地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

水路は、造っただけでは水路であり続けない

 田舎を歩いていると、道路の脇や田畑の間を細い水路が走っている。雨が降れば水を逃がし、田植えの季節には農地へ水を運び、普段は何事もなかったように風景の一部へ溶け込んでいるため、それを維持するために毎年どれほどの人手が費やされているのかを意識する機会は少ない。しかし、水路はコンクリートで造った瞬間から半永久的に働き続ける設備ではなく、落ち葉が入り、土砂がたまり、草が伸び、枝が落ち、年月がたてば壁面が劣化し、大雨が来れば一度の出水で流れが変わることさえある。

 それでも日本の農村や郊外では、長いあいだ多くの水路が機能してきた。その理由は、水路そのものが特別に壊れにくかったからではなく、春になれば草を刈り、梅雨の前には泥を上げ、大雨の後には詰まりを見に行く人がいたからである。行政の資料には水路の延長や施設数は記録されても、毎年そこへ長靴で入り、スコップを持って泥を上げてきた人の労働までは、同じようには数字に残らない。

 地域の水路を支えてきたものは、コンクリートだけではなく、人間の手だったのである。

「誰の水路なのか」と「誰が掃除してきたのか」は、必ずしも同じではない

 水路の問題を複雑にしているのは、私たちが日常的に「水路」と一括して呼んでいるものが、制度上は一種類ではないことである。農地へ水を送る農業用水路もあれば、田畑や住宅地から雨水を逃がす排水路もあり、市町村が管理するもの、土地改良区が管理するもの、地域で共同管理されてきた末端水路、昔からの公共物を起源とする水路など、その位置付けと管理主体は場所によって異なっている。

 ところが現場では、法律上の管理区分とは別の論理で水路が守られてきた地域も少なくない。「この水路は誰の所有物か」と毎回確認してから草を刈るのではなく、「昔からここはみんなでやっているから」という地域の慣行によって手入れが続けられてきたため、制度上の管理者と日常的に維持作業をする人とが一致しない場合がある。

 この仕組みは、地域に十分な人口と共同作業の担い手がいた時代には合理的だった。数十人が少しずつ労力を出せば一人当たりの負担は大きくならず、農業者にとっては農業施設を守る作業となり、農業をしていない住民にとっても雨水排水や地域環境の維持につながるため、水路清掃は農業と生活の境界にある地域共同体の仕事として成り立ってきた。

 しかし、その前提となっていた人の数と年齢構成が変わり始めている。

人口が減っても、水路の長さまで同じ割合で減るわけではない

 人口減少社会には、インフラ維持の面で厄介な特徴がある。住民が半分になったからといって道路が半分になるわけではなく、水路も半分にはならないため、同じ延長、同じ作業量をより少ない人数で支えることになれば、一人当たりの負担は増えていく。

 必要な年間作業量が変わらないと仮定すれば、一人当たりの作業負担は単純に「総作業量を参加人数で割った値」になる。たとえば三十人で行っていた作業を十五人で行えば一人当たりの負担は二倍になり、人口が二五%減って参加者も同じ割合で減れば、一人当たりの負担は約三三%増える計算になる。

 現実には、さらに高齢化が重なるため、居住人口と実際に草刈りや泥上げをできる人数は同じようには減らない。住民数が三分の二になっても、重い作業のできる人が半分以下になれば、現場の負担は人口減少率以上に増える可能性がある。

 この問題は印象論だけではない。農林水産省の分析では、農業用用排水路を集落で保全・管理している割合は、集落人口一人から九人では四〇・七%であるのに対し、百人から百四十九人では八二・九%となっており、極めて小規模な集落では保全割合が大きく低下している。また、高齢化率が高い集落ほど保全割合が低くなる傾向も確認されている。

 ただし、ここで一つ注意しなければならないことがある。こうした数字は、「人口が減れば必ず水路管理が崩壊する」と証明する実験結果ではなく、小規模化や高齢化と保全活動との間に強い関連が見られるという観察統計である。山間部か平地か、水路の長さや地形、土地改良区の体制、農業者数など他の要因も関係するため、人口減少だけを唯一の原因と断定することはできない。

 それでも、地域の人数が一定規模を下回るほど共同管理が難しくなるという構造そのものは、複数の統計からかなり明瞭に見えている。

全国一律に崩れているわけではない。それでも構造的な弱さは残る

 人口減少と高齢化が進んでいると聞くと、全国で水路の保全活動が年々低下しているように思えるかもしれない。しかし、全国集計を見ると事情はもう少し複雑であり、農業用用排水路を保全している農業集落の割合は二〇一五年から二〇二〇年にかけてむしろ上昇しており、二〇二五年農林業センサスでも、保全に取り組んでいない集落の割合は五年前より低下している。

 これは人口減少の影響が存在しないことを意味するのではない。むしろ、多面的機能支払交付金による支援、活動組織の広域化、農業者以外の参加、外部委託などによって、従来の地域共同作業だけでは維持しにくくなった部分を制度的に補っていると考えた方が実態に近い。

 したがって、現在起きていることを「日本中の水路管理が一斉に崩壊している」と表現するのは正確ではない。より正確なのは、従来型の住民共同管理が小規模集落ほど不安定になり、その弱さを別の制度や広域的な仕組みで補う時代へ移っている、ということである。

最後の一人が辞めた瞬間、「無料だった仕事」に値段がつく

 地域共同作業には、会計数字から見えにくい特徴がある。住民二十人が四時間ずつ水路を掃除すれば、合計八十時間の労働が投入されているが、住民が無償で行えば行政の歳出にはその八十時間分の費用が現れない。しかし労働そのものが存在しなかったわけではなく、その仕事を住民ができなくなれば、誰かが代わって同じ作業をしなければならない。

 ここに人口減少社会のインフラ問題の核心がある。これまで安く維持できていたように見えたものの中には、本当に費用が安かったのではなく、地域住民の無償労働によって費用が表面化していなかったものがある。

 草刈りや泥上げを民間業者へ委託すれば、単なる作業者の人件費だけでなく、機械、車両、燃料、運搬、処分、安全管理、保険、現場管理などの費用が発生する。これまで自治会や集落の共同作業として処理されていた仕事が、外部委託へ切り替わった瞬間、初めて明確な金額として見えるようになるのである。

 最後の一人がスコップを置いた日、水路に新しい費用が突然生まれるわけではない。それまで人々の善意と慣行の中に隠れていた費用が、請求書という形で姿を現すのである。

では、市町村が全部やればよいのか

 地域住民ができなくなったのなら、市町村が維持すればよいと考えるのは自然である。しかし、現実にはすべての水路が市町村管理ではなく、農業用施設であれば土地改良区などが関わる場合もあり、末端では地域共同管理が組み込まれていることもあるため、「水路だから市役所」という一本の線では整理できない。

 さらに自治体自身も人口減少の影響を受けている。市区町村の土木部門職員数は、一九九六年の約十二万四千人から二〇二五年には約九万一千人へ減少しており、約四分の一が減った計算になる。全国の市区町村の中には技術系職員がごく少数しかいない自治体も多く、技術系職員が一人もいない自治体も存在している。

 その一方で、自治体が維持しなければならない対象は水路だけではない。道路、橋、公園、上下水道、公共施設など大量の社会資本が老朽化しており、大雨や災害への対応も求められるため、地域が担えなくなった作業をすべて行政へそのまま移す方法には、人的にも財政的にも明確な制約がある。

 問題は、「行政がやるか、住民がやるか」という二者択一ではない。人口が多かった時代につくられた役割分担を、人口の少ない時代にどう組み替えるかという問題なのである。

水路は、農家だけのものではなくなっている

 農業用水路という言葉を聞けば、農業をしていない住民には関係がないように感じられるかもしれない。しかし現実には、農業水利施設の中には農業生産だけでなく、雨水排水や地域の防災、生活環境の維持に関わっているものがある。

 かつて田畑の間だけを流れていた排水路の周囲に住宅が建ち、その水路が住宅地から流れ込む雨水を受けている場所もある。農業者が減っても、雨が降らなくなるわけではなく、周囲に住宅が残っていれば排水機能の必要性は続くため、「農業者が減ったから農業者だけで管理すればよい」という考え方は次第に現実と合わなくなる。

 ここに新しい不均衡が生まれる。農業者数が減少して農業上の直接的な受益者が少なくなっても、水路の排水、防災、環境保全といった機能まで同じ割合で縮小するとは限らないからである。

 農業のためにつくられた水路が、長い年月の中で地域全体の生活を守る水路にもなっているのであれば、その維持管理を農家だけの問題として扱い続けることには限界がある。

国も「従来の役割分担だけでは続かない」と考え始めた

 こうした状況を背景として、国の制度も変わり始めている。これまでも地域住民が水路や農道を共同で維持する活動への支援は行われてきたが、人口減少や高齢化が進む中で、基幹的な農業水利施設は土地改良区が管理し、末端水路は集落や地域住民が管理するという従来型の役割分担だけでは持続が難しい地域があることが、政策上の課題として明確に意識されるようになった。

 二〇二五年四月に施行された改正土地改良法では、「連携管理保全計画」という仕組みが設けられ、土地改良区、市町村、その他の関係者が将来の農業水利施設の管理について連携し、役割分担を考える制度が整えられた。

 重要なのは制度名そのものではない。「誰かがこれまでどおり掃除してくれる」という前提から離れ、十年後、二十年後に誰が管理するのかを、まだ人がいるうちに考えなければならない段階へ入ったということである。

