地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 地方の人口減少対策という言葉から、多くの人がまず思い浮かべるのは「人を呼ぶこと」だろう。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、空き家を改修し、子育て世帯を歓迎する。自治体の広報には、都会から移り住んできた家族が笑顔で写り、「この地域を選びました」と語る。そうした姿は確かに明るいニュースであり、新しい住民を迎えること自体に意味がないわけではない。

 しかし、自治体庁舎の正面玄関から新しい住民を迎えているあいだにも、別の出口から、これまでそこで暮らしてきた住民が静かに出て行っているとしたらどうだろう。大学へ進学したいから地域を離れる若者もいれば、もっと大きな仕事に挑戦したいから都会へ出る人もいる。それは人生の選択であって、自治体が止めるべきものではない。

 問題は、それとは別の転出である。本当はここに住んでいたいのに、車を運転できなくなれば買い物が難しくなり、子どもが高校生になると通学が負担になり、診療所では対応できない病気になれば遠くの病院まで通わなければならない。配偶者を亡くして一人になった途端、それまで何とか成り立っていた日常生活が急に難しくなることもある。

 こうした人たちは、必ずしも地域が嫌いになったわけではない。ただ、その地域で暮らし続けるための条件が少しずつ失われたのである。人口減少時代の地域政策を考えるなら、ここにはかなり重要な問いが隠れているのではないだろうか。「どうしたら人に来てもらえるか」を考える前に、「なぜ今ここにいる人が、出て行かなければならないのか」を調べる。人口問題を見る方向を、ほんの少し反対側へ向けてみるのである。

人口は「来た人」だけで決まるわけではない

 人口の変化そのものは、実はそれほど複雑な話ではない。出生した人が加わり、死亡した人が減り、転入した人が加わり、転出した人が減る。その結果として、ある年の人口が決まる。ところが地域政策の世界では、この四つの要素のうち「転入」だけが妙に目立つことがある。

 年間百人が移住した地域は成果を説明しやすい。だが、百人が移住してきても百二十人が転出すれば、社会移動だけを見れば人口は二十人減る。一方で、移住者が三十人しかいなくても、これまで毎年百人出ていた地域から七十人しか出なくなれば、同じ三十人分だけ人口減少は緩和される。算数としてはごく当たり前の話だが、政治や広報の世界になると、この二つは同じようには扱われない。

 その理由の一つは、新しく来た人には「物語」があるからだろう。東京から移住してカフェを始めた夫婦、海の近くで子育てを始めた家族、古民家を改修して事業を始めた若者には、写真があり、言葉があり、「地方創生」という言葉によく似合う印象的な場面がある。

 ところが、七十八歳の住民が今年も転居しなかったことには、ニュースらしい出来事がない。買い物の送迎サービスができたので、免許を返納したあとも同じ家で暮らせた。診療所へ行く方法が確保されたので、自治体外に住む子どもの家へ移らなくて済んだ。統計上、その人にはほとんど何も起きていないように見えるが、人口減少社会では、その「何も起きなかった」という事実こそ、政策の成果なのかもしれない。

「住みたい地域」と「住み続けられる地域」は同じではない

 人口政策を考えるうえで、もう一つ大切な区別がある。「この地域に住みたいか」と「この地域に住み続けられるか」は、同じ問いではない。人はある地域を気に入っていても、交通、仕事、教育、医療などの条件によって、その地域から離れざるを得ないことがある。

 考えてみれば、これは不思議なことではない。海が好きだと感じている人でも、病院へ通えなくなれば海を離れるかもしれない。近所付き合いが心地よくても、子どもが学校へ通えなければ家族は転居を考える。地域への愛着がどれほど強くても、それだけでスーパーまでの距離が縮まるわけではなく、運転できなくなった高齢者の足が自動的に確保されるわけでもない。

 つまり転出には、少なくとも性質の異なる二つの形がある。もっと別の場所で暮らしたいから出て行く移動と、ここで暮らしたいのに生活条件のために出て行く移動である。前者は人生上の選択に近く、後者は生活上の制約に近い。

 自治体が人口政策として減らすべきなのは、人が地域を出る自由ではない。減らすべきなのは、「出たくないのに出なければならない理由」なのではないだろうか。地域の居住意向を扱った調査や研究でも、買い物、医療・福祉、仕事や学校、移動の利便性といった生活そのものに関わる条件が、住み続けたいという意向や転出の判断と結び付くことが指摘されている。

 ここから見えてくるのは、地域の人口流出が、必ずしも地域そのものの魅力不足だけで起きるわけではないということである。観光地として美しく、住民同士の関係も良好で、それでも暮らしのどこかに小さな「行き止まり」ができれば、人はその地域から出て行かざるを得なくなる。

人を呼ぶ政策は長所を探し、人が残れる政策は欠点を探す

 移住政策をつくるとき、自治体は地域の良いところを探す。海があります、山があります、魚がおいしい、土地が安い、都会まで二時間です、子育て環境が充実しています、といった具合に、「この地域を選ぶ理由」を一つずつ見つけていく。

 ところが、住民が出て行かなくてもよい地域をつくろうとすると、行政が見る景色はほとんど反対になる。なぜ七十五歳になると暮らしにくくなるのか。なぜ子どもが高校生になると家族まで地域を離れるのか。なぜ配偶者を亡くした高齢者は自治体外の子どもの近くへ移るのか。なぜ仕事を続けたい世代が残れないのか。こちらは地域の長所を集めるのではなく、地域の弱点を一つずつ見つけていく作業になる。

 この作業は、移住パンフレットほど華やかではない。しかし、人口減少地域に本当に必要なのはこちらかもしれない。一日に数本しかない路線バスを昔と同じ形で維持することが難しいなら、乗り合い交通という別の方法を考える。スーパーそのものを残せないなら、配送や移動販売によって買い物の機能を残す。すべての診療科を自治体内に置けないなら、オンライン診療や広域病院への移動手段を組み合わせる。

 大切なのは、過去に存在したサービスをそっくりそのまま残すことではない。住民の生活が途中で行き止まりにならないように、必要な機能を別の形で残すことである。

人口減少時代には「便利な地域」より「詰まない地域」が重要になる

 大都市と地方を、店の数や鉄道の本数、病院の数で競わせれば、地方が勝つことは難しい。地方都市に百貨店を何軒も置くことはできず、鉄道を十分間隔で走らせることもできない。すべての地域に総合病院を置くことも現実的ではない。

 しかし、便利さが少ないことと、暮らせないことは同じではない。スーパーが一軒しかなくても、その店へ行く方法があれば生活はできる。病院が自治体外にあっても、必要なときに無理なく到達できればよい。高校が自治体内になくても、安定した通学手段が確保されていれば、それだけを理由に家族全員が引っ越す必要はない。

 反対に、車を運転できなくなった瞬間に、買い物、通院、銀行、行政窓口への移動が一斉に難しくなる地域は脆い。一つの条件が崩れただけで、生活全体が成立しなくなるからである。これは地域を一つのシステムとして見ると、より分かりやすい。

 丈夫なシステムには、何かが失われたときの代わりの経路がある。路線バスが維持できなくても乗り合い交通があり、自分で店へ行けなくても配送があり、診療所だけで完結できなければ遠隔診療や広域医療との接続がある。人口減少や高齢化が進む地域では、従来と同じ形の公共サービスを無理に残すより、複数のサービスを柔軟に組み合わせる方が合理的になる場合がある。

 人口減少時代の地域に求められるのは、何もかもそろった豪華な地域ではない。一つを失っても、別の道がまだ残っている地域である。言い換えるなら、「便利な地域」を競う前に、「詰まない地域」をつくる。この発想は、これからの地域政策を考えるうえで、かなり重要になってくるのではないだろうか。

では、一人を呼ぶより一人を残す方が安いのか

 ここまで読むと、「それなら移住者を呼ぶより、転出を防ぐ方が効率的なのだ」と結論づけたくなる。しかし、この点については少し慎重になった方がよい。

 人口の算術だけを見れば、転入を一人増やすことと、転出を一人減らすことは、人口に対して同じ一人分の効果を持つ。しかし、そのために必要な費用まで同じとは限らない。ある地域では、年間数十万円程度の買い物支援や交通支援によって何世帯もの居住継続を支えられるかもしれず、その場合には、全国から移住希望者を探し、住宅補助や広報費を投じるより効率的である可能性がある。

 反対に、山間部のごく少数の住民のために長い道路、水道、公共交通を維持し続ければ、一人当たりの社会的費用が非常に大きくなることもある。そのような地域では、現在地に住み続けてもらうことだけを政策目標にするのが合理的とは限らず、居住地の集約や近隣地域への移動支援を含めて考えた方がよい場合もある。

 したがって、「転出を防ぐ方が必ず安い」という一般法則を置くことはできない。必要なのは、一人の移住者を増やすために自治体がいくら使っているのか、一人の住民が本人の希望に反して転出しなくても済むようにするにはいくら必要なのかを、同じ物差しで比較することである。

 考えてみれば当然の比較なのだが、移住者数だけが成果として注目されると、この視点は意外に抜け落ちやすい。人口減少時代の政策評価では、「何人呼んだか」に加えて、「何人が生活上の理由で出て行かずに済んだのか」という数字も、同じ程度に重視されてよいのではないだろうか。

ただし「住み続けること」そのものを善にしてはいけない

 もう一つ注意しなければならないことがある。住民が地域に残ることを政策目標にすると、いつの間にか「転出しないことが望ましい」という価値観に変わりかねない。

 しかし、住み続けることそのものが幸福とは限らない。高齢者の地域居住をめぐる研究には、「Aging in Place(住み慣れた地域で老いること)」という考え方がある一方で、「Stuck in Place(移動したくても移動できず、その場所にとどまること)」という問題もある。同じ「地域に残った」という結果でも、自分の意思で残ったのか、それとも経済的事情や移動手段の不足によって動けなかったのかでは、意味がまったく違う。

 したがって、この地域が好きだから残った人と、引っ越す資金もなく、他に行く場所もなく残った人を、同じ政策上の成功として数えてはいけない。目標は「住民を引き留めること」ではなく、住みたい人が住み続けられ、出たい人は自由に出られることにある。

 地域に人を縛り付けるのではなく、居住することを一つの現実的な選択肢として残しておく。この違いは言葉の上では小さく見えるが、地域政策の目的を考えるうえでは決定的に重要である。

人口減少そのものを止められなくてもよい

 地方の人口問題を考えると、どうしても「人口を増やすか、少なくとも維持する」という結論へ向かいやすい。しかし、多くの自治体では、今後数十年間に人口そのものが減ることを完全に避けるのは容易ではない。

