地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

「壊れた」ことより、「誰に頼めばよいのか分からない」ことの方が困る

 玄関のドアを閉めようとすると枠に少し当たり、以前より力を入れなければ閉まらなくなったり、台風が過ぎた翌朝に外へ出ると雨どいが途中から外れてぶら下がっていたり、洗面所の扉が蝶番の緩みで少しずつ傾いてきたりすることは、家そのものを建て替えなければならないほど重大な故障ではないため、住んでいる人も最初は「そのうち直してもらえばよい」と考えがちだが、いざ修理を頼もうとした時、故障そのものより難しい問題として現れてくるのが、「いったい誰に頼めばよいのか分からない」ということである。

 家を建てた工務店はすでに廃業し、以前近所にいた大工は高齢になって仕事を減らし、昔なら電話1本で「時間がある時に見に来てください」と頼めた相手がいなくなっている一方、インターネットで検索すれば住宅修理を掲げる会社はいくつも見つかるものの、「こんな小さな仕事を頼んでもよいのだろうか」「遠方から来てもらえば出張料はいくらになるのか」「知らない事業者を自宅へ入れて大丈夫なのか」といった新しい不安も生まれるため、家の故障を直す技術が世の中から消えたわけではないのに、それを自分の家まで届けてもらうことが難しくなりつつある。

 かつて住宅の小さな不具合は、技術だけによって解決されていたのではなく、「近所の大工さんにちょっと見てもらう」という地域の人間関係によっても支えられていたのであり、職人の高齢化や工務店の廃業が進むということは、単に施工できる人が減るだけではなく、住民が困った時に最初に相談できる入口そのものが少しずつ失われていくことを意味している。

建設業の人手不足は、すでに数字として表れている

 この問題を考えるうえで、まず確認しておかなければならないのは、建設業の担い手不足が単なる印象論ではないということであり、国土交通省と厚生労働省が2026年9月に示した資料では、建設技能者のうち60歳以上が約4分の1を占める一方、29歳以下は約12%にとどまっており、高齢層の比率が高い状態で世代交代を進めなければならないという構造的な課題が続いている。

 さらに労働市場を見ると、2024年度の有効求人倍率は全職業では1.25倍だったのに対し、建設躯体工事従事者では8.56倍、土木作業従事者では6.10倍、建築・土木・測量技術者では5.58倍、その他の建設従事者では4.59倍、電気工事従事者でも3.30倍となっており、職種による差はあるものの、建設関係では求人数に対して仕事を求める人が少ない状態がかなり明瞭に表れている。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、この数字が「雨どいを直してくれる職人」や「ドアを調整してくれる大工」だけを取り出した統計ではなく、建設関係職種全体の数字だということであるため、全国で小規模住宅修繕の事業者が何%減少したのかまで直接証明することはできないものの、少なくとも小修繕を担う人たちも、人材確保が難しい建設産業全体の中で仕事をしているという背景は無視できない。

なぜ「30分で直る仕事」ほど頼みにくくなるのか

 小さな住宅修繕には少し奇妙な経済構造があり、難しい工事だから頼みにくいのではなく、場合によっては簡単に終わる仕事だからこそ事業者にとって優先順位を上げにくくなることがあるが、その理由は、実際に工具を使っている時間だけを見ていては理解できない。

 例えば、現場に到着してから30分で終わるドア調整があったとしても、事業者側では電話やメールで症状を確認し、訪問日時を調整し、必要な工具や部品を準備し、車で現場まで移動し、駐車場所を確保し、状態を確認してから作業を行い、終了後には代金の精算や記録などの事務処理まで必要になるため、現場での作業が30分で済んだからといって、その仕事に費やす時間全体が30分で済むわけではない。

 この構造を単純化して考えれば、住宅修繕の費用には、移動や受付、日程調整といった仕事の大きさにかかわらず発生する固定的な費用と、実際の作業時間や材料量に応じて増減する費用があり、工事が小さくなれば作業時間や材料費は減っても、現場へ行くための固定的な費用までは同じ割合で小さくならないため、工事金額が小さいほど売上に占める移動や調整の比率が高くなりやすい。

 したがって、人手が十分にあり、地域の付き合いの中で小さな仕事を引き受ける余裕があった時代には成立していた修繕でも、職人の予定が埋まりやすくなれば、同じ半日を使うのであれば複数の小さな仕事を回るより、まとまった工事を優先するという経営判断が生じやすくなり、これは職人が不親切になったというより、限られた人員と時間の中で事業を継続するために起こる経済的な選択と考えた方が現実に近い。

本当に失われるのは「人数」だけではなく「見れば分かる経験」である

 建設業の高齢化を考える時、単純に「働く人が減る」とだけ捉えると重要な部分を見落とすことになり、とりわけ既存住宅の修繕では、新築工事のように新しい材料を図面どおりに組み立てれば済むとは限らず、目の前にある家を見ながら、どこで何が起きているのかを推測する力が必要になる。

 例えば、ドアが閉まりにくいという1つの症状でも、蝶番が緩んでいるだけなのか、建具そのものが湿気などで変形しているのか、枠に問題があるのか、それとも建物側の変形が関係しているのかによって対応は異なるため、「とりあえず蝶番を締めれば終わり」とは限らず、実際には築年数、材料、使われ方、これまでの修理履歴などを見ながら原因を絞り込んでいく必要がある。

 こうした判断力は、資格試験や教科書だけで完全に身につくものではなく、さまざまな住宅を長年見てきた経験によって磨かれる部分が大きいため、高齢の職人が引退するということは、単に1人分の労働力が減るだけではなく、「この家のこの症状なら、まずここを見る」という地域に蓄積された経験知が失われることでもあり、小修繕の問題を考える際には、人数だけでなく技能の継承まで見る必要がある。

小さな不具合を放置すると、修繕範囲が広がることがある

 雨どいが一部外れていても、晴れた日には生活へ直接影響しないため、そのまま何週間も放置されることがあるが、雨が降れば本来は雨どいを通って排水されるはずの水が外壁や軒先、家の周囲へ落ちる可能性があり、その状態が長く続けば、住宅の構造や外壁材、雨量などによって程度は異なるものの、周辺部分の劣化を促す要因になることがある。

 ドアについても同様で、蝶番の緩みやわずかなずれの段階なら小さな調整で改善できることがある一方、「まだ閉まるから」と力を入れて使い続ければ、蝶番や枠など別の部分に余分な負荷がかかることもあり、住宅の不具合は必ず大きな故障へ発展するわけではないものの、初期段階で点検や補修を行った方が修理範囲を小さく抑えられる場合があるというのは、住宅の維持管理という観点から見ても合理的である。

 ところが、小さな修繕を頼める相手が減れば、住民に修理する意思があっても依頼先を探している間に時間が過ぎ、結果として簡単な補修で済んだ可能性のある不具合が周辺へ広がってしまうことも考えられるため、住宅にも人間の医療における「かかりつけ医」に似た、重大な故障になる前の段階で相談できる存在があることには大きな意味がある。

高齢化する地域では、小修繕が生活継続の条件になる

 住宅の小さな不具合の中には、自分で修理できるものも存在するが、雨どいの確認や屋根周辺の作業のように脚立やはしごを使用する作業には転落の危険があり、とりわけ加齢によって筋力やバランス能力が低下した人にとっては、故障そのものより「自分で確認しに行くこと」の方が危険になることがあるため、何でも自分で直すことを前提にするのは現実的ではない。

 高齢者の家庭内事故では脚立や踏み台に関係する転倒・転落事故も問題とされていることを考えれば、高齢化が進む地域ほど、住宅の小さな修繕を専門の人へ頼める環境を維持する意味は大きくなり、今後は住宅修繕を単なる建築サービスとしてではなく、高齢者が自宅で安全に暮らし続けるための生活支援の一部として考える必要も出てくる。

 さらに人口密度の低い地域では、1軒の小修繕のために職人が長い距離を移動しなければならないことがあり、工事金額が小さいほど移動時間の比重が大きくなるため、小口の住宅修繕サービスを事業として維持しにくくなる可能性があるが、人口減少地域で実際に小修繕業者がどの程度減少しているのかを直接示す全国統計は十分ではないため、「人口減少地域では必ず職人がいなくなる」と断定するのではなく、人口の分散と移動コストが小修繕の採算を悪化させる要因になり得ると考えるのが適切である。

空き家900万戸の時代に、本当に必要なのは「新しく建てる人」だけではない

 2023年の住宅・土地統計調査では、日本全国の空き家は900万2,000戸、空き家率は13.8%となり、空き家数も空き家率も過去最高となったが、この数字から直接「空き家が増えたから職人が不足する」と結論づけることはできないものの、日本に築年数を重ねた膨大な住宅ストックが存在していることは明らかであり、今後の住宅政策を新築だけで考えることが難しくなっていることを示している。

 人が住んでいる既存住宅は、古くなったからといって一度にすべてを交換するわけではなく、雨どいを補修し、建具を調整し、外壁を直し、給湯設備を交換しながら少しずつ使い続けていくため、既存住宅を長期間利用する社会を目指すのであれば、それを点検し、補修し、必要な時に修繕する人や仕組みも同時に維持しなければならない。

 日本の住宅政策でも、住宅を適切に維持管理しながら長く使う方向が重視されているが、建物の長寿命化だけを進めても、実際に不具合を見つけて手を入れる技能者がいなくなれば、その住宅を良好な状態に保つことは難しいため、これから重要になるのは「何戸新築するか」だけではなく、「すでに存在する住宅を誰が直し続けるのか」という視点である。

大手企業やインターネットサービスがあれば解決するのか

 地域の職人が減少するのであれば、大手住宅会社、ホームセンター、住宅設備会社、インターネット経由の修理サービスなどがその役割を代替すればよいようにも思えるが、こうしたサービスには料金や受付方法が分かりやすく、従来の地域の人間関係を持たない人でも依頼しやすいという大きな利点がある一方で、受付窓口を全国規模にできたとしても、実際の修理まで画面の中だけで完結するわけではない。

 住宅修繕では、利用者がスマートフォンで故障部分の写真を送り、人工知能を使って原因の候補を絞り込み、予約や見積もり、部品手配を効率化することは可能であり、こうしたデジタル化によって1人の職人が処理できる案件数を増やせる可能性もあるが、最終的に雨どいへ金具を取り付けたり、ゆがんだ建具を調整したり、壊れた部品を交換したりする作業には、現場へ行く人間が必要である。