 水路の草刈りという一見小さな問題は、人口減少社会における公共サービスを誰が担い、費用をどう分けるのかという、はるかに大きな問題の縮図になっている。

「全部を昔のまま守る」ことが最適とは限らない

 人口が増え続けた時代には、新しい道路を造り、水路を延ばし、住宅地を広げることが地域の発展と考えられてきた。しかし人口が減る時代には、造ることよりも、すでに存在する施設のうち何を残し、誰が、どこまで維持するのかを決めることの方が難しくなる。

 すべての水路を従来と同じ頻度、同じ方法、同じ組織で維持し続けることが合理的とは限らない。農地利用が大きく変わった場所なら水路網そのものを見直す余地があり、開水路を管路化したり、草刈りの負担を減らすよう法面を改修したり、複数の小さな管理組織を広域化したりする方法も考えられる。ICT(Information and Communication Technology・情報通信技術)や遠隔監視を活用し、見回りの負担を減らす方法も今後は増えていくだろう。

 ただし、技術を導入すれば人間が不要になるわけではない。カメラが詰まりを発見しても泥を取り除く人は必要であり、機械で草を刈っても機械を動かす人は必要になる。人口減少への対応とは、人間を完全に機械へ置き換えることではなく、少なくなった人間でも維持できるように、施設と作業方法と役割分担を同時に作り直すことである。

水路の底にたまっているのは、泥だけではない

 毎年の水路清掃は、一見すると単純な地域行事である。長靴を履き、スコップを持ち、草を刈り、泥を上げ、終われば家へ帰るという作業が毎年繰り返されてきたため、それを「地域インフラを支える社会システム」と考える人は多くなかっただろう。

 しかし、その何気ない共同作業の中には、長い時間をかけて蓄積された地域の知識が存在している。どこに泥がたまりやすいか、どの雨量になると水があふれるか、どの場所の草を先に刈らなければならないか、どの水門をどの順番で確認するかといった知識は、必ずしも設計図や台帳の中に記録されているとは限らない。

 統計上は「共同管理されている」と分類されていても、現場の協力関係が実際には弱くなっている地域が存在することを示した研究もある。数字だけを見て「管理されているから大丈夫」と考えることには危険があり、管理の有無だけでなく、実際に誰が、何人で、どの頻度で、どこまで作業しているのかを見る必要がある。

 人が一人ずついなくなるとき、失われるのは単なる労働力だけではない。「この水路はここが危ない」という地域の記憶も同時に消えていくのである。

「誰かがやるだろう」が通用しなくなる前に

 地域のインフラは、壊れた日に突然問題になるように見える。しかし実際には、そのずっと前から静かに維持能力が失われ始めている。水路の場合、その最初の兆候はコンクリートのひび割れではなく、水路清掃の日に集まる人が一人減ることなのかもしれない。

 昨年まで十二人だった作業が今年は九人になり、その数年後には六人になる。それでも水は流れているため、表面上は何も起きていないように見えるが、同じ長さの水路を六人で守るなら、一人当たりの負担は確実に増えている。負担が重くなれば参加できない人が増え、参加者が減れば残った人の負担がさらに増えるため、共同管理にはある段階から急速に維持が難しくなる危険がある。

 ただし、日本全国が同じ速度でそこへ向かっているわけではない。外部支援によって維持できている地域もあれば、複数集落で協力している地域もあり、非農業者や民間事業者が参加して新しい形を作っている地域もある。だからこそ必要なのは、「もう無理だ」と諦めることでも、「昔どおり頑張ればよい」と精神論で押し切ることでもなく、地域ごとの現実を数字と現場の両方から見極めることである。

 地域の水路を掃除する人がいなくなったら、誰が維持するのか。その答えは、「自治体」「土地改良区」「農家」「住民」のどれか一つではないだろう。水路が農業、排水、防災、生活環境のどの機能を担っているのかを確認し、その重要度と必要な作業量を把握した上で、地域住民、農業者、土地改良区、自治体、民間事業者などの間で、費用と労力を現実的に組み直していく必要がある。

 そして、その議論を始めるべき時期は、水路が詰まり、大雨の夜に初めて困ってからではない。まだ地域の中に、「昔はここから先を先に掃除したんだ」と教えてくれる人が残っている今なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の小さな町でスーパーが閉店すると、ニュースではしばしば「買い物弱者」や「食品アクセス問題」という言葉が使われる。自動車を運転できない高齢者にとって、食料品を買える場所が遠くなることは確かに深刻な問題だが、この問題について考え始めると、いつの間にか「なくなったスーパーを何によって置き換えるか」という議論になりやすい。そこで候補に挙がるのが移動販売だが、移動販売車1台で、かつて存在したスーパーと同じ品ぞろえ、営業時間、価格、サービスをそのまま再現することは難しい。

 売り場の広さも、扱える商品の種類も違う。大量仕入れによる価格競争力でも、大型スーパーと同じ条件で競うことは難しく、肉、魚、野菜、惣菜、飲料、日用品まで幅広い商品を好きな時間に選べる固定店舗と、週に1度か2度、決められた時間にやって来る移動販売車とを比較すれば、小売店舗としての機能には明らかな差がある。しかし、この違いを理由に「スーパーの代わりにならないのだから意味がない」と考えてしまうと、人口減少地域でこれから必要になる商売の姿を見誤るかもしれない。

 移動販売に求められているのは、失われたスーパーを小さくして車の中へ再現することではない。地域の暮らしに生じた空白のすべてを埋めることができなくても、その一部分を埋めることができれば、そこには十分な社会的価値があり、条件によっては小さな商売として成立する可能性も生まれる。

「一週間分を買う店」ではなく「今日と明日をつなぐ店」

 冷蔵庫を開けたら牛乳がなかった。夕食に使うつもりだった豆腐を前日に食べてしまい、卵も残り1個しかない。薬を飲むために少し何か食べたいが、パンまで切れている。都市部で生活していれば、この程度の不足は大きな問題にならず、コンビニエンスストアやスーパーへ歩くか、自転車や自動車で出掛ければ済むことが多い。

 ところが最寄りの食料品店まで数キロ、場合によっては10数キロ離れ、自分では自動車を運転できない人にとっては、1本の牛乳を買うことさえ小さな外出ではなくなる。家族に頼むのか、近所の人に頼むのか、バスの時刻に生活を合わせるのか、それとも数百円の商品を買うためにタクシーを利用するのかという問題になり、商品そのものの価格とは別に、時間、交通費、他人へ依頼する心理的負担まで発生する。

 このような暮らしの中では、移動販売の価値を「何種類の商品が積まれているか」だけで測ることはできない。毎週決まった曜日の決まった時間に販売車が来ることが分かっていれば、牛乳や卵が少なくなったときにも、何日も前から完全な買い物計画を立てる必要がなくなる。スーパーで3,000円分をまとめて買う代わりに、移動販売では牛乳、パン、卵、惣菜だけを買う人もいるだろうが、その数品によって「今日は遠くの店へ行かなくてもよい」という1日が生まれるのであれば、生活者にとっての効用は購入金額だけでは測れない。

 移動販売は1週間分の暮らしをすべて背負わなくてもよいのであり、今日と明日の間に生じた小さな不足を埋めるだけでも、固定店舗とは異なる役割を持つことができる。

店が成立しにくくなっても、生活需要まで消えるわけではない

 人口減少地域では、「人口が減れば店がなくなる」という単純な一本線だけで現象を説明することはできない。実際には人口減少に加えて、高齢化、経営者の高齢化や後継者不足、自動車で大型店へ買い物に行く生活への変化、人件費や物流費、電気代の上昇、地域内での消費額の減少などが重なり、一定以上の売上を必要とする固定店舗から維持が難しくなっていく。

 しかし、店が閉じた翌日に地域の住民まで消えるわけではない。店舗を支えるには市場規模が小さくなっていても、そこで暮らす数百人、数千人の食事や日用品への需要までなくなるわけではないため、固定店舗を1軒維持するほどには大きくないが、完全に無視できるほど小さくもない需要が地域に残る。この「店を1軒維持するには小さすぎるが、生活需要としては消えていない」という中間領域こそ、移動販売のような小規模サービスを考える余地である。

 大型店舗は、一定数の人が1つの場所へ来てくれることを前提に、建物、駐車場、冷蔵設備、照明、従業員、在庫を用意する。それに対して移動販売は、建物を1日中開けて客を待つのではなく、需要のある場所と時間に商品を移動させることができるため、費用構造そのものが固定店舗とは異なる。

 もちろん、移動販売であれば自動的に低コストになるわけではない。専用車両の取得や改装、冷蔵設備、燃料、保険、点検整備、人件費、商品の積み込み、廃棄などの費用が必要であり、既存のスーパーや物流拠点を商品の補給基地として利用できる事業者と、ゼロから仕入れや保管の仕組みを構築する事業者とでは採算条件も違う。それでも、需要の薄い地域全体に1つの固定店舗を置く方法とは別に、「需要のある地点を時間で結ぶ」という選択肢を持てることが移動販売の特徴である。

問題は人口ではなく、「1時間に何人と出会えるか」

 移動販売を考えるうえで最も注意すべきなのは、「高齢者が多い地域だから商売になる」「買い物に困っている人が多いから需要がある」と短絡しないことである。困っている人が存在することと、事業として採算が取れることは別の問題であり、両者をつなぐ重要な条件が顧客密度と巡回効率になる。

