地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 地方の人口減少対策という言葉から、多くの人がまず思い浮かべるのは「人を呼ぶこと」だろう。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、空き家を改修し、子育て世帯を歓迎する。自治体の広報には、都会から移り住んできた家族が笑顔で写り、「この地域を選びました」と語る。そうした姿は確かに明るいニュースであり、新しい住民を迎えること自体に意味がないわけではない。

 しかし、自治体庁舎の正面玄関から新しい住民を迎えているあいだにも、別の出口から、これまでそこで暮らしてきた住民が静かに出て行っているとしたらどうだろう。大学へ進学したいから地域を離れる若者もいれば、もっと大きな仕事に挑戦したいから都会へ出る人もいる。それは人生の選択であって、自治体が止めるべきものではない。

 問題は、それとは別の転出である。本当はここに住んでいたいのに、車を運転できなくなれば買い物が難しくなり、子どもが高校生になると通学が負担になり、診療所では対応できない病気になれば遠くの病院まで通わなければならない。配偶者を亡くして一人になった途端、それまで何とか成り立っていた日常生活が急に難しくなることもある。また、若い世代であっても、希望する仕事がない、十分な所得を得られない、子育てと仕事を両立しにくいといった事情から、住み慣れた地域を離れることがある。

 こうした人たちは、必ずしも地域が嫌いになったわけではない。ただ、その地域で暮らし続けるための条件が少しずつ失われたのである。人口減少時代の地域政策を考えるなら、ここには重要な問いが隠れているのではないだろうか。「どうしたら人に来てもらえるか」を考える前に、「なぜ今ここにいる人が、出て行かなければならないのか」を調べる。人口問題を見る方向を、少し反対側へ向けてみるのである。

人口は「来た人」だけで決まるわけではない

 人口の変化そのものは、実はそれほど複雑な話ではない。出生した人が加わり、死亡した人が減り、転入した人が加わり、転出した人が減る。国外との人口移動なども含め、これらの増減を集計した結果として、ある時点の人口が決まる。ところが地域政策の世界では、この四つの基本的な要素のうち、「転入」だけが目立つことがある。

 年間百人が移住した地域は成果を説明しやすい。だが、百人が転入しても百二十人が転出すれば、社会移動による人口増減は二十人の減少である。一方、年間三十人が転入し、百人が転出していた地域で、転出が七十人に減ったとすれば、社会減少は七十人から四十人へと縮小する。転入者が増えたわけではなくても、転出の減少によって人口減少が三十人分緩和されたことになる。

 他の条件が変わらなければ、転入を三十人増やすことと、転出を三十人減らすことは、その年の人口増減に対して同じ三十人分の効果を持つ。算数としては当たり前の話だが、政治や広報の世界になると、この二つは同じようには扱われない。

 その理由の一つは、新しく来た人には「物語」があるからだろう。東京から移住してカフェを始めた夫婦、海の近くで子育てを始めた家族、古民家を改修して事業を始めた若者には、写真があり、言葉があり、「地方創生」という言葉によく似合う印象的な場面がある。

 ところが、七十八歳の住民が今年も転居しなかったことには、ニュースらしい出来事がない。買い物の送迎サービスができたので、免許を返納したあとも同じ家で暮らせた。診療所へ行く方法が確保されたので、自治体外に住む子どもの家へ移らずに済んだ。統計上、その人にはほとんど何も起きていないように見えるが、人口減少社会では、その「何も起きなかった」という事実こそ、政策の成果なのかもしれない。

 もっとも、転入一人と転出回避一人の効果が、将来にわたって同じとは限らない。若い世代の転入には、その後の就業や出生を通じた人口構造への影響があり得る一方、高齢者の居住継続には、本人の生活の安定や地域社会との関係を維持する効果がある。居住期間、年齢、世帯構成によっても影響は異なる。したがって、一人という数の上での等価性と、長期的な人口・経済・福祉への効果は、分けて考える必要がある。

「住みたい地域」と「住み続けられる地域」は同じではない

 人口政策を考えるうえで、もう一つ大切な区別がある。「この地域に住みたいか」と「この地域に住み続けられるか」は、同じ問いではない。人はある地域を気に入っていても、交通、仕事、教育、医療などの条件によって、その地域から離れざるを得ないことがある。

 考えてみれば、これは不思議なことではない。海が好きだと感じている人でも、病院へ通えなくなれば海を離れるかもしれない。近所付き合いが心地よくても、子どもが学校へ通えなければ家族は転居を考える。地域への愛着がどれほど強くても、それだけでスーパーまでの距離が縮まるわけではなく、運転できなくなった高齢者の移動手段が自動的に確保されるわけでもない。

 内閣府の高齢社会白書で取り上げられている高齢者の生活環境や住み替えに関する調査でも、医療・介護へのアクセス、買い物や移動の利便性などは、住環境を考えるうえで重要な条件となっている。海外の農村地域を対象とした研究でも、地域サービスへの評価や地域への満足度が、居住継続の意向と結び付いていることが示されている。ただし、これらは主として生活環境と意向の関係を示すものであり、交通や買い物の支援を実施すれば、実際の自治体外への転出が何人減るかまで証明するものではない。

 また、住み替えと自治体外への転出も区別しなければならない。住み慣れた一戸建てから同じ町内の集合住宅へ移る人もいれば、地域内の高齢者向け住宅へ転居する人もいる。本人にとっては大きな生活上の変化であっても、自治体の人口統計には転出として表れない。このことは、住民の生活条件を人口移動だけで評価することの限界を示している。

 転出には、もっと別の場所で暮らしたいから出て行く移動と、ここで暮らしたいのに生活条件のために出て行く移動という、性質の異なる側面がある。ただし現実には、仕事、家族、住宅、交通、地域への愛着などが複雑に重なっており、一人の転出を単純にどちらかへ分類できるとは限らない。それでも、本人の積極的な希望による移動と、選択肢が狭められた結果としての移動を区別しようとすることには意味がある。

 自治体が人口政策として減らすべきなのは、人が地域を出る自由ではない。減らすべきなのは、「出たくないのに出なければならない理由」なのである。

若者と高齢者では、出て行かざるを得ない理由も違う

 住民の転出を考えるとき、高齢者の買い物や通院の問題だけを見ていては不十分である。若年層や現役世代の転出には、進学先、就職先、賃金水準、働き方、子育て環境など、別の条件が大きく関わっている。

 例えば、地域への愛着が強い若者でも、希望する専門分野を学べる学校がなければ進学のために地域を離れることになる。それ自体は問題ではないが、卒業後に地元へ戻りたくても、専門性を生かせる仕事や十分な所得を得られる職場がなければ、戻るという選択肢は現実的でなくなる。子育て世代にとっても、住宅価格や保育施設だけでなく、働き方、教育機会、通学時間、家族の将来などが居住地の判断に影響する。

 さらに、地域を離れる理由は、施設や仕事の不足だけとも限らない。内閣府による若者や女性の地方からの転出に関する調査では、進学・就職機会だけでなく、地域社会の人間関係や価値観、周囲からの干渉などが、地元を離れたいと考える理由になる場合も示されている。地域の人間関係は暮らしを支える資源にもなるが、人によっては負担や制約にもなるのである。

 これは、人口政策が道路、病院、商店、住宅といった物理的な条件だけでは完結しないことを意味している。本人の意思を尊重する地域社会であるか、性別や年齢によって進路や役割を決めつけられないか、働く場所や生き方を自由に選べるかといった条件も、住み続けられる地域を考えるうえで無視できない。

 したがって、「なぜ住民が出て行くのか」という問いには、年代別、性別、世帯構成別に異なる答えがあるはずである。高齢者にとって必要な政策が公共交通や生活支援であっても、若者には雇用や教育機会の充実が重要かもしれない。地域を離れる理由が違う以上、すべての世代に同じ人口政策を適用しても、十分な成果が得られるとは限らない。

人を呼ぶ政策は長所を探し、人が残れる政策は弱点を探す

 移住政策をつくるとき、自治体は地域の良いところを探す。海があります、山があります、魚がおいしい、土地が安い、都会まで二時間です、子育て環境が充実しています、といった具合に、「この地域を選ぶ理由」を一つずつ見つけていく。

 ところが、住民が出て行かなくてもよい地域をつくろうとすると、行政が見る景色はほとんど反対になる。なぜ七十五歳になると暮らしにくくなるのか。なぜ子どもが高校生になると通学や教育費の負担が大きくなるのか。なぜ配偶者を亡くした高齢者は自治体外の子どもの近くへ移るのか。なぜ働き続けたい人が希望する職場を見つけられないのか。こちらは地域の長所を集めるのではなく、生活の中に存在する障害を一つずつ見つけていく作業になる。

 この作業は、移住パンフレットほど華やかではない。しかし、人口減少地域に必要なのは、こうした問題を具体的に把握することではないだろうか。一日に数本しかない路線バスを昔と同じ形で維持することが難しいなら、予約制の乗り合い交通や既存の交通資源の活用を考える。スーパーそのものを残せないなら、配送や移動販売によって買い物の機能を確保する。すべての診療科を自治体内に置けないなら、地域の診療所、広域病院への交通、訪問診療、適切なオンライン診療などを組み合わせる。

 もちろん、こうした方法が必ず従来のサービスを代替できるわけではない。オンライン診療では対応できない病気や検査もあり、予約制交通が通勤や通学などの定時性を必要とする移動に適さない場合もある。配送サービスを設けても、本人が買い物に出かけることで得ていた交流の機会まで代替できるとは限らない。必要なのは、サービスの名称や形式を変えることではなく、その機能が住民の生活を実際に支えられるかを確認することである。

 大切なのは、過去に存在した施設やサービスをそっくりそのまま残すことではない。住民の生活が途中で行き止まりにならないように、必要な機能を持続可能な形で確保することである。

人口減少時代には「便利な地域」より「詰まない地域」が重要になる

 大都市と地方を、店の数や鉄道の本数、病院の数で競わせれば、地方が勝つことは難しい。人口が少ない地域に百貨店を何軒も置くことはできず、鉄道を十分間隔で走らせることも現実的ではない。すべての自治体に高度な医療機能を備えた総合病院を設置することも、医療従事者の確保や経営の持続可能性を考えれば難しい。

 しかし、便利さが少ないことと、暮らせないことは同じではない。スーパーが一軒しかなくても、その店へ行く方法があり、店が閉まった場合にも別の買い物手段があれば、日常生活を維持できる可能性がある。病院が自治体外にあっても、必要なときに無理なく到達できればよい。高校が自治体内になくても、安定した通学手段が確保されていれば、通学を理由に家族全員が転居しなければならない状況を避けられるかもしれない。

 反対に、車を運転できなくなった瞬間に、買い物、通院、銀行、行政窓口への移動が一斉に難しくなる地域は脆い。一つの条件が崩れただけで、生活全体が成立しなくなるからである。これは地域を一つのシステムとして見ると、より分かりやすい。

 安定したシステムには、何かが失われたときの代わりの経路がある。路線バスが縮小しても利用可能な乗り合い交通があり、自分で店へ行けなくても配送や訪問支援があり、地域の診療所だけで対応できない場合には、広域医療につながる仕組みがある。こうした複数の経路があれば、一つのサービスが失われても生活全体が直ちに行き詰まる危険を小さくできる。

 もっとも、複数のサービスを用意することには費用がかかる。利用者が少ない地域では、代替手段を増やした結果、行政負担が過大になる可能性もある。また、地形、道路状況、災害リスク、人口密度によって、利用できるサービスの組合せも異なる。したがって、すべての地域に同じ仕組みを導入するのではなく、必要性、利用実態、維持費用、緊急時の対応能力を比較しながら、地域に合った方法を選ぶ必要がある。

 国が進める地域包括ケアシステムや地域生活圏の考え方も、医療、介護、住まい、生活支援、交通などの機能を、必ずしも一つの自治体内だけで完結させず、関係機関や自治体の連携によって確保しようとする方向性を持っている。ただし、広域連携を制度として設けることと、実際に人口減少が緩和されたり、財政負担が軽減されたりすることは別である。定住自立圏を対象とした実証研究でも、人口維持や一人当たり歳出の削減について、期待された効果が確認されなかった事例が報告されている。制度をつくったことを成果とするのではなく、住民の生活にどのような改善が生じたかを評価しなければならない。

 人口減少時代の地域に求められるのは、何もかもそろった豪華な地域ではない。一つを失っても、別の道がまだ残っている地域である。言い換えるなら、「便利な地域」を競う前に、「詰まない地域」をつくる。この発想は、これからの地域政策を考えるうえで重要になってくるのではないだろうか。

では、一人を呼ぶより一人を残す方が安いのか

 ここまで読むと、「それなら移住者を呼ぶより、転出を防ぐ方が効率的なのだ」と結論づけたくなる。しかし、この点については慎重に考える必要がある。

 人口の算術だけを見れば、転入を一人増やすことと、転出を一人減らすことは、その年の人口に対して同じ一人分の効果を持つ。しかし、そのために必要な費用まで同じとは限らない。ある地域では、既存の車両や人員を活用した買い物支援、交通支援などによって、比較的小さな追加費用で複数世帯の居住継続を支えられるかもしれない。その場合には、移住希望者を募集し、広報費や住宅補助を投じるより効率的である可能性がある。

 一方、山間部などで少数の住民のために長い道路、水道、公共交通などを維持し続ければ、一人当たりの社会的費用が大きくなる場合もある。老朽化したインフラの更新費用や、医療・介護サービスを提供する人材の確保まで考えれば、現在の居住形態をそのまま維持することが、長期的に合理的とは限らない。そのような地域では、本人の意思と生活の質を尊重しながら、中心部への住み替え支援や近隣自治体とのサービスの共同利用を検討することにも意味がある。

 したがって、「転出を防ぐ方が必ず安い」という一般法則を置くことはできない。必要なのは、一人の移住者を追加的に増やすためにいくら使っているのか、一人の住民が望まない転出を回避できるようにするにはいくら必要なのかを、同じ期間と条件で比較することである。

 ここで重要なのは、政策費用を単純に利用者数で割らないことである。仮に年間六百万円の交通支援事業によって百人がサービスを利用したとしても、その百人全員が、事業がなければ転出していたわけではない。実際に政策がなかった場合と比較して、何人の転出を回避できたと考えられるかを推定しなければ、転出抑制の費用対効果は計算できない。

 また、政策の価値は、転出を回避した人数だけで決まるものでもない。交通支援によって通院が継続できた、外出の機会が増えた、家族の送迎負担が減った、孤立が緩和されたという成果には、それぞれ独立した価値がある。人口維持にはほとんど影響しなかったとしても、住民の生活の質を大きく改善した政策なら、福祉政策として十分な意味を持つ場合がある。

 自治体の財政負担と、住民や地域社会が受ける便益も区別しなければならない。住民一人が残ることによる地方税収、地方交付税などの財政上の影響、医療・介護・交通などの支出、地域内消費への波及は、年齢や世帯構成、制度によって異なる。さらに、自治体の収支には直接表れなくても、本人が望む生活を続けられること自体が大きな便益になる。社会的に合理的な政策と、自治体の短期的な財政負担が小さい政策が、必ず一致するわけではない。

 考えてみれば、人口減少対策の評価は、単に何人増えたか、何人残ったかだけでは不十分なのである。限られた財源によって、誰のどのような生活上の問題を、どの程度改善できたのかまで問う必要がある。

生活条件を改善すれば、転出は本当に減るのか

 ここで、科学的な検証としてもう一つ考えておきたいことがある。交通が不便な地域から住民が転出しているとしても、それだけで、交通を便利にすれば転出が減ると結論づけることはできない。

 例えば、公共交通が不便な地域では、雇用機会が少なく、商業施設が減り、人口の高齢化も進んでいるかもしれない。こうした地域で転出が多かったとしても、その原因が交通だけにあるとは限らない。仕事が減ったために住民が転出し、その結果として公共交通の利用者が減った可能性もある。あるいは、人口減少と交通の縮小が互いに影響し合っている場合もある。

 科学的に政策の効果を検証するなら、事業を実施した地域と、条件の近い地域を比較することや、事業実施前後の変化を継続的に観察することが必要になる。ただし、自治体ごとに人口構造、地理、雇用、医療環境などが異なるため、単純な比較では政策の効果を正確に分離できない。年齢構成や世帯構成などの違いを考慮し、政策がなかった場合に何が起きたかを可能な範囲で推定する必要がある。

 その結果、交通支援によって生活の利便性が改善しても、転出率には統計的に明確な変化が見られないこともあるだろう。しかし、それだけで政策が失敗したとは言い切れない。買い物や通院を続けられるようになったこと、外出の機会が増えたこと、家族の介護負担が軽くなったことなどは、人口移動とは別の成果だからである。

 逆に、転出が減ったとしても、それが政策の効果とは限らない。景気の悪化によって転居費用を負担できなくなった人が増えた場合や、住宅事情によって転居を断念する人が増えた場合にも、転出数は減少し得る。人口移動という結果だけを見ていては、住民の選択肢が広がったのか、狭まったのかを判断できないのである。

 したがって、この記事で提案する転出抑制政策は、その有効性が既に確立した万能の人口政策ではない。生活条件の改善によって望まない転出を減らせる可能性があるという、検証すべき政策仮説として位置付けるのが適切である。

「住み続けること」そのものを善にしてはいけない

 もう一つ注意しなければならないことがある。住民が地域に残ることを政策目標にすると、いつの間にか「転出しないことが望ましい」という価値観に変わりかねない。

 しかし、住み続けることそのものが幸福とは限らない。高齢者の居住をめぐる研究には、「住み慣れた地域で老いること」を重視する考え方がある一方、「移動したくても移動できず、その場所にとどまること」を問題とする考え方もある。同じ「地域に残った」という結果でも、自分の意思で残ったのか、それとも経済的事情や住宅事情、移動手段の不足によって動けなかったのかでは、意味がまったく違う。

 この地域が好きだから残った人と、引っ越す資金もなく、他に行く場所もなく残った人を、同じ政策上の成功として数えてはいけない。地域の人間関係に負担を感じながら、転居する機会がないために住み続けている人もいるかもしれない。人口統計だけを見れば、その人たちは地域に定着しているように見えるが、居住地の選択という意味では、むしろ自由が制約されている可能性がある。

 また、災害の危険性が高い場所や、医療・介護サービスへのアクセスを確保することが極めて難しい場所では、住み続けることだけを優先するのが適切とは限らない。安全性、本人の健康状態、生活費、家族関係などを考慮し、住み替えという選択肢を用意することも、住民を支える政策の一部である。

 目標は「住民を引き留めること」ではなく、住みたい人が住み続けられ、出たい人は自由に出られることにある。地域に人を縛り付けるのではなく、そこに居住することを一つの現実的な選択肢として残しておく。この違いは言葉の上では小さく見えるが、地域政策の目的を考えるうえでは決定的に重要である。

人口減少そのものを止められなくてもよい

 地方の人口問題を考えると、どうしても「人口を増やすか、少なくとも維持する」という結論へ向かいやすい。しかし、多くの自治体では、今後数十年間に人口そのものが減ることを完全に避けるのは容易ではない。

 理由は転出だけではない。高齢化した地域では、仮に転入と転出が同数になったとしても、出生数より死亡数が多ければ人口は自然に減っていく。出生年齢にある人口が少なく、高齢人口の割合が大きい地域では、人口構造そのものが将来の自然減に大きく影響する。国立社会保障・人口問題研究所の地域別将来推計人口も、こうした人口構造の変化を考えるための重要な基礎資料となっている。

 そうであるなら、人口が減ったという一点だけをもって地域政策を失敗と評価することが、本当に適切なのかを考え直す必要がある。

 例えば人口八千人だった自治体が七千人になったとする。それだけを見れば明らかな縮小である。しかし同じ期間に、高齢者が車を運転できなくなっても買い物や通院を続けられるようになり、子育て世帯が通学や教育の問題で家族ごと転居する必要が少なくなり、一人暮らしになった高齢者も必要な支援を受けて生活できるようになったとしたら、その地域は単純に「悪くなった」と言えるのだろうか。

 もちろん、人口が減っても生活条件が改善すれば、財政や地域経済の問題が消えるわけではない。住民が減れば、利用者数を前提に成り立っていた公共交通や商業施設の経営が難しくなる場合もあり、公共施設や上下水道などの固定費を少ない人口で負担することになる。働く世代の減少は、地域の産業や医療・介護人材の確保にも影響する。そのため、人口減少を無視してよいという話では決してない。

 それでも、人口が減ることと、住民の生活が必ず悪化することは同義ではない。行政が人口の維持に成功しなかったとしても、交通、医療、教育、住宅、地域の安全性などを改善し、住民の生活を支えられたなら、そこには別の政策成果が存在する。

 人口が減っていても、「ここで暮らし続けることができる人」の割合や、暮らしの選択肢は増えているかもしれない。ここには、人口という一つの数字だけでは捉えきれない地域の価値がある。

一軒の閉店から始まる連鎖

 人口減少地域で懸念されるのは、人が毎年少しずつ減ることだけではない。ある段階から、暮らしの条件そのものが連鎖的に失われる可能性があることだ。

 例えば地域から一軒の店がなくなったとする。車を使える人は少し遠くの大型店へ行くようになり、その結果、残った地元商店の客まで減るかもしれない。別の店も経営が難しくなり、そこまで閉店すると、車を持たない高齢者の生活はさらに不便になる。そのため自治体外の子どもの近くへ転居する人が増えれば、地域の人口が減り、サービスの利用者も減り、さらに別のサービスの維持が難しくなる可能性がある。

 ただし、現実の地域では、これほど一直線に物事が進むわけではない。一軒の商店が閉店した結果、残った商店へ客が集中することもあれば、新たな移動販売や配送サービスが参入することもある。人口減少が店舗閉鎖を引き起こす場合もあれば、雇用の減少が人口流出と店舗閉鎖の双方を生む場合もあり、原因と結果は複雑に絡み合っている。

 それでも重要なのは、地域のサービスが互いに独立して存在しているわけではないという点である。人口がある程度存在することで維持されていた商店や交通サービスは、利用者数が一定の水準を下回ると、採算が急に悪化する場合がある。人口そのものは毎年少しずつ減っているのに、商店の閉鎖や路線の廃止は、ある時点で突然起きることがある。

 こうした変化は、人口減少の速度と生活環境の悪化する速度が必ずしも一致しないことを意味している。ただし、どの程度の人口減少でサービス撤退が起きるのか、その影響が転出をどれだけ増やすのかは、地域ごとの利用実態や経営条件を調べなければ分からない。

 自治体が見るべきなのは、人口の増減だけではなく、地域の生活機能が維持できなくなる兆候である。商店の利用者数、公共交通の乗客数、医療機関への移動時間、介護人材の充足状況などを継続的に把握すれば、生活の条件が急速に悪化する前に対策を検討できるかもしれない。

 人口減少そのものをすぐに止められなくても、生活機能の喪失が連鎖する危険を減らすことは、行政が取り組める重要な課題なのである。

「何人いる地域か」ではなく「何歳まで暮らせる地域か」

 そこで、人口とは別の数字を考えてみたくなる。その地域では、人は何歳まで普通に暮らせるのか。車を運転できなくなっても生活できるのか、配偶者を失って一人になっても暮らせるのか、慢性疾患を抱えても通院できるのか、子どもが高校生になっても家族で住み続けられるのか。

 もちろん、誰もが同じ年齢で生活上の困難に直面するわけではない。七十歳でも自立して移動できる人がいれば、もっと若い時期から交通や医療の支援が必要な人もいる。重要なのは年齢そのものではなく、健康状態や家族構成、移動能力などが変化したとき、その地域で希望する生活を続けられるかどうかである。

 仮に、ある地域で七十歳になると生活が難しくなる人が多かったとして、その生活条件を改善し、八十歳になっても無理なく暮らせる人を増やせたなら、それは大きな政策成果だろう。百人の住民がそれぞれ五年間長く、自分の望む地域で生活できるようになったとすれば、合計五百年分の居住継続が実現したと表現することもできる。

 もっとも、この五百年という数字は、あくまで考え方を示すための単純な計算である。実際に政策効果を測るなら、事業がなかった場合の居住継続期間との差を推定しなければならない。また、本人の希望による転居や死亡によって観察が終了した場合をどのように扱うかによっても、評価は変わる。

 さらに、「実際に住み続けた期間」と「希望すれば住み続けられた期間」は同じではない。地域に住み続ける条件が整っていても、本人が新しい生活を望んで転居することはある。それを政策上の失敗とするのは適切ではない。居住可能性を評価するのであれば、実際に何年間住んだかだけでなく、その地域で暮らすという選択肢がどの程度確保されていたかも考える必要がある。

 こうした「居住可能な時間」は、現在のところ公的に確立された統計指標ではない。しかし、人口そのものとは別に、住民が希望する地域で無理なく生活を続けられる期間を測るという発想には、研究上の価値がある。

 地域の成功を、人間の頭数だけで測る必要はない。人口そのものを簡単には増やせない時代だからこそ、一人ひとりがどれだけ長く、自分の望む暮らしを続けられるかという別の尺度が必要になるのではないだろうか。

「何人が出て行かずに済んだか」をどう測るのか

 ここで現実的な問題がある。「何人が出て行かずに済んだのか」という数字は、通常の人口統計から直接読み取ることができない。

 総務省の住民基本台帳人口移動報告では、市区町村別の転入・転出の状況を把握できる。しかし、そこに記録されるのは実際に移動した人の数であって、「本当は住み続けたかったのに出て行った人」や、「支援があったため転出せずに済んだ人」の数ではない。

 例えば転出した住民に理由を尋ねたところ、「買い物が不便だった」「病院が遠かった」という回答があったとする。それは重要な情報だが、買い物や通院の条件が改善されていれば、本当にその人が転出しなかったかどうかまでは分からない。仕事や家族の事情など、別の理由も同時に存在しているかもしれないからである。

 逆に、地域に残った人へ「これからも住み続けたいか」と質問しても、それだけでは将来の転出を予測できない。住み続けたいと思っていても健康状態や家族関係の変化によって転居する人がいる一方、転居したいと思っていても経済的事情などから移動できない人もいる。

 したがって、自治体が本当に調べるべきなのは、単なる転入数と転出数だけではない。年代別、世帯構成別の転出率に加え、転出理由、居住継続の希望、買い物や医療への到達可能性、公共交通の利用実態などを、継続的に把握する必要がある。特に高齢者については、免許返納の前後で生活の状況がどう変わったか、独居になった後も必要な支援を受けられているかなどを調べれば、生活条件の問題が見えやすくなるだろう。

 また、政策を実施した自治体で転出が減ったとしても、それだけで政策の成果と断定することはできない。年齢構成、雇用情勢、住宅市場などの違いを考慮し、類似する地域の動向と比較することが望ましい。統計的には、事業実施前後の変化を比較する方法などが考えられるが、比較対象となる地域が適切であることや、政策以外の影響を十分に考慮できることが前提になる。

 そのうえで、人口減少対策の評価を、転入者数、転出者数、人口増減という従来の指標と、居住希望の実現、生活サービスへのアクセス、住民満足度、居住継続の選択肢といった指標の組合せで行うのである。

 ただし、調査項目を増やすだけでは行政の成果にはならない。住民への過度な調査負担や個人情報の問題にも注意しながら、既存の行政統計や調査結果を有効に活用することが望ましい。目的は立派な指標をつくることではなく、住民がどのような条件で生活に困り、その問題をどこまで改善できたかを知ることである。

住民が出て行かなくてもよい地域は、移住者にも選ばれるのか

 興味深いのは、こうした政策が移住促進と必ずしも対立しないことである。住民が長く暮らせる地域をつくることは、結果として移住希望者にとっても魅力になる可能性がある。

 移住希望者が知りたいのは、美しい海や安い土地だけではない。子どもが大きくなったらどうなるのか、親が高齢になったらどうなるのか、自分自身が年齢を重ね、車を運転できなくなったときに暮らせるのかといった、その土地で過ごす将来の生活条件も重要になり得る。

 移住とは、現在の風景だけを選ぶ行為ではない。その土地で過ごす十年後、二十年後の生活まで含めて選ぶことである。自治体の観光パンフレットに美しい夕日が載っていても、そこで生活するには車が不可欠で、高齢になると買い物も通院も難しくなるのであれば、移住希望者によっては慎重に判断する理由になるだろう。

 反対に、人口そのものは減っていても、既存住民が生活上の困難に直面したときに支援を受けられ、必要なサービスへ到達できる地域には、長期的な居住地としての安心感がある。その条件を移住希望者が重視するなら、住民の居住継続を支える政策は、移住先としての評価にもつながる可能性がある。

 もっとも、移住希望者の優先順位は一様ではない。仕事、所得、住宅価格、自然環境、教育環境、都市部へのアクセスなど、何を重視するかは年齢や世帯構成、移住の目的によって異なる。既存住民の生活条件を改善したからといって、それだけで移住者が増えるとは限らない。この点については、移住希望者の意向や実際の転入状況を調べ、効果を検証する必要がある。

 それでも、住み続ける人の生活を支えることは、決して内向きの政策ではない。移住者を呼ぶための魅力づくりと、既存住民が暮らし続けるための条件整備は、共通する部分が多い。人口減少時代の移住政策は、地域の長所を広報することに加え、長く安心して暮らせる条件を整えることにも目を向けるべきではないだろうか。

人を増やすことから、人の選択肢を守ることへ

 地方創生という言葉には、どこか成長の響きがある。人口を増やし、観光客を増やし、企業を増やし、税収を増やすことが成功として語られやすい。

 しかし人口そのものが減っていく時代に、増加だけを成功の基準にしてしまえば、多くの地域はどれほど暮らしやすくなっても、人口統計の上では「失敗した地域」になってしまう。

 もちろん、人口減少を放置してよいわけではない。働く世代が減れば地域経済や社会保障を支える人材の確保が難しくなり、公共サービスの維持にも影響する。移住促進や雇用創出、子育て支援が重要であることも変わらない。人口構造と財政の将来を見通し、必要な産業や生活機能をどう維持するかを考えることは、自治体にとって避けて通れない課題である。

 しかし、それらの政策と並行して、もう一つの尺度を持ってみてもよいのではないだろうか。この地域では、どれだけの人が自分の意思に反して出て行かずに済んだのか。車に乗れなくなっても暮らせるのか、病気になっても暮らせるのか、一人になっても暮らせるのか、子どもが成長しても家族で生活を続けられるのか、希望する働き方や生き方を選べるのかを見るのである。

 こうした条件を整えることが、必ずしも人口の増加につながるとは限らない。支援に費用をかけても、転出数が大きく変わらない地域もあるだろう。人口密度や地理的条件によっては、現在のサービスを維持することが難しく、住み替えや広域連携を含めた選択が必要になる場合もある。

 それでも、住民の生活上の制約を減らすことには、人口の増減とは独立した価値がある。公共交通や医療へのアクセスを確保することで、住民が望む生活を続けられるようになるなら、その政策は、人口統計に大きな変化が表れなくても意味を持つ。

 そして、地域に残ることを強制してはいけないのと同様に、行政の効率性だけを理由として転居を当然視することも避けなければならない。本人にとって何が重要なのか、どのような生活を望んでいるのかを確かめながら、地域全体の持続可能性との両立を探る必要がある。

 目指すべきなのは、人を囲い込む地域ではなく、出て行く自由を持ちながら、それでも出て行かなくてよい地域である。

 この視点に立てば、人口減少という現象そのものを消すことができなくても、人口減少によって住民の人生の選択肢まで狭くなることは、ある程度防げるかもしれない。

 地域の価値とは、何人を新しく集めたかだけで決まるものではない。そこに暮らしたいと思った人が、その願いを交通や買い物、医療や教育、仕事や生活環境といった事情だけで諦めずに済むことにも、確かな価値がある。

 これからの地方が競うべき数字は、人口だけではないのだろう。「この地域には何人いるのか」という問いに加えて、「この地域では、どれだけの人が、自分の望む暮らしを選び続けられるのか」と尋ねてみる。

 人口が減る時代だからこそ、その問いは、そこに暮らしている住民にとって、人口増加という目標以上に切実な意味を持つことがある。

 人口を増やすことは、地域を維持するための重要な手段である。しかし、地域を維持することの最終的な目的は、人口という数字を守ることではなく、そこに暮らす人々の生活と選択肢を守ることにあるのではないだろうか。

