費、雇用、住宅、行政費用、住民生活を継続的に測定する必要がある。

救世主ではなく「少しずつ町を支える人」

 二地域居住者は地域の救世主なのか。

 おそらく、この問いへの答えは「救世主と考えない方がうまくいく」である。ただし、それは二地域居住者の価値が小さいという意味ではない。むしろ、特定の人に過大な期待をかけず、地域との多様な関わり方を認めることが、長期的な関係を維持するうえで重要だということである。

 一人の移住者に人口減少を止めてもらう必要はない。一人の二地域居住者に地域活動をすべて手伝ってもらう必要もない。ただ、その人が毎月数日滞在し、地域の店で買い物をし、必要なサービスに対価を払い、ときには誰かと会話をし、翌月もまた戻ってくる。それだけでも、同じような人が百人、千人と増えれば、町の経済や人間関係に変化が生まれる可能性がある。

 もちろん、百人、千人という人数だけでは地域の将来は決まらない。年間の滞在日数が短く、消費も少なければ経済効果は限定されるかもしれない。逆に、少人数でも継続的に地域の仕事を支えたり、地域で事業を営んだりする人がいれば、人数以上の影響を持つ場合がある。また、地域への利益が一部の事業者や住宅所有者に集中し、既存住民の負担が増える可能性にも目を向けなければならない。

 だからこそ、二地域居住を地域政策の新しい万能薬として扱うべきではない。人口減少を直接止める政策ではなく、人口減少のなかでも地域の経済活動や生活の基盤を維持するための、一つの選択肢として考えるのが適切だろう。

 住民票はない。しかし、この町がなくなったら困る。その自治体の地方選挙には参加できなくても、行きつけの店が閉まれば寂しい。生まれ育った場所ではない。それでも台風が来れば心配になる。そういう人の存在は、行政人口だけでは見えにくい地域との結びつきを教えてくれる。

 その人が一年に何日町へ来て、何を買い、誰と関わり、どのような不便を感じ、その不便にいくらなら払うのか。そして、地域側はその人との関係を維持するために何を提供し、どれだけの費用を負担しているのか。これらを実際に調べることができれば、地域経済の見え方は変わるかもしれない。

 観光客でもなく、完全な移住者でもない「第三の住民」を考えることは、結局のところ、これからの地域にとって「住む」とは何なのかを考え直すことである。住民票のある人だけが地域を支えているわけではなく、地域との関係のすべてを人口という一つの数字に置き換えることもできない。

 人口が減り続ける日本では、人を一つの場所に完全に囲い込もうとする地域政策だけでは、対応できない課題が増えていくだろう。一人の人生の一部分を継続的に受け入れ、その人が無理なく何度も戻ってこられる仕組みを持つ地域には、新しい可能性がある。

 ただし、その可能性を現実の地域活性化へ変えるには、地域外から来る人の希望だけでなく、地域に暮らす人の生活、事業者の採算性、行政の財政負担まで含めて、利益と費用を確かめる必要がある。

 二地域居住者は、地域の人口減少を止める救世主ではない。それでも、互いに無理のない関係を築き、地域に必要なものを対価とともに交換し、何度でも戻ってこられる暮らしが成立するなら、少しずつ町を支える存在になり得る。

 地域にとって本当に重要なのは、救世主を探すことではない。住民票の有無を超えて、その町と関わり続けたい人が自然に戻ってこられる条件を整え、その関係が地域にとっても持続可能なものになっているかを、丁寧に確かめていくことなのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 海へ向かって一本の道が延び、その先に青い水平線が広がっている。白い壁の小さなカフェには植物が置かれ、夕暮れになると空は薄紫色に染まり、丘の上から町を見下ろせば屋根の向こうで海が光っている。そこだけを一枚の写真に閉じ込めれば、その町は雑誌のページから抜け出してきたように見える。

 Instagramを眺めていると、そんな町はいくらでも見つかる。海辺の町、古い町並みの残る町、山あいの集落、温泉街、港町など、かつてなら旅行雑誌の特集を組まなければ広く知られなかった風景が、いまでは一枚の写真によって遠く離れた人の手元へ届くようになった。そこで店を知った人が訪れ、旅行者が増え、移住先として興味を持つ人が現れれば、地域に新しい人やお金が入る可能性も生まれるのだから、これは地方にとって決して小さな変化ではない。

 けれども、町が以前よりよく見えるようになったはずなのに、その町で実際に人がどのように暮らしているのかは、むしろ見えにくくなってはいないだろうか。Instagramに映る町が嘘だという話ではない。そこに映っている海も路地もカフェも本当に存在しているのだが、それらが町全体を代表していると思った瞬間、私たちは写真の外側に続いているもう一つの町を見失う。

写真には「選ばれた町」しか写らない

 旅行者が海辺のベンチから夕日を眺めている少し後ろを、地元の高齢者がスーパーの袋を下げて歩いているかもしれない。洒落たカフェから数百メートル離れた住宅地では、午後六時を過ぎると日用品を買える店が少なくなり、景色の美しい丘の上では、車を運転できなくなった後にどう暮らすかという問題を抱えている人がいるかもしれない。

 しかし、朝のゴミ出し、病院へ向かうためにバスを待つ人、学校へ歩く子ども、夕方のスーパー、草を刈る住民、宅配便の車、自治会の掲示板、雨の日の駅前といった風景は、その町の生活を支えているにもかかわらず、観光を目的とした写真の中心にはなりにくい。それは誰かが意図的に現実を隠しているからではなく、写真という行為そのものが「何を撮るか」を選ぶからである。

 実際、観光客が現地で移動した場所、撮影した写真、そしてInstagramに投稿した写真を比較した研究では、実際に経験された場所と公開された写真の分布は完全には一致していない。人は歩いた場所のすべてを撮るわけではなく、撮った写真のすべてを投稿するわけでもないため、私たちがSNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)で目にしている地域像は、現実から何段階かの選択を経たものになる。

 この構造を考えると、海を大きく写した写真から駐車場が消え、古い建物を美しく切り取れば隣の空き家が画面の外へ出ていくことは、写真の欺瞞というより当然の結果である。一枚の写真は何かを見せると同時に、必ずそれ以外の何かを見えなくしている。

美しい風景ほど町の「代表」になりやすい

 さらに興味深いのは、どんな写真でも同じように人の目に触れるわけではないことである。観光地の多数のInstagram投稿を調べた研究では、観光名所など視覚的に分かりやすい対象を写した写真の方が、宿泊施設や日常的なサービスを写した写真より反応を集めやすい傾向が報告されている。

 こうした違いが積み重なると、現実の町に存在するものの割合と、インターネット上で目にするものの割合は少しずつ離れていく。海岸が町全体の面積から見ればごく一部であっても、投稿写真の半分がそこに集中すれば、外から見る人にとってその町は「海岸の町」になるし、古い路地ばかりが繰り返し撮られれば、新しい住宅地や郊外のスーパーがどれほど生活上重要であっても、町のイメージからは後退していく。

 ここで起きているのは、現実そのものの消失ではなく、「何が町の代表として見えるか」という比率の変化である。人は魅力的だと思ったものを撮り、その一部を投稿し、さらに反応を得やすい景観が目立つため、結果として特定の場所や構図が何度も繰り返されやすくなる。その繰り返しによって、「この町とはこういう場所だ」という外部のイメージが次第に固定されていく。

観光客と住民は同じ町を違うように見ている

 同じ場所に立っていても、そこを二日間訪れる人と二十年間暮らす人では、見えているものが違う。

 観光客にとって魅力的なのは、美しい海、歴史ある町並み、静かな夜、少ない人通り、昔ながらの建物かもしれないが、住民にとって人が少ないことは静けさであると同時に商売が成立しにくいことでもあり、店が少ないことは俗化していない魅力である一方で毎日の買い物の不便さでもある。夜が暗ければ星は美しく見えるが、高齢者が歩くには心細く、古い家並みは景観として魅力的でも、そこに住む人には断熱、耐震、修繕費という現実がある。

 実際、住民、観光客、影響力の大きい投稿者が同じ地域について発信したInstagram投稿を比較した研究では、それぞれが写す内容に違いが見られている。住民は人や社会的な場面を比較的多く写すのに対し、訪問者は観光的に意味のある場所を選びやすいなど、同じ町であっても立場によって表象される風景が変わるのである。

 だから、「観光客と住民はまったく別の町を見ている」とまで言えば少し大げさだが、少なくとも町を見る際の重要度の置き方が違っていることは十分に考えられる。旅行者は「ここで週末を過ごしたいか」と考え、住民は「ここで歳を取っても暮らせるか」と考えるのであり、その時間の尺度の違いだけでも、同じ土地への評価は大きく変わる。

町はやがて「見られる場所」にもなる

 外から向けられる視線が増えると、それまで住民にとって何でもなかった場所が、別の価値を持ち始めることがある。

 昔からそこにある海岸を住民は特別だと思っていなかったのに、訪問者が何度も写真を投稿することで、「これは外から見ると価値のある景色なのだ」と気付くことがある。古びた看板も、住民には交換時期を迎えた設備に見える一方、旅行者には「昭和らしい風景」と映り、漁港の錆びた倉庫も、働く人には修繕の必要な建物でありながら、写真を撮る人には味わい深い背景になる。

 これは地域の価値を再発見する働きとして肯定的に評価できる。長く住んでいるために見慣れてしまった風景を、外部の人が価値として教えてくれることは珍しくないからである。

 しかし、その反対側では、写真になりにくいものが地域の物語から外れやすくなる。人気の海岸整備は注目されても、高齢者が病院へ通うための交通は写真にならず、新しいカフェは地域紹介に載っても、長年住民の日用品を支えてきた小さな店の閉店は華やかな地域イメージには入りにくい。

 こうして同じ町の中に、「人に見せる町」と「人が暮らしている町」という二枚の地図が重なり始める。前者は写真と検索によって共有される地図であり、後者は、どこで食品を買うか、どの道が夜になると暗いか、病院まで何分かかるか、冬の風がどこから吹くかといった、住民の身体に刻み込まれた地図である。

Instagramが店を変える、と単純には言えない

 ここで注意しなければならないことがある。Instagramで人気が出た町の商売が観光客向けに変わったとしても、それだけを見て「Instagramが町を変えた」と結論づけることはできない。

 観光客が増える理由には、鉄道や道路の整備、旅行雑誌やテレビでの紹介、自治体の観光政策、宿泊施設の増加、為替、航空路線、人口移動などさまざまな要因があり、Instagramはその一つに過ぎない場合が多い。もともと魅力の高い観光地だから投稿が増えたのか、投稿が増えたことで訪問者が増えたのかを、単純な数字だけで区別することも難しい。

 科学的に見るなら、ここには原因と結果が互いに影響し合う問題がある。人気観光地だから写真が増え、その大量の写真を見た人がさらに訪れれば、「人気が投稿を生み、投稿が人気を補強する」という循環になるからである。

 したがって、より正確には、Instagramによる地域イメージの拡散が観光需要を強める一因となり、そこへ家賃、地価、人通り、店舗採算、地域政策などが重なった結果として、商業構成が変化する可能性がある、と考えるべきだろう。

 この区別は重要である。写真一枚が町を作り替えるわけではないが、何万人もの人が同じ場所を知り、同じ景色を求めて訪れるようになれば、その人の流れは経済活動を通じて現実の町へ戻ってくる。

観光客向けの便利と住民向けの便利

 観光地化が進んだ地域では、訪問者の需要に合わせて飲食店や小売店の構成が変化することがあり、こうした現象は海外の都市でも確認されている。ただし、すべての地域で同じ変化が起きるわけではなく、観光客が増えれば必ず住民向け店舗が消えるという単純な法則も存在しない。

 それでも、「誰にとって便利な町なのか」という問いには意味がある。一泊する旅行者に便利な町と、一年三百六十五日暮らす人に便利な町は、重なる部分を持ちながらも同じではないからである。

 土産物を買える店が増えても、日用品を買う店が減れば生活上の利便性は上がらない。昼間の飲食店が増えて街がにぎわっていても、夕方以降に住民が食料を買える店が少なくなれば、観光地としての活気と生活圏としての機能は別方向に動く。景観の良い地域の人気が高まり、土地や住宅の価格が上がれば所有者には利益となる一方、そこで働く人や若い世帯にとっては住みにくくなることもあり得る。

 観光そのものを悪と考える必要はない。観光客による消費は雇用や事業を支え、人口減少地域では外部から人が訪れること自体が重要な経済資源になる。それでも観光政策において住民生活との両立が課題になっているのは、観光客の増加と住民の生活の質が必ずしも自動的に同じ方向へ改善するわけではないからである。

「人気の町」と「暮らしやすい町」は測っているものが違う

 この点から見ると、Instagramで美しく見える町を、そのまま「住みたい町」と読み替えることには慎重であるべきだろう。

 Instagram上の人気は、その場所を訪れたときに得られる視覚的体験を強く反映している可能性がある。一方、暮らしやすさには買い物、医療、教育、交通、住宅費、防災、近隣関係、雇用といった、一枚の写真では表現しにくい条件が関わっている。

 海辺の夕景に十万人が「いいね」を付けても、その数字から最寄りの病院までの距離を知ることはできない。人気カフェの投稿が千件あっても、その町で車を持たずに暮らせるかどうかは分からない。この二つは優劣ではなく、そもそも測っているものが違うのである。

 だから地域を分析するときには、Instagramの投稿数を「町の人気」の証拠として使うことはできても、それだけで「町の暮らしやすさ」の証拠にはできない。

「生活する町」は本当に測れるのか

 興味深いことに、この問題は感覚的な随筆にとどまらず、実際には数字で検証することもできる。

 例えば、ある町について投稿された写真を、海岸、歴史的建物、観光施設、カフェといった観光的な風景と、スーパー、学校、住宅地、病院、通勤、生活道路といった日常的な風景に分類し、「地域に関する投稿のうち生活場面がどの程度含まれているか」を比較すれば、その町の生活がSNS上でどれほど見えているかを一つの指標として表せる。

 さらに、写真が町全体に広がっているのか、それとも数か所の撮影地点へ集中しているのかを調べれば、「投稿される町」と「実際の町」の空間的な差も測定できるだろう。

 人口規模、観光客数、宿泊施設数、鉄道アクセス、地価、店舗構成などを合わせて分析すれば、「観光写真が特定地点へ集中する地域ほど生活場面の投稿が少ないのか」「観光客の増加とともに住民向け店舗と観光客向け店舗の割合が変化するのか」といった問いまで検証できる。

 ただし、ここでも単純な相関には注意が必要である。Instagram投稿が多いから観光地になったのか、観光地だからInstagram投稿が多いのかを見分けなければ、「写真が町を変えた」という結論には届かない。だからこそ、この題材は面白い。見た目には軽いSNSの話でありながら、その奥には観光、商業、人口、住宅、地域経済、人間の認知が複雑に絡んでいる。

最も美しい一枚だけでは町は分からない

 それではInstagramで美しい町は、生活を失った町なのだろうか。もちろん、そんな単純な話ではない。

 美しい風景が知られることは地域にとって資産になり得るし、外から来た人が地元の人さえ気付かなかった価値を発見することもある。観光客によって支えられた店が住民にも新しい選択肢を提供し、それまで衰退していた地区に再び人通りが戻る場合もある。

 問題なのは美しい写真が存在することではなく、その美しい写真だけを町そのものだと思ってしまうことである。

 町は本来、もっと雑然としている。きれいな海の隣には駐車場と防潮堤があり、古い町並みの裏には新しい住宅があり、観光客が歩く道の向こうには学校があり、夕日の写真が撮られている時間に夕食の買い物を急ぐ人がいる。その雑然とした重なりこそが、観光地ではなく「生活する町」の姿なのだろう。

 だから、本当に町を知りたいなら、Instagramで最も人気のある場所を訪れたあと、そこから少し離れて歩いてみるとよい。撮影場所から三百メートル離れたところには何があるのか、午後六時になると誰が歩いているのか、冬の平日に何軒の店が開いているのか、観光客の来ない住宅地で住民はどこへ買い物に行くのか、そして地元の人自身は休日に人気観光地へ行くのか、それとも混雑を避けて別の場所へ向かうのか。

 そんな問いを重ねると、写真の中では平面だった町が急に立体的になる。

 Instagramの写真は嘘ではない。美しい海も古い路地も洒落たカフェも、その町の本当の一部である。ただし、それは数多く存在する現実の中から選ばれ、撮影され、さらに投稿する価値があると判断された一部でもある。

 だからInstagramで美しい町ほど生活が消えている、と断定することはできない。しかし、美しい風景が町のイメージを強く支配するほど、その背後にある買い物、通院、通学、仕事、老い、住宅、交通といった日常が、外から来た人の視界から抜け落ちやすくなることは十分にあり得る。

 観光地として町を楽しみたいなら、最も美しい場所を探せばいい。けれども、その町を生活する場所として理解したいなら、むしろ写真を撮ろうと思わない場所まで歩いた方がいいのかもしれない。華やかな夕日も話題のカフェもないその場所にこそ、町が朝から夜までどのように生きているのかという、もう一つの地域情報が残されているからである。

 町の本当の姿とは、最も美しい一枚ではない。その写真の中にある魅力と、画面の外側へ続いている無数の日常を一緒に見たとき、初めて輪郭を持って現れてくるものなのだろう。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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オーバーツーリズムの逆説

 観光地に暮らしている人は、その土地を観光客とはまったく違う方法で知っている。どの道が近いか、どの店なら昼休みにすぐ入れるか、どの時間ならバスが空いているか、桜が咲けばどこが渋滞し、紅葉が始まればどの道を避けた方がよいかまで、観光案内には載らないもう一枚の地図を頭の中に持っている。

