地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 人口2万人の海辺の市がある。

 冬の平日に歩けば、数字のとおりの市に見えるかもしれない。駅前にはそれなりの人通りがあり、スーパーも病院も学校も動いている。ただ、かつてに比べれば商店街の空き店舗が増え、郊外では空き家が目立ち始め、毎年公表される人口統計には前年より数百人少ない数字が並ぶ。折れ線グラフは緩やかに右下へ伸び、この市も人口減少の例外ではないことを静かに告げている。

 ところが八月の日曜日になると、同じ市の姿が変わる。

 海岸へ向かう幹線道路には車が連なり、スーパーの駐車場は埋まり、飲食店には行列ができる。普段は静かな別荘地にも明かりがつき、コンビニには観光客が増え、海岸周辺ではごみ箱や公衆トイレの利用が一気に増える。宿泊施設には県外ナンバーの車が並び、市内の人口が数万人単位で膨らんだように感じる日さえある。

 しかし、行政上の人口は2万人のままである。

 市役所の統計では2万人なのに、その日の市内には明らかにそれ以上の人がいる。

 では、この市の「本当の人口」は何人なのだろう。

 この問いから、「実効人口」という考え方を試してみたい。

 ただし、最初に重要なことを確認しておく必要がある。ここでいう実効人口は、国勢調査人口や昼間人口のように国が統一的な定義で公表している既成の統計指標ではない。本稿では、観光客や別荘居住者、二地域居住者が多い地域を分析するための仮説的な指標として、この言葉を用いる。

 そして、この指標の価値は、新しい人口の数字を一つ作ることよりも、「人口とは、そもそも何を数えているのか」という問いを私たちに返してくるところにある。

人口統計が市の実態を間違えているわけではない

 人口統計を批判するのは簡単である。

 国勢調査に観光客が含まれていないのだから、市の本当の姿が分からない、と言いたくなる。しかし、それは少し違う。

 国勢調査が基本的に把握しているのは、その地域を生活の本拠として暮らしている人である。住民票だけを機械的に数えているわけではなく、一定期間そこに常住しているかどうかを基準としている。

 行政を考えるうえでは、この数字は欠かせない。

 学校を何校維持するのか、介護や福祉の需要がどれほどあるのか、住宅政策をどう考えるのか。あるいは選挙や行政サービスの基礎をどこに置くのか。そのような問題について、三時間だけ海水浴に来た観光客と、市内に三十年間暮らしている住民を同じ一人として扱うことはできない。

 国勢調査には昼間人口という考え方もある。市外へ通勤・通学する人を差し引き、市外から通勤・通学してくる人を加えることで、昼間に市内で活動している人口を捉えようとする指標である。

 ところが観光地では、ここに大きな空白が残る。

 通勤や通学は捉えられても、観光、買い物、海水浴、レジャー、イベント参加といった不規則な移動は、通常の昼間人口では十分には表れない。

 別荘も同じである。

 別荘という建物が何戸存在するかは統計に現れる。しかし、その住宅に一年のうち十日しか人が来ないのか、毎週末二人が暮らしているのかでは、市への影響はまったく違う。

 つまり、既存統計が現実を誤って描いているわけではない。

 それぞれ別の現実を、別の目的で測っている。

 問題は、それらを重ね合わせたときに現れる「市全体が実際にどの程度使われているのか」を示す物差しが弱いことなのである。

人を数えるのではなく、市内で過ごされた時間を数えてみる

 そこで人口を、人間の頭数だけではなく、市内で過ごされた時間として考えてみる。

 人口2万人の市を想定する。

 単純化して、2万人全員が一年中市内で生活しているとすれば、一年間には730万「人日」の滞在が発生する。一人が一日その市にいれば、一人日である。

 もちろん実際には、住民も毎日24時間市内にいるわけではない。市外へ通勤する人もいれば、買い物に出る人も、旅行する人もいる。したがって、この730万人日という数字は厳密な実測値ではなく、考え方を示すための第一次近似である。

 そこへ別荘居住者が加わる。

 仮に市内に2000戸の別荘や二次的住宅があり、一戸につき平均二人が年間60日利用するとすれば、年間24万人日の滞在が発生する。

 さらに、宿泊観光客が年間100万人泊いると仮定する。

 一人泊は厳密には24時間の滞在を意味しないが、簡便な分析では一人泊を一人日程度の滞在量として近似することができる。

 加えて、年間150万人の日帰り観光客が平均6時間市内に滞在するとする。24時間を一日として換算すれば、約37万5000人日に相当する。

 すると、この市で一年間に発生する滞在量は、

 定住者による約730万人日、別荘居住者による約24万人日、宿泊客による約100万人日、日帰り客による約37万5000人日を合わせ、約891万5000人日になる。

 365日で割れば、およそ2万4400人である。

 行政上の人口は2万人だが、市内で実際に過ごされている時間量を一年平均に直せば、約2万4400人が常時存在しているのに近い人間活動を市が受け止めていることになる。

 ただし、この2万4400人を「本当の人口」と呼ぶべきではない。

 大切なのは数字そのものではなく、人口2万人という一枚の静止画を、年間約892万人日という一本の動画へ置き換えることである。

 すると、市の見え方が変わってくる。

別荘居住者は観光客なのか、それとも半分住民なのか

 実効人口を考え始めると、最も興味深い存在は観光客よりむしろ別荘居住者や二地域居住者である。

 年に一度だけ、市内のホテルに二泊する旅行者がいる。

 一方で、毎週金曜日の夜に別荘へ来て、日曜日の夕方まで生活する人もいる。夏には一か月近く滞在し、年間では100日以上を市内で過ごす人もいるだろう。

 住民票が別の自治体にあれば、どちらもその市の定住人口には入らない。

 しかし地域との関係はまるで違う。

 後者はスーパーで日用品を買い、水道を使い、ごみを出し、道路を走る。飲食店を利用し、病院を使うこともあるかもしれない。近隣住民と顔見知りになり、市内の催しに参加することさえある。

 市のインフラから見れば、その人がどこに住民票を置いているかより、年間何日市内に滞在し、どれだけサービスを利用しているかの方が重要な場面がある。

 ここで「関係人口」との違いもはっきりしてくる。

 関係人口は、定住者でも一回限りの観光客でもない、地域と継続的に関わる人々を捉えようとする概念である。二地域居住者もその典型である。

 しかし、関係人口と実効人口が測ろうとしているものは同じではない。

 関係人口が問うのは、その人と地域との関係の継続性や深さである。

 実効人口が問うのは、その人が地域の空間やサービスをどれだけ実際に使用しているかである。

 市外に住みながら、毎月その地域の商品を購入し、オンラインで地域活動を手伝っている人は、重要な関係人口になり得る。しかし、その人は市内の水道を使わず、ごみを出さず、道路渋滞にも加わらない。

 反対に、市との長期的な関係を持たない観光客でも、三万人が同じ日に訪れれば、道路、駐車場、公衆トイレ、ごみ処理には大きな負荷を与える。

 地域との「関係の深さ」と、地域内に「存在した量」は別の問題なのである。

平均2万4400人でも、夏には5万人いるかもしれない

 実効人口を考えるとき、もう一つ注意しなければならないことがある。

 先ほどの仮定では、年間平均の実効人口を約2万4400人とした。

 では、市役所は2万4400人を基準に道路や駐車場、水道、ごみ処理施設を整備すればよいのだろうか。

 おそらく、それでも足りない。

 冬の平日の昼間には、市内に1万7000人しかいないかもしれない。

 反対に、夏休みの日曜日には4万人、海水浴大会や花火大会の日には5万人、6万人が市内に滞在することもあり得る。

 年間平均が2万4400人でも、その市が実際に対応しなければならない最大人口は、その倍以上になる可能性がある。

 観光都市では、平均値より振幅の方が重要な場合がある。

 市には人口の呼吸がある。

 平日の午前には縮み、週末の午後には膨らむ。冬には小さくなり、夏には大きくなる。大きなイベントがある夜には一時的に中規模都市ほどの人を抱え、翌朝には再び人口2万人の市へ戻る。

 もし行政が年間平均だけを見れば、繁忙期には道路も駐車場もごみ処理能力も不足する。

 かといって、最大時の5万人を基準にすべての施設を造れば、一年の大半は過剰設備になる。

 したがって実効人口を政策に使うなら、年間平均だけでは足りない。

 通常期、繁忙期、最大時、そして季節変動まで見る必要がある。

 人口は一本の数字ではなく、時間とともに膨らんだり縮んだりする波なのである。

一つの市に、いくつもの人口が存在している

 さらに厳密に考えると、滞在時間だけでも十分ではない。

 同じ六時間市内にいた人でも、市への影響は違う。

 自動車で来た日帰り観光客は、道路と駐車場への負荷が大きい。ホテルに泊まる観光客は、宿泊業や飲食業に多くの需要を生む。別荘居住者は水道を使い、家庭ごみを出し、スーパーで食料品や日用品を買う。高齢の定住者は、医療や介護の利用頻度が高い可能性がある。

 したがって、単純な滞在時間だけで全員を同じように扱うと、政策判断には粗すぎる。

 そこで実効人口は、用途ごとに分けて考えた方がよい。

 道路について考えるなら交通実効人口。

 水道なら水道実効人口。

 ごみ処理なら廃棄物実効人口。

 商業市場なら消費実効人口。

 同じ人口2万人の市であっても、それぞれ違う数字になってよいのである。

 定住者、別荘居住者、宿泊客、日帰り客の人数に、それぞれの滞在時間と用途ごとの負荷の違いを重ねる。

 そこまでして初めて、実効人口は単に観光客を人口へ足して市を大きく見せるための数字ではなく、地域運営のための分析指標へ近づいていく。

人口2万人なのに、なぜ大きなスーパーが成立するのか

 この考え方は、地域経済を見るときにも役立つ。

 地方都市を歩いていると、人口規模から考えると不思議に見える市がある。

 人口2万人程度なのに大型スーパーが複数あり、飲食店が多く、ホームセンターやドラッグストアまで成り立っている。

 逆に、人口が同程度でも商業施設がほとんど残っていない市もある。

 もちろん原因は一つではない。

 周辺自治体からの流入、所得水準、道路網、競合店、年齢構成などが影響する。しかし観光地や別荘地では、定住人口だけから市場規模を推測すると、大きく外れることがある。

 人口2万人でも、週末には数千人の別荘居住者が加わり、年間250万人規模の宿泊客・日帰り客が訪れるなら、市内の商業は「2万人だけを相手にした市場」ではない。

 ただし、ここで一つ注意しなければならない。

 人が二倍滞在したからといって、地域経済への効果が二倍になるわけではない。

 観光客が地域外資本のホテルを利用し、全国チェーン店で買い物をすれば、支出の一部は市外へ流出する。別荘居住者が食料を自宅近くで購入して持ち込めば、長期間市内にいても地域消費は小さいかもしれない。

 つまり、

 人がいることと、お金が地域に残ることは同じではない。

 地域経済を正確に見るなら、まず滞在量を測り、次に消費額を見て、そのうちどれだけが市内企業や市民の所得として残ったのかを調べる必要がある。

 実効人口は地域経済そのものを示す数字ではない。

 しかし、市場を生み出す人間活動の大きさを測る入口にはなる。

「住民を100人増やす」以外の地域政策が見えてくる

 こう考えると、地方創生の見方も変わってくる。

 地方自治体では長い間、「移住者を何人増やしたか」が成果として重視されてきた。

 人口2万人の市で人口が毎年300人減るなら、行政として人口減少に危機感を持つのは当然である。

 しかし、300人の移住者を新たに獲得することは簡単ではない。

 移住は仕事、住宅、家族関係、学校、人間関係まで変える大きな決断だからである。

 そこで別の問いを置いてみる。

 すでに年間250万人の観光客や来訪者がいるなら、その人たちに平均してもう一時間長く市内にいてもらう方が現実的ではないか。

 1000人が一日長く滞在すれば、1000人日の人間活動が増える。

 別荘を年間30日しか利用していなかった世帯が60日利用するようになれば、新しい住宅を建てなくても、市内で生活が営まれる時間は増える。

 日帰り客の一部が一泊するようになれば、昼食だけで帰っていた人が夕食を食べ、宿泊し、翌朝も地域で消費する。

 人口一人を自治体同士で奪い合う地方創生から、人が地域で過ごす時間を増やす地方創生へ。

 これは移住政策を否定する話ではない。

 定住という一つの関係だけで地域の力を測らず、人と地域との間に存在する多様な関わりを政策資源として見るということである。

それでも観光客を人口として数えてはいけない

 一方で、実効人口には危険な使い方もある。

 人口2万人まで減った市が、

 「観光客を含めれば実効人口は2万5000人だから人口減少は大した問題ではない」

 と言い始めたら、それは統計による現実逃避である。

 定住者と観光客は同じ存在ではない。

 住民はその市で年を取り、子どもを育て、税を負担し、災害が起きても生活を続ける。

 観光客は地域経済を支える重要な存在だが、旅行先を変えれば翌年から来なくなる。

 別荘居住者も同じである。

 年間100日市内にいる人を、滞在時間の分析では100日分として数えることができる。しかし、その人を住民の約0.27人と考えることには意味がない。

 地域との関係は、時間だけでは表せないからである。

 したがって実効人口は、定住人口を置き換える数字ではない。

 二つを並べて見るべきである。

 「この市には何人が生活の本拠を置いているのか」。

 そして、

 「この市では年間どれだけの人間活動が行われているのか」。

 この二つを分けて見ることで、観光都市や別荘都市の姿が初めて立体的になる。

スマートフォンの時代だから測れる人口がある

 かつて、このような分析を行うのは簡単ではなかった。

 宿泊者数、道路交通量、鉄道利用者数、別荘戸数といった統計はあっても、人が何時に市へ入り、どこで過ごし、何時間後に出ていったのかを把握することは難しかった。

 しかし現在は状況が変わった。

 携帯電話の基地局情報やスマートフォンの位置情報などを匿名化し、統計処理することで、時間帯ごとの滞在人口や人の移動を推定できるようになっている。

 午前十時の市内には何人いるのか。

 午後三時にはどこへ人が集中するのか。

 海岸から駅へ人が移動する時間帯はいつなのか。

 平日と休日では滞在人口が何倍違うのか。

 冬と夏では、市の人口の波がどれほど変化するのか。

 以前なら感覚でしか語れなかったことを、数字として捉えられるようになりつつある。

 実効人口という発想が単なる空想で終わらない理由はここにある。

 国勢調査をやめる必要もなければ、住民票制度を変える必要もない。

 従来の人口統計の上に、人流というもう一つの層を重ねればよいのである。

人口2万人の市は、本当に2万人だけで動いているのか

 人口減少を語るとき、私たちは長い間、市から消えていく人を数えてきた。

 2万1000人が2万人になる。

 2万人が1万9000人になる。

 グラフの線が右下へ伸びるにつれて、市そのものが少しずつ小さくなっていくように見える。

 しかし現実の市を歩けば、そのグラフには描かれていない人たちがいる。

 金曜日の夕方に別荘へ向かう車がある。

 毎年同じ宿に泊まる家族がいる。

 夏休みの一か月を海辺で過ごす人がいる。

 都市部とこの市を往復しながら仕事をする人もいる。

 朝に来て、夕方には帰る観光客もいる。

 彼らは市民ではない。

 だからといって、市に存在していないわけではない。

 水道は彼らに水を供給し、道路は彼らの車を受け止める。店は商品を売り、ごみ処理施設は彼らが残したものを処理する。

 市というものを行政区域ではなく一つの生活システムとして見るなら、重要なのは「誰が住民票を持っているか」だけではない。

 「誰が、いつ、どれくらい、この市を使っているのか」。

 その問いが必要になる。

 もちろん、実効人口を計算しても人口減少は止まらない。

 出生数が増えるわけではなく、高齢化が解消するわけでもない。

 観光客の数字を加えて、定住人口の減少を見えなくしてはいけない。

 それでも、人口2万人という数字だけでは説明できない地域の現実がある。

 人口2万人の市を、本当に2万人だけが使っているのか。

 その問いを置くだけで、道路の価値も、水道の規模も、ごみ処理施設の能力も、小売市場の大きさも、観光政策の評価も違って見えてくる。

 人口減少時代の地域政策に必要なのは、人を数えることをやめることではない。

 定住人口、昼間人口、関係人口、交流人口、そして滞在時間から見た実効人口。

 それぞれを別の指標として並べ、同じ市を違う角度から見ることである。

 人口2万人という数字は正しい。

 しかし、その数字だけが市のすべてではない。

 夏の日曜日、道路を埋める車も、別荘にともる灯りも、ホテルの窓の明かりも、人口統計の外側にある現実である。

 実効人口という考え方が役立つとすれば、観光客を住民として数えるためではない。

 人口2万人という一つの数字の向こう側に、実際にはどれほど多くの「人間の時間」が流れているのかを見えるようにするためなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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数字で比較するサービスを見る

 地方創生について語るとき、人口ほど分かりやすい数字はない。転入者が何人増えたのか、社会増減がプラスになったのか、若い世帯が何世帯移住してきたのか。自治体の成果を説明するときにも、町の将来を予測するときにも、人口はほとんど共通通貨のように使われている。

 それは当然でもある。人がいなければ町は成り立たないし、人口が減れば税収、消費、労働力、学校の児童数、公共交通の利用者まで、多くのものが縮小していく。だから人口を重視すること自体は間違っていない。

