地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 病院から自宅へ帰る日は、多くの高齢者にとって待ち望んだ日である。見慣れた玄関を開け、いつもの椅子に腰を下ろし、自分の布団で眠れるとなれば、「ようやく元の暮らしに戻った」という安心感が生まれる。しかし、退院とは病気の治療が一区切りついたことを意味していても、生活能力が入院前の状態まで戻ったことを意味するわけではない。病院では時間になれば食事が運ばれ、薬は管理され、床を自分で掃除する必要もなく、体調が悪ければすぐに職員へ伝えることができるが、自宅へ戻った瞬間から、それまで病院という仕組みが支えていた仕事の多くを本人や家族が引き受けることになる。

 冷蔵庫に食べ物がなければ買い物へ行き、食材があれば調理し、食べ終えれば片付け、洗濯物がたまれば洗い、決められた日には病院へ行かなければならない。入院前には何気なくこなしていた動作でも、入院によって体力や筋力が落ちた高齢者にとっては、1つずつの負担よりも、それらが毎日の生活の中で連続して現れることのほうが問題になる。退院直後の7日間とは、単に病気の続きを自宅で療養する期間ではなく、「患者として支えられる暮らし」から「自分で生活を組み立てる暮らし」へ移る時間なのである。

「どれが一番不足するか」は、実は簡単には決められない

 食事、買い物、通院、家事の4つを並べたとき、どれが最も不足しやすいのかを1つだけ選びたくなるが、現在の研究から全国の高齢者について明確な順位をつけることは難しい。退院後1週間という時期を直接調べた研究では、何らかの支援が足りない高齢者が少なくなく、特に家事に困難を抱える人が多いことも報告されている一方、栄養状態の悪化が再入院などの不良な経過と関係することも知られているため、「最も多い問題」と「最も健康に影響する問題」は分けて考えなければならない。

 ここで重要なのは、発生する人数が多いこと、健康への影響が大きいこと、他の生活問題の影響が集まりやすいことは、それぞれ別の性質だということである。家事に困る人が多かったとしても、それだけで家事が最も危険だとは言えず、低栄養が再入院と関係していたとしても、それだけで食事に困る人が最も多いとは言えない。したがって、この4項目を単純な順位表にするよりも、「どの問題がどのように生活を崩していくのか」を見るほうが、退院直後の現実に近い。

家事は、決して小さな問題ではない

 退院後の生活で見落とされやすいものの1つが家事である。病院の廊下を歩けるようになり、トイレにも自分で行けるようになったからといって、自宅で掃除機を動かし、洗濯物を干し、風呂を洗い、ゴミ袋を持って外まで運べるとは限らない。むしろ家事には、病院内では試されにくい動作が多く含まれており、立ったりしゃがんだり、物を持って移動したり、腕を上げたりする作業が何度も重なることで、本人が想像していた以上に疲労することがある。

 掃除や洗濯の一部は数日延ばせることもあるが、だからといって重要度が低いわけではない。洗濯物がたまり、台所が片付かず、ゴミを出せない状態が続けば、生活環境そのものが悪化し、自宅で暮らし続けることが難しくなる。退院後1週間という早い時期の調査で家事の困難が目立ったという報告があることを考えれば、「家事は後回しにできるから問題が小さい」と考えるより、退院後の自立生活を支える中心的な能力の1つとして見る必要がある。

買い物の問題は、店まで歩けるかどうかだけではない

 買い物についても、単純にスーパーまで行けるかどうかだけを見ていては十分ではない。店まで歩くことができても、米や牛乳、野菜を持って帰る体力がなければ買い物は成立せず、歩行器や杖を使っていれば両手を自由に使えないこともある。車を運転していた人が入院をきっかけに運転を控えるようになれば、今まで何の問題もなかった距離が突然大きな壁になることもある。

 一方で、買い物には代替手段を作りやすい面もある。家族に頼む、宅配を利用する、配食サービスを使う、近所の人に手伝ってもらうといった方法によって、「本人が店まで行く」という行為そのものを外部へ任せられる場合がある。しかし、代わりの手段が使えるかどうかは、家族構成、地域の交通事情、経済状態、サービスの有無によって大きく違うため、買い物の困難は地域差が非常に大きい問題でもある。

[過去記事]スーパーがなくなった地域で高齢者は30年後も買い物できるのか

通院は回数が少なくても、1回の失敗が大きい

 通院は、食事や家事のように毎日行うものではないが、回数が少ないから重要度が低いわけではない。退院後の診察では、病状の確認、薬の調整、検査結果の確認などが行われるため、その1回に行けないことが治療全体へ影響することがある。本人が長い距離を歩けなくなっていれば、家族の付き添い、タクシー、介護サービスなどが必要になり、予約時刻に合わせて身支度をして外出するだけでも大きな負担になる。

 ただし通院には、生活上の問題として周囲から発見されやすいという特徴がある。次回受診日が決まっていれば、その日を基準に家族が予定を立てたり、移動手段を準備したりしやすいからである。これに対して、食事や家事の不足は毎日の中で少しずつ起こるため、「今日はできなかった」という1回だけでは問題として認識されにくく、本人自身も「まだ何とかやれている」と考えやすい。

[過去記事]外房で病院や診療所が減ったらどこまで通院できるのか~医療機関までの距離と高齢者生活を考える

食事は「最も多い問題」ではなくても、生活の変化が集まりやすい

 食事について最も慎重に考えたいのは、「最も不足する」と断定することではなく、他の生活上の問題が流れ込みやすいという性質である。買い物へ行けなければ食材が減り、家事能力が落ちれば調理や後片付けが負担になり、体力が落ちれば台所に長く立つことが難しくなる。その結果として、食卓に並ぶ料理が簡単になり、食事量が減り、食品の種類が少なくなることがある。

 しかも、冷蔵庫に食べ物が入っていることと、十分な食事ができていることは同じではない。卵や豆腐、野菜があっても調理する体力がなければ料理にはならず、本人が「食べた」と答えていても、実際にはパン1個とお茶だけだったということもあり得る。食事の不足は、食べ物が完全になくなる形だけで起こるのではなく、量が少なくなる、品数が減る、調理が単純になる、食事回数が減るという形で静かに進むことがある。

 この点で、食事は退院後の生活を見るうえで重要な窓になる。食事そのものが最も多い問題だと証明されているわけではないが、「何を食べているか」をたどっていくと、買い物へ行けるか、台所に立てるか、料理をする意欲があるか、家族に頼めるかといった生活上の事情まで見えてくるからである。

低栄養が重要なのは、「発生人数」ではなく「その後への影響」である

 高齢者の栄養状態が重要視される理由の1つは、低栄養がその後の健康状態と関係しているからである。高齢者を対象にした複数研究をまとめた分析では、低栄養の人では30日以内の再入院リスクが高いことが報告されている。これは、食事の問題が生活の中で見逃された場合、その影響が単なる空腹にとどまらず、身体機能の回復や再入院にも関係する可能性を示している。

 しかし、ここでも注意が必要である。低栄養の人ほど再入院しやすいという事実は、「食事に困る人が買い物や家事に困る人より多い」という意味ではない。統計的には、ある問題が起きたときの影響の大きさと、その問題がどれくらいの人数に起きるかは別に評価しなければならないため、食事については「頻度が最も高い」とするより、「起きたときに見過ごしたくない問題」と位置づけるほうが正確である。

最初の7日間を見る意味

 では、なぜ退院後の最初の7日間に注目するのか。それは、7日目に何か医学的な境界があるからではなく、この時期が病院から自宅への移行が最も濃く表れる期間だからである。退院直後から数週間は再受診や再入院が起こる時期でもあり、特に早い段階のフォローが重要であることは複数の研究でも示されている。

 退院当日は家族が迎えに来て、食品を買い、冷蔵庫を満たしてくれるかもしれない。しかし、その支援が毎日続くとは限らず、数日が過ぎるうちに、本人自身の生活能力が少しずつ表面に出てくる。ここで重要なのは「3日目に問題が現れる」と決めることではなく、退院当日の特別な支援が薄れていく過程で、本来の生活上の困難が見えてくることがあるという点である。

病院で歩けることと、自宅で暮らせることは同じではない

 退院判断では、歩行、排泄、食事など基本的な動作が確認されるが、自宅での生活には、それだけでは測れない仕事が数多くある。病院内で50メートル歩けたとしても、自宅ではその途中に玄関の段差があり、洗濯物があり、ゴミ袋があり、スーパーから持ち帰る荷物がある。病院で確認される身体能力と、実際に自宅生活を成立させる能力との間には、思っている以上の距離がある。