 ところが観光地の人気が高まっていくと、その知識の意味が少しずつ変わることがある。以前なら「地元を便利に使うための知識」だったものが、いつの間にか「地元の混雑を避けるための知識」へ変わっていくのである。休日には駅前へ行かない。紅葉の季節にはあの道を使わない。昼時には観光客の多い店を避ける。観光シーズンには中心部へ出る時間そのものを変える。町から引っ越したわけではないのに、住民の日常生活から町の一部が少しずつ遠ざかっていく。

 オーバーツーリズムという言葉から、多くの人は狭い通りを埋め尽くす旅行者、満員のバス、長い行列を思い浮かべる。しかし、観光客が増えることそのものだけでなく、その結果として、そこに暮らしている人々の行動がどのように変わるのかという問題も重要である。観光客数が増えている一方で、地元住民が以前ほどその場所を利用しなくなっているとすれば、従来の観光統計だけでは十分に捉えられない変化が起きていることになる。

 もっとも、観光地の人気が高まれば必ず住民が地元を避けるようになる、というわけではない。観光は地域の交通、商業、雇用、文化施設などを充実させ、住民にも利益をもたらす。問題になるのは、観光による利益と負担が、地域や時間帯、住民の属性によって大きく異なる場合である。観光によって豊かになる町と、日常生活で使いにくくなる町は、同じ場所に同時に存在し得るのである。

観光地なのに、地元の人が行かない

 京都の紅葉シーズンを考えてみたい。東福寺や嵐山のような有名観光地には全国から多くの人が訪れるが、混雑する時期になると、京都に暮らす人の中には「あの辺りには近づかない」と考える人もいる。実際、2022年11月22日の京都市長の記者会見でも、紅葉期の東福寺周辺について、その時期には近づかないようにしている市民がいるという趣旨の発言がなされている。

 ただし、この発言には注意すべき点がある。市長は同時に、東福寺周辺の紅葉期の混雑が戦後間もない頃から続いていることにも言及していた。したがって、この発言は住民による混雑回避が存在することを示しているが、それが近年の観光客増加によって新たに発生した現象であることまで証明するものではない。観光地における回避行動には、長年続いてきた生活上の知恵と、近年の観光需要の拡大に伴う新しい変化の両方が含まれている可能性がある。

 同じような行動は、京都以外の観光地でも考えられる。海水浴場のある町では夏の海岸道路を避け、花火大会の日には中心部へ車で出ない。大型連休には観光地周辺へ買い物に行かず、普段とは違うスーパーを使う。こうした一つ一つの行動は、大げさな抗議でも観光への敵意でもない。ただ生活を少し楽にするための、合理的な選択である。

 しかし、その選択が毎年繰り返されるようになると話は変わる。本来なら町の魅力であるはずの場所ほど、地元の人が利用を控えるという逆転が生じる可能性があるからである。観光客にとって「一生に一度訪れたい場所」が、住民にとっては「混んでいるから今日はやめておこうという場所」になる。この違いは、観光地としての評価と生活空間としての使いやすさが、必ずしも一致しないことを示している。

京都市民は、観光を嫌っているのか

 だからといって、京都市民が観光そのものを嫌っていると考えるのは正しくない。

 京都市が2024年に実施した京都観光に関する市民意識調査では、回答者の70.6%が、観光は京都市の発展に重要な役割を果たしていると考え、65.8%が京都が観光で評価されることに誇りを感じていた。観光都市としての京都を肯定する意識は、決して低くない。

 ところが同じ京都で、観光による生活上の負担も強く認識されている。2025年の市民意識調査では、回答者の70.6%が一部の観光地やその周辺の混雑に迷惑していると答え、バスや地下鉄などの混雑に迷惑している人は63.8%、道路渋滞では55.9%に達した。観光地の混雑、公共交通の混雑、道路渋滞、観光客のマナー違反のいずれか一つ以上について迷惑している人は79.9%だった。

 2025年調査の有効回答数は2,745人である。仮に単純無作為抽出で回答者に偏りがないとすれば、70.6%という割合の標本誤差は95%信頼水準でおおむね±1.7ポイントとなる。ただし、これは調査の実際の標本設計や重み付けを完全に反映した推定ではない。回答しなかった人が回答者と異なる考えを持っている可能性もあり、統計的な誤差の小ささだけで調査結果に偏りがないことを保証することはできない。

 それでも、相当数の市民が観光に伴う混雑を生活上の負担として認識しているという傾向は、無視できるものではない。

 さらに興味深いのは、観光の重要性を認めることと、観光による迷惑を感じることが、同じ人の中でも両立し得るという点である。2025年調査では、観光が京都市の発展に重要だと考える割合が70.1%、観光に関連する四つの項目のうち一つ以上で迷惑を感じている割合が79.9%だった。

 ここで、両方の割合が同じ回答者集団を母数としていると仮定すると、集合の包含排除の原理から、両方に該当する割合には数学的な下限が存在する。70.1%と79.9%を足して100%を差し引くと50.0%となるため、少なくとも約半数が、観光の重要性を認めながら何らかの迷惑も感じている計算になる。厳密な重複割合を知るには、設問ごとの有効回答者や重み付けを確認したうえで、個人単位の回答を照合する必要があるが、観光への肯定的評価と生活上の負担が大きく重なり得ることは数学的にも説明できる。

 「世界中の人が京都へ来てくれるのはうれしい。しかし自分が通勤するときにはバスへ乗れるようにしてほしい」「町が評価されることは誇らしい。しかし休日に自分たちが歩けないほど混雑するのは困る」という感情は、十分に両立するのである。

 一方で、2025年調査では京都市への愛着を持つ人の割合も73.8%だった。観光による迷惑を認識する市民が多いからといって、京都という都市そのものへの愛着が失われていると判断することはできない。特定の観光地を避けること、観光政策に不満を持つこと、京都に愛着を持つことは、それぞれ別の次元の問題なのである。

 観光問題を「観光客を歓迎する人」と「観光客を嫌う人」という二つの陣営に分けてしまうと、住民の現実的な感覚を見失ってしまう。多くの住民にとって重要なのは、観光客を排除することではなく、観光と日常生活が同じ町の中で無理なく共存できることであると考えられる。

人は強い不満を表明する前から、行動を変えることがある

 この問題を理解するうえで重要なのは、人間が必ずしも「もう我慢できない」と声を上げてから行動を変えるわけではないということである。道路が混んでいれば一本裏の道へ回り、昼時に混む店なら少し早く行き、駅前が混んでいれば別の場所で買い物をする。そうした調整を何度か繰り返すうちに、新しい行動が習慣になることがある。

 2026年に発表されたスペイン・バルセロナの観光混雑地域を対象とする研究では、こうした住民の行動が実際に報告されている。ゴシック地区、バルセロネータ、サグラダ・ファミリア周辺で行われた研究では、歩行に同行する方法を含む44件の聞き取り調査を通じて、住民が観光客との混雑を避けるため、移動する時間や経路、利用する交通手段を変更していることが明らかにされた。

 この研究が示すのは、住民による混雑回避が単なる想像ではなく、実際に観察される行動だということである。ただし、44件の聞き取りから、バルセロナ市民全体の何%がこうした行動を取っているかを推定することはできない。調査は、行動変化の存在や背景を理解するうえで重要だが、住民全体における発生頻度を確定する大規模な統計調査とは性格が異なる。

 また、行動変化が不満の発生より前に起きるのか、それとも既に感じている小さな不満を減らすために行われるのかについても、慎重に考える必要がある。実際には、混雑による不便を感じ、それを避ける行動を取り、その行動によって強い不満が表面化しなくなるという過程も考えられる。

 朝なら通れた道が昼には観光客で埋まるなら、午前中に用事を済ませる。混んでいる通りがあるなら裏道を使い、バスが満員なら鉄道や自家用車に切り替える。その一つ一つは合理的な適応だが、長期間積み重なれば、住民が使う町と観光客が使う町の地理が少しずつ分かれていく可能性がある。

 住民が町から後退するとは、必ずしも住民票を移すことを意味しない。自分の町の一部を日常生活の選択肢から外すことも、広い意味では生活空間の利用が縮小する現象と考えられる。ただし、混雑を避けた結果、別の便利な場所を利用するようになったのであれば、それが必ずしも生活の質の低下を意味するとは限らない。重要なのは、自由な選択による利用先の変更なのか、混雑のために望まない変更を余儀なくされているのかという違いである。

観光客の地図と住民の地図

 こう考えると、観光客が特定の場所に集中する町には、目に見えない二種類の地図が存在することになる。

 一枚は観光客の地図である。有名な寺社、写真を撮る場所、人気飲食店、土産店、駅から観光地までの道が太い線で結ばれている。もう一枚は住民の地図である。スーパー、病院、学校、役所、日用品店、いつも使う道路、空いている時間帯が中心になる。その地図では、有名観光地が必ずしも重要な場所とは限らず、むしろ「休日は通らない場所」「夏は避ける道路」「昼には行かない店」という印が付いていることさえある。

 もともと観光客と住民では、訪問の目的や行動する時間帯が違う。したがって、両者の地図が異なること自体は不自然ではない。問題になるのは、以前は住民が普通に利用していた場所が、観光混雑によって使いにくくなり、望まない経路変更や利用中止が生じる場合である。

 物理的には一つの町でありながら、観光客と住民が異なる時間帯、異なる道路、異なる店舗を選ぶようになると、町は機能的に二重化する可能性がある。ただし、その程度は観光客数だけで決まるわけではない。道路の広さ、公共交通の輸送力、観光施設の配置、住宅地との距離、観光客の滞在時間などによって、住民への影響は大きく変わる。

 観光客が多くても、住民の日常動線と観光動線が適切に分離されていれば、生活への影響を小さくできる場合がある。逆に、それほど巨大な観光地でなくても、住民が利用する一本の道路や一つのバス路線に観光客が集中すれば、生活上の負担は大きくなる。

 そして、観光客の地図と住民の地図が大きく離れていくと、一つの疑問が生まれる。観光客が見に来ている「その土地らしさ」は、いったい誰によって維持されているのだろうか。

「地元の店」は、閉店しなくても住民から遠ざかる

 この問題は道路や交通だけではない。

 たとえば地元の人が長く利用していた食堂が旅行情報や映像で紹介され、観光客の行列ができるようになったとする。店にとっては大きな成功であり、地域経済にとっても歓迎すべきことだろう。しかし、それまで昼休みに十五分で食事ができた地元客にとって、四十分並ばなければ入れない店は、以前と同じようには使えない。さらに営業時間、価格、メニューまで観光客向けに変われば、生活者にとっての利用価値は低くなる可能性がある。

 店は閉店していない。それどころか以前より繁盛している。しかし地元の人から見れば、日常的に利用できる店を一軒失ったことと似た現象が起こる。店の売上高が増加していても、それが住民の利便性向上を意味するとは限らないのである。

 ここに観光地特有の逆説がある。人口減少地域では店がなくなることが問題になるが、人気観光地では店が存在し、売上も伸び、人も集まっているのに、住民が日常的には利用しなくなることがある。統計上は繁栄しているのに、生活者が使える町の選択肢は狭くなっているかもしれない。

 観光地化によって商店の性格が変わり、日用品を扱う店が飲食店、宿泊施設、土産物店などへ置き換わっていく現象は、観光研究でも指摘されてきた。2024年に発表された香港を対象とする研究では、観光地化と小売店舗の多様性との関係について、差の差法を含む実証的な分析が行われている。また、2025年に発表された都市の商業環境に関する研究でも、観光地化が地域の商業活動や住民の生活環境に与える影響が検討されている。

 ただし、商店街の変化をすべて観光客の増加だけで説明することはできない。地価や家賃の上昇、人口構成の変化、インターネット通販の普及、住民の消費習慣の変化、後継者不足なども店舗構成に影響する。観光による店舗転換の影響を調べるには、観光客が多い地区と比較可能な地区について、店舗の種類や利用者構成がどのように変化したかを追跡する必要がある。

 地域経済を分析するときには、店舗数や売上高だけでなく、「誰がその店を使っているのか」を見ることが重要になる。観光客による消費額が増加している一方で、住民の日常的な買い物環境が悪化しているなら、その二つの変化を別々の指標として把握しなければならない。

住民は地元から心理的にも離れていくのか

 観光混雑がもたらす変化は、物理的な回避行動だけとは限らない。

 2026年には、京都の長期居住者を対象として、オーバーツーリズムが住民の心理や場所への愛着にどのような影響を与えているかを調べた研究が発表されている。この研究は38人への詳細な聞き取りと関連資料の分析を中心とした質的研究であり、その結果を京都市民全体へそのまま一般化することはできない。しかし、観光による経済的利益を認識しながらも、生活空間の変化や心理的ストレスを感じ、変化した場所との心理的な距離が生まれる場合があることが報告されている。

 この研究で重要なのは、観光客の存在だけが住民の心理的負担を生み出しているわけではないという点である。行政の説明不足、観光政策への住民参加の不足、観光による利益がどのように地域へ還元されているのかという不透明感も、住民の不満や心理的負担と関係していることが論じられている。

 人はある場所へ行かなくなるだけでなく、その場所を「自分たちの日常の場所」と感じなくなることがある。かつて子どもの頃に遊んだ通りが観光客で埋まり、日用品店だった場所が宿泊施設や飲食店へ変わり、昔から通っていた店に行列ができる。街並みそのものは残っていても、自分が使ってきた町とは違う場所になったように感じる人がいても不思議ではない。

 もっとも、特定の観光地に心理的な距離を感じることと、都市全体への愛着が弱まることは同じではない。京都市の市民意識調査でも、観光混雑への不満と京都市への愛着が同時に確認されている。市民は京都を大切に思いながら、その一部の場所について、以前とは異なる印象を持つことがあるのである。

 観光地としての知名度が上がるほど、住民にとって心理的に遠い場所になるとすれば、これは皮肉な現象である。ただし、そのような関係がすべての観光地に共通するかどうかについては、地域ごとの比較研究が必要である。

京都市民自身は、京都を観光しなくなっているのか

 京都市の調査には、今回の問題を考えるうえで非常に興味深い数字がある。

 市民自身が半年に一回以上、京都市内を観光している割合は、2023年の44.9%から2024年には44.3%となり、2025年には39.6%へ低下している。2023年と2025年を比較すると5.3ポイントの低下であり、2024年から2025年に限っても4.7ポイント低下した。

 しかし、調査対象期間をさらにさかのぼると、2021年は38.2%、2022年は36.6%だった。つまり、2025年の39.6%は2023年や2024年より低いものの、2021年や2022年よりは高い。2023年を起点とすれば低下傾向が見えるが、2021年からの推移では、いったん上昇した後に低下した形になる。長期的に一貫して京都市民が市内観光から離れている、とまでは言えないのである。

 統計的な違いも確認しておきたい。2024年調査の有効回答数は1,721人、2025年調査は2,745人である。両年の回答が独立した単純無作為標本であり、設問条件が同じであると仮定すると、44.3%と39.6%の差である4.7ポイントについて、標準誤差は約1.52ポイントとなる。単純な計算による95%信頼区間では、低下幅はおおむね1.7~7.7ポイントに相当し、偶然の標本変動だけでは説明しにくい差となる。

 ただし、この計算には重要な制約がある。京都市の調査では居住区や性別などに応じた重み付け補正が行われており、回答率も2024年の34.8%から2025年には49.9%へ変化している。設問構成の変更による影響も考えられるため、重み付けを反映した分散推定や回答者構成の確認なしに、厳密な統計的有意性を断定することは避けるべきである。

 さらに、この調査は同じ市民を三年間追跡したものではない。市内観光頻度の変化には、物価、年齢構成、生活習慣、所得、天候、娯楽の変化など、さまざまな要因が関係している可能性がある。観光客の増加によって京都市民が京都観光を控えるようになったという因果関係は、この数字だけから証明することはできない。

 加えて、市内を観光する頻度と、通勤、買い物、通院などのために市街地へ出かける頻度は異なる。市民が京都市内の観光施設を訪れなくなったとしても、それだけで中心部の日常的な利用が減ったと判断することはできない。今回の問題を直接検証するには、観光目的の訪問だけでなく、生活目的の訪問頻度や経路変更についても調べる必要がある。

 それでも、この数字には研究上の価値がある。世界中から京都を見ようと人が集まる一方で、市民自身の市内観光頻度には近年の低下が確認されている。この二つの変化が偶然並んでいるだけなのか、それとも観光混雑が何らかの影響を与えているのかは、今後検証する価値のある問いである。

観光客が増えると、住民はなぜ地元を避けるのか

 住民の行動を、経済学や数理的な考え方から説明することもできる。

 人がある場所へ行くかどうかは、その場所から得られる楽しさや利便性と、そこへ行くために必要な時間、費用、混雑、疲労などを比較して決めると考えられる。経済学では、このような利益と負担をまとめて評価する考え方を効用と呼ぶ。地元の施設を利用することで得られる利益から、移動時間、待ち時間、費用、混雑による不快感などの負担を差し引いたものを、地元利用の純効用として考えることができる。

 仮に、地元中心部へ行くことで得られる利益をB、移動や混雑などによる負担をCとすれば、純効用はBからCを差し引いたものとして表せる。別の地域へ行く場合にも同じ計算ができ、地元中心部を利用する純効用が代替先より低くなれば、住民が別の場所を選ぶことは合理的な判断になる。

