地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 地図の上で人口減少率を見ると、町は数字に変わる。5%減った町、10%減った町、15%減った町。同じ程度の減少率を示す自治体が同じ色で塗られていると、それらの町では同じように人口減少が進み、同じように暮らしにくくなっているようにも見える。しかし実際の町を歩いてみると、その印象は簡単に裏切られる。人口が減っているにもかかわらず駅の近くにはスーパーが残り、診療所や薬局にも比較的容易に行ける町がある一方で、ほとんど同じ人口減少率なのに、買い物にも通院にも自動車が欠かせず、公共交通もわずかしか残っていない町があるからである。

 2025年国勢調査の人口速報集計によれば、日本の人口は2020年から約310万人減少し、減少率は2.5%となった。さらに全国1719市町村のうち1558市町村、割合にして90.6%で人口が減っている。10%以上人口が減少した市町村も476に達しており、人口減少は一部の過疎地域だけに生じる特別な現象ではなくなった。人口が減る自治体の方が圧倒的多数になったのであれば、これからの地域分析で重要なのは「人口が減った町か、増えた町か」という単純な分類だけではなく、「人口が減った後にも、どのような生活条件が残っているのか」を見ることではないだろうか。

 ただし、2025年国勢調査について注意しなければならないこともある。現在公表されている人口速報集計は、市区町村別の人口や男女別人口、世帯数などを迅速に把握するための速報値であり、年齢構成や世帯構造などを含む詳しい分析には、今後公表される確定的な集計結果を待つ必要がある。したがって、現段階で2025年国勢調査だけを使って町の暮らしやすさまで断定することはできない。それでも、この新しい人口の数字を入口として、既存の人口構成、交通、医療、商業、土地利用などの情報を重ねれば、なぜ同じ程度に人口が減った町の間で生活条件に差が生じるのか、その構造を考えることはできる。

人口減少率は、町の状態を測る「体温」にすぎない

 人口減少率は地域を知るための重要な数字ではあるが、それだけで地域社会の状態を診断できるわけではない。体温が38度あると分かっても、その原因が感染症なのか、炎症なのか、それとも別の要因なのかまでは体温計だけでは分からないのと同じように、人口が10%減ったという数字は地域に大きな変化が起きていることを示しても、それが住民の日常生活にどのような影響を与えているのかまでは説明してくれない。

 例えば人口1万人だった2つの町が、5年間でともに9000人になったとする。数字だけを見れば、どちらも人口が10%減少した同じ町に見える。しかし一方では住民の多くが駅や旧来の中心市街地の周辺にまとまって暮らし、もう一方では山間部や海岸部、郊外住宅地まで広い範囲に薄く住んでいるとすれば、9000人という人口が持つ意味は違ってくる。人口がある程度集まっていれば、スーパー、診療所、薬局、金融機関、公共交通などが一定数の利用者を確保できる可能性が高まるが、同じ9000人でも広い地域に分散していれば、それぞれの施設が実際に利用できる人口は小さくなりやすいからである。

 ここで重要なのは、人口密度が高ければ必ず暮らしやすく、低ければ必ず暮らしにくいという単純な関係ではないということである。地形、道路網、自動車保有状況、所得、観光客や周辺地域からの利用者などによって条件は変わる。それでも人口密度や人口の集まり方が、生活サービスの維持や行政サービスの効率と関係することは、都市政策や地域経済の研究でも繰り返し指摘されている。人口減少率を見るだけでは、この「人がどこに住んでいるのか」という空間的な違いが消えてしまう。

人は減っても、町の大きさは同じようには縮まない

 人口減少には少し奇妙な性質がある。人の数は減っていくのに、道路や橋、水道管、下水道管、公園、学校、集会所といった町の物理的な大きさは、それに合わせて簡単には小さくならない。

 人口が1万人から9000人へ10%減ったとしても、町の道路が自動的に10%短くなるわけではなく、水道管や下水道管も10%短くなるわけではない。人口が増加していた時代につくられた住宅地が広い範囲に残っていれば、少なくなった住民が、以前とほぼ同じ広さの道路網や上下水道網、公共施設を支えることになる。その結果、条件によっては住民1人当たりの維持負担が大きくなる可能性がある。

 もちろん人口密度と行政コストの関係は単純ではなく、人口が密集していれば必ず行政費用が安くなると断定することはできない。人件費、公共施設の老朽化、地形、自治体の面積、行政サービスの水準など多くの要因が影響するからである。しかし一般的には、人口が広い範囲に分散するほど、少ない住民のために長い道路や上下水道網を維持しなければならない場面が増える。この意味で人口減少後の町の姿を考えるときには、「人口が何人残ったか」だけでなく、「どのくらいの面積に、どのように残ったか」を見る必要がある。

 国が人口減少時代の都市政策として、住宅や医療、福祉、商業などの都市機能を一定の地域へ誘導し、それらを公共交通で結ぶ考え方を重視してきた背景にも、この問題がある。人口そのものを短期間に増加させることが難しいのであれば、限られた人口で生活機能を維持できる町の構造をつくる必要があるからである。

スーパーが残るかどうかは、町の人口だけでは決まらない

 暮らしやすさを考えるとき、もう一つ重要なのが生活サービスを維持できる利用者の規模である。スーパー、病院、診療所、薬局、コンビニエンスストア、銀行、バス路線などは、一定数の利用者がいることで成立している。

 ここで注意しなければならないのは、「人口が何人を下回ったらスーパーがなくなる」という全国共通の境界線が存在するわけではないということである。例えば人口5000人ならスーパーが必ずあり、4000人なら必ずなくなるというものではなく、施設が存在する確率は人口規模とともに変化する。観光客が多い町なら住民人口が少なくても店舗が成立することがあり、隣接自治体から多くの利用者を集める店もある一方で、人口が比較的多くても大型店が隣の都市に集中していれば町内の商店が減少することもある。

 それでも人口規模と生活施設の立地には一定の関係があり、人口が小さくなるほど病院や小売店などが存在する可能性が低下する傾向は、公的な地域分析でも確認されている。この関係が重要なのは、人口減少と暮らしやすさが必ずしも滑らかに変化しない可能性を示しているからである。

 人口が毎年2%減ったからといって、スーパーの便利さが毎年2%ずつ悪くなるわけではない。しばらくは何も変わらなくても、利用者減少、人手不足、経営者の高齢化、設備更新など複数の条件が重なった時点で店舗が閉鎖されることがある。バスについても同様で、利用者が少し減ったから便数が少しだけ減るとは限らず、ある時点で大幅減便や路線廃止が起こることがある。

 人口減少そのものは連続的であっても、住民が利用できるサービスは施設単位、路線単位で存在するため、生活条件は階段を一段下りるように非連続的に変化することがある。同じ10%の人口減少でも、その間に主要なスーパーを失った町と、生活施設が維持された町とでは、住民が感じる変化が大きく異なるのはこのためである。

「何人減ったか」だけでなく「誰が減ったか」を見る

 人口減少率のもう一つの弱点は、年齢構成の変化を隠してしまうことにある。同じ1000人の減少でも、若い世代や子育て世代が多く転出した町と、高齢者の自然減が中心だった町とでは、地域社会に起こる変化は同じではない。

 若年層や現役世代の流出が大きければ、学校の児童生徒、地域で働く人、商店の利用者、自治体の税基盤を支える人口などが縮小する可能性がある。一方で高齢人口の自然減が中心でありながら若い世帯の流入が一定程度続いている地域では、総人口は減っていても、保育、教育、住宅市場、労働力などの状況は異なるかもしれない。人口統計の表では両方とも「10%減」と表示されるが、町の内部で起きている人口動態はまったく別のものである。

 だからこそ、2025年国勢調査についても人口速報値だけで町の将来を判断するべきではない。年齢別人口、世帯構造、住宅の状況など、これから公表される詳細な結果と過去の国勢調査を組み合わせ、どの世代が増え、どの世代が減ったのかを見て初めて、その人口減少の意味が明らかになる。

地方では「何キロ離れているか」より「行けるかどうか」が重要になる

 町の地図を見ているだけでは分かりにくい暮らしやすさの違いがある。それが移動の問題である。

 病院まで5キロという距離は、自動車を運転できる人ならそれほど遠く感じないかもしれない。しかし運転できない高齢者にとって、そこへ向かうバスが1日に数本しかなければ、同じ5キロが大きな障壁になる。反対に10キロ以上離れていても、駅から頻繁に鉄道やバスが運行されていれば、日常生活のなかでは利用しやすい場合がある。

 つまり地域の暮らしやすさを考えるとき、単純な地理的距離だけではなく、目的地までどの程度容易に到達できるかという「アクセスのしやすさ」を見る必要がある。高齢化が進む地域ではこの問題がさらに重要になる。自動車を運転できている間はスーパーや病院が多少遠くても大きな問題にならなかった人が、免許を返納した途端に買い物や通院が難しくなることがあるからである。

 公共交通が縮小すれば、その不足分が家族の送迎によって補われる場合もある。統計の上では単にバス路線が減っただけに見えても、実際の地域社会では、子ども世代が親の通院や買い物のために時間を使うことで移動を支えていることがある。このような負担まで考えれば、交通は単なる移動手段ではなく、その地域で暮らし続けられるかどうかを左右する生活基盤なのである。

町境を越えると、人口の意味まで変わってくる

 自治体別の人口統計を見ていると、もう一つ見落としやすいものがある。人の生活は市町村境で完結しているわけではないという事実である。

 人口8000人の町があったとしても、隣に人口の大きな都市があり、鉄道や自動車で20分程度で行けるなら、大規模な病院や商業施設を町内に持たなくても生活が成り立つ可能性がある。ところが同じ8000人でも、周囲を山に囲まれ、まとまった都市まで1時間以上かかる町なら、町の中または近隣地域で維持しなければならない生活機能は多くなる。

 両方の町が5年間で同じ10%人口を減らしたとしても、前者は隣接都市の商業、医療、雇用などを利用できるのに対して、後者は自分たちの人口で多くの機能を維持する必要がある。そう考えると、「人口何人なら暮らしやすい町なのか」という問い自体があまり適切ではないことが分かる。

 住民にとって重要なのは行政区域の中に何人いるかではなく、日常的に移動できる範囲の中に、どれだけの人、仕事、病院、店、公共交通が存在しているかである。地域を分析するときには市町村単位の人口だけを見るのではなく、隣接都市との関係や通勤・通学圏、医療圏、商圏まで考える必要がある。