 この距離を考えるうえで重要なのが、IADL(Instrumental Activities of Daily Living・手段的日常生活動作)である。買い物、食事の準備、掃除、洗濯、服薬管理、金銭管理などは、単に身体が動くかどうかではなく、その人が地域の中で生活を組み立てられるかを示す。退院後の生活を考えるときには、歩けるか、立てるかという身体機能だけでなく、毎日の暮らしを自分で回せるかという視点が必要になる。

[過去記事]一人暮らしの高齢者の異変に最初に気づくのは、家族・隣人・宅配業者の誰なのか

4つを順位づけするより、「生活が崩れる入口」を探す

 食事、買い物、通院、家事の4つについて、現在の研究から全国共通の第1位を決めることはできない。退院後1週間では家事の困難が目立つ研究もあり、交通事情によっては買い物や通院が最大の問題になる人もいる。一方で、食事は他の問題の影響を受けやすく、低栄養になった場合にはその後の健康にも関係するため、特に注意して見る価値が高い。

 だから退院後の7日間に必要なのは、「何が一番足りないか」を機械的に決めることではない。その人の場合、どこから生活が崩れ始めるのかを見つけることである。ある人では掃除や洗濯ができないことから始まり、別の人では買い物に行けないことから始まり、また別の人では診察日に病院まで行く手段がないことから始まる。その中で、食事は多くの生活機能の変化が表れやすいため、暮らし全体を見る手がかりになりやすい。

 退院の日には、薬の数や次の診察日を確認することが多い。しかし、その人が本当に自宅で暮らし続けられるかを見るなら、「明日の朝、何を食べますか」「洗濯はどうしますか」「次の診察にはどうやって行きますか」「食べ物がなくなったら誰が買いに行きますか」と、生活そのものを尋ねる必要がある。

 そこで具体的な答えが返ってくれば、退院後の生活はある程度組み立てられている。一方、「何とかなるでしょう」という言葉の後に長い沈黙があれば、その沈黙の中には、台所に立ち続けられない体力、買い物袋を持てない腕、掃除のできない疲労、病院まで行く交通手段の不足、頼れる人の少なさが隠れているかもしれない。

 退院できたことと、自宅で暮らせることは同じではない。退院後7日間に本当に確認すべきなのは、食事、買い物、通院、家事のどれが全国で第1位なのかではなく、その人の暮らしのどこに最初のほころびが生まれているのかである。そして、そのほころびを早く見つけるために、食卓、台所、洗濯物、買い物袋、次の診察日といった、ごく普通の日常を見ることが重要なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

 住宅地を歩いていると、地域というものは、行政だけでも市場だけでも動いていないことに気づく。決められた曜日になればごみ集積所にごみが集まり、その周囲はいつの間にか掃除され、夏になれば道路脇の草が刈られ、台風や大雨が近づけば防災情報が伝えられるが、こうした仕事のすべてを市町村の職員が行っているわけではなく、その間には、長いあいだ町内会や自治会と呼ばれる組織を通じて住民が担ってきた、目に見えにくい仕事が存在している。普段、それらは生活の背景に溶け込んでいるため意識されることが少ないが、担い手が減り始めると、それまで自然に存在しているように見えた地域の秩序が、実は誰かの時間と体力と善意によって維持されていたことが、少しずつ姿を現してくる。

 その一方で、町内会に加入しないという選択も、いまや特別なものではなくなりつつある。総務省の調査を基にした自治会等に関する全国的な集計では、2010年度から2020年度まで継続して加入率を把握できた600市区町村について、平均加入率は78.0%から71.7%へと10年間で6.3ポイント低下しており、これは全国すべての自治会を合算した加入率ではないものの、「自治会に入ることが当然」という社会的前提が弱まりつつあることを示す1つの材料にはなる。仕事が忙しく役員を引き受けられない人、地域行事に強い関心を持たない人、定年後に移り住んできた人、単身者、共働き世帯など、地域との距離の取り方が多様になった現在、「町内会には入らないが、この地域では暮らしている」という住民が増えること自体は、それほど不思議な現象ではない。

 問題は、その人たちを地域意識が低いと批判することではなく、住民の生活様式が変わったにもかかわらず、ごみ、防災、草刈り、清掃、情報伝達などの仕組みだけが、全世帯が町内会に参加することを前提とした時代の姿を引きずっていることにある。加入する人が減っても、仕事そのものが同じ量だけ残れば、当然ながら残った人の負担は増えるが、だからといって加入率の低下が必ず地域機能の低下を引き起こすわけでもなく、仕事を減らした地域、外部に委託した地域、町内会以外の組織へ移した地域では、違った結果になる可能性がある。町内会問題を考えるうえで最も重要なのは、この条件の違いを無視して「入らない人が増えたから地域が壊れた」と単純化しないことである。

「町内会に入ること」と「地域で暮らすこと」が一致しなくなった

 町内会の難しさは、それが会員だけに便益を提供する趣味の団体ではなく、長い年月をかけて地域生活の基盤の一部を引き受けてきたことにある。祭りや旅行であれば参加する人だけで行うことができるが、ごみ集積所が清潔に保たれれば周辺住民全体が恩恵を受け、道路沿いの草が刈られて見通しがよくなれば、作業した人だけではなく歩行者も自転車も自動車も利益を受け、災害時に避難経路や危険箇所について情報が共有されれば、その効果を町内会員だけのものにすることは難しい。

 経済学では、こうした状況を考えるときに「集合行為」の問題が使われる。自分1人が負担しなくても他の住民が活動を続けてくれるなら、その利益だけを受けることは個人にとって合理的に見えるが、多くの人が同じ判断をすれば、やがてサービスを提供する側そのものが維持できなくなるという構造であり、地域防災や環境美化のように利益が広く周囲へ及ぶ活動では、特にこの問題が生じやすい。

 しかし、ここで非加入者を単純に「ただ乗り」と呼んでしまえば、本質から遠ざかる。従来の町内会には、ごみ管理や防災だけでなく、親睦行事、各種募金、役員会、回覧、祭りなど性格の異なる活動がまとめて組み込まれている場合が多く、「防災には協力したいが行事には出たくない」「清掃費なら払えるが休日の作業には参加できない」という住民に対して、加入か非加入かという2つの選択肢しか用意されていないこと自体が、現在の生活様式と合わなくなっている可能性がある。

ごみ集積所は、町内会問題を最も小さく映す場所である

 この矛盾が最も分かりやすく現れる場所が、ごみ集積所である。家庭から出たごみそのものは市町村が収集していても、集積所の清掃、ネットや設備の管理、分別されずに残されたごみへの対応、ごみ当番の調整などを自治会や住民が担っている地域は少なくなく、そこでは行政サービスと住民自治が1つの場所でつながっている。

 国立環境研究所の研究者らがつくば市の自治会長を対象に行った調査では、ごみ集積所の管理方法と自治会規模、自治会加入率、高齢化などの関係が調べられ、自治会未加入世帯などが多い集積所では管理上の問題が多くなる傾向が確認された一方、小規模な自治会では、自治会ではなく住民グループが設備を所有したり、非加入者から利用料を受け取ったりする形も確認された。この研究が示しているのは、「自治会に入らない人が悪い」という単純な結論ではなく、従来の自治会だけにごみ集積所管理を依存する方法とは別の仕組みが、実際の地域でもすでに生まれているということである。

 数字で考えると問題はさらに分かりやすい。20世帯で同じ仕事を均等に負担していたものを、参加世帯が10世帯になっても仕事量を変えずに続ければ、1世帯あたりの平均負担は単純計算で2倍になる。ただし、これは「仕事量も運営方法も変えない」という条件の下で成立する話であり、加入者が減ったことを機に当番を減らす、集積所の形を変える、行政や業者に一部を任せるといった変更を行えば、必ずしも2倍にはならない。したがって、本当の問題は加入者数そのものより、「人が減ったのに仕事の設計を変えないこと」にある。

 ごみ集積所をめぐっては、法律上も単純に「町内会員だけのもの」とはいえない場合がある。2025年4月の福井地方裁判所判決では、町内会が管理するごみステーションについて、非会員が一定の使用料を支払って利用すること自体は否定されなかった一方、地域の制度や集積所の公共的性格を踏まえれば、町内会側が使用料を無制限に設定できるわけではないと判断された。全国どの地域でも同じ扱いになるわけではなく、集積所の所有関係や自治体の収集方式によって事情は変わるが、少なくとも「町内会に入らないなら、ごみの問題もすべて自己責任」と単純には割り切れないことを示している。

 だからこそ、ごみ集積所については町内会への加入そのものと、生活インフラの維持管理を分けて考える余地がある。自治体の制度や地域の実情に応じて、利用世帯が清掃や維持費を負担する、作業が難しい世帯は費用で補う、住民グループが管理するなど複数の形を認めれば、「町内会に入るか、何もしないか」という2択から抜け出すことができる。