 観光客が増え始めた初期には、地域に新しい店ができ、交通が便利になり、街並みが整備されることで住民側の利益も増える可能性がある。一方、観光客が特定の時間帯や場所に集中し始めると、渋滞、行列、待ち時間、騒音、公共交通の混雑などの負担が増加することがある。観光客数の増加によって利益が増える段階から、混雑による負担の増加が優位になる段階へ移れば、住民にとって地元中心部の利用価値が低下する可能性がある。

 この関係は、必ずしも直線的ではない。観光客が少し増えただけでは生活上の影響がほとんど生じなくても、交通機関や道路の容量に近づくと待ち時間が急増する場合がある。逆に、公共交通の増便や観光客の分散によって混雑が緩和されれば、観光客数が増えても住民の負担を抑えられる可能性がある。

 したがって、何人の観光客が来れば住民が地元を避け始めるかという境界は、地域ごとに異なると考えるべきである。その境界を知るためには、観光客数だけでなく、道路や交通機関の容量、施設の利用目的、住民の移動手段、代替施設の有無などを調べなければならない。

 また、住民の行動は時間や費用だけで決まるわけではない。長く通っていた店への愛着、地域の文化的価値、人間関係、混雑に対する個人の感じ方なども影響する。経済合理性による説明は有効だが、人間の行動を完全に説明できるわけではないのである。

住民感情は単純な一本道ではない

 観光研究では古くから、観光客の増加と住民感情の関係を説明するモデルが考えられてきた。

 代表的なのが、ジョージ・ドクシーによるIrridex(Irritation Index・観光客増加に伴う住民感情の変化を説明する概念モデル)である。このモデルでは、観光客がまだ少ない段階では歓迎され、観光が日常化すると反応が薄れ、さらに観光による負担が高まると苛立ちや反発が強くなる可能性が示されている。

 ただし、これは観光地が必ず同じ順序をたどるという法則ではない。観光産業で働いている人と観光とは無関係の仕事をしている人では利益と負担の感じ方が異なる。観光客が集中する地区と離れた地区でも認識は違い、行政が混雑を適切に管理できているか、観光収入が地域へ還元されているか、観光客のマナーが良いかといった条件によっても住民の態度は変化する。

 スペイン・マヨルカ島のアルクディアで行われた研究では、2017年に実施された住民調査の有効回答303人を対象に、オーバーツーリズムの認識と住民意識の関係が分析された。その結果、観光過密を強く感じる人ほど、地域を良い居住地だと評価する傾向が弱まり、観光から心理的に距離を取り、繁忙期の観光客削減を支持する傾向が強いことが示された。

 特に、オーバーツーリズムの認識と繁忙期の観光客削減支持との相関係数は0.529だった。一方、オーバーツーリズムの認識と居住地としての評価との相関係数はマイナス0.292、地域からの心理的後退との相関係数は0.450だった。観光過密の認識と住民の意識には、方向や強さの異なる関連が存在することが分かる。

 相関係数0.529を二乗すると約0.280になる。単純な二変量の線形関係に限定すれば、両変数が共有する変動の割合を約28%と解釈できる。ただし、これは観光混雑が観光客削減への支持の28%を引き起こしたという意味ではない。観光過密を強く問題視する人ほど削減政策を支持している可能性もあれば、別の地域特性や個人の価値観が両方に影響している可能性もある。

 また、この研究でも、地域を居住地として好意的に評価する回答者が半数以上存在していた。観光混雑を強く認識していることと、地域全体を否定的に評価していることは同じではない。

 科学的に重要なのは、「観光客が増えれば住民は必ず観光を嫌う」と単純化しないことである。より正確には、観光による生活上の負担が高まり、その負担を十分に管理できない状況では、住民が観光空間から心理的、あるいは行動上の距離を取る可能性があると考えるべきだろう。

本当のオーバーツーリズムは人数だけでは測れない

 では、何人の観光客が来ればオーバーツーリズムになるのだろうか。

 実は、この問いには単純な答えがない。一万人の観光客が訪れても、広い地域へ一日中分散していれば問題が小さい場合がある。一方、数千人しか来なくても、狭い旧市街へ同じ時刻に集中し、住民が使う一本の道路と一つのバス路線に大きな負荷がかかれば、生活への影響は深刻になり得る。

 観光の混雑を考えるうえでは、年間の観光客数だけでは不十分である。どの場所に何人集まっているのか、何時に集中するのか、道路や交通機関がどこまで受け止められるのか、観光客と住民が同じ施設を利用するのか、住民に代替手段があるのかといった条件によって、生活への影響は大きく変わる。

 その意味では、一年間に何百万人が訪れたかという数字より、「土曜日の午後二時に、この一本の道路へ何人が集中しているか」「その時間帯に住民がいつものバスへ乗れるか」という数字の方が、生活上の負担を説明するうえでは重要な場合がある。

 このような考え方は、日本の観光政策とも整合する。観光庁は、観光客が特定の地域や時間帯へ集中することによる住民生活への影響を課題として位置付け、観光客の分散や受け入れ環境の整備を通じて、観光振興と住民生活の両立を図ろうとしている。

 京都市でも、2026年3月に策定された京都観光・MICE振興計画2030において、市民生活と観光の共存、データに基づく政策運営、観光による利益の地域還元などが重要な方向性として示されている。ここでいうMICE(Meetings, Incentives, Conventions and Exhibitions・会議、報奨旅行、国際会議、展示会)は、観光と関連するビジネス交流や国際的な催事を含む概念である。

 また、京都市では2024年6月から観光特急バスが導入され、観光利用を特定の路線へ誘導することで、一般路線における住民の移動負担を軽減する取り組みが進められている。

 ただし、政策が存在することと、その政策によって住民の回避行動が実際に減少したことは別問題である。観光特急バスの利用者数が増加したとしても、それだけで一般路線を使う住民の待ち時間が短縮されたことにはならない。政策の効果を評価するには、実施前後の混雑、住民の乗車可能性、所要時間、経路変更などを確認する必要がある。

 観光の成功を測る物差しは、単純な来訪者数や消費額だけでは十分ではなくなっている。観光による利益を確保しながら、住民の日常生活に必要な交通や商業機能を維持できているかどうかも、政策評価に含める必要があるのである。

観光統計には住民の日常的な回避行動が映りにくい

 現在の観光統計が比較的得意としているのは、観光客側の行動を測ることである。何人訪れたのか、何泊したのか、いくら使ったのか、ホテルの稼働率は何%だったのか。こうした数字は、観光政策や地域経済の分析に広く利用されている。

 もちろん、住民の意識や生活上の負担を測る調査が存在しないわけではない。京都市の市民意識調査のように、観光への評価、混雑への不満、市民自身の市内観光頻度などを継続的に調べている自治体もある。しかし、「去年まで毎週駅前へ行っていた住民が、今年から月に一回しか行かなくなった」という変化や、混雑を避けるために外出時間を変えた人、観光客の多い道を通らなくなった人、昔から利用していた店へ行かなくなった人の行動を、継続的に捉えられる統計は十分とは言い難い。

 行政への苦情件数だけで住民の負担を測ることにも限界がある。混雑を避けられる人は、苦情を言う代わりに経路を変えたり、外出時間を調整したりすることができるからである。反対に、通勤、通学、通院などで経路や時間を自由に変えられない人は、同じ混雑からより大きな負担を受ける可能性がある。

 つまり、苦情を申し立てた人の数が少ないからといって、地域の生活上の問題が小さいとは限らない。行政からは大きな問題が表面化していないように見える時期から、住民の行動には既に変化が生じている可能性がある。

 もし観光地の状態をより正確に測るなら、「観光客が何人来たか」だけでなく、「地元住民がその場所をどのくらい利用しているか」「利用をやめた理由は何か」「混雑によってどれだけ時間や費用が増えたか」といった指標も必要になる。

 たとえば、住民の中心部訪問率、商店街の地元客比率、公共交通の乗車待ち時間、観光シーズン中の経路変更率、市民自身の観光施設利用頻度、場所への愛着の変化などを継続的に追えば、現在の観光客数や売上高では見えにくい生活上の変化を把握できるだろう。

 ただし、住民の中心部訪問率が低下したとしても、その原因が観光混雑とは限らない。郊外への商業施設の移転、人口の高齢化、インターネット通販の普及、住宅地の変化などによっても同じ現象は生じる。回避行動を観光の影響として分析するには、訪問頻度の変化に加えて、その理由を確認する必要がある。

住民の回避行動は、どのように検証できるのか

 人気観光地ほど住民が地元を避けるようになるのか。この問いに科学的に答えるには、観光客数と住民の行動を同時に観測する必要がある。

 最初に必要なのは、住民が実際にどの程度回避行動を取っているのかを把握することである。調査票で「混雑を理由に普段利用する道路を変更したか」「外出する時間を変えたか」「以前利用していた店舗への訪問を控えたか」などを尋ねれば、住民の回避行動を直接測定できる。

 次に、観光客の集中度と住民の回避行動との関連を調べる。地域ごとの観光客密度、公共交通の混雑、道路の交通量などを説明要因として、住民が回避行動を取る確率との関係を推定するのである。このとき、年齢、居住年数、就業形態、自家用車の利用可能性、観光産業への就業の有無なども考慮する必要がある。同じ混雑であっても、通勤する人、子育て世帯、高齢者、観光産業で働く人では、行動の変化が異なる可能性があるからである。

 さらに因果関係を検証するには、観光混雑が大きく変化した地区と、比較可能な地区を対象に、変化の前後を調べる方法が考えられる。差の差法と呼ばれる分析では、観光需要の変化が大きい地域と小さい地域について、それぞれの住民行動がどの程度変化したかを比較する。ただし、この方法で因果効果を推定するには、観光需要の変化がなかった場合には両地域が似た傾向をたどったと考えられることなど、重要な条件を検証しなければならない。

 同じ住民を継続的に追跡する調査も有効である。観光期と通常期の行動だけでなく、数年間にわたる変化を把握できれば、一時的な混雑回避なのか、日常的な利用習慣そのものが変わったのかを区別しやすくなる。

 また、住民が混雑を避けて別の地域を利用するようになった場合、その変更が不便をもたらしたのか、それともむしろ便利になったのかを確認することも必要である。行動が変わったこと自体を損失とみなすのではなく、住民が負担した追加の時間や費用、利用できなくなった施設の価値、生活の満足度などを併せて評価しなければならない。

 このように考えると、オーバーツーリズムの研究は、観光客数を調べるだけでは終わらない。交通工学、都市経済学、統計学、行動科学、地域政策などを組み合わせ、住民の日常生活がどのように変化したかを明らかにする研究へ発展させることができるのである。

京都だけではない、地方観光地にも共通する問題

 この問題は、京都やバルセロナのような国際的な観光都市だけに限られるものではない。

 千葉県の房総地域を考えてみても、御宿町の海水浴期、勝浦市の観光イベント期、沿岸部の大型連休など、特定の時期に観光客が集中する場所がある。観光客の絶対数が京都ほど多くなくても、道路や駐車場の容量が小さく、公共交通の代替手段が限られている地域では、局所的な混雑が住民生活に影響する可能性がある。

 特に地方の観光地では、住民の移動が自家用車に依存している場合が多い。通勤、通院、買い物などに利用する道路が観光客の移動経路と重なれば、観光シーズンの交通渋滞は日常生活の所要時間に直接影響する。都市部のように鉄道や地下鉄へ簡単に切り替えられない地域では、道路の混雑が生活上の負担となりやすい条件が存在する。

 一方で、人口減少地域においては、観光需要が飲食店や小売店の経営を支え、住民が利用できる施設の存続に貢献している可能性もある。観光客が増えることで店が繁盛し、地元住民も引き続きその店を利用できるなら、観光と住民生活は互いに利益をもたらす関係になる。

 したがって、地方観光地では観光による負担だけを測るのではなく、観光需要が地域の商業施設や公共交通の維持にどれだけ貢献しているかも調べる必要がある。観光客の増加によって地元の店が使いにくくなる場合もあれば、観光客が来るからこそ、その店が存続できている場合もあるからである。

 御宿町や勝浦市などを分析する際にも、京都の研究結果をそのまま当てはめることはできない。観光期と通常期の交通量、買い物行動、住民の中心部訪問頻度、店舗の利用者構成などを比較し、それぞれの地域において、観光の利益と生活上の負担がどのように分布しているかを確認する必要がある。

 観光地の規模より重要なのは、観光客が地域のどこに集中し、その場所を住民が日常的にどの程度利用しているかという点である。

観光地として成功し、生活する町として失敗することはあるのか

 人気観光地ほど住民は地元を避けるようになるのかという最初の問いに戻ろう。

 現在の研究や統計から言えるのは、「観光地の人気が高ければ、住民が必ず地元を避けるようになる」ということではない。観光客が多くても、交通に余裕があり、観光客が地域や時間帯へ適切に分散され、生活に必要な店舗や交通が維持され、観光による利益が住民にも還元されていれば、観光の発展と暮らしやすさは両立し得る。

 逆に、それほど巨大な観光都市でなくても、狭い地域へ短期間に大量の観光客が集中すれば、住民に大きな負担が生じる可能性がある。したがって問題なのは、観光客の絶対数だけではなく、観光需要がどのように集中し、地域社会がそれをどの程度受け止められているかということである。

 観光による地域経済への利益も、一つの数字で測れるものではない。宿泊施設や飲食店の売上が増加しても、利益が地域外へ流出していれば、住民に還元される効果は限定的かもしれない。一方、観光によって雇用や税収が増え、公共交通や生活施設が維持されれば、住民全体に利益が及ぶ可能性もある。

 観光地としての成功を判断するには、観光客数、消費額、雇用、税収といった経済指標に加えて、住民の移動時間、生活施設へのアクセス、地域への愛着、観光による利益の分配などを考える必要がある。経済的に繁栄していることと、住民にとって暮らしやすいことは、関連していても同じ概念ではないのである。

 そして、オーバーツーリズムの兆候は、必ずしもニュースになるような住民抗議から始まるとは限らない。

 「今日は混んでいるからやめておこう。」

 その何気ない判断から始まる可能性がある。最初は一日だけ避け、次には週末を避けるようになり、観光シーズンには別の道路を使うようになる。以前利用していた店には行かなくなり、それを何年も繰り返すうちに、その場所へ行かないことが当たり前になる場合も考えられる。

 ただし、ここで述べた長期的な習慣化の過程は、十分に実証された普遍的な法則ではない。住民の回避行動が存在することを示す研究はあるが、それが何年かけて定着し、どの程度の人々に広がるのかについては、さらに追跡調査が必要である。

 そのうえで重要なのは、観光地として成功しているように見える地域でも、住民による利用が減少している可能性に目を向けることである。観光客数は増えている。飲食店も繁盛している。ホテルも埋まっている。町の知名度も上がっている。しかし、その繁栄している場所から住民の日常生活だけが後退しているとすれば、その地域をどのような基準で成功と評価すべきなのだろうか。

世界中の人が訪れたい町から、住民が退いていく

 観光地の価値は、写真に写る景色や有名な建物だけから生まれているわけではない。朝に店を開ける人がいて、子どもが学校へ通い、高齢者が買い物をし、誰かが犬を散歩させ、いつもの食堂でいつもの客が昼食を取る。旅行者が魅力を感じる「その土地らしさ」の一部は、そこに暮らす人々の日常生活によって作られている。

 もちろん、観光地には寺社や文化財、自然景観のように、住民の日常的な利用頻度だけでは価値を測れない場所も多い。しかし、歴史的な町並みや商店街の魅力が、建物や景観だけでなく、そこで営まれている生活や文化に支えられている場合には、住民がその場所を使わなくなることが地域の魅力に影響する可能性がある。

 昔ながらの町並みは残っている。古い建物も残っている。観光客も大勢歩いている。それなのに、そこで普通に暮らしている人の姿だけが少なくなる。もしそのような変化が長期間続けば、町は人々が生活を営む場所という性格を弱め、観光客のために演出された空間へ近づいてしまうかもしれない。

 ただし、それがどの地域で、どの程度進んでいるのかについては、印象だけで判断するべきではない。住民人口、店舗構成、住宅利用、地域施設の利用状況、住民の訪問頻度などを継続的に調べ、実際に生活機能が低下しているのかを確認する必要がある。

 持続可能な観光とは、遠くから来た人が「また来たい」と思うことだけでは十分ではない。そこで暮らす人が、必要なときに安心して移動でき、日常の買い物や食事を楽しみ、自分の町の景色や文化を生活の一部として利用し続けられることも重要である。

 世界中の人が訪れたい町から、その町の住民が静かに退いていく。こうした現象が実際にどの程度起きているのかについては、まだ十分な統計的検証が必要である。しかし、観光客の増加だけを成功の指標としている限り、住民の行動が変わっていても、その変化を見落とす可能性はある。

 オーバーツーリズムが問いかけているのは、単に「観光客を何人まで受け入れられるか」という数量の問題ではない。観光による利益を誰が受け取り、生活上の負担を誰が引き受けているのか。そして、そこに暮らす人々が、これからも自分の町を使い続けられるのかという問題でもある。

 観光客に愛される町と、住民が使い続ける町。その二つを同じ場所に保つことができるかどうか。観光地の本当の成功を考えるとき、私たちは来訪者数や消費額だけでなく、住民の日常生活が維持されているかという視点も持つ必要があるのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 例えば、ある町の昼どき、いつもの店の前を通ると、入口には人が並んでいる。以前なら扉を開けて、「今日は何がある」と尋ねれば済んだ店なのに、いつからか旅行鞄を持った人が列をつくり、駐車場には県外ナンバーの車が目立ち、料理が運ばれるたびに店内のあちこちでスマートフォンが持ち上がるようになった。店は以前より有名になり、多くの客を集めているのだから、町にとって喜ばしい光景のはずである。