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人口2万人の海辺の市がある

 人口2万人の海辺の市を想像してみたい。冬の平日に市内を歩けば、駅前には一定の人通りがあり、スーパーも病院も学校も普段どおりに動いている。しかし、かつてに比べれば商店街の空き店舗が増え、郊外では空き家も目立つようになった。毎年公表される人口統計には前年より数百人少ない数字が並び、人口の推移を示すグラフは緩やかに右下へ伸びている。この市もまた、日本の多くの地方都市と同じように、人口減少という構造的な問題を抱えている。

 ところが、八月の日曜日になると同じ市の様子が大きく変わる。海岸へ向かう幹線道路には車が連なり、スーパーの駐車場は埋まり、飲食店には行列ができる。普段は静かな別荘地にも明かりがともり、宿泊施設には県外ナンバーの車が並ぶ。海岸周辺では公衆トイレやごみ集積所の利用が増え、市内の至るところで普段とは異なる人の動きが生まれる。時間帯によっては、人口2万人の市とは思えないほどのにぎわいを見せることもあるだろう。

 それでも、市の公式な人口は2万人のままである。住民基本台帳や国勢調査で把握される人口が、観光客の増加によって毎日変わるわけではない。しかし、行政上の人口が2万人であることと、その日に市内に存在している人数が2万人であることは、必ずしも同じではない。人口統計に表れる数字と、道路や商店、公共施設が実際に受け止めている人の規模との間には、無視できない違いがある。

 そこで考えてみたいのが、「実効人口」という指標である。ここでいう実効人口とは、定住者だけでなく、観光客、別荘居住者、二地域居住者、通勤者などが地域内で過ごす時間を基に、その地域が実際に受け止めている人間活動の規模を表そうとするものである。

 ただし、最初に確認しておかなければならないことがある。本稿で用いる実効人口は、国勢調査人口や昼間人口のように、国が統一的な定義で公表している人口統計ではない。滞留人口や交流人口など、既に存在する関連指標を踏まえながら、観光地や別荘地の地域運営を分析するために、本稿独自の作業上の定義として提案するものである。また、以下に示す人口や観光客数は、考え方を説明するための仮定であり、特定の自治体を実測した結果ではない。

 重要なのは、既存の人口統計に代わる新しい数字を無理に作ることではない。人口とは何を数えているのか、そして行政が地域の実態を把握するためには、どのような数字を組み合わせる必要があるのかという問題を考えることである。

人口統計が市の実態を間違えているわけではない

 人口統計では観光客や別荘居住者が十分に把握されていないため、市の本当の姿が分からないという批判があるかもしれない。しかし、その理解は必ずしも正確ではない。既存の人口統計は、それぞれ明確な目的と定義に従って作成されており、観光客を数えないこと自体が統計上の欠陥なのではない。

 例えば、国勢調査は、住民票のある人を単純に数える調査ではない。原則として、調査時点でその場所に3か月以上住んでいる人、または住むことになっている人を常住者として把握する。一方、住民基本台帳人口は、住民票に記録された人を基礎としている。両者は似ているようで定義が異なり、二地域居住者などについては、実際の居住状況と住民登録の状態によって扱いが一致しない場合がある。

 これらの人口は、自治体の行政運営に欠かせない。学校教育、福祉、介護、住宅政策、地域の将来人口推計などを考える場合、継続的に生活する住民と、数時間だけ海水浴に訪れる観光客を同じ一人として扱うことはできない。また、選挙制度や地方財政制度には、それぞれ法令上の人口や住所に関する要件があり、単に地域を訪れた人が増えたからといって、その制度上の人口が増加するわけでもない。

 国勢調査には、常住人口とは別に昼間人口という考え方もある。これは、常住人口から市外へ通勤・通学する人を差し引き、市外から通勤・通学してくる人を加えて求める人口である。地域間の日常的な通勤・通学の流れを捉えるうえでは有効だが、観光、買い物、海水浴、イベント参加などによる不規則な移動は、通常の昼間人口には十分に反映されない。したがって、観光地の休日や繁忙期に実際に存在する人数を、そのまま示す数字ではないのである。

 別荘についても同じ問題がある。住宅・土地統計調査などには、別荘を含む二次的住宅という区分があるものの、住宅の戸数が分かることと、その住宅に何人が年間何日滞在しているかが分かることは別である。年間10日しか利用されない別荘と、毎週末に家族が滞在する別荘では、地域の水道、道路、ごみ処理、商業に与える影響が異なる。

 つまり、既存の人口統計が現実を誤って描いているわけではなく、それぞれ異なる目的に従って地域の一面を測定しているのである。問題は、それらの数字だけでは、観光地や別荘地が一年を通じて実際にどれほど利用されているのかを把握しにくいことにある。

人数ではなく、市内で過ごされた時間を数える

 そこで、人口をある時点における人数だけではなく、一定期間に地域内で過ごされた時間の総量として考えてみる。この考え方を理解するために、先ほどの人口2万人の市を使って簡単な試算を行いたい。

 仮に2万人の定住者全員が、年間365日、毎日24時間を市内で過ごしているとする。この場合、市内で発生する年間滞在量は730万人日となる。ここでいう1人日とは、1人が24時間その地域に存在することに相当する時間量であり、例えば1人が6時間滞在すれば0.25人日、4人がそれぞれ6時間滞在すれば合計1人日と換算できる。

 もちろん、定住者が一年中市内にいるという仮定は現実的ではない。市外へ通勤する人もいれば、買い物や通院、旅行などで外出する人もいる。したがって730万人日は実測値ではなく、人口と滞在時間の関係を説明するための基準値である。

 次に、市内に2000戸の別荘や二次的住宅があり、一戸当たり平均2人が年間60日利用すると仮定する。この場合、年間滞在量は2000戸に2人と60日を掛けた24万人日となる。ただし、この60日は利用されない住宅も含めた全体平均であると仮定しており、実際には住宅ごとに利用頻度が異なることに注意が必要である。

 さらに、市内の宿泊施設に年間100万人泊の延べ宿泊実績があるとする。1人泊は1人が1泊したことを意味し、必ずしも24時間市内にいたことを意味しないが、ここでは便宜的に1人泊を1人日相当と近似する。そのうえで、宿泊客とは重複しない日帰り来訪が年間150万人回あり、1回当たり平均6時間市内に滞在すると仮定すれば、日帰り来訪による滞在量は37万5000人日になる。

 これらを合計すると、定住者730万人日、別荘居住者24万人日、宿泊客100万人日、日帰り来訪者37万5000人日となり、年間の総滞在量は891万5000人日となる。これを365日で割ると約2万4425人となり、定住人口2万人に対して約22%多い計算になる。

 この2万4425人は、観光客や別荘居住者を市民として数え直した数字ではない。年間に発生した滞在時間の総量を、24時間365日市内に存在する人数に換算したものであり、「年間平均滞在人口相当量」と呼ぶ方が正確である。定住人口が地域に生活の本拠を置く人の規模を表すのに対して、こちらは地域内に存在する人の時間量を表している。

 なお、この計算は定住者が常に市内にいるという仮定を置いており、通勤・通学などによる市外への流出や、市外からの通勤者、買い物客、商用来訪者などの流入を十分に反映していない。また、別荘利用者が観光統計にも含まれていたり、同じ旅行者が複数の観光地点で計上されていたりすれば、二重計上が発生する可能性がある。宿泊実績の延べ人数と旅行者の実人数も同じではないため、異なる統計を組み合わせる際には、集計単位を統一し、重複を確認しなければならない。

 したがって、約2万4400人という数字は、実際の滞在人口を確認した結果ではなく、明示した仮定から求めた概算値である。その限界を理解したうえで利用することが、この考え方を政策分析へ発展させるための出発点となる。

実効人口を厳密に定義するとどうなるか

 実効人口を分析指標として利用するなら、計算の対象をもう少し厳密に定義する必要がある。最も基本的な方法は、ある時刻に市内に実際に存在している人数を求め、その人数が時間とともにどのように変化するかを測定することである。

 例えば、毎時0分の市内滞在人口を一年間にわたって推計し、その平均値を求める。通常年は365日で8760時間あるため、各時間帯の平均滞在人口を8760時間分集計し、8760で割れば年間平均の滞在人口相当量を求められる。ただし、各時間帯の値がその1時間を代表していることが前提であり、実際には観測間隔や推計方法も確認する必要がある。

 この方法では、住民か観光客かという属性とは別に、その人がその時間帯に市内に存在したかどうかを数える。同じ人が一年間に何度訪れても、滞在した時間だけが積み上がり、同じ時刻に同じ人を二人として数えることはしない。こうすることで、延べ訪問回数と実際の滞在量を区別できる。

 ここで、先ほどの計算に含まれている誤差の大きさを確認してみたい。人口2万人の定住者が平均して一日22時間市内にいると仮定すると、定住者による年間平均滞在人口相当量は約1万8333人になる。定住者以外の条件を変えなければ、市全体の推計値は約2万2758人となり、先ほどの約2万4425人より約1667人少なくなる。

 住民の在市時間を一日2時間変更しただけで、年間平均の推計値がこれほど変化するのである。さらに、市外からの通勤者や買い物客などを加えれば数字は増える可能性があり、宿泊者の実際の滞在時間を修正すれば減る可能性もある。実効人口の推計には、足し算そのものより、各集団の実際の滞在時間と重複のない人数をどの程度正確に把握できるかが重要になる。

 仮定の違いによる影響も考えてみる。別荘の年間平均利用日数を30日、延べ宿泊実績を70万人泊、日帰り客の平均滞在時間を4時間とすれば、先ほどと同じ単純化した計算による年間平均滞在人口相当量は約2万2932人になる。一方、別荘利用日数を100日、延べ宿泊実績を130万人泊、日帰り客の平均滞在時間を8時間とすれば、約2万6027人になる。

 これらは実測値の信頼区間ではなく、任意に条件を変えた場合の試算である。しかし、同じ人口2万人の市でも、別荘の利用実態や宿泊・日帰り客の滞在時間によって、結果が大きく変わることを示している。実効人口を行政計画に使うのであれば、単一の推計値だけでなく、前提条件と誤差、条件を変えた場合の結果も併せて示すことが望ましい。

別荘居住者は観光客なのか、それとも住民に近い存在なのか

 実効人口を考えるうえで興味深いのは、観光客よりもむしろ別荘居住者や二地域居住者かもしれない。年に一度だけ市内のホテルに二泊する旅行者と、毎週金曜日の夜に別荘へ来て日曜日の夕方まで生活する人とでは、地域との関わり方が大きく異なる。さらに夏休みに一か月近く滞在し、年間100日以上を市内で過ごす人もいるだろう。

 こうした人々は、生活の本拠を別の自治体に置いている場合でも、滞在中は地域の生活機能を継続的に利用する。スーパーで食料品や日用品を購入し、水道を使い、家庭ごみを出し、道路を走る。飲食店や医療機関を利用することもあれば、地域の催しに参加し、近隣住民と継続的な関係を築くこともある。

 市の水道やごみ処理などの運営を考える場合、その人がどこに住民票を置いているかだけでは、実際のサービス需要を把握できない。年間100日滞在する人は、単純な時間換算では一年の約27%をその地域で過ごしていることになるため、約0.27人年に相当する滞在量を生み出す。この換算には数量的な意味があるが、だからといって、その人が法制度上0.27人の住民になるわけではなく、地域への貢献度まで27%と評価できるわけでもない。

 ここで関係人口との違いを整理しておきたい。関係人口とは、定住者でも単なる一度限りの訪問者でもなく、特定の地域と継続的かつ多様に関わる人々を捉える考え方である。二地域居住者や、繰り返し地域活動に参加する人などは、関係人口として捉えられる場合がある。

 ただし、関係人口が主として地域との関係の継続性や関わり方を問題にするのに対して、本稿の実効人口は、地域内に実際に存在した時間量を問題にする。市外に住みながら地域の商品を継続的に購入し、オンラインで活動を支援している人は重要な関係人口になり得るが、その活動によって市内の道路や水道への直接的な負荷が増えるとは限らない。一方、地域との継続的な関係を持たない観光客でも、数万人が同じ日に訪れれば、交通や公共施設の利用に大きな影響を及ぼす。

 地域との関係の深さと、地域内で生じる滞在量は異なる指標である。この二つを混同せず、それぞれの目的に応じて評価することで、別荘居住者や二地域居住者の役割をより正確に理解できるようになる。

年間平均2万4400人でも、夏には5万人いるかもしれない

 年間平均の滞在人口相当量が約2万4400人と推計されたとしても、その数字をそのまま道路や駐車場、水道、ごみ処理施設の整備基準に使えるわけではない。観光都市では、平均的な人数と、実際に施設が対応しなければならない最大の人数との間に、大きな差が生じる可能性がある。

 例えば冬の平日には、市内に1万7000人程度しか存在しない時間帯があるかもしれない。反対に、夏休みの日曜日には4万人、海水浴や大規模なイベントが重なる日には5万人以上が市内に滞在することも考えられる。ただし、これらの数字は可能性を示した仮定であり、年間平均2万4400人という計算から、夏の最大滞在人口が5万人になると推定できるわけではない。最大値を知るには、時間帯別の人流データなどによる別の検証が必要である。

 観光地の人口は、時間とともに増減を繰り返している。平日の午前と休日の午後では人数が異なり、冬と夏でも滞在者の規模が変わる。同じ日でも、午前中に海岸へ人が集中し、夕方に幹線道路へ移動するなど、地区ごとの人口分布は刻々と変化する。行政が対応すべきなのは、市内の人数の年間平均だけではなく、いつ、どこに、どれほどの人が集中するかという問題なのである。

 年間平均だけを基準に施設を整備すれば、繁忙期に能力が不足する可能性がある。一方、まれに発生する最大時の人数を基準に全ての施設を建設すれば、一年の大半で過剰設備になるかもしれない。特に人口減少が進む自治体では、過剰な固定資産を抱えることによる維持管理費や更新費用の負担も無視できない。

 したがって、実効人口を政策に活用するなら、年間平均値だけでなく、通常期、繁忙期、最大時に加え、混雑がどの程度の時間続くのかまで把握する必要がある。最大値が一時間だけ発生するのか、毎週末に数時間続くのかでは、必要な施設能力も対応策も異なる。季節的な需要に対しては、常設施設の増設だけでなく、臨時駐車場、交通誘導、仮設トイレ、ごみ収集回数の調整などによって対応する方が合理的な場合もある。

 人口減少地域に必要なのは、平均人口の減少だけを見て一律に施設を縮小することでも、観光客の最大人数に合わせて施設を拡張することでもない。時間帯と場所によって変化する実際の需要を把握し、必要な能力を適切な方法で確保することである。

一つの市に、いくつもの実効人口が存在する

 さらに厳密に考えると、市内に存在する時間が同じであっても、行政サービスや地域経済への影響が同じとは限らない。自家用車で訪れる日帰り観光客と、鉄道で訪れる観光客では道路への負荷が違う。ホテルに泊まる人と別荘で生活する人では、水道やごみの利用形態が異なり、年齢や健康状態によって医療サービスへの需要も変わる。

 そのため、地域政策に使う実効人口は、単一の数字で全てを説明しようとするより、用途別に考えた方が合理的である。道路なら交通実効人口、水道なら水道実効人口、ごみ処理なら廃棄物実効人口、商業なら消費実効人口というように、それぞれの分野で必要な指標を設計することが考えられる。

 ただし、これらは本稿で提案する分析上の名称であり、既存の行政統計として統一された定義を持つものではない。また、人数だけに一定の係数を掛ければ、行政需要が正確に分かるわけでもない。道路については実際の車両台数や交通量、水道については時間最大給水量や日最大給水量、ごみ処理については排出重量や収集頻度など、最終的には物理的な需要を示す指標と照合する必要がある。

 例えば、2人乗りの自家用車で訪れる観光客1万人は、単純計算で5000台の車両を生み出す。しかし、その人たちが鉄道やバスで訪れれば、地域の道路に与える影響は大きく変わる。水道についても、海水浴場のシャワーを利用する人と市内で買い物だけをする人では、同じ滞在時間でも使用水量が異なる。つまり、実効人口は施設負荷を直接示すものではなく、需要を推計するための基礎情報と考えるべきである。

 沿岸部の自治体では、防災の観点も重要になる。津波などの災害が発生した場合、地域の避難経路や避難場所を熟知している住民と、初めて訪れた観光客では避難行動に違いが生じる可能性がある。観光客の集中する場所や時間帯、避難経路の容量、徒歩で移動できる距離などを把握することは、定住人口だけを用いた防災計画を補完するうえで有効だろう。

 こうした分野別の分析を組み合わせることで、実効人口は単に市の規模を大きく見せるための数字ではなく、公共サービスの需要を具体的に検証するための補助指標となる。

人口2万人なのに、なぜ大型スーパーが成立するのか

 この考え方は、地域経済を分析する際にも役立つ。地方都市には、定住人口が2万人程度であるにもかかわらず、大型スーパーやドラッグストア、ホームセンター、飲食店などが比較的多く存在する地域がある。一方で、人口が同程度でも商業施設が少なく、日常の買い物に周辺都市まで移動しなければならない地域もある。

 その違いは、住民人口だけでは説明できない。周辺自治体からの買い物流入、住民の所得、年齢構成、道路交通網、商業施設の立地条件、競合店舗の有無など、さまざまな要因が関係している。さらに観光地や別荘地では、定住者以外の人々が生み出す購買需要も重要になる。

 仮に人口2万人の市で、年間100万人泊の宿泊実績があり、これと重複しない日帰り来訪が年間150万人回あるとすれば、市内の商業施設が対象とする市場は、定住者2万人だけから成り立っているわけではない。ただし、100万人泊という数字は延べ宿泊数であり、100万人の異なる宿泊客が訪れたことを意味しない。また、日帰り来訪も延べ回数で数えられることがあるため、両者をそのまま足して250万人の異なる観光客が存在すると表現することはできない。

 さらに重要なのは、人が長く滞在すれば、それに比例して地域経済が豊かになるわけではないという点である。観光客が市内で多額の消費をしても、商品や原材料を地域外から仕入れていれば、支出の一部は市外へ流れる。全国チェーン店での消費も、地元雇用や店舗運営などを通じて地域に利益をもたらす一方、利益の全てが地域内に残るわけではない。別荘居住者が食料品を居住地から持参する場合には、長期間滞在しても市内での消費額が比較的小さいことも考えられる。

 したがって、滞在量の増加と、地域内消費の増加、さらに地域所得の増加は、それぞれ区別して評価しなければならない。まず人がどの程度滞在しているかを測定し、次に一人当たりの消費額や消費先を調べ、その支出のうちどの程度が地元企業の利益や雇用者所得、地域内の取引として残るかを確認する必要がある。

 実効人口だけでは地域経済の豊かさは分からない。しかし、定住人口に比べて商業活動が活発な理由を考えたり、観光消費や別荘居住者による需要の大きさを検証したりするための入口にはなる。定住人口、滞在人口、消費額、地域内所得という異なる数字を組み合わせることで、地域経済をより立体的に理解できるのである。

「住民を100人増やす」以外の地域政策が見えてくる

 人口減少への対応を考えるとき、地方自治体では移住者の獲得や定住促進が重要な政策として位置付けられることが多い。人口2万人の市で毎年300人程度の人口が減少しているなら、行政が人口減少に危機感を持つのは当然である。人口の減少は地域の労働力、学校教育、医療・福祉、自治会活動などに影響し、税収や公共施設の維持にも長期的な課題をもたらす。

 しかし、300人の移住者を新たに獲得することは簡単ではない。移住には仕事や住宅だけでなく、家族関係、子どもの教育、医療環境、人間関係など、生活全体に関わる判断が必要になる。また、人口減少が全国的に進むなかでは、自治体同士が限られた移住希望者を奪い合うだけでは、国全体の人口減少問題を解決することにはならない。

 そこで、定住人口の増加とは別に、既に地域を訪れている人々の滞在時間や地域内での活動を増やすという政策目標を考えてみたい。例えば、日帰り観光客が市内に滞在する時間を平均1時間延ばす、別荘居住者の年間利用日数を増やす、日帰り客の一部が宿泊するようになるといった変化である。いずれも新たな住民登録を伴わないが、地域で生じる人間活動の量を増やす可能性がある。

 先ほどの仮定を使えば、年間150万人回の日帰り来訪について、1回当たりの滞在時間が一律1時間延びた場合、年間の追加滞在量は6万2500人日となる。年間平均の滞在人口相当量に換算すると、約171人分の増加である。一方、300人が年間365日市内に存在すると単純化すれば10万9500人日に相当するため、時間量だけを比較すると、日帰り来訪者の滞在延長による効果も数量的に評価できる。

 ただし、この比較から、観光客の滞在時間を延ばす政策の方が移住政策より容易であるとか、費用対効果が高いと結論付けることはできない。150万人回の全てで滞在を1時間延ばせるとは限らず、滞在が増えた時間にどれだけの消費が生じるかも分からない。反対に、移住者には納税、地域活動、子育て、労働力の供給など、単純な滞在時間には置き換えられない役割がある。

 そこで必要になるのは、移住政策と観光政策を対立させることではなく、それぞれの政策目的、費用、効果を適切に比較することである。定住人口を増やす政策、二地域居住を促進する政策、既存観光客の滞在時間を延ばす政策、地域内消費を増やす政策は、互いに代替関係にある場合もあれば、補完関係にある場合もある。

 人口減少への対応を、住民を何人増やしたかという一つの数字だけで評価しないことが重要なのである。

実効人口が増えれば、地域は豊かになるのか

 ここまでの議論から、実効人口を増やすことには一定の政策的な意味があると考えられる。しかし、実効人口の増加そのものを地域政策の最終目標にすることには注意が必要である。

 観光客が増えれば、宿泊業や飲食業、商業施設などの売上が増える可能性がある一方で、交通渋滞、ごみ処理費用、公衆トイレの維持費、騒音、自然環境への負荷なども増加する可能性がある。さらに、繁忙期の混雑が住民の日常生活や医療機関へのアクセスに影響することも考えられる。

 例えば、観光客の滞在時間が増えて地域内消費が増加したとしても、それに伴う公共サービスの追加費用が大きければ、自治体財政にとっての純粋な利益は小さいかもしれない。逆に、既存の道路や公共施設の余裕がある時間帯に来訪を分散できれば、大規模な追加投資を行わずに経済活動を増やせる可能性もある。

 ここで評価すべきなのは、単なる滞在人口の増加ではなく、その増加によって生み出される地域内の経済的利益と、行政費用や住民生活への負荷との関係である。特に人口減少が進む地域では、施設の維持管理能力や行政職員の確保にも制約があるため、繁忙期の需要を増やすことだけが合理的な政策とは限らない。

 また、定住者と非定住者の税負担を単純に区別することもできない。別荘所有者が固定資産税を負担する場合があり、観光客の消費も地域経済を通じて税収に影響する。一方、住民には継続的な生活や地域社会の維持に関わる役割があり、それを滞在時間だけで測定することはできない。

 したがって、実効人口は大きいほどよいという指標ではない。地域に存在する需要の規模と変化を把握し、その需要をどの程度の費用で受け止め、住民生活と地域経済の両立を図れるかを検証するための指標として使うべきである。

それでも観光客を住民として数えてはいけない

 実効人口という考え方には、有効性と同時に誤用の危険もある。例えば人口2万人まで減少した市が、「観光客を含めれば実効人口は2万5000人だから、人口減少はそれほど深刻ではない」と説明するなら、それは適切な統計の使い方とはいえない。

 定住人口の減少と、地域への来訪者の増加は異なる現象だからである。観光客が増えても出生数が増えるとは限らず、地域の高齢化が解消するわけでもない。児童生徒数の減少による学校統廃合の問題や、医療・介護人材の不足、自治会の担い手不足などは、観光客の増加だけで解決できるものではない。

 また、観光客による需要は景気、天候、交通条件、感染症、旅行先の流行などによって変化しやすく、継続的な住民生活に伴う需要と同じ安定性を持つとは限らない。別荘利用についても、所有者の高齢化や世代交代によって利用頻度が変化する可能性がある。

 実効人口は定住人口を補完することはできても、置き換えることはできない。人口2万人の市が年間平均2万4400人相当の滞在需要を受け止めていたとしても、定住人口が減少している事実はそのまま残る。むしろ両者を並べて示すことで、住民の減少が進む一方で、観光や別荘利用による行政需要が維持されている地域の特徴を把握できる。

 このような地域では、定住人口に応じた行政サービスの見直しと、季節的な来訪者への対応を同時に進めなければならない。人口減少によって財政基盤や地域の担い手が縮小する一方、繁忙期には大きな施設負荷が発生するという、異なる方向の課題が存在する可能性があるからである。

スマートフォンの時代だから測れる人口がある

 かつて、このような分析を行うことは容易ではなかった。宿泊者数、観光地点の入込客数、道路交通量、鉄道利用者数、別荘戸数などの統計は存在していても、人がどの時間帯に市内へ入り、どの地区に滞在し、何時間後に市外へ出ていったかを継続的に推定するための資料は限られていた。

 しかし現在は、携帯電話の基地局情報やスマートフォンの位置情報などを利用して、時間帯別の滞留人口や地域間の移動を推計する技術が普及している。国が提供する地域経済分析システムなどでも、地域の人流を把握するためのデータが利用できる。これにより、平日と休日、昼間と夜間、冬と夏で、人の滞在状況がどのように変化するかを分析することが可能になっている。

 例えば、午前10時に市内のどの地区へ人が集中しているのか、午後3時にはその分布がどう変わるのか、夕方には海岸から駅や幹線道路へどのような移動が生じているのかといった問題を調べることができる。従来は経験や印象で語られがちだった観光地の混雑について、時系列の数字に基づく検証が可能になりつつあるのである。

 ただし、こうした位置情報データも万能ではない。観測できるのは特定の通信事業者や位置情報サービスの利用者であり、全住民や全観光客を直接数えているわけではない。利用者の年齢構成、端末の保有率、位置情報の取得頻度、推計倍率、測位誤差などによって結果が偏る可能性がある。また、一定時間以上その場所にとどまった人を対象とする滞留人口データでは、短時間の通過者が十分に反映されない場合もある。

 そのため、位置情報から推計した人数を、そのまま絶対的に正しい実在人口と解釈することは避けるべきである。調査方法や標本の偏りを確認するとともに、宿泊統計、交通量、水道使用量、観光施設の利用状況など、異なる資料と照合することが望ましい。個人の移動履歴を扱う場合には、プライバシー保護やデータの適切な管理にも十分に配慮しなければならない。

 実効人口という発想を現実の政策に結び付けるためには、単一のデータに依存するのではなく、複数の統計を組み合わせて推計の妥当性を確認する姿勢が重要になる。

観光地や別荘地では、何から調べればよいのか

 実効人口を実在の自治体に適用する場合、最初から複雑な数理モデルを構築する必要はない。まずは定住人口と通勤・通学による人口移動を把握し、そこへ宿泊実績、日帰り来訪、別荘の利用状況などを重ねて、地域内でどの程度の滞在時間が発生しているかを概算することから始められる。

 その際、統計の単位を揃えることが欠かせない。宿泊統計の延べ宿泊者数は人数ではなく人泊であり、観光地点の入込客数は同じ人が複数回数えられる場合がある。別荘戸数から滞在者数を求めるには、一戸当たりの利用人数と年間利用日数の推定が必要になる。これらを確認せずに足し合わせても、実際の滞在人口に近い数字が得られるとは限らない。

 次に、携帯電話などによる時間帯別の人流推計を使い、平日と休日、通常期と繁忙期の違いを調べる。年間平均だけでなく、繁忙期の最大滞在人口、特に混雑する地区、交通量との関係などを調べれば、公共施設への需要を具体的に把握しやすくなる。さらに、水道使用量やごみ排出量、駐車場の利用台数などと比較することで、人流の変化が実際の施設負荷にどう結び付いているかを検証できる。

 御宿町、勝浦市、いすみ市などの外房地域でも、このような分析には意味があるだろう。海水浴や観光、別荘利用、周辺自治体からの買い物や通勤など、複数の人口移動が重なる地域では、住民基本台帳人口だけで道路や商業、公共サービスの需要を説明しきれない可能性がある。ただし、それぞれの自治体で観光客の構成、別荘の利用状況、交通手段、宿泊施設の規模は異なるため、同じ計算式を当てはめるだけでは十分ではない。

 重要なのは、実効人口という名称にこだわることではなく、どのような人が、いつ、どの程度、地域内に存在しているのかを、検証可能な方法で明らかにすることである。そして、その結果が地域の商業活動や公共施設の需要をどの程度説明できるかを確かめていくことに、分析としての価値がある。

人口2万人の市は、本当に2万人だけで動いているのか

 人口減少について語るとき、私たちは長い間、地域から減っていく住民の人数に注目してきた。2万1000人が2万人になり、2万人が1万9000人になる。人口推移のグラフが右下へ伸びるにつれて、市そのものが少しずつ小さくなっていくように見える。しかし、そのグラフだけでは、地域の中で実際にどのような人間活動が行われているのかまでは分からない。

 金曜日の夕方に別荘へ向かう人がいる。毎年同じ宿に泊まる家族がいる。夏休みの一か月を海辺で過ごす人もいれば、都市部と地域を往復しながら仕事をする人もいる。朝に訪れて夕方には帰る日帰り観光客もいる。こうした人々の多くは、その自治体の住民基本台帳人口には含まれないが、滞在中は地域の道路を使い、水道を利用し、商店で商品を購入し、ごみ処理などの公共サービスにも需要を生み出している。

 もちろん、そのことを理由に人口減少を軽視してよいわけではない。定住人口が減少すれば、地域の労働力や子育て世帯、行政サービスの担い手が減り、社会保障や公共施設の維持にも長期的な影響が生じる。観光客や別荘居住者の増加は、こうした課題の一部を補う可能性があっても、全てを解決するものではない。

 しかし、人口減少を理由に地域の需要も一律に小さくなると考えることも適切ではない。住民人口が減少していても、観光や別荘利用によって道路や水道への負荷が高い地域は存在し得る。反対に、来訪者が多くても地域内消費が小さく、公共サービスの追加負担ばかりが大きい場合もある。こうした違いを明らかにするには、定住人口とは別に、人の滞在時間や移動、消費、施設利用を測定する必要がある。

 そこで実効人口という考え方が役立つ。正確には、地域内に存在する人数を時間に沿って測定し、その年間平均や季節変動を把握することで、定住人口だけでは見えにくい需要を明らかにするのである。さらに用途別の施設負荷や地域内消費と組み合わせれば、道路の整備、水道施設の能力、ごみ収集体制、観光政策、商業振興、防災対策などを考える際の判断材料になる。

 人口2万人という数字は、その統計の定義に即して正しい。しかし、それは市の全てを説明する数字ではない。定住人口、昼間人口、関係人口、交流人口、時間帯別の滞在人口、そして年間の滞在時間から求める実効人口は、それぞれ異なる側面を表している。どれか一つの数字を絶対視するのではなく、目的に応じて組み合わせることが、人口減少時代の地域分析には求められる。

 夏の日曜日、海岸へ向かう車も、別荘にともる明かりも、宿泊施設に滞在する人々も、行政上の定住人口だけでは捉えきれない地域の現実である。実効人口という考え方の価値は、観光客を住民として数え直したり、人口減少を数字の上で小さく見せたりすることにはない。

 人口2万人という一つの数字の向こう側で、実際にはどれほどの人が、いつ、どこで、どれだけの時間を過ごし、どのような需要を生み出しているのか。その実態をできる限り正確に測定し、地域政策に生かすことにこそ、実効人口という考え方の意味があるのである。

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 地方創生について語るとき、人口ほど分かりやすい数字はない。転入者が何人増えたのか、社会増減がプラスになったのか、若い世帯が何世帯移住してきたのか。自治体の成果を説明するときにも、町の将来を予測するときにも、人口はほとんど共通通貨のように使われている。それは当然でもある。人がいなければ町は成り立たず、人口が減れば消費、労働力、学校の児童数、公共交通の利用者など、多くのものが縮小する可能性がある。住民の年齢構成や所得によって影響は異なるものの、人口の動向が自治体の税収や行政サービスの維持にも関係していることは間違いない。

 しかし、人口3000人の町が3100人になったとき、その町は本当に100人分だけ強くなったと言えるのだろうか。反対に、人口が3000人のままだとしても、買い物を支える店が一軒増え、住宅修繕を頼める事業者が残り、訪問介護を担う事業所が確保され、地域外から仕事を受注する小さな会社が数社生まれたなら、その町は以前より暮らしやすく、経済的にも持続しやすい場所になっている可能性がある。ここから、人口減少時代の地方について少し違った問いが生まれる。移住者を100人増やすことと、地域を支える事業者を10者増やすことでは、どちらが町にとって大きな効果を持つのだろうか。

