地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

オーバーツーリズムの逆説

 観光地に暮らしている人は、その土地を観光客とはまったく違う方法で知っている。どの道が近いか、どの店なら昼休みにすぐ入れるか、どの時間ならバスが空いているか、桜が咲けばどこが渋滞し、紅葉が始まればどの道を避けた方がよいかまで、観光案内には載らないもう一枚の地図を頭の中に持っている。

 ところが観光地の人気が高まっていくと、その知識の意味が少しずつ変わることがある。以前なら「地元を便利に使うための知識」だったものが、いつの間にか「地元の混雑を避けるための知識」へ変わっていくのである。休日には駅前へ行かない。紅葉の季節にはあの道を使わない。昼時には観光客の多い店を避ける。観光シーズンには中心部へ出る時間そのものを変える。町から引っ越したわけではないのに、住民の日常生活から町の一部が少しずつ遠ざかっていく。

 オーバーツーリズムという言葉から、多くの人は狭い通りを埋め尽くす旅行者、満員のバス、長い行列を思い浮かべる。しかし、本当に興味深い変化は観光客が増えることそのものではなく、その結果として、そこに暮らしている人々の行動が静かに変わっていくことなのかもしれない。

観光地なのに、地元の人が行かない

 京都の紅葉シーズンを考えてみたい。東福寺や嵐山のような有名観光地には全国から多くの人が訪れるが、混雑する時期になると、京都に暮らす人の中には「あの辺りには近づかない」と考える人もいる。実際、京都市長の記者会見でも、紅葉期の東福寺周辺について、その時期には近づかないようにしている市民がいるという趣旨の発言がなされている。

 これは京都だけの特殊な現象ではないだろう。海水浴場のある町では夏の海岸道路を避け、花火大会の日には中心部へ車で出ない。大型連休には観光地周辺へ買い物に行かず、普段とは違うスーパーを使う。そうした一つ一つの行動は大げさな抗議でも観光への敵意でもない。ただ生活を少し楽にするための、ごく合理的な選択である。

 しかし、その選択が毎年繰り返されるようになると話は変わる。本来なら町の魅力であるはずの場所ほど地元の人が避けるという、奇妙な逆転が起こるからである。

 普通に考えれば、人気のある町は住民にとっても魅力的なはずだ。良い店が増え、交通が整備され、街並みが美しくなり、町の知名度が上がれば、その恩恵は住民にも及ぶ。ところが観光需要が地域の受け止められる範囲を超えて一部の場所や時間帯へ集中すると、その魅力そのものが混雑を生み、住民にとっての利用コストを高め始める。

 観光客にとって「一生に一度訪れたい場所」が、住民にとっては「混んでいるから今日はやめておこうという場所」になるのである。

京都市民は、観光を嫌っているのか

 だからといって、京都市民が観光そのものを嫌っていると考えるのは正しくない。

 京都市が2024年に行った市民意識調査では、回答者の70.6%が、観光は京都市の発展に重要な役割を果たしていると考え、65.8%が京都が観光で評価されることに誇りを感じていた。観光都市としての京都を肯定する意識は、決して低くない。

 ところが同じ京都で、観光による生活上の負担も非常に強く認識されている。2025年の市民意識調査では、回答者の70.6%が一部の観光地やその周辺の混雑に迷惑していると答え、バスや地下鉄などの混雑に迷惑している人は63.8%、道路渋滞では55.9%に達した。観光地の混雑、公共交通の混雑、道路渋滞、観光客のマナー違反のいずれか一つ以上について迷惑している人は79.9%だった。

 統計学的に見ても、2025年調査の有効回答数は2,745人あり、単純無作為抽出を前提にすれば70.6%という割合の標本誤差はおおむね数ポイント以内に収まる。もちろん、回答しなかった人々が回答者と同じ考えを持っているとは限らず、無回答による偏りまではこの計算では除けない。それでも、「相当数の市民が観光に伴う混雑を生活上の負担として認識している」という大きな傾向そのものは揺らぎにくい。

 ここで面白いのは、観光への誇りと観光への不満が矛盾していないことである。

 「世界中の人が京都へ来てくれるのはうれしい。しかし自分が通勤するときにはバスへ乗れるようにしてほしい」「町が評価されることは誇らしい。しかし休日に自分たちが歩けないほど混雑するのは困る」という感情は、十分に両立する。

