地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

生活インフラ・地域サービス

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海に沈む夕日、雨上がりの石畳、朝霧の向こうに浮かぶ山、港で網をほどく漁師の背中。自治体の公式SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を眺めていると、日本の小さな町が、こちらの想像以上に美しく見えることがある。以前なら観光パンフレットの一ページに収まっていた風景が、いまでは十数秒の動画になって全国へ流れ、町の名前さえ知らなかった人が指先一つで「いいね」を押す。

 ところが、その町を実際に訪れてみると、画面の中とは少し違う風景に出会うことがある。あれほど多くの人に見られていた町なのに、駅を降りれば人影は少なく、商店街にはシャッターが並び、夕方になると町全体が静かになる。その反対に、自治体の公式アカウントが派手に話題になるわけでもないのに、休日になれば道路が渋滞し、駅から人があふれ、飲食店には行列ができる町もある。

 どうやら私たちは、画面の中でよく見かける町と、現実に人が集まる町を、いつの間にか同じものとして眺め始めているらしい。しかし「見られる」ということと「行かれる」ということの間には、思っている以上に長い距離がある。

人口より多くの人が、町を見ている

 三重県南伊勢町は、その距離を考えるには興味深い町である。町が運営する公式Instagramでは、海や漁業、食、季節の景色だけではなく、そこで暮らす人々の日常そのものが発信されている。2025年12月にはフォロワー数が1万284人となり、その時点の町人口1万166人を上回った。さらに2026年8月にはフォロワー数が1万3840人まで増え、同月末の人口9858人に対して約1.4倍に達している。

 人口1万人に満たない町を、それを大きく超える数のアカウントが外から見ている。これは自治体広報のあり方が、以前とはかなり違うものになったことを象徴している。かつての広報は、役場から住民へ制度や行事を知らせることが中心だったが、SNSでは住民票を持たない人まで町の受け手になる。町を離れた出身者も、一度旅行した人も、まだ訪れたことのない人も、同じ画面を通して一つの町とつながることができる。

 ここだけを見れば、SNSの成功がそのまま町への人の流れを生み出しているようにも思える。しかし、観光の数字を並べてみると、話はもう少し複雑になる。

 南伊勢町の観光入込客数は、2021年の19万630人から、2022年には19万4327人、2023年には25万6252人へ増えたものの、2024年は24万7073人となった。2023年から2024年にかけては約3.6%の減少である。一方、公式Instagramのフォロワーはその後も増え続け、2025年末には人口を超え、2026年にはさらに伸びている。

 この数字は、「SNSには効果がない」という意味ではない。むしろ重要なのは、SNS上の人気と現実の来訪者数が、同じ方向へ機械的に動いているわけではないということである。

 観光客数は天候によっても変わるし、大型イベント、道路事情、宿泊施設、旅行需要、景気、感染症などにも左右される。反対にフォロワー数は、投稿内容や更新頻度、動画の出来栄え、担当者の工夫によって変わる。二つの数字が同時に増えたとしても、それだけで一方が他方を増やしたとは証明できないし、逆に片方が減ったからといってもう片方に意味がないとも言えない。

 数字は、何かを語る。しかし一つの数字だけでは、町全体までは語ってくれない。

町公式Instagramがなくても、軽井沢には人が来る

 そこで、まったく違うタイプの町を見てみたい。

 軽井沢町が町公式のSNSとして案内しているのは、X、Facebook、LINE、YouTubeなどであり、少なくとも町役場の公式SNS一覧にはInstagramは掲げられていない。それでも軽井沢町の2024年の観光客利用者延数は約800万5000人に達している。

 箱根町ではさらに規模が大きく、2024年の入込観光客数は約2031万人で、そのうち宿泊客が約398万人、日帰り客が約1633万人だった。人口規模をはるかに超える人の動きが、一年を通して町に生まれている。

 もちろん、ここで注意しなければならないことがある。軽井沢の約800万人は「利用者延数」であり、異なる800万人の個人が一度ずつ訪れたことを意味する数字ではない。箱根町の入込観光客数についても、宿泊施設の報告や交通機関、観光施設などのデータを使って推計されており、町の入口で一人一人の顔を確認して数えた数字ではない。

 これは細かな統計上の注意に見えるが、この記事のテーマを考えると非常に重要である。フォロワー数にも観光入込客数にも、それぞれ固有の測り方があり、数字の背後には必ず「何を数えたのか」という仕組みがある。数字を比べる前に、単位が同じなのかを疑わなければならない。

 それでも、軽井沢や箱根が巨大な観光地であること自体が揺らぐわけではない。そこには鉄道や道路があり、宿泊施設があり、飲食店があり、長い年月をかけて作られた地域ブランドがある。温泉、自然、別荘文化、歴史といったものが重なり、町の名前そのものが旅行の目的になっている。

 言い換えれば、こうした町が持っているのは単なる「情報発信力」ではない。人が実際に身体を運ぶ理由と、運ぶ手段と、到着した後に時間を過ごす場所が、一つの地域システムとしてすでに出来上がっている。

「いいね」は身体を運んでくれない

 SNSには、現実の旅行にはない決定的な特徴がある。身体を動かさなくても成立することだ。

 北海道の雪景色を千葉県の自宅から眺めることができ、紀伊半島の入り江を東京の通勤電車の中で見ることもできる。気に入れば数秒で「いいね」を押し、あとで見たいと思えば保存できる。しかし、その場所へ本当に行こうとすれば事情は変わる。休みを確保し、交通手段を調べ、費用を払い、場合によっては宿を予約し、家族や同行者の日程まで合わせなければならない。

 画面の中では指一本で越えられた距離が、現実世界では時間と金と手間という摩擦に変わる。

 だから、ある町をSNSで知った人が全員そこを訪れるわけではない。町を知り、その中の一部が興味を持ち、さらにその一部が検索を行い、交通や予算を調べ、その条件を越えた人だけが実際に町へやって来る。そして来訪した人の中から食事をする人、宿泊する人、地域の商品を買う人が現れ、その一部がもう一度訪れる。

 自治体にとって本当に知りたいのは、最初のフォロワー数だけではなく、この長い過程のどこまで人が進んだのかということではないだろうか。

 フォロワーが10万人いても、ほとんどの人が画面の中から町を眺めるだけなら、その町に落ちる観光消費は限られる。反対にフォロワー数がそれほど多くなくても、実際に訪れた人が何泊か滞在し、地元の店で食事をし、再び戻ってくるのであれば、地域との関係はずっと深い。

 「見た」という数字と「来た」という数字と「泊まった」という数字と「また来た」という数字は、似ているようでまったく違うのである。

フォロワー数は、町だけを測っているのではない

 さらに厄介なのは、SNSのフォロワー数が町そのものの魅力だけで決まるわけではないことである。

 地方自治体による観光情報発信を扱った研究では、Xを対象に分析した結果、フォロワー数の多いアカウントの中には、フォローや投稿の共有を応募条件とするキャンペーンによってフォロワーを獲得している例が確認されている。つまりフォロワー数には、地域への純粋な関心だけではなく、アカウントの運営方法も入り込んでいる。

 同じ町であっても、写真の撮り方、動画編集、投稿する時間、更新頻度、担当職員の経験、人気キャラクターの存在、キャンペーンの有無によって数字は変わる。極端に言えば、町の魅力を測っているつもりが、実は広報担当者の技術を測っていることさえあり得る。

 だからといって、自治体SNSのフォロワー数に意味がないわけではない。情報を必要とする人へ届ける能力もまた、現在の自治体には必要な力だからである。ただし「発信のうまい自治体」と「人を呼べる地域」と「住みたいと思われる町」は、それぞれ別の能力である。

 優れた映画の予告編を作る能力と、優れた映画そのものを作る能力が同じではないように、町を美しく見せる能力と、そこへ行った人を満足させる能力も同じではない。

人口で割れば「人気指数」になるのか

 南伊勢町のようにフォロワー数が人口を上回ると、単純なフォロワー数よりも、人口に対する比率を見たくなる。2026年8月の数字なら、1万3840人のフォロワーを人口9858人で割ると約1.40になる。

 小さな町が、自らの人口の1.4倍に相当するフォロワーを持っているという事実は確かに興味深い。しかし、この1.40をそのまま「地域人気指数」のように扱うことはできない。

 なぜなら分子にあるのはInstagram上のアカウント数であり、分母にあるのは住民基本台帳上の住民数だからである。フォロワーの中には町民もいるだろうし、町外の出身者も、観光経験者も、まだ訪れたことのない人もいる。一人が複数のアカウントを持つこともあり、企業や団体のアカウントが含まれることもある。

 したがって「フォロワー数÷人口」が示しているのは、町の人気そのものというより、人口規模に対して公式アカウントがどれほど大きな情報ネットワークを形成しているか、という一つの補助的な見方だと考える方がよい。

 それでも、この指標には面白さがある。人口100万人の都市が5万人のフォロワーを持つ場合と、人口1万人の町が1万人を超えるフォロワーを持つ場合では、その数字が持つ社会的な意味は違うからだ。

 大切なのは、数値をランキングに変えて勝ち負けを決めることではなく、「なぜ人口の小さな町を、これほど多くの人が外から見ているのか」と問い直すことである。

SNSで人気なのに人が来ないとすれば、どこで止まっているのか

 ここまで考えると、「SNSで人気なのに人が来ない町には共通点がある」と決めつけることはできない。全国の多くの自治体について、フォロワー数、投稿数、観光客数、宿泊施設、交通利便性、大都市圏からの距離などを統計的に比較しなければ、そのような一般化はできないからである。

 しかし、一つの仮説を立てることはできる。

 SNSで「行ってみたい」と思わせるところまでは成功しているのに、その先にある「どうやって行くのか」「到着したら何をするのか」「どこで食べるのか」「どこに泊まるのか」という段階で、人が止まってしまう町があるのではないか。

 たとえば夕日の美しい海岸を動画で見て心を動かされたとしても、最寄り駅からの交通手段が分かりにくく、食事のできる場所や宿泊施設の情報も見つけにくければ、「いつか行きたい」という気持ちは、そのままスマートフォンの保存一覧の中で眠り続けるかもしれない。

 もしそうであるなら、自治体が次に考えるべき課題は、フォロワーをさらに増やすこととは限らない。情報発信という入口が十分に機能しているなら、その先にある二次交通、宿泊、飲食、予約のしやすさ、周遊の仕組みを改善した方が、人の動きにつながる可能性がある。

 長い間、「地方には魅力があるのに発信できていない」と言われてきた。しかしSNS時代には、魅力を伝えることには成功しているのに、現実の地域側がその関心を受け止めきれないという、逆方向の問題も考えなければならない。

本当に人が集まっているかは、別の数字が教えてくれる

 では、町に本当に人が集まっているかを知りたければ、何を見ればよいのだろう。

 残念ながら、答えはSNSの画面ほど華やかではない。観光入込客数だけでなく、宿泊客数、交通機関の利用、人がどれくらい滞在したのか、地域でどれくらい消費したのか、何度訪れたのかといった異なる数字を重ね合わせる必要がある。

 しかも、単純に人数が多ければよいとも限らない。年間100万人が訪れても、短時間で通過し、地域ではほとんど消費しない町があるかもしれない。その一方で来訪者が20万人でも、数泊して地元の宿や飲食店を利用する人が多ければ、地域経済への影響は大きくなる。

 近年では携帯電話の基地局情報やGPS(Global Positioning System・全地球測位システム)などから得られる人流データを使い、どこから人が来て、どの場所に滞在し、どのように移動したのかを捉える方法も使われ始めている。従来の「何人来たか」という数字から、「どんな動きをしたか」を見る方向へ、地域分析そのものが変わりつつある。

 こうなると、観光政策で本当に知りたい数字も変わってくる。町を知った人が何人いるのかだけではなく、そこから何人が訪れ、何時間滞在し、どの地域を歩き、いくら使い、何年後に戻ってきたのか。その連続した流れを見なければ、SNSの成功が地域の成功に変わったのかどうかは分からない。

それでもSNSには、従来の統計にはないものが映っている

 ここまで数字の限界を書いてくると、自治体SNSのフォロワー数など見ても仕方がないように感じられるかもしれないが、そうではない。SNSには、従来の観光統計では捉えにくかった人たちが映っている。

 観光入込客数が数えるのは基本的に、すでに地域へ来た人である。しかしSNSには、町を知ったばかりの人、まだ訪れたことはないが興味を持っている人、以前訪れて好感を持った人、故郷を離れて暮らしている人、遠くから町を応援している人も含まれる。

 もちろん、フォロワー数だけを見ても、その中の何人が未訪問者で、何人が観光経験者なのかは分からない。それを本当に知りたければ、フォロワーへの調査が必要になる。それでも、住民と観光客という二つの箱だけでは収まらない人々が、町の周囲に存在していることをSNSは可視化している。

 住んではいないが毎年訪れる人、地元の商品を買う人、ふるさと納税をする人、町の写真を共有する人、いつか訪れたいと思って情報を見続ける人は、住民でも典型的な観光客でもない。しかし人口が減少する地域にとって、このような薄く長い関係を持つ人々は、今後ますます重要になっていくだろう。

 そう考えると、SNSのフォロワー数は「観光客数の代用品」として見るからおかしくなるのであって、「町との弱いつながりがどこまで外へ広がっているかを見る数字」として扱えば、別の価値が見えてくる。

「人気の町」という言葉を、一度疑ってみる

 自治体公式SNSで人気の町と、実際に人が集まる町は同じなのか。

 現時点のデータから、全国の自治体について「両者には相関がない」とまで言うことはできない。それを証明するには、多数の自治体を対象に、フォロワー数だけではなく、人口、交通、宿泊施設、大都市圏からの距離、観光資源、投稿頻度などを同時に調べる必要がある。

 さらに難しいのは因果関係である。SNSが人気になったから観光客が増える場合もあれば、もともと有名で観光客の多い町だからSNSのフォロワーも増える場合がある。軽井沢や箱根のような観光地を考えれば、後者の方向が存在することも容易に想像できる。

 だから、「フォロワーが多いから人気の町だ」という説明も、「フォロワーを増やせば観光客が増える」という説明も、数字の見た目ほど単純ではない。

 むしろ町を見るときには、何人が知っているのか、何人が興味を持っているのか、何人が実際に訪れたのか、何人が泊まったのか、そして何人がもう一度戻ってきたのかを、別々の問いとして考えた方がよい。

 南伊勢町の公式Instagramを見ている1万3840のアカウントと、軽井沢を訪れる年間約800万の利用者延数と、箱根の約2031万という入込観光客数は、一見するとすべて「人気」を表す数字に見える。しかし実際には、それぞれ違う現象を測っている。

 その違いを消して一列のランキングに並べると、町は単純になる。しかし違いを残したまま眺めると、地域は急に複雑で面白いものになる。

 画面の中では、人口1万人に満たない小さな町でも、一枚の美しい写真によって何万人もの視線を集めることができる。しかしスマートフォンを閉じれば、その町には道路があり、バス停があり、店があり、宿があり、そこで暮らしている人がいる。

