地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 山の斜面に沿うようにつくられた墓地へ行くと、墓石の新しさよりも、足元の草の伸び方に目が向くことがある。よく手入れされた墓の隣に、しばらく誰も訪れていないらしい墓があり、そのさらに隣には花立てだけが妙に新しい墓がある。墓地という場所は一見すると変化の少ない空間だが、よく見れば、そこには町の人口移動や家族構成の変化が静かに刻まれている。

 かつて墓は、そこに住み続ける家族が守ることを前提にできた。子どもが同じ町に残り、盆や彼岸になれば親族が集まり、誰かが草を刈り、誰かが花を替える。その役割はサービスとして購入するものではなく、家族の生活の一部として受け継がれていた。しかし人口が減り、若い世代が都市へ移り、結婚や就職によって家族が全国に散らばるようになると、この仕組みそのものが成り立ちにくくなる。

 ここで重要なのは、「墓を大切にしたい気持ち」が消えたわけではないということだ。問題になっているのは、気持ちではなく距離と時間である。東京で暮らす70代の夫婦が、房総半島や東北、九州の実家の墓まで年に何度も出かけることは簡単ではなく、本人が80代になれば、電車を乗り継ぎ、坂道を歩き、暑さの中で草取りをすること自体が負担になる。その子ども世代まで時間が進めば、墓の正確な場所や管理する寺院の名前さえ十分に知らないということも起こり得る。

 こうした変化から生まれたサービスの一つが墓参り代行である。依頼を受けた事業者が墓地へ行き、墓石を清掃し、草を取り、花や線香を供え、作業後の写真を送るという仕組みはすでに存在している。ただし、人口減少地域を新しい商いの視点から眺めるなら、墓参り代行は完成形ではなく、むしろ入口として考えた方がよい。

 なぜなら、遠方に住む家族が本当に困るのは、「今年の盆に墓参りへ行けない」という一回の問題だけではないからである。本当の不安は、この墓をこれから10年、20年、誰が見ていくのかという時間の問題にある。墓石が傾いていないか、雑草が周囲まで広がっていないか、寺や霊園から連絡が来ていないか、管理料の支払いはどうなっているのか、そして自分が亡くなったあと、この墓を誰が引き継ぎ、あるいはどう終えるのかまで考え始めると、必要になるのは単なる「墓参りの代理」ではなく、「離れた場所にある家族の墓を継続して見守る存在」へと変わっていく。

 ここから、墓参り代行の次に生まれるサービスが見えてくる。それは墓を掃除する仕事ではなく、墓の状態を継続して確認し、その変化を記録し、必要なときには次の対応へつなぐ仕事である。

 たとえば年に数回墓地を巡回し、墓石、外柵、花立て、雑草、周囲の樹木などを確認して写真を残す。台風や大雨のあとには、希望する顧客から追加依頼を受けて異常がないか確認し、修繕が必要であれば石材店や寺院への相談につなぐ。依頼者は遠く離れた自宅にいながら、自分の家の墓がどのような状態になっているのかを知ることができるため、このとき顧客が買っているのは「掃除そのもの」より、「知らない間に墓が荒れているかもしれない」という不安を減らす機能だと考えた方が近い。

採算を決めるのは、単価よりも移動と集約である

 このサービスを商売として見るなら、最初に注意しなければならないのは、墓参り代行が見た目ほど簡単に利益を残せる仕事ではないという点である。大掛かりな店舗や高価な機械がなくても始められる一方、地方の訪問サービスでは、作業時間そのものよりも「何も売上を生んでいない移動時間」が利益を削るからである。

 仮に、一件の簡易な現地確認を5,000円で引き受け、墓地まで片道30分、現地確認と軽い清掃に40分、写真整理と報告に20分、帰路に30分かかったとすると、一件の仕事に合計2時間を使うことになる。この場合、経費を差し引く前の時間当たり売上は2,500円であり、ここからガソリン代、車両費、清掃用品、通信費、保険、事務作業などを負担しなければならないため、5,000円という価格は、注文が入れば売上にはなるものの、それだけで十分な利益が残る水準とは限らない。

 さらに注意したいのは、5,000円という数字が墓参り代行全体の標準価格を意味するわけではないことである。簡易な現地確認なら数千円台も考えられる一方、草取り、墓石清掃、供花、線香、写真報告まで含むサービスでは、一件当たり1万円前後あるいはそれ以上の価格になることもある。そのため採算を論じるときには、「墓参り代行は一回5,000円である」と固定するのではなく、作業範囲によって価格も必要時間も変わるサービスとして考える必要がある。

 それでも、同じ墓地に複数の契約者が集まれば採算が改善するという考え方そのものは、数理的にかなり強い。先ほどの条件をそのまま使い、一件当たり現地作業と報告に合計1時間かかるとすると、一件だけなら往復移動1時間を含めて合計2時間必要になるが、同じ墓地で二件を処理すれば合計3時間、五件なら合計6時間となる。このとき一件5,000円なら、一件だけでは売上5,000円を2時間で割って時間当たり2,500円、二件なら売上1万円を3時間で割って約3,333円、五件なら売上2万5,000円を6時間で割って約4,167円となり、同じ墓地に顧客が集まるほど共通の移動時間を複数の契約で分担できる効果が現れる。

 ただし、この効果には明確な上限がある。一件ごとの作業時間そのものは消えないため、顧客数を増やせば時間当たり売上が無限に高くなるわけではない。先ほどの条件では、顧客数が増えるにつれて共通移動時間の影響が小さくなり、時間当たり売上は一件当たり単価である5,000円に近づいていくが、それを超えることはない。したがって、共通の移動時間だけが薄まり、個別作業時間は必ず残るという構造で考える必要がある。

 ここから、この商売で見るべき数字が変わってくる。単純な契約者数より重要なのは、一つの墓地に平均何件の契約が集まるのかという「墓地単位の集約度」である。人口が少ない町だから事業が成立しないとは限らず、町内にいくつかの大きな墓地があり、そこに都市部へ転出した家族の墓がまとまっているなら、一回の巡回で複数件を処理できる可能性がある。反対に、契約者が20人いても墓地が広い地域に散らばり、それぞれ長時間の移動が必要なら、契約者数だけを見て「顧客が増えた」と判断することはできない。

年間契約は安定には効くが、利益率まで自動的に高めるわけではない

 墓参りには季節性がある。盆や彼岸の前には依頼が集中しても、それ以外の時期には仕事が少なくなる可能性があるため、一件ごとの依頼だけを待つ経営では年間売上を読みづらい。そこで有効になるのが年間契約だが、年間契約には長所と同時に注意点もある。

 ここでは一例として、年四回の状態確認と年二回の簡易清掃を組み合わせ、年間六回訪問する契約を考えてみる。台風や大雨のあとの緊急確認まで定額料金に無制限で含めると年間の訪問回数が事前に読めなくなるため、災害後の特別確認は追加料金とした方が、事業者にとっても顧客にとっても料金体系が分かりやすい。

 年間料金を仮に3万円とすると、年間六回の予定訪問だけで単純平均すれば一回当たり売上は5,000円になる。ただし、四回の状態確認と二回の簡易清掃では作業量が異なるため、一回当たり5,000円という数字だけで採算を判断するのは適切ではない。年間全体で何時間の作業が必要になるかを見る必要がある。

 そこで、状態確認一回につき現地30分と報告15分の計45分、簡易清掃一回につき現地60分と報告15分の計75分かかると仮定する。年四回の状態確認には合計3時間、年二回の簡易清掃には合計2時間30分が必要になるため、一契約当たりの年間直接作業時間は合計5時間30分となる。

 事業者自身の労働時間を一時間2,000円で評価すれば、年間直接人件費は1万1,000円になる。さらに清掃用品などの年間消耗品費を1,500円と仮定すると、移動費を除いた一契約当たりの年間直接費は1万2,500円となる。

 次に移動を考える。一回の墓地への往復について、移動時間に相当する人件費と燃料・車両費を合わせて2,800円かかると仮定すれば、年間六回の訪問に必要な共通移動費は1万6,800円となる。ただし、この1万6,800円は同じ墓地に複数の契約者がいれば分担できる。

 一つの墓地に一件しか契約がない場合、一件当たり年間費用は1万2,500円に1万6,800円を加えた2万9,300円となり、年間売上3万円から差し引くと残るのは700円にすぎない。二件なら移動費を二件で分けられるため、一件当たり費用は2万900円、残額は9,100円となり、五件なら一件当たり費用は1万5,860円、残額は1万4,140円、十件なら一件当たり費用は1万4,180円、残額は1万5,820円となる。

 もちろん、この残額はそのまま事業者の利益ではない。ここから広告費、通信費、保険料、決済手数料、会計費用、車両の減価償却、契約管理などの間接費を負担する必要がある。それでも、この試算からは、一墓地一件では採算が極めて厳しく、同じ墓地に複数件の契約を集めることによって初めて事業としての余裕が生まれるという構造が見えてくる。

 重要なのは、これらの数字が墓参り代行業界の平均実績を示したものではなく、一定の条件を置いた感度分析だということである。実際の価格、作業時間、移動距離、車両費、清掃範囲によって結果は変化するため、この数字そのものよりも「どの変数が利益を左右するのか」を見ることに意味がある。

「100件で300万円」という数字だけでは、事業性は判断できない

 年間3万円の契約者が100件いれば年間売上は300万円になる。この計算自体は正しいが、その数字だけで事業が成立するかどうかは判断できない。

 同じ100件でも、十か所の墓地に平均十件ずつ集まっている場合と、百か所の墓地に一件ずつ散らばっている場合では、必要な移動回数がまったく違う。仮に一件当たり年六回訪問するとすれば、契約単位では年間延べ600件分の作業が発生するが、一回の巡回で平均五件をまとめて処理できれば、必要な墓地訪問は年間120回となり、月平均では10回程度になる。

 一方、一回の巡回で平均1.5件しか処理できなければ、600件分の作業を1.5件ずつ処理するため、墓地訪問は年間400回になる。同じ年間売上300万円でも、前者と後者では移動に必要な時間と車両費が大きく異なるため、事業の採算性もまったく違ってくる。

 そのため事業計画で本当に見るべきなのは、「100件集める」という数字ではなく、年間契約件数、年間訪問回数、一巡回当たり平均処理件数、平均移動時間、一件当たり作業時間を組み合わせた運営構造である。墓地単位で仕事をまとめられるなら比較的少ない契約数でも効率が上がるが、顧客が広域に散らばれば、件数が増えるほど忙しくなるのに利益が残らないということも起こり得る。

継続率は重要だが、高い更新率を当然視してはいけない

 この事業では継続契約が増えるほど新規営業の負担が下がるため、更新率は非常に重要な指標になる。しかし、「毎年九割程度の顧客が継続する」といった数字を、実績の裏付けなしに当然の前提とするのは危険である。

 たとえば年間継続率が90%なら翌年には100件中90件が残るが、80%なら80件、70%なら70件しか残らない。契約数を100件に維持しようとすれば、それぞれ年間10件、20件、30件の新規契約を獲得しなければならず、継続率が10ポイント違うだけでも営業負担は大きく変わる。

 したがって、高い更新率を実現できれば経営が安定するという方向性は正しいものの、「墓管理だから自然に更新率が高くなる」と考えることはできない。実際に何%が翌年も契約するのかは、事業を始めたあとに検証すべき重要な数字である。

 その意味で、この事業の本当の資産は清掃道具でも車でもなく、特定地域に積み上がった継続契約と、それぞれの墓について蓄積された記録である。毎回同じ角度から墓石を撮影しておけば、ひび割れや傾きの変化を確認でき、雑草の状態や補修履歴、寺院や霊園からの連絡事項まで残していけば、その事業者は単なる清掃業者ではなく、その墓の経過を最もよく知る外部管理者になっていく。

低価格競争を避けるには、「掃除」以外の価値が必要になる

 墓石を洗い、草を取り、花を供え、写真を送るだけなら、利用者から見た事業者の違いは小さくなり、最終的には価格競争へ向かいやすい。ところが、数年間の記録が残り、「昨年よりここに細いひびが増えている」「この時期は草が伸びやすい」「前回は石材店にこの補修を依頼した」といった情報まで蓄積されれば、サービスの価値は清掃作業そのものから離れていく。