 しかし、人口3000人の町が3100人になったとき、その町は本当に100人分だけ強くなったと言えるのだろうか。反対に人口が3000人のままだとしても、買い物を支える店が一軒増え、住宅修繕を頼める事業者が残り、訪問介護を担う人が現れ、地域外から仕事を受注する小さな会社が数社生まれたなら、その町は以前より暮らしやすく、経済的にも持続しやすい場所になっている可能性がある。

 ここから、人口減少時代の地方について少し違った問いが生まれる。移住者を100人増やすことと、地域を支える事業者を10人増やすことでは、どちらが町にとって大きな効果を持つのだろうか。

 もちろん、「100人」と「10人」をそのまま比較して答えを出すことはできない。これは実証研究によって確定している比率ではなく、地域経済の構造を考えるための思考実験である。重要なのは人数そのものではなく、その人たちが地域の中でどのような所得、雇用、消費、生活サービスを生み出すのかという点にある。

人口が増えても、そのお金が町に残るとは限らない

 移住者100人には、当然ながら経済効果がある。住宅を借りたり購入したりし、食料を買い、車を利用し、医療を受け、電気や水道を使い、税金を払う。子育て世帯なら学校や保育サービスを利用し、働く世代なら地域企業の人手不足を補うこともある。

 かつて政府が日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community・継続的ケア付き高齢者居住共同体)構想を検討した際には、単身高齢者100人が一人当たり月約15万円を消費すると仮定した場合、年間約1億8000万円の消費需要が生じるという試算も示された。

 ただし、これは高齢者移住を想定した当時の政策上のモデルであり、現在の一般的な移住者100人にそのまま当てはめられる数字ではない。それでも、100人という人口増加が一定規模の需要を生み出すこと自体は理解できる。

 問題は、その1億8000万円がそのまま地域所得になるわけではないことである。町内のスーパーで食品を購入しても、商品が町外の卸売会社から仕入れられていれば、売上の多くは町外へ流れる。住宅ローンの利息は都市部の金融機関へ支払われ、電気通信料金は全国企業へ送られ、日用品をインターネット通販で購入すれば、その支出も町の外へ出ていく。休日には隣の市の大型商業施設へ出掛けるかもしれない。

 そうすると、その人は人口統計上では確かに町民であっても、消費のかなりの部分は町の経済を通過して外へ流れていく。ここで人口とは別の数字が重要になる。それは、「地域に入った所得のうち、どれだけが地域の中に残るのか」という数字である。

地域経済は「人口の数」だけではなく「お金の流れ」でできている

 環境省が行っている地域経済循環分析では、地域経済を生産、分配、支出という流れで捉える。地域の企業がどれだけ付加価値を生み、その所得が住民や企業へどのように分配され、それがどこで使われるのかを見ることで、地域から所得が流出しているのか、それとも地域内で循環しているのかを分析する。

 この視点に立つと、地方創生の見え方は大きく変わる。人口100人を増やすことは、町という器に新しい水を注ぐことに似ている。しかし器の底に大きな穴が開いていれば、水を注ぎ続けても十分にはたまらない。地域内に商店がなく、住宅修繕を担う企業もなく、仕事もなく、日常生活の多くを町外の企業に依存しているなら、住民の所得は地域外へ流れ続ける。

 一方、地域で必要とされる商品やサービスを供給する事業者が増えれば、その穴の一部を塞ぐことができる。さらに地域外へ商品やサービスを販売する企業が生まれれば、今度は町の外から所得を引き込む管ができる。

 ここに、人口と事業者の決定的な違いがある。人口は主として需要を生み出すが、事業者はその需要を所得や雇用へ変換し、場合によっては地域外から新しい所得を持ち込む装置にもなる。

一軒の店がなくなっても、人口統計には何も起きない

 海辺の小さな町を想像してみる。そこで唯一の鮮魚店が閉店したとしても、翌日の住民基本台帳には何の変化もない。町の人口は昨日と同じ3000人である。

 しかし暮らしは確実に変わる。魚を買うために隣町まで車を走らせる住民が増えるかもしれないし、せっかく隣町まで来たのだから、野菜も酒も日用品もそこで買うようになる場合もある。つまり、一軒の鮮魚店がなくなったことで、魚以外の消費まで町外へ移動する可能性が生まれる。

 さらに、高齢になって自動車を運転できなくなった人にとっては、これは単なる店の閉鎖ではなくなる。「魚をどこで買うか」という問題が、やがて「この町で生活を続けられるか」という問題へ変わるからである。

 もっとも、鮮魚店が一軒閉店すれば必ず他の消費まで町外へ流れる、と科学的に断言できるわけではない。住民の行動は交通条件、年齢、通販利用、他店舗の存在などによって変わる。ここで重要なのは、店舗一軒が持っている価値が、その店の売上高だけでは測れないということであり、人口統計には表れない生活機能が地域には存在しているという点である。

事業者一人は、必ずしも「一人分」ではない

 住民一人が基本的には一人分の生活需要を持って町に加わるのに対し、事業者は複数の住民の需要を束ね、それを所得や雇用へ変えることがある。

 例えば、小さなパン屋が開業したとする。経営者一人が移住してきただけなら、人口は一人増えただけである。しかし、そのパン屋が二人を雇い、近隣農家から食材を仕入れ、町内の電気工事店に設備修理を依頼し、近くの宿泊施設へパンを納めるようになれば、一つの事業が複数の経済関係を作る。

 さらに観光客がそのパンを買えば、地域外から所得が入ってくる。一人の事業者が地域の中に作るものは、一人分の消費だけではなく、人と企業を結び付ける取引関係である。そして、その取引関係が別の取引関係とつながることで、町の中に経済の網ができていく。

 中小企業庁の小規模企業白書でも、小規模事業者は単に雇用や付加価値を生み出す主体としてだけではなく、人口の少ない地域で商業や生活サービスを維持する存在として位置づけられている。これは人口減少地域では特に重要であり、大きな売上がなければ成立しない事業よりも、小さな需要で成り立つ事業の方が、小さな町に残ることができる場合があるからだ。

 ただし、ここには逆の側面もある。小規模事業者は売上規模が小さいため地方に立地できる一方、売上が少し減っただけでも経営が苦しくなる場合がある。人口減少によって顧客数そのものが減れば、小さな店ほどその影響を強く受ける可能性があるため、小規模事業者が地方を無条件に救うわけではない。人口と事業は、互いに支え合う関係にある。

では、10人の事業者なら何でもよいのか

 ここが最も重要なところである。事業者を10人増やせば、それだけで移住者100人より地域に大きな効果を生むわけではない。

 人口3000人の町に似たようなカフェが10軒増えたとしても、町民が飲むコーヒーの量が突然10倍になるわけではない。新しい店に客が移れば既存店の売上が減り、地域全体の需要が増えていないのであれば、売上が事業者間で移動しただけで、町全体としての所得はほとんど増えないこともあり得る。

 経済学では、こうした現象を置換効果として考える。特に人口減少地域では市場そのものが縮小しているため、新規事業者が増えたことと地域経済が成長したことを同一視することはできない。

 では、どのような事業者なら意味が大きいのだろうか。例えば、それまで町外の事業者へ支払っていた住宅修繕を引き受ける会社ができれば、外へ流れていた支出の一部を町内に残すことができる。地域の農産物を加工し、都市部へ販売する会社が生まれれば、町の外から所得を獲得できる。

 さらに、高齢者の買い物配送、空き家管理、移送サービス、訪問介護など、これまで十分に存在しなかったサービスを提供する企業が生まれれば、単なる経済活動を超えて地域の生活機能そのものを維持できる。つまり、事業者の価値は数ではなく、その事業がどこから所得を得て、どこへ所得を流し、どの生活機能を支えているかによって変わるのである。

「経済効果」と「生活を支える効果」は同じではない

 ここで、もう一つ区別しておかなければならないことがある。地域にとっての「効果」とは、そもそも何を意味するのかという問題である。

 地域内総生産が増えることを効果と考えることもできるし、住民所得や雇用、自治体税収が増えることを重視する考え方もある。しかし人口減少地域では、それだけでは十分ではない。高齢になっても買い物や通院ができ、家が壊れたときには直してもらえ、日常生活を続けられるという「暮らしの維持」もまた、地域にとって重要な効果だからである。

 同じ事業者でも、この物差しによって評価は変わる。地域外へ製品を年間数億円販売する会社は、地域所得や雇用への影響が大きいかもしれないが、高齢者の日常生活を直接支えるわけではない。一方、小さな移動販売事業は地域内総生産への影響こそ小さいかもしれないが、自動車を運転できない高齢者にとっては、その町で生活し続けるための重要な基盤になる。

 つまり、地域を強くすることと、暮らしを守ることは重なり合いながらも完全には同じではない。人口減少地域では、この二つを同じ物差しだけで評価すると、金額には表れにくい重要なサービスを見落としてしまう。

 したがって、事業者10人と移住者100人を比べる場合も、単純な経済波及効果だけでは不十分である。所得、雇用、地域内循環を見ると同時に、買い物、医療、介護、交通、住宅維持といった生活維持効果まで含めて考えなければ、本当の地域への影響は見えてこない。

それでも移住者100人には大きな価値がある

 ここまで読むと、「人口政策より事業者支援の方が優れている」という話に見えるかもしれない。しかし、そう単純ではない。事業には顧客が必要であり、人口が減り続ければ、地域住民を主な顧客とする商売は市場そのものを失っていく。

 若い世帯を中心に100人が移住してくれば、住宅、飲食、小売、教育、保育、交通、修繕など、多くの需要が長期間にわたって生まれる可能性がある。町内企業で働けば人手不足の改善にもなるし、テレワークなどによって地域外から所得を得ている人が移住すれば、その所得を地域へ持ち込み、町内で消費することにもなる。

 この場合、移住者は単なる消費者ではない。地域外所得を持ち込む存在でもあり、場合によっては新たな事業を起こす人になることさえある。だから、「移住者」と「事業者」を完全に別のものとして比べることにも限界があるのであり、両者は本来、一つの地域経済循環の中に存在している。

「人口を増やせば店が増える」という順序を疑ってみる

 従来の地方創生には、暗黙のうちに一つの順序が想定されてきた。人を呼べば消費が増え、消費が増えれば店が増え、その店が雇用を生み、さらに町の魅力が高まるという流れである。

 理屈としては自然である。しかし人口減少が急速に進む小さな自治体では、この順序が成立するまで待つことができない場合がある。人口が十分に増える前にスーパーが撤退し、ガソリンスタンドがなくなり、建設業者が廃業し、交通事業者まで撤退すれば、町は生活する場所として少しずつ不便になっていく。

 「人口が少ないから店がなくなる」という関係だけなら、人口を増やせば解決できるように見える。しかし現実には、生活サービスが減ったことで町の利便性が低下し、その結果として移住先に選ばれにくくなるという逆方向の力も働き得る。もっとも、移住先の選択は仕事、住宅価格、自然環境、教育、医療、家族関係など多くの条件によって決まるため、店舗数だけで移住者数が決まるわけではない。それでも、生活に必要なサービスが存在することが、移住先として選ばれる条件の一つになることは十分に考えられる。

 さらに問題なのは、人口減少とサービス縮小が互いを強める循環が生まれることである。人口が減れば店を維持する需要が小さくなり、店が減れば暮らしの利便性が下がり、それがさらに人口流出を促す可能性がある。こうして人口減少が単なる人数の変化ではなく、生活サービスの連鎖的縮小へ移行すると、町の衰退は徐々にではなく、ある段階から急に深くなることも考えられる。

 そうであるなら、人口を増やしてから店を増やすのではなく、人口がまだ一定程度残っているうちに生活を支える事業を維持するという政策にも合理性が生まれる。それは移住政策を諦めることではなく、むしろ将来の移住者が選ぶことのできる町を先につくっておくという発想である。

100人と10人を比較するなら、人数ではなく機能を見る

 最初の問いに戻ろう。移住者100人より地域を支える事業者10人を増やした方が効果は大きいのか。

 科学的に言えば、この問いに一般的な答えは存在しない。100人の所得、年齢、職業、消費行動が異なるのと同じように、10事業者についても業種、売上、雇用人数、仕入先、顧客構成は大きく異なるからである。

 例えば100人の移住者が、一人平均年間300万円の所得を地域外から得ているなら、単純計算では年間3億円の所得が地域へ持ち込まれる。その多くが地域内で使われるなら、町への影響はかなり大きい。

 反対に、10の事業者がそれぞれ地域外へ年間5000万円の商品やサービスを販売しているなら、売上規模だけでも合計5億円になる。さらに地域内で人を雇い、地元企業から仕入れ、そこで得た所得が再び町内で消費されるなら、その経済的影響は最初の5億円だけでは終わらない。

 したがって、どちらが大きいかは100と10という人数では決まらない。決めるのは、地域の外からどれだけ所得を持ち込み、その所得が地域の中にどれだけ残り、さらにどれだけ次の取引へつながるのかという構造である。

 しかも生活サービスについて考えれば、金額だけでも結論は出ない。一人の医師、一軒のスーパー、一人の介護事業者、一軒のガソリンスタンドが失われたことで、人口数千人の暮らしが変わることもある。この意味では、一人の事業者が一人分をはるかに超える地域機能を担うことは十分にあり得るのである。

地方創生の成績表を変えてみる

 経済産業省と内閣官房が提供するRESAS(Regional Economy Society Analyzing System・地域経済分析システム)でも、地域を見るための数字は人口だけではない。産業構造、事業所、従業者、消費、観光など、複数の指標を組み合わせて地域経済を見ることができる。

 2026年には市区町村単位の状況をまとめて確認する地域経済総合分析も追加され、地方を人口だけで評価しないためのデータ環境は以前より整ってきた。そうであるなら、地方創生の成績表そのものも変えてよいのではないだろうか。

 人口が20人増えた町を成功とし、20人減った町を失敗とするだけでは、町の実態を十分には表せない。人口が減っていても、地域外から所得を獲得する事業が育ち、町外へ流れていた修繕費が町内企業へ回り、買い物や交通を支える新しいサービスが成立しているなら、地域の持続可能性は以前より高くなっているかもしれない。

 逆に人口が増えていても、仕事、買い物、医療、教育の大部分を町外に依存し、所得がほとんど地域内に残らないなら、人口統計ほど地域経済は強くなっていない可能性がある。つまり、これからの地方創生では「何人増えたか」という数字だけでなく、その人口によって、あるいは事業によって「町の中で何ができるようになったのか」を見る必要がある。

地域を支える10人とは誰なのか

 結局、移住者100人より事業者10人の方が大きな効果を持つ条件は、かなり限定して考える必要がある。地域内の既存需要を奪い合うだけの10事業者なら、100人の移住者がもたらす新しい需要の方が大きい可能性がある。

 しかし、地域外から所得を獲得する事業者、これまで町外へ流れていた支出を地域内へ戻す事業者、地域住民を雇用する事業者、地元企業から仕入れる事業者、そして生活に欠かせないサービスを担う事業者が10人増えるのであれば、その影響は単純な10人分にはとどまらない。その10人によって、数百人の暮らしや複数の地域企業が支えられる場合もあるからである。

 さらに、「この町なら高齢になっても買い物ができる」「家が壊れても直してもらえる」「働く場所がある」という安心が生まれれば、それは既存住民の転出を抑える要因の一つになるかもしれない。そして、その生活環境が次の移住者にとって町を選ぶ理由の一つになる可能性もある。

 そう考えると、事業者政策と移住政策は競争相手ではなくなる。事業者を育てることが移住できる環境をつくり、移住者が増えることが事業の顧客や働き手を増やす。人口と事業が互いを支える循環が生まれたとき、初めて「人口増」と「地域経済の強化」が同じ方向を向く。

 地方創生で本当に増やすべきものは、人口だけではないのかもしれない。町の中で誰かが困ったとき、「それなら、ここでできます」と答えられる人が何人いるのか。食べること、移動すること、働くこと、家を直すこと、老いることを、地域の中でどこまで支えられるのか。

 人口表には、その数字は載っていない。しかし人口が減っていく時代には、その見えない数字こそが、町があと何年「普通に暮らせる場所」であり続けられるかを決めていくのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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家は、売れなくなっても消えてはくれない

 人がいなくなったあとにも、家は残る。屋根は雨を受け、雨樋には落ち葉が詰まり、締め切られた部屋では湿気が壁紙の裏へ入り込んでいく。持ち主が亡くなったからといって住宅まで一緒に消えてくれるわけではなく、むしろ人の生活が終わったところから、建物だけの長い余生が始まることがある。

 日本の空き家政策では、これまで「どう使うか」が重要な問いになってきた。空き家バンクへ登録し、移住者へ売る。中古住宅として流通させる。賃貸住宅にしたり、店舗や地域施設へ転用したりする。まだ十分に使える住宅を取り壊すより、次の利用者へ渡す方が経済的にも環境的にも合理的であり、この方向自体を否定する理由はない。

 しかし人口が減り、世帯数の増加もいずれ止まる社会では、「使いたい家」より「残される家」の方が多くなる地域が現れる。そこで空き家問題を売買の仕組みだけで解決しようとすると、どうしても答えの出ない住宅が残ってしまう。

 総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」の確報によれば、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸に達し、総住宅数に占める空き家率は13.8%となった。どちらも過去最高である。さらに、賃貸用、売却用、二次的住宅などを除いた空き家だけでも385万6千戸あり、2018年から36万9千戸増えている。

 900万という数字の大きさだけを見れば、空き家を市場へ戻せばよいようにも思える。しかし、この数字が意味しているのは、単に「中古住宅が大量に売れ残っている」ということではない。住宅を欲しがる人と、住宅を手放したい人との数そのものが、地域によっては次第に合わなくなってきているということである。