 「いいね」が増えることと、町に人の足音が増えることは同じではない。

 けれど、その二つの間にある距離を測ることができれば、なぜ人が町を知り、なぜ行こうと思い、なぜ実際に訪れ、あるいはなぜ画面の中で引き返すのかが見えてくる。

 自治体SNSの本当の価値を考えるべき場所は、フォロワー数の大きさそのものではなく、おそらくその距離の中にある。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の町を車で走っていると、ときどき不思議な感覚に襲われる。昔そこに何があったのかはもう思い出せないのに、新しく建ったドラッグストアの姿だけは妙にはっきり目に入ってくるのである。広い駐車場に大きな看板、明るい店内には薬だけでなく、牛乳、卵、パン、冷凍食品、菓子、洗剤、ティッシュ、化粧品、酒まで並び、かつて「薬を買う場所」だったはずのドラッグストアは、いつの間にか町の小さな生活百貨店のような存在になった。

 しかも興味深いのは、日本全体では人口減少が続いているにもかかわらず、ドラッグストア市場はなお拡大していることである。経済産業省の商業動態統計によれば、2025年のドラッグストア販売額は前年より5.5%増え、店舗数も3.6%増加した。人口が減れば店も減るという単純な関係では説明できない現象が、現実には起きているのである。

 ただし、ここで一つ慎重にならなければならない。日本全体で人口が減る一方、ドラッグストアの店舗数が増えているという事実と、人口が減っている市町村ほどドラッグストアが増えているという事実は同じではない。後者を証明するためには市町村単位の人口推移と店舗数を重ねて分析する必要があり、全国統計だけからそこまで断定することはできない。それでも、人口減少社会のなかでドラッグストアという業態だけが存在感を強めていること自体は、現在の地方の暮らし方を考えるうえで十分に興味深い。

 住民の立場から見れば、新しいドラッグストアは歓迎すべき存在に見える。薬を買えるだけでなく、食品も日用品もそろい、夜まで営業していて駐車場も広い。スーパー、薬局、化粧品店、酒屋を別々に回らなくても、一つの店でかなりの買い物が済むのだから、忙しい家庭にも高齢者にも便利である。

 それでは、ドラッグストアが増えた町は本当に「便利な町」になったのだろうか。この当たり前に見える問いを少し疑ってみると、地方の商業が静かに組み替えられている姿が見えてくる。

薬を売る店で、なぜ食品を買うようになったのか

 昔ながらの薬局を思い浮かべれば、現在のドラッグストアの姿はかなり違って見える。店の奥には医薬品が並んでいるが、入口近くでは飲料や菓子が山積みになり、冷蔵ケースには牛乳や豆腐、冷凍ケースには食品が並んでいる。店舗によっては酒や生鮮食品まで扱っており、もはや「薬を売る店」という説明だけでは実態を表せない。

 数字を見ると、この変化が単なる印象ではないことが分かる。2025年のドラッグストアでは食品販売額が前年より9.1%増加し、食品は販売額全体のおよそ3分の1を占めるまでになった。ドラッグストア市場の成長を支えている商品群の一つが、薬ではなく食品なのである。

 なぜ薬を売る店が食品をこれほど重視するのか。その理由を考えると、ドラッグストアという業態の強さが見えてくる。牛乳や卵、飲料、菓子、冷凍食品などは日常的に購入されるため、消費者を繰り返し店へ呼び込む力がある。食品を買いに来た人が洗剤を買い、化粧品を買い、必要になれば医薬品も買うようになれば、一つの店舗で複数の需要を取り込むことができる。

 流通研究でも、食品カテゴリーの購入がドラッグストアへの来店頻度や継続利用と結び付くことが示されている。つまり食品は単に売上を作る商品であるだけでなく、「またこの店へ来る」という習慣を作る役割も持っているのである。

 この変化を地域の側から見ると、さらに別の意味が現れる。住民一人が一か月に使えるお金には限りがあり、人口が減ったからといって一人の人が二倍の歯磨き粉を使ったり、三倍の牛乳を飲んだりするわけではない。その状況でドラッグストアの食品や日用品の販売が伸びれば、これまでスーパー、薬局、化粧品店、酒屋などに向かっていた消費の一部が移動している可能性を考える必要がある。

 ただし、それは「ドラッグストアが個人商店を潰した」という単純な因果関係を意味しない。地方の商店が減る背景には人口減少、経営者の高齢化、後継者不足、消費者行動の変化、自動車社会への移行など多くの要因があり、そこへ大型小売業やチェーン店との競争が加わっていると考える方が現実に近い。

 したがってドラッグストアの増加は、地域商業衰退の原因というより、人口減少社会における消費構造の変化に適応した結果として見る方がよい。薬、食品、日用品、化粧品など、かつて複数の店が分担していた役割を一つの店舗に集め、広い商圏から客を集めることで、人口が増えなくても商売を成立させるのである。

「一軒で全部買える」という便利さ

 仕事を終えた夕方、車を停めて店に入り、風邪薬を買い、牛乳を買い、洗剤を買い、翌朝のパンまで買って帰ることができれば、その便利さを否定する理由はない。一つの店舗で買い物が終われば、移動時間も店を探す時間も短縮され、生活は確実に効率的になる。

 しかし、「一軒ですべて買える」という便利さには少し皮肉な性質がある。一軒で買い物が完結するほど、二軒目や三軒目へ行く必要がなくなるからである。

 かつて町には、薬は薬局、肉は肉屋、魚は魚屋、酒は酒屋、日用品は雑貨店というように、それぞれ別の役割を持つ店が存在していた。それを昔の美しい風景として無条件に懐かしむ必要はなく、営業時間が短かったり、品ぞろえが少なかったり、価格が高かったりした店も当然あった。それでも、多くの異なる店が存在するということは、町のなかに複数の商売と複数の選択肢が存在することでもあった。

 ドラッグストアは、それらの役割の一部を一か所へ集約する。消費者個人から見れば移動する必要がなくなって便利になる一方、町全体から見れば利用する店舗の種類が少なくなる可能性があり、ここに「個人にとっての便利さ」と「町全体の便利さ」が必ずしも一致しない理由がある。

 家から五分のところに大型店が一軒ある町と、十分以内に性格の違う店が五軒ある町では、どちらが便利なのだろう。価格や移動時間を重視すれば前者かもしれないが、商品の選択肢や店同士の多様性を重視すれば後者かもしれず、さらに唯一の大型店が撤退したときのことまで考えれば答えは変わってくる。

 つまり、便利さとは店の数だけでは測れないのである。

「増えた店」だけを見ていると、町の変化を見誤る

 町を観察するとき、人は新しくできたものには敏感だが、静かに消えていったものには意外と気づかない。新しいドラッグストアの大きな看板は目に入るが、その数年前に閉店した小さな薬局や酒屋、化粧品店、食料品店のことは時間とともに忘れられていく。

 そうなると町の記憶には、「ドラッグストアが増えた」という変化だけが残る。

 しかし、本当に地域を分析しようとするなら、増えた店だけを数えても十分ではない。十年あるいは二十年という時間のなかで、どの種類の店が増え、どの種類の店が減ったのかを同時に見る必要がある。もし薬局、酒屋、個人商店、小型スーパーなどが減る一方でドラッグストアが増えている地域があるなら、そこでは単純に店舗が増えたのではなく、地域消費の受け皿となる業態が変化した可能性がある。

 大規模小売店の出店が周辺の既存店に与える影響については国内でも実証研究が行われており、既存の食料品店などの売上や存続に負の影響が現れる例も確認されている。ただし、その影響は店舗の種類、規模、距離、商圏などによって異なり、大型店ができれば必ず既存店が消えるというほど単純ではない。

 だからこそ、「ドラッグストアが増えた町」を見るときには、それを犯人探しにしてはいけない。むしろ、消費者がどの店を選ぶようになり、その結果として地域の商業構造がどのように変化したのかを見る方が面白い。

 消費者が便利で安い店を選ぶことは合理的であり、店側がそれに応えることも合理的である。しかし、誰も間違った判断をしていないのに、十年後の町の風景がまったく違うものになることがある。市場というものの興味深さは、まさにそこにある。

高齢社会でドラッグストアが担うもの

 ドラッグストアと高齢社会の関係も単純ではない。「高齢者が増えたからドラッグストアが増えた」と因果関係を決めつけることはできず、店舗立地には人口密度、交通量、競合状況、土地価格、企業の出店戦略など多くの条件が影響する。

 それでも、現在のドラッグストアが高齢社会で担える役割が大きいことは間違いない。医薬品だけでなく、衛生用品、介護関連商品、食品、日用品などを扱い、調剤薬局を併設する店舗であれば、医療機関を受診したあと薬を受け取り、そのまま生活用品や食品まで買って帰ることができる。

 ところが、この便利さには一つの条件が潜んでいる。

 店まで行けなければならないのである。

 地方のドラッグストアには、幹線道路沿いに大きな駐車場を備え、自動車で来店することを前提としている店舗が少なくない。車を運転できる人にとっては非常に便利だが、運転できなくなった瞬間、同じ店が突然遠い場所へ変わる可能性がある。

 農林水産省は食料品へのアクセスを考える際、店舗まで500メートル以上離れ、自動車を利用することが困難な65歳以上の人を「食料品アクセス困難人口」として把握している。2020年には全国で約904万人、65歳以上人口のおよそ4人に1人がこの条件に該当すると推計されている。

 この数字が示しているのは、店が存在することと、その店を利用できることが同じではないという事実である。

 六十代では車で五分の大型店を便利だと感じていた人が、八十代になって免許を返納すると、その店へ行く交通手段を失うかもしれない。そのとき、以前なら歩いて行けた小さな商店がすでになくなっていれば、「大型店がある便利な町」は突然、「買い物へ行けない町」に変わる。

 したがって町の便利さを考えるなら、「店があるか」という問いだけでは足りない。「誰が、どのような交通手段で、その店へ行けるのか」まで考える必要がある。

安さが示しているのは、所得よりも買い物行動かもしれない

 ドラッグストアの大きな魅力の一つが価格であることは間違いない。食品や日用品が安く売られていることも多く、家計にとってその恩恵は大きい。

 しかし、ここから「ドラッグストアが多い町は所得が低い」と結論づけることはできない。店舗立地には所得以外にも人口、交通量、地価、物流、競合店舗、商圏人口、企業ごとの出店戦略など多数の要因が関係しているため、店舗数だけから住民の経済状態を推測すれば誤った結論に到達する危険がある。

 むしろ地域分析として興味深いのは、所得そのものより「住民がどのような買い方を選んでいるか」である。

 一つの店舗で食品と日用品をまとめて買いたいのか、安さを重視するのか、専門店を使い分けるのか、車で遠くまで買い物へ行くのか、近所の店を頻繁に利用するのか。こうした小さな選択が積み重なり、その町で成立する店舗の種類を変えていく。

 店は単に商品を置いている建物ではない。その町に暮らす人が、何を買い、どこまで移動し、何を一度に済ませ、何に時間と金を使うのかという日常行動の結果として存在している。

 そう考えると、ドラッグストアの看板は人口統計とは別の意味で、地域生活を読むための一つのデータになる。

店が増えても、町の機能が増えたとは限らない

 最も重要なのは、ドラッグストアが増えること自体ではない。

 同じ種類の店ばかり増えることである。

 ドラッグストア同士が競争すれば、価格が下がり、品ぞろえが充実し、営業時間も便利になる可能性がある。しかし、どれほど立派なドラッグストアが三軒あっても、それだけで本屋、衣料品店、飲食店、電器店などの役割まで満たせるわけではない。

 つまり「店舗数」と「町に存在する機能の種類」は別のものである。

 十軒の店があっても九軒が同じような業態なら、数字の上では店が多い町でも、生活上の選択肢は意外に狭いかもしれない。反対に店舗数が少なくても、スーパー、飲食店、本屋、医療機関、衣料品店、ホームセンターなど異なる機能が残っていれば、町の生活には一定の多様性が残る。

 チェーン店の増加が商業空間を均質化させる可能性については、都市計画や商業研究の分野でも指摘されている。全国どこへ行っても同じ看板、似た建物、似た商品構成が現れることで、買い物の安心感や効率性は高まる一方、土地ごとの商業景観の違いは小さく見えるようになる。

 ここでも「チェーン店は悪い」という話にする必要はない。むしろチェーン店が成功するのは、それを利用する消費者に明確な利便性があるからであり、問題は便利さそのものではなく、地域全体の機能が一つの種類へ偏りすぎていないかという点にある。

 ドラッグストアが増えた町は、便利になっていないわけではない。ただ、町全体の便利さが増えたというより、「ある種類の便利さが非常に強くなった」と考える方が正確かもしれない。

「便利な一軒」がなくなったとき

 大型店舗へ買い物機能が集まることには、もう一つ見落とされやすい問題がある。その店がなくなったときである。

 地方都市では、大型店が撤退したあと地域住民の買い物環境が急激に悪化した事例が実際に研究されている。もちろん一つの事例を全国へそのまま当てはめることはできないが、生活機能を少数の店舗へ集中させれば、その店舗が撤退した際の影響が大きくなるという構造は理解しやすい。

 商売である以上、どんな店舗も永遠に存在する保証はない。人口が減り、競争環境が変化し、企業が出店戦略を変更すれば、昨日まで町の中心だった大型店が閉店することもある。

 ここに「効率」と「冗長性」の違いがある。

 同じ役割を担う小さな店がいくつも存在する町は、一見すると非効率かもしれない。しかし一軒がなくなっても別の店が残るという意味では、地域としての耐久力を持っている。反対に、一つの大型店ですべてを済ませられる町は非常に効率的だが、その一つへの依存が高まれば、撤退したときの影響も大きくなる。

 町の便利さを考えるなら、今日の買い物がどれほど楽かだけでなく、その便利さが十年後にも残っているかという視点が必要なのである。

ドラッグストアの駐車場から、町の未来を見る

 夕方になると、地方のドラッグストアの駐車場には次々と車が入ってくる。会社帰りの人、高齢の夫婦、子どもを乗せた家族が店へ入り、食品や薬や日用品を買って帰っていく。その風景だけを見れば、ドラッグストアが地域生活を支えていることに疑いはない。

 だから、ドラッグストアを地方衰退の象徴として描くのも正しくない。

 むしろ人口が減り、高齢化が進み、買い物行動が自動車中心になった地域社会に適応しながら、薬、食品、日用品を供給し続ける店舗として、現在のドラッグストアは非常に合理的な存在である。

 しかし、合理的な店舗が増えることと、町全体が豊かになることは同じではない。

 薬も買える。食品も買える。洗剤も買える。夜まで営業していて駐車場も広い。それでも別の場所では本屋がなくなり、衣料品店がなくなり、食堂が減り、個人商店が閉じていくのだとすれば、私たちは単純に「不便な町から便利な町へ」移動しているのではなく、「多様な町から効率的な町へ」移動しているのかもしれない。

 効率的な町は暮らしやすいが、効率だけを追求した町は、何か一つが失われたときに思いがけない弱さを見せることがある。

 だから地域を見るときには、ドラッグストアが何軒あるかだけを数えてはいけない。その周囲で何が消えたのか、どの種類の店が残っているのか、誰が車で来ているのか、車を使えなくなった人はどこで買い物をしているのか、そして十年後にも同じ生活が可能なのかまで考える必要がある。