そもそも「暮らしやすさ」とは何なのか

 ここまで考えると、もう一つ慎重にならなければならない言葉がある。それが「暮らしやすさ」である。

 暮らしやすさは、人口のように一つの数字として直接観測できるものではない。スーパーまでの移動時間、病院への到達時間、公共交通の運行頻度、住宅費、所得、災害リスク、教育環境、福祉サービスなど、さまざまな条件の組み合わせによって生まれる概念である。しかも何を重視するかは人によって異なり、子育て世帯なら学校や保育施設が重要かもしれないが、高齢者なら医療や買い物、公共交通の重要性が高くなる。

 したがって、人口減少率と暮らしやすさを直接結び付けて、「人口が減ったから暮らしにくくなった」と断定するのは科学的には慎重であるべきだろう。人口減少と生活条件の変化の間には、人口密度、年齢構成、交通、施設立地、自治体財政、周辺都市との関係など、多くの要因が介在しているからである。

 逆にいえば、ここに地域分析の面白さがある。同じ人口減少率の町を比較して、医療へのアクセス、買い物へのアクセス、公共交通、人口密度、年齢構成などを重ねていけば、「人口が減った町」という一枚の地図からは決して見えなかった地域の違いが浮かび上がってくる。

人口減少に強い町は、「人口が減らない町」とは限らない

 人口減少という言葉には、町が少しずつ衰退していくような響きがある。しかし人口が減少しただけで、その町が直ちに暮らしにくくなるわけではない。重要なのは、減少した人口に合わせて町の構造や生活サービスをどこまで組み替えられるかである。

 人口が減っているにもかかわらず、人口増加時代につくられた公共施設やインフラを同じ形で維持し、住宅地が広い範囲に残り続ければ、限られた住民でそれらを支える負担は大きくなる可能性がある。一方で住宅や生活サービスを一定の地域に集め、周辺地区から公共交通などでアクセスできるようにし、さらに隣接自治体と医療や商業などの機能を補完できれば、人口減少そのものを止められなくても、生活条件の急速な悪化を抑えられる可能性がある。

 人口減少に強い町とは、必ずしも人口を増やすことに成功した町ではないのかもしれない。人口が減ったという現実を前提として、それでも住民が買い物をし、病院へ行き、移動し、必要な行政サービスを受けられる構造へ変化できる町こそ、人口減少時代に強い町だと考えることもできる。

国勢調査の地図には「暮らしやすさ」は描かれていない

 2025年国勢調査の地図を開けば、日本の大部分の自治体が人口減少地域として現れる。しかし同じ色で塗られた町の間にも、これから先の暮らしやすさには大きな差が生まれるはずである。

 その差を知るためには、人口減少率の隣に年齢構成を置き、さらに住民がどこに住んでいるのかを重ね、スーパーや病院までどれくらいの時間で行けるのか、鉄道やバスがどの程度残っているのか、隣接する都市とどのようにつながっているのかを見ていかなければならない。そこへ道路、上下水道、公共施設を維持する行政側の条件まで加えていけば、同じ人口減少率の裏側にある町の違いが少しずつ見えてくる。

 国勢調査は、町の未来を自動的に教えてくれる予言書ではない。そこに記録されている人口は、地域を理解するための最も重要な基礎数字の一つではあるが、それだけで生活の姿を説明できるものでもない。

 同じ10%減という数字の向こう側で、ある町ではスーパーの灯りが残り、バスが駅へ向かい、診療所へ比較的容易に通える一方で、別の町では同じ10%の人口減少が、買い物のための長い自動車移動や、家族による病院への送迎として現れているかもしれない。その違いを生み出しているのは人口減少率そのものではなく、人口の集まり方、年齢構成、施設、交通、周辺都市との関係といった、数字の背後にある地域の構造である。

 国勢調査が数えているのは、そこに住んでいる「人の数」である。しかし人口減少時代に私たちが本当に知りたいのは、その人たちがそこでどのように暮らし続けられるのかということである。人口が同じだけ減った町を比べる意味は、どちらが勝ち、どちらが負けたかを決めることではない。同じ人口減少という条件のもとでも、生活を維持できる町と難しくなる町の違いを探し、その背後にある構造を見つけることにある。人口減少時代の地域分析とは、人口という一つの数字と、人々の日常生活との間に横たわる、目には見えにくい距離を測っていく作業なのである。

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 市町村の将来について話し合う会議では、しばしば一枚の人口グラフが議論の空気を決める。現在一万人の町が十年後には八千人になり、その先には六千人になるという右肩下がりの線を見せられると、この線を何とか上向かせなければならないという感覚が生まれる。移住者を呼び込み、若い世帯に住んでもらい、出生数を増やし、企業を誘致して働く場所をつくる。人口が減ることが問題なら、人口を増やすことが解決策になるという考え方は、確かに分かりやすい。

 もちろん、実際の自治体が文字どおり「人口最大化」だけを目的として動いているわけではない。近年は国の地方創生政策でも、人口減少を前提として地域社会をどう維持するかという考え方が強くなり、住民の幸福や暮らしやすさを政策評価に取り込もうとする動きも広がっている。それでも、人口の増減が自治体の将来を語る際の非常に強い指標であり続けていることも事実である。「人口が増えた町」は成功しているように見え、「人口が減った町」は何かに失敗したように見える。この感覚は、自治体政策を考える私たちの中にかなり深く入り込んでいる。

 そこで、一度だけ評価の物差しを入れ替えてみたい。人口をできるだけ減らさないことを中心に据えるのではなく、「その町で暮らす住民一人一人が得られる生活上の価値を、持続可能な範囲でできるだけ高くすること」を自治体経営の中心目標に置いたら、町の姿はどのように変わるのだろうか。

人口一万人の町は、人口八千人の町より豊かなのか

 仮に二つの町があるとする。一方は人口一万人を維持しているが、病院まで車で四十分かかり、買い物にも自動車が欠かせず、高齢者が運転免許を返納すると日常生活そのものが難しくなる。空き家は増え続けているのに住宅地は広く分散し、道路、水道、公共施設を少ない利用者で支えている。

 もう一方の町では人口が八千人まで減っているものの、住宅や商業、医療、行政機能がある程度まとまり、日常の買い物には十五分程度で行くことができ、公共交通や乗合サービスによって自動車を運転できなくなっても生活を続けられる。医療へのアクセスも改善し、老朽化した公共施設は整理され、自治体財政にも一定の余裕が残っている。

 人口だけで評価すれば、一万人の町の方が優れている。しかし、そこに暮らす人間から見たとき、本当にそう言い切れるだろうか。この疑問から見えてくるのは、人口には確かに重要な意味があるものの、それ自体が住民生活の最終目的ではないということである。

 人口が多ければ税収を確保しやすくなり、スーパーや飲食店も営業しやすくなる。学校、病院、公共交通なども一定数の利用者がいるから成立するのであり、人口が減り過ぎればそれらを維持できなくなる。この意味で人口は極めて重要である。しかし、その重要性は「人が多いほど無条件に良い」から生じているのではなく、人口が地域のサービスや経済や人間関係を支える基盤になっているから生じている。

 そう考えると、人口は自治体の最終目的というより、良い生活を成立させるための重要な条件の一つだと考えた方が自然になる。

人口を目的から「制約条件」へ移してみる

 この考え方を採用すると、人口政策をやめる必要はない。むしろ人口が持つ意味を、より正確に考えられるようになる。

 病院を維持するためには一定の診療圏人口が必要であり、商店にも一定の購買人口が必要になる。公共交通にも利用者が必要で、地域産業を維持するには働く人がいなければならない。したがって、自治体には生活サービスを成立させるために必要な人口規模や人口構成が存在する。

 しかし、その必要水準を超えて人口を増やすことが、常に同じ大きさの利益を住民にもたらすとは限らない。人口を一万人から一万一千人に増やすための政策よりも、現在住んでいる一万人の通院時間を短くしたり、交通費を下げたり、生活必需品を買える場所を維持したりする政策の方が、住民生活に大きな効果を及ぼす場合もあり得る。

 人口をこうした「制約条件」として見ると、政策の問いも変わる。「人口を何人まで増やすか」ではなく、「医療、商業、交通、教育、地域経済を成立させるためには、どのような人口構成が必要なのか」を考えるようになるからである。

自治体の成績表が変わる

 自治体の目標が変われば、政策の成績を測る方法も変わる。転入者が何人増えたか、出生数がどれだけ増えたか、人口減少率がどれだけ改善したかという数字は引き続き重要だが、それだけでは自治体の成果を十分に説明できなくなる。

 代わりに重要になるのは、住民の日常生活そのものに近い数字である。病院まで到達するために必要な時間がどれだけ短くなったのか、高齢者が自動車を使わずに買い物できる割合がどれだけ増えたのか、子どもが保護者の送迎なしに学校や公共施設へ移動できる範囲がどれだけ広がったのか、住宅費と交通費を支払った後に手元へ残る所得がどう変化したのか、といった指標である。

 近年、こうした考え方に近い政策評価はすでに現れ始めている。地域の豊かさを所得や人口だけで測るのではなく、健康、住宅、教育、安全、環境、行政サービスへのアクセス、人とのつながり、生活満足度など複数の側面から評価するWell-Being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態)の考え方が、国や国際機関でも使われるようになっている。

 ここで重要なのは、「幸福度」という曖昧な感覚だけに政策を置き換えることではない。所得、時間、交通、医療、住宅、安全性など、実際に測定可能な生活条件と、住民自身が感じる満足度の両方を見ることで、人口という一つの数字では捉えられなかった地域の実像を測ろうとすることである。

「移住者百人」の意味まで変わる

 政策の評価軸が変われば、移住政策にも別の姿が見えてくる。

 人口を主な成果指標にすれば、二十人の移住者は基本的に二十人である。しかし地域生活の維持という視点に立つと、その二十人が地域にどのような機能を加えるのかによって意味は異なる。地域に医師が不足しているなら医師一人の移住が医療アクセスを変えるかもしれず、電気工事業者がいなくなる地域なら一人の技術者が生活インフラの維持に大きく貢献する可能性がある。スーパーや飲食店を引き継ぐ人、介護や福祉を担う人、地域交通を運営する人も同様である。

 これは人間そのものに価値の高低をつける話ではない。政策が見るべきなのは人間の価値ではなく、その地域で不足している機能に対して、どの政策がどの程度の効果を与えるかということである。

 その意味では、人口千人を増やす政策より、地域唯一の食品店一軒を存続させる政策の方が、ある町では多くの住民の日常生活を支えることもある。人口という数字では小さく見える変化が、生活価値という視点では非常に大きな変化として現れるのである。