 観光問題を「観光客を歓迎する人」と「観光客を嫌う人」という二つの陣営に分けてしまうと、住民の現実的な感覚を見失ってしまう。多くの人が望んでいるのは観光客がゼロになることではなく、観光と日常生活が同じ町の中で無理なく共存できることなのだろう。

人は不満を感じる前に、行動を変えている

 この問題を理解するうえで重要なのは、人間は必ずしも「もう我慢できない」と声を上げてから行動を変えるわけではないということである。

 むしろ普通の生活では逆だろう。道路が混んでいれば一本裏の道へ回る。昼時に混む店なら少し早く行く。駅前が混んでいれば別の場所で買い物をする。これを何度か繰り返すうちに、新しい行動が習慣になる。

 近年の観光研究でも、このような変化が実際に確認され始めている。2026年に発表されたバルセロナの観光混雑地域を対象とする研究では、住民が観光客との混雑を避けるため、移動する時間を変えたり、通る経路を変えたり、利用する交通手段そのものを変更したりしていることが報告された。

 これは興味深い結果である。住民は観光客に抗議して町を離れる前に、まず自分の生活を調整するのである。

 朝なら通れた道が昼には観光客で埋まるなら、午前中に用事を済ませる。混んでいる通りがあるなら裏道を使う。地下鉄の方が楽ならバスをやめる。その一つ一つは合理的な適応だが、長期間積み重なれば、住民が使う町と観光客が使う町の地理が少しずつ分かれていく。

 住民が町から追い出されるとは、必ずしも住民票を移すことを意味しない。自分の町の一部を生活の選択肢から外すことも、広い意味では空間からの後退なのである。

観光に成功した町ほど、二つの地図を持つようになる

 こう考えると、人気観光地には目に見えない二種類の地図が存在することになる。

 一枚は観光客の地図である。有名な寺社、写真を撮る場所、人気飲食店、土産店、駅から観光地までの道が太い線で結ばれている。

 もう一枚は住民の地図である。スーパー、病院、学校、役所、日用品店、いつも使う道路、空いている時間帯が中心になる。その地図では、有名観光地が必ずしも重要な場所とは限らない。むしろ「休日は通らない場所」「夏は避ける道路」「昼には行かない店」という印が付いていることさえある。

 物理的には一つの町でありながら、観光客と住民が異なる時間帯、異なる道路、異なる店舗を選ぶようになると、町は機能的には二重化していく。

 そして、この二つの地図があまりにも離れてしまえば、一つの疑問が生まれる。

 観光客が見に来ている「その土地らしさ」は、いったい誰によって維持されているのだろうか。

「地元の店」は、閉店しなくても消える

 この問題は道路や交通だけではない。

 たとえば地元の人が長く利用していた食堂が旅行情報や映像で紹介され、観光客の行列ができるようになったとする。店にとっては大きな成功であり、地域経済にとっても歓迎すべきことだろう。

 しかし、それまで昼休みに十五分で食事ができた地元客にとって、四十分並ばなければ入れない店は以前と同じ店ではない。さらに営業時間、値段、メニューまで観光客向けに変われば、生活者にとっての利用価値はますます低くなる。

 店は閉店していない。それどころか以前より繁盛している。しかし地元の人から見れば、一軒の店を失ったことと似た現象が起こる。

 ここに観光地特有の逆説がある。

 人口減少地域では、店がなくなることが問題になる。ところが人気観光地では、店が存在し、売上も伸び、人も集まっているのに、住民が日常的には利用しなくなることがある。統計上は「繁栄」しているのに、生活者が使える町の選択肢は狭くなるのである。

 観光地化によって商店の性格が変わり、日用品を扱う店が飲食店、宿泊施設、土産物店などへ置き換わっていく現象は、観光研究でも以前から指摘されてきた。もちろん、すべての観光地で同じことが起きるわけではない。それでも地域経済を分析するときには、店舗数や売上高だけでなく、「誰がその店を使っているのか」を見る必要があることは確かだろう。

