地方の町で暮らしている人に、その土地の魅力を尋ねると、ときどき不思議な答えが返ってくる。「ここには何もないですよ」。海があり、山があり、昔から続く道があり、古い商店が残り、季節になれば祭りがあり、夜になると都会ではめったに経験できない暗さが訪れるにもかかわらず、住民はそれらを一つずつ検討した末に「価値がない」と判断しているわけではなく、ごく自然な口調で「何もない」と言う。
ところが、その町を初めて訪れた人が同じ景色を見ると、まったく違う反応をすることがあり、海辺で長い時間を過ごし、何でもない路地を写真に撮り、小さな食堂を面白がり、都会では珍しくもないはずの古い建物の前で立ち止まる。住民が何の意識もなく通り過ぎるところで、外から来た人が足を止めるのである。
この食い違いは、単なる感性の違いとして片づけるには惜しく、むしろそこには「地域の価値とは誰が決めるのか」という、地域分析のかなり本質的な問題が潜んでいる。
「何もない」は、事実ではなく比較の言葉である
そもそも「何もない」という言葉を文字どおり受け取ることはできない。人が暮らしている以上、本当に何もない町など存在せず、その言葉の背後には多くの場合、暗黙の比較対象が隠れているからである。
大型商業施設がない、映画館がない、大学がない、夜遅くまで営業する店が少ない、電車の本数が少ない、有名な観光施設がないというように、都市的な機能を「あることが普通」と考えれば、それらが少ない町は確かに「何もない」ように見える。
しかし、人口十万人の都市と人口数千人の町を店舗数や娯楽施設数だけで比較すれば、小さな町が負けるのは当然であり、それは地域の価値を測っているというより、都市規模の違いを確認しているにすぎない。
逆に、交通量の少ない道路、建物のない海岸、人工照明の少ない夜、人影の少ない散歩道、広告看板のない景観は、都市的な尺度では「不足」として扱われても、別の尺度に置き換えれば希少な環境になるため、「ない」という状態は必ずしも欠点ではなく、何がないのかによっては、それ自体が価値になり得る。
地方に何もないのではなく、都市が価値として数えているものが少ないだけなのかもしれない。
毎日見る景色は、価値を失うのではなく「背景」になる
住民が自分の町の魅力を語りにくい理由の一つは、人間の認知の性質にある。同じ刺激を何度も受け続けると、それに対する反応が弱まる「馴化」と呼ばれる現象が知られており、毎日見ている海や山や古い町並みが、次第に注意を向ける対象ではなく生活の背景へ変わっていくことは十分に考えられる。
ただし、ここで「慣れれば価値を感じなくなる」と単純化してはいけない。人間には繰り返し接することで親しみや好意が形成されることもあり、長年暮らした土地だからこそ深い愛着を抱くこともあるため、住民は必ず地域資源を過小評価すると最初から決めてしまうのも正しくない。
重要なのは、住民の評価と外から来た人の評価が同じであると仮定する理由もなければ、違うと仮定する理由もないということであり、だからこそ、どこで一致し、どこでずれているのかを測る意味が生まれる。
住民が高く評価し、訪問者も高く評価する場所があれば、それはすでに共有された地域資源と言えるかもしれない一方で、住民はほとんど気に留めていないのに訪問者だけが強く興味を示す場所があれば、そこにはまだ地域自身が十分に言語化できていない価値が存在する可能性があり、この「認識のずれ」こそが今回測りたいものなのである。
「魅力がありますか」と聞くだけでは、町は十分に見えてこない
町の魅力を調べるとき、最も簡単なのはアンケートであり、「この町の良いところは何ですか」「満足していますか」「他人に勧めたいですか」と尋ねれば数字はすぐに集まるが、人間が口で答えることと実際に行動することは必ずしも一致しない。
経済学では、人が何を好むと答えたかだけでなく、実際に何を選んだかという行動から選好を推定する考え方があり、地域を見る場合にもこの視点は有効である。
だから「この町は魅力的でしたか」と尋ねるだけでなく、どこまで歩いたのか、どこで立ち止まったのか、何を撮影したのか、どこに長く滞在したのか、何にお金を使ったのか、そして再び訪れたのかまでを見る必要がある。
