地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

選挙の夜、市役所や町村役場の一室には独特の熱気がある。当選確実を知らせる一報が入り、支援者から花束が渡され、新しい市長や町長が壇上でこれからの四年間を語る。人口減少を食い止めたい、産業を育てたい、子育てを支援したい、高齢者が安心して暮らせる地域にしたい。言葉の一つひとつには、その地域が少し変わるかもしれないという期待が託されている。

ところが、祝福の夜が明けると、首長を待っている仕事の風景はかなり違う。

予算、人事、福祉、学校、道路、水道、公共施設、防災、契約、情報システム、国や都道府県との調整、そして議会への説明。人口数千人の市町村であっても、行政組織は決して単純な小組織ではない。法令によって行わなければならない仕事が数多くあり、住民の生命や財産に直接かかわる業務を抱え、一つの大型事業の判断が十年後の財政にまで影響することもある。

選挙では「この地域をどのようにしたいか」が問われたはずなのに、当選した瞬間、その人物には複雑な行政組織を動かす経営能力まで求められる。

ここには、地方自治について考えるとき意外に見過ごされてきた、一つのねじれがある。

私たちは選挙によって政治家を選んでいる。同時に、その一回の選挙によって、数十億円、場合によっては数百億円以上の予算と多数の職員を動かす行政組織の最高責任者まで選んでいるのである。

選挙は行政経営者の採用試験ではない

市長や町長を住民が選ぶことには、もちろん大きな意味がある。

どのような地域をつくるのか。何に税金を使うのか。開発を優先するのか、自然環境を守るのか。公共施設を残すのか、統廃合するのか。高齢者施策と子育て施策のどちらにより多くの資源を振り向けるのか。こうした問題には、計算すれば一つの答えが出てくるわけではない。住民によって価値判断が異なるからこそ、選挙によって政治的な方向を決める必要がある。

日本では、それは単なる慣習でもない。日本国憲法第93条第2項は、地方公共団体の長を住民が直接選挙することを定めている。したがって、現在の日本で「市長や町長を選挙で選ぶのをやめ、民間から専門経営者を採用して行政のトップにする」という制度を、そのまま導入することはできない。

しかし、「市長や町長を選挙で選ばなければならない」ということと、「選挙で選ばれた一人の人物が行政経営のほぼすべてを背負うことが最適である」ということは、同じではない。

考えてみれば、選挙は行政経営能力を測定するようには設計されていない。候補者が長期財政計画をどの程度読み解けるのか、公共施設の更新費用を推計できるのか、大規模な情報システム更新を管理できるのか、組織を再編し人員配置を適正化できるのかを、有権者が投票所で試験するわけではない。

実際の選挙では、政策、人物、政治経験、地域との関係、これまでの実績、発信力などが総合的に評価される。それは民主主義として当然のことである。しかし、そこで選ばれた人物が財政、人事、組織設計、契約管理、デジタル化、公共施設管理といった行政経営の各分野でも優れた専門家であるとは限らない。

にもかかわらず、日本の地方自治では、「地域をどちらへ向かわせるかを決める能力」と「巨大な行政組織をどのように動かすかという能力」が、市長や町長という一つの職にかなり強く重なっている。

そこで、少し違った市町村行政を想像してみたい。

市長や町長は、これまで通り住民が選挙で選ぶ。その一方で、行政経営に強い専門的人材を全国から公募し、首長を補佐しながら組織運営を担う「行政経営者」を置いたらどうなるだろうか。

地域の方向を決める人と、行政組織を動かす人

ここでいう「行政経営者」は、現在の日本法に存在する正式な職名ではない。地方自治の役割分担を考えるための仮称である。

市長や町長は住民から直接信任を受け、「この地域をどちらへ向かわせるのか」を決める。行政経営者は、その政治的な方向を具体的な行政へ変換する役割を担う。財政を分析し、事業の優先順位を整理し、公共施設の維持更新を計画し、庁内組織を調整し、必要な専門人材を確保し、政策が計画通り進んでいるかを継続的に確認する。

こう書くと企業経営の仕組みを行政に持ち込むようにも見えるが、行政と企業は根本的に違う。採算が悪いから消防署をなくす、利用者が少ないから福祉サービスを廃止する、利益が出ないから山間部への行政サービスをやめる、という判断は行政にはできない。行政には効率だけでは測れない公平性、安全、権利保障という目的がある。

それでも、「何を大切にするかを決める仕事」と「決められた目的をどのような組織と方法で実現するかを考える仕事」が、完全に同一でないことも確かだろう。

この二つを制度的に分担している地方政府は海外に存在する。

代表的なのが米国などでみられるCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式・選挙で選ばれた議会と任命された専門行政経営者が役割を分担する地方政府制度)である。典型的には、選挙で選ばれた議会が政策の方向や予算について政治的な判断を行い、議会が任命したCity Manager(シティ・マネージャー・地方政府の日常的な行政運営を担当する専門行政経営者)が予算案の作成、職員管理、行政運営などを担う。

ただし、ここは注意しておかなければならない。

Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)は米国の地方制度の中で成立した仕組みであり、日本でこの記事が想定する「公選された市長・町長と、その下で働く行政経営型の専門職」という構想とは同じ制度ではない。この記事で海外制度を見る目的は、制度をそのまま輸入するためではなく、政治的な意思決定と専門的な行政運営をどこまで分担できるかを考えるための比較対象とすることにある。

また、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の説明でしばしば参照されるInternational City/County Management Association(国際市・郡管理協会)は、専門的な地方行政経営や同制度を積極的に推進している団体でもある。したがって、その資料は制度の構造を理解するうえでは有用だが、「この制度が優れている」とする評価については、独立した学術研究と分けて読む必要がある。実際、同協会自身もCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の普及や専門行政経営の推進活動を行っている。

日本にも、すでに制度上の入口はある

では、この発想は日本ではまったくの空想なのだろうか。

必ずしもそうではない。

地方自治法では、市町村に副市町村長を置くことができる。副市町村長は、市長や町長が議会の同意を得て選任し、任期は原則として四年である。そして首長は、任期途中でも副市町村長を解職することができる。つまり、単純な公募採用職ではなく、仮に全国から候補者を公募するとしても、最終的には首長が候補者を選び、議会の同意を得て選任するという形になる。

しかも副市町村長の仕事は、首長が不在のときだけ代役を務めるようなものではない。地方自治法第167条は、副市町村長が首長を補佐し、その命を受けて政策や企画をつかさどり、職員の事務を監督すると定めている。さらに、首長の権限に属する事務の一部について委任を受け、実際に執行することもできる。

したがって、現在の法制度を前提として現実的に考えるなら、「行政経営者」という独立した第二の首長を新設するというよりも、行政経営に強い人材を全国から公募し、その中から市長や町長が議会の同意を得て副市町村長などに選任し、明確な担当領域と責任を与える、という形がまず考えられる。

もちろん、それでも米国のCity Manager(シティ・マネージャー・専門行政経営者)と同じにはならない。日本の市長や町長は自治体を代表し、行政事務を管理・執行する中心的な権限と責任を持つからである。

それでも、「首長がすべてを自分で経営する」という発想と、「政治的責任は首長が負いながら、行政経営のかなりの部分を専門的人材に任せる」という発想の間には、大きな違いがある。

市長や町長が地域の未来を語り、行政経営者がその未来を実現できる組織をつくる。

この分業がうまく機能するなら、これまで一人の首長に集中していた仕事の意味はかなり変わってくる。

人口が減っても、行政の仕事は同じ割合では減らない

この問題が特に重要になるのは、人口減少が進む市町村である。

人口が半分になれば行政の仕事も半分になるのなら、問題は比較的単純だ。しかし実際にはそうならない。

人口が減っても住民票の交付は必要であり、税務、福祉、防災、教育、道路、水道、ごみ処理などの行政機能は残る。道路延長が人口に合わせて自然に半分になるわけではなく、水道管が住民減少に応じて短くなるわけでもない。人口3,000人の市町村にも条例、予算、決算、議会、選挙、福祉、防災といった一定の行政機能が必要になる。

言い換えれば、地方行政には人口が減っても簡単には消えてくれない「固定的な仕事」がある。

その一方で、行政に求められる専門性はむしろ高くなっている。情報システムの標準化、個人情報保護、サイバーセキュリティ、複雑化する福祉制度、公共施設の老朽化対策、災害対応など、小規模な市町村だから簡単になるとは限らない。国でも、市町村が必要とするデジタル人材を単独で確保するだけでなく、都道府県と市町村が連携して専門人材を確保する仕組みが検討・推進されている。