防災では、会員と非会員を分けることがさらに難しくなる

 ごみ集積所は毎日の生活の中にあるため負担が見えやすいが、防災は大きな災害が起きない限り、その価値が見えにくい。ところが地震や豪雨が起きた瞬間には、誰がどこに住んでいるのか、どの道路が通れるのか、どこに高齢者や支援を必要とする住民がいるのか、避難場所までどう移動するのかといった情報が、それまでの近所付き合いとは別の意味を持ち始める。

 総務省消防庁の2025年版消防白書によれば、2025年4月1日時点で全国1,741市区町村のうち1,697市区町村に、合計16万7,722の自主防災組織が設置されている。これは地域防災が町内会だけで成立しているという意味ではなく、むしろ消防団、自治体、自主防災組織、学校、地域住民など複数の主体によって支えられていることを示しており、消防庁も地域住民による情報伝達、避難、防災訓練などを地域防災力の重要な要素として位置付けている。

 火災が起これば火は町内会の境界で止まらず、道路が倒木で塞がれれば会員も非会員も通れず、津波や豪雨から避難するときに、住民を会費の支払いの有無で分けることも現実的ではないため、防災は町内会活動の中でも特に会員制になじみにくい。だから、町内会加入率が低下したときに考えるべきなのは「非加入者をどう参加させるか」だけではなく、防災という機能そのものを町内会だけに依存させてよいのかという問題である。

 町内会の加入率が下がれば自動的に防災力が下がると断定することはできないが、防災情報の伝達や訓練、安否確認を町内会だけに依存している地域では、加入者の減少が連絡網の縮小につながる可能性がある。逆に、町内会とは別に自主防災組織を整備し、会員であるかどうかに関係なく地域住民へ情報が届く仕組みを持っていれば、町内会が小さくなっても防災機能を維持できる可能性がある。

草刈りの問題は、加入率より年齢構成の方が深刻かもしれない

 草刈りになると、ごみや防災とは別の問題が見えてくる。炎天下で道路沿いや空き地の草を刈り、刈った草を集めて運び、機械を扱う仕事は、若い人にとっても軽い作業ではなく、その地域の中心的な担い手が60代であれば、10年後には70代になっている。人数だけを見れば同じ住民が残っていたとしても、同じ作業量を安全に続けられるとは限らない。

 国土交通省も、人口減少によって町内会や自治会など住民組織の担い手が不足し、地域の共助機能が低下する懸念を指摘している。また、ごみ集積所管理について行われた研究でも、自治会の担い手不足が一部住民への負担集中を強める可能性が示されており、高齢化した地域では「人がいるかどうか」だけではなく、「その仕事を安全にできる人が何人いるか」を考えなければならない。

 ここでも、解決策を「もっと参加してもらうこと」だけに求めると無理が生じる。草刈りの回数そのものを減らす、機械を共同利用する、危険な場所だけ業者に委託する、行政との役割分担を見直す、作業に参加する住民へ一定の謝礼を支払うなど、仕事の側を変える方法もある。外注すれば必ず安くなるわけでも、地域活動が必ず長続きするわけでもないが、住民の無償労働を「費用がかかっていない」と考えることも正しくない。お金が動いていないだけで、住民の休日、体力、時間という資源が使われており、それを経済的な費用として認識しなければ、本当の負担は見えてこない。

人が減ると必ず地域が壊れる、というほど単純ではない

 ここまでを見ると、町内会加入率が下がることによって地域活動が衰退するように思えるが、科学的にはもう1段慎重に考えた方がよい。加入者の減少と地域機能の低下には関連が考えられるものの、全国の地域について「加入者が減ったことが原因で地域機能が低下した」と一方向の因果関係が証明されているわけではなく、地域によっては加入者が減ったことをきっかけに行事を整理して負担そのものを減らした例もあれば、外部団体や行政と連携して従来より効率的な運営に変えられる可能性もある。

 つまり、「加入者減少→負担増加→退会者増加→さらに加入率低下」という悪循環は十分に起こり得るが、それは固定された運命ではなく、仕事量を変えない、役割を分けない、外部の力を使わないという条件が重なったときに起こりやすい構造だと考えた方がよい。逆に考えれば、加入者が減ることそのものより、加入者が減っているにもかかわらず昔と同じ活動量を守ろうとする方が、地域運営にとって危険な場合さえある。

町内会を守るのではなく、仕事をいったん分解してみる

 町内会問題が感情的な対立になりやすい理由の1つは、「町内会を守るべきか、なくしてよいか」という大きな問いから議論を始めてしまうことにある。しかし、ごみ集積所の管理、防災、草刈り、道路清掃、祭り、親睦行事、募金、行政文書の配布では、必要性も公共性もまったく違うのだから、本来は1つずつ別々に考える方が合理的である。

 災害情報は可能な限り全住民へ届ける必要があり、ごみ集積所は利用者を中心に維持方法を考え、草刈りは住民の年齢や作業能力を見ながら外注を含めて判断し、祭りや親睦行事は参加したい人が中心になるというように仕事を分解すれば、「町内会員でなければ何も利用できない」「町内会員になったら全部の仕事をしなければならない」という極端な構造を弱めることができる。

 時間を提供できる人は作業で参加し、仕事や育児で時間のない人は費用で参加し、高齢者は重労働ではなく見守りや連絡を担当し、情報共有が得意な人はオンラインの連絡手段を担うという形も考えられる。全員が同じ作業を同じ回数こなすことだけが公平なのではなく、それぞれの能力と生活条件が違うことを前提として、特定の少数者に負担を集中させないこともまた公平なのである。

見るべき数字は「加入率」だけではない

 自治会について考えるとき、行政も住民も加入率という分かりやすい数字に目を向けがちだが、仮に加入率が90%あったとしても、実際の草刈りには毎回10人しか来ず、役員を引き受ける人が2人しかいないなら、その地域が強いとは言い切れない。反対に、加入率が以前より低くても、ごみ集積所の管理方法が決まり、防災情報が全世帯に届き、草刈りの一部が外注され、必要な費用が安定的に確保されているなら、生活機能そのものは維持できる。

 したがって、地域を評価するときには、加入率だけではなく、1つの仕事を何人で担っているのか、1人あたり年間何時間を使っているのか、役員の平均年齢がどう変化しているのか、外注した場合はいくら必要なのか、5年後や10年後にも同じ人数で続けられるのかという指標を見た方が、本当の持続可能性を把握しやすい。町内会加入率は重要な数字ではあるが、それは地域の健康状態を測る1つの指標にすぎず、それだけで地域の強さを判断することはできない。

地域は「仲が良いから助け合う」だけでは維持できなくなる

 かつての町内会には、隣近所がお互いを知り、同じ地域に長く暮らし、困ったときには助け合うという人間関係を土台にした仕組みがあり、その価値はいまも失われてはいない。しかし、転入や転出があり、共働き世帯や単身世帯が増え、定年後に知らない土地へ移り住む人もいる社会では、「近所なのだから当然協力する」という暗黙の了解だけに、ごみや防災や草刈りを預け続けることは難しくなっている。

 これから必要になるのは、住民全員が仲良くなる仕組みより、仲良くなくても地域に必要なことだけは一緒に維持できる仕組みなのかもしれない。名前を知らない隣人であっても同じ道路を使い、同じ台風を経験し、同じごみ収集制度の中で暮らしている以上、人間関係の濃さとは別に、必要最低限の地域運営を成立させる制度があった方が、古くからの住民にとっても新しく移り住んだ人にとっても暮らしやすい。

 町内会に入らない住民が増えることは、地域社会の終わりそのものを意味しているわけではない。しかし、加入者だけが減り、仕事の量も方法も何十年も前と同じなら、残った人への負担が重くなり、やがてごみ、防災、草刈りといった生活に直結する部分にも影響が及ぶ可能性がある。だから問うべきなのは、「なぜ入らないのか」という住民への不満ではなく、「この仕事は本当に町内会でなければできないのか」「誰が利益を受け、誰がどのように負担するのか」「人が半分になっても続けられるのか」という、もっと具体的な問いである。

 守るべきものは、町内会という名前でも、昔から続いてきた方法そのものでもない。ごみが片づき、災害時には必要な情報が届き、道路脇の草が危険な状態まで伸びず、そして地域を維持するために一部の人だけが疲れ果てないという、暮らしの基本的な機能である。そのためには、「昔からこうしてきた」という言葉よりも、「10年後、ここに何人がいて、この仕事を誰が担うのか」と静かに問い直すことの方が、これからの町内会にははるかに重要になってくる。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

冷蔵庫が壊れた朝

 朝、冷蔵庫を開けると、いつもの冷気がない。庫内灯はついているのに、昨日まで聞こえていた低いモーター音が消え、牛乳に触れるとどことなくぬるく、冷凍庫の氷も角が丸くなり始めている。インターネットを日常的に使う人なら、その場でスマートフォンを取り出して型番を調べ、故障の可能性を検索し、修理を頼むか新しい冷蔵庫を注文するところまで進めるかもしれないが、1人暮らしの80歳にとって、話はそれほど簡単ではない。