 したがって、大手企業やデジタルサービスは小修繕問題を軽減する重要な手段にはなり得るものの、地域に実際に動ける施工者が不足した場合に、その不足を完全に消してしまうものではなく、住宅修繕は情報部分を遠隔化できても、最後の物理的な作業までは遠隔化できない仕事なのである。

「部品代1,000円なのに修理代1万円」は本当に高いのか

 小さな住宅修繕がこれからも地域に残るかどうかを考える時、利用者側にも料金に対する見方の変化が必要になる可能性があり、例えば交換する金具そのものが1,000円程度であっても、出張料や作業料を含めて1万円を超える請求になれば「部品は安いのに、なぜこんなに高いのか」と感じる人は少なくないが、実際に購入しているのは部品そのものだけではない。

 その金額の中には、症状を判断する知識、工具や部品を積んで現場へ移動する時間、事故を起こさず施工するための技能、作業後に不具合が生じた場合の責任、さらに受付や会計といった事務作業まで含まれており、小さな修繕ほど材料費よりも「人が現場まで来るための費用」の割合が高くなるため、作業時間や部品価格だけを基準に料金を評価すると、利用者と事業者の間で大きな感覚のずれが生じる。

 無料見積もりや無料出張を当然の前提として小さな仕事にまで求め続ければ、利用者にとっては便利であっても、事業者側では採算を確保できず、その結果として小修繕そのものを受け付けなくなる可能性もあるため、これからは「30分の作業にいくら払うか」ではなく、「困った時に家まで来て、適切に判断して直してくれる体制を地域に残すために、いくら必要なのか」という視点も重要になってくる。

「何でも直せる人」より、「最初に相談できる人」が必要になる

 住宅修繕を考えると、「昔の大工のように何でも直せる人を増やせばよい」と考えたくなるが、現代の住宅設備は専門化しており、工事の種類によって資格や事業者指定が必要になるものもあるため、1人が住宅に関するすべての工事を施工することを前提にするのは現実的ではなく、例えば電気工事には電気工事士資格が必要となる工事があり、給水装置工事についても指定給水装置工事事業者制度が存在する。

 そのため、これから地域で重要になるのは「何でも自分で工事する人」ではなく、まず住宅の状態を見て、簡単な調整や補修で済むのか、それとも専門的な工事が必要なのかを判断し、自分で施工できる範囲なら対応し、資格や指定が必要な工事であれば適切な専門事業者へつなぐことのできる人である。

 昔の工務店や地域の大工は、制度として意識していたわけではなくても、結果としてこうした役割を担っており、雨漏りなら屋根職人へ、電気なら電気工事業者へ、建具なら自分で直すというように、住民にとっては「あの人に聞けば、次に誰へ頼めばよいか分かる」という入口になっていたため、職人の高齢化や工務店の廃業によって失われつつあるのは、個別の施工能力だけではなく、この住宅修繕の案内役としての機能でもある。

小さな仕事を「1件ずつの採算」だけで考えない仕組みも必要になる

 小修繕が採算面で不利になりやすいのであれば、1件の依頼ごとに職人が遠くから訪問する仕組みだけでなく、同じ地域の複数の修繕依頼をまとめて訪問する方法や、住宅の定期点検と簡単な補修を組み合わせる方法、複数の職種が情報を共有して必要な専門職へつなぐ方法など、小さな仕事をまとめて成立させる仕組みを考える余地がある。

 例えば、ある地域で月に1度だけ小修繕をまとめて受け付け、同じ日に複数の住宅を巡回できれば、1件ごとに往復する場合より移動時間を減らせる可能性があり、完全に昔の「近所の大工さん」の世界へ戻ることはできなくても、移動や受付を共同化することで、小さな住宅修繕を事業として残せる可能性は高まる。

 これは行政がすべての修繕を直接担うという話ではなく、地域の工務店、専門職、ホームセンター、管理会社などを住民が見つけやすくし、資格が必要な仕事とそうでない仕事を適切に振り分け、小口の仕事でも効率的に回れる環境を作るということであり、人口減少地域ほど、こうした「仕事をまとめる仕組み」そのものが新しい地域インフラになる可能性がある。

家は突然壊れるのではなく、「少し困る」が積み重なって古くなる

 住宅問題というと、空き家、耐震化、災害対策、新築価格の上昇といった大きな問題が注目されやすいが、実際に人が暮らしている家で最初に起こるのは、もっと小さな変化であり、ドアの閉まり方が以前より悪くなり、雨どいが少し傾き、網戸が破れ、蛇口から少量の水が漏れるというように、住宅はある日突然使えなくなるのではなく、「まだ使えるけれど少し困る」という状態を何度も繰り返しながら古くなっていく。

 だからこそ、既存住宅を長く使う社会で重要なのは、大規模な改修工事を施工できる会社だけではなく、「この程度の故障でも相談してよい」と思える相手が存在し、その人が自分で直せない場合でも適切な専門職へつないでくれることであり、小さな不具合を小さいうちに処理できる環境が、結果として住宅を長く使うための土台になる。

 「ドアが閉まらない」「雨どいが外れた」という1軒の家の出来事だけを見れば、国家的な問題とは到底思えないが、日本各地で同じような相談を受けてくれる人が減り、住民が修理したいと思っても依頼先を見つけられない状態が広がれば、それは単なる1軒の故障ではなく、住宅を維持する社会的な仕組みの問題へ変わっていく。

 新しい家を建てることのできる社会であっても、すでに建っている家の小さな傷みを直せなければ、人はその住宅に長く住み続けることが難しくなるため、これから地域から失わせてはいけないものは、単に「職人の人数」ではなく、壊れかけた住宅を見つけ、小さいうちに手を入れ、必要なら次の専門家へつなぎながら、「まだ使える家」を「これからも使える家」へ戻していく仕組みそのものなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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水路は、造っただけでは水路であり続けない

 田舎を歩いていると、道路の脇や田畑の間を細い水路が走っている。雨が降れば水を逃がし、田植えの季節には農地へ水を運び、普段は何事もなかったように風景の一部へ溶け込んでいるため、それを維持するために毎年どれほどの人手が費やされているのかを意識する機会は少ない。しかし、水路はコンクリートで造った瞬間から半永久的に働き続ける設備ではなく、落ち葉が入り、土砂がたまり、草が伸び、枝が落ち、年月がたてば壁面が劣化し、大雨が来れば一度の出水で流れが変わることさえある。

 それでも日本の農村や郊外では、長いあいだ多くの水路が機能してきた。その理由は、水路そのものが特別に壊れにくかったからではなく、春になれば草を刈り、梅雨の前には泥を上げ、大雨の後には詰まりを見に行く人がいたからである。行政の資料には水路の延長や施設数は記録されても、毎年そこへ長靴で入り、スコップを持って泥を上げてきた人の労働までは、同じようには数字に残らない。

 地域の水路を支えてきたものは、コンクリートだけではなく、人間の手だったのである。

「誰の水路なのか」と「誰が掃除してきたのか」は、必ずしも同じではない

 水路の問題を複雑にしているのは、私たちが日常的に「水路」と一括して呼んでいるものが、制度上は一種類ではないことである。農地へ水を送る農業用水路もあれば、田畑や住宅地から雨水を逃がす排水路もあり、市町村が管理するもの、土地改良区が管理するもの、地域で共同管理されてきた末端水路、昔からの公共物を起源とする水路など、その位置付けと管理主体は場所によって異なっている。

 ところが現場では、法律上の管理区分とは別の論理で水路が守られてきた地域も少なくない。「この水路は誰の所有物か」と毎回確認してから草を刈るのではなく、「昔からここはみんなでやっているから」という地域の慣行によって手入れが続けられてきたため、制度上の管理者と日常的に維持作業をする人とが一致しない場合がある。

 この仕組みは、地域に十分な人口と共同作業の担い手がいた時代には合理的だった。数十人が少しずつ労力を出せば一人当たりの負担は大きくならず、農業者にとっては農業施設を守る作業となり、農業をしていない住民にとっても雨水排水や地域環境の維持につながるため、水路清掃は農業と生活の境界にある地域共同体の仕事として成り立ってきた。

 しかし、その前提となっていた人の数と年齢構成が変わり始めている。

人口が減っても、水路の長さまで同じ割合で減るわけではない

 人口減少社会には、インフラ維持の面で厄介な特徴がある。住民が半分になったからといって道路が半分になるわけではなく、水路も半分にはならないため、同じ延長、同じ作業量をより少ない人数で支えることになれば、一人当たりの負担は増えていく。

 必要な年間作業量が変わらないと仮定すれば、一人当たりの作業負担は単純に「総作業量を参加人数で割った値」になる。たとえば三十人で行っていた作業を十五人で行えば一人当たりの負担は二倍になり、人口が二五%減って参加者も同じ割合で減れば、一人当たりの負担は約三三%増える計算になる。

 現実には、さらに高齢化が重なるため、居住人口と実際に草刈りや泥上げをできる人数は同じようには減らない。住民数が三分の二になっても、重い作業のできる人が半分以下になれば、現場の負担は人口減少率以上に増える可能性がある。

 この問題は印象論だけではない。農林水産省の分析では、農業用用排水路を集落で保全・管理している割合は、集落人口一人から九人では四〇・七%であるのに対し、百人から百四十九人では八二・九%となっており、極めて小規模な集落では保全割合が大きく低下している。また、高齢化率が高い集落ほど保全割合が低くなる傾向も確認されている。

 ただし、ここで一つ注意しなければならないことがある。こうした数字は、「人口が減れば必ず水路管理が崩壊する」と証明する実験結果ではなく、小規模化や高齢化と保全活動との間に強い関連が見られるという観察統計である。山間部か平地か、水路の長さや地形、土地改良区の体制、農業者数など他の要因も関係するため、人口減少だけを唯一の原因と断定することはできない。

 それでも、地域の人数が一定規模を下回るほど共同管理が難しくなるという構造そのものは、複数の統計からかなり明瞭に見えている。

全国一律に崩れているわけではない。それでも構造的な弱さは残る

 人口減少と高齢化が進んでいると聞くと、全国で水路の保全活動が年々低下しているように思えるかもしれない。しかし、全国集計を見ると事情はもう少し複雑であり、農業用用排水路を保全している農業集落の割合は二〇一五年から二〇二〇年にかけてむしろ上昇しており、二〇二五年農林業センサスでも、保全に取り組んでいない集落の割合は五年前より低下している。

