地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

議場から椅子を1つ減らしたら、いくら浮くのだろうか

 地方議会の議員定数について考えるとき、「議員を1人減らせば、その人に支払っていた報酬の分だけ税金を節約できる」という発想はごく自然であり、議場に並んだ椅子を1脚減らせば、その椅子に座る議員の報酬も消えるのだから、話はそれほど難しくないように思える。しかし、実際に数字を割り始めると、この単純な印象は何度も裏返されることになり、最初は大きく見えていた節約額が人口で割った瞬間に驚くほど小さくなったかと思えば、今度は「たった1議席」が議会全体に占める割合を計算した瞬間、予想以上に大きな存在へと変わって見えてくる。

 地方自治法では、都道府県議会と市町村議会の議員定数は条例によって定められ、地方議会議員の任期は4年であり、議員報酬や費用弁償、条例による期末手当などの仕組みも法令と条例によって定められているが、議員定数を条例で1人減らしたからといって、その日のうちに現職議員が1人いなくなるわけではなく、定数変更は原則として一般選挙を通じて実際の議席数に反映されるため、財政効果について考えるときにも「条例を改正した瞬間からいくら浮くか」ではなく、「1議席少ない状態が実際に成立した後、自治体の支出がどの程度変化するのか」と考える必要がある。

 さらに地方議会は、単に議員報酬を支払うために存在する組織ではなく、予算や条例などを審議し、行政を監視し、地域の意思を自治体の意思決定につなげる役割を担っているため、議員定数という数字は人件費の問題であると同時に、自治体がどのような規模の議会を維持するのかという制度設計の問題でもある。そこで、「議員を1人減らせば何円浮くのか」という素朴な疑問から出発しながら、その金額を人口や財政規模、議席総数という別の数字で割っていくと、議員定数について最初に抱いていた印象が少しずつ変わっていく。

2億円を20人で割っても、本当の答えは出ない

 仮に、ある自治体の年間議会費が2億円で議員定数が20人だったとすると、2億円を20人で割れば議員1人当たり1000万円となるため、「それなら議員を1人減らせば年間1000万円節約できる」と考えたくなるが、ここで最初の数字の罠が現れる。議会費の中には議員本人に支払われる報酬などだけではなく、議会事務局、議場や委員会室、会議録の作成、議会中継、情報公開、施設や設備の維持管理など、議員が20人から19人になっても短期的にはほとんど変化しない支出が含まれているため、議会費を議員数で割った平均的な金額と、実際に1議席を削減したときに減少する金額は同じではない。

 これは社員20人の会社から1人が退職したとしても、翌月から事務所の家賃が20分の19になり、サーバー代も20分の19になり、管理部門の人件費まで20分の19になるわけではないのと同じであり、議員1人の削減効果を測るのであれば、その議席がなくなることで直接消える報酬や期末手当などと、議員数がわずかに変わっても残り続ける支出を分けて考えなければならない。

 もっとも、議会事務局や設備関係の支出を「絶対に変わらない固定費」と考えるのも正確ではなく、議員数が長期にわたって減れば組織や設備の見直しが行われ、将来的には支出が変化する可能性もあるため、正確には「議員1人の増減には短期的に連動しにくい費用」と考えた方がよい。つまり、本当に知りたい数字は「議員1人当たりの議会費」ではなく、「1議席をなくした結果として実際にいくら支出が減るのか」であり、経済学や管理会計の考え方を借りれば、平均的な費用ではなく、1議席の増減に伴って変化する限界的な費用に近いものを見ることになる。

700万円が、突然14円になる

 ここからは数字の性質を分かりやすくするため、1議席が実際になくなった結果、その議席に直接関係する年間支出が700万円減少すると仮定してみよう。この700万円は特定の自治体の実額ではなく、議員報酬や期末手当などは自治体によって異なるため、あくまで計算の仕組みを理解するために置いた仮定上の数字であり、日本の地方議員1人を減らせば平均して700万円削減できるという意味ではない。

 年間700万円と聞けば、多くの人は決して小さくない金額だと感じるだろうが、人口5000人の自治体なら住民1人当たり換算額は年間1400円、人口5万人なら140円、人口50万人なら14円となり、同じ700万円という数字が人口という分母を置いた瞬間にまったく違った姿を見せる。700万円そのものは1円も変化していないのに、「自治体全体で年間700万円」と聞く場合と、「人口1人当たりに換算すると年間14円」と聞く場合では、受ける印象はほとんど別物になるのである。

 ここで「住民1人当たり負担」ではなく「住民1人当たり換算額」と表現することも重要であり、自治体の支出は住民全員から同額ずつ集めた税金によって賄われているわけではないため、700万円を人口で割った14円は各住民が実際に14円ずつ負担しているという意味ではない。あくまで自治体全体の削減可能額を人口で標準化して比較しやすくした数字であり、人口規模の違う自治体を考えるための物差しの1つなのである。

では、住民1人当たり14円なら、削減する意味はないのか

 人口50万人の自治体で1議席を減らし、年間700万円の削減が実現しても人口1人当たり換算額では14円にすぎないとすれば、「それなら議員を減らしても意味がない」と考えたくなるが、それもまた数字を1方向から見ただけの結論であり、人口で割った結果が14円になったからといって700万円という自治体全体の支出削減額そのものが消えるわけではない。

 反対に人口5000人なら人口1人当たり換算額は1400円になるため、「それなら人口の少ない自治体ほど議員を減らした方がよい」と思えるかもしれないが、ここで数字はもう一度向きを変える。小規模な議会では、1議席を削減した場合の人口1人当たり換算額が大きくなりやすい一方、そもそもの議員数が少なければ、1議席が議席総数に占める割合も大きくなるからである。

 例えば20人の議会から1人を減らせば議席総数は5%減るが、10人の議会から1人を減らせば10%減るため、どちらも「1人削減」という同じ言葉で表現されていても、議会全体の人数構成に対する相対的な変化は2倍になる。ただし、ここから「議席数が10%減るから代表機能も10%低下する」と結論づけることはできず、議員数と代表性との関係は、選挙制度、委員会構成、地域の広さ、議員活動、請願や陳情、議会報告会など住民参加の仕組みにも左右されるため、数学的に確実に言えるのは、議員数が少ない議会ほど1議席削減が議席総数に占める割合が大きくなるというところまでである。

小さな自治体ほど「節約効果」も「議席の変化率」も大きくなる

 ここに、この問題で最も興味深い数字の反転がある。人口が少なければ同じ700万円でも人口1人当たり換算額は大きくなるため、財政面から見ると定数削減の効果が大きく見えるが、議員数そのものも少なければ1議席を減らしたときの議席総数に対する変化率まで大きくなり、財布の側から見ると「1人減らす効果」が大きくなる一方、議会の構成という側から見ると「1人減らしたことによる人数上の変化」も大きくなる。

 もちろん、議員数を減らせば住民の声が必ず届きにくくなると断定することはできず、議会報告会、請願、陳情、オンラインによる意見受付などによって住民との接点を補うことも可能であり、逆に議員が多ければ多いほど高い代表性が自動的に保証されるわけでもない。しかし少なくとも、「人口が少ないから人口1人当たり換算額が大きい。したがって議席を減らすべきだ」という計算だけでは、財政的な側面しか見ていないことになる。

 議員定数と自治体全体の歳出との関係についても、実証研究の結果は単純ではなく、議員数が多いほど支出が増えるという結果を示す研究がある一方、逆方向の結果を示す研究もあり、複数の研究をまとめた分析でも、議会規模が政府予算を一貫して増加させる、あるいは減少させるという強固な一般法則は確認されていない。したがって、「議員を1人減らせば、その議員に直接結びついた支出の一部が減少する」という話と、「議員を減らせば自治体全体の歳出も必ず小さくなる」という話は別であり、この記事で計算しているのは前者である。

2800万円という大金が、28円に変わる瞬間

 地方議会議員の任期は4年なので、仮に年間700万円の削減可能額が4年間まったく変化しないと置けば、単純計算では700万円の4倍で2800万円となり、「1議席減らせば4年間で2800万円」という数字になると、年間700万円の場合よりもさらに大きな財政効果のように感じられる。

 ただし、この2800万円は将来の実額を保証する数字ではなく、4年間にわたって報酬や期末手当などの条件が変わらず、年間700万円という削減額が一定であるという仮定を置いた単純累計である。その条件の下で人口による違いを計算すると、人口1万人では4年間の人口1人当たり換算額が2800円、10万人では280円、100万人では28円となり、「4年間で2800万円」という表現と「人口1人当たり4年間で28円」という表現が、まったく同じ現象を説明しているとは思えないほど異なる印象を与える。

 この違いは計算ミスによって生じるのではなく、分母を変えることで生まれるものであり、大きな数字だけを示しても、小さな数字だけを示しても、数学的には間違っていない場合があるからこそ注意が必要になる。仮に年間700万円が削減でき、自治体の年間歳出が70億円なら、その削減額は年間歳出の0.1%に相当するため、「700万円」という絶対額、「人口1人当たり換算額」、「財政全体に占める0.1%」を並べて初めて、その数字を異なる角度から眺められるようになる。

140円浮いても、住民の財布に140円戻るとは限らない

 さらに数字の意味を取り違えてはいけない点があり、仮に人口1人当たり年間140円に相当する支出削減が実現したとしても、それによって住民1人の税金が翌年から140円安くなるわけではない。自治体の予算では多数の歳入と歳出が結びついており、削減された財源が別の行政サービスに使われることもあれば、基金への積み立てや財政収支の改善に充てられることもあるため、「人口1人当たり140円の削減効果」と「住民1人当たり140円の減税」はまったく同じ意味ではない。

 税金や議員報酬をめぐる議論では、金額が大きければ大きいほど説得力も増すように感じられやすいが、財政分析で重要なのは数字そのものの大きさ以上に、その数字が何を表しているのかを確認することであり、年間削減可能額、人口1人当たり換算額、自治体歳出に占める割合、実際の住民の税負担への影響は、それぞれ別の概念として区別しなければならない。

県議と市町村議も、報酬額だけでは比べられない

 同じことは県議と市町村議を比較するときにも当てはまり、年間報酬だけを横に並べれば高い方が財政負担も大きいように見えるが、都道府県と市町村では人口規模だけでなく行政権限や財政構造も異なるため、報酬額や人口1人当たり換算額だけから「どちらの議会が効率的か」という結論を導くことはできない。

 それでも、人口で割ることには意味があり、年間報酬などの絶対額だけではなく、人口を議員定数で割った平均値、1議席を削減した場合の人口1人当たり換算額、その削減額が自治体歳出の何%に相当するのかを並べれば、少なくとも人口規模の違いをある程度調整した参考比較ができる。ただし、「人口÷議員定数」で得られる数字は、各議員が実際に何人の住民を担当しているかを意味するわけではなく、特に県議会には選挙区があり、選挙区ごとの人口と定数も異なるため、あくまで自治体全体を平均化した統計上の指標として扱う必要がある。

 また、自治体の予算総額を議員数で割って「議員1人当たり予算額」を作ること自体はできても、それを議員の生産性や効率性とみなすのは適切ではなく、自治体予算は人口、福祉需要、公共施設、地域面積、行政権限など多くの条件によって決まるため、計算できる数字だからといって、必ずしも政策評価に意味のある数字になるとは限らない。

数字を比較するなら、同じ物差しで測らなければならない

 実際に複数の地方議会を比較しようとすると、今度は人口という分母そのものをどのようにそろえるのかという問題が生じ、ある自治体では国勢調査人口、別の自治体では住民基本台帳人口、さらに別の自治体では異なる年月日の人口を使ってしまえば、小数点まで計算した精密な表を作ったとしても比較条件はそろっていない。

 したがって、本格的に県議会や市町村議会を比較するのであれば、例えば同一基準日の人口を使い、議員定数、議員報酬、期末手当、議会費、一般会計歳出などについても可能な限り同じ年度の数字をそろえたうえで分析する必要があり、さらに平均値だけでなく中央値や分布まで調べれば、「人口規模の違いによって1議席の人口1人当たり換算額が実際にどの程度変化するのか」という統計的な問いへ進むことができる。

 つまり、この記事で使っている700万円という数字から分かるのは、日本の地方議会の平均的な実態ではなく、議員定数を見るときに数字をどのように割り、どのような分母と比較すればよいのかという数理的な構造である。実際の県議会や市町村議会について結論を出すのであれば、同じ条件で集めた実データによる検証が別に必要になる。

「1人減らすべきか」という答えは、最後まで数字だけでは出ない

 ここまで計算を続けてみると、最初は「議員を1人減らせばいくら浮くのか」という単純な問いだったものが、いつの間にか「人口1人当たりではいくらなのか」「自治体歳出全体では何%なのか」「1議席を減らすと議席総数は何%変化するのか」「その人数で議会の審議や行政監視をどのように維持するのか」という複数の問いへ姿を変えている。

 人口1人当たり年間14円しか削減できないからといって、その1議席が必ず必要だとは言えず、反対に人口1人当たり年間1400円削減できるからといって、その1議席をなくす方がよいとも言えない。議員数と自治体支出の関係について研究結果が一様ではないことからも分かるように、議席数を変えたときに生じる影響は単純な比例関係ではなく、財政効果は比較的数値化しやすくても、議会の行政監視、審議、代表性などを同じ円という単位だけで測ることはできない。

 だからこそ、議員定数について数字を使う目的は、「減らすべきだ」「減らすべきではない」という結論を数字に言わせることではなく、その判断をするときに何を比較しているのかを明らかにすることにある。

700万円を見るか、14円を見るか

 議員を1人減らした場合に年間700万円が削減できるという仮定も、人口50万人なら人口1人当たり換算額が14円になるという計算も、どちらか一方が正しくてもう一方が間違っているわけではなく、さらに4年間なら2800万円、人口100万人なら人口1人当たり28円となるように、同じ1議席でも見る距離を変えるたびに大きくなったり小さくなったりする。

 小規模な自治体へ目を移せば、今度は人口1人当たり換算額が大きくなる一方、1議席が議席総数に占める割合も大きくなるため、「財政上の削減効果」と「議会構成に対する人数上の変化」が同時に大きくなることがあり、この2つをどのように評価するかは単純な割り算だけでは決まらない。

 結局、数字が教えてくれる最も興味深いことは、「議員を1人減らすべきか」という答えそのものではないのかもしれない。むしろ、年間700万円という数字を見たときに抱いた印象が、1400円になり、140円になり、14円になり、さらに議席総数に占める5%や10%という別の数字を見た瞬間に再び揺らぐことこそ、この問題の面白さなのである。

 議員定数を考えるとき、本当に必要なのは大きな数字だけを探すことでも、小さな数字だけを探すことでもなく、同じ1議席を人口、財政規模、議席総数という異なる分母で割り、その数字が何を意味し、何を意味しないのかを確かめることであり、数字そのものを変えるのではなく数字を見る角度を変えたとき、私たちが当然だと思っていた「多い」「少ない」「高い」「安い」という常識の方が、静かに反転していくのである。

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 海へ向かって一本の道が延び、その先に青い水平線が広がっている。白い壁の小さなカフェには植物が置かれ、夕暮れになると空は薄紫色に染まり、丘の上から町を見下ろせば屋根の向こうで海が光っている。そこだけを一枚の写真に閉じ込めれば、その町は雑誌のページから抜け出してきたように見える。

 Instagramを眺めていると、そんな町はいくらでも見つかる。海辺の町、古い町並みの残る町、山あいの集落、温泉街、港町など、かつてなら旅行雑誌の特集を組まなければ広く知られなかった風景が、いまでは一枚の写真によって遠く離れた人の手元へ届くようになった。そこで店を知った人が訪れ、旅行者が増え、移住先として興味を持つ人が現れれば、地域に新しい人やお金が入る可能性も生まれるのだから、これは地方にとって決して小さな変化ではない。

 けれども、町が以前よりよく見えるようになったはずなのに、その町で実際に人がどのように暮らしているのかは、むしろ見えにくくなってはいないだろうか。Instagramに映る町が嘘だという話ではない。そこに映っている海も路地もカフェも本当に存在しているのだが、それらが町全体を代表していると思った瞬間、私たちは写真の外側に続いているもう一つの町を見失う。