もちろん、小規模な市町村には専門家がいない、と一般化することはできない。優れた職員を抱える小規模自治体もあり、外部委託、広域連携、都道府県からの支援、複数自治体による共同処理によって専門性を補う方法もある。

それでも人口規模が小さくなれば、財政、人事、情報、福祉、土木など多分野の専門家を一つの組織の内部だけで十分にそろえる余地が小さくなりやすいという問題は残る。

人口減少とは、単に住民の人数が減っていく現象ではない。

一定量残り続ける行政機能を、より少ない住民、職員、税源によって支えなければならなくなる過程でもある。

ここまで考えると、人口減少時代に検討すべきなのは学校や道路や公共施設の統廃合だけではないことが分かる。

現在の行政組織そのものを、現在と同じ方法で維持できるのか。

これもまた、人口減少地域がいつか向き合わなければならない問題である。

では、専門行政経営者を置けば行政は良くなるのか

ここまでなら、「それなら専門家を入れた方がよい」という結論になりそうである。

ところが、実証研究を見ると話はそれほど単純ではない。

Jered B. Carrが2015年に発表した研究レビューでは、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)がMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式・公選首長が行政運営で強い役割を持つ地方政府制度)より優れた行政成果を生み出すという複数の仮説について、過去の研究が整理された。その結果、政治的代表や制度機能について一定の研究蓄積がある一方、「専門経営型の自治体の方がより良く管理される」という中心的な命題については、十分な実証的裏付けが得られていないと評価されている。

財政面でも結果はそろっていない。

Changhoon Jungによる2006年の研究は、人口5万人を超える米国504都市を1980年から2000年まで追跡し、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の都市とそれ以外の都市の行政支出を比較した。一般的な行政機能に関する一人当たり支出については、両者に統計的に明確な差は確認されなかった。警察支出ではCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の方が低いという結果が出たものの、消防では有意な差はなかった。

さらにStephen CoateとBrian Knightの2011年の研究では、Mayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の方が公共支出が低くなるという理論的予測が示され、実際の都市データを用いた分析でもその方向を支持する結果が得られている。

つまり、「専門行政経営者を置けば無駄が減り、行政コストが下がる」とまでは、現在の研究から言うことができない。

むしろ興味深いのは、制度の違いが財政だけではない部分に表れる可能性である。

Kimberly L. NelsonとWhitney B. Afonsoが2019年に発表した米国自治体の研究では、1990年から2010年までの汚職による有罪判決を分析したところ、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の自治体ではMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の自治体より、汚職による有罪判決が発生する可能性が低いという関連が報告された。推計では57%低かった。

しかし、この数字だけを見て「専門経営制度にすれば汚職が57%減る」と読むのは危険である。

観察研究では、そもそもCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)を選択する自治体と選択しない自治体の性格が違う可能性がある。改革志向が強い自治体、行政専門職を採用できる自治体、政治文化が異なる自治体だからこそ、その制度を採用しているのかもしれない。また、「汚職による有罪判決」は実際に発生した汚職そのものではなく、捜査や訴追の状況にも影響される。

制度と行政成果の関係を考えるとき、最も警戒すべきなのは、「その制度を採用したから成果が良くなった」のか、「もともと成果を良くしやすい自治体だからその制度を採用した」のかを取り違えることである。

専門家という肩書も、制度という名前も、それだけでは行政成果を保証してくれない。

米国の結果を、日本の人口数千人の市町村へそのまま持ち込めない

さらに、この種の海外研究を日本の地域分析に使うときには、もう一段慎重になる必要がある。

たとえば先ほどのJungの研究は、人口5万人を超える米国都市を対象としている。

ところが、日本で人口減少問題が深刻になっている市町村の中には、人口1万人を下回り、さらに数千人という自治体も少なくない。規模だけを見ても研究対象はかなり違う。

まして、日本と米国では地方税制、公務員制度、議会制度、自治体が担当する行政サービスの範囲、州・都道府県との関係、専門人材の労働市場などが異なっている。

したがって、

「米国でCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)に一定の成果が観察された」

という研究結果から、

「日本の人口3,000人の市町村でも行政経営者を置けば成果が良くなる」

という結論を直接導くことはできない。

ここから得られるのは答えではなく、仮説である。

政治的な代表性と専門的な行政経営をある程度分担した場合、日本の人口減少自治体の行政成果は改善するのか。

この問いを、日本の制度とデータを使って検証する価値がある、というところまでが現在言える範囲だろう。

本当に難しいのは「効率」ではなく「誰が決めたのか」である

仮に行政経営者を置いたとしても、もっと難しい問題が残る。

責任の所在である。

たとえば老朽化した公共施設が三つあり、人口予測と維持更新費を計算すると一つに集約した方が合理的だったとする。行政経営者は「今後二十年間の財政を考えれば統合すべきです」と提案するかもしれない。

しかし、閉鎖される地区の住民にとって、その施設は単なる行政資産ではない。長年地域行事が行われ、子どもが集まり、高齢者が顔を合わせてきた場所かもしれない。

数字で見れば行政経営者の判断には合理性がある。

それでも住民が反対することにも合理性がある。

その間に立つのが政治である。

行政は企業経営と決定的に違う。利益だけで成果を測れない。利用者が少なくても残さなければならないサービスがあり、効率が悪くても公平性のために必要な事業がある。消防や防災設備のように、できれば何年間も本格的に使われない方がよい公共サービスさえ存在する。

だから行政経営者に「行政を効率化してください」とだけ命じるのは危険である。

本当に必要なのは、何を効率化してよいのか、何を効率が悪くても守るのか、その境界を政治が決めることである。

市長や町長と議会が「この市町村は何を大切にするのか」を決め、その政治的な境界の中で行政経営者が方法を考える。

専門家が価値判断まで独占すれば民主主義から離れていく。一方で、政治家が個別の行政運営に過度に介入すれば、専門経営を導入した意味がなくなる。

制度の成否は、優秀な人物を一人採用できるかどうかよりも、政治と行政経営の境界をどこまで明確に設計できるかにかかっている。

公募するなら「市町村を救う英雄」を探してはいけない

もし日本の市町村が、このような制度を試みるなら、「市町村を立て直してくれる有名経営者募集」という話にしてはいけないだろう。

地方行政に必要なのは、救世主ではなく仕組みをつくれる人である。

行政経営者の成果を評価するときも、「財政を何億円削減したか」だけでは不十分だろう。公共施設の長期的な維持管理、職員採用と人材育成、行政手続に要する時間、住民サービスの利用しやすさ、デジタル化、広域連携、政策実施の速度、職員の働き方など、複数の指標を長期間追う必要がある。

しかも、単年度だけ成績を上げても意味がない。

公共施設の修繕を先送りすれば、その年度の支出は減る。しかし十年後には、より大きな費用となって戻ってくるかもしれない。職員数を一気に削減すれば人件費は下がるが、職員が疲弊し、採用できなくなり、行政能力そのものが低下する可能性もある。

行政経営とは、数字を小さくする技術ではない。

限られた資源を、住民が必要とする公共価値へ変換し続ける能力である。

だから行政経営者を導入するなら、その人物が何を決められるのか、何を市長や町長に諮らなければならないのか、何を議会が判断するのかをあらかじめ明確にしておく必要がある。そして成果が不十分なら交代できる仕組みも必要になる。

選挙で選ばれていない専門家を民主主義の外へ置くのではない。

専門家を民主主義の中でどのように使うかを設計する。

そこに、この構想の本質がある。

私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう

ここまで考えてくると、「行政経営者を置いたら市町村は良くなるのか」という問いは、少し違った問いへ変わっていく。

そもそも私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう。

候補者の人格を選んでいるのか。政策を選んでいるのか。地域の将来像を選んでいるのか。それとも、多数の職員と巨額の予算を動かす行政経営能力まで含めて、一人の人物に託しているのだろうか。

人口も税収も増えていた時代には、この問いは現在ほど切実ではなかったかもしれない。新しい学校を建て、新しい道路を造り、新しい公共施設を整備することが成長と結びつきやすかった。