 仮に40人の固定客がいるとして、その40人が1つの住宅団地にまとまって住んでいれば、販売車は1か所あるいは数か所に停車するだけで多くの客に商品を販売できる。ところが同じ40人が広い山間部に1人ずつ散らばって住んでいれば、1人の買い物のために何分も走り、次の客までさらに何キロも移動しなければならない。同じ40人、同じ客単価であっても、1日に販売できる人数と必要な燃料、労働時間は大きく変わる。

 したがって、事業者が本当に知るべき数字は地域全体の高齢者人口だけではなく、「1時間に何人の購入者と接触できるか」「1キロメートル走行する間にどれだけの粗利益を得られるか」「1つの停車地点で何人が買ってくれるか」といった密度である。移動販売の巡回経路について実際に数理最適化の研究が行われているのも、どの順番で停車地点を回るかによって走行距離と労働時間が変わり、それがそのまま事業採算へ影響するからである。

 ここで、従来の「商圏」という考え方も少し変わってくる。固定店舗では店舗から半径何キロメートルの範囲に何人住んでいるかを考えることが多いが、移動販売では「月曜日の午前10時には住宅団地で10人、10時40分には公民館前で8人、11時20分には別の集落で12人」といった時間軸を含んだ商圏を設計することになる。人口が薄い地域であっても、人を時間と場所によって束ね直すことができれば、散らばっていた小さな需要を1つの巡回ルートとして組み直せる可能性が出てくる。

「何が人気か」より「何がなくなると困るか」

 移動販売車の車内には限りがあるため、固定スーパーの売り場をそのまま縮小して積み込むことはできない。そこで商品構成を考えるときには、「よく売れる商品」だけでなく、「なくなったときに生活上の不便が大きい商品」という視点が重要になる。

 牛乳、卵、豆腐、パン、納豆、飲料、調味料、簡単な惣菜などは、1つ1つの価格は高くなくても、家庭から切れた途端に買い物の必要性が生じやすい。反対に、限られた荷台の中で種類ばかりを増やせば、1商品当たりの在庫量が減って欠品が生じやすくなる一方、売れ残る商品の種類も増えてしまうため、「品ぞろえが多いほどよい」というスーパー型の発想をそのまま持ち込むことはできない。

 ここで移動販売の弱点を補うのが、固定客との距離の近さである。同じ地区を毎週同じ曜日に回れば、「来週は味噌を1本持ってきてほしい」「この魚なら買いたい」「このパンを2個取っておいてほしい」といった注文が自然に集まりやすくなる。事前注文が増えれば、事業者は売れるかどうか分からない商品を大量に積んで走る必要が減り、需要があることを確認してから仕入れや積み込みを行えるため、在庫の不確実性や廃棄のリスクを小さくできる。

 つまり、移動販売は品ぞろえの少なさという弱点を持つ一方、客との距離が近いことを利用すれば、「何でも並んでいる店」ではなく「必要な物を次回持ってきてもらえる店」という別の価値へ変えることができる。

商品価格だけでは見えない「移動しなくてよい価値」

 同じ牛乳1本でも、固定スーパーで買う場合と自宅近くまで来る移動販売で買う場合では、商品以外に必要となる費用が異なる。都市部のスーパーでは、客が店舗まで何キロメートル移動したか、そのために何分使ったかという費用は店舗側の帳簿には表れないが、利用者側ではガソリン代、公共交通の運賃、運転時間、家族に送迎を頼む負担、バスを待つ時間などが実際に発生している。

 移動販売は、この「消費者が店まで移動する費用」の一部を販売者側が引き受け、その代わりに商品の価格や販売効率の中で回収する仕組みとも見ることができる。そのため、スーパーの商品価格だけを見れば移動販売の方が高い場合があっても、買い物へ行くための時間や交通費まで含めて考えれば、利用者にとっての実質的な負担差は小さくなる場合がある。

 ただし、この追加価値に利用者がいくらまで支払う意思を持つのかは、地域ごと、世帯ごとに違う。「地域のためになるのだから多少高くても買ってくれる」と考えるのは危険であり、地域貢献への共感による1度の買い物と、毎週続く購買行動は同じではない。移動販売が事業として長く残るためには、善意で利用されるサービスではなく、「水曜日にはあの車から買う」という日常の習慣になる必要がある。

採算を決めるのは、売上の大きさだけではない

 移動販売には、大型スーパーのような巨大な売上を期待しにくいという構造的な制約がある。1台の車に積める商品量にも、1日に回れる地点数にも限界があり、例えば客単価を1,000円、1日の購入客数を50人と仮定すれば、1日の売上は50,000円となる。しかし、この50,000円がそのまま利益になるわけではなく、仕入原価、燃料、人件費、車両費、整備費、保険料、決済手数料、商品の廃棄などを差し引かなければならない。

 逆に考えれば、事業性を判断するときに重要なのは、「1日にいくら売れるか」だけではなく、「その売上を何時間、何キロメートルの走行で生み出せるか」である。客単価が同じでも、50人へ販売するのに4時間で済むルートと8時間かかるルートでは採算性がまったく異なるため、移動販売では売上高だけでなく、1時間当たりの粗利益、走行1キロメートル当たりの粗利益、1停車地点当たりの購入人数などを見る必要がある。

 人口減少地域を相手にする以上、顧客数が将来急激に増えることを前提とした事業計画も現実的ではない。だからこそ、移動販売は大きな市場を発見する商売というより、散らばっている小さな需要を効率よく束ね、限られた時間の中で採算が取れる形に組み直す商売と考えた方がよい。

「小さすぎる需要」を組み合わせるという発想

 人口減少社会で増えていくのは、大企業にとって魅力的な巨大市場だけではない。むしろ、かつて1つの商店や1つの地域サービスの中にまとまっていた需要が、少人数ずつ地域の中へ散らばって残る可能性が高い。

 食料品を少し買いたいという需要の隣に、電球を交換してほしい、灯油を届けてほしい、重い物を運んでほしい、スマートフォンの設定を手伝ってほしいといった小さな困り事が存在することがある。これらをすべて1つの移動販売事業者が直接引き受ければ採算が改善すると断言することはできず、資格や責任範囲、個人情報、事故時の対応など、別の課題も生じる。しかし、定期的に地域へ入る事業者が住民の需要を知り、それを地域の別の事業者へつなぐという仕組みには検討の余地がある。

 1つ1つの需要はあまりに小さく、1件のためだけに新しい事業を立ち上げることは難しい。それでも、同じ地域の同じ利用者が抱える複数の小さな不便を1つの接点で把握できれば、これまで市場として認識されなかった需要が見えてくる可能性がある。

移動販売車は「走る小売店」だけでは終わらない

 毎週決まった曜日に同じ地区へ行き、同じ住民と顔を合わせるという行為には、小売売上だけでは測りにくい価値がある。オンライン通販では注文情報は分かっても顧客の日常生活までは見えにくく、宅配便は荷物を届ければ次の配達先へ向かうが、移動販売では短い時間であっても利用者との定期的な対面接触が生まれる。

 実際、移動販売を高齢者の見守りと組み合わせる取り組みは既に各地で行われており、定期訪問という特徴を生かせば、単なる販売車以上の地域接点になり得る。ただし、販売員が福祉職や医療職の役割まで担うべきだという意味ではなく、いつも利用している人が来なかった、普段と様子が違ったといった変化に気付き、必要であればあらかじめ決められた連絡先へつなぐという程度でも、地域における意味は大きい。

 また、毎週会話を重ねるうちに、「来週はこれが欲しい」という商品需要だけでなく、地域にどのような不便が残っているかも見えてくる。その情報を適切に扱い、地域の事業者や行政、福祉サービスなどと結びつけることができれば、移動販売車は商品を運ぶだけでなく、地域に散在する需要を発見する接点になる可能性がある。

スーパーが戻らなくても、暮らしを少し戻すことはできる

 人口が減った地域では、以前存在した便利さをすべて同じ形で取り戻すことは難しい。スーパーを復活させ、銀行の店舗を戻し、バスの本数を増やし、医療機関や商店を以前と同じように配置するという願いがあっても、それを長期間維持できる人口と売上がなければ、再び同じ問題に直面することになる。

 しかし、それは「人口が減ったのだから不便になるのは仕方がない」という結論と同じではない。以前と同じ大きさ、同じ頻度、同じ形式では維持できなくても、サービスを小さくし、時間を限定し、必要な場所を巡回する仕組みに変えることで、失われた便利の一部分を取り戻せる場合がある。

 移動販売は、その象徴的な例の1つである。大型スーパーと同じ品ぞろえも、長い営業時間も、最安値も提供できないかもしれないが、毎週水曜日の午前11時になれば家の近くへ車が来て、牛乳と卵と夕食のおかずを買える。それによって誰かに車を出してもらわなくて済む日が1日増え、自分の生活を自分で組み立てられる時間が少し延びるのであれば、その価値は店舗の売場面積だけでは測れない。

 人口減少社会で本当に問われるのは、失われた便利を100の状態まで戻せるかどうかではないのだろう。100あった便利が30まで減った地域で、現実的な費用の範囲内で35や40へ戻す方法を考え、その5や10の改善に住民がどれだけ価値を感じ、どこまでなら対価を支払うのかを確かめる。その需要を短い巡回距離の中にまとめ、1時間当たりに必要な粗利益を確保できるところまで設計できれば、それは慈善や一時的な地域支援ではなく、小さくても持続する商売になり得る。