 ドラッグストアの増加は、町が発展した証拠でも、衰退した証拠でもない。

 それは、人口が減っても暮らしは続き、人が減っても買い物はなくならず、限られた消費をめぐって商業の仕組みそのものが静かに組み替えられていることを映す、一つの風景なのだろう。

 次に新しいドラッグストアを見つけたとき、「またできた」とだけ思わず、その広い駐車場の向こう側まで少し眺めてみるとよい。そこには新しくできた店だけではなく、消えていった店、変わっていく住民の生活、車を降りた後の高齢者の暮らし、そしてこれからその町がどのような場所になろうとしているのかまで、ぼんやりと映っているのかもしれない。

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 町から店が一軒消えるとき、その変化はたいてい静かに始まる。ある日突然、商店街全体がなくなるわけではなく、最初は高齢になった店主が店を閉め、しばらくすると衣料品店のシャッターが下り、その数年後には本屋や靴店がなくなっている。それでも食品店やコンビニエンスストアが残っているうちは、町の生活は以前とそれほど変わっていないように見えるが、最後に日常の買い物を支えていた店まで閉じると、住民は初めて、その町がいつの間にか別の生活圏へ変わっていたことに気づく。

 では、店が成立しにくくなる人口には境界線があるのだろうか。人口5000人ならまだ大丈夫で、4000人を割ると危険になるのか、それとも人口1000人の町でも小売業は十分成立するのか。この問いには、実は参考になる公的統計がある。ただし、その数字をそのまま「店舗経営の採算人口」と読んでしまうと、地域商業の実態をかえって見誤ることになる。

人口600人の自治体にも食料品店は存在する

 国土交通省は、三大都市圏を除く市町村について、人口規模と各種生活サービス施設の存在との関係を分析している。その結果を見ると、飲食料品小売業が存在する自治体の割合が50%を超える人口規模はおよそ600人、80%を超えるのはおよそ2200人とされている。コンビニエンスストアでは50%がおよそ2200人、80%がおよそ3800人となり、さらに総合スーパーでは50%がおよそ4万7500人、80%がおよそ6万2500人にまで上昇する。スポーツ用品店や男子服店など購入頻度の低い専門店も、食品店やコンビニエンスストアよりかなり大きな人口規模を必要とする傾向が示されている。

 もっとも、この数字には重要な注意が必要である。国土交通省が示しているのは、ある人口規模の自治体のうち、その業種の事業所が一つ以上存在する自治体の割合であって、「人口600人いれば食品店が黒字になる」「人口3800人いればコンビニエンスストアの採算が取れる」という意味ではない。600人という数字は、人口600人程度の自治体でも半数程度には何らかの飲食料品小売業が存在していたという統計上の境目であり、店舗経営に必要な損益分岐点を示したものではないのである。

 さらに、この施設立地確率の分析には2014~2015年前後の経済センサスや商業統計などが用いられているため、現在の出店基準そのものを表した数字でもない。その後、インターネット通販は一段と普及し、人件費や物流費も上昇し、ドラッグストアやコンビニエンスストアを取り巻く競争環境も変化した。したがって、600人、2200人、3800人という数字は、現在の企業が用いる最新の採算基準ではなく、全国の立地実態から人口規模と施設の存在との関係を捉えた目安として読むのが適切である。

店を支えているのは行政人口ではなく商圏である

 小売店を支えるのは、市役所の統計表に載っている人口そのものではない。実際にその店まで来て、商品を購入する人の数と、その人たちがそこで使う金額である。人口5000人の町に食品スーパーが一軒あったとしても、5000人全員がそこで買い物をするわけではなく、隣の市の大型店へ車で行く住民もいれば、通勤先で買い物を済ませる人もおり、宅配やインターネット通販へ消費が流れることもある。

 反対に、人口2000人ほどの町であっても、観光客が年間を通して訪れ、周辺地域からも買い物客が流入するのであれば、住民人口だけでは説明できない規模の商業が成立する可能性がある。この意味で、本当に重要なのは行政区域の人口ではなく、店舗が実際に取り込める商圏人口と購買力であり、そこには住民だけでなく観光客、通勤者、通過交通による需要が加わる一方、競合店舗や域外への買い物流出による減少も生じる。

 同じ人口3000人でも、住宅が一つの市街地にまとまっている地域と、山間部や海岸沿いに集落が広く分散している地域では、小売店にとっての市場の大きさは同じではない。前者では比較的短い距離の中に顧客が集まっているため、一店舗へ需要を集約しやすいが、後者では行政人口が3000人存在していても、どこに店舗を置いても十分な人数を近距離から集めにくい場合がある。そのため人口密度や住民の空間的な分布も、小売店の成立条件を考えるうえで重要な説明要因になる。

人口が減ると、店は一斉になくなるのではない

 人口減少地域を考えるときに興味深いのは、すべての業種が同じ人口規模で消えていくわけではないことである。国土交通省の分析では、飲食料品小売業がかなり小規模な人口でも存在するのに対し、スポーツ用品小売業の存在割合が50%を超える人口規模はおよそ8500人、80%ではおよそ1万7500人、男子服小売業ではそれぞれおよそ1万2500人と2万2500人まで大きくなる。

 この違いは、小売業の商品特性を考えれば理解しやすい。食料品は毎日のように購入されるため、一人の住民が一年間に生み出す需要が比較的大きいが、衣服やスポーツ用品を毎日買う人はいない。購入頻度が低ければ、一人当たりから得られる年間売上も小さくなり、その分だけ広い商圏から多くの顧客を集めなければ店舗を維持しにくくなる。

 ただし、この統計だけから「人口が減ると必ず専門店から順番に閉店する」とまでは断定できない。国土交通省の分析は、人口の異なる多数の自治体を比較した横断的な分析であり、同じ町を長期間追跡して、どの業種がどの順番で撤退したのかを調べたものではない。それでも立地確率を見る限り、専門性が高く購入頻度の低い店舗ほど、大きな人口規模を必要とする傾向があることは明瞭であり、人口減少の影響を受けやすい構造にあると考えることはできる。

 こうして地域商業の衰退は、「店がある状態」から突然「店がない状態」へ変わるのではなく、最初に購入頻度の低い商品の選択肢が少なくなり、その後、日常商品を扱う店舗同士の競争が減り、最後には食品や日用品を扱う店さえ一店舗しか残らないという形で進む可能性がある。人口減少とは、店がゼロになる現象より前に、住民が商品や店舗を「選べなくなる現象」として現れるのである。

一軒残っていることと、地域商業が安定していることは違う

 施設の「存在」を測る統計には、もう一つ見えにくい問題がある。町に食品店が一軒残っていれば、統計上は飲食料品小売業が「存在する自治体」に分類されるが、その店の経営者が高齢で後継者がおらず、設備更新も難しくなっているとすれば、店舗が存在していることと、その地域の買い物環境が長期的に安定していることは同じではない。

 人口減少地域では需要の縮小と経営者の高齢化が同時に進むことがあり、既存店が閉店したあとに、新しい事業者が参入するとは限らない。人口が小さく将来の市場縮小が予測される地域ほど、新規出店する側から見た投資回収の不確実性も大きくなるため、現在一店舗が存在しているという事実だけでは、将来もその店舗機能が維持されるとは判断できない。

 しかも、人口5000人の町でスーパーが二店舗から一店舗になる場合と、一店舗からゼロになる場合では、店舗数としてはどちらも一店舗減少だが、住民生活に与える影響は大きく異なる。二店舗が一店舗になれば選択肢は失われるものの町内で買い物はできるが、一店舗がゼロになれば、食品を購入するという日常行為そのものに自動車や公共交通、宅配など別の移動手段が必要になるためである。

 この意味で、店舗数と生活利便性の関係は単純な比例関係ではない。最後の一店舗が失われる影響は、その前の一店舗が失われる影響よりはるかに大きくなり得る。

「買える町」と「買いに行かなければならない町」の境界

 小売店の減少が深刻なのは、それが単に商業の問題ではなく、地域で生活できる条件そのものを変えてしまうからである。農林水産政策研究所は、食料品店まで500メートル以上離れ、かつ自動車を利用できない65歳以上の人を食料品アクセス困難人口として推計しており、2020年には全国で約904万人、65歳以上人口のおよそ4人に1人に相当するとされた。

 2015年の推計と比べると約9.7%増えているが、この数字については注意も必要で、2020年推計では対象店舗にドラッグストアが加わるなど使用データや条件に変更があるため、単純な時系列比較はできない。それでも、高齢化が進む日本社会において、店舗までの距離と自動車利用の可否を組み合わせた「買い物への到達しやすさ」が重要な政策課題になっていることは確かである。

 これは、地域の買い物問題を人口だけでは捉えられないことも示している。人口が比較的多くても、店舗が市街地の一か所に集中し、自動車を運転できない高齢者が周辺集落に多く住んでいれば、生活上の買い物環境は厳しい。一方で人口が少なくても、住民がコンパクトな地域に暮らし、徒歩圏内に店舗があれば、数字から想像するほど不便ではない場合もある。

高齢化すると同じ人口でも商圏の性質は変わる

 人口規模が同じでも、その年齢構成が変われば地域の小売市場は同じではない。人口5000人の町が十年間で4500人になった場合、人口減少率だけを見れば10%だが、その間に子育て世帯や現役世代が大幅に減少し、高齢者の割合が上昇していれば、必要とされる商品や交通手段、来店頻度など小売需要の構成そのものが変化している可能性がある。

 ここで、「高齢者が増えるほど小売需要が小さくなる」と単純化することもできない。食品、医薬品、宅配サービスなど高齢者人口の増加によって需要が維持される分野もあり、反対に自動車利用が難しくなれば遠方の大型店舗より近隣店舗への需要が強まる場合もある。しかし、小規模な近隣需要が店舗の人件費、物流費、設備費などの固定的な負担を十分に支えられるとは限らず、店を必要とする住民が多いにもかかわらず、経営としては成立させにくいという矛盾が生じる。

 人口減少地域の小売問題が難しいのは、単に需要がなくなるからではなく、需要の総量、需要の場所、住民の移動能力、商品の種類が同時に変化するからである。

あえて境界線を考えるなら「2000~4000人」は注意すべき人口帯である

 それでは最初の問いに戻ろう。地域の小売店は人口何人を下回ると成立しにくくなるのかという問いに、一つだけの数字で答えることはできない。それでも、地方自治体における基本的な買い物機能という観点から国土交通省の立地確率を見ると、人口2000~4000人程度は一つの注意すべき人口帯として捉えることができる。

 飲食料品小売業の存在割合が80%を超える人口規模がおよそ2200人である一方、コンビニエンスストアでは50%を超える規模がおよそ2200人、80%を超える規模がおよそ3800人となっている。そのため、人口4000人を大きく上回る地域では基礎的な小売機能が比較的存在しやすいのに対し、2000人前後まで人口が小さくなると、食品店やコンビニエンスストアといった日常的な買い物機能でさえ、地域条件による差が大きくなると読むことができる。

 ただし、この2000~4000人という数字は、国が定めた「小売店の限界人口」でも、企業の採算基準でもない。複数の施設立地確率を重ね合わせたとき、基礎的小売機能の存在が地域条件によって左右されやすくなる人口帯を、この記事の分析上の目安として示したものである。

 観光客が多い地域なら人口1000人でも複数の店舗が成立することはあり得るし、反対に人口1万人あっても住民の多くが近隣都市へ買い物に出てしまえば、中心市街地の商業が衰退することもある。したがって人口とは店の運命を決める数字ではなく、小売機能を維持する条件がどの程度厳しくなっているかを示す、一つの圧力計と考える方が実態に近い。

店がなくなると人口が減るのか

 地域商業については、人口が減ったから店が減るという一方向の関係だけでなく、店が減ることによって地域の暮らしにくさが増し、それが人口流出の一因になる可能性も考えなければならない。住宅を購入したり移住先を選んだりするとき、人々は住宅価格だけを見ているわけではなく、スーパーまでの距離、病院や学校へのアクセス、公共交通、自動車を運転できなくなった後の生活まで含めて居住地を評価する。

 ただし、「店舗が閉店したから人口が減った」と単純な因果関係を断定することはできない。人口減少地域では、雇用の減少、学校統廃合、公共交通の縮小、医療機能の低下、高齢化など複数の変化が同時に進むためであり、小売店の減少もそれらと共通する人口構造や経済条件から生じている可能性がある。

 それでも、買い物環境の悪化が生活利便性を低下させ、人口流出を促す一因になり得ることは、国の人口減少地域に関する政策分析でも懸念されている。人口減少が店舗撤退を促し、店舗撤退を含む生活サービスの低下が地域の魅力を弱め、それがさらなる人口流出につながるという循環は、少なくとも十分に想定すべき構造である。

人口5000人の町に大型店を呼ぶことが正解なのか

 人口減少地域では、「新しいスーパーを誘致できないか」という議論が起きることがある。しかし人口5000人の町が将来4000人、3000人へ縮小していくと予測されているとき、店舗面積と品ぞろえの大きさだけを求めれば、その店が必要とする売上規模と地域人口との間に、次第に大きな隔たりが生じる。

 そこで重要になるのは、「現在と同じ形の店をどう残すか」という発想から、「住民が必要な商品を買える状態をどう残すか」という発想への転換である。小規模店舗と宅配を組み合わせる方法、移動販売車が集落を巡回する方法、買い物バスや乗合交通を利用する方法、既存店舗が配達機能を持つ方法などは、いずれも従来型の大型店舗をそのまま維持するのではなく、人口密度が低下した地域で商業機能だけを別の形へ組み替える試みと考えることができる。

 人口が減少しても、食料や日用品を必要とする人がいなくなるわけではない。問題は、その需要が一つの店舗を維持できるほど一定の場所に集まらなくなることであり、そこに人口減少地域の小売問題の核心がある。

最後の店が閉まる前に、町はすでに変わっている

 人口減少を語るとき、私たちは1万人が9000人になった、5000人が4000人になったという人口そのものの数字に目を奪われやすい。しかし、住民が日常生活の中で経験する人口減少は、統計表の数字としてではなく、町から少しずつ選択肢が消えていく風景として現れる。

 三軒あったスーパーが二軒になり、二軒が一軒になり、衣料品を買うには隣町まで行くようになり、本や靴を買うにはさらに遠い都市へ出なければならなくなる。やがて自動車を運転できることが、その町で暮らし続けるための事実上の条件となり、運転できない住民にとっては行政区域の人口が何人残っているかより、最寄りの店まで何キロあるのかという数字の方が重要になる。

 地域の小売店が成立しにくくなる人口を考えることには意味があるが、本当に見るべきなのは「人口何人で最後の一店舗が消えるのか」という一点だけではない。人口6000人、4000人、3000人、2000人と縮小していく途中で、どの業種が成立しにくくなり、住民がどれだけ店舗を選べなくなり、日常の買い物のためにどれだけ遠くまで移動しなければならなくなるのかを見る方が、地域の変化をはるかに早く捉えることができる。