 ところが、昔からその店を使ってきた地元の人は、その列を見て通り過ぎることがある。店の知名度が上がり、売上も増えているかもしれないのに、近所に住む人ほど入りにくくなっているとすれば、そこには単なる「人気店の成功」では片づけられない変化が起きている。ただし、満席だからといって経営が必ず成功しているとは限らず、客数の増加が利益の増加につながっているかどうかは、仕入費用や人件費、設備投資なども含めて判断する必要がある。

 繁盛しているように見える一方で、地域の日常からは少しずつ遠ざかっていく店。そのような店を、私たちはいつまで「地域の店」と呼ぶことができるのだろうか。

「地元の店」は、住所だけでは決まらない

 そもそも「地元の店」とは何だろう。町内に店舗があり、そこで商売をし、地域の人を雇い、地域内の事業者と取引し、事業形態に応じた税負担をしているなら、地域経済を構成する店だと考えることはできる。しかし、私たちが日常会話の中で「あそこは地元の店だ」と言うとき、そこには所在地や経済活動以上の意味が含まれているように思える。

 学校帰りに寄った店、仕事の途中で昼食を取る店、顔を出せば店主がこちらを覚えている店、親が通い、自分も通い、いつの間にか子どもまで連れて行くようになった店。そうした店は商品や料理を売っているだけではなく、地域の日常生活の中に組み込まれている。特別な日に目的を持って訪れる場所ではなく、特別ではない日に何となく立ち寄れることこそが、その店の地域性を支えている。

 観光客にとって店は「目的地」になることがあるが、住民にとって店は「生活の途中」にある場合が多い。この違いは小さいようでいて重要で、旅行の目的として訪れた店なら多少待ってでも入りたいと考える人がいる一方、仕事や買い物の途中で食事をする住民にとっては、長い待ち時間が続けば別の店や自宅での食事へ切り替える方が合理的になる。ただし、観光客も限られた旅行日程の中で行動しており、必ずしも住民より待ち時間を受け入れやすいわけではない。重要なのは、観光客と住民という属性そのものよりも、その店を訪れる目的、利用頻度、代替手段、時間の使い方が異なることである。

 同じ店を前にしていても、人によってその店に払える時間や金銭の意味は違うのである。

満席という現象を、少し数理的に考えてみる

 一軒の店には、収容できる人数に限界がある。座席数だけではなく、厨房の処理能力、駐車場、店員数、営業時間まで含めれば、一定の時間内に受け入れられる客の量には必ず上限がある。その範囲内で地元客と観光客が共存しているうちは、少なくとも収容能力の面では大きな問題が生じにくい。しかし、観光客の来店が特定の時間帯に集中し、需要が店舗の処理能力に近づけば、待ち時間が増え、誰かが時間をずらすか、別の店へ行くか、利用そのものを諦める必要が生じる。

 ここで注意したいのは、客が一割増えたからといって、待ち時間も一割増えるとは限らないことである。待ち行列理論では、客の到着間隔や処理時間について一定の仮定を置くと、需要が処理能力の上限に近づくにつれて、平均待ち時間が急激に長くなる場合がある。例えば、客を一人ずつ処理する単純化されたモデルでは、処理能力の使用率が八割から九割へ上がるだけで、平均待ち時間が二倍以上になることもある。実際の飲食店には複数の座席があり、客はグループ単位で入店し、料理の提供時間も異なるため、この数値をそのまま当てはめることはできない。それでも、処理能力に余裕がなくなった店では、比較的小さな需要の増加でも混雑が大きく悪化し得るという考え方は重要である。

 例えば、普段は待たずに入れた店が、観光シーズンだけ三十分待ちになったとする。その店で食事をすること自体が旅行の目的なら、三十分の待ち時間を受け入れる人もいるだろう。しかし、仕事の昼休みに利用していた住民にとっては、その三十分が利用を諦める十分な理由になる。同じ三十分でも、観光客と住民にとっての負担は同じとは限らないのである。

 もっとも、住民が店を利用しなくなる原因は混雑だけではない。観光客向けの価格設定、予約制への変更、営業時間の短縮、料理の提供方法の変更などによって、席が空いていても日常的には利用しにくくなる場合がある。反対に、客数の増加を受けて従業員や座席を増やし、営業時間を延長することで、住民の利用機会が維持されることも考えられる。

 したがって、問題の核心は観光客が来ること自体ではない。特定の時間帯に需要が集中して店の受入能力に余裕がなくなることや、経営形態の変化によって、住民が従来どおり利用することが難しくなる点にある。

店は同じ場所にありながら、別の客のための店へ変わる

 需要が変われば、商売の側がそれに適応するのは自然なことである。遠くから来る客が増えれば予約を受け付けるようになり、人気の料理を中心にメニューを組み替え、仕入れや人件費の上昇に応じて価格を見直すこともある。地域で昔から食べられていた料理が「名物」として売り出され、観光客が動く時間帯に合わせて営業方法が変わることもあるだろう。

 これらを一つずつ見れば、経営者として不合理な判断ではない。むしろ、限られた席と人員で経営を続ける以上、需要の変化に合わせて商品やサービスを調整することは、事業を存続させるために必要な場合もある。ただし、経営判断は売上の最大化だけで決まるものではなく、利益率、従業員の負担、経営者の生活、長期的な顧客関係などにも左右されるため、観光客向けの営業へ転換することが常に最適とも限らない。

 それでも、合理的な判断がいくつも積み重なると、店は以前と同じ建物、同じ看板、同じ料理を残しながら、少しずつ別の性格を持つようになる。そこに住む人が日常的に使う店から、その土地を訪れる人が非日常を体験する店へと、役割が移っていく場合があるのである。

 ただし、観光客向けの店へ変わることが、直ちに地域との関係を失うことを意味するわけではない。地元の食材を購入し、地域の人を雇い、伝統的な料理を継承し、地域行事を支える店であれば、住民の日常的な利用が減っても、別の形で地域社会を支えている可能性がある。つまり、店舗の地域性には、住民が利用する場所としての側面と、地域経済や文化を支える側面があり、両者は必ずしも同じ方向に変化するとは限らない。

 店の住所には何の変化もなくても、利用者との関係は変わっていく。その変化を、地域性が単純に失われたと捉えるのではなく、地域との結びつきの内容が変わったと考える必要がある。

店は繁盛したのに、住民の選択肢は減ることがある

 観光振興を評価するとき、観光客数や宿泊者数、観光消費額は分かりやすい数字である。何人が訪れ、いくら使ったのかを調べれば、地域で発生した観光需要の規模をある程度把握できる。ただし、観光消費額がそのまま地域に残る所得や利益になるわけではない。地域外から仕入れた商品の費用や、地域外へ支払われる経費もあるため、観光客が支出した金額と、地域経済に実際に残る付加価値は区別する必要がある。

 また、観光客数にも注意が必要である。観光地点ごとの延べ訪問数を集計した統計では、同じ人が複数の地点を訪れれば重複して計上される場合がある。観光客数が増えたという数字だけで、地域の飲食店に新しい客が何人増えたのかを正確に判断することはできない。

 さらに住民の暮らしを測ろうとすると、観光客数や消費額だけでは足りない。以前は昼休みにすぐ入れた店へ入れなくなったのか、休日になると駐車場が埋まるようになったのか、日常的に食べていた料理が値上がりしたのか、住民が別の場所へ移動するようになったのかという変化は、観光統計だけを見ても分からない。

 ただし、一軒の人気店が観光客で混雑したからといって、町全体の生活利便性が低下したと結論づけることもできない。周囲に新しい飲食店が増え、住民の選択肢が以前より豊かになっているなら、地域全体ではむしろ利便性が高まっている可能性もある。観光客によって既存の店が維持され、撤退するはずだった商業機能が残る場合もあるだろう。反対に、観光需要の強い店ばかりが増え、日常的に利用できる食堂や商店が減るなら、店舗数が増えても住民にとっての選択肢は狭くなり得る。

 したがって、本当に知りたいのは一軒の店が混んでいるかどうかではなく、地域全体で住民が利用できる店がどのように変化しているかである。観光客向けの店が増える一方で日常的な食堂や商店が減っているのか、それとも観光需要によって新しい店が生まれ、住民にも新しい選択肢が増えているのか。この二つでは、同じ「観光客が増えた町」であっても、その意味は大きく異なる。

地元客の比率が下がっても、地元客が減ったとは限らない

 ここで、もう一つ数理的に注意しておきたいことがある。それは、店を利用する地元客の割合が下がっても、地元客の人数そのものが減少したとは限らないという点である。

 例えば、ある店の一日当たりの利用者が地元客六十人、観光客二十人だったとする。このとき、全利用者に占める地元客の割合は七五%である。その後、観光客が増加して一日百人になり、地元客は六十人のまま維持されたと仮定すれば、地元客の割合は三七・五%まで低下する。しかし、地元客の人数は一人も減っていない。この例では、増加した需要を受け入れられるように、店の営業体制や処理能力が十分に拡大していることを前提としている。

 この違いは、地域の変化を統計で考えるときに重要である。地元客の構成比が下がったことだけを根拠に、地元住民が店から排除されたと判断すれば、実態を誤って理解するおそれがある。一方、地元客の人数が以前と同じでも、以前より長く待つようになったり、利用を諦める住民が増えたりしているなら、地域の利用環境は悪化している可能性がある。

 つまり、地元客の比率、実際の利用人数、利用頻度、待ち時間、入店を断念した経験は、それぞれ異なる指標なのである。さらに、地元客が減った場合でも、それが観光客の増加によるものか、人口減少や住民の高齢化、物価上昇、食生活の変化などによるものかは、別に検証しなければならない。

 店の中に地元客が何人いるかを見るだけでは、店を利用したかったのに入れなかった人の存在は見えない。地域の商業環境を理解するためには、店に入った人だけではなく、店を選ばなくなった人にも目を向ける必要がある。

常連客は、売上だけでは測れない

 もちろん、観光客が増えたからといって、それだけで店が地域から奪われたと考えるのも正しくない。観光客が来なければ経営を続けられなかった店もあるだろうし、旅行者の消費によって従業員を雇い、設備を更新し、後継者へ商売を引き継げるようになった店もあるかもしれない。外から入るお金が地域の店を存続させ、その結果として地元住民も利用し続けられるのであれば、観光は地域性を壊すどころか、それを守る力にもなり得る。

 そこで考えたいのが、観光客と常連客が店にもたらすものの違いである。観光需要は季節や流行、天候、交通事情などによって変動する場合があるが、地元の常連客が比較的安定して利用している店では、その需要が閑散期の経営を支える基礎になる可能性がある。ただし、住民需要そのものが少ない地域では観光客なしでは成立しない店もあり、観光需要の方が年間を通して安定している場合も考えられる。したがって、地元客は安定し、観光客は不安定だと一律に決めつけることはできない。

 それでも、常連客が店にもたらすものは売上だけではない。店主と客が顔を知り、近所の出来事が自然に話題となり、特に約束をしていなくても誰かと会うことがある場所は、商業施設であると同時に小さな交流空間でもある。こうした人と人との継続的なつながりは、社会関係資本という概念で捉えることができ、地域社会における信頼や情報交換、相互扶助の基盤となる場合がある。

 もちろん、すべての常連客が交流を求めているわけではなく、店が地域の交流拠点になる程度もさまざまである。しかし、商業施設としての価値と、地域の人間関係を支える価値が異なることは確かである。地域にとっては、店の椅子一脚が単なる座席以上の意味を持つことがある。観光客で満席になるということは、その椅子が埋まるというだけではなく、場合によっては、そこにあった地域の日常が別の場所へ移動していくことでもある。

「本物の地域」を求める人が、本物を変えてしまう逆説

 ここには観光の興味深い逆説がある。旅行者が人気店を訪れる理由の一つは、その店に「地元らしさ」を感じるからである。観光客向けに作られた店ではなく、地元の人が本当に通っている店へ行きたい。昔から食べられている料理を食べたい。観光地化されていない路地を歩きたい。そうした欲求は、作られた観光地ではなく、その土地の日常そのものに価値を見いだしている。

 ところが、その価値を求める人が急激に増えれば、価値の源だった日常そのものが変化する可能性がある。静かな路地を歩きたい人が増えれば路地は静かではなくなり、地元客しかいない店へ行きたい人が増えれば、そこは地元客しかいない店ではなくなる。店の魅力を生み出していた地域の日常が、外から評価されることによって変わっていくのである。

 ただし、ここでいう「本物の地域」とは何かという問いも避けては通れない。地域の文化や商業は、もともと時代とともに変化してきたものであり、昔の姿をそのまま維持していることだけが本物であるとは限らない。外から来る人との交流によって新しい料理や商売が生まれ、それが年月を経て地域文化の一部になることもある。観光による収入によって祭りや伝統的な商売が存続し、住民自身が地域の価値を再発見する場合もあるだろう。

 つまり観光には、地域文化を変える力と残す力の両方がある。そのどちらが強く現れるかは、観光客の人数だけではなく、地域の受入能力、店の経営形態、住民との関係、観光収入が地域内でどのように循環するかによって変わる。

 地域らしさとは、観光客が少なかった過去の風景を固定したものではなく、そこで暮らす人々の生活と、外から訪れる人々との関係の中で変化し続けるものなのかもしれない。

観光客と住民は、本当に奪い合うしかないのか

 旅行者は魅力的な店へ行きたい。店は客を増やして経営を安定させたい。自治体は観光消費を増やし、地域経済を活性化させたい。そして住民は、これまで利用してきた店を無理なく使い続けたい。一見すると、これらの希望は衝突しているように見える。しかし、必ずしも一方が得をすればもう一方が同じだけ損をする、ゼロサムの関係ではない。

 店の座席や人員に余裕があれば共存できるし、営業時間を分散させたり、予約方法を工夫したり、周辺の別店舗へ客を誘導したりすることで、地域全体の受入能力を高められる場合もある。また、一軒の人気店だけに客が集中せず、町全体へ需要が分散すれば、観光によって新しい店が生まれ、それが住民の選択肢を増やす可能性もある。ただし、営業時間の延長には人件費や光熱費の増加が伴い、地域によっては従業員の確保そのものが難しい。予約制も、待ち時間を減らす効果が期待できる一方、事前予約をしない地元住民が利用しにくくなることがある。したがって、混雑を緩和する施策が別の問題を生まないかどうかも検討する必要がある。

 さらに、混雑する時間帯と空いている時間帯では、観光客を受け入れられる余地が異なる。年間の観光客数が同じでも、特定の休日の昼間に集中する場合と、平日や閑散期まで分散する場合とでは、住民生活への影響は大きく異なる。地域の受入能力を考えるときには、年間の総人数だけではなく、時間帯や季節ごとの需要の集中度を見る必要がある。

 したがって問うべきなのは、「観光客を受け入れるか、住民を守るか」ではなく、観光客が増えても地域の日常を維持できる仕組みをつくれるかどうかである。単純に客数だけを増やし続ければ、特定の時間帯や場所で地域の受入能力を超える可能性がある。反対に、外から来る人を過度に遠ざければ、店の経営や地域経済そのものが弱くなるおそれもある。

 必要なのは、観光客数の最大化を唯一の目標にすることではなく、地域が得る経済的利益と、住民や事業者が負担する費用を合わせて考えることである。その最適な状態は一つの固定された人数で決まるものではなく、地域の人口構成、商業施設、交通環境、季節、住民の意識などによって変化する。

「地域の店」を数値で考えるなら

 「まだ地域の店と呼べるのか」という問いは、実際には「はい」か「いいえ」で答えられるものではない。地域性には複数の側面があり、明確な境界線が存在するとは限らないからである。

 例えば、その店を利用する客のうち地元住民がどの程度いるのか、地元客の人数や利用頻度は維持されているのか、住民が無理なく払える価格なのか、日常利用に耐えられる待ち時間なのか、昔からの常連客が残っているのか、観光シーズン以外にも営業を続けているのか、住民同士が自然に交流できる場所として機能しているのか、といった指標を組み合わせれば、店と地域との関係をある程度把握できる。

 ただし、価格についても単純な比較はできない。原材料費や人件費が上昇している場合、価格の引き上げは観光客向けへの転換ではなく、経営を維持するための必要な対応かもしれない。また、住民が無理なく利用できる価格は所得や家計の状況によって異なるため、値上げがあったという事実だけで、地域住民を排除する経営に変わったと判断することはできない。

 さらに、地域にとっての価値を評価するなら、従業員の居住地、地域内からの仕入れ、地域事業者との取引、地域行事への参加なども考慮する必要がある。地元住民が日常的に利用する機能は弱まっていても、雇用や取引を通じて地域経済を支える機能が強まっている場合があるためである。

 こうした指標を実際に調べる際には、店舗の売上記録だけでは不十分である。売上記録から来店を諦めた人の数を直接知ることは難しく、住民への聞き取りや利用実態調査などを組み合わせる必要がある。観光客の増加前後を比較する場合にも、人口減少、高齢化、物価上昇、周辺店舗の開業や閉店など、別の要因による影響を区別しなければならない。必要に応じて、観光需要の変化が小さい類似地域とも比較することで、観光客の増加と店舗利用の変化との関係を、より慎重に検証できるだろう。