町を小さくすることが、生活を大きくする場合もある

 生活価値を中心に置いた自治体経営では、町の空間的な形も変わる可能性がある。

 人口が減少しているにもかかわらず、住宅地、道路、水道管、公共施設などが人口の多かった時代と同じ範囲に広がったままであれば、少ない人数で広大な都市設備を支えることになる。人口密度が低くなれば、一人当たりに必要なインフラ維持費が高くなり、公共交通も利用者を集めにくくなる。

 そこで住宅、医療、買い物、行政サービス、交通拠点などを一定の地域へ少しずつ集めることができれば、住民の移動距離を短縮しながら、公共交通や商業サービスを成立させやすくできる場合がある。国が進めてきた「コンパクト・プラス・ネットワーク」も、人口減少のなかで都市機能と居住をある程度集約し、それらを交通で結ぶという方向性を持っている。

 もちろん、集約すれば必ず行政費が下がり、住民生活が良くなるわけではない。地形、歴史的な集落構造、土地価格、住民の移転負担などによって結果は変わる。それでも、人口が減る地域で「すべての場所を以前と同じ形で維持すること」が無条件に最善だとは考えにくくなっている。

 町の地図が少し小さくなったとしても、その中で病院、商店、交通、行政サービスが以前より近くなるのであれば、地図上の縮小をそのまま生活上の衰退と呼ぶことはできない。人口減少社会では、「町が小さくなること」と「暮らしが悪くなること」を別の問題として考える必要がある。

しかし「一人当たり最大化」には危険な罠がある

 ここまで読むと、人口の代わりに住民一人当たり生活価値を最大化すれば、ほとんど問題が解決するようにも見える。しかし、この考え方には重大な弱点がある。「一人当たり」という言葉には、平均値によって社会の一部を見えなくしてしまう危険があるからである。

 例えば中心市街地の千人に対するサービスを改善する政策と、山間部に住む十人を支援する政策を比較すれば、一人当たりの行政効率では前者が有利になる場合が多い。障害のある人への支援や、医療・介護を大量に必要とする高齢者へのサービスも、単純な費用対効果だけで評価すれば不利になりやすい。

 もし住民全体の平均的な生活価値だけを最大化すれば、多数派の生活を少し便利にする代わりに、少数の住民の生活を大幅に悪化させても、平均値だけは改善するという事態が起こり得る。その町を「良い町」と呼ぶことには大きな問題がある。

 したがって自治体政策に必要なのは、単純な平均値の最大化ではない。平均的な生活条件を改善すると同時に、もっとも条件の悪い住民が一定水準以下に落ちないようにする仕組みが必要になる。医療、交通、教育、買い物などについて最低限保障する水準を定め、その水準を守ったうえで全体の生活価値を高めるという考え方である。

 ここまで来ると、自治体経営は単なる効率化ではなくなる。効率性を求めながら、公平性をどこまで保障するのかという、政治そのものの問題になる。

そもそも「生活価値」は一つの数字にできるのか

 さらに難しい問題がある。生活価値というものを、本当に一つの数字として測ることができるのかという問題である。

 例えば、平均所得が五%上昇した一方で通院時間が十分長くなった町と、所得は変わらないが医療へのアクセスが大きく改善した町を比較するとき、どちらの生活価値が高くなったと判断すればよいのだろうか。住宅費、健康、教育、自然環境、安全性、人とのつながりなどを一つの指数にまとめようとすれば、それぞれにどの程度の重みを置くか決めなければならない。

 しかし「健康は所得の何倍重要なのか」という問いに、統計だけで唯一の答えを出すことはできない。そこには必ず価値判断が入り込む。

 したがって「生活価値最大化」という言葉は、一つの万能指数をつくり、その数字だけを上げればよいという意味に理解すべきではない。むしろ人口だけでは見えなかった複数の生活指標を並べ、住民や議会が何を重視するのかを明らかにしながら政策を判断するための考え方として使った方がよい。

 人口一万人という数字は誰が見ても一万人だが、「良い暮らし」とは何かについては社会的な議論が必要になる。その意味では、生活価値を中心に据える自治体経営は、人口目標よりも簡単になるのではなく、むしろ難しくなる。

現在の住民だけ幸せなら、それでよいのか

 さらに時間という視点を加えると、もう一つの問題が現れる。

 例えば自治体が積み立ててきた基金を大きく取り崩し、交通を無料にし、公共施設を増やし、行政サービスを充実させれば、現在暮らしている住民の生活満足度を短期間で高められるかもしれない。しかし十年後に財政余力を失い、道路や上下水道の更新費を負担できなくなれば、その政策を成功と呼ぶことはできない。

 したがって最大化すべきものは「現在の住民一人当たり生活価値」だけではない。現在の住民の暮らしを改善しながら、将来世代にも同程度の生活基盤を残せるかどうかを見る必要がある。

 人口、財政、インフラ、自然環境、地域産業、人材は、現在だけのために存在しているわけではない。生活価値という考え方に持続可能性を組み込まなければ、未来から資源を借りて現在を豊かに見せる政策まで高く評価してしまうことになる。

人口減少そのものに問題がないわけではない

 ここで一つ誤解してはいけないのは、生活価値を重視すれば人口減少を気にしなくてよいということではない。

 人口が急激に減れば、税収、労働力、商業需要、医療、交通、教育など多くの分野に負担が生じる。年齢構成が大きく偏れば、人口総数以上に地域サービスの維持が難しくなる場合もある。研究でも、人口減少は生活満足度などに負の圧力を与える可能性が示されており、人口減少そのものを無害な現象と考えることはできない。

 それでも重要なのは、「人口が減少した」という事実と、「町が悪くなった」という評価を完全に同一視しないことである。

 人口八千人の町が十年後に七千人になったとしても、その間に救急医療への到達時間が短縮され、高齢者が自動車なしで生活できるようになり、空き家が減少し、子どもが移動しやすくなり、住民の可処分所得が増え、自治体の将来負担も軽くなったのであれば、その十年間を単純な失敗と呼ぶことは難しい。

 人口は減った。しかし町は暮らしやすくなった。この二つは十分に両立し得る。

「人数を増やす自治体」から「暮らしを設計する自治体」へ

 人口減少が長期的に続く地域では、人口を増やす政策と同時に、人口が減った場合にも暮らしを維持できる設計を進めなければならない。人口が再び増加することだけを前提に道路、学校、病院、住宅、公共交通を考えるのではなく、人口が減少しても必要な機能を維持できる形に町そのものを組み替えていくのである。

 そのとき自治体間の競争も少し違ったものになる。人口十万人の自治体が人口九万人の自治体より優れているとは限らず、人口を何人獲得したかだけで政策の巧拙を判断することもできなくなる。むしろ住民一人が日常生活でどれだけ多くの選択肢を持てるのか、病気や老化によって生活条件が変化してもその町に住み続けられるのか、行政サービスを将来世代まで維持できるのかという点が自治体の本当の実力として見えてくる。

 人口という数字には強い視覚的な力がある。一万人より九千人、九千人より八千人の方が町そのものが小さくなったように感じられる。しかし人間は人口表の中で暮らしているわけではない。朝起きて家を出て、仕事へ行き、買い物をし、病院へ行き、誰かと話し、家へ帰る。その一日の連続の中に自治体が存在している。

 スーパーまで十五分なのか四十分なのか、病気になったときに治療へたどり着けるのか、運転免許を返納した後も自分の家で生活できるのか、子どもがこの町から出ていったとしても、ここで過ごした時間を良いものだったと思えるのか。自治体の価値とは、本来そうした日常の小さな条件が積み重なったところにある。

 だから自治体の目標を人口から生活価値へ移すということは、人口問題を無視することではない。人口を王様の座から降ろし、財政、交通、医療、住宅、教育、地域経済と並ぶ重要な変数の一つとして扱うことである。

 そして最終的に目指すものも、単純な「住民一人当たり生活価値の最大化」だけでは足りない。より正確には、人口構成、財政、インフラ、環境などの制約の中で住民の生活価値を高めながら、条件の悪い住民の最低生活水準を守り、さらに将来世代にも暮らしを維持できる基盤を残すことになる。

 効率性だけでもなく、公平性だけでもなく、現在だけでも未来だけでもない。その三つを同時に考える自治体経営である。

 人口減少時代に必要なのは、「どうすれば町をもっと大きくできるか」という問いだけではない。

 小さくなっていく町の中で、一人の暮らしをどこまで豊かにできるのか。

 自治体の本当の成績表は、人口グラフの向こう側にあるのかもしれない。

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 人口2万人の海辺の市がある。

 冬の平日に歩けば、数字のとおりの市に見えるかもしれない。駅前にはそれなりの人通りがあり、スーパーも病院も学校も動いている。ただ、かつてに比べれば商店街の空き店舗が増え、郊外では空き家が目立ち始め、毎年公表される人口統計には前年より数百人少ない数字が並ぶ。折れ線グラフは緩やかに右下へ伸び、この市も人口減少の例外ではないことを静かに告げている。

 ところが八月の日曜日になると、同じ市の姿が変わる。

 海岸へ向かう幹線道路には車が連なり、スーパーの駐車場は埋まり、飲食店には行列ができる。普段は静かな別荘地にも明かりがつき、コンビニには観光客が増え、海岸周辺ではごみ箱や公衆トイレの利用が一気に増える。宿泊施設には県外ナンバーの車が並び、市内の人口が数万人単位で膨らんだように感じる日さえある。

 しかし、行政上の人口は2万人のままである。

 市役所の統計では2万人なのに、その日の市内には明らかにそれ以上の人がいる。

 では、この市の「本当の人口」は何人なのだろう。

 この問いから、「実効人口」という考え方を試してみたい。

 ただし、最初に重要なことを確認しておく必要がある。ここでいう実効人口は、国勢調査人口や昼間人口のように国が統一的な定義で公表している既成の統計指標ではない。本稿では、観光客や別荘居住者、二地域居住者が多い地域を分析するための仮説的な指標として、この言葉を用いる。

 そして、この指標の価値は、新しい人口の数字を一つ作ることよりも、「人口とは、そもそも何を数えているのか」という問いを私たちに返してくるところにある。

人口統計が市の実態を間違えているわけではない

 人口統計を批判するのは簡単である。

 国勢調査に観光客が含まれていないのだから、市の本当の姿が分からない、と言いたくなる。しかし、それは少し違う。

 国勢調査が基本的に把握しているのは、その地域を生活の本拠として暮らしている人である。住民票だけを機械的に数えているわけではなく、一定期間そこに常住しているかどうかを基準としている。

