地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

過疎地は日本の未来を先に生きている~世の中の変わり目に、新しい商いは生まれる

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 昼下がりの地方の町を歩いていると、不思議な静けさに出会うことがある。かつて人が行き交った商店街にはシャッターが下り、銀行だった建物には別の看板が掛かり、駅前の広場には広さに見合うほどの人影がない。バス停の時刻表をのぞけば、次の便まで長い時間が空いている。古くから続いた店が閉じ、その跡地が駐車場になり、子どもの声が聞こえなくなった住宅地では、庭木だけが昔と変わらぬ勢いで伸び続けている。

 こうした風景を見ると、私たちはつい「衰退」という言葉で町を説明したくなる。人口が減ったから衰えた、若者が出ていったから未来がなくなった、と考えれば話は分かりやすい。しかし、そこで一度立ち止まってみると、この風景には別の読み方があることに気づく。この町で起きていることは、本当にこの町だけの問題なのだろうか。

 少なくとも人口減少と高齢化という側面に限れば、高齢化の進んだ過疎地域の一部では、日本社会がこれから広く経験する人口構造の変化が、すでに先行して現れている。日本全体では人口減少が続き、若い世代の比率が低下する一方、高齢者の占める割合は長期的に高まっていくと見込まれている。過疎地でいま起きていることのすべてが将来の東京や大阪でそのまま再現されるわけではないが、人口が増えることを前提として作られた社会が、人口の減る社会へ移るときに何が起こるのかを考えるうえで、そこには重要な先行事例がある。

 そう考えると、人の少なくなった駅前の見え方まで少し変わってくる。そこにあるのは過去の残骸だけではない。人口が減ったとき、どのサービスが維持できなくなり、どの不便が表面化し、それまで必要とされなかった何が必要になるのかを、都市より早く示している場所でもある。

 商売の世界には、世の中の変わり目こそ商人にとって大きな舞台になる、という考え方がある。景気が変わり、技術が変わり、人の暮らし方が変われば、それまで成り立っていた需要と供給の均衡が崩れ、その隙間に新しい商いが生まれる。ただし、変化そのものが利益を生むわけではない。変わり目とは、新しい商売が生まれる時期であると同時に、古い商売が消えていく時期でもある。重要なのは、社会の変化によって生じた新しい不便や未充足の需要を、他人より少し早く発見できるかどうかである。

 過疎地を歩くと、その隙間は決して抽象的なものではなく、日常の細かなところに現れている。自動車を運転できる間は、町外れの大型店まで十五分で買い物に行けた人が、運転免許を返納した途端に、その店をはるか遠い場所に感じるようになる。道路の距離は何も変わっていないのに、その人にとっての生活圏は一日にして縮んでしまう。電球を交換する、庭木を切る、粗大ごみを運ぶ、役所のオンライン手続きをするという、以前なら何でもなかったことも、高齢になるにつれて少しずつ難しくなる。

 ここで興味深いのは、人口が減れば、あらゆる需要まで同じ割合で減るわけではないということである。地域の人口は減っていても、一人当たりの生活支援需要がそれ以上の速さで増えれば、特定のサービスに対する地域全体の需要は増えることがある。食品を食べる量そのものは増えなくても、食品を家まで届けてもらう需要は増えるかもしれないし、家の数が増えなくても、所有者が遠方に住む空き家を見回り、草を刈り、換気をする需要は増えるかもしれない。

 つまり人口減少は、すべての市場が小さくなることを意味しない。大量の商品を大量の顧客に販売する商売には逆風であっても、人の暮らしの中にある細かな不便を引き受けるサービスには、別の需要が生じる可能性がある。

 もっとも、ここで「需要がある」という言葉には注意が必要である。高齢者が困っているからといって、その困り事がそのまま商売になるわけではない。必要だと思うことと、実際に料金を払って利用することとの間には大きな距離がある。さらに、利用したい人がいても、その地域に十分な人数が集まらなければ事業者は採算を取れない。