しかし人口が減る時代には、地方政治そのものの性格が変わる。

新しいものをつくる以上に、何を残し、何を統合し、何をやめるのかを決めなければならない。その判断には住民から与えられた政治的正当性が必要であると同時に、人口予測、財政分析、施設管理、組織設計といった高度な行政経営能力も必要になる。

その二つを、一回の選挙によって選ばれた一人の首長に求め続けることが、人口減少時代にも最も合理的な制度なのだろうか。

もちろん、行政経営者を置けば市町村が必ず良くなるわけではない。

優秀な人材を採用できる保証はなく、市長や町長との対立が起きる可能性もある。行政経営者と議会の考えが衝突することもあるだろう。役割分担が曖昧なら、住民から見て「結局、誰が決めたのか分からない」という状態に陥る危険すらある。

そして何より、海外研究から日本の小規模自治体における効果を直接証明することはできない。

だから、この構想を「これからの地方自治の正解」と呼ぶのは早い。

しかし、「検討する価値のある仮説」としては十分に成立している。

人口減少とは、市町村の人口だけが小さくなっていく現象ではないからである。

人口が減り、職員が減り、税源が細り、専門人材を確保することが難しくなっても、行政が担わなければならない仕事は同じ速度では消えてくれない。

そのとき最初に限界を迎えるのは、道路でも水道でも学校でもなく、

「現在の行政組織を、現在と同じ方法で動かし続ける能力」

なのかもしれない。

選挙は、市町村がどちらへ向かうのかを決める。

行政経営は、そこへどのようにたどり着くのかを考える。

現実には、その二つを完全に切り離すことなどできない。しかし、切り離せないからといって、最初から同じ仕事だと考える必要もない。

選挙の夜、新しい市長や町長が壇上で地域の未来を語る。

翌朝、静かな役所や役場では予算書が開かれ、人員配置の相談が始まり、老朽化した施設の修繕費が積み上がり、数年後には更新しなければならない情報システムの予定表が置かれている。

市町村の未来は、おそらくその両方によってつくられている。

だから人口減少時代の地方自治について考えるとき、本当に問うべきなのは「誰を市長や町長に選ぶか」だけではない。

私たちは、選挙で選ばれた一人の首長に、いったいどこまでの仕事を背負わせようとしているのか。

その問いを立てるところから、人口減少時代の地方自治の次の形を考えることが始まるのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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人口が三万人から二万人へ減ったからといって、市の面積が三分の二になるわけではない。八千人いた町が五千人になっても、山あいまで延びた道路が短くなることはなく、地中に埋められた水道管や下水道管が人口に合わせて消えてくれるわけでもない。橋はそこに架かったままであり、役場・市役所から遠い地区にもごみ収集車は向かい、誰かが倒れれば救急車は走る。人が減っても、街を支える骨格はすぐには小さくならない。

人口減少が地方にとって難しいのは、実は人口そのものが減るからではない。少なくなった人間で、人口が多かった時代につくられた街を支え続けなければならなくなるからである。

国立社会保障・人口問題研究所は、2020年の国勢調査を基礎として、原則として市区町村別に2050年までの将来人口を推計している。将来人口が一人単位でその通りになるわけではないにせよ、多くの地域で人口減少と高齢化が続くという方向は、もはや遠い未来の予言ではない。問題は未来が分からないことではなく、かなり見えている未来に対して、街の形をどう変えるのかが決まっていないことである。

ここで考えたいのが、「街はどこから縮むべきなのか」という問いである。

ただし、本稿でいう「撤退」は、人口の少ない地域から住民を強制的に移転させることではない。道路や水道をどこまで更新するのか、公共交通をどこまで残すのか、公共施設をどこに集めるのか、新しい住宅や公共投資をどこへ誘導するのか。その順番を長い時間の中で組み替えることを意味している。

もし街を地図だけで眺めるなら、答えは簡単に見えるだろう。役場・市役所や駅、病院、スーパーから遠い地域ほど維持するのが大変なのだから、外側から少しずつ縮めればよい。中心から半径を狭めるように、市街地を小さくしていく。人口減少時代の街づくりと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、おそらくこの形である。

ところが、数字を一つずつ重ねていくと、この直感はかなり早い段階で崩れる。

架空の「朝凪市」を考えてみよう。人口三万人、面積百平方キロメートルの地方都市で、2050年には人口が一万八千人まで減ると予測されている。市役所と駅がある中心部から十二キロ離れたA地区には百五十人が暮らしている。一方、中心部からわずか四キロのB地区には百人が暮らしている。

距離だけを見れば、A地区の方が明らかに不利である。市役所から遠く、病院からも遠い。直感的には、朝凪市が縮小するとき、まずA地区への投資を減らすべきだと思える。

ところが住宅の配置を見ると、事情が変わる。A地区の百五十人は一本の幹線道路沿いに比較的まとまって住んでいる。それに対してB地区は丘陵地に造成された住宅地で、空き家を挟みながら家々が広く散らばっている。A地区で百五十人を支える水道管が三キロなのに、B地区では百人のために六キロ必要だとすれば、一人当たりの水道管延長はB地区の方が三倍になる。道路も同じで、住宅が散在すれば、同じ人数を支えるために必要な道路面積は増えていく。

ここで撤退順位は最初の逆転を起こす。

中心から遠いA地区より、中心に近いB地区の方が、一人の暮らしを支えるために多くのインフラを必要としているかもしれないからである。

人口密度という数字は、単なる「人の混み具合」ではない。道路、水道、ごみ収集、公共交通といったサービスを何人で分担できるのかを左右する数字でもある。一キロの水道管を百人で支える場合と十人で支える場合では、同じ設備でも一人当たりの負担は大きく違ってくる。

しかし、これだけでB地区を先に縮小すべきだと結論すると、また間違える。

A地区では十年前に水道管が更新され、幹線道路の舗装も比較的新しい。一方、B地区では高度成長期の終わりごろに整備された水道管が十年以内に更新期を迎え、地区へ入る橋も大規模補修が必要になるとしよう。

今年一年だけの維持費を比べれば、両地区にはそれほど大きな違いがないかもしれない。ところが、これから三十年間に必要となる更新費まで含めると、B地区の費用は急激に膨らむ。

ここで撤退順位は、さらに大きくB地区側へ傾く。

人口減少時代のインフラを考えるとき、「現在いくらかかっているか」だけを見ても意味が薄い。重要なのは、その人口がさらに減っていく間に、道路、水道管、橋、公共施設がいつ寿命を迎えるのかである。人口百人の地区でも、水道管を更新した直後なら今後二十年間の費用は比較的小さいかもしれない。反対に、人口が二百人いても、道路、橋、水道、公共施設の更新が一斉に重なれば、将来負担は急に大きくなる。

街の撤退順序には、地図だけではなく時計が必要になる。

ここで、さらに人口が減った場合を考えてみる。

B地区の人口が百人から九十人に減っても、水道管六キロが五・四キロに縮むことはない。八十人になっても道路はほぼ同じだけ必要であり、五十人になっても橋は一本丸ごと維持しなければならない。人口は半分になっても、インフラ費用は半分にはならない。

すると一人当たりの負担は、人口が減るほど大きくなる。

しかも、その増え方は一定ではない。

五百人の地区から五十人減るのと、百人の地区から五十人減るのとでは、同じ五十人減少でも意味がまったく違う。前者では人口が一割減るだけだが、後者では半分になる。その間、水道管や道路の長さが変わらなければ、一人当たりの負担は急速に重くなる。

ここで見えてくるのが、人口減少における「限界」の存在である。

経済学や数理的な政策評価では、全体の平均だけでなく、一人増えたり減ったりしたときに費用がどれだけ変化するかという「限界」の考え方が重要になる。人口が多いうちは、一人減っても地域全体のインフラ効率はほとんど変わらない。しかし人口が少なくなり、道路一本、水道管一本、バス一路線を維持する最低限の人数へ近づくと、一人の減少が急に重い意味を持ち始める。

つまり、人口減少はいつでも同じ速度で地域を弱らせるわけではない。

人数は滑らかに減っているのに、費用負担は途中から急に重くなることがある。

公共交通でも同じことが起きる。一日百人が利用していたバスが九十人になったからといって、運行本数が自動的に一割減るわけではない。しかし利用者がある水準を下回ったところで、一日五便を三便にしなければ維持できなくなるかもしれない。さらに運転手を確保できなくなれば、路線そのものがなくなる。すると、自動車を運転できない高齢者の買い物や通院が難しくなり、商店の利用者が減り、その閉店によって別の住民まで暮らしにくくなる。