 この差は大きい。安い業者が新しく現れたとしても、何年間も状態を記録し、自分の家の事情や寺院との関係を理解している事業者を簡単に変更するとは限らないため、継続性が生まれやすくなる。価格ではなく「自分の墓について誰が最もよく分かっているか」が選択理由になれば、地域密着型事業者が大きな会社に対して持てる優位性も見えてくる。

次の商機は、墓を売ることではなく、次の問題へつなぐことにある

 ただし、墓の管理だけで十分な市場規模を確保できるとは限らない。墓を自分で管理する人もいれば、寺院が管理サービスを提供している地域もあり、将来的に墓じまいが進めば管理対象そのものが減る可能性もある。そのため、「高齢化するから墓管理市場は必ず拡大する」と単純化するのは適切ではない。

 むしろ長期的には、墓を入口として家族が抱える別の問題へ自然につながっていくことに意味がある。墓を管理している顧客から、「実家も空き家になっている」「仏壇をどうすればよいかわからない」「子どもは墓を継がないと言っている」「墓じまいについて誰に相談すればよいかわからない」といった話が出てくれば、空き家管理、家財整理、墓じまいの準備、寺院や石材店への連絡補助など、別の困りごとが見えてくる。

 ここで大切なのは、自社ですべてを施工しようとしないことである。石材工事を自分で行う必要もなく、法律や税務に関する専門判断まで抱え込む必要もない。地域の石材店、寺院、行政書士など、それぞれの分野を担当できる人へつなぐ調整役になるだけでも価値は生まれる。小規模事業者が何でも自前で抱えれば、設備投資と固定費が増え、かえって採算を悪化させる可能性があるからである。

広告より、地域内の紹介経路が重要になる可能性が高い

 墓というものには、一般的な家事代行とは違う難しさがある。依頼者にとって墓は単なる石ではなく、家族の記憶や宗教観、感情と結びついているため、広告を見ただけで知らない事業者へすぐ任せるとは限らない。

 そのため、年間3万円の契約を得るために高額な広告費を使えば、初年度の利益がほとんど消えてしまう可能性がある。むしろ寺院、石材店、葬祭事業者、不動産事業者など、すでに地域で信頼を持っている人から紹介される仕組みの方が相性はよい。ただし、これらの事業者の仕事を奪うような入り方をすれば紹介は生まれないため、自分は現地確認や依頼者との連絡を担当し、専門的な施工や宗教的手続きは既存の専門家へ渡すという役割分担が必要になる。

「小さい市場だから儲かる」とは限らない

 人口減少地域の商機を考えるとき、「大企業には小さすぎ、一人で営むには十分な市場」という表現には魅力があるが、これは条件付きでしか成立しない。市場が小さいということは、大企業が参入しにくいという利点と同時に、そもそも十分な顧客が存在しないという欠点も意味するからである。

 したがって、小規模事業者に向く市場とは、単に人口が少ない市場ではない。一定の支払意思を持つ顧客が特定の墓地や地域にある程度まとまり、大手企業が店舗や人員を配置するほどの規模ではない一方、一人あるいは少人数の事業者には十分な売上が見込める場合に初めて、地域型のニッチ市場として成立する。

 この条件を満たすかどうかは、地域ごとに調べなければわからない。墓地の数、区画数、都市部へ転出した世帯の割合、寺院や霊園がすでに提供しているサービス、現在の管理状況、価格に対する支払意思などを確認しなければ、本当の市場規模は見えてこない。つまり、この事業は「高齢化している町だから成立する」のではなく、「困っている人が一定数いて、その人たちが一定の価格を払い、しかも効率よく訪問できる場所に集まっている」という複数の条件が重なったときに初めて成立するのである。

墓の記録は、やがて家族の記録へ変わっていく

 この仕事は、やがて「墓の状態を記録するサービス」から、「家族の記憶を整理するサービス」へ発展する可能性もある。墓石には亡くなった人の名前や年月日が刻まれているが、その人がどのような人物で、現在の家族とどのようにつながっているのかまでは残らない。親が亡くれ、叔父や叔母が亡くれ、墓について詳しく知る人がいなくなると、墓石だけが残り、そこに眠る人と現在の家族との関係がわからなくなることもある。

 そこで、墓の所在地、墓石の写真、刻まれている名前、建立時期、管理する寺院や霊園、親族関係などを整理し、家族へ渡すサービスが考えられる。これは華やかなデジタル事業ではないが、「父が元気なうちに実家の墓について整理しておきたい」と考える人にとっては現実的な価値を持つ可能性があり、家系図まで大げさに作らなくても、最低限の情報を冊子や電子データとして残すだけで、次の世代が困る可能性を減らすことができる。

 さらに時間が進めば、問題は「墓を守る」ことから「墓をどう終えるか」へ移っていく。墓じまいを考え始めても、寺院、霊園、石材店、行政、親族など複数の関係者が登場し、何から始めればよいのかわからない人は少なくない。遠方に住んでいれば現地で相談すること自体が難しいため、依頼者の代わりに現地を確認し、必要な作業を整理し、適切な専門家へつなぐ「墓の相談窓口」という役割も考えられる。

 ここまで来ると、この仕事は墓石の清掃業からかなり離れ、高齢社会における家族資産の遠隔管理へ近づいていく。空き家管理と墓地管理は一見すると別の仕事に見えるが、遠方にある家族の資産を定期的に確認するという点ではよく似ており、実家、墓、仏壇、寺院との連絡などをまとめて扱うサービスへ発展する可能性もある。ただし、それが実際に事業として成立するかどうかは、需要の存在だけではなく、顧客がどこまでお金を払うのかを確かめなければ判断できない。

人口減少は、「家族が無償でしていた仕事」が市場へ出てくる現象でもある

 人口が減少する地域では、店が減り、交通が減り、仕事も減っていくため、地域経済について語るとどうしても悲観的な話になりやすい。しかし人口減少とは、単に人が少なくなる現象ではなく、これまで家族の内部で無償に近い形で処理されていた仕事を担当する人がいなくなる現象でもある。

 親の様子を見る人がいなくなれば見守りサービスが必要になり、庭を手入れする人がいなくなれば草刈りサービスが生まれ、買い物へ行く人がいなくなれば配送サービスが必要になる。同じように、墓を守る人がいなくなれば、その役割の一部を地域の誰かが引き受ける余地が生まれるため、人口減少地域で新しい商売を探すときには、「まだ誰も思いついていない画期的な商品」より、「これまで家族が黙って引き受けていた仕事のうち、これから誰もできなくなるもの」を探した方が現実的なのかもしれない。

 ただし、そこに困りごとがあるからといって、すぐに市場になるわけではない。困っている人がいても、自分で解決する人、親族に頼む人、寺院へ相談する人、何もしない人もいるため、「困っている人数」と「お金を払ってサービスを買う人数」は一致しない。事業として成立するかどうかを判断するには、その間にある支払意思を確かめる必要がある。

 したがって、この墓管理サービスを「これから必ず伸びる市場」と断定することはできない。一方で、墓の承継や管理が難しくなる社会背景は現実に存在し、地理的に顧客を集約できれば採算が改善することも数理的には説明できるため、少なくとも検討に値する事業仮説ではある。

 十年後、地方の墓地を歩けば、今以上に空いている区画や管理されていない墓が目立つようになるかもしれない。しかし、その風景を単なる衰退として見るだけでは、地域でこれから必要になる仕事は見えてこない。誰も来なくなった墓の向こう側には、遠く離れた町でその墓を気にしながら、自分では簡単に行くことのできない家族がいる可能性がある。

 その距離を埋める仕事に商機があるとしても、成立条件は厳しい。高い料金をつければよいわけでも、契約数だけを増やせばよいわけでもなく、同じ墓地に顧客を集め、移動を減らし、年間契約を無理のない頻度で設計し、長く付き合える関係をつくる必要がある。それができなければ、墓参り代行は善意に近い便利屋仕事のまま終わる可能性があり、逆にこの条件を丁寧に積み上げることができれば、小さくても持続する地域サービスになる余地がある。

 墓地に生える一本の草は、人口減少そのものを表しているのではない。それは、これまで家族の中で処理されていた役割が、少しずつ担い手を失っていることを知らせる兆候である。その兆候を見て、「誰もいなくなる」と嘆くだけではなく、「では、この仕事を誰が引き受けるのか」と問い直したところから、過疎地の新しい商いは始まる。ただし、その答えは希望だけでは完成せず、需要、支払意思、移動時間、顧客密度、継続率という冷静な数字を通過して初めて、現実の事業へ変わるのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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数字で比較するサービスを見る

 「何でも屋」と聞くと、どこか昭和の商店街を思わせる響きがある。電球を交換し、庭の草を刈り、重い家具を動かし、壊れた戸を見て、頼まれれば買い物まで手伝う。専門店でもなければ、最先端のスタートアップでもなく、看板を見ただけでは何を売っているのかさえはっきりしないため、専門化が進んだ現代社会から見れば、時代に取り残された商売のようにも映る。

 ところが人口が減り、店が減り、職人も減り、家族まで遠くに住むようになった地域を眺めると、この曖昧な商売が別の姿を見せ始める。人口が増えていた時代には、仕事を細かく分けても、それぞれの専門分野に十分な客が存在したが、人口密度が下がれば、同じ仕組みを維持することは次第に難しくなる。専門化によって効率を高めてきた社会が、人口減少によって逆向きの力を受け始めるのである。

専門店が成立するには、見えない「人口の土台」が必要になる

 専門化は効率的である。しかし、その効率性には条件があり、ある種類の仕事だけを引き受ける事業者が存在し続けるためには、その仕事を一定の頻度で依頼する顧客が、通える範囲、あるいは訪問できる範囲に十分存在していなければならない。都市であれば人口密度が高いため、一つの狭い分野に特化しても顧客を集めやすいが、住宅が点在する地域では、同じ専門化がそのまま有利になるとは限らない。

 仮に三十分で終わる仕事のために往復一時間かかるとすれば、事業者が費やしているのは三十分ではなく一時間半であり、その間には車両費や燃料費も発生する。それでも次の家で同じ種類の仕事が続けば効率は改善するが、人口密度が下がるほど、そのような連続受注は難しくなり、「仕事そのものは存在しているのに、一つの業種だけでは十分な仕事量にならない」という状態が起こりやすくなる。

 そこで発想を少し変えると、人口密度の低い地域では、一つの需要を深く掘るよりも、一人の顧客が抱える複数の小さな需要をまとめて扱うほうが合理的なのではないかという仮説が生まれる。庭の草を刈ったあとに家具を動かし、照明器具の交換を手伝い、スマートフォンの設定を確認するという仕事は、一つずつ見れば小さいが、一回の訪問という単位でまとめれば、移動時間を何度も発生させずに済む。

 これは経済学でいう「範囲の経済」に近い考え方である。異なるサービスを別々の事業者が別々に提供するより、一人の事業者が共通する移動、車両、道具、受付、顧客関係を利用しながら複数の仕事を提供したほうが、全体の費用を抑えられる場合がある。何でも屋という古い名前の背後には、人口密度が下がった地域に適応するための、意外に現代的な経済合理性が隠れている。

高齢化が生み出すのは、「できない仕事」だけではない

 人口減少地域で生活支援を考えるとき、高齢化という言葉がすぐに浮かぶが、本当に増えている困りごとは、介護や医療のように制度化された大きな問題だけではない。むしろ日常生活の中には、制度の対象にはなりにくいが、本人にとっては確実に負担となる小さな作業が無数に存在している。

 脚立に乗れば交換できる照明、少し力を入れれば移動できる家具、車があれば運べる荷物、操作を知っていれば設定できるスマートフォンなどは、若いころには誰かに頼む必要すら感じなかった仕事かもしれない。しかし年齢を重ねれば、転倒への不安が増え、筋力が落ち、車を手放し、細かなデジタル操作も負担になるため、「自分でやれば済む仕事」が少しずつ外部サービスへ移っていく。

 しかも高齢化と同時に単身世帯や高齢夫婦のみの世帯が増えれば、家庭内で助け合う余地も小さくなる。以前なら夫婦のどちらかができたこと、近所の家族が手伝ったこと、子どもが帰省したときに済ませていたことが、誰にも頼めないまま残りやすくなるのである。

 ここで生じる問題は、「できない」ことだけではない。「誰に頼めばよいのか分からない」という問題がある。大きな修理なら専門業者へ連絡できるが、電球一個、家具一つ、スマートフォンの設定一件となると、どこへ電話すればよいのか判断しにくく、業者に頼むほどのことではないという遠慮まで加わる。この心理的な空白こそ、何でも屋が扱う市場の一部になる。