 町の商業が終わる日は、最後の店がシャッターを下ろした日ではない。そのずっと前から、住民が「この町では買えないから隣町へ行こう」と考える回数が少しずつ増え、町の内部で使われていた購買力が外へ流れ始めている。人口減少地域の小売問題とは、店がなくなる瞬間を探す問題ではなく、生活を支えていた選択肢がどのような順序で細くなっていくのかを見つめる問題なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 夜の町で救急車のサイレンを聞くと、その音は遠くから近づき、やがてどこかへ消えていく。都市に暮らしていれば、その救急車が町を離れたあとにも別の車両がどこかで待機しているように感じるかもしれないが、人口の少ない地域では事情が違い、一台の救急車が患者を乗せて遠くの病院へ向かった瞬間、その地域には地図には描かれない「救急の空白」が生まれることがある。

 人口減少時代の地域医療を考えるとき、病院や診療所が何軒あるか、医師が何人いるかという数字には比較的目が向きやすい。しかし、救急車がどこに何台あり、その一台がどれほどの人口と土地を背負っているのかは、普段の生活ではほとんど意識されない。119番へ電話すれば救急車は来るものだという感覚が強く、救急車そのものを一つの有限な地域資源として見る機会が少ないからだろう。

 ところが救急車という資源には、きわめて単純でありながら避けることのできない制約がある。一台の救急車は同時に二つの場所へ行くことができず、一人の患者を搬送している間、その車両と救急隊は原則として別の患者には対応できない。この当たり前の事実を出発点にすると、救急車の配置は単なる台数の問題ではなく、人口、面積、道路網、高齢化、救急需要、病院までの距離、そして時間が絡み合う地域構造の問題として見えてくる。

「人口2万人に1台」という数字だけでは測れない

 日本には救急自動車の配置について一応の目安があり、消防庁の「消防力の整備指針」では、人口10万人以下の地域について、おおむね人口2万人ごとに救急自動車1台を配置することが基準とされている。人口10万人を超える場合には5台を基礎とし、それを超える人口についておおむね5万人ごとに1台を加えるという考え方である。

 この数字だけを見ると、「救急車1台で人口2万人を担当できる」と理解したくなるが、実際の制度はそれほど単純ではない。昼間人口や高齢化の状況、実際の救急出動の発生状況などを考慮することも求められており、制度そのものが人口だけでは救急力を測れないことを前提としている。

 同じ人口2万人でも、数十平方キロメートルの平坦な市街地に住民が集まっている地域と、山間部や海岸沿いの数百平方キロメートルに集落が散らばっている地域では、一台の救急車が持つ能力は同じではない。また、働く世代や子育て世帯の多い地域と、高齢者の割合が著しく高い地域でも救急需要は変わってくるため、「人口2万人に1台」という数字は限界値というより、救急体制を考え始めるための入口に近い。

本当の限界は「二件目」が発生したときに見える

 救急車1台が何人を支えられるかを考えるとき、年間の出動件数を単純に365日で割って一日の平均件数を出すだけでは、本当の余裕は分からない。救急需要には時刻表がなく、午前中に一件、午後に一件、夜に一件と規則正しく発生してくれるわけではないからである。

 ある地域で一日に三件の救急要請があるとしても、それが十分な間隔を空けて発生するのであれば一台で処理できる可能性は高い。しかし、そのうち二件が同じ時刻に重なれば状況は一変し、一台目がすでに出動していれば、二件目には近隣地域から別の救急車を呼ばなければならなくなる。応援車両が近くにいれば大きな問題にならない場合もあるが、隣の消防署まで十数キロメートル、あるいはそれ以上離れていれば、数分という時間の差がそのまま患者の待ち時間になる。

 ここには交通量や通信回線などにも共通する性質がある。設備の使用率が低い間は多少の需要が増えても余裕を保てるが、能力の上限に近づくほど、わずかな需要増加によって待ち時間が急激に増えやすくなる。救急車も同じで、「平均的には処理できている」という状態と、「いつ要請が重なっても十分対応できる」という状態はまったく違う。

 救急体制に必要なのは、平均的な一日を問題なく処理できる能力だけではなく、偶然二件、三件と救急要請が重なったときにも破綻しないための余白である。この余白がどの程度あるかは、単純な人口当たり台数からは見えにくい。

面積が広がれば、一台の救急車は別の存在になる

 人口だけでは捉えにくいもう一つの制約が、地域の広さである。

 人口2万人が駅を中心としたコンパクトな市街地に暮らしているのであれば、消防署から多くの住民のもとへ比較的短時間で到達できる。しかし同じ2万人が山間部や海岸線沿いに数十キロメートルにわたって散在している地域では、一台の救急車が同じ人口を担当していても、実際に提供できる救急サービスの姿は大きく変わる。

 さらに重要なのは、地図上の直線距離と救急車が実際に走る距離は一致しないということである。山を越える道路、川を渡る橋、細い生活道路、曲がりくねった海岸道路、積雪、観光期の渋滞などが加われば、地図では数キロメートルしか離れていない集落でも、時間の上ではかなり遠い場所になる。

 仮に救急車が平均時速30キロメートルで10分間走れたとしても、進める距離は単純計算で約5キロメートルにすぎない。しかも実際の救急では119番通報の受理、住所や状況の確認、出動準備、交通信号や一般車両への対応、住宅の特定などが加わるため、消防署を中心に半径何キロメートルという円を描くだけで安全圏を決めることはできない。

 人口密度が低くなるほど、この問題は静かに深刻になる。住民が減ったからといって自治体の面積が縮むわけではなく、道路が短くなるわけでも、山や川がなくなるわけでもない。むしろ人口が減少したあとも同じ広さの地域を同じ救急体制で守らなければならないため、一人当たりに必要な移動距離という意味では負担が重くなる場合すらある。

病院まで運ぶ時間が地域から救急車を奪う

 救急車の能力を考えるうえでもう一つ見落とされやすいのが、救急車の仕事は患者の家へ到着したところで終わらないという点である。

 2024年の全国統計では、119番通報を受けてから救急車が現場へ到着するまでの平均時間は約9.8分だったが、通報から患者を医師へ引き継ぐまでには平均約44.6分を要している。つまり、私たちが「救急車が来るまでの時間」として意識する10分前後の時間より、その後に使われる時間のほうがはるかに長い。

 救急隊は現場へ到着したあと患者の状態を確認し、必要な処置を行い、搬送先を選定し、病院まで走り、医療機関へ患者を引き継ぐ。その間、その救急隊は基本的に次の要請へ向かうことができず、さらに患者を引き継いだあとも資器材や車内を整え、次の出動に備える必要がある。

 この構造を考えると、地方における救急医療の問題は「救急車が患者まで何分で来られるか」だけではないことが分かる。患者を受け入れられる病院が近くにあるかどうかによって、一件の救急要請が一台の救急車を地域から奪う時間が変わるのである。

 消防署から患者宅まで10分で到着できる地域でも、そこから受け入れ可能な病院まで40分かかれば、救急車は長時間その地域を離れることになる。逆に病院が近い都市部では、一件当たりの拘束時間が比較的短く、同じ一台でも次の要請へ戻りやすい。

 近くに消防署があるから安心だとは限らず、その救急車が患者をどこまで運ばなければならないのかまで見なければ、地域の救急力を正確には評価できない。

人口が減っても救急需要は同じ割合では減らない

 人口減少地域では、一見すると人口が減れば救急車の必要台数も減らせるように思える。しかし、この考え方には大きな落とし穴がある。

 2024年に救急車で搬送された人のうち、高齢者は63%を超えている。高齢者は若年層より救急搬送される可能性が高いため、総人口が減少していても高齢者の割合が増えていれば、人口一人当たりの救急需要はむしろ高まる可能性がある。

 たとえば人口2万人だった町が1万5千人になったとしても、その減少の中心が若者や働く世代で、高齢者人口がそれほど減っていないのであれば、人口が25%減ったから救急出動も25%減るとは限らない。転倒、急病、呼吸器疾患、循環器疾患などに伴う救急要請が残れば、救急車一台にかかる負荷は人口減少ほど軽くならない。

 人口減少社会では、このような逆説がさまざまな公共サービスで起こる。利用者の総数は減っているのに、一人当たりのサービス需要や、サービスを一件提供するために必要な距離と時間は増える可能性があるからである。

 救急車は、この人口減少時代の矛盾が最も分かりやすく現れる公共サービスの一つなのかもしれない。

救急車一台とは、一台の自動車ではない

 では救急車を増やせば問題は解決するのかというと、話はそれほど簡単ではない。

 救急車を動かすには救急隊員が必要で、通常は複数人が一つの隊として勤務する。24時間365日の運用を考えれば、一台の車両を購入して消防署の車庫へ置いただけでは、一台分の救急力を増やしたことにはならない。

 夜中でも休日でも出動できるようにするには複数の勤務班が必要となり、その中には救急救命士など必要な資格や経験を持つ職員を配置しなければならない。加えて通信指令、車両整備、医療資器材、教育訓練、病院との連携、休暇や病気に備える代替要員なども必要になる。

 道路を走る白い救急車は目に見えるため、「一台」という単位で考えたくなるが、実際にはその背後に多くの人員と仕組みが存在している。言い換えれば救急車一台を維持するとは、自動車一台を所有することではなく、一年中いつでも一台分の救急サービスを提供できる組織を維持することなのである。

 人口減少地域では、この人員面の制約が今後ますます重要になる可能性がある。住民人口が減るだけでなく、消防職員や救急救命士として働く世代そのものも減少していくからである。

都市は「件数」、地方は「距離」に追われる

 2024年には全国で約772万件の救急出動があり、2025年4月時点では全国に5,485の救急隊が配置されている。単純に計算すると、一隊当たりの出動件数は年間約1,400件となり、平均すれば一日4件弱になる。

 しかし、この平均値だけを見て「一日4件ならそれほど忙しくない」と判断するのは危険である。救急需要は時間的にも地理的にも均等に発生するわけではなく、さらに都市と地方では一件の救急出動が持つ意味そのものが違うからだ。

 都市部では救急要請の件数が多く、短時間に複数の要請が重なることによって救急車が不足しやすい。一方、人口の少ない地方では出動件数そのものは少なくても、患者宅までの距離や病院までの搬送距離が長く、一件の要請によって救急車が地域を離れる時間が長くなる可能性がある。

 都市の救急車は「数」に追われ、地方の救急車は「距離」に追われる。しかし最終的にはどちらも、次の患者に向かえる救急車がないという同じ問題に行き着く。

行政区域ではなく「時間の地図」を描く

 ここまで考えると、「救急車1台が人口何人、面積何平方キロメートルを担当できるのか」という問いそのものを少し変えたほうがよいことが分かる。

 重要なのは自治体全体の人口や面積ではなく、救急車が住民のもとへ何分で到達でき、患者を病院へ搬送し、再び次の要請へ対応できる状態に戻るまで何分かかるかである。

 消防署から10分以内で到達できる地域には何人が暮らしているのか、15分を超える地域には何人いるのか、さらに20分以上かかる集落がどこに残されているのかを調べれば、単なる行政区域の地図とは違った地域の姿が見えてくる。

 そこに救急要請の発生件数、高齢者人口、道路状況、受け入れ可能な病院までの所要時間を重ねれば、「救急車が何台あるか」という数字から、「その救急車がどれだけの時間的余裕を持って住民を守っているか」という、より本質的な地域分析へ進むことができる。

 地図に描くべきなのは市町村境界ではなく、ある意味では「時間」なのである。

人口2万人でも安全な町と危うい町がある

 人口2万人に救急車一台という目安が同じでも、地域条件が変われば救急体制の余力は大きく変わる。

 人口密度が高く、道路網が整い、病院が近く、高齢化率も比較的低く、近隣消防署との応援体制が充実している地域であれば、一台当たりが担当する人口がある程度多くても対応力を維持できる可能性がある。反対に、人口が少なくても広い地域に集落が分散し、病院までの距離が長く、高齢化率が高く、隣接する救急隊も遠いのであれば、一台の救急車に人口以上の負荷がかかる。

 この違いは、人口密度だけでも十分に説明できない。面積が広くても高速道路や幹線道路が整っていれば到達時間は短くなることがあり、面積が小さくても山や川によって道路が限られていれば移動時間は長くなる。さらに観光地では住民人口が少なくても季節によって昼間人口が急増することがあり、人口統計だけを見て救急需要を予測すると実態とずれる。

 救急車一台を評価するためには、人口、面積、人口密度、年齢構成、道路、医療機関、観光客、近隣自治体との連携といった複数の条件を、最終的には「何分かかるのか」という時間の尺度に変換して考える必要がある。

救急車が町を離れたあとに何が残るのか

 地域の救急体制を考えるとき、最も重要なのは救急車が配置されているかどうかではなく、その一台が出動したあとに何が残るのかという視点ではないだろうか。

 一台しかない地域でその救急車が病院へ向かえば、次の救急要請は近隣地域の車両に頼ることになる。二台あれば一台が残るが、その一台も出動すれば同じことが起きる。つまり救急体制の本当の強さは保有台数ではなく、一件の出動が発生したあとにもどれほどの余力が残っているかによって決まる。

 これは防災や電力供給にも似ている。普段の需要を満たしているだけでは十分ではなく、一部の設備が使えなくなったときにもシステム全体が機能し続けられる余裕が必要になるからである。

 救急車についても、平均的な出動件数を処理できるだけでは十分とは言えない。二件目、三件目が重なったときにどこから応援が来るのか、何分で到着できるのか、さらに隣の地域も同時に出動していた場合はどうなるのかまで考える必要がある。

 地域の救急力とは、平常時の能力よりむしろ「余裕が一つ失われたあとにも機能を維持できる力」として考えたほうが実態に近い。

救急車1台の限界は、人口ではなく「時間の余白」にある

 結局のところ、「救急車1台は人口何人、面積何平方キロメートルまで担当できるのか」という問いに、一つの数字で答えることはできない。

 制度上は人口2万人程度に一台という一つの目安が存在するが、人口2万人が狭い市街地に集まって暮らしている場合と、広い地域に分散して暮らしている場合では一台の能力は異なる。さらに高齢化が進めば人口当たりの救急需要が増える可能性があり、病院までの搬送距離が長ければ一件の出動で地域を離れる時間が長くなり、二件目の救急要請が重なれば一台しかない体制の弱さが一気に表面化する。

 したがって救急車の限界とは、人口の限界でも面積の限界でもない。人口が生み出す「需要」、地理が生み出す「距離」、そして一件の救急活動が消費する「時間」が重なったところに、その地域固有の限界が生まれる。

 深夜、遠くで聞こえていた救急車のサイレンが次第に小さくなり、やがて町の外へ消えていく。その瞬間、町の人口も面積も変わらず、道路も建物も昨日と同じ場所にある。しかし救急医療という視点から見れば、その町が持っていた安全の余白は確実に小さくなっている。

 人口減少時代に問うべきなのは、救急車が何台置かれているかという数字だけではない。一台が町を離れたあと、その地域にはあと何分の余裕が残されているのかという問いである。