 もちろん、これらをすべて集計すれば「地域の店」を客観的に判定できるというわけではない。何を重視するかによって評価は変わるし、交流の場としての価値のように、数値だけでは捉えにくい要素も残る。それでも、「町に店が何軒あるか」だけではなく、「その店を誰が、どのように使い、誰が利用を諦めているのか」まで考えることには意味がある。

 地域の暮らしやすさを測るためには、店の数だけではなく、住民にとっての実際の利用可能性を調べる必要があるのである。

「地域の店」を守るとは、観光客を締め出すことではない

 では、地元の店を守るために、観光客を制限すればよいのだろうか。おそらく、それほど単純な話ではない。

 地域の店が外から来た人を受け入れることは、地域が閉じないためにも重要である。旅先で偶然入った小さな店で土地の人と言葉を交わした経験が、その土地全体への印象を決めることもある。観光客と住民が同じ空間にいること自体は地域文化を弱めるものではなく、むしろ地域の文化を外へ伝える機会にもなる。地域住民にとっても、外から来た人との交流が、新しい情報や価値観に触れる機会になる場合があるだろう。

 問題になるのは、観光需要の集中によって住民の利用機会が著しく狭まったり、逆に外から来た人が不当に利用を妨げられたりする状況である。観光客中心の店にも地域経済を支える役割があり、地元住民中心の店にも日常生活を維持する役割がある。すべての店が同じ客層を受け入れ、同じ経営形態を取る必要はない。地域全体として、多様な人が利用できる店が存在し、それぞれの需要に応じた選択肢が確保されていることが重要なのである。

 ただし、その調整を店側の善意だけに任せるべきではない。店には家賃も人件費も仕入れ費用もあり、「地域のためなのだから安く売れ」「常連客を優先しろ」と外から要求するだけでは、経営そのものが続かなくなる。地域性を守るという言葉が、商売する人にだけ負担を押しつける仕組みになれば、それは長続きしない。

 自治体や地域団体が担える役割としては、観光客の時間的・空間的な分散、交通や駐車場の環境整備、地域商業への支援、観光事業者と住民の意見交換などが考えられる。もっとも、個々の店舗の価格や営業時間、客層の選択は、基本的に経営者自身が判断することである。行政が地域の暮らしやすさを守ることと、個別の商売に過度に介入することは区別しなければならない。

 観光による利益を地域全体で受け取りながら、住民の日常も失わない仕組みをどうつくるか。そのためには、自治体だけではなく、事業者、商工団体、観光関係者、住民がそれぞれの立場から実態を把握し、無理のない調整を重ねていくことが必要になる。

店の椅子から、町の変化を見る

 地域分析というと、人口、高齢化率、所得、観光客数、商業統計といった大きな数字を思い浮かべやすい。しかし町の変化は、ときに一軒の店の入口にできた十人の列という、日常の小さな風景から感じ取れることがある。その列を見て、「人気が出てよかった」と思う人がいる一方、「もう自分が気軽に行く店ではなくなった」と感じる人もいる。どちらか一方だけが正しいわけではなく、その二つの感情が同時に生まれるところに、観光地化の複雑さがある。

 ただし、入口にできた行列は、地域構造の変化を証明するものではない。季節や曜日、天候による一時的な混雑かもしれず、周辺に新しい店が生まれているなら、地域全体の利便性は改善している可能性もある。大切なのは、その風景を見て直ちに結論を出すことではなく、なぜ行列ができたのか、以前からの客はどうしているのか、同じ変化が周囲の店でも起きているのかと問いを重ねることである。

 地域の人口が減り、高齢化が進み、日常的な消費需要が縮小する町では、観光客の存在が店の存続を支えている可能性もある。住民だけでは採算が合わなくなった店が、観光需要を取り込むことで営業を続けられるなら、それは住民にとっても利益になり得る。一方、観光需要に合わせた経営への転換によって、住民が気軽に使える場所が少なくなることもある。どちらの効果が大きいかは、観光客数だけでも、店舗数だけでも判断できない。

 町は一種類の人だけのものではない。昔から暮らす住民がいて、移住してきた人がいて、商売をする人がいて、別荘を持つ人がいて、ときどき訪れる旅行者がいる。住民と観光客という区分さえ、実際には明確とは限らない。長期間滞在する人もいれば、毎週のように同じ店へ通う町外の人もいるし、移住したばかりで地域との関係を築き始めた人もいる。その境界が曖昧になっていくほど、「誰のための町なのか」という問いにも単純な答えはなくなっていく。

 だから、「地域の店」であるかどうかも、店がどこに建っているかだけでは決められないのだろう。その店が地域の日常の中にまだ居場所を持っているか、近所の人が特別な予定を立てなくても利用できるか、観光シーズンが終わり旅行者の姿が少なくなった冬の夕方にも、店と地域をつなぐ関係が残っているか。そうしたことも、店舗の地域性を考えるための大切な視点になる。

 観光客で満席になること自体が問題なのではない。むしろ気にすべきなのは、満席の店の前を通り過ぎた地元の人が、そのうち「今日は混んでいるからやめよう」とさえ思わなくなることである。何度も利用を諦めているうちに、その店を自分の日常の選択肢から静かに外し、店の側もまた、いつしか地元の人が来なくなったことを特別な変化とは感じなくなる。もちろん、それが実際に起きているかどうかは確かめなければならないが、そうした可能性を見落とさないことには意味がある。

 店の住所は変わらない。看板も昔のままで、名物料理も残っている。それでも、店と町との関係だけが少しずつ変わっているかもしれない。

 「地域の店」が失われる瞬間とは、必ずしもシャッターが下りたときではないのだろう。

 店は今日も満席で、以前より繁盛しているように見える。その店の前を、昔からそこに住んでいる人が立ち止まらずに通り過ぎていく。その姿だけで地域の変化を断定することはできない。しかし、何が変わったのかを確かめるための問いは、そこから生まれる。地域の変化というものは、統計表だけを眺めていては気づきにくい、そんな何気ない景色の中にも現れているのかもしれない。

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 地方経済を活性化する方法として、企業誘致ほど分かりやすい政策はない。工場が建ち、事業所の看板が掲げられ、新しい雇用者数が発表されれば、町が前へ進んでいるように見える。自治体にとっても「企業を一社誘致した」という成果は説明しやすく、新聞記事にもなりやすい。これに比べると、昔から町にある会社の在庫管理を改善した、製造工程を見直した、宿泊施設の予約管理を効率化したといった話は、どうしても地味に映る。

 しかし、地域経済にとって重要なのは、新しい建物が何棟できたかではなく、その地域で新しくどれだけの付加価値が生まれ、その成果が住民や地域企業の所得、あるいは地域の財政にどのようにつながったかである。この物差しで考え始めると、「大企業を一社誘致する」という政策とは別に、「すでに地域にある企業10社を強くする」という方法が見えてくる。

 そこで考えてみたい。自治体が企業誘致に大きな予算を使う代わりに、地元企業10社の生産性を20%程度高めることができたなら、地域経済への効果はどちらが大きいのだろうか。

 結論を先に言えば、地元企業支援が必ず有利になるわけではない。ただし、企業誘致について普段目にする売上高、投資額、雇用者数といった数字だけでは、地域経済への実質的な効果を十分に判断できない。そのため、条件によっては、目立たない10社の経営改善の方が、地域住民の所得や自治体の負担を考慮したときに、望ましい成果をもたらす可能性がある。

 なお、ここでいう「地元企業10社の生産性20%向上」は、特定の自治体で実現が確認された数値ではなく、二つの政策を比較するための仮定である。10社という企業数にも、20%という改善率にも、一般的な政策効果として確立された統計的根拠があるわけではない。この点を区別したうえで、企業誘致と既存企業支援の経済効果を考えていきたい。

売上高ではなく、地域で生まれた「付加価値」を見る

 最初に整理しておかなければならないのは、生産性を20%上げることと、売上高や付加価値が20%増えることは同じではないという点である。

 生産性とは、労働時間や人員、設備などの投入に対して、どれだけの価値を生み出せるかを示す概念である。地域企業の経営改善を評価する際によく使われる労働生産性は、一般に付加価値額を労働投入量で割って求める。労働投入量には従業者数を使う方法と総労働時間を使う方法があり、どちらを採用するかによって改善率の意味も変わる。

 例えば、10社全体で年間10億円の付加価値を生み出しているとしよう。従業員の総労働時間が変わらないまま、時間当たりの労働生産性が20%向上すれば、付加価値額は年間12億円となり、2億円増加する。ところが、同じ20%の生産性向上でも、総労働時間が10%減少すれば、付加価値額は10億8,000万円となり、増加率は8%にとどまる。総労働時間が20%減少した場合には、付加価値額は9億6,000万円となり、むしろ4%減少する。

 つまり、付加価値額の増減は、生産性の変化と労働投入量の変化を組み合わせて判断しなければならない。同じ人数で多く生産できるようになっても、商品を買う人がいなければ販売量は増えないし、省力化によって必要な労働時間が短くなれば、生産性が上がっても企業全体の付加価値が同じ割合で増えるとは限らない。

 さらに重要なのは、企業の付加価値が増えたことと、自治体による支援の効果を区別することである。支援を受けた企業の付加価値が2億円増加しても、支援がなくても1億円増えていたのであれば、政策による追加的な効果は単純に2億円とはいえない。

 したがって、「地元企業10社の生産性を20%上げる」という政策を評価する場合、本当に見るべきなのは20%という改善目標そのものではない。その改善が実現可能なのか、追加的にどれだけの付加価値が生まれるのか、そしてそのうちどれだけが政策によってもたらされたのかである。

大企業が来ても、売上高のすべてが町に残るわけではない

 仮に、年間20億円を売り上げる工場が地方の町に進出したとする。その数字だけを見ると、地域経済に20億円の新しい市場が生まれたように感じる。しかし、売上高には原材料費、部品代、外注費などの中間投入が含まれており、20億円すべてが新しく生み出された付加価値ではない。

 例えば、年間売上高20億円に対して、原材料や外注サービスなどの中間投入が12億円であれば、単純化した計算では工場の付加価値額は8億円となる。この8億円は、その工場の生産活動によって新しく生まれた価値であり、工場が立地する地域の生産活動を評価するうえで重要な数字となる。

 ただし、この8億円すべてが町の住民の所得になるわけではない。従業員が地域外から通勤していれば賃金の一部は地域外の住民へ支払われるし、本社や株主が地域外にあれば企業利益の一部も地域外へ帰属する。また、付加価値には設備の減耗分なども含まれるため、その全額が賃金や自由に使える利益として分配されるわけでもない。

 一方、利益が地域外の本社へ移ったからといって、工場が地域で生み出した付加価値まで消えるわけではない。ここでは「地域で生産された付加価値」と「地域住民や地域企業に帰属する所得」を明確に区別する必要がある。

 地元企業についても事情は同じである。地元企業だから自動的に地域住民の所得が増えるわけではない。地域外の仕入れ先に依存し、従業員の多くが地域外に住み、利益を地域外へ投資していれば、地域への所得帰属は限定的になる。逆に、全国企業の工場であっても、地域住民を多く雇用し、地元企業との取引を増やし、地域内に再投資すれば、地域経済に大きく寄与する可能性がある。

 つまり、重要なのは企業が地元企業か全国企業かという名称ではない。どこで付加価値が生まれ、誰が賃金や利益を受け取り、どのような企業間取引が発生し、その結果として地域全体の所得がどれだけ増加するかという構造である。

地域経済は「穴の開いたバケツ」に似ている

 地域経済を一つのバケツとして考えてみると、この問題は少し見えやすくなる。

 町には、観光客の支出、住民の給与、年金、企業活動、行政支出など、さまざまな経路からお金が流れ込んでくる。一方、住民が地域外の商業施設で買い物をしたり、企業が地域外から商品や設備を購入したりすれば、資金の一部は地域外へ移動する。地域経済循環という考え方では、こうした生産、所得の分配、支出のつながりを把握することが重要になる。

 企業誘致は、このバケツへ新しい太いホースを一本取り付ける政策だと考えることができる。大規模な企業が来れば新しい生産活動や雇用が生まれる可能性があるが、その企業の取引先、従業員、本社機能がほとんど地域外にあれば、地域住民に帰属する所得は見かけの事業規模ほど大きくならない場合がある。

 一方、地元企業の生産性を高める政策は、既存の企業が生み出す価値を増やし、その成果を地域内の賃金や投資につなげる政策と考えられる。例えば地域の食品会社が製造工程を改善し、廃棄量を減らしながら地域外への販売を伸ばしたとする。その会社が地元農家から原材料を購入すれば農家の生産にも影響し、従業員の賃金が上がれば地域内の小売業やサービス業への需要が増える可能性がある。

 ただし、地域外へお金が流れることを、すべて悪いことだと考えてはいけない。地域外から安価で高品質な設備や専門サービスを調達することによって、地域企業の競争力が向上する場合もある。インターネット通販も、地域外の企業から購入すれば支出の一部は地域外へ向かうが、地元事業者の通信販売や地域内の物流活動につながる場合もある。

 また、地域内でお金が何度も使われたからといって、その取引額を単純に合計すれば新しい付加価値になるわけではない。ある地元企業の売上が増えても、別の地元企業から顧客を奪っただけなら、地域全体としての純増効果は小さいかもしれない。さらに、地元企業への発注額を地域全体の付加価値額にそのまま加えると、同じ経済活動を重複して数える可能性もある。

 このような企業間の取引や所得の波及を分析するには、産業連関分析などを用いて、地域内外の取引構造を整理する必要がある。重要なのは、資金が地域外へ出ることを無条件に防ぐのではなく、地域外との取引を活用しながら、地域で生み出される付加価値と住民所得を持続的に増やすことである。

「10社」には一社とは違う強さがあるのか

 一社の巨大企業と10社の地元企業を比較するとき、付加価値の総額とは別に、地域経済の安定性という問題が出てくる。

 大企業を一社誘致し、その企業が町の雇用や経済活動の大きな割合を占めるようになれば、操業している間の経済効果は大きい。しかし、本社の経営判断によって工場が閉鎖されたり、生産拠点が海外へ移されたりすれば、地域は一度に大きな雇用と所得を失う可能性がある。

 これに対して、異なる産業の10社が少しずつ生産性を高める場合、地域の経済基盤を複数の企業へ分散できる。建設、食品、宿泊、医療・介護、物流、製造、情報サービスなど、異なる需要に支えられた企業が強くなれば、一社の経営悪化が地域全体へ与える影響を抑えられる可能性がある。

 ただし、「10社なら安全」と単純に考えることもできない。10社すべてが観光需要に依存していれば、観光客が急減した際には同時に業績が悪化するかもしれない。金融資産の分散投資と同じように、企業数だけでなく、それぞれの企業がどの程度共通の経済変動に影響されるかが重要になる。

 さらに、10社の経営規模が大きく異なる場合にも注意が必要である。従業員100人の企業と5人の企業を一社ずつ数えても、地域経済に与える影響が同じとは限らない。10社全体の労働生産性を評価するのであれば、各社の改善率を単純に平均するのではなく、各社の付加価値額と労働投入量を合計し、全体としてどのような変化が生じたかを確認する必要がある。

 地域経済の安定性を考えるうえで重要なのは、企業数そのものではなく、産業構造の分散度、企業規模の偏り、需要の共通性、そして特定企業への依存度なのである。

生産性20%向上は、どの程度実現可能なのか

 地元企業10社の生産性を20%向上させるという目標は、数字としては分かりやすい。しかし、政策として実現できるかどうかは別の問題である。

 企業の生産性には、経営者の能力、従業員の技能、設備の状態、商品の競争力、価格設定、販路、需要動向など多くの要因が関係している。業務改善の余地が大きい企業なら、比較的小さな投資で大幅な改善を実現できる場合もある。一方、すでに効率的な経営を行っている企業では、追加的に20%改善するために多額の設備投資や人材育成が必要になるかもしれない。

 実際、中小企業向けの設備投資補助金を分析した国内の実証研究には、補助金によって売上高や雇用者数が増加した一方、研究で用いられた一人当たり売上高という生産性指標については、統計的に明確な改善効果が確認できなかった例がある。なお、一人当たり売上高と、付加価値を基準とした労働生産性は同じ指標ではないが、補助金による企業規模の拡大が必ずしも生産性向上を意味しないことを考えるうえで参考になる。

 また、別の中小企業支援に関する研究では、補助金の採択そのものによる効果が明確に確認されなかった一方、補助金申請に伴う経営計画の作成や外部からの助言が企業の経営改善につながった可能性も指摘されている。もっとも、成長意欲の高い企業ほど補助金を申請しやすいといった企業選択の偏りも考えられるため、申請と業績改善の関係をそのまま因果関係とみなすことはできない。

 こうした研究が示唆するのは、企業支援を単に設備購入への補助金と考えるべきではないということである。経営課題の発見、原価管理、販売戦略、従業員教育、業務工程の見直しなど、経営能力そのものを高める仕組みが重要になる。

 したがって、生産性20%向上を政策目標とするのであれば、対象企業の現状を調査し、どのような改善によって実現するのか、必要な費用はいくらか、何年間で達成できるか、そして改善効果がどれだけ持続するかを確認しなければならない。

改善の知識は、自然には広がらない

 地元企業10社を支援するもう一つの利点として、改善の知識が地域企業へ広がる可能性が考えられる。

 ある会社が在庫管理を改善し、別の会社が業務のデジタル化によって作業時間を短縮し、さらに別の会社が販売データを利用して商品構成を改善する。その方法が企業間で共有されれば、最初に直接支援した10社を超えて効果が広がるかもしれない。