人口は徐々に減るのに、暮らしは階段状に悪くなることがある。

このため、「人口百人以下なら撤退」という単純な基準を作ることはできない。百人しかいなくても、道路、水道、交通が効率的に配置されていれば維持しやすい地区はある。三百人いても、住宅が広く散らばり、老朽施設が多く、複数の橋や長い管路を必要とする地域なら、維持費は高くなる。

では、人口密度と将来の更新費を計算すれば、撤退順位を決められるのだろうか。

まだ足りない。

朝凪市のA地区が海沿いの低地にあり、大規模な津波や河川氾濫の危険性が比較的高い一方、B地区は高台にあるとしよう。平常時の行政費用だけを考えればB地区から縮める方が合理的に見える。しかし災害が起きた場合の住宅被害、避難、復旧費、生命への危険まで長期的な損失として加えると、A地区の評価は大きく悪化する。

ここで撤退順位は、また動く。

行政費用だけならB地区、災害リスクまで考えればA地区という具合に、何を目的とするかによって答えが変わるのである。

それでもまだ終わらない。

B地区に診療所が一つあり、地区住民百人だけでなく、周囲三地区の合計五百人がそこを利用しているとする。B地区への公共交通や道路を縮小して診療所が維持できなくなれば、影響を受けるのは百人ではない。五百人の通院時間が延びる可能性がある。

そうなると、B地区の価値を居住人口百人だけで測ること自体が間違いになる。

街には道路の網があり、水道の網があり、その上に医療、買い物、教育、公共交通という別の網が重なっている。ある地区が人口では小さくても、ネットワーク上では重要な結節点になっていることがある。逆に人口が多くても、他の地域をほとんど支えていない地区もある。

数学のネットワーク理論で考えるなら、重要なのは点の大きさだけではなく、その点を消したときに網全体がどう変わるかである。

橋一本を閉じたときに迂回距離が何キロ増えるのか。診療所一か所を集約したときに通院時間が何分延びるのか。バス路線一本を廃止したときに、自動車を使えない住民が何人取り残されるのか。

「そこに何人住んでいるか」より、「そこを失ったときに何人の暮らしが変わるか」の方が重要になる場合がある。

こうして人口密度、更新費、災害リスク、ネットワークを順番に入れていくと、最初は簡単に見えた「撤退順位」は何度も入れ替わる。

だから最終的に、朝凪市が地区ごとに一つの総合点を付けて、点数の低い順に撤退すればよいという話にはならない。

人口は「人」であり、費用は「円」であり、通院時間は「分」であり、災害危険度は確率や被害額として表される。性質の異なる数字を一つの点数へ押し込めると、分かりやすさは得られても、その点数の作り方によって結果が簡単に変わってしまう。

そこで必要になるのが、多目的最適化という考え方である。

行政としては、今後三十年間の道路、水道、公共施設などの総費用を小さくしたい。しかし同時に、住民の買い物時間は短く保ちたい。救急医療へ到達する時間も長くしたくない。災害リスクの高い場所へ人口を集中させたくもない。さらに、現在住んでいる人に大きな移転負担を課すことも避けたい。

ところが、これらをすべて同時に最高の状態にすることはできない。

行政費用だけを最小にすれば、多くの施設を一か所へ集約する案が有利になる。しかし集約しすぎれば住民の移動時間が増える。移動時間だけを短くしようとすれば、各地区に施設を残す必要があり、今度は費用が増える。災害安全性を最優先すれば、既存中心市街地とは別の場所へ住宅を誘導しなければならないこともある。

数理モデルが教えてくれるのは、「唯一の正解」ではない。

費用を一億円減らせば、住民の平均移動時間が何分増えるのか。救急への到達時間を五分短縮するために、追加でいくら必要なのか。災害リスクを下げるために人口配置を変えれば、既存インフラのどの部分が無駄になるのか。

何を得れば、何を失うのか。

その交換条件を明らかにすることこそ、数理的に街を考える意味なのである。

さらに、撤退順序は一度決めたら終わりではない。

朝凪市でB地区の水道管が2035年に更新期を迎えるなら、その時点で初めて大規模更新と別方式を比較すればよい。2040年に人口がさらに減り、現在の路線バスを維持するのが難しくなったなら、乗合型交通へ切り替える。住宅については、今住んでいる人を急に移転させるのではなく、空き家化や相続、建替えの時期に合わせて生活拠点へ居住を誘導していく。

これは動的最適化と呼ばれる考え方に近い。

今日の一回だけの判断ではなく、人口、施設の老朽化、財政、住民構成が毎年変化していくことを前提として、その時々で最も損失の小さい選択をつないでいく。

人口が減少しているからといって、2026年に道路を閉じる必要はない。しかし2038年に大規模な更新費が必要になるなら、その十三年間を使って住民に将来像を示し、交通手段や住宅政策を準備することができる。

撤退は、ある日突然行われる政策でなくてよい。

むしろ、施設の寿命と人口減少の速度を合わせることで、社会的な痛みを小さくすることができる。

水道はその典型だろう。人口が増えていた時代には、大規模な浄水施設から長い水道管を通じて各家庭へ水を送る集約型の仕組みが合理的だった。しかし利用者が大きく減った地域では、少数の住民のために何キロもの管路を更新し続けることが最適とは限らない。技術的・制度的な条件を満たす場所では、集約型と小規模な分散型を比較する余地が生まれている。

ここで重要なのは、水道管を残すことが目的ではないということだ。

安全な水を届けることが目的である。

同じように、バス路線を残すことそのものが目的なのではなく、自動車を運転できない住民にも移動手段を確保することが目的である。診療所という建物を残すことが目的なのではなく、必要な医療へ到達できる状態を残すことが目的である。

施設を守ることと、サービスを守ることを分けて考えれば、街の縮小は単純な廃止の話ではなくなる。

医療について考えれば、その違いはさらに分かりやすい。日常的な診療はできるだけ身近にあった方がよいが、高度な救急医療や手術には一定量の医療資源が必要になる。どの医療も各地域へ均等に置こうとすれば、医師や設備が分散しすぎる一方、すべてを一か所へ集めれば、高齢者の日常的な通院が難しくなる。

ここでも一つの答えは存在しない。

特に救急医療では、病院まで何キロあるかより、発症してから適切な治療が始まるまで何分かかるかの方が重要になる。十キロ先の医療機関へ搬送しても必要な治療ができず、そこからさらに二十キロ移動するなら、最初から専門的な治療ができる拠点へ搬送した方が早い場合もある。

距離より時間を見るという考え方は、医療以外にも使える。

スーパーまで七キロあっても、自動車で十分なら生活上の負担は小さいかもしれない。反対に二キロしか離れていなくても、坂道が多く、公共交通もなければ高齢者にとっては遠い。役場・市役所まで十キロあっても、多くの手続きをオンラインや近隣窓口で済ませられれば、生活上の距離は短くなる。

街を地図上のキロメートルではなく、「普通の一日を送るために何分必要か」で測ってみる。

すると交通、医療、買い物、行政、教育が、一つの生活システムとして見えてくる。

ここまで考えると、朝凪市の将来像も、中心部へ向かって円形に縮む姿ではなくなってくる。

市役所、駅、商業施設、中核医療機関が集まる第一拠点がある。そこから離れた地域には第二、第三の生活拠点を残し、それぞれを交通で結ぶ。人口の少ない地区についても直ちに居住を禁止するのではなく、更新期を迎えるインフラから順に別方式を検討し、新規住宅や公共投資は将来もサービスを維持しやすい場所へ徐々に誘導する。

街は円のように小さくなるのではない。

いくつかの点と、それを結ぶ線へ変わっていく。

夜空の星座のような形である。

そして、この形を決めるのは行政効率だけではない。中心市街地が浸水危険地域なら、別の安全な拠点を育てる必要があるかもしれない。人口の少ない集落が地域交通の結節点なら、そこを残すことが周辺全体の生活を支えるかもしれない。

数理モデルは地図の外側から順番に赤く塗ってくれる機械ではない。

むしろ、「一見すると先に縮めるべき場所を残した方が、街全体では合理的である」という逆転を見つけるための道具である。

だから、最初に立てた「街はどこから縮むべきなのか」という問いにも、単純な地名では答えられない。

最も遠い地区からでもない。

最も人口の少ない地区からでもない。

一人当たり費用が最も高い地区からでもない。

より正確に言うなら、次に大きな更新費が必要となる施設やサービスについて、別の方法へ切り替えた場合に、住民生活全体へ生じる損失が最も小さいところから、少しずつ街の構造を変えるべきなのである。