住民が地元から心理的に離れる

 さらに興味深いのは、物理的な回避だけではない。

 2026年には、京都の長期居住者を対象として、オーバーツーリズムが住民の心理や場所への愛着にどのような影響を与えているかを調べた研究も発表されている。この研究は大規模統計ではなく38人への詳細な聞き取りを中心とした質的研究なので、その結果を京都市民全体へそのまま一般化することはできないが、観光による経済的利益を認識しながらも、生活空間の変化や心理的ストレスを感じ、変化した場所との心理的な距離が生まれる場合があることが示されている。

 これは「地元を避ける」という現象を考えるうえで重要である。

 人はある場所へ行かなくなるだけでなく、その場所を「自分たちの日常の場所」と感じなくなることがあるからだ。

 かつて自分が子どもの頃に遊んだ通りが観光客で埋まり、日用品店だった場所が宿泊施設や飲食店へ変わり、昔から通っていた店に行列ができる。街並みそのものは残っていても、「ここは自分たちの町だ」という感覚だけが薄れていく可能性がある。

 観光地としての知名度が上がるほど、住民にとって心理的に遠い場所になるとすれば、これはかなり皮肉な現象である。

京都市民自身は、京都を観光しなくなっているのか

 京都市の調査には、今回の問題を考えるうえで非常に興味深い数字がある。

 市民自身が半年に一回以上京都市内を観光している割合は、2023年の44.9%から2024年には44.3%となり、2025年には39.6%へ低下している。

 この数字だけを見れば、「観光客が増えたから京都市民が京都観光をやめた」と言いたくなる。しかし、それは科学的には言いすぎである。この調査は同じ市民を三年間追跡した実験ではなく、市内観光頻度の低下には物価、年齢構成、生活習慣、天候、娯楽の変化など、さまざまな要因が考えられるため、オーバーツーリズムとの因果関係をこの数字だけから証明することはできない。

 それでも興味深い変化ではある。

 世界中から京都を見ようと人が集まる一方で、京都に暮らしている人の市内観光頻度が低下している。この二つが偶然並んでいるだけなのか、それとも何らかの関係があるのかを調べることは、今後の地域分析として十分に価値があるだろう。

 観光客数だけを追っていたのでは、このような問いそのものが生まれてこない。

観光客が増えると、住民はなぜ避けるのか

 住民の行動を、もっと単純に考えてみることもできる。

 人がある場所へ行くかどうかは、その場所から得られる楽しさや利便性と、そこへ行くために必要な時間、費用、混雑、疲労などを無意識に比較して決めている。

 観光客が増え始めた初期には、地域に新しい店ができ、交通が便利になり、街並みが整備されることで住民側の利益も増える可能性がある。ところが観光客が一部の時間や場所へ集中し始めると、渋滞、行列、待ち時間、騒音、公共交通の混雑などの負担が大きくなっていく。

 そして、地元中心部へ行く利益より、別の場所へ行く方が楽だと感じるようになれば、人は当然そちらを選ぶ。

 これは観光客への好き嫌いとは別の問題である。

 地元のスーパーまで四十分かかるなら、二十分で行ける郊外店を使う。観光地を通るバスが毎回満員なら、車や鉄道に変える。行列のできる地元食堂より、すぐ入れる別の店を選ぶ。そうした選択は感情ではなく、生活上の合理性から生まれる。

 だからこそ、オーバーツーリズムを「観光客と住民の対立」とだけ考えるのは危険なのである。住民は観光客を嫌っていなくても、観光客の多い場所を避けることができるからだ。

住民感情は単純な一本道ではない

 観光研究では古くから、観光客の増加と住民感情の関係を説明するモデルが考えられてきた。

 代表的なのが、ジョージ・ドクシーによるIrridex(Irritation Index・観光客増加に伴う住民感情の変化を説明する概念モデル)である。観光客がまだ少ない段階では歓迎され、観光が日常化すると反応が薄れ、さらに観光負荷が高まると苛立ちや反発が強くなる可能性を示したモデルである。

 ただし、これは観光地が必ず同じ順序をたどるという法則ではない。観光産業で働いている人と観光とは無関係の仕事をしている人では利益と負担の感じ方が違い、観光客が集中する地区と離れた地区でも認識は異なる。また、行政が混雑をうまく管理できているか、観光収入が地域に還元されているか、観光客のマナーが良いかといった条件によっても住民の態度は変化する。