 人口統計にはほとんど表れないその「時間の余白」こそ、病院数や医師数と並び、これからの地域の暮らしやすさと安全性を測る重要な指標になっていくのではないだろうか。

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 空き家を見ると、私たちは反射的に「誰かに住んでもらえないか」と考える。自治体は移住希望者とのマッチングを進め、不動産会社は売却や賃貸の可能性を探り、所有者もできることなら住宅としてもう一度使ってほしいと考える。しかし、人口そのものが減っている地域で、増え続ける空き家の一軒一軒に新しい住民を探すという発想には、どうしても限界がある。家が余っているのは住宅供給が足りないからではなく、その地域で住宅を必要とする人の数が減っているからであり、人口減少が続くなら、住宅としての需要だけを追いかけても空き家の増加には追いつけない。

 2023年の住宅・土地統計調査では、日本の空き家は900万戸に達し、住宅総数に占める割合は13.8%となった。このうち、賃貸用、売却用、別荘などを除く空き家だけでも385万戸ある。もちろん、この385万戸すべてを有効利用できるわけではない。老朽化している家もあれば、相続関係が整理されていない家もあり、給排水設備が傷んでいたり、道路条件が悪かったり、事業用途へ変えるための改修費が高額になったりする家もある。それでも、これほど大量の建物が町の中に残されている以上、「もう一度住宅として使えるか」という問いだけで評価してしまうのは、人口減少時代の建物の見方として狭すぎるのではないだろうか。

 なぜなら、これから地方で不足していくものは住宅ではなく、むしろ住宅の外側にある生活機能だからである。近所の診療所がなくなり、スーパーが閉じ、バスの本数が減り、訪問介護の職員が長い距離を移動するようになり、働く場所も町の外へ移っていく。家は余っているのに、その家で暮らし続けるために必要なサービスは遠ざかっていく。この奇妙な逆転を考えるなら、空き家問題は住宅政策だけではなく、医療、介護、物流、交通、仕事を含む「地域の機能配置」の問題として読み直す必要がある。

人口は少しずつ減っても、暮らしは少しずつ不便になるとは限らない

 人口減少という言葉からは、町が毎年少しずつ小さくなっていく姿を想像しやすい。しかし実際の生活サービスは、人口と同じ割合で滑らかに縮小するわけではない。人口が2割減ったからスーパーが2割小さくなり、診療所が2割だけ診療時間を減らし、バスが2割だけ便利でなくなる、というようには動かない。商店や医療機関、公共交通には、それぞれ採算、人材、利用者数などの条件があり、それを維持できなくなれば、一つの店舗、一つの診療所、一つの路線という単位で消えていく。

 人口規模が小さくなるほど各種生活サービスが存在しにくくなる傾向は、国の調査でも示されている。ただし、特定の人口を下回った瞬間に必ず店が閉まり、病院がなくなるという単純な臨界点があるわけではない。経営者の年齢、競合店の存在、道路網、隣接都市との距離、地域所得、人材確保など、さまざまな条件が重なって撤退は決まる。それでも、人口が連続的に減っていく一方でサービスは一施設単位で失われる以上、住民から見た生活環境は階段を一段落ちるように変化することがある。

 そして一つの施設が消えると、人口が減っているにもかかわらず、残された住民一人あたりの移動距離はかえって長くなる。徒歩5分の店が閉まれば車で20分のスーパーへ行かなければならず、近所の診療所がなくなれば隣の市まで通院する。高齢化によって運転や長距離移動が難しくなる時期と、生活サービスが遠ざかる時期が重なれば、「家はあるのに暮らし続けられない」という状態が生まれる。

 ここで空き家の意味が変わってくる。空き家とは、単なる「余った住宅」ではなく、町の中にすでに配置されている小さな建物でもある。住宅として使われてきた以上、電気、水道、道路などの基盤が存在する場合が多く、住宅地の内部やその近くに位置している。ただし、長期間使われていない建物では設備が劣化していることもあり、事業用途に転用するなら建築、防火、衛生、バリアフリーなどの条件を満たす必要があるため、そのまま使えるとは限らない。それでも、新しく土地を取得して建物を一から造ることだけが選択肢ではない。

 住民を空き家に連れてくることが難しいなら、生活サービスの一部を空き家の方へ持ってくることはできないだろうか。

病院を建てることと、医療への距離を縮めることは同じではない

 医療について考えてみる。人口数千人の地域に新しい病院を建設し、医師、看護師、検査職員、事務職員を常駐させることは、多くの地域で現実的ではない。しかし住民にとって本当に必要なのは、立派な病院の建物そのものではなく、必要なときに適切な医療へ到達できることである。

 オンライン診療が広がれば、自宅にいながら医師とつながる場面は増える。しかしオンライン診療では触診などができず、得られる情報には限界があるため、対面診療との適切な組み合わせが前提になる。また、通信機器を自在に扱える人ばかりでもない。そこで、自宅と病院のあいだに小さな受診拠点を置くという考え方が出てくる。

 たとえば比較的状態のよい空き家に通信環境を整え、オンライン診療を受けるための場所として利用する。必要に応じて受診を補助する人員を配置し、別の日には健康相談や介護相談、巡回する医療・保健職の活動場所として使うことも考えられる。ただし、ここには重要な線引きがある。普通の住宅にパソコンを置くだけで診療所になるわけではなく、そこでどのような診療を行うか、誰がどのような行為をするかによって、医療法をはじめとする制度上の要件や個人情報保護、安全管理の問題が生じる。

 したがって、空き家が病院の代わりになると考えるべきではない。むしろ、病院までのすべての距離を患者自身に移動させるのではなく、その途中に医療へつながるための小さな接点を置けないか、と考えるのである。

 医療施設を残すことと、医療アクセスを残すことは、よく似ているようで同じではない。

物流では「最後の数キロメートル」が重くなる

 物流にも同じ構造がある。人口が少なくなれば荷物の総量は減る可能性があるが、家と家との距離が縮まるわけではない。むしろ住民が広い地域に点在したまま人口だけが減れば、一個の荷物を届けるために走る距離が長くなり、車両や運転手を効率よく使うことが難しくなる。

 過疎地域における配送先の分散や積載効率の低下は、すでに物流政策上の課題として扱われ、共同配送や貨客混載などの方法が検討されている。この延長に、空き家を小さな地域物流拠点として利用する発想を置くことはできる。

 住宅地の入口や幹線道路に近い空き家へ複数の荷物を集め、宅配ロッカーから受け取れるようにする。あるいは、地域内の最終配送だけを一つの事業者がまとめて担う。買い物支援や高齢者への配達と組み合わせる方法も考えられる。将来自動配送車やドローンが実用化されたとしても、それらが荷物を積み替えたり受け渡したりする場所は必要になるため、地域内に小さな中継地点を置く発想自体には意味がある。

 ただし、空き家を使えば配送効率が必ず上がるという実証が十分に積み重なっているわけではない。拠点まで荷物を運ぶ新しい手間が増えたり、高齢者がそこまで受け取りに行けなかったりすれば、かえって不便になる可能性もある。そのため物流拠点として価値を持つのは、車両が出入りしやすく、周囲からアクセスしやすく、荷物を安全に保管できるような限られた空き家だろう。

 ここでは建物の立派さよりも、地図上の位置の方が重要になる。

介護施設ではなく「介護につながる場所」を増やす

 介護も、人材不足が進むほど地理の問題になっていく。仮に訪問介護の職員が利用者宅まで30分移動し、サービスを提供した後、さらに30分かけて次の利用者へ向かうなら、その一時間は介護職員の勤務時間ではあっても、直接介護に使われている時間ではない。人口密度が低い地域ほど、こうした移動の負担は無視しにくくなる。

 もちろん、だからといって訪問介護をすべて集約型サービスに置き換えることはできない。訪問介護には、自宅で生活する人をその生活の場で支えるという固有の役割がある。しかし、健康相談、介護予防、地域交流、日常的な相談、軽い運動など、必ずしも一軒ずつ訪問しなくてもよい機能まで分散させる必要はない。

 そこで、住宅地の中にある比較的状態のよい空き家を、福祉や健康、地域交流の小規模な拠点として利用する余地が生まれる。実際、空き家や既存住宅を福祉活動や地域交流へ転用する取り組みは各地に存在する。

 大切なのは、建設費を安くすることだけではない。住宅地の中にあるということ自体が価値になる場合がある。高齢者にとって、立派な施設が10キロメートル先にあることと、自宅から歩いて行ける場所に相談相手や人の集まる場所があることは、まったく意味が違う。

 孤立を防ぐことまで含めて考えれば、「近くに行ける場所がある」ということもまた地域インフラの一部なのである。

空き家から仕事が生まれるのではなく、仕事を続けられる条件をつくる

 仕事の分野では、空き家活用という言葉からサテライトオフィスやコワーキングスペースを思い浮かべる人も多い。実際、既存住宅や空き店舗を改修して仕事の場にする事例は各地にある。

 しかし、ここには地方創生で繰り返されてきた落とし穴がある。空き家をきれいに改修し、高速通信を引き、おしゃれな机を置けば仕事が生まれるわけではない。利用する人がいなければ、使われていなかった住宅が、使われていないコワーキングスペースに変わるだけである。

 それでも、地域に会社員、自営業者、二地域居住者、移住者、学生などが一定数存在するなら、一人ひとりが自宅に仕事部屋を用意するより、オンライン会議ができる個室、複合機、高速通信、打ち合わせ場所などを共同で持つ方が合理的な場合はある。空き家が仕事そのものを生むのではなく、地方に住みながら仕事を続けるための摩擦を少し小さくするのである。

 この違いは重要である。施設を作ることを目的にすると利用者不在の事業になりやすいが、すでに存在する需要を確認し、その需要を支える設備として空き家を選ぶなら、話は逆になる。

一軒の家を、一つの用途だけに固定しない

 人口の少ない地域では、もう一つ難しい問題がある。診療だけ、介護だけ、物流だけ、仕事だけでは、それぞれの利用量が小さすぎて、一つの建物を維持できない可能性があることである。

 ここから、多用途化という発想が出てくる。午前中には介護予防や健康相談に使い、午後にはオンライン診療を受ける場所になり、玄関付近には宅配ロッカーを設け、別室は仕事や行政手続きに利用する。週に一度は保健師や介護職が訪れ、別の日には地域活動が開かれる。そのような建物になれば、それはもう住宅、診療所、物流施設、事務所のどれか一つではなく、複数の生活機能を地域につなぐ小さな端末のような存在になる。

 経済的に考えれば、複数のサービスが建物、通信設備、光熱費、管理人などの固定費を共同利用できれば、一つのサービスだけで維持するより効率的になる可能性がある。いわゆる範囲の経済が働く余地があるからである。

 しかし、用途を増やせば必ず効率化するわけではない。医療にはプライバシーや衛生管理が必要になり、物流には荷物の安全管理が求められ、介護利用者には段差やトイレなどへの配慮が必要になる。用途によって入口や利用時間を分けなければならないこともあり、防火設備や管理責任を含めれば、複合化によって運営コストがかえって上昇する場合もある。

 したがって「何でも一つの家へ詰め込む」のではなく、相性のよい機能だけを重ねる必要がある。人口減少地域で問われるのは、施設をどれだけ大型化できるかではなく、一つの場所を無理なく何度使えるかなのである。

空き家の価値は「いくらで売れるか」だけでは決まらない

 ここまで考えると、空き家政策で最も重要なのは改修技術ではなく、どの家を選ぶかという問題であることが見えてくる。

 900万戸の空き家を900万戸とも救う必要はないし、それは不可能である。老朽化が激しく、道路条件が悪く、災害リスクが高く、所有権も複雑で、周囲にほとんど住民が残っていない建物まで公費を投じて再生する合理性は乏しい。ある空き家は住宅として再利用し、ある空き家は地域拠点へ変え、ある空き家は解体し、土地として別の利用を考える。その選別を避けて通ることはできない。

 一方、住宅地の中央にあり、主要道路から入りやすく、駐車スペースがあり、比較的少ない費用で改修でき、周囲に一定数の住民がいる家なら、住宅としての市場価格以上の価値を持つ可能性がある。

 たとえば駅から遠く、不動産としては人気のない住宅でも、周囲500メートルに多くの高齢者が暮らし、スーパーや診療所への距離が長いなら、福祉や生活支援の拠点としては重要な場所かもしれない。反対に、立派な住宅であっても、周囲の人口がほとんど失われているなら、公共的な拠点へ転用する意味は小さくなる。

 ここで必要なのは、空き家だけを眺めることではない。高齢者人口、住民分布、道路、公共交通、診療所、商店、物流ルート、介護事業所などを同じ地図へ重ね、「どこに何が足りないのか」を先に見ることである。

 そのうえで空き家を評価する。

 つまり、空き家の価値を「この家はいくらで売れるか」だけでなく、「この場所を利用すれば住民が失わずに済む時間や移動はどのくらいあるか」という別の尺度で見るのである。

「空き家を使う」ことを目的にすると失敗する

 ここには空き家政策そのものを考えるうえで、かなり重要な順序の問題がある。

 自治体が空き家を見つけ、「せっかくあるのだから何かに使えないか」と用途を考え始めれば、目的と手段が逆転する。補助金を使って建物を改修し、交流施設や仕事場を開設しても、地域にその機能への需要がなければ利用者は集まらない。

 本来の順序は反対である。

 まず、どの地域で、どの生活サービスが失われそうなのかを調べる。次に、そのサービスを維持するにはどこに拠点が必要なのかを考える。その場所に適した空き家があれば使う。なければ別の方法を考える。

 空き家は目的ではなく、候補となる資産の一つなのである。

 この視点に立つと、「空き家対策」と呼ばれていたものは、実は施設配置、交通、物流、医療、介護を横断する地域設計の問題へ変わる。

最大の壁は、建物ではなく運営する人である

 そして最も厳しい問題が残る。建物を直すことより、その場所を10年、20年と運営し続けることの方が難しい。

 補助金を使えば改修はできるかもしれない。開所式を行い、最初の数か月は見学者が来るかもしれない。しかし鍵を誰が管理するのか、清掃を誰が行うのか、通信費や電気代を誰が負担するのか、トラブルが起きたとき誰が責任を負うのかが決まっていなければ、施設は長続きしない。

 まして地方で不足しているのは建物だけではない。医療職、介護職、運転手、物流人材、事務職員、地域活動を支える人そのものが減っている。そのため、空き家を地域インフラへ変える政策は、建築費だけを計算しても成立しない。

 むしろ重要なのは年間運営費である。改修に500万円かかる建物でも、その後毎年数百万円の管理費が必要なら、問題は建築費ではなく継続費へ移る。逆に、既存の複数サービスが共同利用し、常駐職員を置かずに運営できるなら、小さな拠点にも成立の余地が出てくる。

 建物を救えるかどうかではなく、運営を続けられるかどうか。この問いを抜きにした空き家活用は、数年後に「改修された空き家」をもう一軒増やすだけになりかねない。

空き家を減らすことより、「暮らしの距離」を縮める

 人口が減る町では、病院、商店、介護事業所、公共交通を現在とまったく同じ配置のまま残し続けることは難しい。一施設ごとの利用者が減れば、一人あたりの維持費は上がり、人手不足も深刻になる。

 しかし、施設の現在の形を残せないことと、生活サービスそのものを失うことは同じではない。

 大きな施設を町のあちこちに残す代わりに、小さな接点を置く。人を毎回遠くまで運ぶ代わりに、情報、荷物、専門職を途中まで運ぶ。オンラインと対面を組み合わせ、配送と買い物支援を重ね、介護予防と地域交流を同じ場所で行う。そのとき、新しい建物を次々と建設するのではなく、すでに町の中にある空き家のうち条件のよいものを使えるかもしれない。