 理由は転出だけではなく、高齢化した地域では、仮に転入と転出が同数になったとしても、出生数より死亡数が多ければ人口は自然に減っていくからである。そうであるなら、人口が減ったという一点だけをもって地域政策を失敗と評価することが、本当に適切なのかを考え直す必要がある。

 たとえば人口八千人だった自治体が七千人になったとする。それだけを見れば明らかな縮小である。しかし同じ期間に、高齢者が車を運転できなくなっても買い物や通院を続けられるようになり、子育て世帯が高校進学を理由に家族ごと転居する必要がなくなり、一人暮らしになった高齢者も安心して生活できるようになったとしたら、その地域は単純に「悪くなった」と言えるのだろうか。

 人口は減っていても、「ここで暮らし続けることができる人」は増えているかもしれない。ここには、人口という一つの数字だけでは捉えきれない地域の価値がある。

一軒の閉店から始まる連鎖

 人口減少地域で怖いのは、人が毎年少しずつ減ることだけではない。ある瞬間から、暮らしの条件そのものが連鎖的に失われる可能性があることだ。

 たとえば地域から一軒の店がなくなったとする。車を使える人は少し遠くの大型店へ行くようになり、その結果、残った地元商店の客まで減るかもしれない。別の店も経営が難しくなり、そこまで閉店すると、車を持たない高齢者の生活はさらに不便になる。そのため自治体外の子どもの近くへ転居する人が増えれば、人口が減り、地域サービスの利用者も減り、さらに別のサービスの維持が難しくなる可能性がある。

 もちろん、現実の地域では、これほど一直線に物事が進むわけではない。人口減少が店舗閉鎖を引き起こす場合もあれば、雇用の減少が人口流出と店舗閉鎖の双方を生む場合もあり、原因と結果は複雑に絡み合っている。

 それでも重要なのは、地域のサービスが互いに独立して存在しているわけではないという点である。一つの機能が失われることで別の機能の需要が減り、さらに次の撤退につながることがある。人口そのものは毎年ゆっくり減っているのに、暮らしの条件だけはある時点で急に悪化することがあるとすれば、地方の衰退の本当の怖さは、この非連続性にあるのかもしれない。

「何人いる地域か」ではなく「何歳まで暮らせる地域か」

 そこで、人口とは別の数字を考えてみたくなる。その地域では、人は何歳まで普通に暮らせるのか。車を運転できなくなっても生活できるのか、配偶者を失って一人になっても暮らせるのか、慢性疾患を抱えても通院できるのか、子どもが高校生になっても家族で住み続けられるのか。

 もし七十歳になると暮らしが難しくなる地域を、八十歳まで無理なく暮らせる地域にできたなら、それはかなり大きな政策成果である。人口統計にはほとんど表れないかもしれないが、百人の住民がそれぞれ五年間長く自分の望む地域で暮らせるようになったなら、考え方によっては、自治体は住民に合計五百年分の「居住可能な時間」を生み出したとも言える。

 もちろん、「居住可能な時間」は公的に確立された統計指標ではない。しかし人口減少時代には、人口そのものとは別に、「この地域で無理なく普通の生活を続けられる期間」を測る発想があってもよいのではないだろうか。

 地域の成功を、人間の頭数だけで測る必要はない。むしろ人口そのものを簡単には増やせない時代だからこそ、一人ひとりがどれだけ長く、自分の望む暮らしを続けられるかという別の尺度が必要になる。

そして、住民が出て行かなくてもよい地域は、移住者にも選ばれる

 興味深いのは、こうした政策が移住促進と対立しないことである。むしろ住民が長く暮らせる地域をつくることは、結果としてかなり強い移住政策になる可能性がある。

 移住希望者が本当に知りたいのは、美しい海や安い土地だけではない。子どもが大きくなったらどうなるのか、親が高齢になったらどうなるのか、自分自身が七十歳になったときに車なしで暮らせるのかといった、その土地で過ごす将来の生活条件も重要である。

 移住とは、現在の風景だけを選ぶ行為ではない。その土地で過ごす十年後、二十年後の生活まで含めて選ぶことである。自治体の観光パンフレットにどれほど美しい夕日が載っていても、そこに暮らす高齢者が生活上の理由で次々と地域を離れているなら、その事実は移住希望者にとって無視できない情報になる。

 反対に、人口そのものは減っていても、「ここなら歳を取っても暮らせる」と既存住民が感じている地域には、一種の信用が生まれる。そう考えると、住民の転出理由を減らすことは決して内向きの政策ではなく、長い時間軸で見れば、最も説得力のある移住政策の一つにもなり得る。

人を増やすことから、人の選択肢を守ることへ

 地方創生という言葉には、どこか成長の響きがある。人口を増やし、観光客を増やし、企業を増やし、税収を増やすことが成功として語られやすい。

 しかし人口そのものが減っていく時代に、増加だけを成功の基準にしてしまえば、多くの地域はどれほど暮らしやすくなっても、人口統計の上では永遠に「失敗した地域」になってしまう。

 そこで、もう一つの尺度を持ってみる。この地域では、どれだけの人が自分の意思に反して出て行かずに済んだのか。車に乗れなくなっても暮らせるのか、病気になっても暮らせるのか、一人になっても暮らせるのか、子どもが成長しても同じ地域で生活を続けられるのかを見るのである。

 もちろん、別の場所へ行きたい人は行けばよい。大学へ進学したい若者を地域に閉じ込める必要はなく、新しい仕事に挑戦したい人を引き留める理由もない。目指すべきなのは、人を囲い込む地域ではなく、出て行く自由を持ちながら、それでも出て行かなくてよい地域である。

 この視点に立てば、人口減少という現象そのものを消すことができなくても、人口減少によって住民の人生の選択肢まで狭くなることは防げるかもしれない。

 地域の価値とは、何人を新しく集めたかだけで決まるものではない。そこに暮らしたいと思った人が、その願いを交通や買い物、医療や教育といった生活上の事情だけで諦めずに済むことにも、確かな価値がある。

 これからの地方が競うべき数字は、ひょっとすると人口だけではないのだろう。「この地域には何人いるのか」という問いだけではなく、「この地域なら、あと何年、自分らしく暮らせるのか」と尋ねてみる。

 人口が減る時代だからこそ、その問いの方が、そこに暮らしている住民にとっては、ずっと切実なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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数字で比較するサービスを見る

 人口2万人の海辺の市がある。

 冬の平日に歩けば、数字のとおりの市に見えるかもしれない。駅前にはそれなりの人通りがあり、スーパーも病院も学校も動いている。ただ、かつてに比べれば商店街の空き店舗が増え、郊外では空き家が目立ち始め、毎年公表される人口統計には前年より数百人少ない数字が並ぶ。折れ線グラフは緩やかに右下へ伸び、この市も人口減少の例外ではないことを静かに告げている。

 ところが八月の日曜日になると、同じ市の姿が変わる。

 海岸へ向かう幹線道路には車が連なり、スーパーの駐車場は埋まり、飲食店には行列ができる。普段は静かな別荘地にも明かりがつき、コンビニには観光客が増え、海岸周辺ではごみ箱や公衆トイレの利用が一気に増える。宿泊施設には県外ナンバーの車が並び、市内の人口が数万人単位で膨らんだように感じる日さえある。

 しかし、行政上の人口は2万人のままである。

 市役所の統計では2万人なのに、その日の市内には明らかにそれ以上の人がいる。

 では、この市の「本当の人口」は何人なのだろう。

 この問いから、「実効人口」という考え方を試してみたい。

 ただし、最初に重要なことを確認しておく必要がある。ここでいう実効人口は、国勢調査人口や昼間人口のように国が統一的な定義で公表している既成の統計指標ではない。本稿では、観光客や別荘居住者、二地域居住者が多い地域を分析するための仮説的な指標として、この言葉を用いる。

 そして、この指標の価値は、新しい人口の数字を一つ作ることよりも、「人口とは、そもそも何を数えているのか」という問いを私たちに返してくるところにある。

人口統計が市の実態を間違えているわけではない

 人口統計を批判するのは簡単である。

 国勢調査に観光客が含まれていないのだから、市の本当の姿が分からない、と言いたくなる。しかし、それは少し違う。

 国勢調査が基本的に把握しているのは、その地域を生活の本拠として暮らしている人である。住民票だけを機械的に数えているわけではなく、一定期間そこに常住しているかどうかを基準としている。

 行政を考えるうえでは、この数字は欠かせない。

 学校を何校維持するのか、介護や福祉の需要がどれほどあるのか、住宅政策をどう考えるのか。あるいは選挙や行政サービスの基礎をどこに置くのか。そのような問題について、三時間だけ海水浴に来た観光客と、市内に三十年間暮らしている住民を同じ一人として扱うことはできない。

 国勢調査には昼間人口という考え方もある。市外へ通勤・通学する人を差し引き、市外から通勤・通学してくる人を加えることで、昼間に市内で活動している人口を捉えようとする指標である。

 ところが観光地では、ここに大きな空白が残る。

 通勤や通学は捉えられても、観光、買い物、海水浴、レジャー、イベント参加といった不規則な移動は、通常の昼間人口では十分には表れない。

 別荘も同じである。

 別荘という建物が何戸存在するかは統計に現れる。しかし、その住宅に一年のうち十日しか人が来ないのか、毎週末二人が暮らしているのかでは、市への影響はまったく違う。

 つまり、既存統計が現実を誤って描いているわけではない。

 それぞれ別の現実を、別の目的で測っている。

 問題は、それらを重ね合わせたときに現れる「市全体が実際にどの程度使われているのか」を示す物差しが弱いことなのである。

人を数えるのではなく、市内で過ごされた時間を数えてみる

 そこで人口を、人間の頭数だけではなく、市内で過ごされた時間として考えてみる。

 人口2万人の市を想定する。

 単純化して、2万人全員が一年中市内で生活しているとすれば、一年間には730万「人日」の滞在が発生する。一人が一日その市にいれば、一人日である。

 もちろん実際には、住民も毎日24時間市内にいるわけではない。市外へ通勤する人もいれば、買い物に出る人も、旅行する人もいる。したがって、この730万人日という数字は厳密な実測値ではなく、考え方を示すための第一次近似である。

