地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

30年後シリーズ

30年後シリーズ

 住宅地を歩いていると、地域というものは、行政だけでも市場だけでも動いていないことに気づく。決められた曜日になればごみ集積所にごみが集まり、その周囲はいつの間にか掃除され、夏になれば道路脇の草が刈られ、台風や大雨が近づけば防災情報が伝えられるが、こうした仕事のすべてを市町村の職員が行っているわけではなく、その間には、長いあいだ町内会や自治会と呼ばれる組織を通じて住民が担ってきた、目に見えにくい仕事が存在している。普段、それらは生活の背景に溶け込んでいるため意識されることが少ないが、担い手が減り始めると、それまで自然に存在しているように見えた地域の秩序が、実は誰かの時間と体力と善意によって維持されていたことが、少しずつ姿を現してくる。

 その一方で、町内会に加入しないという選択も、いまや特別なものではなくなりつつある。総務省の調査を基にした自治会等に関する全国的な集計では、2010年度から2020年度まで継続して加入率を把握できた600市区町村について、平均加入率は78.0%から71.7%へと10年間で6.3ポイント低下しており、これは全国すべての自治会を合算した加入率ではないものの、「自治会に入ることが当然」という社会的前提が弱まりつつあることを示す1つの材料にはなる。仕事が忙しく役員を引き受けられない人、地域行事に強い関心を持たない人、定年後に移り住んできた人、単身者、共働き世帯など、地域との距離の取り方が多様になった現在、「町内会には入らないが、この地域では暮らしている」という住民が増えること自体は、それほど不思議な現象ではない。

 問題は、その人たちを地域意識が低いと批判することではなく、住民の生活様式が変わったにもかかわらず、ごみ、防災、草刈り、清掃、情報伝達などの仕組みだけが、全世帯が町内会に参加することを前提とした時代の姿を引きずっていることにある。加入する人が減っても、仕事そのものが同じ量だけ残れば、当然ながら残った人の負担は増えるが、だからといって加入率の低下が必ず地域機能の低下を引き起こすわけでもなく、仕事を減らした地域、外部に委託した地域、町内会以外の組織へ移した地域では、違った結果になる可能性がある。町内会問題を考えるうえで最も重要なのは、この条件の違いを無視して「入らない人が増えたから地域が壊れた」と単純化しないことである。

「町内会に入ること」と「地域で暮らすこと」が一致しなくなった

 町内会の難しさは、それが会員だけに便益を提供する趣味の団体ではなく、長い年月をかけて地域生活の基盤の一部を引き受けてきたことにある。祭りや旅行であれば参加する人だけで行うことができるが、ごみ集積所が清潔に保たれれば周辺住民全体が恩恵を受け、道路沿いの草が刈られて見通しがよくなれば、作業した人だけではなく歩行者も自転車も自動車も利益を受け、災害時に避難経路や危険箇所について情報が共有されれば、その効果を町内会員だけのものにすることは難しい。

 経済学では、こうした状況を考えるときに「集合行為」の問題が使われる。自分1人が負担しなくても他の住民が活動を続けてくれるなら、その利益だけを受けることは個人にとって合理的に見えるが、多くの人が同じ判断をすれば、やがてサービスを提供する側そのものが維持できなくなるという構造であり、地域防災や環境美化のように利益が広く周囲へ及ぶ活動では、特にこの問題が生じやすい。

 しかし、ここで非加入者を単純に「ただ乗り」と呼んでしまえば、本質から遠ざかる。従来の町内会には、ごみ管理や防災だけでなく、親睦行事、各種募金、役員会、回覧、祭りなど性格の異なる活動がまとめて組み込まれている場合が多く、「防災には協力したいが行事には出たくない」「清掃費なら払えるが休日の作業には参加できない」という住民に対して、加入か非加入かという2つの選択肢しか用意されていないこと自体が、現在の生活様式と合わなくなっている可能性がある。

ごみ集積所は、町内会問題を最も小さく映す場所である

 この矛盾が最も分かりやすく現れる場所が、ごみ集積所である。家庭から出たごみそのものは市町村が収集していても、集積所の清掃、ネットや設備の管理、分別されずに残されたごみへの対応、ごみ当番の調整などを自治会や住民が担っている地域は少なくなく、そこでは行政サービスと住民自治が1つの場所でつながっている。

 国立環境研究所の研究者らがつくば市の自治会長を対象に行った調査では、ごみ集積所の管理方法と自治会規模、自治会加入率、高齢化などの関係が調べられ、自治会未加入世帯などが多い集積所では管理上の問題が多くなる傾向が確認された一方、小規模な自治会では、自治会ではなく住民グループが設備を所有したり、非加入者から利用料を受け取ったりする形も確認された。この研究が示しているのは、「自治会に入らない人が悪い」という単純な結論ではなく、従来の自治会だけにごみ集積所管理を依存する方法とは別の仕組みが、実際の地域でもすでに生まれているということである。

 数字で考えると問題はさらに分かりやすい。20世帯で同じ仕事を均等に負担していたものを、参加世帯が10世帯になっても仕事量を変えずに続ければ、1世帯あたりの平均負担は単純計算で2倍になる。ただし、これは「仕事量も運営方法も変えない」という条件の下で成立する話であり、加入者が減ったことを機に当番を減らす、集積所の形を変える、行政や業者に一部を任せるといった変更を行えば、必ずしも2倍にはならない。したがって、本当の問題は加入者数そのものより、「人が減ったのに仕事の設計を変えないこと」にある。

 ごみ集積所をめぐっては、法律上も単純に「町内会員だけのもの」とはいえない場合がある。2025年4月の福井地方裁判所判決では、町内会が管理するごみステーションについて、非会員が一定の使用料を支払って利用すること自体は否定されなかった一方、地域の制度や集積所の公共的性格を踏まえれば、町内会側が使用料を無制限に設定できるわけではないと判断された。全国どの地域でも同じ扱いになるわけではなく、集積所の所有関係や自治体の収集方式によって事情は変わるが、少なくとも「町内会に入らないなら、ごみの問題もすべて自己責任」と単純には割り切れないことを示している。

 だからこそ、ごみ集積所については町内会への加入そのものと、生活インフラの維持管理を分けて考える余地がある。自治体の制度や地域の実情に応じて、利用世帯が清掃や維持費を負担する、作業が難しい世帯は費用で補う、住民グループが管理するなど複数の形を認めれば、「町内会に入るか、何もしないか」という2択から抜け出すことができる。

防災では、会員と非会員を分けることがさらに難しくなる

 ごみ集積所は毎日の生活の中にあるため負担が見えやすいが、防災は大きな災害が起きない限り、その価値が見えにくい。ところが地震や豪雨が起きた瞬間には、誰がどこに住んでいるのか、どの道路が通れるのか、どこに高齢者や支援を必要とする住民がいるのか、避難場所までどう移動するのかといった情報が、それまでの近所付き合いとは別の意味を持ち始める。

 総務省消防庁の2025年版消防白書によれば、2025年4月1日時点で全国1,741市区町村のうち1,697市区町村に、合計16万7,722の自主防災組織が設置されている。これは地域防災が町内会だけで成立しているという意味ではなく、むしろ消防団、自治体、自主防災組織、学校、地域住民など複数の主体によって支えられていることを示しており、消防庁も地域住民による情報伝達、避難、防災訓練などを地域防災力の重要な要素として位置付けている。

 火災が起これば火は町内会の境界で止まらず、道路が倒木で塞がれれば会員も非会員も通れず、津波や豪雨から避難するときに、住民を会費の支払いの有無で分けることも現実的ではないため、防災は町内会活動の中でも特に会員制になじみにくい。だから、町内会加入率が低下したときに考えるべきなのは「非加入者をどう参加させるか」だけではなく、防災という機能そのものを町内会だけに依存させてよいのかという問題である。

 町内会の加入率が下がれば自動的に防災力が下がると断定することはできないが、防災情報の伝達や訓練、安否確認を町内会だけに依存している地域では、加入者の減少が連絡網の縮小につながる可能性がある。逆に、町内会とは別に自主防災組織を整備し、会員であるかどうかに関係なく地域住民へ情報が届く仕組みを持っていれば、町内会が小さくなっても防災機能を維持できる可能性がある。

草刈りの問題は、加入率より年齢構成の方が深刻かもしれない

 草刈りになると、ごみや防災とは別の問題が見えてくる。炎天下で道路沿いや空き地の草を刈り、刈った草を集めて運び、機械を扱う仕事は、若い人にとっても軽い作業ではなく、その地域の中心的な担い手が60代であれば、10年後には70代になっている。人数だけを見れば同じ住民が残っていたとしても、同じ作業量を安全に続けられるとは限らない。

 国土交通省も、人口減少によって町内会や自治会など住民組織の担い手が不足し、地域の共助機能が低下する懸念を指摘している。また、ごみ集積所管理について行われた研究でも、自治会の担い手不足が一部住民への負担集中を強める可能性が示されており、高齢化した地域では「人がいるかどうか」だけではなく、「その仕事を安全にできる人が何人いるか」を考えなければならない。

 ここでも、解決策を「もっと参加してもらうこと」だけに求めると無理が生じる。草刈りの回数そのものを減らす、機械を共同利用する、危険な場所だけ業者に委託する、行政との役割分担を見直す、作業に参加する住民へ一定の謝礼を支払うなど、仕事の側を変える方法もある。外注すれば必ず安くなるわけでも、地域活動が必ず長続きするわけでもないが、住民の無償労働を「費用がかかっていない」と考えることも正しくない。お金が動いていないだけで、住民の休日、体力、時間という資源が使われており、それを経済的な費用として認識しなければ、本当の負担は見えてこない。

人が減ると必ず地域が壊れる、というほど単純ではない

 ここまでを見ると、町内会加入率が下がることによって地域活動が衰退するように思えるが、科学的にはもう1段慎重に考えた方がよい。加入者の減少と地域機能の低下には関連が考えられるものの、全国の地域について「加入者が減ったことが原因で地域機能が低下した」と一方向の因果関係が証明されているわけではなく、地域によっては加入者が減ったことをきっかけに行事を整理して負担そのものを減らした例もあれば、外部団体や行政と連携して従来より効率的な運営に変えられる可能性もある。

 つまり、「加入者減少→負担増加→退会者増加→さらに加入率低下」という悪循環は十分に起こり得るが、それは固定された運命ではなく、仕事量を変えない、役割を分けない、外部の力を使わないという条件が重なったときに起こりやすい構造だと考えた方がよい。逆に考えれば、加入者が減ることそのものより、加入者が減っているにもかかわらず昔と同じ活動量を守ろうとする方が、地域運営にとって危険な場合さえある。

町内会を守るのではなく、仕事をいったん分解してみる

 町内会問題が感情的な対立になりやすい理由の1つは、「町内会を守るべきか、なくしてよいか」という大きな問いから議論を始めてしまうことにある。しかし、ごみ集積所の管理、防災、草刈り、道路清掃、祭り、親睦行事、募金、行政文書の配布では、必要性も公共性もまったく違うのだから、本来は1つずつ別々に考える方が合理的である。

 災害情報は可能な限り全住民へ届ける必要があり、ごみ集積所は利用者を中心に維持方法を考え、草刈りは住民の年齢や作業能力を見ながら外注を含めて判断し、祭りや親睦行事は参加したい人が中心になるというように仕事を分解すれば、「町内会員でなければ何も利用できない」「町内会員になったら全部の仕事をしなければならない」という極端な構造を弱めることができる。

 時間を提供できる人は作業で参加し、仕事や育児で時間のない人は費用で参加し、高齢者は重労働ではなく見守りや連絡を担当し、情報共有が得意な人はオンラインの連絡手段を担うという形も考えられる。全員が同じ作業を同じ回数こなすことだけが公平なのではなく、それぞれの能力と生活条件が違うことを前提として、特定の少数者に負担を集中させないこともまた公平なのである。

見るべき数字は「加入率」だけではない

 自治会について考えるとき、行政も住民も加入率という分かりやすい数字に目を向けがちだが、仮に加入率が90%あったとしても、実際の草刈りには毎回10人しか来ず、役員を引き受ける人が2人しかいないなら、その地域が強いとは言い切れない。反対に、加入率が以前より低くても、ごみ集積所の管理方法が決まり、防災情報が全世帯に届き、草刈りの一部が外注され、必要な費用が安定的に確保されているなら、生活機能そのものは維持できる。

 したがって、地域を評価するときには、加入率だけではなく、1つの仕事を何人で担っているのか、1人あたり年間何時間を使っているのか、役員の平均年齢がどう変化しているのか、外注した場合はいくら必要なのか、5年後や10年後にも同じ人数で続けられるのかという指標を見た方が、本当の持続可能性を把握しやすい。町内会加入率は重要な数字ではあるが、それは地域の健康状態を測る1つの指標にすぎず、それだけで地域の強さを判断することはできない。

地域は「仲が良いから助け合う」だけでは維持できなくなる

 かつての町内会には、隣近所がお互いを知り、同じ地域に長く暮らし、困ったときには助け合うという人間関係を土台にした仕組みがあり、その価値はいまも失われてはいない。しかし、転入や転出があり、共働き世帯や単身世帯が増え、定年後に知らない土地へ移り住む人もいる社会では、「近所なのだから当然協力する」という暗黙の了解だけに、ごみや防災や草刈りを預け続けることは難しくなっている。

 これから必要になるのは、住民全員が仲良くなる仕組みより、仲良くなくても地域に必要なことだけは一緒に維持できる仕組みなのかもしれない。名前を知らない隣人であっても同じ道路を使い、同じ台風を経験し、同じごみ収集制度の中で暮らしている以上、人間関係の濃さとは別に、必要最低限の地域運営を成立させる制度があった方が、古くからの住民にとっても新しく移り住んだ人にとっても暮らしやすい。

 町内会に入らない住民が増えることは、地域社会の終わりそのものを意味しているわけではない。しかし、加入者だけが減り、仕事の量も方法も何十年も前と同じなら、残った人への負担が重くなり、やがてごみ、防災、草刈りといった生活に直結する部分にも影響が及ぶ可能性がある。だから問うべきなのは、「なぜ入らないのか」という住民への不満ではなく、「この仕事は本当に町内会でなければできないのか」「誰が利益を受け、誰がどのように負担するのか」「人が半分になっても続けられるのか」という、もっと具体的な問いである。

 守るべきものは、町内会という名前でも、昔から続いてきた方法そのものでもない。ごみが片づき、災害時には必要な情報が届き、道路脇の草が危険な状態まで伸びず、そして地域を維持するために一部の人だけが疲れ果てないという、暮らしの基本的な機能である。そのためには、「昔からこうしてきた」という言葉よりも、「10年後、ここに何人がいて、この仕事を誰が担うのか」と静かに問い直すことの方が、これからの町内会にははるかに重要になってくる。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方への移住を語るとき、私たちはどうしても「何人が移住してきたのか」という数字に目を奪われる。移住相談会に何人が参加したのか、移住支援制度を利用した世帯が何組あったのか、今年は前年より転入者が増えたのか。こうした数字は分かりやすく、成果としても示しやすい。しかし、本当に地域の将来を考えるのであれば、もう一つ確かめなければならない数字がある。数年前に移住してきた人たちが、その後もその地域で暮らしているのかという数字である。

 移住政策を評価するうえで、「何人来たか」と「何人残ったか」は本来切り離すことができない。仮に一年間に百人が移住しても、三年後に二十人しか残っていない地域と、一年間の移住者が五十人でも三年後に四十五人が残っている地域とでは、後者の方がその時点の居住者数は多くなる。移住者数だけを成果指標にすると、この違いは見えない。

 もっとも、「移住後三年」という期間そのものに、科学的に確立された特別な境界があるわけではない。三年を境に突然転出率が変化するという普遍的な法則が確認されているわけでもなく、地域や年代、世帯構成、仕事、住宅事情によって状況は大きく異なる。したがって三年という数字は、「ここを越えれば定着した」と考える境界ではなく、移住後の初期段階を継続して観察するための一つの実務的な期間と考える方が正確だろう。

 それでも移住後の初期数年間に注目する意味はある。引っ越した直後には新しい土地で暮らし始めたという高揚感があり、見慣れない風景や店、道さえ新鮮に感じられる。しかし季節が一巡し、日々の生活が繰り返されるようになると、旅行者の目には見えなかった町の姿が少しずつ現れてくる。そこで初めて、その場所が「訪れるには魅力的な町」であることと、「毎日暮らす場所として自分に合っている町」であることが同じではないと気づくことがある。

 移住前に人を引きつけるのは、美しい自然や広い住宅、静かな環境、低い住宅価格かもしれないが、移住後に生活を支えるのは、それだけではない。仕事を続けられるか、収入に無理がないか、買い物や通院に困らないか、交通手段を確保できるか、困ったときに相談できる人がいるかといった、華やかではない生活条件が長期的には重くなってくる。

 実際、移住や定住に関する研究では、仕事や収入、生活利便性、地域の人間関係、家族との関係、地域への愛着、将来への不安など、複数の要因が居住継続の意向と関係していることが繰り返し示されている。したがって、人が町を離れる理由を「交通が不便だったから」「人間関係になじめなかったから」と一つの原因に還元するのは適切ではない場合が多い。現実には、それぞれ単独なら耐えられる程度の不便や不満が重なり、その人にとって「ここで暮らし続けることの負担」が徐々に大きくなることが考えられる。

 例えば、買い物のために毎回車を出さなければならないことだけなら、それほど大きな問題ではないかもしれない。ところが、それに加えて通院にも長い移動が必要で、仕事の選択肢も限られ、知人も少なく、何か困ったときに誰へ相談すればよいのか分からない状態が続けば、一つ一つは小さかった不便が生活全体の負担として感じられるようになる。重要なのは、一つの欠点の有無ではなく、その人の生活条件と地域環境との組み合わせなのである。

 ここで注意しなければならないのは、人間関係を重視することと、地域との濃密な付き合いを求めることは同じではないという点である。地域行事や自治会活動に積極的に参加することを好む人もいれば、一定の距離を保ちながら静かに暮らしたい人もいるため、地域への参加量を増やせば定着率も高くなると単純に考えることはできない。

 むしろ重要なのは、必要なときに孤立しないことである。毎週会う友人が大勢いなくても、困ったときに相談できる人が一人いること、道で顔を合わせれば言葉を交わせる人がいること、自分のことを少し知っている人が地域の中にいることは、生活の安心感を大きく変える可能性がある。研究でも、単なる接触の回数だけではなく、助けを求められる社会的な関係が居住継続意向と関連することが示されている。

 ただし、人は人間関係だけに定着するわけではない。自然環境への愛着、気に入った景観、住み慣れた家、行きつけの店、季節ごとの風景、毎日の散歩道といったものも、時間とともにその土地への結びつきを作っていく。このような地域への心理的な結びつきは Place Attachment(プレイス・アタッチメント・特定の場所に対する心理的・感情的な愛着)と呼ばれ、人との関係だけでなく、環境や生活経験、記憶などが重なって形成されると考えられている。

 移住したばかりの頃には、その町はまだ「自分が選んだ場所」にすぎない。しかし、春になればいつもの道の花が咲くことを知り、夏には混雑する場所が分かり、冬には風の強い道を避けるようになり、店に入れば顔を覚えている人がいるようになる。そうした小さな経験が積み重なるにつれて、町は地図上の住所から生活の記憶を持つ場所へと変わっていく。

 ところが、こうした長期居住者の姿を見るときにも注意が必要である。長く暮らしている人ほど地域への愛着が強いという調査結果があったとしても、それだけで「長く住めば愛着が強くなる」とは言い切れない。もともとその地域に愛着を持ちにくかった人が早い段階で転出し、愛着を持った人だけが長く残っている可能性もあるからだ。

 これは Survivorship Bias(サバイバーシップ・バイアス・残った人だけを観察することで生じる偏り)の一つであり、移住研究では特に注意しなければならない。現在住んでいる移住者だけに「この地域の良いところ」を尋ねれば、すでに地域を離れた人の経験が調査から抜け落ちてしまうため、本当に定着しなかった理由を知るには、転出した人も含めて調べる必要がある。

 同じ問題は、移住前の情報提供にも関係する。自治体や地域が移住者を増やそうとすると、自然の豊かさ、住宅価格、子育て環境、静かな暮らしなど、魅力を前面に出したくなる。しかし、良い面だけを強調すれば、移住希望者が描く生活と、実際の生活との間に大きな差が生まれる可能性がある。

 人の満足度を考えるうえでは、Expectation–Disconfirmation(エクスペクテーション・ディスコンファメーション・事前の期待と実際の経験との差によって満足度が変化する考え方)が知られている。期待していた生活と実際の生活が大きく食い違えば、その地域が客観的に悪い場所でなくても、不満は大きくなり得る。

 だから移住前に必要なのは、町を良く見せることだけではない。交通の不便さ、医療機関への距離、仕事の選択肢、冬の気候、地域独特の生活習慣なども含め、そこで暮らす現実をできるだけ具体的に伝えることが重要になる。ただし、「欠点を知らせれば定着率が上がる」とまで断定することはできない。より正確には、生活の現実を事前に理解してもらうことによって、移住前の期待と移住後の経験とのずれを小さくできる可能性がある、と考えるべきだろう。

 移住者を増やすことだけを目的にすれば、このような情報提供は一見不利に見える。交通が不便だと説明すれば移住をやめる人がいるかもしれず、仕事の選択肢が限られることを伝えれば別の地域を選ぶ人もいるかもしれない。しかし、それは必ずしも失敗ではない。その地域の生活条件と合わない人が移住前に別の選択をするのであれば、移住後の大きなミスマッチを防いだとも考えられる。

 ここには Self-selection(セルフ・セレクション・自分の条件や希望に合う選択肢を自ら選ぶこと)の問題がある。移住者を無差別に増やすのではなく、その地域の生活条件を理解したうえで選ぶ人が増えれば、少なくとも移住前後の認識差を小さくすることはできる。ただし、それが実際に転出率をどの程度下げるかは、長期間にわたる追跡調査によって確かめなければならない。

 行政や地域による移住後の支援についても同じである。移住した直後に説明会を一度開いて終わるのではなく、半年後、一年後、二年後と生活状況を確認する仕組みは合理的に思える。生活を始めてから初めて分かる問題は多く、困難が深刻になる前に相談先につながることができれば、問題の一部を軽減できる可能性があるからだ。

 しかし、ここでも「定期的に連絡すれば転出が減る」と簡単に断定するべきではない。継続支援を行った人と行わなかった人を比較し、その後の転出率まで追跡しなければ、本当に支援が効果を生んだのか、それとももともと地域に定着しやすい人が支援を利用していただけなのかを区別することは難しい。

 移住政策を本当に科学的に評価したいのであれば、移住者への満足度調査だけでは足りない。必要なのは、同じ時期に移住した人たちを一つの集団として追跡し、半年後、一年後、二年後、三年後、さらに可能であれば五年後に何人が残っているのかを調べることである。

 このように同じ時期に移住した集団を Cohort(コホート・共通の時期や条件を持つ集団)として追跡すれば、単に「今年は何人移住したか」という数字から一歩進んで、「移住した人が何年後にどの程度残っているか」を測ることができる。例えば、一年後に九二%、二年後に八六%、三年後に七八%、五年後に七二%が残っているのであれば、どの時期に転出が多いのかを具体的に見ることができる。

 さらに、こうした分析には Survival Analysis(サバイバル・アナリシス・ある出来事が起こるまでの時間を分析する統計手法)を利用できる。医療研究では治療後に患者がどれくらいの期間生存したかを分析するために使われる方法だが、移住研究では「移住してから転出するまでの期間」と読み替えることができる。

 この方法を使えば、三年という数字を最初から特別扱いする必要はない。実際のデータを見て、一年目に転出が集中しているのか、二年目から三年目に増えるのか、それとも五年以上経過しても一定の割合で転出が続くのかを確認できる。そうなって初めて、「この地域ではどの時期に支援を重点化すべきか」という政策判断が可能になる。