 もちろん、「100人」と「10者」をそのまま比較して答えを出すことはできない。この比率は実証研究によって確定したものではなく、地域経済の構造と地方創生政策の評価方法を考えるための思考実験である。また、事業者には個人事業主も法人も含まれ、一つの事業者が複数の従業員や事業所を持つ場合もあるため、事業者数と就業者数は区別しなければならない。重要なのは人数や事業者数だけではなく、その人たちが地域の中でどのような所得、雇用、消費、付加価値、生活サービスを生み出し、それらをどの程度持続できるかという点にある。

人口が増えても、そのお金が町に残るとは限らない

 移住者100人には、当然ながら経済効果がある。住宅を借りたり購入したりし、食料を買い、車を利用し、医療を受け、電気や水道を使い、税金を払う。子育て世帯なら学校や保育サービスを利用し、働く世代なら地域企業の人手不足を補うこともある。地域外の企業に勤めながら移住する人や、年金などを受給している人であれば、町の外から得た所得を町内へ持ち込むことにもなる。かつて政府が日本版の高齢者居住共同体構想を検討した際には、単身高齢者100人が一人当たり月約15万円を消費すると仮定した場合、年間約1億8000万円の消費需要が生じるという試算が示された。計算は100人に月15万円と12か月を掛けたものであり、算術的に誤りはない。しかし、これは2015年頃の政策検討で使用された高齢者移住モデルであって、2026年の一般的な移住者100人の消費実態を示す数字ではない。また、消費需要の総額がそのまま移住先の町内で支出されることを意味するわけでもない。

 ここで重要なのは、消費額と地域に生まれる所得を区別することである。町内のスーパーで食品を購入しても、商品が町外の卸売会社から仕入れられていれば、売上の一部は仕入代金として町外へ支払われる。住宅ローンの利息が町外の金融機関に支払われたり、電気通信料金が全国企業の収入になったりすることもある。日用品をインターネット通販で購入し、休日には隣の市の大型商業施設を利用する世帯もあるだろう。したがって、人口統計上は確かに町民が増えていても、その消費支出のすべてが町内企業の売上や町内で生み出される付加価値になるわけではない。人口が増えることと、地域の生産活動が同じ割合で拡大することは別の現象である。

 ただし、町外への支出をすべて損失と考えるのも適切ではない。町外企業から商品を調達することで価格を抑え、品質や品ぞろえを改善できる場合もあるし、隣接自治体の病院や商業施設を利用できることが、住民の生活水準を高める場合もある。地域経済政策で本当に問うべきなのは、支出を無理に町内へ閉じ込めることではなく、地域の所得や生産性、住民の生活水準を持続的に高めることである。

地域経済は「人口の数」だけではなく「所得の流れ」でできている

 環境省が提供する地域経済循環分析では、地域経済を生産、分配、支出という三つの側面から捉える。地域の企業や事業所がどれだけ付加価値を生み、その所得が住民や企業へどのように分配され、さらに地域内外でどのように使われるのかを分析することで、地域経済の構造を明らかにしようとするものである。ここでいう付加価値とは、簡単に言えば、企業などが生産活動によって新たに生み出した価値である。例えば、売上高5000万円の事業者が、商品や原材料、外部サービスなどの中間投入に4000万円を要していれば、単純化した計算では付加価値は1000万円となる。この付加価値は、従業員への給与や事業者の利益などにつながるが、そのすべてが町内に住む人の所得になるとは限らない。町外居住者への給与や域外企業への利益配分があれば、付加価値が町内で生まれていても、その一部は町外へ分配される。

 反対に、町内に住みながら町外の企業で働く人の給与や、町外から受け取る年金などは、町内で生産された付加価値ではなくても住民の所得を形成する。したがって、地域内で生み出される付加価値と、地域住民に分配される所得は必ずしも一致しない。この違いを理解すると、人口減少地域の見え方が変わってくる。人口100人を増やすことは、町に新しい消費需要や労働力をもたらすことに相当する。しかし、地域内にそれらを受け止める企業やサービスが少なければ、需要の多くは町外の企業によって満たされることになる。一方、町内で必要な商品やサービスを提供する事業者が増えれば、従来は町外で行われていた経済活動の一部を町内で担えるようになる。

 さらに、町外へ商品やサービスを販売する企業が成長すれば、地域内の需要だけに依存せず、町の外から収入を獲得することができる。人口増加は主として需要や労働供給を変化させ、事業活動はその需要や労働力を生産、雇用、所得へ結び付ける。ただし、移住者自身が働き、事業を起こし、町外から所得を得ることもあるため、人口と事業を完全に別の経済主体として考えることはできない。なお、環境省の分析で使用される地域経済循環率は、住民が使ったお金のうち何割が町内に残ったかを単純に示す指標ではない。地域内の生産による所得と、地域に分配される所得の関係を見る指標であり、地域内消費割合や地域内調達率とは意味が異なる。循環率が高ければ必ず住民が豊かであるというわけでもないため、地域内総生産、住民所得、域際収支、消費行動などを組み合わせて判断する必要がある。

売上高が大きい事業者ほど、地域への効果が大きいのか

 事業者を増やす政策を評価するとき、最も注意しなければならないのは、売上高と地域への経済効果を混同しないことである。年間5000万円を売り上げる会社が10者あれば、売上高の合計は5億円になる。しかし、その5億円すべてが地域の所得になるわけではなく、仕入代金や外注費などを差し引いた付加価値が、地域経済への生産面からの貢献を考えるうえで重要になる。例えば、町内の事業者が町外から4000万円分の商品を仕入れ、5000万円で販売した場合、売上高は5000万円であっても、そこから新たに生み出された付加価値は単純計算で1000万円となる。反対に、同じ5000万円の売上高でも、地域内の労働や技術を多く利用し、中間投入が少ない事業であれば、より多くの付加価値を生み出す場合がある。売上高が同じだからといって、地域への貢献額も同じとは限らないのである。

 さらに、地域内の取引が増えた場合にも注意が必要である。パン屋が農家から食材を仕入れ、農家が設備修繕を依頼し、修繕業者がパン屋で買い物をすれば、地域内に複数の取引が生じる。しかし、それぞれの売上高を単純に合計すると、同じ原材料や中間投入の価値を重複して数える可能性がある。産業連関分析では、こうした取引のつながりを考慮して経済波及効果を推計するが、取引総額が増えたことと、それと同額の付加価値が新たに生まれたことは区別しなければならない。また、経済波及効果は無条件に拡大するものではない。地域内に必要な技術者や従業員がいなければ、新規需要を町内企業だけで処理することは難しく、町外への外注や仕入れが増える場合もある。設備や労働力の供給が限界に達していれば、需要増加が生産量ではなく価格の上昇として現れることもあるため、地域の供給能力を考慮せずに経済効果を見積もることはできない。

100人と10事業者を数理的に比較してみる

 ここで、仮定をそろえながら、移住者100人と事業者10者による経済効果を試算してみたい。ただし、以下の数字は実際の自治体で観測された統計値ではなく、比較方法を説明するために設定した仮定である。また、地域外から新たに得る所得と、地域内で新たに生み出される付加価値は異なる概念であることにも注意が必要となる。まず、100人の移住者が、一人平均年間300万円の所得を町外から得ているとする。この場合、100人が新たに町へ持ち込む所得は年間3億円になる。さらに、そのうち60%が町内で消費され、町内消費額の40%に相当する付加価値が町内で生まれると仮定すれば、3億円に0.60と0.40を掛けた7200万円が、直接的な町内付加価値の増加額となる。

 次に、10者の事業者がそれぞれ町外へ年間5000万円の商品やサービスを販売し、合計5億円の売上高を得る場合を考える。この売上高に対する地域内付加価値の割合が30%なら、付加価値は1億5000万円となる。ただし、その一部が既存の町内事業者から売上を移した結果であれば、地域全体では新しい価値がすべて純増したわけではない。そこで、既存活動との置き換えなどを調整した純増割合を80%と仮定すると、地域内付加価値の純増額は年間1億2000万円となる。この仮定では、移住者100人による直接的な町内付加価値増加額が7200万円であるのに対し、事業者10者による純増額は1億2000万円となり、事業者側が大きくなる。しかし、事業者の付加価値率が10%、純増割合が50%であれば、計算結果は2500万円となり、今度は移住者側を下回る。つまり、付加価値率や既存事業への影響といった条件を変えるだけで、比較結果は逆転するのである。

 もちろん、この試算だけで政策の優劣が決まるわけではない。移住者が町外から得る所得3億円には、それ自体が住民の生活を支えるという価値があり、すべてを町内で消費しなければ意味がないわけではない。また、移住者が地域企業で働くことによる生産面の効果や、事業者の従業員が町内で所得を使うことによる追加的な波及効果、公共サービスの費用、生活の利便性向上などは、これらの簡単な計算には含まれていない。したがって、この試算が示しているのは、事業者10者が移住者100人より優れているという結論ではなく、比較する指標と仮定を明確にしなければ、人数だけでは経済効果を判断できないということである。

一軒の店がなくなっても、人口統計には何も起きない

 海辺の小さな町を想像してみる。そこで唯一の鮮魚店が閉店したとしても、翌日の住民基本台帳には何の変化もない。町の人口は昨日と同じ3000人であり、人口統計だけを見ている限り、地域の生活環境に何が起きたのかは分からない。しかし、住民の暮らしには変化が生じる可能性がある。魚を買うために隣町まで車を走らせる人が増え、せっかく隣町まで出掛けるのだから、野菜や日用品までそこで購入するようになるかもしれない。この場合、鮮魚店の閉店は魚の販売だけでなく、他の商品に関する町内消費にも影響を与えることになる。

 さらに、高齢になって自動車を運転できなくなった人にとっては、これは単なる買い物先の変更では済まない。「魚をどこで買うか」という問題が、やがて「この町で生活を続けられるか」という問題に変わる可能性があるからである。徒歩で利用できる店がなくなり、公共交通や移動販売も十分ではない地域では、一軒の店舗が果たしていた役割が、売上高以上のものだったことに初めて気付く場合もある。もっとも、一軒の鮮魚店が閉店すれば必ず他の消費まで町外へ流れる、と断言できるわけではない。他店舗の品ぞろえ、交通条件、年齢構成、宅配サービスの普及などによって住民の行動は異なるし、別の町内事業者が新たな需要を取り込む場合もある。重要なのは、店舗の経済的価値がその店の売上高だけでは測れないということであり、人口統計にも企業統計にも十分に表れない生活機能が地域には存在しているという点にある。

一人の事業者が、何人分もの需要を支えることがある

 住民一人が町に加わると、その人の所得、消費、労働、税負担、公共サービス需要などが新たに地域経済へ関係する。一方、事業者は複数の住民や企業から需要を集め、それを生産、所得、雇用、取引関係に変えることがある。したがって、事業者一人の存在が、人口一人分という尺度では捉えきれない影響を持つことは十分に考えられる。例えば、小さなパン屋が開業したとする。経営者一人が移住してきただけなら、人口増加は一人である。しかし、そのパン屋が二人を雇い、近隣農家から食材を仕入れ、町内の電気工事店に設備修理を依頼し、近くの宿泊施設へパンを納めるようになれば、一つの事業が複数の経済関係を形成することになる。さらに、観光客がそのパンを購入すれば、町外から売上を獲得する機会も生まれる。

 ここで注目すべきなのは、パン屋という事業が一人分の消費を増やしたのではなく、地域に存在する需要と供給を結び付けたことである。従来は町外から購入していた商品を地元で供給できるようになれば、地域内の付加価値が増える可能性があり、地域外の顧客を獲得できれば町内市場の規模を超えて事業を成長させる余地も生まれる。2025年版の小規模企業白書でも、小規模事業者は雇用や付加価値の創出だけでなく、人口の少ない地域で商業や生活サービスを維持する主体として位置づけられている。また、小規模事業者は損益分岐点となる売上高が比較的低い傾向にあり、大きな需要が存在しない地域にも立地できる可能性がある一方、売上高が少し減少するだけで利益が失われやすいという経営上の弱さも抱えている。

 この二面性は人口減少地域では特に重要である。大きな売上が必要な企業には成立しにくい市場でも、小規模な事業であれば継続できる可能性がある反面、人口減少によって顧客数が減れば、その小規模事業自体の存続が危うくなることもある。事業者が地域を一方的に救うのではなく、地域住民の存在が事業者を支え、事業者が地域住民の暮らしを支えるという相互依存関係があるのである。

では、10者の事業者なら何でもよいのか

 ここが最も重要なところである。事業者を10者増やせば、それだけで移住者100人より地域に大きな効果を生むわけではない。地域の市場規模がほとんど変わらない状態で似たようなカフェが10軒増えたとしても、町民が飲むコーヒーの量が突然10倍になるわけではなく、新しい店に客が移ることで既存店の売上が減少する可能性がある。こうした既存活動から新規活動への需要の移転は、置換効果として考えることができる。もちろん、新しい店が魅力的な商品を提供して町外から客を呼び込んだり、従来は町外で消費されていた需要を町内へ取り戻したりする場合には、地域全体の需要が増える可能性もある。しかし、地域内で売上を奪い合うだけなら、事業者数が増えても地域全体の付加価値や住民所得がほとんど増加しない場合がある。

 特に人口減少地域では、日常的な消費需要そのものが縮小する可能性があるため、事業者数の増加を地域経済の成長と同一視することはできない。新規創業が10者あっても、同じ期間に既存事業者が12者廃業すれば、事業者数の純増どころか純減が生じる。したがって、開業数だけではなく、廃業数、存続率、雇用、付加価値、地域内外の取引、既存事業への影響を確認する必要がある。

 では、どのような事業者なら地域への追加的な価値が大きいのだろうか。例えば、それまで町外の事業者へ支払っていた住宅修繕を町内の会社が担うようになれば、従来は地域外で行われていた生産活動の一部を町内に移せる可能性がある。地域の農産物を加工して都市部へ販売する企業が生まれれば、町外市場から収入を獲得できる。さらに、買い物配送、空き家管理、生活交通、訪問介護など、供給が不足していたサービスを担う事業者が現れれば、経済活動と同時に地域の生活機能を維持することにもつながる。ただし、こうした事業も、町内に立地すれば必ず成功するわけではない。需要の規模、料金設定、顧客の支払い能力、人材確保、設備投資、事業継続性などによって成果は変わる。地域に必要な仕事であることと、その仕事が採算の取れる事業として成立することは、分けて考えなければならないのである。

新しい事業者を増やすことだけが地方創生ではない

 人口減少地域の事業者政策を考えるとき、新規創業にばかり注目することにも問題がある。町に必要な生活サービスが既に存在していても、経営者の高齢化や後継者不足によって廃業が迫っている場合には、新しい事業者を呼び込むより、既存事業を存続させる方が合理的なこともある。例えば、住宅修繕を担う工務店が町内に一軒しかなく、経営者の引退によって廃業する可能性が高い場合を考えてみたい。新しい業種の事業者を一者増やしたとしても、工務店が失われれば住宅維持機能は弱くなる。反対に、新規事業者数が増えなくても、後継者が事業を引き継ぎ、修繕サービスが維持されれば、地域の生活条件を守るという成果が生まれる。

 さらに、一つの事業者が複数のサービスを提供したり、複数の事業者が設備や人員を共同利用したりする方法も考えられる。商店が商品販売と配送を組み合わせ、交通事業者と協力して高齢者の買い物を支援するなど、地域内の限られた人材や設備を複数の用途に利用できれば、独立した事業者を多数増やさなくても、生活機能を充実させられる可能性がある。2025年に閣議決定された地方創生2.0基本構想でも、人口減少を前提とした地域の経済活動や生活機能の維持が重視されている。生活サービスを複合的に提供する拠点や、複数の主体が連携する仕組みも政策上の論点となっており、単純な人口増加だけでは地域の持続可能性を評価できないという考え方は、国の政策とも整合している。

 したがって、事業者政策の成果は、新規開業数だけで測るべきではない。必要な事業がどれだけ存続し、どのようなサービスが新たに利用できるようになり、住民が将来にわたってそれらを利用できる見通しがどれほど改善したかを評価する必要がある。重要なのは、事業者を何者増やしたかという数だけではなく、地域の供給能力をどれだけ維持・改善できたかという実質的な成果である。

生活に必要な事業は、人数だけでは成立しない

 ここで、事業者数とサービスの供給能力を区別する必要がある。例えば、地域に訪問介護事業者が必要だからといって、介護の経験がある人が一人移住してくれば、直ちに介護保険制度上の訪問介護事業所を開設できるわけではない。指定訪問介護事業所には、原則として訪問介護員等を常勤換算で2.5人以上配置するなどの人員基準があり、サービス提供責任者等の配置や運営基準への対応も必要になる。同様に、住民の移動を支える有償の旅客運送には、事業形態に応じて道路運送法上の許可や登録などが必要になる場合があり、自動車と運転手が一人いれば自由に事業を始められるわけではない。医療サービスにも、医師などの専門職に加えて、施設、設備、人員配置、法令上の手続きといった条件が関係する。

 このように、専門職一人、事業者一者、事業所一か所は、それぞれ異なる概念である。一人の専門職が地域に加わることには価値があるが、必要なサービスを安定的に供給するためには、複数の人員や制度上の条件が必要になることもある。逆に、既存事業所の人員体制が改善すれば、事業者数を増やさなくてもサービスの供給量を増加させられる場合もある。人口減少地域では、人材の確保そのものが難しいことが多いため、新規事業者の数だけを政策目標にするのは適切ではない。利用者の需要、必要な人員、設備、採算、制度上の条件を組み合わせ、実際に利用できるサービスがどれだけ増えるのかを確認することが重要になる。

「経済効果」と「暮らしを守る効果」は同じではない

 ここで、もう一つ区別しておかなければならないことがある。地域にとっての「効果」とは、そもそも何を意味するのかという問題である。地域内総生産が増えることを効果と考えることもできるし、住民所得や雇用、自治体税収の増加を重視する考え方もある。しかし、人口減少地域では、それだけでは十分ではない。高齢になっても買い物や通院ができ、家が壊れたときには直してもらえ、日常生活を続けられるという生活維持の価値もまた、地域にとって重要だからである。

 同じ事業者でも、何を評価するかによって価値は異なる。地域外へ年間数億円の製品を販売する会社は、付加価値や雇用の面で大きな役割を果たすかもしれないが、高齢者の日常生活を直接支えるとは限らない。一方、小さな移動販売事業は、地域内総生産への寄与が比較的小さくても、自動車を運転できない高齢者にとっては、住み慣れた町で生活を続けるための重要な基盤になる。しかも、生活維持の価値は売上高だけでは測れない。移動販売があることで遠方への買い物回数が減り、家族の送迎負担が軽くなり、高齢者が外出困難を理由に転居する可能性が下がるのであれば、そのサービスには利用者が支払った代金以外の便益も存在する。ただし、その便益の大きさを把握するには、利用実態、移動距離、交通費、家族の負担時間、健康状態などを調査する必要があり、サービスが存在するというだけで定量的な効果を断定することはできない。

 したがって、事業者10者と移住者100人を比較する場合、地域内総生産や雇用の増加といった経済指標だけでは不十分である。買い物、医療、介護、交通、住宅維持などのサービスを利用できるかという生活面の指標も必要になる。経済成長と生活機能の維持は重なり合う部分があるものの、常に同じ方向へ動くとは限らないのである。

町内で完結することが、必ずしも最善とは限らない

 地域経済循環を重視する際には、行政区域と実際の生活圏が一致していないことにも注意が必要である。小さな町では、すべての医療、商業、教育、介護、交通サービスを町内だけで完結させることは現実的ではなく、近隣自治体との分業によって生活が支えられている場合が多い。例えば、御宿町の住民がいすみ市や勝浦市の医療機関や店舗を利用することは、町の境界だけを基準にすれば町外への支出になる。しかし、近隣自治体の施設を利用する方が、町内に同種の施設を新設・維持するよりも費用が小さく、サービスの質も高い場合がある。町外への支出を減らすことだけを目的として、採算の取れない施設を町内に維持する政策が、必ずしも住民全体の利益になるとは限らない。

 さらに、隣接する自治体との分業によって、医療や買い物、交通などの生活機能を広い範囲で維持できれば、各自治体がすべてのサービスを個別に整備する必要はなくなる。人口規模の小さい地域では、行政区域ごとの自給自足よりも、生活圏全体で必要なサービスにアクセスできる仕組みの方が合理的な場合がある。もちろん、近隣自治体に施設が存在していても、そこまで移動する交通手段がなければ、実質的に利用できないこともある。重要なのは、町内に施設があるかどうかだけではなく、住民が必要なサービスに適切な時間、費用、負担でアクセスできるかということである。地域経済の強さを測る単位も、自治体の境界だけでなく、実際の通勤、買い物、医療、介護などの生活圏に応じて考える必要がある。

それでも移住者100人には大きな価値がある

 ここまで読むと、人口政策よりも事業者支援の方が優れているという話に見えるかもしれない。しかし、そう単純ではない。地域で事業を継続するには顧客と働き手が必要であり、人口が減り続ければ、住民向けの商売は需要と労働供給の両面で制約を受けることになる。若い世帯を中心に100人が移住してくれば、住宅、飲食、小売、教育、保育、交通、修繕など、多くの需要が長期間にわたって生まれる可能性がある。町内企業で働けば人手不足の改善にもつながり、地域外の企業に勤めながら移住する人であれば、町外から得た所得を地域に持ち込むことにもなる。子どものいる世帯が増えれば、学校や保育サービスの利用者を一定程度確保することにもつながるだろう。

 ただし、移住者が100人増えれば、自治体の財政が必ず改善するわけではない。住民税や固定資産税などの税収が増える可能性がある一方、教育、保育、福祉、道路、水道などの行政サービスにも費用がかかる。移住者の年齢、所得、世帯構成、住宅の立地によって収入と支出の関係は異なり、人口が増えることによる自治体財政への純効果は、税収だけでなく追加的な行政費用も含めて検証しなければならない。さらに、移住者が住宅や仕事を求めることで、既存住民との間に資源の競合が生じる場合もある。住宅供給が限られた地域では家賃や住宅価格が上昇することがあり、人手不足の緩和だけでなく、地域内の雇用や事業構造が変化する可能性もある。移住者の増加には多くの利点があるものの、人数だけで経済的・社会的な純効果を決めることはできない。

 それでも、移住者の存在は事業者政策にとって重要である。移住者は消費者であるだけでなく、生産者、労働者、納税者、地域活動の担い手、そして将来の起業家にもなり得る。したがって、移住者と事業者を競争相手として比較するよりも、両者が地域の中でどのような役割を果たし、互いにどのような効果を与えるのかを考える方が合理的なのである。

「人口を増やせば店が増える」という順序を疑ってみる

 地方創生には、人口が増えれば消費が増え、消費が増えれば店が増え、その店が雇用を生み、さらに町の魅力が高まるという考え方がある。この順序は経済学的にも自然であり、一定の条件のもとでは実際に成立し得る。しかし、人口減少が急速に進む小さな自治体では、人口が十分に増えるまで事業者が存続できるとは限らない。例えば、人口が減少してスーパーが撤退し、ガソリンスタンドが閉店し、住宅修繕業者が廃業し、交通事業者まで撤退すれば、地域の生活環境は徐々に不便になる。人口が少ないから店がなくなるという関係だけなら、人口を増やすことで解決できるように見えるが、生活サービスが減ったことで移住先として選ばれにくくなり、さらに住民の転出が増えるという逆方向の因果関係も考えられる。

 このような関係が強く働けば、人口減少が生活サービスの縮小を招き、その縮小が人口減少をさらに促すという悪循環が成立する可能性がある。特に、店舗や事業所には採算を確保するために必要な売上規模があるため、地域の需要が一定の水準を下回った段階で、サービス供給が急に失われることも理論的には考えられる。ただし、実際にどの人口規模で、どのサービスが、どの程度の速さで失われるかは地域によって異なる。事業者の費用構造、交通条件、近隣地域の施設、観光客など町外からの需要、行政支援の有無によっても結果は変わる。また、店舗の減少と人口流出が同時に観測されたとしても、それだけで店舗減少が人口流出の原因だと断定することはできない。両方に影響する雇用環境や高齢化などの要因を考慮した実証分析が必要だからである。

 それでも、人口が増えるまで待つのではなく、現在の住民が必要とするサービスを先に維持するという政策には合理性がある。生活サービスの存続が移住者の定着や新たな転入にも寄与するのであれば、事業者政策は人口政策を補完することになる。それは移住政策を諦めることではなく、将来の移住者が選ぶことのできる町を維持するという発想である。

事業者10者を増やす政策は、どう評価すべきなのか

 では、実際に地方自治体が移住者の増加と事業者の育成を比較する場合、何を調べればよいのだろうか。まず必要なのは、評価する期間と成果指標をそろえることである。移住者100人の効果を10年間で考え、事業者10者の効果を開業初年度だけで判断するような比較では、結果が偏ってしまう。次に、移住者数については転入者の総数だけでなく、転出者を差し引いた社会増減や、その後の定住状況を確認する必要がある。事業者についても、新規開業数だけでなく廃業数、存続率、雇用人数、付加価値、地域外への売上、地域内での仕入れ、サービス供給能力などを調べなければならない。開業直後に10者が存在していても、数年後に多くが廃業していれば、長期的な成果は限定される可能性がある。

 さらに重要なのは、施策が実施されなかった場合と比較することである。例えば、起業支援を実施した自治体で事業者数が増え、地域所得も増加したとしても、それが支援政策によって生じたとは限らない。同じ時期に観光需要が回復したり、主要企業が設備投資を行ったりしたことが、所得増加の原因かもしれないからである。こうした因果関係を検証するには、条件の近い自治体を比較し、政策実施前後の変化を分析する方法などが考えられる。ただし、人口構成、産業構造、交通条件などが異なる自治体を単純に比較しても適切な結果は得られないため、比較対象の選び方や政策実施前の傾向を慎重に確認する必要がある。

 また、政策には費用がかかる。移住者100人を獲得するために住宅補助や移住支援金などをどれだけ支出したのか、事業者10者を育成するために補助金、施設整備、相談支援、人材育成などへどれだけ投資したのかを把握しなければ、費用対効果は比較できない。仮に事業者政策の経済効果が大きくても、それを実現するために非常に大きな公費が必要なら、別の政策の方が合理的な場合もある。つまり、自治体にとって本当に重要なのは、人口増加や開業件数といった成果の大きさだけではなく、投入した公的資源によって地域の所得、雇用、生活機能がどれだけ改善されたかということである。

地方創生の成績表を変えてみる

 経済産業省と内閣官房が提供するRESAS(Regional Economy Society Analyzing System・地域経済分析システム)でも、地域を見るための数字は人口だけではない。産業構造、事業所、従業者、消費、観光など、複数の指標を組み合わせることで、人口統計だけでは把握しにくい地域経済の特徴を分析できる。2026年6月には、市区町村単位の状況をまとめて確認できる地域経済総合分析も追加された。ただし、分析画面が新しくなったからといって、すべての統計が2026年時点のデータというわけではなく、指標によって調査年次や対象期間が異なるため、地域の現状を評価する際には元となる統計の時点を確認する必要がある。

 こうしたデータを利用するなら、地方創生の成績表そのものも変えてよいのではないだろうか。人口が20人増えた町を成功とし、20人減った町を失敗とするだけでは、実際の地域経済や生活環境を十分に評価できない。人口が減少していても、地域外から所得を獲得する事業が成長し、必要な住宅修繕や介護のサービスが維持され、住民が買い物や通院に困らなくなっているなら、地域の持続可能性は以前より改善している可能性がある。反対に人口が増えていても、住民の所得が伸びず、働く場所が少なく、住宅や交通などの生活基盤が十分に整備されていなければ、人口増加だけで政策を成功と評価するのは早計である。人口増加はそれ自体が地域社会にとって重要な変化であるものの、その変化が生活水準の向上や地域経済の強化につながったかどうかは、別途検証しなければならない。

 例えば、地域内で新たに生まれた付加価値、住民一人当たりの所得、地域外から獲得した収入、事業所の開廃業と存続率、必要な生活サービスへのアクセス、行政費用に対する成果などを組み合わせれば、人口だけでは見えなかった地域の変化を把握しやすくなる。もちろん、これらすべてを一つの点数にまとめることには限界があり、経済的な豊かさと生活の利便性をどの程度重視するかによって政策評価も変わる。それでも、人口という一つの数字だけで自治体の成果を判断するより、複数の指標によって地域の実態を捉える方が合理的である。地方創生の目的が、単に住民基本台帳の人数を増やすことではなく、住民が安心して生活を続けられる地域をつくることにあるなら、その目的に対応した成績表が必要なのである。

地域を支える10者とは誰なのか

 最初の問いに戻ろう。移住者100人より、地域を支える事業者10者を増やした方が効果は大きいのか。この問いに対して、科学的に一般化できる答えは存在しない。移住者の年齢、所得、職業、家族構成、消費行動が異なるように、事業者も業種、売上、付加価値、雇用人数、仕入先、顧客構成、事業継続性によって地域への影響が大きく変わるからである。

 地域内の既存需要を奪い合うだけの10事業者であれば、100人の移住者がもたらす新しい需要や労働力の方が、地域にとって大きな価値を持つ可能性がある。特に働く世代や子育て世帯の移住は、消費だけでなく地域企業の人材確保、学校や公共サービスの利用者確保にもつながり得るため、その価値を短期的な消費額だけで判断することはできない。反対に、地域外から所得を獲得する事業者、これまで町外で行われていた経済活動の一部を町内で担う事業者、地域住民を雇用する事業者、地元企業との取引を増やす事業者、生活に欠かせないサービスを供給する事業者が10者増えるのであれば、その影響は単純な10人分にはとどまらない可能性がある。さらに、必要なサービスを継続的に利用できることが既存住民の生活を支え、転出の抑制や将来の移住者の定着にも寄与するなら、事業者の価値は売上高だけでは説明できなくなる。

 しかし、重要なことは、必ずしも事業者を10者増やすことではない。既存の10者が廃業せずに存続すること、5者の事業者が協力して必要なサービスを維持すること、一つの事業所が後継者を確保して地域の生活機能を守ることにも、地域によっては同じか、それ以上の価値がある。つまり、比較すべきなのは人口100人と事業者10者という表面的な数ではなく、地域にどのような経済活動と生活機能が追加され、どの機能が失われずに済んだのかという実質的な変化なのである。

 そう考えると、事業者政策と移住政策は競争相手ではなくなる。事業者を育てることが雇用や生活サービスを生み、移住者が増えることが事業の顧客や働き手を増やす。さらに、既存事業者が継続できることが住民の定住を支え、住民が定住することによって事業の需要が確保されるという相互関係が成立する。人口と事業が互いを支える循環が生まれてこそ、人口政策と地域経済政策は同じ方向に向かうことができる。

 地方創生で本当に増やすべきものは、人口だけではないのかもしれない。町の中で誰かが困ったとき、「それなら、ここでできます」と答えられる人や事業所がどれだけ存在するのか。食べること、移動すること、働くこと、家を直すこと、老いることを、地域の中で、あるいは近隣地域と協力しながら、どこまで支えられるのか。そして、その仕組みを無理のない費用で、将来にわたって維持できるのか。人口表には、その答えは載っていない。事業所数や売上高の統計だけでも、十分には分からない。しかし人口が減少していく時代には、そうした数字の背後にある経済活動と生活機能の持続可能性こそが、町の将来を左右する重要な条件になる。移住者100人と事業者10者のどちらが大きいかを一律に決めるのではなく、人口と事業の双方が地域に何を残し、どのような暮らしを可能にするのかを問い直すことが、これからの地方創生には必要なのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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家は、売れなくなっても消えてはくれない

 人がいなくなったあとにも、家は残る。屋根は雨を受け、雨樋には落ち葉が詰まり、締め切られた部屋では湿気が壁紙の裏へ入り込んでいく。持ち主が亡くなったからといって住宅まで一緒に消えてくれるわけではなく、むしろ人の生活が終わったところから、建物だけの長い余生が始まることがある。誰も住まない家にも時間は流れ、手入れをしなければ少しずつ傷みが進んでいく。

 日本の空き家政策では、これまで「どう使うか」が重要な問いになってきた。空き家バンクへ登録して移住者へ売る、中古住宅として流通させる、賃貸住宅や店舗、地域施設へ転用するなど、さまざまな取り組みが進められている。まだ十分に使える住宅を取り壊すより、次の利用者へ渡す方が経済的にも環境的にも合理的な場合は多く、こうした政策の必要性を否定する理由はない。