 地方に巨大な市場が眠っているとは限らないし、人口減少によって何をしても新しい需要が生まれるわけでもない。しかし、人がそこで暮らし続ける限り、「これがないと少し困る」という小さな空白は残る。その空白の1つ1つは、大企業から見れば小さすぎて市場と呼ぶほどのものではないかもしれないが、場所と時間をうまく組み合わせれば、小さな需要同士が1つの事業を支えるだけの厚みを持つことがある。

 移動販売が運んでいるのは、商品だけではない。遠くなった店と、その土地に残った暮らしとの間を、毎週決まった時刻に細い橋で結び直しているのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の人口減少を語るとき、私たちはどうしても「住んでもらう」という発想から離れにくい。移住者を増やし、若い世代を呼び込み、子どもの数を増やして地域を維持するという筋書きは分かりやすいが、日本全体の人口が減少している以上、すべての町が同時に定住人口を増やすことはできず、しかも仕事、学校、医療、人間関係まで都市側に築いている人に対して、生活の中心そのものを地方へ移してくださいと求めるのは、本人にとってかなり大きな決断になる。

 しかし、「住民になってもらわなければ意味がない」という前提を外してみると、地方と都市の関係は少し違って見えてくる。月に2度来る人、週末だけ滞在する人、春から秋にかけて頻繁に訪れる人、仕事は都市に残したまま地方にも住まいを持つ人は、住民票を基準にした人口統計には十分現れないかもしれないが、実際には食料を買い、ガソリンを入れ、飲食店を利用し、住宅を維持し、ときには草刈りや修繕を地域の誰かに頼んでいる。

 その1回1回の支出は小さい。それでも、1度だけ訪れて帰る観光客とは違い、同じ人が翌月も、半年後も、数年後も戻ってくるのであれば、そこには「反復される需要」が生まれる。二地域居住の経済的な意味を考えるとき、まず見るべきなのは地域を劇的に変える一人の移住者ではなく、何度も来て少しずつお金を使う人がつくる、小さいけれど繰り返される市場なのである。

「一人増える」より「何回来るか」

 人口政策では「何人住んでいるか」が重要になるが、商売の側から見ると、それだけでは十分ではない。重要なのは、地域を利用する人が1年間に何回来て、そのたびにどれくらいの支出を行い、その支出のうちどれだけが地域内の事業者に届くかということである。

 たとえば説明のための仮定として、ある二地域居住者が月に2回町を訪れ、1回の滞在で食料、外食、燃料、日用品などに5,000円を地域内で使うとする。この場合、1年間の支出は24回掛ける5,000円で12万円となり、同じ程度の利用をする人が百人いれば、年間の地域内支出は1,200万円になる。

 もちろん、これは二地域居住者の全国平均を示した数字ではなく、あくまで経済の仕組みを考えるための仮定である。また、1,200万円の支出がそのまま地域住民の所得として残るわけでもない。スーパーで買った商品の仕入代金は地域外へ出ていき、ガソリンや家電も地域外で生産されていることが多いため、地域で支払われた金額と地域に残る所得は区別して考えなければならない。

 そこで重要になるのが、地域内で発生した支出のうち、どれだけが地域の人件費、利益、地域内仕入れとして残るかという割合である。同じ1,200万円の支出でも、ほとんどの商品を外部から仕入れている店に流れる場合と、地域の人が提供する草刈り、修繕、清掃、飲食、農産物販売などに流れる場合とでは、地域経済への影響はかなり違ってくる。

 二地域居住者の人数だけを数えても、地域への影響は十分に分からない。「何人いるか」に加えて、「年間何回来るか」「1回いくら使うか」「その支出を地域内でどれだけ受け止められるか」を見る必要があり、この三つを分けて考えると、地方における二地域居住の経済的な意味がかなり見えやすくなる。

観光客とも住民とも違う「半分知っている客」

 観光客は、その土地をまだよく知らないため、有名な観光施設や検索で見つけた飲食店を利用しやすい。一方、長く住んでいる住民は地域をよく知っているため、生活上の支出をできるだけ効率的に済ませようとすることが多い。二地域居住者はその中間に位置し、何度も町を訪れるうちに観光客ではなくなるが、完全な日常生活者にもならないという特徴を持つ。

 最初は評判の店を探して歩いていた人が、何度も通ううちに気に入った魚屋やパン屋を見つけ、帰宅前には同じ直売所で野菜を買うようになることがある。その行動が毎月繰り返されれば、1回限りの観光消費ではなく、ある程度予測できる反復需要に変わっていく。

 ただし、ここには注意も必要である。地域に慣れた人が必ず高い商品を買うとは限らず、土地を知るほど安い店や便利な店を選ぶようになることもあるため、二地域居住者は価格を気にしない優良顧客になると単純に考えるべきではない。それでも、店の商品や店主との関係に愛着が生まれれば、価格だけでは説明できない反復利用につながる可能性があり、地域の小さな商売にとって重要なのは、1度に大きな金額を使う客を探すことより、何度も戻ってくる客との接点を失わないことである。

人が来ても、買える場所がなければ消費は生まれない

 二地域居住者が増えれば、その人数に比例して地域の売上も増えると考えたくなるが、現実はそれほど単純ではない。地域に欲しい商品やサービスを提供する店がなければ、食料を都市から持ってきたり、インターネット通販を利用したり、隣の市まで買い物に出たりするため、地域に人が滞在していても、その消費が地元の事業者には届かない場合がある。

 つまり、二地域居住者が持ち込む購買力と、その購買力を地域で受け止める供給力は別の問題であり、「人を呼ぶこと」と「地域でお金を使ってもらうこと」の間には一段階がある。飲食店が閉まる時間が早すぎる、必要なものをどこで買えるのか分からない、住宅の修理を頼める事業者を探せないといった小さな不便が積み重なれば、せっかく地域に持ち込まれた需要は外へ流れてしまう。

 だから二地域居住を経済政策として考えるのであれば、人数を増やすことだけを成果にしてはいけない。重要なのは、外から持ち込まれた需要を地域の商いがどれだけ捕まえられるかであり、その意味では店の存在、営業時間、サービス情報、注文のしやすさ、支払い方法といった、一見地味な条件の方が、華やかな移住促進イベントより実際の消費に直結することがある。

「住んでいない時間」が新しい市場になる

 二地域居住の経済が興味深いのは、飲食や買い物だけではない。むしろ地域にとって特徴的なのは、「そこに住んでいない時間」があるために、定住者とは違ったサービス需要が生まれることである。

 家を持てば草は伸び、湿気はたまり、排水溝には葉が入り、台風のあとには屋根や雨戸が気になる。毎日住んでいる人なら自分で確認できることでも、月に数回しか訪れない人には確認すること自体が難しく、そこで誰かにお金を払って任せる理由が生まれる。

 たとえば月に1度の換気や簡単な清掃、庭の状態確認、郵便物の確認、台風通過後の外観点検、冬期の水道確認、設備の異常確認などは、1件ごとの仕事として見れば小さい。しかし、二地域居住者が一定数集まる場所では、こうした仕事を定期的に束ねることで、一つのサービスとして成立する可能性がある。

 ここで大切なのは、何でも代行する便利屋を始めれば成功するということではない。地方では顧客同士の距離が離れていることが多く、1件3,000円の仕事のために片道30分かけて移動すれば、それだけで採算が崩れてしまうことがあるため、小さな需要を商売にするには、その需要を地理的に束ねなければならない。

地方の商売では「顧客数」より「顧客密度」が効く

 二地域居住者向けサービスの成否を考えるうえで、人数以上に重要になるのが顧客密度である。百人の顧客が広い町全体に散らばっている場合と、同じ百人が一つの住宅地や別荘地に集中している場合では、売上の総額が同じでも利益は大きく異なる。

 1日に十軒を回れる地域と、1日に三軒しか回れない地域では、1件当たりの料金が同じでも事業者の収益性は変わるため、地方の生活サービスでは「市場人口が何人いるか」という問いだけでは十分ではない。「1時間で何人の顧客に会えるか」「1回の移動で何件処理できるか」という視点が必要になる。

 このため二地域居住者を対象とする小規模サービスには、町全域を広く取りに行くより、二地域居住者が比較的多い住宅地や別荘地など、狭い範囲にサービスを集中させる方が向いている。人口減少地域の新しい商売では、大規模な市場を探すことより、散らばっている小さな需要を採算の取れる密度まで束ねられるかどうかが重要になるのである。

「歓迎します」だけではお金は動かない

 二地域居住や関係人口を推進するとき、自治体や地域団体は交流会、イベント、移住相談会といった人間関係をつくる施策を考えやすい。しかし、人と人がつながることと、その地域で継続的な経済活動が生まれることは同じではない。

 二地域居住者が本当に困るのは、住宅に着いたら庭が荒れていたとき、夕方に食料を買える場所が分からないとき、壊れた網戸を誰に頼めばよいのか分からないとき、台風のあとに屋根が心配だが遠くにいて確認できないときである。こうした問題は一つ一つが小さいため行政課題として目立ちにくいが、商売の視点で見ると、小さいからこそ全国企業が参入しにくく、地域の個人事業者や小規模事業者が扱える余地が残っている。

 町が二地域居住者を増やしたいのであれば、「この町を好きになってください」と呼びかけるだけでは十分ではない。「困ったときには誰に頼めるのか」「何をどこで買えるのか」「留守中に何を任せられるのか」が分かる仕組みを整えることで、地域に持ち込まれた購買力が実際の商売へ変わりやすくなる。

月3,000円のサービスは商売になるのか

 二地域居住者向けの小さなサービスを考えるとき、売上と利益を分けて考える必要がある。仮に一人から月3,000円を受け取り、百人の顧客がいれば、月間売上は30万円、年間売上は360万円となる。