売るための制度には、買う人が必要である

 住宅市場が市場である以上、売却政策には必ず買い手が必要になる。人口が増えている都市なら、売りに出された住宅へ次の世帯が入る循環を期待できる。しかし、空き家が増えている原因そのものが人口減少や世帯減少にある地域では、空き家情報を充実させただけで住宅需要まで増えるわけではない。

 単純化して考えてみよう。ある地域に、今後住宅として使える空き家が100戸あり、その地域で新たに住宅を求める世帯が10世帯しかなければ、仲介制度を改善し、写真を美しく撮影し、空き家バンクの検索機能をどれほど便利にしても、100戸すべてを住宅として流通させることはできない。実際の市場には地元住民の住み替えや別荘需要、事業利用などもあるため現実はこれほど単純ではないが、住宅需要そのものが縮小する地域では、流通政策だけでは処理できない住宅が生まれるという基本構造は変わらない。

 しかも、その空き家の多くは、不動産投資の失敗によって突然市場へ現れた住宅ではない。

 国土交通省が2025年8月に公表した「令和6年空き家所有者実態調査」によれば、調査対象となった空き家の57.9%は相続によって取得されたものであり、その相続空き家の7割超が1980年以前に建築されていた。また、住宅が空き家になった契機についても、所有者の死亡が約6割を占めている。

 つまり、日本の空き家問題のかなりの部分は、「売りたい中古住宅が売れない問題」というより、親が住んでいた古い住宅が、親の死とともに子どもの所有物へ移り、その子どもにはすでに別の生活と別の住宅があるという問題なのである。

 人は相続によって財産を受け取る。しかし住宅の場合、その財産には、屋根の補修、庭木の管理、固定資産税、そしていつか訪れる解体という未来の支出まで一緒についてくる。

 家だけが、家族の世代交代についていけずに、その場所へ残されるのである。

本当の負担は、住宅価格の後ろに隠れている

 住宅を一つの長寿命の商品として考えれば、本来そこには建築、使用、修繕、そして最後の解体までが含まれているはずである。それでも私たちは家を買うとき、建築費や住宅ローンについては何十年先まで計算する一方で、その住宅を最後に誰が壊し、その費用を誰が払うのかについてはほとんど考えない。

 30歳で建てた家に90歳まで住めば、その建物を処分する人は所有者本人ではないかもしれない。子どもが相続するかもしれず、中古住宅として購入した別の所有者かもしれない。誰も引き受けず、建物が危険な状態まで残れば、最終的には近隣住民や自治体まで対応を迫られる可能性がある。

 しかも、解体費用が現実に住宅処分の障壁となっていることは、所有者自身の回答からも確認できる。令和6年空き家所有者実態調査では、今後5年間程度、空き家として所有し続ける意向を持つ世帯について、その理由の第1位として「解体費用をかけたくない」と答えた割合が14.2%に達し、第2位の理由としても13.7%だった。第1位の理由では「物置として必要」が30.4%で最も多いため、解体費だけが空き家発生の原因だと考えるべきではないが、少なくとも住宅を処分しない判断の一つの重要な障壁になっていることは確かである。

 ここに現在の住宅制度が抱える時間的なねじれがある。

 家を使った時代と、家を処分する時代が違う。住宅から便益を得た世代と、その最後の費用を支払う世代が一致しないのである。

住宅にも「最後の日」の費用を準備できないか

 そこで考えられるのが、「住宅解体積立制度」である。

 これは現時点で全国的に実施され、効果が実証された制度ではない。したがって、「この制度を導入すれば空き家問題が解決する」と結論づけることはできず、ここから先は統計から直接導かれる事実ではなく、空き家の発生構造を踏まえた政策仮説として考える必要がある。

 それでも発想そのものは単純である。住宅の所有期間中に、将来必要になる除却費の一部を少しずつ積み立てておき、その住宅を取り壊す段階で使えるようにする。住宅が売却された場合には積立残高を建物とともに次の所有者へ承継し、相続された場合にも相続人へ引き継ぐ。住宅の所有者個人にひも付けるのではなく、住宅そのものにひも付いた資金として設計するのである。

 積立額を仮に年間3万円とすれば40年間で120万円、年間5万円なら200万円になる。実際には物価変動や運用、建物ごとの解体費の違いを考慮する必要があるため、この単純計算がそのまま制度になるわけではない。それでも、空き家になった日に突然まとまった解体費を要求される社会と、住宅を利用していた数十年間に少しずつ費用を準備してきた社会とでは、所有者が取り得る選択肢は違ってくる。

 売れるなら売る。貸せるなら貸す。地域施設として利用価値があるなら使う。しかし、それらがどれも成立せず、住宅としての役割も終わっているなら、安全に除却する。

 積立制度の目的は住宅を壊すことではなく、この最後の選択肢だけが「お金がないから実行できない」という状態を減らすことにある。

現在の制度も、すでに「しまう」方向へ動いている

 もちろん、現在の日本に住宅を除却する仕組みがないわけではない。

 2023年12月13日に施行された改正空家法では、放置すれば「特定空家等」になるおそれのある住宅について、市区町村が「管理不全空家等」として指導や勧告を行えるようになった。勧告を受けた管理不全空家等の敷地については、固定資産税の住宅用地特例も解除される。これは、住宅が周囲へ深刻な危険を及ぼす段階まで待つのではなく、その前から適切な管理や処分を促そうという制度変更である。

 国土交通省自身も、現在の空き家対策を「活かす」だけでなく「しまう」という言葉で説明している。空き家の将来を考えるとき、売却、賃貸、利用だけでなく、除却も正式な選択肢として位置づけられ始めているのである。

 除却への公的支援も存在する。2026年度の国土交通省関係資料では、空家等対策計画が対象とする地区で、不良住宅の除却や、跡地を地域活性化のため計画的に利用する除却などについて、所有者が実施する場合に国が5分の2、地方公共団体が5分の2、所有者が5分の1を負担する仕組みが示されている。

 ただし、ここは誤解してはいけない。一般の空き家なら全国どこでも所有者が費用の5分の1だけを払えば解体できる、という制度ではない。対象となる地区や建物、事業内容には要件があり、市区町村側にも制度の整備が必要になる。既存の公的支援は、あくまで政策上支援する必要性が認められた除却を助ける仕組みなのである。

 そこが、解体積立という発想との違いでもある。現在の補助制度が空き家になった後に発生した問題へ公費を投入する仕組みだとすれば、積立制度は住宅を利用している時期から将来の処分費を準備しておく。

 前者が問題発生後の支援なら、後者は問題が起こる前から費用を時間の中へ分散させる仕組みなのである。

公費だけで壊す制度には、別の不公平が生まれる

 危険になった住宅をすべて税金で取り壊せばよいという考え方も、一見すれば分かりやすい。しかし、そこには公平性の問題が残る。

 住宅を長年きちんと管理し、最後には自費で取り壊した人がいる一方で、何十年も放置した住宅だけ公費で解体されるなら、適切に処分した人より放置した人の方が経済的に有利になる場合がある。それが一般化すれば、「自分で壊すより、行政が対応せざるを得なくなるまで待つ」という望ましくない誘因を生む可能性も否定できない。

 住宅を所有するということは、その価値を利用する権利だけを意味しない。住むことができ、貸すことができ、売ることができ、相続することができるという利益の裏側には、建物を安全に管理する責任も存在する。

 そう考えれば、解体積立は新たな罰金を課すという発想とは異なる。

 住宅の価格表には書かれてこなかった「最後の費用」を、住宅所有の期間の中へ戻していく仕組みなのである。

それでも積立制度は、簡単には作れない

 もっとも、この制度にも難しい問題がある。

 第一に、家を壊す費用は一律ではない。住宅の延べ床面積や構造だけでなく、重機が入れる道路があるか、隣家との距離がどの程度か、廃材をどこまで運ぶ必要があるかによって費用は変わる。吹き付けアスベストなどが見つかれば費用はさらに増える可能性があり、国の補助制度でも、崖地、狭小敷地、無接道敷地、離島、アスベストなどについて通常より高い除却費が生じる場合が想定されている。

 したがって、すべての住宅について月額いくらと全国一律に定めればよいというほど簡単ではない。積立額が少なすぎれば解体時に不足し、多すぎれば住宅所有者から必要以上の資金を長期間拘束することになる。

 さらに難しいのは、すでに存在している古い住宅をどう扱うかである。新築住宅なら完成時から40年、50年かけて準備できるが、築50年の住宅を所有する高齢者へ突然高額の積立義務を課せば、住宅を処分できない人に別の負担を加えるだけになる。制度を作るなら、新築住宅から段階的に始めるのか、既存住宅には公的補助と組み合わせた別制度を設けるのかという移行設計が避けられない。

 災害で住宅が失われたときは積立金をどうするのか、住宅を大規模改修してさらに数十年使う場合はどうするのか、建物を売却したとき積立残高を価格へどう反映させるのかという問題もある。

 だから、解体積立制度は「思いついたから導入すればよい制度」ではない。

 むしろこれほど長期間にわたる制度だからこそ、小規模な地域や新築住宅などから試行し、積立額、利用率、除却費との差額、所有者の行動変化を検証しながら制度設計を調整する必要がある。政策として提案するなら、理論上の合理性と実際の効果を区別して考えなければならない。

相続する前に考えなければ、家は突然「問題」になる

 空き家問題が難しいもう一つの理由は、多くの家庭で住宅の将来について話す時期が遅いことである。

 令和6年空き家所有者実態調査では、相続空き家について、相続前に何らかの対策を行っていた世帯は23.0%にとどまった。反対に77.0%では相続前の対策が行われていない。さらに、事前対策をしていなかった住宅では、対策をしていた住宅よりも、その後も特に活用や解体をせず空き家として所有され続ける割合が高かった。

 ただし、ここから「事前に話し合えば必ず空き家にならない」と因果関係まで断定することはできない。もともと住宅処分への意識が高い家庭ほど事前対策も行う可能性があるからである。それでも、相続が発生してから初めて家の将来を考えるより、所有者が元気なうちに家族で考えておく方が合理的であることは理解しやすい。

 国土交通省が日本司法書士会連合会などと共同で「住まいのエンディングノート」を作成したのも、そのためである。そこでは所有する土地や建物の情報だけでなく、将来その住宅をどうしてほしいかを記録し、家族が元気なうちから「活かし方」と「しまい方」を話し合うことが勧められている。

 話し合いによって住宅の行き先を決めるなら、その隣には、行き先を実行するためのお金の準備があってもよい。

 住宅のエンディングノートと住宅のエンディング資金は、本来それほど遠い発想ではない。

「売るか、壊すか」ではなく、住宅に出口をつくる

 ここまで考えると、本当に必要なのは「空き家を売る政策をやめて、壊す政策へ変えること」ではないことが分かる。

 まだ十分な価値があり、買いたい人が存在する住宅なら、できるだけ市場へ戻した方がよい。賃貸住宅として必要なら貸し、店舗や福祉施設、仕事場、地域拠点として価値があるなら利用する。それを無理に壊せば、利用可能な資産と建築時に投入された資源を失うことになる。

 一方で、需要がなく、老朽化が進み、将来も住宅として利用される可能性が低い建物まで、何十年も「いつか誰かが買うかもしれない」という前提で残しておくことも合理的とは言いにくい。

 つまり、売却政策と除却政策は競争相手ではない。

 住宅として生き続けられるものを市場へ戻す仕組みと、住宅としての役割を終えたものを安全に市場から退出させる仕組みは、人口減少社会ではむしろ一組の政策として考えるべきなのである。

 空き家バンクは、家に次の住人を探す制度である。

 しかし、すべての家に次の住人が現れるわけではない。

 そのとき必要なのが、「次の住人が最後まで現れなかった家をどうするか」という制度であり、解体積立はその答えの一候補になる。

家を建てる時代から、家を終わらせる時代へ

 日本では長い間、「家を持つ」ということには、財産を持つという意味が付いていた。

 住宅ローンを払い終えれば自分の資産になり、土地は残り、最後には子どもへ渡せる。人口が増え、住宅需要も増えていた時代には、この物語はかなり現実と一致していた。

 しかし人口が減る社会では、すべての家が同じ意味で資産になるとは限らない。

 売却価格がほとんど付かず、管理費と固定資産税がかかり、最後には解体費まで必要になる住宅であれば、それは財産であると同時に将来の支出でもある。

 だからこそ住宅政策も、家を建てるところだけで終わるわけにはいかない。

 人口が増えていた時代の町づくりでは、道路を延ばし、宅地を造成し、住宅を建てることが発展だった。しかし人口が減る時代には、町づくりの一部は「何を残すか」を選ぶ仕事へ変わっていく。そして残さないものについても、荒れるまで放置するのではなく、安全に役割を終わらせなければならない。

 誰も住まなくなった住宅の屋根に、何十年も雨を降らせ続けることが地域を守ることではない。

 売れる家は次の人へ渡す。使える家は使い続ける。新しい役割を持てる家は用途を変える。そして、それでも役割を見つけられなかった家には、安全に終わるための資金と制度を用意する。

 900万2千戸という空き家の数字が問いかけているのは、「どうすればもっと家が売れるのか」ということだけではない。

 私たちは長い間、家の誕生には住宅ローンを用意し、家の暮らしには保険を用意し、家の修繕には積立を考えてきた。

 それなのに、家の最後の日についてだけは、未来の誰かに任せてきた。

 人口が減っていくこれからの日本で必要なのは、空き家を売る制度を捨てることではない。その制度の先に、どうしても売れなかった住宅を安全に社会から退出させる出口をつくることである。

 家にも始まりがあるように、終わりがある。

 その最後の日の費用まで、家を所有するということのに含めて考える時代が来ているのかもしれない。

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選挙の夜、市役所や町村役場の一室には独特の熱気がある。当選確実を知らせる一報が入り、支援者から花束が渡され、新しい市長や町長が壇上でこれからの四年間を語る。人口減少を食い止めたい、産業を育てたい、子育てを支援したい、高齢者が安心して暮らせる地域にしたい。言葉の一つひとつには、その地域が少し変わるかもしれないという期待が託されている。

ところが、祝福の夜が明けると、首長を待っている仕事の風景はかなり違う。

予算、人事、福祉、学校、道路、水道、公共施設、防災、契約、情報システム、国や都道府県との調整、そして議会への説明。人口数千人の市町村であっても、行政組織は決して単純な小組織ではない。法令によって行わなければならない仕事が数多くあり、住民の生命や財産に直接かかわる業務を抱え、一つの大型事業の判断が十年後の財政にまで影響することもある。

選挙では「この地域をどのようにしたいか」が問われたはずなのに、当選した瞬間、その人物には複雑な行政組織を動かす経営能力まで求められる。

ここには、地方自治について考えるとき意外に見過ごされてきた、一つのねじれがある。

私たちは選挙によって政治家を選んでいる。同時に、その一回の選挙によって、数十億円、場合によっては数百億円以上の予算と多数の職員を動かす行政組織の最高責任者まで選んでいるのである。

選挙は行政経営者の採用試験ではない

市長や町長を住民が選ぶことには、もちろん大きな意味がある。

どのような地域をつくるのか。何に税金を使うのか。開発を優先するのか、自然環境を守るのか。公共施設を残すのか、統廃合するのか。高齢者施策と子育て施策のどちらにより多くの資源を振り向けるのか。こうした問題には、計算すれば一つの答えが出てくるわけではない。住民によって価値判断が異なるからこそ、選挙によって政治的な方向を決める必要がある。

日本では、それは単なる慣習でもない。日本国憲法第93条第2項は、地方公共団体の長を住民が直接選挙することを定めている。したがって、現在の日本で「市長や町長を選挙で選ぶのをやめ、民間から専門経営者を採用して行政のトップにする」という制度を、そのまま導入することはできない。

しかし、「市長や町長を選挙で選ばなければならない」ということと、「選挙で選ばれた一人の人物が行政経営のほぼすべてを背負うことが最適である」ということは、同じではない。

考えてみれば、選挙は行政経営能力を測定するようには設計されていない。候補者が長期財政計画をどの程度読み解けるのか、公共施設の更新費用を推計できるのか、大規模な情報システム更新を管理できるのか、組織を再編し人員配置を適正化できるのかを、有権者が投票所で試験するわけではない。

実際の選挙では、政策、人物、政治経験、地域との関係、これまでの実績、発信力などが総合的に評価される。それは民主主義として当然のことである。しかし、そこで選ばれた人物が財政、人事、組織設計、契約管理、デジタル化、公共施設管理といった行政経営の各分野でも優れた専門家であるとは限らない。

にもかかわらず、日本の地方自治では、「地域をどちらへ向かわせるかを決める能力」と「巨大な行政組織をどのように動かすかという能力」が、市長や町長という一つの職にかなり強く重なっている。

そこで、少し違った市町村行政を想像してみたい。

市長や町長は、これまで通り住民が選挙で選ぶ。その一方で、行政経営に強い専門的人材を全国から公募し、首長を補佐しながら組織運営を担う「行政経営者」を置いたらどうなるだろうか。

地域の方向を決める人と、行政組織を動かす人

ここでいう「行政経営者」は、現在の日本法に存在する正式な職名ではない。地方自治の役割分担を考えるための仮称である。

市長や町長は住民から直接信任を受け、「この地域をどちらへ向かわせるのか」を決める。行政経営者は、その政治的な方向を具体的な行政へ変換する役割を担う。財政を分析し、事業の優先順位を整理し、公共施設の維持更新を計画し、庁内組織を調整し、必要な専門人材を確保し、政策が計画通り進んでいるかを継続的に確認する。