 行政を考えるうえでは、この数字は欠かせない。

 学校を何校維持するのか、介護や福祉の需要がどれほどあるのか、住宅政策をどう考えるのか。あるいは選挙や行政サービスの基礎をどこに置くのか。そのような問題について、三時間だけ海水浴に来た観光客と、市内に三十年間暮らしている住民を同じ一人として扱うことはできない。

 国勢調査には昼間人口という考え方もある。市外へ通勤・通学する人を差し引き、市外から通勤・通学してくる人を加えることで、昼間に市内で活動している人口を捉えようとする指標である。

 ところが観光地では、ここに大きな空白が残る。

 通勤や通学は捉えられても、観光、買い物、海水浴、レジャー、イベント参加といった不規則な移動は、通常の昼間人口では十分には表れない。

 別荘も同じである。

 別荘という建物が何戸存在するかは統計に現れる。しかし、その住宅に一年のうち十日しか人が来ないのか、毎週末二人が暮らしているのかでは、市への影響はまったく違う。

 つまり、既存統計が現実を誤って描いているわけではない。

 それぞれ別の現実を、別の目的で測っている。

 問題は、それらを重ね合わせたときに現れる「市全体が実際にどの程度使われているのか」を示す物差しが弱いことなのである。

人を数えるのではなく、市内で過ごされた時間を数えてみる

 そこで人口を、人間の頭数だけではなく、市内で過ごされた時間として考えてみる。

 人口2万人の市を想定する。

 単純化して、2万人全員が一年中市内で生活しているとすれば、一年間には730万「人日」の滞在が発生する。一人が一日その市にいれば、一人日である。

 もちろん実際には、住民も毎日24時間市内にいるわけではない。市外へ通勤する人もいれば、買い物に出る人も、旅行する人もいる。したがって、この730万人日という数字は厳密な実測値ではなく、考え方を示すための第一次近似である。

 そこへ別荘居住者が加わる。

 仮に市内に2000戸の別荘や二次的住宅があり、一戸につき平均二人が年間60日利用するとすれば、年間24万人日の滞在が発生する。

 さらに、宿泊観光客が年間100万人泊いると仮定する。

 一人泊は厳密には24時間の滞在を意味しないが、簡便な分析では一人泊を一人日程度の滞在量として近似することができる。

 加えて、年間150万人の日帰り観光客が平均6時間市内に滞在するとする。24時間を一日として換算すれば、約37万5000人日に相当する。

 すると、この市で一年間に発生する滞在量は、

 定住者による約730万人日、別荘居住者による約24万人日、宿泊客による約100万人日、日帰り客による約37万5000人日を合わせ、約891万5000人日になる。

 365日で割れば、およそ2万4400人である。

 行政上の人口は2万人だが、市内で実際に過ごされている時間量を一年平均に直せば、約2万4400人が常時存在しているのに近い人間活動を市が受け止めていることになる。

 ただし、この2万4400人を「本当の人口」と呼ぶべきではない。

 大切なのは数字そのものではなく、人口2万人という一枚の静止画を、年間約892万人日という一本の動画へ置き換えることである。

 すると、市の見え方が変わってくる。

別荘居住者は観光客なのか、それとも半分住民なのか

 実効人口を考え始めると、最も興味深い存在は観光客よりむしろ別荘居住者や二地域居住者である。

 年に一度だけ、市内のホテルに二泊する旅行者がいる。

 一方で、毎週金曜日の夜に別荘へ来て、日曜日の夕方まで生活する人もいる。夏には一か月近く滞在し、年間では100日以上を市内で過ごす人もいるだろう。

 住民票が別の自治体にあれば、どちらもその市の定住人口には入らない。

 しかし地域との関係はまるで違う。

 後者はスーパーで日用品を買い、水道を使い、ごみを出し、道路を走る。飲食店を利用し、病院を使うこともあるかもしれない。近隣住民と顔見知りになり、市内の催しに参加することさえある。

 市のインフラから見れば、その人がどこに住民票を置いているかより、年間何日市内に滞在し、どれだけサービスを利用しているかの方が重要な場面がある。

 ここで「関係人口」との違いもはっきりしてくる。

 関係人口は、定住者でも一回限りの観光客でもない、地域と継続的に関わる人々を捉えようとする概念である。二地域居住者もその典型である。

 しかし、関係人口と実効人口が測ろうとしているものは同じではない。

 関係人口が問うのは、その人と地域との関係の継続性や深さである。

 実効人口が問うのは、その人が地域の空間やサービスをどれだけ実際に使用しているかである。

 市外に住みながら、毎月その地域の商品を購入し、オンラインで地域活動を手伝っている人は、重要な関係人口になり得る。しかし、その人は市内の水道を使わず、ごみを出さず、道路渋滞にも加わらない。

 反対に、市との長期的な関係を持たない観光客でも、三万人が同じ日に訪れれば、道路、駐車場、公衆トイレ、ごみ処理には大きな負荷を与える。

 地域との「関係の深さ」と、地域内に「存在した量」は別の問題なのである。

平均2万4400人でも、夏には5万人いるかもしれない

 実効人口を考えるとき、もう一つ注意しなければならないことがある。

 先ほどの仮定では、年間平均の実効人口を約2万4400人とした。

 では、市役所は2万4400人を基準に道路や駐車場、水道、ごみ処理施設を整備すればよいのだろうか。

 おそらく、それでも足りない。

 冬の平日の昼間には、市内に1万7000人しかいないかもしれない。

 反対に、夏休みの日曜日には4万人、海水浴大会や花火大会の日には5万人、6万人が市内に滞在することもあり得る。

 年間平均が2万4400人でも、その市が実際に対応しなければならない最大人口は、その倍以上になる可能性がある。

 観光都市では、平均値より振幅の方が重要な場合がある。

 市には人口の呼吸がある。

 平日の午前には縮み、週末の午後には膨らむ。冬には小さくなり、夏には大きくなる。大きなイベントがある夜には一時的に中規模都市ほどの人を抱え、翌朝には再び人口2万人の市へ戻る。

 もし行政が年間平均だけを見れば、繁忙期には道路も駐車場もごみ処理能力も不足する。

 かといって、最大時の5万人を基準にすべての施設を造れば、一年の大半は過剰設備になる。

 したがって実効人口を政策に使うなら、年間平均だけでは足りない。

 通常期、繁忙期、最大時、そして季節変動まで見る必要がある。

 人口は一本の数字ではなく、時間とともに膨らんだり縮んだりする波なのである。

一つの市に、いくつもの人口が存在している

 さらに厳密に考えると、滞在時間だけでも十分ではない。

 同じ六時間市内にいた人でも、市への影響は違う。

 自動車で来た日帰り観光客は、道路と駐車場への負荷が大きい。ホテルに泊まる観光客は、宿泊業や飲食業に多くの需要を生む。別荘居住者は水道を使い、家庭ごみを出し、スーパーで食料品や日用品を買う。高齢の定住者は、医療や介護の利用頻度が高い可能性がある。

 したがって、単純な滞在時間だけで全員を同じように扱うと、政策判断には粗すぎる。

 そこで実効人口は、用途ごとに分けて考えた方がよい。

 道路について考えるなら交通実効人口。

 水道なら水道実効人口。

 ごみ処理なら廃棄物実効人口。

 商業市場なら消費実効人口。

 同じ人口2万人の市であっても、それぞれ違う数字になってよいのである。

 定住者、別荘居住者、宿泊客、日帰り客の人数に、それぞれの滞在時間と用途ごとの負荷の違いを重ねる。

 そこまでして初めて、実効人口は単に観光客を人口へ足して市を大きく見せるための数字ではなく、地域運営のための分析指標へ近づいていく。

人口2万人なのに、なぜ大きなスーパーが成立するのか

 この考え方は、地域経済を見るときにも役立つ。

 地方都市を歩いていると、人口規模から考えると不思議に見える市がある。

 人口2万人程度なのに大型スーパーが複数あり、飲食店が多く、ホームセンターやドラッグストアまで成り立っている。

 逆に、人口が同程度でも商業施設がほとんど残っていない市もある。

 もちろん原因は一つではない。

 周辺自治体からの流入、所得水準、道路網、競合店、年齢構成などが影響する。しかし観光地や別荘地では、定住人口だけから市場規模を推測すると、大きく外れることがある。

 人口2万人でも、週末には数千人の別荘居住者が加わり、年間250万人規模の宿泊客・日帰り客が訪れるなら、市内の商業は「2万人だけを相手にした市場」ではない。

 ただし、ここで一つ注意しなければならない。

 人が二倍滞在したからといって、地域経済への効果が二倍になるわけではない。

 観光客が地域外資本のホテルを利用し、全国チェーン店で買い物をすれば、支出の一部は市外へ流出する。別荘居住者が食料を自宅近くで購入して持ち込めば、長期間市内にいても地域消費は小さいかもしれない。