 そう考えると、空き家の風景は少し違って見えてくる。

 窓が閉じ、庭に草が伸び、人が住まなくなった一軒の家を見たとき、そこに失われた人口だけを見る必要はない。その場所が診療への距離を少し短くするかもしれず、荷物を受け取る場所になるかもしれず、高齢者が歩いて行ける相談場所になるかもしれず、町を離れずに仕事を続けるための机が置かれるかもしれない。

 もちろん、すべての空き家にその役割があるわけではない。使えない家も多いだろうし、利用できても費用が見合わない家もある。だから必要なのは「空き家は資源だ」という楽観論ではなく、人口、立地、需要、改修費、運営費を見ながら、使う家と使わない家を冷静に分けることである。

 人口減少社会で本当に守るべきなのは、建物の数でも、施設の数でもない。住民が必要な医療につながり、食料や荷物を受け取り、必要な介護へアクセスし、働き続けることのできる「暮らしの接続」である。

 空き家をどう埋めるかではない。空き家を利用することで、切れかけている暮らしの線をどこまでつなぎ直せるか。

 その順序で町を見直したとき、900万戸という空き家は、すべてが宝の山に変わるわけではない。それでも、その中の限られた一部は、人口減少時代の地域に必要な機能を置くために、すでにそこに存在している「場所」になる可能性がある。

 空き家問題を解決するために地域インフラへ転用するのではない。地域インフラを再設計した結果として、空き家が使える場所にあれば使う。その発想の逆転こそが、これからの空き家政策を、単なる住宅対策から地域そのものの再設計へ変えるのではないだろうか。

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「学校がある町」と「子どもにとって良い町」は同じなのか

 校門の前に今年も桜が咲き、入学式の日には地域の人が集まり、運動会になれば卒業生まで顔を出す。体育館は災害時の避難所になり、校庭では地域の祭りや行事が開かれる。その風景を知る人にとって、「この学校だけはなくしてはいけない」という思いは、単なる郷愁ではない。学校は地域の記憶を保存する場所であり、人を結びつけ、「この地区にはまだ子どもがいる」と目に見える形で示してくれる存在でもあるからだ。

 だから、地方で学校統合の話が持ち上がると、議論は教育施設の再配置だけでは済まなくなる。学校がなくなることが、地域そのものが一段階縮んでしまう出来事として受け止められるからである。しかし、そこで一つだけ順序を間違えてはいけない。学校は地域コミュニティの重要な拠点でもあるが、第一義的には児童生徒を教育するための場所である。

 ところが人口減少が進む地域では、いつの間にか「どうすればこの学校を残せるか」が議論の出発点となり、その学校で子どもがどのような教育を受けられるのかという問いが、その後ろへ押しやられてしまうことがある。校舎が残っていることと、十分な教育環境が残っていることは、本来同じではない。

 文部科学省も、公立小学校・中学校の適正規模や適正配置を考える際には、中心となるのは児童生徒の教育条件の改善であるとしている。同時に、学校が地域コミュニティの核であることにも配慮するよう求めている。つまり問題は、「学校を残すか、なくすか」という単純な二者択一ではない。問われるべきなのは、何を守るために学校を残すのかということである。

「少人数だから良い学校」とは限らない

 小さな学校について語るとき、よく聞かれるのが「少人数だから先生の目が行き届く」という言葉である。これは確かに一面の真実であり、児童生徒が少なければ、一人一人の理解度や性格を教師が把握しやすく、発言や役割の機会が増えることもある。大きな学校では目立たなかった子どもが、小規模校では学級委員を務め、運動会や学校行事で何度も中心的な役割を経験することもあるだろう。

 ここで注意したいのは、「少人数」という一つの言葉の中に、実は二つの異なる問題が含まれていることである。一つは一学級当たりの児童生徒数が少ないという問題であり、もう一つは学校全体の児童生徒数や学級数が少ないという問題である。この二つは似ているようで、教育への影響は同じではない。

 一学級の人数が少なければ、教師による個別指導がしやすくなる。一方、学校全体の人数が極端に少なくなると、専門教員を配置しにくくなったり、部活動やクラブ活動の選択肢が減ったり、集団で行う体育や音楽、討論、グループ学習などに制約が出たりする可能性がある。つまり「小さい学校は良いか悪いか」という問いでは粗すぎるのであり、学級規模、学校規模、教員配置、地域条件を分けて見なければならない。

 経済協力開発機構が整理した研究でも、学校規模と教育成果との関係は単純ではない。小規模な小学校に学業上の利点を示す研究がある一方、中等教育では一定の学校規模がある方が、科目選択や専門教員の配置などの面で有利になる可能性が指摘されている。学校の大きさだけで学力や教育の良し悪しが決まるわけではなく、教師の質、家庭環境、学校運営、地域条件などと複雑に絡み合っている。

 したがって、小規模校だから教育環境が悪いと決めつけるのは間違いである。しかし逆に、小規模だから温かく、教師の目が届くので問題はない、と結論づけることもできない。学校規模が極端に小さくなるほど、人数の少なさによる制約が表面化する可能性が高くなり、その利点と欠点の両方を具体的に見なければならなくなる。

子どもの世界が、六年間ほとんど変わらないとしたら

 学校が小さくなることで起こり得る問題の一つが、人間関係の選択肢である。例えば一学年に数人しかいない学校では、同級生の顔ぶれは何年たってもほとんど変わらない。仲の良い学年なら、それは安心感のある素晴らしい環境になり得る。しかし、もし人間関係がうまくいかなかった場合にも、同じ顔ぶれの中で長い時間を過ごさなければならない。

 ここで「小規模校はいじめが多い」といった単純な因果関係を考えるべきではない。研究上、学校規模といじめや人間関係の問題との関係は一貫しておらず、小規模校の方が教師との距離が近く、学校への帰属意識が高くなる可能性を示す研究もある。問題は、小規模であること自体が悪いのではなく、人間関係を組み替える余地が小さくなりやすいことである。

 複数学級があれば、翌年のクラス替えによって新しい友人関係をつくることができる。ところが一学年一学級、さらに数人しかいない場合には、その選択肢そのものが存在しない。文部科学省も、小規模化によって児童生徒の人間関係や相互評価が固定化しやすくなることを課題の一つとして挙げており、小学校では全学年でクラス替えを可能にするためには一学年二学級以上、全校十二学級以上が一つの望ましい規模とされている。

 もちろん十二学級を下回った瞬間に教育環境が悪くなるわけではない。これは科学的な境界線ではなく、学校運営上の一つの目安にすぎない。ただ、子どもの教育環境には、教師との距離の近さだけではなく、「別の人と出会える」「別の関係に移れる」という余白も含まれていることは忘れるべきではない。

子どもは「少人数教育」を自分で選んだわけではない

 大人が小規模校の良さを語るとき、その言葉にはしばしば地域への愛着が混じっている。「昔からこの学校がある」「地域全体で子どもを見守れる」「大きな学校にはない温かさがある」という感覚は、決して軽視すべきものではない。

 しかし、その学校に通う子どもは、自分で小規模校を選択したわけではないことが多い。生まれた住所によって、一学年三人の学校に通うこともあれば、一学年百人を超える学校に通うこともある。そこには本人の選択というより、地域の人口構造によって決められた環境がある。

 教育とは、国語や算数を学ぶことだけではない。自分とは違う人に出会い、気の合わない相手とも折り合いをつけ、知らなかった価値観に驚き、競争したり協力したりしながら、自分の位置を少しずつ見つけていく経験も含まれている。だからこそ、学校規模の問題を学力テストだけで測ることは難しい。

 現在は一人一台の端末を使い、小規模校同士をオンラインで結んで合同授業を行うこともできる。教師が不足する科目を遠隔授業で補うことも可能になってきた。しかし、画面の向こうに二十人の同世代がいることと、休み時間に二十人の同世代と同じ校庭で過ごすことは同じ経験ではない。

 技術によって「授業」の一部は補える。しかし「学校生活」そのものを完全に複製することは難しい。文部科学省も、遠隔合同授業などが可能になった一方で、同じ教室で集団として学び生活する経験をどのように確保するかという課題を指摘している。

学力だけを見ても、答えは出ない

 では、小規模校と大規模校のどちらが子どもの学力を伸ばすのだろうか。この問いに、誰もが納得する一つの数字で答えることはできない。

 学校規模に関する研究を見ても、小規模校の方が有利だという結果もあれば、一定規模の学校の方が有利だという結果もあり、地域や年齢、社会経済条件によって結果は変わる。つまり、「児童数何人なら学力が上がる」というような単純な法則は確認されていない。

 そもそも、学校で子どもが得るものを学力だけで測ること自体に限界がある。選べる部活動はいくつあるのか、自分とは異なる価値観を持つ同級生と出会えるのか、理科や音楽、英語などを専門性の高い教師から学べるのか、進路の異なる先輩を見て自分の将来を想像できるのか、人間関係が行き詰まったときに別の友人関係をつくる余地があるのか。こうしたものは、全国学力調査の平均点にはほとんど表れない。

 一人一人を深く見てもらえるという小規模校の強みと、多様な人間や専門家に出会えるという一定規模の学校の強みは、同じ物差しでは測れない価値である。だから本当に比較すべきなのは、「小規模校か大規模校か」ではなく、「この子どもたちが六年間、あるいは九年間で得られる教育機会全体は、どの選択によって豊かになるのか」ということではないだろうか。

統合すれば、すべて解決するわけでもない

 ここまで読むと、学校を統合すれば問題は解決するように見えるかもしれない。しかし、それもまた単純すぎる。

 学校を一つにまとめれば児童生徒数は増え、複数学級を編成しやすくなり、教師も増え、部活動や学校行事の選択肢も広がる可能性がある。その代わり、学校は遠くなる。

 例えば統合後に往復二時間の通学が必要になれば、週に十時間が通学に使われることになる。そのすべてが「失われた時間」になるわけではなく、読書や学習に使える場合もある。しかし統合前より通学時間が増えれば、その増加分はどこかから捻出されなければならない。睡眠、遊び、家庭学習、運動、家族との時間のいずれかが圧迫される可能性がある。

 文部科学省は、従来の通学距離の目安として小学校おおむね四キロメートル、中学校おおむね六キロメートルを示しているが、現在ではスクールバスなどの利用が広がっているため、距離だけで判断することは適切でないとしている。通学時間についても、おおむね一時間以内を一つの目安としているものの、それは科学的に安全性が保証される境界線ではなく、地域条件に応じて考えるための目安である。

 重要なのは、「学校を統合する」という判断と「子どもの教育環境が改善する」という結果が自動的につながるわけではないことだ。統合校まで二十分で、安全で快適な無料スクールバスが走り、授業後や部活動終了後にも帰宅できる便が確保されているなら、統合によって増える教育機会は大きいかもしれない。

 しかし、朝早く家を出なければならず、帰宅便も授業終了直後の一本しかなければ、別の問題が生まれる。学校は大きくなって選択肢が増えたはずなのに、遠距離通学する子どもだけが放課後活動に参加できないということさえ起こり得る。

 ここまで来ると、学校統廃合は教育だけの問題ではないことが分かる。交通まで一体として設計して初めて、統合による利点を実際の教育環境へ変えることができるのである。

「学校を失う」と「地域を失う」は同じではない

 それでも学校統合に強い反対が起きるのは、住民が教育条件だけを見ていないからだろう。学校がなくなれば、運動会がなくなり、校歌を歌う機会が減り、卒業生が地域へ戻ってくる理由が一つ消える。校舎の窓から明かりが消えることは、人口減少を数字ではなく風景として見せつける。

 人口減少地域では、一軒の商店が閉じ、診療所がなくなり、バスが減便され、その後に学校まで閉じれば、「この場所はもう終わっていくのではないか」という感覚が住民の中に生まれる。だから学校統合への反対を、単なる感情論として片づけることはできない。

 学校は確かに地域資産である。しかし、ここで考えたいのは、地域コミュニティを残すためには、本当に毎日子どもをその校舎へ通わせ続けなければならないのかということである。

 旧校舎を地域交流施設、図書館、防災拠点、放課後施設、保育施設として残すことはできる。運動会や地域祭を旧校庭で続けてもよいし、統合校の地域学習の場として使うこともできる。これまで「教育施設」と「地域拠点」が一つの建物に重なっていたために、学校を統合すると地域コミュニティまで失われるように見えているだけかもしれない。

 学校機能と地域拠点機能を分けて考えれば、学校を統合しても地域の場所を残すことはできる。反対に、校舎を学校として残したとしても、そこで学ぶ子どもの教育機会が年々細くなっているなら、それを「地域を守った成功」と呼んでよいのかは改めて考えなければならない。

「廃校」だけでなく「存続」にも説明責任がある

 学校統廃合の議論では、学校を閉じる側にはしばしば厳しい説明が求められる。「なぜ閉じるのか」「子どもは困らないのか」「地域はどうなるのか」と問われるのは当然である。

 しかし人口減少が長期化する時代には、逆方向の問いも必要になる。

 なぜ、この学校を残すのか。

 残すことで、子どもにはどのような教育上の利点があるのか。

 人数不足によって失われる教育機会を、他校との合同授業、教員配置、オンライン授業、学校間交流、部活動の地域連携などによって、どのように補うのか。

 文部科学省の考え方も、学校を統合する場合だけでなく、小規模校として残す場合にも、小規模校の利点を最大化し、欠点を具体的に把握して最小化することを求めている。つまり、存続は「何もしない」という選択ではなく、一つの教育政策なのである。

 これはかなり重要な転換である。「廃校には説明責任が必要だが、存続には必要ない」という時代ではなくなっている。学校を残すのであれば、なぜ残すことが子どもの利益になるのかを説明できなければならない。

 それを説明できて初めて、学校存続は教育政策になる。説明できないまま「昔からあるから」「なくなると寂しいから」という理由だけで維持するのであれば、それは子どもの教育環境を守る判断というより、建物を閉じる決断を先送りしただけになってしまう可能性がある。

学校数ではなく「教育機会」を残せないか

 日本では少子化によって、公立小学校・中学校に通う児童生徒数そのものが急速に減っている。文部科学省の資料では、公立小・中学校の児童生徒数は2015年の約962万人から2024年には約877万人へ減少しており、十年に満たない期間で約85万人減ったことになる。

 これから多くの地域で起こるのは、校舎はある、体育館もある、教師もいる、しかし一緒に学ぶ子どもが少なくなるという現象である。そのとき、「学校を何校残せたか」を自治体の成果指標にしてしまえば、本当に守るべきものを取り違える可能性がある。

 むしろ測るべきなのは、その地域に暮らす子どもがどれだけ豊かな教育機会を持てているかではないだろうか。同世代とどれだけ出会えるのか、多様な授業を受けられるのか、専門性のある教師に接することができるのか、部活動や文化活動を選べるのか、学校の中で人間関係を組み替える余地があるのか、その一方で通学によって生活時間をどれだけ奪われるのか。

 これらを一つにまとめた公的な「教育機会指数」が存在するわけではない。しかし、少なくとも学校数だけを見るよりも、こうした複数の要素を総合して考える方が、子どもから見た教育環境の実態に近いはずである。