 したがって何でも屋の本当の商品は、草刈りでも家具移動でもなく、「これは誰に頼めばよいのだろう」と悩む時間を減らすことである、と考えることもできる。相談の入口が一つであれば、利用者は仕事の分類をする必要がなく、まず相談し、その後に対応できることと専門業者へ渡すことを分けてもらえばよい。

ただし、「需要がある」ことと「商売になる」ことは違う

 ここで最も注意しなければならないのは、生活上の小さな困りごとが多いからといって、それだけで民間事業が成立するわけではないということである。需要の存在と支払意思は別の問題であり、さらに支払意思があっても、そこから移動費、人件費、車両費、道具代、保険料、広告費、事務作業の時間を差し引いたあとに利益が残らなければ事業にはならない。

 たとえば一回五千円の仕事でも、往復一時間、作業一時間、連絡や準備に三十分かかれば、事業者が拘束される時間は二時間半になる。そこから燃料費や車両維持費を差し引けば、見かけ上の五千円ほどには利益が残らない。逆に一度の訪問で三つの仕事をまとめ、合計一万円の売上にできれば、同じ移動時間を使いながら一件当たりの採算は大きく改善する可能性がある。

 つまり、この事業で重要なのは単なる客数ではない。仮に百世帯の顧客名簿を持っていたとしても、それぞれが年に一回しか利用しなければ売上は小さい一方、五十世帯でも利用頻度が高く、一回の利用額が大きければ事業としては安定しやすい。成立性を考えるなら、顧客数だけではなく、一世帯当たりの年間利用回数、一回当たりの平均利用額、移動時間、作業時間、再利用率を一緒に見なければならない。

 したがって、「五十軒あれば成立する」「百軒なら十分だ」というような単純な数字には意味がない。同じ百軒でも、年一回三千円しか使わない顧客と、月一回五千円使う顧客では年間売上が何倍も違うからである。何でも屋の商機を判断するなら、「何人いるか」より「どの程度の頻度で、いくら支払うのか」を確かめる必要がある。

一回の訪問を、単発仕事から「生活の維持管理」へ変えられるか

 採算性を考えると、何でも屋の事業モデルは単発の雑用代行だけでは弱い。遠くまで走って二千円、三千円の仕事を拾い続ける方式では、仕事はあるのに利益が残らないという状態になりやすく、人口密度の低い地域ほどその危険は大きくなる。

 そこで重要になるのが、一回の訪問そのものに価値を持たせる考え方である。たとえば月に一度、一時間から二時間程度訪問し、その家で発生している小さな困りごとをまとめて処理する方式なら、草刈り、家具移動、簡単な清掃、機器設定などを一つずつ別の商品として販売するよりも、利用者にとって分かりやすくなり、事業者側も移動コストを分散しやすくなる。

 このとき顧客が購入しているのは、個々の作業ではなく、「月に一度、家の中と周囲を一緒に見てくれる時間」である。すると何でも屋は、単発の便利屋から、暮らしを維持するための継続的な訪問サービスへ近づいていく。

 ただし、ここでも安易に定額制へ進めばよいわけではない。定額料金を低く設定しすぎれば、利用回数が多い顧客ほど赤字になり、逆に高く設定すれば利用者が集まらないため、実際には訪問時間、対応範囲、追加料金、作業上限を慎重に設計する必要がある。定額制が魅力的に見えるのは、売上が安定するからであって、採算まで自動的に安定するわけではない。

公的サービスやシルバー人材センターは、競争相手にもなる

 地域にはすでに、生活上の小さな困りごとを支援する仕組みが存在している。自治体、社会福祉協議会、シルバー人材センターなどが、草刈り、清掃、買い物支援、簡単な家事援助を比較的低料金で行っている地域もあり、民間の何でも屋が同じ内容を同じ価格帯で競えば、採算面では不利になる可能性がある。

 この事実は、「何でも屋には需要がない」という意味ではない。むしろ需要が存在するからこそ、公的・準公的なサービスも成立しているのであり、問題はその需要のどこまでが民間料金を支払ってもらえる市場なのかという点にある。

 公的サービスには、利用対象者、作業内容、利用時間、申込手続きなどに一定の条件が付くことが多い。そのため民間事業者が目指すべき場所は、単純な値下げ競争ではなく、「今日頼みたい」「複数の仕事を一度に済ませたい」「高齢者に限らず利用したい」「細かな相談をまとめてしたい」といった、公的サービスでは処理しにくい部分になる。

 したがって、成功する何でも屋があるとすれば、それは「何でも安くやる人」ではなく、「地域にすでにある仕組みでは埋まらない小さな隙間を、速さと柔軟性で埋める人」だろう。

「何でもする」と「何でもできる」は違う

 何でも屋という名称には、もう一つ注意すべき問題がある。「何でも相談できる」ことと、「何でも自分で作業する」ことは同じではない。

 電気工事、廃棄物の収集運搬、一定の建設工事などには資格や許可が関係する場合があり、医療や介護に近い仕事になればさらに慎重な判断が必要になる。何でも屋という名称だけを頼りに、自分にできそうだからという理由で仕事を引き受ければ、事故だけでなく法的な問題にもつながる。

 むしろ現代型の何でも屋に必要なのは、自分のできる範囲を広げ続けることではなく、どこから先を専門家へ渡すかを判断する能力である。家具の移動はできても配線工事は電気工事士へつなぎ、庭の手入れはできても危険な高木伐採は専門業者へ渡し、スマートフォンの操作は説明しても銀行口座の暗証番号には触れないという境界を持たなければならない。

 その境界が明確であるほど、利用者から見れば安心して相談できる。何でも屋とは、万能な職人ではなく、「まず相談を受け、できることとできないことを整理する地域の入口」と考えたほうが、現代社会には合っている。

人口減少は、客が減るだけでなく「頼める人」も減らす

 人口減少について語るとき、多くの場合は消費者の減少が問題になる。人口が減れば客も減り、市場は縮小するという説明である。それ自体は間違っていないが、供給側も同時に減っていくことを忘れると、地方の実態を見誤る。

 地域の人口が一割減ったとき、商店や職人も一割ずつ均等に減るとは限らない。後継者のいない個人事業者が相次いで廃業すれば、人口は一割しか減っていないのに、あるサービスの供給者は半分になることもあり得る。すると市場全体は縮小しているにもかかわらず、残った一人の事業者には依頼が集中するという現象が起こる。

 この構造は人口減少地域の商機を考えるうえで重要である。人口が減っているから需要がすべて消えるのではなく、需要より速く供給が減る分野では、むしろ「頼める相手がいない」という不足が生まれる可能性がある。

 スーパーがなくなり、電器店が閉まり、近所の大工が引退し、子ども世代も遠くへ移れば、地域に残った住民の人数は減っているにもかかわらず、一人当たりが外部へ頼みたい仕事は増えることがある。人口減少時代の新しい市場は、「人が増える場所」だけでなく、「供給の消え方が需要の減り方より速い場所」に生まれるのである。

大企業が不得意でも、競争相手がいないわけではない

 小さく内容の異なる仕事を一件ずつ処理する事業は、大企業が得意とする標準化とは確かに相性がよくない。今日は草刈り、明日は家具移動、その次はスマートフォン支援という仕事を社員組織で大量に処理しようとすれば、教育や料金設定、作業管理が複雑になるからである。

 しかし、だからといって大規模な競争相手が現れないとは限らない。現代には、事業者自身が作業員を雇わなくても、インターネット上で依頼者と地域の個人事業者を結び付けるプラットフォーム型の仕組みがあり、小さな仕事を大量に集めて分配することもできる。

 したがって「大企業にはできないから地域の個人事業者が安泰だ」という結論は危険である。むしろ地域の何でも屋が競争力を持つとすれば、インターネット上で初めて会う人には提供しにくい、継続的な信頼関係の部分になる。

 高齢者宅へ毎月入り、前回直した場所を覚え、家の状態を知り、本人の性格まで理解している事業者は、単発依頼を仲介する仕組みとは異なる価値を持つ。価格だけではなく、「この人なら家に上げられる」という信頼そのものが参入障壁になるのである。

最も大きな壁は、支払意思かもしれない

 人口減少地域の新規ビジネスを考えると、「困っている人がいる」という事実が強調されやすい。しかし、事業として最も重要なのは、困っているかどうかだけではなく、その問題を解決するためにいくらまで支払う意思があるのかという点である。

 たとえば電球交換に困っている高齢者が百人いても、一回五千円なら誰も依頼しないのであれば、市場規模は事実上ゼロに近い。逆に百人のうち二十人しか困っていなくても、月一回五千円の訪問サービスを継続して利用するなら、小さいながらも明確な市場が生まれる。

 したがって、地域で何でも屋を始める前に必要なのは、人口統計を見ることだけではない。実際に住民へ聞き、「どのような仕事なら頼みたいか」「現在は誰に頼んでいるか」「いくらなら利用するか」「年に何回程度必要になるか」を確かめなければならない。

 人口、高齢化率、単身世帯率は市場の存在を推測する材料にはなるが、売上を決めるのは最終的に支払意思と利用頻度である。ここを確認しないまま「高齢者が多いから需要がある」と考えると、社会的には必要でも商売としては成立しないという結果になりかねない。

「困りごとの数」より「一回の訪問価値」を測る

 数理的に見ても、この商売では一つひとつの仕事の数より、一回の訪問から得られる粗利益が重要になる。訪問するためには、電話や予約の対応、移動、駐車、車両、準備という固定的な負担が発生するため、その費用を一つの小さな仕事だけで回収しようとすると料金が高くなりやすい。

 逆に一回の訪問で二つ、三つと作業をまとめれば、同じ移動費を複数の仕事へ分散できる。人口密度の低い地域で何でも屋が合理的かもしれないという核心は、まさにこの点にある。

 ただし、何でも扱えば扱うほど利益が増えるわけでもない。作業範囲を広げすぎれば、多くの道具が必要になり、技術習得に時間がかかり、仕事ごとの作業時間も予測しにくくなるため、逆に運営は非効率になる。したがって実際には、「何でも」ではなく、同じ顧客が繰り返し必要とし、同じ車両や基本的な道具で対応できるいくつかのサービスに絞るほうが合理的だろう。

 外から見れば何でも屋でも、内部では仕事をかなり選んでいるという状態が、おそらく最も強い。

何でも屋は、古いのではなく「市場の粒が小さくなった時代」の商売かもしれない

 かつての村や町には、一人で複数の仕事をこなす人が珍しくなかった。農家が家を修理し、商店が配達を行い、町の電器店が商品を売るだけでなく設置や修理まで引き受けるという姿は、技術が未熟だったからだけではなく、人口の少ない社会では一人が複数の役割を持つほうが合理的だったからでもある。

 高度成長と都市化は、その構造を逆転させた。人口が増え、所得が増え、消費が増えたことで、市場を細かく分けても、それぞれの分野に十分な客が存在するようになった。その結果、「何でもできる人」より「一つのことに非常に詳しい人」が高く評価される社会が形成された。

 しかし人口が減る時代には、再び異なる合理性が現れる可能性がある。もちろん昔と同じ社会に戻るわけではなく、現代にはインターネットがあり、スマートフォンがあり、専門業者との連携も容易になっているため、未来の何でも屋は昔の雑用屋をそのまま復活させた存在ではない。

 むしろ、地域の小さな問題を一度受け止め、自分で処理できるものは処理し、資格や高度な技能が必要なものは専門家へつなぎ、公的サービスで対応できるものならそちらを案内する「暮らしの総合窓口」に近づいていく可能性がある。

何でも屋の商機は、「人口減少」だけでは証明できない

 ここまで考えると、何でも屋が人口減少時代に合理的であるという仮説には、かなり強い理論的な根拠がある。人口密度が下がれば一業種だけでは市場が小さくなり、移動コストの比重が高まり、複数のサービスをまとめる意味が大きくなる。また高齢化、単身化、商店や職人の減少によって、小さな生活支援への需要が残る可能性も高い。

 しかし、ここから「だから何でも屋は儲かる」と進むことはできない。実際の採算性は、その地域でどれだけの住民が有料サービスを利用するのか、一回当たりいくら支払うのか、年間何回使うのか、一件当たり何分移動するのか、公的サービスや既存事業者がどの程度存在するのかによって決まる。