 つまり、

 人がいることと、お金が地域に残ることは同じではない。

 地域経済を正確に見るなら、まず滞在量を測り、次に消費額を見て、そのうちどれだけが市内企業や市民の所得として残ったのかを調べる必要がある。

 実効人口は地域経済そのものを示す数字ではない。

 しかし、市場を生み出す人間活動の大きさを測る入口にはなる。

「住民を100人増やす」以外の地域政策が見えてくる

 こう考えると、地方創生の見方も変わってくる。

 地方自治体では長い間、「移住者を何人増やしたか」が成果として重視されてきた。

 人口2万人の市で人口が毎年300人減るなら、行政として人口減少に危機感を持つのは当然である。

 しかし、300人の移住者を新たに獲得することは簡単ではない。

 移住は仕事、住宅、家族関係、学校、人間関係まで変える大きな決断だからである。

 そこで別の問いを置いてみる。

 すでに年間250万人の観光客や来訪者がいるなら、その人たちに平均してもう一時間長く市内にいてもらう方が現実的ではないか。

 1000人が一日長く滞在すれば、1000人日の人間活動が増える。

 別荘を年間30日しか利用していなかった世帯が60日利用するようになれば、新しい住宅を建てなくても、市内で生活が営まれる時間は増える。

 日帰り客の一部が一泊するようになれば、昼食だけで帰っていた人が夕食を食べ、宿泊し、翌朝も地域で消費する。

 人口一人を自治体同士で奪い合う地方創生から、人が地域で過ごす時間を増やす地方創生へ。

 これは移住政策を否定する話ではない。

 定住という一つの関係だけで地域の力を測らず、人と地域との間に存在する多様な関わりを政策資源として見るということである。

それでも観光客を人口として数えてはいけない

 一方で、実効人口には危険な使い方もある。

 人口2万人まで減った市が、

 「観光客を含めれば実効人口は2万5000人だから人口減少は大した問題ではない」

 と言い始めたら、それは統計による現実逃避である。

 定住者と観光客は同じ存在ではない。

 住民はその市で年を取り、子どもを育て、税を負担し、災害が起きても生活を続ける。

 観光客は地域経済を支える重要な存在だが、旅行先を変えれば翌年から来なくなる。

 別荘居住者も同じである。

 年間100日市内にいる人を、滞在時間の分析では100日分として数えることができる。しかし、その人を住民の約0.27人と考えることには意味がない。

 地域との関係は、時間だけでは表せないからである。

 したがって実効人口は、定住人口を置き換える数字ではない。

 二つを並べて見るべきである。

 「この市には何人が生活の本拠を置いているのか」。

 そして、

 「この市では年間どれだけの人間活動が行われているのか」。

 この二つを分けて見ることで、観光都市や別荘都市の姿が初めて立体的になる。

スマートフォンの時代だから測れる人口がある

 かつて、このような分析を行うのは簡単ではなかった。

 宿泊者数、道路交通量、鉄道利用者数、別荘戸数といった統計はあっても、人が何時に市へ入り、どこで過ごし、何時間後に出ていったのかを把握することは難しかった。

 しかし現在は状況が変わった。

 携帯電話の基地局情報やスマートフォンの位置情報などを匿名化し、統計処理することで、時間帯ごとの滞在人口や人の移動を推定できるようになっている。

 午前十時の市内には何人いるのか。

 午後三時にはどこへ人が集中するのか。

 海岸から駅へ人が移動する時間帯はいつなのか。

 平日と休日では滞在人口が何倍違うのか。

 冬と夏では、市の人口の波がどれほど変化するのか。

 以前なら感覚でしか語れなかったことを、数字として捉えられるようになりつつある。

 実効人口という発想が単なる空想で終わらない理由はここにある。

 国勢調査をやめる必要もなければ、住民票制度を変える必要もない。

 従来の人口統計の上に、人流というもう一つの層を重ねればよいのである。

人口2万人の市は、本当に2万人だけで動いているのか

 人口減少を語るとき、私たちは長い間、市から消えていく人を数えてきた。

 2万1000人が2万人になる。

 2万人が1万9000人になる。

 グラフの線が右下へ伸びるにつれて、市そのものが少しずつ小さくなっていくように見える。

 しかし現実の市を歩けば、そのグラフには描かれていない人たちがいる。

 金曜日の夕方に別荘へ向かう車がある。

 毎年同じ宿に泊まる家族がいる。

 夏休みの一か月を海辺で過ごす人がいる。

 都市部とこの市を往復しながら仕事をする人もいる。

 朝に来て、夕方には帰る観光客もいる。

 彼らは市民ではない。

 だからといって、市に存在していないわけではない。

 水道は彼らに水を供給し、道路は彼らの車を受け止める。店は商品を売り、ごみ処理施設は彼らが残したものを処理する。

 市というものを行政区域ではなく一つの生活システムとして見るなら、重要なのは「誰が住民票を持っているか」だけではない。

 「誰が、いつ、どれくらい、この市を使っているのか」。

 その問いが必要になる。

 もちろん、実効人口を計算しても人口減少は止まらない。

 出生数が増えるわけではなく、高齢化が解消するわけでもない。

 観光客の数字を加えて、定住人口の減少を見えなくしてはいけない。

 それでも、人口2万人という数字だけでは説明できない地域の現実がある。

 人口2万人の市を、本当に2万人だけが使っているのか。

 その問いを置くだけで、道路の価値も、水道の規模も、ごみ処理施設の能力も、小売市場の大きさも、観光政策の評価も違って見えてくる。

 人口減少時代の地域政策に必要なのは、人を数えることをやめることではない。

 定住人口、昼間人口、関係人口、交流人口、そして滞在時間から見た実効人口。

 それぞれを別の指標として並べ、同じ市を違う角度から見ることである。

 人口2万人という数字は正しい。

 しかし、その数字だけが市のすべてではない。

 夏の日曜日、道路を埋める車も、別荘にともる灯りも、ホテルの窓の明かりも、人口統計の外側にある現実である。

 実効人口という考え方が役立つとすれば、観光客を住民として数えるためではない。

 人口2万人という一つの数字の向こう側に、実際にはどれほど多くの「人間の時間」が流れているのかを見えるようにするためなのである。

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選挙の夜、市役所や町村役場の一室には独特の熱気がある。当選確実を知らせる一報が入り、支援者から花束が渡され、新しい市長や町長が壇上でこれからの四年間を語る。人口減少を食い止めたい、産業を育てたい、子育てを支援したい、高齢者が安心して暮らせる地域にしたい。言葉の一つひとつには、その地域が少し変わるかもしれないという期待が託されている。

ところが、祝福の夜が明けると、首長を待っている仕事の風景はかなり違う。

予算、人事、福祉、学校、道路、水道、公共施設、防災、契約、情報システム、国や都道府県との調整、そして議会への説明。人口数千人の市町村であっても、行政組織は決して単純な小組織ではない。法令によって行わなければならない仕事が数多くあり、住民の生命や財産に直接かかわる業務を抱え、一つの大型事業の判断が十年後の財政にまで影響することもある。

選挙では「この地域をどのようにしたいか」が問われたはずなのに、当選した瞬間、その人物には複雑な行政組織を動かす経営能力まで求められる。

ここには、地方自治について考えるとき意外に見過ごされてきた、一つのねじれがある。

私たちは選挙によって政治家を選んでいる。同時に、その一回の選挙によって、数十億円、場合によっては数百億円以上の予算と多数の職員を動かす行政組織の最高責任者まで選んでいるのである。

選挙は行政経営者の採用試験ではない

市長や町長を住民が選ぶことには、もちろん大きな意味がある。

どのような地域をつくるのか。何に税金を使うのか。開発を優先するのか、自然環境を守るのか。公共施設を残すのか、統廃合するのか。高齢者施策と子育て施策のどちらにより多くの資源を振り向けるのか。こうした問題には、計算すれば一つの答えが出てくるわけではない。住民によって価値判断が異なるからこそ、選挙によって政治的な方向を決める必要がある。

日本では、それは単なる慣習でもない。日本国憲法第93条第2項は、地方公共団体の長を住民が直接選挙することを定めている。したがって、現在の日本で「市長や町長を選挙で選ぶのをやめ、民間から専門経営者を採用して行政のトップにする」という制度を、そのまま導入することはできない。

しかし、「市長や町長を選挙で選ばなければならない」ということと、「選挙で選ばれた一人の人物が行政経営のほぼすべてを背負うことが最適である」ということは、同じではない。

考えてみれば、選挙は行政経営能力を測定するようには設計されていない。候補者が長期財政計画をどの程度読み解けるのか、公共施設の更新費用を推計できるのか、大規模な情報システム更新を管理できるのか、組織を再編し人員配置を適正化できるのかを、有権者が投票所で試験するわけではない。

実際の選挙では、政策、人物、政治経験、地域との関係、これまでの実績、発信力などが総合的に評価される。それは民主主義として当然のことである。しかし、そこで選ばれた人物が財政、人事、組織設計、契約管理、デジタル化、公共施設管理といった行政経営の各分野でも優れた専門家であるとは限らない。

にもかかわらず、日本の地方自治では、「地域をどちらへ向かわせるかを決める能力」と「巨大な行政組織をどのように動かすかという能力」が、市長や町長という一つの職にかなり強く重なっている。

そこで、少し違った市町村行政を想像してみたい。

市長や町長は、これまで通り住民が選挙で選ぶ。その一方で、行政経営に強い専門的人材を全国から公募し、首長を補佐しながら組織運営を担う「行政経営者」を置いたらどうなるだろうか。

地域の方向を決める人と、行政組織を動かす人

ここでいう「行政経営者」は、現在の日本法に存在する正式な職名ではない。地方自治の役割分担を考えるための仮称である。

市長や町長は住民から直接信任を受け、「この地域をどちらへ向かわせるのか」を決める。行政経営者は、その政治的な方向を具体的な行政へ変換する役割を担う。財政を分析し、事業の優先順位を整理し、公共施設の維持更新を計画し、庁内組織を調整し、必要な専門人材を確保し、政策が計画通り進んでいるかを継続的に確認する。

こう書くと企業経営の仕組みを行政に持ち込むようにも見えるが、行政と企業は根本的に違う。採算が悪いから消防署をなくす、利用者が少ないから福祉サービスを廃止する、利益が出ないから山間部への行政サービスをやめる、という判断は行政にはできない。行政には効率だけでは測れない公平性、安全、権利保障という目的がある。

それでも、「何を大切にするかを決める仕事」と「決められた目的をどのような組織と方法で実現するかを考える仕事」が、完全に同一でないことも確かだろう。

この二つを制度的に分担している地方政府は海外に存在する。

代表的なのが米国などでみられるCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式・選挙で選ばれた議会と任命された専門行政経営者が役割を分担する地方政府制度)である。典型的には、選挙で選ばれた議会が政策の方向や予算について政治的な判断を行い、議会が任命したCity Manager(シティ・マネージャー・地方政府の日常的な行政運営を担当する専門行政経営者)が予算案の作成、職員管理、行政運営などを担う。

ただし、ここは注意しておかなければならない。

Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)は米国の地方制度の中で成立した仕組みであり、日本でこの記事が想定する「公選された市長・町長と、その下で働く行政経営型の専門職」という構想とは同じ制度ではない。この記事で海外制度を見る目的は、制度をそのまま輸入するためではなく、政治的な意思決定と専門的な行政運営をどこまで分担できるかを考えるための比較対象とすることにある。

また、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の説明でしばしば参照されるInternational City/County Management Association(国際市・郡管理協会)は、専門的な地方行政経営や同制度を積極的に推進している団体でもある。したがって、その資料は制度の構造を理解するうえでは有用だが、「この制度が優れている」とする評価については、独立した学術研究と分けて読む必要がある。実際、同協会自身もCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の普及や専門行政経営の推進活動を行っている。

日本にも、すでに制度上の入口はある

では、この発想は日本ではまったくの空想なのだろうか。

必ずしもそうではない。

地方自治法では、市町村に副市町村長を置くことができる。副市町村長は、市長や町長が議会の同意を得て選任し、任期は原則として四年である。そして首長は、任期途中でも副市町村長を解職することができる。つまり、単純な公募採用職ではなく、仮に全国から候補者を公募するとしても、最終的には首長が候補者を選び、議会の同意を得て選任するという形になる。