写真には「選ばれた町」しか写らない

 旅行者が海辺のベンチから夕日を眺めている少し後ろを、地元の高齢者がスーパーの袋を下げて歩いているかもしれない。洒落たカフェから数百メートル離れた住宅地では、午後六時を過ぎると日用品を買える店が少なくなり、景色の美しい丘の上では、車を運転できなくなった後にどう暮らすかという問題を抱えている人がいるかもしれない。

 しかし、朝のゴミ出し、病院へ向かうためにバスを待つ人、学校へ歩く子ども、夕方のスーパー、草を刈る住民、宅配便の車、自治会の掲示板、雨の日の駅前といった風景は、その町の生活を支えているにもかかわらず、観光を目的とした写真の中心にはなりにくい。それは誰かが意図的に現実を隠しているからではなく、写真という行為そのものが「何を撮るか」を選ぶからである。

 実際、観光客が現地で移動した場所、撮影した写真、そしてInstagramに投稿した写真を比較した研究では、実際に経験された場所と公開された写真の分布は完全には一致していない。人は歩いた場所のすべてを撮るわけではなく、撮った写真のすべてを投稿するわけでもないため、私たちがSNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)で目にしている地域像は、現実から何段階かの選択を経たものになる。

 この構造を考えると、海を大きく写した写真から駐車場が消え、古い建物を美しく切り取れば隣の空き家が画面の外へ出ていくことは、写真の欺瞞というより当然の結果である。一枚の写真は何かを見せると同時に、必ずそれ以外の何かを見えなくしている。

美しい風景ほど町の「代表」になりやすい

 さらに興味深いのは、どんな写真でも同じように人の目に触れるわけではないことである。観光地の多数のInstagram投稿を調べた研究では、観光名所など視覚的に分かりやすい対象を写した写真の方が、宿泊施設や日常的なサービスを写した写真より反応を集めやすい傾向が報告されている。

 こうした違いが積み重なると、現実の町に存在するものの割合と、インターネット上で目にするものの割合は少しずつ離れていく。海岸が町全体の面積から見ればごく一部であっても、投稿写真の半分がそこに集中すれば、外から見る人にとってその町は「海岸の町」になるし、古い路地ばかりが繰り返し撮られれば、新しい住宅地や郊外のスーパーがどれほど生活上重要であっても、町のイメージからは後退していく。

 ここで起きているのは、現実そのものの消失ではなく、「何が町の代表として見えるか」という比率の変化である。人は魅力的だと思ったものを撮り、その一部を投稿し、さらに反応を得やすい景観が目立つため、結果として特定の場所や構図が何度も繰り返されやすくなる。その繰り返しによって、「この町とはこういう場所だ」という外部のイメージが次第に固定されていく。

観光客と住民は同じ町を違うように見ている

 同じ場所に立っていても、そこを二日間訪れる人と二十年間暮らす人では、見えているものが違う。

 観光客にとって魅力的なのは、美しい海、歴史ある町並み、静かな夜、少ない人通り、昔ながらの建物かもしれないが、住民にとって人が少ないことは静けさであると同時に商売が成立しにくいことでもあり、店が少ないことは俗化していない魅力である一方で毎日の買い物の不便さでもある。夜が暗ければ星は美しく見えるが、高齢者が歩くには心細く、古い家並みは景観として魅力的でも、そこに住む人には断熱、耐震、修繕費という現実がある。

 実際、住民、観光客、影響力の大きい投稿者が同じ地域について発信したInstagram投稿を比較した研究では、それぞれが写す内容に違いが見られている。住民は人や社会的な場面を比較的多く写すのに対し、訪問者は観光的に意味のある場所を選びやすいなど、同じ町であっても立場によって表象される風景が変わるのである。

 だから、「観光客と住民はまったく別の町を見ている」とまで言えば少し大げさだが、少なくとも町を見る際の重要度の置き方が違っていることは十分に考えられる。旅行者は「ここで週末を過ごしたいか」と考え、住民は「ここで歳を取っても暮らせるか」と考えるのであり、その時間の尺度の違いだけでも、同じ土地への評価は大きく変わる。

町はやがて「見られる場所」にもなる

 外から向けられる視線が増えると、それまで住民にとって何でもなかった場所が、別の価値を持ち始めることがある。

 昔からそこにある海岸を住民は特別だと思っていなかったのに、訪問者が何度も写真を投稿することで、「これは外から見ると価値のある景色なのだ」と気付くことがある。古びた看板も、住民には交換時期を迎えた設備に見える一方、旅行者には「昭和らしい風景」と映り、漁港の錆びた倉庫も、働く人には修繕の必要な建物でありながら、写真を撮る人には味わい深い背景になる。

 これは地域の価値を再発見する働きとして肯定的に評価できる。長く住んでいるために見慣れてしまった風景を、外部の人が価値として教えてくれることは珍しくないからである。

 しかし、その反対側では、写真になりにくいものが地域の物語から外れやすくなる。人気の海岸整備は注目されても、高齢者が病院へ通うための交通は写真にならず、新しいカフェは地域紹介に載っても、長年住民の日用品を支えてきた小さな店の閉店は華やかな地域イメージには入りにくい。

 こうして同じ町の中に、「人に見せる町」と「人が暮らしている町」という二枚の地図が重なり始める。前者は写真と検索によって共有される地図であり、後者は、どこで食品を買うか、どの道が夜になると暗いか、病院まで何分かかるか、冬の風がどこから吹くかといった、住民の身体に刻み込まれた地図である。

Instagramが店を変える、と単純には言えない

 ここで注意しなければならないことがある。Instagramで人気が出た町の商売が観光客向けに変わったとしても、それだけを見て「Instagramが町を変えた」と結論づけることはできない。

 観光客が増える理由には、鉄道や道路の整備、旅行雑誌やテレビでの紹介、自治体の観光政策、宿泊施設の増加、為替、航空路線、人口移動などさまざまな要因があり、Instagramはその一つに過ぎない場合が多い。もともと魅力の高い観光地だから投稿が増えたのか、投稿が増えたことで訪問者が増えたのかを、単純な数字だけで区別することも難しい。

 科学的に見るなら、ここには原因と結果が互いに影響し合う問題がある。人気観光地だから写真が増え、その大量の写真を見た人がさらに訪れれば、「人気が投稿を生み、投稿が人気を補強する」という循環になるからである。

 したがって、より正確には、Instagramによる地域イメージの拡散が観光需要を強める一因となり、そこへ家賃、地価、人通り、店舗採算、地域政策などが重なった結果として、商業構成が変化する可能性がある、と考えるべきだろう。

 この区別は重要である。写真一枚が町を作り替えるわけではないが、何万人もの人が同じ場所を知り、同じ景色を求めて訪れるようになれば、その人の流れは経済活動を通じて現実の町へ戻ってくる。

観光客向けの便利と住民向けの便利

 観光地化が進んだ地域では、訪問者の需要に合わせて飲食店や小売店の構成が変化することがあり、こうした現象は海外の都市でも確認されている。ただし、すべての地域で同じ変化が起きるわけではなく、観光客が増えれば必ず住民向け店舗が消えるという単純な法則も存在しない。

 それでも、「誰にとって便利な町なのか」という問いには意味がある。一泊する旅行者に便利な町と、一年三百六十五日暮らす人に便利な町は、重なる部分を持ちながらも同じではないからである。

 土産物を買える店が増えても、日用品を買う店が減れば生活上の利便性は上がらない。昼間の飲食店が増えて街がにぎわっていても、夕方以降に住民が食料を買える店が少なくなれば、観光地としての活気と生活圏としての機能は別方向に動く。景観の良い地域の人気が高まり、土地や住宅の価格が上がれば所有者には利益となる一方、そこで働く人や若い世帯にとっては住みにくくなることもあり得る。

 観光そのものを悪と考える必要はない。観光客による消費は雇用や事業を支え、人口減少地域では外部から人が訪れること自体が重要な経済資源になる。それでも観光政策において住民生活との両立が課題になっているのは、観光客の増加と住民の生活の質が必ずしも自動的に同じ方向へ改善するわけではないからである。

「人気の町」と「暮らしやすい町」は測っているものが違う

 この点から見ると、Instagramで美しく見える町を、そのまま「住みたい町」と読み替えることには慎重であるべきだろう。

 Instagram上の人気は、その場所を訪れたときに得られる視覚的体験を強く反映している可能性がある。一方、暮らしやすさには買い物、医療、教育、交通、住宅費、防災、近隣関係、雇用といった、一枚の写真では表現しにくい条件が関わっている。

 海辺の夕景に十万人が「いいね」を付けても、その数字から最寄りの病院までの距離を知ることはできない。人気カフェの投稿が千件あっても、その町で車を持たずに暮らせるかどうかは分からない。この二つは優劣ではなく、そもそも測っているものが違うのである。

 だから地域を分析するときには、Instagramの投稿数を「町の人気」の証拠として使うことはできても、それだけで「町の暮らしやすさ」の証拠にはできない。

「生活する町」は本当に測れるのか

 興味深いことに、この問題は感覚的な随筆にとどまらず、実際には数字で検証することもできる。

 例えば、ある町について投稿された写真を、海岸、歴史的建物、観光施設、カフェといった観光的な風景と、スーパー、学校、住宅地、病院、通勤、生活道路といった日常的な風景に分類し、「地域に関する投稿のうち生活場面がどの程度含まれているか」を比較すれば、その町の生活がSNS上でどれほど見えているかを一つの指標として表せる。

 さらに、写真が町全体に広がっているのか、それとも数か所の撮影地点へ集中しているのかを調べれば、「投稿される町」と「実際の町」の空間的な差も測定できるだろう。

 人口規模、観光客数、宿泊施設数、鉄道アクセス、地価、店舗構成などを合わせて分析すれば、「観光写真が特定地点へ集中する地域ほど生活場面の投稿が少ないのか」「観光客の増加とともに住民向け店舗と観光客向け店舗の割合が変化するのか」といった問いまで検証できる。

 ただし、ここでも単純な相関には注意が必要である。Instagram投稿が多いから観光地になったのか、観光地だからInstagram投稿が多いのかを見分けなければ、「写真が町を変えた」という結論には届かない。だからこそ、この題材は面白い。見た目には軽いSNSの話でありながら、その奥には観光、商業、人口、住宅、地域経済、人間の認知が複雑に絡んでいる。

最も美しい一枚だけでは町は分からない

 それではInstagramで美しい町は、生活を失った町なのだろうか。もちろん、そんな単純な話ではない。

 美しい風景が知られることは地域にとって資産になり得るし、外から来た人が地元の人さえ気付かなかった価値を発見することもある。観光客によって支えられた店が住民にも新しい選択肢を提供し、それまで衰退していた地区に再び人通りが戻る場合もある。

 問題なのは美しい写真が存在することではなく、その美しい写真だけを町そのものだと思ってしまうことである。

 町は本来、もっと雑然としている。きれいな海の隣には駐車場と防潮堤があり、古い町並みの裏には新しい住宅があり、観光客が歩く道の向こうには学校があり、夕日の写真が撮られている時間に夕食の買い物を急ぐ人がいる。その雑然とした重なりこそが、観光地ではなく「生活する町」の姿なのだろう。

 だから、本当に町を知りたいなら、Instagramで最も人気のある場所を訪れたあと、そこから少し離れて歩いてみるとよい。撮影場所から三百メートル離れたところには何があるのか、午後六時になると誰が歩いているのか、冬の平日に何軒の店が開いているのか、観光客の来ない住宅地で住民はどこへ買い物に行くのか、そして地元の人自身は休日に人気観光地へ行くのか、それとも混雑を避けて別の場所へ向かうのか。

 そんな問いを重ねると、写真の中では平面だった町が急に立体的になる。

 Instagramの写真は嘘ではない。美しい海も古い路地も洒落たカフェも、その町の本当の一部である。ただし、それは数多く存在する現実の中から選ばれ、撮影され、さらに投稿する価値があると判断された一部でもある。

 だからInstagramで美しい町ほど生活が消えている、と断定することはできない。しかし、美しい風景が町のイメージを強く支配するほど、その背後にある買い物、通院、通学、仕事、老い、住宅、交通といった日常が、外から来た人の視界から抜け落ちやすくなることは十分にあり得る。

 観光地として町を楽しみたいなら、最も美しい場所を探せばいい。けれども、その町を生活する場所として理解したいなら、むしろ写真を撮ろうと思わない場所まで歩いた方がいいのかもしれない。華やかな夕日も話題のカフェもないその場所にこそ、町が朝から夜までどのように生きているのかという、もう一つの地域情報が残されているからである。

 町の本当の姿とは、最も美しい一枚ではない。その写真の中にある魅力と、画面の外側へ続いている無数の日常を一緒に見たとき、初めて輪郭を持って現れてくるものなのだろう。

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 地方の町で暮らしている人に、その土地の魅力を尋ねると、ときどき不思議な答えが返ってくる。「ここには何もないですよ」。海があり、山があり、昔から続く道があり、古い商店が残り、季節になれば祭りがあり、夜になると都会ではめったに経験できない暗さが訪れるにもかかわらず、住民はそれらを一つずつ検討した末に「価値がない」と判断しているわけではなく、ごく自然な口調で「何もない」と言う。

 ところが、その町を初めて訪れた人が同じ景色を見ると、まったく違う反応をすることがある。海辺で長い時間を過ごし、何でもない路地を写真に撮り、小さな食堂を面白がり、古い建物の前で立ち止まる。住民が何の意識もなく通り過ぎるところで、外から来た人が足を止めるのである。

 この食い違いは、単なる感性の違いとして片づけるには惜しい。むしろそこには「地域の価値とは誰が決めるのか」「価値はどのように測定できるのか」という、地域分析の本質的な問題が潜んでいる。ただし、住民が気づいていない価値を外部者が発見するという物語を、最初から事実として受け入れてはいけない。住民は価値を知っていても重視していないのかもしれず、訪問者が高く評価するものを、住民が別の理由から低く評価している可能性もある。

 重要なのは、住民と訪問者の見方が本当に異なるのか、その違いがどこに生じ、何によって説明できるのかを、先入観に頼らず確かめることである。

「何もない」は、事実ではなく比較の言葉である

 そもそも「何もない」という言葉を文字どおり受け取ることはできない。人が暮らしている以上、本当に何もない町など存在せず、その言葉の背後には多くの場合、暗黙の比較対象が隠れているからである。

 大型商業施設がない、映画館がない、大学がない、夜遅くまで営業する店が少ない、電車の本数が少ない、有名な観光施設がないというように、都市的な機能を「あることが普通」と考えれば、それらが少ない町は確かに「何もない」ように見える。しかし、人口十万人の都市と人口数千人の町を店舗数や娯楽施設数だけで比較しても、その結果には人口規模の違いが大きく反映されるため、それだけで地域の魅力や生活の質を評価することはできない。

 もっとも、人口が少ないから必ず施設が少ないとも限らない。観光客が多く集まる町や周辺地域の商業拠点になっている町では、人口規模に比べて店舗が集積する場合もある。施設の多さや少なさを論じるなら、人口だけでなく、周辺地域からの利用者、交通条件、観光需要、住民の年齢構成なども考慮する必要がある。

 逆に、交通量の少ない道路、建物のない海岸、人工照明の少ない夜、人影の少ない散歩道、広告看板のない景観は、都市的な尺度では不足として扱われても、別の尺度に置き換えれば希少な環境になる。経済学では、人によって好みや重視する条件が異なることを選好の異質性として考えるが、地域の価値についても同じことが言える。

 ただし、人が少ないことは静けさという便益を生む一方、商店や公共交通を維持するための利用者が少ないという不利益も生み得る。同じ地域特性であっても、何を重視するかによって評価は変わるのであり、地方に何もないのではなく、都市が価値として数えているものが少ないだけなのかもしれない。

毎日見る景色は、価値を失うのではなく「背景」になる

 住民が自分の町の魅力を語りにくい理由の一つとして、人間の認知の性質が考えられる。同じ刺激を繰り返し受けることで、その刺激への反応が弱まる現象は心理学で「馴化」と呼ばれる。毎日見ている海や山、古い町並みが次第に注意を向ける対象ではなく、生活の背景へ変わっていくことは十分に考えられる。