 しかし、ここから車両費、燃料費、保険、通信費、消耗品、決済費用、広告費、移動時間などを負担しなければならないため、360万円すべてが所得になるわけではない。二人分の生活を支える専業事業として考えれば十分な規模とは言いにくいが、一人で運営する小規模事業、副業、あるいは造園、清掃、修繕、不動産管理など既存事業の追加サービスとして考えるなら、意味を持つ可能性がある。

 ここでも重要なのは、1件当たりの売上を無理に高くすることではなく、同じ移動の中で複数の顧客を回れるかどうかである。月3,000円という小さな支払いでも、百軒が狭い地域に集まれば事業になる可能性がある一方、十軒ずつ十地区に散らばれば、同じ売上でも移動費によって利益が消えることがある。

 地方で新しい商売を考えるとき、「何人買ってくれるか」だけを見るのではなく、「その人たちはどこにいるのか」という問いを加える必要があるのは、このためである。

二地域居住は、必ず地域を豊かにするわけではない

 二地域居住には経済的な可能性があるが、それを無条件に地域にとって良いものだと考えるのも危険である。外部から住宅需要が増えれば、地域によっては土地や住宅の価格を押し上げ、地元で暮らす若者やサービス業従事者が住宅を取得しにくくなる場合もある。

 とくに住宅供給が少なく、観光需要の強い地域では、二地域居住や別荘需要が地元住民の住宅需要と競合する可能性がある一方、空き家が多く、住宅需要が弱い地域では、使われなくなった住宅を維持し、固定資産の価値を保つ方向に働くこともある。同じ二地域居住でも、住宅が不足している地域と空き家が余っている地域では意味がまったく異なるため、一つの成功例を全国へそのまま当てはめることはできない。

 また、地域内に十分な店や事業者がなければ、二地域居住者が持ち込んだ支出の多くが地域外へ流れる可能性もある。したがって、二地域居住そのものを経済効果と考えるのではなく、住宅市場の状況、地域の商業構造、顧客密度、地域内で供給できるサービスの種類まで含めて考える必要がある。

地方に必要なのは「大当たり」ではない

 人口減少地域で新しいビジネスを考えるとき、全国から顧客を集められる商品や、急成長する事業が理想として語られやすい。しかし、そのような事業が生まれる確率は高くなく、地方の小さな経済では、すでに地域を利用している人たちの未処理の需要を見つけ、少額でも繰り返し購入してもらう方が現実的な場合が多い。

 一人の顧客から年間数万円しか得られなくても、その顧客が百人、二百人と一定の範囲に集まり、しかも翌年も利用し続けるなら、1度きりの大型契約とは違った安定性が生まれる。市場が小さいことは弱点だが、その市場が小さすぎるため大企業が入りにくく、地域の小規模事業者には競争が少ない市場として残る場合もある。

 ただし、その小さな市場を見つけるには、「地方だから何か需要があるだろう」と考えるのではなく、誰が、何に困り、何回必要とし、いくらなら払い、どの地域に集まっているのかまで確かめる必要がある。二地域居住者という言葉そのものが商機なのではなく、その人たちが繰り返し経験する具体的な不便の中に商機があるのである。

「町を救う人」にしない

 地方政策では、人に役割を背負わせすぎることがある。移住者には自治会活動への参加を求め、若者には地域を変えることを期待し、起業家には雇用創出を期待するうちに、二地域居住者にも「地域を活性化してくれる人」という役割が与えられかねない。

 しかし、月に2度やって来る人は、その町を救うために来ているわけではない。海が好きだから来る人もいれば、小さな畑を楽しみたい人もいて、都会とは違う静かな時間を過ごしたいだけの人もいる。その人に地域貢献を要求する必要はなく、町へ来て、食事をし、必要なものを買い、家の手入れを地域の誰かに頼み、また都市へ戻っていけばよい。

 その往復が何年も続けば、一人の生活の中にその町が組み込まれていく。住民票はなくても、いつものスーパーがあり、いつもの飲食店があり、頼めば来てくれる職人がいて、道ですれ違えば挨拶する人がいるという関係が生まれれば、それはもはや単なる観光ではない。

 町の側から見れば、その人が使う1回数千円のお金は小さい。しかし、その数千円が年に20回、30回と繰り返され、同じような人が百人、二百人と存在すれば、それは一つの市場になる可能性がある。ただし市場になるかどうかを決めるのは人数だけではなく、来訪頻度、支出額、地域内で支出を受け止める割合、そして顧客同士の距離である。

 人口減少の町を一気に反転させるほどの力は、二地域居住にはないだろう。しかし、それは弱点ではない。人口減少の時代に必要なのは、すべてを元に戻す巨大な政策だけではなく、減っていく需要の隙間に小さな需要を差し込み、それを地域の商いへ変える仕組みでもある。

 二地域居住者は町を救わなくてもいい。月に何度かやって来て、昼を食べ、野菜を買い、ガソリンを入れ、伸びた草を刈ってもらい、壊れた雨戸を直してもらい、また翌月戻ってくる。その何でもない往復の中で、一つの店の売上が少し増え、一件の仕事が生まれ、使われなくなるはずだった住宅がもう少し長く維持されるなら、それだけでも地域経済にとって意味がある。

 地方の未来は、必ずしも劇的な人口増加によって始まるとは限らない。ときには、住民でも観光客でもない人が月に数回来るという、統計では見えにくい生活の往復から、小さく、静かで、それでも繰り返される経済が始まるのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 人口が減っていく町では、人間の姿が少なくなるだけではなく、人と人とが偶然に出会う機会まで少なくなっていく。子どもの声が聞こえなくなり、商店のシャッターが閉まり、夕方になっても道を歩く人がほとんどいない町では、かつてなら買い物や通勤、学校への送り迎えの途中で自然に生まれていた「おはようございます」や「今日は寒いですね」という短い会話さえ、少しずつ失われていく。高齢化とは住民の平均年齢が上がる現象であると同時に、仕事や子育てを終えた人が増え、日常生活の中に埋め込まれていた役割や外出の理由が減っていく現象でもある。

 そこへ一匹の犬を迎えると、暮らしの時間の使い方が変わる。朝になれば餌を用意し、水を替え、首輪をつけて外へ連れ出さなければならず、雨が降っていても、少し気分が乗らなくても、犬はこちらの都合だけでは一日を過ごしてくれない。昨日と同じ道を歩いていると向こうから別の犬を連れた人がやって来て、「何歳ですか」「今日は寒いですね」と言葉を交わすようになり、初めは犬の名前しか知らなかった相手を、何度も会ううちに顔なじみとして覚えていくこともある。

 この光景だけを見て、「犬を飼えば高齢者は幸福になる」と結論づけることはできない。それでも、犬を飼うことが人間の行動を変えるという点には、一定の科学的な裏付けがある。日本の地域在住高齢者を対象にした研究では、犬の飼育経験と歩行活動や身体機能との間に統計的な関連が確認されており、海外を含む研究をまとめた近年の総合的な検討でも、犬を飼っている高齢者では犬の散歩に伴う身体活動が多いという傾向が比較的一貫している。ただし、もともと健康で歩ける人だから犬を飼えるという逆方向の可能性もあるため、「犬を飼えば健康になる」と単純な原因と結果に置き換えることは慎まなければならない。

 それでも、高齢者の生活という視点から見ると、犬を飼う行為には興味深い特徴がある。散歩は「健康のために運動しましょう」と誰かに勧められて行う運動とは違い、犬の世話として生活の中に組み込まれるからである。自分の健康のためだけなら今日は休もうと思う日があっても、玄関の前で犬が待っていれば靴を履くことがある。運動を目的として外出するのではなく、犬の世話をした結果として歩いているという順序が、行動を継続させる一つの仕組みになり得る。

 実際、日本の65歳以上の地域在住者を追跡した研究では、調査開始時に犬を飼っていた高齢者は、犬を一度も飼ったことがない高齢者に比べ、その後約3年半の間に要介護状態へ移行するオッズが低かった。もちろん、これは犬を飼うだけで要介護状態を防げることを意味しない。研究では年齢、所得、病歴、運動習慣、外出頻度など多くの条件が統計的に調整されているものの、観察研究である以上、測定されていない生活習慣や住宅環境などの影響を完全に取り除くことはできないからである。それでも、犬との暮らしと高齢期の身体活動や生活機能との間に何らかの関係が存在する可能性を考えるには、十分に興味深い結果である。

 犬には、もう一つ、家の外へ人を連れ出す性質がある。犬を飼っている高齢者と猫を飼っている高齢者を比較した海外研究では、犬の飼い主の方が近隣住民と出会う可能性が高いという結果が得られている。ただし、この研究で散歩回数そのものと近隣交流との関係を詳しく見ると、散歩が多いほど交流が多くなる傾向は認められたものの、通常用いられる統計学的な基準では明確な有意差には達していなかった。したがって、「犬をたくさん散歩させれば必ず地域交流が増える」とまでは言えないが、犬を連れて外を歩くことが人間同士の接触機会をつくるという仮説には、一定の現実味がある。

 ここで重要なのは、人間同士の交流を直接の目的にしなくてもよいことである。人口が少なくなった地域で「交流会を開くので集まりましょう」と呼び掛けても、もともと人付き合いの得意な人ばかりが集まり、孤立しがちな人ほど参加しないことがある。しかし犬を飼っている人は、交流するために家を出るのではなく、犬に排せつをさせ、運動をさせ、匂いを嗅がせるために外へ出る。その途中で別の人に会い、犬同士が立ち止まっている間に少し話すという形なら、人間関係を築こうと意識しなくても接触が生まれやすい。