 そこへ別荘居住者が加わる。

 仮に市内に2000戸の別荘や二次的住宅があり、一戸につき平均二人が年間60日利用するとすれば、年間24万人日の滞在が発生する。

 さらに、宿泊観光客が年間100万人泊いると仮定する。

 一人泊は厳密には24時間の滞在を意味しないが、簡便な分析では一人泊を一人日程度の滞在量として近似することができる。

 加えて、年間150万人の日帰り観光客が平均6時間市内に滞在するとする。24時間を一日として換算すれば、約37万5000人日に相当する。

 すると、この市で一年間に発生する滞在量は、

 定住者による約730万人日、別荘居住者による約24万人日、宿泊客による約100万人日、日帰り客による約37万5000人日を合わせ、約891万5000人日になる。

 365日で割れば、およそ2万4400人である。

 行政上の人口は2万人だが、市内で実際に過ごされている時間量を一年平均に直せば、約2万4400人が常時存在しているのに近い人間活動を市が受け止めていることになる。

 ただし、この2万4400人を「本当の人口」と呼ぶべきではない。

 大切なのは数字そのものではなく、人口2万人という一枚の静止画を、年間約892万人日という一本の動画へ置き換えることである。

 すると、市の見え方が変わってくる。

別荘居住者は観光客なのか、それとも半分住民なのか

 実効人口を考え始めると、最も興味深い存在は観光客よりむしろ別荘居住者や二地域居住者である。

 年に一度だけ、市内のホテルに二泊する旅行者がいる。

 一方で、毎週金曜日の夜に別荘へ来て、日曜日の夕方まで生活する人もいる。夏には一か月近く滞在し、年間では100日以上を市内で過ごす人もいるだろう。

 住民票が別の自治体にあれば、どちらもその市の定住人口には入らない。

 しかし地域との関係はまるで違う。

 後者はスーパーで日用品を買い、水道を使い、ごみを出し、道路を走る。飲食店を利用し、病院を使うこともあるかもしれない。近隣住民と顔見知りになり、市内の催しに参加することさえある。

 市のインフラから見れば、その人がどこに住民票を置いているかより、年間何日市内に滞在し、どれだけサービスを利用しているかの方が重要な場面がある。

 ここで「関係人口」との違いもはっきりしてくる。

 関係人口は、定住者でも一回限りの観光客でもない、地域と継続的に関わる人々を捉えようとする概念である。二地域居住者もその典型である。

 しかし、関係人口と実効人口が測ろうとしているものは同じではない。

 関係人口が問うのは、その人と地域との関係の継続性や深さである。

 実効人口が問うのは、その人が地域の空間やサービスをどれだけ実際に使用しているかである。

 市外に住みながら、毎月その地域の商品を購入し、オンラインで地域活動を手伝っている人は、重要な関係人口になり得る。しかし、その人は市内の水道を使わず、ごみを出さず、道路渋滞にも加わらない。

 反対に、市との長期的な関係を持たない観光客でも、三万人が同じ日に訪れれば、道路、駐車場、公衆トイレ、ごみ処理には大きな負荷を与える。

 地域との「関係の深さ」と、地域内に「存在した量」は別の問題なのである。

平均2万4400人でも、夏には5万人いるかもしれない

 実効人口を考えるとき、もう一つ注意しなければならないことがある。

 先ほどの仮定では、年間平均の実効人口を約2万4400人とした。

 では、市役所は2万4400人を基準に道路や駐車場、水道、ごみ処理施設を整備すればよいのだろうか。

 おそらく、それでも足りない。

 冬の平日の昼間には、市内に1万7000人しかいないかもしれない。

 反対に、夏休みの日曜日には4万人、海水浴大会や花火大会の日には5万人、6万人が市内に滞在することもあり得る。

 年間平均が2万4400人でも、その市が実際に対応しなければならない最大人口は、その倍以上になる可能性がある。

 観光都市では、平均値より振幅の方が重要な場合がある。

 市には人口の呼吸がある。

 平日の午前には縮み、週末の午後には膨らむ。冬には小さくなり、夏には大きくなる。大きなイベントがある夜には一時的に中規模都市ほどの人を抱え、翌朝には再び人口2万人の市へ戻る。

 もし行政が年間平均だけを見れば、繁忙期には道路も駐車場もごみ処理能力も不足する。

 かといって、最大時の5万人を基準にすべての施設を造れば、一年の大半は過剰設備になる。

 したがって実効人口を政策に使うなら、年間平均だけでは足りない。

 通常期、繁忙期、最大時、そして季節変動まで見る必要がある。

 人口は一本の数字ではなく、時間とともに膨らんだり縮んだりする波なのである。

一つの市に、いくつもの人口が存在している

 さらに厳密に考えると、滞在時間だけでも十分ではない。

 同じ六時間市内にいた人でも、市への影響は違う。

 自動車で来た日帰り観光客は、道路と駐車場への負荷が大きい。ホテルに泊まる観光客は、宿泊業や飲食業に多くの需要を生む。別荘居住者は水道を使い、家庭ごみを出し、スーパーで食料品や日用品を買う。高齢の定住者は、医療や介護の利用頻度が高い可能性がある。

 したがって、単純な滞在時間だけで全員を同じように扱うと、政策判断には粗すぎる。

 そこで実効人口は、用途ごとに分けて考えた方がよい。

 道路について考えるなら交通実効人口。

 水道なら水道実効人口。

 ごみ処理なら廃棄物実効人口。

 商業市場なら消費実効人口。

 同じ人口2万人の市であっても、それぞれ違う数字になってよいのである。

 定住者、別荘居住者、宿泊客、日帰り客の人数に、それぞれの滞在時間と用途ごとの負荷の違いを重ねる。

 そこまでして初めて、実効人口は単に観光客を人口へ足して市を大きく見せるための数字ではなく、地域運営のための分析指標へ近づいていく。

人口2万人なのに、なぜ大きなスーパーが成立するのか

 この考え方は、地域経済を見るときにも役立つ。

 地方都市を歩いていると、人口規模から考えると不思議に見える市がある。

 人口2万人程度なのに大型スーパーが複数あり、飲食店が多く、ホームセンターやドラッグストアまで成り立っている。

 逆に、人口が同程度でも商業施設がほとんど残っていない市もある。

 もちろん原因は一つではない。

 周辺自治体からの流入、所得水準、道路網、競合店、年齢構成などが影響する。しかし観光地や別荘地では、定住人口だけから市場規模を推測すると、大きく外れることがある。

 人口2万人でも、週末には数千人の別荘居住者が加わり、年間250万人規模の宿泊客・日帰り客が訪れるなら、市内の商業は「2万人だけを相手にした市場」ではない。

 ただし、ここで一つ注意しなければならない。

 人が二倍滞在したからといって、地域経済への効果が二倍になるわけではない。

 観光客が地域外資本のホテルを利用し、全国チェーン店で買い物をすれば、支出の一部は市外へ流出する。別荘居住者が食料を自宅近くで購入して持ち込めば、長期間市内にいても地域消費は小さいかもしれない。