こう書くと企業経営の仕組みを行政に持ち込むようにも見えるが、行政と企業は根本的に違う。採算が悪いから消防署をなくす、利用者が少ないから福祉サービスを廃止する、利益が出ないから山間部への行政サービスをやめる、という判断は行政にはできない。行政には効率だけでは測れない公平性、安全、権利保障という目的がある。

それでも、「何を大切にするかを決める仕事」と「決められた目的をどのような組織と方法で実現するかを考える仕事」が、完全に同一でないことも確かだろう。

この二つを制度的に分担している地方政府は海外に存在する。

代表的なのが米国などでみられるCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式・選挙で選ばれた議会と任命された専門行政経営者が役割を分担する地方政府制度)である。典型的には、選挙で選ばれた議会が政策の方向や予算について政治的な判断を行い、議会が任命したCity Manager(シティ・マネージャー・地方政府の日常的な行政運営を担当する専門行政経営者)が予算案の作成、職員管理、行政運営などを担う。

ただし、ここは注意しておかなければならない。

Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)は米国の地方制度の中で成立した仕組みであり、日本でこの記事が想定する「公選された市長・町長と、その下で働く行政経営型の専門職」という構想とは同じ制度ではない。この記事で海外制度を見る目的は、制度をそのまま輸入するためではなく、政治的な意思決定と専門的な行政運営をどこまで分担できるかを考えるための比較対象とすることにある。

また、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の説明でしばしば参照されるInternational City/County Management Association(国際市・郡管理協会)は、専門的な地方行政経営や同制度を積極的に推進している団体でもある。したがって、その資料は制度の構造を理解するうえでは有用だが、「この制度が優れている」とする評価については、独立した学術研究と分けて読む必要がある。実際、同協会自身もCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の普及や専門行政経営の推進活動を行っている。

日本にも、すでに制度上の入口はある

では、この発想は日本ではまったくの空想なのだろうか。

必ずしもそうではない。

地方自治法では、市町村に副市町村長を置くことができる。副市町村長は、市長や町長が議会の同意を得て選任し、任期は原則として四年である。そして首長は、任期途中でも副市町村長を解職することができる。つまり、単純な公募採用職ではなく、仮に全国から候補者を公募するとしても、最終的には首長が候補者を選び、議会の同意を得て選任するという形になる。

しかも副市町村長の仕事は、首長が不在のときだけ代役を務めるようなものではない。地方自治法第167条は、副市町村長が首長を補佐し、その命を受けて政策や企画をつかさどり、職員の事務を監督すると定めている。さらに、首長の権限に属する事務の一部について委任を受け、実際に執行することもできる。

したがって、現在の法制度を前提として現実的に考えるなら、「行政経営者」という独立した第二の首長を新設するというよりも、行政経営に強い人材を全国から公募し、その中から市長や町長が議会の同意を得て副市町村長などに選任し、明確な担当領域と責任を与える、という形がまず考えられる。

もちろん、それでも米国のCity Manager(シティ・マネージャー・専門行政経営者)と同じにはならない。日本の市長や町長は自治体を代表し、行政事務を管理・執行する中心的な権限と責任を持つからである。

それでも、「首長がすべてを自分で経営する」という発想と、「政治的責任は首長が負いながら、行政経営のかなりの部分を専門的人材に任せる」という発想の間には、大きな違いがある。

市長や町長が地域の未来を語り、行政経営者がその未来を実現できる組織をつくる。

この分業がうまく機能するなら、これまで一人の首長に集中していた仕事の意味はかなり変わってくる。

人口が減っても、行政の仕事は同じ割合では減らない

この問題が特に重要になるのは、人口減少が進む市町村である。

人口が半分になれば行政の仕事も半分になるのなら、問題は比較的単純だ。しかし実際にはそうならない。

人口が減っても住民票の交付は必要であり、税務、福祉、防災、教育、道路、水道、ごみ処理などの行政機能は残る。道路延長が人口に合わせて自然に半分になるわけではなく、水道管が住民減少に応じて短くなるわけでもない。人口3,000人の市町村にも条例、予算、決算、議会、選挙、福祉、防災といった一定の行政機能が必要になる。

言い換えれば、地方行政には人口が減っても簡単には消えてくれない「固定的な仕事」がある。

その一方で、行政に求められる専門性はむしろ高くなっている。情報システムの標準化、個人情報保護、サイバーセキュリティ、複雑化する福祉制度、公共施設の老朽化対策、災害対応など、小規模な市町村だから簡単になるとは限らない。国でも、市町村が必要とするデジタル人材を単独で確保するだけでなく、都道府県と市町村が連携して専門人材を確保する仕組みが検討・推進されている。

もちろん、小規模な市町村には専門家がいない、と一般化することはできない。優れた職員を抱える小規模自治体もあり、外部委託、広域連携、都道府県からの支援、複数自治体による共同処理によって専門性を補う方法もある。

それでも人口規模が小さくなれば、財政、人事、情報、福祉、土木など多分野の専門家を一つの組織の内部だけで十分にそろえる余地が小さくなりやすいという問題は残る。

人口減少とは、単に住民の人数が減っていく現象ではない。

一定量残り続ける行政機能を、より少ない住民、職員、税源によって支えなければならなくなる過程でもある。

ここまで考えると、人口減少時代に検討すべきなのは学校や道路や公共施設の統廃合だけではないことが分かる。

現在の行政組織そのものを、現在と同じ方法で維持できるのか。

これもまた、人口減少地域がいつか向き合わなければならない問題である。

では、専門行政経営者を置けば行政は良くなるのか

ここまでなら、「それなら専門家を入れた方がよい」という結論になりそうである。

ところが、実証研究を見ると話はそれほど単純ではない。

Jered B. Carrが2015年に発表した研究レビューでは、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)がMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式・公選首長が行政運営で強い役割を持つ地方政府制度)より優れた行政成果を生み出すという複数の仮説について、過去の研究が整理された。その結果、政治的代表や制度機能について一定の研究蓄積がある一方、「専門経営型の自治体の方がより良く管理される」という中心的な命題については、十分な実証的裏付けが得られていないと評価されている。

財政面でも結果はそろっていない。

Changhoon Jungによる2006年の研究は、人口5万人を超える米国504都市を1980年から2000年まで追跡し、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の都市とそれ以外の都市の行政支出を比較した。一般的な行政機能に関する一人当たり支出については、両者に統計的に明確な差は確認されなかった。警察支出ではCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の方が低いという結果が出たものの、消防では有意な差はなかった。

さらにStephen CoateとBrian Knightの2011年の研究では、Mayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の方が公共支出が低くなるという理論的予測が示され、実際の都市データを用いた分析でもその方向を支持する結果が得られている。

つまり、「専門行政経営者を置けば無駄が減り、行政コストが下がる」とまでは、現在の研究から言うことができない。

むしろ興味深いのは、制度の違いが財政だけではない部分に表れる可能性である。

Kimberly L. NelsonとWhitney B. Afonsoが2019年に発表した米国自治体の研究では、1990年から2010年までの汚職による有罪判決を分析したところ、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の自治体ではMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の自治体より、汚職による有罪判決が発生する可能性が低いという関連が報告された。推計では57%低かった。

しかし、この数字だけを見て「専門経営制度にすれば汚職が57%減る」と読むのは危険である。

観察研究では、そもそもCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)を選択する自治体と選択しない自治体の性格が違う可能性がある。改革志向が強い自治体、行政専門職を採用できる自治体、政治文化が異なる自治体だからこそ、その制度を採用しているのかもしれない。また、「汚職による有罪判決」は実際に発生した汚職そのものではなく、捜査や訴追の状況にも影響される。

制度と行政成果の関係を考えるとき、最も警戒すべきなのは、「その制度を採用したから成果が良くなった」のか、「もともと成果を良くしやすい自治体だからその制度を採用した」のかを取り違えることである。

専門家という肩書も、制度という名前も、それだけでは行政成果を保証してくれない。

米国の結果を、日本の人口数千人の市町村へそのまま持ち込めない

さらに、この種の海外研究を日本の地域分析に使うときには、もう一段慎重になる必要がある。

たとえば先ほどのJungの研究は、人口5万人を超える米国都市を対象としている。

ところが、日本で人口減少問題が深刻になっている市町村の中には、人口1万人を下回り、さらに数千人という自治体も少なくない。規模だけを見ても研究対象はかなり違う。

まして、日本と米国では地方税制、公務員制度、議会制度、自治体が担当する行政サービスの範囲、州・都道府県との関係、専門人材の労働市場などが異なっている。

したがって、

「米国でCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)に一定の成果が観察された」

という研究結果から、

「日本の人口3,000人の市町村でも行政経営者を置けば成果が良くなる」

という結論を直接導くことはできない。

ここから得られるのは答えではなく、仮説である。

政治的な代表性と専門的な行政経営をある程度分担した場合、日本の人口減少自治体の行政成果は改善するのか。

この問いを、日本の制度とデータを使って検証する価値がある、というところまでが現在言える範囲だろう。

本当に難しいのは「効率」ではなく「誰が決めたのか」である

仮に行政経営者を置いたとしても、もっと難しい問題が残る。

責任の所在である。

たとえば老朽化した公共施設が三つあり、人口予測と維持更新費を計算すると一つに集約した方が合理的だったとする。行政経営者は「今後二十年間の財政を考えれば統合すべきです」と提案するかもしれない。

しかし、閉鎖される地区の住民にとって、その施設は単なる行政資産ではない。長年地域行事が行われ、子どもが集まり、高齢者が顔を合わせてきた場所かもしれない。

数字で見れば行政経営者の判断には合理性がある。

それでも住民が反対することにも合理性がある。

その間に立つのが政治である。

行政は企業経営と決定的に違う。利益だけで成果を測れない。利用者が少なくても残さなければならないサービスがあり、効率が悪くても公平性のために必要な事業がある。消防や防災設備のように、できれば何年間も本格的に使われない方がよい公共サービスさえ存在する。

だから行政経営者に「行政を効率化してください」とだけ命じるのは危険である。

本当に必要なのは、何を効率化してよいのか、何を効率が悪くても守るのか、その境界を政治が決めることである。

市長や町長と議会が「この市町村は何を大切にするのか」を決め、その政治的な境界の中で行政経営者が方法を考える。

専門家が価値判断まで独占すれば民主主義から離れていく。一方で、政治家が個別の行政運営に過度に介入すれば、専門経営を導入した意味がなくなる。

制度の成否は、優秀な人物を一人採用できるかどうかよりも、政治と行政経営の境界をどこまで明確に設計できるかにかかっている。

公募するなら「市町村を救う英雄」を探してはいけない

もし日本の市町村が、このような制度を試みるなら、「市町村を立て直してくれる有名経営者募集」という話にしてはいけないだろう。

地方行政に必要なのは、救世主ではなく仕組みをつくれる人である。

行政経営者の成果を評価するときも、「財政を何億円削減したか」だけでは不十分だろう。公共施設の長期的な維持管理、職員採用と人材育成、行政手続に要する時間、住民サービスの利用しやすさ、デジタル化、広域連携、政策実施の速度、職員の働き方など、複数の指標を長期間追う必要がある。

しかも、単年度だけ成績を上げても意味がない。

公共施設の修繕を先送りすれば、その年度の支出は減る。しかし十年後には、より大きな費用となって戻ってくるかもしれない。職員数を一気に削減すれば人件費は下がるが、職員が疲弊し、採用できなくなり、行政能力そのものが低下する可能性もある。

行政経営とは、数字を小さくする技術ではない。

限られた資源を、住民が必要とする公共価値へ変換し続ける能力である。

だから行政経営者を導入するなら、その人物が何を決められるのか、何を市長や町長に諮らなければならないのか、何を議会が判断するのかをあらかじめ明確にしておく必要がある。そして成果が不十分なら交代できる仕組みも必要になる。

選挙で選ばれていない専門家を民主主義の外へ置くのではない。

専門家を民主主義の中でどのように使うかを設計する。

そこに、この構想の本質がある。

私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう

ここまで考えてくると、「行政経営者を置いたら市町村は良くなるのか」という問いは、少し違った問いへ変わっていく。

そもそも私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう。

候補者の人格を選んでいるのか。政策を選んでいるのか。地域の将来像を選んでいるのか。それとも、多数の職員と巨額の予算を動かす行政経営能力まで含めて、一人の人物に託しているのだろうか。

人口も税収も増えていた時代には、この問いは現在ほど切実ではなかったかもしれない。新しい学校を建て、新しい道路を造り、新しい公共施設を整備することが成長と結びつきやすかった。

しかし人口が減る時代には、地方政治そのものの性格が変わる。

新しいものをつくる以上に、何を残し、何を統合し、何をやめるのかを決めなければならない。その判断には住民から与えられた政治的正当性が必要であると同時に、人口予測、財政分析、施設管理、組織設計といった高度な行政経営能力も必要になる。

その二つを、一回の選挙によって選ばれた一人の首長に求め続けることが、人口減少時代にも最も合理的な制度なのだろうか。

もちろん、行政経営者を置けば市町村が必ず良くなるわけではない。

優秀な人材を採用できる保証はなく、市長や町長との対立が起きる可能性もある。行政経営者と議会の考えが衝突することもあるだろう。役割分担が曖昧なら、住民から見て「結局、誰が決めたのか分からない」という状態に陥る危険すらある。

そして何より、海外研究から日本の小規模自治体における効果を直接証明することはできない。

だから、この構想を「これからの地方自治の正解」と呼ぶのは早い。

しかし、「検討する価値のある仮説」としては十分に成立している。

人口減少とは、市町村の人口だけが小さくなっていく現象ではないからである。

人口が減り、職員が減り、税源が細り、専門人材を確保することが難しくなっても、行政が担わなければならない仕事は同じ速度では消えてくれない。

そのとき最初に限界を迎えるのは、道路でも水道でも学校でもなく、

「現在の行政組織を、現在と同じ方法で動かし続ける能力」

なのかもしれない。

選挙は、市町村がどちらへ向かうのかを決める。

行政経営は、そこへどのようにたどり着くのかを考える。

現実には、その二つを完全に切り離すことなどできない。しかし、切り離せないからといって、最初から同じ仕事だと考える必要もない。

選挙の夜、新しい市長や町長が壇上で地域の未来を語る。

翌朝、静かな役所や役場では予算書が開かれ、人員配置の相談が始まり、老朽化した施設の修繕費が積み上がり、数年後には更新しなければならない情報システムの予定表が置かれている。

市町村の未来は、おそらくその両方によってつくられている。

だから人口減少時代の地方自治について考えるとき、本当に問うべきなのは「誰を市長や町長に選ぶか」だけではない。

私たちは、選挙で選ばれた一人の首長に、いったいどこまでの仕事を背負わせようとしているのか。

その問いを立てるところから、人口減少時代の地方自治の次の形を考えることが始まるのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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地方の将来を語る資料を開くと、かなりの確率で最初に人口のグラフが現れる。現在何人が住んでいて、十年後には何人になり、若い世代を何人呼び込み、出生数をどこまで回復させるのか。右肩下がりの折れ線が描かれ、その傾きを少しでも緩くすることが地域政策の使命であるかのように話が進んでいく。

それは決して不合理なことではない。人が減れば商店の客は減り、公共交通の利用者も少なくなる。広い地域に道路や水道管が張り巡らされたまま住民だけが減れば、一人当たりで支えなければならない社会基盤の負担も重くなりやすい。学校、医療、介護、商業にも利用者が必要であり、人口は地域の持続可能性を考えるうえで欠かせない数字である。

しかし、人口が重要な数字であることと、人口そのものを町の最終目標にすることは同じではない。

人口が増えた町は、本当にそれだけで「良い町」になったと言えるのだろうか。反対に、人口が減った町は、その減少率だけ暮らしまで悪くなったと考えてよいのだろうか。

人口減少が日本社会の日常になったいま、この一見当たり前に見える問いを、もう一度考え直す必要がある。

人口という数字が、いつの間にか町の成績表になった

人口が増えることを自治体が望むのには理由がある。若い世代が入り、子どもが生まれ、住宅が建ち、店に客が来る。税収や労働力の面でも有利になる場合が多い。人口増加期の日本では、人口と地域の発展はかなり近い方向を向いていた。

その時代には、人口は町の勢いを測る便利な指標だった。

ところが、前提そのものが変わった。

総務省統計局が2026年8月20日に公表した人口推計によれば、2026年8月1日現在の日本の総人口は概算で1億2268万人となり、前年同月より59万人、0.48%減少している。2026年3月1日の確定値でも総人口は1億2281万1千人で前年同月より61万人減っており、日本人人口は86万6千人減少する一方、外国人人口は25万7千人増加している。人口減少という大きな流れの中にも、自然増減、国内移動、国外との移動という異なる力が同時に働いていることが分かる。

さらに国立社会保障・人口問題研究所の「日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)」では、2020年を基準とすると、2050年の人口が2020年以上になる市区町村は77、全体の4.5%にとどまる。一方、1,651市区町村、95.5%では2020年を下回り、約6割の市区町村で3割以上減少し、約2割では半数未満になると推計されている。もちろん、これは出生、死亡、人口移動などについて一定の仮定を置いた「推計」であり、2050年の未来を確定する予言ではない。それでも、日本の大部分の自治体が人口減少を前提として将来を考えなければならない可能性が高いことは、この数字から十分に読み取れる。