 さらに年齢、世帯構成、仕事、収入、住宅形態、交通利便性、医療へのアクセス、相談できる人の有無、地域への愛着、移住前と移住後の期待差などを記録すれば、どの条件が転出と関連しているのかを統計的に調べることもできる。ただし、ある要因と転出の間に関連が見つかったからといって、直ちに原因と結論づけることはできない。移住者自身の性格や価値観、家族の事情、転職、介護、結婚、離婚など、地域側では変えられない要因も転出には関係するからである。

 したがって、どれほど優れた移住政策を実施しても、転出をゼロにすることはできない。親の介護で故郷へ戻る人もいれば、仕事の都合で都市へ転居する人もおり、家族構成の変化によって生活拠点を変える人もいる。地域政策の目的は「誰も出ていかない町」を作ることではなく、「本来なら避けることができた転出を減らすこと」に置く方が現実的である。

 そのためには、転出を一つの現象として数えるだけではなく、その背景を分類しなければならない。仕事の問題なのか、収入なのか、交通なのか、医療なのか、住宅なのか、人間関係なのか、それとも移住前に想像していた暮らしとの違いなのか。複数の理由が重なっている場合もあるため、一つの選択肢だけを選ばせるような調査では実態を捉えにくい。

 そして何より重要なのは、残った人だけではなく、離れた人に尋ねることである。移住政策について考えるとき、現在も住んでいる人へのアンケートは実施しやすい。しかし、本当に知りたいのは、なぜ町を離れたのかという情報でもある。その声がなければ、成功した移住だけを見ながら政策を考えることになり、町を去った人が経験した問題は数字の外側に残り続ける。

 移住者が定着したかどうかを判断する最後の要素は、補助金の額でも、イベントの回数でも、交流会への参加人数でもない。仕事を続けられる、生活上の不便に対処できる、困ったときに相談先がある、自分なりの距離感で地域と関われる、そしてこの土地でこれからも生活していけると思えることが重なった結果として、居住継続という選択が生まれる。

 だから移住政策を見るときには、「今年何人来たか」だけではなく、「数年前に来た人が今どうしているか」を確かめる必要がある。その人は今も暮らしているのか、残った人は何によって生活を支えられたのか、離れた人はどこで困難を感じたのかを追跡していけば、移住者を呼び込む広告だけでは見えてこない地域の本当の姿が見えてくる。

 人口減少が続く社会では、新しい人を呼び込むことは確かに重要である。しかし、蛇口から水を入れる量だけを競いながら、水槽からどれほど水が流れ出しているのかを測らなければ、本当に水が増えているのかは分からない。移住政策もそれと同じであり、転入者数だけを成果として見る段階から、移住後の残存率まで継続して観察する段階へ進む必要がある。

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 移住して三年以内に町を離れる人を減らすために必要なのは、三年間だけ手厚く支援することではない。三年という数字を一つの観察期間として使いながら、その間に何が起きているのかを丁寧に測り、仕事、生活環境、人とのつながり、地域への愛着、移住前後の期待のずれを複合的に見ていくことである。

 そして本当の成果は、移住者募集の広告を見た人数でも、移住相談会の参加人数でもない。数年前にやってきた人が、その土地で新しい季節を迎えながら、「ここでこの先も暮らしていけそうだ」と思えていることなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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水路は、造っただけでは水路であり続けない

 田舎を歩いていると、道路の脇や田畑の間を細い水路が走っている。雨が降れば水を逃がし、田植えの季節には農地へ水を運び、普段は何事もなかったように風景の一部へ溶け込んでいるため、それを維持するために毎年どれほどの人手が費やされているのかを意識する機会は少ない。しかし、水路はコンクリートで造った瞬間から半永久的に働き続ける設備ではなく、落ち葉が入り、土砂がたまり、草が伸び、枝が落ち、年月がたてば壁面が劣化し、大雨が来れば一度の出水で流れが変わることさえある。

 それでも日本の農村や郊外では、長いあいだ多くの水路が機能してきた。その理由は、水路そのものが特別に壊れにくかったからではなく、春になれば草を刈り、梅雨の前には泥を上げ、大雨の後には詰まりを見に行く人がいたからである。行政の資料には水路の延長や施設数は記録されても、毎年そこへ長靴で入り、スコップを持って泥を上げてきた人の労働までは、同じようには数字に残らない。

 地域の水路を支えてきたものは、コンクリートだけではなく、人間の手だったのである。

「誰の水路なのか」と「誰が掃除してきたのか」は、必ずしも同じではない

 水路の問題を複雑にしているのは、私たちが日常的に「水路」と一括して呼んでいるものが、制度上は一種類ではないことである。農地へ水を送る農業用水路もあれば、田畑や住宅地から雨水を逃がす排水路もあり、市町村が管理するもの、土地改良区が管理するもの、地域で共同管理されてきた末端水路、昔からの公共物を起源とする水路など、その位置付けと管理主体は場所によって異なっている。

 ところが現場では、法律上の管理区分とは別の論理で水路が守られてきた地域も少なくない。「この水路は誰の所有物か」と毎回確認してから草を刈るのではなく、「昔からここはみんなでやっているから」という地域の慣行によって手入れが続けられてきたため、制度上の管理者と日常的に維持作業をする人とが一致しない場合がある。

 この仕組みは、地域に十分な人口と共同作業の担い手がいた時代には合理的だった。数十人が少しずつ労力を出せば一人当たりの負担は大きくならず、農業者にとっては農業施設を守る作業となり、農業をしていない住民にとっても雨水排水や地域環境の維持につながるため、水路清掃は農業と生活の境界にある地域共同体の仕事として成り立ってきた。

 しかし、その前提となっていた人の数と年齢構成が変わり始めている。

人口が減っても、水路の長さまで同じ割合で減るわけではない

 人口減少社会には、インフラ維持の面で厄介な特徴がある。住民が半分になったからといって道路が半分になるわけではなく、水路も半分にはならないため、同じ延長、同じ作業量をより少ない人数で支えることになれば、一人当たりの負担は増えていく。

 必要な年間作業量が変わらないと仮定すれば、一人当たりの作業負担は単純に「総作業量を参加人数で割った値」になる。たとえば三十人で行っていた作業を十五人で行えば一人当たりの負担は二倍になり、人口が二五%減って参加者も同じ割合で減れば、一人当たりの負担は約三三%増える計算になる。

 現実には、さらに高齢化が重なるため、居住人口と実際に草刈りや泥上げをできる人数は同じようには減らない。住民数が三分の二になっても、重い作業のできる人が半分以下になれば、現場の負担は人口減少率以上に増える可能性がある。

 この問題は印象論だけではない。農林水産省の分析では、農業用用排水路を集落で保全・管理している割合は、集落人口一人から九人では四〇・七%であるのに対し、百人から百四十九人では八二・九%となっており、極めて小規模な集落では保全割合が大きく低下している。また、高齢化率が高い集落ほど保全割合が低くなる傾向も確認されている。

 ただし、ここで一つ注意しなければならないことがある。こうした数字は、「人口が減れば必ず水路管理が崩壊する」と証明する実験結果ではなく、小規模化や高齢化と保全活動との間に強い関連が見られるという観察統計である。山間部か平地か、水路の長さや地形、土地改良区の体制、農業者数など他の要因も関係するため、人口減少だけを唯一の原因と断定することはできない。

 それでも、地域の人数が一定規模を下回るほど共同管理が難しくなるという構造そのものは、複数の統計からかなり明瞭に見えている。

全国一律に崩れているわけではない。それでも構造的な弱さは残る

 人口減少と高齢化が進んでいると聞くと、全国で水路の保全活動が年々低下しているように思えるかもしれない。しかし、全国集計を見ると事情はもう少し複雑であり、農業用用排水路を保全している農業集落の割合は二〇一五年から二〇二〇年にかけてむしろ上昇しており、二〇二五年農林業センサスでも、保全に取り組んでいない集落の割合は五年前より低下している。

 これは人口減少の影響が存在しないことを意味するのではない。むしろ、多面的機能支払交付金による支援、活動組織の広域化、農業者以外の参加、外部委託などによって、従来の地域共同作業だけでは維持しにくくなった部分を制度的に補っていると考えた方が実態に近い。

 したがって、現在起きていることを「日本中の水路管理が一斉に崩壊している」と表現するのは正確ではない。より正確なのは、従来型の住民共同管理が小規模集落ほど不安定になり、その弱さを別の制度や広域的な仕組みで補う時代へ移っている、ということである。

最後の一人が辞めた瞬間、「無料だった仕事」に値段がつく

 地域共同作業には、会計数字から見えにくい特徴がある。住民二十人が四時間ずつ水路を掃除すれば、合計八十時間の労働が投入されているが、住民が無償で行えば行政の歳出にはその八十時間分の費用が現れない。しかし労働そのものが存在しなかったわけではなく、その仕事を住民ができなくなれば、誰かが代わって同じ作業をしなければならない。

 ここに人口減少社会のインフラ問題の核心がある。これまで安く維持できていたように見えたものの中には、本当に費用が安かったのではなく、地域住民の無償労働によって費用が表面化していなかったものがある。

 草刈りや泥上げを民間業者へ委託すれば、単なる作業者の人件費だけでなく、機械、車両、燃料、運搬、処分、安全管理、保険、現場管理などの費用が発生する。これまで自治会や集落の共同作業として処理されていた仕事が、外部委託へ切り替わった瞬間、初めて明確な金額として見えるようになるのである。

 最後の一人がスコップを置いた日、水路に新しい費用が突然生まれるわけではない。それまで人々の善意と慣行の中に隠れていた費用が、請求書という形で姿を現すのである。

では、市町村が全部やればよいのか

 地域住民ができなくなったのなら、市町村が維持すればよいと考えるのは自然である。しかし、現実にはすべての水路が市町村管理ではなく、農業用施設であれば土地改良区などが関わる場合もあり、末端では地域共同管理が組み込まれていることもあるため、「水路だから市役所」という一本の線では整理できない。

 さらに自治体自身も人口減少の影響を受けている。市区町村の土木部門職員数は、一九九六年の約十二万四千人から二〇二五年には約九万一千人へ減少しており、約四分の一が減った計算になる。全国の市区町村の中には技術系職員がごく少数しかいない自治体も多く、技術系職員が一人もいない自治体も存在している。

 その一方で、自治体が維持しなければならない対象は水路だけではない。道路、橋、公園、上下水道、公共施設など大量の社会資本が老朽化しており、大雨や災害への対応も求められるため、地域が担えなくなった作業をすべて行政へそのまま移す方法には、人的にも財政的にも明確な制約がある。

 問題は、「行政がやるか、住民がやるか」という二者択一ではない。人口が多かった時代につくられた役割分担を、人口の少ない時代にどう組み替えるかという問題なのである。

水路は、農家だけのものではなくなっている

 農業用水路という言葉を聞けば、農業をしていない住民には関係がないように感じられるかもしれない。しかし現実には、農業水利施設の中には農業生産だけでなく、雨水排水や地域の防災、生活環境の維持に関わっているものがある。

 かつて田畑の間だけを流れていた排水路の周囲に住宅が建ち、その水路が住宅地から流れ込む雨水を受けている場所もある。農業者が減っても、雨が降らなくなるわけではなく、周囲に住宅が残っていれば排水機能の必要性は続くため、「農業者が減ったから農業者だけで管理すればよい」という考え方は次第に現実と合わなくなる。

 ここに新しい不均衡が生まれる。農業者数が減少して農業上の直接的な受益者が少なくなっても、水路の排水、防災、環境保全といった機能まで同じ割合で縮小するとは限らないからである。

 農業のためにつくられた水路が、長い年月の中で地域全体の生活を守る水路にもなっているのであれば、その維持管理を農家だけの問題として扱い続けることには限界がある。

国も「従来の役割分担だけでは続かない」と考え始めた

 こうした状況を背景として、国の制度も変わり始めている。これまでも地域住民が水路や農道を共同で維持する活動への支援は行われてきたが、人口減少や高齢化が進む中で、基幹的な農業水利施設は土地改良区が管理し、末端水路は集落や地域住民が管理するという従来型の役割分担だけでは持続が難しい地域があることが、政策上の課題として明確に意識されるようになった。

 二〇二五年四月に施行された改正土地改良法では、「連携管理保全計画」という仕組みが設けられ、土地改良区、市町村、その他の関係者が将来の農業水利施設の管理について連携し、役割分担を考える制度が整えられた。

 重要なのは制度名そのものではない。「誰かがこれまでどおり掃除してくれる」という前提から離れ、十年後、二十年後に誰が管理するのかを、まだ人がいるうちに考えなければならない段階へ入ったということである。

 水路の草刈りという一見小さな問題は、人口減少社会における公共サービスを誰が担い、費用をどう分けるのかという、はるかに大きな問題の縮図になっている。

「全部を昔のまま守る」ことが最適とは限らない

 人口が増え続けた時代には、新しい道路を造り、水路を延ばし、住宅地を広げることが地域の発展と考えられてきた。しかし人口が減る時代には、造ることよりも、すでに存在する施設のうち何を残し、誰が、どこまで維持するのかを決めることの方が難しくなる。

 すべての水路を従来と同じ頻度、同じ方法、同じ組織で維持し続けることが合理的とは限らない。農地利用が大きく変わった場所なら水路網そのものを見直す余地があり、開水路を管路化したり、草刈りの負担を減らすよう法面を改修したり、複数の小さな管理組織を広域化したりする方法も考えられる。ICT(Information and Communication Technology・情報通信技術)や遠隔監視を活用し、見回りの負担を減らす方法も今後は増えていくだろう。

 ただし、技術を導入すれば人間が不要になるわけではない。カメラが詰まりを発見しても泥を取り除く人は必要であり、機械で草を刈っても機械を動かす人は必要になる。人口減少への対応とは、人間を完全に機械へ置き換えることではなく、少なくなった人間でも維持できるように、施設と作業方法と役割分担を同時に作り直すことである。

水路の底にたまっているのは、泥だけではない

 毎年の水路清掃は、一見すると単純な地域行事である。長靴を履き、スコップを持ち、草を刈り、泥を上げ、終われば家へ帰るという作業が毎年繰り返されてきたため、それを「地域インフラを支える社会システム」と考える人は多くなかっただろう。

 しかし、その何気ない共同作業の中には、長い時間をかけて蓄積された地域の知識が存在している。どこに泥がたまりやすいか、どの雨量になると水があふれるか、どの場所の草を先に刈らなければならないか、どの水門をどの順番で確認するかといった知識は、必ずしも設計図や台帳の中に記録されているとは限らない。

 統計上は「共同管理されている」と分類されていても、現場の協力関係が実際には弱くなっている地域が存在することを示した研究もある。数字だけを見て「管理されているから大丈夫」と考えることには危険があり、管理の有無だけでなく、実際に誰が、何人で、どの頻度で、どこまで作業しているのかを見る必要がある。

 人が一人ずついなくなるとき、失われるのは単なる労働力だけではない。「この水路はここが危ない」という地域の記憶も同時に消えていくのである。

「誰かがやるだろう」が通用しなくなる前に

 地域のインフラは、壊れた日に突然問題になるように見える。しかし実際には、そのずっと前から静かに維持能力が失われ始めている。水路の場合、その最初の兆候はコンクリートのひび割れではなく、水路清掃の日に集まる人が一人減ることなのかもしれない。

 昨年まで十二人だった作業が今年は九人になり、その数年後には六人になる。それでも水は流れているため、表面上は何も起きていないように見えるが、同じ長さの水路を六人で守るなら、一人当たりの負担は確実に増えている。負担が重くなれば参加できない人が増え、参加者が減れば残った人の負担がさらに増えるため、共同管理にはある段階から急速に維持が難しくなる危険がある。

 ただし、日本全国が同じ速度でそこへ向かっているわけではない。外部支援によって維持できている地域もあれば、複数集落で協力している地域もあり、非農業者や民間事業者が参加して新しい形を作っている地域もある。だからこそ必要なのは、「もう無理だ」と諦めることでも、「昔どおり頑張ればよい」と精神論で押し切ることでもなく、地域ごとの現実を数字と現場の両方から見極めることである。

 地域の水路を掃除する人がいなくなったら、誰が維持するのか。その答えは、「自治体」「土地改良区」「農家」「住民」のどれか一つではないだろう。水路が農業、排水、防災、生活環境のどの機能を担っているのかを確認し、その重要度と必要な作業量を把握した上で、地域住民、農業者、土地改良区、自治体、民間事業者などの間で、費用と労力を現実的に組み直していく必要がある。

 そして、その議論を始めるべき時期は、水路が詰まり、大雨の夜に初めて困ってからではない。まだ地域の中に、「昔はここから先を先に掃除したんだ」と教えてくれる人が残っている今なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 午前八時、町の端にある住宅の前で一台の車が止まる。乗り込むのは病院へ向かう高齢者である。診察が終わるまで車は病院の駐車場で待っているわけではない。別の利用者を送り、その途中でスーパーに立ち寄り、前日に注文された食料品を積む。二軒の家へ商品を届けるころには、最初の患者から診察が終わったという連絡が入る。病院へ戻って自宅まで送り、午後には駅へ向かう住民を乗せる。条件が整えば、薬局側が必要な服薬指導や品質管理を行った調剤済みの薬を運ぶ仕事まで、この一日のどこかへ組み込めるかもしれない。

 この車を、何と呼べばよいのだろう。

 タクシーと言えばタクシーである。しかし荷物も運んでいる。配送車と言えばそうなのだが、人も乗せる。通院送迎車でもあるが、病院へ行く人だけのために走っているわけではない。

 人口の多い都市なら、こうした仕事を分けても困らない。タクシー会社が人を運び、配送事業者が商品を運び、病院や福祉事業者が送迎車を走らせる。それぞれの仕事に十分な需要があるなら、分業した方が効率的だからである。

 しかし人口が減っていく地域では、事情が逆転する。

 病院へ行きたい人がいなくなるわけではない。食料を必要とする人が消えるわけでもない。駅へ行く人もいる。ただ、一つ一つの需要が、一台の車と一人の運転手を一日働かせるほど大きくなくなる。

 人口減少地域で失われているのは、需要そのものというより、需要の「密度」なのである。

地方交通を壊すのは「少ない客」だけではない

 車を一台維持するには、走っているときだけでなく、止まっているときにも費用がかかる。車両費、保険、整備、車検、営業所、運行管理、そして運転手の人件費は、乗客が乗っていない時間にも消えない。

 だから地方交通の採算を考えるとき、一回の乗車で何キロ走ったかだけを見ても本質は分からない。

 一人を十キロ先の病院まで送ることより、その人を降ろしたあと次の利用者が現れるまで一時間待つことの方が、経営上は重大になることがある。人口の多い場所では、ある客を降ろした先で別の客を乗せられる。病院から駅へ行き、駅から住宅地へ向かい、住宅地から商業施設へ向かうというように、小さな需要が連続して一日の仕事になる。

 人口が薄くなると、その鎖が切れる。

 午前九時に病院へ一人を送ったあと、十一時まで仕事がない。午後二時には一人だけ買い物へ行きたい人がいる。夕方には駅から一件の依頼がある。しかし、その三件だけのために車両と運転手を一日確保し続けなければならない。

 OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)とITF(International Transport Forum・国際交通フォーラム)も、需要応答型交通を低密度地域に適した選択肢として評価する一方、一回の利用当たりでは従来型交通より高価になる場合があり、それだけで地方交通問題を解決するものではないと指摘している。地方交通では、単に「小さい車へ替える」だけではなく、地域に散在している需要そのものをどう束ねるかが重要になる。

 そこで、人を待っている時間には荷物を運び、荷物のない時間には人を運ぶという発想が出てくる。

 これは、一台の車に無理やり仕事を詰め込むことではない。

 一日の中に散らばっている小さな需要を、一台の車の時間軸の上へ並べ直すことなのである。

ところが、需要は少なければ少ないほど統合しやすいわけではない

 ここで一つ、直感に反することが起こる。

 貨客混載は人口の少ない地域ほど有効に思えるが、需要が少なすぎても成立しない。

 たとえば、一日にタクシー利用が一件、配送が一件、通院が一件しかなく、それぞれの目的地が町の三方向に二十キロずつ離れているとする。この三件を一台へまとめても、走らなければならない距離そのものはほとんど減らない。仕事が少ないため車両の空き時間は増えるが、その空き時間を埋めるだけの別の需要も存在しない。

 反対に、需要が十分に多ければ、やはり統合する必要性は小さくなる。

 朝から晩までタクシーの予約が続く地域なら、その車へ配送を追加するより、タクシーとして動かし続けた方がよい。配送だけで一台が終日稼働するなら、配送車を独立させた方が運行しやすい。

 つまり貨客混載が最も効果を発揮するのは、需要が極端に少ない場所でも、十分に多い場所でもない。

 それぞれ単独では一台を維持できないが、合わせれば一台分程度の仕事になる地域である。

 ここに、地方交通を考えるうえで重要な「中間領域」がある。

 人口だけを見て「三千人以下なら貨客混載」と決めることはできない。同じ人口三千人の町でも、住宅が中心部にまとまっている町と、山間部の広大な範囲に集落が点在している町では条件がまるで違う。住民数より、何時に、どこから、どこへ、どれだけの移動が発生しているかを見る必要がある。

 交通政策を人口表だけで考える時代から、需要の時刻と位置を見る時代へ移らなければならないのである。

本当に重要なのは「同じ車に載るか」ではなく「時間と方向が重なるか」

 一台三役を成功させる条件をもう少し細かく見ると、さらに重要なものが見えてくる。

 仮に、午前八時から十時に通院需要があり、十一時から午後一時に配送需要があり、午後三時以降に駅との往復需要がある地域なら、一台の車を順番に使いやすい。三種類の需要が存在することより、三種類の需要のピークがずれていることに価値がある。

 ところが午前九時に通院予約が三件あり、同じ時間にスーパーから十件の配送依頼が入り、九時十五分着の列車からタクシー利用者が降りてくれば、一台三役は一瞬で「一台不足」になる。

 さらに時間だけでなく、方向も重要である。

 病院へ向かう途中に配送先があるなら、多少の寄り道で済む。しかし病院が町の北、配送先が南、次の利用者が東にいるなら、仕事を統合した結果として空車距離を増やすことさえある。

 したがって貨客混載による経済効果は、「仕事を何種類まとめたか」では測れない。

 統合によって減る空車距離や待機時間、共有できる車両費や運転手の時間が、逆に増える迂回距離、積み下ろし時間、予約調整、運行管理、システム費用を上回るかどうかで決まる。

 ここまで考えると、地方交通の問題はかなり数理的な姿を現す。

 人にも荷物にも、出発地点と目的地がある。さらに「九時までに病院へ着きたい」「午後四時までなら商品を受け取れる」といった時間条件がある。車には定員と積載量があり、運転手には労働時間の限界がある。それらを同時に満たしながら、総走行距離や総労働時間を小さくする経路を探すことになる。

 実際、鳥取県若桜町のタクシー運行履歴を利用した2023年の研究では、旅客と貨物を統合した場合について、混合整数計画法を使って運行を再現し、利益だけではなく、限られた運転手で全需要を処理できるかまで検討している。貨客混載は理念ではなく、すでに「どの条件なら成立するか」を計算する対象になっているのである。

さらに考えれば、すでに地域を走っている車両を活用する方法もあります。例えば、児童の送迎に使われているスクールバスは人口減少地域の公共交通になり得るかという問題です。

稼働率は高ければ高いほどよい、という誤解

 もう一つ、地方交通を考えるときに陥りやすい罠がある。

 止まっている車を減らせば効率が良くなるのだから、できるだけ車を休ませずに働かせればよいように思える。しかし現実の運行システムでは、稼働率を限界まで上げると別の問題が起こる。