 これは人口減少の影響が存在しないことを意味するのではない。むしろ、多面的機能支払交付金による支援、活動組織の広域化、農業者以外の参加、外部委託などによって、従来の地域共同作業だけでは維持しにくくなった部分を制度的に補っていると考えた方が実態に近い。

 したがって、現在起きていることを「日本中の水路管理が一斉に崩壊している」と表現するのは正確ではない。より正確なのは、従来型の住民共同管理が小規模集落ほど不安定になり、その弱さを別の制度や広域的な仕組みで補う時代へ移っている、ということである。

最後の一人が辞めた瞬間、「無料だった仕事」に値段がつく

 地域共同作業には、会計数字から見えにくい特徴がある。住民二十人が四時間ずつ水路を掃除すれば、合計八十時間の労働が投入されているが、住民が無償で行えば行政の歳出にはその八十時間分の費用が現れない。しかし労働そのものが存在しなかったわけではなく、その仕事を住民ができなくなれば、誰かが代わって同じ作業をしなければならない。

 ここに人口減少社会のインフラ問題の核心がある。これまで安く維持できていたように見えたものの中には、本当に費用が安かったのではなく、地域住民の無償労働によって費用が表面化していなかったものがある。

 草刈りや泥上げを民間業者へ委託すれば、単なる作業者の人件費だけでなく、機械、車両、燃料、運搬、処分、安全管理、保険、現場管理などの費用が発生する。これまで自治会や集落の共同作業として処理されていた仕事が、外部委託へ切り替わった瞬間、初めて明確な金額として見えるようになるのである。

 最後の一人がスコップを置いた日、水路に新しい費用が突然生まれるわけではない。それまで人々の善意と慣行の中に隠れていた費用が、請求書という形で姿を現すのである。

では、市町村が全部やればよいのか

 地域住民ができなくなったのなら、市町村が維持すればよいと考えるのは自然である。しかし、現実にはすべての水路が市町村管理ではなく、農業用施設であれば土地改良区などが関わる場合もあり、末端では地域共同管理が組み込まれていることもあるため、「水路だから市役所」という一本の線では整理できない。

 さらに自治体自身も人口減少の影響を受けている。市区町村の土木部門職員数は、一九九六年の約十二万四千人から二〇二五年には約九万一千人へ減少しており、約四分の一が減った計算になる。全国の市区町村の中には技術系職員がごく少数しかいない自治体も多く、技術系職員が一人もいない自治体も存在している。

 その一方で、自治体が維持しなければならない対象は水路だけではない。道路、橋、公園、上下水道、公共施設など大量の社会資本が老朽化しており、大雨や災害への対応も求められるため、地域が担えなくなった作業をすべて行政へそのまま移す方法には、人的にも財政的にも明確な制約がある。

 問題は、「行政がやるか、住民がやるか」という二者択一ではない。人口が多かった時代につくられた役割分担を、人口の少ない時代にどう組み替えるかという問題なのである。

水路は、農家だけのものではなくなっている

 農業用水路という言葉を聞けば、農業をしていない住民には関係がないように感じられるかもしれない。しかし現実には、農業水利施設の中には農業生産だけでなく、雨水排水や地域の防災、生活環境の維持に関わっているものがある。

 かつて田畑の間だけを流れていた排水路の周囲に住宅が建ち、その水路が住宅地から流れ込む雨水を受けている場所もある。農業者が減っても、雨が降らなくなるわけではなく、周囲に住宅が残っていれば排水機能の必要性は続くため、「農業者が減ったから農業者だけで管理すればよい」という考え方は次第に現実と合わなくなる。

 ここに新しい不均衡が生まれる。農業者数が減少して農業上の直接的な受益者が少なくなっても、水路の排水、防災、環境保全といった機能まで同じ割合で縮小するとは限らないからである。

 農業のためにつくられた水路が、長い年月の中で地域全体の生活を守る水路にもなっているのであれば、その維持管理を農家だけの問題として扱い続けることには限界がある。

国も「従来の役割分担だけでは続かない」と考え始めた

 こうした状況を背景として、国の制度も変わり始めている。これまでも地域住民が水路や農道を共同で維持する活動への支援は行われてきたが、人口減少や高齢化が進む中で、基幹的な農業水利施設は土地改良区が管理し、末端水路は集落や地域住民が管理するという従来型の役割分担だけでは持続が難しい地域があることが、政策上の課題として明確に意識されるようになった。

 二〇二五年四月に施行された改正土地改良法では、「連携管理保全計画」という仕組みが設けられ、土地改良区、市町村、その他の関係者が将来の農業水利施設の管理について連携し、役割分担を考える制度が整えられた。

 重要なのは制度名そのものではない。「誰かがこれまでどおり掃除してくれる」という前提から離れ、十年後、二十年後に誰が管理するのかを、まだ人がいるうちに考えなければならない段階へ入ったということである。

 水路の草刈りという一見小さな問題は、人口減少社会における公共サービスを誰が担い、費用をどう分けるのかという、はるかに大きな問題の縮図になっている。

「全部を昔のまま守る」ことが最適とは限らない

 人口が増え続けた時代には、新しい道路を造り、水路を延ばし、住宅地を広げることが地域の発展と考えられてきた。しかし人口が減る時代には、造ることよりも、すでに存在する施設のうち何を残し、誰が、どこまで維持するのかを決めることの方が難しくなる。

 すべての水路を従来と同じ頻度、同じ方法、同じ組織で維持し続けることが合理的とは限らない。農地利用が大きく変わった場所なら水路網そのものを見直す余地があり、開水路を管路化したり、草刈りの負担を減らすよう法面を改修したり、複数の小さな管理組織を広域化したりする方法も考えられる。ICT(Information and Communication Technology・情報通信技術)や遠隔監視を活用し、見回りの負担を減らす方法も今後は増えていくだろう。

 ただし、技術を導入すれば人間が不要になるわけではない。カメラが詰まりを発見しても泥を取り除く人は必要であり、機械で草を刈っても機械を動かす人は必要になる。人口減少への対応とは、人間を完全に機械へ置き換えることではなく、少なくなった人間でも維持できるように、施設と作業方法と役割分担を同時に作り直すことである。

水路の底にたまっているのは、泥だけではない

 毎年の水路清掃は、一見すると単純な地域行事である。長靴を履き、スコップを持ち、草を刈り、泥を上げ、終われば家へ帰るという作業が毎年繰り返されてきたため、それを「地域インフラを支える社会システム」と考える人は多くなかっただろう。

 しかし、その何気ない共同作業の中には、長い時間をかけて蓄積された地域の知識が存在している。どこに泥がたまりやすいか、どの雨量になると水があふれるか、どの場所の草を先に刈らなければならないか、どの水門をどの順番で確認するかといった知識は、必ずしも設計図や台帳の中に記録されているとは限らない。

 統計上は「共同管理されている」と分類されていても、現場の協力関係が実際には弱くなっている地域が存在することを示した研究もある。数字だけを見て「管理されているから大丈夫」と考えることには危険があり、管理の有無だけでなく、実際に誰が、何人で、どの頻度で、どこまで作業しているのかを見る必要がある。

 人が一人ずついなくなるとき、失われるのは単なる労働力だけではない。「この水路はここが危ない」という地域の記憶も同時に消えていくのである。

「誰かがやるだろう」が通用しなくなる前に

 地域のインフラは、壊れた日に突然問題になるように見える。しかし実際には、そのずっと前から静かに維持能力が失われ始めている。水路の場合、その最初の兆候はコンクリートのひび割れではなく、水路清掃の日に集まる人が一人減ることなのかもしれない。

 昨年まで十二人だった作業が今年は九人になり、その数年後には六人になる。それでも水は流れているため、表面上は何も起きていないように見えるが、同じ長さの水路を六人で守るなら、一人当たりの負担は確実に増えている。負担が重くなれば参加できない人が増え、参加者が減れば残った人の負担がさらに増えるため、共同管理にはある段階から急速に維持が難しくなる危険がある。

 ただし、日本全国が同じ速度でそこへ向かっているわけではない。外部支援によって維持できている地域もあれば、複数集落で協力している地域もあり、非農業者や民間事業者が参加して新しい形を作っている地域もある。だからこそ必要なのは、「もう無理だ」と諦めることでも、「昔どおり頑張ればよい」と精神論で押し切ることでもなく、地域ごとの現実を数字と現場の両方から見極めることである。

 地域の水路を掃除する人がいなくなったら、誰が維持するのか。その答えは、「自治体」「土地改良区」「農家」「住民」のどれか一つではないだろう。水路が農業、排水、防災、生活環境のどの機能を担っているのかを確認し、その重要度と必要な作業量を把握した上で、地域住民、農業者、土地改良区、自治体、民間事業者などの間で、費用と労力を現実的に組み直していく必要がある。

 そして、その議論を始めるべき時期は、水路が詰まり、大雨の夜に初めて困ってからではない。まだ地域の中に、「昔はここから先を先に掃除したんだ」と教えてくれる人が残っている今なのである。

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 人口が減っていく町では、人間の姿が少なくなるだけではなく、人と人とが偶然に出会う機会まで少なくなっていく。子どもの声が聞こえなくなり、商店のシャッターが閉まり、夕方になっても道を歩く人がほとんどいない町では、かつてなら買い物や通勤、学校への送り迎えの途中で自然に生まれていた「おはようございます」や「今日は寒いですね」という短い会話さえ、少しずつ失われていく。高齢化とは住民の平均年齢が上がる現象であると同時に、仕事や子育てを終えた人が増え、日常生活の中に埋め込まれていた役割や外出の理由が減っていく現象でもある。

 そこへ一匹の犬を迎えると、暮らしの時間の使い方が変わる。朝になれば餌を用意し、水を替え、首輪をつけて外へ連れ出さなければならず、雨が降っていても、少し気分が乗らなくても、犬はこちらの都合だけでは一日を過ごしてくれない。昨日と同じ道を歩いていると向こうから別の犬を連れた人がやって来て、「何歳ですか」「今日は寒いですね」と言葉を交わすようになり、初めは犬の名前しか知らなかった相手を、何度も会ううちに顔なじみとして覚えていくこともある。

 この光景だけを見て、「犬を飼えば高齢者は幸福になる」と結論づけることはできない。それでも、犬を飼うことが人間の行動を変えるという点には、一定の科学的な裏付けがある。日本の地域在住高齢者を対象にした研究では、犬の飼育経験と歩行活動や身体機能との間に統計的な関連が確認されており、海外を含む研究をまとめた近年の総合的な検討でも、犬を飼っている高齢者では犬の散歩に伴う身体活動が多いという傾向が比較的一貫している。ただし、もともと健康で歩ける人だから犬を飼えるという逆方向の可能性もあるため、「犬を飼えば健康になる」と単純な原因と結果に置き換えることは慎まなければならない。