 しかし、人口が減り、住宅を必要とする世帯も減少していく地域では、使いたい人の数よりも、使われなくなった住宅の数が多くなることがある。住宅としての価値が残っていても、そこに住みたい人が現れなければ売買は成立しない。そこで空き家問題を売却や賃貸の仕組みだけで解決しようとすると、どれほど制度を整えても、次の利用者が見つからない住宅が残ってしまう。

 この問題を考えるとき、もう一つ必要になるのが、住宅を最後にどう処分するかという視点である。住宅は建てるときに費用がかかり、使っている間にも維持管理費がかかるが、役割を終えたときにも解体という支出が発生する。それにもかかわらず、住宅の取得時には建築費や住宅ローンが重視される一方で、数十年後の解体費用をどのように準備するかについては、制度的な議論が十分に進んでいるとは言いにくい。

900万戸の空き家は、すべて売れ残った住宅ではない

 総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」の確報によれば、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸となり、総住宅数に占める空き家率は13.8%に達した。どちらも過去最高であり、空き家数は2018年から51万3千戸増加している。この数字だけを見ると、日本には膨大な数の売れ残った中古住宅が存在するように思えるかもしれない。

 しかし、900万2千戸の内訳を見ると、そのような理解が正確ではないことが分かる。賃貸用の空き家は443万6千戸、売却用は32万6千戸、別荘などの二次的住宅は38万4千戸であり、これらを除いた空き家は385万6千戸となっている。賃貸用住宅には入居者の交代に伴う一時的な空室も含まれ、別荘には日常的な居住者がいなくても利用されている住宅があるため、空き家という分類だけで管理不全や市場価値の喪失を判断することはできない。

 一方、賃貸用、売却用、二次的住宅を除いた385万6千戸は、2018年から36万9千戸増加している。この区分にも長期不在の住宅や取り壊し予定の住宅などが含まれるため、すべてを解体対象とみなすことはできないが、住宅として積極的に流通していない建物が増えていることは確認できる。政策として重要なのは、900万戸を一括して問題視することではなく、その中から再利用できる住宅、管理を継続すべき住宅、除却が合理的な住宅を適切に区別することである。

 さらに、人口減少社会では住宅需要の地域的な偏りが大きな問題となる。国立社会保障・人口問題研究所の2024年推計では、全国の一般世帯数は2030年ごろの約5,773万世帯をピークに減少へ転じ、2050年には約5,261万世帯になると見込まれている。これは全国の推計であり、すべての地域で同じ時期に世帯減少が始まるという意味ではない。都市部で世帯数が増える一方、地方ではすでに減少が進んでいる地域もあり、住宅需要の地域差を考える必要がある。

売るための制度には、買う人が必要である

 住宅市場が市場である以上、売却政策には必ず買い手が必要になる。人口が増えている都市や交通利便性の高い地域なら、古い住宅を改修して次の世帯へ引き継ぐ循環を期待できる。しかし、空き家が増えている背景そのものに人口減少や世帯減少がある地域では、空き家情報を充実させただけで住宅需要が増えるわけではない。

 例えば、ある地域で今後10年間に住宅として供給できる空き家が100戸発生し、同じ期間にそれらの住宅を購入または賃借する需要が10戸分しかなければ、仲介制度を改善しても100戸すべてを住宅として流通させることはできない。実際の住宅需要には、地元住民の住み替え、地域外からの移住、別荘利用、事業利用なども含まれ、住宅の立地や状態によって市場性も大きく異なるため、この例はあくまで需給関係を説明するための単純化である。それでも、供給される住宅に対して十分な需要が存在しなければ、流通政策だけで解消できない空き家が生まれるという基本構造は変わらない。

 しかも、住宅は自動車や家電製品のように、需要のある地域へ簡単に移動させることができない。土地と一体となった不動産である以上、住宅そのものの品質が高くても、人口減少が進む地域や生活利便性の低い場所では買い手が限られる。価格を下げれば必ず売れるとも限らず、買い手にとって改修費や将来の維持管理費が大きければ、建物価格がほとんど付かない住宅もあり得る。

 空き家バンクや移住支援制度には、潜在的な需要と供給を結び付ける役割がある。情報不足や取引費用の高さが原因で売れなかった住宅を流通させる効果は期待できるが、地域全体の住宅需要そのものが不足している場合には限界がある。したがって、空き家対策には住宅を市場へ戻す政策だけでなく、市場で引き受けられなくなった住宅をどう処分するかという政策も必要になる。

日本の空き家問題には、相続という構造がある

 空き家の多くは、不動産投資の失敗によって突然市場へ現れた住宅ではない。国土交通省が2025年8月に公表した「令和6年空き家所有者実態調査」によれば、調査対象となった空き家の57.9%は相続によって取得されたものであり、その相続空き家の7割超は1980年以前に建築されていた。また、相続によって取得された空き家について、人が住まなくなった理由を調べると、所有者などの死亡が58.3%を占めている。

 ただし、この調査は全国の空き家900万2千戸すべての所有者を直接調べたものではなく、住宅・土地統計調査の回答世帯から一定の条件で対象を抽出した調査である。そのため、相続による取得割合を全国の空き家総数にそのまま掛けて、全国の相続空き家数を確定することはできない。また、死亡が契機となった58.3%という数字も、相続空き家についての割合であって、空き家全体の割合ではない点に注意が必要である。

 こうした統計上の限界を踏まえても、相続が空き家発生の重要な契機になっていることは読み取れる。親が長年暮らした住宅を子どもが相続しても、子どもにはすでに別の生活や住まいがあり、親の家へ戻る予定がない場合がある。住宅は財産として引き継がれるが、その財産には屋根や外壁の補修、庭木の管理、固定資産税、そして将来の解体費用まで付いてくるため、相続人にとって必ずしも経済的な利益だけをもたらすものではない。

 とりわけ、築年数が古く、修繕費が大きく、住宅需要も少ない地域では、建物を相続しても積極的に活用する動機が弱くなる。土地には一定の資産価値が残っていても、建物については維持管理費や除却費を考慮すると、実質的な経済価値が非常に小さくなる場合がある。住宅を所有することは権利であると同時に将来の支出を伴う行為でもあり、相続によってその支出を負担する人が変わることが、空き家問題を複雑にしている。

解体費用は、空き家を処分しない理由の一つになっている

 住宅を解体しない理由として、費用が重要な障壁になっていることは所有者の回答からも確認できる。令和6年空き家所有者実態調査では、今後5年間程度、空き家として所有し続ける意向を持つ世帯に対し、その理由を複数回答で尋ねている。その結果、「物置として必要」が55.8%で最も多く、「解体費用をかけたくない」が47.3%、「住宅が古い」が37.0%、「更地にしても使い道がない」が34.8%、「取り壊すと固定資産税が高くなる」が28.2%となっている。

 理由を順位付きで尋ねた集計では、「解体費用をかけたくない」を第1位とした割合が14.2%、第2位とした割合が13.7%である。これらは複数回答の47.3%とは集計方法が異なり、単純に合算して解釈するものではない。それでも、解体費用を負担したくないという意向が、空き家を所有し続ける理由の一つになっていることは明らかである。

 ただし、ここから直ちに、解体費用を補助すれば47.3%の世帯が住宅を取り壊すと結論づけることはできない。調査が測定しているのは所有者の意向であり、実際の解体行動ではないうえ、物置としての利用や跡地の使い道、税負担など、複数の理由が重なっている場合もある。解体費用を無料にしても、家族の思い出や将来の利用可能性を考えて所有を続ける人がいる一方、解体費用の一部を準備できれば処分を決断する人もいるだろう。その違いを明らかにするには、費用負担と実際の行動との関係をさらに調べる必要がある。

 ここで注目したいのは、住宅の取得時点と処分時点の間に数十年という時間差が存在することである。住宅を使って便益を得た人と、その住宅を最後に処分する人が一致しない場合、解体費用が十分に準備されないまま次の世代へ引き継がれる可能性がある。住宅の最終処分という支出が、所有者の死亡や相続という時期の読みにくい出来事と重なって発生することも、問題を難しくしている。

住宅にも「最後の日」の費用を積み立てられないか

 そこで検討したいのが、住宅の所有期間中に将来の除却費用を準備しておく「住宅解体積立制度」である。住宅を建築または取得した段階から、将来の解体費用の一部を長期間にわたって積み立て、実際に解体するときにその資金を使えるようにする。相続や売却によって所有者が変わっても、原則として積立金を住宅とともに承継できる仕組みを設ければ、住宅を利用してきた期間に処分費用を少しずつ負担するという考え方が成立する。

 もちろん、このような制度が現在の日本で全国一律に導入され、その効果が実証されているわけではない。積立制度を導入すれば空き家問題が解決すると断定することもできず、ここから先は統計から直接導かれる事実ではなく、住宅の所有と処分に伴う費用負担のあり方についての政策仮説として考える必要がある。

 住宅の解体費用を将来の相続人へ任せるのではなく、その住宅を使っている期間から準備するという考え方には、経済学でいう費用の内部化という側面がある。住宅の利用によって利益を得る人が、その住宅を安全に処分するための費用についても一定の責任を負うことで、将来の所有者や地域社会へ負担を先送りする問題を小さくしようとするものである。

 ただし、積立によって将来の解体費そのものが安くなるわけではない。積立制度の基本的な効果は、まとまった支出を長い期間へ分散し、解体時の資金不足を軽減することにある。制度の管理費が発生すれば総費用が増える場合もあり、資金を長期間拘束することによる所有者側の負担も考慮しなければならない。それでも、ある日突然数百万円の支出を求められる状況と、何十年もかけて処分費用の一部を準備してきた状況とでは、所有者が選択できる対応が違ってくる可能性がある。

 制度の目的は住宅を積極的に壊すことではない。売れる住宅は売り、貸せる住宅は貸し、新しい用途が見つかる住宅は活用する一方で、住宅としての役割を終え、利用需要も見込めず、維持することが合理的でなくなった建物について、解体費用の不足だけを理由に処分できない状態を減らすことが目的なのである。

40年間の積立で、将来の解体費用は準備できるのか

 積立制度を考えるとき、実際にいくら積み立てればよいのかという問題は避けられない。例えば、年間3万円を40年間積み立てれば120万円、年間5万円なら200万円になる。これは利息や物価変動を考えない単純な計算であり、制度の基本的な仕組みを説明するには分かりやすいが、40年後の解体費用を十分に準備できることを意味するわけではない。

 仮に、現在200万円で解体できる住宅について、解体費用が毎年2%ずつ上昇すると仮定すれば、40年後の費用は約441万6千円となる。一方、年間5万円を40年間積み立てても、運用利回りがゼロなら200万円、毎年2%で複利運用できた場合でも約302万円にとどまる。この条件では、物価上昇率と運用利回りが同じ2%であっても、年間5万円の積立では必要な解体費用を賄えず、約140万円の不足が生じる計算になる。

 同じ条件で約441万6千円を40年間で準備するには、毎年末に約7万3千円を積み立てる必要がある。ただし、これは現在の解体費用を200万円、将来の費用上昇率と運用利回りをそれぞれ年2%と仮定した試算であり、実際の解体費用や将来の運用収益を予測した数字ではない。解体費用の上昇率が変われば必要な積立額も変わり、途中で住宅を解体することになれば積立期間も短くなる。

 現実の解体費用は、住宅の延べ床面積や構造だけでなく、重機が入れる道路の有無、隣家との距離、地形、廃棄物の運搬距離などによって大きく異なる。吹き付けアスベストなどの有害物質が見つかれば、調査や除去のために追加費用が発生する場合もある。こうした条件を考えると、全国すべての住宅に同じ積立額を設定する方法では、過大な負担となる住宅と、解体時に大幅な資金不足が生じる住宅が出てくる可能性がある。

 したがって、制度を設計するなら、建物の規模や構造、立地条件に応じた積立額の設定と、将来費用の見直しが必要になる。また、想定より早く解体する場合、住宅を長寿命化して使い続ける場合、災害で建物が失われる場合などにも対応できなければならない。積立金の運用方法についても、安全性と収益性を区別し、将来必要になる資金が大きく失われないようにすることが求められる。

家を壊しても、土地の問題が残る

 解体積立制度を考えるうえで、もう一つ見落とせないのが、住宅を取り壊した後の土地の扱いである。建物を除却すれば老朽化した住宅による倒壊や部材の飛散などの危険を減らせるが、土地そのものがなくなるわけではない。更地になった後にも、雑草や樹木の管理、境界の確認、固定資産税の支払いなどは残り、土地の需要が少ない地域では売却が難しい場合もある。

 とりわけ、住宅用地に対する固定資産税の特例は、所有者の判断に影響する。住宅が建っている土地では、原則として200平方メートル以下の小規模住宅用地に係る固定資産税の課税標準が固定資産評価額の6分の1、200平方メートルを超える部分の一般住宅用地では3分の1となる特例がある。住宅を取り壊して住宅用地ではなくなれば、通常はこの特例の対象から外れるため、解体後の税負担が増える可能性がある。ただし、実際の税額には負担調整措置などが関係するため、住宅を壊したら必ず固定資産税が6倍になるという理解は正しくない。

 空き家所有者実態調査で「更地にしても使い道がない」と回答した割合が34.8%、「取り壊すと固定資産税が高くなる」が28.2%だったことは、この問題を考えるうえで重要である。解体費用を準備できたとしても、解体後の土地を利用できず、税負担や維持管理費だけが残るなら、所有者が解体を先送りする可能性はある。つまり、積立制度だけでは除却を妨げるすべての要因を取り除くことはできない。

 政策として解体を促すなら、跡地をどのように管理し、どのような用途へ転換するかという問題も同時に考える必要がある。地域によっては駐車場や菜園、防災空地、隣接地への売却などが選択肢になり得るが、どの地域でも跡地利用の需要があるとは限らない。住宅の出口をつくることと、建物がなくなった後の土地の将来を考えることは、切り離せない課題なのである。

現在の空き家政策も「活かす」と「しまう」を重視している

 現在の日本に、住宅の除却を促す制度が存在しないわけではない。2023年12月13日に施行された改正空家法では、放置すれば「特定空家等」になるおそれのある住宅などについて、市区町村が「管理不全空家等」として指導や勧告を行えるようになった。勧告を受けた管理不全空家等の敷地については、固定資産税の住宅用地特例が解除される仕組みも設けられており、住宅が深刻な危険を及ぼす状態になる前から適切な管理や改善を促そうとしている。

 国土交通省も、空き家対策を「活かす」だけでなく「しまう」という言葉で説明している。売却や賃貸、用途転換によって住宅を活用する一方、老朽化などによって利用が難しくなった住宅については、解体して跡地を活用することも選択肢として示している。これは、住宅を残し続けることだけが空き家対策ではなく、役割を終えた住宅を適切に処分することも政策に含まれていることを意味する。

 除却への公的支援も存在する。2026年度の国土交通省の資料では、空き家再生等推進事業や空き家対策総合支援事業において、一定の条件を満たす除却などへの支援が示されている。例えば、対象事業で所有者が解体を実施する場合、補助対象となる費用について国が5分の2、地方公共団体が5分の2、所有者が5分の1を負担する枠組みが設けられている。

 もっとも、この負担割合は、一般の空き家なら全国どこでも所有者が費用の5分の1を支払うだけで解体できるという意味ではない。空家等対策計画の対象地区であることや、建物の状態、跡地利用などの要件があり、補助対象となる費用や上限額、自治体側の制度整備にも条件がある。実際にどの程度の補助を受けられるかは、住宅と自治体ごとの条件によって異なる。

 既存の公的支援と解体積立制度の違いは、費用を準備する時点にある。現在の補助制度が、政策上支援する必要が認められた除却に対して公費を投入する仕組みであるのに対し、積立制度は住宅を利用している時期から将来の処分費用を準備する。前者は一定の条件を満たす除却を支援し、後者は将来必要になる費用を時間の中へ分散させるものであり、両者は必ずしも対立する制度ではない。むしろ、積立金で賄いきれない費用や、特に公共的な必要性が高い除却を公的支援で補うなど、組み合わせて考える余地がある。

公費だけに頼る解体には、公平性と費用回収の問題がある

 危険になった住宅をすべて税金で取り壊せばよいという考え方もある。しかし、その方法を広く採用するなら、所有者間の公平性を考える必要がある。住宅を長年管理し、最後には自費で解体した人がいる一方で、管理を怠った住宅だけ公費で処分されるなら、適切に対応した人より放置した人が経済的に有利になる場合がある。そのような状況が一般化すれば、自分で費用を負担するより行政の対応を待とうとする誘因が生まれる可能性もある。

 ただし、ここで区別しなければならないのは、行政が解体することと、所有者の費用負担が免除されることは同じではないという点である。空家法に基づく行政代執行などでは、原則として所有者等に費用を請求し、徴収する仕組みが存在する。したがって、行政が危険空き家を取り壊したからといって、所有者が当然に解体費用を負担しなくてよいわけではない。

 一方で、所有者の資力が不足している場合や、所有者が不明で費用回収が困難な場合には、自治体側に負担が残る可能性がある。地域の安全を守るために行政が緊急対応を行うことには公共的な必要性があるものの、その費用を最終的に誰が負担するかという問題は別に残る。住宅を所有することによって得られる利益と、適切な管理や処分に必要な費用をどのように配分するかという視点が必要なのである。

 解体積立は、所有者に罰金を課すという発想とは異なる。将来必要になる処分費用を住宅の利用期間にわたって準備することで、費用負担が特定の相続人や自治体へ突然集中する事態を減らそうとするものである。ただし、積立義務を課すこと自体にも公平性の問題があり、低所得の所有者や高齢者、住宅需要の少ない地域の住民に過大な負担を与えない制度設計が求められる。

積立金を建物とともに引き継ぐ仕組みは簡単ではない

 住宅解体積立制度を実際に導入しようとすれば、積立金を誰が保有し、誰が管理するのかという法的な問題が生じる。日本の不動産制度では土地と建物が別個の不動産として扱われるため、資金を建物にひも付けるのか、土地にひも付けるのかによって仕組みが異なる。建物と土地の所有者が別である場合や、建物を建て替えた場合、相続人が複数いる場合などにも対応できなければならない。

 例えば、住宅が売却されたときに積立残高を次の所有者へ引き継ぐとするなら、その残高を住宅の売買価格にどのように反映させるかが問題になる。100万円の積立金がある住宅でも、買い手が住宅を100万円高く評価するとは限らず、将来の積立義務が残っていれば、その負担を購入価格から差し引いて考える可能性もある。積立金が存在することによる便益と、将来の負担が不動産価格へ及ぼす影響を、分けて検討する必要がある。

 さらに、積立金を所有者の一般財産から分離して安全に管理するなら、用途外の引き出しを防ぐ仕組みが必要になる。所有者が破産した場合、積立金を差し押さえられるのか、住宅が滅失した場合に残額をどう扱うのか、積立が不足した状態で売却されたときに誰が追加負担するのかという問題もある。現行の不動産登記制度だけで、積立金が建物の売買や相続に伴って自動的に承継されるわけではなく、確実な承継を実現するなら法制度上の整備が必要になる。

 将来の廃棄費用を事前に準備するという考え方自体は、他分野にも存在する。例えば、一定の事業用太陽光発電設備では、将来の廃棄等費用を確保するための積立制度が設けられている。ただし、住宅は所有形態や利用年数が多様であり、相続や建て替えも発生するため、他分野の仕組みをそのまま導入できるわけではない。住宅について実現するなら、既存制度との整合性を検討しながら、長期間にわたって資金を保全できる仕組みを構築する必要がある。

 加えて、すでに存在する古い住宅をどのように扱うかという移行問題も避けられない。新築住宅なら完成時から長い期間をかけて準備することができるが、築50年の住宅を所有する高齢者に突然高額の積立義務を課せば、住宅を処分できない人へ新たな負担を加える結果になりかねない。制度を導入するなら、新築住宅から段階的に始めるのか、既存住宅には任意積立や公的補助を組み合わせるのか、所得や建物の状態に応じた措置を設けるのかという慎重な判断が必要になる。

壊すことが、常に経済的にも環境的にも正しいわけではない

 住宅の解体を政策として考える場合には、費用負担だけでなく環境への影響も検討しなければならない。まだ十分に使用できる住宅を取り壊せば、建築時に投入された資材やエネルギーを利用し続ける機会が失われ、廃棄物の発生や運搬、処理による環境負荷も生じる。建設リサイクル法では、一定規模以上の解体工事について分別解体や再資源化が義務付けられているが、適切に再資源化したとしても、解体そのものに資源やエネルギーが必要なことは変わらない。

 一方、老朽化した住宅を維持し続けることにも費用や環境負荷があり、建物の状態によっては安全性の問題が生じる。修繕を重ねて長期間利用することが合理的な住宅もあれば、大規模改修に多額の費用をかけても十分な利用需要が見込めず、除却した方が社会的な負担を小さくできる住宅も考えられる。

 したがって、科学的には「古い住宅は壊すべきだ」「解体は環境に悪いから避けるべきだ」という一律の判断は適切ではない。建物の残存寿命、耐震性、改修費用、利用需要、解体費用、周辺環境への危険性などを比較し、建設から維持管理、最終処分までの環境負荷も含めて評価する必要がある。住宅ごとに異なる条件を無視して解体を促進するのではなく、維持、用途転換、除却のいずれが合理的かを判断できる仕組みが重要になる。

 その意味でも、解体積立制度は住宅を壊す方向へ所有者を誘導するための制度であってはならない。積立金の存在によって、本来なら活用できる住宅まで解体されるような仕組みは望ましくない。適切な条件の下で建物の再利用や安全な除却に資金を使えるようにすることも、制度設計上の検討課題になり得る。

積立制度の効果は、実際に検証しなければ分からない

 住宅解体積立制度には理論的に説明できる利点がある一方、導入した場合の効果については実証的な裏付けが必要である。解体費用を準備できるようになったとしても、所有者が実際に解体を決断するとは限らず、資金不足以外の理由で住宅を残し続ける可能性もある。反対に、解体資金が確保されることで早期に処分が進み、管理不全空き家の増加を抑えられる可能性も考えられるが、どちらの効果がどの程度生じるかは、制度を試さなければ判断できない。

 政策として検証するなら、まずは一定の地域や対象住宅において、任意参加の積立制度や解体費用の見積もり支援などを試行する方法が考えられる。その際には、積立金の残高だけを成果とするのではなく、所有者が住宅の将来について計画を立てた割合、売却や活用、除却に向けて行動した割合、実際の解体件数、積立不足額、管理不全空き家の発生状況などを継続的に調べる必要がある。

 ただし、制度に参加した所有者と参加しなかった所有者を単純に比較するだけでは、効果を正確に測定できない。もともと住宅の処分に関心が高い人ほど積立に参加する可能性があり、積立制度がなくても解体していた人が含まれるためである。制度を導入する地域と導入しない地域を比較する場合にも、人口減少率や住宅の老朽化、所得水準などの違いが影響するため、政策導入前後の変化を比較群との差によって検証する方法などが必要になる。

 また、制度を維持するための行政費用や管理手数料まで含めて評価しなければ、社会全体の経済的な効果は判断できない。積立制度によって解体時の資金不足が減ったとしても、その運営費用が大きければ別の方法の方が合理的な可能性がある。積立を義務化する制度だけでなく、任意積立、税制上の支援、既存の除却補助、相談体制の充実などを比較し、どの方法が少ない社会的費用で適切な住宅管理と除却につながるのかを検証することが重要である。

相続が始まる前に、住宅の将来を考えておく

 空き家問題が難しくなる理由の一つは、多くの家庭で住宅の将来について話し合う時期が遅いことである。令和6年空き家所有者実態調査では、相続空き家について、相続前に何らかの対策を行っていた世帯は23.0%にとどまり、77.0%では事前対策が行われていなかった。さらに、相続前の対策をしていなかった住宅では、活用や解体の意向がないまま空き家として所有していた割合が45.1%だったのに対し、対策をしていた住宅では29.4%となっている。

 この差から、相続前に話し合えば必ず空き家を減らせるという因果関係まで断定することはできない。もともと住宅の処分に関心が高い家庭ほど事前対策も行う可能性があり、立地や資産価値、家族構成なども影響していると考えられる。それでも、相続が発生してから初めて住宅の将来を考える場合には、家族間の意思調整や財産の整理、売却先の検討などを同時に進めなければならず、判断に時間がかかる可能性がある。

 国土交通省が日本司法書士会連合会などと共同で「住まいのエンディングノート」を作成したのも、住宅の将来を早い段階から考えるきっかけを提供するためである。そこでは、所有する土地や建物の情報を整理し、将来その住宅をどうしてほしいかを記録するとともに、家族が元気なうちから住宅の「活かし方」と「しまい方」を話し合うことが勧められている。

 住宅の将来について意思を残すことは重要だが、その意思を実行するための資金がなければ、売却や解体が難しくなる場合もある。住宅を引き継ぐ人へ建物の情報と所有者の希望を伝えるだけでなく、維持管理や処分に必要な資金をどのように確保するかまで考えておけば、相続人が判断する際の負担を軽減できる可能性がある。住宅のエンディングノートと住宅のエンディング資金は、別々の問題ではなく、住宅の将来を準備するための一連の課題として考えることができる。

「売るか、壊すか」ではなく、住宅に出口をつくる

 ここまで考えると、本当に必要なのは、空き家を売る政策をやめて、壊す政策へ切り替えることではないと分かる。住宅としての利用価値があり、買いたい人や借りたい人が存在するなら、市場へ戻す方が合理的な場合は多い。店舗や福祉施設、仕事場、地域拠点などへ用途転換できる住宅についても、改修費用と利用需要を踏まえながら活用の可能性を検討することが望ましい。

 一方で、住宅需要がなく、老朽化が進み、将来も利用される可能性が低い建物を、いつか誰かが買うかもしれないという期待だけで維持し続けることが合理的とは限らない。建物の状態が悪化すれば解体費用が増える場合もあり、近隣住民への危険や自治体の対応負担が生じる可能性もある。住宅を残すことによる利益と費用を冷静に比較し、利用する理由がなくなった住宅については、安全に処分できる選択肢を用意しておく必要がある。

 つまり、売却政策と除却政策は競争相手ではない。住宅として利用できる建物を市場へ戻す仕組みと、利用価値を失った建物を安全に処分する仕組みは、人口減少社会では相互に補完する政策として位置づけられる。そこに解体積立制度を組み込めるかどうかは今後の検証課題だが、住宅を建てるときから最後の処分までを一体として考える視点には意味がある。

 特に、人口減少が進む地方では、住宅の建設や取得を促す政策だけでなく、既存住宅の維持管理、売却、用途転換、除却、跡地管理までを含めた長期的な住宅政策が求められる。地域の人口や世帯数、住宅需要、道路条件、公共施設との位置関係などを分析し、どの住宅を残し、どの建物を活用し、どの住宅について除却を促すべきかを判断することが、これからの地域づくりの一部になっていくだろう。

家を建てる時代から、家の終わりまで考える時代へ

 日本では長い間、「家を持つ」ということには、財産を持つという意味が付いていた。住宅ローンを払い終えれば自分の資産になり、土地は残り、最後には子どもへ引き継ぐことができる。人口が増え、住宅需要が拡大していた時代には、こうした考え方が現実と一致する場面も多かった。

 しかし、人口が減る社会では、すべての家が同じ意味で資産になるとは限らない。売却価格がほとんど付かず、管理費と固定資産税がかかり、最後には解体費用まで必要になる住宅であれば、それは財産であると同時に将来の支出でもある。住宅の経済的な価値は建物そのものの状態だけで決まるのではなく、立地や利用需要、維持管理費、処分費用などを含めて判断しなければならない。

 これからの住宅政策も、住宅を建てるところだけで終わるわけにはいかない。人口が増えていた時代の地域づくりでは、道路を延ばし、宅地を造成し、住宅を建てることが発展の象徴だった。しかし人口が減少する地域では、既存の住宅や土地をどう維持し、どの施設を残し、利用されなくなった建物をどのように安全に処分するかという判断も重要になる。地域の将来を考えることは、新しく何かを増やすことだけでなく、すでに存在するものの役割を見直すことでもある。

 住宅解体積立制度は、そのための一つの政策仮説である。全国一律の義務制度が必要なのか、任意の積立や既存の補助制度を組み合わせる方が合理的なのか、現時点で結論を出すことはできない。制度の導入には法的な仕組みや資金管理、所有者間の公平性、住宅価格への影響など多くの課題があり、実際の効果についても検証が必要になる。

 それでも、住宅の最後に必要となる費用を、所有者が住宅を利用している時期から準備するという考え方は、人口減少社会の住宅政策を検討するうえで無視できない論点である。空き家をどう売るかという問題と同じくらい、どうしても売れず、再利用も難しくなった住宅を、誰がどのような費用負担で処分するのかという問題にも目を向ける必要がある。

 売れる家は次の人へ渡し、使える家は使い続け、新しい役割を持てる家は用途を変える。そして、どの選択肢も成立せず、住宅としての役割を終えた建物には、安全に処分するための資金と制度を用意する。この一連の仕組みが整って初めて、住宅の誕生から最後までを見通した政策に近づくことができる。

 900万2千戸という空き家の数字が問いかけているのは、どうすればもっと住宅が売れるのかということだけではない。私たちは住宅を建てるために住宅ローンを用意し、暮らしのリスクに備えて保険を考え、住宅を長く使うために修繕費を準備してきた。その一方で、住宅が最後に役割を終えたときの処分費用については、未来の所有者や相続人の判断に委ねてきた部分がある。

 人口が減っていくこれからの日本で必要なのは、空き家を売る制度を捨てることではない。売却や活用を進める制度の先に、どうしても利用できなくなった住宅を安全に処分できる出口をつくることである。

 家にも始まりがあるように、終わりがある。その最後の日の費用まで、家を所有するということに含めて考える時代が来ているのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 選挙の夜、市役所や町村役場の一室には独特の熱気がある。当選確実を知らせる一報が入り、支援者から花束が渡され、新しい市長や町長が壇上でこれからの四年間を語る。人口減少を食い止めたい、産業を育てたい、子育てを支援したい、高齢者が安心して暮らせる地域にしたい。そこで語られる政策や将来像には、その地域が少し変わるかもしれないという期待が託されている。

 しかし、祝福の夜が明けると、首長を待っている仕事の風景はかなり違う。予算編成、人事、福祉、教育、道路、水道、公共施設、防災、契約、情報システム、国や都道府県との調整、そして議会への説明など、行政運営に関する幅広い判断が求められる。人口数千人の市町村であっても、行政組織は決して単純な小組織ではない。法令によって実施が義務付けられた業務が数多くあり、住民の生命や財産に直接かかわる仕事を抱え、一つの大型事業の判断が十年後、二十年後の財政にまで影響することもある。

 選挙では「この地域をどのようにしたいか」が問われたはずなのに、当選した瞬間、その人物には複雑な行政組織を運営する能力まで求められる。もちろん、首長がすべての仕事を一人で行っているわけではなく、副市町村長や幹部職員、専門職員がそれぞれの役割を担っている。それでも、重要な政治的判断と行政運営の最終的な責任が、公選された首長に集中していることは確かである。

 ここには、人口減少時代の地方自治を考えるうえで、改めて検討する価値のある問題が存在する。私たちは選挙によって地域の政治的な代表者を選んでいるが、同時に、その一回の選挙によって、数十億円、場合によっては数百億円以上の予算と多数の職員を抱える行政組織の最高責任者も選んでいるのである。

選挙は行政経営者の採用試験ではない

 市長や町長を住民が直接選ぶことには、民主主義の根幹にかかわる意味がある。どのような地域をつくるのか、限られた財源を何に使うのか、開発を優先するのか自然環境を守るのか、公共施設を残すのか統廃合するのか、高齢者施策と子育て施策にどのような優先順位を与えるのか。こうした問題には、統計や財政分析によって判断材料を示すことはできても、計算だけで唯一の正解を導くことはできない。住民によって価値判断が異なるからこそ、選挙と議会を通じた民主的な意思決定が必要になる。

 日本では、首長の直接選挙は単なる慣習ではない。日本国憲法第93条第2項は、地方公共団体の長などについて、住民による直接選挙を定めている。したがって、市長や町長を住民が選ぶ仕組みを廃止し、民間から採用した専門経営者だけを行政の最高責任者にする制度を、そのまま導入することはできない。