この社会で、すべての町が人口増加だけを成功の条件にしたら何が起こるだろう。

出生率の改善や海外からの人口流入もあるため、自治体人口の増減を単純なゼロサムゲームとみなすことは正確ではない。しかし、とりわけ国内の若者や子育て世帯の転入を人口対策の中心に置けば、全国人口が減少するなかで、限られた転入希望者を自治体間で競う側面は強くなる。

その競争自体が悪いわけではない。住みやすさを競うことによって政策が改善されることもある。しかし、ほとんどの自治体が長期的には人口減少すると推計されている社会で、人口増加だけを町の合格条件にすれば、多くの地域が何を改善しても「失敗」という通知表を受け取り続けることになる。

問題は人口対策をやめるかどうかではない。

人口を何のために維持したいのか。その順序を問い直すことである。

人が減ることと、暮らしが悪くなることは同じではない

人口1万人の町を想像してみる。

町には病院がある。しかし、車を運転できない高齢者がそこへ行くには家族の送迎が必要である。駅はあるが列車は一時間に一本しかなく、スーパーまで歩けば四十分かかる。行政手続きには役場へ出向かなければならず、高校生の通学にも家族の車が欠かせない。

十年後、その町の人口が8000人になったとしよう。

人口だけを見れば20%の縮小である。

ところが、その十年間に予約型の乗合交通が整備され、診療所と基幹病院の連携が進み、日用品を自宅まで届ける仕組みが定着したとする。行政手続きの多くを自宅からできるようになり、中心部では徒歩圏内に住宅、商業、医療がまとまり始めた。

人口は減っている。

それでも、そこで暮らす一人の住民から見れば、十年前より生活しやすくなっている可能性がある。

反対の町も考えられる。人口が1万人から1万500人に増えたものの、住宅が郊外へ広がり、自動車がなければ生活できなくなり、中心部の商店が減り、道路や上下水道の維持範囲だけが広がったとしたらどうだろう。

500人増えたという数字だけで、「町が良くなった」と結論づけることはできない。

人口は町の大きさを教えてくれる。

しかし、そこで暮らす人がどのような一日を送れるのかまでは教えてくれない。

人口と生活品質は無関係ではないが、同じものでもない。この区別こそ、人口減少時代の地域分析では重要になる。

人口を「目的」から「条件」へ移してみる

そこで、政策の順序を逆転させてみたい。

町の最終目的を「人口を最大化すること」ではなく、「そこに暮らす人が、できる限り安心して生活を続けられる状態をつくること」と考えるのである。

こうすると、人口の重要性が失われるわけではない。人口は、生活を支えるために必要な条件の一つになる。

診療所には一定の患者数が必要であり、商店には一定の需要が必要である。公共交通にも利用者が必要で、水道や道路にも維持費を負担する社会が必要になる。ただし、その成立条件は「人口何人」という一つの数字だけでは決まらない。人口密度、年齢構成、所得、利用頻度、商圏の広さ、観光客や周辺地域からの利用、運営費、技術、行政支援などによって変わる。

人口5000人なら店が成立し、4999人になった瞬間に成立しなくなるわけではない。

重要なのは、それぞれのサービスを持続させるだけの需要と供給の条件が成り立つかどうかである。

このように考えると、「人口1万人を守る」という目標の意味も変わる。

なぜ1万人なのか。

救急医療を一定時間以内に受けられる状態を維持するためなのか。商業を維持するためなのか。学校教育の選択肢を残すためなのか。上下水道の一人当たり負担を一定水準に抑えるためなのか。

守りたい暮らしが先にあれば、その暮らしに必要な人口や居住密度を逆算できる。

人口目標を捨てるのではない。

人口目標の上に、人口を維持する理由を置くのである。

「何人いる町か」ではなく「何ができる町か」

町の成績表を人口から生活品質へ広げるなら、評価の仕方も変わる。

たとえば高齢になって運転免許を返納した翌朝を想像してみればよい。

スーパーまで行く手段がなくなる町と、電話やスマートフォンで予約すれば乗合交通が来る町がある。同じ5000人の町でも、その5000人が持っている生活の可能性は違う。

子どもが進学するとき、自宅から複数の学校を選べる地域と、一校がなくなれば長距離通学や転居が必要になる地域も違う。

病気になったときも、自治体の境界内に病院が一つ存在するという事実だけでは十分ではない。住民が実際に受診できるのか、どのくらいの時間で治療へ到達できるのか、専門医療が必要になったとき次の医療機関へつながれるのかという方が、生活の実態に近い。

つまり、地域の価値は施設の「存在」だけでなく、住民が必要な機能へ到達できるかによって測る必要がある。

買い物ができる。移動できる。医療を受けられる。教育を選べる。働ける。人と会える。そして、一つの店、一つの交通手段、一つの医療機関がなくなったときにも、別の方法へ切り替えられる。

この最後の「代わりがある」という条件は、人口だけではほとんど見えない。

人口8000人で選択肢が複数ある町と、人口1万5000人でも一つのサービスに全面的に依存している町では、後者の方が一つの撤退によって生活が大きく変わることさえある。

町の強さは、単に人が多いことだけではなく、生活の選択肢と代替可能性をどれだけ残せるかにも左右されるのである。

世界でも「人口や経済規模だけでは測れない」という考え方が広がっている

この考え方は、人口減少に悩む日本の地方だけから生まれたものではない。

OECD(経済協力開発機構)の地域ウェルビーイングの枠組みでは、地域の生活を所得、雇用、住宅、健康、サービスへのアクセス、環境、教育、安全、市民参加とガバナンス、地域社会、生活満足度という11の領域から見ている。OECD自身も、GDP(Gross Domestic Product・国内総生産)などの経済統計を超えて、人々が実際にどのような生活をしているのかを見る必要性を示している。

日本でも方向は同じである。

内閣府の「満足度・生活の質に関する調査」は、日本の経済社会を人々の満足度、すなわちWell-being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態)の観点から多面的に把握し、政策運営に活用することを目的としている。2026年7月31日には「満足度・生活の質に関する調査報告書2026」が公表された。

さらにデジタル庁は、地域幸福度(Well-Being)指標を地域のまちづくりにおける「共通指標」として活用し、市民、行政、事業者などが共通目標を持つための仕組みを進めている。そこでは医療・福祉、買物・飲食、住宅環境、移動・交通、教育、雇用・所得、地域とのつながりなど24カテゴリーが扱われ、アンケートによる主観指標と、オープンデータによる客観指標の双方が用いられている。

人口だけでは町を測れないという考えは、もはや抽象的な理念だけではない。

政策評価そのものが、少しずつ「何人いるか」から「人がどう暮らしているか」へ広がり始めている。

ただし「人口を忘れて幸福度だけ見ればよい」わけでもない

ここで反対側へ振れすぎてはいけない。

人口目標を批判した結果、「人口など減っても構わない」「幸福度だけ高ければよい」と考えてしまえば、別の単純化に陥る。

人口減少には現実の制約がある。

商店には売上が必要であり、医療機関には患者が必要である。公共交通には利用者が必要で、広い地域に住宅が散らばったまま住民が半分になれば、ごみ収集、訪問介護、水道、道路などを一人当たりで支える負担は一般に重くなりやすい。

国土交通省が「コンパクト・プラス・ネットワーク」を進めている背景にも、この問題がある。人口が減少したまま市街地が薄く広がれば、医療、福祉、商業などの生活サービスや公共交通を維持することが難しくなるおそれがあるため、居住を公共交通沿線や生活拠点へ緩やかに誘導し、サービスへのアクセスを確保しようという考え方である。

だから本当に問うべきなのは、「人口を増やすか、人口減少を受け入れるか」という二者択一ではない。

人口が減る可能性が高いなら、それでも生活を維持できるように町の形とサービスの提供方法をどう変えるかである。

ここに、人口減少政策と生活品質政策の接点がある。

町の大きさが変わるのに、町の形だけ昔のままでよいのか

人口が1万人から5000人になったとき、最も危険なのは「5000人になったこと」だけではない。

1万人だった時代につくった道路、水道、公共施設、住宅地、交通体系を、5000人で同じように支え続けようとすることが問題になる場合がある。

身体が小さくなったのに、昔の大きさの服をそのまま着続けるようなものである。

だから人口減少時代の町づくりでは、何を減らさないかだけでなく、何を組み替えるかが重要になる。

学校の数が減ることも、病院の数が減ることも、バス路線が減ることも、それだけを取り出せばサービス低下に見える。しかし、学校を再編したうえで通学手段を充実させ、医療機関を集約したうえで遠隔診療や送迎を組み合わせ、利用者の少ない固定路線を予約型交通へ転換した結果、住民が目的地へ到達しやすくなるなら、施設の数は減っても利用できる機能は必ずしも同じ割合で減るとは限らない。

ここで見るべきものは「何を残したか」ではない。

「何ができる状態を残したか」である。

施設ではなく機能を測り、距離ではなく到達可能性を測り、人口ではなく生活を見る。

そうすると、縮小と衰退は必ずしも同義ではなくなる。

「人を呼ぶ政策」と「出て行かなくてもよい政策」

人口増加を最上位目標から一段下げると、移住政策の見え方も変わってくる。

移住相談会を開き、住宅取得補助を設け、子育て世帯への支援を充実させ、一年間で百人の転入を実現すれば成果として分かりやすい。

しかし、転入した百人が五年後にもそこへ住んでいるかは別の問題である。

さらに、その一年に既存住民が百二十人転出しているなら、町の課題は「どうやって百人呼ぶか」だけでは解けない。

なぜ出ていくのかを見る必要がある。

ただし、ここでも因果関係を単純化すべきではない。人が地域を離れる理由には、就職、所得、進学、結婚、家族、住宅、医療、交通、子育てなど複数の要因が重なっている。生活環境を改善すれば必ず人口流出が止まる、というほど単純ではない。

それでも、現在住んでいる人が「この町では暮らし続けられない」と感じる原因を減らすことは、人口流出を抑える重要な条件の一つになり得る。

運転できなくなっても暮らせる。家族が病気になっても生活が破綻しにくい。子どもの教育を理由に転居しなくてもよい。仕事の形が変わっても住み続けられる。

こうした条件を増やしていく政策は、派手な転入者数としては現れにくい。

しかし、人口減少社会では、「何人呼んだか」と同じくらい「何人が出て行かずに済んだか」を考える必要がある。

100人増えた町と、1000人が便利になった町

ここで二つの町を比べてみよう。

一つの町は、一年間で移住者を100人増やした。

もう一つの町では人口は増えなかった。しかし予約型交通を改善し、それまで自動車がなければ通院や買い物に苦労していた1000人の移動環境を改善した。

どちらの政策成果が大きいのだろう。

人口だけを成果指標にすれば、答えは簡単である。100人増えた町が上になる。

しかし、行政の目的を住民生活の改善と考えるなら、比較は急に難しくなる。

100人の転入には、税収、地域経済、将来の担い手などさまざまな効果があり得る。一方、1000人の移動環境改善には、通院、消費、社会参加、自立した生活など広い効果があり得る。

どちらが上かは、単純には決められない。

そして、決められないという事実そのものが重要である。

人口という一つの数字だけでは、町づくりの成果を十分に評価できないからだ。

では、生活品質を一つの数字にすれば解決するのか

ここでも注意が必要になる。

人口だけでは町を測れないなら、代わりに「幸福度72点」のような一つの指数をつくればよい、と考えたくなる。

しかし、それでは人口という単一指標を、別の単一指標へ置き換えただけになる。

医療を重視する人もいれば、仕事を重視する人もいる。子育て世帯にとって重要な条件と、80歳の単身高齢者にとって重要な条件も同じではない。医療、交通、所得、安全、教育、自然環境をどのような比率で一つの点数へまとめるかには、必ず価値判断が入る。

デジタル庁の地域幸福度(Well-Being)指標も、自治体同士を一列に並べるランキングを目的としているわけではなく、地域自身が特徴や課題を把握し、まちづくりに利用することを重視している。

人口目標から生活品質目標へ移るということは、人口という一つの数字を捨て、幸福度という別の一つの数字を採用することではない。

むしろ、町は一つの数字では測れないと認めることである。

人口、所得、医療への到達時間、移動手段、買い物環境、住宅負担、教育機会、安全性、住民の満足度。それらを組み合わせて、どこが改善し、どこが悪化しているのかを見る。

少し面倒になる。

しかし、暮らしそのものが一つの数字ではない以上、その面倒さを引き受けなければ、本当の意味で町を測ったことにはならない。

「人口目標」をなくすのではなく、その上位に生活目標を置く

ここまで考えると、自治体の将来計画の書き方も変わってくる。

これまでの発想では、十年後の目標人口を決め、その人口を実現するために移住、子育て、産業、住宅などの政策を並べる。

これを逆にする。

十年後も、車を運転できない人が買い物と通院を続けられる町にする。救急医療への到達時間を悪化させない。子どもが教育機会を失わない。住宅と交通を合わせた生活負担を過度に増やさない。高齢になっても地域とのつながりを保てるようにする。

そうした生活目標を最初に置き、それを実現するためには、どの程度の人口が必要で、どの地域に居住を誘導し、どの施設を残し、何を統合し、どのサービスを別の方法へ置き換える必要があるのかを考える。

人口を無視するのではない。

人口を手段の側へ戻すのである。

小さくなることと、貧しくなることは同じではない

人口減少という言葉には、どこか敗北の響きがある。

人口3万人だった町が2万人になる。六つあった学校が四つになる。商店が閉まり、公共施設が統合される。地図から何かが消えるたびに、町が少しずつ失われているように見える。

その感覚を軽く扱うべきではない。学校にも商店にも、人の記憶がある。効率だけで地域を切り分ければよいわけではない。

それでも、残した施設の数だけで住民生活を測ることもできない。

六校をそのまま維持した結果、どの学校も極端な小規模化に直面するなら、四校へ再編して通学環境や教育内容を充実させるという選択肢もある。一日一本しか走らない路線を十本残すより、路線を整理して利用しやすい交通へ変える方が暮らしを支えられる場合もある。

何かが減ったから、必ず貧しくなったとは限らない。

大切なのは、減らした後に何を残せたかである。

自分で買い物へ行ける。必要な医療を受けられる。子どもが学べる。仕事を続けられる。誰かに会いに行ける。

そうした普通の行為が守られているなら、町の人口や施設数が小さくなっても、生活そのものまで同じように縮むとは限らない。

町の未来を決める「成績表」を変える

人口はこれからも地域分析に欠かせない。

出生数も、死亡数も、転入者数も、転出者数も、高齢化率も必要である。これらを見なくなれば、むしろ町の現実を見誤る。

しかし、それらは最終目的ではない。

人口5000人でも安心して暮らせる町と、人口1万人でも車を失った瞬間に生活できなくなる町があるなら、私たちが本当に知りたいのは人口の多さだけではない。

その数字の中で、人がどのような一日を送れるのかである。

これからの地方自治体の競争は、「昨年より何人増えたか」だけではなく、「昨年より何人が暮らしやすくなったか」を問う競争へ少しずつ変わっていく必要があるのではないだろうか。

人口を増やそうとする努力は必要である。

移住政策も、子育て支援も、産業政策も重要である。

ただ、その目的を見失ってはいけない。

町は人口表の数字を増やすために存在しているのではない。

人が暮らすために存在している。

朝起きて、食べるものを買い、必要なら病院へ行き、誰かと話し、働き、学び、年を取って車を運転できなくなった後も、できれば同じ土地で一日を終える。

人口減少時代に守るべきものは、そのような何でもない一日なのかもしれない。

人口を増やす政策から、人口を増やすことも含めて「普通の一日を守る政策」へ。

町を良くするとは、必ずしも昔の人口へ戻すことではない。

小さくなっても、そこで生きる人の暮らしまで小さくしないことなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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人口が三万人から二万人へ減ったからといって、市の面積が三分の二になるわけではない。八千人いた町が五千人になっても、山あいまで延びた道路が短くなることはなく、地中に埋められた水道管や下水道管が人口に合わせて消えてくれるわけでもない。橋はそこに架かったままであり、役場・市役所から遠い地区にもごみ収集車は向かい、誰かが倒れれば救急車は走る。人が減っても、街を支える骨格はすぐには小さくならない。

人口減少が地方にとって難しいのは、実は人口そのものが減るからではない。少なくなった人間で、人口が多かった時代につくられた街を支え続けなければならなくなるからである。

国立社会保障・人口問題研究所は、2020年の国勢調査を基礎として、原則として市区町村別に2050年までの将来人口を推計している。将来人口が一人単位でその通りになるわけではないにせよ、多くの地域で人口減少と高齢化が続くという方向は、もはや遠い未来の予言ではない。問題は未来が分からないことではなく、かなり見えている未来に対して、街の形をどう変えるのかが決まっていないことである。

ここで考えたいのが、「街はどこから縮むべきなのか」という問いである。

ただし、本稿でいう「撤退」は、人口の少ない地域から住民を強制的に移転させることではない。道路や水道をどこまで更新するのか、公共交通をどこまで残すのか、公共施設をどこに集めるのか、新しい住宅や公共投資をどこへ誘導するのか。その順番を長い時間の中で組み替えることを意味している。

もし街を地図だけで眺めるなら、答えは簡単に見えるだろう。役場・市役所や駅、病院、スーパーから遠い地域ほど維持するのが大変なのだから、外側から少しずつ縮めればよい。中心から半径を狭めるように、市街地を小さくしていく。人口減少時代の街づくりと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、おそらくこの形である。