そこには人口密度があり、一人当たり費用があり、限界費用があり、施設の更新時期がある。さらに交通と医療のネットワーク、災害リスク、住民の移動時間が重なり、それらを三十年という時間の中で比較し続ける。

人口減少時代の撤退順序とは、一本のランキングではない。

毎年変わる街の状態に合わせて、何をいつ変えれば暮らしの損失を最も小さくできるかを探し続ける順序なのである。

この考え方に立てば、「すべてを残すこと」が必ずしも住民を守ることにはならないことも見えてくる。道路も橋も水道も公共施設も公共交通も、今までと同じ場所、同じ方法で維持しようとすれば、限られた財源と人材は広い範囲へ薄く配られる。その結果、何も廃止していないのに舗装は傷み、水道更新は遅れ、バスは減便され、公共施設は老朽化していくかもしれない。

全部を残そうとして、全部を少しずつ失う。

人口減少社会では、それが最も危険な縮み方なのかもしれない。

街が小さくなることそのものは避けられない地域がある。しかし、道路が壊れた順、水道管が寿命を迎えた順、店が閉じた順、医師が辞めた順、バスの運転手がいなくなった順に生活が壊れていく必要はない。

成り行きで縮む街と、考えて縮む街は違う。

前者では、一つのサービスが失われるたびに住民が対応を迫られる。後者では、人口と施設の寿命を先に読み、別の交通、別の水道方式、別の医療配置、別の住宅政策を準備してから形を変える。

人口三万人の市が一万八千人になっても、一万八千人の生活水準まで五分の三になる必要はない。人口八千人の町が五千人になっても、暮らしまで八分の五へ縮める必要はない。

人口を維持することと、生活を維持することは同じではないからである。

人口が増え続けた時代、街づくりとは新しい道路を延ばし、住宅地を広げ、公共施設を建てることだった。

人口が減り続ける時代には、それとは反対方向の技術が必要になる。

ただし、それは無造作に切り捨てる技術ではない。

人口、距離、費用、時間、医療、交通、災害を重ね、何を変えれば何を残せるのかを計算し、その順序を選ぶ技術である。

街を縮めるというと、何かが消えていく話に聞こえる。

しかし本当に数理的に考えるなら、目的は逆になる。

どこを捨てるかを決めるためではなく、限られた人口と財源の中で、最後まで何を残せるかを決めるために街を縮める。

人口増加時代が「街を広げる数学」を必要としたのだとすれば、人口減少時代には、別の数学が必要になる。

それは、人の暮らしを小さくすることなく、街の形だけを静かに小さくしていくための数学である。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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地方議会は必要なのだろうか。

人口数千人の町にも議会があり、議員がいる。定例会が開かれ、予算や条例が審議され、一般質問が行われる。一方で住民から見ると、「結局、役所が作った予算を承認しているだけではないか」「議員が何をしているのか分からない」「議員同士の人間関係や地域のしがらみばかりが目につく」と感じることもあるだろう。

しかし、この問題を「地方議会は要らない」という結論で処理するのは適切ではない。

むしろ問題は逆である。

地方議会は地方自治にとって極めて重要だからこそ、それが十分に機能しなくなったときの弊害も大きい。

地方議会を考えるときに必要なのは、議員個人の資質について論じることではない。「良い議員がいる」「悪い議員がいる」という話だけでは、地方議会が抱えている問題の本質には届かない。

見るべきなのは、首長と議会の関係、選挙制度、人口減少、候補者不足、議員構成、行政との情報格差、政策形成能力、そして住民との関係である。

地方議会とは本来何をするための制度なのか。そして、なぜその制度が地域によっては十分に機能しにくくなっているのか。

そこから考えてみたい。

地方議会は「首長を手伝う組織」ではない

日本国憲法第93条は、地方公共団体に「議事機関として議会を設置する」と定め、地方公共団体の長と議会議員の双方を住民が直接選挙する仕組みを採用している。

ここが地方政治を理解するうえで非常に重要である。

国政では、国会の多数派を基礎として内閣が組織される議院内閣制が採用されている。それに対して地方自治では、知事や市町村長も住民が直接選び、議員も住民が直接選ぶ。

一般に「二元代表制」と呼ばれる仕組みである。

したがって、市町村長が住民の代表であるのと同じように、市町村議会も住民の代表である。

2014年の衆議院総務委員会でも、政府は地方議会について、条例の制定・改廃、予算決定、地方税の賦課徴収などの団体意思決定機能と、執行機関に対する監視機能を持ち、首長と議会が「健全な緊張関係」の中で地方自治を運営することが期待されているとの趣旨を説明している。

つまり、本来の関係は、

首長が行政を動かし、議会がそれを民主的に制御する

という関係である。

地方議会は首長を手伝うための組織でもなければ、役所が提出した案件に形式的に賛成するための組織でもない。

首長から一定の距離を置き、「その政策は本当に必要なのか」「その支出は妥当なのか」「別の選択肢はないのか」と問い続ける存在でなければならない。

数千万円、数億円を使う行政を一人の首長だけに任せてよいのか

地方議会の存在理由を理解するには、議会がなくなった自治体を想像すると分かりやすい。

市町村長は予算を編成し、道路を整備し、公共施設を建設し、福祉政策を決め、補助金を交付し、さまざまな契約を行う。

行政が扱う金額は、小さな町村であっても極めて大きい。

これを「選挙で選ばれた首長なのだから任せればよい」と考えることもできる。

しかし、選挙で選ばれたことと、任期中のすべての判断が正しいこととは別問題である。

だからこそ地方自治法第96条は、条例の制定・改廃、予算、決算、地方税、一定の契約や財産取得・処分などについて、地方議会の議決を必要としている。

これは行政手続上の形式ではない。

行政権力に対して、もう一つの民主的な判断を介在させる仕組みなのである。

首長が「やりたい」と考えても議会が認めなければ実施できない政策があり、行政が税金をどう使ったかについても議会が決算を審査する。

この仕組みを取り除けば、行政権は非常に強くなる。

したがって、地方議会の最大の存在意義は「議員を置くこと」そのものではなく、

地方政府の権力を一か所に集中させないこと

にある。

問題は、制度として議会があっても「チェック」が働くとは限らないことだ

ここから地方議会の難しい問題が始まる。

制度上、首長と議会が別々に選ばれているからといって、自動的に相互監視が機能するわけではない。

首長提出の議案について議員が十分な資料を読み、政策効果を検証し、必要なら修正を求めることで初めて制度は機能する。

ところが現実には、行政と議会との間には大きな情報格差が存在する。

役所には、財政、税務、福祉、都市計画、上下水道、教育、介護、防災など、それぞれの分野を担当する職員がいる。政策案はこうした行政組織によって長時間をかけて作成される。

それに対し議員側は、限られた人数と支援体制で、その内容を検証しなければならない。

しかも地方自治体が扱う政策は、以前より高度化している。

人口減少対策、公共施設再編、地域公共交通、医療・介護、情報システム、防災、再生可能エネルギーなど、専門的な判断を必要とする案件は珍しくない。

ここには構造的な問題がある。

行政を監視する側より、監視される行政側の方が情報と専門知識を大量に持っているのである。

したがって議会が十分な調査能力を持たなければ、制度上は議決していても、実質的には行政の説明を確認して承認するだけになりかねない。

すべての地方議会がそうだという意味ではない。

重要なのは、「議会が存在すること」と「議会による監視が機能していること」は同じではない、という点である。

「選挙があるから民意を反映している」とも限らなくなっている

さらに深刻なのが、地方議員のなり手不足である。

2023年の統一地方選挙について、当時の総務大臣は国会で、市区町村議会における無投票当選者の割合が前回の9.4%から11.9%へ上昇し、定数割れとなった団体も8団体から21団体へ増加したと説明している。

町村に限定するとさらに厳しい。

全国町村議会議長会が2024年にまとめた検討では、2023年の統一地方選挙で無投票や定数割れが増加したことを踏まえ、議員のなり手不足を議会だけではなく町村そのものに関わる危機として位置づけている。