 それでも、高齢者の生活という視点から見ると、犬を飼う行為には興味深い特徴がある。散歩は「健康のために運動しましょう」と誰かに勧められて行う運動とは違い、犬の世話として生活の中に組み込まれるからである。自分の健康のためだけなら今日は休もうと思う日があっても、玄関の前で犬が待っていれば靴を履くことがある。運動を目的として外出するのではなく、犬の世話をした結果として歩いているという順序が、行動を継続させる一つの仕組みになり得る。

 実際、日本の65歳以上の地域在住者を追跡した研究では、調査開始時に犬を飼っていた高齢者は、犬を一度も飼ったことがない高齢者に比べ、その後約3年半の間に要介護状態へ移行するオッズが低かった。もちろん、これは犬を飼うだけで要介護状態を防げることを意味しない。研究では年齢、所得、病歴、運動習慣、外出頻度など多くの条件が統計的に調整されているものの、観察研究である以上、測定されていない生活習慣や住宅環境などの影響を完全に取り除くことはできないからである。それでも、犬との暮らしと高齢期の身体活動や生活機能との間に何らかの関係が存在する可能性を考えるには、十分に興味深い結果である。

 犬には、もう一つ、家の外へ人を連れ出す性質がある。犬を飼っている高齢者と猫を飼っている高齢者を比較した海外研究では、犬の飼い主の方が近隣住民と出会う可能性が高いという結果が得られている。ただし、この研究で散歩回数そのものと近隣交流との関係を詳しく見ると、散歩が多いほど交流が多くなる傾向は認められたものの、通常用いられる統計学的な基準では明確な有意差には達していなかった。したがって、「犬をたくさん散歩させれば必ず地域交流が増える」とまでは言えないが、犬を連れて外を歩くことが人間同士の接触機会をつくるという仮説には、一定の現実味がある。

 ここで重要なのは、人間同士の交流を直接の目的にしなくてもよいことである。人口が少なくなった地域で「交流会を開くので集まりましょう」と呼び掛けても、もともと人付き合いの得意な人ばかりが集まり、孤立しがちな人ほど参加しないことがある。しかし犬を飼っている人は、交流するために家を出るのではなく、犬に排せつをさせ、運動をさせ、匂いを嗅がせるために外へ出る。その途中で別の人に会い、犬同士が立ち止まっている間に少し話すという形なら、人間関係を築こうと意識しなくても接触が生まれやすい。

 人間同士だけで向き合えば、何かを話さなければ気まずいと感じることもあるが、犬が間にいれば話題を無理に探す必要はない。「この子はいくつですか」と聞けば会話が始まり、犬が草の匂いを嗅いでいる間は黙っていても不自然ではない。昨日会った人と今日もすれ違い、数日後にまた会い、その繰り返しの中で「あの犬を連れた人」が少しずつ「近所で声を掛けられる人」へ変わっていくとすれば、犬は人間関係をつくる主体というより、人間同士が接触するための摩擦を小さくする存在だと考えた方がよい。

 もっとも、この作用が人口減少地域で都市部より強いということまで、現在の研究から証明されているわけではない。日本の高齢者を対象とした代表的な研究の一つは東京都内で行われており、人口密度の低い過疎地域だけを対象としたものではないからである。それでも、日常生活で他人と接触する機会そのものが少ない地域では、一日に一度の犬の散歩によって生まれる一回の出会いが相対的に大きな意味を持つのではないか、という仮説を立てることはできる。

 人口の多い都市では、人に会うための仕組みが数多く用意されている。文化教室、スポーツ施設、飲食店、商業施設、地域イベントなどがあり、公共交通を使って別の場所へ移動することも比較的容易である。ところが人口が減った地域では、利用者が少なくなれば教室も店も交通機関も維持しにくくなり、交流を生み出す施設そのものが減っていく。二十人集めなければ成立しない教室はなくなるかもしれないが、犬の散歩は一人と一匹で始めることができ、途中でもう一人と一匹に出会えば、それだけで小さな社会的接触が成立する。

 猫との暮らしは、犬とは少し違った方向から考えた方がよい。猫には通常、犬のように飼い主を毎日外へ連れ出す力はないため、「猫を飼えば歩行量や地域交流が増える」と考える根拠は弱い。一方で、朝になれば餌を用意し、水を替え、トイレを掃除し、体調がおかしければ様子を見て、必要なら動物病院へ連れて行くという世話は発生する。猫を飼うことによって生まれる可能性があるのは、身体活動というより、日課、役割、愛着、自分以外の生き物を気に掛ける時間である。

 退職し、子どもが独立し、ときには配偶者を亡くした高齢者にとって、役割の減少は生活の大きな変化になる。仕事をしていた頃には朝起きる時刻が決まり、職場へ行けば自分の仕事があり、家庭では子どもの世話をする必要があったが、それらが終われば自由になる一方、「今日しなければならないこと」が少なくなることもある。そこへ犬や猫を迎えると、餌を与え、水を替え、排せつ物を片付け、健康を気遣うという小さな責任が毎日発生し、自分の気分とは関係なく世話を必要とする相手が家の中にいることになる。

 このような役割が心理的な充実につながる可能性は十分に考えられるものの、ここでも科学的には慎重であるべきだろう。2026年に公表された日本の全国的な社会調査データを用いた研究では、ペットの世話をしているかどうかと生活満足度との間に、統計学的に明確な関連は確認されなかった。つまり、ペットの世話をしているという事実だけから、その人の生活満足度が高いとは言えないのである。

 この結果は、一見すると「ペットは幸福に役立たない」という話に見えるかもしれないが、むしろ重要なのは逆である。犬や猫を飼っているという一つの事実だけでは、人と動物との関係を説明できないということである。長年一緒に暮らして強い愛着を持っている人もいれば、世話を負担に感じている人もおり、経済的に余裕のある人もいれば、治療費を心配している人もいる。人間関係と同じように、動物との関係にも質があり、その違いを無視して「飼っているか、飼っていないか」の二つだけに分ければ、生活満足度との関係が見えなくても不思議ではない。

 犬や猫との暮らしには負担もある。餌代が掛かり、予防接種や治療にも費用が必要で、犬なら毎日の散歩を続けなければならない。若い頃に飼い始めた動物が十年以上生きれば、飼い主自身の身体能力が低下してからも世話が続く可能性があり、入院すれば誰かに餌を頼まなければならず、認知機能が低下すれば適切な飼育が難しくなることもある。高齢になってから動物を迎える人にとっては、「自分の方が先に亡くなったら、この犬や猫はどうなるのか」という不安も現実的な問題になる。

 だから、高齢化する地方で考えるべきなのは、犬や猫の頭数を増やすことではない。まして高齢者にペットを飼うよう勧めれば生活満足度が上がる、という政策でもない。重要なのは、もともと動物と暮らしたいと思っている人が、自分の年齢や身体能力、経済状態を考えながら無理なく迎えることができ、体力が低下した後も最後まで責任を持って飼える環境を地域としてどこまで支えられるか、という問いである。

 もし飼い主が数日間入院したときに犬や猫を一時的に預かる人がいれば、飼育を続けやすくなる。自動車を運転できなくなった人が動物病院へ行くとき、人だけでなく犬や猫も一緒に運べる移動手段があれば、通院を諦めずに済むかもしれない。犬の散歩が身体的に難しくなったとき、近隣の人や事業者が代わって散歩をする仕組みがあれば、高齢になったからという理由だけで長年暮らした犬と離れなくてもよくなる。さらに飼い主が亡くした後の引き取り先まで事前に考えておけば、高齢者が抱える「最後まで世話できるだろうか」という不安を小さくすることもできる。

 そこには小さな事業の可能性もあるが、「高齢化地域だからペットビジネスが必ず成立する」と考えるのも早計である。人口密度の低い地域では、一件の犬の散歩や動物病院への送迎を引き受けるために長い距離を移動しなければならず、利用者が存在しても料金収入より移動時間や燃料費の方が重くなることがあるからだ。散歩代行、通院支援、一時預かり、餌の配送といった需要が潜在的に存在するとしても、それを事業にするには利用者がどの程度の料金を支払えるのか、何世帯をどの範囲で回れば採算が取れるのかを別に検証しなければならない。

 それでも、人口減少地域における新しいサービスを考えるうえで、ペットという視点は興味深い。高齢化によって需要がすべて消えるのではなく、これまで家庭の中だけで処理されていた小さな困りごとを、外部の誰かに頼まなければならない場面が増えるからである。犬の散歩を頼みたい、猫を動物病院へ連れて行きたい、数日だけ預かってほしいという需要は、一件一件は小さいものの、生活を続ける本人にとっては切実であり、こうした小さな需要を効率よく束ねることができれば、地域サービスとして成立する余地はある。

 さらに興味深いのは、ペットを支えるサービスが、結果として飼い主本人を支えるサービスになることである。犬を散歩させに来た人が高齢の飼い主と毎週顔を合わせれば、普段と様子が違うことに気付くかもしれない。猫を動物病院へ運ぶために家を訪ねれば、高齢者が困っていることを知ることもあるだろう。このような効果を最初から保証することはできないが、動物の世話を媒介として人と人との接点が生まれることには、人口の少ない地域だからこそ検討する価値がある。

 ここまで考えると、「犬や猫が増えれば地域の生活満足度が上がる」という単純な話ではないことが分かる。科学的に比較的確かなのは、犬を飼う生活と歩行などの身体活動との間に関連が認められること、犬との散歩が人と人との接触機会を生み出す可能性があること、そして動物との暮らしを高齢者自身が役割や情緒的な支えとして受け止める場合があることまでである。一方で、ペットを飼っているというだけで生活満足度が高くなるという一貫した証拠はなく、猫については犬ほど身体活動との明確な関係も確認されていない。

 さらに、個人に対する効果と地域全体に対する効果を混同してはならない。ある高齢者が犬を飼うことで毎日外を歩くようになり、近所に顔見知りが増えたとしても、そのことだけから、その町の犬の飼育率を高めれば住民全体の生活満足度が上昇すると結論づけることはできない。地域全体への効果を確かめるには、ペットの飼育率だけでなく、高齢化率、独居率、所得、住宅環境、人口密度、交通手段、医療へのアクセス、地域活動への参加状況などを考慮しながら、複数の地域を長期間追跡する必要がある。