ところが、数字を一つずつ重ねていくと、この直感はかなり早い段階で崩れる。

架空の「朝凪市」を考えてみよう。人口三万人、面積百平方キロメートルの地方都市で、2050年には人口が一万八千人まで減ると予測されている。市役所と駅がある中心部から十二キロ離れたA地区には百五十人が暮らしている。一方、中心部からわずか四キロのB地区には百人が暮らしている。

距離だけを見れば、A地区の方が明らかに不利である。市役所から遠く、病院からも遠い。直感的には、朝凪市が縮小するとき、まずA地区への投資を減らすべきだと思える。

ところが住宅の配置を見ると、事情が変わる。A地区の百五十人は一本の幹線道路沿いに比較的まとまって住んでいる。それに対してB地区は丘陵地に造成された住宅地で、空き家を挟みながら家々が広く散らばっている。A地区で百五十人を支える水道管が三キロなのに、B地区では百人のために六キロ必要だとすれば、一人当たりの水道管延長はB地区の方が三倍になる。道路も同じで、住宅が散在すれば、同じ人数を支えるために必要な道路面積は増えていく。

ここで撤退順位は最初の逆転を起こす。

中心から遠いA地区より、中心に近いB地区の方が、一人の暮らしを支えるために多くのインフラを必要としているかもしれないからである。

人口密度という数字は、単なる「人の混み具合」ではない。道路、水道、ごみ収集、公共交通といったサービスを何人で分担できるのかを左右する数字でもある。一キロの水道管を百人で支える場合と十人で支える場合では、同じ設備でも一人当たりの負担は大きく違ってくる。

しかし、これだけでB地区を先に縮小すべきだと結論すると、また間違える。

A地区では十年前に水道管が更新され、幹線道路の舗装も比較的新しい。一方、B地区では高度成長期の終わりごろに整備された水道管が十年以内に更新期を迎え、地区へ入る橋も大規模補修が必要になるとしよう。

今年一年だけの維持費を比べれば、両地区にはそれほど大きな違いがないかもしれない。ところが、これから三十年間に必要となる更新費まで含めると、B地区の費用は急激に膨らむ。

ここで撤退順位は、さらに大きくB地区側へ傾く。

人口減少時代のインフラを考えるとき、「現在いくらかかっているか」だけを見ても意味が薄い。重要なのは、その人口がさらに減っていく間に、道路、水道管、橋、公共施設がいつ寿命を迎えるのかである。人口百人の地区でも、水道管を更新した直後なら今後二十年間の費用は比較的小さいかもしれない。反対に、人口が二百人いても、道路、橋、水道、公共施設の更新が一斉に重なれば、将来負担は急に大きくなる。

街の撤退順序には、地図だけではなく時計が必要になる。

ここで、さらに人口が減った場合を考えてみる。

B地区の人口が百人から九十人に減っても、水道管六キロが五・四キロに縮むことはない。八十人になっても道路はほぼ同じだけ必要であり、五十人になっても橋は一本丸ごと維持しなければならない。人口は半分になっても、インフラ費用は半分にはならない。

すると一人当たりの負担は、人口が減るほど大きくなる。

しかも、その増え方は一定ではない。

五百人の地区から五十人減るのと、百人の地区から五十人減るのとでは、同じ五十人減少でも意味がまったく違う。前者では人口が一割減るだけだが、後者では半分になる。その間、水道管や道路の長さが変わらなければ、一人当たりの負担は急速に重くなる。

ここで見えてくるのが、人口減少における「限界」の存在である。

経済学や数理的な政策評価では、全体の平均だけでなく、一人増えたり減ったりしたときに費用がどれだけ変化するかという「限界」の考え方が重要になる。人口が多いうちは、一人減っても地域全体のインフラ効率はほとんど変わらない。しかし人口が少なくなり、道路一本、水道管一本、バス一路線を維持する最低限の人数へ近づくと、一人の減少が急に重い意味を持ち始める。

つまり、人口減少はいつでも同じ速度で地域を弱らせるわけではない。

人数は滑らかに減っているのに、費用負担は途中から急に重くなることがある。

公共交通でも同じことが起きる。一日百人が利用していたバスが九十人になったからといって、運行本数が自動的に一割減るわけではない。しかし利用者がある水準を下回ったところで、一日五便を三便にしなければ維持できなくなるかもしれない。さらに運転手を確保できなくなれば、路線そのものがなくなる。すると、自動車を運転できない高齢者の買い物や通院が難しくなり、商店の利用者が減り、その閉店によって別の住民まで暮らしにくくなる。

人口は徐々に減るのに、暮らしは階段状に悪くなることがある。

このため、「人口百人以下なら撤退」という単純な基準を作ることはできない。百人しかいなくても、道路、水道、交通が効率的に配置されていれば維持しやすい地区はある。三百人いても、住宅が広く散らばり、老朽施設が多く、複数の橋や長い管路を必要とする地域なら、維持費は高くなる。

では、人口密度と将来の更新費を計算すれば、撤退順位を決められるのだろうか。

まだ足りない。

朝凪市のA地区が海沿いの低地にあり、大規模な津波や河川氾濫の危険性が比較的高い一方、B地区は高台にあるとしよう。平常時の行政費用だけを考えればB地区から縮める方が合理的に見える。しかし災害が起きた場合の住宅被害、避難、復旧費、生命への危険まで長期的な損失として加えると、A地区の評価は大きく悪化する。

ここで撤退順位は、また動く。

行政費用だけならB地区、災害リスクまで考えればA地区という具合に、何を目的とするかによって答えが変わるのである。

それでもまだ終わらない。

B地区に診療所が一つあり、地区住民百人だけでなく、周囲三地区の合計五百人がそこを利用しているとする。B地区への公共交通や道路を縮小して診療所が維持できなくなれば、影響を受けるのは百人ではない。五百人の通院時間が延びる可能性がある。

そうなると、B地区の価値を居住人口百人だけで測ること自体が間違いになる。

街には道路の網があり、水道の網があり、その上に医療、買い物、教育、公共交通という別の網が重なっている。ある地区が人口では小さくても、ネットワーク上では重要な結節点になっていることがある。逆に人口が多くても、他の地域をほとんど支えていない地区もある。

数学のネットワーク理論で考えるなら、重要なのは点の大きさだけではなく、その点を消したときに網全体がどう変わるかである。

橋一本を閉じたときに迂回距離が何キロ増えるのか。診療所一か所を集約したときに通院時間が何分延びるのか。バス路線一本を廃止したときに、自動車を使えない住民が何人取り残されるのか。

「そこに何人住んでいるか」より、「そこを失ったときに何人の暮らしが変わるか」の方が重要になる場合がある。

こうして人口密度、更新費、災害リスク、ネットワークを順番に入れていくと、最初は簡単に見えた「撤退順位」は何度も入れ替わる。

だから最終的に、朝凪市が地区ごとに一つの総合点を付けて、点数の低い順に撤退すればよいという話にはならない。

人口は「人」であり、費用は「円」であり、通院時間は「分」であり、災害危険度は確率や被害額として表される。性質の異なる数字を一つの点数へ押し込めると、分かりやすさは得られても、その点数の作り方によって結果が簡単に変わってしまう。

そこで必要になるのが、多目的最適化という考え方である。

行政としては、今後三十年間の道路、水道、公共施設などの総費用を小さくしたい。しかし同時に、住民の買い物時間は短く保ちたい。救急医療へ到達する時間も長くしたくない。災害リスクの高い場所へ人口を集中させたくもない。さらに、現在住んでいる人に大きな移転負担を課すことも避けたい。

ところが、これらをすべて同時に最高の状態にすることはできない。

行政費用だけを最小にすれば、多くの施設を一か所へ集約する案が有利になる。しかし集約しすぎれば住民の移動時間が増える。移動時間だけを短くしようとすれば、各地区に施設を残す必要があり、今度は費用が増える。災害安全性を最優先すれば、既存中心市街地とは別の場所へ住宅を誘導しなければならないこともある。

数理モデルが教えてくれるのは、「唯一の正解」ではない。

費用を一億円減らせば、住民の平均移動時間が何分増えるのか。救急への到達時間を五分短縮するために、追加でいくら必要なのか。災害リスクを下げるために人口配置を変えれば、既存インフラのどの部分が無駄になるのか。

何を得れば、何を失うのか。

その交換条件を明らかにすることこそ、数理的に街を考える意味なのである。

さらに、撤退順序は一度決めたら終わりではない。

朝凪市でB地区の水道管が2035年に更新期を迎えるなら、その時点で初めて大規模更新と別方式を比較すればよい。2040年に人口がさらに減り、現在の路線バスを維持するのが難しくなったなら、乗合型交通へ切り替える。住宅については、今住んでいる人を急に移転させるのではなく、空き家化や相続、建替えの時期に合わせて生活拠点へ居住を誘導していく。

これは動的最適化と呼ばれる考え方に近い。

今日の一回だけの判断ではなく、人口、施設の老朽化、財政、住民構成が毎年変化していくことを前提として、その時々で最も損失の小さい選択をつないでいく。

人口が減少しているからといって、2026年に道路を閉じる必要はない。しかし2038年に大規模な更新費が必要になるなら、その十三年間を使って住民に将来像を示し、交通手段や住宅政策を準備することができる。

撤退は、ある日突然行われる政策でなくてよい。

むしろ、施設の寿命と人口減少の速度を合わせることで、社会的な痛みを小さくすることができる。

水道はその典型だろう。人口が増えていた時代には、大規模な浄水施設から長い水道管を通じて各家庭へ水を送る集約型の仕組みが合理的だった。しかし利用者が大きく減った地域では、少数の住民のために何キロもの管路を更新し続けることが最適とは限らない。技術的・制度的な条件を満たす場所では、集約型と小規模な分散型を比較する余地が生まれている。

ここで重要なのは、水道管を残すことが目的ではないということだ。

安全な水を届けることが目的である。

同じように、バス路線を残すことそのものが目的なのではなく、自動車を運転できない住民にも移動手段を確保することが目的である。診療所という建物を残すことが目的なのではなく、必要な医療へ到達できる状態を残すことが目的である。

施設を守ることと、サービスを守ることを分けて考えれば、街の縮小は単純な廃止の話ではなくなる。

医療について考えれば、その違いはさらに分かりやすい。日常的な診療はできるだけ身近にあった方がよいが、高度な救急医療や手術には一定量の医療資源が必要になる。どの医療も各地域へ均等に置こうとすれば、医師や設備が分散しすぎる一方、すべてを一か所へ集めれば、高齢者の日常的な通院が難しくなる。

ここでも一つの答えは存在しない。

特に救急医療では、病院まで何キロあるかより、発症してから適切な治療が始まるまで何分かかるかの方が重要になる。十キロ先の医療機関へ搬送しても必要な治療ができず、そこからさらに二十キロ移動するなら、最初から専門的な治療ができる拠点へ搬送した方が早い場合もある。

距離より時間を見るという考え方は、医療以外にも使える。

スーパーまで七キロあっても、自動車で十分なら生活上の負担は小さいかもしれない。反対に二キロしか離れていなくても、坂道が多く、公共交通もなければ高齢者にとっては遠い。役場・市役所まで十キロあっても、多くの手続きをオンラインや近隣窓口で済ませられれば、生活上の距離は短くなる。

街を地図上のキロメートルではなく、「普通の一日を送るために何分必要か」で測ってみる。

すると交通、医療、買い物、行政、教育が、一つの生活システムとして見えてくる。

ここまで考えると、朝凪市の将来像も、中心部へ向かって円形に縮む姿ではなくなってくる。

市役所、駅、商業施設、中核医療機関が集まる第一拠点がある。そこから離れた地域には第二、第三の生活拠点を残し、それぞれを交通で結ぶ。人口の少ない地区についても直ちに居住を禁止するのではなく、更新期を迎えるインフラから順に別方式を検討し、新規住宅や公共投資は将来もサービスを維持しやすい場所へ徐々に誘導する。

街は円のように小さくなるのではない。

いくつかの点と、それを結ぶ線へ変わっていく。

夜空の星座のような形である。

そして、この形を決めるのは行政効率だけではない。中心市街地が浸水危険地域なら、別の安全な拠点を育てる必要があるかもしれない。人口の少ない集落が地域交通の結節点なら、そこを残すことが周辺全体の生活を支えるかもしれない。

数理モデルは地図の外側から順番に赤く塗ってくれる機械ではない。

むしろ、「一見すると先に縮めるべき場所を残した方が、街全体では合理的である」という逆転を見つけるための道具である。

だから、最初に立てた「街はどこから縮むべきなのか」という問いにも、単純な地名では答えられない。

最も遠い地区からでもない。

最も人口の少ない地区からでもない。

一人当たり費用が最も高い地区からでもない。

より正確に言うなら、次に大きな更新費が必要となる施設やサービスについて、別の方法へ切り替えた場合に、住民生活全体へ生じる損失が最も小さいところから、少しずつ街の構造を変えるべきなのである。

そこには人口密度があり、一人当たり費用があり、限界費用があり、施設の更新時期がある。さらに交通と医療のネットワーク、災害リスク、住民の移動時間が重なり、それらを三十年という時間の中で比較し続ける。

人口減少時代の撤退順序とは、一本のランキングではない。

毎年変わる街の状態に合わせて、何をいつ変えれば暮らしの損失を最も小さくできるかを探し続ける順序なのである。

この考え方に立てば、「すべてを残すこと」が必ずしも住民を守ることにはならないことも見えてくる。道路も橋も水道も公共施設も公共交通も、今までと同じ場所、同じ方法で維持しようとすれば、限られた財源と人材は広い範囲へ薄く配られる。その結果、何も廃止していないのに舗装は傷み、水道更新は遅れ、バスは減便され、公共施設は老朽化していくかもしれない。

全部を残そうとして、全部を少しずつ失う。

人口減少社会では、それが最も危険な縮み方なのかもしれない。

街が小さくなることそのものは避けられない地域がある。しかし、道路が壊れた順、水道管が寿命を迎えた順、店が閉じた順、医師が辞めた順、バスの運転手がいなくなった順に生活が壊れていく必要はない。

成り行きで縮む街と、考えて縮む街は違う。

前者では、一つのサービスが失われるたびに住民が対応を迫られる。後者では、人口と施設の寿命を先に読み、別の交通、別の水道方式、別の医療配置、別の住宅政策を準備してから形を変える。

人口三万人の市が一万八千人になっても、一万八千人の生活水準まで五分の三になる必要はない。人口八千人の町が五千人になっても、暮らしまで八分の五へ縮める必要はない。

人口を維持することと、生活を維持することは同じではないからである。

人口が増え続けた時代、街づくりとは新しい道路を延ばし、住宅地を広げ、公共施設を建てることだった。

人口が減り続ける時代には、それとは反対方向の技術が必要になる。

ただし、それは無造作に切り捨てる技術ではない。

人口、距離、費用、時間、医療、交通、災害を重ね、何を変えれば何を残せるのかを計算し、その順序を選ぶ技術である。

街を縮めるというと、何かが消えていく話に聞こえる。

しかし本当に数理的に考えるなら、目的は逆になる。

どこを捨てるかを決めるためではなく、限られた人口と財源の中で、最後まで何を残せるかを決めるために街を縮める。

人口増加時代が「街を広げる数学」を必要としたのだとすれば、人口減少時代には、別の数学が必要になる。

それは、人の暮らしを小さくすることなく、街の形だけを静かに小さくしていくための数学である。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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外房の政治を考えるとき、東京から何キロ離れているかだけを測っても、この地域が抱える本当の「遠さ」は見えてこない。

人口密度が低く、市町村の規模は比較的小さい。鉄道、道路、河川、医療、介護、防災といった生活基盤の多くは、一つの自治体だけでは完結しない。それでいて、地域が国へ何かを求めようとすれば、一つ一つの町の人口や財政規模は東京の自治体とは比較にならないほど小さい。

こうした地域では、国会議員は単に法律へ賛否を示す人ではない。複数の自治体から上がってくる声を束ね、県庁や中央省庁へ運び、国の制度と地域の現実をつなぐ回路にもなる。

その回路の一つを、房総東部で36年以上にわたって担ってきたのが森英介である。

1990年2月の第39回衆議院議員総選挙で初当選してから、2026年2月の第51回総選挙まで13回連続で当選し、同月18日には第81代衆議院議長に就任した。衆議院の公式経歴には、法務大臣、厚生労働副大臣、厚生労働委員長、原子力問題調査特別委員長、憲法審査会長などが並ぶ。議長就任後は衆議院の会派上「無」とされ、衆議院英語版プロフィールも、議長就任前は自由民主党所属だったことを明記している。地方選出の衆議院議員としては、国会の頂点に近いところまで歩いた政治家である。

ただし、ここで最初に一つ線を引いておきたい。

森英介を「外房の政治家」と呼ぶことはできるが、千葉11区そのものが外房だけで構成されているわけではない。現在の選挙区は茂原市、東金市、勝浦市、山武市、いすみ市、大網白里市に加え、山武・長生・夷隅の郡部まで含む広域選挙区である。海沿いの外房だけでなく、農村、地方都市、観光地、東京圏の外縁部まで性格の異なる地域を抱えている。