 以前なら、町の電器店に電話をすればよかった。「冷蔵庫がおかしいんだけど」と言えば、店の人は家の場所も、そこに置かれている冷蔵庫のおおよその年数さえ覚えていて、「午後に見に行きますよ」と答えてくれた。修理できるなら直し、寿命なら買い替えを相談し、古い冷蔵庫を運び出して新しいものを設置し、使い方まで説明して帰っていく。客が買っていたのは冷蔵庫という機械だけではなく、故障した時には誰かが来てくれるという安心まで含めた生活の仕組みだったのである。

 ところが、その町で最後の電器店が閉じると、冷蔵庫が壊れた瞬間、それまで見えなかった問題が一斉に姿を現す。失われるのは家電を売る場所だけではなく、故障と日常生活の間に立ち、「まず何が起きているのか」を確かめてくれる人なのである。

インターネットで買えることと、困らないことは同じではない

 地方でも、自動車で30分、40分走れば大型の家電量販店がある地域は少なくなく、インターネットを利用すれば全国の店から商品を選ぶこともできる。そのため、「町の電器店がなくなっても、家電そのものは買える」と考えれば、問題はすでに解決したようにも見える。しかし、高齢者の暮らしを数字から眺めると、商品が流通していることと、それを誰もが同じように利用できることは別の問題だと分かる。

 総務省統計局の2024年のデータによれば、インターネットを利用して商品やサービスを購入・取引する割合は全体で61.7%だったのに対し、70~74歳では41.1%、75~79歳では27.6%、80歳以上では20.4%まで低下している。80歳以上でもインターネットを使いこなす人は当然いるため、「高齢者はインターネットを使えない」と決めつけることはできないが、少なくとも社会全体と同じ割合でオンライン購入を利用できるわけではないことは、数字から明らかである。

 しかも家電の場合、注文できれば問題が終わるわけではない。壊れた洗濯機をどう確認してもらうのか、テレビが映らない原因が本体なのかアンテナなのかを誰が判断するのか、冷蔵庫が置ける寸法を誰が測り、搬入経路を誰が確認し、古い家電をどう処分するのかという問題が残る。町の電器店が担ってきたのは商品の販売だけではなく、その前後にある数多くの小さな仕事だった。

本当に難しいのは「故障したかどうか分からない」時である

 家電の問題を難しくしているのは、動かなくなったからといって、本当に機械そのものが故障しているとは限らないことである。テレビが映らない原因が入力切替やアンテナケーブルだったり、エアコンが動かない原因がリモコンの電池だったり、洗濯機が停止した理由が排水口の詰まりだったりすることもあり、インターネット接続機能を備えた家電が増えれば、機械ではなく通信設定に原因がある場合も出てくる。

 こうした時、最初に必要なのは高度な修理技術とは限らない。「いつから動かないのか」「何をした時に症状が出るのか」「エラー表示はあるのか」と状況を整理し、故障なのか操作上の問題なのかを切り分けてくれる人である。

 経済産業省が高齢者世帯を対象に行った調査でも、家電に異常があった場合に「自分でチェックする」と答えた割合は前期高齢者で59.2%だったのに対し、後期高齢者では39.5%まで低下している。一方、「懇意にしている街の販売店に連絡する」は21.4%から31.0%へ、「近くに住む家族に連絡する」は5.8%から25.6%へ増えており、年齢が上がるにつれて、家電トラブルを自分だけで処理するよりも、誰かの助けを必要とする割合が高くなる構造が見えてくる。

 最後の電器店がなくなることの意味は、修理業者が1軒減ることだけではない。故障かどうかさえ分からない段階で、「ちょっと見てもらえますか」と頼める相手が、地域から消えてしまうことなのである。

「買い替えればいい」という合理論が成立しない時

 古い家電が壊れた時、修理費が高いのであれば新しいものへ買い替えるという判断そのものは合理的である。しかし、その合理性は、新しい家電を選び、必要な寸法を確認し、注文し、配送と設置を手配し、古い製品を処分し、新しい操作方法を理解できる人を前提としている。

 例えば冷蔵庫を買うだけでも、設置場所の幅や奥行きを測り、玄関や廊下を通過できるかを確認し、扉がどちら側に開く方が使いやすいかを考えなければならない。テレビなら画面の大きさだけではなく、アンテナや録画機器との接続、インターネット設定が関係し、洗濯機なら防水パンや給排水の位置も問題になるため、商品比較表だけを眺めていれば決められるわけではない。

 機械は便利になっているのに、利用する側の負担が必ずしも減っているとは限らない。便利な機能が増えるほど設定項目が増え、以前とは違う操作方法を覚えなければならないこともあるからであり、人が減った地域ほど生活を機械に頼る場面が増える一方、その機械を人間側から支える役割まで減っていくという、少し皮肉な状況が生まれている。

冷蔵庫よりも深刻になる家電がある

 家電故障の中には、多少不便になるだけでは済まず、短期間で健康上の問題へ変わるものがある。最も分かりやすいのが真夏のエアコンである。

 総務省消防庁によれば、2025年5~9月に全国で熱中症によって救急搬送された人は10万510人に達し、そのうち高齢者がおよそ57%を占め、発生場所では住居がおよそ38%と最も多かった。厚生労働省も、故障や停電などによってエアコンが使用できない場合には熱中症の危険が高まるとして注意を呼びかけており、高齢者宅のエアコン故障は、単なる電化製品の不具合として片づけられる問題ではない。

 猛暑日にエアコンが止まり、本人には故障原因が分からず、修理先も知らず、訪問してくれる人も見つからないという条件が重なれば、その家電故障は時間とともに健康上の危険へ変わっていく。冬の給湯器、夏の冷蔵庫、毎日の洗濯を支える洗濯機についても程度の差はあっても同じであり、現代の家電はもはや単なる便利な商品ではなく、住宅の生活基盤の一部になっている。

家族がいれば解決するという前提も崩れていく

 以前なら、近所に息子や娘が住み、家電が壊れた時には様子を見に来てもらえる家庭も多かった。しかし人口移動が続く地域では、子ども世代が都市部や県外で生活していることもあり、電話で「テレビがおかしい」と言われても、遠方からテレビの裏側を見ることはできない。

 高齢者の単身化も進んでいる。内閣府がまとめた統計では、65歳以上人口に占める1人暮らしの割合は2020年時点で男性15.0%、女性22.1%だったが、2050年には男性26.1%、女性29.3%へ上昇すると推計されている。将来推計である以上、実際にその数字どおりになると断定することはできないものの、「家族が近くにいて日常生活を支える」という仕組みだけに依存することが難しくなっていく方向は明確である。

 さらに問題を見えにくくするのは、困っている人が必ずしも助けを求めるとは限らないことである。「こんなことで人を呼ぶのは申し訳ない」と考え、テレビが映らなくなれば見なくなり、電子レンジが壊れれば使わなくなり、エアコンの調子が悪くても我慢してしまうことがある。こうした小さな不便は統計には表れにくいが、1つずつ生活の選択肢を奪い、やがて暮らしそのものを狭くしていく。

店が1軒なくなっただけでは終わらない

 地方の人口減少について語る時、病院の閉鎖、スーパーの撤退、路線バスの廃止などは大きな問題として扱われる。一方、町の電器店が閉じても、その翌日から地域生活全体が止まるわけではないため、その影響は目立ちにくい。

 ところが半年、1年と時間がたつにつれて、その不在はさまざまな家庭で別々の形をとって現れてくる。ある家ではテレビが映らなくなり、別の家ではエアコンが止まり、さらに別の家では照明器具を交換できなくなるというように、1件ずつ見れば小さな出来事でも、地域全体では「誰に聞けばよいのか分からない」という同じ種類の問題が繰り返される。

 人口減少とは、単に住民の人数が減る現象ではない。一定の人口があったからこそ成り立っていた商店やサービスが1つずつ消え、そのたびに暮らしを支えていた小さな接点までなくなっていく現象でもある。町の電器店の閉店は、その変化が最も分かりやすく表れる場所の1つなのである。

解決策は「もう1軒電器店をつくること」だけではない

 では、町に新しい電器店を開けば問題は解決するのかというと、必ずしもそうではない。人口が減少している地域では、家電販売だけで店舗を維持することが難しい場合があり、昔と同じ商売の形をそのまま復活させれば持続するとは限らないからである。

 むしろ重要なのは、電器店という看板そのものではなく、かつて電器店が担っていた機能をどう残すかという発想である。テレビの設定確認やリモコンの操作、型番の確認、インターネット接続、買い替え相談などであれば、すべてを高度な修理技術者が担当する必要はなく、地域の生活支援サービスとして最初の相談を受け、本格的な修理が必要ならメーカーや専門業者へつなぐ仕組みも考えられる。