 しかし、首長を住民が直接選ばなければならないことと、選挙で選ばれた人物が高度な行政経営能力をすべて備えていなければならないことは、同じではない。考えてみれば、選挙は行政経営能力を専門的に測定するようには設計されていない。候補者が長期財政計画をどの程度読み解けるのか、公共施設の更新費用を推計できるのか、大規模な情報システム更新を管理できるのか、組織を再編して人員配置を適正化できるのかを、有権者が投票所で個別に検証するわけではない。

 実際の選挙では、政策、人物、政治経験、地域との関係、過去の実績、説明能力などが総合的に評価される。それは民主主義として自然なことであり、行政実務の専門知識を持たない候補者が首長になること自体が問題なのではない。重要なのは、選挙によって得られる政治的な正当性と、行政組織を適切に運営するための専門能力が、必ずしも同じ選考過程によって確保されるものではないという点である。

 そこで考えられるのが、市長や町長はこれまで通り住民が選挙で選び、その一方で、財政、人事、組織運営、公共施設管理などに強い専門的人材を公募し、首長を補佐しながら行政経営を担ってもらうという構想である。選挙を専門家による経営に置き換えるのではなく、民主的に選ばれた首長の下で専門的な行政運営能力を強化するという発想である。

地域の方向を決める仕事と、行政組織を動かす仕事

 ここでいう「行政経営者」は、現在の日本法に存在する正式な職名ではなく、地方自治における役割分担を考えるための仮称である。想定するのは、首長と対等な権限を持つ第二の首長ではない。住民から選ばれた首長の政治的な方針を、実行可能な事業計画、財政運営、組織体制へと具体化することに責任を持つ専門的人材である。

 市長や町長は、住民から与えられた信任に基づいて地域の将来像を提示し、政策の優先順位を判断する。その方針を実現するために、行政経営者は財政を分析し、事業の優先順位を整理し、公共施設の維持更新を計画し、庁内の部局間調整を進め、必要な人材を確保し、政策が計画通り実施されているかを継続的に検証する。首長の意思決定に必要な複数の選択肢と、それぞれの費用、効果、リスクを明らかにすることも重要な仕事になる。

 もっとも、政治と行政経営を完全に分けられるわけではない。予算配分や組織再編には必ず価値判断が含まれ、どの事業を効率化するかという技術的に見える判断も、住民の生活や地域間の公平性に影響する。専門家が計算した結果だからといって、それが自動的に政治的な正解になるわけではない。

 また、行政と企業には根本的な違いがある。企業では利益や市場での競争力が重要な経営指標になるが、地方自治体には、採算だけでは判断できない公共サービスを提供する責任がある。利用者が少ない地域であっても必要な医療や福祉へのアクセスを確保しなければならない場合があり、防災や消防の体制も、単純な収益性では評価できない。施設の統廃合や広域化による効率改善は可能でも、住民の安全や権利を無視して採算だけを理由に行政サービスを縮小することは適切ではない。

 したがって、政治と行政経営の分担とは、政治家が目的だけを決め、専門家が方法だけを決めるという機械的な区分ではない。専門家は客観的な情報と実行可能な選択肢を示し、首長と議会はその情報を踏まえて民主的な判断を行い、行政組織が決定を実行する。その過程で、それぞれの権限と責任を明確にすることが重要になる。

海外には政治と専門行政経営を分担する制度がある

 このような役割分担を考える際、比較対象となるのが米国などで採用されているCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式・議会と専門行政経営者が役割を分担する地方政府制度)である。典型的には、住民が選んだ議会が政策や予算について政治的な意思決定を行い、議会が任命したCity Manager(シティ・マネージャー・地方政府の日常的な行政運営を担う専門行政経営者)が予算案の作成、職員管理、行政サービスの運営などを担当する。

 これに対して、Mayor-Council(メイヤー・カウンシル方式・市長と議会を中心に構成される地方政府制度)では、市長が行政運営に強い役割を持つ。ただし、実際の米国の制度は、この二種類に単純に分類できるわけではない。カウンシル・マネージャー方式でも市長が住民から直接選ばれる都市があり、市長・議会方式の下でも専門的な行政管理官を配置する例がある。重要なのは、市長が公選かどうかという形式だけでなく、予算、人事、日常的な行政執行について、実際に誰がどの権限を持つかという制度設計である。

 ここで注意しなければならないのは、米国のカウンシル・マネージャー方式と、日本で想定する「公選首長の下に専門行政経営者を置く制度」は同じではないという点である。米国の制度をそのまま日本に移すことは、憲法上の首長公選制だけでなく、地方自治法、公務員制度、議会制度、行政委員会制度との関係からも難しい。

 また、海外制度を紹介する資料の出所にも注意が必要である。International City/County Management Association(国際市・郡管理協会・地方行政経営の専門化や専門職制度の普及を推進する団体)は、制度の仕組みや行政経営者の職務を理解するうえで有用な情報を提供している一方、専門行政経営の推進に関与する団体でもある。制度の紹介と制度の優位性に関する評価は区別し、後者については独立した学術研究や客観的な統計によって確認する必要がある。

 海外制度から得られる最も重要な示唆は、政治的な代表性を維持しながら、行政の専門性を組織的に確保する方法には複数の選択肢があるということである。ただし、制度の存在そのものは、行政成果の改善を証明するものではない。

日本にも専門行政経営者を登用する制度上の入口がある

 では、日本の市町村でこの発想を実現するためには、まったく新しい制度をつくる必要があるのだろうか。必ずしもそうではなく、現行法の下でも、専門的人材を行政運営の中枢に登用する方法は存在する。

 最も分かりやすいのは、副市町村長として外部の専門人材を登用する方法である。地方自治法第161条は、市町村に副市町村長を置くことを定めている一方、条例によって置かないことも認めている。第162条では副市町村長を首長が議会の同意を得て選任することを定め、第163条では任期を四年とし、任期途中であっても首長が解職できることを規定している。

 副市町村長の職務は、首長が不在のときに代役を務めることだけではない。地方自治法第167条では、首長を補佐し、その命を受けて政策や企画をつかさどり、職員の事務を監督する役割が定められている。また、首長の権限に属する事務の一部について委任を受け、実際に執行することもできる。

 したがって、行政経営に強い人材を全国から公募し、その中から首長が候補者を選び、議会の同意を得て副市町村長に選任するという構想は、現行制度の枠内で検討できる。ただし、公募によって自動的に就任できるわけではなく、最終的な選任には法律上の手続が必要になる。

 もう一つの方法として、地方公共団体の一般職の任期付職員の採用に関する法律に基づき、専門的な知識経験や優れた識見を持つ人材を任期付きで採用する仕組みがある。条件を満たす場合には、選考による採用が可能であり、同法第3条に基づく採用では任期の上限は原則として五年である。財政改革、公共施設再編、情報システム改革、組織運営の改善など、特定の業務について専門職を採用する方法も考えられる。

 ただし、副市町村長と一般職の任期付職員では、法的な地位も権限も異なる。一般職の専門人材を採用したからといって、当然に全庁的な指揮命令権が与えられるわけではない。また、地方自治法上、市町村長には自治体を統轄し、代表し、所管する事務を管理・執行する権限と責任がある。教育委員会、選挙管理委員会、監査委員など、独立した権限を持つ執行機関との関係も無視できない。

 つまり、行政経営者を置くとしても、自治体のすべての仕事を自由に指揮する独立した経営者になるわけではない。現実的な制度設計は、首長の法的責任と既存の行政機関の権限を維持したまま、専門家への権限の一部委任、部局横断的な調整、政策実施の管理などを通じて行政運営能力を強化するものとなる。

人口が減っても行政の仕事は同じ割合では減らない

 この問題が特に重要になるのは、人口減少が進む市町村である。もし人口が半分になったときに行政の仕事も半分になり、必要な予算や職員数も同じ割合で削減できるのであれば、人口減少への対応は比較的単純になる。しかし、地方行政にはそのような比例関係が成立しない業務が数多く存在する。

 人口が減っても、住民登録、税務、福祉、防災、教育、道路管理、上下水道、ごみ処理などの行政機能は必要になる。道路延長が人口に合わせて自然に半分になるわけではなく、水道管の総延長が住民減少に比例して短くなるわけでもない。人口三千人の町村にも、条例、予算、決算、議会、選挙、福祉、防災などに関する一定の行政機能が求められる。

 経済学的に考えると、行政費用には人口の増減に比較的連動しやすい部分と、人口が変化しても短期間では減らしにくい固定的な部分がある。例えば、行政費用を「固定費と人口に比例する変動費の合計」として単純化すると、人口が減少しても固定費は残るため、住民一人当たりの行政費用が増加する構造を説明できる。

 仮に、ある市町村の年間固定費が十二億円、住民一人当たりの変動費が十二万円とする。この場合、人口五千人では年間行政費用が十八億円となり、住民一人当たりでは三十六万円になる。人口が二千五百人に半減すると、年間行政費用は十五億円に減少するものの、住民一人当たりでは六十万円になる。総費用は約十六・七%減少しているのに対して、住民一人当たりの費用は約六十六・七%増加する計算である。

 もちろん、これは行政費用の構造を理解するための仮定上の計算であり、実際の市町村の決算値を示したものではない。現実の費用は人口だけでなく、行政区域の面積、人口密度、地形、高齢化率、道路や水道などの施設保有量、行政サービスの水準、国や都道府県との役割分担などにも影響される。施設を統廃合したり、複数の自治体で事務を共同処理したりすれば、固定費そのものを削減できる場合もある。

 国土交通省が公表した人口規模や人口密度と行政費用の関係に関する分析でも、人口規模が小さく、人口密度が低い市町村ほど、住民一人当たりの行政費用が高くなる傾向が示されている。ただし、この関係は人口と行政費用の相関を表したものであり、人口減少だけが費用増加の原因であることを証明するものではない。

 それでも、人口減少が行政運営に構造的な負担をもたらし得ることは、理論的にも理解できる。さらに、人口減少とともに税収が減少する圧力も生じるが、地方税収は人口に完全比例するわけではなく、固定資産税や地方交付税、国・都道府県からの財政移転にも左右される。人口、職員数、財源が常に同じ割合で減少するとは限らないものの、行政需要と財政・人材の供給能力との間に不均衡が生じる可能性は高まる。

小規模自治体ほど専門人材を確保する仕組みが重要になる

 人口減少が行政運営を難しくする理由は、財政負担の増加だけではない。自治体に求められる専門性が高まっていることも重要である。情報システムの標準化、個人情報保護、サイバーセキュリティ、複雑化する社会保障制度、公共施設の老朽化対策、災害対応など、近年の自治体が直面する課題は、一つの分野に限定されない。

 人口が少ない自治体でも、適用される法制度や行政上の責任が人口規模に応じて単純に軽くなるわけではない。その一方で、財政、人事、情報、福祉、土木などの各分野について高度な専門性を持つ職員を、すべて自前で確保することは難しくなりやすい。特に、専門職員が一人しかいない業務では、その職員の退職や異動によって組織内の知識や経験が大きく失われる可能性がある。

 もっとも、小規模自治体には優れた専門職員がいないと一般化することはできない。行政運営に精通した職員を抱える町村もあり、自治体の規模だけで行政能力を判断することは適切ではない。また、専門性を補う方法は外部人材の直接採用だけではなく、都道府県からの支援、自治体間の共同処理、広域連携、外部委託、既存職員の専門能力向上など複数存在する。国でも、都道府県と市町村が連携したデジタル人材の確保や、自治体間での専門人材の共有が推進されている。

 ここで考えなければならないのは、人口が小さい自治体ほど、専門行政経営者を一人採用することが最も合理的とは限らないという点である。行政経営の専門家を各町村が個別に配置するよりも、複数の市町村が共同して専門人材を確保する方が、費用負担を抑えながら一定の専門性を確保できる可能性もある。

 人口減少時代に必要なのは、すべての自治体が現在と同じ人員構成で、すべての専門機能を内部に持ち続けることではない。どの機能を自治体内部に維持し、どの機能を共同化し、どの専門能力を外部から確保するのかを、行政サービスの継続性と費用対効果の両面から考えることである。

専門行政経営者を置けば行政成果は改善するのか

 ここまで考えると、行政経営に強い人材を導入した方がよいという結論になりそうである。しかし、制度が理論的に合理的であることと、その制度を導入した結果として実際に行政成果が改善することは、別の問題である。

 米国の地方政府制度については、長年にわたって多くの実証研究が行われてきた。Jered B. Carrが二〇一五年に発表した研究レビューでは、カウンシル・マネージャー方式の成果に関する七十六本の実証研究を整理し、制度の優位性について十の命題を検討している。その結果、政策の便益を広く分配する傾向や、行政幹部による経営管理への時間配分などについては比較的強い根拠が見られた一方、専門経営型の自治体の方が総合的に優れた行政運営をしているという中心的な命題については、十分な実証的裏付けが得られていないと評価されている。

 このレビューでは、自治体幹部間の対立や総合的な政策形成など、制度によって違いが見られる可能性のある分野も整理されている。また、住民の投票率について、専門経営型の自治体で低い傾向を示す研究も取り上げられている。こうした結果は、専門的な行政運営の強化が行政組織の活動に一定の変化をもたらす可能性を示す一方、民主的参加を含むすべての面で優位な制度であると評価できるわけではないことを意味する。

 財政面でも研究結果は一様ではない。Changhoon Jungが二〇〇六年に発表した研究では、人口五万人を超える米国の五百四都市を対象に、一九八〇年から二〇〇〇年までのデータを分析し、統治制度と行政支出の関係を検討している。共通する自治体業務の住民一人当たり支出については、制度間に統計的に明確な差が確認されず、警察支出ではカウンシル・マネージャー方式の方が低いという結果が示されたものの、消防支出については有意な差が確認されなかった。

 さらに、Stephen CoateとBrian Knightが二〇一一年に発表した研究では、市長・議会方式の方が公共支出が低くなるという理論的予測が示され、実際の都市データを用いた分析でも、その方向を支持する結果が得られている。このように、専門行政経営者を中心に行政運営を行う制度が、必ず行政支出を削減するとは言えないのである。

 もっとも、行政支出が少ないことは、行政効率が高いことと同じではない。例えば警察や消防に関する支出が低くても、それによって治安や安全性、災害対応能力が低下していれば、行政成果が改善したとは評価できない。反対に、必要な支出を増やすことで行政サービスの品質や住民の安全が向上する場合もある。行政経営の成果を評価するには、費用だけでなく、その費用によって提供されたサービスの量、質、公平性を同時に確認する必要がある。

汚職が57%少ないという研究をどう読むか

 制度の違いが財政以外の成果に影響する可能性を示した研究もある。Kimberly L. NelsonとWhitney B. Afonsoが二〇一九年に発表した研究では、一九九〇年から二〇一〇年までの米国自治体における汚職による有罪判決を分析し、カウンシル・マネージャー方式の自治体では、市長・議会方式の自治体と比較して、有罪判決が発生する可能性が低いという統計的な関連が報告された。推計では、その可能性が五十七%低いとされている。

 この数字は一見すると大きな制度効果を示しているように見えるが、解釈には注意が必要である。まず、五十七%低いという相対的な指標は、有罪判決の発生確率が五十七パーセントポイント低いことを意味しない。例えば、比較対象での発生確率を仮に一%とし、もう一方の発生確率が相対的に五十七%低いと仮定すれば、〇・四三%となり、絶対的な差は〇・五七パーセントポイントである。ただし、これは相対差と絶対差の違いを示すための単純な計算例であり、研究が報告した実際の発生確率ではない。回帰分析の推定値を確率へ換算する場合には、用いられた統計モデルや基準確率を確認する必要がある。

 さらに、この研究は観察データを用いたものであり、制度の採用と汚職の少なさの間に関連が認められたとしても、それだけで制度導入の因果効果が証明されたわけではない。もともと改革志向の強い自治体、行政の透明性を重視する自治体、専門人材を確保しやすい自治体などが、カウンシル・マネージャー方式を採用している可能性もある。また、汚職による有罪判決は、実際に発生した汚職すべてを表すものではなく、捜査、摘発、訴追などの制度運用にも左右される。

 つまり、この研究から「専門行政経営者を置けば汚職が五十七%減る」と結論付けることはできない。制度と行政成果の関係を考えるときに重要なのは、その制度を採用したから成果が変わったのか、それとも、もともと成果を改善しやすい自治体がその制度を採用したのかを区別することである。

 ここまでの研究を総合すると、専門行政経営者の配置には一定の利点がある可能性は認められるが、財政支出、行政サービスの品質、民主的参加、組織運営、汚職防止のすべてについて、一貫した優位性が実証されているわけではない。専門家という肩書も制度の名称も、それだけでは行政成果を保証しないのである。

米国の研究を日本の小規模自治体にそのまま適用できない

 海外研究を日本の人口減少地域に当てはめる際には、研究対象の違いにも注意しなければならない。例えば、先ほどのJungの研究は人口五万人を超える米国都市を対象としているが、日本には人口一万人未満、さらに数千人という市町村も存在する。自治体の規模が異なれば、予算構造、職員数、専門職の配置、人材採用の可能性、行政サービスを共同化できる余地なども異なる。

 また、日本と米国では地方税制、公務員制度、首長と議会の権限関係、教育行政、警察や消防などの行政サービスの担当範囲、州や都道府県との関係が異なっている。米国で議会が専門行政経営者を任命する制度と、日本で首長が副市町村長として専門人材を選任する制度では、専門家が持つ権限も、政治的責任との関係も同一ではない。

 したがって、米国でカウンシル・マネージャー方式に一定の成果が観察されたからといって、日本の人口三千人の町村でも行政経営者を配置すれば同じ成果が得られるとは言えない。海外の研究は、日本での制度導入を正当化する直接的な証拠というよりも、検証すべき仮説を考えるための材料である。

 ここから導かれる問いは、専門行政経営者を置くべきかどうかという単純な賛否ではない。日本の人口減少自治体において、どのような条件の下で、どのような専門人材を、どのような権限と責任で配置すれば、行政サービスの質や持続可能性が改善するのかという、より具体的な問いである。

本当に難しいのは効率よりも責任の所在である

 仮に専門行政経営者を採用できたとしても、制度の成否を左右する難しい問題が残る。それは、最終的に誰が決定し、誰が住民に説明するのかという責任の所在である。

 例えば、老朽化した公共施設が三つ存在し、人口予測や維持更新費の推計から考えると、一つの施設に集約した方が長期的な財政負担を抑えられるとする。行政経営者は、今後二十年間の費用、利用者数、施設の安全性、維持管理体制を比較し、統合案を提案するかもしれない。しかし、閉鎖される地区の住民にとって、その施設は単なる行政資産ではない。長年にわたって地域行事が行われ、子どもが集まり、高齢者が交流してきた場所であり、地域社会の維持に重要な役割を果たしている可能性もある。

 財政的な分析に基づく統合案には合理性がある一方、地域のつながりや生活上の利便性を理由に住民が反対することにも合理性がある。しかも、施設統合によって移動距離が長くなれば、交通手段を持たない高齢者や子どもに負担が集中するかもしれない。施設維持費だけでなく、代替交通手段の整備費用や住民が負担する移動時間まで含めて評価すると、当初の結論が変わる可能性もある。

 こうした問題では、専門的な費用分析によって選択肢を絞ることはできても、どの価値を優先するかという最終的な判断は政治的な責任を伴う。首長が政策方針を示し、議会が予算や条例などについて必要な判断を行い、住民に対して説明することが求められる。専門行政経営者は、その判断のための情報を整理し、各選択肢の費用と影響を明らかにする役割を担う。

 専門家が効率性だけを基準として価値判断まで独占すれば、民主的な統制が弱まる危険がある。一方で、政治家が日常的な人員配置や個別業務の処理に過度に介入すれば、専門的な行政運営を導入した意味が薄れてしまう。行政経営者の採用で重要なのは、優秀な人材を一人見つけること以上に、専門家の裁量と政治的な意思決定の境界を適切に設計することである。

公募するなら市町村を救う英雄を探してはいけない

 仮に日本の市町村が行政経営者の公募を行うなら、「民間の優秀な経営者が行政を立て直す」という単純な構想にしてはいけないだろう。企業経営の経験が豊富な人物であっても、地方自治法、財政制度、公務員制度、住民の権利保障、議会との関係に十分な理解がなければ、行政組織の運営で能力を発揮できるとは限らない。

 反対に、行政経験の長い職員であれば必ず適任というわけでもない。既存の制度や慣行に精通していることは強みになるが、外部との連携、組織改革、人材育成、データに基づく意思決定などの能力が十分かどうかは別に評価する必要がある。行政経営者の採用では、民間出身か行政出身かという経歴だけでなく、どのような課題を分析し、どのような組織を動かし、どのような成果を継続的に実現してきたかが重要になる。

 さらに、外部人材の採用には組織文化との適合という課題も存在する。地域の事情を知らない人材が短期間で改革を進めようとしても、現場職員との信頼関係が構築できなければ、実施段階で抵抗や混乱が生じる可能性がある。逆に、専門家が首長の意向を無条件に追認するだけであれば、独立した専門的な判断を期待する意味が薄れる。

 したがって、採用時には行政経営に必要な専門能力だけでなく、法令遵守、倫理観、説明責任、組織内の調整能力、住民の多様な価値観への理解を確認する必要がある。採用後も首長や議会との関係を曖昧にせず、担当する業務、委任する権限、成果の評価方法、情報公開の範囲、任期満了時の判断基準などを明確にしておくことが望ましい。

行政経営者の採用には費用がかかる

 専門行政経営者を導入する場合、その人物の能力だけでなく、採用に必要な費用と期待される成果を比較しなければならない。特に人口規模が小さい自治体では、新たな専門職の配置が財政に与える影響を無視できない。

 仮に、年間一般会計歳出が四十億円の市町村で、行政経営者の人件費や関連経費を含む年間総費用が一千五百万円になるとする。この費用を財政支出の削減だけで回収するなら、一般会計全体の約〇・三七五%に相当する削減効果が必要になる。一見すると小さな数字に見えるが、実際の予算には法令、契約、既存の制度などによって短期間では変更できない支出が数多く存在する。

 仮に行政経営者が実質的に改善できる支出を年間五億円に限定すると、一千五百万円の費用を回収するためには、その三%に相当する削減が必要になる。しかも、これは行政経営者の採用によって新たに発生する費用を、財政削減効果だけで相殺するという単純な計算であり、採用時の募集費用、引き継ぎ、組織変更、情報システム整備などに伴う費用は別途考える必要がある。

 また、既存の副市町村長を外部専門人材に交代させる場合と、副市町村長を置いていない町村が新たに配置する場合とでは、追加財政負担が大きく異なる。すでに存在する役職の人選を変えるだけであれば、追加費用が比較的小さい場合も考えられるが、新しい役職や専門部署を設ける場合には、継続的な費用が発生する。

 もっとも、行政経営者の価値を単純な支出削減額だけで測ることも適切ではない。公共施設の修繕を先送りすれば当年度の歳出は減少するが、十年後に大規模な改修が必要となり、かえって総費用が増える可能性がある。職員数を急激に削減すれば人件費は下がるが、職員の負担が増大し、離職や採用難によって組織能力が低下するかもしれない。

 行政経営者の成果を評価するには、短期的な歳出削減と長期的な財政負担を区別し、行政サービスの水準を維持できているかを同時に確認する必要がある。公共施設の維持管理、職員採用と人材育成、行政手続に要する時間、住民サービスの利用しやすさ、情報システムの安定性、広域連携の進展、政策実施の速度、職員の働き方など、複数の指標を継続的に評価することが望ましい。

 行政経営とは、単に予算や職員数を小さくする技術ではない。限られた財源と人材を使って、必要な公共サービスを将来にわたり提供できる状態を維持するための組織運営能力なのである。

一人の専門家を採用することが最善とは限らない

 行政経営能力を高める方法としては、外部専門家を副市町村長に登用するほか、任期付職員として専門人材を採用する方法、既存の幹部職員を育成する方法、複数自治体で専門人材を共同確保する方法などがある。これらは相互に排他的なものではなく、自治体の規模や課題によって組み合わせることもできる。

 例えば、財政運営、公共施設管理、情報システム更新といった課題に専門的な支援が必要であっても、そのために常勤の行政経営者を一人追加することが最適とは限らない。特定の事業に限って外部専門家を採用したり、複数自治体で専門人材を共有したりする方が、必要な能力を確保しながら費用を抑えられる場合もある。

 反対に、部局間の連携不足、職員育成の停滞、政策実施の遅れなど、自治体全体の組織運営に問題がある場合には、個別分野の専門家を採用するだけでは十分な改善が得られない可能性がある。このような場合には、全庁的な調整権限を持つ副市町村長などに専門性の高い人材を登用する方が有効かもしれない。

 ここで必要になるのは、どの採用方法が優れているかを最初から決めることではなく、自治体が抱える問題を診断することである。財政分析能力が不足しているのか、意思決定が遅いのか、職員の専門性が不足しているのか、部局間の調整に問題があるのかによって、採用すべき人材も必要な権限も変わる。

 人口数千人の町村では、首長と職員の距離が近く、組織構造が比較的簡素であることが強みになる場合もある。そのような自治体で、行政経営者という新しい管理階層を増やすことが、必ずしも組織運営を改善するとは限らない。管理職を増やすことで報告や決裁の経路が複雑になり、かえって意思決定が遅くなる可能性も考慮すべきである。

 したがって、行政経営者の導入は、それ自体を目的とするのではなく、行政能力を高める複数の手段の一つとして位置付ける必要がある。

日本で効果を検証するには何が必要か

 この構想を日本の自治体で本格的に検討するなら、制度導入前後の成果を客観的に比較する仕組みが必要になる。ただし、行政経営者を採用した自治体と採用していない自治体の平均値を比較するだけでは、制度の効果を適切に推定できない。

 例えば、外部専門人材を採用する自治体は、もともと首長の改革意欲が強く、組織改革に積極的である可能性がある。一方で、財政状況が極めて厳しいために、外部人材の採用を決断した自治体もあるかもしれない。採用の背景が異なれば、その後の財政や行政サービスに生じた変化を、行政経営者の能力だけで説明することはできない。

 こうした問題を検証する方法の一つとして、差の差分析が考えられる。これは、行政経営者を導入した自治体について導入前後の変化を測定し、同じ期間に導入していない比較対象自治体で生じた変化との差を分析する方法である。例えば、行政手続の処理期間、職員一人当たりの業務量、公共施設の維持管理費などについて、導入自治体だけが改善したのか、同じ時期に他の自治体でも同程度の改善が起きていたのかを比較する。

 もっとも、差の差分析を使えば自動的に因果効果が明らかになるわけではない。導入前の変化傾向が比較可能かどうかを確認し、人口構造、財政事情、首長の交代、国の制度改正、同時期に実施された他の改革などの影響を考慮する必要がある。対象自治体が少ない場合には、比較対象の選び方によって結果が大きく変わる可能性もある。

 分析には、地方財政状況調査、地方公共団体定員管理調査、国勢調査、国立社会保障・人口問題研究所による地域別将来推計人口、各自治体の決算資料や行政評価などを活用できる。ただし、公的統計だけでは、外部人材の採用経緯、担当業務、委任された権限、組織内で実際に果たした役割までは十分に把握できないため、各自治体の人事資料や議会資料などの追加調査も必要になる。

 成果については、少なくとも導入前の状況と導入後数年間の変化を継続的に観察することが望ましい。ただし、公共施設の長寿命化や職員育成などは、短期間では成果が見えにくい。財政支出の変化だけでなく、サービスの品質、安全性、公平性、住民の満足度、職員の定着状況なども併せて評価しなければならない。

 このような検証を行うことで初めて、行政経営者の登用が本当に有効だったのか、どのような条件の自治体で効果が大きかったのか、あるいは広域連携や既存職員の育成の方が合理的だったのかを判断できるようになる。

地方選挙で私たちは何を選んでいるのか

 ここまで考えると、「行政経営者を公募したら市町村は良くなるのか」という問いは、さらに根本的な問題へとつながっていく。そもそも私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう。候補者の人格や政策、政治経験、地域との関係、将来像を評価しているのか。それとも、多数の職員と巨額の予算を動かす行政経営能力まで含めて、一人の人物に託しているのだろうか。

 人口や税収が増加していた時代には、新しい学校を建設し、道路を整備し、公共施設を増やすことが地域の成長と結びつきやすかった。しかし人口減少が進む地域では、既存の施設をどこまで維持し、何を統合し、何を縮小するのかという判断の重要性が高まっている。限られた財源の下で必要なサービスを維持するには、住民の理解を得る政治的な能力と、将来の費用や行政需要を分析する専門的な能力の双方が必要になる。

 もちろん、人口減少時代だからといって、すべての自治体に専門行政経営者を配置することが正解になるわけではない。外部から優秀な人材を確保できる保証はなく、首長との意見対立や議会との調整、組織内の混乱が生じる可能性もある。新しい役職を設けることで費用が増加し、その費用に見合う成果が得られない自治体もあるだろう。

 一方で、既存の副市町村長制度や任期付職員制度を活用し、適切な専門人材に明確な権限と責任を与えることで、行政運営能力を高められる可能性もある。特に専門職員の確保が難しくなっている自治体では、人材の採用方法、職員育成、自治体間の共同処理を含めて、行政組織のあり方を見直す必要がある。

 重要なのは、専門行政経営者という制度そのものを導入するかどうかではない。市町村が将来にわたって必要な公共サービスを提供するために、どのような行政運営能力を確保し、その能力をどのような組織と人材によって維持するのかという問題である。

 海外の実証研究は、専門経営型の制度が必ず行政成果を改善するとは示していない。日本の小規模自治体において、公募による専門行政経営者の登用が、既存職員の育成や広域連携などの代替策より優れた成果を生むという結論も、現時点でこの記事から導くことはできない。

 しかし、だからといって検討する価値がないわけではない。むしろ、行政運営に必要な専門性が高まり、人口構造や財政条件が変化しているからこそ、専門人材をどのように確保し、政治的な意思決定と行政運営の責任をどのように分担するのかを、客観的なデータに基づいて検討する必要がある。

 人口減少によって最初に限界を迎えるものが、道路なのか、水道なのか、学校なのか、それとも行政組織そのものなのかは、自治体ごとの状況によって異なるだろう。しかし、道路や公共施設が物理的な耐用年数を迎えるよりも前に、それらを適切に管理し、更新計画を立て、必要な専門人材を確保する組織能力が不足する可能性はある。これは人口減少時代の地方自治において、検証すべき重要な仮説の一つである。

 選挙は、市町村がどのような将来を目指すのかについて、住民が政治的な意思を示す仕組みである。一方、行政経営は、その意思を具体的な政策や行政サービスとして実現し続けるための仕組みである。現実には両者を完全に切り離すことはできず、切り離すべきでもないが、だからといって、その役割を最初から同一のものと考える必要もない。

 選挙の夜、新しい市長や町長が壇上で地域の未来を語る。その翌朝、静かな市役所や町村役場では予算書が開かれ、人員配置の相談が始まり、老朽化した施設の修繕費が積み上がり、数年後に更新が必要となる情報システムの計画が検討される。地域の将来は、選挙で示された政治的な意思だけで実現するものでも、行政経営の専門技術だけで決まるものでもなく、その両方を適切に結び付けることによって形づくられていく。

 だから人口減少時代の地方自治について考えるとき、本当に問うべきなのは「誰を市長や町長に選ぶか」だけではない。

 選挙で選ばれた首長の民主的な責任を維持しながら、地域に必要な行政経営能力を、誰が、どのような権限で、どのように担うべきなのか。

 その問いに対して、現行制度の可能性と限界を確認し、複数の選択肢を比較し、実際の成果を検証していくことが、人口減少時代にふさわしい地方自治の形を考える出発点になるのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の将来を語る資料を開くと、かなりの確率で最初に人口のグラフが現れる。現在何人が住んでいて、十年後には何人になり、若い世代を何人呼び込み、出生数をどこまで回復させるのか。右肩下がりの折れ線が描かれ、その傾きを少しでも緩くすることが地域政策の使命であるかのように話が進んでいく。人口が増えれば発展し、減れば衰退するという考え方は、自治体の将来計画だけでなく、地域を評価する私たちの感覚にも深く入り込んでいる。

 それは決して不合理なことではない。人が減れば商店の客は減り、公共交通の利用者も少なくなる。広い地域に道路や水道管が張り巡らされたまま住民だけが減れば、一人当たりで支えなければならない社会基盤の費用も重くなりやすい。学校、医療、介護、商業にも一定の利用者や働き手が必要であり、人口は地域の持続可能性を考えるうえで欠かせない数字である。しかし、人口が重要な数字であることと、人口そのものを町の最終目標にすることは同じではない。