 したがって、この問題を地域政策として考えるなら、「犬や猫を増やす政策」ではなく、「犬や猫と暮らしたい人が安心して暮らし続けられる地域」をつくるという方向の方が現実的である。動物を好まない人や飼えない人にまでペットを勧める必要はないが、飼いたい人が年齢だけを理由に諦めなくてもよい仕組みを整え、散歩、通院、一時預かり、飼い主亡き後の引き取りまでを地域の生活支援として考えるなら、ペット政策は単なる動物愛護の話を越えて、高齢者の生活基盤の一部として扱える可能性が出てくる。

 人口減少をすぐに止めることは難しい。地方から若者が流出し、商店が減り、公共交通が縮小していく現実に対して、一匹の犬や猫が人口問題を解決してくれるわけでもなければ、地域経済を一変させるわけでもない。それでも、人口を増やすことだけを地域政策の成功と考える必要もないだろう。

 これからの地方では、「何人住んでいるか」と同時に、「そこに住んでいる人がどのように一日を過ごしているか」が今まで以上に重要になる。朝起きる理由があり、自分を待つ相手がいて、外へ出る用事があり、道端で誰かと言葉を交わし、夕方になればまた世話をする相手がいるという生活は、人口統計には表れにくいが、その土地で暮らし続けたいと思えるかどうかに関わっている。

 朝、玄関を開けると犬が先に外へ出て、飼い主がその後を歩き、少し先から別の犬を連れた人がやって来る。二人は犬同士が匂いを嗅いでいる間に昨日の雨の話をし、しばらくしてそれぞれ反対方向へ歩いていく。別の家では、高齢の飼い主が猫の餌を皿に入れ、「今日はよく食べるね」と声を掛ける。その散歩も会話も声掛けも、町の人口統計には一行も記録されない。

 けれども、人口が減っていく町を最後まで「暮らせる場所」にしているものは、人口の数字だけでは測れない。犬や猫を飼うということは、動物を家に置くことではなく、毎日餌を用意し、水を替え、歩き、掃除をし、病気を心配し、ときには人の助けを借りながら、その命と一緒に暮らし続ける行為である。

 科学はまだ、その行為が地方全体の生活満足度をどれほど高めるのかという問いに、明確な数値を示してはいない。それでも、犬との散歩が身体を外へ動かし、動物の世話が一日の中に役割をつくり、ときにはその動物が人と人との間に小さな接点を生み出すことについては、検討するだけの根拠がある。人口が減っても暮らしまで痩せ細らせないために、犬や猫と安心して暮らせる環境をつくることは、派手な地方創生策ではないが、高齢化する地域の生活の質を考える一つの現実的な選択肢なのである。

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 山の斜面に沿うようにつくられた墓地へ行くと、墓石の新しさよりも、足元の草の伸び方に目が向くことがある。よく手入れされた墓の隣に、しばらく誰も訪れていないらしい墓があり、そのさらに隣には花立てだけが妙に新しい墓がある。墓地という場所は一見すると変化の少ない空間だが、よく見れば、そこには町の人口移動や家族構成の変化が静かに刻まれている。

 かつて墓は、そこに住み続ける家族が守ることを前提にできた。子どもが同じ町に残り、盆や彼岸になれば親族が集まり、誰かが草を刈り、誰かが花を替える。その役割はサービスとして購入するものではなく、家族の生活の一部として受け継がれていた。しかし人口が減り、若い世代が都市へ移り、結婚や就職によって家族が全国に散らばるようになると、この仕組みそのものが成り立ちにくくなる。

 ここで重要なのは、「墓を大切にしたい気持ち」が消えたわけではないということだ。問題になっているのは、気持ちではなく距離と時間である。東京で暮らす70代の夫婦が、房総半島や東北、九州の実家の墓まで年に何度も出かけることは簡単ではなく、本人が80代になれば、電車を乗り継ぎ、坂道を歩き、暑さの中で草取りをすること自体が負担になる。その子ども世代まで時間が進めば、墓の正確な場所や管理する寺院の名前さえ十分に知らないということも起こり得る。

 こうした変化から生まれたサービスの一つが墓参り代行である。依頼を受けた事業者が墓地へ行き、墓石を清掃し、草を取り、花や線香を供え、作業後の写真を送るという仕組みはすでに存在している。ただし、人口減少地域を新しい商いの視点から眺めるなら、墓参り代行は完成形ではなく、むしろ入口として考えた方がよい。

 なぜなら、遠方に住む家族が本当に困るのは、「今年の盆に墓参りへ行けない」という一回の問題だけではないからである。本当の不安は、この墓をこれから10年、20年、誰が見ていくのかという時間の問題にある。墓石が傾いていないか、雑草が周囲まで広がっていないか、寺や霊園から連絡が来ていないか、管理料の支払いはどうなっているのか、そして自分が亡くなったあと、この墓を誰が引き継ぎ、あるいはどう終えるのかまで考え始めると、必要になるのは単なる「墓参りの代理」ではなく、「離れた場所にある家族の墓を継続して見守る存在」へと変わっていく。

 ここから、墓参り代行の次に生まれるサービスが見えてくる。それは墓を掃除する仕事ではなく、墓の状態を継続して確認し、その変化を記録し、必要なときには次の対応へつなぐ仕事である。

 たとえば年に数回墓地を巡回し、墓石、外柵、花立て、雑草、周囲の樹木などを確認して写真を残す。台風や大雨のあとには、希望する顧客から追加依頼を受けて異常がないか確認し、修繕が必要であれば石材店や寺院への相談につなぐ。依頼者は遠く離れた自宅にいながら、自分の家の墓がどのような状態になっているのかを知ることができるため、このとき顧客が買っているのは「掃除そのもの」より、「知らない間に墓が荒れているかもしれない」という不安を減らす機能だと考えた方が近い。

採算を決めるのは、単価よりも移動と集約である

 このサービスを商売として見るなら、最初に注意しなければならないのは、墓参り代行が見た目ほど簡単に利益を残せる仕事ではないという点である。大掛かりな店舗や高価な機械がなくても始められる一方、地方の訪問サービスでは、作業時間そのものよりも「何も売上を生んでいない移動時間」が利益を削るからである。

 仮に、一件の簡易な現地確認を5,000円で引き受け、墓地まで片道30分、現地確認と軽い清掃に40分、写真整理と報告に20分、帰路に30分かかったとすると、一件の仕事に合計2時間を使うことになる。この場合、経費を差し引く前の時間当たり売上は2,500円であり、ここからガソリン代、車両費、清掃用品、通信費、保険、事務作業などを負担しなければならないため、5,000円という価格は、注文が入れば売上にはなるものの、それだけで十分な利益が残る水準とは限らない。

 さらに注意したいのは、5,000円という数字が墓参り代行全体の標準価格を意味するわけではないことである。簡易な現地確認なら数千円台も考えられる一方、草取り、墓石清掃、供花、線香、写真報告まで含むサービスでは、一件当たり1万円前後あるいはそれ以上の価格になることもある。そのため採算を論じるときには、「墓参り代行は一回5,000円である」と固定するのではなく、作業範囲によって価格も必要時間も変わるサービスとして考える必要がある。

 それでも、同じ墓地に複数の契約者が集まれば採算が改善するという考え方そのものは、数理的にかなり強い。先ほどの条件をそのまま使い、一件当たり現地作業と報告に合計1時間かかるとすると、一件だけなら往復移動1時間を含めて合計2時間必要になるが、同じ墓地で二件を処理すれば合計3時間、五件なら合計6時間となる。このとき一件5,000円なら、一件だけでは売上5,000円を2時間で割って時間当たり2,500円、二件なら売上1万円を3時間で割って約3,333円、五件なら売上2万5,000円を6時間で割って約4,167円となり、同じ墓地に顧客が集まるほど共通の移動時間を複数の契約で分担できる効果が現れる。

 ただし、この効果には明確な上限がある。一件ごとの作業時間そのものは消えないため、顧客数を増やせば時間当たり売上が無限に高くなるわけではない。先ほどの条件では、顧客数が増えるにつれて共通移動時間の影響が小さくなり、時間当たり売上は一件当たり単価である5,000円に近づいていくが、それを超えることはない。したがって、共通の移動時間だけが薄まり、個別作業時間は必ず残るという構造で考える必要がある。

 ここから、この商売で見るべき数字が変わってくる。単純な契約者数より重要なのは、一つの墓地に平均何件の契約が集まるのかという「墓地単位の集約度」である。人口が少ない町だから事業が成立しないとは限らず、町内にいくつかの大きな墓地があり、そこに都市部へ転出した家族の墓がまとまっているなら、一回の巡回で複数件を処理できる可能性がある。反対に、契約者が20人いても墓地が広い地域に散らばり、それぞれ長時間の移動が必要なら、契約者数だけを見て「顧客が増えた」と判断することはできない。

年間契約は安定には効くが、利益率まで自動的に高めるわけではない

 墓参りには季節性がある。盆や彼岸の前には依頼が集中しても、それ以外の時期には仕事が少なくなる可能性があるため、一件ごとの依頼だけを待つ経営では年間売上を読みづらい。そこで有効になるのが年間契約だが、年間契約には長所と同時に注意点もある。

 ここでは一例として、年四回の状態確認と年二回の簡易清掃を組み合わせ、年間六回訪問する契約を考えてみる。台風や大雨のあとの緊急確認まで定額料金に無制限で含めると年間の訪問回数が事前に読めなくなるため、災害後の特別確認は追加料金とした方が、事業者にとっても顧客にとっても料金体系が分かりやすい。

 年間料金を仮に3万円とすると、年間六回の予定訪問だけで単純平均すれば一回当たり売上は5,000円になる。ただし、四回の状態確認と二回の簡易清掃では作業量が異なるため、一回当たり5,000円という数字だけで採算を判断するのは適切ではない。年間全体で何時間の作業が必要になるかを見る必要がある。

 そこで、状態確認一回につき現地30分と報告15分の計45分、簡易清掃一回につき現地60分と報告15分の計75分かかると仮定する。年四回の状態確認には合計3時間、年二回の簡易清掃には合計2時間30分が必要になるため、一契約当たりの年間直接作業時間は合計5時間30分となる。

 事業者自身の労働時間を一時間2,000円で評価すれば、年間直接人件費は1万1,000円になる。さらに清掃用品などの年間消耗品費を1,500円と仮定すると、移動費を除いた一契約当たりの年間直接費は1万2,500円となる。