これは民主主義にとって軽い問題ではない。

議員定数が10人で候補者が10人しかいなければ、候補者同士を比較して選ぶという選挙の核心部分が失われる。

法律上は正当に選出された議員であっても、政治学的には「競争による選択」という機能が弱くなる。

地方議会の正統性は選挙に由来する。

ところが、候補者不足によって選挙そのものが成立しにくくなれば、その正統性を支えている土台が弱くなってしまう。

これは地方議会制度が現在直面している最も重大な問題の一つである。

議会が地域社会の縮図になっていないという問題

もう一つ考えなければならないのが代表性である。

議会は住民の代表機関である以上、地域社会のさまざまな立場や利害が持ち込まれることに意味がある。

高齢者だけでなく若者がいる。会社員もいれば自営業者もいる。子育て世代、一人暮らし世帯、介護を担う人、移住者など、地域社会を構成する人々の生活条件は異なる。

ところが地方議会の構成が地域人口の構成から大きく偏れば、悪意がなくても議論されやすい政策分野と議論されにくい政策分野が生じる可能性がある。

政府も地方議会のなり手不足問題について、過去の統一地方選挙では女性議員が少ない議会や議員の平均年齢が高い議会ほど無投票当選割合が高い傾向があったとして、多様な層の議会参加を促す必要性を指摘している。

ここで問題なのは、年齢や性別そのものではない。

ある属性の人が議員になることが悪いのではなく、特定の職業、世代、性別、社会経験だけに候補者が偏り続ける構造が問題なのである。

代表制民主主義は、さまざまな利害を議会の中に持ち込み、議論を通じて調整する制度である。

その入口が狭くなれば、議会の制度的価値そのものが小さくなる。

「地域の要望を役所へ届ける人」だけになれば議会は弱くなる

地方議員には、住民から道路補修、街灯、福祉、交通、公共施設など多くの相談が寄せられる。

住民の声を行政へ届けること自体は重要な仕事である。

しかし、地方議員の役割が「住民から頼まれたことを役所につなぐ人」だけになってしまうと別の問題が生じる。

議員の本来の仕事は、個別の要望を処理することだけではない。

例えば人口減少地域で、

「利用者が少なくなった公共施設を今後も維持するのか」

「道路、水道、学校、公共交通をどの範囲まで残すのか」

「限られた財源を子育て、高齢者福祉、産業政策のどこへ配分するのか」

といった問題を考える必要がある。

このような問題では、すべての住民の要求を同時に満たすことはできない。

だから政治が必要になる。

個々の要求を行政につなぐことと、地域全体にとって何を優先すべきか判断することは違う。

地方議会が前者ばかりになれば、長期的な政策判断が弱くなり、目の前の個別利益を積み重ねる政治へ傾きやすくなる。

人口減少は地方議会の問題をさらに難しくする

今後、地方議会の問題は人口減少と切り離せなくなる。

人口が減れば、議員候補になり得る人口も減る。

さらに若年人口や現役世代が少なくなれば、仕事を続けながら議員になることのできる人材も限られる。

そこで「議員が少ないなら定数を減らせばよい」という議論が出てくる。

一見すると合理的である。

しかし定数削減には別の問題がある。

議員を減らせば議会経費は減少する一方、一人の議員が代表する住民の範囲は広くなり、委員会などで政策を専門的に調査する人数も減る。

つまり、

議員を減らせば議会が効率化するとは限らない。

行政組織の規模に対して議会側を極端に小さくすれば、行政を監視する能力まで低下する可能性がある。

同じことは議員報酬にもいえる。

議員報酬を下げれば財政負担は軽くなる。

しかし報酬が低すぎれば、他の仕事を持つことが難しい人や、子育て世代、現役会社員などが立候補しにくくなり、候補者層をさらに狭くする可能性がある。

地方議会改革では「経費を減らすこと」と「民主的統制能力を維持すること」を分けて考えなければならない。

最も危険なのは「首長と議会が仲良くなること」ではなく、緊張関係が消えること

政治の世界で対立という言葉は悪く受け取られやすい。

「町長と議会が対立している」 「議会が行政の邪魔をしている」

という報道を見ると、協力した方がよいように感じる。

もちろん、感情的な対立や政争によって行政運営が止まることは望ましくない。

しかし、首長と議会が常に同じ方向を向いている状態も、本来の制度設計から考えれば必ずしも理想ではない。

地方自治では、首長と議会は異なる選挙によって住民から権限を与えられている。

だからこそ議会には、

「その説明では十分ではない」

「予算が過大ではないか」

「別の政策の方が効果的ではないか」

と問い返す役割がある。

政府自身も、二元代表制について首長と議会がそれぞれの役割を果たし、「健全な緊張関係」を形成することを期待している。

問題なのは対立そのものではない。

チェックすべき場面でもチェックしなくなることである。

反対に「反対すること」だけが議会の仕事でもない

ただし、ここには逆方向の危険もある。

行政を監視することと、行政提案に反対することは同じではない。

十分に検討した結果、行政案が合理的なら賛成するのが当然である。

議会の価値は賛成率や反対率では測れない。

重要なのは、

「どのような資料を確認したのか」

「どのような代替案を比較したのか」

「費用と効果をどう評価したのか」

「将来負担を検討したのか」

という意思決定の過程である。

すべての議案に賛成する議会が直ちに悪いわけではないし、反対議案が多い議会が優れているわけでもない。

民主政治で重要なのは、結論よりも、結論へ至るまでの検証可能性なのである。

一般質問をしているだけでは議会改革にはならない

多くの地方議会では一般質問が行われている。

一般質問は行政課題を公開の場で取り上げる重要な制度である。

しかし、質問件数だけで議会活動を評価することには注意が必要だろう。

本当に重要なのは、質問した結果として政策がどう変わったか、予算配分がどう改善されたか、行政の問題点が是正されたかである。

地方自治法は議員による議案提出や、委員会による調査・議案審査、公聴会、参考人からの意見聴取など、議会が政策形成に関与できる制度も用意している。

地方議会を強くするには、

「質問する議会」から「調査し、比較し、政策を形成する議会」へ進めること

が重要になる。

人口減少時代には特にそうである。

これからの自治体では、「何を新しく始めるか」以上に、「何を維持し、何を縮小し、何をやめるか」という政治的に難しい判断が増える。

こうした判断を首長と行政だけに背負わせるのではなく、住民代表である議会が責任を分担する必要がある。

地方議会の最大の弊害は「議会があることで民主主義が機能していると思ってしまうこと」かもしれない

ここまで考えると、地方議会が地域社会にもたらし得る最大の弊害は、議員報酬でも議員数でもないことが見えてくる。

制度として議会が存在し、定例会が開かれ、予算が議決されている。

その形式が整っているために、

「地方自治は民主的に統制されている」

と思い込んでしまうことである。

候補者が不足し、選挙競争が弱くなり、議会の構成が偏り、行政との情報格差が大きく、政策を独自に検証する能力が弱くなれば、形式的には地方自治制度が存在していても、その中身は次第に薄くなっていく。

これは議会を廃止すれば解決する問題ではない。

むしろ逆である。

行政権が強くなればなるほど、その行政を監視する議会の能力を強くしなければならない。

必要なのは「議員を減らす改革」ではなく「議会を機能させる改革」である

地方議会改革というと、議員定数削減や報酬削減が注目されやすい。

確かに議会経費が妥当かどうかを検証することは必要である。

しかし、本当の改革はそこではない。

候補者が出られる環境をつくること。会社員や子育て世代を含む多様な住民が政治参加できる制度をつくること。議員が行政資料を分析できる調査支援を整えること。議案、賛否、議事録、委員会審査などを住民が容易に確認できるようにすること。政策について行政案と代替案を比較できる議会にすること。

こうした改革の方が、地方自治の本質に近い。

議員を何人減らしたかではなく、

行政の判断をどこまで検証できたか。

住民の異なる意見をどこまで議論の場に持ち込めたか。

将来世代まで考えた政策判断ができたか。

そこを評価すべきである。

地方議会はなくてはならない。だからこそ厳しく見る必要がある

地方議会は、地域社会に付け加えられた飾りではない。

条例を決め、予算を決め、決算を審査し、税や重要な財産・契約について判断し、行政を監視する。

地方自治における権力分立の重要な一部分である。

だから地方議会は必要である。

しかし、「必要な制度だから批判してはいけない」ということにはならない。

むしろ必要不可欠な制度だからこそ、機能しているのかを徹底して検証しなければならない。

人口減少によって候補者が減り、無投票当選や定数割れが発生し、行政課題が専門化・複雑化している現在、地方議会を取り巻く条件は以前より厳しくなっている。政府も国会答弁で、地方議員のなり手不足を重要な課題として認識している。