だから森英介の36年を考えることは、一人の政治家の成功物語を読むことではない。

むしろ、房総東部という広い地域が36年間、中央政治とどのようにつながってきたのかを考えることである。

技術者から政治家へ~ただし、出発点は世襲でもあった

森の経歴には、地方政治家として少し珍しいところがある。

東北大学工学部を卒業した後、川崎重工業に勤務し、原子力プラントの溶接に関する研究成果によって1984年に名古屋大学から工学博士号を取得した。1974年から1988年まで企業に勤務しており、若いころから秘書や地方議員として政治の世界だけを歩いてきた人物ではない。40歳前後まで技術者として企業社会に身を置いた経験は、その後、労働、社会保障、原子力など専門性の高い分野を担当した経歴とも無関係ではないだろう。

しかし、森の政治家としての出発点を「技術者が一念発起して選挙へ挑み、ゼロから地盤を築いた」と描けば、事実の半分しか見ていないことになる。

父の森美秀は衆議院議員を務め、第2次中曽根内閣では環境庁長官に就任した人物だった。森英介が1990年に初当選した旧千葉3区には、父の政治活動によって形成された人脈や支持基盤が存在していたとみるのが自然である。少なくとも、まったく政治的な基盤を持たない新人候補と同じ条件からスタートしたわけではない。父の森美秀が環境庁長官を務めたことは首相官邸の歴代内閣資料でも確認できる。

世襲であることと政治家として有能であることは、論理的には別の問題である。

有利な初期条件を得た政治家が、その後三十数年間にわたって国会で役割を与えられ続けるかどうかは、また別の能力を必要とする。一方で、13回当選という結果をすべて本人の能力だけで説明することもできない。地域の保守地盤、政党支持、後援会、父から受け継いだ政治資産、対立候補の強弱など、複数の要因が重なっている。

政治家の評価で難しいのは、まさにここである。

結果は見えるが、その結果を生んだ変数は一つではない。

国政では「何もしていない長老議員」ではない

それでも、国会での森の履歴をたどると、単に選挙に強かっただけの政治家とは言いにくい。

労働政務次官、厚生労働委員長、厚生労働副大臣、法務大臣、憲法審査会長など、制度設計と法律審議に関わる役職を長く経験している。2015年には永年在職議員として衆議院から表彰され、2026年には議長へ至った。

社会保障分野では、2002年の健康保険法改正時に衆議院厚生労働委員長を務めたことが国会会議録から確認できる。健康保険の本人負担などをめぐって与野党が激しく対立した法案で、森は委員会の審査結果を本会議で報告した。野党側から委員長解任決議案まで提出されたことを考えれば、政策内容への評価は別として、当時の社会保障改革の政治過程で重要な位置にいたことは間違いない。

ここには資料を読む際の注意点もある。

自由民主党が過去に掲載した森の実績紹介には、「2006年、衆院厚生労働委員長として健康保険法改正案の成立に尽力した」という趣旨の記載がある。しかし、2006年5月の国会会議録を確認すると、その健康保険法等改正案を審議した衆議院厚生労働委員長は岸田文雄である。森が同委員長として健康保険法改正を扱ったことが確認できるのは2002年であり、2006年については資料間に齟齬がある。したがって本稿では、2006年の改正を森個人の実績として数えない。

政治家の功績を検証するとき、本人や政党が「実績」と呼んでいるものをそのまま採用しないことは重要である。

法務大臣時代に見える、評価の分かれる政治家像

森が初入閣したのは2008年の麻生内閣で、法務大臣だった。

この時期の仕事の一つが国籍法改正である。2008年6月、最高裁判所は、日本人の父から出生後に認知された子について、父母が結婚しているかどうかで日本国籍取得に差を設ける当時の制度の一部を違憲と判断した。森は法務大臣として、判決を重く受け止め、憲法に適合する制度へ改めるため国籍法改正案を国会へ提出したと答弁している。法案は衆議院法務委員会で全会一致で可決された。

これは森が独自の政策思想を一人で実現したという性格のものではない。最高裁判決によって生じた法制度上の問題を、行政と立法を通じて解消する法務大臣としての仕事だったと捉える方が正確である。

一方、同じ法務大臣時代には死刑執行という、より重い判断もあった。

森の在任中には2008年10月に2人、2009年1月に4人、同年7月に3人、合計9人の死刑が執行されたことが当時の記録から確認できる。死刑制度を維持する現在の法律に基づき、確定判決を執行する法務大臣の職務だったと評価する立場がある一方、死刑廃止や執行停止を求める立場からは強い批判も出た。東京弁護士会も当時、森法相による執行に反対する声明を公表している。

したがって、「決断力のある法相だった」と賞賛だけでまとめるのも、「多数の死刑を執行した法相だった」と批判だけでまとめるのも公平ではない。

確認できる事実は、森が法務大臣として死刑執行命令という非常に重い権限を複数回行使したことである。その是非は、日本の死刑制度そのものへの立場によって評価が分かれる。

政治家論では、事実と価値判断を同じ文章の中で混ぜないことが必要になる。

では、外房に何を残したのか

森を国政だけで評価するのであれば、法務大臣や衆議院議長まで務めた13期のベテラン議員という結論で終わる。

しかし地域分析ブログで本当に知りたいのは、別のことである。

森が中央で偉くなったことによって、外房の暮らしは何か変わったのか。

地方選出議員を評価するとき、この問いほど簡単そうに見えて難しいものはない。

道路が完成したとき、政治家は「実現しました」と語る。しかし道路は一人の政治家が造るわけではない。国土交通省、県、市町村、道路会社、財務当局、議会、地権者、地域団体など、多数の主体が何年、時には何十年も関わっている。

河川改修も鉄道も同じである。

そのため、「森が圏央道を造った」「森がいたから河川改修が実現した」という説明には慎重でなければならない。森が事業を要望したことと、その事業が完成したことの間には、多くの主体と多くの条件が存在するからである。

ただし、森が地元自治体と中央政府をつなぐ活動を長期間行ってきたことについては、公的資料からかなり具体的に確認できる。

勝浦市では2008年、国道128号と297号のアクセス改善を求め、市長、市議会、商工会、観光協会などの関係者が森をはじめとする国会議員や国土交通省へ要望活動を行ったことが市議会記録に残っている。

いすみ市では、外房線の快速列車を勝浦まで延伸することなどを求める要望書を、「森英介衆議院議員と共に」国土交通副大臣、東日本旅客鉄道本社、千葉支社へ提出したことが市の広報資料に明記されている。

御宿町でも、御宿駅へのエレベーター設置をめぐり、2017年度と2019年度に森へ要望文書を提出している。さらに御宿駅エレベーター設置整備事業等促進協議会では、森が顧問となっていた。もっとも、町の資料を読むと、事業は町と東日本旅客鉄道、国土交通省などとの長年の協議によって進められており、エレベーター整備を森個人の成果とみなすことはできない。

茂原市でも、一宮川水系の河川整備をめぐって同じ構図が見える。2024年12月、茂原市議会は河川整備促進の要望書を県選出国会議員へ提出し、森へ直接要望書を手渡した様子も市議会広報に掲載されている。

こうした資料から言えることと、言えないことを分ける必要がある。

森が外房の道路、河川、鉄道を一人で動かしていたことは証明できない。

しかし、地域の首長や議会が国へ何かを求める際、森がその経路の一つとして繰り返し使われてきたことは確認できる。

森の地域政治家としての最大の機能は、「自分が事業を完成させた」というより、自治体から中央政府へつながる政治的な窓口を長期間維持したことにあったと考える方が、資料に忠実である。

13回の当選を、どこまで「地域からの支持」と読めるのか

36年以上政治家であり続けるには、いくら強い地盤を持っていても選挙で勝ち続けなければならない。

2026年2月8日の総選挙でも森は千葉11区で102,843票を獲得し、50,561票の多ケ谷亮、13,783票の椎名史明を大きく上回って13回目の当選を果たした。得票率にすると61.5パーセントである。

この数字だけを見れば強い。

しかし、選挙の数字は分母を変えると別の景色になる。

千葉11区の2026年の有権者数は342,740人だったため、森への102,843票は全有権者の約30.0パーセントに相当する。つまり、有効投票の中では6割を超える圧勝であっても、「選挙区の住民の6割が森を積極的に支持した」と読むことはできない。

もちろん、これは森だけに当てはまる問題ではない。

民主主義の選挙では、投票しなかった人の意思を特定できない以上、選挙結果は原則として投票した有権者の選択から議席を決める。それでも、「圧倒的な支持」という政治的表現を使うなら、有効票を分母にしているのか、有権者全体を分母にしているのかを区別する必要がある。

数字は森の強さを示している。

同時に、数字だけで地域全体の意思を語ることの危うさも示している。

有力政治家が36年いても、人口減少は止まらなかった

森の政治家人生と外房の変化を重ねると、一つの厳しい現実が浮かぶ。

夷隅地域では、2021年の人口69,459人が2025年には64,248人となり、4年間で7.5パーセント減少した。同じ期間に65歳以上人口の割合は43.4パーセントから45.3パーセントへ上昇している。2025年の千葉県統計では、県内11地域の中で夷隅地域の老年人口割合45.3パーセントが最も高かった。

さらに、別の統計系列である千葉県毎月常住人口調査では、2026年6月1日の夷隅地域人口は60,795人とされている。統計の基準が異なるため2025年の64,248人と単純な連続値として比較することは避けるべきだが、地域人口が長期的な減少局面にあること自体は明らかである。

ここで、「森英介が36年間議員だったのに人口が減った。だから森は役に立たなかった」と結論づけるのは間違っている。

人口は一人の国会議員によって決まる変数ではない。

出生と死亡、大学進学、就職、住宅、賃金、産業構造、交通、医療、結婚、東京への人口集中など無数の条件が関係する。森が議員ではなかった場合に外房がどうなっていたのかという比較対象も存在しない。

統計学や因果推論の考え方を用いるなら、私たちが観測できるのは「森がいた外房」だけである。

「森がいなかった外房」を同じ36年間並行して観察することはできない。

したがって、現在の人口減少を森個人の失敗に帰属させることもできなければ、道路整備などによって人口減少がもっと大きくなることを防いだ可能性を排除することもできない。

それでも、一つだけ確実に言えることがある。

長期在職の有力国会議員が存在するだけでは、人口減少という地方の構造問題を止めることはできなかった。

これは森英介個人への批判ではない。

むしろ、一人の有力政治家が国から予算や事業を引き出せば地方は発展する、という20世紀型の地方政治モデルの限界を示している。

森英介は外房に「必要」だったのか

では、最初の問いへ戻ろう。

森英介は外房に必要な政治家だったのか。

この問いに、72点や85点といった数字を与えることはしない。

国政での影響力、地域要望への関与、道路整備への寄与、人口減少への影響などは測定単位が異なり、それぞれを恣意的な重みで足し合わせても、科学的な総合点にはならないからである。数理的に考えるとは、何でも数字にすることではない。測定できないものを測定できるように装わないことも、数理的な態度の一部である。

そこで、評価を一つの数字へ畳み込まず、それぞれの事実を分けて考える方がよい。

国政における影響力については、評価は高くならざるを得ない。13回当選し、法務大臣、厚生労働副大臣、憲法審査会長を経て衆議院議長まで到達した人物を、国会内で影響力の乏しい政治家だったと評価するのは無理がある。

地域と中央を結ぶ機能についても、勝浦、いすみ、御宿、茂原など複数の自治体資料から、森が要望活動の経路として使われてきたことが確認できる。この点でも「地元との関係を持たない中央政治家だった」という評価は成り立たない。

一方で、地域の道路や河川、鉄道などについて、どこまでを森個人の功績と呼べるのかは判定できない。公共事業は多数の主体の共同成果だからである。

さらに、人口減少、高齢化、公共交通、医療、人手不足といった外房の根本問題を森が解決したとは言えない。しかし、それを一国会議員だけの責任とすることも合理的ではない。

ここまで整理すると、結論はかなり限定されたものになる。

森英介は、外房・房総東部にとって価値の高い政治家だった可能性は高い。しかし、「森英介でなければならなかった」「森英介がいなければ地域が維持できなかった」とまで証明できる材料はない。

「役に立った」と「不可欠だった」は違うのである。

36年という長さが生んだもの、失わせたかもしれないもの

長期在職には、明らかな利点がある。

数年で交代する新人議員と、13期を重ねて大臣や委員長を経験した議員とでは、省庁、政党、国会内に蓄積された人脈や制度知識が同じであるはずがない。

小さな町の首長が霞が関へ要望に行くとき、中央政府との接点を持つ有力議員がいることには実務的な価値がある。

しかし、同じことを反対側から見ると、長期在職には別の問題もある。

地域の政治が一人の有力者を中心に組み立てられる期間が長くなるほど、「まず森英介へ相談する」という回路は太くなる。その回路が太くなれば便利だが、その人物がいなくなったときの代替回路が十分に育っているとは限らない。

森自身が父の政治基盤を引き継いだ世襲政治家であることを考えれば、この問題はさらに興味深い。

一人の政治家の能力を問う問題というより、地方が政治的なアクセスをどのように世代交代させるのかという問題になるからである。

政治家を一種の社会資本だと考えるなら、一人の非常に強い政治家へ依存する仕組みは短期的には効率がよい。

だが、システムとして見れば冗長性が低い。

一本の太い回線が切れたとき、別の回線へ切り替えられるのか。

森が強い政治家だったことと、外房の政治システムそのものが強かったことは同じではない。

「何を造る政治」から「何を残せるかを選ぶ政治」へ

森が初当選した1990年、日本はまだバブル経済の終盤にいた。

地方政治の大きなテーマは、高速道路を延ばし、道路を改良し、施設を造り、東京との時間的距離を縮めることだった。人口も税収も将来には増えるという発想が、少なくとも現在より強く残っていた。

36年後、外房が直面している問題はかなり違う。

これから問われるのは、新しい道路を造れるかだけではない。

すでに存在する道路や橋を誰が修繕するのか。水道管を誰が交換するのか。利用者の減った鉄道をどこまで維持するのか。病院まで行けなくなった高齢者を誰が運ぶのか。介護職員、電気工事士、水道工事業者、消防団員が減った地域で、生活そのものをどこまで維持できるのか。

政治の目的が「増やすこと」から「減少する社会の中で何を守るか」へ変わりつつあるのである。

森英介という政治家は、公共事業によって地方を成長させようとした時代から、人口減少を前提に地方を再設計しなければならない時代までを、一つの選挙区で見続けてきた。

その意味で、森の36年間は一人の政治家の履歴であると同時に、日本の地方政治そのものが変わってきた36年間でもある。

森英介の36年が外房に残す最後の問い

森英介を礼賛する必要もなければ、長く議席を守ったことだけを理由に否定する必要もない。

公的資料から確認できる範囲では、森は国政で相当な地位を築き、外房・房総東部の自治体が中央政府へ要望するときの政治的な窓口として長期間機能してきた。

それは地域にとって無価値ではなかった。

むしろ、小規模自治体が多いこの地域では相応の価値を持っていた可能性が高い。

しかし、その36年間にも人口は減り、高齢化は進み、鉄道、医療、交通、インフラ維持という問題は残った。

そこから導かれるのは、「森英介が失敗した」という単純な結論ではない。

一人の有力政治家が地方の未来を背負うという政治モデルそのものに限界がある、ということである。

政治家の本当の価値は、その人がいる間に何件の事業を実現したかだけでは測れない。

その人がいなくなった後にも、自治体が国と交渉できること。次の政治家が育つこと。地域の側が自ら数字を読み、優先順位を決められること。人口が減っても生活を維持できる制度をつくること。

そうした仕組みまで残せるかどうかが、人口減少時代の地方政治では重要になる。

森英介は外房に必要な政治家だったのか。

確認できる事実から判断するなら、外房にとって必要性の高い政治家だった、と評価するのが妥当だろう。

しかし、不可欠だったとは言えない。

そして、一人の政治家を不可欠な存在にしてしまう地域政治が、本当に健全なのかという別の問いも残る。

1990年に初当選した技術者出身の世襲政治家は、36年後、衆議院議長まで上り詰めた。2026年2月18日の議長選挙では464票中463票を得て選出され、国政における政治人生は一つの到達点を迎えた。

だが、地域にとって重要なのは、その到達点そのものではない。

森英介ほど長く、森英介ほど中央に太い回線を持つ政治家がいつかいなくなったときにも、外房は自分たちの生活を守れるのか。

森英介の36年を評価するという作業の最後に残るのは、過去の政治家への採点ではない。

「強い政治家がいなくても持続できる外房を、これからつくれるのか」という、地域自身への問いなのである。

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六十歳で住まいを決め、その家で九十歳まで暮らすと考えてみる。

三十年という時間は長い。住宅ローンを払い終えるには十分な長さである一方、屋根や外壁を傷ませ、給湯器を何度か交換し、自動車を何台か乗り継ぎ、人間自身の足腰まで変えてしまう長さでもある。

都市の駅に近いマンションなら、玄関の鍵を閉めれば、共用廊下の照明もエレベーターも、ごみ置き場も植栽も、基本的には管理の仕組みの中に置かれている。その代わり、毎月決まった管理費と修繕積立金を払い続けなければならない。

地方の戸建てでは、その引き落としがない。今月何も壊れなければ、住宅維持にほとんどお金を使わないことさえある。駐車場も自宅の敷地にあれば、月極駐車場代は必要ない。

こうして月々の請求額だけを見ると、地方戸建ての方が圧倒的に安いように思える。

しかし、老後三十年間という長さで考えると、話は少し違ってくる。マンションでは将来の修繕費の一部が毎月小分けにされて請求されるのに対し、戸建てでは屋根、外壁、給湯器、水回りなどの形になって、ときどきまとまって現れる。そして地方生活には、住宅の帳簿には記載されないにもかかわらず、生活を成立させるために必要な大きな設備がある。