 午前中の予定がすべて隙間なく埋まっている車を考えてみる。一人目の診察が十分遅れただけで、その後の配送が遅れ、次の利用者の迎車が遅れ、午後の予約までずれていく。

 空き時間は、一見すると無駄に見える。

 しかし、その一部は「遅れを吸収する余白」でもある。

 待ち行列理論で考えても、処理能力ぎりぎりまで需要を詰め込んだシステムでは、わずかな変動によって待ち時間が急激に増えやすい。病院の診察時間、道路状況、乗降に必要な時間は毎日一定ではないため、一台を百パーセント働かせることを目標にすると、利用者から見た信頼性を犠牲にしかねない。

 地方交通に必要なのは最大稼働率ではない。

 必要なときに使える余裕を残しながら、過剰な空車を減らすことなのである。

 2026年に公表された日本の複数地域を比較する研究でも、旅客と貨物の統合を継続できる条件として、車両の余剰能力と運行の柔軟性が重要であることが指摘されている。これは「空いている能力を使う」ことと「能力を限界まで使う」ことが違うという意味でもある。

地方交通は「車を配る仕事」から「時間を編集する仕事」へ変わる

 そう考えると、未来の地方交通を左右するのは車両そのものより、運行を組み立てる能力かもしれない。

 午前九時の診察予約は動かしにくい。その予定を中心に置く。翌日までに届けばよい日用品なら、配送時刻を一時間ずらしても問題がないかもしれない。病院へ利用者を送り届けた車が、迎えまでの時間を使って近隣の配送を行う。大きく迂回する配送ならその時間には入れない。

 つまり、すべての需要を同じ重要度として扱うのではなく、「時間を動かせない需要」と「動かせる需要」を組み合わせるのである。

 ここで情報技術が効いてくる。

 OECDは、需要応答型交通について、予約情報を集め、経路をその都度調整する技術の発達によって、地方での運用可能性が高まっていると整理している。日本でも、需要に応じて経路や配車を計算する交通はすでに多数の自治体で導入されている。

 しかし重要なのは、スマートフォンのアプリを導入することではない。

 地域に存在している移動需要を一つのデータとして見ることである。

 病院の送迎予約は病院だけが持ち、スーパーの配送情報はスーパーだけが持ち、タクシー予約はタクシー会社だけが持つ。そのままでは、一台の車が三つの需要を合理的に組み合わせることはできない。

 一台多役を成立させるために、本当に統合しなければならないのは車より先に情報なのである。

そして、最大の難問は「誰を先に乗せるか」になる

 ここまで来ると、単なる効率化では解けない問題が現れる。

 午前九時に病院へ行かなければならない人と、九時十五分の列車に乗らなければならない人が同時に予約してきたとする。車は一台しかなく、両方には間に合わない。

 どちらを優先すべきだろう。

 料金を多く払う人なのか。予約が早かった人なのか。医療目的を優先するのか。あるいは、遠隔地に住む人を優先するのか。

 これは経路計算では解けない。

 地方交通を統合すればするほど、これまで別々の事業者の中に隠れていた「誰を優先するのか」という公共政策上の問題が、一つの配車システムの中へ現れてくる。

 単純に総走行距離を最小にするよう設計すれば、中心部に住む人ばかりを順番に乗せた方が効率的になるかもしれない。山間部の一軒へ迎えに行くには往復一時間かかるため、その利用者を後回しにすれば数字は改善する。

 しかし、その人こそ自家用車を運転できず、代替交通を最も必要としている可能性がある。

 交通政策で最小化すべきものは費用だけではないのである。

 地方交通研究では、交通そのものを増やすことより、医療、買い物、仕事、社会活動へ到達できる「アクセシビリティ」、つまり生活上必要な機会へ到達できる程度を政策目標として考える方向が強まっている。地方で交通が不足すると、移動の不便だけでなく、医療や社会参加からの排除へつながり得ることも長く研究されてきた。

 日本の地方部を対象とした研究でも、需要に応じて走る交通が、高齢者などを含む交通アクセスの不平等を改善し得ることが示されている。

 地方交通を「一人を一キロ運ぶ費用」だけで評価すると、この価値を見落とす。

人を運ぶのか、それとも物を運ぶのか

 ここからさらに一歩進めると、地方交通とは本当に人間を運ぶ仕事なのか、という問いに行き着く。

 住民が必要としているのは、タクシーそのものではない。

 病院にかかれることなのである。

 スーパーへ行くことそのものが目的でなければ、食料が家へ届いてもよい。薬局まで行けなくても、必要な服薬指導や本人確認、品質管理が適切に行われる仕組みがあれば、調剤済みの薬を届けてもらえる場合もある。

 つまり生活を維持する方法には、「人をサービスへ運ぶ方法」と「サービスを人へ運ぶ方法」がある。

 十人を一人ずつスーパーへ往復させるより、一台が十軒へ商品を届ける方が効率的な地域もある。一方、住宅が極端に散らばっていれば、一台の配送車が十軒を巡回するより、住民を一定の時間にまとめて店舗へ送る方が合理的かもしれない。

 最初から人を動かすと決める理由はないのである。

 人口減少社会の交通政策は、「どうやって住民を目的地へ連れていくか」から、「人と物のどちらを動かせば、より少ない資源で生活を成立させられるか」へ広がっていく。

本当に共有すべきなのは車だけではなく、運転手である

 さらに厳しい制約がある。

 運転手である。

 人口減少地域では、移動支援を必要とする高齢者が増える一方、それを仕事として担える現役世代は減っていく。車両なら予算を付けて購入できても、運転手は購入できない。

 タクシー用に一人、病院送迎に一人、配送に一人を配置すれば、三つの事業がそれぞれ人手不足になる。一人の運転手が、需要の重ならない時間に複数の役割を担当できるなら、同じ労働力から提供できるサービス量を増やせる可能性がある。

 しかし、ここでも「兼務すれば効率化」という単純な話ではない。

 荷物を積めば荷役時間が生じる。高齢者の乗降を手伝えば時間がかかる。利用者の予約変更があれば経路を変更しなければならない。荷物の誤配防止まで運転手へ任せれば、仕事は複雑になる。

 人口減少地域で不足している人材へ、効率化という名前でさらに多くの仕事を載せれば、制度そのものが長続きしない。

 一人の運転手に複数の仕事を任せるなら、その代わりに運転手が行う判断は減らさなければならない。配車、配送順、利用者情報、受け渡し手順などを後方で整理し、運転手が安全運行と利用者対応に集中できる仕組みが必要になる。

「一台にまとめる」と「一台しか持たない」は違う

 一台多役の議論には、もう一つ見落としてはならない危険がある。

 一台を効率よく使えるからといって、本当に一台だけにしてよいとは限らない。

 もし通院送迎、買い物配送、一般タクシーを一台へ完全に依存した状態で、その車が故障したら何が起きるだろう。三つのサービスが同時に止まる。

 これは、一台多役が生み出す新しい脆弱性である。

 従来は病院送迎車が故障しても配送車は走れた。統合すれば車両数を減らせる一方、一台の故障が地域生活の複数部分へ波及しやすくなる。

 だから合理的な設計は、「町に一台しか置かないこと」ではない。

 複数台ある車から用途の固定を外し、その日の需要によって役割を組み替えることかもしれない。

 たとえば二台ある車を、一台はタクシー、一台は配送と固定するのではなく、午前中は二台とも通院需要へ回し、昼には一台を配送へ、もう一台を一般利用へ回す。どちらかが故障しても、もう一台で最低限のサービスを維持できる。

 ここまで来ると、「一台三役」という言葉の意味も変わる。

 本当に目指すべきなのは車両数を一台まで削ることではなく、一台一役という固定観念をやめることなのである。

「タクシーが赤字か」だけでは答えを間違える

 さらに難しいのは、この仕組みを何の収支で評価するかである。

 一台多役を導入しても、タクシー事業だけを見れば赤字のままかもしれない。しかし、その車があることで病院の送迎車を減らせたらどうだろう。自治体が別に契約している買い物支援車両を減らせたらどうだろう。家族が仕事を休んで高齢の親を病院へ送る回数が減ったらどうだろう。

 タクシー会社の決算書には、家族が半日仕事を休んだ時間は載らない。病院の送迎車の費用も、スーパーの配送費も載らない。

 しかし町全体から見れば、どれも住民の生活を維持するために投入されている資源である。

 だから地方交通の評価単位を、一つの事業者から地域全体へ広げなければならない。

 さらに、交通がなくなったことで病院へ行くのを諦める人や、買い物の回数を減らす人が出れば、それは単なる交通費の問題ではなくなる。OECDの国際比較でも、距離や交通手段を理由に必要な医療を遅らせたり断念したりする問題は、都市部より地方部で生じやすいことが示されている。

 つまり公共交通の価値には、「今日何人乗ったか」だけでは測れない部分がある。

 普段は利用しなくても、車を運転できなくなったときに移動手段が存在すること自体が、住み続けられるかどうかを左右する。

 地方交通は、利用者数の少ない日に価値がゼロになるインフラではないのである。

制度上できることと、地域で回ることは別問題である

 貨客混載そのものは、もはや制度上の空想ではない。

 国土交通省は2023年、一定の許可と地域関係者の協議を条件として、従来より広い地域でバスやタクシーを利用した貨物運送を可能にした。さらに2026年4月には、旅客事業者と貨物事業者が相互の事業を行う場合の許可や運行管理に関する取扱いも改正されている。

 しかし、制度が許すことと、経営として続くことは同じではない。

 2026年の日本の事例比較研究が示しているのも、この点である。統合交通には継続している事例がある一方、停止・終了したものもあり、車両の余剰能力、運行の柔軟性、荷物の量、配送先、地域関係者の協力などが成否を分けている。

 したがって、一台多役を導入する前に自治体が調べるべきなのは、「全国に成功事例があるか」ではない。

 自分の町で、どの時間帯に何人がどこへ行き、どの店から何個の荷物がどこへ運ばれ、何台の車が何時間止まり、何人の運転手が何時間空いているかである。

 成功事例をコピーするのではなく、町の一日を測る。

 地方交通の再設計は、そこから始まる。

一台の車が救えるのは、町ではなく「分断された時間」なのかもしれない

 結局、「タクシー・買い物配送・通院送迎を一台で兼ねれば、地方交通を維持できるのか」という問いに、全国共通の答えはない。

 需要があまりに少なければ、統合しても一台を支えられない。需要が多ければ、それぞれを専門化した方がよい。その中間で、異なる需要の時間帯がずれ、移動方向がある程度重なり、運転手と車両に適度な余白がある地域では、統合によって維持可能性を高められる余地が大きくなる。

 しかも、効率化を追いすぎて車両と運転手を限界まで働かせれば、少しの遅れで一日の運行が崩れる。逆に安全のために余裕を持ちすぎれば、従来と同じ高コスト構造に戻ってしまう。

 必要なのは、最大効率ではない。

 必要なサービスを失わない範囲で、重複している余白を共有することである。

 人口が増えていた時代には、需要が増えるたびに車を増やすことができた。病院は病院の車を持ち、スーパーはスーパーの車を持ち、自治体は自治体のバスを持ち、タクシー会社はタクシーを持った。一つの仕事に一台を割り当てることが、豊かな社会の合理性だった。

 人口が減る時代には、その逆を考えなければならない。

 車を減らす前に役割の壁を減らす。人だけでなく物も動かす。住民をサービスの場所へ運ぶだけでなく、サービスの方を住民へ運ぶ。そして組織ごとに交通を所有するのではなく、一つの地域の「移動能力」として考え直す。

 朝、昨日と同じ車が車庫を出る。

 病院へ行く人を乗せ、その次には食料を運び、午後には駅から帰る人を迎える。仕事の名前はそのたびに変わる。しかし車から見れば、やっていることは一日中ほとんど同じである。

 人か物を積み、必要としている場所へ運んでいるだけだ。

 私たちの制度と事業の方が、それをタクシー、配送、通院送迎という別々の仕事に分けてきたのである。

 一台の車が地方を救うわけではない。

 けれども、人口が減ったあとにも同じ分業を守り続けなければならない理由もない。

 地方交通の未来を決めるのは、何台の車を残せるかだけではなく、限られた車と限られた運転手の時間を、どれだけ上手に重ねられるかである。

 そして最終的に残すべきなのは、タクシーという業種でも、バスという制度でもない。

 車を運転できなくなった日にも、病院へ行ける。食料が届く。必要なら駅へ行ける。そして、その仕組みを地域が無理なく支え続けられる。

 維持すべきなのは交通機関の名前ではなく、そうした「移動できる暮らし」なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 地方創生について語るとき、人口ほど分かりやすい数字はない。転入者が何人増えたのか、社会増減がプラスになったのか、若い世帯が何世帯移住してきたのか。自治体の成果を説明するときにも、町の将来を予測するときにも、人口はほとんど共通通貨のように使われている。それは当然でもある。人がいなければ町は成り立たず、人口が減れば消費、労働力、学校の児童数、公共交通の利用者など、多くのものが縮小する可能性がある。住民の年齢構成や所得によって影響は異なるものの、人口の動向が自治体の税収や行政サービスの維持にも関係していることは間違いない。

 しかし、人口3000人の町が3100人になったとき、その町は本当に100人分だけ強くなったと言えるのだろうか。反対に、人口が3000人のままだとしても、買い物を支える店が一軒増え、住宅修繕を頼める事業者が残り、訪問介護を担う事業所が確保され、地域外から仕事を受注する小さな会社が数社生まれたなら、その町は以前より暮らしやすく、経済的にも持続しやすい場所になっている可能性がある。ここから、人口減少時代の地方について少し違った問いが生まれる。移住者を100人増やすことと、地域を支える事業者を10者増やすことでは、どちらが町にとって大きな効果を持つのだろうか。

 もちろん、「100人」と「10者」をそのまま比較して答えを出すことはできない。この比率は実証研究によって確定したものではなく、地域経済の構造と地方創生政策の評価方法を考えるための思考実験である。また、事業者には個人事業主も法人も含まれ、一つの事業者が複数の従業員や事業所を持つ場合もあるため、事業者数と就業者数は区別しなければならない。重要なのは人数や事業者数だけではなく、その人たちが地域の中でどのような所得、雇用、消費、付加価値、生活サービスを生み出し、それらをどの程度持続できるかという点にある。

人口が増えても、そのお金が町に残るとは限らない

 移住者100人には、当然ながら経済効果がある。住宅を借りたり購入したりし、食料を買い、車を利用し、医療を受け、電気や水道を使い、税金を払う。子育て世帯なら学校や保育サービスを利用し、働く世代なら地域企業の人手不足を補うこともある。地域外の企業に勤めながら移住する人や、年金などを受給している人であれば、町の外から得た所得を町内へ持ち込むことにもなる。かつて政府が日本版の高齢者居住共同体構想を検討した際には、単身高齢者100人が一人当たり月約15万円を消費すると仮定した場合、年間約1億8000万円の消費需要が生じるという試算が示された。計算は100人に月15万円と12か月を掛けたものであり、算術的に誤りはない。しかし、これは2015年頃の政策検討で使用された高齢者移住モデルであって、2026年の一般的な移住者100人の消費実態を示す数字ではない。また、消費需要の総額がそのまま移住先の町内で支出されることを意味するわけでもない。

 ここで重要なのは、消費額と地域に生まれる所得を区別することである。町内のスーパーで食品を購入しても、商品が町外の卸売会社から仕入れられていれば、売上の一部は仕入代金として町外へ支払われる。住宅ローンの利息が町外の金融機関に支払われたり、電気通信料金が全国企業の収入になったりすることもある。日用品をインターネット通販で購入し、休日には隣の市の大型商業施設を利用する世帯もあるだろう。したがって、人口統計上は確かに町民が増えていても、その消費支出のすべてが町内企業の売上や町内で生み出される付加価値になるわけではない。人口が増えることと、地域の生産活動が同じ割合で拡大することは別の現象である。

 ただし、町外への支出をすべて損失と考えるのも適切ではない。町外企業から商品を調達することで価格を抑え、品質や品ぞろえを改善できる場合もあるし、隣接自治体の病院や商業施設を利用できることが、住民の生活水準を高める場合もある。地域経済政策で本当に問うべきなのは、支出を無理に町内へ閉じ込めることではなく、地域の所得や生産性、住民の生活水準を持続的に高めることである。

地域経済は「人口の数」だけではなく「所得の流れ」でできている

 環境省が提供する地域経済循環分析では、地域経済を生産、分配、支出という三つの側面から捉える。地域の企業や事業所がどれだけ付加価値を生み、その所得が住民や企業へどのように分配され、さらに地域内外でどのように使われるのかを分析することで、地域経済の構造を明らかにしようとするものである。ここでいう付加価値とは、簡単に言えば、企業などが生産活動によって新たに生み出した価値である。例えば、売上高5000万円の事業者が、商品や原材料、外部サービスなどの中間投入に4000万円を要していれば、単純化した計算では付加価値は1000万円となる。この付加価値は、従業員への給与や事業者の利益などにつながるが、そのすべてが町内に住む人の所得になるとは限らない。町外居住者への給与や域外企業への利益配分があれば、付加価値が町内で生まれていても、その一部は町外へ分配される。

 反対に、町内に住みながら町外の企業で働く人の給与や、町外から受け取る年金などは、町内で生産された付加価値ではなくても住民の所得を形成する。したがって、地域内で生み出される付加価値と、地域住民に分配される所得は必ずしも一致しない。この違いを理解すると、人口減少地域の見え方が変わってくる。人口100人を増やすことは、町に新しい消費需要や労働力をもたらすことに相当する。しかし、地域内にそれらを受け止める企業やサービスが少なければ、需要の多くは町外の企業によって満たされることになる。一方、町内で必要な商品やサービスを提供する事業者が増えれば、従来は町外で行われていた経済活動の一部を町内で担えるようになる。

 さらに、町外へ商品やサービスを販売する企業が成長すれば、地域内の需要だけに依存せず、町の外から収入を獲得することができる。人口増加は主として需要や労働供給を変化させ、事業活動はその需要や労働力を生産、雇用、所得へ結び付ける。ただし、移住者自身が働き、事業を起こし、町外から所得を得ることもあるため、人口と事業を完全に別の経済主体として考えることはできない。なお、環境省の分析で使用される地域経済循環率は、住民が使ったお金のうち何割が町内に残ったかを単純に示す指標ではない。地域内の生産による所得と、地域に分配される所得の関係を見る指標であり、地域内消費割合や地域内調達率とは意味が異なる。循環率が高ければ必ず住民が豊かであるというわけでもないため、地域内総生産、住民所得、域際収支、消費行動などを組み合わせて判断する必要がある。

売上高が大きい事業者ほど、地域への効果が大きいのか

 事業者を増やす政策を評価するとき、最も注意しなければならないのは、売上高と地域への経済効果を混同しないことである。年間5000万円を売り上げる会社が10者あれば、売上高の合計は5億円になる。しかし、その5億円すべてが地域の所得になるわけではなく、仕入代金や外注費などを差し引いた付加価値が、地域経済への生産面からの貢献を考えるうえで重要になる。例えば、町内の事業者が町外から4000万円分の商品を仕入れ、5000万円で販売した場合、売上高は5000万円であっても、そこから新たに生み出された付加価値は単純計算で1000万円となる。反対に、同じ5000万円の売上高でも、地域内の労働や技術を多く利用し、中間投入が少ない事業であれば、より多くの付加価値を生み出す場合がある。売上高が同じだからといって、地域への貢献額も同じとは限らないのである。

 さらに、地域内の取引が増えた場合にも注意が必要である。パン屋が農家から食材を仕入れ、農家が設備修繕を依頼し、修繕業者がパン屋で買い物をすれば、地域内に複数の取引が生じる。しかし、それぞれの売上高を単純に合計すると、同じ原材料や中間投入の価値を重複して数える可能性がある。産業連関分析では、こうした取引のつながりを考慮して経済波及効果を推計するが、取引総額が増えたことと、それと同額の付加価値が新たに生まれたことは区別しなければならない。また、経済波及効果は無条件に拡大するものではない。地域内に必要な技術者や従業員がいなければ、新規需要を町内企業だけで処理することは難しく、町外への外注や仕入れが増える場合もある。設備や労働力の供給が限界に達していれば、需要増加が生産量ではなく価格の上昇として現れることもあるため、地域の供給能力を考慮せずに経済効果を見積もることはできない。

100人と10事業者を数理的に比較してみる

 ここで、仮定をそろえながら、移住者100人と事業者10者による経済効果を試算してみたい。ただし、以下の数字は実際の自治体で観測された統計値ではなく、比較方法を説明するために設定した仮定である。また、地域外から新たに得る所得と、地域内で新たに生み出される付加価値は異なる概念であることにも注意が必要となる。まず、100人の移住者が、一人平均年間300万円の所得を町外から得ているとする。この場合、100人が新たに町へ持ち込む所得は年間3億円になる。さらに、そのうち60%が町内で消費され、町内消費額の40%に相当する付加価値が町内で生まれると仮定すれば、3億円に0.60と0.40を掛けた7200万円が、直接的な町内付加価値の増加額となる。

 次に、10者の事業者がそれぞれ町外へ年間5000万円の商品やサービスを販売し、合計5億円の売上高を得る場合を考える。この売上高に対する地域内付加価値の割合が30%なら、付加価値は1億5000万円となる。ただし、その一部が既存の町内事業者から売上を移した結果であれば、地域全体では新しい価値がすべて純増したわけではない。そこで、既存活動との置き換えなどを調整した純増割合を80%と仮定すると、地域内付加価値の純増額は年間1億2000万円となる。この仮定では、移住者100人による直接的な町内付加価値増加額が7200万円であるのに対し、事業者10者による純増額は1億2000万円となり、事業者側が大きくなる。しかし、事業者の付加価値率が10%、純増割合が50%であれば、計算結果は2500万円となり、今度は移住者側を下回る。つまり、付加価値率や既存事業への影響といった条件を変えるだけで、比較結果は逆転するのである。

 もちろん、この試算だけで政策の優劣が決まるわけではない。移住者が町外から得る所得3億円には、それ自体が住民の生活を支えるという価値があり、すべてを町内で消費しなければ意味がないわけではない。また、移住者が地域企業で働くことによる生産面の効果や、事業者の従業員が町内で所得を使うことによる追加的な波及効果、公共サービスの費用、生活の利便性向上などは、これらの簡単な計算には含まれていない。したがって、この試算が示しているのは、事業者10者が移住者100人より優れているという結論ではなく、比較する指標と仮定を明確にしなければ、人数だけでは経済効果を判断できないということである。

一軒の店がなくなっても、人口統計には何も起きない

 海辺の小さな町を想像してみる。そこで唯一の鮮魚店が閉店したとしても、翌日の住民基本台帳には何の変化もない。町の人口は昨日と同じ3000人であり、人口統計だけを見ている限り、地域の生活環境に何が起きたのかは分からない。しかし、住民の暮らしには変化が生じる可能性がある。魚を買うために隣町まで車を走らせる人が増え、せっかく隣町まで出掛けるのだから、野菜や日用品までそこで購入するようになるかもしれない。この場合、鮮魚店の閉店は魚の販売だけでなく、他の商品に関する町内消費にも影響を与えることになる。

 さらに、高齢になって自動車を運転できなくなった人にとっては、これは単なる買い物先の変更では済まない。「魚をどこで買うか」という問題が、やがて「この町で生活を続けられるか」という問題に変わる可能性があるからである。徒歩で利用できる店がなくなり、公共交通や移動販売も十分ではない地域では、一軒の店舗が果たしていた役割が、売上高以上のものだったことに初めて気付く場合もある。もっとも、一軒の鮮魚店が閉店すれば必ず他の消費まで町外へ流れる、と断言できるわけではない。他店舗の品ぞろえ、交通条件、年齢構成、宅配サービスの普及などによって住民の行動は異なるし、別の町内事業者が新たな需要を取り込む場合もある。重要なのは、店舗の経済的価値がその店の売上高だけでは測れないということであり、人口統計にも企業統計にも十分に表れない生活機能が地域には存在しているという点にある。