 つまり、

 人がいることと、お金が地域に残ることは同じではない。

 地域経済を正確に見るなら、まず滞在量を測り、次に消費額を見て、そのうちどれだけが市内企業や市民の所得として残ったのかを調べる必要がある。

 実効人口は地域経済そのものを示す数字ではない。

 しかし、市場を生み出す人間活動の大きさを測る入口にはなる。

「住民を100人増やす」以外の地域政策が見えてくる

 こう考えると、地方創生の見方も変わってくる。

 地方自治体では長い間、「移住者を何人増やしたか」が成果として重視されてきた。

 人口2万人の市で人口が毎年300人減るなら、行政として人口減少に危機感を持つのは当然である。

 しかし、300人の移住者を新たに獲得することは簡単ではない。

 移住は仕事、住宅、家族関係、学校、人間関係まで変える大きな決断だからである。

 そこで別の問いを置いてみる。

 すでに年間250万人の観光客や来訪者がいるなら、その人たちに平均してもう一時間長く市内にいてもらう方が現実的ではないか。

 1000人が一日長く滞在すれば、1000人日の人間活動が増える。

 別荘を年間30日しか利用していなかった世帯が60日利用するようになれば、新しい住宅を建てなくても、市内で生活が営まれる時間は増える。

 日帰り客の一部が一泊するようになれば、昼食だけで帰っていた人が夕食を食べ、宿泊し、翌朝も地域で消費する。

 人口一人を自治体同士で奪い合う地方創生から、人が地域で過ごす時間を増やす地方創生へ。

 これは移住政策を否定する話ではない。

 定住という一つの関係だけで地域の力を測らず、人と地域との間に存在する多様な関わりを政策資源として見るということである。

それでも観光客を人口として数えてはいけない

 一方で、実効人口には危険な使い方もある。

 人口2万人まで減った市が、

 「観光客を含めれば実効人口は2万5000人だから人口減少は大した問題ではない」

 と言い始めたら、それは統計による現実逃避である。

 定住者と観光客は同じ存在ではない。

 住民はその市で年を取り、子どもを育て、税を負担し、災害が起きても生活を続ける。

 観光客は地域経済を支える重要な存在だが、旅行先を変えれば翌年から来なくなる。

 別荘居住者も同じである。

 年間100日市内にいる人を、滞在時間の分析では100日分として数えることができる。しかし、その人を住民の約0.27人と考えることには意味がない。

 地域との関係は、時間だけでは表せないからである。

 したがって実効人口は、定住人口を置き換える数字ではない。

 二つを並べて見るべきである。

 「この市には何人が生活の本拠を置いているのか」。

 そして、

 「この市では年間どれだけの人間活動が行われているのか」。

 この二つを分けて見ることで、観光都市や別荘都市の姿が初めて立体的になる。

スマートフォンの時代だから測れる人口がある

 かつて、このような分析を行うのは簡単ではなかった。

 宿泊者数、道路交通量、鉄道利用者数、別荘戸数といった統計はあっても、人が何時に市へ入り、どこで過ごし、何時間後に出ていったのかを把握することは難しかった。

 しかし現在は状況が変わった。

 携帯電話の基地局情報やスマートフォンの位置情報などを匿名化し、統計処理することで、時間帯ごとの滞在人口や人の移動を推定できるようになっている。

 午前十時の市内には何人いるのか。

 午後三時にはどこへ人が集中するのか。

 海岸から駅へ人が移動する時間帯はいつなのか。

 平日と休日では滞在人口が何倍違うのか。

 冬と夏では、市の人口の波がどれほど変化するのか。

 以前なら感覚でしか語れなかったことを、数字として捉えられるようになりつつある。

 実効人口という発想が単なる空想で終わらない理由はここにある。

 国勢調査をやめる必要もなければ、住民票制度を変える必要もない。

 従来の人口統計の上に、人流というもう一つの層を重ねればよいのである。

人口2万人の市は、本当に2万人だけで動いているのか

 人口減少を語るとき、私たちは長い間、市から消えていく人を数えてきた。

 2万1000人が2万人になる。

 2万人が1万9000人になる。

 グラフの線が右下へ伸びるにつれて、市そのものが少しずつ小さくなっていくように見える。

 しかし現実の市を歩けば、そのグラフには描かれていない人たちがいる。

 金曜日の夕方に別荘へ向かう車がある。

 毎年同じ宿に泊まる家族がいる。

 夏休みの一か月を海辺で過ごす人がいる。

 都市部とこの市を往復しながら仕事をする人もいる。

 朝に来て、夕方には帰る観光客もいる。

 彼らは市民ではない。

 だからといって、市に存在していないわけではない。

 水道は彼らに水を供給し、道路は彼らの車を受け止める。店は商品を売り、ごみ処理施設は彼らが残したものを処理する。

 市というものを行政区域ではなく一つの生活システムとして見るなら、重要なのは「誰が住民票を持っているか」だけではない。

 「誰が、いつ、どれくらい、この市を使っているのか」。

 その問いが必要になる。

 もちろん、実効人口を計算しても人口減少は止まらない。

 出生数が増えるわけではなく、高齢化が解消するわけでもない。

 観光客の数字を加えて、定住人口の減少を見えなくしてはいけない。

 それでも、人口2万人という数字だけでは説明できない地域の現実がある。

 人口2万人の市を、本当に2万人だけが使っているのか。

 その問いを置くだけで、道路の価値も、水道の規模も、ごみ処理施設の能力も、小売市場の大きさも、観光政策の評価も違って見えてくる。

 人口減少時代の地域政策に必要なのは、人を数えることをやめることではない。

 定住人口、昼間人口、関係人口、交流人口、そして滞在時間から見た実効人口。

 それぞれを別の指標として並べ、同じ市を違う角度から見ることである。

 人口2万人という数字は正しい。

 しかし、その数字だけが市のすべてではない。

 夏の日曜日、道路を埋める車も、別荘にともる灯りも、ホテルの窓の明かりも、人口統計の外側にある現実である。

 実効人口という考え方が役立つとすれば、観光客を住民として数えるためではない。

 人口2万人という一つの数字の向こう側に、実際にはどれほど多くの「人間の時間」が流れているのかを見えるようにするためなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

 地方創生について語るとき、人口ほど分かりやすい数字はない。転入者が何人増えたのか、社会増減がプラスになったのか、若い世帯が何世帯移住してきたのか。自治体の成果を説明するときにも、町の将来を予測するときにも、人口はほとんど共通通貨のように使われている。

 それは当然でもある。人がいなければ町は成り立たないし、人口が減れば税収、消費、労働力、学校の児童数、公共交通の利用者まで、多くのものが縮小していく。だから人口を重視すること自体は間違っていない。

 しかし、人口3000人の町が3100人になったとき、その町は本当に100人分だけ強くなったと言えるのだろうか。反対に人口が3000人のままだとしても、買い物を支える店が一軒増え、住宅修繕を頼める事業者が残り、訪問介護を担う人が現れ、地域外から仕事を受注する小さな会社が数社生まれたなら、その町は以前より暮らしやすく、経済的にも持続しやすい場所になっている可能性がある。

 ここから、人口減少時代の地方について少し違った問いが生まれる。移住者を100人増やすことと、地域を支える事業者を10人増やすことでは、どちらが町にとって大きな効果を持つのだろうか。

 もちろん、「100人」と「10人」をそのまま比較して答えを出すことはできない。これは実証研究によって確定している比率ではなく、地域経済の構造を考えるための思考実験である。重要なのは人数そのものではなく、その人たちが地域の中でどのような所得、雇用、消費、生活サービスを生み出すのかという点にある。

人口が増えても、そのお金が町に残るとは限らない

 移住者100人には、当然ながら経済効果がある。住宅を借りたり購入したりし、食料を買い、車を利用し、医療を受け、電気や水道を使い、税金を払う。子育て世帯なら学校や保育サービスを利用し、働く世代なら地域企業の人手不足を補うこともある。

 かつて政府が日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community・継続的ケア付き高齢者居住共同体)構想を検討した際には、単身高齢者100人が一人当たり月約15万円を消費すると仮定した場合、年間約1億8000万円の消費需要が生じるという試算も示された。

 ただし、これは高齢者移住を想定した当時の政策上のモデルであり、現在の一般的な移住者100人にそのまま当てはめられる数字ではない。それでも、100人という人口増加が一定規模の需要を生み出すこと自体は理解できる。

 問題は、その1億8000万円がそのまま地域所得になるわけではないことである。町内のスーパーで食品を購入しても、商品が町外の卸売会社から仕入れられていれば、売上の多くは町外へ流れる。住宅ローンの利息は都市部の金融機関へ支払われ、電気通信料金は全国企業へ送られ、日用品をインターネット通販で購入すれば、その支出も町の外へ出ていく。休日には隣の市の大型商業施設へ出掛けるかもしれない。

 そうすると、その人は人口統計上では確かに町民であっても、消費のかなりの部分は町の経済を通過して外へ流れていく。ここで人口とは別の数字が重要になる。それは、「地域に入った所得のうち、どれだけが地域の中に残るのか」という数字である。

地域経済は「人口の数」だけではなく「お金の流れ」でできている

 環境省が行っている地域経済循環分析では、地域経済を生産、分配、支出という流れで捉える。地域の企業がどれだけ付加価値を生み、その所得が住民や企業へどのように分配され、それがどこで使われるのかを見ることで、地域から所得が流出しているのか、それとも地域内で循環しているのかを分析する。

 この視点に立つと、地方創生の見え方は大きく変わる。人口100人を増やすことは、町という器に新しい水を注ぐことに似ている。しかし器の底に大きな穴が開いていれば、水を注ぎ続けても十分にはたまらない。地域内に商店がなく、住宅修繕を担う企業もなく、仕事もなく、日常生活の多くを町外の企業に依存しているなら、住民の所得は地域外へ流れ続ける。

 一方、地域で必要とされる商品やサービスを供給する事業者が増えれば、その穴の一部を塞ぐことができる。さらに地域外へ商品やサービスを販売する企業が生まれれば、今度は町の外から所得を引き込む管ができる。

 ここに、人口と事業者の決定的な違いがある。人口は主として需要を生み出すが、事業者はその需要を所得や雇用へ変換し、場合によっては地域外から新しい所得を持ち込む装置にもなる。

一軒の店がなくなっても、人口統計には何も起きない

 海辺の小さな町を想像してみる。そこで唯一の鮮魚店が閉店したとしても、翌日の住民基本台帳には何の変化もない。町の人口は昨日と同じ3000人である。

 しかし暮らしは確実に変わる。魚を買うために隣町まで車を走らせる住民が増えるかもしれないし、せっかく隣町まで来たのだから、野菜も酒も日用品もそこで買うようになる場合もある。つまり、一軒の鮮魚店がなくなったことで、魚以外の消費まで町外へ移動する可能性が生まれる。

 さらに、高齢になって自動車を運転できなくなった人にとっては、これは単なる店の閉鎖ではなくなる。「魚をどこで買うか」という問題が、やがて「この町で生活を続けられるか」という問題へ変わるからである。

 もっとも、鮮魚店が一軒閉店すれば必ず他の消費まで町外へ流れる、と科学的に断言できるわけではない。住民の行動は交通条件、年齢、通販利用、他店舗の存在などによって変わる。ここで重要なのは、店舗一軒が持っている価値が、その店の売上高だけでは測れないということであり、人口統計には表れない生活機能が地域には存在しているという点である。

事業者一人は、必ずしも「一人分」ではない

 住民一人が基本的には一人分の生活需要を持って町に加わるのに対し、事業者は複数の住民の需要を束ね、それを所得や雇用へ変えることがある。

 例えば、小さなパン屋が開業したとする。経営者一人が移住してきただけなら、人口は一人増えただけである。しかし、そのパン屋が二人を雇い、近隣農家から食材を仕入れ、町内の電気工事店に設備修理を依頼し、近くの宿泊施設へパンを納めるようになれば、一つの事業が複数の経済関係を作る。

 さらに観光客がそのパンを買えば、地域外から所得が入ってくる。一人の事業者が地域の中に作るものは、一人分の消費だけではなく、人と企業を結び付ける取引関係である。そして、その取引関係が別の取引関係とつながることで、町の中に経済の網ができていく。

 中小企業庁の小規模企業白書でも、小規模事業者は単に雇用や付加価値を生み出す主体としてだけではなく、人口の少ない地域で商業や生活サービスを維持する存在として位置づけられている。これは人口減少地域では特に重要であり、大きな売上がなければ成立しない事業よりも、小さな需要で成り立つ事業の方が、小さな町に残ることができる場合があるからだ。

 ただし、ここには逆の側面もある。小規模事業者は売上規模が小さいため地方に立地できる一方、売上が少し減っただけでも経営が苦しくなる場合がある。人口減少によって顧客数そのものが減れば、小さな店ほどその影響を強く受ける可能性があるため、小規模事業者が地方を無条件に救うわけではない。人口と事業は、互いに支え合う関係にある。

では、10人の事業者なら何でもよいのか

 ここが最も重要なところである。事業者を10人増やせば、それだけで移住者100人より地域に大きな効果を生むわけではない。

 人口3000人の町に似たようなカフェが10軒増えたとしても、町民が飲むコーヒーの量が突然10倍になるわけではない。新しい店に客が移れば既存店の売上が減り、地域全体の需要が増えていないのであれば、売上が事業者間で移動しただけで、町全体としての所得はほとんど増えないこともあり得る。

 経済学では、こうした現象を置換効果として考える。特に人口減少地域では市場そのものが縮小しているため、新規事業者が増えたことと地域経済が成長したことを同一視することはできない。

 では、どのような事業者なら意味が大きいのだろうか。例えば、それまで町外の事業者へ支払っていた住宅修繕を引き受ける会社ができれば、外へ流れていた支出の一部を町内に残すことができる。地域の農産物を加工し、都市部へ販売する会社が生まれれば、町の外から所得を獲得できる。

 さらに、高齢者の買い物配送、空き家管理、移送サービス、訪問介護など、これまで十分に存在しなかったサービスを提供する企業が生まれれば、単なる経済活動を超えて地域の生活機能そのものを維持できる。つまり、事業者の価値は数ではなく、その事業がどこから所得を得て、どこへ所得を流し、どの生活機能を支えているかによって変わるのである。

「経済効果」と「生活を支える効果」は同じではない

 ここで、もう一つ区別しておかなければならないことがある。地域にとっての「効果」とは、そもそも何を意味するのかという問題である。

 地域内総生産が増えることを効果と考えることもできるし、住民所得や雇用、自治体税収が増えることを重視する考え方もある。しかし人口減少地域では、それだけでは十分ではない。高齢になっても買い物や通院ができ、家が壊れたときには直してもらえ、日常生活を続けられるという「暮らしの維持」もまた、地域にとって重要な効果だからである。