 スペイン・マヨルカ島のアルクディアで行われた研究では、オーバーツーリズムを強く感じる人ほど、地域を良い居住地だと評価する傾向が弱まり、観光から心理的に距離を取り、繁忙期の観光客削減を支持する傾向が強いことが示された。特に、オーバーツーリズムの認識と観光客削減支持との相関係数は0.529であり、社会科学の調査としては無視しにくい関係である。

 しかし、相関関係があるからといって、それだけで原因と結果が完全に証明されたわけではない。観光混雑を強く問題視している人だからこそ削減政策を支持している可能性もあり、別の地域特性が両方に影響している可能性もある。

 科学的に重要なのは、「観光客が増えれば住民は必ず観光を嫌う」と単純化しないことである。より正確に言えば、観光圧力が高まり、生活上の負担が利益を上回る状況になるほど、住民が観光空間から心理的、あるいは行動上の距離を取る可能性が高まる、と考えるべきだろう。

本当のオーバーツーリズムは「人数」だけでは測れない

 では何人の観光客が来れば、オーバーツーリズムになるのだろうか。

 実は、この問いには単純な答えがない。

 一万人の観光客が訪れても、広い地域へ一日中分散していれば問題にならないことがある。一方、数千人しか来なくても、狭い旧市街へ同じ時刻に集中し、住民が使う一本の道路と一つのバス路線を占有すれば、生活への影響は大きくなる。

 したがって、オーバーツーリズムの問題は観光客数だけでは決まらない。観光客の総数に加えて、どこへ集中するのか、何時に集中するのか、その地域の道路や交通機関がどこまで受け止められるのか、観光客と住民が同じ施設を利用するのか、行政が混雑を分散できるのかといった複数の条件によって決まる。

 その意味では、一年間の観光客数より「土曜日の午後二時に、この一本の道路へ何人いるか」の方が住民生活には重要な場合さえある。

 現在、観光政策でも、単純に訪問者数を増やすだけではなく、観光客を異なる地域や時間帯へ分散させ、住民生活の質と観光振興を両立させることが重視されるようになっている。

 観光の成功を測る物差しそのものが変わりつつあるのである。

観光統計には「住民の撤退」が映らない

 それでも、現在の観光統計が得意なのは観光客側を測ることである。

 何人訪れたのか。何泊したのか。いくら使ったのか。ホテルの稼働率は何%だったのか。こうした数字は比較的よく整備されている。

 ところが、「去年まで毎週駅前へ行っていた住民が、今年から月に一回しか行かなくなった」という変化を測る統計は少ない。混雑を避けるために一時間早く外出するようになった人も、観光客の多い道を通らなくなった人も、昔行っていた店を使わなくなった人も、通常の観光客数には当然現れない。

 住民は役所へ苦情を言わなくても行動を変えられる。

 だから、行政から見ると大きな問題が起きていないように見える時期から、住民の生活地図ではすでに変化が始まっている可能性がある。

 もし観光地の状態を本当に測るなら、「観光客が何人来たか」だけでなく、「地元住民がその場所をどのくらい利用しているか」も指標に加える必要があるのではないか。

 地元住民の商店街利用率、中心部への訪問頻度、公共交通の利用変化、観光シーズン中の経路変更、地域店舗の客層、市民自身の市内観光頻度などを長期的に追えば、現在の統計では見えにくいもう一つの観光地の姿が見えてくるはずである。

観光地として成功し、生活する町として失敗することはあるのか

 人気観光地ほど住民は地元を避けるようになるのかという最初の問いに戻ろう。

 答えは、「人気が高ければ必ず避ける」ではない。

 観光客が多くても、交通に余裕があり、観光客が地域や時間帯へ適切に分散され、生活に必要な店や交通が守られ、観光によって生じた利益が住民にも還元されていれば、観光の発展と暮らしやすさは十分に両立できる。