一人の事業者が、何人分もの需要を支えることがある

 住民一人が町に加わると、その人の所得、消費、労働、税負担、公共サービス需要などが新たに地域経済へ関係する。一方、事業者は複数の住民や企業から需要を集め、それを生産、所得、雇用、取引関係に変えることがある。したがって、事業者一人の存在が、人口一人分という尺度では捉えきれない影響を持つことは十分に考えられる。例えば、小さなパン屋が開業したとする。経営者一人が移住してきただけなら、人口増加は一人である。しかし、そのパン屋が二人を雇い、近隣農家から食材を仕入れ、町内の電気工事店に設備修理を依頼し、近くの宿泊施設へパンを納めるようになれば、一つの事業が複数の経済関係を形成することになる。さらに、観光客がそのパンを購入すれば、町外から売上を獲得する機会も生まれる。

 ここで注目すべきなのは、パン屋という事業が一人分の消費を増やしたのではなく、地域に存在する需要と供給を結び付けたことである。従来は町外から購入していた商品を地元で供給できるようになれば、地域内の付加価値が増える可能性があり、地域外の顧客を獲得できれば町内市場の規模を超えて事業を成長させる余地も生まれる。2025年版の小規模企業白書でも、小規模事業者は雇用や付加価値の創出だけでなく、人口の少ない地域で商業や生活サービスを維持する主体として位置づけられている。また、小規模事業者は損益分岐点となる売上高が比較的低い傾向にあり、大きな需要が存在しない地域にも立地できる可能性がある一方、売上高が少し減少するだけで利益が失われやすいという経営上の弱さも抱えている。

 この二面性は人口減少地域では特に重要である。大きな売上が必要な企業には成立しにくい市場でも、小規模な事業であれば継続できる可能性がある反面、人口減少によって顧客数が減れば、その小規模事業自体の存続が危うくなることもある。事業者が地域を一方的に救うのではなく、地域住民の存在が事業者を支え、事業者が地域住民の暮らしを支えるという相互依存関係があるのである。

では、10者の事業者なら何でもよいのか

 ここが最も重要なところである。事業者を10者増やせば、それだけで移住者100人より地域に大きな効果を生むわけではない。地域の市場規模がほとんど変わらない状態で似たようなカフェが10軒増えたとしても、町民が飲むコーヒーの量が突然10倍になるわけではなく、新しい店に客が移ることで既存店の売上が減少する可能性がある。こうした既存活動から新規活動への需要の移転は、置換効果として考えることができる。もちろん、新しい店が魅力的な商品を提供して町外から客を呼び込んだり、従来は町外で消費されていた需要を町内へ取り戻したりする場合には、地域全体の需要が増える可能性もある。しかし、地域内で売上を奪い合うだけなら、事業者数が増えても地域全体の付加価値や住民所得がほとんど増加しない場合がある。

 特に人口減少地域では、日常的な消費需要そのものが縮小する可能性があるため、事業者数の増加を地域経済の成長と同一視することはできない。新規創業が10者あっても、同じ期間に既存事業者が12者廃業すれば、事業者数の純増どころか純減が生じる。したがって、開業数だけではなく、廃業数、存続率、雇用、付加価値、地域内外の取引、既存事業への影響を確認する必要がある。

 では、どのような事業者なら地域への追加的な価値が大きいのだろうか。例えば、それまで町外の事業者へ支払っていた住宅修繕を町内の会社が担うようになれば、従来は地域外で行われていた生産活動の一部を町内に移せる可能性がある。地域の農産物を加工して都市部へ販売する企業が生まれれば、町外市場から収入を獲得できる。さらに、買い物配送、空き家管理、生活交通、訪問介護など、供給が不足していたサービスを担う事業者が現れれば、経済活動と同時に地域の生活機能を維持することにもつながる。ただし、こうした事業も、町内に立地すれば必ず成功するわけではない。需要の規模、料金設定、顧客の支払い能力、人材確保、設備投資、事業継続性などによって成果は変わる。地域に必要な仕事であることと、その仕事が採算の取れる事業として成立することは、分けて考えなければならないのである。

新しい事業者を増やすことだけが地方創生ではない

 人口減少地域の事業者政策を考えるとき、新規創業にばかり注目することにも問題がある。町に必要な生活サービスが既に存在していても、経営者の高齢化や後継者不足によって廃業が迫っている場合には、新しい事業者を呼び込むより、既存事業を存続させる方が合理的なこともある。例えば、住宅修繕を担う工務店が町内に一軒しかなく、経営者の引退によって廃業する可能性が高い場合を考えてみたい。新しい業種の事業者を一者増やしたとしても、工務店が失われれば住宅維持機能は弱くなる。反対に、新規事業者数が増えなくても、後継者が事業を引き継ぎ、修繕サービスが維持されれば、地域の生活条件を守るという成果が生まれる。

 さらに、一つの事業者が複数のサービスを提供したり、複数の事業者が設備や人員を共同利用したりする方法も考えられる。商店が商品販売と配送を組み合わせ、交通事業者と協力して高齢者の買い物を支援するなど、地域内の限られた人材や設備を複数の用途に利用できれば、独立した事業者を多数増やさなくても、生活機能を充実させられる可能性がある。2025年に閣議決定された地方創生2.0基本構想でも、人口減少を前提とした地域の経済活動や生活機能の維持が重視されている。生活サービスを複合的に提供する拠点や、複数の主体が連携する仕組みも政策上の論点となっており、単純な人口増加だけでは地域の持続可能性を評価できないという考え方は、国の政策とも整合している。

 したがって、事業者政策の成果は、新規開業数だけで測るべきではない。必要な事業がどれだけ存続し、どのようなサービスが新たに利用できるようになり、住民が将来にわたってそれらを利用できる見通しがどれほど改善したかを評価する必要がある。重要なのは、事業者を何者増やしたかという数だけではなく、地域の供給能力をどれだけ維持・改善できたかという実質的な成果である。

生活に必要な事業は、人数だけでは成立しない

 ここで、事業者数とサービスの供給能力を区別する必要がある。例えば、地域に訪問介護事業者が必要だからといって、介護の経験がある人が一人移住してくれば、直ちに介護保険制度上の訪問介護事業所を開設できるわけではない。指定訪問介護事業所には、原則として訪問介護員等を常勤換算で2.5人以上配置するなどの人員基準があり、サービス提供責任者等の配置や運営基準への対応も必要になる。同様に、住民の移動を支える有償の旅客運送には、事業形態に応じて道路運送法上の許可や登録などが必要になる場合があり、自動車と運転手が一人いれば自由に事業を始められるわけではない。医療サービスにも、医師などの専門職に加えて、施設、設備、人員配置、法令上の手続きといった条件が関係する。

 このように、専門職一人、事業者一者、事業所一か所は、それぞれ異なる概念である。一人の専門職が地域に加わることには価値があるが、必要なサービスを安定的に供給するためには、複数の人員や制度上の条件が必要になることもある。逆に、既存事業所の人員体制が改善すれば、事業者数を増やさなくてもサービスの供給量を増加させられる場合もある。人口減少地域では、人材の確保そのものが難しいことが多いため、新規事業者の数だけを政策目標にするのは適切ではない。利用者の需要、必要な人員、設備、採算、制度上の条件を組み合わせ、実際に利用できるサービスがどれだけ増えるのかを確認することが重要になる。

「経済効果」と「暮らしを守る効果」は同じではない

 ここで、もう一つ区別しておかなければならないことがある。地域にとっての「効果」とは、そもそも何を意味するのかという問題である。地域内総生産が増えることを効果と考えることもできるし、住民所得や雇用、自治体税収の増加を重視する考え方もある。しかし、人口減少地域では、それだけでは十分ではない。高齢になっても買い物や通院ができ、家が壊れたときには直してもらえ、日常生活を続けられるという生活維持の価値もまた、地域にとって重要だからである。

 同じ事業者でも、何を評価するかによって価値は異なる。地域外へ年間数億円の製品を販売する会社は、付加価値や雇用の面で大きな役割を果たすかもしれないが、高齢者の日常生活を直接支えるとは限らない。一方、小さな移動販売事業は、地域内総生産への寄与が比較的小さくても、自動車を運転できない高齢者にとっては、住み慣れた町で生活を続けるための重要な基盤になる。しかも、生活維持の価値は売上高だけでは測れない。移動販売があることで遠方への買い物回数が減り、家族の送迎負担が軽くなり、高齢者が外出困難を理由に転居する可能性が下がるのであれば、そのサービスには利用者が支払った代金以外の便益も存在する。ただし、その便益の大きさを把握するには、利用実態、移動距離、交通費、家族の負担時間、健康状態などを調査する必要があり、サービスが存在するというだけで定量的な効果を断定することはできない。

 したがって、事業者10者と移住者100人を比較する場合、地域内総生産や雇用の増加といった経済指標だけでは不十分である。買い物、医療、介護、交通、住宅維持などのサービスを利用できるかという生活面の指標も必要になる。経済成長と生活機能の維持は重なり合う部分があるものの、常に同じ方向へ動くとは限らないのである。

町内で完結することが、必ずしも最善とは限らない

 地域経済循環を重視する際には、行政区域と実際の生活圏が一致していないことにも注意が必要である。小さな町では、すべての医療、商業、教育、介護、交通サービスを町内だけで完結させることは現実的ではなく、近隣自治体との分業によって生活が支えられている場合が多い。例えば、御宿町の住民がいすみ市や勝浦市の医療機関や店舗を利用することは、町の境界だけを基準にすれば町外への支出になる。しかし、近隣自治体の施設を利用する方が、町内に同種の施設を新設・維持するよりも費用が小さく、サービスの質も高い場合がある。町外への支出を減らすことだけを目的として、採算の取れない施設を町内に維持する政策が、必ずしも住民全体の利益になるとは限らない。

 さらに、隣接する自治体との分業によって、医療や買い物、交通などの生活機能を広い範囲で維持できれば、各自治体がすべてのサービスを個別に整備する必要はなくなる。人口規模の小さい地域では、行政区域ごとの自給自足よりも、生活圏全体で必要なサービスにアクセスできる仕組みの方が合理的な場合がある。もちろん、近隣自治体に施設が存在していても、そこまで移動する交通手段がなければ、実質的に利用できないこともある。重要なのは、町内に施設があるかどうかだけではなく、住民が必要なサービスに適切な時間、費用、負担でアクセスできるかということである。地域経済の強さを測る単位も、自治体の境界だけでなく、実際の通勤、買い物、医療、介護などの生活圏に応じて考える必要がある。

それでも移住者100人には大きな価値がある

 ここまで読むと、人口政策よりも事業者支援の方が優れているという話に見えるかもしれない。しかし、そう単純ではない。地域で事業を継続するには顧客と働き手が必要であり、人口が減り続ければ、住民向けの商売は需要と労働供給の両面で制約を受けることになる。若い世帯を中心に100人が移住してくれば、住宅、飲食、小売、教育、保育、交通、修繕など、多くの需要が長期間にわたって生まれる可能性がある。町内企業で働けば人手不足の改善にもつながり、地域外の企業に勤めながら移住する人であれば、町外から得た所得を地域に持ち込むことにもなる。子どものいる世帯が増えれば、学校や保育サービスの利用者を一定程度確保することにもつながるだろう。

 ただし、移住者が100人増えれば、自治体の財政が必ず改善するわけではない。住民税や固定資産税などの税収が増える可能性がある一方、教育、保育、福祉、道路、水道などの行政サービスにも費用がかかる。移住者の年齢、所得、世帯構成、住宅の立地によって収入と支出の関係は異なり、人口が増えることによる自治体財政への純効果は、税収だけでなく追加的な行政費用も含めて検証しなければならない。さらに、移住者が住宅や仕事を求めることで、既存住民との間に資源の競合が生じる場合もある。住宅供給が限られた地域では家賃や住宅価格が上昇することがあり、人手不足の緩和だけでなく、地域内の雇用や事業構造が変化する可能性もある。移住者の増加には多くの利点があるものの、人数だけで経済的・社会的な純効果を決めることはできない。

 それでも、移住者の存在は事業者政策にとって重要である。移住者は消費者であるだけでなく、生産者、労働者、納税者、地域活動の担い手、そして将来の起業家にもなり得る。したがって、移住者と事業者を競争相手として比較するよりも、両者が地域の中でどのような役割を果たし、互いにどのような効果を与えるのかを考える方が合理的なのである。

「人口を増やせば店が増える」という順序を疑ってみる

 地方創生には、人口が増えれば消費が増え、消費が増えれば店が増え、その店が雇用を生み、さらに町の魅力が高まるという考え方がある。この順序は経済学的にも自然であり、一定の条件のもとでは実際に成立し得る。しかし、人口減少が急速に進む小さな自治体では、人口が十分に増えるまで事業者が存続できるとは限らない。例えば、人口が減少してスーパーが撤退し、ガソリンスタンドが閉店し、住宅修繕業者が廃業し、交通事業者まで撤退すれば、地域の生活環境は徐々に不便になる。人口が少ないから店がなくなるという関係だけなら、人口を増やすことで解決できるように見えるが、生活サービスが減ったことで移住先として選ばれにくくなり、さらに住民の転出が増えるという逆方向の因果関係も考えられる。

 このような関係が強く働けば、人口減少が生活サービスの縮小を招き、その縮小が人口減少をさらに促すという悪循環が成立する可能性がある。特に、店舗や事業所には採算を確保するために必要な売上規模があるため、地域の需要が一定の水準を下回った段階で、サービス供給が急に失われることも理論的には考えられる。ただし、実際にどの人口規模で、どのサービスが、どの程度の速さで失われるかは地域によって異なる。事業者の費用構造、交通条件、近隣地域の施設、観光客など町外からの需要、行政支援の有無によっても結果は変わる。また、店舗の減少と人口流出が同時に観測されたとしても、それだけで店舗減少が人口流出の原因だと断定することはできない。両方に影響する雇用環境や高齢化などの要因を考慮した実証分析が必要だからである。

 それでも、人口が増えるまで待つのではなく、現在の住民が必要とするサービスを先に維持するという政策には合理性がある。生活サービスの存続が移住者の定着や新たな転入にも寄与するのであれば、事業者政策は人口政策を補完することになる。それは移住政策を諦めることではなく、将来の移住者が選ぶことのできる町を維持するという発想である。

事業者10者を増やす政策は、どう評価すべきなのか

 では、実際に地方自治体が移住者の増加と事業者の育成を比較する場合、何を調べればよいのだろうか。まず必要なのは、評価する期間と成果指標をそろえることである。移住者100人の効果を10年間で考え、事業者10者の効果を開業初年度だけで判断するような比較では、結果が偏ってしまう。次に、移住者数については転入者の総数だけでなく、転出者を差し引いた社会増減や、その後の定住状況を確認する必要がある。事業者についても、新規開業数だけでなく廃業数、存続率、雇用人数、付加価値、地域外への売上、地域内での仕入れ、サービス供給能力などを調べなければならない。開業直後に10者が存在していても、数年後に多くが廃業していれば、長期的な成果は限定される可能性がある。

 さらに重要なのは、施策が実施されなかった場合と比較することである。例えば、起業支援を実施した自治体で事業者数が増え、地域所得も増加したとしても、それが支援政策によって生じたとは限らない。同じ時期に観光需要が回復したり、主要企業が設備投資を行ったりしたことが、所得増加の原因かもしれないからである。こうした因果関係を検証するには、条件の近い自治体を比較し、政策実施前後の変化を分析する方法などが考えられる。ただし、人口構成、産業構造、交通条件などが異なる自治体を単純に比較しても適切な結果は得られないため、比較対象の選び方や政策実施前の傾向を慎重に確認する必要がある。

 また、政策には費用がかかる。移住者100人を獲得するために住宅補助や移住支援金などをどれだけ支出したのか、事業者10者を育成するために補助金、施設整備、相談支援、人材育成などへどれだけ投資したのかを把握しなければ、費用対効果は比較できない。仮に事業者政策の経済効果が大きくても、それを実現するために非常に大きな公費が必要なら、別の政策の方が合理的な場合もある。つまり、自治体にとって本当に重要なのは、人口増加や開業件数といった成果の大きさだけではなく、投入した公的資源によって地域の所得、雇用、生活機能がどれだけ改善されたかということである。

地方創生の成績表を変えてみる

 経済産業省と内閣官房が提供するRESAS(Regional Economy Society Analyzing System・地域経済分析システム)でも、地域を見るための数字は人口だけではない。産業構造、事業所、従業者、消費、観光など、複数の指標を組み合わせることで、人口統計だけでは把握しにくい地域経済の特徴を分析できる。2026年6月には、市区町村単位の状況をまとめて確認できる地域経済総合分析も追加された。ただし、分析画面が新しくなったからといって、すべての統計が2026年時点のデータというわけではなく、指標によって調査年次や対象期間が異なるため、地域の現状を評価する際には元となる統計の時点を確認する必要がある。

 こうしたデータを利用するなら、地方創生の成績表そのものも変えてよいのではないだろうか。人口が20人増えた町を成功とし、20人減った町を失敗とするだけでは、実際の地域経済や生活環境を十分に評価できない。人口が減少していても、地域外から所得を獲得する事業が成長し、必要な住宅修繕や介護のサービスが維持され、住民が買い物や通院に困らなくなっているなら、地域の持続可能性は以前より改善している可能性がある。反対に人口が増えていても、住民の所得が伸びず、働く場所が少なく、住宅や交通などの生活基盤が十分に整備されていなければ、人口増加だけで政策を成功と評価するのは早計である。人口増加はそれ自体が地域社会にとって重要な変化であるものの、その変化が生活水準の向上や地域経済の強化につながったかどうかは、別途検証しなければならない。

 例えば、地域内で新たに生まれた付加価値、住民一人当たりの所得、地域外から獲得した収入、事業所の開廃業と存続率、必要な生活サービスへのアクセス、行政費用に対する成果などを組み合わせれば、人口だけでは見えなかった地域の変化を把握しやすくなる。もちろん、これらすべてを一つの点数にまとめることには限界があり、経済的な豊かさと生活の利便性をどの程度重視するかによって政策評価も変わる。それでも、人口という一つの数字だけで自治体の成果を判断するより、複数の指標によって地域の実態を捉える方が合理的である。地方創生の目的が、単に住民基本台帳の人数を増やすことではなく、住民が安心して生活を続けられる地域をつくることにあるなら、その目的に対応した成績表が必要なのである。

地域を支える10者とは誰なのか

 最初の問いに戻ろう。移住者100人より、地域を支える事業者10者を増やした方が効果は大きいのか。この問いに対して、科学的に一般化できる答えは存在しない。移住者の年齢、所得、職業、家族構成、消費行動が異なるように、事業者も業種、売上、付加価値、雇用人数、仕入先、顧客構成、事業継続性によって地域への影響が大きく変わるからである。

 地域内の既存需要を奪い合うだけの10事業者であれば、100人の移住者がもたらす新しい需要や労働力の方が、地域にとって大きな価値を持つ可能性がある。特に働く世代や子育て世帯の移住は、消費だけでなく地域企業の人材確保、学校や公共サービスの利用者確保にもつながり得るため、その価値を短期的な消費額だけで判断することはできない。反対に、地域外から所得を獲得する事業者、これまで町外で行われていた経済活動の一部を町内で担う事業者、地域住民を雇用する事業者、地元企業との取引を増やす事業者、生活に欠かせないサービスを供給する事業者が10者増えるのであれば、その影響は単純な10人分にはとどまらない可能性がある。さらに、必要なサービスを継続的に利用できることが既存住民の生活を支え、転出の抑制や将来の移住者の定着にも寄与するなら、事業者の価値は売上高だけでは説明できなくなる。

 しかし、重要なことは、必ずしも事業者を10者増やすことではない。既存の10者が廃業せずに存続すること、5者の事業者が協力して必要なサービスを維持すること、一つの事業所が後継者を確保して地域の生活機能を守ることにも、地域によっては同じか、それ以上の価値がある。つまり、比較すべきなのは人口100人と事業者10者という表面的な数ではなく、地域にどのような経済活動と生活機能が追加され、どの機能が失われずに済んだのかという実質的な変化なのである。

 そう考えると、事業者政策と移住政策は競争相手ではなくなる。事業者を育てることが雇用や生活サービスを生み、移住者が増えることが事業の顧客や働き手を増やす。さらに、既存事業者が継続できることが住民の定住を支え、住民が定住することによって事業の需要が確保されるという相互関係が成立する。人口と事業が互いを支える循環が生まれてこそ、人口政策と地域経済政策は同じ方向に向かうことができる。

 地方創生で本当に増やすべきものは、人口だけではないのかもしれない。町の中で誰かが困ったとき、「それなら、ここでできます」と答えられる人や事業所がどれだけ存在するのか。食べること、移動すること、働くこと、家を直すこと、老いることを、地域の中で、あるいは近隣地域と協力しながら、どこまで支えられるのか。そして、その仕組みを無理のない費用で、将来にわたって維持できるのか。人口表には、その答えは載っていない。事業所数や売上高の統計だけでも、十分には分からない。しかし人口が減少していく時代には、そうした数字の背後にある経済活動と生活機能の持続可能性こそが、町の将来を左右する重要な条件になる。移住者100人と事業者10者のどちらが大きいかを一律に決めるのではなく、人口と事業の双方が地域に何を残し、どのような暮らしを可能にするのかを問い直すことが、これからの地方創生には必要なのではないだろうか。

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家は、売れなくなっても消えてはくれない

 人がいなくなったあとにも、家は残る。屋根は雨を受け、雨樋には落ち葉が詰まり、締め切られた部屋では湿気が壁紙の裏へ入り込んでいく。持ち主が亡くなったからといって住宅まで一緒に消えてくれるわけではなく、むしろ人の生活が終わったところから、建物だけの長い余生が始まることがある。誰も住まない家にも時間は流れ、手入れをしなければ少しずつ傷みが進んでいく。

 日本の空き家政策では、これまで「どう使うか」が重要な問いになってきた。空き家バンクへ登録して移住者へ売る、中古住宅として流通させる、賃貸住宅や店舗、地域施設へ転用するなど、さまざまな取り組みが進められている。まだ十分に使える住宅を取り壊すより、次の利用者へ渡す方が経済的にも環境的にも合理的な場合は多く、こうした政策の必要性を否定する理由はない。

 しかし、人口が減り、住宅を必要とする世帯も減少していく地域では、使いたい人の数よりも、使われなくなった住宅の数が多くなることがある。住宅としての価値が残っていても、そこに住みたい人が現れなければ売買は成立しない。そこで空き家問題を売却や賃貸の仕組みだけで解決しようとすると、どれほど制度を整えても、次の利用者が見つからない住宅が残ってしまう。

 この問題を考えるとき、もう一つ必要になるのが、住宅を最後にどう処分するかという視点である。住宅は建てるときに費用がかかり、使っている間にも維持管理費がかかるが、役割を終えたときにも解体という支出が発生する。それにもかかわらず、住宅の取得時には建築費や住宅ローンが重視される一方で、数十年後の解体費用をどのように準備するかについては、制度的な議論が十分に進んでいるとは言いにくい。

900万戸の空き家は、すべて売れ残った住宅ではない

 総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」の確報によれば、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸となり、総住宅数に占める空き家率は13.8%に達した。どちらも過去最高であり、空き家数は2018年から51万3千戸増加している。この数字だけを見ると、日本には膨大な数の売れ残った中古住宅が存在するように思えるかもしれない。