 次に移動を考える。一回の墓地への往復について、移動時間に相当する人件費と燃料・車両費を合わせて2,800円かかると仮定すれば、年間六回の訪問に必要な共通移動費は1万6,800円となる。ただし、この1万6,800円は同じ墓地に複数の契約者がいれば分担できる。

 一つの墓地に一件しか契約がない場合、一件当たり年間費用は1万2,500円に1万6,800円を加えた2万9,300円となり、年間売上3万円から差し引くと残るのは700円にすぎない。二件なら移動費を二件で分けられるため、一件当たり費用は2万900円、残額は9,100円となり、五件なら一件当たり費用は1万5,860円、残額は1万4,140円、十件なら一件当たり費用は1万4,180円、残額は1万5,820円となる。

 もちろん、この残額はそのまま事業者の利益ではない。ここから広告費、通信費、保険料、決済手数料、会計費用、車両の減価償却、契約管理などの間接費を負担する必要がある。それでも、この試算からは、一墓地一件では採算が極めて厳しく、同じ墓地に複数件の契約を集めることによって初めて事業としての余裕が生まれるという構造が見えてくる。

 重要なのは、これらの数字が墓参り代行業界の平均実績を示したものではなく、一定の条件を置いた感度分析だということである。実際の価格、作業時間、移動距離、車両費、清掃範囲によって結果は変化するため、この数字そのものよりも「どの変数が利益を左右するのか」を見ることに意味がある。

「100件で300万円」という数字だけでは、事業性は判断できない

 年間3万円の契約者が100件いれば年間売上は300万円になる。この計算自体は正しいが、その数字だけで事業が成立するかどうかは判断できない。

 同じ100件でも、十か所の墓地に平均十件ずつ集まっている場合と、百か所の墓地に一件ずつ散らばっている場合では、必要な移動回数がまったく違う。仮に一件当たり年六回訪問するとすれば、契約単位では年間延べ600件分の作業が発生するが、一回の巡回で平均五件をまとめて処理できれば、必要な墓地訪問は年間120回となり、月平均では10回程度になる。

 一方、一回の巡回で平均1.5件しか処理できなければ、600件分の作業を1.5件ずつ処理するため、墓地訪問は年間400回になる。同じ年間売上300万円でも、前者と後者では移動に必要な時間と車両費が大きく異なるため、事業の採算性もまったく違ってくる。

 そのため事業計画で本当に見るべきなのは、「100件集める」という数字ではなく、年間契約件数、年間訪問回数、一巡回当たり平均処理件数、平均移動時間、一件当たり作業時間を組み合わせた運営構造である。墓地単位で仕事をまとめられるなら比較的少ない契約数でも効率が上がるが、顧客が広域に散らばれば、件数が増えるほど忙しくなるのに利益が残らないということも起こり得る。

継続率は重要だが、高い更新率を当然視してはいけない

 この事業では継続契約が増えるほど新規営業の負担が下がるため、更新率は非常に重要な指標になる。しかし、「毎年九割程度の顧客が継続する」といった数字を、実績の裏付けなしに当然の前提とするのは危険である。

 たとえば年間継続率が90%なら翌年には100件中90件が残るが、80%なら80件、70%なら70件しか残らない。契約数を100件に維持しようとすれば、それぞれ年間10件、20件、30件の新規契約を獲得しなければならず、継続率が10ポイント違うだけでも営業負担は大きく変わる。

 したがって、高い更新率を実現できれば経営が安定するという方向性は正しいものの、「墓管理だから自然に更新率が高くなる」と考えることはできない。実際に何%が翌年も契約するのかは、事業を始めたあとに検証すべき重要な数字である。

 その意味で、この事業の本当の資産は清掃道具でも車でもなく、特定地域に積み上がった継続契約と、それぞれの墓について蓄積された記録である。毎回同じ角度から墓石を撮影しておけば、ひび割れや傾きの変化を確認でき、雑草の状態や補修履歴、寺院や霊園からの連絡事項まで残していけば、その事業者は単なる清掃業者ではなく、その墓の経過を最もよく知る外部管理者になっていく。

低価格競争を避けるには、「掃除」以外の価値が必要になる

 墓石を洗い、草を取り、花を供え、写真を送るだけなら、利用者から見た事業者の違いは小さくなり、最終的には価格競争へ向かいやすい。ところが、数年間の記録が残り、「昨年よりここに細いひびが増えている」「この時期は草が伸びやすい」「前回は石材店にこの補修を依頼した」といった情報まで蓄積されれば、サービスの価値は清掃作業そのものから離れていく。

 この差は大きい。安い業者が新しく現れたとしても、何年間も状態を記録し、自分の家の事情や寺院との関係を理解している事業者を簡単に変更するとは限らないため、継続性が生まれやすくなる。価格ではなく「自分の墓について誰が最もよく分かっているか」が選択理由になれば、地域密着型事業者が大きな会社に対して持てる優位性も見えてくる。

次の商機は、墓を売ることではなく、次の問題へつなぐことにある

 ただし、墓の管理だけで十分な市場規模を確保できるとは限らない。墓を自分で管理する人もいれば、寺院が管理サービスを提供している地域もあり、将来的に墓じまいが進めば管理対象そのものが減る可能性もある。そのため、「高齢化するから墓管理市場は必ず拡大する」と単純化するのは適切ではない。

 むしろ長期的には、墓を入口として家族が抱える別の問題へ自然につながっていくことに意味がある。墓を管理している顧客から、「実家も空き家になっている」「仏壇をどうすればよいかわからない」「子どもは墓を継がないと言っている」「墓じまいについて誰に相談すればよいかわからない」といった話が出てくれば、空き家管理、家財整理、墓じまいの準備、寺院や石材店への連絡補助など、別の困りごとが見えてくる。

 ここで大切なのは、自社ですべてを施工しようとしないことである。石材工事を自分で行う必要もなく、法律や税務に関する専門判断まで抱え込む必要もない。地域の石材店、寺院、行政書士など、それぞれの分野を担当できる人へつなぐ調整役になるだけでも価値は生まれる。小規模事業者が何でも自前で抱えれば、設備投資と固定費が増え、かえって採算を悪化させる可能性があるからである。

広告より、地域内の紹介経路が重要になる可能性が高い

 墓というものには、一般的な家事代行とは違う難しさがある。依頼者にとって墓は単なる石ではなく、家族の記憶や宗教観、感情と結びついているため、広告を見ただけで知らない事業者へすぐ任せるとは限らない。

 そのため、年間3万円の契約を得るために高額な広告費を使えば、初年度の利益がほとんど消えてしまう可能性がある。むしろ寺院、石材店、葬祭事業者、不動産事業者など、すでに地域で信頼を持っている人から紹介される仕組みの方が相性はよい。ただし、これらの事業者の仕事を奪うような入り方をすれば紹介は生まれないため、自分は現地確認や依頼者との連絡を担当し、専門的な施工や宗教的手続きは既存の専門家へ渡すという役割分担が必要になる。

「小さい市場だから儲かる」とは限らない

 人口減少地域の商機を考えるとき、「大企業には小さすぎ、一人で営むには十分な市場」という表現には魅力があるが、これは条件付きでしか成立しない。市場が小さいということは、大企業が参入しにくいという利点と同時に、そもそも十分な顧客が存在しないという欠点も意味するからである。

 したがって、小規模事業者に向く市場とは、単に人口が少ない市場ではない。一定の支払意思を持つ顧客が特定の墓地や地域にある程度まとまり、大手企業が店舗や人員を配置するほどの規模ではない一方、一人あるいは少人数の事業者には十分な売上が見込める場合に初めて、地域型のニッチ市場として成立する。

 この条件を満たすかどうかは、地域ごとに調べなければわからない。墓地の数、区画数、都市部へ転出した世帯の割合、寺院や霊園がすでに提供しているサービス、現在の管理状況、価格に対する支払意思などを確認しなければ、本当の市場規模は見えてこない。つまり、この事業は「高齢化している町だから成立する」のではなく、「困っている人が一定数いて、その人たちが一定の価格を払い、しかも効率よく訪問できる場所に集まっている」という複数の条件が重なったときに初めて成立するのである。

墓の記録は、やがて家族の記録へ変わっていく

 この仕事は、やがて「墓の状態を記録するサービス」から、「家族の記憶を整理するサービス」へ発展する可能性もある。墓石には亡くなった人の名前や年月日が刻まれているが、その人がどのような人物で、現在の家族とどのようにつながっているのかまでは残らない。親が亡くれ、叔父や叔母が亡くれ、墓について詳しく知る人がいなくなると、墓石だけが残り、そこに眠る人と現在の家族との関係がわからなくなることもある。

 そこで、墓の所在地、墓石の写真、刻まれている名前、建立時期、管理する寺院や霊園、親族関係などを整理し、家族へ渡すサービスが考えられる。これは華やかなデジタル事業ではないが、「父が元気なうちに実家の墓について整理しておきたい」と考える人にとっては現実的な価値を持つ可能性があり、家系図まで大げさに作らなくても、最低限の情報を冊子や電子データとして残すだけで、次の世代が困る可能性を減らすことができる。

 さらに時間が進めば、問題は「墓を守る」ことから「墓をどう終えるか」へ移っていく。墓じまいを考え始めても、寺院、霊園、石材店、行政、親族など複数の関係者が登場し、何から始めればよいのかわからない人は少なくない。遠方に住んでいれば現地で相談すること自体が難しいため、依頼者の代わりに現地を確認し、必要な作業を整理し、適切な専門家へつなぐ「墓の相談窓口」という役割も考えられる。

 ここまで来ると、この仕事は墓石の清掃業からかなり離れ、高齢社会における家族資産の遠隔管理へ近づいていく。空き家管理と墓地管理は一見すると別の仕事に見えるが、遠方にある家族の資産を定期的に確認するという点ではよく似ており、実家、墓、仏壇、寺院との連絡などをまとめて扱うサービスへ発展する可能性もある。ただし、それが実際に事業として成立するかどうかは、需要の存在だけではなく、顧客がどこまでお金を払うのかを確かめなければ判断できない。

人口減少は、「家族が無償でしていた仕事」が市場へ出てくる現象でもある

 人口が減少する地域では、店が減り、交通が減り、仕事も減っていくため、地域経済について語るとどうしても悲観的な話になりやすい。しかし人口減少とは、単に人が少なくなる現象ではなく、これまで家族の内部で無償に近い形で処理されていた仕事を担当する人がいなくなる現象でもある。