これから問われるのは、

「地方議会を残すか、なくすか」

ではない。

「地方議会という制度を、本当に住民のために機能させられるのか」

である。

首長に反対することが議会なのではない。

首長に賛成することが議会なのでもない。

行政が示した政策を検証し、住民の異なる利害を調整し、その自治体が限られた財源をどこへ使い、何を残し、何を諦めるのかを公開の場で決める。

それが地方議会の仕事である。

そして人口が減り、財源が限られ、すべての行政サービスを維持することが難しくなる社会ほど、その役割は重くなる。

地方議会が不要になるのではない。

地方が難しい時代になるほど、本当に機能する地方議会が必要になるのである。

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地方議会を誰が監視するのか

首長・行政を監視する議会と、議会を監視する住民

地方自治について考えるとき、首長や行政組織の役割に注目が集まりやすい。

しかし、日本の地方自治制度は、首長だけによって運営される仕組みではない。住民から直接選挙された首長と、同じく住民から選ばれた地方議会が、それぞれ独立した立場から自治体運営に関わる仕組みになっている。

地方自治法上、地方議会には条例、予算、決算、一定の契約や財産処分など、自治体の重要事項について議決する権限が与えられている。議員には議案を審議し、行政の説明を求め、自治体運営を検証する役割がある。つまり地方議会は、首長や行政機関に対する重要な監視装置の一つである。

ところが、ここで一つの問題が生じる。

行政を監視する議会そのものは、誰が監視するのだろうか。

その最終的な答えは、選挙だけではない。

人口減少、候補者不足、無投票選挙、地域社会内部の人間関係、情報格差などを考えると、地方議会についても、住民が継続的に検証できる仕組みを整えていく必要がある。


1.地方自治は「首長対議会」の仕組みである

日本の自治体では、首長と地方議会の双方を住民が直接選挙する。

国政における議院内閣制とは異なり、地方自治では首長と議会がそれぞれ独立した選挙によって民主的な正統性を持つ。

そのため、地方議会は単に行政から提出された議案を承認する機関ではない。

本来は、

  • 予算案を審査する
  • 条例案を審査する
  • 決算を検証する
  • 行政事業の必要性を検討する
  • 首長や行政職員に説明を求める
  • 住民の意見を政策へ反映する

といった機能を担う。

全国市議会議長会も、地方議会には多様化する民意を集約し、市政へ反映するとともに、行政監視や政策提起能力を高める役割があるとしている。

したがって、

強い行政には、機能する議会が必要である。

これは地方自治制度の重要な原則である。

しかし同時に、

強い議会には、それを検証できる住民が必要である。

この第二の視点も重要になる。


2.議会が存在するだけでは「監視」が機能するとは限らない

制度上議会が置かれていることと、議会が実際に行政監視機能を十分に発揮していることは同じではない。

例えば自治体から、

「道路を整備したい」

「新しい公共施設を建設したい」

「補助金制度を新設したい」

という提案が出されたとする。

議会の役割は単に賛否を示すことではない。

本来であれば、

「人口予測から見て必要なのか」

「建設後の維持管理費はいくらなのか」

「別の政策手段はないのか」

「将来世代の負担はどうなるのか」

などを検証する必要がある。

特に人口減少自治体では、公共施設、道路、上下水道、学校、福祉、交通などについて、現在の需要だけでなく20年後、30年後まで考えた判断が必要となる。

その意味では、地方議会に求められる能力も従来以上に高度になっている。

単なる地域要望の伝達だけではなく、

財政、人口、公共政策、福祉、産業、都市計画などを総合的に検討する政策判断能力

が求められる。


3.ところが地方議会では「なり手不足」が進んでいる

現在、地方議会が抱えている大きな問題の一つが議員のなり手不足である。

全国都道府県議会議長会の資料では、地方議会について、投票率の低下や無投票当選の増加、小規模市町村における定数割れなどが課題として指摘されている。人口減少と高齢化がさらに進めば、議会そのものを維持することが難しくなる自治体が出てくる可能性も指摘されている。

また、第33次地方制度調査会に関係する資料では、当時の状況として60歳以上の議員割合が、都道府県43.0%、市56.5%、町村76.9%とされ、女性議員の割合も都道府県11.8%、市17.5%、町村11.7%にとどまっていた。無投票当選についても、町村や都道府県で高い割合が示されている。

もちろん、高齢の議員が多いこと自体が問題なのではない。

問題は、

議員になる人の選択肢が狭くなっている可能性

である。

会社員、子育て世代、介護を担う人、若年層、女性、自営業者など、多様な生活背景を持つ住民が立候補しにくければ、議会の構成も偏りやすくなる。

全国市議会議長会も、若者や女性、会社員など、多様な人材の議会参画を促すことを課題として挙げている。


4.「候補者不足」は議会監視にも影響する

選挙によって議員を監視する仕組みは、

有権者が複数の候補者から選択できること

を前提としている。

ところが候補者数と議員定数がほぼ同じになれば、この競争性は弱くなる。

無投票になれば、住民はその選挙で候補者を比較し、投票によって選択すること自体ができない。

もちろん無投票当選だから、その議員に問題があるという意味ではない。

しかし制度として考えれば、

候補者A 候補者B 候補者C 候補者D

を比較して住民が選択する場合と、

定数と同人数しか立候補しない場合では、

民主的な選択圧力が異なる。

したがって、議員のなり手不足は単なる「人員不足」ではない。

議会を選挙によって評価する機能そのものに関係する問題

でもある。


5.小さな地域ほど「人間関係」が政治に影響しやすい

人口規模の小さな自治体には、大都市とは異なる利点がある。

議員と住民の距離が近い。

住民が議員へ直接意見を伝えやすい。

地域事情を議員が詳しく理解している。

これらは地方自治にとって大きな長所である。

しかし同じ構造には逆方向の作用もある。

人口が少ない地域では、

地域団体 業界団体 自治会 事業者 親族 同級生 知人

などの人的ネットワークが重なりやすい。

ここから直ちに不正が生じるわけではない。

しかし政策判断が、

「自治体全体にとって何が最適か」

ではなく、

「どの地区に何を持ってくるか」

「誰の要望を実現するか」

という方向へ傾く余地は生まれる。

これはいわゆる利益誘導政治の問題と関係する。


6.利益誘導そのものを単純に悪と考えるべきではない

ここは慎重に区別する必要がある。

地方議員が、

「この道路を補修してほしい」

「この地域にバス路線を残してほしい」

「農業支援を充実させてほしい」

と行政へ要望すること自体は、本来の政治活動の一部である。

議員は住民の要望を政策へ反映する役割を持っているからである。

問題になるのは、

公共的利益と特定利益の境界が不透明になる場合

である。

例えば、

1000万円を使って50世帯が利益を受ける事業と、

同じ1000万円で5000人が利益を受ける事業があったとする。

当然、人数だけで政策の優劣を決めることはできない。

過疎地支援、福祉、防災などでは、少人数のために高い費用をかける合理的理由もある。

重要なのは、

「なぜこの事業を選択したのか」

という政策判断の根拠が住民から確認できることである。

つまり問題は利益配分そのものではない。

政策決定過程の透明性

である。


7.議会を監視する最大の問題は「情報格差」である

行政と議員は、多くの情報を持っている。

予算資料 行政計画 契約資料 事業評価 人口統計 内部説明資料 専門家の意見

などである。

これに対して一般住民が得られる情報は限定されることがある。

この差を、

行政・議会側の情報量を (I_g)

住民側の情報量を (I_c)

とすると、

[ I_g \gg I_c ]

になりやすい。

この情報の非対称性が大きくなるほど、住民が議員の政策判断を評価することは難しくなる。

例えば議員が、

「この施設は必要です」

と言ったとしても、

住民が、

建設費 年間維持費 利用者数 将来人口 類似施設 代替案

を確認できなければ、その判断を検証できない。

したがって、

議会監視の前提は情報公開である。


8.「議事録を公開している」だけでは十分ではない

現在、多くの地方議会では議事録、議会中継、議会広報などの公開が進んでいる。

これは重要な進歩である。

一方、全国都道府県議会議長会は、議会に関心のある住民だけに情報が届く状態では不十分であり、議会を遠い存在と考えている住民にも情報を届ける必要があると指摘している。また、議事録の早期公開やオープンデータ化なども議会デジタル化の方向として挙げている。