 ただし、ここには明確な境界線が必要である。家電の分解修理や住宅内の電気設備に関わる作業の中には資格が必要なものがあり、電気工事に該当する作業は電気工事士などの有資格者が担当しなければならない。地域の支援者がすべてを直すのではなく、「自分たちで対応できること」と「専門家へ渡すべきこと」を切り分ける仕組みにすることで、安全性と利便性の両方を保つことができる。

必要なのは「直す人」だけではなく「つないでくれる人」

 高齢化した地域で重要になるのは、必ずしも高度な技術を持つ修理技術者が町内に常駐していることだけではない。電話がつながり、必要なら家まで来て、何が起きているのかを確認し、その場で解決できなければ適切な業者へ連絡してくれる人や窓口が存在することにも大きな意味がある。

 地域包括支援センターは、高齢者の暮らしに関する総合相談を受け、必要な制度や関係機関へつなぐ役割を担っているが、家電修理そのものを行うための機関ではない。したがって、既存の福祉相談機関に修理まで求めるのではなく、社会福祉協議会、地域包括支援センター、自治体、地域の電器店、修理業者、生活支援事業者などが情報を共有し、「家電のことで困った時は、まずどこへ連絡すればよいのか」が住民に分かる仕組みを整える方が現実的だろう。

 考えてみれば、昔の町の電器店も、すべての故障をその場で直していたわけではない。それでも頼りにされたのは、自分で直せない問題であっても、「ではメーカーに聞いてみましょう」「これは修理より買い替えた方がいいですね」と次の行動へつないでくれたからである。

「家まで来てくれる」という価値

 大量の商品を安く販売するという点では、大型量販店やインターネット通販に町の電器店が対抗することは難しい。しかし、高齢社会で価値を持つものが必ずしも商品価格だけだとは限らず、「電話一本で相談できる」「家まで来てくれる」「機械の状態を見てもらえる」「専門業者が必要なら紹介してもらえる」という機能には、別の経済的価値がある。

 全国電機商業組合連合会による高齢者宅への無料点検訪問のように、地域の電器店が高齢者の家庭を訪ねて家電の安全確認を行う取り組みが現在も続けられていることは、この役割が単なる昔ながらの人情ではなく、高齢社会の安全に関係する機能として認識されていることを示している。

 人口の多い都市なら、多くの業者の中からサービスを選ぶことができるが、人口の少ない町では、選択肢が減るだけでなく、相談の入口そのものが消えてしまうことがある。だからこそ、これからの地方では「家電を売る店」をそのまま復活させることだけでなく、訪問料や相談料を受け取りながら生活機器全般の困りごとを確認し、必要に応じて専門家へつなぐような新しい小規模サービスにも可能性がある。

こんな記事もあります。外房のインフラは30年後どこまで残るのか?

最後の電器店が消えた後に残る問い

 商店街から電器店の看板が消える時、多くの人は「また1軒、店が減った」と考えるだろう。しかし、その店が何をしていたのかを細かく見ていけば、失われるものが売り場だけではないことに気づく。

 電話をすると家まで来てくれる人、故障なのか操作ミスなのかを見分けてくれる人、修理するべきか買い替えるべきか相談できる人、新しい家電の使い方を説明してくれる人、そして何より「困った時には、あの人に聞けばいい」と思える存在が地域から消えていくのである。

 地方の高齢化を考える時、病院、交通、買い物といった大きな生活基盤が重要であることに異論はない。しかし、人間の日常は大きな制度だけで成り立っているわけではなく、テレビの入力が変わった、照明がつかない、冷蔵庫が冷えない、エアコンから変な音がするといった、ごく小さな出来事によっても簡単に止まる。

 そこで必要になるのは、昔の電器店をそのまま復活させることではなく、かつて1軒の店が担っていた役割を分け、それを地域の中で再びつなぎ直す仕組みである。例えば自治体や社会福祉協議会、地域包括支援センターなどが修理を直接担当するのではなく、住民が家電の異常について相談できる共通の窓口を用意し、そこから登録された生活支援事業者や地域の電器店などへ連絡する。最初に訪問した担当者は、リモコンの設定、電池切れ、コンセント、ケーブル、エラー表示など資格を必要としない範囲を確認し、それだけで解決できれば、その場で生活を元に戻すことができる。

 そこで機械本体の故障や電気工事の必要性が疑われれば、メーカー修理、家電修理業者、電気工事士など適切な専門家へ引き継ぎ、買い替えが必要になった場合には、設置場所の寸法や搬入経路を確認し、古い製品の処分まで含めて支援する。つまり、町の中に何でも修理できる万能な人を1人つくるのではなく、「相談を受ける人」「最初に見に行く人」「専門的に直す人」を分け、その間を切れないようにつなぐのである。

 そして、この仕組みを善意だけに頼らせてはいけない。電話での簡単な相談は無料としながら、訪問確認には一定の料金を設定し、修理や工事に進んだ場合には専門業者が通常の料金を受け取るという形であれば、利用者にとっても料金の意味が分かりやすく、事業者にとっても継続する理由が生まれる。経済的に訪問料金を負担することが難しい高齢者には、自治体などが一定部分を支援する制度を組み合わせる方法も考えられるが、重要なのは無料サービスを増やすことそのものではなく、「誰が費用を負担すれば、この仕組みが5年、10年と続くのか」という視点を最初から持つことである。

 さらに、本人の同意を前提として、使用している冷蔵庫やエアコン、給湯器などの機種やおおよその購入時期、過去にどのような不具合が起きたのかを簡単に記録しておけば、次に異常が起きた時の判断も速くなる。特に独居高齢者が古いエアコンを使用している場合などには、故障してから電話を待つだけでなく、本格的な暑さが来る前に動作確認を勧めるという予防的な支援へ発展させることもできる。

 ここで重要なのは、新しい巨大な行政組織をつくることではない。すでに地域に存在している自治体、福祉関係者、電器店、家電修理業者、電気工事士、生活支援事業者などを1本の連絡経路で結び、住民の側から見れば「家電のことで困ったら、まずここへ電話すればよい」と分かる入口を1つつくることである。裏側では複数の人や事業者が動いていても、利用する高齢者に複雑な仕組みを理解してもらう必要はない。

 高齢者が増え、1人暮らしが増え、家族が離れて暮らす社会では、小さな故障をすべて「自分で何とかしてください」と個人へ戻すだけでは解決できない場面が増えていく。必要なのは町に昔と同じ電器店をそのまま再現することとは限らないが、かつてその店が自然に担っていた「最初に相談できる相手」と「次の専門家へつないでくれる相手」という機能まで失ってよいわけではない。

 最後の電器店がなくなった町で、高齢者の家電故障を誰が直すのかという問いは、実は家電修理だけの問題ではない。それは、商店が減り、人が減り、家族が離れて暮らすようになった後でも、地域の日常生活を誰が最後のところで支えるのかという問いであり、その答えは「新しい電器店を1軒つくること」だけではなく、「相談する人、見に行く人、直す人を、地域の中でもう一度つなぐこと」にある。

 冷蔵庫が止まった朝、その人が本当に必要としているものは、最新型の冷蔵庫の広告ではない。「まず見に行きますよ」と言ってくれる誰かと、その人の後ろに必要な専門家までつながっている、小さくても切れない仕組みなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

家より先に、「家を直す仕組み」が古くなる

 築40年、50年を迎えた団地や別荘地を歩いていると、建物そのものは意外なほどきれいに残っていることがある。外壁は塗り直され、庭木は整えられ、室内も新しい設備に交換されているため、一見すればまだ長く暮らせそうに見えるのだが、水道管から水が漏れたとき、給湯器が突然止まったとき、あるいは分電盤から焦げたようなにおいがしたときに「では誰に電話すればよいのか」と尋ねると、途端に答えが曖昧になる住宅地は少なくない。

 住宅は建物だけで成り立っているのではなく、その地下には水道管が通り、壁の中には電線が走り、外には道路や共同設備があり、その背後には水道事業者、送配電事業者、管理会社、管理組合、設備業者、地域の工務店といった多くの人や組織が存在している。新築当時には、それらが1つの仕組みとして自然に動いていたとしても、数十年が経過すれば、開発会社が撤退し、管理会社が変わり、当時の施工業者が廃業し、住民も入れ替わるため、建物そのものより先に「故障したときに誰が動くのか」という仕組みが見えにくくなっていく。

 古い団地や別荘地で本当に怖いのは、設備が古くなることだけではない。設備は新しいものに交換できるが、故障したときの責任境界や連絡経路が失われてしまうと、小さな水漏れや停電でさえ生活全体を止める問題になり得るからである。