 親の様子を見る人がいなくなれば見守りサービスが必要になり、庭を手入れする人がいなくなれば草刈りサービスが生まれ、買い物へ行く人がいなくなれば配送サービスが必要になる。同じように、墓を守る人がいなくなれば、その役割の一部を地域の誰かが引き受ける余地が生まれるため、人口減少地域で新しい商売を探すときには、「まだ誰も思いついていない画期的な商品」より、「これまで家族が黙って引き受けていた仕事のうち、これから誰もできなくなるもの」を探した方が現実的なのかもしれない。

 ただし、そこに困りごとがあるからといって、すぐに市場になるわけではない。困っている人がいても、自分で解決する人、親族に頼む人、寺院へ相談する人、何もしない人もいるため、「困っている人数」と「お金を払ってサービスを買う人数」は一致しない。事業として成立するかどうかを判断するには、その間にある支払意思を確かめる必要がある。

 したがって、この墓管理サービスを「これから必ず伸びる市場」と断定することはできない。一方で、墓の承継や管理が難しくなる社会背景は現実に存在し、地理的に顧客を集約できれば採算が改善することも数理的には説明できるため、少なくとも検討に値する事業仮説ではある。

 十年後、地方の墓地を歩けば、今以上に空いている区画や管理されていない墓が目立つようになるかもしれない。しかし、その風景を単なる衰退として見るだけでは、地域でこれから必要になる仕事は見えてこない。誰も来なくなった墓の向こう側には、遠く離れた町でその墓を気にしながら、自分では簡単に行くことのできない家族がいる可能性がある。

 その距離を埋める仕事に商機があるとしても、成立条件は厳しい。高い料金をつければよいわけでも、契約数だけを増やせばよいわけでもなく、同じ墓地に顧客を集め、移動を減らし、年間契約を無理のない頻度で設計し、長く付き合える関係をつくる必要がある。それができなければ、墓参り代行は善意に近い便利屋仕事のまま終わる可能性があり、逆にこの条件を丁寧に積み上げることができれば、小さくても持続する地域サービスになる余地がある。

 墓地に生える一本の草は、人口減少そのものを表しているのではない。それは、これまで家族の中で処理されていた役割が、少しずつ担い手を失っていることを知らせる兆候である。その兆候を見て、「誰もいなくなる」と嘆くだけではなく、「では、この仕事を誰が引き受けるのか」と問い直したところから、過疎地の新しい商いは始まる。ただし、その答えは希望だけでは完成せず、需要、支払意思、移動時間、顧客密度、継続率という冷静な数字を通過して初めて、現実の事業へ変わるのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

 「何でも屋」と聞くと、どこか昭和の商店街を思わせる響きがある。電球を交換し、庭の草を刈り、重い家具を動かし、壊れた戸を見て、頼まれれば買い物まで手伝う。専門店でもなければ、最先端のスタートアップでもなく、看板を見ただけでは何を売っているのかさえはっきりしないため、専門化が進んだ現代社会から見れば、時代に取り残された商売のようにも映る。

 ところが人口が減り、店が減り、職人も減り、家族まで遠くに住むようになった地域を眺めると、この曖昧な商売が別の姿を見せ始める。人口が増えていた時代には、仕事を細かく分けても、それぞれの専門分野に十分な客が存在したが、人口密度が下がれば、同じ仕組みを維持することは次第に難しくなる。専門化によって効率を高めてきた社会が、人口減少によって逆向きの力を受け始めるのである。

専門店が成立するには、見えない「人口の土台」が必要になる

 専門化は効率的である。しかし、その効率性には条件があり、ある種類の仕事だけを引き受ける事業者が存在し続けるためには、その仕事を一定の頻度で依頼する顧客が、通える範囲、あるいは訪問できる範囲に十分存在していなければならない。都市であれば人口密度が高いため、一つの狭い分野に特化しても顧客を集めやすいが、住宅が点在する地域では、同じ専門化がそのまま有利になるとは限らない。

 仮に三十分で終わる仕事のために往復一時間かかるとすれば、事業者が費やしているのは三十分ではなく一時間半であり、その間には車両費や燃料費も発生する。それでも次の家で同じ種類の仕事が続けば効率は改善するが、人口密度が下がるほど、そのような連続受注は難しくなり、「仕事そのものは存在しているのに、一つの業種だけでは十分な仕事量にならない」という状態が起こりやすくなる。

 そこで発想を少し変えると、人口密度の低い地域では、一つの需要を深く掘るよりも、一人の顧客が抱える複数の小さな需要をまとめて扱うほうが合理的なのではないかという仮説が生まれる。庭の草を刈ったあとに家具を動かし、照明器具の交換を手伝い、スマートフォンの設定を確認するという仕事は、一つずつ見れば小さいが、一回の訪問という単位でまとめれば、移動時間を何度も発生させずに済む。

 これは経済学でいう「範囲の経済」に近い考え方である。異なるサービスを別々の事業者が別々に提供するより、一人の事業者が共通する移動、車両、道具、受付、顧客関係を利用しながら複数の仕事を提供したほうが、全体の費用を抑えられる場合がある。何でも屋という古い名前の背後には、人口密度が下がった地域に適応するための、意外に現代的な経済合理性が隠れている。

高齢化が生み出すのは、「できない仕事」だけではない

 人口減少地域で生活支援を考えるとき、高齢化という言葉がすぐに浮かぶが、本当に増えている困りごとは、介護や医療のように制度化された大きな問題だけではない。むしろ日常生活の中には、制度の対象にはなりにくいが、本人にとっては確実に負担となる小さな作業が無数に存在している。

 脚立に乗れば交換できる照明、少し力を入れれば移動できる家具、車があれば運べる荷物、操作を知っていれば設定できるスマートフォンなどは、若いころには誰かに頼む必要すら感じなかった仕事かもしれない。しかし年齢を重ねれば、転倒への不安が増え、筋力が落ち、車を手放し、細かなデジタル操作も負担になるため、「自分でやれば済む仕事」が少しずつ外部サービスへ移っていく。

 しかも高齢化と同時に単身世帯や高齢夫婦のみの世帯が増えれば、家庭内で助け合う余地も小さくなる。以前なら夫婦のどちらかができたこと、近所の家族が手伝ったこと、子どもが帰省したときに済ませていたことが、誰にも頼めないまま残りやすくなるのである。

 ここで生じる問題は、「できない」ことだけではない。「誰に頼めばよいのか分からない」という問題がある。大きな修理なら専門業者へ連絡できるが、電球一個、家具一つ、スマートフォンの設定一件となると、どこへ電話すればよいのか判断しにくく、業者に頼むほどのことではないという遠慮まで加わる。この心理的な空白こそ、何でも屋が扱う市場の一部になる。

 したがって何でも屋の本当の商品は、草刈りでも家具移動でもなく、「これは誰に頼めばよいのだろう」と悩む時間を減らすことである、と考えることもできる。相談の入口が一つであれば、利用者は仕事の分類をする必要がなく、まず相談し、その後に対応できることと専門業者へ渡すことを分けてもらえばよい。

ただし、「需要がある」ことと「商売になる」ことは違う

 ここで最も注意しなければならないのは、生活上の小さな困りごとが多いからといって、それだけで民間事業が成立するわけではないということである。需要の存在と支払意思は別の問題であり、さらに支払意思があっても、そこから移動費、人件費、車両費、道具代、保険料、広告費、事務作業の時間を差し引いたあとに利益が残らなければ事業にはならない。

 たとえば一回五千円の仕事でも、往復一時間、作業一時間、連絡や準備に三十分かかれば、事業者が拘束される時間は二時間半になる。そこから燃料費や車両維持費を差し引けば、見かけ上の五千円ほどには利益が残らない。逆に一度の訪問で三つの仕事をまとめ、合計一万円の売上にできれば、同じ移動時間を使いながら一件当たりの採算は大きく改善する可能性がある。

 つまり、この事業で重要なのは単なる客数ではない。仮に百世帯の顧客名簿を持っていたとしても、それぞれが年に一回しか利用しなければ売上は小さい一方、五十世帯でも利用頻度が高く、一回の利用額が大きければ事業としては安定しやすい。成立性を考えるなら、顧客数だけではなく、一世帯当たりの年間利用回数、一回当たりの平均利用額、移動時間、作業時間、再利用率を一緒に見なければならない。

 したがって、「五十軒あれば成立する」「百軒なら十分だ」というような単純な数字には意味がない。同じ百軒でも、年一回三千円しか使わない顧客と、月一回五千円使う顧客では年間売上が何倍も違うからである。何でも屋の商機を判断するなら、「何人いるか」より「どの程度の頻度で、いくら支払うのか」を確かめる必要がある。

一回の訪問を、単発仕事から「生活の維持管理」へ変えられるか

 採算性を考えると、何でも屋の事業モデルは単発の雑用代行だけでは弱い。遠くまで走って二千円、三千円の仕事を拾い続ける方式では、仕事はあるのに利益が残らないという状態になりやすく、人口密度の低い地域ほどその危険は大きくなる。

 そこで重要になるのが、一回の訪問そのものに価値を持たせる考え方である。たとえば月に一度、一時間から二時間程度訪問し、その家で発生している小さな困りごとをまとめて処理する方式なら、草刈り、家具移動、簡単な清掃、機器設定などを一つずつ別の商品として販売するよりも、利用者にとって分かりやすくなり、事業者側も移動コストを分散しやすくなる。

 このとき顧客が購入しているのは、個々の作業ではなく、「月に一度、家の中と周囲を一緒に見てくれる時間」である。すると何でも屋は、単発の便利屋から、暮らしを維持するための継続的な訪問サービスへ近づいていく。

 ただし、ここでも安易に定額制へ進めばよいわけではない。定額料金を低く設定しすぎれば、利用回数が多い顧客ほど赤字になり、逆に高く設定すれば利用者が集まらないため、実際には訪問時間、対応範囲、追加料金、作業上限を慎重に設計する必要がある。定額制が魅力的に見えるのは、売上が安定するからであって、採算まで自動的に安定するわけではない。

公的サービスやシルバー人材センターは、競争相手にもなる

 地域にはすでに、生活上の小さな困りごとを支援する仕組みが存在している。自治体、社会福祉協議会、シルバー人材センターなどが、草刈り、清掃、買い物支援、簡単な家事援助を比較的低料金で行っている地域もあり、民間の何でも屋が同じ内容を同じ価格帯で競えば、採算面では不利になる可能性がある。