 人口が増えた町は、本当にそれだけで良い町になったと言えるのだろうか。反対に、人口が減った町は、その減少率に応じて住民の暮らしまで悪くなったと考えてよいのだろうか。人口減少が日本社会の日常になったいま、地域政策の目的と成果を測る物差しそのものを、改めて考え直す必要がある。

人口という数字が、いつの間にか町の成績表になった

 人口が増えることを自治体が望むのには理由がある。若い世代が入り、子どもが生まれ、住宅が建ち、店に客が来る。労働力の確保や税収の面でも有利になる場合が多く、人口増加期の日本では、人口と地域の発展はかなり近い方向を向いていた。その時代には、人口は町の勢いを測る便利な指標であり、人口増加を前提として道路、学校、上下水道、住宅地などを整備することにも一定の合理性があった。

 ところが、日本全体の人口構造が変わった。総務省統計局が2026年9月24日に公表した人口推計によれば、2026年9月1日現在の日本の総人口は概算で1億2265万人となり、前年同月より54万人、0.44%減少している。同時に公表された2026年4月1日現在の確定値では、総人口は1億2283万8千人で、前年同月より55万9千人減少した。内訳を見ると、日本人人口は86万人減少する一方、外国人人口は30万1千人増加している。これらは2020年国勢調査を基準とする人口推計であり、今後の国勢調査結果によって改定される可能性はあるものの、日本人人口の減少と外国人人口の増加が同時に進んでいる状況を示している。

 さらに、国立社会保障・人口問題研究所の「日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)」では、2020年を基準とすると、2050年の人口が2020年以上になる市区町村は77、集計対象1728市区町村の4.5%にとどまる。一方、1651市区町村、95.5%では2020年を下回り、約6割の市区町村で3割以上減少し、約2割では半数未満になると推計されている。これは出生、死亡、人口移動などについて一定の仮定を置いた将来推計であり、2050年の人口を確定する予言ではない。また、2020年と2050年の比較であるため、その間のすべての年に人口が減り続けるという意味でもない。それでも、日本の大部分の自治体が長期的な人口減少を想定して政策を考える必要があることは、この数字から十分に読み取れる。

 この社会で、すべての町が人口増加だけを成功の条件にしたら何が起こるだろう。出生率の改善や海外からの人口流入もあるため、自治体人口の増減を単純なゼロサムゲームとみなすことは正確ではない。しかし、国内の若者や子育て世帯の転入を人口対策の中心に置けば、全国人口が減少するなかで、限られた転入希望者を自治体間で競う側面は強くなる。その競争によって住環境や行政サービスが改善されることもあるが、ほとんどの自治体が長期的には人口減少すると推計されている社会で、人口増加だけを町の合格条件にすれば、多くの地域が生活環境を改善しても、人口の数字だけで失敗と評価され続けることになる。

 問題は人口対策をやめるかどうかではない。人口を何のために維持したいのか、人口を維持することで住民のどのような生活を守ろうとしているのか。その政策目的と手段の順序を問い直すことである。

人が減ることと、暮らしが悪くなることは同じではない

 人口1万人の町を想像してみる。町には病院があるものの、車を運転できない高齢者が通院するには家族の送迎が必要である。駅はあるが列車は一時間に一本しかなく、スーパーまで歩けば四十分かかる。行政手続きには役場へ出向かなければならず、高校生の通学にも家族の車が欠かせない。人口だけを見れば、一定の規模を持つ町であっても、住民が日常生活で利用できる選択肢は限られている。

 十年後、その町の人口が8000人になったとしよう。人口だけを見れば20%の縮小である。ところが、その十年間に予約型の乗合交通が整備され、診療所と基幹病院の連携が進み、日用品を自宅まで届ける仕組みが定着したとする。行政手続きの多くを自宅から行えるようになり、中心部では徒歩圏内に住宅、商業、医療などの機能がまとまり始めた。さらに、これらのサービスを無理のない費用で利用できるのであれば、人口は減少していても、そこで暮らす住民の生活は以前より便利になっている可能性がある。

 反対の町も考えられる。人口が1万人から1万500人に増えたものの、住宅地が郊外へ広がり、自動車がなければ生活できなくなり、中心部の商店が減り、道路や上下水道の維持範囲だけが広がったとしたらどうだろう。500人増えたという数字は人口政策の成果かもしれないが、それだけで住民生活が改善したと結論づけることはできない。もちろん、人口増加によって商業や公共交通の需要が増え、生活環境が改善する場合もあるため、人口増加自体を否定する必要はない。

 これらは実在する自治体の実績を示したものではなく、人口と生活品質の違いを考えるための仮想的な例である。しかし、そこから分かるのは、人口の増減と生活品質の変化を同じ指標で扱ってはならないということである。人口は町の規模や需要の基盤を教えてくれるが、そこで暮らす人がどのような一日を送れるのかまでは教えてくれない。人口と生活品質は無関係ではないものの、同じものでもない。この区別こそ、人口減少時代の地域分析に必要な視点である。

人口を「目的」から「条件」へ移してみる

 そこで、政策の順序を逆転させてみたい。町の最終目的を「人口を最大化すること」ではなく、「そこに暮らす人が、できる限り安心して生活を続けられる状態をつくること」と考えるのである。これは単なる理念ではなく、日本の地方自治制度とも整合する考え方である。地方自治法第1条の2第1項は、地方公共団体が住民の福祉の増進を図ることを基本として地域行政を担うと定めている。人口の維持や増加は正当な政策目標になり得るが、それ自体が地方自治体の法的な最終目的とされているわけではない。

 このように考えても、人口の重要性が失われるわけではない。人口は住民生活を支えるための重要な条件の一つになる。診療所には一定の患者数が必要であり、商店には一定の購買需要が必要である。公共交通には利用者が必要で、水道や道路にも維持費を負担するための財源が必要になる。ただし、その成立条件は人口何人という一つの数字だけでは決まらない。人口密度、年齢構成、所得、利用頻度、商圏の広さ、観光客や周辺地域からの利用、運営費、技術、行政支援などによって変わる。

 例えば、同じ人口5000人でも、住民が比較的狭い範囲にまとまって暮らす町と、広い山間部に分散して暮らす町では、商店や公共交通の運営条件が異なる。店舗の採算も自治体の人口だけで決まるのではなく、実際の利用者数、客単価、利益率、固定費、周辺地域からの集客などによって決まる。ただし、損益分岐点に近い事業では、わずかな需要減少が赤字への転落や撤退判断を左右することもある。人口規模を無視してよいのではなく、人口だけでサービスの存続可能性を判断することが不十分なのである。

 このように考えると、「人口1万人を守る」という目標の意味も変わる。なぜ1万人なのか。救急医療を一定時間以内に受けられる状態を維持するためなのか、商業を維持するためなのか、学校教育の選択肢を残すためなのか、あるいは上下水道の一人当たり負担を一定水準に抑えるためなのか。守りたい生活の条件が先にあれば、その実現に必要な人口規模や居住密度、財源、運営方法を検討することができる。ただし、すべての生活サービスについて必要人口を一つの数字として正確に逆算できるわけではないため、複数の人口シナリオを想定して検証することが現実的である。

 人口目標を捨てるのではない。人口目標より上位に、人口を維持する理由となる生活目標を置くのである。

人口が減ると、一人当たりの負担はどこまで増えるのか

 人口減少が地域財政に及ぼす影響を考えるときには、固定費と変動費の区別が重要になる。施設の管理費や設備の更新費には、利用者が多少減っても簡単には削減できない部分がある。例えば、年間の固定費が1億2000万円かかる公共施設を住民1万人で支えると仮定すると、一人当たりの固定費は年間1万2000円になる。同じ施設を人口8000人で支えれば1万5000円、5000人になれば2万4000円となり、固定費が変わらなければ人口の半減によって一人当たりの固定費は2倍になる。

 これは説明のための単純な計算であり、実際の自治体で人口が半減すれば住民の税負担が必ず2倍になるという意味ではない。公共施設の費用には利用者数に応じて増減する部分もあり、施設の縮小、統合、民間委託、自治体間の共同運営によって支出を変えられる場合がある。また、日本の地方財政には地方交付税制度があり、自治体の財源が住民の地方税負担だけで決まるわけでもない。それでも、人口が減少する一方で施設の規模や維持範囲が変わらなければ、財政運営上の負担が重くなりやすいという基本的な構造は残る。

 ここで重要になるのは、人口減少による費用増加を抑えるために、どのような方法でサービスを提供するかという視点である。ただし、施設の再編や公共交通の転換には初期投資や移行費用が必要であり、短期的には従来より支出が増えることもある。したがって、人口減少に対応した政策を評価する際には、導入費用だけでなく、将来の維持管理費や設備更新費を含めた長期的な費用と、住民が受けられるサービスの質を同時に比較する必要がある。

「何人いる町か」ではなく「何ができる町か」

 町の成績表を人口から生活品質へ広げるなら、評価の仕方も変わる。例えば、高齢になって運転免許を返納した翌朝を想像してみればよい。スーパーへ行く手段がなくなる町と、電話やスマートフォンで予約すれば乗合交通を利用できる町がある。同じ5000人の町でも、住民が持っている生活の可能性は異なる。ただし、予約型交通が存在するだけでは十分ではない。必要な時間帯に利用できるのか、予約が取れるのか、料金を負担できるのか、車いすなどを利用する人にも対応できるのかという条件まで確認して、初めて実際の利便性を評価できる。

 子どもが進学するときも、自宅から複数の学校を選べる地域と、一校がなくなれば長距離通学や転居が必要になる地域では、生活の条件が異なる。病気になった場合も、自治体の境界内に病院が一つ存在するという事実だけでは十分ではない。住民が実際に受診できるのか、どのくらいの時間で治療へ到達できるのか、夜間や休日にも対応できるのか、専門医療が必要になったとき次の医療機関へつながれるのかという方が、生活の実態に近い。

 つまり、地域の価値は施設が存在するかどうかだけでなく、住民が必要な機能へ実際に到達できるかによって測る必要がある。買い物ができる、移動できる、医療を受けられる、教育を選べる、働ける、人と会える。そして、一つの店、一つの交通手段、一つの医療機関が利用できなくなったときにも、別の方法へ切り替えられる。この最後の代替可能性は、人口だけではほとんど見えない。

 人口8000人で複数の生活手段を利用できる町と、人口1万5000人でも一つのサービスに全面的に依存している町を比較すれば、後者の方が一つの撤退によって住民生活が大きく変化する場合も考えられる。もちろん、代替手段を複数維持するには費用も必要であるため、すべてのサービスを重複して持つことが望ましいわけではない。それでも、町の強さを評価するうえでは、平常時の便利さだけでなく、サービスの中断や撤退に対して生活を継続できるかという視点が重要になる。

世界でも人口や経済規模だけでは測れないという考え方が広がっている

 この考え方は、人口減少に悩む日本の地方だけから生まれたものではない。OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)の地域ウェルビーイングの枠組みでは、所得、雇用、住宅、健康、サービスへのアクセス、環境、教育、安全、市民参加とガバナンス、地域社会、生活満足度という11の領域から地域の生活を評価している。GDP(Gross Domestic Product・国内総生産)などの経済統計だけでは社会の状態を十分に把握できず、人々が実際にどのような生活をしているかを多面的に見る必要があるという考え方である。

 さらに、OECDが2025年5月19日に公表した「Shrinking Smartly and Sustainably: Strategies for Action(人口縮小に賢明かつ持続可能に対応するための行動戦略)」は、人口減少を前提とした地域政策を正面から扱っている。この報告書では、人口減少を緩和する政策と、人口が減少しても生活サービスや地域の持続可能性を守るための適応政策を組み合わせる必要性が示されている。従来の人口規模に合わせた社会基盤を維持し続けるのではなく、土地利用、住宅、公共サービスの提供方法、自治体間の連携、財政制度などを人口構造の変化に応じて見直すという考え方である。

 ただし、この報告書が人口減少地域なら必ず生活品質を改善できると証明しているわけではない。人口減少の速度、人口密度、地理的条件、財政、人材などによって対応できる範囲は異なる。それでも、人口減少を直ちに政策の失敗とみなすのではなく、人口構造の変化に適応しながら生活を支えるという考え方が、国際的な地域政策研究でも具体的に検討されていることは重要である。

 日本でも同様の方向が見られる。内閣府の「満足度・生活の質に関する調査」は、日本の経済社会を人々の満足度、すなわちWell-being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態や生活の充実)の観点から多面的に把握し、政策運営に活用することを目的としており、2026年7月31日には「満足度・生活の質に関する調査報告書2026」が公表された。

 さらにデジタル庁は、地域幸福度指標を地域のまちづくりにおける共通指標として活用し、市民、行政、事業者などが共通の目標を持つための仕組みを進めている。そこでは医療・福祉、買物・飲食、住宅環境、移動・交通、教育、雇用・所得、地域とのつながりなど24カテゴリーが扱われ、アンケートによる主観指標と、公開統計などを利用した客観指標の双方が用いられている。ただし、主観指標と客観指標には調査方法や更新時期の違いがあり、年度によってデータの整備状況も異なるため、比較する際には指標の定義や調査対象を確認する必要がある。

 人口だけでは町を測れないという考えは、もはや抽象的な理念だけではない。政策評価の枠組みそのものが、何人いるかという人口規模や、どれだけ生産しているかという経済規模だけでなく、人々が実際にどのような生活を送っているかを重視する方向へ広がっている。

ただし、人口を忘れて幸福度だけ見ればよいわけでもない

 ここで反対側へ振れすぎてはいけない。人口目標を批判した結果、人口など減っても構わない、幸福度だけ高ければよいと考えてしまえば、別の単純化に陥る。人口減少には現実の制約があり、商店には売上が必要で、医療機関には患者と医療従事者が必要である。公共交通には利用者と運転手が必要であり、ごみ収集、訪問介護、水道、道路などにも人員と財源が必要になる。とりわけ人口減少と高齢化が同時に進む地域では、医療や介護の需要が必ずしも人口に比例して減るわけではなく、サービスを提供する側の働き手が不足する問題も深刻になり得る。

 また、遠隔診療や予約型交通、行政手続きの電子化などは人口減少への対応策となり得るが、すべての問題を解決できるわけではない。救急医療や手術、身体介護などには対面での専門的なサービスが必要であり、電子的な仕組みを利用できない住民への対応も欠かせない。予約型交通を導入しても運転手を確保できなければ運行できず、交通事業者が撤退すれば、行政が相応の費用を負担しなければサービスを維持できない場合もある。

 したがって、人口が減っても生活品質を改善できるということは、どのような人口規模でも従来と同じサービスを維持できるという意味ではない。人口減少の速度が速く、居住地が広範囲に分散し、財政や人材の制約が大きい地域ほど、サービスの維持は難しくなりやすい。人口減少を前提とした政策には可能性がある一方、その可能性が成立する条件と限界を冷静に見極める必要がある。

町の大きさが変わるのに、町の形だけ昔のままでよいのか

 人口が1万人から5000人になったとき、問題になるのは5000人になったことだけではない。1万人だった時代につくった道路、水道、公共施設、住宅地、交通体系を、5000人で同じように支え続けようとすることが、財政面でもサービス面でも難しくなる場合がある。人口規模が変わったにもかかわらず、社会基盤の配置や運営方法だけが変わらなければ、住民一人当たりの負担が増え、施設の更新やサービスの維持が困難になっていく可能性がある。

 国土交通省が進める「コンパクト・プラス・ネットワーク」の背景にも、この問題がある。人口が減少したまま市街地が薄く広がれば、医療、福祉、商業などの生活機能や公共交通を維持することが難しくなるおそれがあるため、生活拠点や公共交通沿線への居住と都市機能の緩やかな誘導を進め、必要なサービスへのアクセスを確保しようという考え方である。都市再生特別措置法に基づく立地適正化計画制度なども、住民生活と都市経営の持続可能性を考えるための制度として整備されている。

 ただし、施設や住宅を中心部へ集めれば、すべてが解決するわけではない。住民が長年暮らしてきた土地には、住宅だけでなく、仕事、家族、地域とのつながり、土地への愛着がある。生活拠点への移転を希望しない人もいれば、経済的な事情から移転が難しい人もいる。中心部の利便性を高める一方で、周辺集落の住民が従来より長い距離を移動しなければならなくなれば、町全体の平均的な効率が改善しても、一部の住民には不利益が生じる。

 したがって、施設の数を減らして効率化することだけを目的にしてはならない。学校を再編したうえで通学手段を充実させ、医療機関の役割を整理したうえで基幹病院との連携や送迎を組み合わせ、利用者の少ない固定路線を予約型交通へ転換することによって、生活の利便性が改善する場合もある。しかし、こうした再編によってサービスの利用が難しくなる人がいないか、移動時間や費用がどの程度変化するか、行政が将来にわたって必要な財源を確保できるかを検証しなければならない。

 ここで見るべきものは、単に何を残したかではなく、何ができる状態を残したかである。施設の数ではなく実際に利用できる機能を測り、直線距離だけでなく移動時間や交通手段を考え、人口の規模だけでなく住民生活を評価する。そうした見方をすれば、縮小と衰退は必ずしも同義ではなくなる。

町の境界を越えて生活を考える

 人口減少が進む小規模自治体では、すべての生活機能を一つの自治体の中に確保することが現実的でない場合もある。病院、商業施設、高校、専門的な介護サービス、雇用の場などは、もともと複数の自治体にまたがる生活圏の中で利用されていることが少なくない。自治体の人口や施設数だけを比較すると不利に見える町でも、周辺地域との交通やサービスの連携が整っていれば、住民の生活環境を維持できる可能性がある。

 例えば、千葉県の御宿町、いすみ市、勝浦市、大多喜町を考える場合も、自治体の境界内に何があるかだけで生活の便利さを判断することはできない。住民は通勤、通学、買い物、医療などの目的によって自治体の境界を越えて移動するため、生活の実態に即した分析には、周辺自治体を含む施設配置、道路や鉄道の接続、公共交通の運行状況、実際の移動時間を把握することが必要になる。

 ただし、周辺自治体に施設が存在することと、それを住民が利用できることは同じではない。自動車を運転できる人にとっては近い病院でも、公共交通を利用する高齢者にとっては到達しにくい場合がある。自治体間の連携を評価するなら、施設の共同利用や財政負担のあり方だけでなく、住民が実際に移動できる手段まで確認する必要がある。人口減少時代の生活政策は、一つの自治体の中だけで完結するとは限らないのである。

「人を呼ぶ政策」と「出て行かなくてもよい政策」

 人口増加を最上位目標から一段下げると、移住政策の見え方も変わってくる。移住相談会を開き、住宅取得補助を設け、子育て世帯への支援を充実させ、一年間で100人の転入を実現すれば、成果として分かりやすい。しかし、転入した100人が五年後にもそこへ住んでいるかは別の問題であり、その一年に既存住民が120人転出しているなら、町の課題はどうやって100人呼ぶかという視点だけでは解けない。転入者数だけでなく、転出者数、年齢構成、転入後の定住状況を併せて確認する必要がある。

 なぜ出ていくのかを見ることも重要である。ただし、その理由には就職、所得、進学、結婚、家族、住宅、医療、交通、子育てなど複数の要因が重なっており、生活環境を改善すれば必ず人口流出が止まるというほど単純ではない。地域内に十分な雇用機会がなければ、住環境が良好でも若者が進学や就職を機に転出することはあるし、転出そのものが本人の希望や人生の選択である場合もある。すべての転出を政策上の失敗とみなすことも適切ではない。

 それでも、現在住んでいる人が、この町では暮らし続けられないと感じる原因を減らすことは、人口流出を抑える条件の一つになり得る。運転できなくなっても暮らせる、家族が病気になっても生活が破綻しにくい、子どもの教育を理由に転居しなくてもよい、仕事の形が変わっても住み続けられる。こうした条件を増やしていく政策は、派手な転入者数として現れにくいものの、地域に住み続けるという選択肢を支える役割を持つ。

 もっとも、「何人が出て行かずに済んだか」を正確に測ることは簡単ではない。ある住民が転出しなかったとしても、政策がなかった場合にも同じ地域に住み続けていた可能性があるため、転出しなかった人数をそのまま政策成果とみなすことはできない。政策によって転出をどの程度防げたかを評価するには、政策を実施していない比較可能な地域との違いや、政策前後の転出率の推移などを分析する必要がある。

 人口減少社会では、何人呼んだかという数字に加えて、住み続けたい人が住み続けられる条件をどこまで整えられたかを考える必要がある。移住促進と定住支援は対立する政策ではなく、地域の生活環境を改善するという目的のもとで、相互に補完する関係として考えることができる。

100人増えた町と、1000人が便利になった町

 ここで二つの町を比べてみよう。一つの町は、一年間で移住者を100人増やした。もう一つの町では人口は増えなかったが、予約型交通を改善し、それまで自動車がなければ通院や買い物に苦労していた1000人の移動環境を改善した。人口だけを成果指標にすれば100人増えた町が上になるが、住民生活の改善を目的とするなら、どちらの政策成果が大きいかは簡単に決められない。

 100人の転入には、税収、地域経済、将来の担い手、地域社会の維持など、さまざまな効果があり得る。一方、1000人の移動環境改善には、通院、消費、社会参加、自立した生活など、幅広い効果が期待できる。しかし、人数だけでは両者を比較できない。1000人が年間に数分だけ便利になった場合と、100人が通院や買い物に深刻な困難を抱えていた状態から解放された場合では、生活への影響の大きさが異なる。また、それぞれの政策に必要な費用、効果が続く期間、対象者の年齢や生活条件も考慮しなければならない。

 行政の政策評価として比較するなら、単に恩恵を受けた人数だけでなく、一人当たりの改善の大きさ、政策の総費用、効果の持続期間、他の住民への影響などを検討する必要がある。必要に応じて費用便益分析や費用効果分析を行うことも考えられるが、人との交流や住み慣れた地域で生活を続けられる安心感など、金銭的な価値に置き換えにくい効果もある。

 どちらの町が優れているかを、ここで一つの数字から決めることはできない。しかし、決められないという事実そのものが重要である。人口という一つの数字だけでは、町づくりの成果を十分に評価できないからだ。

生活品質を一つの数字にすれば解決するのか

 人口だけでは町を測れないなら、代わりに幸福度72点のような一つの指数をつくればよいと考えたくなる。しかし、それでは人口という単一指標を、別の単一指標へ置き換えただけになる。医療を重視する人もいれば、仕事を重視する人もいる。子育て世帯にとって重要な条件と、80歳の単身高齢者にとって重要な条件も同じではない。医療、交通、所得、安全、教育、自然環境などをどのような比率で一つの点数へまとめるかには価値判断が入り、重み付けを変えれば自治体の評価順位が変わる可能性もある。

 さらに、生活満足度は客観的な生活条件だけで決まるわけではない。所得や医療環境が同じでも、個人の期待、健康状態、家族関係、価値観などによって回答が異なる。また、人口減少地域で平均的な満足度が上昇したとしても、必ずしも同じ住民の生活が改善したとは限らない。生活環境に不満を持つ人が転出し、残った住民の満足度が高かった結果として平均値が上昇する可能性もあるため、住民構成の変化と生活条件そのものの改善を区別する必要がある。

 アンケート調査には統計的な不確実性もある。例えば、住民から無作為に100人を抽出し、そのうち50人が生活に満足していると回答した場合、標本の満足割合は50%になる。しかし、単純無作為抽出などを仮定した95%信頼区間は概算で約40%から60%となり、自治体全体の満足割合まで正確に50%だと判断できるわけではない。実際の調査では回答率、年齢構成、回答しやすい人としにくい人の違いなども影響するため、数ポイントの変化をそのまま政策成果と評価することには慎重でなければならない。

 こうした問題を考えると、人口目標から生活品質目標へ移ることは、人口という一つの数字を捨て、幸福度という別の一つの数字を採用することではない。むしろ、町は一つの数字では測れないと認めることである。デジタル庁の地域幸福度指標も、自治体を単純に順位付けすることより、地域自身が特徴や課題を把握し、まちづくりに活用することを重視している。

 人口、所得、医療への到達時間、移動手段、買い物環境、住宅負担、教育機会、安全性、住民の満足度。それらを組み合わせ、どこが改善し、どこが悪化しているのかを見ることが必要になる。評価は少し面倒になるが、暮らしそのものが一つの数字で表せない以上、その複雑さを引き受けなければ、本当の意味で町を測ったことにはならない。

「暮らしやすくなった」をどうやって測るのか

 生活品質を自治体の政策目標にするなら、理念を掲げるだけでは不十分である。例えば、車を運転できない住民のうち、公共交通などを利用して買い物や通院ができる人の割合、一般診療や救急医療へ到達するまでの時間、子どもの通学時間、住宅と交通を合わせた生活負担、社会参加の機会などを具体的に測る必要がある。また、政策の前後で何が変わったかを確認できるよう、目標を設定する前に現状値を把握しておくことも欠かせない。

 医療を例にすれば、町内の病院数だけでなく、住民のうち何%が一定時間以内に医療機関へ到達できるかを調べる方が生活の実態に近い。ただし、一般診療、救急医療、専門医療では必要な条件が異なるため、それぞれを区別する必要がある。公共交通についても、路線数や便数だけではなく、実際に乗車できる時間帯、予約の取りやすさ、運賃、目的地への到達時間、乗り継ぎの負担などを確認することが重要になる。

 さらに、平均値だけを見ていても地域内の格差は分からない。例えば、町全体の病院への平均到達時間が30分から25分へ短縮されても、周辺集落では40分から60分へ延びている可能性がある。平均値が改善したことと、すべての住民の条件が改善したことは同じではない。政策評価では、平均的な住民だけでなく、移動に長い時間を要する住民、免許を持たない高齢者、障害のある人、低所得世帯などの状況を分けて確認する必要がある。

 また、指標の改善が政策によって生じたかどうかを確かめる視点も欠かせない。例えば、公共交通の利用者が増えた場合でも、運行改善の効果なのか、運転免許を返納した高齢者が増えたためなのか、燃料価格の上昇など別の要因によるものなのかは、その数字だけでは分からない。可能であれば、政策を実施していない地域との比較や、政策実施前からの傾向を分析し、人口構成や社会経済環境の変化も考慮することが望ましい。

 生活品質を測ることは、幸福度という抽象的な感覚を無理に点数化することではない。住民が実際に何をできるようになり、何ができなくなり、どの程度の費用や時間を負担しているのかを、可能な範囲で具体的に把握することである。人口だけに頼らない政策評価を実現するには、こうした測定方法を整えることが重要になる。

「人口目標」をなくすのではなく、その上位に生活目標を置く

 ここまで考えると、自治体の将来計画の書き方も変わってくる。従来の発想では、十年後の目標人口を決め、その人口を実現するために移住、子育て、産業、住宅などの政策を並べることが多い。これに対して、最初に十年後の住民生活をどのような状態にしたいのかを定め、その実現に必要な人口、財源、施設配置、公共交通、雇用環境などを考えるという順序がある。

 例えば、十年後も車を運転できない人が買い物と通院を続けられる町にする、必要な救急医療への到達条件を維持する、子どもが教育機会を失わないようにする、住宅と交通を合わせた生活負担を過度に増やさない、高齢になっても地域とのつながりを保てるようにする。こうした生活目標を具体化し、それを実現するためにどの程度の人口や財政規模が必要なのか、どの地域に施設や住宅を誘導するのか、何を維持し、何を統合し、どのサービスを別の方法へ置き換えるのかを検討する。

 もちろん、将来人口は政策によって自由に決められるものではない。出生、死亡、転入、転出はそれぞれ異なる要因によって動くため、人口が目標どおりに推移することを前提として生活サービスを設計すれば、実際の人口減少が予想より速かった場合に計画が成り立たなくなるおそれがある。そのため、人口が比較的緩やかに減る場合、想定どおりに減る場合、想定以上に減る場合など、複数のシナリオを用意し、それぞれの条件でも最低限必要な生活機能を維持できるか確認することが望ましい。

 人口政策と生活品質政策は対立するものではない。人口を増やすことによって生活サービスを維持できる場合もあれば、生活サービスを改善することによって転出を抑えたり、新たな住民に選ばれたりする場合もある。重要なのは、人口と生活品質が互いに影響し合うことを認識したうえで、人口増加だけを最終成果とせず、住民生活の改善と地域運営の持続可能性を同時に評価することである。

小さくなることと、貧しくなることは同じではない

 人口減少という言葉には、どこか敗北の響きがある。人口3万人だった町が2万人になり、六つあった学校が四つになり、商店が閉まり、公共施設が統合される。地図から何かが消えるたびに、町が少しずつ失われているように見える。その感覚を軽く扱うべきではない。学校にも商店にも、人の記憶があり、地域の歴史がある。効率だけで地域を切り分ければよいわけではなく、施設の統合や撤退によって失われる人間関係や地域文化も考慮する必要がある。

 それでも、残した施設の数だけで住民生活を測ることもできない。六校をそのまま維持した結果、どの学校も極端な小規模化に直面するなら、四校へ再編して通学環境や教育内容を充実させるという選択肢もある。ただし、少人数教育に固有の利点もあり、統合すれば必ず教育の質が高まるわけではない。学習環境、通学時間、教員配置、地域とのつながり、統合に必要な費用などを総合的に比較して判断する必要がある。

 公共交通についても同じである。利用者が極端に少ない固定路線を維持するより、運行方法を見直した方が便利になる場合はある。しかし、予約型交通への転換によって利用時間や利用対象が制限されるなら、従来の路線を必要としていた人が不便になる可能性もある。施設や路線を減らすこと自体を成果とするのではなく、その後に住民がどのような行動を取れるようになったのか、どのような不利益が生じたのかを検証することが大切である。

 何かが減ったから、必ず貧しくなったとは限らない。しかし、何かを減らせば必ず効率的になり、暮らしが良くなるわけでもない。人口減少への対応で問われるのは、減らすことの是非だけではなく、何を守り、何を変え、その結果として住民生活がどのように変化するかである。

人口が増えなくても町を良くすることはできるのか

 最初の問いに戻ろう。人口が増えなくても町を良くすることはできるのか。理論的には可能であり、人口が減少しても、施設配置、交通、医療、行政サービスなどの改善によって、住民の生活条件が向上する余地はある。ただし、それが実際に実現できるかどうかは、人口減少の速度、年齢構成、居住密度、財政、人材、周辺自治体との連携などに左右される。人口が減っても暮らしは必ず良くなると考えることも、人口が減れば暮らしは必ず悪くなると決めつけることも、どちらも適切ではない。

 人口はこれからも地域分析に欠かせない。出生数、死亡数、転入者数、転出者数、高齢化率、生産年齢人口、世帯構成などを見なくなれば、むしろ町の現実を見誤る。しかし、それらは町の状態を把握し、将来の政策を考えるための重要な情報であって、住民生活の価値そのものではない。人口5000人でも安心して暮らせる町と、人口1万人でも車を失った瞬間に生活が難しくなる町があるなら、私たちが本当に知りたいのは人口の多さだけではなく、その数字の中で人がどのような一日を送れるのかということである。

 これからの地方自治体の政策評価では、昨年より何人増えたかという問いに加えて、昨年より何人が暮らしやすくなったか、どのような不便が解消され、どのような負担が増えたのか、そして、その改善を将来にわたって維持できるのかを問う必要がある。そのためには、人口の目標値だけでなく、医療や交通への到達可能性、教育機会、住宅負担、社会参加、財政の持続可能性などを継続的に測定し、政策の効果と限界を検証していくことが求められる。

 人口を増やそうとする努力は必要である。移住政策も、子育て支援も、産業政策も重要であり、人口減少を緩和できる可能性を最初から放棄する必要はない。ただし、その目的を見失ってはいけない。町は人口表の数字を増やすために存在しているのではなく、人が暮らすために存在している。地方自治の基本にある住民の福祉の増進という考え方も、突き詰めればそのことにつながっている。

 朝起きて、食べるものを買い、必要なら病院へ行き、誰かと話し、働き、学び、年を取って車を運転できなくなった後も、できれば住み慣れた土地で一日を終える。そうした何でもない日常を、無理のない費用と持続可能な仕組みで支えていくことが、人口減少時代の地域政策に求められる役割なのではないだろうか。

 人口を増やす政策から、人口を増やすことも含めて普通の一日を守る政策へ。町を良くするとは、必ずしも昔の人口へ戻すことではない。人口が減少する現実から目をそらさず、必要な機能を維持できる条件を見極めながら、そこで暮らす人の選択肢と生活の可能性を守っていくことである。