 逆に、それほど巨大な観光都市でなくても、狭い地域へ短期間に大量の観光客が集中すれば、住民にとっては十分に大きな負担になる。

 したがって問題なのは、「観光客が何人いるか」だけではなく、その観光客を地域社会がどのように受け止められているかなのである。

 そして、オーバーツーリズムの最初の兆候は、ニュースになるような住民抗議ではないのかもしれない。

 「今日は混んでいるからやめておこう。」

 その一言から始まる可能性がある。

 最初は一日だけ避ける。次には週末を避けるようになる。観光シーズンには別の道路を使うようになり、以前利用していた店には行かなくなる。それを何年も繰り返すうちに、その場所へ行かないことが住民にとって当たり前になる。

 そこには誰かに追い出されたという感覚さえないかもしれない。

 ただ気がついたときには、世界中から人が見に来る町の中心部を、その町に暮らしている人がほとんど利用しなくなっている。

 これは地域分析として考えると、かなり奇妙な状態である。

 観光客数は増えている。飲食店も繁盛している。ホテルも埋まっている。町の知名度も上がっている。通常の経済指標だけを見れば成功しているように見える。

 しかし、その繁栄している場所から住民の日常生活だけが静かに後退しているとしたら、私たちはその町を本当に「成功した観光地」と呼べるのだろうか。

世界中の人が訪れたい町から、住民が退いていく

 観光地の本当の価値は、写真に写る景色だけから生まれているわけではない。

 朝に店を開ける人がいて、子どもが学校へ通い、老人が買い物をし、誰かが犬を散歩させ、いつもの食堂でいつもの客が昼食を取る。旅行者が魅力を感じる「その土地らしさ」のかなりの部分は、実はそこに暮らす人々の日常生活によって作られている。

 ところが観光が成功しすぎて住民がその場所を使わなくなれば、観光客が見に来たはずの日常そのものが薄れていく。

 昔ながらの町並みは残っている。古い建物も残っている。観光客も大勢歩いている。それなのに、その場所で普通に暮らしている人だけが少なくなる。

 そうなった町は、やがて「生活している町」ではなく「生活している町を演じる観光空間」へ近づいてしまうかもしれない。

 だから持続可能な観光とは、遠くから来た人が「また来たい」と思うことだけでは十分ではない。

 そこで生まれた人や、そこへ移り住んだ人が、休日にも自分の町へ出かけたいと思えること。その町の店で食事をし、その町の交通を利用し、その町の景色を自分の日常として楽しめることまで含めて、初めて観光と生活は共存していると言えるのではないだろうか。

 世界中の人が訪れたい町から、その町の住民が静かに退いていく。

 もしそんな現象が起きているのだとすれば、オーバーツーリズムが問いかけているのは、単に「観光客を何人まで受け入れられるか」という数量の問題ではない。

 もっと根本にあるのは、「この町は誰のための場所なのか」という問いである。

 観光客に愛される町と、住民が使い続ける町。その二つを同じ場所に保てるかどうかが、これからの観光地の本当の成功を決めるのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 駅前に観光客が増え、休日になると飲食店の前に列ができる。海岸や観光施設の駐車場には県外ナンバーの車が並び、自治体の統計には前年を上回る来訪者数が記録され、「観光客過去最高」という言葉が広報紙や新聞を飾る。町は以前より賑やかになったように見えるのだが、そこで暮らしている人に話を聞くと、給料が上がったという実感は乏しく、商店街の空き店舗もそれほど減らず、若者の流出も止まっていない。

 人が増え、お金も使われているはずなのに、なぜ町に暮らす人の所得はそれほど増えないのだろうか。この疑問は、観光政策を考えるうえでかなり重要である。観光客数という数字は目に見えやすく、増減も分かりやすいため、自治体にとって目標に設定しやすい。しかし、観光客が町で使ったお金と、その町で暮らす人の所得として最終的に残るお金は、必ずしも同じものではない。

 観光客数が増えても住民所得が伸びない原因は一つではなく、地域の産業構造、生産性、季節性、雇用形態、人口構成なども関係する。そのなかでも、とくに見落とされやすい有力な原因の一つが、観光によって町に入ったお金が地域内に十分残らず、途中で地域外へ流れてしまうことである。