 ただし、馴化が起こることと、その対象の価値を低く評価することは同じではない。人間には、繰り返し接することで親しみや好意が形成される単純接触効果も知られており、長年暮らした土地だからこそ、外部者には分からない愛着を抱くこともある。毎日は意識して眺めなくても、その風景が失われると分かったときに初めて、自分にとっての重要性を強く認識する場合もあるだろう。

 したがって、心理学的に馴化という現象が確認されているからといって、ある町の住民が地域の価値を過小評価していると結論づけることはできない。馴化は住民と訪問者の評価が異なる理由の候補にはなるが、その違いが実際に存在することの証明ではない。

 重要なのは、住民の評価と訪問者の評価が同じであると仮定する理由もなければ、必ず違うと仮定する理由もないということである。実際、観光地を対象にした研究では住民と訪問者の認識が異なる例がある一方、両者の地域イメージが比較的よく似ている例も報告されている。住民だから価値に気づかず、外部者だから価値を発見できるという単純な構図は、研究によって一般的に証明されているわけではない。

 だからこそ、住民と訪問者の評価がどこで一致し、どこでずれているのかを測る意味が生まれる。住民が高く評価し、訪問者も高く評価する場所は、両者に共有された地域資源である可能性がある。一方、住民の評価は低いのに訪問者だけが強い関心を示す場所があれば、その違いが何によって生じているのかを調べることで、地域の新しい側面が見えてくるかもしれない。

「魅力がありますか」と聞くだけでは、町は十分に見えてこない

 町の魅力を調べるとき、最も簡単なのはアンケートである。「この町の良いところは何ですか」「満足していますか」「他人に勧めたいですか」と尋ねれば、評価を数値として集計できる。しかし、人間が口で答えることと実際に行動することは必ずしも一致しない。

 経済学には、実際の選択行動から人々の選好を推定する顕示選好という考え方がある。地域の場合にも、魅力があると回答したかどうかだけでなく、どこまで歩いたのか、どこで立ち止まったのか、何を撮影したのか、どこに長く滞在したのか、何にお金を使ったのか、そして再び訪れたのかを見ることには意味がある。

 ただし、行動が観測できれば、その理由まで分かるわけではない。ある海岸に四十分いた人が、その景観を気に入っていたとは限らず、同行者を待っていたのかもしれないし、電車の時刻を調整していたのかもしれない。単に疲れて休憩していた可能性もあれば、別の場所へ移動する手段がなかったという事情も考えられる。

 滞在時間は価値そのものではなく、行動上の関与を示す一つの手掛かりである。それでも、異なる日に調査しても特定の場所で滞在が長く、その場所を高く評価する人も多く、再訪意向や実際の再訪行動にも一定の関連が見られるのであれば、その場所に何らかの魅力が存在するという仮説は検討に値する。

 もっとも、複数の指標が同じ方向を示したとしても、それらが完全に独立した証拠とは限らない。景観への関心が強い訪問者は、長く滞在し、写真も多く撮り、高い評価を付ける可能性があるため、三つの指標が一致していても、実際には一つの共通した要因が反映されている場合がある。

 科学的に重要なのは、複数の数字が一致したという事実だけではなく、それらがなぜ一致したのか、別の説明が成り立たないかを検討することである。

写真を撮ったからといって、好きだとは限らない

 同じことは写真撮影にも言える。写真が多く撮られる場所は視覚的に人を引き付けている可能性があるが、それだけで好まれているとは限らない。美しいから撮る場合もあれば、珍しいから撮る場合もあり、奇妙だから撮る場合もある。事故や混雑のような否定的な出来事が撮影を増やすことさえある。

 インターネット上の投稿件数や口コミ数も同じである。投稿が多いことは、その場所が一定の関心を集めている手掛かりにはなるが、好意的に評価されている証拠とは限らない。また、投稿する人と投稿しない人では、年齢、情報機器の利用習慣、旅行目的などが異なる可能性もあるため、投稿件数を訪問者全体の評価として扱うことにも注意が必要である。

 さらに、観光客が撮影した写真には、その場所へ実際に行けた人だけが含まれる。公共交通の便が悪く、訪問すること自体が難しい場所では、景観に魅力があっても写真が少なくなる可能性がある。反対に、駅の近くや駐車場のある場所は、アクセスの容易さだけで撮影数が増えることもある。

 したがって、写真撮影数、滞在時間、再訪、消費額などは、それぞれ異なる角度から地域を見る観測指標として扱うべきである。写真が多いのに再訪が少ない場所であれば、一度見れば満足する珍しさが特徴なのかもしれないし、景観への評価は高くてもアクセス条件や周辺施設に問題があるのかもしれない。

 測定とは一つの数字を見つけることではなく、複数の方法から得られた結果を比較し、それぞれの限界や背景にある要因を検討しながら、説明の妥当性を高めていく作業なのである。

無料だから価値がない、という錯覚

 地域の価値が見えにくくなるもう一つの理由は、価格が付いていないことである。海を見るために料金を支払う必要がなければ、海岸の価値は町の売上高に直接現れず、静かな道を歩いても料金はかからず、夜空を眺めても領収書は発行されない。

 風の音、潮の匂い、遠くまで見渡せる景色、昔から続く路地といったものは、そこに存在していても会計帳簿にはほとんど現れない。しかし、価格が付いていないことと、経済的価値が存在しないことは同じではない。

 環境経済学では、市場で直接取引されない自然環境や景観、レクリエーション資源などの価値を非市場価値として扱い、人々の行動や回答からその大きさを推定する方法が発展してきた。その一つが移動費用法であり、訪問に必要な交通費や時間などと訪問行動の関係から、対象となる場所の利用価値を推定する。

 例えば、人は景色を見るために交通費を払い、静かな場所で過ごすために宿泊費を払い、人の少ない場所へ行くために時間を使う。目的地そのものに入場料がなくても、そこへ行くために費用や時間を負担していることは、その場所への選好を考える手掛かりになる。

 ただし、ある人が東京から百五十キロ移動して海岸を訪れたとしても、その移動費のすべてを海岸の価値として計上できるわけではない。旅行中に複数の観光地を巡っている可能性があり、移動自体を楽しんでいたかもしれず、別の目的地へ行く途中で立ち寄っただけという場合もある。

 厳密な移動費用法では、移動距離だけで価値を決めるのではなく、移動費用と訪問回数の関係などから需要を推定し、その需要に基づいて利用者が得る便益を評価する。また、宿泊費や飲食費などの地域内消費額は実際に支出された金額であり、それによって訪問者が得た満足や便益そのものを表しているわけではない。

 地域の経済効果を考える場合にも、売上高が増えたことと、地域全体の純粋な便益が増えたことは区別しなければならない。観光客が増えれば清掃、交通対策、施設維持などの費用も発生し得るため、価値を金額で表そうとするほど、何を測っているのかという定義が重要になるのである。

「存在しないもの」にも、価格が付くことがある

 さらに面白いのは、地域では「あるもの」だけでなく、「ないもの」にも価値が生じることである。自動車の騒音が少ない、人工照明が少ない、人混みがない、高層建築物がない、巨大な広告看板がないといった状態は、通常の地域統計では資産として数えられにくい。

 ところが、住宅価格などを分析すると、騒音の少なさ、眺望、緑地への近さといった環境条件が価格差に反映される場合がある。経済学では、住宅価格を土地や建物の広さ、築年数、交通条件、周辺環境などの属性に分け、それぞれの属性と価格との関係を推定するヘドニック価格法という考え方が用いられている。

 厳密には「存在しないもの」そのものに価格が付くのではなく、騒音や混雑などが少ないという環境条件に対して、人々が便益を感じ、支払意思を持つ場合があるということである。ただし、住宅価格には所得水準、交通利便性、土地利用規制、学校や医療機関へのアクセスなど多くの要因が影響するため、静かな地域の住宅価格が高かったとしても、その差のすべてを静けさの価値と解釈することはできない。

 そう考えると、「何もない」という言葉は妙に面白くなる。大都市では騒音があり、人が多く、照明が明るく、店舗が密集していることが利便性を生む一方で、静けさ、暗さ、人の少なさ、空間の余白といったものを得にくくしている。都市では希少になった条件が、地方では日常の中に残されている場合がある。

 ただし、それらの魅力が住宅価格や観光需要を押し上げたとしても、住民全員が利益を得るとは限らない。住宅価格の上昇は持ち家の所有者にとって資産価値の上昇につながる可能性がある一方、借家に住む人や移住を希望する人にとっては居住費の負担増加になることもある。地域の価値が発見されることと、その利益が地域社会に公平に配分されることは別の問題なのである。

しかし、「不便」を無理に「価値」と言い換えてはいけない

 ここまで読むと、「地方は何もなくても素晴らしい」という結論に進みたくなる。しかし、そこで止まらなければならない。店がないことを静けさと言い換え、公共交通がないことを自由と言い換え、医療機関が遠いことを自然豊かな暮らしと言い換え始めれば、それは分析ではなく美化になる。

 特に住民にとって、買い物、通院、教育、移動の不便は生活条件そのものである。自家用車を運転できる人にとって問題にならない距離でも、高齢者や障害のある人、子ども、運転免許を持たない人にとっては大きな負担になる場合がある。旅行者が二泊三日で楽しむ不便さと、住民が毎日背負う不便さは同じではない。

 人の少ない町を観光客が「静かで素晴らしい」と感じていても、住民は人口減少によって商店、学校、公共交通が維持できなくなることを心配しているかもしれない。同じ風景が一方には癒やしとして見え、もう一方には地域社会の縮小として見えるのである。

 したがって、「この場所には価値があるか」という一つの問いだけでは不十分である。「誰にとって価値があるのか」「誰にとって負担なのか」「その価値は一年中存在するのか」「利用者が増えても維持されるのか」「利益と費用は誰に帰属するのか」まで考えなければならない。

 地域価値は一つの絶対値ではなく、その場所を利用する人、そこで暮らす人、季節、時間帯、生活条件によって異なる評価を持つ。観光客にとって魅力的であることは、住民にとって暮らしやすいことを保証しないのである。

価値は、発見した瞬間から壊れ始めることもある

 さらに厄介なのは、地域資源が成功すると、その成功によって価値が失われる場合があることである。誰も知らない静かな海岸が評判になって大勢の人が訪れるようになれば、「人が少ない」という魅力は薄れ、古い路地が写真映えすると知られれば撮影者が増えて住民の日常生活と衝突する。静かな食堂が人気店になれば、従来から利用していた地元住民が入りにくくなることさえある。

 これは、利用者の増加によって混雑や環境負荷が生じ、利用者自身や周辺住民が受ける便益が低下するという問題である。観光客の増加が地域の売上高を押し上げても、騒音、交通混雑、ごみ処理、自然環境への負担などを考慮すると、地域全体の利益が必ずしも同じ割合で増えるとは限らない。

 つまり、地域資源とは地下に埋まっている鉱物のように、見つければそのまま価値が増えるものではない。むしろ「知られていないこと」「混雑していないこと」「地域の日常が保たれていること」そのものが価値の一部になっている場合がある。

 そうなると、地域活性化の目的も「すべてを有名にすること」でよいのか疑問が生じる。訪問者数を最大化すること、観光消費額を増やすこと、地域住民の暮らしを守ること、景観や文化を次世代へ残すことは、常に同じ方向を向いているわけではない。

 持続可能な観光政策では、訪問者の満足度や経済効果だけでなく、住民生活、環境保全、地域資源の維持を含めた管理が重視される。地域の価値を発見することと、それを最大限利用することは別の問題であり、場合によっては過度に宣伝しないことも合理的な選択になり得るのである。

「住民未認識価値」は、本当に測れるのか

 では、この記事のテーマである「住民自身が価値を感じていないもの」を、本当に数字で測ることはできるだろうか。

 例えば、町の中に十か所の候補地点を設定し、それぞれについて住民と町外から来た人に同じ質問を行い、「この場所に魅力を感じる」という項目を七段階で評価してもらったとする。ある海岸について住民の平均評価が六・〇、訪問者が六・二だった場合、この場所は両者から高く評価されており、評価差は〇・二ポイントである。

 一方、古い路地について住民が二・八、訪問者が五・六だった場合、評価差は二・八ポイントになる。この路地は海岸よりも評価の絶対水準が低い可能性があるものの、住民と訪問者の評価が大きく異なるという点では、地域研究として興味深い対象になる。

 ただし、ここで最も注意すべきなのは、評価差が大きいことと、住民が価値を認識していないことを混同してはいけないという点である。

 住民は、その路地の景観的な魅力を十分に理解しているかもしれない。それでも、道幅が狭く、自動車の通行に不便であり、建物の維持管理にも費用がかかるため、総合的な評価を低くしている可能性がある。また、観光客が好む雰囲気を理解していても、撮影者が増えることによる生活への影響を心配しているかもしれない。

 反対に、訪問者は、古い建物や曲がりくねった道を新鮮で魅力的だと感じていても、その場所を日常的に利用する場合の不便や維持管理の負担までは知らないことがある。

 つまり、住民の評価が低く、訪問者の評価が高いという結果だけでは、「住民は価値に気づいていない」とは結論づけられない。それは単に、住民と訪問者が異なる条件や目的で同じ場所を評価している結果かもしれないのである。

 科学的な研究としては、最初に測るべきものを「住民未認識価値」と決めつけるのではなく、「住民と訪問者の評価差」として定義する方が正確である。そして、その評価差が本当に認識不足から生じているのか、選好の違いなのか、生活上の負担なのかを追加の調査で明らかにしていく必要がある。

「知らないこと」と「評価しないこと」を区別する

 住民が地域資源を認識していないかどうかを測定するためには、魅力の評価とは別に、認知そのものを調べなければならない。

 例えば、最初に「この町で特徴的だと思う場所を挙げてください」と自由回答で尋ね、その後に具体的な地点の写真を提示し、「この場所を知っていますか」「どのような特徴があると思いますか」「景観として魅力を感じますか」「保存する価値があると思いますか」といった質問を行う方法が考えられる。

 ここで重要なのは、景観としての魅力、日常生活での快適さ、歴史的な価値、保存の必要性などを、一つの質問にまとめないことである。ある場所について「観光客には勧めたいが、自分が毎日通るには不便だ」と考える住民がいたとしても、それは矛盾した評価ではない。異なる側面を区別して評価しているのであり、むしろ地域の価値を多面的に理解している可能性がある。

 さらに、場所の歴史や景観の特徴に関する情報を提示する前後で評価が変わるかを調べることもできる。ただし、情報を与えた後に評価が上がったとしても、その変化が情報によるものなのか、繰り返し質問された影響なのか、調査者の期待を読み取った結果なのかを区別する必要がある。

 より厳密に調べるなら、回答者を無作為に二つの集団に分け、一方には場所の背景情報を提示し、もう一方には提示せず、両者の評価変化を比較する方法が考えられる。こうした比較によって、情報提供が評価に与える影響を推定しやすくなる。ただし、情報を与えた直後の評価変化が、長期的な認識の変化や実際の行動につながるとは限らない。

 このように、場所の存在を知っているか、どのような特徴を認識しているか、その特徴をどう評価しているか、情報によって評価が変わるかを段階的に測定して初めて、「住民が十分に認識していない価値」という仮説を検証することができる。

平均評価の差は、統計的にどこまで信用できるのか

 住民と訪問者の評価を比較するとき、平均値の差は分かりやすい指標である。しかし、平均値だけを比較して結論を出すことはできない。

 例えば、住民の平均評価が三点、訪問者が六点だったとしても、それぞれの回答者が五人しかいない場合と、百人ずついる場合では、結果の確かさが異なる。また、住民の評価がほぼ全員三点前後に集中している場合と、一点から七点まで大きく分かれている場合では、平均値が同じでも地域内部の意見の構造は異なる。

 統計学では、このような違いを考慮するため、平均値に加えて標準偏差などのばらつきを示す指標を用いる。また、平均差を回答のばらつきで標準化した効果量を求めれば、単なる点数差だけでは分かりにくい集団間の違いを評価できる。