 そう考えると、「学校を残すか」という問いそのものが、少し古く見えてくる。

 残さなければならないのは、校舎の数ではない。子どもが成長するときに持つことのできる、選択肢である。

 小さな学校であっても、他校との交流、専門教員の配置、遠隔授業、地域活動などによって十分な選択肢をつくることができるなら、その学校には残す価値がある。逆に統合によって学校が大きくなっても、長時間通学や交通条件の悪さによって子どもの生活が狭くなるのであれば、その統合は成功とはいえない。

 そして、学校を地域の象徴として残すために、子どもの選択肢だけが静かに削られているのだとすれば、私たちは問いを逆にした方がよい。

 「この学校をどうすれば残せるか」ではなく、「この地域の子どもに、どのような六年間、九年間を残したいのか」と。

 学校の名前も、校舎も、制度も、その問いに答えた後で決めればよい。地域の未来を守るというなら、守るべきものの中心にいるのは、地域の過去を覚えている大人だけではない。これから地域の内側でも外側でも、自分の人生を選び取っていかなければならない子どもたちなのである。

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 地方の集落を歩いていると、ときどき道路の下にあるものの大きさを想像したくなる。山あいに十数軒の家が並び、その先は森になっているような場所にも水道管は延びている。蛇口をひねれば、何キロメートルも離れた浄水場で処理された水が届く。それは近代日本が築いてきた巨大な公共インフラの成果であり、私たちは日常生活のなかで、その仕組みをほとんど意識することなく安全な水を使っている。

 ところが人口が増え続けることを前提としてつくられたこの仕組みは、人口が減り続ける社会に入ると、別の顔を見せ始める。水道の問題というと、多くの場合は水道管の老朽化や漏水が話題になるが、人口減少地域で本当に深刻なのは、古くなった管そのものだけではない。その管を支える住民が減っていくことである。

 国土交通省の資料によれば、2023年度時点で全国の水道管路は約74万6000キロメートルに達し、そのうち法定耐用年数である40年を超えた管路は25.3%となっている。それに対して、1年間に更新される管路は全体の0.61%程度にとどまる。現在40年を超えている管路を今後20年間で更新すると仮定すれば、必要になる更新率は年間約1.27%であり、現在のおよそ2倍の速度で工事を進めなければならない計算になる。

 しかし、この数字以上に重要なのは、水道の利用者が減っても水道管の長さは同じ割合では減らないという事実である。仮に100人が暮らす集落へ3キロメートルの管路を延ばしているなら、一人当たりの管路延長は30メートルになる。人口が50人になっても住宅の配置がそのままなら、必要な管路はほぼ3キロメートルのままであり、一人当たりでは60メートルになる。さらに25人まで減れば120メートルである。住民が使う水の総量は人口とともに減っていくのに、その水を届けるための道路下の構造物はほとんど減らない。

 人口が増えていた時代には、この性質は問題になりにくかった。一本の水道管を大勢で共有すれば、一人当たりの負担を小さくできたからである。しかし人口減少は、その計算を逆向きにする。利用者が減るほど一人が支える管路は長くなり、料金収入が減る一方で、更新しなければならない道路下の距離は残り続ける。人口減少地域の水道では、やがて「どれだけ水を使うか」よりも「一人の生活を維持するために何メートルの管を支えなければならないか」の方が重要になってくる。

国が「同じ水道を造り直す」以外の選択肢を考え始めた

 この問題は、すでに研究者だけが議論している未来予測ではない。2026年3月、国土交通省は「水道事業における分散型システムの導入手引き」を公表し、従来の水道管網をそのまま更新する方法だけではなく、小規模な水道施設や運搬送水などを比較する考え方を示した。

 そこで優先的に分散型システムを検討する地域の目安として示されたのが、現在または将来の給水人口が100人以下、一人当たり管路延長が30メートル以上、さらに法定耐用年数を超えた管路が50%以上、または老朽化状況そのものが十分把握されていない地域である。ただし、この数字を境界線のように扱うのは正しくない。たとえば一人当たり管路延長が30メートルを超えれば分散型へ切り替えるべきだ、という意味ではなく、「今と同じ管路網を造り直す方法だけでなく、別の給水方法も計算してみるべき地域」を見つけるための目安である。

 実際にどちらが合理的かは、水源までの距離、地形、高低差、水質、既存施設の残存寿命、工事費、電力費、維持管理人員、将来人口、災害危険度などによって変わる。同じ人口50人の集落でも、近くに良質な地下水がある場所と、水源そのものを確保しにくい場所では答えが違う。人口密度だけから全国一律の正解を導くことはできないのである。

 それでも国がこうした手引きを公表した意味は大きい。これまで水道政策では、既存施設をどう更新するかという議論が中心だったが、人口減少が進む地域では「本当に今と同じ形で更新する必要があるのか」という問いそのものが政策の中に入ってきたからである。国土交通省が掲げる方向も、集中型を捨てて分散型へ移行するという単純なものではなく、「集約型・分散型のベストミックスによる施設の最適配置」である。

大きな浄水場と小さな浄水場を比べても答えは出ない

 分散型の話をすると、「小さな浄水施設では効率が悪いのではないか」という疑問が生じる。これはもっともである。浄水処理だけを考えれば、大規模施設には規模の経済が働きやすい。一つの設備で大量の水を処理すれば、処理水一単位当たりの設備費や管理費を低くしやすいからであり、人口が密集した都市で巨大な浄水場と広域配水網が合理的なのは、この仕組みがあるためである。

 ところが人口の少ない地域では、浄水に必要な費用だけを比べても意味がない。水をつくったあと、その水を何キロメートル運ばなければならないのかまで考える必要がある。山の向こうに20戸しかない集落のために数キロメートルの老朽管を掘り返し、新しい管へ交換するのであれば、その集落の近くに小規模な浄水施設を設置した方が、設備単体では割高でも社会全体では安くなる可能性がある。

 つまり本当に比較すべきなのは「大きな浄水場」と「小さな浄水場」ではない。「大きな浄水場と長い管路」と「小さな浄水施設と短い管路」という二つのシステム全体である。建設費だけではなく、維持、修繕、電力、薬品、更新まで含めたLCC(Life Cycle Cost・ライフサイクルコスト、施設を建設してから維持・更新するまでに必要となる総費用)を比較して初めて、どちらが合理的なのかが見えてくる。

 国土交通省が示したケーススタディでも、既存施設を更新し続ける案、浄水を車両などで集落まで運ぶ運搬送水、小規模な水道施設を設置する案が比較されている。一定の仮定のもとでは小規模水道施設の方が安くなる事例も示されており、「分散型だから必ず安い」のではなく、「長い管路の更新費まで含めると逆転する地域が現実に存在する」というのが、より正確な理解だろう。

分散型水道と「水を循環させる家」は同じものではない

 ここで一つ、区別しておかなければならないことがある。現在、国が導入を具体的に検討している分散型水道と、家庭や小さな地域の内部で使用した水を再生して循環させる「小規模分散型水循環システム」は、同じ段階にある技術ではない。

 現在の分散型水道として現実的に想定されているのは、集落の近くにある地下水や河川水などを小規模施設で処理して給水する方法や、別の浄水場で処理した水を車両などで運び、集落内の配水池から供給する方法である。長い管路を維持する代わりに、水をつくる場所や運ぶ方法を変えるのであり、この考え方はすでに導入検討の対象になっている。

 一方、さらにその先には、住宅や数戸の単位で水を循環させる仕組みが考えられている。雨水を集め、生活排水を処理して再利用し、外部から供給される水の量そのものを少なくする。従来の水道が「遠くにある水源から水を送り続けるシステム」だとすれば、こちらは「使う場所の近くで水を回すシステム」であり、発想としては水道の歴史をかなり大きく変える可能性を持っている。

 実際、国土交通省は石川県珠洲市などで住宅向け小規模分散型水循環システムの実規模実証を進めている。ただし、これはすでに全国どこでも導入できる完成技術になったという意味ではない。年間を通した運転、水質の安定性、設備の保守、交換部品、故障時の対応、そして長期間使用した場合の総費用について、まだ検証すべき課題が残っている。2026年3月の分散型システム導入手引きでも、各戸型浄水装置などについては技術実証中であることなどから本格的な対象には含められていない。

 したがって、地方の水道が明日から家庭内循環型へ変わると考えるのは早すぎる。しかし、長大な管路を当然の前提とせず、「水を運ぶ距離そのものを減らす」という考え方が技術開発の方向として現れていることは確かである。

地震に強いのは集中型か、分散型か

 分散化にはもう一つ魅力的に見える点がある。災害時の強さである。2024年の能登半島地震では、水道施設や基幹管路が被災し、広い範囲で断水が発生した。大きなネットワークでは、重要な浄水場、送水管、配水池などが損傷すると、その先に暮らす多数の住民へ影響が広がることがある。

 だからといって、「集中型水道は災害に弱く、分散型なら強い」と結論づけることもできない。集中型水道でも、複数の水源を持ち、管路を環状につなぎ、耐震管や緊急連絡管を整備することで、一か所が壊れても別経路から供給できるようにすることは可能である。反対に分散型では、小さな設備が多数存在するため、それぞれの設備の故障、水源汚染、停電、部品不足、保守人員不足という別のリスクが生まれる。

 重要なのは、災害リスクの種類が変わることである。大規模集中型では一つの重要施設の障害が広域へ波及する危険があり、分散型では被害を小さな区域に限定できる可能性がある一方、設備数が増えることで管理対象も増える。さらに山間部の小規模水源が土砂災害危険区域にあれば、その水源そのものが集中型より危険になる場合すらある。どちらが安全かという問いにも、全国共通の答えはない。

 ただし、人口が少なく、一本の長い管路に集落全体が依存している地域では、その管路を短くできること自体が災害時の復旧を容易にする可能性はある。何十キロメートルもの管路のどこが壊れているのか探すより、小さな給水区域の設備を修復する方が早い場合もあるからである。分散化の価値は「絶対に壊れないこと」ではなく、壊れたときの影響範囲を小さくできる可能性にある。

設備を分散させても、管理まで分散させる必要はない

 しかし、小規模施設を山間部にいくつも設置すれば、別の現実が待っている。水道は設備を置けば終わるものではない。フィルターを交換し、ポンプを整備し、水質を検査し、異常があれば原因を調べなければならない。飲料水では「だいたい安全」という管理は許されず、水源によって水質も異なれば、降雨や季節によって条件も変化する。

 しかも人口減少地域では、水道施設だけでなく、それを管理する技術者も減っていく。十数人しか住んでいない集落ごとに専門技術者を常駐させることなど現実的ではない。分散型水道が広がるほど、「小さな施設を大量に誰が管理するのか」という問題が大きくなる。

 そこで興味深い考え方が、「施設は分散しても、管理は統合する」という方法である。水道技術研究センターなどでも、小規模水道を物理的には地域ごとに残しながら、運転情報や水質情報を一か所へ集約し、専門職員が複数地域を管理する分散ネットワーク型の考え方が検討されている。

 各集落に小さな浄水設備があり、その流量、水質、ポンプの状態を遠隔監視する。異常がなければ人間は常駐せず、必要なときだけ専門技術者が巡回する。そうなれば、水道施設そのものは地域に分散していても、技術力まで小さな集落へ分散させる必要はない。人口減少時代には、設備を大きく集約するよりも、情報と専門人材だけを集約する方が合理的な地域が現れるかもしれない。

水道を残すことと、水道管を残すことは同じではない

 ここまで考えると、人口減少地域の水道問題は、従来型か分散型かという二者択一ではないことが分かる。町の中心部には人口がある程度集中しており、既存の浄水場や管路を多くの住民が共有できるため、従来型の大規模水道を維持する方が合理的かもしれない。しかし、そこから山を越えた十数戸の集落まで数キロメートルの管を更新し続けるのであれば、小規模浄水施設や運搬送水の方が安くなる可能性がある。そのさらに外側に数戸しか住宅がなければ、将来は各戸型の浄水や水循環技術が選択肢になるかもしれない。

 つまり、一つの自治体のなかでも水道の姿が一種類である必要はない。中心部には従来型水道があり、周辺集落には小規模水道があり、さらに遠隔地では別の給水方式が使われるという組み合わせの方が合理的になる可能性がある。国土交通省が「集約型・分散型のベストミックス」と表現しているのは、まさにこの考え方である。

 人口が増え続けた時代、日本の社会基盤は「つなぐこと」によって豊かになった。道路を延ばし、電線を延ばし、電話線を延ばし、水道管や下水管を延ばした。ネットワークへ接続される人が増えるほど、一人当たりの負担は小さくなり、全国の小さな集落まで都市と同じサービスを届けることができた。

 ところが人口が減り始めると、同じネットワークが反対方向へ動き始める。人が減るほど、一人のために維持しなければならない道路、水道管、電線、公共施設の量が増えていく。人口減少とは、単に利用者が少なくなる現象ではなく、過去につくった巨大なネットワークを、より少ない人間で支える社会へ移行することである。

 そう考えると、水道政策で守るべきものも少し違って見えてくる。守るべきなのは、何十年前に敷設した水道管そのものではない。住民が蛇口をひねったとき、安全な水を必要な量だけ使える生活である。その生活を維持する方法が長い管路である必要はない。

2050年、地図から消えるのは「水道」ではなく「管路」かもしれない

 2050年の山間集落を想像してみよう。住民は30人しかいないが、集落そのものは残っている。数十年前なら、遠くの浄水場から何キロメートルもの管を延ばすことが近代化だった。しかしその頃には、集落の近くに小型浄水設備が置かれ、設備の状態は遠隔監視され、専門技術者が複数の地域を巡回しているかもしれない。ある住宅では雨水や再生水が生活用水の一部として利用され、外部から供給する水の量そのものが小さくなっている可能性もある。

 もちろん、全国がこの形になるわけではない。水源が乏しい地域では大規模水道を残す方が安全かもしれず、人口が比較的密集している地域なら管路を更新した方が安い。逆に、水源に恵まれ、住宅が点在し、管路だけが異様に長い地域では、分散型への転換が合理的になるかもしれない。正解は技術思想から決まるのではなく、地域ごとの数字から決まる。

 だから人口減少時代の水道に必要なのは、「集中型を守るか、分散型へ変えるか」という思想的な対立ではない。何人が暮らし、何キロメートルの管を維持し、いつ更新が必要になり、別の方法ならどの程度の費用とリスクになるのかを、一つの給水区域ごとに計算することである。その計算を重ねていけば、ある場所では長い管路が残り、別の場所では消えていく。

 将来、地方の地図から少しずつ姿を消していくものは、水道そのものではないのかもしれない。消えていくのは、人の少なくなった土地を何キロメートルも走る「長い水道管」であり、その代わりに水を使う場所の近くでつくり、必要に応じて運び、やがては一部を循環させる小さな仕組みが増えていく可能性がある。

 人口増加時代の水道は、遠く離れた人々を一本のネットワークへつなぐことによって発展した。しかし人口減少時代には、その一本をどこまで短くできるかが、水道を守る条件になるのかもしれない。