 この事実は、「何でも屋には需要がない」という意味ではない。むしろ需要が存在するからこそ、公的・準公的なサービスも成立しているのであり、問題はその需要のどこまでが民間料金を支払ってもらえる市場なのかという点にある。

 公的サービスには、利用対象者、作業内容、利用時間、申込手続きなどに一定の条件が付くことが多い。そのため民間事業者が目指すべき場所は、単純な値下げ競争ではなく、「今日頼みたい」「複数の仕事を一度に済ませたい」「高齢者に限らず利用したい」「細かな相談をまとめてしたい」といった、公的サービスでは処理しにくい部分になる。

 したがって、成功する何でも屋があるとすれば、それは「何でも安くやる人」ではなく、「地域にすでにある仕組みでは埋まらない小さな隙間を、速さと柔軟性で埋める人」だろう。

「何でもする」と「何でもできる」は違う

 何でも屋という名称には、もう一つ注意すべき問題がある。「何でも相談できる」ことと、「何でも自分で作業する」ことは同じではない。

 電気工事、廃棄物の収集運搬、一定の建設工事などには資格や許可が関係する場合があり、医療や介護に近い仕事になればさらに慎重な判断が必要になる。何でも屋という名称だけを頼りに、自分にできそうだからという理由で仕事を引き受ければ、事故だけでなく法的な問題にもつながる。

 むしろ現代型の何でも屋に必要なのは、自分のできる範囲を広げ続けることではなく、どこから先を専門家へ渡すかを判断する能力である。家具の移動はできても配線工事は電気工事士へつなぎ、庭の手入れはできても危険な高木伐採は専門業者へ渡し、スマートフォンの操作は説明しても銀行口座の暗証番号には触れないという境界を持たなければならない。

 その境界が明確であるほど、利用者から見れば安心して相談できる。何でも屋とは、万能な職人ではなく、「まず相談を受け、できることとできないことを整理する地域の入口」と考えたほうが、現代社会には合っている。

人口減少は、客が減るだけでなく「頼める人」も減らす

 人口減少について語るとき、多くの場合は消費者の減少が問題になる。人口が減れば客も減り、市場は縮小するという説明である。それ自体は間違っていないが、供給側も同時に減っていくことを忘れると、地方の実態を見誤る。

 地域の人口が一割減ったとき、商店や職人も一割ずつ均等に減るとは限らない。後継者のいない個人事業者が相次いで廃業すれば、人口は一割しか減っていないのに、あるサービスの供給者は半分になることもあり得る。すると市場全体は縮小しているにもかかわらず、残った一人の事業者には依頼が集中するという現象が起こる。

 この構造は人口減少地域の商機を考えるうえで重要である。人口が減っているから需要がすべて消えるのではなく、需要より速く供給が減る分野では、むしろ「頼める相手がいない」という不足が生まれる可能性がある。

 スーパーがなくなり、電器店が閉まり、近所の大工が引退し、子ども世代も遠くへ移れば、地域に残った住民の人数は減っているにもかかわらず、一人当たりが外部へ頼みたい仕事は増えることがある。人口減少時代の新しい市場は、「人が増える場所」だけでなく、「供給の消え方が需要の減り方より速い場所」に生まれるのである。

大企業が不得意でも、競争相手がいないわけではない

 小さく内容の異なる仕事を一件ずつ処理する事業は、大企業が得意とする標準化とは確かに相性がよくない。今日は草刈り、明日は家具移動、その次はスマートフォン支援という仕事を社員組織で大量に処理しようとすれば、教育や料金設定、作業管理が複雑になるからである。

 しかし、だからといって大規模な競争相手が現れないとは限らない。現代には、事業者自身が作業員を雇わなくても、インターネット上で依頼者と地域の個人事業者を結び付けるプラットフォーム型の仕組みがあり、小さな仕事を大量に集めて分配することもできる。

 したがって「大企業にはできないから地域の個人事業者が安泰だ」という結論は危険である。むしろ地域の何でも屋が競争力を持つとすれば、インターネット上で初めて会う人には提供しにくい、継続的な信頼関係の部分になる。

 高齢者宅へ毎月入り、前回直した場所を覚え、家の状態を知り、本人の性格まで理解している事業者は、単発依頼を仲介する仕組みとは異なる価値を持つ。価格だけではなく、「この人なら家に上げられる」という信頼そのものが参入障壁になるのである。

最も大きな壁は、支払意思かもしれない

 人口減少地域の新規ビジネスを考えると、「困っている人がいる」という事実が強調されやすい。しかし、事業として最も重要なのは、困っているかどうかだけではなく、その問題を解決するためにいくらまで支払う意思があるのかという点である。

 たとえば電球交換に困っている高齢者が百人いても、一回五千円なら誰も依頼しないのであれば、市場規模は事実上ゼロに近い。逆に百人のうち二十人しか困っていなくても、月一回五千円の訪問サービスを継続して利用するなら、小さいながらも明確な市場が生まれる。

 したがって、地域で何でも屋を始める前に必要なのは、人口統計を見ることだけではない。実際に住民へ聞き、「どのような仕事なら頼みたいか」「現在は誰に頼んでいるか」「いくらなら利用するか」「年に何回程度必要になるか」を確かめなければならない。

 人口、高齢化率、単身世帯率は市場の存在を推測する材料にはなるが、売上を決めるのは最終的に支払意思と利用頻度である。ここを確認しないまま「高齢者が多いから需要がある」と考えると、社会的には必要でも商売としては成立しないという結果になりかねない。

「困りごとの数」より「一回の訪問価値」を測る

 数理的に見ても、この商売では一つひとつの仕事の数より、一回の訪問から得られる粗利益が重要になる。訪問するためには、電話や予約の対応、移動、駐車、車両、準備という固定的な負担が発生するため、その費用を一つの小さな仕事だけで回収しようとすると料金が高くなりやすい。

 逆に一回の訪問で二つ、三つと作業をまとめれば、同じ移動費を複数の仕事へ分散できる。人口密度の低い地域で何でも屋が合理的かもしれないという核心は、まさにこの点にある。

 ただし、何でも扱えば扱うほど利益が増えるわけでもない。作業範囲を広げすぎれば、多くの道具が必要になり、技術習得に時間がかかり、仕事ごとの作業時間も予測しにくくなるため、逆に運営は非効率になる。したがって実際には、「何でも」ではなく、同じ顧客が繰り返し必要とし、同じ車両や基本的な道具で対応できるいくつかのサービスに絞るほうが合理的だろう。

 外から見れば何でも屋でも、内部では仕事をかなり選んでいるという状態が、おそらく最も強い。

何でも屋は、古いのではなく「市場の粒が小さくなった時代」の商売かもしれない

 かつての村や町には、一人で複数の仕事をこなす人が珍しくなかった。農家が家を修理し、商店が配達を行い、町の電器店が商品を売るだけでなく設置や修理まで引き受けるという姿は、技術が未熟だったからだけではなく、人口の少ない社会では一人が複数の役割を持つほうが合理的だったからでもある。

 高度成長と都市化は、その構造を逆転させた。人口が増え、所得が増え、消費が増えたことで、市場を細かく分けても、それぞれの分野に十分な客が存在するようになった。その結果、「何でもできる人」より「一つのことに非常に詳しい人」が高く評価される社会が形成された。

 しかし人口が減る時代には、再び異なる合理性が現れる可能性がある。もちろん昔と同じ社会に戻るわけではなく、現代にはインターネットがあり、スマートフォンがあり、専門業者との連携も容易になっているため、未来の何でも屋は昔の雑用屋をそのまま復活させた存在ではない。

 むしろ、地域の小さな問題を一度受け止め、自分で処理できるものは処理し、資格や高度な技能が必要なものは専門家へつなぎ、公的サービスで対応できるものならそちらを案内する「暮らしの総合窓口」に近づいていく可能性がある。

何でも屋の商機は、「人口減少」だけでは証明できない

 ここまで考えると、何でも屋が人口減少時代に合理的であるという仮説には、かなり強い理論的な根拠がある。人口密度が下がれば一業種だけでは市場が小さくなり、移動コストの比重が高まり、複数のサービスをまとめる意味が大きくなる。また高齢化、単身化、商店や職人の減少によって、小さな生活支援への需要が残る可能性も高い。

 しかし、ここから「だから何でも屋は儲かる」と進むことはできない。実際の採算性は、その地域でどれだけの住民が有料サービスを利用するのか、一回当たりいくら支払うのか、年間何回使うのか、一件当たり何分移動するのか、公的サービスや既存事業者がどの程度存在するのかによって決まる。

 つまり人口減少は商機の存在を示す一つの条件にすぎず、それだけで事業性を証明するものではない。人口統計を見て「高齢者が多いから成功する」と判断するのではなく、実際の料金、利用頻度、移動距離、競合状況を調べ、それでも利益が残るかを確かめる必要がある。

 その意味では、「何でも屋」という商売は、派手な成長市場ではない。全国へ一気に拡大するような事業でもなく、一人の事業者が何万人もの顧客を獲得するモデルでもないだろう。

 それでも、地域ごとに小さく成立する余地はある。

 人口が増えていた時代には、一つの大きな需要を見つけ、それを深く掘ることで事業を成長させることができた。人口が減る時代には、同じ地域に散らばっている小さな需要を横につなぎ、一回の訪問、一人の顧客、一軒の家という単位で束ね直すことが重要になるかもしれない。

 地方には大きな市場がない、とよく言われる。それはかなり正しい。しかし、大きな市場がないことと、商売が存在しないことは同じではない。

 草を刈ってほしい人、家具を動かしてほしい人、スマートフォンの設定を手伝ってほしい人を、それぞれ別の市場として数えれば、どの市場も小さいかもしれない。ところが、それらは別々の人ではなく、同じ一人の生活者が抱えている困りごとかもしれない。

 人口減少社会で探すべき新規ビジネスは、まったく新しい需要を発明することだけではない。経済が拡大する過程で細かく分割され、専門化され、いつの間にか誰もまとめて扱わなくなった需要を、もう一度生活者の側から束ね直すことも、新しい商売になる可能性がある。

 「何でも屋」という看板だけを見れば、確かに古い。

 しかし、その中身を、移動コスト、人口密度、範囲の経済、高齢化、単身化、支払意思、信頼関係という現在の条件から見直してみると、それは昔の商売の生き残りではなく、人口が減る社会に合わせて再設計される、小さな地域ビジネスの一つの原型なのかもしれない。

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