しかも副市町村長の仕事は、首長が不在のときだけ代役を務めるようなものではない。地方自治法第167条は、副市町村長が首長を補佐し、その命を受けて政策や企画をつかさどり、職員の事務を監督すると定めている。さらに、首長の権限に属する事務の一部について委任を受け、実際に執行することもできる。

したがって、現在の法制度を前提として現実的に考えるなら、「行政経営者」という独立した第二の首長を新設するというよりも、行政経営に強い人材を全国から公募し、その中から市長や町長が議会の同意を得て副市町村長などに選任し、明確な担当領域と責任を与える、という形がまず考えられる。

もちろん、それでも米国のCity Manager(シティ・マネージャー・専門行政経営者)と同じにはならない。日本の市長や町長は自治体を代表し、行政事務を管理・執行する中心的な権限と責任を持つからである。

それでも、「首長がすべてを自分で経営する」という発想と、「政治的責任は首長が負いながら、行政経営のかなりの部分を専門的人材に任せる」という発想の間には、大きな違いがある。

市長や町長が地域の未来を語り、行政経営者がその未来を実現できる組織をつくる。

この分業がうまく機能するなら、これまで一人の首長に集中していた仕事の意味はかなり変わってくる。

人口が減っても、行政の仕事は同じ割合では減らない

この問題が特に重要になるのは、人口減少が進む市町村である。

人口が半分になれば行政の仕事も半分になるのなら、問題は比較的単純だ。しかし実際にはそうならない。

人口が減っても住民票の交付は必要であり、税務、福祉、防災、教育、道路、水道、ごみ処理などの行政機能は残る。道路延長が人口に合わせて自然に半分になるわけではなく、水道管が住民減少に応じて短くなるわけでもない。人口3,000人の市町村にも条例、予算、決算、議会、選挙、福祉、防災といった一定の行政機能が必要になる。

言い換えれば、地方行政には人口が減っても簡単には消えてくれない「固定的な仕事」がある。

その一方で、行政に求められる専門性はむしろ高くなっている。情報システムの標準化、個人情報保護、サイバーセキュリティ、複雑化する福祉制度、公共施設の老朽化対策、災害対応など、小規模な市町村だから簡単になるとは限らない。国でも、市町村が必要とするデジタル人材を単独で確保するだけでなく、都道府県と市町村が連携して専門人材を確保する仕組みが検討・推進されている。

もちろん、小規模な市町村には専門家がいない、と一般化することはできない。優れた職員を抱える小規模自治体もあり、外部委託、広域連携、都道府県からの支援、複数自治体による共同処理によって専門性を補う方法もある。

それでも人口規模が小さくなれば、財政、人事、情報、福祉、土木など多分野の専門家を一つの組織の内部だけで十分にそろえる余地が小さくなりやすいという問題は残る。

人口減少とは、単に住民の人数が減っていく現象ではない。

一定量残り続ける行政機能を、より少ない住民、職員、税源によって支えなければならなくなる過程でもある。

ここまで考えると、人口減少時代に検討すべきなのは学校や道路や公共施設の統廃合だけではないことが分かる。

現在の行政組織そのものを、現在と同じ方法で維持できるのか。

これもまた、人口減少地域がいつか向き合わなければならない問題である。

では、専門行政経営者を置けば行政は良くなるのか

ここまでなら、「それなら専門家を入れた方がよい」という結論になりそうである。

ところが、実証研究を見ると話はそれほど単純ではない。

Jered B. Carrが2015年に発表した研究レビューでは、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)がMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式・公選首長が行政運営で強い役割を持つ地方政府制度)より優れた行政成果を生み出すという複数の仮説について、過去の研究が整理された。その結果、政治的代表や制度機能について一定の研究蓄積がある一方、「専門経営型の自治体の方がより良く管理される」という中心的な命題については、十分な実証的裏付けが得られていないと評価されている。

財政面でも結果はそろっていない。

Changhoon Jungによる2006年の研究は、人口5万人を超える米国504都市を1980年から2000年まで追跡し、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の都市とそれ以外の都市の行政支出を比較した。一般的な行政機能に関する一人当たり支出については、両者に統計的に明確な差は確認されなかった。警察支出ではCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の方が低いという結果が出たものの、消防では有意な差はなかった。

さらにStephen CoateとBrian Knightの2011年の研究では、Mayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の方が公共支出が低くなるという理論的予測が示され、実際の都市データを用いた分析でもその方向を支持する結果が得られている。

つまり、「専門行政経営者を置けば無駄が減り、行政コストが下がる」とまでは、現在の研究から言うことができない。

むしろ興味深いのは、制度の違いが財政だけではない部分に表れる可能性である。

Kimberly L. NelsonとWhitney B. Afonsoが2019年に発表した米国自治体の研究では、1990年から2010年までの汚職による有罪判決を分析したところ、Council-Manager(カウンシル・マネージャー方式)の自治体ではMayor-Council(メイヤー・カウンシル方式)の自治体より、汚職による有罪判決が発生する可能性が低いという関連が報告された。推計では57%低かった。

しかし、この数字だけを見て「専門経営制度にすれば汚職が57%減る」と読むのは危険である。

観察研究では、そもそもCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)を選択する自治体と選択しない自治体の性格が違う可能性がある。改革志向が強い自治体、行政専門職を採用できる自治体、政治文化が異なる自治体だからこそ、その制度を採用しているのかもしれない。また、「汚職による有罪判決」は実際に発生した汚職そのものではなく、捜査や訴追の状況にも影響される。

制度と行政成果の関係を考えるとき、最も警戒すべきなのは、「その制度を採用したから成果が良くなった」のか、「もともと成果を良くしやすい自治体だからその制度を採用した」のかを取り違えることである。

専門家という肩書も、制度という名前も、それだけでは行政成果を保証してくれない。

米国の結果を、日本の人口数千人の市町村へそのまま持ち込めない

さらに、この種の海外研究を日本の地域分析に使うときには、もう一段慎重になる必要がある。

たとえば先ほどのJungの研究は、人口5万人を超える米国都市を対象としている。

ところが、日本で人口減少問題が深刻になっている市町村の中には、人口1万人を下回り、さらに数千人という自治体も少なくない。規模だけを見ても研究対象はかなり違う。

まして、日本と米国では地方税制、公務員制度、議会制度、自治体が担当する行政サービスの範囲、州・都道府県との関係、専門人材の労働市場などが異なっている。

したがって、

「米国でCouncil-Manager(カウンシル・マネージャー方式)に一定の成果が観察された」

という研究結果から、

「日本の人口3,000人の市町村でも行政経営者を置けば成果が良くなる」

という結論を直接導くことはできない。

ここから得られるのは答えではなく、仮説である。

政治的な代表性と専門的な行政経営をある程度分担した場合、日本の人口減少自治体の行政成果は改善するのか。

この問いを、日本の制度とデータを使って検証する価値がある、というところまでが現在言える範囲だろう。

本当に難しいのは「効率」ではなく「誰が決めたのか」である

仮に行政経営者を置いたとしても、もっと難しい問題が残る。

責任の所在である。

たとえば老朽化した公共施設が三つあり、人口予測と維持更新費を計算すると一つに集約した方が合理的だったとする。行政経営者は「今後二十年間の財政を考えれば統合すべきです」と提案するかもしれない。

しかし、閉鎖される地区の住民にとって、その施設は単なる行政資産ではない。長年地域行事が行われ、子どもが集まり、高齢者が顔を合わせてきた場所かもしれない。

数字で見れば行政経営者の判断には合理性がある。

それでも住民が反対することにも合理性がある。

その間に立つのが政治である。

行政は企業経営と決定的に違う。利益だけで成果を測れない。利用者が少なくても残さなければならないサービスがあり、効率が悪くても公平性のために必要な事業がある。消防や防災設備のように、できれば何年間も本格的に使われない方がよい公共サービスさえ存在する。

だから行政経営者に「行政を効率化してください」とだけ命じるのは危険である。

本当に必要なのは、何を効率化してよいのか、何を効率が悪くても守るのか、その境界を政治が決めることである。

市長や町長と議会が「この市町村は何を大切にするのか」を決め、その政治的な境界の中で行政経営者が方法を考える。

専門家が価値判断まで独占すれば民主主義から離れていく。一方で、政治家が個別の行政運営に過度に介入すれば、専門経営を導入した意味がなくなる。

制度の成否は、優秀な人物を一人採用できるかどうかよりも、政治と行政経営の境界をどこまで明確に設計できるかにかかっている。

公募するなら「市町村を救う英雄」を探してはいけない

もし日本の市町村が、このような制度を試みるなら、「市町村を立て直してくれる有名経営者募集」という話にしてはいけないだろう。

地方行政に必要なのは、救世主ではなく仕組みをつくれる人である。

行政経営者の成果を評価するときも、「財政を何億円削減したか」だけでは不十分だろう。公共施設の長期的な維持管理、職員採用と人材育成、行政手続に要する時間、住民サービスの利用しやすさ、デジタル化、広域連携、政策実施の速度、職員の働き方など、複数の指標を長期間追う必要がある。

しかも、単年度だけ成績を上げても意味がない。

公共施設の修繕を先送りすれば、その年度の支出は減る。しかし十年後には、より大きな費用となって戻ってくるかもしれない。職員数を一気に削減すれば人件費は下がるが、職員が疲弊し、採用できなくなり、行政能力そのものが低下する可能性もある。

行政経営とは、数字を小さくする技術ではない。

限られた資源を、住民が必要とする公共価値へ変換し続ける能力である。

だから行政経営者を導入するなら、その人物が何を決められるのか、何を市長や町長に諮らなければならないのか、何を議会が判断するのかをあらかじめ明確にしておく必要がある。そして成果が不十分なら交代できる仕組みも必要になる。

選挙で選ばれていない専門家を民主主義の外へ置くのではない。

専門家を民主主義の中でどのように使うかを設計する。

そこに、この構想の本質がある。

私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう

ここまで考えてくると、「行政経営者を置いたら市町村は良くなるのか」という問いは、少し違った問いへ変わっていく。

そもそも私たちは地方選挙で何を選んでいるのだろう。

候補者の人格を選んでいるのか。政策を選んでいるのか。地域の将来像を選んでいるのか。それとも、多数の職員と巨額の予算を動かす行政経営能力まで含めて、一人の人物に託しているのだろうか。