 ただし、効果量が大きいことと、その推定が精密であることは別である。回答者数が少なかったり、標本の選び方に偏りがあったりすれば、得られた効果量は不安定になる可能性がある。そのため、標本数、回答のばらつき、信頼区間などを併せて確認し、推定結果にどの程度の不確実性があるのかを示す必要がある。

 さらに、七段階評価は本来、順序を表す尺度である。「一」と「二」の差が「五」と「六」の差と心理的に同じ大きさだとは限らないため、平均値を計算すること自体が直ちに誤りというわけではないものの、その解釈には注意が必要である。実際の調査では、平均値に加えて中央値や回答分布も確認し、必要に応じて回答の順序性を考慮した統計モデルを使うことが望ましい。

 また、十か所の地点についてそれぞれ統計的検定を行えば、実際には差がない場所であっても、偶然に差があるように見える結果が生じることがある。仮に十か所すべてで本当の評価差が存在せず、各検定が独立で、有意水準を五%とした場合、少なくとも一か所で偶然に有意な結果が出る確率は約四〇%になる。

 これは、十か所を調べれば必ず四〇%の確率で間違えるという一般的な意味ではなく、一定の仮定を置いた場合の計算例である。しかし、調査地点を増やし、その中から差が大きい場所だけを選ぶほど、偶然の結果を重要な発見と誤認する危険があることは理解しておく必要がある。

 したがって、分析では複数の検定による誤判定の増加を考慮するとともに、統計的に差があるかどうかだけでなく、その差が地域の実態を理解する上でどの程度重要なのかを検討しなければならない。

同じ質問でも、同じものを測っているとは限らない

 住民と訪問者に同じ質問をすれば公平に比較できるように思えるが、必ずしもそうではない。

 例えば、「この路地は魅力的ですか」と尋ねられたとき、住民は「毎日利用する生活道路として魅力的か」を考え、訪問者は「旅行中に散策する場所として魅力的か」を考えるかもしれない。質問の文章が同じでも、回答者が頭の中で評価している対象が異なれば、平均値の差をそのまま価値認識の差として解釈することは難しい。

 心理測定では、異なる集団で同じ質問が同じ概念を測っているかという問題が重要になる。住民と訪問者の比較でも、評価尺度の意味が両者で一致しているかを確認する必要がある。

 そのため、調査では「景観として美しいと思うか」「散策する場所として魅力があるか」「日常生活で利用しやすいか」「歴史的な価値があると思うか」「保存する必要があると思うか」といった質問を分けることが望ましい。

 さらに、同じ写真を提示して評価させれば、両者が同一の景観を見ているという条件をある程度そろえることができる。ただし、写真だけでは音、匂い、風、周辺の雰囲気、歩きやすさなどを十分に伝えられないため、現地での評価とは別の測定になり得る。

 住民が低く評価した理由を知るには、点数だけではなく、なぜその点数を付けたのかという自由回答や聞き取りも重要である。数値で差を発見し、その理由を言葉で確かめ、必要に応じて再び数値で検証するという往復が、地域の理解を深めるのである。

誰を調査するかによって、町の価値は変わって見える

 統計的な分析で見落としやすいのは、住民と訪問者では、そもそも調査に参加するまでの条件が違うということである。

 訪問者は、その町へ来ることを選んだ人である。海辺の風景に魅力を感じない人や、交通の便が悪いと考えて訪問をやめた人は、現地で実施する観光客アンケートには含まれない。そのため、現地を訪れた人の評価が高かったとしても、町外の人全体が同じように評価しているとは限らない。

 さらに、古い路地に立ち寄った人だけにアンケートを行えば、その路地に興味を持った人が多く含まれる可能性がある。長く滞在する人は、短時間で通過する人よりも調査員に声をかけられやすい場合もあり、調査方法そのものが回答結果に偏りを生むことがある。

 住民についても同様である。長年その町で暮らしている人と最近移住してきた人、海の近くに住む人と内陸に住む人、自家用車を利用できる人とできない人では、地域を見る条件が異なる。調査に積極的に応じる住民だけを対象にすれば、地域への関心が高い人の意見に偏る可能性もある。

 したがって、住民と訪問者の平均点を単純に比較する前に、回答者の年齢、居住年数、訪問目的、訪問回数、交通手段、調査場所、調査時間帯などを把握する必要がある。可能であれば、調査対象を適切な方法で抽出し、属性の違いを考慮した分析を行うことが望ましい。

 ここで注意したいのは、属性を調整したからといって、すべての偏りが取り除かれるわけではないという点である。観測できない好みや経験が評価に影響している可能性も残るため、住民と訪問者の差が確認できても、その原因を一つに特定するには追加の検証が必要になる。

すべてを一つの「地域価値指数」にまとめてはいけない

 地域の魅力を数字で測り始めると、住民評価、訪問者評価、滞在時間、写真撮影数、再訪意向、消費額、移動距離などを組み合わせ、一つの地域価値指数にしたくなる。例えば「地域価値指数七十三点」と表示すれば、一見すると精密で比較しやすい指標に見える。

 しかし、一時間の滞在と写真十枚をどの比率で足せばよいのかという問題がある。滞在時間を重視するか、消費額を重視するか、住民の保存意向を重視するかによって、順位は大きく変わり得る。その重みを分析者が十分な根拠なく決めれば、指数は客観的に見えても、実際には分析者の価値判断を強く反映したものになる。

 もちろん、複数の指標を統合すること自体が常に誤りというわけではない。目的を明確にし、重み付けの根拠を示し、重みを変えた場合にも結論がどの程度安定しているかを確認すれば、総合指標が役立つ場合もある。ただし、地域の魅力そのものが多面的である以上、一つの点数で完全に表現できると考えるべきではない。

 むしろ、最初の段階ではそれぞれの指標を別々に残した方がよい。住民評価は地域内部の認識を、訪問者評価は訪問した人の認識を、滞在時間は行動上の関与を、写真撮影は視覚的な関心を、再訪は継続的な選好の一側面を示す。消費額は市場で実現した支出を示すが、その場所が生み出した便益の総額を意味するわけではない。

 そして、それぞれの指標が一致する場所だけでなく、矛盾する場所にも注目する必要がある。住民評価は高いのに訪問者評価が低い場所があれば、住民だけが知る歴史的な意味や生活上の役割があるのかもしれない。訪問者評価は高いのに再訪率が低い場所があれば、一度の訪問で満足する特徴があるのかもしれず、アクセスや宿泊環境が再訪を妨げている可能性もある。

 重要なのは、数字を一つにまとめることではなく、異なる数字がなぜ一致し、なぜ一致しないのかを説明することなのである。

町の魅力を探すのではなく、「認識のずれ」を探す

 こう考えると、地域調査の目的そのものが変わってくる。従来のように「町で最も魅力的な場所はどこか」を探すだけでは、有名な海岸や神社、観光施設が上位に並ぶだけかもしれない。

 しかし、「住民評価と訪問者評価の差が大きい場所はどこか」「その差は何によって生じるのか」と問いを変えれば、これまで観光資源として扱われてこなかった場所にも調査対象が広がる。住民も観光客も六点を付ける有名観光地より、住民が三点、訪問者が六点を付ける何でもない路地の方が、評価差を研究する対象としては興味深い場合がある。

 ただし、評価差が大きい場所が、必ずしも優れた観光資源であるとは限らない。訪問者の評価が高くても、道路が狭く安全上の問題があったり、住宅地であるため私生活への影響が大きかったり、訪問者の受け入れに適していなかったりすることがある。

 また、その場所の評価差が本当に住民の認識不足によるものなのか、それとも住民と訪問者の利用目的や利害の違いによるものなのかを見極める必要がある。特に、住民が価値を知った上で保存や観光利用に慎重な姿勢を取っている場合、それを「地域の魅力に気づいていない」と解釈することは適切ではない。

 研究としての目的は、差が大きい場所を見つけて観光地に変えることではない。差が存在するなら、その理由を明らかにし、住民にとっての意味と外部者にとっての意味を比較することで、地域資源の性質を理解することにある。

外から来た人が場所を発見し、住民が時間を与える

 さらに面白いのは、外部者と住民が見ているものが異なるからこそ、その二つを組み合わせることで場所の意味が深まる場合があることである。

 外から来た人が古い路地を見て「雰囲気がある」と感じても、その人にはその路地がなぜその形をしているのかまでは分からない。ところが、そこで住民に尋ねれば、「昔はここを子どもたちが通学していた」「この先に店が並んでいた」「祭りの日にはここに人が集まった」と話し始めるかもしれない。

 訪問者は景観の新鮮さに目を向け、住民は生活の記憶や歴史的な変化を知っている場合がある。もちろん、すべての住民が地域の歴史に詳しいわけでも、すべての訪問者が表面的な景観しか見ていないわけでもないが、両者が持つ情報や経験には違いがあり、その違いを重ねることで場所の理解が深まる可能性がある。

 例えば、訪問者が魅力を感じた古い道について、住民への聞き取りから、かつての商店街の構造や祭礼の経路、地域の産業との関係が明らかになるかもしれない。その情報が新しい魅力を生むこともあれば、保存すべき理由や利用を制限すべき理由を明らかにすることもある。

 だから「住民は価値が分かっていない」と言うのは、この関係をあまりにも単純化している。住民は外部者とは別の価値を見ている可能性があり、その知識や記憶そのものが地域を理解するための重要な情報なのである。

実際に地域で調査するなら、何から始めるべきか

 ここまでの考え方を実証研究として発展させるなら、最初から町全体の価値を一つの指数で測定しようとするより、少数の地点を対象に予備調査から始める方が現実的である。

 例えば、千葉県の御宿町、勝浦市、いすみ市、大多喜町などを念頭に置く場合でも、最初は一つの地域を選び、海岸、古い路地、商店街、農村景観、住宅地の周辺など、性質の異なる十地点程度を候補に設定する方法が考えられる。ただし、十地点という数に統計学的な必然性があるわけではなく、調査目的、地域の広さ、地点ごとの特徴、調査に必要な労力によって決めるべきである。

 まず、住民と訪問者への聞き取りによって候補地点を整理し、どのような魅力が語られているのかを確認する。次に、地点の認知度、景観評価、生活上の利便性、保存意向などを分けて調べ、住民と訪問者の評価がどの程度異なるかを分析する。その際、回答者数や回答のばらつきだけでなく、年齢、居住年数、訪問目的、交通手段なども記録し、必要に応じて統計的に調整する。

 さらに、現地での滞在時間や歩行経路、再訪の有無などを調べれば、主観的な評価と実際の行動との関連を検討できる。ただし、位置情報や写真、行動記録には個人情報やプライバシーの問題が生じ得るため、調査目的を明確にし、必要に応じて参加者の同意を得るとともに、個人を特定しない集計や適切なデータ管理を行う必要がある。

 また、予備調査の結果から評価差の大きい場所が見つかっても、それだけで大規模な観光施策に進むべきではない。訪問者が増えた場合の交通、安全、環境、住民生活への影響を考慮し、行政、住民、地域事業者などの意見を確認する必要がある。

 この調査の価値は、新しい観光名所を発見できるかどうかだけで決まるものではない。住民が高く評価しているのに訪問者には知られていない場所、住民と訪問者の評価が一致している場所、評価は高くても観光利用に適していない場所などが明らかになることも、地域政策にとって重要な成果になる。

新しい観光資源を「作る」前に、すでに人が立ち止まっている場所を見る

 自治体が地域活性化を考えると、新しい名物、新しいイベント、新しい施設、新しいキャッチコピーを作ろうとすることがある。もちろん、新しい施設や事業が必要な場合もあるが、その前に、すでに存在している地域資源がどのように認識され、利用されているのかを調べることには意味がある。

 行政が観光地と呼んでいないのに写真を撮る人がいる場所、住民は何とも思っていないのに訪問者が長く歩いている通り、積極的に宣伝していないのに繰り返し訪れる人がいる店が存在するなら、そこには行政統計や既存の観光案内だけでは捉えきれていない特徴があるかもしれない。

 ただし、人が立ち止まっているという事実だけで、その場所に新しい観光需要があると断定することはできない。交通上の理由で立ち止まっているのかもしれず、短期間の流行や偶然の出来事によって注目が集まっている可能性もある。行動の背後にある理由を調べ、異なる時期や条件でも同じ傾向が確認できるかを検証する必要がある。

 そして、仮に新しい魅力が確認できたとしても、すぐに看板を立て、駐車場を造り、大勢を呼び込む必要があるわけではない。現状を保存すること、静かな環境を維持すること、住民の歴史的な記憶を記録すること、限られた人数だけが利用できる形を検討することも選択肢になる。

 地域資源の価値を政策に結び付けるときには、訪問者数や消費額を増やす効果だけでなく、維持管理の費用、住民負担、地域社会への利益の配分、将来にわたる持続可能性を考える必要がある。

 地域分析とは、何かを売り出すためだけに行うものではない。地域の現状を把握し、何を守り、何を変え、何を変えない方がよいのかを判断するためにも行うものなのである。

「何もない」という言葉は、調査の終点ではなく出発点である

 結局、「何もない」という言葉は、その町の客観的な状態をそのまま説明しているわけではなく、その人が何を「あるもの」として数え、何を重要だと考えているかを示している可能性がある。

 大型店を価値と考えれば大型店のない町は何もないように見え、静けさを価値と考えれば交通量の少ない町は豊かな場所になり、夜の明るさを便利さと考える人もいれば、夜の暗さを希少な環境だと考える人もいる。同じ町でも評価の尺度を変えれば景色は変わるが、尺度を変えることによって不便や生活上の問題まで消えるわけではない。

 だから地域分析に必要なのは、「この町には素晴らしい価値がある」と最初から宣言することでも、「住民は自分の町の良さを分かっていない」と説教することでもない。住民と訪問者は本当に違う評価をしているのか、違うならどの場所でどの程度違うのか、その違いは認識不足によるものなのか、それとも好み、利用目的、生活条件、負担の違いによるものなのかを、一つずつ確かめていくことである。

 そのためには、評価点だけでなく、回答のばらつき、調査対象者の属性、質問の意味、標本の偏り、実際の行動との関係を検討しなければならない。複数の指標が一致したときには、その背後にある共通の要因を調べ、結果が一致しなかったときには、どのような違いが数字に表れているのかを考える必要がある。

 そして調査の結果、住民と外部者の評価がほとんど同じだったとしても、それは失敗ではない。「住民は自分の町の価値に気づいていない」という思い込みの方が間違っていた可能性を示す、重要な研究成果になる。

 反対に、住民の評価が低い場所で外部者だけが立ち止まり、高く評価し、繰り返し訪れていることが分かれば、「なぜ、この場所なのか」という新しい問いが生まれる。ただし、その答えが必ずしも住民の認識不足であるとは限らない。外部者が新しい価値を発見したのかもしれず、住民が別の価値や費用を重視していたのかもしれない。

 「何もない町」は、本当に何もないのだろうか。その答えは、町の中だけを眺めていても、外から訪れる人の感想だけを聞いていても、十分には見つからないのかもしれない。住民の視線と外から来た人の視線を重ね、その一致とずれを数字で確かめ、さらに言葉や行動によって理由を検証していくことで、初めて見えてくるものがある。

 地域の価値を測るということは、住民が知らなかった魅力を外部者が教えることではない。それぞれ異なる経験、条件、利害を持つ人々が同じ場所をどう評価しているのかを理解し、なぜその違いが生まれるのかを明らかにすることである。

 そして、その結果を観光振興に使うのか、景観保存に使うのか、住民生活の改善に使うのか、あるいはあえて何も変えないという判断に使うのかは、測定結果とは別に考える必要がある。

 町の価値は、数字を付けた瞬間に決まるものではない。数字によって今まで見えなかった違いを発見し、その理由を考え、地域の将来について判断する材料を増やすことに、測定の本当の意味がある。