 つまり人口減少は商機の存在を示す一つの条件にすぎず、それだけで事業性を証明するものではない。人口統計を見て「高齢者が多いから成功する」と判断するのではなく、実際の料金、利用頻度、移動距離、競合状況を調べ、それでも利益が残るかを確かめる必要がある。

 その意味では、「何でも屋」という商売は、派手な成長市場ではない。全国へ一気に拡大するような事業でもなく、一人の事業者が何万人もの顧客を獲得するモデルでもないだろう。

 それでも、地域ごとに小さく成立する余地はある。

 人口が増えていた時代には、一つの大きな需要を見つけ、それを深く掘ることで事業を成長させることができた。人口が減る時代には、同じ地域に散らばっている小さな需要を横につなぎ、一回の訪問、一人の顧客、一軒の家という単位で束ね直すことが重要になるかもしれない。

 地方には大きな市場がない、とよく言われる。それはかなり正しい。しかし、大きな市場がないことと、商売が存在しないことは同じではない。

 草を刈ってほしい人、家具を動かしてほしい人、スマートフォンの設定を手伝ってほしい人を、それぞれ別の市場として数えれば、どの市場も小さいかもしれない。ところが、それらは別々の人ではなく、同じ一人の生活者が抱えている困りごとかもしれない。

 人口減少社会で探すべき新規ビジネスは、まったく新しい需要を発明することだけではない。経済が拡大する過程で細かく分割され、専門化され、いつの間にか誰もまとめて扱わなくなった需要を、もう一度生活者の側から束ね直すことも、新しい商売になる可能性がある。

 「何でも屋」という看板だけを見れば、確かに古い。

 しかし、その中身を、移動コスト、人口密度、範囲の経済、高齢化、単身化、支払意思、信頼関係という現在の条件から見直してみると、それは昔の商売の生き残りではなく、人口が減る社会に合わせて再設計される、小さな地域ビジネスの一つの原型なのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 町から店が一軒消えるとき、失われるのは看板一枚ではない。魚屋がなくなれば魚を買う場所が減り、文房具店がなくなればノート一冊を買うために車を走らせる距離が伸び、クリーニング店が閉じれば衣類を預ける場所がなくなる。銀行の支店が撤退すれば、これまで窓口で済ませていた用事を別の町まで出向いたり、慣れないスマートフォンやパソコンで処理したりしなければならない。人口の多い都市なら一つの店が消えても別の店が役割を代替するが、人口の少ない町では、一軒の撤退が生活を支えていた機能そのものを少しずつ剥がしていく。

 だからといって、昔あった店を昔と同じ形で復活させればよいわけではない。人口が減り、客数が減った結果として店が維持できなくなったのであれば、新しい看板を掲げただけで市場が元に戻るはずもなく、スーパー、書店、電器店、旅行代理店、銀行、宅配窓口と、それぞれの用途ごとに建物を構え、人を置き、光熱費を払い、設備を維持するという商業の形そのものが、人口密度の低下に耐えにくくなっていると考えた方が自然である。

 そこで発想を変える余地が生まれる。店の数を昔の水準に戻そうとするのではなく、残る一つの店が担う役割を増やせないかと考えるのである。

 食料品を売る店で宅配便を受け付け、コピーや印刷ができ、地元の商品を取り寄せられ、インターネット通販の商品を受け取れるようにする。さらに、その地域の実情に合うのであれば、高齢者がスマートフォンの基本操作を相談したり、地域交通の予約を頼んだり、住宅の修繕や草刈りをしてくれる事業者を紹介してもらったりする場所にもなる。何も巨大な商業施設を造る必要はなく、一軒の小さな店に、生活上のいくつかの入口を重ねるのである。

 ここでは、そうした店を「複合店」と呼んでみたい。

 複合店の価値は、何でも売ることにはない。むしろ、一つ一つでは商売にならないほど小さな需要を、一か所に集められることにある。人口の少ない町では、電球を買いたい人、荷物を送りたい人、コピーを使いたい人、スマートフォンの操作を相談したい人は、それぞれ確かに存在していても、一つ一つの需要は専門店一軒を維持できるほど大きくない。しかし、それらの需要が同じ場所に流れ込むなら、一つの店が複数の小さな市場を束ねることができる。

 過疎地の商売が難しいのは、需要が完全に消えてしまうからではない。多くの場合、需要が薄く、広く、ばらばらに散らばってしまうからである。

 米も買いたい、荷物も送りたい、コピーもしたい、スマートフォンの使い方も聞きたいという需要は残っている。それにもかかわらず、それぞれを別々の専門店として成立させるには客数が足りないのであれば、需要を業種ごとに切り分けるのではなく、一つの場所に集約する方が合理的になる。この考え方は単なる思いつきではなく、人口減少地域で生活サービスを維持する方法として、実際に各地で進められている「小さな拠点」の発想とも重なる。買い物、郵便、飲食、交通など複数の機能を一か所に集めようとする地域はすでに全国各地に存在しており、サービスの複合化そのものは現実の政策や地域運営でも使われている。

 経営の側から見ても、この仕組みには理屈がある。店を一軒構えれば、売上がゼロの日でも家賃や建物費、電気代、通信費、設備費などが発生するが、食品を売る仕事に宅配受付やコピーサービスを加えたからといって、建物の費用が二倍になったり、駐車場が三倍必要になったりするわけではない。同じ建物、同じレジ、同じ通信回線、同じ店員を複数の仕事で共有できれば、一つ一つのサービスが単独で店舗全体の固定費を背負う必要がなくなる。

 これは経済学でいう「範囲の経済」に近い。複数の商品やサービスを別々に提供するよりも、同じ設備や人員を使って一緒に提供した方が総費用を抑えられるなら、複合化には経済的な意味がある。

 ただし、ここには重要な条件がある。サービスを増やせば増やすほど利益が大きくなるわけではない。

 新しいサービスを始めるたびに専用設備を買い、在庫を増やし、店員に専門的な教育を施し、一件ごとに長時間の接客が必要になるのであれば、複合化によって浮く費用よりも、新しく発生する費用の方が大きくなる。したがって成功する複合店とは、十種類、二十種類の業務を無秩序に詰め込んだ店ではなく、すでにある場所、人、時間、設備を使って処理できる仕事を慎重に選んだ店である。

 複合化で本当に重要なのは、サービスの数ではない。同じ客、同じ場所、同じ設備、そして店員の同じ時間を、どこまで無理なく共有できるかである。

 例えば、店員が一日中休む暇もない店で新たな相談業務を始めれば、そのために人を増やさなければならず、人件費がそのまま上乗せされる。しかし一日のうち何度も客足が途切れ、店員に一定の待機時間がある店なら、その時間に宅配便を受け付けたり、短時間の操作支援をしたりすることで、新しく人を雇わずに追加収入を得られる可能性がある。

 ここに、小さな町の複合店を考えるうえで大切な視点がある。売上を増やすこと以上に、これまで使われていなかった時間や設備を売上に変えられるかどうかが重要なのである。

 仮に一日に三十人が来店し、月に二十六日営業する店なら、一か月の来店回数は約七百八十回になる。もしその店が月五万円だけ収支不足だったとすれば、すべての来店に均等に追加利益を求めるなら、一回来店当たり六十数円程度の利益増加で埋められる計算になる。しかし、実際に追加サービスを利用する人が来店者の四分の一しかいなければ、一件当たりに必要な追加利益は二百円を超える。

 そこへ接客時間が加わると話はさらに変わる。仮に一時間当たりの人件費を千三百円程度と考え、一件の相談に十分かかるなら、それだけで二百円を超える労働費用が発生する。したがって数百円の料金を取っても、追加で人を雇って対応するなら利益が残らない場合があり、反対に、店員の既存の待機時間を使えるのであれば、同じ売上でも採算は大きく改善する。

 複合店は、少額の売上を無数に積み上げれば必ず成功する魔法の仕組みではない。その成否を決めるのは、追加サービスから得られる収入から、そのサービスのために新しく発生する人件費、設備費、事務費などを差し引いた利益がどれだけ残るかであり、その利益が店舗全体の固定費をどこまで支えられるかである。

 この点を無視すると、「住民に喜ばれる店」と「事業として続く店」を取り違える。

 無料でスマートフォンの操作を三十分説明すれば住民には喜ばれるかもしれないが、その時間が毎日積み重なれば店側の負担になる。買い物代行で車を十キロ走らせ、数百円しか受け取らないのであれば、燃料費や車両費だけでなく移動時間まで考えた瞬間に採算が崩れる可能性がある。地域ビジネスでは、必要とされているサービスだから成立するのではなく、利用者がいくらまで払えるのか、一日に何件発生するのか、一件を処理するのに何分かかるのかという数字まで確認して、初めて事業になる。

 一方で、一つの場所に複数の用事を集めることには、売上を直接生む以上の効果も考えられる。宅配便を送りに来た人が牛乳やパンを買い、コピーを使いに来た人が飲み物を買い、商品の取り寄せを頼みに来た人がそのまま日用品も購入することがあれば、一つのサービスが別の売上を呼び込む。

 もっとも、この効果を当然のものとして見込むのは危険である。宅配受付を始めれば来店者が何人増え、その何割が商品を購入するのかは、地域人口、店舗立地、営業時間、競合店の有無などによって大きく変わるからだ。したがって「宅配を始めれば物販も伸びる」と決めつけるのではなく、実際に一定期間試して、来店数、併売率、一人当たり購入額がどう変化したかを測る必要がある。

 このように考えると、複合店は壮大な地方創生策というより、小さな実験を積み重ねる経営に向いている。

 最初から十種類のサービスを始める必要はない。宅配受付を加え、その利用状況を記録し、次に商品の取り寄せを加え、それでも店員の負担が大きくないなら別のサービスを試す。利用件数、売上、必要時間、追加費用を記録して、利益の残らない仕事はやめる。このように一つずつ検証していけば、地域ごとに異なる「採算の取れる組み合わせ」が見えてくる。

 そして複合店の役割をもう少し広げて考えると、「商品をたくさん置く店」というより、「町の小さな受付窓口」という姿が見えてくる。

 現在はインターネット通販や物流網が発達しているため、小さな店があらゆる商品を倉庫に抱える必要はない。注文を受け、商品が届いたら渡すだけでよいものもある。住宅の修繕も店員自身が直す必要はなく、地域の工務店や電気工事業者などにつなぐ役割であれば、在庫や大規模な設備を持たなくてもよい。

 高齢者から「庭木を切ってくれる人はいないか」「エアコンを掃除してくれるところを知らないか」「水道の調子がおかしいが、どこへ頼めばよいのか分からない」と相談を受け、適切な事業者につなげることができれば、店は商品を売る場所だけではなく、地域内の需要と供給を結ぶ場所へ変わっていく。

 ここで店が解決するのは、商品不足だけではない。「誰に頼めばよいのか分からない」という不便である。

 人口の多い都市なら、インターネットで検索すれば多数の業者が見つかるが、小さな町では検索結果そのものが少なく、近隣で実際に仕事を頼める事業者かどうかも分かりにくい。反対に、草刈り、清掃、電気工事、住宅修繕などを行う小規模事業者も、一軒ずつ顧客を探すために時間を使っている。

 この両者を地域の店が結びつければ、住民が事業者を探す手間と、事業者が顧客を探す手間の双方を減らせる可能性がある。

 さらに、複数の依頼をまとめることができれば、事業者側の移動効率も改善する。例えば、ある地区から草刈りの依頼が一件だけ届けば、往復の移動時間を考えると受けにくい仕事でも、複合店が同じ地区から五件をまとめて「火曜日にこの地区で五件あります」と渡せれば、一回の移動で複数の仕事を処理できる。

 人口密度の低い地域では、客を増やすことと同じくらい、移動一回当たりに処理できる仕事を増やすことが重要になる。複合店が地域の注文を集める場所になれば、住民には頼みやすく、事業者には移動効率がよく、店側にも受付や仲介による収入が残るという形をつくれる可能性がある。

 ただし、仲介業務には慎重さも必要になる。

 何を取り次ぐかによっては、資格、契約、個人情報の取扱い、事故が起きた場合の責任、紹介先の品質管理などを考えなければならない。店が単に連絡先を紹介するのか、正式に依頼を受け付けて料金まで集めるのかでも責任の範囲は変わるため、「地域の困りごとは何でも引き受ける」という曖昧な仕組みにするのではなく、どこまでが店の仕事で、どこからが専門事業者の責任なのかを明確にする必要がある。