 同じ事業者でも、この物差しによって評価は変わる。地域外へ製品を年間数億円販売する会社は、地域所得や雇用への影響が大きいかもしれないが、高齢者の日常生活を直接支えるわけではない。一方、小さな移動販売事業は地域内総生産への影響こそ小さいかもしれないが、自動車を運転できない高齢者にとっては、その町で生活し続けるための重要な基盤になる。

 つまり、地域を強くすることと、暮らしを守ることは重なり合いながらも完全には同じではない。人口減少地域では、この二つを同じ物差しだけで評価すると、金額には表れにくい重要なサービスを見落としてしまう。

 したがって、事業者10人と移住者100人を比べる場合も、単純な経済波及効果だけでは不十分である。所得、雇用、地域内循環を見ると同時に、買い物、医療、介護、交通、住宅維持といった生活維持効果まで含めて考えなければ、本当の地域への影響は見えてこない。

それでも移住者100人には大きな価値がある

 ここまで読むと、「人口政策より事業者支援の方が優れている」という話に見えるかもしれない。しかし、そう単純ではない。事業には顧客が必要であり、人口が減り続ければ、地域住民を主な顧客とする商売は市場そのものを失っていく。

 若い世帯を中心に100人が移住してくれば、住宅、飲食、小売、教育、保育、交通、修繕など、多くの需要が長期間にわたって生まれる可能性がある。町内企業で働けば人手不足の改善にもなるし、テレワークなどによって地域外から所得を得ている人が移住すれば、その所得を地域へ持ち込み、町内で消費することにもなる。

 この場合、移住者は単なる消費者ではない。地域外所得を持ち込む存在でもあり、場合によっては新たな事業を起こす人になることさえある。だから、「移住者」と「事業者」を完全に別のものとして比べることにも限界があるのであり、両者は本来、一つの地域経済循環の中に存在している。

「人口を増やせば店が増える」という順序を疑ってみる

 従来の地方創生には、暗黙のうちに一つの順序が想定されてきた。人を呼べば消費が増え、消費が増えれば店が増え、その店が雇用を生み、さらに町の魅力が高まるという流れである。

 理屈としては自然である。しかし人口減少が急速に進む小さな自治体では、この順序が成立するまで待つことができない場合がある。人口が十分に増える前にスーパーが撤退し、ガソリンスタンドがなくなり、建設業者が廃業し、交通事業者まで撤退すれば、町は生活する場所として少しずつ不便になっていく。

 「人口が少ないから店がなくなる」という関係だけなら、人口を増やせば解決できるように見える。しかし現実には、生活サービスが減ったことで町の利便性が低下し、その結果として移住先に選ばれにくくなるという逆方向の力も働き得る。もっとも、移住先の選択は仕事、住宅価格、自然環境、教育、医療、家族関係など多くの条件によって決まるため、店舗数だけで移住者数が決まるわけではない。それでも、生活に必要なサービスが存在することが、移住先として選ばれる条件の一つになることは十分に考えられる。

 さらに問題なのは、人口減少とサービス縮小が互いを強める循環が生まれることである。人口が減れば店を維持する需要が小さくなり、店が減れば暮らしの利便性が下がり、それがさらに人口流出を促す可能性がある。こうして人口減少が単なる人数の変化ではなく、生活サービスの連鎖的縮小へ移行すると、町の衰退は徐々にではなく、ある段階から急に深くなることも考えられる。

 そうであるなら、人口を増やしてから店を増やすのではなく、人口がまだ一定程度残っているうちに生活を支える事業を維持するという政策にも合理性が生まれる。それは移住政策を諦めることではなく、むしろ将来の移住者が選ぶことのできる町を先につくっておくという発想である。

100人と10人を比較するなら、人数ではなく機能を見る

 最初の問いに戻ろう。移住者100人より地域を支える事業者10人を増やした方が効果は大きいのか。

 科学的に言えば、この問いに一般的な答えは存在しない。100人の所得、年齢、職業、消費行動が異なるのと同じように、10事業者についても業種、売上、雇用人数、仕入先、顧客構成は大きく異なるからである。

 例えば100人の移住者が、一人平均年間300万円の所得を地域外から得ているなら、単純計算では年間3億円の所得が地域へ持ち込まれる。その多くが地域内で使われるなら、町への影響はかなり大きい。

 反対に、10の事業者がそれぞれ地域外へ年間5000万円の商品やサービスを販売しているなら、売上規模だけでも合計5億円になる。さらに地域内で人を雇い、地元企業から仕入れ、そこで得た所得が再び町内で消費されるなら、その経済的影響は最初の5億円だけでは終わらない。

 したがって、どちらが大きいかは100と10という人数では決まらない。決めるのは、地域の外からどれだけ所得を持ち込み、その所得が地域の中にどれだけ残り、さらにどれだけ次の取引へつながるのかという構造である。

 しかも生活サービスについて考えれば、金額だけでも結論は出ない。一人の医師、一軒のスーパー、一人の介護事業者、一軒のガソリンスタンドが失われたことで、人口数千人の暮らしが変わることもある。この意味では、一人の事業者が一人分をはるかに超える地域機能を担うことは十分にあり得るのである。

地方創生の成績表を変えてみる

 経済産業省と内閣官房が提供するRESAS(Regional Economy Society Analyzing System・地域経済分析システム)でも、地域を見るための数字は人口だけではない。産業構造、事業所、従業者、消費、観光など、複数の指標を組み合わせて地域経済を見ることができる。

 2026年には市区町村単位の状況をまとめて確認する地域経済総合分析も追加され、地方を人口だけで評価しないためのデータ環境は以前より整ってきた。そうであるなら、地方創生の成績表そのものも変えてよいのではないだろうか。

 人口が20人増えた町を成功とし、20人減った町を失敗とするだけでは、町の実態を十分には表せない。人口が減っていても、地域外から所得を獲得する事業が育ち、町外へ流れていた修繕費が町内企業へ回り、買い物や交通を支える新しいサービスが成立しているなら、地域の持続可能性は以前より高くなっているかもしれない。

 逆に人口が増えていても、仕事、買い物、医療、教育の大部分を町外に依存し、所得がほとんど地域内に残らないなら、人口統計ほど地域経済は強くなっていない可能性がある。つまり、これからの地方創生では「何人増えたか」という数字だけでなく、その人口によって、あるいは事業によって「町の中で何ができるようになったのか」を見る必要がある。

地域を支える10人とは誰なのか

 結局、移住者100人より事業者10人の方が大きな効果を持つ条件は、かなり限定して考える必要がある。地域内の既存需要を奪い合うだけの10事業者なら、100人の移住者がもたらす新しい需要の方が大きい可能性がある。

 しかし、地域外から所得を獲得する事業者、これまで町外へ流れていた支出を地域内へ戻す事業者、地域住民を雇用する事業者、地元企業から仕入れる事業者、そして生活に欠かせないサービスを担う事業者が10人増えるのであれば、その影響は単純な10人分にはとどまらない。その10人によって、数百人の暮らしや複数の地域企業が支えられる場合もあるからである。

 さらに、「この町なら高齢になっても買い物ができる」「家が壊れても直してもらえる」「働く場所がある」という安心が生まれれば、それは既存住民の転出を抑える要因の一つになるかもしれない。そして、その生活環境が次の移住者にとって町を選ぶ理由の一つになる可能性もある。

 そう考えると、事業者政策と移住政策は競争相手ではなくなる。事業者を育てることが移住できる環境をつくり、移住者が増えることが事業の顧客や働き手を増やす。人口と事業が互いを支える循環が生まれたとき、初めて「人口増」と「地域経済の強化」が同じ方向を向く。

 地方創生で本当に増やすべきものは、人口だけではないのかもしれない。町の中で誰かが困ったとき、「それなら、ここでできます」と答えられる人が何人いるのか。食べること、移動すること、働くこと、家を直すこと、老いることを、地域の中でどこまで支えられるのか。

 人口表には、その数字は載っていない。しかし人口が減っていく時代には、その見えない数字こそが、町があと何年「普通に暮らせる場所」であり続けられるかを決めていくのではないだろうか。

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家は、売れなくなっても消えてはくれない

 人がいなくなったあとにも、家は残る。屋根は雨を受け、雨樋には落ち葉が詰まり、締め切られた部屋では湿気が壁紙の裏へ入り込んでいく。持ち主が亡くなったからといって住宅まで一緒に消えてくれるわけではなく、むしろ人の生活が終わったところから、建物だけの長い余生が始まることがある。

 日本の空き家政策では、これまで「どう使うか」が重要な問いになってきた。空き家バンクへ登録し、移住者へ売る。中古住宅として流通させる。賃貸住宅にしたり、店舗や地域施設へ転用したりする。まだ十分に使える住宅を取り壊すより、次の利用者へ渡す方が経済的にも環境的にも合理的であり、この方向自体を否定する理由はない。

 しかし人口が減り、世帯数の増加もいずれ止まる社会では、「使いたい家」より「残される家」の方が多くなる地域が現れる。そこで空き家問題を売買の仕組みだけで解決しようとすると、どうしても答えの出ない住宅が残ってしまう。

 総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」の確報によれば、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸に達し、総住宅数に占める空き家率は13.8%となった。どちらも過去最高である。さらに、賃貸用、売却用、二次的住宅などを除いた空き家だけでも385万6千戸あり、2018年から36万9千戸増えている。

 900万という数字の大きさだけを見れば、空き家を市場へ戻せばよいようにも思える。しかし、この数字が意味しているのは、単に「中古住宅が大量に売れ残っている」ということではない。住宅を欲しがる人と、住宅を手放したい人との数そのものが、地域によっては次第に合わなくなってきているということである。

売るための制度には、買う人が必要である

 住宅市場が市場である以上、売却政策には必ず買い手が必要になる。人口が増えている都市なら、売りに出された住宅へ次の世帯が入る循環を期待できる。しかし、空き家が増えている原因そのものが人口減少や世帯減少にある地域では、空き家情報を充実させただけで住宅需要まで増えるわけではない。

 単純化して考えてみよう。ある地域に、今後住宅として使える空き家が100戸あり、その地域で新たに住宅を求める世帯が10世帯しかなければ、仲介制度を改善し、写真を美しく撮影し、空き家バンクの検索機能をどれほど便利にしても、100戸すべてを住宅として流通させることはできない。実際の市場には地元住民の住み替えや別荘需要、事業利用などもあるため現実はこれほど単純ではないが、住宅需要そのものが縮小する地域では、流通政策だけでは処理できない住宅が生まれるという基本構造は変わらない。