 しかし、900万2千戸の内訳を見ると、そのような理解が正確ではないことが分かる。賃貸用の空き家は443万6千戸、売却用は32万6千戸、別荘などの二次的住宅は38万4千戸であり、これらを除いた空き家は385万6千戸となっている。賃貸用住宅には入居者の交代に伴う一時的な空室も含まれ、別荘には日常的な居住者がいなくても利用されている住宅があるため、空き家という分類だけで管理不全や市場価値の喪失を判断することはできない。

 一方、賃貸用、売却用、二次的住宅を除いた385万6千戸は、2018年から36万9千戸増加している。この区分にも長期不在の住宅や取り壊し予定の住宅などが含まれるため、すべてを解体対象とみなすことはできないが、住宅として積極的に流通していない建物が増えていることは確認できる。政策として重要なのは、900万戸を一括して問題視することではなく、その中から再利用できる住宅、管理を継続すべき住宅、除却が合理的な住宅を適切に区別することである。

 さらに、人口減少社会では住宅需要の地域的な偏りが大きな問題となる。国立社会保障・人口問題研究所の2024年推計では、全国の一般世帯数は2030年ごろの約5,773万世帯をピークに減少へ転じ、2050年には約5,261万世帯になると見込まれている。これは全国の推計であり、すべての地域で同じ時期に世帯減少が始まるという意味ではない。都市部で世帯数が増える一方、地方ではすでに減少が進んでいる地域もあり、住宅需要の地域差を考える必要がある。

売るための制度には、買う人が必要である

 住宅市場が市場である以上、売却政策には必ず買い手が必要になる。人口が増えている都市や交通利便性の高い地域なら、古い住宅を改修して次の世帯へ引き継ぐ循環を期待できる。しかし、空き家が増えている背景そのものに人口減少や世帯減少がある地域では、空き家情報を充実させただけで住宅需要が増えるわけではない。

 例えば、ある地域で今後10年間に住宅として供給できる空き家が100戸発生し、同じ期間にそれらの住宅を購入または賃借する需要が10戸分しかなければ、仲介制度を改善しても100戸すべてを住宅として流通させることはできない。実際の住宅需要には、地元住民の住み替え、地域外からの移住、別荘利用、事業利用なども含まれ、住宅の立地や状態によって市場性も大きく異なるため、この例はあくまで需給関係を説明するための単純化である。それでも、供給される住宅に対して十分な需要が存在しなければ、流通政策だけで解消できない空き家が生まれるという基本構造は変わらない。

 しかも、住宅は自動車や家電製品のように、需要のある地域へ簡単に移動させることができない。土地と一体となった不動産である以上、住宅そのものの品質が高くても、人口減少が進む地域や生活利便性の低い場所では買い手が限られる。価格を下げれば必ず売れるとも限らず、買い手にとって改修費や将来の維持管理費が大きければ、建物価格がほとんど付かない住宅もあり得る。

 空き家バンクや移住支援制度には、潜在的な需要と供給を結び付ける役割がある。情報不足や取引費用の高さが原因で売れなかった住宅を流通させる効果は期待できるが、地域全体の住宅需要そのものが不足している場合には限界がある。したがって、空き家対策には住宅を市場へ戻す政策だけでなく、市場で引き受けられなくなった住宅をどう処分するかという政策も必要になる。

日本の空き家問題には、相続という構造がある

 空き家の多くは、不動産投資の失敗によって突然市場へ現れた住宅ではない。国土交通省が2025年8月に公表した「令和6年空き家所有者実態調査」によれば、調査対象となった空き家の57.9%は相続によって取得されたものであり、その相続空き家の7割超は1980年以前に建築されていた。また、相続によって取得された空き家について、人が住まなくなった理由を調べると、所有者などの死亡が58.3%を占めている。

 ただし、この調査は全国の空き家900万2千戸すべての所有者を直接調べたものではなく、住宅・土地統計調査の回答世帯から一定の条件で対象を抽出した調査である。そのため、相続による取得割合を全国の空き家総数にそのまま掛けて、全国の相続空き家数を確定することはできない。また、死亡が契機となった58.3%という数字も、相続空き家についての割合であって、空き家全体の割合ではない点に注意が必要である。

 こうした統計上の限界を踏まえても、相続が空き家発生の重要な契機になっていることは読み取れる。親が長年暮らした住宅を子どもが相続しても、子どもにはすでに別の生活や住まいがあり、親の家へ戻る予定がない場合がある。住宅は財産として引き継がれるが、その財産には屋根や外壁の補修、庭木の管理、固定資産税、そして将来の解体費用まで付いてくるため、相続人にとって必ずしも経済的な利益だけをもたらすものではない。

 とりわけ、築年数が古く、修繕費が大きく、住宅需要も少ない地域では、建物を相続しても積極的に活用する動機が弱くなる。土地には一定の資産価値が残っていても、建物については維持管理費や除却費を考慮すると、実質的な経済価値が非常に小さくなる場合がある。住宅を所有することは権利であると同時に将来の支出を伴う行為でもあり、相続によってその支出を負担する人が変わることが、空き家問題を複雑にしている。

解体費用は、空き家を処分しない理由の一つになっている

 住宅を解体しない理由として、費用が重要な障壁になっていることは所有者の回答からも確認できる。令和6年空き家所有者実態調査では、今後5年間程度、空き家として所有し続ける意向を持つ世帯に対し、その理由を複数回答で尋ねている。その結果、「物置として必要」が55.8%で最も多く、「解体費用をかけたくない」が47.3%、「住宅が古い」が37.0%、「更地にしても使い道がない」が34.8%、「取り壊すと固定資産税が高くなる」が28.2%となっている。

 理由を順位付きで尋ねた集計では、「解体費用をかけたくない」を第1位とした割合が14.2%、第2位とした割合が13.7%である。これらは複数回答の47.3%とは集計方法が異なり、単純に合算して解釈するものではない。それでも、解体費用を負担したくないという意向が、空き家を所有し続ける理由の一つになっていることは明らかである。

 ただし、ここから直ちに、解体費用を補助すれば47.3%の世帯が住宅を取り壊すと結論づけることはできない。調査が測定しているのは所有者の意向であり、実際の解体行動ではないうえ、物置としての利用や跡地の使い道、税負担など、複数の理由が重なっている場合もある。解体費用を無料にしても、家族の思い出や将来の利用可能性を考えて所有を続ける人がいる一方、解体費用の一部を準備できれば処分を決断する人もいるだろう。その違いを明らかにするには、費用負担と実際の行動との関係をさらに調べる必要がある。

 ここで注目したいのは、住宅の取得時点と処分時点の間に数十年という時間差が存在することである。住宅を使って便益を得た人と、その住宅を最後に処分する人が一致しない場合、解体費用が十分に準備されないまま次の世代へ引き継がれる可能性がある。住宅の最終処分という支出が、所有者の死亡や相続という時期の読みにくい出来事と重なって発生することも、問題を難しくしている。

住宅にも「最後の日」の費用を積み立てられないか

 そこで検討したいのが、住宅の所有期間中に将来の除却費用を準備しておく「住宅解体積立制度」である。住宅を建築または取得した段階から、将来の解体費用の一部を長期間にわたって積み立て、実際に解体するときにその資金を使えるようにする。相続や売却によって所有者が変わっても、原則として積立金を住宅とともに承継できる仕組みを設ければ、住宅を利用してきた期間に処分費用を少しずつ負担するという考え方が成立する。

 もちろん、このような制度が現在の日本で全国一律に導入され、その効果が実証されているわけではない。積立制度を導入すれば空き家問題が解決すると断定することもできず、ここから先は統計から直接導かれる事実ではなく、住宅の所有と処分に伴う費用負担のあり方についての政策仮説として考える必要がある。

 住宅の解体費用を将来の相続人へ任せるのではなく、その住宅を使っている期間から準備するという考え方には、経済学でいう費用の内部化という側面がある。住宅の利用によって利益を得る人が、その住宅を安全に処分するための費用についても一定の責任を負うことで、将来の所有者や地域社会へ負担を先送りする問題を小さくしようとするものである。

 ただし、積立によって将来の解体費そのものが安くなるわけではない。積立制度の基本的な効果は、まとまった支出を長い期間へ分散し、解体時の資金不足を軽減することにある。制度の管理費が発生すれば総費用が増える場合もあり、資金を長期間拘束することによる所有者側の負担も考慮しなければならない。それでも、ある日突然数百万円の支出を求められる状況と、何十年もかけて処分費用の一部を準備してきた状況とでは、所有者が選択できる対応が違ってくる可能性がある。

 制度の目的は住宅を積極的に壊すことではない。売れる住宅は売り、貸せる住宅は貸し、新しい用途が見つかる住宅は活用する一方で、住宅としての役割を終え、利用需要も見込めず、維持することが合理的でなくなった建物について、解体費用の不足だけを理由に処分できない状態を減らすことが目的なのである。

40年間の積立で、将来の解体費用は準備できるのか

 積立制度を考えるとき、実際にいくら積み立てればよいのかという問題は避けられない。例えば、年間3万円を40年間積み立てれば120万円、年間5万円なら200万円になる。これは利息や物価変動を考えない単純な計算であり、制度の基本的な仕組みを説明するには分かりやすいが、40年後の解体費用を十分に準備できることを意味するわけではない。

 仮に、現在200万円で解体できる住宅について、解体費用が毎年2%ずつ上昇すると仮定すれば、40年後の費用は約441万6千円となる。一方、年間5万円を40年間積み立てても、運用利回りがゼロなら200万円、毎年2%で複利運用できた場合でも約302万円にとどまる。この条件では、物価上昇率と運用利回りが同じ2%であっても、年間5万円の積立では必要な解体費用を賄えず、約140万円の不足が生じる計算になる。

 同じ条件で約441万6千円を40年間で準備するには、毎年末に約7万3千円を積み立てる必要がある。ただし、これは現在の解体費用を200万円、将来の費用上昇率と運用利回りをそれぞれ年2%と仮定した試算であり、実際の解体費用や将来の運用収益を予測した数字ではない。解体費用の上昇率が変われば必要な積立額も変わり、途中で住宅を解体することになれば積立期間も短くなる。

 現実の解体費用は、住宅の延べ床面積や構造だけでなく、重機が入れる道路の有無、隣家との距離、地形、廃棄物の運搬距離などによって大きく異なる。吹き付けアスベストなどの有害物質が見つかれば、調査や除去のために追加費用が発生する場合もある。こうした条件を考えると、全国すべての住宅に同じ積立額を設定する方法では、過大な負担となる住宅と、解体時に大幅な資金不足が生じる住宅が出てくる可能性がある。

 したがって、制度を設計するなら、建物の規模や構造、立地条件に応じた積立額の設定と、将来費用の見直しが必要になる。また、想定より早く解体する場合、住宅を長寿命化して使い続ける場合、災害で建物が失われる場合などにも対応できなければならない。積立金の運用方法についても、安全性と収益性を区別し、将来必要になる資金が大きく失われないようにすることが求められる。

家を壊しても、土地の問題が残る

 解体積立制度を考えるうえで、もう一つ見落とせないのが、住宅を取り壊した後の土地の扱いである。建物を除却すれば老朽化した住宅による倒壊や部材の飛散などの危険を減らせるが、土地そのものがなくなるわけではない。更地になった後にも、雑草や樹木の管理、境界の確認、固定資産税の支払いなどは残り、土地の需要が少ない地域では売却が難しい場合もある。

 とりわけ、住宅用地に対する固定資産税の特例は、所有者の判断に影響する。住宅が建っている土地では、原則として200平方メートル以下の小規模住宅用地に係る固定資産税の課税標準が固定資産評価額の6分の1、200平方メートルを超える部分の一般住宅用地では3分の1となる特例がある。住宅を取り壊して住宅用地ではなくなれば、通常はこの特例の対象から外れるため、解体後の税負担が増える可能性がある。ただし、実際の税額には負担調整措置などが関係するため、住宅を壊したら必ず固定資産税が6倍になるという理解は正しくない。

 空き家所有者実態調査で「更地にしても使い道がない」と回答した割合が34.8%、「取り壊すと固定資産税が高くなる」が28.2%だったことは、この問題を考えるうえで重要である。解体費用を準備できたとしても、解体後の土地を利用できず、税負担や維持管理費だけが残るなら、所有者が解体を先送りする可能性はある。つまり、積立制度だけでは除却を妨げるすべての要因を取り除くことはできない。

 政策として解体を促すなら、跡地をどのように管理し、どのような用途へ転換するかという問題も同時に考える必要がある。地域によっては駐車場や菜園、防災空地、隣接地への売却などが選択肢になり得るが、どの地域でも跡地利用の需要があるとは限らない。住宅の出口をつくることと、建物がなくなった後の土地の将来を考えることは、切り離せない課題なのである。

現在の空き家政策も「活かす」と「しまう」を重視している

 現在の日本に、住宅の除却を促す制度が存在しないわけではない。2023年12月13日に施行された改正空家法では、放置すれば「特定空家等」になるおそれのある住宅などについて、市区町村が「管理不全空家等」として指導や勧告を行えるようになった。勧告を受けた管理不全空家等の敷地については、固定資産税の住宅用地特例が解除される仕組みも設けられており、住宅が深刻な危険を及ぼす状態になる前から適切な管理や改善を促そうとしている。

 国土交通省も、空き家対策を「活かす」だけでなく「しまう」という言葉で説明している。売却や賃貸、用途転換によって住宅を活用する一方、老朽化などによって利用が難しくなった住宅については、解体して跡地を活用することも選択肢として示している。これは、住宅を残し続けることだけが空き家対策ではなく、役割を終えた住宅を適切に処分することも政策に含まれていることを意味する。

 除却への公的支援も存在する。2026年度の国土交通省の資料では、空き家再生等推進事業や空き家対策総合支援事業において、一定の条件を満たす除却などへの支援が示されている。例えば、対象事業で所有者が解体を実施する場合、補助対象となる費用について国が5分の2、地方公共団体が5分の2、所有者が5分の1を負担する枠組みが設けられている。

 もっとも、この負担割合は、一般の空き家なら全国どこでも所有者が費用の5分の1を支払うだけで解体できるという意味ではない。空家等対策計画の対象地区であることや、建物の状態、跡地利用などの要件があり、補助対象となる費用や上限額、自治体側の制度整備にも条件がある。実際にどの程度の補助を受けられるかは、住宅と自治体ごとの条件によって異なる。

 既存の公的支援と解体積立制度の違いは、費用を準備する時点にある。現在の補助制度が、政策上支援する必要が認められた除却に対して公費を投入する仕組みであるのに対し、積立制度は住宅を利用している時期から将来の処分費用を準備する。前者は一定の条件を満たす除却を支援し、後者は将来必要になる費用を時間の中へ分散させるものであり、両者は必ずしも対立する制度ではない。むしろ、積立金で賄いきれない費用や、特に公共的な必要性が高い除却を公的支援で補うなど、組み合わせて考える余地がある。

公費だけに頼る解体には、公平性と費用回収の問題がある

 危険になった住宅をすべて税金で取り壊せばよいという考え方もある。しかし、その方法を広く採用するなら、所有者間の公平性を考える必要がある。住宅を長年管理し、最後には自費で解体した人がいる一方で、管理を怠った住宅だけ公費で処分されるなら、適切に対応した人より放置した人が経済的に有利になる場合がある。そのような状況が一般化すれば、自分で費用を負担するより行政の対応を待とうとする誘因が生まれる可能性もある。

 ただし、ここで区別しなければならないのは、行政が解体することと、所有者の費用負担が免除されることは同じではないという点である。空家法に基づく行政代執行などでは、原則として所有者等に費用を請求し、徴収する仕組みが存在する。したがって、行政が危険空き家を取り壊したからといって、所有者が当然に解体費用を負担しなくてよいわけではない。

 一方で、所有者の資力が不足している場合や、所有者が不明で費用回収が困難な場合には、自治体側に負担が残る可能性がある。地域の安全を守るために行政が緊急対応を行うことには公共的な必要性があるものの、その費用を最終的に誰が負担するかという問題は別に残る。住宅を所有することによって得られる利益と、適切な管理や処分に必要な費用をどのように配分するかという視点が必要なのである。

 解体積立は、所有者に罰金を課すという発想とは異なる。将来必要になる処分費用を住宅の利用期間にわたって準備することで、費用負担が特定の相続人や自治体へ突然集中する事態を減らそうとするものである。ただし、積立義務を課すこと自体にも公平性の問題があり、低所得の所有者や高齢者、住宅需要の少ない地域の住民に過大な負担を与えない制度設計が求められる。

積立金を建物とともに引き継ぐ仕組みは簡単ではない

 住宅解体積立制度を実際に導入しようとすれば、積立金を誰が保有し、誰が管理するのかという法的な問題が生じる。日本の不動産制度では土地と建物が別個の不動産として扱われるため、資金を建物にひも付けるのか、土地にひも付けるのかによって仕組みが異なる。建物と土地の所有者が別である場合や、建物を建て替えた場合、相続人が複数いる場合などにも対応できなければならない。

 例えば、住宅が売却されたときに積立残高を次の所有者へ引き継ぐとするなら、その残高を住宅の売買価格にどのように反映させるかが問題になる。100万円の積立金がある住宅でも、買い手が住宅を100万円高く評価するとは限らず、将来の積立義務が残っていれば、その負担を購入価格から差し引いて考える可能性もある。積立金が存在することによる便益と、将来の負担が不動産価格へ及ぼす影響を、分けて検討する必要がある。

 さらに、積立金を所有者の一般財産から分離して安全に管理するなら、用途外の引き出しを防ぐ仕組みが必要になる。所有者が破産した場合、積立金を差し押さえられるのか、住宅が滅失した場合に残額をどう扱うのか、積立が不足した状態で売却されたときに誰が追加負担するのかという問題もある。現行の不動産登記制度だけで、積立金が建物の売買や相続に伴って自動的に承継されるわけではなく、確実な承継を実現するなら法制度上の整備が必要になる。

 将来の廃棄費用を事前に準備するという考え方自体は、他分野にも存在する。例えば、一定の事業用太陽光発電設備では、将来の廃棄等費用を確保するための積立制度が設けられている。ただし、住宅は所有形態や利用年数が多様であり、相続や建て替えも発生するため、他分野の仕組みをそのまま導入できるわけではない。住宅について実現するなら、既存制度との整合性を検討しながら、長期間にわたって資金を保全できる仕組みを構築する必要がある。

 加えて、すでに存在する古い住宅をどのように扱うかという移行問題も避けられない。新築住宅なら完成時から長い期間をかけて準備することができるが、築50年の住宅を所有する高齢者に突然高額の積立義務を課せば、住宅を処分できない人へ新たな負担を加える結果になりかねない。制度を導入するなら、新築住宅から段階的に始めるのか、既存住宅には任意積立や公的補助を組み合わせるのか、所得や建物の状態に応じた措置を設けるのかという慎重な判断が必要になる。

壊すことが、常に経済的にも環境的にも正しいわけではない

 住宅の解体を政策として考える場合には、費用負担だけでなく環境への影響も検討しなければならない。まだ十分に使用できる住宅を取り壊せば、建築時に投入された資材やエネルギーを利用し続ける機会が失われ、廃棄物の発生や運搬、処理による環境負荷も生じる。建設リサイクル法では、一定規模以上の解体工事について分別解体や再資源化が義務付けられているが、適切に再資源化したとしても、解体そのものに資源やエネルギーが必要なことは変わらない。

 一方、老朽化した住宅を維持し続けることにも費用や環境負荷があり、建物の状態によっては安全性の問題が生じる。修繕を重ねて長期間利用することが合理的な住宅もあれば、大規模改修に多額の費用をかけても十分な利用需要が見込めず、除却した方が社会的な負担を小さくできる住宅も考えられる。

 したがって、科学的には「古い住宅は壊すべきだ」「解体は環境に悪いから避けるべきだ」という一律の判断は適切ではない。建物の残存寿命、耐震性、改修費用、利用需要、解体費用、周辺環境への危険性などを比較し、建設から維持管理、最終処分までの環境負荷も含めて評価する必要がある。住宅ごとに異なる条件を無視して解体を促進するのではなく、維持、用途転換、除却のいずれが合理的かを判断できる仕組みが重要になる。

 その意味でも、解体積立制度は住宅を壊す方向へ所有者を誘導するための制度であってはならない。積立金の存在によって、本来なら活用できる住宅まで解体されるような仕組みは望ましくない。適切な条件の下で建物の再利用や安全な除却に資金を使えるようにすることも、制度設計上の検討課題になり得る。

積立制度の効果は、実際に検証しなければ分からない

 住宅解体積立制度には理論的に説明できる利点がある一方、導入した場合の効果については実証的な裏付けが必要である。解体費用を準備できるようになったとしても、所有者が実際に解体を決断するとは限らず、資金不足以外の理由で住宅を残し続ける可能性もある。反対に、解体資金が確保されることで早期に処分が進み、管理不全空き家の増加を抑えられる可能性も考えられるが、どちらの効果がどの程度生じるかは、制度を試さなければ判断できない。

 政策として検証するなら、まずは一定の地域や対象住宅において、任意参加の積立制度や解体費用の見積もり支援などを試行する方法が考えられる。その際には、積立金の残高だけを成果とするのではなく、所有者が住宅の将来について計画を立てた割合、売却や活用、除却に向けて行動した割合、実際の解体件数、積立不足額、管理不全空き家の発生状況などを継続的に調べる必要がある。

 ただし、制度に参加した所有者と参加しなかった所有者を単純に比較するだけでは、効果を正確に測定できない。もともと住宅の処分に関心が高い人ほど積立に参加する可能性があり、積立制度がなくても解体していた人が含まれるためである。制度を導入する地域と導入しない地域を比較する場合にも、人口減少率や住宅の老朽化、所得水準などの違いが影響するため、政策導入前後の変化を比較群との差によって検証する方法などが必要になる。

 また、制度を維持するための行政費用や管理手数料まで含めて評価しなければ、社会全体の経済的な効果は判断できない。積立制度によって解体時の資金不足が減ったとしても、その運営費用が大きければ別の方法の方が合理的な可能性がある。積立を義務化する制度だけでなく、任意積立、税制上の支援、既存の除却補助、相談体制の充実などを比較し、どの方法が少ない社会的費用で適切な住宅管理と除却につながるのかを検証することが重要である。

相続が始まる前に、住宅の将来を考えておく

 空き家問題が難しくなる理由の一つは、多くの家庭で住宅の将来について話し合う時期が遅いことである。令和6年空き家所有者実態調査では、相続空き家について、相続前に何らかの対策を行っていた世帯は23.0%にとどまり、77.0%では事前対策が行われていなかった。さらに、相続前の対策をしていなかった住宅では、活用や解体の意向がないまま空き家として所有していた割合が45.1%だったのに対し、対策をしていた住宅では29.4%となっている。

 この差から、相続前に話し合えば必ず空き家を減らせるという因果関係まで断定することはできない。もともと住宅の処分に関心が高い家庭ほど事前対策も行う可能性があり、立地や資産価値、家族構成なども影響していると考えられる。それでも、相続が発生してから初めて住宅の将来を考える場合には、家族間の意思調整や財産の整理、売却先の検討などを同時に進めなければならず、判断に時間がかかる可能性がある。

 国土交通省が日本司法書士会連合会などと共同で「住まいのエンディングノート」を作成したのも、住宅の将来を早い段階から考えるきっかけを提供するためである。そこでは、所有する土地や建物の情報を整理し、将来その住宅をどうしてほしいかを記録するとともに、家族が元気なうちから住宅の「活かし方」と「しまい方」を話し合うことが勧められている。

 住宅の将来について意思を残すことは重要だが、その意思を実行するための資金がなければ、売却や解体が難しくなる場合もある。住宅を引き継ぐ人へ建物の情報と所有者の希望を伝えるだけでなく、維持管理や処分に必要な資金をどのように確保するかまで考えておけば、相続人が判断する際の負担を軽減できる可能性がある。住宅のエンディングノートと住宅のエンディング資金は、別々の問題ではなく、住宅の将来を準備するための一連の課題として考えることができる。