 小さくなっても、そこで生きる人の暮らしまで小さくしない。そのために何を測り、何を守り、何を変えるのか。人口減少時代の町づくりは、その問いから始めるべきなのだろう。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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人口が減っても、街の骨格は小さくならない

 人口が三万人から二万人へ減ったからといって、市の面積が三分の二になるわけではない。八千人いた町が五千人になっても、山あいまで延びた道路が短くなることはなく、地中に埋められた水道管や下水道管が人口に合わせて消えてくれるわけでもない。橋はそこに架かったままであり、役場・市役所から遠い地区にもごみ収集車は向かい、誰かが倒れれば救急車が走る。人口が減少しても、それまでに整備された道路、橋梁、水道、公共施設などの物理的な骨格は、すぐには小さくならないのである。

 人口減少が地方にとって難しいのは、税収や労働力が減るという問題に加え、人口が多かった時代につくられた都市や集落の構造を、少なくなった住民と限られた財源で支え続けなければならないことにある。人口が半分になっても維持管理費が半分になるとは限らず、むしろ施設の老朽化が進めば、人口減少と更新費の増大が同時に起こる可能性がある。これまでと同じ場所に同じ施設を残し続けることが、将来の住民にとって本当に合理的なのかという問いを避けられなくなっている。

 国立社会保障・人口問題研究所が2023年12月に公表した地域別将来推計人口は、2020年の国勢調査を基礎として、原則として市区町村別に2050年までの人口を推計している。将来人口は一定の仮定に基づく推計であり、一人単位でその通りになることを保証するものではない。また、市町村全体の人口減少率が、その内部にある住宅団地や集落にも一律に当てはまるわけではない。それでも、多くの地域で人口減少と高齢化が長期的な政策課題になるという見通しには、十分な根拠がある。重要なのは、将来の人口を完全に予測することではなく、複数の人口シナリオを想定した上で、街の構造をどのように変えていくかを早い段階から検討することである。

 そこで考えたいのが、「街はどこから縮むべきなのか」という問いである。ただし、本稿でいう「撤退」は、人口の少ない地域から住民を強制的に移転させることでも、行政サービスを一方的に打ち切ることでもない。道路や水道をどの範囲まで更新するのか、公共交通をどのような方式で維持するのか、公共施設をどこへ集約するのか、新しい住宅や公共投資をどこへ誘導するのかを、住民の生活と権利を尊重しながら長い時間の中で組み替えることを意味している。さらに、比較検討した結果、現在の施設や集落を維持する方が合理的であるなら、その選択も当然含まれる。

遠い地区から撤退すれば合理的なのか

 街を地図だけで眺めるなら、答えは簡単に見えるかもしれない。役場・市役所や駅、病院、スーパーから遠い地域ほど維持管理が大変なのだから、中心部から離れた場所への投資を減らし、外側から少しずつ縮小すればよいという考え方である。中心部に施設と人口を集めれば行政効率が高まるという発想には一定の合理性があるが、中心部からの距離とインフラの維持費は必ずしも比例しない。実際の費用は、住宅の分布、道路や管路の配置、施設の状態、地形、他地区との接続関係などによって大きく変わるからである。

 架空の「朝凪市」を考えてみよう。人口三万人、面積百平方キロメートルの地方都市で、2050年には人口が一万八千人まで減るという仮定を置く。市役所と駅がある中心部から十二キロ離れたA地区には百五十人が暮らしている。一方、中心部からわずか四キロのB地区には百人が暮らしている。距離だけを見ればA地区の方が不利であり、最初に公共投資を縮小する候補として考えたくなるだろう。しかし住宅の配置とインフラの構造まで調べると、その判断が逆転する可能性がある。

 A地区では百五十人が一本の幹線道路沿いに比較的まとまって住んでいるのに対し、B地区は丘陵地に造成された住宅地で、空き家を挟みながら住宅が広く散在しているとしよう。仮にA地区で必要な水道管の延長が三キロ、B地区では六キロだとすれば、一人当たりの管路延長はA地区が二十メートル、B地区が六十メートルとなり、B地区はA地区の三倍になる。人口が少ないだけでなく、同じ住民数を支えるために必要な設備の延長が大きいことが、B地区の特徴なのである。

 もちろん、管路延長が三倍だからといって、維持管理費も正確に三倍になるわけではない。水道管の口径、材質、地盤、標高差、ポンプ設備の有無、漏水の状況、他地区へ水を供給する機能などによって費用は変化する。道路についても、単純な延長だけでなく幅員、舗装面積、交通量、橋梁や斜面対策の必要性が影響する。それでも、中心部からの距離だけでなく、一人の生活を支えるためにどれだけのインフラを必要とするのかを測定すれば、遠いA地区より近いB地区の方が高コストである可能性が見えてくる。

 ここで重要になる人口密度とは、単なる人の混み具合ではない。一定の範囲に整備された道路、水道、ごみ収集、公共交通などを、どれだけの人数で共同利用できるかに関係する指標でもある。ただし、市町村全体の人口密度が低いからといって、すべての地区の維持管理が非効率とは限らない。広大な農地や森林を含む自治体でも、実際の居住地がまとまっていれば生活インフラを比較的効率よく配置できる場合がある。反対に、市街地の面積が小さくても、住宅が斜面や谷筋へ複雑に広がっていれば、住民数に対して多くの設備が必要になることがある。

 しかし、一人当たりの管路延長や道路延長を計算しただけで、B地区を先に縮小すべきだと結論するのも早計である。例えばA地区では十年前に水道管が更新され、幹線道路の舗装も比較的新しい一方、B地区では高度経済成長期の終わりごろに整備された管路が今後十年以内に更新期を迎え、地区へ入る橋も大規模補修を必要としているとする。今年一年の維持管理費には大きな違いがなくても、今後三十年間に必要となる更新投資まで含めれば、両地区の費用構造は大きく異なる可能性がある。

 人口減少時代のインフラを考えるとき、現在の維持管理費だけでは将来の合理性を判断できない。重要なのは、人口が減少していく過程で、道路、水道、橋梁、公共施設がいつ更新期を迎え、その時点でどの程度の利用者が存在し、どのような代替方式を選べるかということである。ただし、更新期を迎えた施設を必ず全面的に造り替える必要があるわけでもない。点検結果や劣化状況によっては部分補修や延命化が合理的な場合もあり、代替方式の方がかえって高額になることもある。街の再編には地図だけでなく、施設の寿命を示す時計と、将来の選択肢を比較する計算が必要になるのである。

人口が減るほど重くなる平均費用

 ここで、人口とインフラ費用の関係をもう少し数理的に考えてみたい。ある地区の年間費用を、人口が変わっても大きく減らない固定費と、人口に応じて変化する費用に分けて考える。道路や管路の維持管理、施設の基本的な運営などには固定費的な性格があり、水の使用量やごみの排出量などには利用者数によって変動する部分がある。実際の費用構造はもっと複雑だが、この単純な区分だけでも人口減少が与える影響を理解できる。

 仮に、ある地区で人口にかかわらず年間六百万円の固定費が必要だとする。人口が五百人なら一人当たり年間一万二千円だが、百人になると六万円、五十人では十二万円になる。人口が五百人から四百五十人へ五十人減った場合、一人当たり固定費の増加率は約一一%であるのに対し、百人から五十人へ同じ五十人が減った場合には二倍になる。これは人口減少に伴って固定費そのものが増加したからではなく、変わらない費用を分担する人数が少なくなった結果である。

 数学的に見れば、固定費が一定のとき、一人当たり固定費は人口に反比例する。人口が小さくなるほど、同じ一人の減少によって一人当たりの平均費用が大きく変化するという性質を持つ。人口が半分になっても管路延長が半分になるわけではなく、橋も必要な限り一本丸ごと維持しなければならないため、人口減少が進む地区ほど平均費用の上昇が問題になりやすい。ただし、これは固定費が一定という仮定に基づく説明であり、実際には施設の廃止、共同利用、設備の縮小、管理方式の変更などによって固定費そのものを減らせる場合もある。

 ここで「平均費用」と「限界費用」は区別しなければならない。平均費用は総費用を利用者数で割ったものであり、限界費用はサービスの供給量を一単位増やすときに必要となる追加費用を指す。人口減少によって一人当たり平均費用が増加することと、限界費用が増加することは同じではない。例えば固定費が六百万円で変動費が一人当たり一定なら、人口が減って平均費用が上昇しても、利用者一人を追加するための費用が同じ割合で増えるとは限らない。撤退や再編を判断するときには、平均費用の大きさだけでなく、政策を変更した場合に実際に削減できる費用を調べる必要がある。

 この削減可能な費用を考えることは、行政の意思決定で特に重要になる。人口百人の地区に年間二千万円の費用がかかっているとしても、その地区の住宅がなくなれば二千万円すべてが節約できるとは限らない。地区内の道路が隣接地区への主要道路であったり、水道管がその先の集落へ水を送る幹線であったりすれば、居住人口が減っても維持しなければならない設備が残る。また、水道の費用は水道事業の料金収入や会計制度と関係し、道路の費用は国、県、市町村などの管理主体や財源によって負担構造が異なる。一人当たり行政費用が高いことは、必ずしもその地区の住民が同額を直接負担していることも、撤退によって同額が節約されることも意味しないのである。

 一方、人口が減ることで生活サービスが急に低下する現象も考えなければならない。固定費が一定のモデルでは一人当たり費用は連続的に増加するが、公共交通の便数や施設の存続は、必ずしも連続的に変化するわけではない。一日百人が利用するバス路線の利用者が九十人になっても、運行本数が自動的に一割減るわけではないが、需要や運転手、運行費の条件が変化すれば、五便から三便へ減便する判断が行われるかもしれない。さらに条件が悪化すれば運行方式の変更や路線廃止に至ることもあり、その時点で住民の生活利便性が大きく変化する。

 減便によって通院や買い物が難しくなれば、地域の商業施設や医療機関の利用者が減り、それらのサービスがさらに縮小する可能性もある。その結果、生活の不便さが新たな転出を促し、人口減少とサービス縮小が互いに影響し合うことになる。ただし、こうした悪循環が必ず発生するわけではなく、代替交通やサービス提供方式の工夫によって影響を抑えられる場合もある。重要なのは、人口が滑らかに減っていても、施設の閉鎖や運行本数の変更といった意思決定を境に、暮らしの条件が階段状に変わる場合があるという点である。

 したがって、「人口百人以下の地区から撤退する」という一律の基準には十分な合理性がない。百人しか住んでいなくても住宅がまとまり、施設が新しく、周辺地区とサービスを共同利用できる地域は維持しやすいかもしれない。反対に三百人いても、住宅が散在し、複数の橋や長い管路を必要とし、大規模更新が同時に迫っている地区では将来費用が高くなる可能性がある。人口規模は重要な指標だが、それだけで撤退の優先順位を決めることはできないのである。

災害リスクと生活ネットワークが判断を変える

 ここまでなら、人口密度と施設の更新費を組み合わせれば撤退順序を決められるように見える。しかし、朝凪市のA地区が海沿いの低地にあり、津波や河川氾濫による被害の危険性が比較的高い一方、B地区は浸水危険性の低い高台にあるとすれば、評価はさらに変化する。平常時の維持管理費と更新費だけならB地区の再編が有利に見えても、将来の災害による建物被害、避難の困難さ、復旧費、人的被害などを考慮すれば、A地区への新たな住宅投資を抑える方が合理的になる可能性がある。

 ただし、高台であることだけで安全性を判断することもできない。丘陵地には土砂災害や道路の寸断など別の危険性が存在する場合があり、海沿いでも地形や避難経路、防災対策によって危険性は異なる。災害リスクを比較する際には、単純な危険区域の有無だけでなく、想定される災害の規模、発生可能性、被害を受ける人口、避難可能性、復旧に要する時間などを総合的に検討する必要がある。発生確率を十分に推定できない巨大災害については、単一の期待被害額だけに頼らず、複数の被害シナリオで政策の安全性を検証することが重要になる。

 さらに、災害による生命の危険を、すべて金額に換算して比較することにも限界がある。行政費用が安いという理由だけで住民を重大な危険にさらす選択は、合理的な政策とはいえない。人命保護や避難の実効性について最低限の安全基準を設定し、その条件を満たす選択肢の中で費用を比較する方法も必要になる。つまり、行政費用を小さくすることと、災害に対する安全性を高めることは、同時に考えるべき別の政策目的なのである。

 ところが、A地区とB地区の比較には、まだ考慮すべき点が残っている。仮にB地区に診療所があり、地区住民百人だけでなく、周囲三地区の住民を含む合計五百人が利用しているとしよう。B地区への交通や道路の機能を縮小した結果、診療所の運営が難しくなった場合、影響を受ける可能性があるのはB地区の百人だけではない。周辺地区の住民にも通院時間の増加や医療アクセスの悪化が生じるかもしれず、その損失を考慮するとB地区を維持する方が合理的になる可能性がある。

 ここで重要なのは、ある地区の価値を、そこに住んでいる人数だけで評価できないということである。街には道路と水道のネットワークがあり、その上に医療、買い物、教育、公共交通、福祉といった生活サービスのネットワークが重なっている。人口の少ない地区でも、周辺地域を結ぶ道路や生活拠点があれば、地域全体にとって重要な役割を担っている場合がある。反対に、人口が比較的多い地区でも、他地区のサービスを支える機能が小さく、代替経路や代替施設が十分にあるなら、再編の影響が限定的な場合もある。

 数学のネットワーク理論で考えるなら、重要なのは各地区の人口や施設数だけではなく、ある結節点や道路を利用できなくしたとき、ネットワーク全体の機能がどれほど変化するかということである。橋一本を閉じた場合に周辺住民の迂回時間が何分増えるのか、診療所を集約した場合に通院時間が著しく長くなる住民が何人いるのか、公共交通の一部を廃止した場合に自動車を運転できない住民がどの程度影響を受けるのかを調べる。これらの評価によって、人口が少ないという理由だけでは見落としていた地区の重要性が明らかになる可能性がある。

 さらに、道路や医療、商業などの利用圏は市町村の境界と一致しない。ある自治体の住民にとって、隣の自治体の病院やスーパーの方が近く、日常的に利用しやすい場合もある。道路、救急医療、公共交通などは広域的に機能しているため、個々の市町村の財政だけを最適化した結果が、生活圏全体で最も合理的な配置になるとは限らない。特に人口規模の小さい自治体では、行政区域ごとの費用削減だけではなく、周辺自治体を含む広域的なサービス配置を検討することが重要になる。

一つの総合点では決められない撤退順序

 このように人口密度、将来の更新費、災害リスク、交通や医療のネットワークを順番に考慮すると、最初は簡単に見えた撤退順位が何度も入れ替わることになる。A地区とB地区の比較でも、中心部からの距離だけならA地区、管路延長や更新費を重視すればB地区、災害リスクを重視すれば再びA地区というように、評価する目的や条件によって結論は変わる。これらは架空の条件に基づく思考実験であって、現実の地域で同じ逆転が起きることを証明したものではないが、単純な指標だけでは合理的な判断が難しいことを示している。

 そこで必要になるのが、多目的最適化という考え方である。行政には、今後三十年間の道路、水道、公共施設などの総費用を抑えたいという目的がある一方、住民の通院や買い物に必要な時間を長くしたくないという目的もある。救急医療へのアクセスを確保し、災害時の安全性を高め、既存住民に過大な移転負担をかけないことも重要になる。しかし、これらの目的をすべて同時に最良の状態へ近づけることは難しく、ある目的を改善すると別の目的が悪化する場合がある。

 例えば行政費用だけを最小化するなら、公共施設を中心部の一か所へ集約する案が有利になるかもしれない。しかし、集約によって周辺地区の通院時間や行政手続きに必要な移動時間が増える可能性がある。反対に、すべての住民が短時間でサービスを利用できることを重視すれば、複数の地区に施設を配置する必要が生じ、今度は建物や設備、人員の維持費が増える。さらに安全性を優先すると、既存の中心市街地を拠点として維持すること自体を再検討しなければならない場合もある。

 ここで数理モデルが果たす役割は、唯一の正解を自動的に決めることではない。例えば、公共施設を集約すれば三十年間でいくら費用が減るのか、その結果として住民の移動時間が何分増えるのか、救急医療への到達時間を短くするためには追加でどの程度の投資が必要なのかを、できる限り明確にすることである。その上で、費用が少なく、生活上の負担も小さいというように、ほかの案より明らかに優れた選択肢があれば、それを優先的に検討できる。複数の目的の間で交換条件が残る場合には、どの負担をどこまで許容するのかを行政と住民が判断する必要がある。

 もっとも、人口は人、費用は円、移動時間は分、災害危険度は発生確率や被害規模で表されるため、これらを恣意的に一つの総合点へ換算することには危険がある。点数の付け方や各項目の重みを変えただけで順位が大きく入れ替わるなら、その順位だけを根拠として政策を決定することは適切ではない。また、平均移動時間が短いという結果が得られても、一部の高齢者や障害のある人、通学する子どもなどに長い移動時間や過大な負担が集中している可能性がある。住民全体の平均値だけでなく、最も条件の悪い地域や住民の状況も確認する必要がある。

 行政の意思決定には、効率性だけでなく公平性が求められる。全体の費用を減らせるとしても、特定の集落だけに著しい不利益を集中させる案が、そのまま社会的に望ましいとは限らない。移転先で住宅を確保できるか、農業や漁業などの生業を継続できるか、地域社会とのつながりが失われないかといった問題も考慮しなければならない。金額に換算しやすい行政費用だけで結論を出すのではなく、安全性や最低限の生活サービスを確保する条件を設定した上で、政策による利益と不利益が誰に生じるのかを明らかにすることが重要なのである。

何を変えるかだけでなく、いつ変えるか

 撤退順序の問題をさらに難しくするのは、人口と施設の状態が毎年変化していくことである。朝凪市でB地区の水道管が2035年に大規模更新期を迎えると予測されているなら、その年になって初めて代替方式を考えるのでは遅い可能性がある。更新までの期間を使って、現在の管路を更新する案、小規模な設備へ切り替える案、周辺地区と供給方式を再編する案などを検討し、必要な調査、設計、制度上の手続き、住民との協議を進めることが望ましい。

 また、2035年の段階でどの方式が最適になるかも、現在の情報だけでは確定しない。想定より人口減少が緩やかであれば既存設備を更新する方が合理的かもしれず、逆に人口減少が進み、技術的に優れた代替方式が実用化されれば、別の選択が有利になる可能性もある。更新期の十分前から複数の選択肢を準備し、人口、費用、技術、住民構成の変化に応じて判断を見直すことが必要になる。

 これは動的最適化の考え方に近い。現在の一回限りの判断で将来すべてを固定するのではなく、人口分布、施設の老朽化、財政、人員、住民の生活条件が時間とともに変化することを前提として、各時点の選択が将来の選択肢にどのような影響を与えるかまで考慮する方法である。例えば2026年の時点で道路を閉鎖する必要がなくても、2038年に大規模な更新費が発生する見通しなら、そこまでの約十二年間を使って代替交通や住宅政策を準備することができる。現在の施設を使い続けられる時間は、単なる猶予期間ではなく、将来の政策転換に備えるための資源にもなる。

 将来の費用を比較する場合には、支出する時期が異なることにも注意しなければならない。例えば、現在必要になる十億円と二十年後に必要になる十億円は、財政計画や資金調達の観点から同じ条件ではない。将来の支出を一定の割引率で現在価値に換算する考え方を利用すれば、更新時期の異なる政策案を比較しやすくなる。ただし、物価上昇を含む名目金額と物価変動を除いた実質金額を混在させたり、割引率を根拠なく設定したりすれば、結果を誤る可能性がある。評価期間の設定、割引率、将来の工事費、施設の残存価値などについて、条件を明示した分析が必要になる。

 さらに、施設を廃止した場合に節約できる費用だけでなく、廃止や再編によって新たに発生する費用も計算しなければならない。住宅移転を伴う場合には移転費用や住宅確保の支援が必要になり、受入地区の道路や水道、公共施設を増強しなければならない場合もある。既存施設の撤去費用や跡地管理費が発生することも考えられる。年間の維持管理費が高い地区であっても、移行に必要な費用が非常に大きければ、長期間にわたって現状を維持する方が合理的なこともある。

 ここで重要になるのは、人口や更新費の予測には必ず不確実性があるということである。人口減少率、建設工事費、施設寿命、災害、技術革新などの条件を少し変えただけで政策順位が逆転するなら、その結果を確定的な答えとして扱うべきではない。人口減少が速い場合と緩やかな場合、更新費が大きく上昇する場合と比較的安定する場合など、複数のシナリオを設定して結果を比較する必要がある。さまざまな条件の下でも極端に不利になりにくく、将来の選択肢を残せる政策は、不確実性の高い時代において重要な価値を持つ。

 また、人口分布そのものも政策の影響を受ける。公共交通を維持すれば居住を続けられる住民がいる一方、交通サービスが失われれば転出が進むかもしれない。医療、商業、住宅環境の改善によって、人口減少が予測より緩やかになる可能性もある。人口予測を固定したまま施設の最適配置を計算すると、施設配置が将来人口に与える影響を見落とすことになるため、可能であれば人口とサービスの相互作用まで考慮した分析が望ましい。

 このように考えると、撤退とは更新費が高くなった施設を順番に廃止していく政策ではないことが分かる。老朽化する施設の状態と人口減少の進み方を比較し、代替方式への移行費用を含めた長期的な効果を検証しながら、いつ、何を、どの程度変えるかを選択する政策なのである。

施設を守ることと、生活を守ることは同じではない

 水道は、この違いを考える上で分かりやすい例である。人口が増加していた時代には、大規模な浄水施設から広い範囲へ管路を延ばし、多くの利用者へ安定して水を供給する集約型の仕組みに合理性があった。しかし利用者が大きく減少した地域では、少数の住民のために長い管路を更新し続けることが、必ずしも最も効率的な方式とは限らない。技術的・制度的な条件を満たす場合には、小規模な浄水設備などを利用した分散型の供給方式を比較する余地がある。

 ただし、分散型に切り替えれば必ず費用が安くなるわけではない。設備を小規模にしても水質管理、保守点検、災害時の供給体制、運転管理などは必要であり、複数の小規模設備を維持する方が高額になる可能性もある。また、水道法には水道事業者の給水義務が規定されており、人口が少なくなったという理由だけで既存利用者への給水を一方的に打ち切れるものではない。事業計画や認可、水質基準、管理責任などの制度的条件を満たした上で、安全性と供給の継続性を確保することが前提になる。

 ここで本当に守るべきものは、水道管という設備そのものではなく、住民が安全な水を継続して利用できる状態である。同じように、路線バスという運行形態を変えずに残すことだけが目的なのではなく、自動車を運転できない住民にも必要な移動手段を確保することが目的になる。診療所という建物をすべての地区に残すことが目的なのではなく、住民が必要な医療を適切な時間内に受けられる状態を維持することが重要なのである。

 公共交通では、利用者が減ったからといって直ちに路線を廃止するのではなく、運行本数の見直し、予約型の乗合交通、複数地区を結ぶ交通、既存の輸送資源の共同利用などを比較することが考えられる。ただし、新しい交通方式にも予約受付、配車管理、車両、運転手などの費用が必要であり、必ず従来のバスより安価とは限らない。さらに、高齢者が利用する場合には、車両が存在するだけでは十分ではなく、通院や買い物に必要な時間帯に利用できるか、帰宅手段を確保できるか、運賃を負担できるかなどを確認する必要がある。

 医療についても同様である。日常的な診療や慢性疾患の管理では、身近な場所で継続的に診療を受けられることに価値がある。一方、重症救急や高度な手術などでは、医療従事者、設備、診療経験などを一定の拠点へ集約する方が合理的になる場合がある。あらゆる医療機能を各地区へ均等に置こうとすれば、限られた医師や設備が分散しすぎる可能性があるが、すべてを一か所へ集約すれば、高齢者の日常的な通院や継続的な治療が難しくなる。医療の種類や緊急性に応じて、分散すべき機能と集約すべき機能を区別する必要がある。

 特に救急医療では、病院までの直線距離よりも、発症から適切な治療が始まるまでの時間が重要になる。十キロ先の医療機関へ搬送しても必要な治療ができず、さらに別の病院へ搬送しなければならないなら、最初から専門的な治療が可能な医療機関を選ぶ方が早い場合もある。ただし、患者の状態によっては近隣の医療機関で初期治療を行うことが重要になるため、すべての患者を遠方の高度医療機関へ直接搬送すべきというわけではない。疾患、緊急度、受入能力、搬送時間などを考慮し、適切な医療へ到達するまでの時間を評価することが必要になる。

 距離よりも生活に必要な時間を重視する考え方は、医療以外にも利用できる。スーパーまで七キロ離れていても、自動車で容易に移動できる住民にとっては大きな負担にならないかもしれない。反対に二キロしか離れていなくても、坂道が多く、公共交通も利用できなければ、高齢者にとっては買い物が難しい場合がある。役場・市役所まで十キロあっても、多くの手続きをオンラインや近隣窓口で済ませられれば、行政サービスへのアクセスは維持できる。もっとも、電子的な手続きが難しい住民への支援も必要であり、単純なデジタル化だけですべての問題が解決するわけではない。

 街を地図上の距離だけでなく、必要なサービスを利用するための所要時間、費用、利用可能性によって評価すると、道路、交通、医療、商業、教育、行政が一つの生活システムとして見えてくる。人口減少時代に守るべきなのは、必ずしも既存の施設配置そのものではなく、住民が生活を維持するために必要な機能なのである。

街は円形ではなく、複数の拠点と交通の網へ変わる

 ここまでの条件を踏まえると、朝凪市の将来像は、中心部へ向かって同心円状に縮小する姿とは限らなくなる。市役所、駅、商業施設、中核的な医療機関が集まる第一の生活拠点を維持しながら、離れた地域には第二、第三の生活拠点を配置し、それらを交通や通信などで結ぶ構造が合理的な場合もある。人口の少ない地区についても直ちに居住を禁止するのではなく、施設の更新期や住宅の建替え時期に合わせて代替方式を検討し、新たな住宅や公共投資を将来もサービスを維持しやすい地域へ誘導していく方法が考えられる。

 この考え方は、国が進めてきたコンパクト・プラス・ネットワークの方向性とも整合している。立地適正化計画などの制度では、居住や医療、福祉、商業などの都市機能を適切な場所へ誘導し、公共交通と組み合わせることが重視されている。ただし、立地適正化計画は住民を強制的に移転させる制度ではなく、居住誘導区域の外側を一律に居住禁止とするものでもない。また、都市計画区域外の農山村や集落については、同じ制度だけで再編を進められるわけではなく、農村政策、公共交通政策、公共施設管理などとの連携が必要になる。

 実際に街の構造を変えるためには、行政が自由に決められることと、法律や管理責任によって制約されることを区別しなければならない。道路や橋梁にはそれぞれ管理者が存在し、水道には給水義務や事業上の手続きがあり、公共交通には運行に関する制度がある。さらに住民の居住や財産に関わる問題を、単なる費用計算だけで処理することはできない。都市計画上の居住誘導と、既存住宅の撤去やインフラの供用廃止は別の政策行為であり、それぞれ異なる制度的条件を満たす必要がある。

 だからこそ、街の再編は一つの行政部門だけで完結しない。道路、水道、都市計画、交通、医療、福祉、防災、財政などの部門が、同じ将来人口と施設の更新見通しを共有しなければ、ある部門では集約を進め、別の部門では同じ地区に大規模な新規投資を行うといった矛盾が生じる可能性がある。各施設の更新計画を個別に立てるだけでなく、地域全体の人口配置や生活拠点の将来像と整合させることが重要になる。

 また、街の再編を進める場合には、住民が将来を見通せるようにすることが欠かせない。ある地区について今後の公共投資を抑える方針を検討するなら、その理由、代替サービス、実施時期、生活への影響を明らかにしなければならない。住宅の建替えや相続、空き家化の時期などに合わせて居住誘導を進める方法は、急激な移転よりも負担を抑えられる可能性があるが、それでも住民の事情は一様ではない。高齢者や経済的に移転が難しい世帯が不利益を受けないよう、具体的な支援策と長期的な対話が必要になる。

 最終的な都市構造を地図に描けば、それは一つの中心へ向かって円形に小さくなる姿ではなく、複数の生活拠点が交通やサービスによって結ばれた、星座のような形になるかもしれない。ただし、その形がすべての自治体で正解になるわけでもない。既存中心市街地に災害リスクが集中しているなら新たな安全な拠点を育てる必要があるかもしれず、既存の集落配置が十分に効率的なら大きな再編を行わない方が合理的な場合もある。街の形は、人口規模だけでなく地形、災害、施設、産業、交通、住民の生活圏などによって決まるのである。

成り行きで縮む街と、計画的に変わる街

 ここで、最初の「街はどこから縮むべきなのか」という問いに戻りたい。中心部から最も遠い地区を最初に縮めればよいわけではなく、人口が最も少ない地区や一人当たり行政費用が最も高い地区を機械的に選べばよいわけでもない。施設の将来更新費、代替方式への移行費用、災害安全性、住民生活への影響、広域的なネットワーク上の役割を比較した上で、現状維持よりも再編した方が社会全体として望ましいと判断できるところから、段階的に構造を変えることが合理的なのである。

 さらに、ここでいう合理性は行政の財政支出が最小になることだけを意味しない。維持管理費の削減によって得られる利益から、代替設備の導入費、移転支援、生活上の不利益などを考慮し、安全性や最低限のサービス水準が確保されるかを検証しなければならない。数理モデルの役割は、どの地区を切り捨てるかを自動的に順位付けすることではなく、政策を変えた場合に何が改善し、何が悪化し、その影響がどの住民へ及ぶかを明らかにすることである。

 同時に、政策を変更しないという判断にも費用とリスクがある。道路、橋梁、水道、公共施設、公共交通のすべてを、今までと同じ場所で同じ方式のまま維持しようとすれば、限られた財源と人員が広い範囲へ配分される。その結果、必要な補修が先送りされ、水道更新が遅れ、公共交通の運行本数が減り、老朽化した公共施設が十分な機能を果たせなくなる可能性がある。施設を一つも廃止していないにもかかわらず、全体のサービス水準が徐々に低下していくという事態である。

 しかし、すべてを残そうとしてすべてを少しずつ失う可能性があるからといって、早く撤退すればよいという結論にもならない。大規模な更新費が必要になる前に十分な準備を行い、別の供給方式や交通手段へ円滑に移行できるなら、住民生活への負担を抑えながら費用を削減できる可能性がある。一方、移行費用が高く、代替手段の安全性や利便性が十分でない場合には、既存施設を修繕しながら使い続けることが適切な場合もある。必要なのは撤退を急ぐことではなく、現状維持と政策変更の双方を検証し、将来の選択肢を失わない時期に判断することである。

 成り行きで縮む街と、将来を見通して構造を変える街の違いは、ここにある。成り行きに任せれば、道路が損傷し、水道管が更新期を迎え、商店が閉店し、医師が引退し、バスの運転手が不足するたびに、住民はその変化への対応を迫られる。これに対して計画的な再編では、人口の将来見通しと施設の更新時期を事前に把握し、複数の代替案を用意しながら、必要なサービスが突然失われる事態を避けようとする。ただし、計画を立てること自体が成功を保証するわけではなく、実施後も人口、費用、生活への影響を継続的に測定し、必要に応じて方針を修正する仕組みが不可欠である。

 人口三万人の市が一万八千人になっても、住民の生活水準まで機械的に五分の三になるわけではない。人口八千人の町が五千人になったとしても、生活機能の維持に必要な費用やサービス水準が、人口比率だけで決まることはない。人口が減少しても、施設の共同利用、技術の変更、広域連携、交通手段の再編などによって、生活の質を維持できる可能性はある。ただし、その実現可能性は地域によって異なり、人口減少が著しい地区では従来と同等のサービスを維持することが困難な場合もある。重要なのは、人口を維持することと、生活の質を維持することを同じ問題として扱わないことである。

 人口増加時代の街づくりでは、新しい道路を延ばし、住宅地を広げ、公共施設を建設することが大きな政策課題だった。しかし、人口減少時代には、既存の施設をいつまで利用し、何を共同化し、どこへ機能を集約し、どのサービスを別の方式へ転換するのかという、異なる種類の意思決定が必要になる。それは単に建設の反対を行うことではなく、人口、距離、費用、時間、災害、医療、交通、住民の生活条件を重ね合わせて、限られた資源から得られる社会的な利益を高めようとする政策技術なのである。