 つまり、複合店は何でも屋になればよいのではない。小さな需要を集約しながら、専門的な仕事は専門家に渡す「接点」になることに価値がある。

 ここまで考えると、一つの疑問が残る。これほど合理的な仕組みなら、複合店をつくれば人口の少ない町でも簡単に商売が成立するのだろうか。

 答えは、そこまで単純ではない。

 生活サービスを一か所に集める仕組みは全国で実際に広がっているが、そのすべてが完全な民間事業として利益を出しているわけではなく、地域運営組織や自治体などが関わって維持されている例もある。移動販売や生活支援サービスでも、住民に必要とされながら、自治体などの支援がなければ収支が合いにくい事例は存在する。

 ここには、地方ビジネスを考えるうえで避けて通れない問題がある。社会的に必要であることと、民間事業として利益を出せることは同じではない。

 人が少ない地域ほど、一人当たりのサービス提供費用は高くなりやすい。十分な利益を取れば住民が利用できなくなり、料金を下げれば事業者が続けられなくなる。この境界線にあるサービスについては、行政や地域組織の支援を組み合わせる方が合理的な場合もある。

 したがって複合店を過疎地の万能策として語るべきではない。複合化には、一つ一つのサービスを単独で運営するよりも固定費を共有し、損益分岐点を下げられる可能性があるというのが、より正確な表現になる。

 それでも、この違いは小さくない。

 人口が少ないから何もできないのではなく、一つの商売だけでは成立しなくなった地域で、複数の小さな需要を束ねれば成立する仕事が残っている可能性があるからである。

 都市では市場規模が大きいため、一つの分野に特化し、専門性を高めることが競争力になる。しかし人口の少ない町では、専門化しすぎれば市場そのものが小さくなり、客を確保できなくなる。人口密度が低下するほど、「狭く深く」よりも「近くでいくつもの用事が済む」という価値が相対的に高くなる。

 昔の町には「よろず屋」があった。食料品から日用品まで、住民が必要とするものを店の棚にできるだけ多く置いていたが、現在の複合店は、それと似ているようで少し違う。

 これからの店が抱えるべきなのは、大量の商品ではないのかもしれない。

 注文、受取、相談、予約、仲介といった「機能」である。

 商品そのものは遠くの倉庫から運んでもよいし、専門的な作業は別の町の事業者が担当してもよい。しかし、住民が困ったときに最初に尋ねる場所まで遠くにする必要はない。

 人口が減る社会で、昔と同じ数の銀行、商店、行政窓口、専門店をそのまま残し続けることは難しい。それならば、建物や業種を残すことにこだわるのではなく、そこで提供されていた「生活機能」を取り出し、別の場所へ移し替えることを考えた方がよい。

 専門店がなくなっても、商品を注文して受け取れる場所があれば困らない人は多い。行政窓口が遠くなっても、必要な手続きの方法を教えてくれる場所が近くにあれば助かる。地域交通の営業所がなくても、乗車予約を受け付ける場所があれば利用できる人はいる。

 地域から建物が一つなくなったからといって、その建物が担っていた機能まで同じ割合で失われなければならないという決まりはない。

 そこに、小さな町の商機がある。

 もっとも、その商機は派手ではない。短期間で全国展開できる事業でも、一店舗で巨額の利益を上げる商売でもないだろう。一日に数件発生する小さな不便を拾い、既存の店、人員、設備を使いながら、一件数百円、数千円の利益を積み重ね、店舗全体の固定費を少しずつ支えていく。

 だが人口減少社会では、その「小ささ」がむしろ重要になる。

 人口が減れば、大量の客を集めることは難しくなる。しかし、一人の住民が抱える困りごとまで一つになるわけではない。食品も必要で、荷物も送り、家も修繕し、交通も使い、スマートフォンも操作しなければならないのであれば、一人の住民との取引を深くする余地は残る。

 これからの地方商業で問うべきなのは、「何人の客を新しく呼べるか」だけではない。

 一人の住民が日常生活の中で発生させる複数の需要を、どこまで一つの場所で受け止められるかという視点も必要になる。

 そして、それが本当に商売になるかどうかは、理念ではなく数字で判断しなければならない。利用者数、利用率、一件当たりの料金、処理時間、追加人件費、追加設備費、そして他の商品への購買波及を実際に記録し、小さく試しながら組み合わせを変えていく必要がある。

 複合店は、過疎地を救う魔法ではない。

 しかし、一つの専門店では採算が取れなくなった地域でも、複数の小さな需要と既存資源を組み合わせれば、新しい商売の形をつくれるかもしれないという点では、十分に検討する価値がある。

 日本全体の人口が減少していけば、現在の過疎地で起きていることは、一部の山間部や漁村だけの出来事ではなくなる可能性がある。商圏人口が減り、専門店が撤退し、生活のための移動距離が伸び、残った店や事業者に複数の役割が求められるという現象は、やがて地方都市や郊外住宅地でも珍しくなくなるだろう。

 そう考えれば、小さな町は衰退した市場であると同時に、人口減少社会の新しい商業モデルを、ほかの地域より早く試している場所ともいえる。

 店が減る流れそのものを止めるのは難しい。

 しかし、店の数が半分になったから、地域で利用できる機能まで半分にしなければならないわけではない。

 一軒の店が二つ、三つ、五つの役割を無理なく担い、なおかつ一つ一つの仕事について採算を確認しながら続けていけるなら、小さな町の商業を「店舗数」だけで測る必要はなくなる。

 これから価値を持つのは、商品を最も多く並べた店ではないのかもしれない。

 「あそこへ行けば、とりあえず相談できる。頼める。受け取れる。そして、必要なら誰かにつないでもらえる」

 住民からそう思われる場所をつくり、その信用と利便性を、無理のない料金と小さくても継続可能な利益へ変えていくことができるかどうか。人口減少によって店が消えていく時代だからこそ、一つの店に何を足せるかではなく、一つの場所にどの需要を重ねれば持続可能になるのかを考えるところに、小さな町の次の商売が隠れている。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

 人が住まなくなった家は、ある日突然、廃屋になるわけではない。昨日まで誰かが開けていた雨戸が閉じたままになり、庭の草が少しずつ伸び、郵便受けには広告が重なっていく。数か月ならまだ「留守の家」に見えるが、一年、二年と時間がたつにつれて、家は不思議なほど早く町の風景から浮き始め、誰も住んでいないことが、外から見ても少しずつ分かるようになっていく。

 空き家問題というと、私たちは老朽化した建物や倒壊の危険、雑草、害虫、防犯といった問題を思い浮かべる。しかし商売という視点から見るなら、建物が壊れてから解体する仕事だけを見るのでは少し遅い。家がまだ使える状態にありながら、そこへ定期的に足を運び、異常がないか確かめる人がいなくなるという「管理の空白」が、空き家が生まれた瞬間から始まっているからである。

 この空白は、単純に人口が減ったから生じるのではない。より重要なのは、住宅と所有者の生活圏が離れていくことである。

空き家900万戸の時代に起きていること

 2023年の住宅・土地統計調査によれば、日本全国の空き家は900万戸、空き家率は13.8%となり、いずれも過去最高となった。賃貸用や売却用、別荘などを除き、明確な使用目的を持たない空き家も385万戸に達しているため、もはや一部の過疎地だけに起きている特殊な現象ではなく、日本の住宅市場そのものが大量の「使われない家」を抱える時代に入ったと考えた方がよい。

 さらに重要なのは、その家がなぜ空き家になったのかという点である。国土交通省の調査では、空き家の取得理由の過半数を相続が占めており、親が亡くなり、地方の実家を都市部に暮らす子どもが受け継ぐというケースは、珍しい例ではなく空き家発生の中心的な経路になっている。高齢になった親が施設へ入り、それまで暮らしていた家だけが残る場合もあれば、転勤や住み替えを契機に「いずれ使うかもしれない」と考えながら住宅を手放さない場合もあり、こうして人と住宅の関係は完全に切れるのではなく、細い糸でつながったまま遠距離になる。

 もっとも、日本の空き家所有者の大半が東京や大阪など遠く離れた地域に住んでいるわけではない。調査では、空き家まで徒歩圏内または交通機関などを利用して一時間以内という所有者が全体の四分の三程度を占めるため、「空き家の持ち主はみな遠隔地にいる」と考えるのは正しくない。その一方で、一時間を超える距離に住む所有者も二割を超え、管理上の問題として「遠方に住んでいるため往訪が難しい」と答える人も二割程度存在していることから、遠隔管理の市場は空き家所有者全体ではなく、その中に存在する一定の層を対象とする市場だと考える方が現実に近い。

 ここに、普通の地域ビジネスとは少し違う構造が現れる。一般の小売業や飲食業なら、店の近くに住んでいる人が顧客になるため、人口が減れば客も減り、人口密度が下がれば商売は難しくなる。しかし空き家管理では、サービスを受ける建物は地方にありながら、料金を払う人は県外や都市部に暮らしている可能性がある。

 つまり、家は地域に残り、財布は地域の外へ移動する。この関係が成立するなら、人口減少地域にありながら町外の人から地域へお金を呼び込む、少し変わったサービス市場が生まれることになる。

誰がお金を払うのか

 空き家の隣に住む人が雑草や防犯を心配しているからといって、その人が毎月の管理料を払うわけではない。自治会が困り、自治体が対応に追われていても、通常の民間サービスとして継続的に料金を負担する主体になるとは限らないため、この商売を考えるとき最初に確認すべきなのは、「困っている人は誰か」ではなく、「その困り事を解消するために実際にお金を払う人は誰か」ということである。

 もっとも有力なのは、やはり所有者本人か、その家を事実上管理している家族である。ただし、ここでいう所有者は、積極的に家を保有したい人ばかりではない。「売るか残すか決められない」「兄弟で話がまとまらない」「親の家なので気持ちの整理がつかない」「年に何度も様子を見に行くのは大変だ」といった事情を抱えながら、結論を先送りしている人も少なくない。

 実際の支払者が名義上の所有者本人とは限らないところも重要である。高齢の親名義の住宅を遠方の子どもが管理していたり、兄弟のうち一人が代表して維持費を負担していたりすることもあるため、このサービスの本当の顧客は「家を所有している人」というより、「その家を気にし続けなければならない人」だと考えた方が分かりやすい。

 東京から地方の実家を見るために何時間もかけて往復し、交通費を払い、休日を一日使う。その負担を年に数回繰り返している人にとって、月に数千円という費用は単なる住宅維持費ではなく、自分が現地へ行かなくても誰かが代わりに確認してくれる状態を買うための料金になる。

 ただし、ここで注意しなければならない。困っていることと、お金を払うことは同じではない。

「困っている人」は多いが、「お金を払う人」はまだ少ない

 空き家所有者への調査では、「管理の作業が大変」と感じる人は三割前後、「遠方に住んでいるため往訪が難しい」とする人も二割程度存在しているため、管理負担という問題そのものは明確に存在している。しかし現実には、空き家の管理を所有者本人や親族が行っている割合が非常に高く、不動産会社、建設会社、管理専門業者などへ主な管理を委託している割合は数%程度にとどまっている。

 この数字は、遠隔住宅管理という商売を考えるうえで極めて重要である。空き家900万戸という数字だけを見て、「巨大な市場がある」と考えるのは危険であり、900万戸がそのまま900万件の顧客になるわけではない。むしろ現状は、管理に困る人はすでに存在する一方で、その困り事を有料サービスへ置き換える習慣がまだ十分には形成されていない市場なのである。

 空き家所有者の中には、親族に頼めば済むと考える人もいれば、自分で年に数回見に行けばよいと判断する人もいる。また、管理費そのものを負担に感じている人も少なくなく、調査でも管理費用の負担を課題とする回答が二割程度あるため、「月五千円なら誰でも払う」という発想は成り立たない。

 だからこそ、この商売では空き家所有者全体を狙うより、料金を払う合理的な理由が強い人を探す必要がある。遠距離に住み、往復の交通費が高く、仕事や介護などで時間を取りにくく、将来的には売却や再利用を考えている人にとっては、外部委託の価値が大きくなる一方、自宅から十分程度の場所に空き家があり、本人が元気で月に一度見に行けるなら、有料管理サービスを利用する理由は弱い。

 需要は空き家の数だけでは決まらない。距離、時間、所有者の年齢、資産価値、交通費、家族構成、そして家を今後どうするつもりなのかという条件が重なったとき、初めて支払意思が生まれるのである。