「売るか、壊すか」ではなく、住宅に出口をつくる

 ここまで考えると、本当に必要なのは、空き家を売る政策をやめて、壊す政策へ切り替えることではないと分かる。住宅としての利用価値があり、買いたい人や借りたい人が存在するなら、市場へ戻す方が合理的な場合は多い。店舗や福祉施設、仕事場、地域拠点などへ用途転換できる住宅についても、改修費用と利用需要を踏まえながら活用の可能性を検討することが望ましい。

 一方で、住宅需要がなく、老朽化が進み、将来も利用される可能性が低い建物を、いつか誰かが買うかもしれないという期待だけで維持し続けることが合理的とは限らない。建物の状態が悪化すれば解体費用が増える場合もあり、近隣住民への危険や自治体の対応負担が生じる可能性もある。住宅を残すことによる利益と費用を冷静に比較し、利用する理由がなくなった住宅については、安全に処分できる選択肢を用意しておく必要がある。

 つまり、売却政策と除却政策は競争相手ではない。住宅として利用できる建物を市場へ戻す仕組みと、利用価値を失った建物を安全に処分する仕組みは、人口減少社会では相互に補完する政策として位置づけられる。そこに解体積立制度を組み込めるかどうかは今後の検証課題だが、住宅を建てるときから最後の処分までを一体として考える視点には意味がある。

 特に、人口減少が進む地方では、住宅の建設や取得を促す政策だけでなく、既存住宅の維持管理、売却、用途転換、除却、跡地管理までを含めた長期的な住宅政策が求められる。地域の人口や世帯数、住宅需要、道路条件、公共施設との位置関係などを分析し、どの住宅を残し、どの建物を活用し、どの住宅について除却を促すべきかを判断することが、これからの地域づくりの一部になっていくだろう。

家を建てる時代から、家の終わりまで考える時代へ

 日本では長い間、「家を持つ」ということには、財産を持つという意味が付いていた。住宅ローンを払い終えれば自分の資産になり、土地は残り、最後には子どもへ引き継ぐことができる。人口が増え、住宅需要が拡大していた時代には、こうした考え方が現実と一致する場面も多かった。

 しかし、人口が減る社会では、すべての家が同じ意味で資産になるとは限らない。売却価格がほとんど付かず、管理費と固定資産税がかかり、最後には解体費用まで必要になる住宅であれば、それは財産であると同時に将来の支出でもある。住宅の経済的な価値は建物そのものの状態だけで決まるのではなく、立地や利用需要、維持管理費、処分費用などを含めて判断しなければならない。

 これからの住宅政策も、住宅を建てるところだけで終わるわけにはいかない。人口が増えていた時代の地域づくりでは、道路を延ばし、宅地を造成し、住宅を建てることが発展の象徴だった。しかし人口が減少する地域では、既存の住宅や土地をどう維持し、どの施設を残し、利用されなくなった建物をどのように安全に処分するかという判断も重要になる。地域の将来を考えることは、新しく何かを増やすことだけでなく、すでに存在するものの役割を見直すことでもある。

 住宅解体積立制度は、そのための一つの政策仮説である。全国一律の義務制度が必要なのか、任意の積立や既存の補助制度を組み合わせる方が合理的なのか、現時点で結論を出すことはできない。制度の導入には法的な仕組みや資金管理、所有者間の公平性、住宅価格への影響など多くの課題があり、実際の効果についても検証が必要になる。

 それでも、住宅の最後に必要となる費用を、所有者が住宅を利用している時期から準備するという考え方は、人口減少社会の住宅政策を検討するうえで無視できない論点である。空き家をどう売るかという問題と同じくらい、どうしても売れず、再利用も難しくなった住宅を、誰がどのような費用負担で処分するのかという問題にも目を向ける必要がある。

 売れる家は次の人へ渡し、使える家は使い続け、新しい役割を持てる家は用途を変える。そして、どの選択肢も成立せず、住宅としての役割を終えた建物には、安全に処分するための資金と制度を用意する。この一連の仕組みが整って初めて、住宅の誕生から最後までを見通した政策に近づくことができる。

 900万2千戸という空き家の数字が問いかけているのは、どうすればもっと住宅が売れるのかということだけではない。私たちは住宅を建てるために住宅ローンを用意し、暮らしのリスクに備えて保険を考え、住宅を長く使うために修繕費を準備してきた。その一方で、住宅が最後に役割を終えたときの処分費用については、未来の所有者や相続人の判断に委ねてきた部分がある。

 人口が減っていくこれからの日本で必要なのは、空き家を売る制度を捨てることではない。売却や活用を進める制度の先に、どうしても利用できなくなった住宅を安全に処分できる出口をつくることである。

 家にも始まりがあるように、終わりがある。その最後の日の費用まで、家を所有するということに含めて考える時代が来ているのかもしれない。

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 外房の政治を考えるとき、東京から何キロ離れているかだけを測っても、この地域が抱えている本当の「遠さ」は見えてこない。人口密度が低く、比較的小規模な自治体が点在する地域では、鉄道、道路、河川、医療、介護、防災といった生活基盤の多くが、一つの市町村だけでは完結しない。一方で、国に制度改正や財政支援を求めようとしても、個々の自治体の人口や財政規模は限られており、単独で政策課題を解決することは難しい。

 こうした地域において、国会議員の仕事は法律案への賛否を表明することだけではない。複数の自治体が抱える課題を把握し、国や県の制度と地域の実情を結び付け、必要に応じて中央省庁や関係機関との協議を支援することも、地域選出議員に期待される役割の一つである。もっとも、政策を決定する権限は行政機関や議会などに分かれており、国会議員が個人の判断だけで予算や公共事業を決められるわけではない。

 そのような地域と中央政治の関係を、36年以上にわたって担ってきた政治家の一人が森英介である。森は1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で初当選し、2026年2月の第51回総選挙まで13回連続で当選した。同月18日には第81代衆議院議長に就任し、議長選挙では投票総数464票のうち463票を得た。衆議院の公式経歴には、法務大臣、厚生労働副大臣、厚生労働委員長、原子力問題調査特別委員長、憲法審査会長などが並び、長期にわたって国会の重要な役職を経験してきたことが分かる。

 ただし、森を「外房の政治家」と呼ぶ場合には、地理的な範囲に注意が必要である。現在の千葉11区は、茂原市、東金市、勝浦市、山武市、いすみ市、大網白里市に加え、山武郡、長生郡、夷隅郡の町村を含む広域選挙区であり、海沿いの外房地域だけで構成されているわけではない。農村、地方都市、観光地、東京圏の外縁部など、人口構造や産業、交通条件の異なる地域を抱えているため、森の政治活動を外房だけの利害によって説明することも適切ではない。

 したがって、森英介の36年間を評価することは、一人の政治家の成功や失敗を論じることにとどまらない。房総東部という広い地域が中央政治とどのようにつながり、その関係から何を得たのか、さらに長期在職の有力議員が存在することにはどのような利点と限界があるのかを考える作業でもある。

技術者から政治家へ~専門性と世襲という二つの出発点

 森の経歴には、一般的な世襲政治家のイメージとは少し異なる特徴がある。東北大学工学部を卒業した後、川崎重工業に勤務し、原子力プラントの溶接に関する研究成果によって1984年に名古屋大学から工学博士号を取得した。1974年から1988年まで企業に勤務しており、若いころから議員秘書や地方議員として政治の世界だけを歩んできた人物ではない。

 企業で技術者として働いた経験と工学博士の学位は、森の経歴を考えるうえで重要な特徴である。研究開発の現場では、理論だけでなく安全性、品質管理、技術的制約、費用、工程管理などを総合的に考える必要がある。こうした経験が、後に労働、社会保障、原子力など専門性の高い政策分野を担当する際に役立った可能性はある。ただし、技術者としての経歴と政治家としての政策判断の質との関係を示す直接的な証拠があるわけではなく、専門知識を持っていたことだけで政治的な能力の高さを証明することはできない。

 一方、森の政治家としての出発点を、技術者が政治の世界へ転身して独力で支持基盤を築いた物語として描くことも正確ではない。父の森美秀は衆議院議員を務め、第2次中曽根内閣では環境庁長官に就任している。森英介が1990年に初当選した旧千葉3区には、父の政治活動を通じて形成された人脈や支持基盤が存在していたと考えるのが自然であり、政治的な基盤を持たない新人候補と同じ条件から選挙に挑んだわけではない。

 もっとも、世襲政治家であることと政治家としての能力は、論理的には別の問題である。親から引き継いだ支持基盤が初当選に有利に働いたとしても、その後の選挙で長期間勝ち続け、国会や政府の重要な役職を経験することまで、すべて世襲だけで説明できるわけではない。反対に、13回連続当選という結果を本人の能力だけに帰属させることもできない。政党支持、地域の政治的傾向、後援会組織、現職議員としての知名度、対立候補の状況、選挙制度など、多数の要因が結果に関係しているからである。

 さらに、森が初当選した1990年と2026年では衆議院の選挙制度も異なる。1990年は中選挙区制の下で実施され、1996年以降は小選挙区比例代表並立制による選挙となった。したがって、13回の当選を同じ制度条件の下で繰り返された結果として単純に比較することもできない。森の長期在職は確かな政治的実績だが、その背景には本人の資質だけでなく、政治制度や地域社会の構造も存在している。

国政での36年間~重要な役職を経験したことの意味

 森の国会活動を振り返ると、単に選挙に強かっただけの政治家と評価することは難しい。労働政務次官、厚生労働委員長、厚生労働副大臣、法務大臣、憲法審査会長などを歴任し、2015年には永年在職議員として衆議院から表彰されている。2026年には衆議院議長に就任しており、国会内で長期間にわたり一定以上の政治的地位を占めてきたことは明らかである。

 社会保障分野で具体的に確認できる活動の一つが、2002年の健康保険法改正である。当時、森は衆議院厚生労働委員長を務め、健康保険の本人負担などをめぐって与野党が対立した法案について、本会議で委員会の審査結果を報告した。この審議では野党側から委員長解任決議案も提出されており、森が社会保障制度改革をめぐる重要な政治過程に関与していたことが国会会議録から確認できる。

 ここで注意したいのは、政治家本人や政党が公表する「実績」と、国会会議録によって確認できる事実が必ずしも一致するとは限らないことである。自由民主党が過去に掲載した森の実績紹介には、2006年に衆議院厚生労働委員長として健康保険法改正案の成立に尽力したという趣旨の記述がある。しかし、2006年5月の国会会議録では、同改正案を審議した衆議院厚生労働委員長は岸田文雄である。森が委員長として健康保険法改正を扱ったことが確認できるのは2002年であり、2006年の改正を森個人の実績として扱うことは適切ではない。

 また、委員長や大臣などの役職を務めたことと、法律の内容を個人が決定したことも区別しなければならない。法律の制定には、政府内での検討、与党内の調整、国会審議、各会派の判断などが関係する。森が重要な役職を通じて法律審議に関与したことは確認できても、その法律の内容や成立を森一人の功績とみなすことはできない。

 2026年の衆議院議長就任についても同様である。国会法第19条に定められた議長の主な職務は、議院の秩序保持、議事の整理、事務の監督、議院の代表であり、政府予算を個人的に配分したり、地元の公共事業を直接決定したりする権限ではない。議長就任は国会内での経験や政治的信任を示す一方、議事運営における公平性と中立性を求められる立場への転換でもある。

 したがって、森が国政で重要な地位に到達したことは評価できるものの、その地位の高さと、個別政策への実質的な影響力、さらには地元への利益を同一視すべきではない。政治家の経歴を評価する際には、どの役職を経験したかという事実と、その役職においてどのような成果を生み出したかという問題を分けて考える必要がある。

法務大臣時代に見える評価の分かれる政治家像

 森が初めて入閣したのは2008年の麻生内閣で、法務大臣に就任した。同時期の重要な法制度上の課題の一つが国籍法改正である。

 2008年6月、最高裁判所は、日本人の父から出生後に認知された子について、父母が結婚しているかどうかによって日本国籍取得に差を設けていた当時の制度の一部を違憲と判断した。この判決を受け、森は法務大臣として、憲法に適合する制度へ改めるための国籍法改正案を国会に提出したと説明している。法案は同年11月の衆議院法務委員会で全会一致により可決されており、森が政府の責任者として法制度の是正に関与したことが確認できる。

 ただし、この改正は森が独自の政策思想によって一から構想した改革というより、最高裁判決によって明らかになった憲法上の問題に対応するための制度改正だった。司法判断を受けて行政が法案を作成し、国会が審議するという憲法上の仕組みの中で、法務大臣として役割を果たしたと評価する方が正確である。

 一方、法務大臣在任中には、死刑執行という極めて重い判断も行っている。当時の記録によると、森の在任中には2008年10月に2人、2009年1月に4人、同年7月に3人の死刑が執行され、合計9人となった。東京弁護士会は当時、死刑執行に反対する声明を公表しており、森の判断に対する批判も存在していた。

 日本の法律では、死刑の執行は法務大臣の命令によるものとされているため、森による執行命令は制度上の権限行使だった。しかし、現行法に基づく職務の遂行であったことと、その判断が倫理的、社会的に正しかったかどうかは別の問題である。確定した刑罰を法律に従って執行することを重視する立場がある一方、死刑制度そのものの廃止や執行停止を求める立場も存在する。

 このため、森を「決断力のある法務大臣だった」と賞賛だけで評価することも、「多数の死刑を執行した法務大臣だった」と批判だけで評価することも、十分ではない。確認できるのは、森が法務大臣として国籍法改正への対応と死刑執行命令という異なる性格の職務を担ったことであり、それぞれの政策や判断に対する価値評価は、事実関係を明確にしたうえで論じる必要がある。

外房の道路、鉄道、河川整備に森はどう関わったのか

 国政での経歴を評価するのであれば、森は13回当選し、法務大臣や衆議院議長まで務めた有力政治家だったという説明が可能である。しかし、地域政治を考えるうえで重要なのは、こうした国会内での地位が外房や房総東部の暮らしにどのような意味を持っていたのかという問題である。

 地方選出の国会議員を評価するとき、道路の開通、河川改修、鉄道施設の整備などが実績として語られることがある。しかし、公共事業は一人の政治家によって実現するものではない。道路であれば国土交通省、県、市町村、関係する道路管理者、財政当局、地権者、地域団体などが関与し、計画から完成まで長い期間を必要とする。河川改修や鉄道施設の整備についても、多数の関係主体による調整と継続的な予算措置が必要である。

 そのため、「森が圏央道を造った」「森がいたから河川改修が実現した」という説明には慎重でなければならない。国会議員が事業を要望したこと、その要望を関係機関が受け取ったこと、実際に予算が付いたこと、事業が完成したことは、それぞれ異なる事実である。個人の政治的貢献を確かめるには、要望の内容、政策決定の経緯、予算措置の時期、ほかの関係者の活動を比較する必要がある。

 もっとも、森が地域と中央政府を結ぶ要望活動に長期間関わっていたことについては、自治体の公的資料から具体的に確認できる。

 勝浦市では、国道128号と297号のアクセス改善を求め、2008年7月に市長、市議会議長、商工会長、観光協会長らが森を含む国会議員や国土交通省などへ要望活動を行ったことが、市議会会議録に記録されている。地域の道路交通上の課題を、自治体と経済団体が共同で国へ働きかけた事例であり、その活動に森が関わっていたことは確認できる。

 いすみ市では、外房線の快速列車を勝浦まで延伸することなどを求める要望活動に森が同行している。2018年の市の広報資料には、森英介衆議院議員とともに国土交通副大臣、東日本旅客鉄道本社、千葉支社などへ要望書を提出したことが記載されている。鉄道の運行や利便性の改善は鉄道事業者の経営判断や輸送需要などにも左右されるため、要望活動への同行と実際の運行改善を同じ成果として扱うことはできないが、森が地域の要望を中央の関係機関へ届ける活動に参加していたことは明らかである。

 御宿町でも、御宿駅へのエレベーター設置をめぐり、2017年度と2019年度に森へ要望文書を提出した記録が残っている。駅のバリアフリー化は、高齢化の進む地域にとって重要な生活基盤の課題であり、町は東日本旅客鉄道や国土交通省などとの協議を継続してきた。ただし、この事業についても、要望を受けた政治家の関与が実際の事業判断にどの程度影響したのかを確認できる資料は限られている。

 茂原市では、一宮川水系の河川整備をめぐって同様の活動が確認できる。2024年12月、茂原市議会は河川整備促進に関する要望活動を行い、森へ直接要望書を手渡している。2025年にも県選出の国会議員に対する要望活動が続いており、豪雨災害への対応や河川整備が継続的な地域課題となっていることが分かる。

 ただし、茂原市の要望活動は森だけを対象にしていたわけではなく、ほかの複数の国会議員にも働きかけている。この点は、地域政治を評価するうえで見落としてはならない。自治体は特定の一人だけに依存して国へ要望するのではなく、複数の議員や行政機関との関係を利用して政策実現を目指しているからである。

 これらの資料から確認できるのは、森が房総東部の自治体による要望活動の経路の一つとして、繰り返し関与してきたという事実である。一方、その働きかけが行政判断をどの程度変えたのか、ほかの国会議員と比べてどの程度大きな影響力を持っていたのか、森がいなければ実現しなかった事業があったのかについては、十分な証拠がない。

 したがって、森の地域政治家としての役割を評価する場合、「自分一人で事業を完成させた政治家」と説明するよりも、自治体と中央政府を結ぶ政治的な経路の一つとして長期間機能してきた人物と捉える方が、公的資料に忠実である。その機能には実務的な価値があった可能性があるが、具体的な成果や貢献度を確定するには、個々の事業についてさらに検証する必要がある。

13回連続当選は、地域からの支持をどこまで示すのか

 森が36年以上にわたり衆議院議員であり続けたことは、選挙で繰り返し議席を獲得してきた結果である。世襲による支持基盤や政党組織の支援があったとしても、選挙で勝利しなければ議席は維持できない。その意味で、13回連続当選という結果は政治的な強さを示している。

 2026年2月8日の第51回衆議院議員総選挙では、森は千葉11区で102,843票を獲得し、50,561票の多ケ谷亮、13,783票の椎名史明を上回って当選した。3候補の有効得票総数は167,187票であり、森の得票率は約61.5パーセントとなる。次点候補との差は52,282票に達しており、有効票に占める割合と得票差の双方から、選挙で大きく優勢だったことが分かる。

 ただし、選挙結果を地域全体の支持と読み替えるときには、分母の違いに注意する必要がある。千葉11区の有権者数342,740人に対して森の得票数102,843票は約30.0パーセントに相当する。したがって、有効投票の約6割を獲得したことは正しいものの、選挙区の全有権者の6割が森を積極的に支持したという意味にはならない。

 もっとも、全有権者に対する得票割合が約30.0パーセントだったからといって、森の支持率が30.0パーセントだったと結論づけることもできない。投票しなかった有権者の中にも森を支持する人がいた可能性があり、逆に明確な支持政党や候補者を持たなかった人もいたと考えられる。選挙結果から直接確認できるのは、実際に投票した有権者の選択であり、棄権者を含む有権者全体の政治的意思を完全に測定できるわけではない。

 さらに、選挙における勝利と政策に対する評価も同一ではない。有権者は候補者本人の実績だけでなく、政党への支持、政府への評価、対立候補との比較、地域の人間関係などを総合して投票する。13回の当選は森が選挙で長期にわたり競争力を維持したことを示すが、そのすべてを地域政策への高い評価の結果と解釈することはできない。

 このように、有効票に占める得票率、有権者全体に占める得票割合、地域住民の政治的支持、政策に対する評価は、それぞれ異なる指標である。森の選挙での強さを認めることと、その強さを地域全体からの全面的な信任とみなさないことは、矛盾する判断ではない。

有力国会議員が36年間いても、人口減少は続いた

 森の国会議員としての36年間を外房の人口動向と重ねると、地域が直面してきた構造的な変化が見えてくる。森が初当選した1990年と現在では、地域の年齢構成、産業構造、交通需要、行政サービスを維持する条件は大きく変わっている。特に人口減少と高齢化は、地域政治が避けて通れない課題となっている。

 千葉県の人口統計によると、夷隅地域の65歳以上人口割合は2024年の44.9パーセントから、2025年には45.3パーセント、2026年4月1日現在では46.0パーセントへ上昇している。2026年の数値は県内11地域の中で最も高く、地域の高齢化が継続していることが確認できる。市町村別では御宿町の65歳以上人口割合が54.4パーセント、勝浦市が48.1パーセントとなっており、地域内でも特に高齢化が進んでいる自治体が存在する。

 人口についても減少傾向が続いている。千葉県の毎月常住人口調査では、2026年6月1日現在の夷隅地域人口は60,795人とされている。ただし、この調査と住民基本台帳に基づく年齢別人口調査では、人口の把握方法や基準が異なる。例えば、住民基本台帳に基づく2025年の人口64,248人と、毎月常住人口調査による2026年6月の60,795人を単純に差し引き、その差を約1年間の人口減少として扱うことはできない。

 人口の長期的な変化を正確に分析するためには、調査方法と地域区分を統一し、複数時点の人口を比較する必要がある。森の在職期間全体との関係を論じるのであれば、1990年、2000年、2010年、2020年などの国勢調査人口を用い、同一の地域範囲で人口、年齢構成、人口移動を追跡する方法が適切である。人口減少を論じる際には、異なる統計系列を接続して見かけ上の減少を大きく見せないことも重要である。

 では、有力な国会議員が長期間存在したにもかかわらず人口減少と高齢化が進んだことを、森の政治活動の失敗と判断できるだろうか。結論からいえば、それだけでは判断できない。人口動態は、出生と死亡、若年層の進学や就職、賃金水準、住宅事情、地域産業、医療や教育の供給、都市部への人口集中など、多数の要因によって決定される。一人の国会議員の活動だけで人口構造が決まるわけではない。

 統計学や因果推論の観点から考えると、観測できるのは森が議員を務めてきた外房の実際の変化であり、同じ地域で森だけが議員でなかった場合の変化を同時に観測することはできない。したがって、現在の人口減少を森個人の失敗に帰属させることも、反対に森がいたから人口減少が抑えられたと断定することもできない。

 ただし、直接観測できないからといって、政治的な影響の分析がまったく不可能になるわけではない。人口構造や産業条件の近い地域との比較、個別政策の実施前後の変化、道路や交通の改善による経済的効果の推計、予算措置の決定過程の追跡などを組み合わせれば、一定の範囲で政策効果を推定することは可能である。重要なのは、比較対象の選び方や地域固有の条件によって結果が左右されることを理解し、単純な相関関係を因果関係と取り違えないことである。

 ここから導かれるのは、森英介個人が人口減少対策に失敗したという結論ではない。有力な国会議員が長期間存在しても、人口減少や高齢化という構造問題は解消されなかったという事実である。この事実は、道路や施設の整備、国からの財政支援だけでは人口構造の変化に十分対応できない可能性を示唆している。ただし、それだけで従来の地域振興政策がすべて無効だったと証明されるわけでもない。

森英介は外房に必要な政治家だったのか

 ここで、最初の問いに戻りたい。森英介は外房に必要な政治家だったのだろうか。

 この問いに対して、72点や85点といった総合点を与えることは適切ではない。国会内での地位、地域要望への関与、公共事業への貢献、人口減少への影響、有権者からの支持などは、それぞれ測定対象も単位も異なっている。恣意的な重みを設定して合計しても、その数字が科学的な意味を持つとは限らない。数理的な分析では、測定できる対象と測定できない対象を区別し、不確実なものを正確に測定できたかのように扱わないことが重要である。