 街を縮めるという言葉には、何かを失い、地域を切り捨てるような印象がある。しかし数理的に考えるなら、目的は単純な縮小そのものではない。既存の構造を維持する場合と変更する場合を客観的に比較し、限られた人口、財源、人材の中で、できるだけ多くの住民が安全に暮らし続けられる条件を探すことにある。そのためには、残すべき施設と変更すべき施設を区別するだけでなく、いつ判断し、どの順序で移行し、どのような生活上の負担を防ぐのかまで計画しなければならない。

 そして、最も重要なのは、撤退を最初から正解と決めつけないことである。分析の結果、ある地区では施設を集約する方が合理的であり、別の地区では分散型のサービスへ移行する方がよく、さらに別の地区では従来のインフラを維持することが最も望ましいという結論になるかもしれない。人口減少社会に必要なのは、すべての地区を同じ基準で順位付けする数学ではなく、地域ごとに異なる条件の下で、複数の将来像を比較し、変化する状況に応じて選択を見直す数学なのである。

 街を縮める目的は、どこを捨てるかを決めることではない。限られた人口と財源の中で、何を、どこに、どのような形で残すことができるのかを明らかにすることである。 人口増加時代が街を広げるための計画技術を必要としたのだとすれば、人口減少時代には、既存の構造を見直しながら生活の機能を守るための計画技術が必要になる。それは住民の暮らしを単純に小さくするためではなく、街の形が変わっても、安全と生活の質をできる限り維持するための数学なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 外房の政治を考えるとき、東京から何キロ離れているかだけを測っても、この地域が抱えている本当の「遠さ」は見えてこない。人口密度が低く、比較的小規模な自治体が点在する地域では、鉄道、道路、河川、医療、介護、防災といった生活基盤の多くが、一つの市町村だけでは完結しない。一方で、国に制度改正や財政支援を求めようとしても、個々の自治体の人口や財政規模は限られており、単独で政策課題を解決することは難しい。

 こうした地域において、国会議員の仕事は法律案への賛否を表明することだけではない。複数の自治体が抱える課題を把握し、国や県の制度と地域の実情を結び付け、必要に応じて中央省庁や関係機関との協議を支援することも、地域選出議員に期待される役割の一つである。もっとも、政策を決定する権限は行政機関や議会などに分かれており、国会議員が個人の判断だけで予算や公共事業を決められるわけではない。

 そのような地域と中央政治の関係を、36年以上にわたって担ってきた政治家の一人が森英介である。森は1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で初当選し、2026年2月の第51回総選挙まで13回連続で当選した。同月18日には第81代衆議院議長に就任し、議長選挙では投票総数464票のうち463票を得た。衆議院の公式経歴には、法務大臣、厚生労働副大臣、厚生労働委員長、原子力問題調査特別委員長、憲法審査会長などが並び、長期にわたって国会の重要な役職を経験してきたことが分かる。

 ただし、森を「外房の政治家」と呼ぶ場合には、地理的な範囲に注意が必要である。現在の千葉11区は、茂原市、東金市、勝浦市、山武市、いすみ市、大網白里市に加え、山武郡、長生郡、夷隅郡の町村を含む広域選挙区であり、海沿いの外房地域だけで構成されているわけではない。農村、地方都市、観光地、東京圏の外縁部など、人口構造や産業、交通条件の異なる地域を抱えているため、森の政治活動を外房だけの利害によって説明することも適切ではない。

 したがって、森英介の36年間を評価することは、一人の政治家の成功や失敗を論じることにとどまらない。房総東部という広い地域が中央政治とどのようにつながり、その関係から何を得たのか、さらに長期在職の有力議員が存在することにはどのような利点と限界があるのかを考える作業でもある。

技術者から政治家へ~専門性と世襲という二つの出発点

 森の経歴には、一般的な世襲政治家のイメージとは少し異なる特徴がある。東北大学工学部を卒業した後、川崎重工業に勤務し、原子力プラントの溶接に関する研究成果によって1984年に名古屋大学から工学博士号を取得した。1974年から1988年まで企業に勤務しており、若いころから議員秘書や地方議員として政治の世界だけを歩んできた人物ではない。

 企業で技術者として働いた経験と工学博士の学位は、森の経歴を考えるうえで重要な特徴である。研究開発の現場では、理論だけでなく安全性、品質管理、技術的制約、費用、工程管理などを総合的に考える必要がある。こうした経験が、後に労働、社会保障、原子力など専門性の高い政策分野を担当する際に役立った可能性はある。ただし、技術者としての経歴と政治家としての政策判断の質との関係を示す直接的な証拠があるわけではなく、専門知識を持っていたことだけで政治的な能力の高さを証明することはできない。

 一方、森の政治家としての出発点を、技術者が政治の世界へ転身して独力で支持基盤を築いた物語として描くことも正確ではない。父の森美秀は衆議院議員を務め、第2次中曽根内閣では環境庁長官に就任している。森英介が1990年に初当選した旧千葉3区には、父の政治活動を通じて形成された人脈や支持基盤が存在していたと考えるのが自然であり、政治的な基盤を持たない新人候補と同じ条件から選挙に挑んだわけではない。

 もっとも、世襲政治家であることと政治家としての能力は、論理的には別の問題である。親から引き継いだ支持基盤が初当選に有利に働いたとしても、その後の選挙で長期間勝ち続け、国会や政府の重要な役職を経験することまで、すべて世襲だけで説明できるわけではない。反対に、13回連続当選という結果を本人の能力だけに帰属させることもできない。政党支持、地域の政治的傾向、後援会組織、現職議員としての知名度、対立候補の状況、選挙制度など、多数の要因が結果に関係しているからである。

 さらに、森が初当選した1990年と2026年では衆議院の選挙制度も異なる。1990年は中選挙区制の下で実施され、1996年以降は小選挙区比例代表並立制による選挙となった。したがって、13回の当選を同じ制度条件の下で繰り返された結果として単純に比較することもできない。森の長期在職は確かな政治的実績だが、その背景には本人の資質だけでなく、政治制度や地域社会の構造も存在している。

国政での36年間~重要な役職を経験したことの意味

 森の国会活動を振り返ると、単に選挙に強かっただけの政治家と評価することは難しい。労働政務次官、厚生労働委員長、厚生労働副大臣、法務大臣、憲法審査会長などを歴任し、2015年には永年在職議員として衆議院から表彰されている。2026年には衆議院議長に就任しており、国会内で長期間にわたり一定以上の政治的地位を占めてきたことは明らかである。

 社会保障分野で具体的に確認できる活動の一つが、2002年の健康保険法改正である。当時、森は衆議院厚生労働委員長を務め、健康保険の本人負担などをめぐって与野党が対立した法案について、本会議で委員会の審査結果を報告した。この審議では野党側から委員長解任決議案も提出されており、森が社会保障制度改革をめぐる重要な政治過程に関与していたことが国会会議録から確認できる。

 ここで注意したいのは、政治家本人や政党が公表する「実績」と、国会会議録によって確認できる事実が必ずしも一致するとは限らないことである。自由民主党が過去に掲載した森の実績紹介には、2006年に衆議院厚生労働委員長として健康保険法改正案の成立に尽力したという趣旨の記述がある。しかし、2006年5月の国会会議録では、同改正案を審議した衆議院厚生労働委員長は岸田文雄である。森が委員長として健康保険法改正を扱ったことが確認できるのは2002年であり、2006年の改正を森個人の実績として扱うことは適切ではない。

 また、委員長や大臣などの役職を務めたことと、法律の内容を個人が決定したことも区別しなければならない。法律の制定には、政府内での検討、与党内の調整、国会審議、各会派の判断などが関係する。森が重要な役職を通じて法律審議に関与したことは確認できても、その法律の内容や成立を森一人の功績とみなすことはできない。

 2026年の衆議院議長就任についても同様である。国会法第19条に定められた議長の主な職務は、議院の秩序保持、議事の整理、事務の監督、議院の代表であり、政府予算を個人的に配分したり、地元の公共事業を直接決定したりする権限ではない。議長就任は国会内での経験や政治的信任を示す一方、議事運営における公平性と中立性を求められる立場への転換でもある。

 したがって、森が国政で重要な地位に到達したことは評価できるものの、その地位の高さと、個別政策への実質的な影響力、さらには地元への利益を同一視すべきではない。政治家の経歴を評価する際には、どの役職を経験したかという事実と、その役職においてどのような成果を生み出したかという問題を分けて考える必要がある。

法務大臣時代に見える評価の分かれる政治家像

 森が初めて入閣したのは2008年の麻生内閣で、法務大臣に就任した。同時期の重要な法制度上の課題の一つが国籍法改正である。

 2008年6月、最高裁判所は、日本人の父から出生後に認知された子について、父母が結婚しているかどうかによって日本国籍取得に差を設けていた当時の制度の一部を違憲と判断した。この判決を受け、森は法務大臣として、憲法に適合する制度へ改めるための国籍法改正案を国会に提出したと説明している。法案は同年11月の衆議院法務委員会で全会一致により可決されており、森が政府の責任者として法制度の是正に関与したことが確認できる。

 ただし、この改正は森が独自の政策思想によって一から構想した改革というより、最高裁判決によって明らかになった憲法上の問題に対応するための制度改正だった。司法判断を受けて行政が法案を作成し、国会が審議するという憲法上の仕組みの中で、法務大臣として役割を果たしたと評価する方が正確である。

 一方、法務大臣在任中には、死刑執行という極めて重い判断も行っている。当時の記録によると、森の在任中には2008年10月に2人、2009年1月に4人、同年7月に3人の死刑が執行され、合計9人となった。東京弁護士会は当時、死刑執行に反対する声明を公表しており、森の判断に対する批判も存在していた。

 日本の法律では、死刑の執行は法務大臣の命令によるものとされているため、森による執行命令は制度上の権限行使だった。しかし、現行法に基づく職務の遂行であったことと、その判断が倫理的、社会的に正しかったかどうかは別の問題である。確定した刑罰を法律に従って執行することを重視する立場がある一方、死刑制度そのものの廃止や執行停止を求める立場も存在する。

 このため、森を「決断力のある法務大臣だった」と賞賛だけで評価することも、「多数の死刑を執行した法務大臣だった」と批判だけで評価することも、十分ではない。確認できるのは、森が法務大臣として国籍法改正への対応と死刑執行命令という異なる性格の職務を担ったことであり、それぞれの政策や判断に対する価値評価は、事実関係を明確にしたうえで論じる必要がある。

外房の道路、鉄道、河川整備に森はどう関わったのか

 国政での経歴を評価するのであれば、森は13回当選し、法務大臣や衆議院議長まで務めた有力政治家だったという説明が可能である。しかし、地域政治を考えるうえで重要なのは、こうした国会内での地位が外房や房総東部の暮らしにどのような意味を持っていたのかという問題である。

 地方選出の国会議員を評価するとき、道路の開通、河川改修、鉄道施設の整備などが実績として語られることがある。しかし、公共事業は一人の政治家によって実現するものではない。道路であれば国土交通省、県、市町村、関係する道路管理者、財政当局、地権者、地域団体などが関与し、計画から完成まで長い期間を必要とする。河川改修や鉄道施設の整備についても、多数の関係主体による調整と継続的な予算措置が必要である。

 そのため、「森が圏央道を造った」「森がいたから河川改修が実現した」という説明には慎重でなければならない。国会議員が事業を要望したこと、その要望を関係機関が受け取ったこと、実際に予算が付いたこと、事業が完成したことは、それぞれ異なる事実である。個人の政治的貢献を確かめるには、要望の内容、政策決定の経緯、予算措置の時期、ほかの関係者の活動を比較する必要がある。

 もっとも、森が地域と中央政府を結ぶ要望活動に長期間関わっていたことについては、自治体の公的資料から具体的に確認できる。

 勝浦市では、国道128号と297号のアクセス改善を求め、2008年7月に市長、市議会議長、商工会長、観光協会長らが森を含む国会議員や国土交通省などへ要望活動を行ったことが、市議会会議録に記録されている。地域の道路交通上の課題を、自治体と経済団体が共同で国へ働きかけた事例であり、その活動に森が関わっていたことは確認できる。

 いすみ市では、外房線の快速列車を勝浦まで延伸することなどを求める要望活動に森が同行している。2018年の市の広報資料には、森英介衆議院議員とともに国土交通副大臣、東日本旅客鉄道本社、千葉支社などへ要望書を提出したことが記載されている。鉄道の運行や利便性の改善は鉄道事業者の経営判断や輸送需要などにも左右されるため、要望活動への同行と実際の運行改善を同じ成果として扱うことはできないが、森が地域の要望を中央の関係機関へ届ける活動に参加していたことは明らかである。

 御宿町でも、御宿駅へのエレベーター設置をめぐり、2017年度と2019年度に森へ要望文書を提出した記録が残っている。駅のバリアフリー化は、高齢化の進む地域にとって重要な生活基盤の課題であり、町は東日本旅客鉄道や国土交通省などとの協議を継続してきた。ただし、この事業についても、要望を受けた政治家の関与が実際の事業判断にどの程度影響したのかを確認できる資料は限られている。

 茂原市では、一宮川水系の河川整備をめぐって同様の活動が確認できる。2024年12月、茂原市議会は河川整備促進に関する要望活動を行い、森へ直接要望書を手渡している。2025年にも県選出の国会議員に対する要望活動が続いており、豪雨災害への対応や河川整備が継続的な地域課題となっていることが分かる。

 ただし、茂原市の要望活動は森だけを対象にしていたわけではなく、ほかの複数の国会議員にも働きかけている。この点は、地域政治を評価するうえで見落としてはならない。自治体は特定の一人だけに依存して国へ要望するのではなく、複数の議員や行政機関との関係を利用して政策実現を目指しているからである。

 これらの資料から確認できるのは、森が房総東部の自治体による要望活動の経路の一つとして、繰り返し関与してきたという事実である。一方、その働きかけが行政判断をどの程度変えたのか、ほかの国会議員と比べてどの程度大きな影響力を持っていたのか、森がいなければ実現しなかった事業があったのかについては、十分な証拠がない。

 したがって、森の地域政治家としての役割を評価する場合、「自分一人で事業を完成させた政治家」と説明するよりも、自治体と中央政府を結ぶ政治的な経路の一つとして長期間機能してきた人物と捉える方が、公的資料に忠実である。その機能には実務的な価値があった可能性があるが、具体的な成果や貢献度を確定するには、個々の事業についてさらに検証する必要がある。

13回連続当選は、地域からの支持をどこまで示すのか

 森が36年以上にわたり衆議院議員であり続けたことは、選挙で繰り返し議席を獲得してきた結果である。世襲による支持基盤や政党組織の支援があったとしても、選挙で勝利しなければ議席は維持できない。その意味で、13回連続当選という結果は政治的な強さを示している。

 2026年2月8日の第51回衆議院議員総選挙では、森は千葉11区で102,843票を獲得し、50,561票の多ケ谷亮、13,783票の椎名史明を上回って当選した。3候補の有効得票総数は167,187票であり、森の得票率は約61.5パーセントとなる。次点候補との差は52,282票に達しており、有効票に占める割合と得票差の双方から、選挙で大きく優勢だったことが分かる。

 ただし、選挙結果を地域全体の支持と読み替えるときには、分母の違いに注意する必要がある。千葉11区の有権者数342,740人に対して森の得票数102,843票は約30.0パーセントに相当する。したがって、有効投票の約6割を獲得したことは正しいものの、選挙区の全有権者の6割が森を積極的に支持したという意味にはならない。

 もっとも、全有権者に対する得票割合が約30.0パーセントだったからといって、森の支持率が30.0パーセントだったと結論づけることもできない。投票しなかった有権者の中にも森を支持する人がいた可能性があり、逆に明確な支持政党や候補者を持たなかった人もいたと考えられる。選挙結果から直接確認できるのは、実際に投票した有権者の選択であり、棄権者を含む有権者全体の政治的意思を完全に測定できるわけではない。

 さらに、選挙における勝利と政策に対する評価も同一ではない。有権者は候補者本人の実績だけでなく、政党への支持、政府への評価、対立候補との比較、地域の人間関係などを総合して投票する。13回の当選は森が選挙で長期にわたり競争力を維持したことを示すが、そのすべてを地域政策への高い評価の結果と解釈することはできない。

 このように、有効票に占める得票率、有権者全体に占める得票割合、地域住民の政治的支持、政策に対する評価は、それぞれ異なる指標である。森の選挙での強さを認めることと、その強さを地域全体からの全面的な信任とみなさないことは、矛盾する判断ではない。

有力国会議員が36年間いても、人口減少は続いた

 森の国会議員としての36年間を外房の人口動向と重ねると、地域が直面してきた構造的な変化が見えてくる。森が初当選した1990年と現在では、地域の年齢構成、産業構造、交通需要、行政サービスを維持する条件は大きく変わっている。特に人口減少と高齢化は、地域政治が避けて通れない課題となっている。

 千葉県の人口統計によると、夷隅地域の65歳以上人口割合は2024年の44.9パーセントから、2025年には45.3パーセント、2026年4月1日現在では46.0パーセントへ上昇している。2026年の数値は県内11地域の中で最も高く、地域の高齢化が継続していることが確認できる。市町村別では御宿町の65歳以上人口割合が54.4パーセント、勝浦市が48.1パーセントとなっており、地域内でも特に高齢化が進んでいる自治体が存在する。

 人口についても減少傾向が続いている。千葉県の毎月常住人口調査では、2026年6月1日現在の夷隅地域人口は60,795人とされている。ただし、この調査と住民基本台帳に基づく年齢別人口調査では、人口の把握方法や基準が異なる。例えば、住民基本台帳に基づく2025年の人口64,248人と、毎月常住人口調査による2026年6月の60,795人を単純に差し引き、その差を約1年間の人口減少として扱うことはできない。

 人口の長期的な変化を正確に分析するためには、調査方法と地域区分を統一し、複数時点の人口を比較する必要がある。森の在職期間全体との関係を論じるのであれば、1990年、2000年、2010年、2020年などの国勢調査人口を用い、同一の地域範囲で人口、年齢構成、人口移動を追跡する方法が適切である。人口減少を論じる際には、異なる統計系列を接続して見かけ上の減少を大きく見せないことも重要である。

 では、有力な国会議員が長期間存在したにもかかわらず人口減少と高齢化が進んだことを、森の政治活動の失敗と判断できるだろうか。結論からいえば、それだけでは判断できない。人口動態は、出生と死亡、若年層の進学や就職、賃金水準、住宅事情、地域産業、医療や教育の供給、都市部への人口集中など、多数の要因によって決定される。一人の国会議員の活動だけで人口構造が決まるわけではない。

 統計学や因果推論の観点から考えると、観測できるのは森が議員を務めてきた外房の実際の変化であり、同じ地域で森だけが議員でなかった場合の変化を同時に観測することはできない。したがって、現在の人口減少を森個人の失敗に帰属させることも、反対に森がいたから人口減少が抑えられたと断定することもできない。

 ただし、直接観測できないからといって、政治的な影響の分析がまったく不可能になるわけではない。人口構造や産業条件の近い地域との比較、個別政策の実施前後の変化、道路や交通の改善による経済的効果の推計、予算措置の決定過程の追跡などを組み合わせれば、一定の範囲で政策効果を推定することは可能である。重要なのは、比較対象の選び方や地域固有の条件によって結果が左右されることを理解し、単純な相関関係を因果関係と取り違えないことである。

 ここから導かれるのは、森英介個人が人口減少対策に失敗したという結論ではない。有力な国会議員が長期間存在しても、人口減少や高齢化という構造問題は解消されなかったという事実である。この事実は、道路や施設の整備、国からの財政支援だけでは人口構造の変化に十分対応できない可能性を示唆している。ただし、それだけで従来の地域振興政策がすべて無効だったと証明されるわけでもない。

森英介は外房に必要な政治家だったのか

 ここで、最初の問いに戻りたい。森英介は外房に必要な政治家だったのだろうか。

 この問いに対して、72点や85点といった総合点を与えることは適切ではない。国会内での地位、地域要望への関与、公共事業への貢献、人口減少への影響、有権者からの支持などは、それぞれ測定対象も単位も異なっている。恣意的な重みを設定して合計しても、その数字が科学的な意味を持つとは限らない。数理的な分析では、測定できる対象と測定できない対象を区別し、不確実なものを正確に測定できたかのように扱わないことが重要である。

 まず、国政での経歴については、森が重要な政治的地位に到達したことは明確である。13回連続で当選し、法務大臣、厚生労働副大臣、憲法審査会長などを経験して衆議院議長に就任した事実は、国会内で長期間にわたり一定の地位と信任を得てきたことを示している。ただし、役職の高さだけで個別政策への影響力の大きさまで証明されるわけではない。

 地域と中央政府を結ぶ機能についても、一定の事実が確認できる。勝浦市、いすみ市、御宿町、茂原市などの公的資料には、森が自治体の要望活動に同行したり、要望を受け取ったりした記録が存在している。これは、森が地元との関係を持たない中央政治家ではなく、地域の政策課題を国へ伝える活動に関与してきたことを示している。

 一方で、その関与が具体的な行政判断や事業の進捗にどの程度影響したのかは、十分に明らかになっていない。公共事業は複数の主体による共同の取り組みであり、実現した事業を特定の政治家一人の功績に帰属させることはできない。さらに、森以外の国会議員や自治体独自の交渉によって同様の結果が得られた可能性も排除できない。

 長期在職と地域課題の解決についても評価は分かれる。人口減少、高齢化、公共交通の維持、医療や介護の人材不足といった問題が残っていることは事実だが、それらを森一人の責任とみなすことは合理的ではない。一方、そうした構造問題が解決されなかったにもかかわらず、長く議員を務めたという理由だけで地域への貢献を高く評価することも適切ではない。

 こうして整理すると、確認できる範囲での評価は限定的なものになる。森英介は、国政で重要な地位を経験し、外房・房総東部の自治体が中央政府へ働きかける際の政治的な経路の一つとして継続的に機能してきた。その活動には地域にとって一定の実務的価値があった可能性がある。しかし、森個人の貢献がどれほど大きかったのか、別の政治家では同じ役割を果たせなかったのか、森が存在しなければ地域がどのような状況になっていたのかについては、現在確認できる資料だけでは判定できない。

 つまり、「役割を果たしてきたこと」「地域にとって価値があったこと」「不可欠な存在だったこと」は、それぞれ異なる命題なのである。最初の命題には具体的な裏付けがあり、二番目についても一定の可能性が認められるが、三番目を証明するだけの根拠はない。

36年の長期在職が生んだ利点と、依存の可能性

 同じ地域から長期間にわたって国会議員を務めることには、実務上の利点がある。中央省庁の制度や予算編成の仕組み、国会の審議過程、政党内の政策調整などに関する知識は、長い政治経験を通じて蓄積される。関係者との継続的な接点が形成されれば、自治体が課題を相談する際にも、必要な機関や担当部局につながりやすくなる可能性がある。

 特に小規模自治体では、国の制度改正や予算要求に精通した職員を十分に確保することが難しい場合がある。国会議員が行政制度に関する情報を提供し、関係機関との協議の機会をつくることには、一定の実務的価値があると考えられる。ただし、国会議員の経験年数が長いほど要望が採択されやすいという関係が、森の事例で実証されたわけではない。

 他方、長期在職には政治的な依存を生む可能性もある。地域の課題を国に伝える際、特定の有力議員を通すことが慣行となれば、その方法は短期的には効率的であっても、別の交渉経路を整備する必要性が意識されにくくなるかもしれない。議員の引退や落選、政権や政党内での立場の変化が起きたとき、それまでの関係に依存していた自治体が対応に苦慮する可能性も考えられる。

 もっとも、森の選挙区において、そのような依存が実際に生じ、ほかの交渉経路が育たなかったことを証明する資料はない。茂原市などの要望活動では複数の国会議員に働きかけており、自治体が必ずしも森一人に依存していたわけではないこともうかがえる。したがって、長期在職による政治的依存は、森の活動から確認された結論ではなく、検討すべき制度的なリスクとして捉える必要がある。

 この問題は、森が父の政治基盤を引き継いだ世襲政治家であることとも関係する。政治家個人に蓄積された人脈や経験は、選挙による世代交代の際に自動的に引き継がれるものではない。政治家の交代によって地域の政策形成能力が失われるのであれば、それは個人の問題であると同時に、自治体や地域社会の制度的な問題でもある。

 地域と中央政府の関係を一種の社会的なネットワークと考えるなら、一人の有力議員を通じる経路は重要な資源になり得る。しかし、地域全体の政治的な対応力を高めるためには、国会議員だけでなく、県、市町村、広域行政組織、経済団体、医療機関、住民組織などが、それぞれ必要な情報と交渉能力を持つことも重要である。

 森が長く議席を維持してきたことと、外房の政治的な仕組み全体が十分に強かったことは同じではない。前者は選挙と国会での経歴から確認できるが、後者を評価するには、政治家が交代しても自治体間の協力や国との協議が継続できるかという、別の基準が必要になる。

「何を造る政治」から「何を維持する政治」へ

 森が初当選した1990年、日本はバブル経済の終盤にあり、地方政治では高速道路、幹線道路、公共施設、産業基盤の整備などが重要な政策課題となっていた。交通条件を改善し、企業活動や観光を促進し、都市部との時間的な距離を縮めることが、地方の発展につながると考えられていた時代である。

 もちろん、当時の地方政策が公共事業だけで成り立っていたわけではないし、道路や鉄道の整備が無意味だったわけでもない。交通基盤の改善は物流、通勤、観光、救急搬送、災害時の移動などに影響するため、人口減少が進む地域でも一定の必要性がある。重要なのは、公共事業の実施そのものを成果とするのではなく、その事業によって住民の生活や地域経済にどのような効果が生じたのかを検証することである。

 36年後の外房では、地域政策に求められる内容が変化している。新しい道路を整備する必要性が残る一方で、既存の道路や橋の補修、水道管の更新、河川施設の維持、鉄道や路線バスの運行、医療・介護サービスの確保など、現在ある生活基盤をどのように維持するかという課題が大きくなっている。

 人口減少が進めば、公共施設の利用者が減るだけでなく、税収や使用料収入にも影響が生じる可能性がある。施設を維持する費用は利用者の減少に比例して小さくなるとは限らず、老朽化による修繕費用が増加する場合もある。そのため、人口が減る地域では、一人当たりの維持費用が上昇するという財政的な問題が生じやすい。

 さらに、生活基盤の維持には財源だけでなく人材も必要である。病院まで移動できなくなった高齢者を誰が支援するのか、介護職員や看護職員をどのように確保するのか、水道工事や電気設備の修繕を担う事業者が減ったときにどう対応するのか、消防団員や地域の防災活動を担う住民が減少した場合にどのような仕組みをつくるのか。こうした課題は、一つの公共施設を整備するだけでは解決できず、財政、労働市場、人口構造、行政運営を横断して考える必要がある。

 このような状況では、政治の評価基準も変わらなければならない。従来のように新しい道路や施設を何件整備したかという指標だけでなく、既存施設をどの程度維持できたか、住民の移動手段を確保できたか、医療や介護へのアクセスを保てたか、限られた財源をどのように配分したかといった指標が重要になる。

 ただし、「何を造る政治」から「何を維持する政治」への転換は、新規整備をすべて否定することではない。老朽化した施設の統廃合が必要になる場合もあれば、新しい道路や交通手段への投資によって、将来の維持費用を抑えられる場合もある。人口減少社会において重要なのは、建設か維持かという単純な二者択一ではなく、将来人口、利用需要、更新費用、地域への便益を比較しながら、限られた資源を合理的に配分することである。

 森英介は、地方の交通基盤や公共施設の充実が重視された時代から、人口減少を前提に生活基盤の再編を考えなければならない時代までを、同じ地域を選挙基盤として経験してきた。その意味で、森の36年間は一人の政治家の経歴であると同時に、日本の地方政治に求められる役割が変わってきた36年間でもある。

地域が政治家に依存しないために必要なもの

 今後の外房にとって重要なのは、国会議員に地域の要望を届けてもらう仕組みを否定することではない。国会議員には国民の代表として法律や予算を審議する役割があり、地方自治体が国の政策形成過程に意見を届けることにも合理的な意味がある。ただし、その仕組みが特定の政治家の個人的な人脈や地位に過度に依存しないようにすることが、長期的な地域運営では重要になる。

 例えば、複数の市町村に共通する医療、交通、河川、防災の課題については、自治体ごとに個別の要望を繰り返すだけでなく、広域的な需要や費用を分析し、共通の政策目標を明確にすることが考えられる。人口推計、交通利用実績、医療機関への移動時間、施設の更新費用などの客観的なデータが整理されていれば、国や県との協議においても、地域側が政策の必要性を具体的に説明しやすくなる。

 また、要望活動の成果を評価する仕組みも必要である。国会議員や中央省庁へ要望書を提出したという事実だけで活動を終わらせるのではなく、その後にどのような回答があり、予算や制度にどのような変化が生じ、実際に住民の生活へどの程度の効果があったのかを継続的に確認することが重要になる。政治家への働きかけを記録するだけでなく、政策の実現過程と結果を検証できる形にすることが求められる。

 さらに、自治体職員の政策立案能力、広域連携を調整する仕組み、住民に情報を公開する制度などを整備することも必要である。特定の議員が交代しても、地域の側に課題を分析し、優先順位を決定し、国や県と交渉する能力が残っていれば、政治的な環境の変化に対する対応力は高まると考えられる。

 こうした取り組みは、国会議員の役割を小さくするものではない。むしろ、地域側が十分な情報と政策案を持つことで、議員も具体的な課題を国会や政府へ届けやすくなる可能性がある。政治家個人の力量と自治体の政策形成能力を対立させるのではなく、双方が補完し合う仕組みをつくることが重要なのである。

森英介の36年が外房に残す問い

 森英介を礼賛する必要もなければ、長く議席を維持したことだけを理由に否定する必要もない。確認できる公的資料からは、森が国政で重要な役職を経験し、房総東部の自治体が中央政府へ要望する際の政治的な経路の一つとして長期間機能してきたことが分かる。その活動が地域に一定の実務的な価値を持っていた可能性は十分にある。

 一方で、道路、河川、鉄道などの整備に対する森個人の因果的な貢献度は、現在確認できる資料だけでは判定できない。人口減少や高齢化を森の政治活動の失敗とみなすこともできなければ、森がいたことによって地域の衰退が抑えられたと証明することもできない。政治家の功績を評価するには、経歴や要望活動の記録だけでなく、実際の政策決定過程と効果をさらに検証する必要がある。

 したがって、「森英介は外房に必要な政治家だったのか」という問いへの答えは、単純な肯定にも否定にもならない。森が地域と中央政府の間で具体的な役割を担ってきたことは確認でき、その役割に実務的な価値があった可能性も認められる。しかし、森でなければ同じ役割を果たせなかったのか、森がいなければ地域がどのような状況になっていたのかを示す十分な証拠はない。少なくとも、森が外房にとって不可欠な存在だったと断定することはできない。

 2026年2月18日、森は衆議院議長に就任し、1990年の初当選から続く政治家としての経歴は一つの到達点を迎えた。しかし、国会で最高位の役職の一つに就いたことが、そのまま地元の生活課題を解決したことを意味するわけではない。地域にとって重要なのは、政治家の地位の高さだけでなく、その政治活動が生活基盤の維持や地域の将来にどのようにつながってきたのかという問題である。

 そして、森の36年間を振り返ることで、もう一つの問いが浮かび上がる。地域が長期間にわたって有力な国会議員との関係を持っていたとしても、その人物が引退したり、政治的な立場が変わったりしたとき、自治体は同じように国や県と協議し、必要な政策を実現できるのだろうか。

 人口減少が進む外房では、道路や施設を新しく整備する能力だけでなく、限られた財源と人材の中で生活基盤を維持する能力が問われている。国会議員の政治力はそのための手段の一つになり得るが、それだけで地域の将来が決まるわけではない。

 森英介の36年間を評価するという作業の最後に残るのは、一人の政治家に点数を付けることではない。地域の課題を客観的なデータによって把握し、複数の自治体が協力し、国や県との交渉経路を維持しながら、住民の生活を支える仕組みを築けるかどうかである。

 森英介という長期在職の有力政治家が果たしてきた役割を検証すると同時に、特定の政治家がいなくても地域が必要な政策を実現できる仕組みを整えられるのか。これこそが、人口減少時代の外房にとって、過去の政治家への評価以上に重要な問いなのである。

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