 しかも、その空き家の多くは、不動産投資の失敗によって突然市場へ現れた住宅ではない。

 国土交通省が2025年8月に公表した「令和6年空き家所有者実態調査」によれば、調査対象となった空き家の57.9%は相続によって取得されたものであり、その相続空き家の7割超が1980年以前に建築されていた。また、住宅が空き家になった契機についても、所有者の死亡が約6割を占めている。

 つまり、日本の空き家問題のかなりの部分は、「売りたい中古住宅が売れない問題」というより、親が住んでいた古い住宅が、親の死とともに子どもの所有物へ移り、その子どもにはすでに別の生活と別の住宅があるという問題なのである。

 人は相続によって財産を受け取る。しかし住宅の場合、その財産には、屋根の補修、庭木の管理、固定資産税、そしていつか訪れる解体という未来の支出まで一緒についてくる。

 家だけが、家族の世代交代についていけずに、その場所へ残されるのである。

本当の負担は、住宅価格の後ろに隠れている

 住宅を一つの長寿命の商品として考えれば、本来そこには建築、使用、修繕、そして最後の解体までが含まれているはずである。それでも私たちは家を買うとき、建築費や住宅ローンについては何十年先まで計算する一方で、その住宅を最後に誰が壊し、その費用を誰が払うのかについてはほとんど考えない。

 30歳で建てた家に90歳まで住めば、その建物を処分する人は所有者本人ではないかもしれない。子どもが相続するかもしれず、中古住宅として購入した別の所有者かもしれない。誰も引き受けず、建物が危険な状態まで残れば、最終的には近隣住民や自治体まで対応を迫られる可能性がある。

 しかも、解体費用が現実に住宅処分の障壁となっていることは、所有者自身の回答からも確認できる。令和6年空き家所有者実態調査では、今後5年間程度、空き家として所有し続ける意向を持つ世帯について、その理由の第1位として「解体費用をかけたくない」と答えた割合が14.2%に達し、第2位の理由としても13.7%だった。第1位の理由では「物置として必要」が30.4%で最も多いため、解体費だけが空き家発生の原因だと考えるべきではないが、少なくとも住宅を処分しない判断の一つの重要な障壁になっていることは確かである。

 ここに現在の住宅制度が抱える時間的なねじれがある。

 家を使った時代と、家を処分する時代が違う。住宅から便益を得た世代と、その最後の費用を支払う世代が一致しないのである。

住宅にも「最後の日」の費用を準備できないか

 そこで考えられるのが、「住宅解体積立制度」である。

 これは現時点で全国的に実施され、効果が実証された制度ではない。したがって、「この制度を導入すれば空き家問題が解決する」と結論づけることはできず、ここから先は統計から直接導かれる事実ではなく、空き家の発生構造を踏まえた政策仮説として考える必要がある。

 それでも発想そのものは単純である。住宅の所有期間中に、将来必要になる除却費の一部を少しずつ積み立てておき、その住宅を取り壊す段階で使えるようにする。住宅が売却された場合には積立残高を建物とともに次の所有者へ承継し、相続された場合にも相続人へ引き継ぐ。住宅の所有者個人にひも付けるのではなく、住宅そのものにひも付いた資金として設計するのである。

 積立額を仮に年間3万円とすれば40年間で120万円、年間5万円なら200万円になる。実際には物価変動や運用、建物ごとの解体費の違いを考慮する必要があるため、この単純計算がそのまま制度になるわけではない。それでも、空き家になった日に突然まとまった解体費を要求される社会と、住宅を利用していた数十年間に少しずつ費用を準備してきた社会とでは、所有者が取り得る選択肢は違ってくる。

 売れるなら売る。貸せるなら貸す。地域施設として利用価値があるなら使う。しかし、それらがどれも成立せず、住宅としての役割も終わっているなら、安全に除却する。

 積立制度の目的は住宅を壊すことではなく、この最後の選択肢だけが「お金がないから実行できない」という状態を減らすことにある。

現在の制度も、すでに「しまう」方向へ動いている

 もちろん、現在の日本に住宅を除却する仕組みがないわけではない。

 2023年12月13日に施行された改正空家法では、放置すれば「特定空家等」になるおそれのある住宅について、市区町村が「管理不全空家等」として指導や勧告を行えるようになった。勧告を受けた管理不全空家等の敷地については、固定資産税の住宅用地特例も解除される。これは、住宅が周囲へ深刻な危険を及ぼす段階まで待つのではなく、その前から適切な管理や処分を促そうという制度変更である。

 国土交通省自身も、現在の空き家対策を「活かす」だけでなく「しまう」という言葉で説明している。空き家の将来を考えるとき、売却、賃貸、利用だけでなく、除却も正式な選択肢として位置づけられ始めているのである。

 除却への公的支援も存在する。2026年度の国土交通省関係資料では、空家等対策計画が対象とする地区で、不良住宅の除却や、跡地を地域活性化のため計画的に利用する除却などについて、所有者が実施する場合に国が5分の2、地方公共団体が5分の2、所有者が5分の1を負担する仕組みが示されている。

 ただし、ここは誤解してはいけない。一般の空き家なら全国どこでも所有者が費用の5分の1だけを払えば解体できる、という制度ではない。対象となる地区や建物、事業内容には要件があり、市区町村側にも制度の整備が必要になる。既存の公的支援は、あくまで政策上支援する必要性が認められた除却を助ける仕組みなのである。

 そこが、解体積立という発想との違いでもある。現在の補助制度が空き家になった後に発生した問題へ公費を投入する仕組みだとすれば、積立制度は住宅を利用している時期から将来の処分費を準備しておく。

 前者が問題発生後の支援なら、後者は問題が起こる前から費用を時間の中へ分散させる仕組みなのである。

公費だけで壊す制度には、別の不公平が生まれる

 危険になった住宅をすべて税金で取り壊せばよいという考え方も、一見すれば分かりやすい。しかし、そこには公平性の問題が残る。

 住宅を長年きちんと管理し、最後には自費で取り壊した人がいる一方で、何十年も放置した住宅だけ公費で解体されるなら、適切に処分した人より放置した人の方が経済的に有利になる場合がある。それが一般化すれば、「自分で壊すより、行政が対応せざるを得なくなるまで待つ」という望ましくない誘因を生む可能性も否定できない。

 住宅を所有するということは、その価値を利用する権利だけを意味しない。住むことができ、貸すことができ、売ることができ、相続することができるという利益の裏側には、建物を安全に管理する責任も存在する。

 そう考えれば、解体積立は新たな罰金を課すという発想とは異なる。

 住宅の価格表には書かれてこなかった「最後の費用」を、住宅所有の期間の中へ戻していく仕組みなのである。

それでも積立制度は、簡単には作れない

 もっとも、この制度にも難しい問題がある。

 第一に、家を壊す費用は一律ではない。住宅の延べ床面積や構造だけでなく、重機が入れる道路があるか、隣家との距離がどの程度か、廃材をどこまで運ぶ必要があるかによって費用は変わる。吹き付けアスベストなどが見つかれば費用はさらに増える可能性があり、国の補助制度でも、崖地、狭小敷地、無接道敷地、離島、アスベストなどについて通常より高い除却費が生じる場合が想定されている。

 したがって、すべての住宅について月額いくらと全国一律に定めればよいというほど簡単ではない。積立額が少なすぎれば解体時に不足し、多すぎれば住宅所有者から必要以上の資金を長期間拘束することになる。

 さらに難しいのは、すでに存在している古い住宅をどう扱うかである。新築住宅なら完成時から40年、50年かけて準備できるが、築50年の住宅を所有する高齢者へ突然高額の積立義務を課せば、住宅を処分できない人に別の負担を加えるだけになる。制度を作るなら、新築住宅から段階的に始めるのか、既存住宅には公的補助と組み合わせた別制度を設けるのかという移行設計が避けられない。

 災害で住宅が失われたときは積立金をどうするのか、住宅を大規模改修してさらに数十年使う場合はどうするのか、建物を売却したとき積立残高を価格へどう反映させるのかという問題もある。

 だから、解体積立制度は「思いついたから導入すればよい制度」ではない。

 むしろこれほど長期間にわたる制度だからこそ、小規模な地域や新築住宅などから試行し、積立額、利用率、除却費との差額、所有者の行動変化を検証しながら制度設計を調整する必要がある。政策として提案するなら、理論上の合理性と実際の効果を区別して考えなければならない。

相続する前に考えなければ、家は突然「問題」になる

 空き家問題が難しいもう一つの理由は、多くの家庭で住宅の将来について話す時期が遅いことである。

 令和6年空き家所有者実態調査では、相続空き家について、相続前に何らかの対策を行っていた世帯は23.0%にとどまった。反対に77.0%では相続前の対策が行われていない。さらに、事前対策をしていなかった住宅では、対策をしていた住宅よりも、その後も特に活用や解体をせず空き家として所有され続ける割合が高かった。

 ただし、ここから「事前に話し合えば必ず空き家にならない」と因果関係まで断定することはできない。もともと住宅処分への意識が高い家庭ほど事前対策も行う可能性があるからである。それでも、相続が発生してから初めて家の将来を考えるより、所有者が元気なうちに家族で考えておく方が合理的であることは理解しやすい。

 国土交通省が日本司法書士会連合会などと共同で「住まいのエンディングノート」を作成したのも、そのためである。そこでは所有する土地や建物の情報だけでなく、将来その住宅をどうしてほしいかを記録し、家族が元気なうちから「活かし方」と「しまい方」を話し合うことが勧められている。

 話し合いによって住宅の行き先を決めるなら、その隣には、行き先を実行するためのお金の準備があってもよい。

 住宅のエンディングノートと住宅のエンディング資金は、本来それほど遠い発想ではない。

「売るか、壊すか」ではなく、住宅に出口をつくる

 ここまで考えると、本当に必要なのは「空き家を売る政策をやめて、壊す政策へ変えること」ではないことが分かる。

 まだ十分な価値があり、買いたい人が存在する住宅なら、できるだけ市場へ戻した方がよい。賃貸住宅として必要なら貸し、店舗や福祉施設、仕事場、地域拠点として価値があるなら利用する。それを無理に壊せば、利用可能な資産と建築時に投入された資源を失うことになる。

 一方で、需要がなく、老朽化が進み、将来も住宅として利用される可能性が低い建物まで、何十年も「いつか誰かが買うかもしれない」という前提で残しておくことも合理的とは言いにくい。