売るのは「見回り」ではなく「現地に目がある状態」

 遠隔住宅管理というと、玄関を確認し、窓を開け、郵便物を整理し、庭を眺めて帰るだけの仕事に見える。作業そのものを並べれば高度な技術ではなく、それだけなら近所の知人に頼めば済むため、毎月料金を払って専門業者へ依頼する理由は弱い。

 商品になるのは、その確認を一定の基準で繰り返し、遠方の所有者に「今月も異常はなかった」と見える形で証明するところまで含めたときである。毎回同じ場所から建物を撮影し、外壁、屋根、窓、庭、郵便受けなどの変化を記録し、大雨や台風の後には必要に応じて臨時確認を行い、異常が見つかれば写真とともに知らせる。そして修繕が必要なら地域の事業者へつなぐところまで仕組みにすれば、それは単なる見回りではなく、所有者に代わって住宅と地域との関係を維持するサービスになる。

 遠隔地にいる顧客には、サービス提供者が本当に現地へ行ったのかを直接確認できないという問題もあるため、この商売では技術力と同じくらい「証拠」が重要になる。撮影日時の分かる写真、一定形式の報告、前月との比較、異常時の記録が蓄積されれば、所有者は離れた場所にいながら家の変化を時間の流れとして把握できる。

 考えてみれば、ここで売られているのは住宅の見回り作業そのものではない。数十キロ、数百キロ離れた町に、自分の代わりに一組の目が存在するという状態なのである。

月額五千円は高いのか、安いのか

 遠隔住宅管理の市場では、屋外巡回を中心とした簡易なサービスなら月額数千円程度、室内換気や通水などを含むサービスではそれより高い料金設定が実際に存在しているため、月額五千円程度という価格は現実離れした水準ではない。

 しかし、価格が市場に存在することと、多くの人がその価格を払うことは別問題である。空き家所有者の年間維持管理費を見ると、五万円未満という世帯もかなり多いため、月額五千円なら年間六万円となり、それだけで現在の年間管理費を超えてしまう所有者もいる。したがって、月五千円という価格は「安いから売れる」のではなく、所有者自身が現地へ行く場合の交通費や時間、精神的負担と比べて初めて価値が生まれる価格だと考えるべきである。

 たとえば往復の交通費が一回一万円かかり、一日を使って年に六回確認している人なら、交通費だけで年間六万円になるため、月五千円の管理サービスには十分な比較対象が生まれる。一方、自宅から車で十五分のところに空き家がある人なら、年間六万円を払う合理性はかなり小さい。

 ここでも結局、「空き家であること」より「所有者と空き家との距離」が重要になる。

月額五千円の商売は、本当に利益になるのか

 需要が存在すると分かったところで安心することはできない。必要とされることと、利益が出ることは別だからである。

 月額五千円で三十軒契約すれば月十五万円、百軒なら月五十万円になるため、売上だけを見ると地域の小規模事業として成り立ちそうに見える。しかし、三十軒が同じ住宅地に集まっている場合と、山間部や沿岸部に一軒ずつ散らばっている場合とでは、同じ十五万円でも利益はまったく違う。

 一軒の確認作業が二十分で済んだとしても、次の家まで三十分走れば、仕事の中心は住宅管理ではなく移動になってしまう。仮に人件費や車両費を含めて一時間当たり三千円程度の経済コストが発生すると考えれば、移動、確認、写真撮影、報告作成まで一軒当たり一時間前後で処理できなければ、月額五千円という料金では十分な利益を残しにくい。

 反対に、同じ地区に十軒、二十軒と契約が集まり、数分の移動で次の家へ行けるなら採算は大きく改善する。つまり、この商売では顧客数以上に顧客密度が重要であり、一軒獲得することより、同じ巡回経路の中で二軒目、三軒目を獲得することの方が経営上の価値が高い。

 人口減少地域で商売をするとき、最大の敵になるのは需要不足だけではなく、需要が薄く広く散らばっていることである。遠隔住宅管理は、この「密度の経済」を無視すると、契約が増えるほど忙しいのに利益が残らないという状態になりかねない。

基本料金だけで何でも引き受けてはいけない

 もう一つ注意すべきなのは、月額料金の中にどこまで作業を含めるかである。庭木が伸びた、雨樋が外れた、蜂の巣ができた、台風の後に屋根を確認してほしい、室内を清掃してほしいといった依頼まで基本料金に含めてしまえば、少数の手間のかかる住宅によって利益が簡単に消えてしまう。

 そのため、定期巡回、外観確認、写真報告などを基本料金とし、草刈り、清掃、災害後の臨時確認、修繕手配などは別料金とする方が合理的である。月額料金は安定した収入の土台となり、追加作業は必要が発生したときだけ料金を受け取る仕組みにすれば、所有者にとってもサービス内容が分かりやすく、事業者側も過剰な負担を抱えにくい。

 さらに、定期的に家を見ているからこそ小さな異常を早く見つけることができ、その結果として清掃、庭木管理、修繕、解体、不動産売却といった地域の別の仕事へ需要をつなぐこともできる。遠隔住宅管理そのものだけで大きな利益を狙うより、住宅に関する地域サービスの入口になる事業として考えた方が、経済的には強い可能性がある。

最大の難関は、空き家を見つけることではない

 空き家そのものを見つけるのは、それほど難しくない。町を歩けば、雨戸の閉じた家、伸びた庭木、使われなくなった駐車場が目に入る。しかし、その家の前に「私は東京に住んでいます。月五千円なら管理を頼みたいです」と所有者の連絡先が書かれているわけではない。

 ここに、この商売の面白さと難しさが同居している。仕事をする場所は地域なのに、営業すべき相手は地域の外にいる場合があるからである。

 したがって、遠隔住宅管理で本当に難しいのは巡回作業そのものではなく、遠方の所有者と出会う仕組みをつくることである。地域の不動産会社、相続に関わる専門家、工務店、解体業者などとつながり、家が空き家になる段階でサービスの存在を知ってもらえれば、何年も放置された後で所有者から連絡が来るのを待つよりはるかに効率がよい。

 しかも遠隔地の顧客ほど、価格だけで業者を選ぶことは難しい。知らない町の知らない事業者へ家の状況確認を任せ、ときには鍵を預けることもある以上、会社の規模よりも、誰が訪問するのか、何を確認するのか、どのように報告するのか、異常時にどう対応するのかが明確でなければならない。

 地域密着という言葉だけでは足りない。地域にいるという強みを、遠くにいる顧客にも見える形へ翻訳することが必要なのである。

管理し続けることが目的ではない

 空き家管理会社にとって最もありがたい顧客は、何十年も空き家を持ち続け、毎月管理料を払ってくれる人のように見える。しかし、社会全体から考えれば、それが望ましい状態とは限らない。

 空き家には、いつか出口が必要になる。再び住むのか、貸すのか、売るのか、取り壊すのか、その判断を永遠に先送りすることはできない。所有者調査でも、今後も空き家のまま所有する意向を持つ人が一定割合存在する一方、売却や除却を考えている人も少なくないため、遠隔住宅管理は「空き家を永久に保存するサービス」ではなく、所有者が次の判断をするまでの時間を安全に管理する仕事だと考えた方がよい。

 毎月の写真が数年分残っていれば、建物がどの程度傷んできたのかも見える。「そろそろ大きな修繕が必要になりそうだ」「維持費を考えると売却を検討した方がよいかもしれない」と判断する材料になり、必要になれば不動産、建築、解体など、それぞれの専門事業者へつなぐこともできる。

 遠隔住宅管理の本当の価値は、空き家を空き家のまま維持することではなく、「放置」と「処分」の間に存在する数年間を、管理可能な時間へ変えることにある。

制度の変化も「放置するだけ」を難しくしている

 空き家は個人の財産なので、使わなくても所有者が自由に放置してよいように見える。しかし現在の制度では、適切に管理されない空き家について行政から指導や勧告を受ける可能性があり、一定の条件では住宅用地に認められている固定資産税などの特例から外れることもある。

 もちろん、空き家になっただけで直ちに税負担が増えるわけではないため、「空き家を持っていると固定資産税が上がる」と単純化するのは正しくない。それでも、所有者に対して適正管理を求める制度が強化されている方向そのものは明確であり、「何もしないで放置する」という選択のコストは以前より重くなっている。

 この変化は遠隔住宅管理という商売を自動的に成長させるものではないが、所有者が家の状態を定期的に確認する理由の一つにはなるだろう。

空き家900万戸は、市場900万件ではない

 地域ビジネスを考えるとき、大きな数字は魅力的に見える。空き家900万戸と聞けば、その一%だけでも九万件の市場になると考えたくなるが、現実はそれほど単純ではない。

 近くに住んで自分で管理できる人、親族へ頼める人、費用を払いたくない人、ほとんど資産価値のない住宅を所有している人まで含まれているため、空き家戸数から直接市場規模を計算することはできない。遠隔住宅管理の顧客になりやすいのは、距離が遠く、管理負担が重く、ある程度の資産価値が残り、将来的な売却や活用を考えている所有者など、いくつかの条件が重なった層である。

 だから、この事業の可能性を判断するには、「町に空き家が何軒あるか」だけでは不十分であり、その所有者がどこに住んでいるのか、どれくらいの頻度で管理しているのか、現在いくら維持費を払っているのか、管理を外注する意思があるのか、さらに管理対象住宅がどの程度まとまって存在しているのかまで見なければならない。

 商機とは、困り事の数ではなく、困り事と支払意思と採算性が同じ場所で重なったところに生まれる。

人口が減るからこそ増える仕事もある

 人口が減る町では、商売も減ると考えたくなる。実際、多くの小売店や飲食店にとって人口減少は厳しい。しかし人口減少によって、反対に増える仕事も存在する。人がいなくなれば家が残り、子どもが町を離れれば親の住宅との距離が広がり、かつて家族が無償で担ってきた管理を、誰かが代わりに引き受けなければならなくなるからである。

 ここで興味深いのは、この市場では「そこに住んでいる人の数」と「顧客になり得る人の数」が一致しないことである。一万人の町に管理対象となり得る住宅が二百軒あり、その所有者が全国各地に散らばっているなら、その町は人口一万人の市場であると同時に、町外に暮らす所有者へサービスを販売できる市場でもある。

 もっとも、その二百軒すべてが顧客になるわけではなく、実際に料金を払う人はその一部だろう。それでも、地域内の所得だけを奪い合う商売とは違い、地域外から管理料を受け取り、そのお金を地域の巡回、清掃、修繕、庭木管理、不動産、解体などへ循環させる可能性があるところに、この事業の特徴がある。

 地方に足りないのは、いつも顧客とは限らない。困り事は地域に存在しているのに、お金を払う人が遠く離れた場所にいるため、両者がまだ出会っていないだけなのかもしれない。

 夕方、誰も帰ってこない家の前を通れば、そこには「空き家が一軒ある」としか見えない。しかし商売の目でその家の向こう側を想像すれば、遠く離れた町で「そろそろ一度見に行かなければ」と気にしている誰かがいる可能性がある。その人が欲しいのは、新しい住宅設備でも豪華なサービスでもなく、自分がいない町で、自分の代わりに家を気にしてくれる人である。

 空き家が増える町で生まれる新しい商売は、家を管理する仕事のように見えて、実は住宅と所有者の間に生まれた「距離」を埋める仕事なのかもしれない。そして、その距離に本当にお金を払う人がどれだけいるのかを冷静に見極めることこそ、この商売を単なる思いつきから事業へ変える最初の条件なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 昼下がりの地方の町を歩いていると、不思議な静けさに出会うことがある。かつて人が行き交った商店街にはシャッターが下り、銀行だった建物には別の看板が掛かり、駅前の広場には広さに見合うほどの人影がない。バス停の時刻表をのぞけば、次の便まで長い時間が空いている。古くから続いた店が閉じ、その跡地が駐車場になり、子どもの声が聞こえなくなった住宅地では、庭木だけが昔と変わらぬ勢いで伸び続けている。

 こうした風景を見ると、私たちはつい「衰退」という言葉で町を説明したくなる。人口が減ったから衰えた、若者が出ていったから未来がなくなった、と考えれば話は分かりやすい。しかし、そこで少し見方を変えてみると、この風景には別の意味があることに気づく。この町で起きていることは、本当にこの町だけの問題なのだろうか。あるいは、日本社会がこれから経験する変化の一部が、すでにこの場所で起きているのではないだろうか。