ただし、ある海岸に四十分いたからといって、「四十分いるほど価値が高い」と即座に結論づけることはできず、同行者を待っていたのかもしれないし、電車の時間を調整していたのかもしれず、単に疲れて休憩していただけかもしれない。
滞在時間は価値そのものではないが、何度調べても特定の場所だけ滞在時間が長く、その場所を高く評価する人も多く、写真撮影や再訪意向まで高いのであれば、「偶然長くいただけ」という説明は次第に苦しくなるのであり、科学的に面白いのは一つの数字ではなく、複数の行動が同じ方向を示したときである。
写真を撮ったからといって、好きだとは限らない
同じことは写真にも言える。写真が多く撮られる場所は視覚的に人を引き付けている可能性があるが、それだけで好まれているとは限らず、珍しいから撮る場合もあれば、奇妙だから撮る場合もあり、事故や混雑のような否定的な出来事が撮影を増やすことさえある。
インターネット上の投稿件数や口コミ数も同じであり、数が多いことは注目されている証拠にはなっても、好意の証拠とは限らない。
したがって、地域価値を測るには、「写真が多い」「滞在時間が長い」「評価が高い」といった一つ一つの数字を絶対視せず、それぞれを異なる角度から地域を見る観測窓として扱い、アンケートでの評価、実際の行動、再訪、消費、移動距離などが互いに整合しているかを見ることで、初めて地域資源の輪郭が浮かんでくる。
測定とは一つの数字を見つけることではなく、異なる方法で同じものを測り、それでも同じ結論に近づくかを確かめることである。
無料だから価値がない、という錯覚
地域の価値が見えにくくなるもう一つの理由は、価格が付いていないことであり、海を見るために料金を支払う必要がなければ海岸の価値は町の売上高には直接現れず、静かな道を歩いても料金はかからず、夜空を眺めても領収書は発行されない。
風の音、潮の匂い、遠くまで見渡せる景色、昔から続く路地といったものは、そこに存在していても会計帳簿にはほとんど現れないが、価格が付いていないことと経済的価値が存在しないことは同じではない。
人は景色を見るために交通費を払い、静かな場所で過ごすために宿泊費を払い、人の少ない場所へ行くために時間を使うため、環境そのものに入場料がなくても、そこへ到達するために費用や時間を負担しているのであれば、その行動には何らかの選好が表れている可能性がある。
環境経済学では、こうした市場価格のない自然環境やレクリエーション資源の価値を移動費用や行動から推定する方法が使われてきたが、「遠くから来た人ほどその町を高く評価している」と単純に考えることもできない。
旅行者がその町だけを目的に来たとは限らず、複数の観光地を巡る途中で立ち寄った可能性もあるため、東京から百五十キロ移動してきたからといって、その移動費すべてを一つの海岸の価値として計上することはできず、距離もまた一つの手掛かりにすぎないのである。
「存在しないもの」にも、価格が付くことがある
さらに面白いのは、地域では「あるもの」だけでなく、「ないもの」にも価値が生じることであり、自動車の騒音が少ない、人工照明が少ない、人混みがない、高層建築物がない、巨大な広告看板がないといった状態は、通常の地域統計では資産として数えられない。
ところが住宅価格などを分析すると、騒音が少ないこと、眺望が良いこと、緑地に近いことなどが価格差に反映される場合があり、経済学では住宅価格の中に含まれる環境条件の価値を推定する方法が長く使われてきた。
つまり、静けさには市場価格そのものが付いていなくても、静かな住宅を選ぶ人の支払額を通じて、その価値の一部が間接的に表れることがある。
そう考えると、「何もない」という言葉は妙に面白くなり、大都市では騒音があり、人が多く、照明が明るく、店が密集していることが便利さを生む一方で、静けさ、暗さ、人の少なさ、空間の余白といったものを失わせているため、都市では手に入りにくくなったものが地方では日常の中に大量に残されていることがある。
その結果、地方では価値がないと思われているものを、都会の人がわざわざお金を払って買いに来るという、少し奇妙な逆転が起こり得るのである。
しかし、「不便」を無理に「価値」と言い換えてはいけない
ここまで読むと、「地方は何もなくても素晴らしい」という結論に進みたくなるが、そこで止まらなければならず、店がないことを静けさと言い換え、公共交通がないことを自由と言い換え、医療機関が遠いことを自然豊かな暮らしと言い換え始めれば、それは分析ではなく美化になる。