 人間同士だけで向き合えば、何かを話さなければ気まずいと感じることもあるが、犬が間にいれば話題を無理に探す必要はない。「この子はいくつですか」と聞けば会話が始まり、犬が草の匂いを嗅いでいる間は黙っていても不自然ではない。昨日会った人と今日もすれ違い、数日後にまた会い、その繰り返しの中で「あの犬を連れた人」が少しずつ「近所で声を掛けられる人」へ変わっていくとすれば、犬は人間関係をつくる主体というより、人間同士が接触するための摩擦を小さくする存在だと考えた方がよい。

 もっとも、この作用が人口減少地域で都市部より強いということまで、現在の研究から証明されているわけではない。日本の高齢者を対象とした代表的な研究の一つは東京都内で行われており、人口密度の低い過疎地域だけを対象としたものではないからである。それでも、日常生活で他人と接触する機会そのものが少ない地域では、一日に一度の犬の散歩によって生まれる一回の出会いが相対的に大きな意味を持つのではないか、という仮説を立てることはできる。

 人口の多い都市では、人に会うための仕組みが数多く用意されている。文化教室、スポーツ施設、飲食店、商業施設、地域イベントなどがあり、公共交通を使って別の場所へ移動することも比較的容易である。ところが人口が減った地域では、利用者が少なくなれば教室も店も交通機関も維持しにくくなり、交流を生み出す施設そのものが減っていく。二十人集めなければ成立しない教室はなくなるかもしれないが、犬の散歩は一人と一匹で始めることができ、途中でもう一人と一匹に出会えば、それだけで小さな社会的接触が成立する。

 猫との暮らしは、犬とは少し違った方向から考えた方がよい。猫には通常、犬のように飼い主を毎日外へ連れ出す力はないため、「猫を飼えば歩行量や地域交流が増える」と考える根拠は弱い。一方で、朝になれば餌を用意し、水を替え、トイレを掃除し、体調がおかしければ様子を見て、必要なら動物病院へ連れて行くという世話は発生する。猫を飼うことによって生まれる可能性があるのは、身体活動というより、日課、役割、愛着、自分以外の生き物を気に掛ける時間である。

 退職し、子どもが独立し、ときには配偶者を亡くした高齢者にとって、役割の減少は生活の大きな変化になる。仕事をしていた頃には朝起きる時刻が決まり、職場へ行けば自分の仕事があり、家庭では子どもの世話をする必要があったが、それらが終われば自由になる一方、「今日しなければならないこと」が少なくなることもある。そこへ犬や猫を迎えると、餌を与え、水を替え、排せつ物を片付け、健康を気遣うという小さな責任が毎日発生し、自分の気分とは関係なく世話を必要とする相手が家の中にいることになる。

 このような役割が心理的な充実につながる可能性は十分に考えられるものの、ここでも科学的には慎重であるべきだろう。2026年に公表された日本の全国的な社会調査データを用いた研究では、ペットの世話をしているかどうかと生活満足度との間に、統計学的に明確な関連は確認されなかった。つまり、ペットの世話をしているという事実だけから、その人の生活満足度が高いとは言えないのである。

 この結果は、一見すると「ペットは幸福に役立たない」という話に見えるかもしれないが、むしろ重要なのは逆である。犬や猫を飼っているという一つの事実だけでは、人と動物との関係を説明できないということである。長年一緒に暮らして強い愛着を持っている人もいれば、世話を負担に感じている人もおり、経済的に余裕のある人もいれば、治療費を心配している人もいる。人間関係と同じように、動物との関係にも質があり、その違いを無視して「飼っているか、飼っていないか」の二つだけに分ければ、生活満足度との関係が見えなくても不思議ではない。

 犬や猫との暮らしには負担もある。餌代が掛かり、予防接種や治療にも費用が必要で、犬なら毎日の散歩を続けなければならない。若い頃に飼い始めた動物が十年以上生きれば、飼い主自身の身体能力が低下してからも世話が続く可能性があり、入院すれば誰かに餌を頼まなければならず、認知機能が低下すれば適切な飼育が難しくなることもある。高齢になってから動物を迎える人にとっては、「自分の方が先に亡くなったら、この犬や猫はどうなるのか」という不安も現実的な問題になる。

 だから、高齢化する地方で考えるべきなのは、犬や猫の頭数を増やすことではない。まして高齢者にペットを飼うよう勧めれば生活満足度が上がる、という政策でもない。重要なのは、もともと動物と暮らしたいと思っている人が、自分の年齢や身体能力、経済状態を考えながら無理なく迎えることができ、体力が低下した後も最後まで責任を持って飼える環境を地域としてどこまで支えられるか、という問いである。

 もし飼い主が数日間入院したときに犬や猫を一時的に預かる人がいれば、飼育を続けやすくなる。自動車を運転できなくなった人が動物病院へ行くとき、人だけでなく犬や猫も一緒に運べる移動手段があれば、通院を諦めずに済むかもしれない。犬の散歩が身体的に難しくなったとき、近隣の人や事業者が代わって散歩をする仕組みがあれば、高齢になったからという理由だけで長年暮らした犬と離れなくてもよくなる。さらに飼い主が亡くした後の引き取り先まで事前に考えておけば、高齢者が抱える「最後まで世話できるだろうか」という不安を小さくすることもできる。

 そこには小さな事業の可能性もあるが、「高齢化地域だからペットビジネスが必ず成立する」と考えるのも早計である。人口密度の低い地域では、一件の犬の散歩や動物病院への送迎を引き受けるために長い距離を移動しなければならず、利用者が存在しても料金収入より移動時間や燃料費の方が重くなることがあるからだ。散歩代行、通院支援、一時預かり、餌の配送といった需要が潜在的に存在するとしても、それを事業にするには利用者がどの程度の料金を支払えるのか、何世帯をどの範囲で回れば採算が取れるのかを別に検証しなければならない。

 それでも、人口減少地域における新しいサービスを考えるうえで、ペットという視点は興味深い。高齢化によって需要がすべて消えるのではなく、これまで家庭の中だけで処理されていた小さな困りごとを、外部の誰かに頼まなければならない場面が増えるからである。犬の散歩を頼みたい、猫を動物病院へ連れて行きたい、数日だけ預かってほしいという需要は、一件一件は小さいものの、生活を続ける本人にとっては切実であり、こうした小さな需要を効率よく束ねることができれば、地域サービスとして成立する余地はある。

 さらに興味深いのは、ペットを支えるサービスが、結果として飼い主本人を支えるサービスになることである。犬を散歩させに来た人が高齢の飼い主と毎週顔を合わせれば、普段と様子が違うことに気付くかもしれない。猫を動物病院へ運ぶために家を訪ねれば、高齢者が困っていることを知ることもあるだろう。このような効果を最初から保証することはできないが、動物の世話を媒介として人と人との接点が生まれることには、人口の少ない地域だからこそ検討する価値がある。

 ここまで考えると、「犬や猫が増えれば地域の生活満足度が上がる」という単純な話ではないことが分かる。科学的に比較的確かなのは、犬を飼う生活と歩行などの身体活動との間に関連が認められること、犬との散歩が人と人との接触機会を生み出す可能性があること、そして動物との暮らしを高齢者自身が役割や情緒的な支えとして受け止める場合があることまでである。一方で、ペットを飼っているというだけで生活満足度が高くなるという一貫した証拠はなく、猫については犬ほど身体活動との明確な関係も確認されていない。

 さらに、個人に対する効果と地域全体に対する効果を混同してはならない。ある高齢者が犬を飼うことで毎日外を歩くようになり、近所に顔見知りが増えたとしても、そのことだけから、その町の犬の飼育率を高めれば住民全体の生活満足度が上昇すると結論づけることはできない。地域全体への効果を確かめるには、ペットの飼育率だけでなく、高齢化率、独居率、所得、住宅環境、人口密度、交通手段、医療へのアクセス、地域活動への参加状況などを考慮しながら、複数の地域を長期間追跡する必要がある。

 したがって、この問題を地域政策として考えるなら、「犬や猫を増やす政策」ではなく、「犬や猫と暮らしたい人が安心して暮らし続けられる地域」をつくるという方向の方が現実的である。動物を好まない人や飼えない人にまでペットを勧める必要はないが、飼いたい人が年齢だけを理由に諦めなくてもよい仕組みを整え、散歩、通院、一時預かり、飼い主亡き後の引き取りまでを地域の生活支援として考えるなら、ペット政策は単なる動物愛護の話を越えて、高齢者の生活基盤の一部として扱える可能性が出てくる。

 人口減少をすぐに止めることは難しい。地方から若者が流出し、商店が減り、公共交通が縮小していく現実に対して、一匹の犬や猫が人口問題を解決してくれるわけでもなければ、地域経済を一変させるわけでもない。それでも、人口を増やすことだけを地域政策の成功と考える必要もないだろう。

 これからの地方では、「何人住んでいるか」と同時に、「そこに住んでいる人がどのように一日を過ごしているか」が今まで以上に重要になる。朝起きる理由があり、自分を待つ相手がいて、外へ出る用事があり、道端で誰かと言葉を交わし、夕方になればまた世話をする相手がいるという生活は、人口統計には表れにくいが、その土地で暮らし続けたいと思えるかどうかに関わっている。