 一軒の家を訪ねたあと、次の利用者まで十キロ走らなければならない地域では、千円のサービスを一件提供するために、移動時間と燃料費がそれ以上かかることもある。人口密度の低さは、それ自体が事業コストになる。都会なら一つのマンションで十件の仕事をこなせるところを、地方では同じ十件を回るために何十キロも走らなければならない。この違いは、地域ビジネスを考えるときに無視できない。

 だから、高齢者が多いから高齢者向け事業なら成功する、空き家が多いから空き家ビジネスなら儲かる、買い物が不便だから移動販売を始めればよい、と単純に考えるのは危険である。商売になるためには、困り事が存在するだけでなく、それに料金を払う意思と能力があり、一定の利用頻度があり、その売上が人件費や車両費、燃料費、保険料などを上回らなければならない。

 それでも新しい商いの可能性が消えるわけではない。むしろ重要なのは、困り事を一つずつ単独の商売にするのではなく、複数の需要を組み合わせることである。買い物代行のついでに薬を受け取り、空き家の見回りと一緒に庭を確認し、高齢者宅への訪問が見守りにもなるように、一回の移動で複数の価値を生み出せれば、人口密度の低さという弱点をある程度補うことができる。

 過疎地では、商売の考え方そのものを都市型から変える必要があるのかもしれない。多くの客に薄く売るのではなく、少ない客に複数のサービスを組み合わせる。大きな店舗を構えるのではなく、必要な場所へ出向く。単独の仕事では採算が取れないなら、別の仕事と組み合わせる。大量消費社会で磨かれた商売の常識をそのまま小さくするのではなく、人口減少社会に合わせて仕組みそのものを組み直すのである。

 そのとき、何より重要になるのが情報である。

 ただし、ここでいう情報とは、新聞やインターネットの記事を大量に読むことだけではない。むしろ価値があるのは、町の中に落ちている小さな違和感である。なぜこの店だけ客が絶えないのか、なぜこの時間だけ病院の駐車場が混むのか、なぜ空き家は増えているのに中古住宅は売れないのか、なぜタクシー会社の電話がつながりにくいのか、なぜ子どもが減っているのにドラッグストアが増えているのか。そうした何気ない現象の背後に、人口構造や世帯構成、交通手段、所得、家族関係の変化が隠れている。

 統計は、その違和感が思い込みではないかを確かめるために使えばよい。

 人口が減っている、高齢化率が高い、単身世帯が増えているという数字だけを見ても、新しい商売はなかなか見えてこない。しかし「一人暮らしの高齢者が増えている」という統計と、「庭の手入れを頼む人がいない」という住民の声と、「地元の業者は小さな作業を受けにくい」という供給側の事情が一つにつながったとき、初めて市場の空白が見えてくる。

 商人にとって情報とは、情報そのものではなく、別々の事実を結びつける材料なのだろう。同じ町を歩き、同じ店を見て、同じ統計を読んでも、そこから商売を思いつく人と何も感じない人がいるのは、持っている情報量の差だけではない。変化の背後にある因果関係を仮説として組み立てられるかどうかの違いでもある。

 この観点から見ると、これまで家庭や地域の中で無償に近い形で処理されてきた仕事にも、新しい市場の芽がある。買い物への送迎、家の掃除、庭仕事、行政手続き、家電の設定、病院への付き添い、空き家の管理といった仕事の多くは、かつては家族や近所の人が自然に引き受けていた。

 しかし世帯規模が小さくなり、子どもが遠方で暮らし、近所に住む人も高齢になれば、その仕組みを維持することが難しくなる。それまで家庭内や地域内で無償に近い形で行われていた仕事の一部が、外部のサービスとして購入されるようになる可能性が出てくる。

 もっとも、ここにも地域差がある。近所同士の助け合いが強く残る地域では市場化が進みにくいかもしれないし、所得水準が低い地域では有料サービスより行政支援を求める声が強くなるかもしれない。同じ高齢化率の町でも、交通条件、住宅の密度、所得、観光客の数、移住者の割合によって成立する事業は違ってくる。

 したがって、一つの過疎地で成功した仕組みを、そのまま全国へ持っていけると考えるのも早計である。ただし、人口一万人の町で成立する仕組みを作ることができれば、人口密度や所得、交通条件などの違いを調整しながら、似た条件を持つ別の地域へ展開できる可能性はある。