水漏れで重要なのは、メーターより「どこまで誰が直すのか」

 水漏れが起きたとき、「水道メーターまでが水道局で、その先は自宅」と覚えている人は多いかもしれないが、この理解を全国共通の決まりとして使うのは正確ではない。給水装置が誰の財産なのか、水道事業者がどこまで修繕するのかは地域や給水方式によって異なり、さらに古い別荘地では共同の受水槽やポンプ、独自の給水施設などが介在していることもあるため、見た目には同じ水道管でも責任を持つ主体が異なることがある。

 御宿町では事情を具体的に見ることができる。2025年4月1日から、御宿町、勝浦市、いすみ市、大多喜町の水道事業は夷隅郡市広域市町村圏事務組合の水道事業として統合されており、現在の仕組みでは、道路の配水管から分岐して家庭の蛇口に至る給水装置は基本的に利用者側の財産とされている。ただし、道路境界から原則2mまでの範囲で発生した漏水については、道路への二次災害を防止する目的から水道局が利用者に代わって修繕する扱いがあるため、御宿周辺では単純に「メーターのどちら側か」だけで判断するのではなく、漏水した場所が道路境界からどの位置にあるのかを確認する必要がある。

 たとえば晴天が続いているのに庭の一部だけ湿っている、水を使っていないのに水道メーターの表示が動いている、道路脇の側溝に常にきれいな水が流れているといった現象があれば、地中の給水管から漏れている可能性が考えられる。しかし、このとき自分で地面を掘り始めるより、水道事業者へ修理範囲を確認し、その範囲外であれば適切な工事事業者へ依頼する方が安全であり、古い住宅地ほど過去の配管経路が現状と一致しているとは限らないため、まず「どこから漏れているか」を特定すること自体が修理の重要な一部になる。

給湯器が壊れても、管理会社が交換してくれるとは限らない

 別荘地では毎月または毎年管理費を支払っていることがあり、それが心理的な安心感につながっている一方で、「管理費を払っているのだから住宅の設備も管理会社が直してくれるはずだ」という誤解を生みやすい。実際には、管理会社が維持しているのが道路、街路灯、植栽、ごみ集積所、給水設備などの共用環境であれば、各住宅に設置された給湯器、蛇口、エアコン、照明、分電盤などは所有者自身の設備として扱われることが多く、管理会社は業者を紹介してくれたとしても、その修理費まで負担するわけではない。

 だから中古の別荘を購入するとき、「管理会社あり」という表示だけを安心材料にしてはいけない。本当に確かめるべきなのは、その管理会社がどこまで管理し、故障した場合にどこまで対応してくれるのかという内容であり、管理費が高いか安いかという金額だけで管理の質を判断することもできない。年間の管理費が比較的高くても、道路や給水設備、排水設備、植栽、緊急時対応まで含まれているのであれば意味がある一方、管理費を支払っていても住宅内部の設備故障がすべて所有者負担ということも十分にあり得る。

 給湯器の場合は、さらに設置年と機種が重要になる。現在お湯が出ているという事実だけでは将来の修理可能性までは分からず、長期間使用された機種では、故障箇所そのものは小さくても交換部品が供給されていないために本体交換が必要になることがある。中古住宅を購入するときには、蛇口からお湯が出るかどうかだけでなく、給湯器の製造年、型式、過去の交換時期が分かるかどうかまで確認しておく方が、購入後の費用を現実的に見積もることができる。

集合住宅では、漏れている場所と壊れた場所が違う

 古い団地が集合住宅である場合、話はさらに複雑になる。戸建て住宅では比較的分かりやすい所有境界も、集合住宅では専有部分と共用部分が建物の内部で入り組み、目に見えている場所だけでは誰が修理するのか判断できないことがあるからである。

 下階の天井から水が落ちているとしても、その天井に原因があるとは限らず、上階の住戸内設備から漏れた水が床下を伝っていることもあれば、建物全体で使用する排水管や給水管の一部から漏れていることもある。国土交通省のマンション標準管理規約には、給排水設備や配線について専有部分と共用部分を分ける基本的な考え方が示されているが、これは各マンションに一律に適用される絶対的な区分ではなく、実際にはその建物の管理規約を確認する必要がある。

 したがって、集合住宅で壁や床の内部から漏水が疑われる場合、所有者だけの判断で壁を壊したり配管を交換したりするより、まず管理組合または管理会社へ連絡し、原因となっている設備が専有部分なのか共用部分なのかを確認する方が合理的である。築年数の古い団地では、配管図や過去の修繕記録が残っているかどうかによって原因特定にかかる手間が大きく変わるため、図面や記録が保管されていること自体が、その住宅地の管理状態を測る重要な材料になる。

電気が消えたからといって、すべて電力会社の仕事ではない

 電気設備についても、水道と同じように責任の境界が存在する。電柱から住宅の中まで電線がつながっているため、停電すれば電力会社へ連絡すればよいように見えるが、送配電事業者の設備と住宅所有者側の設備は途中で分かれており、東京電力パワーグリッドの一般的な供給方式では、引込線取付点が設備上の重要な分界点となる。

 そのため、近所一帯の家が同時に暗くなっていれば供給側の停電を疑いやすいが、自宅の一室だけ電気がつかない、特定の家電を使うとブレーカーが落ちる、コンセントが異常に熱い、分電盤から焦げたようなにおいがするといった現象であれば、住宅側の設備故障を考えなければならない。特に発熱や焦げ臭さ、変色がある場合には、単なる不便として使い続けるのではなく、安全を確保したうえで電気工事を扱う事業者へ相談する必要がある。

 ただし、「古い住宅だから電気設備も危険」と築年数だけで判断するのも科学的ではない。重要なのは実際の配線状態、分電盤の更新状況、契約容量、住宅内で使用している電気機器との組み合わせであり、築50年でも適切に改修された住宅がある一方、室内だけ新しくリフォームされ、壁の中の配線がほとんど更新されていない住宅もある。見た目の新しさと電気設備の新しさは、必ずしも一致しないのである。

古い住宅地では、「設備の寿命」と「直す人の減少」を分けて考える

 古い住宅地について語るとき、「高齢化しているから修理業者もいなくなる」と簡単に結びつけるのは慎重であるべきだが、建設や設備工事を支える技能者の高齢化が進んでいること自体は統計にも表れている。2026年時点では建設技能者のおよそ4分の1が60歳以上である一方、29歳以下は約12%にとどまっており、今後の担い手確保が全国的な課題になっている。

 しかし、この数字から直ちに「御宿の別荘地では修理業者が来なくなる」と結論づけることはできない。地域によっては長年営業している設備業者があり、管理会社が複数の修理事業者と関係を保っている場合もあるため、実際に重要なのは全国平均ではなく、その住宅地で水道、電気、給湯器などが故障したとき、現在本当に依頼できる事業者が存在するかどうかである。

 この点は中古住宅の価格表にはほとんど現れない。仮に500万円の住宅が2軒あり、一方には設備図面、過去の修理履歴、管理会社の連絡先、地域の設備業者との関係が残っている一方、もう一方では「前の所有者がどこかへ頼んでいたらしい」としか分からないのであれば、同じ価格だから同じ価値とは言い切れない。住宅の価値には、故障した後に元の生活へ戻れる能力まで含まれていると考えた方が、長期居住の実態には近い。

突然訪ねてきた「点検業者」を修理の入口にしない

 修理先が分からない住宅ほど、突然現れた業者の言葉に頼りやすくなる。「近くで工事をしています」「無料で分電盤を点検します」「給湯器が古いので危険です」といった言葉で訪問し、点検後に高額な交換契約を勧める、いわゆる点検商法は現実に問題となっており、とりわけ高齢者からの相談が多いことが公的機関からも注意喚起されている。

 もちろん、古い分電盤や給湯器が本当に交換時期を迎えていることもあるため、突然訪ねてきた業者の話をすべて否定すればよいということではない。重要なのは、その場で判断を完結させず、メーカー、管理会社、地域で継続的に営業している工事業者など別の経路からも状態を確認し、必要なら複数の見積もりを比較することである。

 故障した日の夜に修理先を探し始めるのではなく、平常時から水道、給湯器、電気について「困ったらここへ連絡する」という相手を決めておけば、緊急時に突然現れた業者だけへ判断を委ねずに済む。古い住宅地で安全に暮らすということは、設備をすべて新品にしておくことではなく、設備が壊れたときにも落ち着いて正しい相手へ連絡できる状態を作っておくことなのである。

中古住宅を見るなら、晴れた日の姿だけを見ない

 中古住宅の内覧では、日当たり、庭、間取り、収納、海までの距離、駅までの時間といった目に見える条件がどうしても印象に残る。しかし、実際に10年、20年と暮らすことを考えるなら、その住宅が最も美しく見える晴れた昼間だけではなく、1月の夜に給湯器が止まったとき、雨の降っていない朝に庭から水が染み出したとき、真夏に分電盤から異臭がしたときの姿まで想像した方がよい。