 朝、玄関を開けると犬が先に外へ出て、飼い主がその後を歩き、少し先から別の犬を連れた人がやって来る。二人は犬同士が匂いを嗅いでいる間に昨日の雨の話をし、しばらくしてそれぞれ反対方向へ歩いていく。別の家では、高齢の飼い主が猫の餌を皿に入れ、「今日はよく食べるね」と声を掛ける。その散歩も会話も声掛けも、町の人口統計には一行も記録されない。

 けれども、人口が減っていく町を最後まで「暮らせる場所」にしているものは、人口の数字だけでは測れない。犬や猫を飼うということは、動物を家に置くことではなく、毎日餌を用意し、水を替え、歩き、掃除をし、病気を心配し、ときには人の助けを借りながら、その命と一緒に暮らし続ける行為である。

 科学はまだ、その行為が地方全体の生活満足度をどれほど高めるのかという問いに、明確な数値を示してはいない。それでも、犬との散歩が身体を外へ動かし、動物の世話が一日の中に役割をつくり、ときにはその動物が人と人との間に小さな接点を生み出すことについては、検討するだけの根拠がある。人口が減っても暮らしまで痩せ細らせないために、犬や猫と安心して暮らせる環境をつくることは、派手な地方創生策ではないが、高齢化する地域の生活の質を考える一つの現実的な選択肢なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 地方を歩いていると、ときどき時間だけが置き去りにされたような家に出会う。雨戸は閉じられ、庭木は少しずつ道路へ枝を伸ばし、かつて家族が出入りした玄関には人の気配がない。朝になればカーテンが開き、夕方には台所の明かりがともった家だったはずなのに、人が住まなくなった瞬間から、その家は生活を支える場所ではなく、固定資産税、草刈り、修繕、見回りといった費用や手間を所有者に要求する存在へと変わっていく。

 「空き家は負債だ」という言葉には、それなりの根拠がある。総務省の2023年住宅・土地統計調査では、全国の空き家は約900万戸に達し、空き家率は13.8%と過去最高になった。賃貸用や売却用、別荘などを除いた空き家も約385万戸に上り、もはや一部の過疎地域だけの特殊な問題とは言えない。さらに国土交通省の空き家所有者に関する調査を見ると、維持管理に年間数万円から十数万円以上を支出している所有者も珍しくなく、建物を使っていなくても費用は消えないという現実がある。

 売ろうとしても買い手がつかず、貸そうとしても借り手が現れず、解体しようとすればまとまった費用が必要になる。相続した所有者が遠方に住んでいれば、年に何度か様子を見に行くだけでも時間と交通費がかかり、屋根や外壁が傷めばさらに出費が増える。適切に管理されない状態が続き、自治体から一定の勧告を受ける段階に至れば、土地に対する固定資産税の住宅用地特例が受けられなくなる可能性まであるため、「何もしない」という選択にも費用とリスクがある。

 それでも、一つ考えてみたい。売れない家は、本当に「何の価値もない家」なのだろうか。

売却価格と利用価値は、同じものではない

 不動産の世界では、どうしても売却価格が価値の中心に置かれる。三千万円で売れる家と三百万円でも買い手がつかない家を比べれば、前者のほうが市場価値が高いことは疑いようがない。しかし、市場でいくらの値段がつくかということと、その場所が誰かの役に立つかということは、本来別の問題である。

 駅から遠く、築年数が古く、住宅としては人気がなくても、雨をしのげる屋根があり、荷物を置ける床があり、車を止められる土地があり、電気や水道が残っているなら、そこにはまだ機能が残っている。住宅として一千万円で売れないからといって、物を保管する場所としても、短時間作業する場所としても、まったく価値がないとは限らないのである。

 ここで重要なのは、「一戸建て住宅」という一つの完成品としてだけ建物を見ないことである。家には住むという機能のほかにも、物を保管する、作業する、車を置く、雨を避ける、短時間滞在する、誰かと会うといった複数の機能が重なっている。住宅市場では評価されなくなった家であっても、そのうち一つの機能だけなら誰かの不便を解消できる可能性がある。

 経済的に言えば、資産全体の市場価値が低いことと、そこに含まれる個々の機能の利用価値がゼロであることは同義ではない。売れないことと、役に立たないことは違うのである。

「家一軒」を売ろうとするから難しくなる

 地方の空き家問題では、「どうすればこの家を売れるか」「移住者に貸せないか」という議論が繰り返される。それ自体は必要だが、人口が減り、世帯数も縮小している地域では、住宅の供給数に対して居住需要そのものが足りないことがある。そのような地域で広告だけを工夫しても、すべての空き家に新しい居住者を見つけることはできない。

 そこで、「一軒の家を一人の新しい住民に使ってもらう」という発想から少し離れてみる。乾燥していて鍵が掛かる一室なら、資材や季節用品を置く場所として使えるかもしれない。車庫や庭に余裕があれば、道具や自転車などの保管場所として価値を感じる人がいる可能性もある。静かな部屋が残っていれば、毎日ではなく週に一度だけ仕事をする場所を欲しがる人がいるかもしれない。

 ただし、ここでは「いるはずだ」と決めつけてはいけない。月三千円なら借りる人がいる、月五千円なら物置として需要があるという数字は、全国どこでも通用する法則ではない。地域によって人口構成、所得、住宅の広さ、土地価格、道路事情、既存の貸倉庫の有無が異なるため、小さな利用需要が実際に存在するかどうかは、その地域ごとに調べなければならない。

 したがって、ここで述べる小口利用は「すでに成立している普遍的な市場」ではなく、「検証する価値のある仮説」と考えたほうがよい。

月三千円の価値を探す

 空き家活用という言葉には、ときに大きな成功を期待させる響きがある。古民家を改修して人気店にする、宿泊施設に変える、観光拠点にするといった事例は目を引くが、日本に存在する膨大な空き家のすべてを、そのような華やかな施設に変えることは現実的ではない。

 そこで考え方を変え、その家から月十万円を生み出せるかではなく、まず月三千円、五千円、一万円を払ってでも使いたい人がいるかを調べてみる。

 月三千円なら年間三万六千円、月五千円なら年間六万円、月一万円なら年間十二万円になる。これは不動産投資として見れば小さな数字だが、すでに所有していて、売却も難しく、維持費だけが発生している空き家なら意味は変わる。

 たとえば年間八万円の維持管理費がかかっている家から年間六万円の利用料が得られれば、それだけで負担のかなりの部分が軽くなる。ただし、ここから鍵の交換、保険、修繕、契約、清掃、募集、見回りといった追加費用が発生するため、六万円の収入がそのまま六万円の利益になるわけではない。

 空き家の小口利用を数理的に考えるなら、見るべきなのは単純な家賃ではなく、年間利用料に利用者が担う管理による費用削減を加え、そこから追加修繕費、保険料、募集費、契約費、管理費、空室による損失を差し引いた後に、どれだけ所有者の経済状態が改善するかである。

 つまり、この仕組みの成否を決めるのは「いくらで貸せるか」だけではなく、「一件の利用を成立させるための追加コストをどこまで小さくできるか」なのである。

一万円を稼がなくても、五千円損失を減らせればよい

 ここでは、空き家を収益物件に変えることだけを成功と考える必要はない。毎月一万円かかっていた負担を五千円まで減らせれば、所有者の家計は毎月五千円、年間では六万円改善する。

 これは一見地味だが、すでに売却が難しい資産を持っている人にとっては重要である。不動産投資では、物件価格に対してどれだけ賃料収入を得られるかが注目されるが、既存の空き家の場合、目的を「利益最大化」ではなく「負のキャッシュフローを縮小すること」と定めてもよい。

 たとえば利用者が定期的に出入りするため建物の異常に早く気づけるようになり、庭の一部を管理してくれ、さらに少額の利用料まで支払ってくれるなら、その経済効果は賃料だけでは測れない。空き家を立派な収益物件に変身させなくても、「負債としての速度を緩める」ことには十分な意味がある。

安ければ借りる、とは限らない

 ただし、月額料金を下げれば需要が必ず生まれるわけではない。

 月千円の物置でも、自宅から車で三十分離れているなら利用者にとって本当に安いとは言えない。往復の燃料代がかかり、一時間近く時間を使い、荷物を取りに行くたびに移動しなければならないからである。

 利用者が感じる実質的な負担は、月額料金だけではなく、交通費、移動時間、出入りのしにくさ、駐車のしやすさ、建物の安全性などを合わせたものになる。経済学的には、こうした金銭以外の負担まで含めて利用を判断するため、地方では価格以上に「距離」が需要を左右する場合がある。

 したがって、「安くすれば使う人が現れる」という単純な話ではない。その場所から何分圏内に利用候補者が存在し、その人が何のために、どの程度の頻度で場所を使うのかまで考えなければならない。

空き家の数より、困っている人の数を見る

 ここで、空き家活用を考えるうえで重要な逆転が起きる。

 多くの空き家対策では、「この地域には何軒の空き家があるか」という供給側の数字が先に語られる。しかし、商売として考えるなら、本当に知るべきなのは「場所がなくて困っている人が何人いるか」である。

 空き家が百軒あっても、利用したい人が一人しかいなければ市場はほとんど成立しない。一方、空き家が十軒しかなくても、周辺に資材置き場を求める小規模事業者や、趣味の作業場所を探している人、季節用品を保管する場所を欲しがる人などが一定数存在すれば、小さな市場が成立する可能性はある。