 少なくとも人口減少と高齢化という側面に限れば、高齢化の進んだ過疎地域の一部では、日本社会が今後広く経験する人口構造の変化が先行して現れている。総務省が2026年9月に公表した人口推計によると、日本の65歳以上人口は3,624万人で、総人口に占める割合は29.6%に達している。国立社会保障・人口問題研究所の将来推計でも、今後の総人口の減少と高齢化率の上昇が見込まれており、人口が増え続けることを前提としてきた社会の仕組みは、長期的な見直しを迫られている。

 ただし、過疎地の現在が、そのまま東京や大阪の未来になるわけではない。都市には人口集積による効率性があり、交通網や医療機関、商業施設の配置も異なる。また、過疎地域という区分は法律上の人口減少や財政力などの要件によって定められるもので、高齢化率が高い地域と完全に一致するわけでもない。それでも、人口が減ったときに何が維持できなくなり、どのような不便が生じ、これまで必要とされなかった何が求められるようになるのかを考えるうえで、過疎地は重要な先行事例となる。

 そう考えると、人の少なくなった駅前の見え方まで変わってくる。そこにあるのは、過去の繁栄が失われた痕跡だけではない。人口が増える社会に合わせて作られた商業、交通、医療、住宅管理、地域の助け合いといった仕組みが、人口の減る社会でどのように変化するのかを示す場所でもある。衰退という一つの言葉で片づけてしまえば見落とすものが、そこには残されている。

 商売の世界には、世の中の変わり目こそ商人にとって大きな舞台になる、という考え方がある。景気が変わり、技術が変わり、人の暮らし方が変われば、それまで成り立っていた需要と供給の均衡が崩れ、その隙間に新しい商いが生まれる。ただし、変化そのものが利益を生むわけではない。社会の変わり目とは、新しい商売が生まれる時期であると同時に、古い商売が消えていく時期でもある。重要なのは、変化によって生じた新しい不便や、まだ十分に満たされていない需要を、他人より少し早く発見できるかどうかである。

 過疎地を歩くと、その隙間は決して抽象的なものではなく、日常の細かなところに現れている。自動車を運転できる間は、町外れの大型店まで十五分で買い物に行けた人が、運転免許を返納した途端に、その店をはるか遠い場所に感じるようになる。道路の距離は何も変わっていないのに、その人にとっての生活圏は一日にして縮んでしまう。電球を交換する、庭木を切る、粗大ごみを片づける、役所のオンライン手続きをするといった、以前なら何でもなかったことも、身体機能や家族環境の変化によって少しずつ難しくなる。

 こうした不便は、単なる印象ではない。農林水産政策研究所が2024年に公表した推計では、2020年時点で、食料品を扱う店舗まで直線距離で五百メートル以上あり、自動車を利用できない65歳以上の人は全国で約904万人に上り、65歳以上人口の25.6%を占めていた。そのうち75歳以上は約566万人である。この数字は、食料品の購入に不便を生じやすい人が相当数存在することを示している。ただし、一定の条件に該当する人を推計したものであり、全員が実際に買い物に困っていると回答したわけでも、有料の買い物代行を希望しているわけでもない。生活上の不便を示す人口と、商売の顧客になる人口は、分けて考える必要がある。

 ここで興味深いのは、人口が減れば、あらゆる需要まで同じ割合で減るわけではないということである。地域の人口が減っていても、一人当たりの生活支援サービスの利用回数や支払額がそれ以上の割合で増えれば、特定の市場規模が拡大することは数理的にあり得る。例えば、ある地域の人口が二割減少しても、一人当たりの年間サービス利用回数が三割増え、利用料金が変わらなければ、地域全体の売上規模は計算上四%増加する。これはあくまで仮定に基づく計算であり、実際にそのような需要増加が起きることを保証するものではないが、人口減少と市場拡大が必ずしも矛盾しないことを示している。

 食品を食べる量そのものは増えなくても、食品を自宅まで届けてもらう需要は増えるかもしれない。住宅の数が増えなくても、所有者が遠方に住む空き家を見回り、草を刈り、換気をする需要は増えるかもしれない。高齢者の人口が減少していても、家族による支援が受けにくくなったり、公共交通が縮小したりすれば、外部に依頼したい仕事が増えることも考えられる。つまり、人口減少社会では、商品の消費量だけでなく、商品やサービスを必要な人に届ける方法そのものが新たな価値を持つ場合がある。

 空き家についても、変化はすでに数字に現れている。総務省の2023年住宅・土地統計調査では、全国の空き家は約900万戸、住宅総数に占める割合は13.8%となり、そのうち賃貸用、売却用、二次的住宅などを除いた空き家は約385万戸と推計されている。ただし、空き家が900万戸あるからといって、それだけの有料管理契約が期待できるわけではない。自分で管理する所有者もいれば、費用を払ってまで管理を委託する意思のない所有者もいる。住宅が存在すること、管理の必要性があること、管理費を支払う契約者がいることは、それぞれ異なる問題なのである。

 同じことは高齢者向けのサービスにも当てはまる。高齢化率が高い町ほど、高齢者向けの商売が大きくなるとは限らない。人口一万人で高齢化率が四割の町には高齢者が四千人いるが、人口五千人で高齢化率が五割の町では、高齢者は二千五百人である。後者の方が高齢化率は高くても、対象となる人の絶対数は少ない。さらに、年齢が同じでも健康状態、所得、家族関係、交通手段は人によって異なる。高齢化率という一つの数字だけで、その地域の商売の可能性を判断することはできない。

 それでも人口減少は、すべての市場が同じように縮小することを意味しない。大量の商品を大量の顧客に販売する商売には逆風であっても、人の暮らしの中にある細かな不便を引き受けるサービスには、別の需要が生じる可能性がある。ただし、その市場が拡大するかどうかは、対象となる人数だけでなく、利用頻度、料金、競合するサービス、そして実際に料金を支払える人がどれだけいるかによって決まる。

 もっとも、ここで「需要がある」という言葉には注意が必要である。高齢者が困っているからといって、その困り事がそのまま商売になるわけではない。必要だと思うことと、実際に料金を払って利用することとの間には大きな距離がある。買い物に困っていても、配達料金を負担する余裕がない人はいるだろうし、庭の手入れが難しくても、年間数万円の管理費を払うことをためらう人もいるだろう。逆に、料金を払う余裕があっても、知らない人を自宅に入れることへの抵抗感から利用しない人もいる。生活上の必要性だけでなく、支払能力、利用意思、信頼関係まで考えなければ、実際の市場規模は見えてこない。

 さらに、料金を支払う人が、必ずしもサービスを利用する本人とは限らない。高齢の親が暮らす家の見守りを、都市部に住む子どもが契約する場合もあれば、空き家の草刈りや点検を、遠方に住む所有者が依頼する場合もある。地域交通や買い物支援では、利用者からの料金だけでは採算が合わず、自治体による委託や補助、ほかの事業との連携が必要になることもある。誰が困っているのかという問いに加えて、誰がその問題を解決する費用を負担するのかという問いが、商売の成立を左右するのである。

 人口密度の低さも、地域ビジネスにとって大きな制約となる。一軒の家を訪ねたあと、次の利用者まで十キロ走らなければならない地域では、千円の作業を一件提供するために、移動時間と燃料費が売上を上回ることもある。都会なら一つのマンションで十件の仕事をこなせるところを、地方では同じ十件を回るために何十キロも走らなければならない。人口密度の低さは、顧客が少ないという問題であると同時に、顧客一人にサービスを届けるための費用が高くなりやすいという問題でもある。

 例えば、一回三千円の生活支援サービスを提供し、人件費や移動費などの変動費が一回千八百円、月間固定費が十二万円かかる事業を考えてみる。一回当たりの限界利益は千二百円なので、固定費を回収するには月間百件の利用が必要になる。これはあくまで採算構造を示すための試算だが、利用希望者が百人いるだけでは十分ではなく、それぞれが実際にどのくらい利用するかが重要になる。また、事業者自身の労働報酬、社会保険料、車両の更新費用、キャンセルによる損失などを計上しなければ、帳簿上は利益が出ていても、事業として継続できない場合がある。

 だから、高齢者が多いから高齢者向け事業なら成功する、空き家が多いから空き家ビジネスなら儲かる、買い物が不便だから移動販売を始めればよい、と単純に考えるのは危険である。ある地域に多くの困り事が存在することは、商機を探す出発点にはなるが、収益が得られることの証明にはならない。顧客の人数、利用頻度、料金、原価、競合状況を確認し、それでも利益が残る仕組みを作れなければ、事業は長く続かない。さらに、採算が取れないからといって、その困り事が社会的に重要でないということにもならない。民間事業だけで対応するのが難しい問題には、行政支援や地域の共同的な仕組みが必要になる。

 それでも、新しい商いの可能性が消えるわけではない。むしろ重要なのは、困り事を一つずつ単独の商売にするのではなく、複数の需要を組み合わせることである。買い物代行の訪問時に、本人が希望する別の生活支援も引き受ける。空き家の見回りと同時に、庭木や雨どいの状態を確認する。定期的な配達が、高齢者の異変に気づく機会にもなるようにする。一回の移動で複数の価値を生み出せれば、人口密度の低さという弱点を、ある程度補うことができる。

 経営学では、異なる商品やサービスを組み合わせて提供することで、別々に提供するよりも総費用を抑えられる場合を、範囲の経済性という。移動時間や車両費を共通化したり、既存の顧客との信頼関係を複数のサービスに活用したりできれば、事業効率が改善する可能性がある。もっとも、何でも組み合わせれば有利になるわけではない。新しいサービスを加えるために専門人材や設備が必要になり、かえって費用が増える場合もある。複数の仕事を組み合わせることが合理的なのは、それによる売上増加や費用削減の効果が、追加の負担を上回る場合に限られる。

 ここでは、制度面の確認も欠かせない。買い物への有償送迎には道路運送法上の制限があり、家庭から出る廃棄物の収集運搬には廃棄物処理法上の許可が問題になる。行政手続きの代行には行政書士法などによる業務制限があり、医薬品の受け取り支援についても、本人の同意や薬局との適切な連携が必要になる場合がある。また、高齢者の見守りでは、個人情報の保護や緊急時の対応も重要になる。生活支援という一つの言葉でまとめられる仕事でも、法制度上の扱いは異なるため、事業化に当たっては個別に確認しなければならない。

 もう一つ見落とせないのは、サービスを提供する働き手そのものが不足することである。人口減少によって利用者が少なくなる地域では、働き手も同時に少なくなる。高齢者向けサービスの必要性が高まっていても、訪問できる人がいなければ、仕事を引き受けることはできない。人件費が上昇すれば、利用料金を上げざるを得なくなり、その結果として利用者が減ることもある。需要が存在しても供給できないという状況では、新しい店を作ることより、既存の人員や設備を効率よく使う仕組みの方が重要になる場合がある。

 そう考えると、過疎地では商売の考え方そのものを都市型から変える必要があるのかもしれない。多くの客に同じ商品を販売するのではなく、少ない顧客に複数のサービスを適切に組み合わせる。大きな店舗を構えるのではなく、必要な場所へ出向く。単独では採算が取れない仕事を既存の業務と組み合わせ、配達や訪問の経路を工夫する。場合によっては、地域内の商店、運送事業者、医療機関、福祉事業者、自治体などが、それぞれの役割を分担する。大量消費社会で磨かれた商売の仕組みをそのまま小さくするのではなく、人口減少社会に合わせて組み直すのである。

 そのとき、何より重要になるのが情報である。ただし、ここでいう情報とは、新聞やインターネットの記事を大量に読むことだけではない。むしろ価値があるのは、町の中に落ちている小さな違和感である。なぜこの店だけ客が絶えないのか、なぜこの時間だけ病院の駐車場が混むのか、なぜ空き家は増えているのに中古住宅は売れないのか、なぜタクシー会社の電話がつながりにくいのか、なぜ子どもが減っているのにドラッグストアが増えているのか。そうした何気ない現象の背後に、人口構造や世帯構成、交通手段、所得、家族関係の変化が隠れていることがある。

 もっとも、目についた現象から、すぐに原因を決めつけてはいけない。病院の駐車場が混んでいるのは高齢者が増えたからとは限らず、診療日の変更や近隣医療機関の閉鎖が原因かもしれない。ドラッグストアが増えているのも、高齢化による医薬品需要だけでなく、食品販売の拡大や企業の出店戦略によるものかもしれない。複数の現象が同時に起きていることと、一方が他方の原因になっていることは異なる。商売の仮説を考えるときには、もっともらしい説明を見つけるだけでなく、ほかの説明が成り立たないかを調べる姿勢が必要になる。