 しかし、このような知識の波及は自動的に起こるものではない。企業は互いに競争相手でもあり、成功した経営手法を積極的に他社へ教えるとは限らない。また、ある企業で成功した方法が、別の業種や規模の企業でも同じ成果をもたらすとは限らない。

 そのため、共同研修、商工団体、地域金融機関、取引先との協力、人材交流など、企業の境界を越えて知識が移動する仕組みが重要になる。自治体が10社へ個別に補助金を支給するだけで終わるのか、それとも地域企業全体の経営能力を高める仕組みを構築するのかによって、長期的な効果は変わる。

 ただし、知識が広がったことだけで経済効果を判断することもできない。新しい手法を導入した企業が増えたとしても、実際に付加価値や賃金が増えなければ、地域経済への効果は限定的である。研修参加者数や設備導入件数といった活動実績と、企業の経営成果を区別して測定する必要がある。

生産性が上がれば雇用は減るのか

 生産性向上については、雇用への影響も考えなければならない。機械や情報技術を導入して、同じ仕事を少ない人数でできるようにすれば、必要な労働者数が減る可能性がある。

 例えば、これまで5人必要だった仕事を4人で完了できるようになり、仕事の成果が変わらなければ、一人当たりの労働生産性は25%向上する。ここで注意したいのは、必要人数が20%減少することと、生産性が20%向上することは異なるという点である。

 地域内の需要がほとんど増えない状況で単純な省力化だけが進めば、雇用が減少する可能性はある。しかし、生産性向上によって価格競争力や品質が改善し、地域外への販売が増えれば、企業の生産量が拡大して雇用や賃金が増える場合もある。生産性向上と雇用の関係は一方向ではなく、需要の変化や企業の経営戦略によって異なる。

 人口減少地域では、この問題はさらに複雑になる。そもそも働き手が不足している地域では、人手を減らせる技術が労働力不足を補う役割を果たす。これまで5人必要だった仕事を4人でできるようになり、余った一人が別の人手不足産業で働けるなら、地域全体では限られた労働力を有効に使える可能性がある。

 ただし、余剰となった人が必ず別の産業へ円滑に移動できるとは限らない。業種ごとに必要な技能は異なり、再教育や転職には時間と費用がかかる。年齢、通勤距離、勤務時間、賃金水準などの条件によっては、地域内で仕事が見つからないこともある。

 したがって、人口減少地域の生産性向上政策では、単に省力化設備の導入を支援するだけでなく、従業員の技能向上、職種転換、賃金改善、地域内での労働移動を組み合わせることが重要になる。

 これからの地方では、「何人雇用したか」だけでなく、「限られた労働力からどれだけの付加価値を生み出し、その成果がどのように働く人へ分配されたか」という視点が求められるだろう。

企業誘致が大きな効果を生む地域もある

 ここまで読むと、地元企業の生産性を高める方が常に合理的に思えるかもしれないが、それも正しくない。

 人口数千人の町に数百人規模の雇用を生む高付加価値企業が進出し、その企業が地域住民を多く雇い、地元企業との取引も増やすなら、既存企業10社の改善を大きく上回る経済効果をもたらす可能性がある。さらに、新しい産業や技術が地域へ導入されれば、関連企業の進出や人材育成につながることも考えられる。

 企業誘致の重要な役割の一つは、地域にそれまで存在しなかった生産活動や地域外市場との取引を生み出すことである。人口が減り続ける地域では、住民の消費だけに依存している企業の市場は縮小しやすい。そのため、製造業、観光、情報サービス、農産物販売などを通じて、地域外の需要を獲得することは重要な意味を持つ。

 ただし、企業誘致だから必ず地域外から新しい所得を獲得できるわけではない。進出企業が地元の既存店舗と同じ顧客を奪い合うだけなら、地域全体の付加価値が大きく増えない場合もある。また、隣接する市町村から企業が移転してきた場合、受け入れた町では雇用や生産が増えても、周辺地域を含めた経済圏では単なる所在地の移動にとどまる可能性がある。

 一方、昔からある地元企業であっても、地域外への販売を増やし、新しい需要を獲得することはできる。その意味では、「企業誘致か地元企業支援か」という二者択一そのものが十分ではない。

 本当に重要なのは、地域外の需要を獲得できる企業を増やし、その生産活動によって生まれる価値を住民所得や地域内投資につなげることである。新しく誘致した企業でもよいし、地元企業が地域外市場へ進出してもよい。両者は本来、対立する政策とは限らないのである。

企業誘致の効果を過大評価する原因

 企業誘致を評価するときには、見落とされやすい問題がある。それは、「その企業は補助金がなくても来ていたのではないか」という問題である。

 例えば、自治体が企業に5億円相当の補助や税優遇を行い、その会社が工場を建設したとする。その後、100人の雇用が生まれたとしても、その100人すべてを政策の成果と考えてよいとは限らない。

 その企業が物流条件、土地価格、取引先との距離、人材の確保などの理由から、補助金がなくても同じ場所へ進出していたのであれば、補助金によって新たに生まれた雇用は限定的だった可能性がある。補助金によって進出時期が早まったり、投資規模が拡大したりした場合には、その変化分が政策の効果となる。

 政策評価では、「政策を実施した後に何が起きたか」だけを見るのではなく、「政策を実施しなかったら何が起きていたか」と比較しなければならない。この考え方を追加性という。

 地元企業支援でも同じである。補助金を受けた企業の売上が増えたとしても、その企業が自力で同じ設備投資を行っていたなら、増加分のすべてを政策効果として数えることはできない。さらに、成長している企業ほど支援制度へ応募しやすい場合には、支援を受けた企業の業績が良いという事実だけでは、補助金の効果を証明できない。

 統計的に政策効果を確かめるには、支援を受けた企業と、規模、業種、支援前の業績などが似ている非支援企業を比較する方法が考えられる。その際、支援前から両者の成長傾向が異なっていれば、比較結果が偏る可能性があるため、支援前後の変化を慎重に検証する必要がある。

 10社程度の小さな集団では、一社の業績変動が全体の平均値を大きく動かすこともある。支援前からの複数年間の推移、企業ごとの改善率のばらつき、地域全体の景気変動を考慮しなければ、統計的に信頼できる結論を得ることは難しい。

自治体が見るべきなのは「一円当たりの追加効果」

 企業誘致と地元企業支援を比較するには、経済効果の総額だけではなく、その成果を得るために自治体がいくら負担したのかを考える必要がある。

 例えば、企業誘致によって年間3億円の地域住民所得が増え、地元企業支援では年間2億円しか増えなかったとする。所得増加額だけを見れば企業誘致の方が大きい。しかし、企業誘致のために工業団地、道路、上下水道、補助金などへ10億円を投入し、地元企業支援では研修、設備改善、販売支援などへ1億円しか使っていなかったなら、公的資金の効率という点で評価が変わる可能性がある。

 さらに、効果の持続期間も考えなければならない。誘致企業が5年後に撤退する場合と、地元企業の経営能力向上が10年、20年にわたって効果を持つ場合では、同じ年間所得増加額でも長期的な価値は異なる。一方、地元企業への補助金が単なる設備の買い替えに終わり、企業の競争力がほとんど変わらなければ、支援を続けても大きな追加効果は期待できない。

 将来にわたる効果を比較するには、所得の増加と公的費用を現在の価値に換算する方法がある。例えば、効果が10年間一定で、将来の所得を年3%の割引率で現在価値に換算すると、年間1億円の所得増加が10年間続く場合、その現在価値の合計は約8億5,300万円となる。

 ここで、企業誘致に初期費用8億円を投入し、追加的な地域住民所得が年間1億5,000万円増える場合を考える。同じ条件で計算すると、10年間の所得増加の現在価値は約12億8,000万円となる。そこから初期公的費用8億円を差し引く単純計算では、差額は約4億8,000万円となる。

 一方、地元企業支援に1億円を投入し、年間1億円の追加所得が10年間続けば、所得増加の現在価値は約8億5,300万円であり、初期公的費用を差し引いた額は約7億5,300万円となる。この仮定では、所得増加の年間総額が小さい地元企業支援の方が、公的費用を考慮した単純な比較額は大きくなる。

 しかし、企業誘致による追加所得が年間2億5,000万円であれば、同じ計算による差額は約13億3,300万円となり、比較結果は変わる。つまり、投資額、追加所得、効果の継続期間が違えば、政策の評価も変わるのである。

 もっとも、この計算は比較方法を説明するための仮想例であり、厳密な費用便益分析ではない。実際には、公的施設の維持管理費や残存価値、補助金が企業への所得移転であること、民間投資の負担、税収、環境への影響、撤退リスクなども考慮する必要がある。自治体の財政負担と、地域社会全体の経済的な費用は同じ概念ではないため、単純に一つの金額へまとめると判断を誤る可能性もある。

 政策として重要なのは、公的資金を一円投入したことで、政策を実施しなかった場合と比べて、どれだけの追加的な経済効果が生まれ、その効果が何年間続き、どのような費用とリスクを伴ったかを明らかにすることである。

市町村、県、国では政策効果の見え方が違う

 企業誘致と既存企業支援を比較する場合、もう一つ重要なのが、どの範囲を「地域」として評価するかという問題である。

 例えば、ある町に工場が進出し、100人の新規雇用が生まれたとする。そのうち町内居住者が20人で、残り80人が近隣の市町村から通勤している場合、工場が町内で生み出した付加価値と、その町の住民が受け取る雇用所得は一致しない。しかし、周辺市町村を含む通勤圏で考えれば、地域全体の雇用への影響は異なって見える。

 同じように、ある町から隣の町へ企業が移転した場合、移転先の町では雇用や税収が増える可能性がある一方、移転元の町では減少する可能性がある。県全体で見れば、企業が県内で移動しただけで、生産活動の純増は限定的かもしれない。

 さらに、企業誘致のための費用は、市町村だけが負担するとは限らない。県や国による補助制度、税制優遇、公共施設整備などが組み合わされる場合もあり、自治体が自由に使える予算と、企業誘致のために利用できる制度の財源は必ずしも一致しない。

 また、企業立地を支援する制度は、新規進出企業だけを対象にしているわけではない。既存企業の設備投資や再投資を支援する制度もあるため、企業誘致と地元企業支援を完全に独立した政策として分類できない場合もある。

 したがって、市町村が政策を比較するときには、少なくとも住民所得への影響、町内の生産活動への影響、自治体財政への影響を区別する必要がある。広域的な産業政策を考える場合には、市町村の境界だけでなく、通勤圏や商圏を含めて分析することも重要になる。

地元企業支援にも、地域内での奪い合いがある

 地元企業支援を評価する際に見落としてはいけないのが、地域内の企業間競争である。

 例えば、町内に10軒の飲食店があり、そのうち一軒に設備投資や販売促進の支援を行ったとする。支援を受けた店の売上が20%増加しても、その増加分のほとんどが町内の別の飲食店から移っただけであれば、町全体の売上や付加価値の純増は限定的かもしれない。

 一方、観光客の利用が増えたり、地域外の顧客を獲得したり、従来は町外で消費されていた需要を町内へ取り込んだりしたのであれば、地域全体として新しい経済効果が生まれる可能性がある。

 この違いは、製造業やサービス業でも同じである。ある企業の競争力向上が地域外市場の開拓につながるのか、それとも地元企業同士の市場占有率を変えるだけなのかによって、地域全体への効果は異なる。

 したがって、10社の業績を合計するだけでは十分ではない。支援対象外の企業にどのような影響が生じたか、地域外から新しい需要を獲得したか、既存の需要を企業間で移動させただけなのかを確認する必要がある。

 地域経済政策の目的は、特定の10社を成功させること自体ではない。その支援によって、地域全体の生産、所得、雇用、経済的な安定性がどのように変化したかを評価することである。

企業を呼ぶ町より、企業が強くなる町

 地方自治体にとって、企業誘致が魅力的なのは理解できる。成果が目に見えるからである。工場が完成すれば写真を撮ることができるし、新規雇用100人と発表することもできる。それに比べれば、町工場の段取り時間が20%短縮されたことや、旅館の客室単価が8%上がったこと、運送会社の空車走行が減ったことはニュースになりにくい。

 しかし、地域経済を長期的に支える力という意味では、こうした小さな改善も重要になる可能性がある。特に人口が減少する地域では、新しい労働者を大量に確保すること自体が難しくなる。これまでと同じ人数でより大きな付加価値を生み出せる企業を増やし、その成果が賃金や利益、地域内投資へつながるなら、人口増加だけに依存しない経済発展の可能性が生まれる。

 ただし、人口が減少している地域で一人当たりの生産性が向上しても、地域経済全体の規模まで拡大するとは限らない。例えば、人口が1万人から9千人へ10%減少し、一人当たり付加価値が5%増加した場合、地域全体の付加価値額は約5.5%減少する計算になる。

 一人当たりの所得や生産性が改善することは、住民の生活水準を考えるうえで重要である。しかし、地域全体の所得や人口が減少すれば、公共サービスの維持、商業施設の存続、社会基盤の負担などに影響する可能性がある。したがって、人口減少時代の地域成長を評価する際には、一人当たりの指標と地域全体の総額の両方を見なければならない。

 さらに、地元企業が生産性を高めることは、それ自体が企業誘致の条件を改善する可能性もある。競争力のある協力企業があり、人材が育ち、物流が効率化され、地域金融機関や商工団体に経営支援の能力が蓄積されれば、外部企業にとっても進出を検討しやすい環境になるかもしれない。

 もっとも、この関係も自動的に成立するわけではない。外部企業が求める人材、土地、電力、交通条件、取引先などが地域に存在しなければ、地元企業の生産性が向上しただけで新規立地が進むとは限らない。それでも、既存企業の競争力向上と企業誘致を、互いに無関係な政策として考える必要はないだろう。

「10社の生産性を2割上げる方が得か」への答え

 では、最初の問いに戻ろう。

 企業誘致より、地元企業10社の生産性を20%上げた方が、地域経済への効果は大きいのだろうか。

 この問いに、一般的な数字だけで「はい」と答えることはできない。企業誘致によって大きな地域外需要が生まれ、地域住民の雇用や所得が増加し、地元企業との取引も広がるのであれば、企業誘致の方が大きな経済効果を生むことがある。

 一方、誘致のために大きな公的費用を負担し、従業員や利益の帰属先の多くが地域外であり、しかも補助金がなくてもその企業が進出していたのであれば、政策による追加的な効果は見かけほど大きくない可能性がある。

 逆に、地元企業10社への比較的小さな支援によって、付加価値、賃金、地域外売上、経営能力が向上し、その成果が長期間続くのであれば、地元企業支援の費用対効果が企業誘致を上回ることも考えられる。

 ただし、ここで重要なのは、生産性を20%上げるという目標が実際に達成可能かどうかである。企業の生産性は、補助金を交付しただけで計画どおりに上昇するものではない。投資の成功確率、改善に必要な時間、企業間の業績差、支援対象外の企業への影響も考慮しなければならない。

 また、地域経済への効果を比較するときには、一社対10社という企業数の違いだけでなく、企業の規模、産業、地域外需要、労働投入量、追加的な付加価値、所得の帰属、公的費用、効果の持続期間を同じ条件で評価する必要がある。

 実際の自治体政策として検証するなら、まず地域の産業構造と付加価値額、住民所得、企業間取引、通勤圏を把握し、そのうえで具体的な企業誘致案件と既存企業支援事業を比較することになる。国や自治体の公的統計は地域経済の全体像を把握するうえで有用だが、個々の企業の利益や取引構造、支援による追加的な効果まで明らかになるとは限らないため、企業調査や継続的な政策評価も必要になる。

 したがって、本当に比較すべきなのは「一社対10社」でも「誘致対地元企業」でもない。

 政策を実施しなかった場合と比べて、どれだけの付加価値が追加的に生まれ、どれだけの所得が地域住民に帰属し、地域内外の企業へどのような影響を与え、その効果が何年間続き、そのために自治体がいくら負担したのか。そこまで把握して初めて、二つの政策を同じ物差しで比較できるのである。

地方経済の成長は、大きな看板だけでは測れない

 人口が増えていた時代には、新しい工場を建て、働く人を増やし、住宅を増やすことが地域成長の分かりやすい姿だった。しかし、人口が減り、働き手も減っていく時代には、成長という言葉を複数の指標から考える必要がある。

 一万人の町を一万一千人にすることだけが成長なのではない。一万人の町が九千人になっても、一人当たりの付加価値や実質所得が高まり、企業の競争力が向上し、地域外から所得を獲得できるのであれば、住民一人当たりの経済的な豊かさが改善している可能性はある。ただし、人口減少によって地域全体の所得や市場規模が縮小する問題も残るため、一人当たりの改善だけで地域の持続可能性を判断することはできない。

 企業誘致には、大きな投資や雇用を一度に生み出せる可能性がある。しかし、地域経済は一社の成功だけで成り立っているわけではない。既存企業の経営能力、産業間の取引、人材の技能、地域外市場とのつながり、そして企業の変化に対応できる地域経済の柔軟性も、長期的な安定に関係している。

 町の中で長く営業してきた企業が少し効率よく働けるようになり、これまで捨てていた材料を減らし、少し高く売れる商品をつくり、地域外の顧客を増やし、その成果から賃金を払い、必要な設備へ再投資する。そうした変化は工場の完成式典ほど目立たないが、持続的に積み重なれば地域経済の基盤を強くする可能性がある。

 ただし、地元企業であるという理由だけで支援の効果が保証されるわけではない。企業誘致であっても既存企業支援であっても、政策の効果を客観的に測定し、想定した成果が得られなければ改善することが必要である。