観光客が使った1万円は、町の所得1万円ではない

 旅先で1万円を使ったとしよう。宿泊代、昼食代、土産物代、交通費などとして支払われたその1万円を、私たちはつい「地域に1万円落ちた」と考えてしまう。しかし、その1万円すべてが地域住民の所得になるわけではない。

 たとえば宿泊施設が地域外の企業によって所有されていれば、利益の一部は地域外の本社へ移る可能性がある。レストランが町外から食材を仕入れていれば、その代金は町の外へ出ていき、土産物店の商品が遠方の工場で製造されていれば、販売された場所はその町でも、生産によって生まれる所得の多くは別の地域に帰属する。また、そこで働いている人が町外から通勤していれば、支払われた賃金の多くは町外の家計へ持ち帰られる。

 つまり、観光客の支出は町に入った瞬間にすべて住民所得へ変わるのではなく、仕入れ、賃金、利益、設備投資などに分かれながら、それぞれ別の場所へ流れていく。その過程で地域住民の賃金や地元企業の利益になった部分が、初めて地域に残る所得として意味を持つ。

 この違いがあるため、観光客数や観光消費額だけを見ても、町がどれだけ豊かになったのかは分からない。

「売れている町」と「稼いでいる町」は同じではない

 商品が1000円で売れたからといって、その1000円すべてが店の所得になるわけではない。商品を仕入れる費用があり、光熱費があり、設備費や輸送費があり、それらを差し引いたあとに、その事業によって新しく生み出された価値が残る。

 経済では、この新しく生み出された価値を付加価値として考える。さらに重要なのは、その付加価値が誰に分配されるのかということであり、従業員への賃金として地域住民に渡る場合もあれば、企業所得として地域外の本社や所有者に渡る場合もある。

 このため、町の観光関連売上が増加していても、地域住民の所得が同じ割合で増えるとは限らない。売上高が大きくても地域で生み出される付加価値が小さかったり、その付加価値のかなりの部分が地域外へ流出したりすれば、町の表面的な賑わいと住民の所得には大きな差が生まれる。

 大型観光施設ができ、来場者数が急増した町を想像すると分かりやすい。駐車場は満車になり、周辺道路には車が増え、自治体が発表する観光客数も大きく伸びる。しかし、施設を所有する企業、商品の仕入れ先、広告会社、予約を仲介する事業者などが町外にあり、地域に残るのが現場従業員への賃金の一部だけであれば、町全体として得られる所得は見た目ほど大きくないかもしれない。

 町には観光客がいる。売上も立っている。それでも豊かになった実感が弱いとすれば、町で生まれた売上と、町に残る所得との間に距離がある可能性を疑う必要がある。

本当に重要なのは、お金が地域内で次の所得を生むかどうかである

 同じ100万円の観光消費でも、その経済効果は地域によって異なる。違いを生む一つの要因が、最初の観光需要によって生まれた所得が、地域内の取引を通じてさらに別の所得を生むかどうかである。

 たとえば地元の旅館が地元農家から野菜を購入し、その農家が地域の商店で買い物をし、商店主が町内の事業者へ仕事を依頼すれば、最初に観光客が支払ったお金から生まれた所得が、別の取引を通じて次の所得を生み出していく。よく「お金が地域の中を何周するか」と表現されるが、同じ紙幣が物理的に何周もするという意味ではなく、ある人の支出が別の人の所得になり、それが新たな需要を生む連鎖のことである。

 一方、宿泊施設が食材も備品も地域外から購入し、利益を地域外へ送り、従業員の多くも町外から通勤しているなら、観光客が支払ったお金から生まれる所得は早い段階で地域外へ移っていく。

 観光地の賑わいだけを見ても、この違いはほとんど分からない。人通りの多さや駐車場の混雑は、観光客が来たことは示してくれるが、その消費から生まれた所得が地域内でどこまで広がったのかまでは教えてくれないからである。

日帰り客100人と宿泊客100人では同じ「100人」ではない

 観光客数という数字には、もう一つ大きな弱点がある。それは、経済的にはまったく異なる旅行者を、すべて同じ1人として数えてしまうことである。

 海岸を散歩して飲み物だけを買って帰る人も、町に宿泊し、夕食を食べ、翌朝に地元の店で土産を買う人も、観光客数という統計では同じ1人になることがある。しかし、地域で使われる金額は大きく異なる。