自動車である。

「安い家」と「安く暮らせる家」は、必ずしも同じではない。

比べるべきなのは建物ではなく、そこで暮らす仕組みである

都市マンションと地方戸建ての比較を難しくしているのは、マンションと戸建てという建物形式だけが違うのではないことである。

駅に近い都市マンションを選べば、多くの場合、その価格の中には都市の密度も含まれている。徒歩圏や公共交通圏にスーパー、病院、薬局、金融機関などが集まっていれば、自分で長い距離を移動する必要が小さい。

地方戸建てでは、同じ購入予算でも広い住宅や土地を得やすい。その代わり、病院まで十キロ、スーパーまで五キロという距離が生活の中に入り込むことがある。

六十歳のとき、その十キロは大きな問題ではないかもしれない。自動車に乗れば十数分だからである。

ところが七十歳、八十歳、九十歳へと年齢が進むにつれて、同じ十キロの意味が変わっていく。

国土交通省の全国都市交通特性調査は、三大都市圏と地方都市圏では交通行動が異なり、地方都市圏ほど自動車の役割が大きいことを示してきた。最新の全国都市交通特性調査も、地域別、年齢別、交通手段別の移動実態を把握することを目的としている。地方生活を考えるとき、自動車は単なる趣味やぜいたく品ではなく、場合によっては住宅と生活サービスを結びつける装置になる。

だから老後の住居費を比べるなら、建物に直接支払うお金だけでなく、「その家に住み続けるために必要になるお金」まで含めなければならない。

マンションでは、住宅ローンが終わっても時計は止まらない

国土交通省が五年に一度実施している「令和5年度マンション総合調査」では、駐車場使用料などからの充当額を除いた一戸当たりの管理費は月平均11,503円、修繕積立金は月平均13,054円とされている。国土交通省はこの調査をマンション管理の実態を把握する基礎調査として公表している。

二つを合わせると月24,557円になる。

この金額が三十年間まったく変わらないという単純な条件なら、

24,557円 × 12か月 × 30年 = 8,840,520円

となり、約884万円である。

ここで注意したいのは、これは「三十年後まで約884万円しかかからない」という予測ではないことである。あくまで現在の平均額を三十年間そのまま置いた基準値にすぎない。

国土交通省の長期修繕計画に関する基準では、計画期間を三十年以上とし、その期間に大規模修繕工事が二回以上含まれることなどが求められている。工事費や建物の状態は将来変わるため、現在の修繕積立金が三十年間固定されるとは限らない。

さらに修繕積立金で直すのは主として共用部分である。自分の住戸内の給湯器、キッチン、浴室、エアコン、床、壁紙などについては、原則として別の費用を考えなければならない。

マンションには修繕費がかからないのではない。

大きな建物を共同で維持する費用を毎月払いながら、自分の住戸内部については自分でも維持する構造なのである。

戸建ての「管理費ゼロ」は、修繕費ゼロを意味しない

地方戸建てには通常、マンションのような管理費や修繕積立金はない。

その自由は大きい。

外壁を今年塗るか、もう数年使うか。古いキッチンを交換するか、そのまま使うか。庭木を業者に頼むか、自分で切るか。安全性に問題がない範囲なら、支出の時期を所有者自身が決められる。

しかし自由であることと、費用が存在しないことは別である。

三十年間には、給湯設備、水回り、エアコン、外壁、屋根、雨どい、建具などの何らかの補修や交換が発生する可能性が高い。ただし、その総額には巨大なばらつきがある。

築年数が違えば違う。木造か鉄骨造かでも違う。屋根材や外壁材によっても違い、延床面積、施工状態、海からの距離、台風や塩害などの環境条件にも左右される。

したがって「戸建ては三十年間で700万円かかる」と全国平均のように断定することはできない。

この記事でこれから使う700万円という数字は、統計的な全国平均ではなく、比較の仕組みを見るためのシミュレーション上の仮定である。

ここを区別しなければ、数理的な比較は数字が細かいだけの印象論になってしまう。

30年間を一度、同じ物差しに載せてみる

そこで、住宅ローンをすでに完済している六十歳の人が、その家に九十歳まで住むというモデルを考えてみる。

ここでは将来の物価上昇率を予測しない。すべてを現在の価格水準で考えた「実質額の単純累計」とする。

これは金融理論上の「現在価値」ではない。

厳密な現在価値を求めるなら、二十年後や三十年後に発生する費用を一定の割引率で現在の価値へ割り戻す必要がある。しかし、そこまで行うと住宅比較そのものより割引率の仮定によって結果が大きく変わるため、ここではまず構造を見ることを優先する。

都市マンションについて、先ほどの管理費・修繕積立金を三十年間で約884万円とする。さらに試算上、固定資産税などを年間12万円、住戸内部の設備更新を三十年間で300万円、火災保険などを年間2万円、鉄道やバスなどの日常交通費を年間12万円と仮定する。

すると三十年間の累計は、

管理費・修繕積立金 約884万円 固定資産税など 360万円 住戸内部の修繕・設備更新 300万円 保険など 60万円 公共交通 360万円

となり、合計は約1,964万円となる。

ただし、ここで置いた固定資産税、保険、内部修繕費、公共交通費は全国平均を示したものではない。比較のためのモデル条件である。

同じように地方戸建てについて、固定資産税などを年間6万円、建物と設備の修繕を三十年間で700万円、火災保険などを年間3万円と仮定する。

すると、自動車を除いた三十年間の住宅関連支出は、

180万円 + 700万円 + 90万円 = 970万円

となる。

この段階では地方戸建ての方が約994万円安い。

ここだけを見れば、地方戸建ての経済性は非常に高い。

しかし、その家で暮らすために自動車一台が不可欠だと仮定した瞬間、計算は違った姿を見せる。

自動車はいくらかかるとマンション側が逆転するのか

例えば200万円程度の自動車を十年ごとに買い替え、三十年間で三台所有するとする。

車両購入費だけで600万円である。

さらに燃料、税金、任意保険、車検、点検、タイヤ、バッテリーなどの費用を平均して年間30万円と仮定すれば、

30万円 × 30年 = 900万円

となる。

車両代600万円と合わせて、自動車関連支出は1,500万円になる。

地方戸建ての住宅関連費970万円にこれを加えると、

970万円 + 1,500万円 = 2,470万円

となる。

先ほどの都市マンションは約1,964万円なので、このモデルでは地方戸建ての方が約506万円高くなる。

しかし重要なのは、この「506万円」という結果そのものではない。

これは全国の都市マンションと地方戸建てを調査して平均値を求めた結果ではなく、一組の条件を置いたシミュレーションだからである。

本当に見るべき数字は、どこで結果が逆転するかという境界である。

都市マンション約1,964万円に対し、自動車を除いた地方戸建ては約970万円なので、差は約994万円ある。

したがって、このモデルでは地方生活に必要な自動車の三十年間総費用が約994万円を超えると、都市マンション側の総支出が少なくなる。

仮に三十年間の車両購入費を600万円とすれば、残りは394万円である。

394万円を三十年で割ると、年間約13万1,000円になる。

つまりこの条件では、車両購入費600万円に加え、燃料、税金、保険、車検、整備などの合計が平均年間約13万円を超えたところで、都市マンションと地方戸建ての優劣が逆転する計算になる。

自動車を所有する人なら、この年間13万円という水準が決して大きな数字ではないことは分かるだろう。

だからこそ、「地方戸建ては住宅費が安い」という事実と、「地方戸建て生活の総費用が安い」という結論は分けて考えなければならない。

数字を一つ変えるだけで、結論はどこまで動くのか

もっとも、戸建て修繕費を700万円と置いた時点で結論が決まっているのではないか、という疑問は当然生じる。

そこで数字を動かしてみる。

戸建ての三十年間の修繕・設備更新費を700万円ではなく400万円と仮定すると、自動車を除く地方戸建ての費用は670万円になる。都市マンションとの差は約1,294万円に広がる。

この場合、車両購入費600万円を差し引いても694万円の余裕があるため、自動車の維持費が年間約23万円になるまでは地方戸建て側が安い。

反対に、戸建て修繕費が三十年間で1,000万円になれば、自動車を除いた費用は1,270万円となる。都市マンションとの差は約694万円まで縮まり、車両購入費600万円を引けば残るのは94万円でしかない。

三十年間で94万円だから、年間にすると約3万円である。

つまりこのケースでは、自動車を所有する時点で都市マンション側が容易に逆転する。

この三つの数字は戸建て修繕費の実測平均を示すものではない。

400万円、700万円、1,000万円と意図的に条件を動かし、結論がどれだけ変化するかを見る感度分析である。

そして、この分析から分かるのは「絶対にマンションが得だ」といった単純な結論ではない。

建物の修繕状態と、自動車にいくらかかるかという二つの変数が、三十年間の結果を大きく左右するということである。

都市でも車を持つなら、マンションの優位性は消えていく

ここまでのモデルには、もう一つ重要な条件がある。

都市マンション側では自動車を所有していない。

したがって、この計算から「マンションは戸建てより安い」と結論することはできない。

比較しているのは正確には、

「自動車なしで生活できる都市マンション」

と、

「自動車一台を必要とする地方戸建て」

である。

都市マンションに住みながら自動車も所有すれば、車両費、保険、税金、車検、燃料費に加えて、地域によっては高額な駐車場代まで必要になる。

例えば月2万円の駐車場なら、

2万円 × 12か月 × 30年 = 720万円

である。

駐車場だけで720万円になる。

こうなれば都市マンションの経済的優位性は大幅に縮小し、条件によっては地方戸建ての方が明確に安くなる。

したがって本当の分岐点は、「マンションか戸建てか」だけにはない。

自動車を持たずに生活できる立地かどうかが、老後三十年間では非常に大きな変数になるのである。

戸建てには「払わない自由」がある

それでも戸建てには、マンションにはない強さがある。

支出の時期を自分で調整しやすいことである。

安全や建物の保存上必要な工事を無期限に放置するわけにはいかないが、外壁を今年塗るか二年後にするか、古いキッチンを交換するか使い続けるかといった判断には所有者の裁量がある。

マンションの管理費はそうはいかない。

今月は収入が少ないから管理費を半分にする、エレベーターを使わないからその分を払わない、といった選択は原則としてできない。

この違いは、年金生活では小さくない。

マンションでは大きな建物の維持リスクを住民全体で分散する代わりに、毎月の固定負担を引き受ける。

戸建てでは毎月の固定負担が小さい代わりに、大きな修繕が発生したときのリスクを一世帯で引き受ける。

これは単純な「どちらが高いか」の問題ではなく、将来の不確実な支出をどのように負担するかというリスク配分の違いなのである。

八十歳を過ぎると、「自分でやる」が無料ではなくなる

さらに老後三十年間を考えるとき、住宅より先に変化するものがある。

住んでいる人間である。

六十歳なら、庭木を切り、草を刈り、電球を交換し、自動車でスーパーへ行くことを負担だと感じないかもしれない。

しかし八十歳でも同じことができるとは限らない。

七十五歳で脚立に乗ることをやめるかもしれない。八十歳で草刈りを業者に頼むようになるかもしれない。八十五歳で自動車の運転をやめれば、買い物、通院、役所、銀行への移動を別の手段に置き換えなければならない。

若いころには自分の労働によってゼロ円に見えていたものが、高齢になるにつれて外注費へ変わっていく。

地方戸建ての経済性を考えるとき、この変化は意外に重要である。

都市マンションでも加齢による負担は当然生じるが、エレベーターがあり、徒歩圏に店舗や医療機関があり、公共交通を使える地域であれば、身体能力の低下によって生活システム全体を作り直す必要は比較的小さい。

老後の住居を六十歳で選ぶなら、六十歳の身体で便利かどうかを見るだけでは足りない。

八十五歳の自分でも暮らせるかという視点が必要になる。

ただしマンションにも「二つの老い」がある

ここまで読むと、老後には都市マンションが常に安全で便利であるように見えるかもしれない。

しかしマンションも老いる。

コンクリートの建物であっても、外壁、防水、給排水設備、エレベーターなどには維持更新が必要である。そして時間が経てば、建物だけでなく住民も高齢化する。

国土交通省のマンション政策でも、建物の老朽化と区分所有者の高齢化が重なる問題は重要な課題として扱われている。

修繕積立金が十分でなければ負担増が必要になる可能性があり、大規模修繕の内容や管理の方針について住民間の合意形成が難しくなる場合もある。

戸建てなら、自分の資金と判断によって修繕方針を決めやすい。

マンションでは、自分一人に十分な資金があっても、建物全体を一人の意思だけで動かすことはできない。

「管理を一人で背負わなくてよい」というマンションの長所は、そのまま「管理を一人では決められない」という短所にもなる。

三十年間という時間では、この違いも無視できない。

これから家を買うなら、購入価格を無視してはいけない

ここまでの比較は、すでに住宅を所有し、住宅ローンを完済している人が、今後三十年間どちらの生活を維持しやすいかを見るモデルだった。

ところが、六十歳から新たに住宅を購入するなら、話は大きく変わる。

例えば都市マンションが4,000万円、地方戸建てが2,000万円なら、購入時点で2,000万円の差がある。

その後の管理費や自動車費だけを比べても、その差を三十年間で取り戻せるとは限らない。

この場合、本来比較すべきなのは単純な維持費ではない。

おおまかには、

「購入価格と購入諸費用 + 三十年間の保有費・修繕費・移動費 - 三十年後に残る住宅や土地の価値」

という形で考える必要がある。

さらに借入金を使えば利息も加わり、厳密な経済評価をするなら将来の支出と売却価値を現在価値へ割り引く必要も出てくる。

ここで重要なのは、都市マンションの方が三十年後にも必ず高く売れるとも、地方戸建ては必ず無価値になるとも言えないことである。

駅からの距離、人口動態、建物管理の状態、土地需要、災害リスクなどによって資産価値は大きく変わる。

したがって「これから買う人」と「すでに持っている人」を同じ計算式で論じるべきではない。

老後住宅の比較では、この二つを分けることが必要なのである。

結局、どちらが安いのか

ここまで考えると、単純な答えが消えてしまったように見える。

しかし、むしろ答えは最初より明確になっている。

今回の試算条件では、住宅そのものの維持費だけを見るなら地方戸建ての方が安い。

管理費がなく、土地や建物の評価額が低ければ税負担も抑えやすく、修繕時期にも一定の裁量があるからである。

ただし、「地方戸建てなら必ず住宅費が安い」と一般化することはできない。築年数が古く、大規模な修繕が続く住宅なら結果は変わる。

一方、自動車なしで生活できる都市マンションと、自動車一台が不可欠な地方戸建てを比較すると、今回の条件では都市マンションが約506万円安くなる。

さらに重要なのは、この試算では自動車の三十年間総費用が約994万円を超えたところに逆転点があることである。

つまり老後の住宅を選ぶとき、「マンションの管理費が高い」という数字だけを見るのは不十分なのである。

その管理費を払う代わりに車を持たなくて済むのか。

逆に、地方戸建ての管理費がゼロである代わりに、自動車を何十年間維持しなければならないのか。

この交換関係を見る必要がある。

最後に残るのは、九十歳の自分がその家で暮らせるかという問題である

夕方、都市マンションの窓から駅前の灯りを見る生活と、地方戸建ての縁側から静かな庭を見る生活では、そもそも得ているものが違う。

静けさ、庭、広さ、隣家との距離には価値がある。

一方で、駅まで歩けること、病院やスーパーが近いことにも確かな価値がある。

したがって、老後の住まいを単純に金額だけで決める必要はない。

しかし、経済性を比較するのであれば、「家そのものが安い」という一点から「老後も安く暮らせる」と結論することだけは避けた方がよい。

地方戸建てには管理費がない。

しかし屋根があり、庭があり、家の前から病院までの距離があり、その距離を埋める自動車がある。

都市マンションには自分だけの庭も屋根もない。その代わり、管理費と修繕積立金という固定費を払いながら、都市の密度を利用して暮らすことができる。

どちらが安いかを決める最大の要因は、「マンションか戸建てか」という建物の種類だけではない。

これから買うなら取得価格はいくら違うのか。すでに所有しているなら建物はどの程度傷んでいるのか。自動車を何台持ち、何歳まで運転するのか。八十歳を超えたあと、買い物や通院や家の管理を自分で続けられるのか。そして三十年後、その住宅と土地にどれだけの価値が残るのか。

その条件をすべて置いて初めて、老後住宅の本当の価格が見えてくる。

六十歳で住まいを選ぶとき、つい六十歳の自分を基準にしてしまう。

しかし三十年間住む家なら、本当に問いかけるべき相手は九十歳の自分なのかもしれない。

その人が玄関を開けたあと、買い物へ行けるのか。病院へ行けるのか。壊れた家を直せるのか。そして無理のない支出で、そこに住み続けられるのか。

老後の住まいで「安い」という言葉の意味は、住宅価格だけでは決まらない。

最後まで生活を続けるために必要な費用まで数えて、初めてその家の本当の値段が分かるのである。

参考にした主な公的資料

国土交通省「令和5年度マンション総合調査」、国土交通省「長期修繕計画標準様式・長期修繕計画作成ガイドライン」、国土交通省「マンション管理計画認定制度」、国土交通省「全国都市交通特性調査」を基礎資料として確認した。

なお、本文中の30年間の固定資産税、戸建て修繕費、マンション専有部分修繕費、自動車購入・維持費、公共交通費などは、全国平均を示す統計値ではなく、費用構造と損益分岐点を検討するために設定したシミュレーション条件である。

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