 地方経済を変えるのは、遠くからやって来る巨大企業だけではない。昔から町に灯っていた10軒の明かりを、それぞれ少しずつ明るくすることによって、町全体が以前より明るくなることもある。しかし、その10軒が明るくなった一方で、別の10軒が暗くなってしまえば、町全体が豊かになったとは限らない。

 だから企業誘致のニュースを見るとき、本当に知りたい数字は「何人雇用されるのか」だけではない。その企業によって地域全体に新しくどれだけの所得が生まれるのか、地域住民の生活にどのような変化が生じるのか、そして同じ公的資金を既存企業の生産性向上へ使った場合には、どの程度の追加効果を期待できるのか。

 人口減少時代の地域経済政策に必要なのは、目立つ事業を増やすことと、目立たない改善を積み重ねることのどちらかを無条件に選ぶことではない。それぞれの政策が生み出す追加的な価値と費用を比較し、地域の産業構造や人口動態に合った組み合わせを考えることである。

 企業を呼ぶことも、企業を育てることも、それ自体が最終目的ではない。限られた人材と公的資金を使い、地域住民の所得と生活を持続的に支える経済基盤をつくることこそが、地域経済政策の本来の目的なのである。

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人口が減っても、街の骨格は小さくならない

 人口が三万人から二万人へ減ったからといって、市の面積が三分の二になるわけではない。八千人いた町が五千人になっても、山あいまで延びた道路が短くなることはなく、地中に埋められた水道管や下水道管が人口に合わせて消えてくれるわけでもない。橋はそこに架かったままであり、役場・市役所から遠い地区にもごみ収集車は向かい、誰かが倒れれば救急車が走る。人口が減少しても、それまでに整備された道路、橋梁、水道、公共施設などの物理的な骨格は、すぐには小さくならないのである。

 人口減少が地方にとって難しいのは、税収や労働力が減るという問題に加え、人口が多かった時代につくられた都市や集落の構造を、少なくなった住民と限られた財源で支え続けなければならないことにある。人口が半分になっても維持管理費が半分になるとは限らず、むしろ施設の老朽化が進めば、人口減少と更新費の増大が同時に起こる可能性がある。これまでと同じ場所に同じ施設を残し続けることが、将来の住民にとって本当に合理的なのかという問いを避けられなくなっている。

 国立社会保障・人口問題研究所が2023年12月に公表した地域別将来推計人口は、2020年の国勢調査を基礎として、原則として市区町村別に2050年までの人口を推計している。将来人口は一定の仮定に基づく推計であり、一人単位でその通りになることを保証するものではない。また、市町村全体の人口減少率が、その内部にある住宅団地や集落にも一律に当てはまるわけではない。それでも、多くの地域で人口減少と高齢化が長期的な政策課題になるという見通しには、十分な根拠がある。重要なのは、将来の人口を完全に予測することではなく、複数の人口シナリオを想定した上で、街の構造をどのように変えていくかを早い段階から検討することである。

 そこで考えたいのが、「街はどこから縮むべきなのか」という問いである。ただし、本稿でいう「撤退」は、人口の少ない地域から住民を強制的に移転させることでも、行政サービスを一方的に打ち切ることでもない。道路や水道をどの範囲まで更新するのか、公共交通をどのような方式で維持するのか、公共施設をどこへ集約するのか、新しい住宅や公共投資をどこへ誘導するのかを、住民の生活と権利を尊重しながら長い時間の中で組み替えることを意味している。さらに、比較検討した結果、現在の施設や集落を維持する方が合理的であるなら、その選択も当然含まれる。

遠い地区から撤退すれば合理的なのか

 街を地図だけで眺めるなら、答えは簡単に見えるかもしれない。役場・市役所や駅、病院、スーパーから遠い地域ほど維持管理が大変なのだから、中心部から離れた場所への投資を減らし、外側から少しずつ縮小すればよいという考え方である。中心部に施設と人口を集めれば行政効率が高まるという発想には一定の合理性があるが、中心部からの距離とインフラの維持費は必ずしも比例しない。実際の費用は、住宅の分布、道路や管路の配置、施設の状態、地形、他地区との接続関係などによって大きく変わるからである。

 架空の「朝凪市」を考えてみよう。人口三万人、面積百平方キロメートルの地方都市で、2050年には人口が一万八千人まで減るという仮定を置く。市役所と駅がある中心部から十二キロ離れたA地区には百五十人が暮らしている。一方、中心部からわずか四キロのB地区には百人が暮らしている。距離だけを見ればA地区の方が不利であり、最初に公共投資を縮小する候補として考えたくなるだろう。しかし住宅の配置とインフラの構造まで調べると、その判断が逆転する可能性がある。

 A地区では百五十人が一本の幹線道路沿いに比較的まとまって住んでいるのに対し、B地区は丘陵地に造成された住宅地で、空き家を挟みながら住宅が広く散在しているとしよう。仮にA地区で必要な水道管の延長が三キロ、B地区では六キロだとすれば、一人当たりの管路延長はA地区が二十メートル、B地区が六十メートルとなり、B地区はA地区の三倍になる。人口が少ないだけでなく、同じ住民数を支えるために必要な設備の延長が大きいことが、B地区の特徴なのである。

 もちろん、管路延長が三倍だからといって、維持管理費も正確に三倍になるわけではない。水道管の口径、材質、地盤、標高差、ポンプ設備の有無、漏水の状況、他地区へ水を供給する機能などによって費用は変化する。道路についても、単純な延長だけでなく幅員、舗装面積、交通量、橋梁や斜面対策の必要性が影響する。それでも、中心部からの距離だけでなく、一人の生活を支えるためにどれだけのインフラを必要とするのかを測定すれば、遠いA地区より近いB地区の方が高コストである可能性が見えてくる。

 ここで重要になる人口密度とは、単なる人の混み具合ではない。一定の範囲に整備された道路、水道、ごみ収集、公共交通などを、どれだけの人数で共同利用できるかに関係する指標でもある。ただし、市町村全体の人口密度が低いからといって、すべての地区の維持管理が非効率とは限らない。広大な農地や森林を含む自治体でも、実際の居住地がまとまっていれば生活インフラを比較的効率よく配置できる場合がある。反対に、市街地の面積が小さくても、住宅が斜面や谷筋へ複雑に広がっていれば、住民数に対して多くの設備が必要になることがある。

 しかし、一人当たりの管路延長や道路延長を計算しただけで、B地区を先に縮小すべきだと結論するのも早計である。例えばA地区では十年前に水道管が更新され、幹線道路の舗装も比較的新しい一方、B地区では高度経済成長期の終わりごろに整備された管路が今後十年以内に更新期を迎え、地区へ入る橋も大規模補修を必要としているとする。今年一年の維持管理費には大きな違いがなくても、今後三十年間に必要となる更新投資まで含めれば、両地区の費用構造は大きく異なる可能性がある。

 人口減少時代のインフラを考えるとき、現在の維持管理費だけでは将来の合理性を判断できない。重要なのは、人口が減少していく過程で、道路、水道、橋梁、公共施設がいつ更新期を迎え、その時点でどの程度の利用者が存在し、どのような代替方式を選べるかということである。ただし、更新期を迎えた施設を必ず全面的に造り替える必要があるわけでもない。点検結果や劣化状況によっては部分補修や延命化が合理的な場合もあり、代替方式の方がかえって高額になることもある。街の再編には地図だけでなく、施設の寿命を示す時計と、将来の選択肢を比較する計算が必要になるのである。

人口が減るほど重くなる平均費用

 ここで、人口とインフラ費用の関係をもう少し数理的に考えてみたい。ある地区の年間費用を、人口が変わっても大きく減らない固定費と、人口に応じて変化する費用に分けて考える。道路や管路の維持管理、施設の基本的な運営などには固定費的な性格があり、水の使用量やごみの排出量などには利用者数によって変動する部分がある。実際の費用構造はもっと複雑だが、この単純な区分だけでも人口減少が与える影響を理解できる。

 仮に、ある地区で人口にかかわらず年間六百万円の固定費が必要だとする。人口が五百人なら一人当たり年間一万二千円だが、百人になると六万円、五十人では十二万円になる。人口が五百人から四百五十人へ五十人減った場合、一人当たり固定費の増加率は約一一%であるのに対し、百人から五十人へ同じ五十人が減った場合には二倍になる。これは人口減少に伴って固定費そのものが増加したからではなく、変わらない費用を分担する人数が少なくなった結果である。

 数学的に見れば、固定費が一定のとき、一人当たり固定費は人口に反比例する。人口が小さくなるほど、同じ一人の減少によって一人当たりの平均費用が大きく変化するという性質を持つ。人口が半分になっても管路延長が半分になるわけではなく、橋も必要な限り一本丸ごと維持しなければならないため、人口減少が進む地区ほど平均費用の上昇が問題になりやすい。ただし、これは固定費が一定という仮定に基づく説明であり、実際には施設の廃止、共同利用、設備の縮小、管理方式の変更などによって固定費そのものを減らせる場合もある。

 ここで「平均費用」と「限界費用」は区別しなければならない。平均費用は総費用を利用者数で割ったものであり、限界費用はサービスの供給量を一単位増やすときに必要となる追加費用を指す。人口減少によって一人当たり平均費用が増加することと、限界費用が増加することは同じではない。例えば固定費が六百万円で変動費が一人当たり一定なら、人口が減って平均費用が上昇しても、利用者一人を追加するための費用が同じ割合で増えるとは限らない。撤退や再編を判断するときには、平均費用の大きさだけでなく、政策を変更した場合に実際に削減できる費用を調べる必要がある。

 この削減可能な費用を考えることは、行政の意思決定で特に重要になる。人口百人の地区に年間二千万円の費用がかかっているとしても、その地区の住宅がなくなれば二千万円すべてが節約できるとは限らない。地区内の道路が隣接地区への主要道路であったり、水道管がその先の集落へ水を送る幹線であったりすれば、居住人口が減っても維持しなければならない設備が残る。また、水道の費用は水道事業の料金収入や会計制度と関係し、道路の費用は国、県、市町村などの管理主体や財源によって負担構造が異なる。一人当たり行政費用が高いことは、必ずしもその地区の住民が同額を直接負担していることも、撤退によって同額が節約されることも意味しないのである。

 一方、人口が減ることで生活サービスが急に低下する現象も考えなければならない。固定費が一定のモデルでは一人当たり費用は連続的に増加するが、公共交通の便数や施設の存続は、必ずしも連続的に変化するわけではない。一日百人が利用するバス路線の利用者が九十人になっても、運行本数が自動的に一割減るわけではないが、需要や運転手、運行費の条件が変化すれば、五便から三便へ減便する判断が行われるかもしれない。さらに条件が悪化すれば運行方式の変更や路線廃止に至ることもあり、その時点で住民の生活利便性が大きく変化する。

 減便によって通院や買い物が難しくなれば、地域の商業施設や医療機関の利用者が減り、それらのサービスがさらに縮小する可能性もある。その結果、生活の不便さが新たな転出を促し、人口減少とサービス縮小が互いに影響し合うことになる。ただし、こうした悪循環が必ず発生するわけではなく、代替交通やサービス提供方式の工夫によって影響を抑えられる場合もある。重要なのは、人口が滑らかに減っていても、施設の閉鎖や運行本数の変更といった意思決定を境に、暮らしの条件が階段状に変わる場合があるという点である。

 したがって、「人口百人以下の地区から撤退する」という一律の基準には十分な合理性がない。百人しか住んでいなくても住宅がまとまり、施設が新しく、周辺地区とサービスを共同利用できる地域は維持しやすいかもしれない。反対に三百人いても、住宅が散在し、複数の橋や長い管路を必要とし、大規模更新が同時に迫っている地区では将来費用が高くなる可能性がある。人口規模は重要な指標だが、それだけで撤退の優先順位を決めることはできないのである。

災害リスクと生活ネットワークが判断を変える

 ここまでなら、人口密度と施設の更新費を組み合わせれば撤退順序を決められるように見える。しかし、朝凪市のA地区が海沿いの低地にあり、津波や河川氾濫による被害の危険性が比較的高い一方、B地区は浸水危険性の低い高台にあるとすれば、評価はさらに変化する。平常時の維持管理費と更新費だけならB地区の再編が有利に見えても、将来の災害による建物被害、避難の困難さ、復旧費、人的被害などを考慮すれば、A地区への新たな住宅投資を抑える方が合理的になる可能性がある。

 ただし、高台であることだけで安全性を判断することもできない。丘陵地には土砂災害や道路の寸断など別の危険性が存在する場合があり、海沿いでも地形や避難経路、防災対策によって危険性は異なる。災害リスクを比較する際には、単純な危険区域の有無だけでなく、想定される災害の規模、発生可能性、被害を受ける人口、避難可能性、復旧に要する時間などを総合的に検討する必要がある。発生確率を十分に推定できない巨大災害については、単一の期待被害額だけに頼らず、複数の被害シナリオで政策の安全性を検証することが重要になる。

 さらに、災害による生命の危険を、すべて金額に換算して比較することにも限界がある。行政費用が安いという理由だけで住民を重大な危険にさらす選択は、合理的な政策とはいえない。人命保護や避難の実効性について最低限の安全基準を設定し、その条件を満たす選択肢の中で費用を比較する方法も必要になる。つまり、行政費用を小さくすることと、災害に対する安全性を高めることは、同時に考えるべき別の政策目的なのである。

 ところが、A地区とB地区の比較には、まだ考慮すべき点が残っている。仮にB地区に診療所があり、地区住民百人だけでなく、周囲三地区の住民を含む合計五百人が利用しているとしよう。B地区への交通や道路の機能を縮小した結果、診療所の運営が難しくなった場合、影響を受ける可能性があるのはB地区の百人だけではない。周辺地区の住民にも通院時間の増加や医療アクセスの悪化が生じるかもしれず、その損失を考慮するとB地区を維持する方が合理的になる可能性がある。

 ここで重要なのは、ある地区の価値を、そこに住んでいる人数だけで評価できないということである。街には道路と水道のネットワークがあり、その上に医療、買い物、教育、公共交通、福祉といった生活サービスのネットワークが重なっている。人口の少ない地区でも、周辺地域を結ぶ道路や生活拠点があれば、地域全体にとって重要な役割を担っている場合がある。反対に、人口が比較的多い地区でも、他地区のサービスを支える機能が小さく、代替経路や代替施設が十分にあるなら、再編の影響が限定的な場合もある。

 数学のネットワーク理論で考えるなら、重要なのは各地区の人口や施設数だけではなく、ある結節点や道路を利用できなくしたとき、ネットワーク全体の機能がどれほど変化するかということである。橋一本を閉じた場合に周辺住民の迂回時間が何分増えるのか、診療所を集約した場合に通院時間が著しく長くなる住民が何人いるのか、公共交通の一部を廃止した場合に自動車を運転できない住民がどの程度影響を受けるのかを調べる。これらの評価によって、人口が少ないという理由だけでは見落としていた地区の重要性が明らかになる可能性がある。

 さらに、道路や医療、商業などの利用圏は市町村の境界と一致しない。ある自治体の住民にとって、隣の自治体の病院やスーパーの方が近く、日常的に利用しやすい場合もある。道路、救急医療、公共交通などは広域的に機能しているため、個々の市町村の財政だけを最適化した結果が、生活圏全体で最も合理的な配置になるとは限らない。特に人口規模の小さい自治体では、行政区域ごとの費用削減だけではなく、周辺自治体を含む広域的なサービス配置を検討することが重要になる。

一つの総合点では決められない撤退順序

 このように人口密度、将来の更新費、災害リスク、交通や医療のネットワークを順番に考慮すると、最初は簡単に見えた撤退順位が何度も入れ替わることになる。A地区とB地区の比較でも、中心部からの距離だけならA地区、管路延長や更新費を重視すればB地区、災害リスクを重視すれば再びA地区というように、評価する目的や条件によって結論は変わる。これらは架空の条件に基づく思考実験であって、現実の地域で同じ逆転が起きることを証明したものではないが、単純な指標だけでは合理的な判断が難しいことを示している。

 そこで必要になるのが、多目的最適化という考え方である。行政には、今後三十年間の道路、水道、公共施設などの総費用を抑えたいという目的がある一方、住民の通院や買い物に必要な時間を長くしたくないという目的もある。救急医療へのアクセスを確保し、災害時の安全性を高め、既存住民に過大な移転負担をかけないことも重要になる。しかし、これらの目的をすべて同時に最良の状態へ近づけることは難しく、ある目的を改善すると別の目的が悪化する場合がある。

 例えば行政費用だけを最小化するなら、公共施設を中心部の一か所へ集約する案が有利になるかもしれない。しかし、集約によって周辺地区の通院時間や行政手続きに必要な移動時間が増える可能性がある。反対に、すべての住民が短時間でサービスを利用できることを重視すれば、複数の地区に施設を配置する必要が生じ、今度は建物や設備、人員の維持費が増える。さらに安全性を優先すると、既存の中心市街地を拠点として維持すること自体を再検討しなければならない場合もある。

 ここで数理モデルが果たす役割は、唯一の正解を自動的に決めることではない。例えば、公共施設を集約すれば三十年間でいくら費用が減るのか、その結果として住民の移動時間が何分増えるのか、救急医療への到達時間を短くするためには追加でどの程度の投資が必要なのかを、できる限り明確にすることである。その上で、費用が少なく、生活上の負担も小さいというように、ほかの案より明らかに優れた選択肢があれば、それを優先的に検討できる。複数の目的の間で交換条件が残る場合には、どの負担をどこまで許容するのかを行政と住民が判断する必要がある。