 統計は、その違和感が思い込みではないかを確かめるための重要な道具となる。人口が減っている、高齢化率が高い、単身世帯が増えているという数字だけを見ても、新しい商売はなかなか見えてこない。しかし、一人暮らしの高齢者に関する統計と、庭の手入れを頼める人がいないという住民の声と、地元の業者は小さな作業を受けにくいという供給側の事情が一つにつながったとき、市場の空白を考える手掛かりが生まれる。そのうえで、実際に何人が困っていて、どの程度の頻度でサービスを必要とし、いくらなら料金を支払うのかを確認していけば、仮説は少しずつ具体的な事業計画へ近づいていく。

 このとき、統計の読み方にも注意が必要である。自治体全体の高齢化率が高くても、駅前と山間部の集落では生活条件が異なる。人口一万人の町を一つの市場として扱っても、その人口が狭い範囲に集まっているのか、広い地域に分散しているのかによって、移動サービスの採算は大きく変わる。所得の平均値が同じでも、低所得世帯が多い地域と比較的所得の均等な地域では、有料サービスへの反応が違う可能性がある。地域の実態を理解するためには、市町村全体の数字だけでなく、可能な範囲で小地域の人口、世帯構成、交通条件、所得などを組み合わせて考える必要がある。

 商人にとって情報とは、情報そのものではなく、別々の事実を結びつける材料なのだろう。同じ町を歩き、同じ店を見て、同じ統計を読んでも、そこから商売を思いつく人と何も感じない人がいるのは、持っている情報量の差だけではない。観察した事実から因果関係の仮説を組み立て、その仮説が本当に正しいかを確かめようとする姿勢の違いでもある。ただし、仮説を思いつくことと、それが市場で支持されることは別である。商人の直感は出発点として価値を持つが、その正しさを判断するのは、実際の顧客の行動と事業の収支なのである。

 この観点から見ると、これまで家庭や地域の中で無償に近い形で処理されてきた仕事にも、新しい市場の芽がある。買い物への送迎、家の掃除、庭仕事、行政手続きの補助、家電の設定、病院への付き添い、空き家の管理といった仕事の多くは、かつては家族や近所の人が自然に引き受けていた。ところが、世帯規模が小さくなり、子どもが遠方で暮らし、近所に住む人も高齢になれば、それまでの仕組みを維持することが難しくなる。国立社会保障・人口問題研究所の世帯数将来推計でも、高齢者の単独世帯が今後さらに重要な割合を占めることが見込まれており、家族構造の変化は地域で必要とされるサービスの形を変えていく可能性がある。

 ただし、一人暮らしの高齢者が増えることと、有料の生活支援サービスを利用する人が同じ割合で増えることは同義ではない。単身でも自立して暮らせる人はいるし、家族と同居していても支援を必要とする人はいる。また、近所同士の助け合いが強く残る地域では市場化が進みにくいかもしれないし、所得水準が低い地域では有料サービスより行政支援を求める声が強くなるかもしれない。家族や地域の無償労働がすべて市場に置き換わるのではなく、その一部が必要に応じて外部サービスへ移行する可能性があると考える方が、現実に近いだろう。

 この変化には、もう一つ重要な意味がある。それは、地域で発生した困り事が、必ずしも地域住民だけを顧客とするわけではないということである。都市部に暮らす子どもが、離れて暮らす親の生活支援を契約する。町外に住む相続人が、故郷の空き家の管理を依頼する。都市部の事業者が、地域内の巡回や現地確認を地元の事業者に委託する。このような仕組みでは、サービスが提供される場所は過疎地であっても、料金を支払う人は地域の外にいる。人口の少ない町に商売を作ることを考えるとき、顧客を町内だけに限定しない発想も必要になる。

 もっとも、同じような困り事が存在していても、地域によって成立する事業は違ってくる。交通条件、住宅の密度、所得、観光客の数、移住者の割合、既存事業者の有無などが異なれば、同じ料金、同じサービス、同じ営業方法では通用しない。観光客が多い町では住民向けの仕事と観光関連の仕事を組み合わせられるかもしれないが、観光需要が少ない山間部ではその方法は使えない。人口一万人の町で成立した仕組みが、別の人口一万人の町でも成立するとは限らないのである。

 それでも、一つの地域で成立した仕組みを、条件の似た別の地域へ展開する可能性は残されている。大切なのは、成功した事業の外見をそのまま模倣することではなく、なぜ成功したのかを理解することである。顧客が一定の距離に集まっていたからなのか、別居家族が費用を負担していたからなのか、既存事業との組み合わせで移動費を抑えられたからなのか。こうした成立条件を把握すれば、人口密度や所得、交通条件などを調整しながら、別の地域でも再現できるかを検討できる。ここに、地域ビジネスをその町だけの小商いで終わらせない可能性がある。

 ただし、成功事例を調べるときには、うまくいかなかった事業にも目を向けなければならない。行政や報道で紹介されるのは、どうしても成果の上がった取組に偏りやすい。しかし、同じ発想で開業しながら利用者不足で撤退した事業、補助金がなくなると継続できなかった事業、人手不足によって営業範囲を縮小した事業も存在するだろう。成功した事業だけから成功確率を判断すると、実際より有利な結論になりかねない。新しい商いの可能性を冷静に評価するためには、成功と失敗の両方から、事業が成立する条件を探ることが必要になる。

 現在、買い物、交通、医療、住宅管理などの問題は、山間部や半島部の集落だけに限られた現象ではなくなりつつある。大都市そのものが過疎地になるわけではないとしても、都市郊外の住宅団地や高齢化したニュータウンでは、住民の高齢化とともに商店が撤退し、病院や買い物への移動が難しくなるという問題が起こり得る。実際、農林水産政策研究所の食料品アクセス困難人口の推計では、三大都市圏にも相当数の対象者が存在している。人口が集中する都市圏の中でも、生活サービスへのアクセスに問題を抱える人がいることは、重要な事実である。

 東京や大阪にも、人口が密集した地域と、日常生活に必要なサービスが十分に届きにくい地域が同時に存在する状況は、すでに見られる。もっとも、都市郊外の生活上の不便と、山間部の過疎集落の不便は、原因も解決方法も同じではない。人口密度、交通網、住宅の形態などの違いによって、適切な事業モデルは変わる。それでも、現在の過疎地で試されている仕組みの一部が、条件を変えることで都市郊外にも応用できる可能性はある。

 その意味で、過疎地は日本全体の未来をそのまま映す鏡ではない。しかし、人口減少と高齢化によって社会の仕組みがどのように変わるのかを、先に見せている場所の一つだと考えることはできる。だから、過疎地を見るときに「どうすれば昔の人口に戻せるか」という問いだけを立てると、重要なものを見落とすかもしれない。もちろん、移住者を増やし、子育て環境を整え、働く場所を作ることには意味がある。しかし、日本全国のすべての町で若者が急増し、出生数が増え、昔のような商店街が復活することを前提に将来を考えるのは現実的ではない。人が少なくなった社会でも、どうすれば便利に、安心して、できれば豊かに暮らせるのかという、もう一つの問いが必要になる。

 この問いに答えることのできる事業には、これから価値が生まれる可能性がある。ただし、社会的に価値があることと、民間事業として利益が出ることは分けて考えなければならない。利用者が十分な料金を支払えるサービスであれば、民間事業として独立採算を目指すことができるだろう。一方、生活に不可欠であっても採算の難しいサービスについては、自治体の支援や既存事業者との連携などを含めた仕組みが必要になる。すべての困り事を商売に変えることが、人口減少社会への正しい対応というわけではないのである。

 そして商売を考えるうえで大切なのは、十年後の未来を完璧に言い当てることではない。むしろ、来年この町で自動車を運転できなくなる人がどのくらいいるのか、五年後には誰がこの家を管理するのか、地元の商店が一軒なくなったときに誰が困るのか、といった小さな未来を丁寧に考えることである。人口推計や世帯統計は、こうした変化の方向を知るための手掛かりになる。しかし、実際に誰が困り、何を必要とし、どのような方法なら利用するのかは、住民や事業者の声を聞かなければ分からない部分も多い。

 仮説を立てたら、小さく試せばよい。最初から大きな建物を借り、大勢を雇い、設備に何百万円も投じる必要はない。一つの地域で少人数にサービスを提供し、本当に料金を払ってもらえるのか、何度も利用してもらえるのか、移動時間まで含めて採算が合うのかを確かめる。ただし、最初の数人の反応だけで地域全体の需要を判断するのは危険である。知人や好意的な人だけを対象にした試験では、実際より利用率が高くなることもある。小さな実験は市場の成功を証明するものではなく、仮説の問題点を見つけ、次の判断に必要な情報を得るためのものだと考えるべきだろう。

 その際には、利用者の人数や売上だけでなく、継続率、作業時間、移動費、キャンセル、苦情、利用を断った人の理由なども確認する必要がある。思ったほど需要がなければ、小さな段階で撤退することもできる。利用者の反応がよくても、移動費や人件費を計算すると赤字になるなら、料金や提供方法を見直さなければならない。逆に、少人数でも継続利用があり、十分な利益が残ることを確認できれば、慎重に営業範囲を広げることができる。商売において重要なのは、未来を百パーセント当てることではなく、予想が外れたときの損失を小さく抑え、成果が確認できたときに拡大できる仕組みを持つことなのだろう。

 世の中の変わり目とは、古い商売が壊れる時代であると同時に、古い常識が通用しなくなる時代でもある。人口が増えるから店を出す、若者が多いから新しい商品が売れる、人が集まる場所に商売が生まれるという成長社会の常識だけでは、人口減少時代の市場を十分には説明できない。人が減ることで必要になる仕事があり、高齢化や家族構成の変化によって外部に任せる仕事が増え、働き手が不足するからこそ省力化や共同化に価値が生まれる場合もある。ただし、その変化は一様ではなく、新しい需要が生まれる一方で、利用者も担い手も減り、事業の継続が難しくなる地域もあるだろう。

 商人に必要なのは、人口減少を楽観的に捉えることでも、悲観的に捉えることでもない。変化によって何が失われ、何が不足し、誰がどのような不便を感じているのかを具体的に理解することである。そして、その不便を解決する方法が、利用者にとって無理のない料金で提供でき、事業者にとっても継続可能なのかを確かめることである。人口が減っているという事実だけでは、商売が成立するかどうかは決まらない。重要なのは、その地域で実際に起きている生活の変化と、それに対応できていない供給の仕組みなのである。

 その兆候は、未来予測の本の中だけにあるのではない。すでに日本各地の小さな町に、生活の変化として現れている。シャッターの下りた商店街を見て、「何もなくなった」と考えるのか。それとも、「何がなくなり、その結果、誰がどのように困っているのか」と考えるのか。同じ景色を見ても、そこから得られる情報はまったく違ってくる。商人の目とは、おそらく後者なのだろう。

 もちろん、変化そのものを歓迎する必要はない。高齢化も人口減少も、そこで暮らす人々に現実の不便や負担を生じさせている。商店が閉まり、交通手段が失われ、家族の支援が受けられなくなることを、安易に商機と呼ぶことには慎重であるべきだろう。しかし、その不便を減らすことで利用者から納得できる対価を得る商売であれば、人口減少を利用するのではなく、人口減少によって生じた問題を解決することで成り立つ。ここには大きな違いがある。

 世の中が安定しているときには、昨日と同じ商売を今日も続けることができる。しかし、社会そのものが変わるときには、昨日まで必要とされなかったものが、明日には欠かせないものになることがある。その境目を探すために、いつも大都会の新しい店や海外の流行ばかりを見る必要はないのかもしれない。むしろ一度、日本各地の過疎地を歩いてみるとよい。そこにある生活の不便を見つめ、人口や世帯の統計を確かめ、人々の声を聞き、何が変わったのかを考えてみるのである。

 そこには、単なる「日本の終わり」があるわけではない。失われていくものがある一方で、暮らしを支える新しい方法を必要としている人々がいる。かつての賑わいをそのまま取り戻すことはできなくても、人が少なくなった社会にふさわしい別の仕組みを作ることはできるかもしれない。すべての地域に成功の保証があるわけではなく、すべての困り事が利益を生むわけでもない。それでも、人口減少と高齢化という限られた側面ではあるが、少し気の早い「日本のこれから」が、すでに各地の小さな町で静かに始まっている。

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