 ここに、地域ビジネスを「その町だけの小商い」で終わらせない可能性がある。

 現在、買い物、交通、医療、住宅管理などの問題は、山間部や半島部の集落だけに限られた現象ではなくなりつつある。大都市そのものが過疎地になるわけではないとしても、都市郊外の住宅団地や高齢化したニュータウンでは、商店が撤退し、住民の高齢化が進み、病院や買い物への移動が難しくなるという生活サービスの空白が起こり得る。

 東京や大阪にも、人口が密集した地域と、生活サービスの薄くなった地域が同時に存在する時代が来るかもしれない。そうなれば、現在の過疎地で試されている仕組みの一部が、都市郊外でも必要になる。

 その意味で、過疎地は日本全体の未来をそのまま映す鏡ではない。しかし、人口減少と高齢化によって社会の仕組みがどのように変わるのかを先に見せている場所の一つだと考えることはできる。

 だから、過疎地を見るときに「どうすれば昔の人口に戻せるか」という問いだけを立てると、重要なものを見落とすかもしれない。もちろん人口を増やす努力には意味がある。しかし日本全国のすべての町で若者が急増し、出生数が増え、昔のような商店街が復活することを前提に将来を考えるのは現実的ではない。

 もう一つの問いが必要になる。

 人が少なくなった社会でも、どうすれば便利に、安心して、できれば豊かに暮らせるのか。

 この問いに答えることのできる事業には、これから価値が生まれる可能性がある。

 そして商売を考えるうえで大切なのは、十年後の未来を完璧に言い当てることではない。むしろ、来年この町で車を運転できなくなる人がどのくらいいるのか、五年後には誰がこの家を管理するのか、地元の商店が一軒なくなったときに誰が困るのか、といった小さな未来を丁寧に考えることである。

 仮説を立てたら、小さく試せばよい。最初から大きな建物を借り、大勢を雇い、設備に何百万円も投じる必要はない。一つの地域で数人に使ってもらい、本当に料金を払ってもらえるのか、何度も利用してもらえるのか、移動時間まで含めて採算が合うのかを確かめる。需要がなければ小さく撤退し、反応があれば少しずつ広げる。

 商売において重要なのは、未来を百パーセント当てることではなく、外れたときに小さく負け、当たったときに広げられる仕組みを持つことなのだろう。

 世の中の変わり目とは、古い商売が壊れる時代であると同時に、古い常識が通用しなくなる時代でもある。人口が増えるから店を出す、若者が多いから新しい商品が売れる、人が集まる場所に商売が生まれるという成長社会の常識だけでは、人口減少時代の市場を十分には説明できない。

 人が減るからこそ必要になる仕事があり、高齢者が増えるから外部に任せる仕事が増え、家族が小さくなるから市場に出てくるサービスがあり、働き手が不足するからこそ価値を持つ仕組みもある。

 その兆候は、未来予測の本の中だけにあるのではない。すでに日本各地の小さな町に、生活の変化として現れている。

 シャッターの下りた商店街を見て、「何もなくなった」と考えるのか。それとも、「何がなくなり、その結果、誰がどのように困っているのか」と考えるのか。同じ景色を見ても、そこから得られる情報はまったく違ってくる。

 商人の目とは、おそらく後者なのだろう。

 変化そのものを歓迎する必要はない。高齢化も人口減少も、そこで暮らす人々に現実の不便や負担を生じさせている。しかし、その不便を減らすことで利用者から対価を得る商売であれば、人口減少を利用するのではなく、人口減少によって生じた問題を解決することによって成り立つ。

 ここは大きな違いである。

 世の中が安定しているときには、昨日と同じ商売を今日も続けることができる。しかし社会そのものが変わるときには、昨日まで必要とされなかったものが、明日には欠かせないものになる。

 その境目を探すために、いつも大都会の新しい店や海外の流行ばかりを見る必要はないのかもしれない。

 むしろ一度、日本各地の過疎地を歩いてみるとよい。

 そこには、単なる「日本の終わり」があるわけではない。

 人口減少と高齢化という限られた側面ではあるが、少し気の早い「日本のこれから」が、すでに静かに始まっている。

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