 つまり、売却政策と除却政策は競争相手ではない。

 住宅として生き続けられるものを市場へ戻す仕組みと、住宅としての役割を終えたものを安全に市場から退出させる仕組みは、人口減少社会ではむしろ一組の政策として考えるべきなのである。

 空き家バンクは、家に次の住人を探す制度である。

 しかし、すべての家に次の住人が現れるわけではない。

 そのとき必要なのが、「次の住人が最後まで現れなかった家をどうするか」という制度であり、解体積立はその答えの一候補になる。

家を建てる時代から、家を終わらせる時代へ

 日本では長い間、「家を持つ」ということには、財産を持つという意味が付いていた。

 住宅ローンを払い終えれば自分の資産になり、土地は残り、最後には子どもへ渡せる。人口が増え、住宅需要も増えていた時代には、この物語はかなり現実と一致していた。

 しかし人口が減る社会では、すべての家が同じ意味で資産になるとは限らない。

 売却価格がほとんど付かず、管理費と固定資産税がかかり、最後には解体費まで必要になる住宅であれば、それは財産であると同時に将来の支出でもある。

 だからこそ住宅政策も、家を建てるところだけで終わるわけにはいかない。

 人口が増えていた時代の町づくりでは、道路を延ばし、宅地を造成し、住宅を建てることが発展だった。しかし人口が減る時代には、町づくりの一部は「何を残すか」を選ぶ仕事へ変わっていく。そして残さないものについても、荒れるまで放置するのではなく、安全に役割を終わらせなければならない。

 誰も住まなくなった住宅の屋根に、何十年も雨を降らせ続けることが地域を守ることではない。

 売れる家は次の人へ渡す。使える家は使い続ける。新しい役割を持てる家は用途を変える。そして、それでも役割を見つけられなかった家には、安全に終わるための資金と制度を用意する。

 900万2千戸という空き家の数字が問いかけているのは、「どうすればもっと家が売れるのか」ということだけではない。

 私たちは長い間、家の誕生には住宅ローンを用意し、家の暮らしには保険を用意し、家の修繕には積立を考えてきた。

 それなのに、家の最後の日についてだけは、未来の誰かに任せてきた。

 人口が減っていくこれからの日本で必要なのは、空き家を売る制度を捨てることではない。その制度の先に、どうしても売れなかった住宅を安全に社会から退出させる出口をつくることである。

 家にも始まりがあるように、終わりがある。

 その最後の日の費用まで、家を所有するということのに含めて考える時代が来ているのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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選挙の夜、市役所や町村役場の一室には独特の熱気がある。当選確実を知らせる一報が入り、支援者から花束が渡され、新しい市長や町長が壇上でこれからの四年間を語る。人口減少を食い止めたい、産業を育てたい、子育てを支援したい、高齢者が安心して暮らせる地域にしたい。言葉の一つひとつには、その地域が少し変わるかもしれないという期待が託されている。

ところが、祝福の夜が明けると、首長を待っている仕事の風景はかなり違う。

予算、人事、福祉、学校、道路、水道、公共施設、防災、契約、情報システム、国や都道府県との調整、そして議会への説明。人口数千人の市町村であっても、行政組織は決して単純な小組織ではない。法令によって行わなければならない仕事が数多くあり、住民の生命や財産に直接かかわる業務を抱え、一つの大型事業の判断が十年後の財政にまで影響することもある。

選挙では「この地域をどのようにしたいか」が問われたはずなのに、当選した瞬間、その人物には複雑な行政組織を動かす経営能力まで求められる。

ここには、地方自治について考えるとき意外に見過ごされてきた、一つのねじれがある。

私たちは選挙によって政治家を選んでいる。同時に、その一回の選挙によって、数十億円、場合によっては数百億円以上の予算と多数の職員を動かす行政組織の最高責任者まで選んでいるのである。

選挙は行政経営者の採用試験ではない

市長や町長を住民が選ぶことには、もちろん大きな意味がある。

どのような地域をつくるのか。何に税金を使うのか。開発を優先するのか、自然環境を守るのか。公共施設を残すのか、統廃合するのか。高齢者施策と子育て施策のどちらにより多くの資源を振り向けるのか。こうした問題には、計算すれば一つの答えが出てくるわけではない。住民によって価値判断が異なるからこそ、選挙によって政治的な方向を決める必要がある。

日本では、それは単なる慣習でもない。日本国憲法第93条第2項は、地方公共団体の長を住民が直接選挙することを定めている。したがって、現在の日本で「市長や町長を選挙で選ぶのをやめ、民間から専門経営者を採用して行政のトップにする」という制度を、そのまま導入することはできない。

しかし、「市長や町長を選挙で選ばなければならない」ということと、「選挙で選ばれた一人の人物が行政経営のほぼすべてを背負うことが最適である」ということは、同じではない。

考えてみれば、選挙は行政経営能力を測定するようには設計されていない。候補者が長期財政計画をどの程度読み解けるのか、公共施設の更新費用を推計できるのか、大規模な情報システム更新を管理できるのか、組織を再編し人員配置を適正化できるのかを、有権者が投票所で試験するわけではない。

実際の選挙では、政策、人物、政治経験、地域との関係、これまでの実績、発信力などが総合的に評価される。それは民主主義として当然のことである。しかし、そこで選ばれた人物が財政、人事、組織設計、契約管理、デジタル化、公共施設管理といった行政経営の各分野でも優れた専門家であるとは限らない。

にもかかわらず、日本の地方自治では、「地域をどちらへ向かわせるかを決める能力」と「巨大な行政組織をどのように動かすかという能力」が、市長や町長という一つの職にかなり強く重なっている。

そこで、少し違った市町村行政を想像してみたい。

市長や町長は、これまで通り住民が選挙で選ぶ。その一方で、行政経営に強い専門的人材を全国から公募し、首長を補佐しながら組織運営を担う「行政経営者」を置いたらどうなるだろうか。

地域の方向を決める人と、行政組織を動かす人

ここでいう「行政経営者」は、現在の日本法に存在する正式な職名ではない。地方自治の役割分担を考えるための仮称である。

市長や町長は住民から直接信任を受け、「この地域をどちらへ向かわせるのか」を決める。行政経営者は、その政治的な方向を具体的な行政へ変換する役割を担う。財政を分析し、事業の優先順位を整理し、公共施設の維持更新を計画し、庁内組織を調整し、必要な専門人材を確保し、政策が計画通り進んでいるかを継続的に確認する。

こう書くと企業経営の仕組みを行政に持ち込むようにも見えるが、行政と企業は根本的に違う。採算が悪いから消防署をなくす、利用者が少ないから福祉サービスを廃止する、利益が出ないから山間部への行政サービスをやめる、という判断は行政にはできない。行政には効率だけでは測れない公平性、安全、権利保障という目的がある。

それでも、「何を大切にするかを決める仕事」と「決められた目的をどのような組織と方法で実現するかを考える仕事」が、完全に同一でないことも確かだろう。

この二つを制度的に分担している地方政府は海外に存在する。

代表的なのが米国などでみられるCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式・選挙で選ばれた議会と任命された専門行政経営者が役割を分担する地方政府制度)である。典型的には、選挙で選ばれた議会が政策の方向や予算について政治的な判断を行い、議会が任命したCity Manager(シティ・マネージャー・地方政府の日常的な行政運営を担当する専門行政経営者)が予算案の作成、職員管理、行政運営などを担う。

ただし、ここは注意しておかなければならない。

Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)は米国の地方制度の中で成立した仕組みであり、日本でこの記事が想定する「公選された市長・町長と、その下で働く行政経営型の専門職」という構想とは同じ制度ではない。この記事で海外制度を見る目的は、制度をそのまま輸入するためではなく、政治的な意思決定と専門的な行政運営をどこまで分担できるかを考えるための比較対象とすることにある。

また、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の説明でしばしば参照されるInternational City/County Management Association(国際市・郡管理協会)は、専門的な地方行政経営や同制度を積極的に推進している団体でもある。したがって、その資料は制度の構造を理解するうえでは有用だが、「この制度が優れている」とする評価については、独立した学術研究と分けて読む必要がある。実際、同協会自身もCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の普及や専門行政経営の推進活動を行っている。

日本にも、すでに制度上の入口はある

では、この発想は日本ではまったくの空想なのだろうか。

必ずしもそうではない。

地方自治法では、市町村に副市町村長を置くことができる。副市町村長は、市長や町長が議会の同意を得て選任し、任期は原則として四年である。そして首長は、任期途中でも副市町村長を解職することができる。つまり、単純な公募採用職ではなく、仮に全国から候補者を公募するとしても、最終的には首長が候補者を選び、議会の同意を得て選任するという形になる。

しかも副市町村長の仕事は、首長が不在のときだけ代役を務めるようなものではない。地方自治法第167条は、副市町村長が首長を補佐し、その命を受けて政策や企画をつかさどり、職員の事務を監督すると定めている。さらに、首長の権限に属する事務の一部について委任を受け、実際に執行することもできる。

したがって、現在の法制度を前提として現実的に考えるなら、「行政経営者」という独立した第二の首長を新設するというよりも、行政経営に強い人材を全国から公募し、その中から市長や町長が議会の同意を得て副市町村長などに選任し、明確な担当領域と責任を与える、という形がまず考えられる。

もちろん、それでも米国のCity Manager(シティ・マネージャー・専門行政経営者)と同じにはならない。日本の市長や町長は自治体を代表し、行政事務を管理・執行する中心的な権限と責任を持つからである。

それでも、「首長がすべてを自分で経営する」という発想と、「政治的責任は首長が負いながら、行政経営のかなりの部分を専門的人材に任せる」という発想の間には、大きな違いがある。

市長や町長が地域の未来を語り、行政経営者がその未来を実現できる組織をつくる。

この分業がうまく機能するなら、これまで一人の首長に集中していた仕事の意味はかなり変わってくる。

人口が減っても、行政の仕事は同じ割合では減らない

この問題が特に重要になるのは、人口減少が進む市町村である。

人口が半分になれば行政の仕事も半分になるのなら、問題は比較的単純だ。しかし実際にはそうならない。

人口が減っても住民票の交付は必要であり、税務、福祉、防災、教育、道路、水道、ごみ処理などの行政機能は残る。道路延長が人口に合わせて自然に半分になるわけではなく、水道管が住民減少に応じて短くなるわけでもない。人口3,000人の市町村にも条例、予算、決算、議会、選挙、福祉、防災といった一定の行政機能が必要になる。