 まず、国政での経歴については、森が重要な政治的地位に到達したことは明確である。13回連続で当選し、法務大臣、厚生労働副大臣、憲法審査会長などを経験して衆議院議長に就任した事実は、国会内で長期間にわたり一定の地位と信任を得てきたことを示している。ただし、役職の高さだけで個別政策への影響力の大きさまで証明されるわけではない。

 地域と中央政府を結ぶ機能についても、一定の事実が確認できる。勝浦市、いすみ市、御宿町、茂原市などの公的資料には、森が自治体の要望活動に同行したり、要望を受け取ったりした記録が存在している。これは、森が地元との関係を持たない中央政治家ではなく、地域の政策課題を国へ伝える活動に関与してきたことを示している。

 一方で、その関与が具体的な行政判断や事業の進捗にどの程度影響したのかは、十分に明らかになっていない。公共事業は複数の主体による共同の取り組みであり、実現した事業を特定の政治家一人の功績に帰属させることはできない。さらに、森以外の国会議員や自治体独自の交渉によって同様の結果が得られた可能性も排除できない。

 長期在職と地域課題の解決についても評価は分かれる。人口減少、高齢化、公共交通の維持、医療や介護の人材不足といった問題が残っていることは事実だが、それらを森一人の責任とみなすことは合理的ではない。一方、そうした構造問題が解決されなかったにもかかわらず、長く議員を務めたという理由だけで地域への貢献を高く評価することも適切ではない。

 こうして整理すると、確認できる範囲での評価は限定的なものになる。森英介は、国政で重要な地位を経験し、外房・房総東部の自治体が中央政府へ働きかける際の政治的な経路の一つとして継続的に機能してきた。その活動には地域にとって一定の実務的価値があった可能性がある。しかし、森個人の貢献がどれほど大きかったのか、別の政治家では同じ役割を果たせなかったのか、森が存在しなければ地域がどのような状況になっていたのかについては、現在確認できる資料だけでは判定できない。

 つまり、「役割を果たしてきたこと」「地域にとって価値があったこと」「不可欠な存在だったこと」は、それぞれ異なる命題なのである。最初の命題には具体的な裏付けがあり、二番目についても一定の可能性が認められるが、三番目を証明するだけの根拠はない。

36年の長期在職が生んだ利点と、依存の可能性

 同じ地域から長期間にわたって国会議員を務めることには、実務上の利点がある。中央省庁の制度や予算編成の仕組み、国会の審議過程、政党内の政策調整などに関する知識は、長い政治経験を通じて蓄積される。関係者との継続的な接点が形成されれば、自治体が課題を相談する際にも、必要な機関や担当部局につながりやすくなる可能性がある。

 特に小規模自治体では、国の制度改正や予算要求に精通した職員を十分に確保することが難しい場合がある。国会議員が行政制度に関する情報を提供し、関係機関との協議の機会をつくることには、一定の実務的価値があると考えられる。ただし、国会議員の経験年数が長いほど要望が採択されやすいという関係が、森の事例で実証されたわけではない。

 他方、長期在職には政治的な依存を生む可能性もある。地域の課題を国に伝える際、特定の有力議員を通すことが慣行となれば、その方法は短期的には効率的であっても、別の交渉経路を整備する必要性が意識されにくくなるかもしれない。議員の引退や落選、政権や政党内での立場の変化が起きたとき、それまでの関係に依存していた自治体が対応に苦慮する可能性も考えられる。

 もっとも、森の選挙区において、そのような依存が実際に生じ、ほかの交渉経路が育たなかったことを証明する資料はない。茂原市などの要望活動では複数の国会議員に働きかけており、自治体が必ずしも森一人に依存していたわけではないこともうかがえる。したがって、長期在職による政治的依存は、森の活動から確認された結論ではなく、検討すべき制度的なリスクとして捉える必要がある。

 この問題は、森が父の政治基盤を引き継いだ世襲政治家であることとも関係する。政治家個人に蓄積された人脈や経験は、選挙による世代交代の際に自動的に引き継がれるものではない。政治家の交代によって地域の政策形成能力が失われるのであれば、それは個人の問題であると同時に、自治体や地域社会の制度的な問題でもある。

 地域と中央政府の関係を一種の社会的なネットワークと考えるなら、一人の有力議員を通じる経路は重要な資源になり得る。しかし、地域全体の政治的な対応力を高めるためには、国会議員だけでなく、県、市町村、広域行政組織、経済団体、医療機関、住民組織などが、それぞれ必要な情報と交渉能力を持つことも重要である。

 森が長く議席を維持してきたことと、外房の政治的な仕組み全体が十分に強かったことは同じではない。前者は選挙と国会での経歴から確認できるが、後者を評価するには、政治家が交代しても自治体間の協力や国との協議が継続できるかという、別の基準が必要になる。

「何を造る政治」から「何を維持する政治」へ

 森が初当選した1990年、日本はバブル経済の終盤にあり、地方政治では高速道路、幹線道路、公共施設、産業基盤の整備などが重要な政策課題となっていた。交通条件を改善し、企業活動や観光を促進し、都市部との時間的な距離を縮めることが、地方の発展につながると考えられていた時代である。

 もちろん、当時の地方政策が公共事業だけで成り立っていたわけではないし、道路や鉄道の整備が無意味だったわけでもない。交通基盤の改善は物流、通勤、観光、救急搬送、災害時の移動などに影響するため、人口減少が進む地域でも一定の必要性がある。重要なのは、公共事業の実施そのものを成果とするのではなく、その事業によって住民の生活や地域経済にどのような効果が生じたのかを検証することである。

 36年後の外房では、地域政策に求められる内容が変化している。新しい道路を整備する必要性が残る一方で、既存の道路や橋の補修、水道管の更新、河川施設の維持、鉄道や路線バスの運行、医療・介護サービスの確保など、現在ある生活基盤をどのように維持するかという課題が大きくなっている。

 人口減少が進めば、公共施設の利用者が減るだけでなく、税収や使用料収入にも影響が生じる可能性がある。施設を維持する費用は利用者の減少に比例して小さくなるとは限らず、老朽化による修繕費用が増加する場合もある。そのため、人口が減る地域では、一人当たりの維持費用が上昇するという財政的な問題が生じやすい。

 さらに、生活基盤の維持には財源だけでなく人材も必要である。病院まで移動できなくなった高齢者を誰が支援するのか、介護職員や看護職員をどのように確保するのか、水道工事や電気設備の修繕を担う事業者が減ったときにどう対応するのか、消防団員や地域の防災活動を担う住民が減少した場合にどのような仕組みをつくるのか。こうした課題は、一つの公共施設を整備するだけでは解決できず、財政、労働市場、人口構造、行政運営を横断して考える必要がある。

 このような状況では、政治の評価基準も変わらなければならない。従来のように新しい道路や施設を何件整備したかという指標だけでなく、既存施設をどの程度維持できたか、住民の移動手段を確保できたか、医療や介護へのアクセスを保てたか、限られた財源をどのように配分したかといった指標が重要になる。

 ただし、「何を造る政治」から「何を維持する政治」への転換は、新規整備をすべて否定することではない。老朽化した施設の統廃合が必要になる場合もあれば、新しい道路や交通手段への投資によって、将来の維持費用を抑えられる場合もある。人口減少社会において重要なのは、建設か維持かという単純な二者択一ではなく、将来人口、利用需要、更新費用、地域への便益を比較しながら、限られた資源を合理的に配分することである。

 森英介は、地方の交通基盤や公共施設の充実が重視された時代から、人口減少を前提に生活基盤の再編を考えなければならない時代までを、同じ地域を選挙基盤として経験してきた。その意味で、森の36年間は一人の政治家の経歴であると同時に、日本の地方政治に求められる役割が変わってきた36年間でもある。

地域が政治家に依存しないために必要なもの

 今後の外房にとって重要なのは、国会議員に地域の要望を届けてもらう仕組みを否定することではない。国会議員には国民の代表として法律や予算を審議する役割があり、地方自治体が国の政策形成過程に意見を届けることにも合理的な意味がある。ただし、その仕組みが特定の政治家の個人的な人脈や地位に過度に依存しないようにすることが、長期的な地域運営では重要になる。

 例えば、複数の市町村に共通する医療、交通、河川、防災の課題については、自治体ごとに個別の要望を繰り返すだけでなく、広域的な需要や費用を分析し、共通の政策目標を明確にすることが考えられる。人口推計、交通利用実績、医療機関への移動時間、施設の更新費用などの客観的なデータが整理されていれば、国や県との協議においても、地域側が政策の必要性を具体的に説明しやすくなる。

 また、要望活動の成果を評価する仕組みも必要である。国会議員や中央省庁へ要望書を提出したという事実だけで活動を終わらせるのではなく、その後にどのような回答があり、予算や制度にどのような変化が生じ、実際に住民の生活へどの程度の効果があったのかを継続的に確認することが重要になる。政治家への働きかけを記録するだけでなく、政策の実現過程と結果を検証できる形にすることが求められる。

 さらに、自治体職員の政策立案能力、広域連携を調整する仕組み、住民に情報を公開する制度などを整備することも必要である。特定の議員が交代しても、地域の側に課題を分析し、優先順位を決定し、国や県と交渉する能力が残っていれば、政治的な環境の変化に対する対応力は高まると考えられる。

 こうした取り組みは、国会議員の役割を小さくするものではない。むしろ、地域側が十分な情報と政策案を持つことで、議員も具体的な課題を国会や政府へ届けやすくなる可能性がある。政治家個人の力量と自治体の政策形成能力を対立させるのではなく、双方が補完し合う仕組みをつくることが重要なのである。

森英介の36年が外房に残す問い

 森英介を礼賛する必要もなければ、長く議席を維持したことだけを理由に否定する必要もない。確認できる公的資料からは、森が国政で重要な役職を経験し、房総東部の自治体が中央政府へ要望する際の政治的な経路の一つとして長期間機能してきたことが分かる。その活動が地域に一定の実務的な価値を持っていた可能性は十分にある。

 一方で、道路、河川、鉄道などの整備に対する森個人の因果的な貢献度は、現在確認できる資料だけでは判定できない。人口減少や高齢化を森の政治活動の失敗とみなすこともできなければ、森がいたことによって地域の衰退が抑えられたと証明することもできない。政治家の功績を評価するには、経歴や要望活動の記録だけでなく、実際の政策決定過程と効果をさらに検証する必要がある。

 したがって、「森英介は外房に必要な政治家だったのか」という問いへの答えは、単純な肯定にも否定にもならない。森が地域と中央政府の間で具体的な役割を担ってきたことは確認でき、その役割に実務的な価値があった可能性も認められる。しかし、森でなければ同じ役割を果たせなかったのか、森がいなければ地域がどのような状況になっていたのかを示す十分な証拠はない。少なくとも、森が外房にとって不可欠な存在だったと断定することはできない。

 2026年2月18日、森は衆議院議長に就任し、1990年の初当選から続く政治家としての経歴は一つの到達点を迎えた。しかし、国会で最高位の役職の一つに就いたことが、そのまま地元の生活課題を解決したことを意味するわけではない。地域にとって重要なのは、政治家の地位の高さだけでなく、その政治活動が生活基盤の維持や地域の将来にどのようにつながってきたのかという問題である。

 そして、森の36年間を振り返ることで、もう一つの問いが浮かび上がる。地域が長期間にわたって有力な国会議員との関係を持っていたとしても、その人物が引退したり、政治的な立場が変わったりしたとき、自治体は同じように国や県と協議し、必要な政策を実現できるのだろうか。

 人口減少が進む外房では、道路や施設を新しく整備する能力だけでなく、限られた財源と人材の中で生活基盤を維持する能力が問われている。国会議員の政治力はそのための手段の一つになり得るが、それだけで地域の将来が決まるわけではない。

 森英介の36年間を評価するという作業の最後に残るのは、一人の政治家に点数を付けることではない。地域の課題を客観的なデータによって把握し、複数の自治体が協力し、国や県との交渉経路を維持しながら、住民の生活を支える仕組みを築けるかどうかである。

 森英介という長期在職の有力政治家が果たしてきた役割を検証すると同時に、特定の政治家がいなくても地域が必要な政策を実現できる仕組みを整えられるのか。これこそが、人口減少時代の外房にとって、過去の政治家への評価以上に重要な問いなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 六十歳で住まいを決め、その家で九十歳まで暮らすと考えてみる。三十年という時間は、住宅ローンを払い終えるには十分な長さである一方、屋根や外壁を傷ませ、給湯器や住宅設備を何度か交換し、自動車を何台か乗り継ぎ、住んでいる人間の身体能力や生活習慣まで変化させる長さでもある。

 都市の駅に近いマンションなら、共用廊下の照明、エレベーター、ごみ置き場、植栽などは、基本的に管理組合による共同管理の仕組みの中に置かれている。その代わり、住宅ローンを完済していても、管理費と修繕積立金を毎月払い続けなければならない。一方、地方の戸建てでは、通常そのような定期的な引き落としはなく、敷地内に駐車場があれば月極駐車場代も必要ない。今月何も壊れなければ、住宅の維持管理にほとんどお金を使わずに済むことさえある。

 こうして毎月の請求額だけを見ると、地方戸建ての方が圧倒的に安いように思える。しかし、三十年間という長さで考えると、住宅の維持管理に必要な費用の現れ方が異なるだけで、必ずしも地方戸建ての総支出が少なくなるとは限らない。マンションでは将来の修繕費の一部が毎月の積立金として徴収されるのに対し、戸建てでは屋根、外壁、給湯器、水回りなどの補修費として、ときどきまとまった金額が必要になる。

 さらに、地方生活には、住宅の維持費として計上されないにもかかわらず、生活を成立させるために欠かせない場合がある高額な設備が存在する。それが自動車である。住宅を維持する費用と、その場所で生活を続けるための費用を合わせて考えると、「安い家」と「安く暮らせる家」は、必ずしも同じではない。

比べるべきなのは建物ではなく、そこで暮らす仕組みである

 都市マンションと地方戸建ての比較を難しくしているのは、マンションと戸建てという建物形式だけでなく、立地条件や交通環境まで異なることである。駅に近い都市マンションの価格には、建物や土地の価値だけでなく、周辺に集積する商業施設、医療機関、公共交通などへのアクセスの良さも反映されやすい。徒歩圏や公共交通圏にスーパー、病院、薬局、金融機関などがそろっていれば、自分で長い距離を移動する必要は比較的小さい。

 一方、地方戸建てでは、同じ購入予算でも広い住宅や土地を取得できる場合がある。その代わり、病院まで十キロ、スーパーまで五キロという距離が日常生活に入り込むことも珍しくない。六十歳で自動車を運転できる人にとって、その距離は大きな問題ではないかもしれないが、七十歳、八十歳、九十歳へと年齢が進めば、同じ距離を移動するために必要な身体能力や交通手段が変わってくる。

 国土交通省の全国都市交通特性調査は、地域別、年齢別、交通手段別の移動実態を把握するための調査であり、従来の調査では、地方都市圏ほど自動車の役割が大きい傾向が示されている。二〇二五年度にも新たな調査が実施されているが、調査の実施年度と結果の公表年度は区別して考える必要があり、調査を実施したこと自体が新しい結果の確定を意味するわけではない。

 ただし、地方都市圏で自動車の利用割合が高いことから、地方戸建ての居住者が全員自動車を必要とすると結論することはできない。同じ地方でも、駅や病院、スーパーに歩いて行ける中心市街地と、公共交通が乏しい郊外や農村部では生活条件が大きく異なる。都市部でも駅から遠い住宅地では自動車が必要になる場合があり、反対に地方の駅前住宅では自動車なしで生活できる場合もある。

 したがって、老後の住居費を比べるなら、建物に直接支払うお金だけでなく、その場所で買い物や通院を続けるための移動費用まで含めなければならない。ただし、その際には住宅関連費と交通費を明確に分け、どの条件が総支出の違いを生み出しているのかを確認する必要がある。

まず、比較する条件を明確にする

 ここでは、六十歳から九十歳までの三十年間、同じ住宅に住み続けるというモデルを考える。最初の比較では、都市マンションと地方戸建てをすでに所有し、住宅ローンを完済しているものとする。したがって、新たな住宅購入費や住宅ローンの返済額は含めず、今後三十年間に発生する住宅の維持管理費と、日常生活に必要な交通費を比較する。

 また、将来の一般的な物価上昇率を予測せず、すべての金額を現在の価格水準で考えた実質額の単純累計とする。実際には物価や税負担、工事費、保険料などが変化する可能性があり、住宅関連費と自動車関連費が同じ割合で変化するとも限らない。そのため、この試算は三十年後までの正確な支出予測ではなく、どのような条件で費用関係が逆転するかを検討するためのものである。

 さらに、比較する二つの生活モデルには、交通手段について明確な違いを設ける。都市マンションは自動車を所有せず、鉄道やバスなどを利用して生活できる立地とし、地方戸建ては自動車一台を必要とする立地とする。これは、マンションという建物そのものと戸建てという建物そのものの優劣ではなく、住宅形式、立地、移動手段を組み合わせた生活システムの比較である。

 なお、九十歳まで同じ住宅に住むという条件は、すべての人が九十歳まで生存し、自宅で生活できるという予測ではない。実際には健康状態、家族構成、介護の必要性などによって、途中で転居や施設入所を選択する場合もある。そうした可能性は後で考えることにして、まずは三十年間住み続けるという条件のもとで費用を整理する。

マンションでは、住宅ローンが終わっても維持費は続く

 国土交通省が五年に一度実施している「令和5年度マンション総合調査」では、駐車場使用料などからの充当額を除いた一戸当たりの管理費は月平均一万一五〇三円、修繕積立金は月平均一万三〇五四円とされている。二つを合わせると月二万四五五七円となり、この金額が三十年間まったく変わらないと仮定すれば、二万四五五七円に十二か月と三十年を掛けた八八四万五二〇円、約八八四万円になる。

 ただし、これらは管理組合への調査から得られた平均値であり、全国すべてのマンションについて実際の支払額を集計したものではない。また、管理費と修繕積立金では集計対象となる有効回答が必ずしも一致していないため、二つの平均値を合算した金額を、同一住戸が実際に負担している平均月額と厳密に解釈することもできない。築年数、住戸面積、建物規模、設備、管理方式によって支払額には大きな違いがある。

 さらに重要なのは、三十年間で約八八四万円という金額が、将来の支出総額を保証するものではないことである。国土交通省の同じ調査では、修繕積立金の積立方式について、将来の負担額を段階的に増額する段階増額積立方式が四七・一%、原則として一定額を積み立てる均等積立方式が四〇・五%となっている。均等積立方式であっても、その後の工事費や長期修繕計画の見直しによって積立額が変更される可能性がある。

 修繕積立金の残高にも注意が必要である。令和五年度の調査では、長期修繕計画上の積立額に対して実際の積立額が不足しているマンションは三六・六%と報告されている。この数字は、マンション全体の将来の修繕費が三六・六%不足するという意味ではなく、調査対象のうち、各管理組合の計画に対して積立額が不足していると回答した割合である。それでも、現在の修繕積立金だけで将来の工事を十分に賄えるとは限らないことを示す重要な資料である。

 国土交通省の長期修繕計画作成ガイドラインでは、望ましい計画の考え方として、三十年以上の計画期間に大規模修繕工事が二回以上含まれることが示されている。これは、すべてのマンションに同じ周期で工事を実施する法律上の義務があるという意味ではないが、長期間にわたる建物の維持管理を計画的に考える必要性を示している。

 また、修繕積立金は主として共用部分の維持修繕に使用されるものであり、住戸内部の給湯器、キッチン、浴室、エアコン、床、壁紙などの交換費用は、原則として各所有者が別に負担する。マンションは修繕費が不要な住宅なのではなく、大きな建物を共同で維持する費用を継続的に負担しながら、自分の住戸内部についても維持管理する仕組みなのである。

戸建ての管理費ゼロは、修繕費ゼロを意味しない

 地方戸建てには通常、マンションのような管理費や修繕積立金が存在しないため、所有者は毎月の固定的な住宅管理負担を小さくできる。また、外壁の塗装を今年実施するか、古いキッチンを交換するか、庭木の剪定を業者に頼むかといった判断についても、建物の安全性や保存上の問題がない範囲で、支出の時期と内容を所有者自身が決めやすい。

 しかし、支払いを自分で決められることと、費用が発生しないことは別である。三十年間には、給湯設備、水回り、エアコン、外壁、屋根、雨どい、建具などの補修や交換が必要になる可能性が高い。外壁や屋根の工事には足場の設置費用が伴う場合もあり、給排水設備の不具合や雨漏りなどが発生すれば、予定していなかった修繕費が一度に必要になることもある。

 その金額は、住宅の築年数、構造、延床面積、屋根材や外壁材、過去の修繕履歴、施工状態などによって大きく異なる。さらに、海に近い地域では塩害、台風の影響を受けやすい地域では風雨への対策など、立地特有の維持管理費も考慮しなければならない。反対に、適切に維持管理された比較的新しい住宅では、一定期間の大規模修繕費を抑えられる場合もある。

 したがって、「戸建ては三十年間で七〇〇万円かかる」と全国平均のように断定することはできない。ここで使用する七〇〇万円は、屋根、外壁、給湯設備、水回り、冷暖房設備などの補修や更新を含む、シミュレーション上の仮定である。実際の住宅でこの金額が妥当かどうかは、現物の状態と今後の修繕計画を確認しなければ判断できない。

 同じことはマンションの専有部分の修繕費にも当てはまる。戸建ての修繕費とマンションの修繕費を公平に比較するためには、どの設備の更新費をどちらの費目に含めているのかを明確にし、同じ費用を二重に計上したり、一方だけ必要な工事を見落としたりしないことが重要になる。

30年間の住宅関連費を同じ条件で比較する

 まず、都市マンションについて、管理費と修繕積立金の三十年間の累計を約八八四万円とする。さらに、固定資産税などを年間十二万円、住戸内部の修繕・設備更新費を三十年間で三〇〇万円、火災保険などを年間二万円と仮定する。この場合、固定資産税などは三六〇万円、専有部分の修繕・設備更新費は三〇〇万円、保険などは六〇万円となり、管理費・修繕積立金と合わせた住宅関連費は約一六〇四万円になる。

 一方、地方戸建てについては、固定資産税などを年間六万円、建物と設備の修繕・更新費を三十年間で七〇〇万円、火災保険などを年間三万円と仮定する。固定資産税などは一八〇万円、修繕・設備更新費は七〇〇万円、保険などは九〇万円となり、三十年間の住宅関連費は九七〇万円になる。

 この条件では、都市マンションの住宅関連費が約一六〇四万円、地方戸建てが九七〇万円であるため、住宅に直接関係する支出だけを見ると地方戸建ての方が約六三四万円安い。管理費がなく、固定資産税なども低く設定していることが、この差の主な要因である。

 ただし、ここで設定した固定資産税、保険料、修繕費は、いずれも全国平均を示す統計値ではない。固定資産税は建物と土地の評価額、住宅用地の特例、所在地などに左右され、都市計画税についても課税区域によって扱いが異なる。また、保険料は建物構造や補償範囲、災害リスクによって変わるため、都市マンションが年間二万円、地方戸建てが年間三万円という関係が一般的に成立するわけではない。

 この比較で確認できるのは、あくまで設定した条件のもとでは地方戸建ての住宅関連費が約六三四万円安いということであり、全国の住宅を調査した結果として地方戸建てが平均六三四万円安いという意味ではない。

交通費を加えると、結果はどう変わるのか

 次に、住宅に直接支払う費用とは別に、そこで生活を続けるために必要な交通費を考える。都市マンションでは自動車を所有せず、鉄道やバスなどの日常交通費を年間十二万円と仮定する。三十年間では三六〇万円になるため、先ほどの住宅関連費約一六〇四万円に加えると、住宅と日常交通を合わせた支出は約一九六四万円となる。