人口も税収も増えていた時代には、この問いは現在ほど切実ではなかったかもしれない。新しい学校を建て、新しい道路を造り、新しい公共施設を整備することが成長と結びつきやすかった。

しかし人口が減る時代には、地方政治そのものの性格が変わる。

新しいものをつくる以上に、何を残し、何を統合し、何をやめるのかを決めなければならない。その判断には住民から与えられた政治的正当性が必要であると同時に、人口予測、財政分析、施設管理、組織設計といった高度な行政経営能力も必要になる。

その二つを、一回の選挙によって選ばれた一人の首長に求め続けることが、人口減少時代にも最も合理的な制度なのだろうか。

もちろん、行政経営者を置けば市町村が必ず良くなるわけではない。

優秀な人材を採用できる保証はなく、市長や町長との対立が起きる可能性もある。行政経営者と議会の考えが衝突することもあるだろう。役割分担が曖昧なら、住民から見て「結局、誰が決めたのか分からない」という状態に陥る危険すらある。

そして何より、海外研究から日本の小規模自治体における効果を直接証明することはできない。

だから、この構想を「これからの地方自治の正解」と呼ぶのは早い。

しかし、「検討する価値のある仮説」としては十分に成立している。

人口減少とは、市町村の人口だけが小さくなっていく現象ではないからである。

人口が減り、職員が減り、税源が細り、専門人材を確保することが難しくなっても、行政が担わなければならない仕事は同じ速度では消えてくれない。

そのとき最初に限界を迎えるのは、道路でも水道でも学校でもなく、

「現在の行政組織を、現在と同じ方法で動かし続ける能力」

なのかもしれない。

選挙は、市町村がどちらへ向かうのかを決める。

行政経営は、そこへどのようにたどり着くのかを考える。

現実には、その二つを完全に切り離すことなどできない。しかし、切り離せないからといって、最初から同じ仕事だと考える必要もない。

選挙の夜、新しい市長や町長が壇上で地域の未来を語る。

翌朝、静かな役所や役場では予算書が開かれ、人員配置の相談が始まり、老朽化した施設の修繕費が積み上がり、数年後には更新しなければならない情報システムの予定表が置かれている。

市町村の未来は、おそらくその両方によってつくられている。

だから人口減少時代の地方自治について考えるとき、本当に問うべきなのは「誰を市長や町長に選ぶか」だけではない。

私たちは、選挙で選ばれた一人の首長に、いったいどこまでの仕事を背負わせようとしているのか。

その問いを立てるところから、人口減少時代の地方自治の次の形を考えることが始まるのではないだろうか。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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地方の将来を語る資料を開くと、かなりの確率で最初に人口のグラフが現れる。現在何人が住んでいて、十年後には何人になり、若い世代を何人呼び込み、出生数をどこまで回復させるのか。右肩下がりの折れ線が描かれ、その傾きを少しでも緩くすることが地域政策の使命であるかのように話が進んでいく。

それは決して不合理なことではない。人が減れば商店の客は減り、公共交通の利用者も少なくなる。広い地域に道路や水道管が張り巡らされたまま住民だけが減れば、一人当たりで支えなければならない社会基盤の負担も重くなりやすい。学校、医療、介護、商業にも利用者が必要であり、人口は地域の持続可能性を考えるうえで欠かせない数字である。

しかし、人口が重要な数字であることと、人口そのものを町の最終目標にすることは同じではない。

人口が増えた町は、本当にそれだけで「良い町」になったと言えるのだろうか。反対に、人口が減った町は、その減少率だけ暮らしまで悪くなったと考えてよいのだろうか。

人口減少が日本社会の日常になったいま、この一見当たり前に見える問いを、もう一度考え直す必要がある。

人口という数字が、いつの間にか町の成績表になった

人口が増えることを自治体が望むのには理由がある。若い世代が入り、子どもが生まれ、住宅が建ち、店に客が来る。税収や労働力の面でも有利になる場合が多い。人口増加期の日本では、人口と地域の発展はかなり近い方向を向いていた。

その時代には、人口は町の勢いを測る便利な指標だった。

ところが、前提そのものが変わった。

総務省統計局が2026年8月20日に公表した人口推計によれば、2026年8月1日現在の日本の総人口は概算で1億2268万人となり、前年同月より59万人、0.48%減少している。2026年3月1日の確定値でも総人口は1億2281万1千人で前年同月より61万人減っており、日本人人口は86万6千人減少する一方、外国人人口は25万7千人増加している。人口減少という大きな流れの中にも、自然増減、国内移動、国外との移動という異なる力が同時に働いていることが分かる。

さらに国立社会保障・人口問題研究所の「日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)」では、2020年を基準とすると、2050年の人口が2020年以上になる市区町村は77、全体の4.5%にとどまる。一方、1,651市区町村、95.5%では2020年を下回り、約6割の市区町村で3割以上減少し、約2割では半数未満になると推計されている。もちろん、これは出生、死亡、人口移動などについて一定の仮定を置いた「推計」であり、2050年の未来を確定する予言ではない。それでも、日本の大部分の自治体が人口減少を前提として将来を考えなければならない可能性が高いことは、この数字から十分に読み取れる。

この社会で、すべての町が人口増加だけを成功の条件にしたら何が起こるだろう。

出生率の改善や海外からの人口流入もあるため、自治体人口の増減を単純なゼロサムゲームとみなすことは正確ではない。しかし、とりわけ国内の若者や子育て世帯の転入を人口対策の中心に置けば、全国人口が減少するなかで、限られた転入希望者を自治体間で競う側面は強くなる。

その競争自体が悪いわけではない。住みやすさを競うことによって政策が改善されることもある。しかし、ほとんどの自治体が長期的には人口減少すると推計されている社会で、人口増加だけを町の合格条件にすれば、多くの地域が何を改善しても「失敗」という通知表を受け取り続けることになる。

問題は人口対策をやめるかどうかではない。

人口を何のために維持したいのか。その順序を問い直すことである。

人が減ることと、暮らしが悪くなることは同じではない

人口1万人の町を想像してみる。

町には病院がある。しかし、車を運転できない高齢者がそこへ行くには家族の送迎が必要である。駅はあるが列車は一時間に一本しかなく、スーパーまで歩けば四十分かかる。行政手続きには役場へ出向かなければならず、高校生の通学にも家族の車が欠かせない。

十年後、その町の人口が8000人になったとしよう。

人口だけを見れば20%の縮小である。

ところが、その十年間に予約型の乗合交通が整備され、診療所と基幹病院の連携が進み、日用品を自宅まで届ける仕組みが定着したとする。行政手続きの多くを自宅からできるようになり、中心部では徒歩圏内に住宅、商業、医療がまとまり始めた。

人口は減っている。

それでも、そこで暮らす一人の住民から見れば、十年前より生活しやすくなっている可能性がある。

反対の町も考えられる。人口が1万人から1万500人に増えたものの、住宅が郊外へ広がり、自動車がなければ生活できなくなり、中心部の商店が減り、道路や上下水道の維持範囲だけが広がったとしたらどうだろう。

500人増えたという数字だけで、「町が良くなった」と結論づけることはできない。

人口は町の大きさを教えてくれる。

しかし、そこで暮らす人がどのような一日を送れるのかまでは教えてくれない。

人口と生活品質は無関係ではないが、同じものでもない。この区別こそ、人口減少時代の地域分析では重要になる。

人口を「目的」から「条件」へ移してみる

そこで、政策の順序を逆転させてみたい。

町の最終目的を「人口を最大化すること」ではなく、「そこに暮らす人が、できる限り安心して生活を続けられる状態をつくること」と考えるのである。

こうすると、人口の重要性が失われるわけではない。人口は、生活を支えるために必要な条件の一つになる。

診療所には一定の患者数が必要であり、商店には一定の需要が必要である。公共交通にも利用者が必要で、水道や道路にも維持費を負担する社会が必要になる。ただし、その成立条件は「人口何人」という一つの数字だけでは決まらない。人口密度、年齢構成、所得、利用頻度、商圏の広さ、観光客や周辺地域からの利用、運営費、技術、行政支援などによって変わる。

人口5000人なら店が成立し、4999人になった瞬間に成立しなくなるわけではない。

重要なのは、それぞれのサービスを持続させるだけの需要と供給の条件が成り立つかどうかである。

このように考えると、「人口1万人を守る」という目標の意味も変わる。

なぜ1万人なのか。

救急医療を一定時間以内に受けられる状態を維持するためなのか。商業を維持するためなのか。学校教育の選択肢を残すためなのか。上下水道の一人当たり負担を一定水準に抑えるためなのか。

守りたい暮らしが先にあれば、その暮らしに必要な人口や居住密度を逆算できる。

人口目標を捨てるのではない。

人口目標の上に、人口を維持する理由を置くのである。

「何人いる町か」ではなく「何ができる町か」

町の成績表を人口から生活品質へ広げるなら、評価の仕方も変わる。

たとえば高齢になって運転免許を返納した翌朝を想像してみればよい。

スーパーまで行く手段がなくなる町と、電話やスマートフォンで予約すれば乗合交通が来る町がある。同じ5000人の町でも、その5000人が持っている生活の可能性は違う。

子どもが進学するとき、自宅から複数の学校を選べる地域と、一校がなくなれば長距離通学や転居が必要になる地域も違う。

病気になったときも、自治体の境界内に病院が一つ存在するという事実だけでは十分ではない。住民が実際に受診できるのか、どのくらいの時間で治療へ到達できるのか、専門医療が必要になったとき次の医療機関へつながれるのかという方が、生活の実態に近い。

つまり、地域の価値は施設の「存在」だけでなく、住民が必要な機能へ到達できるかによって測る必要がある。

買い物ができる。移動できる。医療を受けられる。教育を選べる。働ける。人と会える。そして、一つの店、一つの交通手段、一つの医療機関がなくなったときにも、別の方法へ切り替えられる。

この最後の「代わりがある」という条件は、人口だけではほとんど見えない。

人口8000人で選択肢が複数ある町と、人口1万5000人でも一つのサービスに全面的に依存している町では、後者の方が一つの撤退によって生活が大きく変わることさえある。

町の強さは、単に人が多いことだけではなく、生活の選択肢と代替可能性をどれだけ残せるかにも左右されるのである。

世界でも「人口や経済規模だけでは測れない」という考え方が広がっている

この考え方は、人口減少に悩む日本の地方だけから生まれたものではない。

OECD(経済協力開発機構)の地域ウェルビーイングの枠組みでは、地域の生活を所得、雇用、住宅、健康、サービスへのアクセス、環境、教育、安全、市民参加とガバナンス、地域社会、生活満足度という11の領域から見ている。OECD自身も、GDP(Gross Domestic Product・国内総生産)などの経済統計を超えて、人々が実際にどのような生活をしているのかを見る必要性を示している。