特に住民にとって、買い物、通院、教育、移動の不便は生活条件そのものであり、旅行者が二泊三日で楽しむ「不便さ」と、住民が毎日背負う不便さは同じではない。
人の少ない町を観光客が「静かで素晴らしい」と感じていても、住民は人口減少によって商店、学校、公共交通が維持できなくなることを心配しているかもしれず、同じ風景が一方には癒やしとして見え、もう一方には地域社会の縮小として見えるのである。
したがって、「この場所には価値があるか」という一つの問いだけでは不十分であり、「誰にとって価値があるのか」「誰にとって負担なのか」「その価値は一年中存在するのか」「利用者が増えても維持されるのか」まで考えなければならず、地域価値は絶対値ではなく、それを利用する人、そこで暮らす人、季節、時間帯によって変わる。
価値は、発見した瞬間から壊れ始めることもある
さらに厄介なのは、地域資源が成功すると、その成功によって価値が失われる場合があることであり、誰も知らない静かな海岸が評判になって大勢の人が訪れるようになれば「人が少ない」という魅力は消え、古い路地が写真映えすると知られれば撮影者が増えて住民の日常生活と衝突し、静かな食堂が人気店になれば地元住民が入れなくなることさえある。
つまり、地域資源とは地下に埋まっている鉱物のように、見つければそのまま価値が増えるものではなく、むしろ「知られていないこと」そのものが価値の一部になっている場合がある。
そうなると、地域活性化の目的も「すべてを有名にすること」でよいのか疑問が生じ、価値を発見することと、それを最大限利用することは別の問題なのである。
「住民未認識価値」は測れるのか
では、この記事のタイトルにある「住民自身が価値を感じていないもの」を、本当に数字で測ることはできるだろうか。
たとえば町の中に十か所の候補地点を設定し、それぞれについて住民と町外から来た人に同じ質問を行い、「この場所に魅力を感じる」を七段階で評価してもらったとする。
ある海岸について、住民の平均評価が六・〇、訪問者が六・二だった場合、この場所は非常に高く評価されているが、住民もすでにその価値を理解しているため、今回探しているものとは少し違う。
一方、古い路地について住民が二・八、訪問者が五・六だった場合、その路地は海岸より絶対的な評価は低くても、住民と訪問者の評価差は二・八ポイントあり、町の内部と外部で認識が大きく違うという非常に興味深い現象が存在する。
ただし平均値の差だけでは不十分であり、住民の評価が二点から七点まで激しく分かれている場合と、ほぼ全員が三点前後を付けている場合では意味が違うため、統計学では平均差だけではなく、回答のばらつきを考慮した「効果量」を使うことができる。
そうすれば、「なんとなく外から来た人に人気がある」ではなく、「住民と訪問者の評価には、ばらつきを考慮しても大きな差がある」と表現でき、この瞬間、「何もない町」という文学的な問いが測定可能な地域研究へ変わる。
しかし、評価点を一つの「地域価値指数」にまとめすぎない
ここで数字を扱い始めると、何でも一つの指数にしたくなる誘惑が生まれ、住民評価、訪問者評価、滞在時間、写真撮影数、再訪意向、消費額、移動距離を組み合わせて「地域価値指数七十三点」と表示すれば、一見非常に科学的に見える。
しかし、一時間の滞在と写真十枚をどの比率で足せばよいのかという問題が生じ、その重みを分析者が勝手に決めれば、指数は精密そうに見えるだけで中身はかなり恣意的になる。
むしろ、それぞれを別々に残した方がよく、住民評価は地域内部の認識を示し、訪問者評価は外部者の認識を示し、滞在時間は行動上の関与を、写真撮影は視覚的な関心を、再訪は継続的な選好を、消費額は市場で実現した価値の一部を示すと考えるべきである。
それらがすべて同じ方向を向く場所があればかなり強い証拠になる一方、写真は多いのに再訪が少ない場所があれば、「珍しいので一度は見るが、もう一度来たい場所ではない」という別の特徴が見えてくるため、矛盾する数字もまた地域の性格を語っているのである。
町の魅力を探すのではなく、「認識のずれ」を探す