 国土交通省の空き家所有者に関する調査でも、賃貸や売却を考える所有者にとって、建物の傷みと並んで「借り手や買い手の少なさ」が大きな課題となっている。これは、空き家が存在すること自体が市場をつくるのではなく、その地域に有効な需要が存在して初めて取引が成立することを示している。

 空き家問題を商機として見るなら、空き家の戸数を数えるだけでは足りない。需要があり、支払う意思があり、現実的な距離の中に利用者がいて、さらに契約や管理の費用を支払っても収支が成立するかどうかまで確認する必要があるのである。

高額な改修から始める危うさ

 空き家再生の成功例として紹介される建物には、美しいものが多い。古い梁を生かした天井、広い土間、しゃれた照明、磨かれた木の床が写真に映れば、「空き家が生まれ変わった」という物語は分かりやすい。

 しかし、事業として見るなら、美しいことと採算が取れることは別である。

 市場価値が三百万円程度しかない地域の住宅に五百万円を投じて改修しても、それだけで物件価値が八百万円になるとは限らない。さらに店舗や施設として使うなら、改修費を回収できるだけの利用者と売上が必要になる。

 他の条件が同じなら、地域住民を主な顧客とする事業では、人口三千人の町と人口三十万人の都市で潜在的な顧客数には大きな差が生じる。ただし、観光客が大量に訪れる地域や、インターネットを通じて地域外から売上を得る事業などでは、地域人口だけでは需要を判断できないため、人口規模だけで事業性を決めることも危険である。

 だからこそ、地方の空き家では「きれいにする前に使い道を確かめる」という順番が大切になる。

 誰が使うのか分からないまま数百万円を投じるのではなく、「現在の状態ならいくらで使うか」「床を直せば使うのか」「電気があれば十分なのか」と利用候補者に確かめてから、必要な部分だけに資金を投じる。利用者が求めていない設備まで整えないことで、需要が外れた場合の損失を小さくすることができる。

 人口が減る地域で重要なのは、建物を豪華にすることではなく、需要が確認できるまで大きな固定費を抱えないことである。

空き家を商売にするのではなく、困りごとと結びつける

 ここに、小さな商機が生まれる可能性がある。

 所有者の側には、「売れない」「貸せない」「管理が面倒」という問題があり、利用者の側には、「倉庫を一棟借りるほどではないが少し場所が欲しい」「週に一度だけ作業できる場所があれば助かる」といった小さな需要が存在するかもしれない。

 この二つは、従来型の不動産市場では出会いにくい。月数千円程度の契約では、現地確認、募集、問い合わせ対応、契約書作成、鍵の受け渡しなどにかかる手間に対して、一件当たりの収益が小さくなりやすいからである。

 そのため、「大手企業には商売にならない」と単純に断定するより、従来型の仲介手数料を中心とした仕組みでは、小額契約ほど取引コストの比率が高くなりやすいと考えたほうが正確である。

 逆に言えば、契約や管理を標準化し、一人の担当者が近接した複数物件を扱い、一件当たりの管理時間を十分に減らせるなら、小さな需要を束ねる事業が成立する余地はある。ただし、これは理論上の可能性であり、実際に利益が出るかどうかは、地域ごとの物件密度、利用者密度、移動時間、管理時間などを測定しなければ判断できない。

「仲介すればよい」ほど簡単ではない

 もう一つ、空き家を使った小規模事業を考える際に忘れてはならないのが法制度である。

 空き家所有者と利用者を結びつけ、建物の貸借について反復継続して有償で代理や媒介を行う場合、その事業形態によっては宅地建物取引業法の対象となり、宅地建物取引業の免許が必要になる。

 したがって、「地域の空き家を見つけて利用者を紹介し、手数料を受け取ればよい」というほど単純ではない。実際に事業化するのであれば、宅地建物取引業者と連携するのか、自ら免許を取得する必要があるのか、あるいは別の契約構造にするのかを専門家と確認しなければならない。

 また、住宅として使われてきた建物を作業場、店舗、教室、宿泊施設などに変える場合には、用途や規模、場所によって建築基準法、都市計画法、消防関係法令、衛生関係の規制などが関係する場合がある。市街化調整区域のように土地利用に強い制約がある地域もあり、「空き家だから自由に使える」と考えるのは危険である。

 小さな商売であるほど、法律まで小さくなるわけではない。

「使わないほうがよい空き家」も確実に存在する

 ここまで読むと、どの空き家にも工夫すれば使い道があるように感じるかもしれない。しかし、現実には活用しないほうがよい家もある。

 構造上危険な建物、雨漏りや腐食が著しい建物、車両が入れない土地、権利関係が複雑な物件、相続人が多数存在して意思決定できない住宅などでは、小規模利用であっても費用やリスクが利用価値を上回る可能性が高い。

 仮に年間六万円の利用料が得られても、安全確保のために数十万円の修繕が必要なら、短期間では収支が合わない。さらに数年後に大規模修繕や解体が必要になるなら、利用を続けることで問題を先送りしているだけになることもある。

 空き家を活用すること自体を目的にしてはいけない。使う価値がある家は使い、使わないほうが合理的な家は撤去も含めて判断するという区別が必要である。

「家」ではなく、地域に余った場所として見る

 人口が増えていた時代には、土地も住宅も不足していた。家を建てるには土地を買い、事業を始めるには店舗を借り、商品を保管するには倉庫を契約しなければならず、場所そのものが希少な資源だった。

 ところが人口が減る地域では、その関係が少しずつ逆転する。人よりも場所のほうが余り始める。

 これは地域経済にとって深刻な問題である一方、場所を必要とする新しい仕事から見れば条件の変化でもある。都市では高い家賃が障害となって試せなかった小さな事業でも、場所の利用コストを極端に低くできれば試験的に始められる可能性がある。

 ただし、ここでも「空き家があるから何かを始める」という順番では弱い。まず地域にどのような不便があり、人が何に対してお金を払っているのかを調べ、その不便を解決するために場所が必要になったとき、初めて空き家を候補にすべきである。

 「空き家があるからカフェをやろう」ではなく、「継続的な需要が存在し、その需要を満たすには安い場所が必要だから空き家を使う」と考える。空き家を起点に商売を考えるのではなく、需要を起点に空き家を使うのである。

小さく使うという技術

 人口が減る社会では、すべての建物を現役の住宅として維持することは難しい。売れる家と売れない家の差は広がり、行政がすべてを買い取ることも、民間企業がすべてを再生することもできない。

 そうなると必要になるのは、「価値のある家を探す技術」だけではなく、「価値が大きく失われた家の中から、まだ残っている機能を拾い出す技術」ではないだろうか。

 一軒の住宅を一つの商品として見るのではなく、部屋、庭、車庫、屋根のある空間、電気の使える場所、短時間滞在できる空間という機能の集合として見る。その中の一つだけが地域の誰かの不便を解決するのであれば、完全に役割を失う前に、もう一度だけ使われる可能性が生まれる。

 もちろん、その仕組みが大きな産業になる保証はない。月数千円の利用者を探し、建物を確認し、安全性を確保し、契約を整え、所有者と利用者の間を調整する仕事は、手間の割に利益が小さい可能性がある。需要が薄い地域では、どれほど効率化しても採算が取れないこともある。

 それでも、空き家問題のすべてを「高額改修して再生するか、解体するか」という二択で考える必要はない。その間には、数年だけ使う、一室だけ使う、月に数回だけ使うという広い中間領域が残っている。

売れないことと、役に立たないことは同じではない

 空き家の前を通ると、私たちはつい、その家がいくらで売れるのかを想像する。しかし、百万円でも買い手が現れない家に市場価値がほとんどないことと、その場所が誰の役にも立たないことは同じではない。

 市場は、大きな需要を見つけることには向いているが、一人が月三千円だけ支払いたいという小さな需要を拾うことは必ずしも得意ではない。しかも、その需要が本当に存在するのかどうかは地域ごとに確かめなければならず、利用料よりも管理費や移動費が大きくなれば、事業としては成立しない。

 だからこそ、空き家活用に必要なのは希望的観測ではなく、小さな実験である。利用候補者が本当にいるのか、いくらなら払うのか、何分離れると利用しなくなるのか、年間の管理コストはいくらなのか、最低限の修繕にはいくら必要なのかを確かめ、その数字が合った物件だけを使えばよい。

 誰かの倉庫になり、誰かの作業場所になり、誰かが月に数度訪れる場所になる。それだけで空き家問題そのものが解決するわけではないし、老朽化した建物をいつまでも残す理由にもならない。役割を終えた建物はいずれ解体しなければならない。

 それでも、解体されるまでの十年間に、何の役割もないとは限らない。

 かつて家族の暮らしを支えた家が、最後には誰かの工具を雨から守る屋根になり、小さな仕事を始める部屋になり、所有者の維持費を年間数万円だけ軽くする場所になる。その程度の使われ方であっても、経済的な意味は残る。

 空き家の未来を考えるとき、私たちは「再生」か「解体」かという鮮やかな答えを求めがちである。しかし、人口が減っていく社会で本当に増えていくのは、その二つの間にある灰色の領域なのかもしれない。

 立派に生まれ変わらなくてもよいし、大きな利益を生み出さなくてもよい。ただ、実際の需要を確かめ、安全と法律を守り、投じる費用より得られる効果が大きい間だけ、小さく使う。

 人口減少社会で必要になるのは、すべての空き家を蘇らせる技術ではない。使える家と使えない家を冷静に分け、残された小さな価値を過大評価も過小評価もせず、最後まで使い切る技術なのではないだろうか。

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