 その意味では、「今年は観光客を10万人増やす」という目標にはかなり大きな曖昧さがある。10万人増えても、その多くが短時間滞在で消費額が小さければ、地域所得への影響は限られる。一方、観光客数がほとんど増えなくても、宿泊する人が増え、滞在時間が長くなり、飲食や体験などへの支出が増えれば、地域に生まれる所得は大きくなる可能性がある。

 ただし、宿泊客なら必ず地域への経済効果が大きいと考えるのも正確ではない。宿泊料金そのものが高くても、その施設が地域外資本で、食材、備品、人材、予約サービスなどを広く地域外に依存していれば、地域に残る割合は小さくなることがある。

 だから見るべきなのは、単純な宿泊客数でも消費額でもなく、その消費のうち、どれだけが地域の所得へ変わったのかというところまで含めた構造である。

観光客が増えれば、町には費用も発生する

 観光には収入だけではなく費用もある。観光客が増えれば、道路や駐車場の利用が増え、ごみ処理、公衆トイレ、清掃、観光案内、景観整備などの行政負担が増えることがある。繁忙期に交通渋滞が発生すれば、観光に直接関係のない住民も移動時間の増加という負担を受ける。

 もちろん、これらは観光そのものを否定する理由ではない。問題なのは、観光による追加的な所得と、観光客増加によって地域社会に発生する追加費用との関係である。

 観光関連企業には売上が入り、その利益の一部が企業や所有者へ帰属する一方で、道路整備やごみ処理などを自治体が負担するなら、利益を受け取る主体と費用を負担する主体が一致しない場合がある。その結果、町全体では観光客が増えていても、住民が享受する利益は限定的で、行政負担だけが大きく感じられることも理論上あり得る。

 だから自治体が観光政策を評価するときは、来訪者数や観光消費額だけでなく、観光によってどれだけ住民所得が増え、そのために行政や住民がどれだけ追加費用を負担したのかという費用と便益の両面を見る必要がある。

地産地消を増やせばすべて解決するわけでもない

 観光消費を地域内に残す方法として、地元産品の利用がよく提案される。宿泊施設が地元の魚を使い、飲食店が地元農家の野菜を使い、土産物を地域企業が製造すれば、観光消費から生じる所得が地域に残りやすくなるという考え方であり、その方向自体には合理性がある。

 しかし、地元から買えば必ず地域が豊かになるというほど単純でもない。

 地元農家が野菜を生産していても、肥料、燃料、農業機械などを地域外から購入していれば、その段階で所得の一部は外へ流れる。地域内の加工会社が魚を加工していても、包装材、設備、物流サービスを地域外へ依存しているかもしれない。また、地域内企業の商品が極端に高価で生産性も低い場合には、地域内調達を増やすことだけが地域全体の利益を最大化するとは限らない。

 そのため本当に見るべきなのは、「地元企業から買ったか」だけではなく、その企業がどこから仕入れ、誰を雇い、どこへ利益を再投資し、どの程度の付加価値を生み出しているのかという一段深い構造である。

 地域経済とは、店が何軒あるかという話ではなく、企業と家計の間にどのような取引の網が張られているかという問題なのである。

観光客が多いのに若者が出ていく町

 観光地として有名でありながら、若い世代が仕事を求めて都市部へ出ていく地域も珍しくない。この現象も、観光客数だけを見ていると理解しにくい。

 観光産業が多くの雇用を生んでいても、需要が特定の季節に集中し、労働時間や雇用期間が安定せず、付加価値が低いために賃金を上げにくい構造であれば、仕事の「数」が存在しても、若い世代がそこで長期的な生活を組み立てられるとは限らない。

 ただし、すべての観光業が低賃金で不安定だと考えるのも適切ではない。高付加価値の宿泊業や飲食業、体験型観光、専門的サービスなどによって高い所得を生み出している地域もあるため、問題なのは観光業そのものではなく、どのような事業構造を持つ観光産業なのかという点にある。