 そのときに「水道ならここへ電話する」「給湯器はこの会社が見てくれる」「電気設備はこの工事店へ相談できる」「共同部分なら管理会社が確認する」と具体的に答えられる住宅地であれば、築年数が古くても生活を立て直すことができる。反対に、建物そのものは美しく改装されていても、配管の所有関係が分からず、管理規約も見当たらず、修理業者との関係も失われている住宅では、小さな設備故障が長期間の生活停止につながる可能性が高くなる。

 住宅を買うとき、多くの人は「今使えるか」を確認するが、本当は「壊れた後に直せるか」まで見て初めて、その住宅の生活性能を評価したことになる。

古い住宅地の本当の価値は、「壊れないこと」ではなく「直せること」

 水道管も給湯器も分電盤も、いつかは故障する。築10年の住宅であっても故障は起こるのだから、築40年、50年の住宅に故障ゼロを求めること自体に無理がある。重要なのは故障しないことではなく、故障したときに原因を調べ、責任範囲を判断し、修理する人が来て、生活を元へ戻せることである。

 その意味では、古い団地や別荘地の老朽化は、建物の壁や屋根だけに表れるものではない。管理規約が分からなくなること、設備図面が失われること、修理履歴が引き継がれないこと、地域の工事業者との関係が途切れることもまた、住宅地の老朽化なのである。

 反対に、建物が古くても、管理主体が明確で、設備の境界が整理され、図面や記録が残り、修理を依頼できる事業者が存在している住宅地は強い。目に見える外壁や屋根以上に、その土地には「壊れたものを直せる仕組み」という資産が残っているからである。

 古い団地や別荘地を見に行ったとき、築年数や管理費を聞いたあとに、もう1つだけ質問するとしたら、「もし今夜、水が漏れたら、誰に電話すればよいですか」と尋ねてみるとよい。その問いに具体的な会社名や連絡先、責任範囲まで含めた答えが返ってくる住宅地であれば、そこには建物の外観からは見えない管理の力が残っている。

 古い住宅地で本当に怖いのは、家が古いことではない。ある日設備が壊れたとき、「誰に頼めばよいのか」を知っている人が誰もいなくなっていることなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

畑をやめても、土地の仕事まで消えるわけではない

 春になれば草が伸び、夏になればさらに勢いを増し、秋には種を落とし、雨が降れば水は高いところから低いところへ流れ、イノシシやシカは人間が引いた境界線とは無関係に、身を隠せる場所と食べ物のある場所を探して移動するため、農地で作物を作ることをやめても、その土地を取り巻く自然の動きまで止まるわけではない。

 ここに、耕作放棄地を考えるときの大きな錯覚がある。耕作をやめるという行為は、その土地にかかっていた仕事そのものを消滅させることではなく、田畑を耕し、草を刈り、水路をさらい、畦を補修し、害獣を近づけないよう人が歩いていた時代には、農業という生産活動の中に土地を管理する仕事が組み込まれていたが、耕作がなくなれば、その管理の必要性だけが別の場所に残される。

 したがって、耕作放棄地の増加を単純に「農家が農業をやめた問題」と見ると、本質を見誤る。実際に問題となるのは、その土地がこれまで無言のうちに担っていた草刈り、水管理、見通しの確保、害獣との境界づくりといった仕事を、これから誰が引き受けるのかという点にある。

「耕作放棄地」という言葉だけでは、現在の農地問題を十分には表せない

 一般には、長期間作付けされなくなった農地を広く「耕作放棄地」と呼ぶことが多いが、行政上は「遊休農地」や「荒廃農地」といった言葉も使われており、それぞれ意味は完全には同じではないため、この問題を統計的に見る場合には少し注意が必要である。

 かつて農林業センサスでは、「過去1年以上作付けせず、この数年の間に再び作付けする意思のない土地」を耕作放棄地として集計していたが、現在はその調査項目自体がなくなり、農地の利用状況を示す際には遊休農地や荒廃農地といった別の指標が使われている。この違いを知らずに年代の異なる統計を単純比較すると、実際には定義の変化を含んでいる数字を、農地荒廃そのものの増減と誤解する可能性がある。

 それでも、一般読者が感じている「使われなくなり、管理が薄れていく農地」という問題意識そのものは現実に存在しているため、この記事では分かりやすさを優先して「耕作放棄地」という言葉を使いながら、その背後には複数の行政上の区分があることを前提として考えていく。

最初に負担を感じるのは、隣で農業を続けている人たちである

 ある田んぼが耕作されなくなった翌日に、周囲の環境が突然変わるわけではないが、1年、2年と管理されない状態が続けば、草丈は高くなり、低木が入り込み、農地と山林の境界が次第に曖昧になっていくため、その変化を最も早く感じるのは、役所でも土地の所有者でもなく、隣の田畑で農業を続けている人であることが多い。

 隣の土地から伸びてきた草が農地に入り込めば、境界付近を余分に刈る必要が生じ、雑草の種が飛んでくれば除草の手間が増え、害獣が身を隠せる場所が近くにできれば、防護柵の点検や侵入経路への警戒にも余分な時間が必要になるため、管理不足による負担は土地の所有境界だけで完結しにくい。

 つまり、耕作放棄地が生み出す最初の負担は、きれいに「その土地の中」にとどまるとは限らず、草も水も動物も人間の境界線を認識しない以上、管理の不足による影響の一部は、周辺で農業を続けている人の労働時間や費用として現れることがある。

 ここには少し皮肉な構造があり、地域で最後まで農業を続けようとする人ほど、周囲の離農によって仕事が軽くなるのではなく、むしろ自分の田畑以外の環境まで気にしなければならなくなる場合があるため、耕作者が減れば1人当たりの経営面積を広げられるという単純な話にはならず、同時に「見えない管理面積」まで広がっていく可能性がある。

害獣被害と耕作放棄地には関係があるが、原因は1つではない

 人間から見れば、背丈ほどの草が茂った土地は単に荒れた農地に見えるが、イノシシやシカなどの側から見れば、そこは身を隠しながら移動できる場所になることがあり、山から集落まで見通しのよい場所を横切らなければならなかった動物が、藪や草地を利用して農地の近くまで接近できるようになれば、人間と野生動物との距離は物理的にも縮まりやすくなる。

 実際、国内の複数の研究では、耕作放棄地率が高い集落ほどイノシシ被害が多い傾向や、被害を受けた農地が耕作放棄地に近いほど被害が発生しやすい傾向が確認されており、耕作放棄地が野生動物の移動や潜伏に利用される可能性は、単なる印象論ではなく統計的にも一定の裏づけを持っている。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、「耕作放棄地があるから害獣被害が起きる」という単純な因果関係ではないことである。害獣被害には、森林の広さ、林縁までの距離、標高、地形、捕獲圧、餌の量、農家数の減少、集落活動の弱まりなど複数の要因が関係しており、耕作放棄地はその中の1つとして作用していると考える方が科学的には正確である。

 中山間地域では、森林が多く、人口減少が進み、農家が減少し、耕作放棄地も増えやすいという条件が同時に存在するため、「耕作放棄地が多い地域ほど害獣被害も多い」という相関が確認されても、それだけで耕作放棄地だけを直接原因と断定することはできず、この点を区別して考えることが、科学的にこの問題を見るうえで重要になる。

実際には「害獣が増えるから耕作をやめる」という逆方向もある

 さらに現場では、「耕作放棄地が増えるから害獣被害が増える」という一方向の流れだけではなく、「害獣被害が増えたために農業を続ける意欲が失われ、その結果として耕作放棄地が増える」という逆方向の因果も起こり得る。

 何度作付けしてもイノシシやシカに荒らされ、電気柵や防護柵の設置費用と維持労力ばかりが増えれば、高齢の農家ほど「ここまでして続ける意味があるのか」と考えるようになり、その土地の耕作をやめる判断につながることがあるため、害獣被害は耕作放棄地の結果であると同時に、耕作放棄地を増やす原因にもなり得る。

 この関係を数理的に考えるなら、問題は一直線ではなく、農家減少によって管理が弱まり、管理が弱まることで耕作放棄地が増え、耕作放棄地や集落活動の低下によって野生動物が接近しやすくなり、被害増加によって営農意欲が低下し、さらに離農が進むという、変化が自分自身を強める循環として理解した方が実態に近く、つまり耕作放棄地は原因でもあり、結果でもある場合があり、この循環が始まると、1つの田畑の問題が集落全体の問題へ広がっていくことがある。