 だから「何もない」という言葉が出たときこそ、地域分析を終えるときではない。そこが調査の始まりなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 海に沈む夕日、雨上がりの石畳、朝霧の向こうに浮かぶ山、港で網をほどく漁師の背中。自治体の公式SNS(Social Networking Service・ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を眺めていると、日本の小さな町が、こちらの想像以上に美しく見えることがある。以前なら観光パンフレットの一ページに収まっていた風景が、いまでは十数秒の動画になって全国へ流れ、町の名前さえ知らなかった人が指先一つで「いいね」を押す。

 ところが、その町を実際に訪れてみると、画面の中とは少し違う風景に出会うことがある。あれほど多くの人に見られていた町なのに、駅を降りれば人影は少なく、商店街にはシャッターが並び、夕方になると町全体が静かになる。その反対に、自治体の公式アカウントが派手に話題になるわけでもないのに、休日になれば道路が渋滞し、駅から多くの人が歩き出し、飲食店には行列ができる町もある。

 もちろん、駅前が静かだからといって、その町に観光客が来ていないとは限らない。観光客が駅を利用せず自家用車で訪れている場合もあれば、中心市街地ではなく海岸や山間部の観光施設に集まっている場合もある。また、地域の静けさ自体が旅行者にとっての魅力になっていることもある。それでも、画面の中でよく見かける町と、現実に人が集まる町を、私たちはいつの間にか同じものとして考えるようになっていないだろうか。

 「見られる」ということと「訪れられる」ということの間には、思っている以上に長い距離がある。そして、その距離を考えるには、フォロワー数、観光客数、宿泊客数、観光消費額といった、一見分かりやすい数字を慎重に読み直す必要がある。

人口より多くのフォロワーを持つ町

 三重県南伊勢町は、その距離を考える上で興味深い町である。町が運営する公式Instagramでは、海や漁業、食、季節の景色だけではなく、そこで暮らす人々の日常そのものが発信されている。観光名所や特産品を紹介するだけでなく、地域の人々の暮らしや仕事の様子を伝えることによって、町の外側にいる人々が地域を身近に感じられるような情報発信が行われている。

 町の公表資料によれば、2025年12月には公式Instagramのフォロワー数が1万284となり、比較対象となった同年11月末の町人口1万166人を上回った。さらに2026年8月にはフォロワー数が1万3840となり、同月末の人口9858人に対して約1.40倍に達している。人口1万人に満たない町が、自らの人口規模を大きく超えるフォロワー数を持つようになったのである。

 この数字は、自治体広報のあり方が以前とはかなり変わったことを象徴している。かつて自治体広報の中心は、役場から住民へ制度や行事を知らせることだった。しかしSNSでは、住民票を持たない人も町の情報を受け取ることができる。町を離れた出身者も、一度旅行した人も、まだ訪れたことのない人も、同じ画面を通して一つの町と接点を持てるのである。

 ただし、人口を超えるフォロワー数があるからといって、人口を超える人数が町外から実際に投稿を見ていると判断することはできない。フォロワーには町民も含まれるだろうし、一人が複数のアカウントを持つ場合や、企業・団体のアカウントもある。また、フォローしている人がすべての投稿を見ているわけでもない。フォロワー数は町の情報発信が持つ潜在的な広がりを考える材料にはなるが、実際の閲覧人数や町外の関心人口を直接数えたものではないのである。

 それでも、人口1万人に満たない町が1万を超えるフォロワーを獲得したことは、地域の情報発信という観点から注目に値する。小さな自治体であっても、発信する内容や運営方法によって、行政区域の内側にとどまらない接点を形成できる可能性を示しているからだ。

 ここだけを見れば、SNS上の成功がそのまま町への人の流れを生み出しているようにも思える。しかし、観光統計を詳しく調べてみると、話はもう少し複雑になる。

観光客は減ったのに、宿泊客は増えていた

 南伊勢町の観光入込客数は、2021年の19万630人から、2022年には19万4327人、2023年には25万6252人へ増加したものの、2024年には24万7073人となった。2023年から2024年にかけての減少率は約3.6%であり、観光客総数だけを見れば、2024年は前年を下回ったことになる。

 しかし、この数字を日帰り客と宿泊客に分けてみると、異なる変化が起きている。日帰り客は2023年の24万654人から2024年には22万9847人へ減少し、減少率は約4.5%だった。一方、宿泊客は1万5598人から1万7226人へ増加し、増加率は約10.4%に達している。つまり、観光客の総数が減少した年に、地域へ泊まる人は増えていたのである。

 さらに、観光客総数に占める宿泊客の割合を計算すると、2023年の約6.09%から2024年には約6.97%へ上昇している。この割合は依然として1割に満たないものの、観光客の構成に変化が生じていることは確認できる。単純に観光客が減ったと表現するだけでは、こうした内訳の変化を見落としてしまう。

 この違いは、観光政策の成果を考える上で重要である。一般に、宿泊を伴う旅行では、宿泊料金に加えて夕食や朝食、買い物、観光施設の利用などの支出が発生する可能性がある。そのため、日帰り客が減少しても宿泊客が増加すれば、地域の観光消費額が増える場合も考えられる。

 ただし、宿泊客が増えたからといって、観光消費額が必ず増えたと結論づけることはできない。実際に判断するには、日帰り客と宿泊客それぞれの平均消費額を把握し、人数と組み合わせて計算する必要がある。また、旅行者が支払った金額のすべてが地域の所得として残るわけでもない。宿泊施設や飲食店が地域外から仕入れを行っていたり、利益の一部が地域外へ移転したりすれば、その分だけ地域内への経済的な波及は小さくなる。

 観光客数が増えること、観光消費額が増えること、地域住民の所得が増えることは、それぞれ異なる現象である。これらが同じ方向に動く場合もあるが、必ずしも一致するわけではない。南伊勢町の数字は、観光客の総数という一つの指標だけでは、地域に起きている変化を十分に説明できないことを示している。

 さらに注意したいのは、ここで比較している観光統計は2024年までのものであり、人口を超えたフォロワー数は2025年12月、その後の1万3840という数字は2026年8月のものだという点である。異なる期間の数字を並べただけでは、フォロワーが増えた時期に観光客数がどう変化したのかを直接判断することはできない。

 したがって、この事例から「SNSの人気が高まっても観光客は増えなかった」と結論づけるのは適切ではない。むしろ重要なのは、SNS上の反応と観光需要を比較するには同じ期間のデータが必要であり、さらに観光客の内訳や消費まで確認しなければ、地域への影響を評価できないということである。

町公式Instagramがなくても、軽井沢には人が来る

 そこで、まったく違うタイプの町を見てみたい。

 長野県軽井沢町が町役場の公式SNSとして案内しているのは、X(旧Twitterとして知られる投稿サービス)、Facebook、LINE(メッセージングサービス)、YouTubeなどであり、少なくとも町役場が公開している公式SNS一覧にはInstagramは掲げられていない。それでも軽井沢町の2024年の観光客利用者延数は約800万5000人に達している。

 神奈川県箱根町ではさらに規模が大きく、2024年の入込観光客数は約2031万人となり、そのうち宿泊客は約398万人、日帰り客は約1633万人だった。さらに2025年には観光客総数が約2112万人へ増加し、宿泊客は約415万人、日帰り客は約1697万人となっている。いずれも町の人口規模をはるかに超える観光需要が形成されていることが分かる。

 もっとも、ここで注意しなければならないことがある。軽井沢の約800万人は「利用者延数」であり、異なる800万人の個人が一度ずつ訪れたことを意味する数字ではない。箱根町の入込観光客数についても、宿泊施設や交通機関、観光施設などの資料を基に推計されており、町の入口で一人一人の顔を確認して数えた数字ではない。

 南伊勢町を含め、自治体によって観光地点の設定や集計方法が異なる場合もある。来訪した実人数を数えているのか、施設などの利用者延数を数えているのかによって、数字の意味は変わる。したがって、軽井沢と箱根と南伊勢を単純に一列に並べて、観光客数の大小だけで地域の魅力を順位付けすることはできない。

 それでも、軽井沢や箱根が大きな観光需要を持つ地域であること自体は疑いない。そこには鉄道や道路があり、宿泊施設があり、飲食店があり、長い年月をかけて形成された地域ブランドがある。温泉、自然、別荘文化、歴史、観光施設といったものが重なり、町の名前そのものが旅行の目的になっている。

 また、軽井沢町役場の公式SNS一覧にInstagramがないことは、軽井沢に関する情報がInstagram上で発信されていないことを意味しない。観光協会、宿泊施設、飲食店、旅行者、地域の事業者などが、それぞれ情報を発信している可能性がある。町役場の公式アカウントだけで地域全体の情報発信力を測ることも、やはり適切ではないのである。

 軽井沢や箱根の事例から言えるのは、少なくとも町役場が特定のSNSを運営することは、大規模な観光需要が成立するための必須条件ではないということだ。こうした町が持っているのは、単なる情報発信力ではない。人が実際に身体を運ぶ理由と、運ぶ手段と、到着した後に時間を過ごす場所が、一つの地域システムとしてすでに出来上がっているのである。

「いいね」は身体を運んでくれない

 SNSには、現実の旅行にはない決定的な特徴がある。身体を動かさなくても成立することだ。

 北海道の雪景色を千葉県の自宅から眺めることができ、紀伊半島の入り江を東京の通勤電車の中で見ることもできる。気に入れば数秒で「いいね」を押し、あとで見たいと思えば保存できる。しかし、その場所へ本当に行こうとすれば事情は変わる。休みを確保し、交通手段を調べ、費用を払い、場合によっては宿を予約し、家族や同行者の日程まで合わせなければならない。

 画面の中では指一本で越えられた距離が、現実世界では時間と費用と手間という摩擦に変わる。町に興味を持つことと、その町を旅行先として選ぶことは、似ているようで異なる行動なのである。

 ある町をSNSで知った人が全員そこを訪れるわけではない。町を知り、その中の一部が興味を持ち、さらにその一部が交通や予算を調べ、条件が合った人だけが実際に訪れる。そして来訪した人の中から食事をする人、宿泊する人、地域の商品を買う人が現れ、その一部が再び訪れることになる。

 マーケティングでは、このような認知から関心、検討、行動へと進む過程を段階的に捉えることがある。ただし、実際の旅行者が必ず同じ順序で行動するわけではない。偶然訪れた町に魅力を感じて後から公式アカウントをフォローする人もいれば、何度も訪れた地域の情報をSNSで見始める人もいる。SNSが旅行のきっかけになることもあれば、旅行した経験によってSNSへの関心が生まれることもあるのである。

 自治体にとって本当に知りたいのは、フォロワー数だけではなく、情報を受け取った人のうち、どれほどの人が地域への関心を深め、実際の行動につなげたのかということではないだろうか。

 フォロワーが10万人いても、その大部分が画面の中から町を眺めるだけなら、直接的な観光消費への寄与は限られるかもしれない。反対にフォロワー数がそれほど多くなくても、実際に訪れた人が数泊して地元の店で食事をし、再び戻ってくるのであれば、地域との関係はずっと深くなる。

 「見た」という数字と「興味を持った」という数字と「来た」という数字と「泊まった」という数字と「また来た」という数字は、似ているようでまったく違う。これらを一つの「人気」という言葉にまとめてしまうと、地域で何が起きているのかが見えにくくなるのである。

フォロワー数は、町だけを測っているのではない

 さらに厄介なのは、SNSのフォロワー数が町そのものの魅力だけで決まるわけではないことである。

 2023年に発表された地方自治体の観光情報発信に関する研究では、Xを対象に自治体アカウントを比較し、フォローや投稿の共有を応募条件とするキャンペーンによってフォロワーを獲得している例が確認されている。つまり、フォロワー数には地域への自発的な関心だけではなく、アカウントの運営方法や利用者に与えられる誘因も影響している可能性がある。

 もちろん、この研究はXを対象としたものであり、その結果をInstagramにそのまま当てはめることはできない。しかし、投稿内容や発信頻度、写真や動画の見せ方、担当者の工夫、人気キャラクターの活用、キャンペーンの有無などが、SNS上の反応に影響することは十分に考えられる。

 同じ町であっても、写真の撮り方、動画編集、投稿する時間、更新頻度、担当職員の経験によって数字は変わる。極端に言えば、町の魅力を測っているつもりが、実際には広報担当者の技術や運営体制を大きく反映している場合もあり得る。反対に、地域そのものに観光価値があっても、公式アカウントの更新頻度が低ければ、フォロワー数は伸びにくいかもしれない。

 また、フォロワー数が多いことと、投稿が実際によく閲覧されていることも同じではない。長年にわたって集まったフォロワーの中には、現在は利用していないアカウントも含まれる可能性がある。情報発信の実態を評価するには、投稿が表示された回数、到達したアカウント数、保存や共有、外部サイトへの移動など、目的に応じた数字も必要になる。

 だからといって、自治体SNSのフォロワー数に意味がないわけではない。情報を必要とする人へ届ける能力もまた、現在の自治体には必要な力だからである。ただし、「発信のうまい自治体」と「人を呼べる地域」と「住みたいと思われる町」は、それぞれ別の能力である。

 優れた映画の予告編を作る能力と、優れた映画そのものを作る能力が同じではないように、町を美しく見せる能力と、そこへ行った人を満足させる能力も同じではない。情報発信の成果を考えるには、その違いを理解しておく必要がある。

人口で割れば「人気指数」になるのか

 南伊勢町のようにフォロワー数が人口を上回ると、単純なフォロワー数よりも、人口に対する比率を見たくなる。2026年8月の数字なら、1万3840のフォロワーを人口9858人で割ると約1.40になる。

 小さな町が、自らの人口の1.4倍に相当するフォロワー数を持っているという事実は、確かに興味深い。しかし、この1.40をそのまま「地域人気指数」のように扱うことはできない。

 なぜなら、分子にあるのはInstagram上のアカウント数であり、分母にあるのは住民基本台帳上の住民数だからである。フォロワーの中には町民もいるだろうし、町外の出身者も、観光経験者も、まだ訪れたことのない人もいる。一人が複数のアカウントを持つこともあり、企業や団体のアカウントが含まれることもある。

 さらに、全国の自治体をこの比率で比較する場合には、人口構成や情報発信の目的の違いも考えなければならない。住民向けの防災情報や行政手続きの案内を中心に発信している自治体と、観光や地域文化の紹介を中心に発信している自治体では、想定している受け手が異なる。人口に対するフォロワー比率が低いからといって、行政広報として劣っているとは限らないのである。

 人口100万人の都市が5万人のフォロワーを持つ場合と、人口1万人の町が1万人を超えるフォロワーを持つ場合とでは、その数字が持つ意味も異なる。小さな町では、比較的少数のフォロワー増加でも人口比率が大きく変化するし、もともと町外への発信を重視している自治体ほど高い数字になりやすい可能性もある。

 したがって、「フォロワー数÷人口」が示しているのは、町の人気そのものというより、人口規模に対して公式アカウントがどれほどの規模に達しているかという補助的な指標だと考える方がよい。

 それでも、この指標には意味がある。大切なのは、数値をランキングに変えて勝ち負けを決めることではなく、「なぜ人口の小さな町に、これほど多くのフォロワーが集まったのか」と問い直すことである。その理由を知るには、フォロワーの居住地、年齢構成、関心の内容、来訪経験などを調べる必要があるだろう。

SNSで人気なのに人が来ないとすれば、どこで止まっているのか

 ここまで考えると、「SNSで人気なのに人が来ない町には共通点がある」と決めつけることはできない。全国の多くの自治体について、フォロワー数、閲覧状況、観光客数、宿泊施設、交通利便性、大都市圏からの距離などを統計的に比較しなければ、そのような一般化はできないからである。

 しかし、一つの仮説を立てることはできる。

 SNSで「行ってみたい」と思わせるところまでは成功しているのに、その先にある「どうやって行くのか」「到着したら何をするのか」「どこで食べるのか」「どこに泊まるのか」という段階で、旅行の検討が止まってしまう町があるのではないか。

 例えば、夕日の美しい海岸を動画で見て心を動かされたとしても、最寄り駅からの交通手段が分かりにくく、食事のできる場所や宿泊施設の情報も見つけにくければ、「いつか行きたい」という気持ちは、そのままスマートフォンの保存一覧の中で眠り続けるかもしれない。