 地域に必要なのは、単に雇用者数を増やすことではなく、その仕事によって住民が安定して生活できる所得を得られることである。

観光客数より住民所得を見れば、政策の景色が変わる

 ここまで考えると、観光客数という指標そのものが無意味なのではないことも分かる。観光客数は地域への需要の大きさを知る重要な指標であり、観光政策を考えるうえで必要である。ただし、それは最終目標というより、途中経過を示す指標として扱った方がよい。

 その先に、1人当たり消費額、宿泊率、滞在時間、地域内調達率、地域住民へ支払われる賃金、地域企業に残る利益、さらに観光関連の行政費用まで並べれば、その町の観光が地域経済にどのような影響を与えているのかが見えやすくなる。

 さらに考え方を進めれば、「観光客1人が増えることで地域住民の所得はいくら増えるのか」という指標も考えられる。観光客数を2倍にしても地域所得がわずかしか増えない町と、観光客数はほとんど変わらなくても地域内調達や高付加価値化によって住民所得が大きく伸びる町とでは、後者の方が地域経済として効率的である可能性がある。

 こう考えると、観光政策の目的も変わってくる。大量の観光客を集めることそのものではなく、限られた観光需要から地域に残る価値をどれだけ大きくできるかという問題になるからである。

ただし、観光客が増えたから所得が増えなかったとは簡単には証明できない

 ここで一つ注意しておかなければならないことがある。ある町で観光客が20%増え、その同じ時期に住民所得が伸びなかったとしても、それだけで「観光客を増やしても所得は増えない」と結論づけることはできない。

 住民所得には、観光以外にも多くの要因が影響する。製造業の縮小、高齢化、人口減少、通勤構造の変化、年金所得、景気、物価などが同時に動いているため、観光客数と所得の単純な比較だけでは因果関係を判断できない。

 実際に特定の町について観光が住民所得へどの程度影響したのかを調べるには、観光消費額だけではなく、地域企業の仕入れ先、従業員の居住地、賃金、企業所得、域外への支払い、観光関連行政費などを調べる必要がある。さらに厳密に分析するなら、産業間の取引関係や時系列変化、他地域との比較も必要になる。

 したがって、「観光客が増えているのに住民所得が増えない町」には一つの原因だけがあるのではなく、地域外への所得流出、生産性の低さ、雇用の季節性、産業構造などが組み合わさっていると考える方が現実に近い。

 この記事で考えている地域内の所得循環は、そのなかでも特に重要でありながら、観光客数という分かりやすい数字の陰に隠れやすい問題なのである。

本当に強い観光地は、人が多い町なのか

 観光地の成功を写真に撮ろうとすると、私たちはどうしても人の多い場所を選ぶ。満員の海岸、行列のできた飲食店、観光バスが並ぶ駐車場には、誰にでも分かる活気がある。

 しかし、地域経済の強さそのものは写真には写らない。

 宿泊料金のうち、いくらが地域住民の賃金になったのか。食卓に出された魚や野菜を誰が生産したのか。土産物を誰が製造したのか。企業の利益はどこへ行き、そこで働く人はどこに住み、受け取った給料をどこで使ったのか。観光客が町を離れたあと、その日に町へ入ってきたお金から生まれた所得が、どの程度地域に残っているのか。

 この流れを追わなければ、観光が本当に地域を豊かにしているのかは分からない。

 人口減少が進む地方では、とくにこの視点が重要になる。観光客を無制限に増やすことができる地域は少なく、道路や駐車場、環境容量にも限界がある。しかし、同じ数の観光客から生まれる地域所得を増やす余地は残されている。

 地域の旅館が地域企業と取引し、地域企業が住民を雇い、そこで生まれた所得が再び地域の店や事業者へ向かう。その循環を少しずつ太くできれば、巨大な観光地ではない小さな町でも、観光を地域経済の力へ変えることができる。

 反対に、その循環が細いまま観光客だけを増やしていけば、町は以前より賑やかになっても、住民の暮らしはそれほど豊かにならないかもしれない。

 観光客が帰った夕方、駐車場から車が消え、賑わっていた通りが静けさを取り戻したとき、その日町へ入ってきたお金から生まれた所得のうち、どれほどが町に残っているのだろうか。

 観光政策を評価するとき、本当に数えるべき数字は、訪れた人の数だけではない。その人たちが帰ったあと、地域にどれだけの価値が残ったのかという数字なのである。

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