例えば500ページの議事録をホームページに掲載して、

「情報は公開されています」

と言っても、多くの住民が実際に確認することは難しい。

そこで重要になるのは、

公開から可視化への転換

である。

例えば、

議案名 賛成議員 反対議員 主な賛成理由 主な反対理由 予算額 将来負担 関連する契約

を一覧にする。

このような形なら、住民は議会の意思決定を追跡しやすい。


9.議員ごとの活動も「見える化」する

議会を評価するには、議会全体だけでなく個々の議員についても情報が必要になる。

例えば、

項目 公開内容
本会議 出席状況
一般質問 質問内容
議案 賛否
議員提出議案 提案内容
委員会 発言・活動
政務活動費 使用内容
公約 選挙時公約
政策成果 任期中の取り組み

などである。

地方自治法では、条例によって政務活動費を議員や会派に交付できる制度も定められている。

したがって公費が使われる以上、

何に使われたのか、

政策形成にどのようにつながったのか、

という説明可能性を高めることには合理性がある。

重要なのは議員を「取り締まる」ことではない。

住民が、

次の選挙で判断するための材料を持てるようにすること

である。


10.議会モニターという方法

住民による議会監視は、選挙だけに限定する必要はない。

第33次地方制度調査会関連資料では、住民に開かれた議会を実現する取り組みとして、

政策サポーター 議会モニター 住民との意見交換

などが例示されている。

例えば住民から無作為または公募で議会モニターを選び、

議会広報は分かりやすいか 議論は十分だったか 資料は理解できたか 重要な論点が説明されていたか

などを評価してもらう。

このような制度なら、議員を政治的に攻撃するのではなく、

議会運営そのものを住民が検証する仕組み

を作ることができる。


11.ただし「住民の声」にも偏りがある

一方、

「住民参加を増やせばすべて解決する」

という考え方も危険である。

議会説明会に参加する住民は、もともと政治への関心が高い可能性がある。

インターネットアンケートでも、回答者の年代や属性が偏る可能性がある。

全国都道府県議会議長会も、デジタル手段で寄せられた意見について、それがどの程度住民全体を代表するか慎重に分析する必要があると指摘している。

例えば100人のアンケート結果が、

賛成80 反対20

だったとしても、

回答者が特定の地区や特定年代に集中していれば、

「住民の80%が賛成」

とは言えない。

したがって住民参加には、

無作為抽出 年代別集計 地区別集計 紙とインターネットの併用

など統計的な設計も必要になる。


12.議会の監視には「対立」より「検証」が必要である

議会監視という言葉から、

住民対議員

という対立構造を想像するかもしれない。

しかし本来必要なのは対立ではない。

重要なのは、

検証可能性

である。

行政が政策を提案する。

議会が審議する。

判断理由を公開する。

住民が確認する。

次の政策や選挙で評価する。

この循環が機能すればよい。

これを単純化すると、

[ 行政 \rightarrow 議会 \rightarrow 住民 \rightarrow 選挙 ]

となる。

さらに住民から議会への意見を加えれば、

[ 行政 \leftrightarrow 議会 \leftrightarrow 住民 ]

という構造になる。

地方自治の健全性は、この情報循環がどこまで機能しているかで考えることができる。


13.これからの地方議会に必要なのは「監視されやすい議会」である

議員にとって、

「監視される」

という言葉は否定的に聞こえるかもしれない。

しかし民主主義制度では、監視可能性はむしろ正当性を高める。

議案が公開される。

賛否が確認できる。

議論の内容が見える。

議員活動が分かる。

政策判断の根拠が示される。

こうした議会なら、住民は議員の仕事を具体的に評価できる。

その結果、

「議員は何をしているのか分からない」

という議会に対する不信を減らす効果も期待できる。

全国都道府県議会議長会も、議会活動の可視化は住民の信頼向上や主権者教育、将来の議員育成にもつながり得るとしている。


14.人口減少時代ほど地方議会は重要になる

人口が減れば、地方議会の役割が小さくなるわけではない。

むしろ逆である。

人口減少社会では、

学校を残すのか 公共施設を統合するのか 道路をどこまで維持するのか 公共交通をどうするのか 上下水道をどう維持するのか 医療や福祉サービスをどこまで確保するのか

といった、

何を残し、何を縮小するか

という難しい意思決定が増える。

人口増加時代の政治は、

「何を新しく作るか」

を議論することが多かった。

人口減少時代の政治では、

「限られた財源をどこへ配分するか」

が重要になる。

その判断を行政だけに委ねるのではなく、議会が十分に検証する必要がある。

そして、その議会の判断を住民が確認できる必要がある。


15.地方議会改革は「定数削減」だけではない

地方議会改革について語られる際、

議員定数 議員報酬

が議論の中心になることが多い。

もちろん財政的な検討は必要である。

しかし議員数を減らせば、自動的に議会の質が向上するわけではない。

むしろ議員のなり手不足が進む地域で定数を大きく減らせば、

一人の議員が代表する住民数が増え、

地域や属性の多様性が失われる可能性もある。

一方で報酬を単純に下げれば、

議員活動だけでは生活できず、

資産のある人や別の収入源を持つ人しか立候補できないという別の問題も考えられる。

地方制度調査会関連の議論でも、会社員の立候補環境、副業・兼業、育児・介護、議員報酬などを含め、多様な人材が議会へ参加しやすい環境整備が検討されている。

したがって議会改革は、

「議員を減らす」

という一次元の問題ではない。


16.議会の質を考える五つの指標

地方議会の状態を評価するなら、例えば次の五つに分けることができる。

①競争性

選挙に十分な候補者がいるか。

②多様性

年代、性別、職業、居住地域などが著しく偏っていないか。

③透明性

議案、賛否、議事録、政務活動費などを住民が容易に確認できるか。

④政策能力

データや財政資料を使って政策を検証できているか。

⑤住民との接続

議会報告、意見交換、モニター制度などが機能しているか。

仮にこれを数式的に表すなら、

[ Q=f(C,D,T,P,R) ]

と考えることができる。

ここで、

(Q):議会の質 (C):競争性 (D):多様性 (T):透明性 (P):政策形成・監視能力 (R):住民との関係性

である。

重要なのは、どれか一つだけ高ければよいわけではないことである。


17.「良い議会」とは行政に何でも反対する議会ではない

行政監視という言葉から、

「議会は行政に反対するべきだ」

と考えるのも適切ではない。

優れた政策であれば賛成してよい。

問題のある政策であれば修正を求める。

必要なら反対する。

つまり重要なのは、

賛成率でも反対率でもない。

判断の質である。

行政提案に90%賛成する議会だから問題だとも言えない。

逆に半数の議案に反対する議会だから優れているとも言えない。

重要なのは、

「なぜ賛成したのか」

「なぜ反対したのか」

が政策的根拠によって説明されていることである。


結論

行政を監視する議会、議会を監視する住民

地方自治では、

行政 議会 住民

の三者の関係を考える必要がある。

行政だけを監視すればよいわけではない。

議会だけを批判すればよいわけでもない。

重要なのは相互に検証できる仕組みである。

行政は議会から検証される。

議会は住民から検証される。

住民は選挙によって議員を評価する。

そして議員は住民の意見を再び政策へ反映する。

この循環が地方自治の基本構造である。

しかし人口減少と高齢化が進む地域では、候補者不足や無投票選挙によって、従来の選挙だけに依存した監視機能が弱くなる可能性がある。地方議会関係団体自身も、議員のなり手不足、多様な人材の参画、情報公開、住民参加を重要な課題として挙げている。

だからこそ、これからの地方議会には、

「行政をよく監視する議会」であることと同時に、「住民がよく監視できる議会」であること

が求められるのではないだろうか。

議員を疑うためではない。

行政を敵視するためでもない。

誰が意思決定し、

何を根拠に判断し、

どのような結果になったのか。

それを住民が確認できる地方自治をつくるためである。

人口減少時代には、一つの政策判断が地域の20年後、30年後を左右する。

だからこそ地方議会は、これまで以上に重要になる。

そして議会が重要になるほど、

その議会を住民が検証できる仕組みも、同じだけ重要になる。

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