日本でも方向は同じである。

内閣府の「満足度・生活の質に関する調査」は、日本の経済社会を人々の満足度、すなわちWell-being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態)の観点から多面的に把握し、政策運営に活用することを目的としている。2026年7月31日には「満足度・生活の質に関する調査報告書2026」が公表された。

さらにデジタル庁は、地域幸福度(Well-Being)指標を地域のまちづくりにおける「共通指標」として活用し、市民、行政、事業者などが共通目標を持つための仕組みを進めている。そこでは医療・福祉、買物・飲食、住宅環境、移動・交通、教育、雇用・所得、地域とのつながりなど24カテゴリーが扱われ、アンケートによる主観指標と、オープンデータによる客観指標の双方が用いられている。

人口だけでは町を測れないという考えは、もはや抽象的な理念だけではない。

政策評価そのものが、少しずつ「何人いるか」から「人がどう暮らしているか」へ広がり始めている。

ただし「人口を忘れて幸福度だけ見ればよい」わけでもない

ここで反対側へ振れすぎてはいけない。

人口目標を批判した結果、「人口など減っても構わない」「幸福度だけ高ければよい」と考えてしまえば、別の単純化に陥る。

人口減少には現実の制約がある。

商店には売上が必要であり、医療機関には患者が必要である。公共交通には利用者が必要で、広い地域に住宅が散らばったまま住民が半分になれば、ごみ収集、訪問介護、水道、道路などを一人当たりで支える負担は一般に重くなりやすい。

国土交通省が「コンパクト・プラス・ネットワーク」を進めている背景にも、この問題がある。人口が減少したまま市街地が薄く広がれば、医療、福祉、商業などの生活サービスや公共交通を維持することが難しくなるおそれがあるため、居住を公共交通沿線や生活拠点へ緩やかに誘導し、サービスへのアクセスを確保しようという考え方である。

だから本当に問うべきなのは、「人口を増やすか、人口減少を受け入れるか」という二者択一ではない。

人口が減る可能性が高いなら、それでも生活を維持できるように町の形とサービスの提供方法をどう変えるかである。

ここに、人口減少政策と生活品質政策の接点がある。

町の大きさが変わるのに、町の形だけ昔のままでよいのか

人口が1万人から5000人になったとき、最も危険なのは「5000人になったこと」だけではない。

1万人だった時代につくった道路、水道、公共施設、住宅地、交通体系を、5000人で同じように支え続けようとすることが問題になる場合がある。

身体が小さくなったのに、昔の大きさの服をそのまま着続けるようなものである。

だから人口減少時代の町づくりでは、何を減らさないかだけでなく、何を組み替えるかが重要になる。

学校の数が減ることも、病院の数が減ることも、バス路線が減ることも、それだけを取り出せばサービス低下に見える。しかし、学校を再編したうえで通学手段を充実させ、医療機関を集約したうえで遠隔診療や送迎を組み合わせ、利用者の少ない固定路線を予約型交通へ転換した結果、住民が目的地へ到達しやすくなるなら、施設の数は減っても利用できる機能は必ずしも同じ割合で減るとは限らない。

ここで見るべきものは「何を残したか」ではない。

「何ができる状態を残したか」である。

施設ではなく機能を測り、距離ではなく到達可能性を測り、人口ではなく生活を見る。

そうすると、縮小と衰退は必ずしも同義ではなくなる。

「人を呼ぶ政策」と「出て行かなくてもよい政策」

人口増加を最上位目標から一段下げると、移住政策の見え方も変わってくる。

移住相談会を開き、住宅取得補助を設け、子育て世帯への支援を充実させ、一年間で百人の転入を実現すれば成果として分かりやすい。

しかし、転入した百人が五年後にもそこへ住んでいるかは別の問題である。

さらに、その一年に既存住民が百二十人転出しているなら、町の課題は「どうやって百人呼ぶか」だけでは解けない。

なぜ出ていくのかを見る必要がある。

ただし、ここでも因果関係を単純化すべきではない。人が地域を離れる理由には、就職、所得、進学、結婚、家族、住宅、医療、交通、子育てなど複数の要因が重なっている。生活環境を改善すれば必ず人口流出が止まる、というほど単純ではない。

それでも、現在住んでいる人が「この町では暮らし続けられない」と感じる原因を減らすことは、人口流出を抑える重要な条件の一つになり得る。

運転できなくなっても暮らせる。家族が病気になっても生活が破綻しにくい。子どもの教育を理由に転居しなくてもよい。仕事の形が変わっても住み続けられる。

こうした条件を増やしていく政策は、派手な転入者数としては現れにくい。

しかし、人口減少社会では、「何人呼んだか」と同じくらい「何人が出て行かずに済んだか」を考える必要がある。

100人増えた町と、1000人が便利になった町

ここで二つの町を比べてみよう。

一つの町は、一年間で移住者を100人増やした。

もう一つの町では人口は増えなかった。しかし予約型交通を改善し、それまで自動車がなければ通院や買い物に苦労していた1000人の移動環境を改善した。

どちらの政策成果が大きいのだろう。

人口だけを成果指標にすれば、答えは簡単である。100人増えた町が上になる。

しかし、行政の目的を住民生活の改善と考えるなら、比較は急に難しくなる。

100人の転入には、税収、地域経済、将来の担い手などさまざまな効果があり得る。一方、1000人の移動環境改善には、通院、消費、社会参加、自立した生活など広い効果があり得る。

どちらが上かは、単純には決められない。

そして、決められないという事実そのものが重要である。

人口という一つの数字だけでは、町づくりの成果を十分に評価できないからだ。

では、生活品質を一つの数字にすれば解決するのか

ここでも注意が必要になる。

人口だけでは町を測れないなら、代わりに「幸福度72点」のような一つの指数をつくればよい、と考えたくなる。

しかし、それでは人口という単一指標を、別の単一指標へ置き換えただけになる。

医療を重視する人もいれば、仕事を重視する人もいる。子育て世帯にとって重要な条件と、80歳の単身高齢者にとって重要な条件も同じではない。医療、交通、所得、安全、教育、自然環境をどのような比率で一つの点数へまとめるかには、必ず価値判断が入る。

デジタル庁の地域幸福度(Well-Being)指標も、自治体同士を一列に並べるランキングを目的としているわけではなく、地域自身が特徴や課題を把握し、まちづくりに利用することを重視している。

人口目標から生活品質目標へ移るということは、人口という一つの数字を捨て、幸福度という別の一つの数字を採用することではない。

むしろ、町は一つの数字では測れないと認めることである。

人口、所得、医療への到達時間、移動手段、買い物環境、住宅負担、教育機会、安全性、住民の満足度。それらを組み合わせて、どこが改善し、どこが悪化しているのかを見る。

少し面倒になる。

しかし、暮らしそのものが一つの数字ではない以上、その面倒さを引き受けなければ、本当の意味で町を測ったことにはならない。

「人口目標」をなくすのではなく、その上位に生活目標を置く

ここまで考えると、自治体の将来計画の書き方も変わってくる。

これまでの発想では、十年後の目標人口を決め、その人口を実現するために移住、子育て、産業、住宅などの政策を並べる。

これを逆にする。

十年後も、車を運転できない人が買い物と通院を続けられる町にする。救急医療への到達時間を悪化させない。子どもが教育機会を失わない。住宅と交通を合わせた生活負担を過度に増やさない。高齢になっても地域とのつながりを保てるようにする。

そうした生活目標を最初に置き、それを実現するためには、どの程度の人口が必要で、どの地域に居住を誘導し、どの施設を残し、何を統合し、どのサービスを別の方法へ置き換える必要があるのかを考える。

人口を無視するのではない。

人口を手段の側へ戻すのである。

小さくなることと、貧しくなることは同じではない

人口減少という言葉には、どこか敗北の響きがある。

人口3万人だった町が2万人になる。六つあった学校が四つになる。商店が閉まり、公共施設が統合される。地図から何かが消えるたびに、町が少しずつ失われているように見える。

その感覚を軽く扱うべきではない。学校にも商店にも、人の記憶がある。効率だけで地域を切り分ければよいわけではない。

それでも、残した施設の数だけで住民生活を測ることもできない。

六校をそのまま維持した結果、どの学校も極端な小規模化に直面するなら、四校へ再編して通学環境や教育内容を充実させるという選択肢もある。一日一本しか走らない路線を十本残すより、路線を整理して利用しやすい交通へ変える方が暮らしを支えられる場合もある。

何かが減ったから、必ず貧しくなったとは限らない。

大切なのは、減らした後に何を残せたかである。

自分で買い物へ行ける。必要な医療を受けられる。子どもが学べる。仕事を続けられる。誰かに会いに行ける。

そうした普通の行為が守られているなら、町の人口や施設数が小さくなっても、生活そのものまで同じように縮むとは限らない。

町の未来を決める「成績表」を変える

人口はこれからも地域分析に欠かせない。

出生数も、死亡数も、転入者数も、転出者数も、高齢化率も必要である。これらを見なくなれば、むしろ町の現実を見誤る。

しかし、それらは最終目的ではない。

人口5000人でも安心して暮らせる町と、人口1万人でも車を失った瞬間に生活できなくなる町があるなら、私たちが本当に知りたいのは人口の多さだけではない。

その数字の中で、人がどのような一日を送れるのかである。

これからの地方自治体の競争は、「昨年より何人増えたか」だけではなく、「昨年より何人が暮らしやすくなったか」を問う競争へ少しずつ変わっていく必要があるのではないだろうか。

人口を増やそうとする努力は必要である。

移住政策も、子育て支援も、産業政策も重要である。

ただ、その目的を見失ってはいけない。

町は人口表の数字を増やすために存在しているのではない。

人が暮らすために存在している。

朝起きて、食べるものを買い、必要なら病院へ行き、誰かと話し、働き、学び、年を取って車を運転できなくなった後も、できれば同じ土地で一日を終える。

人口減少時代に守るべきものは、そのような何でもない一日なのかもしれない。

人口を増やす政策から、人口を増やすことも含めて「普通の一日を守る政策」へ。

町を良くするとは、必ずしも昔の人口へ戻すことではない。

小さくなっても、そこで生きる人の暮らしまで小さくしないことなのである。

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