水路は、使わなくなった田んぼのところだけ止めることができない

 耕作放棄地の問題でもう1つ見落とされやすいのが、水である。田園地帯の水路は、それぞれの田畑が独立した配管を持っているわけではなく、上流から下流へつながる1つの系として存在していることが多いため、途中の田んぼが耕作をやめても、その先に現役の田んぼが残っていれば、水はそこを通って流れ続けなければならない。

 水路に泥がたまり、草が生え、落ち葉や枝が詰まれば水の流れは悪くなり、豪雨時には排水能力の低下につながることもあれば、農業用水として使う季節には必要な水が下流へ届きにくくなることもあるため、耕作面積が減っても水路管理の必要性が同じ割合で減るとは限らない。

 従来なら、その仕事は地域で農業を営む多くの人が少しずつ分担できたが、耕作者が減れば、水路の延長や構造物の数が急に減るわけではないのに、それを管理する人数だけが減るため、残った人の負担は相対的に重くなる。

 仮に1,000メートルの水路を10人で管理していたとすれば、単純化すれば1人当たり100メートル程度を分担していたことになるが、管理人数が5人に減って水路延長が変わらなければ、1人当たりの対象は200メートル相当となる。実際には機械化、外注、共同作業、土地改良区や行政による支援があるため、労働量が厳密に2倍になるわけではないが、「管理対象があまり減らないまま管理人数だけが減れば、1人当たり負担が増える」という構造自体は変わらない。

草刈りという小さな仕事が、地域社会の限界を映し出す

 草刈りという言葉には、どこか軽い響きがあるが、真夏の農村で草刈り機を持って何時間も歩けば、それが決して小さな仕事ではないことが分かり、斜面や水路沿いでは転倒の危険があり、高齢者にとっては暑さそのものが大きな負担となる。

 しかも草は1度刈れば終わりではなく、土地を使わなくなったからといって翌年から生えなくなることもないため、農業生産なら収穫した米や野菜を販売することで労働の対価を得ることができる一方、耕作をやめた土地の草刈りには基本的に収穫物がなく、収益を生まない管理だけが残るという違いがある。

 農村の高齢化が進むほど、この矛盾は重くなり、若い頃なら半日で終えられた草刈りが、年齢を重ねるにつれて大仕事となり、やがて自分の農地を管理するだけで精いっぱいになれば、共同作業に参加できる人が減り、残った人の負担が増え、その負担の重さがさらに離農を促すという循環につながることがあるため、耕作放棄地の本当の怖さは、草が伸びることそのものではなく、こうした循環が静かに始まり、しばらくしてから地域全体の問題として姿を現すところにある。

所有者の責任が消えるわけではない

 農地を所有している人の責任が、耕作をやめた瞬間に周囲へ移転するわけではなく、農地について権利を持つ人には、その農地を農業上適正かつ効率的に利用するよう努めることが求められているため、耕作をやめたからといって所有者の関係がなくなるわけではない。

 また、遊休農地については農業委員会が利用状況を調べ、所有者に今後の利用意向を確認する制度もあり、周辺農地の営農条件に大きな支障を与えるような場合には、行政上の対応が行われる仕組みも存在している。

 しかし現実の地域社会では、所有者が遠方に住んでいたり、高齢になって管理できなかったり、相続後に農地との関係そのものが薄くなっていたりする場合があり、制度上の責任主体と、実際に草を刈り、水路を掃除し、害獣対策に動く人が一致しないことも少なくない。

 そこで起きるのが、「責任」と「実際の作業」の分離であり、登記上の所有者は別の場所にいるのに、伸びてきた草への対応は隣の農家が行い、水路の詰まりは地域の共同作業で解消し、害獣対策には自治体が関与するといった形で、管理不足による実際の負担が周囲へ漏れ出していく。

負担は消えるのではなく、別の主体へ再配分される

 この問題を経済学的に見ると、耕作放棄地の重要な特徴は「管理負担が消えるのではなく、別の主体へ再配分される」という点にある。

 ある農地について、耕作していた農家が草刈り、水管理、害獣への警戒、境界管理などを行っていたとすれば、離農によってそれらの仕事の必要性が完全にゼロになるわけではないため、その一部は所有者自身が引き続き担い、別の一部は周辺農家や地域組織が負担し、さらに対応しきれない部分について行政が関与するという形に変わる。

 これは経済学でいう外部不経済に近い構造を持っており、ある土地の管理水準が低下した結果、その土地の所有者だけではなく、周囲の農家や住民が追加的な費用や労働を負担するなら、その影響の一部は第三者へ波及していることになる。

 ただし、すべての耕作放棄地が必ず周囲へ大きな負担を発生させるわけではなく、山間部の孤立した農地と住宅地近くの農地では影響が異なり、地形、水路の接続状況、周辺の土地利用、管理組織の有無などによって外部への影響は大きく変わるため、地域ごとの差を考えることが必要である。

最後に必ず自治体が負担するわけではない

 地域の農家や所有者だけでは対応できなくなった場合、鳥獣被害対策、農地保全、水路や農道の維持、地域共同活動への支援などに行政が関わる場面は増えるが、その費用を最終的にすべて自治体が負担するわけではない。

 農地や農業用施設の管理には、農家、農地所有者、土地改良区、水利組合、集落組織、市町村、都道府県、国など複数の主体が関わっており、場所や施設の種類によって負担構造は異なるため、「耕作放棄地が増えれば、最後は必ず税金で処理される」と考えるのは正確ではなく、より現実に近いのは、地域内だけで処理できる範囲を超え、公的事業による対応が増えるほど、その一部が税を財源とする社会的な負担へ移っていくと考えることである。

 これは必ずしも不合理なことではなく、農地や水路は食料生産だけでなく、地域によっては排水、防災、景観、生態系の維持などにも関係しているため、その機能を守るために公費が使われることには公共政策としての意味がある。

 ただし重要なのは、「農家が減ったのだから農業にかかる社会的な費用も同じように減る」とは限らないことであり、これまで農家自身が無償または低コストで担っていた管理作業を別の方法で代替する必要が生じれば、むしろ地域全体として新しい費用が発生することもある。

本当に減っているのは、農地ではなく「土地を見ている人」なのかもしれない

 耕作放棄地を航空写真で見れば、色の違う区画として数えることができ、何ヘクタール増えた、何%になったという数字も重要ではあるが、集落を実際に歩いてみると、統計表だけでは見えない別の変化が起きている。

 以前は毎朝のように田んぼを見に来る人がいて、水の量を確かめ、畦の崩れを見つけ、獣の足跡に気づき、ついでに水路に引っかかった枝をどけて帰るという行動を繰り返していたが、その一つ一つは統計に記録されなくても、地域を維持する小さな監視網として働いていた。

 その人が農業をやめると、米の収穫量が減るだけではなく、土地を見る目が1つ減り、さらにもう1人やめれば、もう1つ減り、やがて日常的に土地の変化へ気づく人がいなくなれば、何かが起きてから初めて人がそこへ行くようになるため、この変化こそ、耕作放棄地問題の深い部分にあり、単なる農地面積の減少よりも、地域社会が持っていた「気づく力」の低下として捉えた方が、問題の本質をよく表しているのかもしれない。

耕作放棄地問題とは「誰が農業をするか」だけではなく「誰が地域を管理するか」という問題である

 耕作放棄地が増えれば、直ちにすべての地域で害獣被害が増え、水路が壊れ、行政支出が膨らむという単純な因果関係が成立するわけではなく、地形も農地の集まり方も管理組織も異なるため、実際の影響は地域ごとに大きく違う。

 それでも大きな方向性として見れば、農地を管理する人が減っても、草は伸び、水は流れ、野生動物は移動するという事実は変わらず、そこで必要だった仕事は完全に消えるのではなく、所有者、周辺農家、集落組織、土地改良区、水利組合、自治体などへ形を変えながら再配分されていく。

 さらに問題を難しくしているのは、耕作放棄地が害獣被害の一因になり得る一方で、害獣被害そのものが離農を促し、さらに耕作放棄地を増やすこともあるという循環であり、この連鎖が進めば、最初は1枚の田畑だった問題が、やがて地域全体の維持可能性の問題へ変わっていく。

 だから耕作放棄地について本当に問うべきなのは、「この土地で誰が作物を作るのか」だけではなく、「この土地をこれから誰が見続けるのか」ということであり、田んぼから人が1人いなくなったとき、その人が背負っていた草刈り、水路管理、害獣への警戒まで一緒に消えてくれるなら問題はそれほど難しくないが、自然は人間の都合に合わせて仕事をなくしてはくれないため、残された仕事は別の誰かへ流れていく。

 耕作放棄地の問題とは、土地が使われなくなることだけではなく、これまで誰かが静かに引き受けていた管理という仕事の行き先が失われる問題でもあり、その行き先を決めないまま耕作放棄地だけが増えていけば、最後に重くなるのは荒れた土地そのものではなく、それを支え続ける地域社会の肩なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

弊社では、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る