 もっとも、人口は人、費用は円、移動時間は分、災害危険度は発生確率や被害規模で表されるため、これらを恣意的に一つの総合点へ換算することには危険がある。点数の付け方や各項目の重みを変えただけで順位が大きく入れ替わるなら、その順位だけを根拠として政策を決定することは適切ではない。また、平均移動時間が短いという結果が得られても、一部の高齢者や障害のある人、通学する子どもなどに長い移動時間や過大な負担が集中している可能性がある。住民全体の平均値だけでなく、最も条件の悪い地域や住民の状況も確認する必要がある。

 行政の意思決定には、効率性だけでなく公平性が求められる。全体の費用を減らせるとしても、特定の集落だけに著しい不利益を集中させる案が、そのまま社会的に望ましいとは限らない。移転先で住宅を確保できるか、農業や漁業などの生業を継続できるか、地域社会とのつながりが失われないかといった問題も考慮しなければならない。金額に換算しやすい行政費用だけで結論を出すのではなく、安全性や最低限の生活サービスを確保する条件を設定した上で、政策による利益と不利益が誰に生じるのかを明らかにすることが重要なのである。

何を変えるかだけでなく、いつ変えるか

 撤退順序の問題をさらに難しくするのは、人口と施設の状態が毎年変化していくことである。朝凪市でB地区の水道管が2035年に大規模更新期を迎えると予測されているなら、その年になって初めて代替方式を考えるのでは遅い可能性がある。更新までの期間を使って、現在の管路を更新する案、小規模な設備へ切り替える案、周辺地区と供給方式を再編する案などを検討し、必要な調査、設計、制度上の手続き、住民との協議を進めることが望ましい。

 また、2035年の段階でどの方式が最適になるかも、現在の情報だけでは確定しない。想定より人口減少が緩やかであれば既存設備を更新する方が合理的かもしれず、逆に人口減少が進み、技術的に優れた代替方式が実用化されれば、別の選択が有利になる可能性もある。更新期の十分前から複数の選択肢を準備し、人口、費用、技術、住民構成の変化に応じて判断を見直すことが必要になる。

 これは動的最適化の考え方に近い。現在の一回限りの判断で将来すべてを固定するのではなく、人口分布、施設の老朽化、財政、人員、住民の生活条件が時間とともに変化することを前提として、各時点の選択が将来の選択肢にどのような影響を与えるかまで考慮する方法である。例えば2026年の時点で道路を閉鎖する必要がなくても、2038年に大規模な更新費が発生する見通しなら、そこまでの約十二年間を使って代替交通や住宅政策を準備することができる。現在の施設を使い続けられる時間は、単なる猶予期間ではなく、将来の政策転換に備えるための資源にもなる。

 将来の費用を比較する場合には、支出する時期が異なることにも注意しなければならない。例えば、現在必要になる十億円と二十年後に必要になる十億円は、財政計画や資金調達の観点から同じ条件ではない。将来の支出を一定の割引率で現在価値に換算する考え方を利用すれば、更新時期の異なる政策案を比較しやすくなる。ただし、物価上昇を含む名目金額と物価変動を除いた実質金額を混在させたり、割引率を根拠なく設定したりすれば、結果を誤る可能性がある。評価期間の設定、割引率、将来の工事費、施設の残存価値などについて、条件を明示した分析が必要になる。

 さらに、施設を廃止した場合に節約できる費用だけでなく、廃止や再編によって新たに発生する費用も計算しなければならない。住宅移転を伴う場合には移転費用や住宅確保の支援が必要になり、受入地区の道路や水道、公共施設を増強しなければならない場合もある。既存施設の撤去費用や跡地管理費が発生することも考えられる。年間の維持管理費が高い地区であっても、移行に必要な費用が非常に大きければ、長期間にわたって現状を維持する方が合理的なこともある。

 ここで重要になるのは、人口や更新費の予測には必ず不確実性があるということである。人口減少率、建設工事費、施設寿命、災害、技術革新などの条件を少し変えただけで政策順位が逆転するなら、その結果を確定的な答えとして扱うべきではない。人口減少が速い場合と緩やかな場合、更新費が大きく上昇する場合と比較的安定する場合など、複数のシナリオを設定して結果を比較する必要がある。さまざまな条件の下でも極端に不利になりにくく、将来の選択肢を残せる政策は、不確実性の高い時代において重要な価値を持つ。

 また、人口分布そのものも政策の影響を受ける。公共交通を維持すれば居住を続けられる住民がいる一方、交通サービスが失われれば転出が進むかもしれない。医療、商業、住宅環境の改善によって、人口減少が予測より緩やかになる可能性もある。人口予測を固定したまま施設の最適配置を計算すると、施設配置が将来人口に与える影響を見落とすことになるため、可能であれば人口とサービスの相互作用まで考慮した分析が望ましい。

 このように考えると、撤退とは更新費が高くなった施設を順番に廃止していく政策ではないことが分かる。老朽化する施設の状態と人口減少の進み方を比較し、代替方式への移行費用を含めた長期的な効果を検証しながら、いつ、何を、どの程度変えるかを選択する政策なのである。

施設を守ることと、生活を守ることは同じではない

 水道は、この違いを考える上で分かりやすい例である。人口が増加していた時代には、大規模な浄水施設から広い範囲へ管路を延ばし、多くの利用者へ安定して水を供給する集約型の仕組みに合理性があった。しかし利用者が大きく減少した地域では、少数の住民のために長い管路を更新し続けることが、必ずしも最も効率的な方式とは限らない。技術的・制度的な条件を満たす場合には、小規模な浄水設備などを利用した分散型の供給方式を比較する余地がある。

 ただし、分散型に切り替えれば必ず費用が安くなるわけではない。設備を小規模にしても水質管理、保守点検、災害時の供給体制、運転管理などは必要であり、複数の小規模設備を維持する方が高額になる可能性もある。また、水道法には水道事業者の給水義務が規定されており、人口が少なくなったという理由だけで既存利用者への給水を一方的に打ち切れるものではない。事業計画や認可、水質基準、管理責任などの制度的条件を満たした上で、安全性と供給の継続性を確保することが前提になる。

 ここで本当に守るべきものは、水道管という設備そのものではなく、住民が安全な水を継続して利用できる状態である。同じように、路線バスという運行形態を変えずに残すことだけが目的なのではなく、自動車を運転できない住民にも必要な移動手段を確保することが目的になる。診療所という建物をすべての地区に残すことが目的なのではなく、住民が必要な医療を適切な時間内に受けられる状態を維持することが重要なのである。

 公共交通では、利用者が減ったからといって直ちに路線を廃止するのではなく、運行本数の見直し、予約型の乗合交通、複数地区を結ぶ交通、既存の輸送資源の共同利用などを比較することが考えられる。ただし、新しい交通方式にも予約受付、配車管理、車両、運転手などの費用が必要であり、必ず従来のバスより安価とは限らない。さらに、高齢者が利用する場合には、車両が存在するだけでは十分ではなく、通院や買い物に必要な時間帯に利用できるか、帰宅手段を確保できるか、運賃を負担できるかなどを確認する必要がある。

 医療についても同様である。日常的な診療や慢性疾患の管理では、身近な場所で継続的に診療を受けられることに価値がある。一方、重症救急や高度な手術などでは、医療従事者、設備、診療経験などを一定の拠点へ集約する方が合理的になる場合がある。あらゆる医療機能を各地区へ均等に置こうとすれば、限られた医師や設備が分散しすぎる可能性があるが、すべてを一か所へ集約すれば、高齢者の日常的な通院や継続的な治療が難しくなる。医療の種類や緊急性に応じて、分散すべき機能と集約すべき機能を区別する必要がある。

 特に救急医療では、病院までの直線距離よりも、発症から適切な治療が始まるまでの時間が重要になる。十キロ先の医療機関へ搬送しても必要な治療ができず、さらに別の病院へ搬送しなければならないなら、最初から専門的な治療が可能な医療機関を選ぶ方が早い場合もある。ただし、患者の状態によっては近隣の医療機関で初期治療を行うことが重要になるため、すべての患者を遠方の高度医療機関へ直接搬送すべきというわけではない。疾患、緊急度、受入能力、搬送時間などを考慮し、適切な医療へ到達するまでの時間を評価することが必要になる。

 距離よりも生活に必要な時間を重視する考え方は、医療以外にも利用できる。スーパーまで七キロ離れていても、自動車で容易に移動できる住民にとっては大きな負担にならないかもしれない。反対に二キロしか離れていなくても、坂道が多く、公共交通も利用できなければ、高齢者にとっては買い物が難しい場合がある。役場・市役所まで十キロあっても、多くの手続きをオンラインや近隣窓口で済ませられれば、行政サービスへのアクセスは維持できる。もっとも、電子的な手続きが難しい住民への支援も必要であり、単純なデジタル化だけですべての問題が解決するわけではない。

 街を地図上の距離だけでなく、必要なサービスを利用するための所要時間、費用、利用可能性によって評価すると、道路、交通、医療、商業、教育、行政が一つの生活システムとして見えてくる。人口減少時代に守るべきなのは、必ずしも既存の施設配置そのものではなく、住民が生活を維持するために必要な機能なのである。

街は円形ではなく、複数の拠点と交通の網へ変わる

 ここまでの条件を踏まえると、朝凪市の将来像は、中心部へ向かって同心円状に縮小する姿とは限らなくなる。市役所、駅、商業施設、中核的な医療機関が集まる第一の生活拠点を維持しながら、離れた地域には第二、第三の生活拠点を配置し、それらを交通や通信などで結ぶ構造が合理的な場合もある。人口の少ない地区についても直ちに居住を禁止するのではなく、施設の更新期や住宅の建替え時期に合わせて代替方式を検討し、新たな住宅や公共投資を将来もサービスを維持しやすい地域へ誘導していく方法が考えられる。

 この考え方は、国が進めてきたコンパクト・プラス・ネットワークの方向性とも整合している。立地適正化計画などの制度では、居住や医療、福祉、商業などの都市機能を適切な場所へ誘導し、公共交通と組み合わせることが重視されている。ただし、立地適正化計画は住民を強制的に移転させる制度ではなく、居住誘導区域の外側を一律に居住禁止とするものでもない。また、都市計画区域外の農山村や集落については、同じ制度だけで再編を進められるわけではなく、農村政策、公共交通政策、公共施設管理などとの連携が必要になる。

 実際に街の構造を変えるためには、行政が自由に決められることと、法律や管理責任によって制約されることを区別しなければならない。道路や橋梁にはそれぞれ管理者が存在し、水道には給水義務や事業上の手続きがあり、公共交通には運行に関する制度がある。さらに住民の居住や財産に関わる問題を、単なる費用計算だけで処理することはできない。都市計画上の居住誘導と、既存住宅の撤去やインフラの供用廃止は別の政策行為であり、それぞれ異なる制度的条件を満たす必要がある。

 だからこそ、街の再編は一つの行政部門だけで完結しない。道路、水道、都市計画、交通、医療、福祉、防災、財政などの部門が、同じ将来人口と施設の更新見通しを共有しなければ、ある部門では集約を進め、別の部門では同じ地区に大規模な新規投資を行うといった矛盾が生じる可能性がある。各施設の更新計画を個別に立てるだけでなく、地域全体の人口配置や生活拠点の将来像と整合させることが重要になる。

 また、街の再編を進める場合には、住民が将来を見通せるようにすることが欠かせない。ある地区について今後の公共投資を抑える方針を検討するなら、その理由、代替サービス、実施時期、生活への影響を明らかにしなければならない。住宅の建替えや相続、空き家化の時期などに合わせて居住誘導を進める方法は、急激な移転よりも負担を抑えられる可能性があるが、それでも住民の事情は一様ではない。高齢者や経済的に移転が難しい世帯が不利益を受けないよう、具体的な支援策と長期的な対話が必要になる。

 最終的な都市構造を地図に描けば、それは一つの中心へ向かって円形に小さくなる姿ではなく、複数の生活拠点が交通やサービスによって結ばれた、星座のような形になるかもしれない。ただし、その形がすべての自治体で正解になるわけでもない。既存中心市街地に災害リスクが集中しているなら新たな安全な拠点を育てる必要があるかもしれず、既存の集落配置が十分に効率的なら大きな再編を行わない方が合理的な場合もある。街の形は、人口規模だけでなく地形、災害、施設、産業、交通、住民の生活圏などによって決まるのである。

成り行きで縮む街と、計画的に変わる街

 ここで、最初の「街はどこから縮むべきなのか」という問いに戻りたい。中心部から最も遠い地区を最初に縮めればよいわけではなく、人口が最も少ない地区や一人当たり行政費用が最も高い地区を機械的に選べばよいわけでもない。施設の将来更新費、代替方式への移行費用、災害安全性、住民生活への影響、広域的なネットワーク上の役割を比較した上で、現状維持よりも再編した方が社会全体として望ましいと判断できるところから、段階的に構造を変えることが合理的なのである。

 さらに、ここでいう合理性は行政の財政支出が最小になることだけを意味しない。維持管理費の削減によって得られる利益から、代替設備の導入費、移転支援、生活上の不利益などを考慮し、安全性や最低限のサービス水準が確保されるかを検証しなければならない。数理モデルの役割は、どの地区を切り捨てるかを自動的に順位付けすることではなく、政策を変えた場合に何が改善し、何が悪化し、その影響がどの住民へ及ぶかを明らかにすることである。

 同時に、政策を変更しないという判断にも費用とリスクがある。道路、橋梁、水道、公共施設、公共交通のすべてを、今までと同じ場所で同じ方式のまま維持しようとすれば、限られた財源と人員が広い範囲へ配分される。その結果、必要な補修が先送りされ、水道更新が遅れ、公共交通の運行本数が減り、老朽化した公共施設が十分な機能を果たせなくなる可能性がある。施設を一つも廃止していないにもかかわらず、全体のサービス水準が徐々に低下していくという事態である。

 しかし、すべてを残そうとしてすべてを少しずつ失う可能性があるからといって、早く撤退すればよいという結論にもならない。大規模な更新費が必要になる前に十分な準備を行い、別の供給方式や交通手段へ円滑に移行できるなら、住民生活への負担を抑えながら費用を削減できる可能性がある。一方、移行費用が高く、代替手段の安全性や利便性が十分でない場合には、既存施設を修繕しながら使い続けることが適切な場合もある。必要なのは撤退を急ぐことではなく、現状維持と政策変更の双方を検証し、将来の選択肢を失わない時期に判断することである。

 成り行きで縮む街と、将来を見通して構造を変える街の違いは、ここにある。成り行きに任せれば、道路が損傷し、水道管が更新期を迎え、商店が閉店し、医師が引退し、バスの運転手が不足するたびに、住民はその変化への対応を迫られる。これに対して計画的な再編では、人口の将来見通しと施設の更新時期を事前に把握し、複数の代替案を用意しながら、必要なサービスが突然失われる事態を避けようとする。ただし、計画を立てること自体が成功を保証するわけではなく、実施後も人口、費用、生活への影響を継続的に測定し、必要に応じて方針を修正する仕組みが不可欠である。

 人口三万人の市が一万八千人になっても、住民の生活水準まで機械的に五分の三になるわけではない。人口八千人の町が五千人になったとしても、生活機能の維持に必要な費用やサービス水準が、人口比率だけで決まることはない。人口が減少しても、施設の共同利用、技術の変更、広域連携、交通手段の再編などによって、生活の質を維持できる可能性はある。ただし、その実現可能性は地域によって異なり、人口減少が著しい地区では従来と同等のサービスを維持することが困難な場合もある。重要なのは、人口を維持することと、生活の質を維持することを同じ問題として扱わないことである。

 人口増加時代の街づくりでは、新しい道路を延ばし、住宅地を広げ、公共施設を建設することが大きな政策課題だった。しかし、人口減少時代には、既存の施設をいつまで利用し、何を共同化し、どこへ機能を集約し、どのサービスを別の方式へ転換するのかという、異なる種類の意思決定が必要になる。それは単に建設の反対を行うことではなく、人口、距離、費用、時間、災害、医療、交通、住民の生活条件を重ね合わせて、限られた資源から得られる社会的な利益を高めようとする政策技術なのである。

 街を縮めるという言葉には、何かを失い、地域を切り捨てるような印象がある。しかし数理的に考えるなら、目的は単純な縮小そのものではない。既存の構造を維持する場合と変更する場合を客観的に比較し、限られた人口、財源、人材の中で、できるだけ多くの住民が安全に暮らし続けられる条件を探すことにある。そのためには、残すべき施設と変更すべき施設を区別するだけでなく、いつ判断し、どの順序で移行し、どのような生活上の負担を防ぐのかまで計画しなければならない。

 そして、最も重要なのは、撤退を最初から正解と決めつけないことである。分析の結果、ある地区では施設を集約する方が合理的であり、別の地区では分散型のサービスへ移行する方がよく、さらに別の地区では従来のインフラを維持することが最も望ましいという結論になるかもしれない。人口減少社会に必要なのは、すべての地区を同じ基準で順位付けする数学ではなく、地域ごとに異なる条件の下で、複数の将来像を比較し、変化する状況に応じて選択を見直す数学なのである。

 街を縮める目的は、どこを捨てるかを決めることではない。限られた人口と財源の中で、何を、どこに、どのような形で残すことができるのかを明らかにすることである。 人口増加時代が街を広げるための計画技術を必要としたのだとすれば、人口減少時代には、既存の構造を見直しながら生活の機能を守るための計画技術が必要になる。それは住民の暮らしを単純に小さくするためではなく、街の形が変わっても、安全と生活の質をできる限り維持するための数学なのである。

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