 特に地方の小規模自治体では、公共交通の本数、駅から観光地点までの移動手段、休日の飲食店の営業状況、宿泊施設の予約方法などが、旅行先を選ぶ際の制約になる可能性がある。一方で、自家用車で訪れる人が中心の地域では、公共交通の利便性よりも駐車場や道路、観光地点間の移動のしやすさが重要になる場合もある。どこに問題があるかは、地域の条件と旅行者の属性によって異なるのである。

 もし旅行を検討した人が交通や予約の段階で諦めているのであれば、自治体が次に考えるべき課題は、フォロワーをさらに増やすこととは限らない。情報発信という入口が十分に機能しているなら、その先にある二次交通、宿泊、飲食、予約のしやすさ、周遊の仕組みを改善した方が、実際の来訪につながる可能性がある。

 もっとも、交通や宿泊施設を整備すれば必ず観光客が増えるというわけでもない。利用者が少ない地域で過大な施設整備を行えば、維持管理費が自治体や地域事業者の負担になるおそれもある。まず必要なのは、旅行を検討した人がどの段階で断念したのか、どのような障害を感じたのかを調べ、その結果に応じて費用対効果の高い対策を選ぶことである。

 長い間、「地方には魅力があるのに発信できていない」と言われてきた。しかしSNS時代には、魅力を伝えることには成功しているのに、現実の地域側がその関心を十分に受け止められないという、逆方向の問題も考えなければならない。

本当に人が集まっているかは、別の数字が教えてくれる

 では、町に本当に人が集まっているかを知りたければ、何を見ればよいのだろう。

 残念ながら、答えはSNSの画面ほど華やかではない。観光入込客数だけでなく、宿泊客数、交通機関の利用状況、滞在時間、地域内の消費額、再訪率など、異なる数字を重ね合わせる必要がある。

 年間100万人が訪れても、短時間で通過し、地域ではほとんど消費しない町があるかもしれない。その一方で来訪者が20万人でも、数泊して地元の宿や飲食店を利用する人が多ければ、地域経済への影響は大きくなる可能性がある。

 ただし、ここでも単純な人数や消費額だけでは判断できない。観光客が地域の宿泊施設に支払った料金のうち、地元の雇用、地元産品の仕入れ、地域事業者の利益などとして残る金額がどれほどあるかによって、地域経済への実質的な貢献は変わるからである。

 さらに、観光客の増加によって道路の混雑、公共施設の維持管理費、自然環境への負荷、住民生活への負担などが大きくなる場合もある。地域にとって望ましい観光の姿は、単に最大限の人数を呼び込むことではない。地域の所得や雇用を改善しながら、住民の暮らしと観光を両立できるかどうかも重要になる。

 近年では、携帯電話の基地局情報やGPS(Global Positioning System・全地球測位システム)などの位置情報を利用し、人がどこから来て、どこに滞在し、どのように移動したのかを分析する方法も広がっている。従来の「何人来たか」という数字に加えて、「どんな動きをしたか」を見る方向へ、地域分析の手法は変わりつつある。

 もっとも、人流データも万能ではない。携帯電話の保有状況、利用サービス、位置推定の精度、滞在の判定方法などによって結果が左右されることがあり、得られた数字をそのまま実際の人数とみなせるとは限らない。個人情報の保護にも配慮し、統計的な偏りを理解した上で利用する必要がある。

 こうなると、観光政策で本当に知りたい数字も変わってくる。町を知った人が何人いるのかだけではなく、そこから何人が興味を持ち、実際に訪れ、何時間滞在し、どの地域を歩き、いくら使い、何年後に戻ってきたのか。その連続した流れを可能な範囲で捉えなければ、情報発信の成果が地域の成果に結び付いたのかどうかは分からない。

SNSの誘客効果は、どうすれば確かめられるのか

 ここで、もう少し踏み込んで考えてみたい。ある自治体のフォロワー数が増え、同じ時期に観光客も増えたとすれば、それはSNSの成功によるものなのだろうか。

 答えは、必ずしもそうではない。

 もともと観光資源が豊富で知名度の高い町は、観光客数もフォロワー数も多くなる可能性がある。また、大型イベントやテレビ番組で地域が紹介されれば、観光客とフォロワーが同時に増えることも考えられる。この場合、二つの数字が同じ方向に動いたとしても、SNSが観光客を増やしたとは証明できない。

 反対に、訪れた人が旅行の思い出として公式アカウントをフォローすることもある。観光客が増えたからフォロワーも増えるという、逆方向の関係が成立する場合もあるのである。

 統計学では、二つの変数が一緒に変化することを相関と呼ぶが、それだけで一方が他方の原因だと判断することはできない。SNSの発信が観光客を増やしたのか、それとも観光客が多いからSNSのフォロワーが増えたのかを区別するには、より慎重な分析が必要になる。

 例えば、全国の複数の自治体について、数年分のフォロワー数、閲覧状況、観光客数、宿泊客数、人口、交通利便性、宿泊施設の規模、観光資源、イベント、天候などのデータを収集する方法が考えられる。その上で、自治体ごとの変わりにくい特徴や全国共通の年次変動を統計的に調整し、SNSの変化と観光需要の関係を調べるのである。

 さらに、ある広報施策を始めた自治体と、条件の近い自治体を比較すれば、施策導入前後にどのような違いが生じたのかを検討できる。ただし、こうした分析でも観測できない要因の影響が残るため、観察データだけで完全な因果関係を証明できるとは限らない。

 実務的には、公式SNSから観光案内ページへのアクセス数、交通案内の閲覧数、予約ページへの移動数、実際の予約件数などを測る方法もある。しかし、それらの数字だけでは、SNSを見なかった場合にも予約した人が何人いたのかは分からない。情報発信の効果を正確に評価するには、施策がなかった場合との比較を意識する必要がある。

 少なくとも、南伊勢町、軽井沢町、箱根町という性格の異なる三つの町を並べただけで、全国の自治体公式SNSと観光客数の間に相関がある、あるいは相関がないと結論づけることはできない。この三つの事例が教えてくれるのは、異なる指標を安易に同一視してはならないということであって、全国的な因果関係についての答えそのものではないのである。

それでもSNSには、従来の統計にはないものが映っている

 ここまで数字の限界を書いてくると、自治体SNSのフォロワー数など見ても仕方がないように感じられるかもしれない。しかし、そうではない。SNSには、従来の観光統計では捉えにくかった人々との接点が映っている。

 観光入込客数が数えるのは基本的に、すでに地域へ来た人である。しかしSNSには、町を知ったばかりの人、まだ訪れたことはないが興味を持っている人、以前訪れて好感を持った人、故郷を離れて暮らしている人、遠くから町を応援している人も含まれる可能性がある。

 もちろん、フォロワー数だけでは、それぞれが何人いるのかは分からない。未訪問者、観光経験者、出身者、町民などの構成を把握するには、フォロワーへの調査や適切な分析が必要になる。それでも、住民と観光客という二つの区分だけでは収まらない人々との接点を持てることは、SNSの重要な特徴である。

 近年の地域政策では、移住して定住する人でもなく、一度だけ訪れる観光客でもない、地域と継続的に多様な形で関わる人々を「関係人口」として捉える考え方がある。住んではいないが毎年訪れる人、地元の商品を継続して購入する人、地域活動に参加する人、ふるさと納税を通じて地域を応援する人などは、その関わり方によって地域の重要な支え手になり得る。

 ただし、SNSのフォロワーをそのまま関係人口として数えることは適切ではない。一度フォローしただけで、その後に投稿を見ていないアカウントもあるだろうし、地域との継続的な関わりが存在しない場合もある。フォロワー数は、関係人口の実人数というより、将来的な関係が生まれる可能性を持った接点の規模と捉える方が正確である。

 この点で、南伊勢町の情報発信は興味深い。町の景観や特産品だけでなく、日々の暮らしや地域の人々を継続して紹介することは、単なる観光宣伝とは異なる関わりを生み出す可能性がある。たとえすぐには観光客数へ反映されなくても、地域への理解や親しみ、継続的な関心を育てているのであれば、それ自体が広報活動の一つの成果となり得る。

 ただし、そうした効果が実際にどれほど生まれているのかは、フォロワー数だけからは判断できない。投稿に接した人の意識がどう変化したのか、地域との関わりが継続したのかを確認して初めて、広報活動の質的な成果が見えてくる。

自治体は、何を成功と呼ぶべきなのか

 もう一つ考えておきたいのは、そもそも自治体の公式SNSは、観光客を増やすためだけに存在しているわけではないということである。

 住民に防災情報を届けること、行政制度の変更を知らせること、地域行事への参加を促すこと、移住希望者に生活情報を提供すること、町外へ観光の魅力を伝えること。自治体によって発信の目的は異なり、一つのアカウントが複数の役割を持つ場合もある。

 例えば、防災情報を確実に住民へ届けることを目的とするアカウントなら、全国から多くのフォロワーを集めることより、必要な住民が情報を受け取れることの方が重要である。観光情報の発信を目的とする場合には、認知度や閲覧数に加えて、旅行の検討、来訪、宿泊、地域消費などへのつながりを評価する必要がある。

 移住促進を目的とするなら、さらに異なる指標が求められるだろう。移住相談件数、現地見学者数、移住者数だけでなく、移住後の定着状況や生活満足度も重要になる。フォロワーが何万人に増えても、地域に暮らす人々の課題が解決するとは限らないのである。

 また、自治体の施策には費用が伴う。情報発信のための職員の作業時間、外部委託費、広告費などを考えれば、フォロワー数を増やすこと自体がどれほどの価値を持つのかも検証しなければならない。ただし、行政広報には防災や住民の知る権利を支える役割もあるため、すべての効果を観光消費額や金銭的な収益に換算すればよいというものでもない。

 大切なのは、最初に何を達成したいのかを明確にし、その目的に合った数字で成果を評価することである。目的が違う自治体を、フォロワー数だけで一列に並べても、そこから得られる政策的な知見は限られる。

 地域の情報発信力を高めること、観光客を呼ぶこと、地域内の消費を増やすこと、住民の暮らしを良くすること。これらは互いに関係しているが、決して同じ目標ではない。自治体の成功を考えるには、それぞれを区別しながら、どのようにつながっているのかを見ていく必要がある。

「人気の町」という言葉を、一度疑ってみる

 自治体公式SNSで人気の町と、実際に人が集まる町は同じなのか。

 現時点の事例だけから、全国の自治体について両者が一致するとも、一致しないとも結論づけることはできない。それを確かめるには、多数の自治体を対象として、同じ期間のフォロワー数や閲覧状況、観光客数、宿泊客数、人口、交通、宿泊施設、大都市圏からの距離、観光資源、投稿頻度などを比較する必要がある。

 さらに、SNSの人気が高まったから観光客が増える場合もあれば、もともと観光客の多い町だからSNSのフォロワーも増える場合がある。二つの数字が同じ方向に動いても、どちらが原因なのか、あるいは別の要因が両方を動かしたのかは、単純な数字の比較では分からない。

 南伊勢町の公式Instagramにおける2026年8月時点の1万3840というフォロワー数と、軽井沢町の2024年の約800万という観光客利用者延数と、箱根町の2025年の約2112万という入込観光客数は、一見するとすべて「人気」を表す数字に見える。しかし実際には、それぞれ違う対象を、違う方法で、違う時期に測定した数字である。

 これらをそのまま一列のランキングに並べることはできない。比較するのであれば、何を数えた数字なのか、どのような集計方法なのか、何を成果として評価したいのかを、最初に明らかにしなければならない。

 南伊勢町では、2024年に観光客総数が減少する一方で、宿泊客数は増加していた。軽井沢や箱根では、長い年月をかけて形成された観光基盤が、多くの来訪者を受け止めている。そして自治体公式SNSは、これまで地域と接点のなかった人にも、その町の日常や魅力を届けられるようになっている。

 それぞれの現象は、どれか一つが優れていて、ほかが劣っているという関係ではない。情報発信の成果、観光需要の規模、地域経済への貢献、住民生活への影響は、それぞれ異なる数字で評価する必要があるのである。

 画面の中では、人口1万人に満たない小さな町でも、一枚の美しい写真によって多くの関心を集めることができる。しかしスマートフォンを閉じれば、その町には道路があり、バス停があり、店があり、宿があり、そこで暮らしている人がいる。情報が届く範囲を広げることと、人が実際に移動し、地域で時間を過ごし、消費し、再び関わることは、別の現象なのである。

 「いいね」が増えることと、町に人の足音が増えることは同じではない。けれど、その二つの間にある距離を丁寧に調べることができれば、なぜ人が町を知り、なぜ行こうと思い、なぜ実際に訪れ、あるいはなぜ画面の中で引き返すのかが少しずつ見えてくるはずだ。

 そして、その距離を知ることは、単に観光客を増やす方法を考えるためだけではない。誰に町を知ってほしいのか、どのような関係を築きたいのか、地域の限られた資源をどこに使うべきなのかを考えることにもつながっていく。

 自治体公式SNSの本当の価値は、フォロワー数の大きさだけでは測れない。画面の中で生まれた関心が、地域の現実とどのように結び付き、人々の行動や暮らしに何をもたらすのか。その過程を確かめることにこそ、これからの地域分析と自治体広報に求められる視点があるのではないだろうか。

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オーバーツーリズムの逆説

 観光地に暮らしている人は、その土地を観光客とはまったく違う方法で知っている。どの道が近いか、どの店なら昼休みにすぐ入れるか、どの時間ならバスが空いているか、桜が咲けばどこが渋滞し、紅葉が始まればどの道を避けた方がよいかまで、観光案内には載らないもう一枚の地図を頭の中に持っている。

 ところが観光地の人気が高まっていくと、その知識の意味が少しずつ変わることがある。以前なら「地元を便利に使うための知識」だったものが、いつの間にか「地元の混雑を避けるための知識」へ変わっていくのである。休日には駅前へ行かない。紅葉の季節にはあの道を使わない。昼時には観光客の多い店を避ける。観光シーズンには中心部へ出る時間そのものを変える。町から引っ越したわけではないのに、住民の日常生活から町の一部が少しずつ遠ざかっていく。

 オーバーツーリズムという言葉から、多くの人は狭い通りを埋め尽くす旅行者、満員のバス、長い行列を思い浮かべる。しかし、観光客が増えることそのものだけでなく、その結果として、そこに暮らしている人々の行動がどのように変わるのかという問題も重要である。観光客数が増えている一方で、地元住民が以前ほどその場所を利用しなくなっているとすれば、従来の観光統計だけでは十分に捉えられない変化が起きていることになる。

 もっとも、観光地の人気が高まれば必ず住民が地元を避けるようになる、というわけではない。観光は地域の交通、商業、雇用、文化施設などを充実させ、住民にも利益をもたらす。問題になるのは、観光による利益と負担が、地域や時間帯、住民の属性によって大きく異なる場合である。観光によって豊かになる町と、日常生活で使いにくくなる町は、同じ場所に同時に存在し得るのである。

観光地なのに、地元の人が行かない

 京都の紅葉シーズンを考えてみたい。東福寺や嵐山のような有名観光地には全国から多くの人が訪れるが、混雑する時期になると、京都に暮らす人の中には「あの辺りには近づかない」と考える人もいる。実際、2022年11月22日の京都市長の記者会見でも、紅葉期の東福寺周辺について、その時期には近づかないようにしている市民がいるという趣旨の発言がなされている。

 ただし、この発言には注意すべき点がある。市長は同時に、東福寺周辺の紅葉期の混雑が戦後間もない頃から続いていることにも言及していた。したがって、この発言は住民による混雑回避が存在することを示しているが、それが近年の観光客増加によって新たに発生した現象であることまで証明するものではない。観光地における回避行動には、長年続いてきた生活上の知恵と、近年の観光需要の拡大に伴う新しい変化の両方が含まれている可能性がある。

 同じような行動は、京都以外の観光地でも考えられる。海水浴場のある町では夏の海岸道路を避け、花火大会の日には中心部へ車で出ない。大型連休には観光地周辺へ買い物に行かず、普段とは違うスーパーを使う。こうした一つ一つの行動は、大げさな抗議でも観光への敵意でもない。ただ生活を少し楽にするための、合理的な選択である。