こう考えると、地域調査の目的そのものが変わり、従来のように「町で最も魅力的な場所はどこか」を探すだけでは、有名な海岸や神社や観光施設が上位に並ぶだけかもしれない。
本当に興味深いのは、「住民評価と訪問者評価の差が最も大きい場所はどこか」という問いであり、住民も観光客も六点を付ける有名観光地より、住民が三点、訪問者が六点を付ける何でもない路地の方が、地域分析としてははるかに面白い。
そこには、古い建物、道路の曲がり方、海へ向かって抜ける視界、生活の匂い、静けさなど、住民にとっては日常に埋もれている何かが存在している可能性があり、その理由を調べ始めると、「地域資源とは何か」という抽象的な議論が具体的な場所の分析へ変わっていく。
外から来た人が場所を発見し、住民が時間を与える
さらに面白いのは、外部者と住民が見ているものが違うからこそ、その二つを組み合わせることで場所の意味が深くなることである。
外から来た人が古い路地を見て「雰囲気がある」と感じても、その人にはその路地がなぜその形をしているのかまでは分からないが、そこで住民に尋ねれば、「昔はここを子どもたちが通学していた」「この先に店が並んでいた」「祭りの日にはここに人が集まった」と話し始めるかもしれない。
訪問者は空間を見て、住民は時間を見るのであり、外部者が見つけた景色に住民の記憶が重なった瞬間、その場所は単なる古い道から、その町にしかない物語を持った場所へ変わる。
だから「住民は価値が分かっていない」と言うのは、この関係をあまりにも単純化しており、住民は外部者とは別の価値を見ている可能性があるのである。
新しい観光資源を「作る」前に、すでに人が立ち止まっている場所を見る
自治体が地域活性化を考えると、新しい名物、新しいイベント、新しい施設、新しいキャッチコピーを作ろうとすることが多いが、新しいものを作る前に、すでに人が立ち止まっている場所はないかを確認した方がよい。
行政が観光地と呼んでいないのに写真を撮る人がいる場所、住民は何とも思っていないのに訪問者が長く歩いている通り、宣伝していないのに何度も来る人がいる店が存在するなら、町はまだ自分自身の価値を十分に把握していないのかもしれない。
しかも、その価値を発見したからといって、すぐ看板を立て、駐車場を造り、大勢を呼び込む必要があるわけではなく、まずはなぜ人がそこに引かれているのかを知ることが重要である。
地域分析とは、何かを売り出すためだけに行うものではなく、町が自分自身を知るためにも行うものだからである。
「何もない」という言葉は、調査の終点ではなく出発点である
結局、「何もない」という言葉は、その町の客観的な状態を説明しているわけではなく、その人が何を「あるもの」として数えているかを示している。
大型店を価値と考えれば大型店のない町は何もないように見え、静けさを価値と考えれば交通量の少ない町は豊かな場所になり、夜の明るさを便利さと考える人もいれば、夜の暗さを希少な環境だと考える人もいるため、同じ町でも尺度を変えれば景色は変わる。
だから地域分析に必要なのは、「この町には素晴らしい価値がある」と宣言することでも、「住民は自分の町の良さを分かっていない」と説教することでもなく、住民と訪問者は本当に違う評価をしているのか、違うならどの場所でどの程度違うのか、滞在時間、写真、再訪、消費、評価といった異なる行動を重ねても、その違いは残るのかを一つずつ確かめていくことである。
そして調査の結果、住民と外部者の評価がほとんど同じだったとしても、それは失敗ではなく、「住民は自分の町の価値に気づいていない」という思い込みの方が間違っていたことが分かる。
反対に、住民が何とも思わない場所で外部者だけが立ち止まり、高く評価し、何度も訪れていることが分かれば、「なぜ、この場所なのか」という新しい問いが生まれ、その問いから町をもう一度眺めたとき、いつも見ていた景色が少し違って見えてくる。
「何もない町」は、本当に何もないのだろうかという問いの答えは、町の中だけを眺めていても見つからないのかもしれない。住民の視線と外から来た人の視線を重ね、そのずれを数字で確かめ、最後にもう一度その場所へ戻ったとき、初めて見えてくるものがある。
だから「何もない」という言葉が出たときこそ、地域分析を終えるときではなく、そこが調査の始まりなのである。