 私たちが本当に守りたいのは、水道管なのではない。蛇口から安全な水が出るという生活である。その目的を守るためなら、むしろ水道管を減らすことが必要になる地域が、これから日本のあちこちに現れる可能性がある。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 山あいの細い道路を、一台の軽バンがゆっくり登っていく。荷室にはいくつもの段ボール箱が積まれているが、山の上の集落で降ろす荷物は二つか三つしかない。谷に沿って曲がる道路を走り、橋を渡り、さらに支道へ入り、一軒の家の前で停車して荷物を渡せば、配送員はまた同じ道を戻らなければならない。この光景を物流という仕組みから眺めると、人口減少地域が抱える問題の輪郭が見えてくる。困っているのは荷物が多すぎるからではなく、むしろ少なすぎるからなのである。

 ドローン配送という言葉から、多くの人が最初に思い浮かべるのは離島だろう。海によって道路が完全に途切れている以上、空を飛ぶ機械との相性はいかにもよさそうに見える。しかし、物流の効率を決めるのは、単純に道路があるかないかではない。むしろ重要なのは、一個の荷物を届けるために、車両と人間を何分間拘束しなければならないかという問題である。その観点から考えると、ドローンが社会的な意味を先に持つ場所は、海の向こうの島ではなく、道路ではつながっているはずなのに、少量の荷物を届けるため長い時間を必要とする中山間地域なのかもしれない。

荷物が減れば、物流も小さくできるとは限らない

 人口が半分になれば宅配便の荷物も減るのだから、配送に必要な労力も半分になりそうに思える。しかし、物流には規模の縮小がそのまま効率化につながらないという厄介な性質がある。百軒の住宅が密集する市街地なら、一台の車が短い距離を移動しながら次々に荷物を降ろせるため、一個の荷物に必要な走行時間は小さい。これに対して、十軒の家が谷の向こうや山腹に離れて存在している地域では、荷物の数が十分の一になったとしても、道路そのものの長さまで十分の一になるわけではなく、むしろ一個を届けるための移動時間は大きくなっていく。

 国土交通省も、過疎地域では貨物量の減少と積載効率の低下によって物流サービスを持続的に提供することが難しくなっていると認識しており、2025年には「ラストマイル配送の効率化等に向けた検討会」が設置された。2024年度の宅配便取扱個数は約50億個に達しているが、全国で荷物が多いことと、人口の薄い地域で一件一件を効率よく届けられることは別問題であり、地方物流ではむしろ「何個運ぶか」より「一個を届けるため何分使うか」の比重が大きくなっている。

 この構造を象徴する事例として、北海道上士幌町について国土交通省の検討資料に示された数字は興味深い。市街地では荷物全体のおよそ8割を配送するのに配送時間の約2割しか使わないのに対し、農村部では荷物の約2割を届けるために配送時間の約8割を費やすという。これは上士幌町という特定地域の事例であり、全国の過疎地域にそのまま当てはまる法則ではないが、人口密度が低くなると配送量より配送時間の方が問題になるという構造をよく示している。

 もし地方物流の本質がここにあるのなら、ドローンの性能を見るときにも視点を変える必要がある。何キログラム積めるか、時速何キロメートルで飛べるかだけではなく、一個の荷物を届けるために失われていた配送員の時間を何分取り戻せるかという尺度で評価しなければ、本当の価値は見えてこない。

地図では近い家を、道路は遠くする

 山間部では、二つの地点が直線で2キロメートルしか離れていなくても、川や尾根が間にあれば、自動車は5キロメートル、場合によっては10キロメートル以上走らなければならない。道路とは地形に沿って引かれた一本の線であり、車はその線から外れることができないのに対し、ドローンは条件が整えば二地点をより直接的に結ぶことができるため、中山間地域ではこの差が時間差として表れやすい。

 日本郵便が東京都奥多摩町で行った実証では、山間部の直線距離約2キロメートルをドローンで結び、自動車で移動する場合のおよそ半分の時間で到着したと報告されている。もちろん一回の実証から全国の山村について同じ割合の時間短縮が可能だとはいえないが、谷沿いに遠回りする道路と直線的に飛行できる航空経路の違いは、中山間地域においてドローンが比較優位を持ち得る理由を端的に示している。

 ここで離島との違いを考えると、ドローン配送についての直感が少し変わってくる。離島は確かに海によって道路から切り離されているものの、既存の定期船が十分な積載率で機能している地域では、食品、飲料、日用品、建材などをまとめて大量に運ぶことができる。数キログラムの荷物をドローンで何往復もするより、一度に大量の物資を運べる船舶の方が単位重量当たりの輸送効率で有利になる場合が多く、日本郵便も離島では一定規模の輸配送量をまとめる必要があることから、まず既存物流ネットワークの活用を考えるという趣旨の見方を示している。

 もっとも、これは離島にドローンが向かないという意味ではない。船便が少ない島、港から集落までさらに長い陸上輸送が必要な島、緊急性の高い医薬品を少量だけ運ぶ場合などでは、ドローンが極めて有効になる可能性がある。重要なのは「離島か山村か」という地理区分そのものではなく、大量輸送ができる既存手段があるか、一個の荷物のためにどれだけ遠回りしなければならないかという物流条件なのである。

ドローンが置き換えるのはトラックではなく、最も長い寄り道かもしれない

 山梨県小菅村で進められてきた物流の仕組みは、この問題を考えるうえで示唆に富む。村外から届いた荷物を地域内の配送拠点へいったん集め、すべてをドローンで運ぶのではなく、住宅がまとまっている区域では陸上輸送を使い、地理的条件から配送効率の悪い区間にドローンを組み合わせる。そこには宅配便だけでなく、買い物代行や地域内配送なども組み込まれ、2021年から社会実装へ進んだのち、周辺自治体との共同配送へも展開してきた。

 この仕組みが興味深いのは、「トラック対ドローン」という対立になっていないことである。一度に多くの荷物を積み、住宅がまとまった区域を順番に回る仕事では、現在でも自動車は極めて優秀な輸送手段である。一方、数キログラムしかない荷物一つを積んで山道を何十分も往復する仕事になると、人間が運転する車両の長所である大量輸送能力がほとんど生かされない。

 地域物流を一本の木に例えるなら、都市から地域まで荷物を運ぶ太い幹には大型トラックが必要であり、集落を結ぶ太い枝には軽貨物車が適している。その先で山の向こうへ細く長く延び、数軒の家のためだけに存在する枝にまで同じ車両を走らせるから非効率が生まれるのであり、その部分だけをドローンへ受け渡すことができれば、物流網の大部分を変えなくても、人間の時間を最も多く奪っていた場所だけを改良できる。

 ドローン配送の未来というと、空を無数の機体が飛び交い、玄関先へ荷物が自動的に降りてくる光景が想像されがちだが、人口減少地域で先に実用性を持つのは、むしろこのような地味な仕組みではないだろうか。トラックをなくすのではなく、トラックが最も苦手とする仕事だけを空へ逃がすのである。

「一機に一人」では物流革命にならない

 ただし、ドローンが空を飛べるというだけでは、物流費は安くならない。一台のドローンを飛ばすたびに一人の操縦者が付き続けなければならないなら、配送員を操縦者へ置き換えただけになり、機体購入費、整備費、電池、通信、保険などを加えれば、かえって従来配送より高くなる可能性すらある。この問題はドローン物流の採算性を考えるうえで極めて重要であり、近年の制度整備も機体性能だけでなく、人間一人がどれだけ多くの機体を安全に管理できるかという方向へ移り始めている。

 国土交通省が2025年に策定した多数機同時運航のガイドラインでは、当初、一人の操縦者が最大5機を管理することが想定されていたが、2026年6月の改訂では、段階的な検証と安全対策を条件として同時運航機数の一律上限が撤廃された。その目的には運航効率と事業採算性の向上が明確に掲げられており、ドローン物流が「飛行できるか」という技術実証の段階から、「何機を何人で動かせば事業になるか」という経営と運航設計の段階へ移りつつあることが分かる。

 日本郵便も2026年に兵庫県豊岡市で複数機の同時運航を用いた物流実証を進め、使用機体には最大5.5キログラムを積載し、荷物搭載時でも40キロメートル以上飛行できる仕様のものが採用されている。兵庫県、豊岡市、日本郵便は同年、中山間地域の物流機能維持を目的とした連携協定も締結しており、ここでも目的は未来的な飛行技術の披露ではなく、人口減少地域で物流そのものを維持できるかという現実的な課題に置かれている。

人が少ない地域だからこそ使いやすいという逆説

 もう一つ興味深いのは、人口の少なさが従来物流には不利である一方、一定の条件下ではドローン運航には有利に働く可能性があることである。日本では2022年から、人がいる地域の上空を操縦者の目の届かない状態で飛行する、いわゆるレベル4飛行が制度上可能になったが、市街地のように歩行者や住宅が多い場所では、第三者に対する安全確保の要求も当然高くなる。

 一方、中山間地域などで利用されるレベル3.5飛行では、機上カメラなどによって飛行経路下の安全を確認することで、従来必要だった補助者や看板などの配置を簡素化できる。したがって、「人口が少ないから簡単に飛ばせる」と一般化することはできないものの、人口密度が低く、山林や農地など第三者が飛行経路下へ立ち入る可能性の低い場所では、従来の配送を不利にしていた地理的条件の一部が、逆にドローン運航上の利点へ変わる場合がある。

 人が少ないため宅配車一台を効率よく使えなくなった地域が、その人の少なさゆえに新しい輸送手段を導入しやすくなるとすれば、これは人口減少地域を考えるうえで象徴的な逆転である。地方の弱点をすべて都市と同じ条件へ戻そうとするのではなく、その弱点を別の技術の長所へ変換できるかという発想が必要になる。

それでも、空だけでは暮らしは支えられない

 もちろん、ドローンが地方物流の万能薬になるわけではない。現在想定されている配送用ドローンが得意なのは、主として軽量で比較的小さな荷物であり、米袋を何十袋も運んだり、飲料水、家具、灯油、建材といった重量物を日常的に大量輸送したりする用途では、依然として自動車や船舶の方が適している。風雨、気温、視界などによって飛行できない場合もあり、機体ごとに積載量や飛行距離、降雨や風に対する運用限界も存在する。

 したがって、過疎地域で必要なのは「ドローンだけで完結する物流網」ではなく、飛べない日は車両へ戻すことができる冗長性を備えた物流網である。国土交通省が進めるドローン配送拠点への支援でも、地方公共団体や物流事業者が連携し、トラックなどの陸上輸送とドローンを組み合わせることが前提となっており、政策的にも全面的な空輸への転換ではなく、既存物流の弱い部分を補完する技術として位置づけられている。

 将来、山間部を走る宅配車が消えるとは考えにくい。むしろ変わるのは、一台の車が必ずすべての家を訪問しなければならないという現在の配送方法だろう。朝、地域の物流拠点へトラックがまとめて荷物を運び、住宅が比較的密集する区域は軽貨物車が回り、軽くて急ぎで道路では大きく遠回りしなければならない荷物だけがドローンへ移される。悪天候の日や大きな荷物は従来通り車で運び、宅配便、買い物代行、地域商店の商品、条件によっては医薬品なども同じ配送基盤へ載せることができれば、人口が減っても複数の物流サービスを別々に維持する必要は小さくなる。

問題は「店があるか」ではなく「暮らしが届くか」

 地方の買い物問題は、スーパーが閉店した日に突然始まるわけではない。最初は店が少し遠くなり、次にバスの便が減り、自動車を運転できなくなった高齢者が買い物へ行きにくくなり、その後、宅配便の維持が難しくなって配送日数が延び、一部の商品を届けてもらいにくくなる。そのような小さな不便が一つずつ積み重なった末に、住民の中で「ここではもう普通に暮らせない」という判断が生まれる。

 そう考えれば、日用品物流は単なる民間の宅配サービスではない。水道や道路ほど目立つ存在ではなくても、牛乳や洗剤、紙おむつ、食品や薬が必要なときに届くということ自体が、地域で生活を続けるための基礎条件である。

 ドローン配送による作業時間削減については、2025年に国土交通省の検討会へ提出された事業者側資料で、一定割合の荷物をドローンへ移すことで全国的に大きなドライバー作業時間を削減できるという試算も示されている。ただし、これは約170自治体への導入やドローン配送可能率など複数の仮定に基づいた推計であり、将来確実に実現する数字として扱うべきものではない。それでも、その試算が示している考え方は重要で、ドローンの価値を「何個運んだか」ではなく、「人間が運転する必要のなくなった時間が何時間生まれたか」で測ろうとしている。

 過疎地域の物流で本当に問うべきなのは、ドローン一便とトラック一便の料金を単純に比べてどちらが安いかという問題ではないのだろう。一人の配送員が一日に回れる家が減り続けたとき、その人が最も時間を奪われる十軒をドローンに任せることで、残りの百軒への配送を維持できるのか。もしその十軒のためだけに別の配送員を確保せずに済むなら、ドローンそのものが単独で利益を生まなくても、地域物流網全体としては経済的な意味を持つ可能性がある。

 その意味で、ドローンは赤字の配送路線を突然黒字へ変える魔法の機械ではなく、採算限界へ近づいている物流網から最も負担の大きい部分を取り除き、その仕組み全体をもう少し長く維持するための装置として考えた方が現実に近い。

離島より先に「普通の山村」で始まる未来

 では、ドローン配送は本当に離島より先に過疎地域の日用品物流を救うのだろうか。現在までの実証や物流理論からは、少量配送が中心で、住宅が分散し、道路の迂回が大きく、第三者が飛行経路へ立ち入る可能性も比較的低い中山間地域では、ドローンの比較優位が先に現れる可能性をかなり合理的に説明することができる。ただし、それが全国的な採算データによって証明された段階にはまだ達しておらず、「離島より中山間地域が必ず先になる」と断定することはできない。

 おそらく最初に起きるのは、無数のドローンが住宅地の上空を飛び交うような劇的な変化ではない。物流会社ごとに別々だった荷物が地域の一つの拠点へ集まり、住宅密度の高い場所はこれまで通り車で配送され、その中から軽く、急ぎで、道路では遠回りになり、配送員の時間を大きく奪う荷物だけが選ばれて空を飛ぶという、かなり地味な変化だろう。

 既存の定期船が大量輸送を効率的に担える離島では、船という強力な輸送手段がすでに存在している。一方、人口の薄い山村には、数個の荷物のために数十分の山道を走るという、大型トラックにも軽貨物車にも効率の悪い仕事が毎日のように残されており、ドローンはその空白に入り込むことができる。

 そう考えると、ドローン配送の本当の競争相手はトラックでも船でもないのかもしれない。山道を三十分走って一個の荷物を届け、さらに三十分かけて元の道を戻る、その一時間こそが競争相手なのである。

 人口が減る町で最後まで守らなければならないのは、人口という数字そのものではない。食品を買えること、薬が届くこと、荷物を送れること、必要な物が必要なときに手に入り、ここに住んでいても普通の生活を続けられると思えることである。山の上を飛ぶ小さな機体が本当に価値を持つとすれば、それは未来的な乗り物だからではなく、人口減少社会の物流網からこぼれ落ちようとしている最後の細い枝を、地上の仕組みとともにつなぎ止めることができるからなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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