 しかし、その選択が毎年繰り返されるようになると話は変わる。本来なら町の魅力であるはずの場所ほど、地元の人が利用を控えるという逆転が生じる可能性があるからである。観光客にとって「一生に一度訪れたい場所」が、住民にとっては「混んでいるから今日はやめておこうという場所」になる。この違いは、観光地としての評価と生活空間としての使いやすさが、必ずしも一致しないことを示している。

京都市民は、観光を嫌っているのか

 だからといって、京都市民が観光そのものを嫌っていると考えるのは正しくない。

 京都市が2024年に実施した京都観光に関する市民意識調査では、回答者の70.6%が、観光は京都市の発展に重要な役割を果たしていると考え、65.8%が京都が観光で評価されることに誇りを感じていた。観光都市としての京都を肯定する意識は、決して低くない。

 ところが同じ京都で、観光による生活上の負担も強く認識されている。2025年の市民意識調査では、回答者の70.6%が一部の観光地やその周辺の混雑に迷惑していると答え、バスや地下鉄などの混雑に迷惑している人は63.8%、道路渋滞では55.9%に達した。観光地の混雑、公共交通の混雑、道路渋滞、観光客のマナー違反のいずれか一つ以上について迷惑している人は79.9%だった。

 2025年調査の有効回答数は2,745人である。仮に単純無作為抽出で回答者に偏りがないとすれば、70.6%という割合の標本誤差は95%信頼水準でおおむね±1.7ポイントとなる。ただし、これは調査の実際の標本設計や重み付けを完全に反映した推定ではない。回答しなかった人が回答者と異なる考えを持っている可能性もあり、統計的な誤差の小ささだけで調査結果に偏りがないことを保証することはできない。

 それでも、相当数の市民が観光に伴う混雑を生活上の負担として認識しているという傾向は、無視できるものではない。

 さらに興味深いのは、観光の重要性を認めることと、観光による迷惑を感じることが、同じ人の中でも両立し得るという点である。2025年調査では、観光が京都市の発展に重要だと考える割合が70.1%、観光に関連する四つの項目のうち一つ以上で迷惑を感じている割合が79.9%だった。

 ここで、両方の割合が同じ回答者集団を母数としていると仮定すると、集合の包含排除の原理から、両方に該当する割合には数学的な下限が存在する。70.1%と79.9%を足して100%を差し引くと50.0%となるため、少なくとも約半数が、観光の重要性を認めながら何らかの迷惑も感じている計算になる。厳密な重複割合を知るには、設問ごとの有効回答者や重み付けを確認したうえで、個人単位の回答を照合する必要があるが、観光への肯定的評価と生活上の負担が大きく重なり得ることは数学的にも説明できる。

 「世界中の人が京都へ来てくれるのはうれしい。しかし自分が通勤するときにはバスへ乗れるようにしてほしい」「町が評価されることは誇らしい。しかし休日に自分たちが歩けないほど混雑するのは困る」という感情は、十分に両立するのである。

 一方で、2025年調査では京都市への愛着を持つ人の割合も73.8%だった。観光による迷惑を認識する市民が多いからといって、京都という都市そのものへの愛着が失われていると判断することはできない。特定の観光地を避けること、観光政策に不満を持つこと、京都に愛着を持つことは、それぞれ別の次元の問題なのである。

 観光問題を「観光客を歓迎する人」と「観光客を嫌う人」という二つの陣営に分けてしまうと、住民の現実的な感覚を見失ってしまう。多くの住民にとって重要なのは、観光客を排除することではなく、観光と日常生活が同じ町の中で無理なく共存できることであると考えられる。

人は強い不満を表明する前から、行動を変えることがある

 この問題を理解するうえで重要なのは、人間が必ずしも「もう我慢できない」と声を上げてから行動を変えるわけではないということである。道路が混んでいれば一本裏の道へ回り、昼時に混む店なら少し早く行き、駅前が混んでいれば別の場所で買い物をする。そうした調整を何度か繰り返すうちに、新しい行動が習慣になることがある。

 2026年に発表されたスペイン・バルセロナの観光混雑地域を対象とする研究では、こうした住民の行動が実際に報告されている。ゴシック地区、バルセロネータ、サグラダ・ファミリア周辺で行われた研究では、歩行に同行する方法を含む44件の聞き取り調査を通じて、住民が観光客との混雑を避けるため、移動する時間や経路、利用する交通手段を変更していることが明らかにされた。

 この研究が示すのは、住民による混雑回避が単なる想像ではなく、実際に観察される行動だということである。ただし、44件の聞き取りから、バルセロナ市民全体の何%がこうした行動を取っているかを推定することはできない。調査は、行動変化の存在や背景を理解するうえで重要だが、住民全体における発生頻度を確定する大規模な統計調査とは性格が異なる。

 また、行動変化が不満の発生より前に起きるのか、それとも既に感じている小さな不満を減らすために行われるのかについても、慎重に考える必要がある。実際には、混雑による不便を感じ、それを避ける行動を取り、その行動によって強い不満が表面化しなくなるという過程も考えられる。

 朝なら通れた道が昼には観光客で埋まるなら、午前中に用事を済ませる。混んでいる通りがあるなら裏道を使い、バスが満員なら鉄道や自家用車に切り替える。その一つ一つは合理的な適応だが、長期間積み重なれば、住民が使う町と観光客が使う町の地理が少しずつ分かれていく可能性がある。

 住民が町から後退するとは、必ずしも住民票を移すことを意味しない。自分の町の一部を日常生活の選択肢から外すことも、広い意味では生活空間の利用が縮小する現象と考えられる。ただし、混雑を避けた結果、別の便利な場所を利用するようになったのであれば、それが必ずしも生活の質の低下を意味するとは限らない。重要なのは、自由な選択による利用先の変更なのか、混雑のために望まない変更を余儀なくされているのかという違いである。

観光客の地図と住民の地図

 こう考えると、観光客が特定の場所に集中する町には、目に見えない二種類の地図が存在することになる。

 一枚は観光客の地図である。有名な寺社、写真を撮る場所、人気飲食店、土産店、駅から観光地までの道が太い線で結ばれている。もう一枚は住民の地図である。スーパー、病院、学校、役所、日用品店、いつも使う道路、空いている時間帯が中心になる。その地図では、有名観光地が必ずしも重要な場所とは限らず、むしろ「休日は通らない場所」「夏は避ける道路」「昼には行かない店」という印が付いていることさえある。

 もともと観光客と住民では、訪問の目的や行動する時間帯が違う。したがって、両者の地図が異なること自体は不自然ではない。問題になるのは、以前は住民が普通に利用していた場所が、観光混雑によって使いにくくなり、望まない経路変更や利用中止が生じる場合である。

 物理的には一つの町でありながら、観光客と住民が異なる時間帯、異なる道路、異なる店舗を選ぶようになると、町は機能的に二重化する可能性がある。ただし、その程度は観光客数だけで決まるわけではない。道路の広さ、公共交通の輸送力、観光施設の配置、住宅地との距離、観光客の滞在時間などによって、住民への影響は大きく変わる。

 観光客が多くても、住民の日常動線と観光動線が適切に分離されていれば、生活への影響を小さくできる場合がある。逆に、それほど巨大な観光地でなくても、住民が利用する一本の道路や一つのバス路線に観光客が集中すれば、生活上の負担は大きくなる。

 そして、観光客の地図と住民の地図が大きく離れていくと、一つの疑問が生まれる。観光客が見に来ている「その土地らしさ」は、いったい誰によって維持されているのだろうか。

「地元の店」は、閉店しなくても住民から遠ざかる

 この問題は道路や交通だけではない。

 たとえば地元の人が長く利用していた食堂が旅行情報や映像で紹介され、観光客の行列ができるようになったとする。店にとっては大きな成功であり、地域経済にとっても歓迎すべきことだろう。しかし、それまで昼休みに十五分で食事ができた地元客にとって、四十分並ばなければ入れない店は、以前と同じようには使えない。さらに営業時間、価格、メニューまで観光客向けに変われば、生活者にとっての利用価値は低くなる可能性がある。

 店は閉店していない。それどころか以前より繁盛している。しかし地元の人から見れば、日常的に利用できる店を一軒失ったことと似た現象が起こる。店の売上高が増加していても、それが住民の利便性向上を意味するとは限らないのである。

 ここに観光地特有の逆説がある。人口減少地域では店がなくなることが問題になるが、人気観光地では店が存在し、売上も伸び、人も集まっているのに、住民が日常的には利用しなくなることがある。統計上は繁栄しているのに、生活者が使える町の選択肢は狭くなっているかもしれない。

 観光地化によって商店の性格が変わり、日用品を扱う店が飲食店、宿泊施設、土産物店などへ置き換わっていく現象は、観光研究でも指摘されてきた。2024年に発表された香港を対象とする研究では、観光地化と小売店舗の多様性との関係について、差の差法を含む実証的な分析が行われている。また、2025年に発表された都市の商業環境に関する研究でも、観光地化が地域の商業活動や住民の生活環境に与える影響が検討されている。

 ただし、商店街の変化をすべて観光客の増加だけで説明することはできない。地価や家賃の上昇、人口構成の変化、インターネット通販の普及、住民の消費習慣の変化、後継者不足なども店舗構成に影響する。観光による店舗転換の影響を調べるには、観光客が多い地区と比較可能な地区について、店舗の種類や利用者構成がどのように変化したかを追跡する必要がある。

 地域経済を分析するときには、店舗数や売上高だけでなく、「誰がその店を使っているのか」を見ることが重要になる。観光客による消費額が増加している一方で、住民の日常的な買い物環境が悪化しているなら、その二つの変化を別々の指標として把握しなければならない。

住民は地元から心理的にも離れていくのか

 観光混雑がもたらす変化は、物理的な回避行動だけとは限らない。

 2026年には、京都の長期居住者を対象として、オーバーツーリズムが住民の心理や場所への愛着にどのような影響を与えているかを調べた研究が発表されている。この研究は38人への詳細な聞き取りと関連資料の分析を中心とした質的研究であり、その結果を京都市民全体へそのまま一般化することはできない。しかし、観光による経済的利益を認識しながらも、生活空間の変化や心理的ストレスを感じ、変化した場所との心理的な距離が生まれる場合があることが報告されている。

 この研究で重要なのは、観光客の存在だけが住民の心理的負担を生み出しているわけではないという点である。行政の説明不足、観光政策への住民参加の不足、観光による利益がどのように地域へ還元されているのかという不透明感も、住民の不満や心理的負担と関係していることが論じられている。

 人はある場所へ行かなくなるだけでなく、その場所を「自分たちの日常の場所」と感じなくなることがある。かつて子どもの頃に遊んだ通りが観光客で埋まり、日用品店だった場所が宿泊施設や飲食店へ変わり、昔から通っていた店に行列ができる。街並みそのものは残っていても、自分が使ってきた町とは違う場所になったように感じる人がいても不思議ではない。

 もっとも、特定の観光地に心理的な距離を感じることと、都市全体への愛着が弱まることは同じではない。京都市の市民意識調査でも、観光混雑への不満と京都市への愛着が同時に確認されている。市民は京都を大切に思いながら、その一部の場所について、以前とは異なる印象を持つことがあるのである。

 観光地としての知名度が上がるほど、住民にとって心理的に遠い場所になるとすれば、これは皮肉な現象である。ただし、そのような関係がすべての観光地に共通するかどうかについては、地域ごとの比較研究が必要である。

京都市民自身は、京都を観光しなくなっているのか

 京都市の調査には、今回の問題を考えるうえで非常に興味深い数字がある。

 市民自身が半年に一回以上、京都市内を観光している割合は、2023年の44.9%から2024年には44.3%となり、2025年には39.6%へ低下している。2023年と2025年を比較すると5.3ポイントの低下であり、2024年から2025年に限っても4.7ポイント低下した。

 しかし、調査対象期間をさらにさかのぼると、2021年は38.2%、2022年は36.6%だった。つまり、2025年の39.6%は2023年や2024年より低いものの、2021年や2022年よりは高い。2023年を起点とすれば低下傾向が見えるが、2021年からの推移では、いったん上昇した後に低下した形になる。長期的に一貫して京都市民が市内観光から離れている、とまでは言えないのである。

 統計的な違いも確認しておきたい。2024年調査の有効回答数は1,721人、2025年調査は2,745人である。両年の回答が独立した単純無作為標本であり、設問条件が同じであると仮定すると、44.3%と39.6%の差である4.7ポイントについて、標準誤差は約1.52ポイントとなる。単純な計算による95%信頼区間では、低下幅はおおむね1.7~7.7ポイントに相当し、偶然の標本変動だけでは説明しにくい差となる。

 ただし、この計算には重要な制約がある。京都市の調査では居住区や性別などに応じた重み付け補正が行われており、回答率も2024年の34.8%から2025年には49.9%へ変化している。設問構成の変更による影響も考えられるため、重み付けを反映した分散推定や回答者構成の確認なしに、厳密な統計的有意性を断定することは避けるべきである。

 さらに、この調査は同じ市民を三年間追跡したものではない。市内観光頻度の変化には、物価、年齢構成、生活習慣、所得、天候、娯楽の変化など、さまざまな要因が関係している可能性がある。観光客の増加によって京都市民が京都観光を控えるようになったという因果関係は、この数字だけから証明することはできない。

 加えて、市内を観光する頻度と、通勤、買い物、通院などのために市街地へ出かける頻度は異なる。市民が京都市内の観光施設を訪れなくなったとしても、それだけで中心部の日常的な利用が減ったと判断することはできない。今回の問題を直接検証するには、観光目的の訪問だけでなく、生活目的の訪問頻度や経路変更についても調べる必要がある。

 それでも、この数字には研究上の価値がある。世界中から京都を見ようと人が集まる一方で、市民自身の市内観光頻度には近年の低下が確認されている。この二つの変化が偶然並んでいるだけなのか、それとも観光混雑が何らかの影響を与えているのかは、今後検証する価値のある問いである。

観光客が増えると、住民はなぜ地元を避けるのか

 住民の行動を、経済学や数理的な考え方から説明することもできる。

 人がある場所へ行くかどうかは、その場所から得られる楽しさや利便性と、そこへ行くために必要な時間、費用、混雑、疲労などを比較して決めると考えられる。経済学では、このような利益と負担をまとめて評価する考え方を効用と呼ぶ。地元の施設を利用することで得られる利益から、移動時間、待ち時間、費用、混雑による不快感などの負担を差し引いたものを、地元利用の純効用として考えることができる。

 仮に、地元中心部へ行くことで得られる利益をB、移動や混雑などによる負担をCとすれば、純効用はBからCを差し引いたものとして表せる。別の地域へ行く場合にも同じ計算ができ、地元中心部を利用する純効用が代替先より低くなれば、住民が別の場所を選ぶことは合理的な判断になる。

 観光客が増え始めた初期には、地域に新しい店ができ、交通が便利になり、街並みが整備されることで住民側の利益も増える可能性がある。一方、観光客が特定の時間帯や場所に集中し始めると、渋滞、行列、待ち時間、騒音、公共交通の混雑などの負担が増加することがある。観光客数の増加によって利益が増える段階から、混雑による負担の増加が優位になる段階へ移れば、住民にとって地元中心部の利用価値が低下する可能性がある。

 この関係は、必ずしも直線的ではない。観光客が少し増えただけでは生活上の影響がほとんど生じなくても、交通機関や道路の容量に近づくと待ち時間が急増する場合がある。逆に、公共交通の増便や観光客の分散によって混雑が緩和されれば、観光客数が増えても住民の負担を抑えられる可能性がある。

 したがって、何人の観光客が来れば住民が地元を避け始めるかという境界は、地域ごとに異なると考えるべきである。その境界を知るためには、観光客数だけでなく、道路や交通機関の容量、施設の利用目的、住民の移動手段、代替施設の有無などを調べなければならない。

 また、住民の行動は時間や費用だけで決まるわけではない。長く通っていた店への愛着、地域の文化的価値、人間関係、混雑に対する個人の感じ方なども影響する。経済合理性による説明は有効だが、人間の行動を完全に説明できるわけではないのである。