 一方、地方戸建てでは、二〇〇万円程度の自動車を六十歳、七十歳、八十歳の時点で一台ずつ購入し、それぞれ十年間使用するものとする。三台の購入費は合計六〇〇万円となり、燃料、税金、任意保険、車検、点検、タイヤ、バッテリーなどの費用を平均して年間三十万円と仮定すれば、三十年間の維持費は九〇〇万円になる。車両購入費と維持費を合わせた自動車関連支出は一五〇〇万円である。

 これを地方戸建ての住宅関連費九七〇万円に加えると、三十年間の総支出は二四七〇万円になる。都市マンションの約一九六四万円との差は約五〇六万円となり、この条件では、自動車を必要とする地方戸建ての方が高くなる計算である。

 ただし、この五〇六万円という差は、全国の平均的な世帯について実際に生じる金額ではない。都市側では公共交通費を計上している一方、地方側では自動車以外の交通費を計上しておらず、また自動車を三十年間保有し続けると仮定している。地方でも鉄道、バス、タクシーなどを使用する場合には、その費用を別途加える必要がある。

 さらに、自動車購入費六〇〇万円は、六十歳から新たに三台購入するという条件に基づいている。すでに自動車を所有している人や中古車を活用する人、購入価格が大きく異なる車を選ぶ人には、そのまま当てはまらない。車両の売却代金や、九十歳時点で残る車両価値も、この単純な試算では考慮していない。

 ここで重要なのは、「都市マンションの方が五〇六万円安い」という金額そのものではない。住宅費では地方戸建てが安くても、日常生活のための交通費を加えることで費用関係が逆転し得るという構造である。

自動車はいくらかかると優劣が逆転するのか

 今回の条件では、都市マンションの住宅関連費と公共交通費の合計が約一九六四万円であるのに対し、自動車を除いた地方戸建ての住宅関連費は九七〇万円である。両者の差は約九九四万円となるため、地方側に自動車以外の交通費が発生しないと仮定すれば、自動車の三十年間総費用が約九九四万円を超えた時点で、都市マンションの総支出が少なくなる。

 仮に三十年間の車両購入費を六〇〇万円に固定すると、残りは約三九四万円である。この金額を三十年で割ると年間約十三万一〇〇〇円となり、燃料、税金、保険、車検、整備などの年間維持費がこの水準を超えると、今回のモデルでは都市マンション側の方が安くなる。

 もちろん、この年間十三万円という境界を、現実の自動車維持費の全国平均と混同してはいけない。年間走行距離、燃費、自動車の種類、年齢による保険料、整備状況などによって、実際の費用は異なる。それでも、自動車の購入費だけでなく、保有中に継続して発生する費用まで考慮する必要があることは明らかである。

 また、地方側で自動車とは別に年間五万円の公共交通費やタクシー代が発生すれば、三十年間で一五〇万円の追加負担となる。この場合、ほかの条件を変えなければ、自動車費用の逆転点は約九九四万円から約八四四万円へ下がる。地方生活の移動費を自動車関連費だけで代表させることが、必ずしも適切とは限らないのである。

 したがって、老後の住宅選びでは、自動車を持つか持たないかという二者択一だけでは不十分であり、何台保有するのか、年間何キロ走るのか、どの程度の価格の車を購入するのか、公共交通やタクシーを併用するのかまで考える必要がある。

修繕費を変えると、結果はどこまで動くのか

 もっとも、戸建ての三十年間の修繕・設備更新費を七〇〇万円と仮定した時点で、比較結果が大きく左右されているのではないかという疑問は当然生じる。そこで、ほかの条件を固定したまま、戸建ての修繕費を四〇〇万円、七〇〇万円、一〇〇〇万円に変えてみる。

 修繕費が四〇〇万円で済む場合、自動車を除いた地方戸建ての費用は六七〇万円となる。車両購入・維持費を一五〇〇万円とすれば、総支出は二一七〇万円で、都市マンションとの差は約二〇六万円になる。この場合、車両購入費を六〇〇万円に固定すると、自動車の年間維持費が約二十三万円を超える水準で都市マンションが安くなる。

 修繕費が七〇〇万円なら、地方戸建ての総支出は二四七〇万円となり、都市マンションより約五〇六万円高い。さらに、修繕費が一〇〇〇万円になると、地方戸建ての総支出は二七七〇万円となり、都市マンションとの差は約八〇六万円に広がる。この場合は、車両購入費六〇〇万円を前提にすると、年間維持費が約三万円を超えるだけで都市マンション側が安くなる計算である。

 ただし、四〇〇万円、七〇〇万円、一〇〇〇万円という金額は、戸建て修繕費の実測平均や統計的な信頼区間を示すものではない。これは、前提条件を意図的に変えることで結論がどれだけ変化するかを見る感度分析である。また、これらの比較ではマンションの修繕積立金や管理費を固定しているため、都市側の負担が増える場合には結果も変わる。

 例えば、管理費と修繕積立金の三十年間の平均負担が、当初想定した金額より二割高くなれば、都市マンションの支出は約一七七万円増える。他の条件が同じなら、地方戸建てとの差は約五〇六万円から約三二九万円に縮小する。この二割増という数字も将来予測ではなく、費用の変化が比較結果に与える影響を示す仮定である。

 この分析から分かるのは、マンションが常に有利ということでも、戸建てが必ず安いということでもない。建物の修繕状態と、移動手段にかかる費用が、三十年間の経済性を大きく左右するのである。

自動車を何歳まで運転するかで、老後の費用は変わる

 ここまでの計算では、六十歳から九十歳まで自動車を所有するという条件を置いてきた。しかし、老後の現実を考えれば、九十歳まで運転を続けることを当然の前提とするのは適切ではない。運転能力や健康状態には個人差があり、高齢になっても安全に運転できる人がいる一方、比較的早い段階で運転をやめる人もいる。

 仮に八十歳で運転を終了し、それまでの二十年間に二〇〇万円の自動車を二台購入するとする。車両購入費は四〇〇万円、年間三十万円の維持費を二十年間支払うと六〇〇万円になるため、八十歳までの自動車関連支出は一〇〇〇万円となる。

 その後の十年間については、自動車を持たない代わりに、タクシー、バス、買い物支援などの交通費が発生すると考える。仮に年間十万円なら十年間で一〇〇万円、年間二十万円なら二〇〇万円、年間三十万円なら三〇〇万円となるため、地方戸建ての住宅関連費九七〇万円と合わせた三十年間の総支出は、それぞれ二〇七〇万円、二一七〇万円、二二七〇万円になる。

 都市マンションの約一九六四万円と比較すると、地方戸建ての方が約一〇六万円から三〇六万円高い計算になるが、これは運転終了後の交通費を年間十万円から三十万円と仮定した場合の結果である。自動車の売却代金やほかの交通費は考慮しておらず、都市側についても、身体能力の低下によるタクシー利用などの追加費用を織り込んでいない。

 実際には、運転をやめた後の移動費は、家族による送迎、地域公共交通、医療機関までの距離、宅配サービスの利用などによって大きく異なる。自動車を手放したことで費用が減る場合もあれば、タクシー利用が増えて負担が重くなる場合もある。交通費だけでなく、移動できなくなることによる生活上の不利益も考慮する必要がある。

 六十歳で住まいを選ぶときには、現在の運転能力を前提にするだけでなく、七十五歳、八十歳、八十五歳で運転をやめた場合にも生活を維持できるかを確認することが重要である。老後の住宅立地を評価するうえでは、車を所有している期間の費用と、車を手放した後の生活費を分けて考えなければならない。

都市でも自動車を持つなら、費用関係は大きく変わる

 ここまでの都市マンションが比較的安くなるモデルには、重要な条件がある。都市側では自動車を所有せず、鉄道やバスで生活できることを前提にしているのである。都市マンションでも自動車を保有すれば、車両購入費、保険、税金、車検、燃料費などが発生し、さらに地域によっては高額な駐車場代が必要になる。

 例えば、都市マンションで月二万円の駐車場を三十年間利用すると、駐車場代だけで七二〇万円になる。都市側でも自動車の購入・維持費を地方側と同じ一五〇〇万円とし、比較を単純化するため公共交通費を計上しない場合、都市マンションの住宅関連費約一六〇四万円に自動車費一五〇〇万円と駐車場代七二〇万円を加えた総支出は、約三八二四万円になる。

 一方、敷地内に無料で駐車できる地方戸建てが、同じ自動車を同じ費用で所有するなら、住宅関連費九七〇万円と自動車費一五〇〇万円を合わせた二四七〇万円となる。この条件では、地方戸建ての方が約一三五四万円安い。ただし、両者の自動車使用条件を同一とし、それ以外の交通費を計上しないという限定的な比較である。

 現実には、都市マンションで自動車を所有しながら鉄道も利用する人がいる一方、地方戸建てでも自動車の使用頻度が少ない人がいる。駐車場が無料のマンションもあれば、地方の戸建てでも敷地外に駐車場を借りる場合がある。したがって、建物形式だけを変えても、自動車費用や駐車場費用を同じ条件にしなければ公平な比較にはならない。

 このことから、老後三十年間の経済性を決める重要な要因の一つは、マンションか戸建てかという建物形式そのものではなく、自動車を持たずに生活できる立地を選べるかどうかにあると考えられる。

戸建てには支出の時期を調整しやすいという強さがある

 総支出の比較とは別に、年金生活における資金繰りの安定性も重要になる。戸建てでは、所有者の判断によって一部の支出時期を調整しやすい。安全上の問題がない範囲なら、外壁塗装を数年延期したり、まだ使用できる住宅設備を交換せずに使い続けたりすることもできる。

 一方、マンションの管理費と修繕積立金は、原則として管理規約や管理組合の決定に従って支払う必要がある。収入が減少したから管理費を半分にする、エレベーターを使用しないからその分を支払わないといった選択は、個人の判断だけではできない。戸建てに比べて毎月の固定的な支払いが大きくなりやすいことは、年金など限られた収入で生活する場合には無視できない。

 しかし、戸建てにも別のリスクがある。給湯器の故障や雨漏りなど、生活や建物の保存に重大な影響を及ぼす不具合が発生すれば、修繕を延期できない場合がある。支出の時期を自分で決めやすいという利点は、突発的な大きな費用を一世帯で負担しなければならないという問題と表裏一体である。

 マンションでは建物の共用部分に関する費用を区分所有者で分担する代わりに、管理費と修繕積立金の継続的な支払いを引き受ける。戸建てでは毎月の固定負担を小さくできる代わりに、修繕費の発生時期と金額の不確実性を自分で負担する。これは単なる費用総額の違いではなく、資金繰りとリスク配分の違いでもある。

八十歳を過ぎると、自分でできることにも費用が生じる

 老後三十年間を考えるとき、住宅より先に大きく変化する可能性があるのは、そこに住んでいる人間の身体能力である。六十歳なら、庭木を切り、草を刈り、高い場所の電球を交換し、自動車でスーパーへ行くことを大きな負担と感じないかもしれない。しかし、八十歳でも同じ作業を安全に続けられるとは限らない。

 高齢になるにつれて、自分で行っていた住宅管理や日常生活の作業を業者や家族に頼む必要が生じる場合がある。庭木の剪定や草刈りを外注する費用、買い物や通院のためにタクシーを利用する費用、住宅内に手すりを取り付けたり段差を解消したりする費用などは、六十歳時点の住宅維持費だけからは見えにくい。

 ただし、このような費用は地方戸建てだけに発生するものではない。都市マンションでも、高齢になれば室内の段差対策や介護サービス、宅配、家事支援などを必要とする可能性がある。また、マンションにエレベーターがあっても、駅までの歩行距離が長い、坂道が多い、駅構内の移動が難しいといった条件があれば、実際の移動負担は大きくなる。

 一方、平屋の戸建てで、徒歩圏に病院やスーパーがあり、移動販売や宅配を利用できる地域なら、都市マンションより身体的な負担を小さくできる場合もある。したがって、都市と地方という区分だけで高齢期の利便性を判断することはできず、個々の住宅の間取り、周辺施設、道路環境、交通サービスを具体的に評価しなければならない。

 また、六十歳から九十歳まで同じ住宅に住み続けるという想定そのものにも限界がある。要介護状態や家族構成の変化によって転居や施設入所を選ぶ場合には、引っ越し費用、住宅の売却費用、新たな住居費などが発生する。三十年間住み続けるモデルは費用構造を把握するうえで有用だが、実際の老後計画では住み替えの可能性も考慮する必要がある。

マンションにも建物と所有者の二つの老いがある

 老後には都市マンションが常に安全で便利であるように見えるかもしれないが、マンションにも時間の経過とともに生じる問題がある。建物の高経年化と、区分所有者や居住者の高齢化が同時に進む、いわゆる「二つの老い」である。

 鉄筋コンクリート造の建物であっても、外壁、防水、給排水設備、エレベーターなどの維持更新は必要になる。修繕積立金が十分でなければ積立額の増額や一時的な追加負担が必要になる可能性があり、工事内容や負担方法をめぐって区分所有者間の意見が分かれることもある。

 日本では、二〇二五年にマンション関係法が改正され、二〇二六年四月には主要な改正部分が施行された。建物更新などに関する新たな決議制度や管理・再生の円滑化に向けた仕組みが整備され、老朽化したマンションへの制度的な対応は進められている。しかし、法律が改正されたからといって、管理組合の財源不足や住民間の合意形成の難しさが自動的に解消されるわけではない。

 国土交通省のマンション管理計画認定制度では、管理組合の運営、管理規約、経理、長期修繕計画などについて一定の基準が設けられている。管理計画の認定は管理状況を確認するための一つの手掛かりになるが、認定を取得していることだけで将来の負担増や修繕上の問題が発生しないと保証されるわけではない。

 戸建てなら、自分の資金と判断によって修繕方針を決めやすい。一方、マンションでは、自分一人に十分な資金があっても、建物全体の大規模修繕や再生を自分だけの意思で進めることはできない。管理を一人で背負わなくてよいというマンションの長所は、管理を一人では決められないという短所にもなる。

 中古マンションを老後の住まいとして選ぶ場合には、購入価格だけでなく、長期修繕計画、修繕積立金の残高、滞納状況、大規模修繕の実施履歴、管理規約、総会議事録などを確認することが重要である。建物が比較的新しくても、管理状態が不十分であれば将来の負担が大きくなる可能性がある。

これから家を買うなら、購入価格を無視してはいけない

 ここまでの比較は、すでに住宅を所有し、住宅ローンを完済している人が、今後三十年間どちらの生活を維持しやすいかを考えたモデルである。しかし、六十歳から新たに住宅を購入する場合には、取得価格という非常に大きな費用が加わるため、結論が変わる可能性がある。

 例えば、都市マンションの購入価格を四〇〇〇万円、地方戸建てを二〇〇〇万円と仮定すると、購入時点で二〇〇〇万円の差がある。ここに先ほどの三十年間の住宅・交通関連費を加えると、都市マンションは約五九六四万円、地方戸建ては四四七〇万円となり、売却前の累計支出では地方戸建ての方が約一四九四万円少ない。

 この例では、都市マンションの維持管理費と交通費が地方戸建てより約五〇六万円安くても、当初の購入価格差二〇〇〇万円を埋めることはできない。取得・売却時の諸費用や金利、税負担の違い、将来費用の割引などを無視した単純な比較では、三十年後の都市マンションの売却手取額が地方戸建てより約一四九四万円以上高くなって、初めて都市側の経済的優位が生じる計算になる。

 ただし、三十年後の資産価値を正確に予測することは難しい。都市マンションでも建物の老朽化、管理不全、地域需要の低下などによって価格が下落する可能性があり、地方戸建てでも土地需要や立地条件によって一定の価値が残る場合がある。逆に、人口減少や災害リスク、建物の状態によっては、売却が難しくなることも考えられる。

 固定資産税についても、土地と建物の評価額、住宅用地の特例、評価替えなどによって負担が変わる。住宅を購入した場合には、不動産取得に伴う税金や登記費用、仲介手数料などが必要になることもあり、売却時には譲渡所得に関する税制上の扱いも検討しなければならない。

 さらに、住宅ローンを利用する場合には利息を考慮する必要がある。現金購入であっても、住宅購入に使った資金をほかの用途に利用できた可能性があるため、経済学的には資金の機会費用を無視できない。すでに住宅を所有している人についても、売却して別の住まいに移るという選択肢を比較するのであれば、現在の住宅を保有し続けることの機会費用を考慮する必要がある。

 したがって、現在の住宅に住み続ける場合と、六十歳から新たに住宅を購入する場合を、同じ費用計算だけで評価することは適切ではない。前者では今後の現金支出と住み続けるための追加負担が重要になり、後者では取得費、資金調達費用、将来の売却価値まで含めた比較が必要になる。

三十年間の単純累計と、経済学的な現在価値は異なる

 ここまでの試算では、将来の物価上昇を予測せず、すべての費用を現在の価格水準に置き換えた単純累計を使用した。この方法は、費用の構成や大きさを直感的に比較するためには分かりやすいが、厳密な金融経済学的評価とは異なる。

 将来の支出を評価する場合、同じ百万円でも、現在支払う百万円と三十年後に支払う百万円の経済的な意味は同じではない。例えば、説明のため実質割引率を年二%と仮定すれば、三十年後に支払う百万円の現在価値は約五十五万二〇〇〇円となる。ここで用いた二%は将来の金利や運用利回りの予測ではなく、支出時期の違いを説明するための仮定である。

 マンションの管理費と修繕積立金は毎月継続的に発生する一方、戸建ての修繕費は特定の年に集中することがある。そのため、三十年間の単純累計が同じでも、支払い時期が異なれば現在価値は異なり、年金生活における資金繰りの難しさも変わる。

 また、将来の修繕費には不確実性があるため、総額だけでなく、支出が集中する時期や予備資金の必要額も考慮する必要がある。戸建てで突発的な修繕費が発生した場合と、マンションで修繕積立金が段階的に引き上げられた場合では、同じ累計負担でも家計に与える影響は異なる。

 本格的に経済性を比較するなら、各年の支出と売却価値を設定し、複数の実質割引率で現在価値を計算する方法が望ましい。ただし、割引率や将来費用の設定によって結論が変化する可能性があるため、一つの計算結果だけを絶対的な答えとして扱うことはできない。

この試算から、どこまで結論を出せるのか

 今回の比較では、管理費・修繕積立金の平均額については国土交通省の調査結果を使用した一方、固定資産税、保険料、修繕費、自動車購入費、交通費などについては仮定を設定している。このため、算術的に正確な結果が得られていても、それだけで現実の一般的な世帯に当てはまるとは限らない。

 例えば、地方戸建ての三十年間の修繕費が平均して七〇〇万円程度なのか、自動車の三十年間総費用一五〇〇万円がどの程度一般的なのかについては、今回の仮定だけから判断できない。また、都市マンションの方が安くなる世帯の割合や、費用差が全国平均で何万円になるのかについても推定できない。

 統計学的に将来の費用を予測するためには、住宅の築年数や構造、修繕履歴、世帯人数、自動車の保有状況、年間走行距離、運転終了年齢、公共交通へのアクセスなどについて、実測データを収集する必要がある。さらに、これらの条件は互いに関連している可能性があるため、一つずつ独立に変化させるだけでは、現実の世帯ごとの費用分布を十分に表現できない。

 仮に確率分布を設定して多数の組み合わせを計算するモンテカルロ法を使用すれば、費用差の分布や特定条件での逆転確率を推定することは可能である。しかし、元になる確率分布や変数間の関係を裏付ける実測データが不十分なら、計算回数を増やしても予測の信頼性が高まるわけではない。

 したがって、今回の試算から言えるのは、設定した条件のもとでは都市マンションが約五〇六万円安くなること、そして修繕費や自動車費用を変更すると優劣が変わるということである。都市マンションが全国的に安い確率や、地方戸建ての方が安い世帯の割合まで明らかにしたものではない。

 この区別を明確にすることは、数理的な分析の信頼性を保つうえで重要である。数字を細かく計算したことと、現実の費用を正確に予測できたことは同じではないのである。

結局、都市マンションと地方戸建てのどちらが安いのか

 ここまで比較してきた結果を整理すると、今回の試算条件では、住宅そのものの維持管理費だけを見るなら地方戸建ての方が安い。都市マンションの住宅関連費が約一六〇四万円であるのに対し、地方戸建ては九七〇万円であり、その差は約六三四万円となる。毎月の管理費と修繕積立金がなく、土地や建物に対する税負担も低く設定したことが、この差を生み出している。

 しかし、都市マンションで自動車を所有せずに生活でき、地方戸建てで自動車一台を三十年間保有する場合には、今回の条件で都市マンションの総支出が約五〇六万円少なくなる。逆転点は地方側の自動車関連費が約九九四万円を超えるところにあり、自動車の購入価格、維持費、保有年数によって結果が変化する。

 一方、都市マンションでも自動車を所有し、高い駐車場代を支払う場合には、その経済的優位性は縮小し、条件によっては地方戸建ての方が大幅に安くなる。また、これから住宅を購入する場合には、購入価格の差が維持費の差を上回ることもあり、三十年後の売却価値まで含めた評価が必要になる。

 つまり、老後の住宅の経済性を決めるのは、マンションか戸建てかという建物の種類だけではない。購入価格、建物の状態、修繕費、税負担、自動車の保有状況、公共交通の利便性、運転終了後の移動手段、そして将来の資産価値が組み合わさって、最終的な費用関係が決まる。

 さらに、支出総額だけでなく、毎月の固定負担に耐えられるか、突発的な修繕費を支払えるか、身体能力が低下した後も安全に生活できるかという条件も重要になる。経済的に安い住宅であっても、必要な医療や買い物にアクセスできなければ、老後の住まいとして適切とは言い切れない。

最後に残るのは、九十歳の自分がその家で暮らせるかという問題である

 都市マンションの窓から駅前の灯りを見る生活と、地方戸建ての縁側から静かな庭を見る生活では、そもそも得られる価値が異なる。静けさ、庭、広さ、隣家との距離には価値があり、駅まで歩けること、病院やスーパーが近いことにも確かな価値がある。どちらを重視するかは個人の生活習慣や価値観によって異なり、老後の住まいを金額だけで決める必要はない。

 しかし、経済性を比較するのであれば、「住宅価格が安い」「管理費がない」という理由だけで、老後も安く暮らせると結論することは避けた方がよい。地方戸建てには管理費がなくても、屋根や外壁があり、庭があり、住宅から病院までの距離があり、その距離を埋める自動車がある。都市マンションには管理費と修繕積立金という固定負担がある一方、立地によっては自動車を持たずに生活でき、建物の共用部分を共同で維持する仕組みがある。

 これから住宅を購入するなら、取得価格はいくら違うのか。すでに所有しているなら、建物はどの程度傷んでいるのか。自動車を何台持ち、何歳まで運転するつもりなのか。運転をやめた後、買い物や通院をどのように続けるのか。八十歳を超えたとき、住宅の管理を自分で続けられるのか。そして、途中で住み替える必要が生じた場合、その住宅を売却したり貸したりできるのか。

 こうした条件を具体的に置いて初めて、老後住宅の経済性を現実に近い形で評価できる。六十歳で住まいを選ぶときには、現在の自分にとっての快適さや支出の少なさを重視しやすいが、三十年間住む家であれば、八十歳や九十歳の生活まで想定して判断する必要がある。

 そのとき、玄関を開けた後に安全に買い物へ行けるのか、必要な医療を受けられるのか、壊れた住宅を修繕できるのか、そして無理のない支出で生活を続けられるのかという問題が残る。住宅の取得価格や管理費が安くても、生活を維持するための別の費用が大きければ、結果として高い住まいになる可能性がある。

 老後の住まいにおける「安い」という言葉は、住宅価格だけでは決まらない。建物を維持し、必要な場所へ移動し、身体能力の変化にも対応しながら、長期間生活を続けるために必要な費用まで数えて初めて、その住まいの本当の経済的負担が見えてくるのである。

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