言い換えれば、地方行政には人口が減っても簡単には消えてくれない「固定的な仕事」がある。

その一方で、行政に求められる専門性はむしろ高くなっている。情報システムの標準化、個人情報保護、サイバーセキュリティ、複雑化する福祉制度、公共施設の老朽化対策、災害対応など、小規模な市町村だから簡単になるとは限らない。国でも、市町村が必要とするデジタル人材を単独で確保するだけでなく、都道府県と市町村が連携して専門人材を確保する仕組みが検討・推進されている。

もちろん、小規模な市町村には専門家がいない、と一般化することはできない。優れた職員を抱える小規模自治体もあり、外部委託、広域連携、都道府県からの支援、複数自治体による共同処理によって専門性を補う方法もある。

それでも人口規模が小さくなれば、財政、人事、情報、福祉、土木など多分野の専門家を一つの組織の内部だけで十分にそろえる余地が小さくなりやすいという問題は残る。

人口減少とは、単に住民の人数が減っていく現象ではない。

一定量残り続ける行政機能を、より少ない住民、職員、税源によって支えなければならなくなる過程でもある。

ここまで考えると、人口減少時代に検討すべきなのは学校や道路や公共施設の統廃合だけではないことが分かる。

現在の行政組織そのものを、現在と同じ方法で維持できるのか。

これもまた、人口減少地域がいつか向き合わなければならない問題である。

では、専門行政経営者を置けば行政は良くなるのか

ここまでなら、「それなら専門家を入れた方がよい」という結論になりそうである。

ところが、実証研究を見ると話はそれほど単純ではない。

Jered B. Carrが2015年に発表した研究レビューでは、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)がMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式・公選首長が行政運営で強い役割を持つ地方政府制度)より優れた行政成果を生み出すという複数の仮説について、過去の研究が整理された。その結果、政治的代表や制度機能について一定の研究蓄積がある一方、「専門経営型の自治体の方がより良く管理される」という中心的な命題については、十分な実証的裏付けが得られていないと評価されている。

財政面でも結果はそろっていない。

Changhoon Jungによる2006年の研究は、人口5万人を超える米国504都市を1980年から2000年まで追跡し、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の都市とそれ以外の都市の行政支出を比較した。一般的な行政機能に関する一人当たり支出については、両者に統計的に明確な差は確認されなかった。警察支出ではCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の方が低いという結果が出たものの、消防では有意な差はなかった。

さらにStephen CoateとBrian Knightの2011年の研究では、Mayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の方が公共支出が低くなるという理論的予測が示され、実際の都市データを用いた分析でもその方向を支持する結果が得られている。

つまり、「専門行政経営者を置けば無駄が減り、行政コストが下がる」とまでは、現在の研究から言うことができない。

むしろ興味深いのは、制度の違いが財政だけではない部分に表れる可能性である。

Kimberly L. NelsonとWhitney B. Afonsoが2019年に発表した米国自治体の研究では、1990年から2010年までの汚職による有罪判決を分析したところ、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の自治体ではMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の自治体より、汚職による有罪判決が発生する可能性が低いという関連が報告された。推計では57%低かった。

しかし、この数字だけを見て「専門経営制度にすれば汚職が57%減る」と読むのは危険である。

観察研究では、そもそもCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)を選択する自治体と選択しない自治体の性格が違う可能性がある。改革志向が強い自治体、行政専門職を採用できる自治体、政治文化が異なる自治体だからこそ、その制度を採用しているのかもしれない。また、「汚職による有罪判決」は実際に発生した汚職そのものではなく、捜査や訴追の状況にも影響される。

制度と行政成果の関係を考えるとき、最も警戒すべきなのは、「その制度を採用したから成果が良くなった」のか、「もともと成果を良くしやすい自治体だからその制度を採用した」のかを取り違えることである。

専門家という肩書も、制度という名前も、それだけでは行政成果を保証してくれない。

米国の結果を、日本の人口数千人の市町村へそのまま持ち込めない

さらに、この種の海外研究を日本の地域分析に使うときには、もう一段慎重になる必要がある。

たとえば先ほどのJungの研究は、人口5万人を超える米国都市を対象としている。

ところが、日本で人口減少問題が深刻になっている市町村の中には、人口1万人を下回り、さらに数千人という自治体も少なくない。規模だけを見ても研究対象はかなり違う。

まして、日本と米国では地方税制、公務員制度、議会制度、自治体が担当する行政サービスの範囲、州・都道府県との関係、専門人材の労働市場などが異なっている。

したがって、

「米国でCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)に一定の成果が観察された」

という研究結果から、

「日本の人口3,000人の市町村でも行政経営者を置けば成果が良くなる」

という結論を直接導くことはできない。

ここから得られるのは答えではなく、仮説である。

政治的な代表性と専門的な行政経営をある程度分担した場合、日本の人口減少自治体の行政成果は改善するのか。

この問いを、日本の制度とデータを使って検証する価値がある、というところまでが現在言える範囲だろう。

本当に難しいのは「効率」ではなく「誰が決めたのか」である

仮に行政経営者を置いたとしても、もっと難しい問題が残る。

責任の所在である。

たとえば老朽化した公共施設が三つあり、人口予測と維持更新費を計算すると一つに集約した方が合理的だったとする。行政経営者は「今後二十年間の財政を考えれば統合すべきです」と提案するかもしれない。

しかし、閉鎖される地区の住民にとって、その施設は単なる行政資産ではない。長年地域行事が行われ、子どもが集まり、高齢者が顔を合わせてきた場所かもしれない。

数字で見れば行政経営者の判断には合理性がある。

それでも住民が反対することにも合理性がある。

その間に立つのが政治である。

行政は企業経営と決定的に違う。利益だけで成果を測れない。利用者が少なくても残さなければならないサービスがあり、効率が悪くても公平性のために必要な事業がある。消防や防災設備のように、できれば何年間も本格的に使われない方がよい公共サービスさえ存在する。

だから行政経営者に「行政を効率化してください」とだけ命じるのは危険である。

本当に必要なのは、何を効率化してよいのか、何を効率が悪くても守るのか、その境界を政治が決めることである。

市長や町長と議会が「この市町村は何を大切にするのか」を決め、その政治的な境界の中で行政経営者が方法を考える。

専門家が価値判断まで独占すれば民主主義から離れていく。一方で、政治家が個別の行政運営に過度に介入すれば、専門経営を導入した意味がなくなる。

制度の成否は、優秀な人物を一人採用できるかどうかよりも、政治と行政経営の境界をどこまで明確に設計できるかにかかっている。

公募するなら「市町村を救う英雄」を探してはいけない

もし日本の市町村が、このような制度を試みるなら、「市町村を立て直してくれる有名経営者募集」という話にしてはいけないだろう。

地方行政に必要なのは、救世主ではなく仕組みをつくれる人である。

行政経営者の成果を評価するときも、「財政を何億円削減したか」だけでは不十分だろう。公共施設の長期的な維持管理、職員採用と人材育成、行政手続に要する時間、住民サービスの利用しやすさ、デジタル化、広域連携、政策実施の速度、職員の働き方など、複数の指標を長期間追う必要がある。

しかも、単年度だけ成績を上げても意味がない。

公共施設の修繕を先送りすれば、その年度の支出は減る。しかし十年後には、より大きな費用となって戻ってくるかもしれない。職員数を一気に削減すれば人件費は下がるが、職員が疲弊し、採用できなくなり、行政能力そのものが低下する可能性もある。

行政経営とは、数字を小さくする技術ではない。

限られた資源を、住民が必要とする公共価値へ変換し続ける能力である。

だから行政経営者を導入するなら、その人物が何を決められるのか、何を市長や町長に諮らなければならないのか、何を議会が判断するのかをあらかじめ明確にしておく必要がある。そして成果が不十分なら交代できる仕組みも必要になる。

選挙で選ばれていない専門家を民主主義の外へ置くのではない。

専門家を民主主義の中でどのように使うかを設計する。

そこに、この構想の本質がある。

私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう

ここまで考えてくると、「行政経営者を置いたら市町村は良くなるのか」という問いは、少し違った問いへ変わっていく。

そもそも私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう。

候補者の人格を選んでいるのか。政策を選んでいるのか。地域の将来像を選んでいるのか。それとも、多数の職員と巨額の予算を動かす行政経営能力まで含めて、一人の人物に託しているのだろうか。

人口も税収も増えていた時代には、この問いは現在ほど切実ではなかったかもしれない。新しい学校を建て、新しい道路を造り、新しい公共施設を整備することが成長と結びつきやすかった。

しかし人口が減る時代には、地方政治そのものの性格が変わる。

新しいものをつくる以上に、何を残し、何を統合し、何をやめるのかを決めなければならない。その判断には住民から与えられた政治的正当性が必要であると同時に、人口予測、財政分析、施設管理、組織設計といった高度な行政経営能力も必要になる。

その二つを、一回の選挙によって選ばれた一人の首長に求め続けることが、人口減少時代にも最も合理的な制度なのだろうか。

もちろん、行政経営者を置けば市町村が必ず良くなるわけではない。

優秀な人材を採用できる保証はなく、市長や町長との対立が起きる可能性もある。行政経営者と議会の考えが衝突することもあるだろう。役割分担が曖昧なら、住民から見て「結局、誰が決めたのか分からない」という状態に陥る危険すらある。

そして何より、海外研究から日本の小規模自治体における効果を直接証明することはできない。

だから、この構想を「これからの地方自治の正解」と呼ぶのは早い。

しかし、「検討する価値のある仮説」としては十分に成立している。

人口減少とは、市町村の人口だけが小さくなっていく現象ではないからである。

人口が減り、職員が減り、税源が細り、専門人材を確保することが難しくなっても、行政が担わなければならない仕事は同じ速度では消えてくれない。

そのとき最初に限界を迎えるのは、道路でも水道でも学校でもなく、

「現在の行政組織を、現在と同じ方法で動かし続ける能力」

なのかもしれない。

選挙は、市町村がどちらへ向かうのかを決める。

行政経営は、そこへどのようにたどり着くのかを考える。

現実には、その二つを完全に切り離すことなどできない。しかし、切り離せないからといって、最初から同じ仕事だと考える必要もない。

選挙の夜、新しい市長や町長が壇上で地域の未来を語る。

翌朝、静かな役所や役場では予算書が開かれ、人員配置の相談が始まり、老朽化した施設の修繕費が積み上がり、数年後には更新しなければならない情報システムの予定表が置かれている。

市町村の未来は、おそらくその両方によってつくられている。

だから人口減少時代の地方自治について考えるとき、本当に問うべきなのは「誰を市長や町長に選ぶか」だけではない。

私たちは、選挙で選ばれた一人の首長に、いったいどこまでの仕事を背負わせようとしているのか。

その問いを立てるところから、人口減少時代の地方自治の次の形を考えることが始まるのではないだろうか。

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