住民感情は単純な一本道ではない

 観光研究では古くから、観光客の増加と住民感情の関係を説明するモデルが考えられてきた。

 代表的なのが、ジョージ・ドクシーによるIrridex(Irritation Index・観光客増加に伴う住民感情の変化を説明する概念モデル)である。このモデルでは、観光客がまだ少ない段階では歓迎され、観光が日常化すると反応が薄れ、さらに観光による負担が高まると苛立ちや反発が強くなる可能性が示されている。

 ただし、これは観光地が必ず同じ順序をたどるという法則ではない。観光産業で働いている人と観光とは無関係の仕事をしている人では利益と負担の感じ方が異なる。観光客が集中する地区と離れた地区でも認識は違い、行政が混雑を適切に管理できているか、観光収入が地域へ還元されているか、観光客のマナーが良いかといった条件によっても住民の態度は変化する。

 スペイン・マヨルカ島のアルクディアで行われた研究では、2017年に実施された住民調査の有効回答303人を対象に、オーバーツーリズムの認識と住民意識の関係が分析された。その結果、観光過密を強く感じる人ほど、地域を良い居住地だと評価する傾向が弱まり、観光から心理的に距離を取り、繁忙期の観光客削減を支持する傾向が強いことが示された。

 特に、オーバーツーリズムの認識と繁忙期の観光客削減支持との相関係数は0.529だった。一方、オーバーツーリズムの認識と居住地としての評価との相関係数はマイナス0.292、地域からの心理的後退との相関係数は0.450だった。観光過密の認識と住民の意識には、方向や強さの異なる関連が存在することが分かる。

 相関係数0.529を二乗すると約0.280になる。単純な二変量の線形関係に限定すれば、両変数が共有する変動の割合を約28%と解釈できる。ただし、これは観光混雑が観光客削減への支持の28%を引き起こしたという意味ではない。観光過密を強く問題視する人ほど削減政策を支持している可能性もあれば、別の地域特性や個人の価値観が両方に影響している可能性もある。

 また、この研究でも、地域を居住地として好意的に評価する回答者が半数以上存在していた。観光混雑を強く認識していることと、地域全体を否定的に評価していることは同じではない。

 科学的に重要なのは、「観光客が増えれば住民は必ず観光を嫌う」と単純化しないことである。より正確には、観光による生活上の負担が高まり、その負担を十分に管理できない状況では、住民が観光空間から心理的、あるいは行動上の距離を取る可能性があると考えるべきだろう。

本当のオーバーツーリズムは人数だけでは測れない

 では、何人の観光客が来ればオーバーツーリズムになるのだろうか。

 実は、この問いには単純な答えがない。一万人の観光客が訪れても、広い地域へ一日中分散していれば問題が小さい場合がある。一方、数千人しか来なくても、狭い旧市街へ同じ時刻に集中し、住民が使う一本の道路と一つのバス路線に大きな負荷がかかれば、生活への影響は深刻になり得る。

 観光の混雑を考えるうえでは、年間の観光客数だけでは不十分である。どの場所に何人集まっているのか、何時に集中するのか、道路や交通機関がどこまで受け止められるのか、観光客と住民が同じ施設を利用するのか、住民に代替手段があるのかといった条件によって、生活への影響は大きく変わる。

 その意味では、一年間に何百万人が訪れたかという数字より、「土曜日の午後二時に、この一本の道路へ何人が集中しているか」「その時間帯に住民がいつものバスへ乗れるか」という数字の方が、生活上の負担を説明するうえでは重要な場合がある。

 このような考え方は、日本の観光政策とも整合する。観光庁は、観光客が特定の地域や時間帯へ集中することによる住民生活への影響を課題として位置付け、観光客の分散や受け入れ環境の整備を通じて、観光振興と住民生活の両立を図ろうとしている。

 京都市でも、2026年3月に策定された京都観光・MICE振興計画2030において、市民生活と観光の共存、データに基づく政策運営、観光による利益の地域還元などが重要な方向性として示されている。ここでいうMICE(Meetings, Incentives, Conventions and Exhibitions・会議、報奨旅行、国際会議、展示会)は、観光と関連するビジネス交流や国際的な催事を含む概念である。

 また、京都市では2024年6月から観光特急バスが導入され、観光利用を特定の路線へ誘導することで、一般路線における住民の移動負担を軽減する取り組みが進められている。

 ただし、政策が存在することと、その政策によって住民の回避行動が実際に減少したことは別問題である。観光特急バスの利用者数が増加したとしても、それだけで一般路線を使う住民の待ち時間が短縮されたことにはならない。政策の効果を評価するには、実施前後の混雑、住民の乗車可能性、所要時間、経路変更などを確認する必要がある。

 観光の成功を測る物差しは、単純な来訪者数や消費額だけでは十分ではなくなっている。観光による利益を確保しながら、住民の日常生活に必要な交通や商業機能を維持できているかどうかも、政策評価に含める必要があるのである。

観光統計には住民の日常的な回避行動が映りにくい

 現在の観光統計が比較的得意としているのは、観光客側の行動を測ることである。何人訪れたのか、何泊したのか、いくら使ったのか、ホテルの稼働率は何%だったのか。こうした数字は、観光政策や地域経済の分析に広く利用されている。

 もちろん、住民の意識や生活上の負担を測る調査が存在しないわけではない。京都市の市民意識調査のように、観光への評価、混雑への不満、市民自身の市内観光頻度などを継続的に調べている自治体もある。しかし、「去年まで毎週駅前へ行っていた住民が、今年から月に一回しか行かなくなった」という変化や、混雑を避けるために外出時間を変えた人、観光客の多い道を通らなくなった人、昔から利用していた店へ行かなくなった人の行動を、継続的に捉えられる統計は十分とは言い難い。

 行政への苦情件数だけで住民の負担を測ることにも限界がある。混雑を避けられる人は、苦情を言う代わりに経路を変えたり、外出時間を調整したりすることができるからである。反対に、通勤、通学、通院などで経路や時間を自由に変えられない人は、同じ混雑からより大きな負担を受ける可能性がある。

 つまり、苦情を申し立てた人の数が少ないからといって、地域の生活上の問題が小さいとは限らない。行政からは大きな問題が表面化していないように見える時期から、住民の行動には既に変化が生じている可能性がある。

 もし観光地の状態をより正確に測るなら、「観光客が何人来たか」だけでなく、「地元住民がその場所をどのくらい利用しているか」「利用をやめた理由は何か」「混雑によってどれだけ時間や費用が増えたか」といった指標も必要になる。

 たとえば、住民の中心部訪問率、商店街の地元客比率、公共交通の乗車待ち時間、観光シーズン中の経路変更率、市民自身の観光施設利用頻度、場所への愛着の変化などを継続的に追えば、現在の観光客数や売上高では見えにくい生活上の変化を把握できるだろう。

 ただし、住民の中心部訪問率が低下したとしても、その原因が観光混雑とは限らない。郊外への商業施設の移転、人口の高齢化、インターネット通販の普及、住宅地の変化などによっても同じ現象は生じる。回避行動を観光の影響として分析するには、訪問頻度の変化に加えて、その理由を確認する必要がある。

住民の回避行動は、どのように検証できるのか

 人気観光地ほど住民が地元を避けるようになるのか。この問いに科学的に答えるには、観光客数と住民の行動を同時に観測する必要がある。

 最初に必要なのは、住民が実際にどの程度回避行動を取っているのかを把握することである。調査票で「混雑を理由に普段利用する道路を変更したか」「外出する時間を変えたか」「以前利用していた店舗への訪問を控えたか」などを尋ねれば、住民の回避行動を直接測定できる。

 次に、観光客の集中度と住民の回避行動との関連を調べる。地域ごとの観光客密度、公共交通の混雑、道路の交通量などを説明要因として、住民が回避行動を取る確率との関係を推定するのである。このとき、年齢、居住年数、就業形態、自家用車の利用可能性、観光産業への就業の有無なども考慮する必要がある。同じ混雑であっても、通勤する人、子育て世帯、高齢者、観光産業で働く人では、行動の変化が異なる可能性があるからである。

 さらに因果関係を検証するには、観光混雑が大きく変化した地区と、比較可能な地区を対象に、変化の前後を調べる方法が考えられる。差の差法と呼ばれる分析では、観光需要の変化が大きい地域と小さい地域について、それぞれの住民行動がどの程度変化したかを比較する。ただし、この方法で因果効果を推定するには、観光需要の変化がなかった場合には両地域が似た傾向をたどったと考えられることなど、重要な条件を検証しなければならない。

 同じ住民を継続的に追跡する調査も有効である。観光期と通常期の行動だけでなく、数年間にわたる変化を把握できれば、一時的な混雑回避なのか、日常的な利用習慣そのものが変わったのかを区別しやすくなる。

 また、住民が混雑を避けて別の地域を利用するようになった場合、その変更が不便をもたらしたのか、それともむしろ便利になったのかを確認することも必要である。行動が変わったこと自体を損失とみなすのではなく、住民が負担した追加の時間や費用、利用できなくなった施設の価値、生活の満足度などを併せて評価しなければならない。

 このように考えると、オーバーツーリズムの研究は、観光客数を調べるだけでは終わらない。交通工学、都市経済学、統計学、行動科学、地域政策などを組み合わせ、住民の日常生活がどのように変化したかを明らかにする研究へ発展させることができるのである。

京都だけではない、地方観光地にも共通する問題

 この問題は、京都やバルセロナのような国際的な観光都市だけに限られるものではない。

 千葉県の房総地域を考えてみても、御宿町の海水浴期、勝浦市の観光イベント期、沿岸部の大型連休など、特定の時期に観光客が集中する場所がある。観光客の絶対数が京都ほど多くなくても、道路や駐車場の容量が小さく、公共交通の代替手段が限られている地域では、局所的な混雑が住民生活に影響する可能性がある。

 特に地方の観光地では、住民の移動が自家用車に依存している場合が多い。通勤、通院、買い物などに利用する道路が観光客の移動経路と重なれば、観光シーズンの交通渋滞は日常生活の所要時間に直接影響する。都市部のように鉄道や地下鉄へ簡単に切り替えられない地域では、道路の混雑が生活上の負担となりやすい条件が存在する。

 一方で、人口減少地域においては、観光需要が飲食店や小売店の経営を支え、住民が利用できる施設の存続に貢献している可能性もある。観光客が増えることで店が繁盛し、地元住民も引き続きその店を利用できるなら、観光と住民生活は互いに利益をもたらす関係になる。

 したがって、地方観光地では観光による負担だけを測るのではなく、観光需要が地域の商業施設や公共交通の維持にどれだけ貢献しているかも調べる必要がある。観光客の増加によって地元の店が使いにくくなる場合もあれば、観光客が来るからこそ、その店が存続できている場合もあるからである。

 御宿町や勝浦市などを分析する際にも、京都の研究結果をそのまま当てはめることはできない。観光期と通常期の交通量、買い物行動、住民の中心部訪問頻度、店舗の利用者構成などを比較し、それぞれの地域において、観光の利益と生活上の負担がどのように分布しているかを確認する必要がある。

 観光地の規模より重要なのは、観光客が地域のどこに集中し、その場所を住民が日常的にどの程度利用しているかという点である。

観光地として成功し、生活する町として失敗することはあるのか

 人気観光地ほど住民は地元を避けるようになるのかという最初の問いに戻ろう。

 現在の研究や統計から言えるのは、「観光地の人気が高ければ、住民が必ず地元を避けるようになる」ということではない。観光客が多くても、交通に余裕があり、観光客が地域や時間帯へ適切に分散され、生活に必要な店舗や交通が維持され、観光による利益が住民にも還元されていれば、観光の発展と暮らしやすさは両立し得る。

 逆に、それほど巨大な観光都市でなくても、狭い地域へ短期間に大量の観光客が集中すれば、住民に大きな負担が生じる可能性がある。したがって問題なのは、観光客の絶対数だけではなく、観光需要がどのように集中し、地域社会がそれをどの程度受け止められているかということである。

 観光による地域経済への利益も、一つの数字で測れるものではない。宿泊施設や飲食店の売上が増加しても、利益が地域外へ流出していれば、住民に還元される効果は限定的かもしれない。一方、観光によって雇用や税収が増え、公共交通や生活施設が維持されれば、住民全体に利益が及ぶ可能性もある。

 観光地としての成功を判断するには、観光客数、消費額、雇用、税収といった経済指標に加えて、住民の移動時間、生活施設へのアクセス、地域への愛着、観光による利益の分配などを考える必要がある。経済的に繁栄していることと、住民にとって暮らしやすいことは、関連していても同じ概念ではないのである。

 そして、オーバーツーリズムの兆候は、必ずしもニュースになるような住民抗議から始まるとは限らない。

 「今日は混んでいるからやめておこう。」

 その何気ない判断から始まる可能性がある。最初は一日だけ避け、次には週末を避けるようになり、観光シーズンには別の道路を使うようになる。以前利用していた店には行かなくなり、それを何年も繰り返すうちに、その場所へ行かないことが当たり前になる場合も考えられる。

 ただし、ここで述べた長期的な習慣化の過程は、十分に実証された普遍的な法則ではない。住民の回避行動が存在することを示す研究はあるが、それが何年かけて定着し、どの程度の人々に広がるのかについては、さらに追跡調査が必要である。

 そのうえで重要なのは、観光地として成功しているように見える地域でも、住民による利用が減少している可能性に目を向けることである。観光客数は増えている。飲食店も繁盛している。ホテルも埋まっている。町の知名度も上がっている。しかし、その繁栄している場所から住民の日常生活だけが後退しているとすれば、その地域をどのような基準で成功と評価すべきなのだろうか。

世界中の人が訪れたい町から、住民が退いていく

 観光地の価値は、写真に写る景色や有名な建物だけから生まれているわけではない。朝に店を開ける人がいて、子どもが学校へ通い、高齢者が買い物をし、誰かが犬を散歩させ、いつもの食堂でいつもの客が昼食を取る。旅行者が魅力を感じる「その土地らしさ」の一部は、そこに暮らす人々の日常生活によって作られている。

 もちろん、観光地には寺社や文化財、自然景観のように、住民の日常的な利用頻度だけでは価値を測れない場所も多い。しかし、歴史的な町並みや商店街の魅力が、建物や景観だけでなく、そこで営まれている生活や文化に支えられている場合には、住民がその場所を使わなくなることが地域の魅力に影響する可能性がある。

 昔ながらの町並みは残っている。古い建物も残っている。観光客も大勢歩いている。それなのに、そこで普通に暮らしている人の姿だけが少なくなる。もしそのような変化が長期間続けば、町は人々が生活を営む場所という性格を弱め、観光客のために演出された空間へ近づいてしまうかもしれない。

 ただし、それがどの地域で、どの程度進んでいるのかについては、印象だけで判断するべきではない。住民人口、店舗構成、住宅利用、地域施設の利用状況、住民の訪問頻度などを継続的に調べ、実際に生活機能が低下しているのかを確認する必要がある。

 持続可能な観光とは、遠くから来た人が「また来たい」と思うことだけでは十分ではない。そこで暮らす人が、必要なときに安心して移動でき、日常の買い物や食事を楽しみ、自分の町の景色や文化を生活の一部として利用し続けられることも重要である。

 世界中の人が訪れたい町から、その町の住民が静かに退いていく。こうした現象が実際にどの程度起きているのかについては、まだ十分な統計的検証が必要である。しかし、観光客の増加だけを成功の指標としている限り、住民の行動が変わっていても、その変化を見落とす可能性はある。

 オーバーツーリズムが問いかけているのは、単に「観光客を何人まで受け入れられるか」という数量の問題ではない。観光による利益を誰が受け取り、生活上の負担を誰が引き受けているのか。そして、そこに暮らす人々が、これからも自分の町を使い続けられるのかという問題でもある。

 観光客に愛される町と、住民が使い続ける町。その二つを同じ場所に保つことができるかどうか。観光地の本当の成功を考えるとき、私たちは来訪者数や消費額だけでなく、住民の日常生活が維持されているかという視点も持つ必要があるのではないだろうか。

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