地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 地方の集落を歩いていると、ときどき道路の下にあるものの大きさを想像したくなる。山あいに十数軒の家が並び、その先は森になっているような場所にも水道管は延びている。蛇口をひねれば、何キロメートルも離れた浄水場で処理された水が届く。それは近代日本が築いてきた巨大な公共インフラの成果であり、私たちは日常生活のなかで、その仕組みをほとんど意識することなく安全な水を使っている。

 ところが人口が増え続けることを前提としてつくられたこの仕組みは、人口が減り続ける社会に入ると、別の顔を見せ始める。水道の問題というと、多くの場合は水道管の老朽化や漏水が話題になるが、人口減少地域で本当に深刻なのは、古くなった管そのものだけではない。その管を支える住民が減っていくことである。

 国土交通省の資料によれば、2023年度時点で全国の水道管路は約74万6000キロメートルに達し、そのうち法定耐用年数である40年を超えた管路は25.3%となっている。それに対して、1年間に更新される管路は全体の0.61%程度にとどまる。現在40年を超えている管路を今後20年間で更新すると仮定すれば、必要になる更新率は年間約1.27%であり、現在のおよそ2倍の速度で工事を進めなければならない計算になる。

 しかし、この数字以上に重要なのは、水道の利用者が減っても水道管の長さは同じ割合では減らないという事実である。仮に100人が暮らす集落へ3キロメートルの管路を延ばしているなら、一人当たりの管路延長は30メートルになる。人口が50人になっても住宅の配置がそのままなら、必要な管路はほぼ3キロメートルのままであり、一人当たりでは60メートルになる。さらに25人まで減れば120メートルである。住民が使う水の総量は人口とともに減っていくのに、その水を届けるための道路下の構造物はほとんど減らない。

 人口が増えていた時代には、この性質は問題になりにくかった。一本の水道管を大勢で共有すれば、一人当たりの負担を小さくできたからである。しかし人口減少は、その計算を逆向きにする。利用者が減るほど一人が支える管路は長くなり、料金収入が減る一方で、更新しなければならない道路下の距離は残り続ける。人口減少地域の水道では、やがて「どれだけ水を使うか」よりも「一人の生活を維持するために何メートルの管を支えなければならないか」の方が重要になってくる。

国が「同じ水道を造り直す」以外の選択肢を考え始めた

 この問題は、すでに研究者だけが議論している未来予測ではない。2026年3月、国土交通省は「水道事業における分散型システムの導入手引き」を公表し、従来の水道管網をそのまま更新する方法だけではなく、小規模な水道施設や運搬送水などを比較する考え方を示した。

 そこで優先的に分散型システムを検討する地域の目安として示されたのが、現在または将来の給水人口が100人以下、一人当たり管路延長が30メートル以上、さらに法定耐用年数を超えた管路が50%以上、または老朽化状況そのものが十分把握されていない地域である。ただし、この数字を境界線のように扱うのは正しくない。たとえば一人当たり管路延長が30メートルを超えれば分散型へ切り替えるべきだ、という意味ではなく、「今と同じ管路網を造り直す方法だけでなく、別の給水方法も計算してみるべき地域」を見つけるための目安である。

 実際にどちらが合理的かは、水源までの距離、地形、高低差、水質、既存施設の残存寿命、工事費、電力費、維持管理人員、将来人口、災害危険度などによって変わる。同じ人口50人の集落でも、近くに良質な地下水がある場所と、水源そのものを確保しにくい場所では答えが違う。人口密度だけから全国一律の正解を導くことはできないのである。

 それでも国がこうした手引きを公表した意味は大きい。これまで水道政策では、既存施設をどう更新するかという議論が中心だったが、人口減少が進む地域では「本当に今と同じ形で更新する必要があるのか」という問いそのものが政策の中に入ってきたからである。国土交通省が掲げる方向も、集中型を捨てて分散型へ移行するという単純なものではなく、「集約型・分散型のベストミックスによる施設の最適配置」である。

大きな浄水場と小さな浄水場を比べても答えは出ない

 分散型の話をすると、「小さな浄水施設では効率が悪いのではないか」という疑問が生じる。これはもっともである。浄水処理だけを考えれば、大規模施設には規模の経済が働きやすい。一つの設備で大量の水を処理すれば、処理水一単位当たりの設備費や管理費を低くしやすいからであり、人口が密集した都市で巨大な浄水場と広域配水網が合理的なのは、この仕組みがあるためである。

 ところが人口の少ない地域では、浄水に必要な費用だけを比べても意味がない。水をつくったあと、その水を何キロメートル運ばなければならないのかまで考える必要がある。山の向こうに20戸しかない集落のために数キロメートルの老朽管を掘り返し、新しい管へ交換するのであれば、その集落の近くに小規模な浄水施設を設置した方が、設備単体では割高でも社会全体では安くなる可能性がある。

 つまり本当に比較すべきなのは「大きな浄水場」と「小さな浄水場」ではない。「大きな浄水場と長い管路」と「小さな浄水施設と短い管路」という二つのシステム全体である。建設費だけではなく、維持、修繕、電力、薬品、更新まで含めたLCC(Life Cycle Cost・ライフサイクルコスト、施設を建設してから維持・更新するまでに必要となる総費用)を比較して初めて、どちらが合理的なのかが見えてくる。

 国土交通省が示したケーススタディでも、既存施設を更新し続ける案、浄水を車両などで集落まで運ぶ運搬送水、小規模な水道施設を設置する案が比較されている。一定の仮定のもとでは小規模水道施設の方が安くなる事例も示されており、「分散型だから必ず安い」のではなく、「長い管路の更新費まで含めると逆転する地域が現実に存在する」というのが、より正確な理解だろう。

分散型水道と「水を循環させる家」は同じものではない

 ここで一つ、区別しておかなければならないことがある。現在、国が導入を具体的に検討している分散型水道と、家庭や小さな地域の内部で使用した水を再生して循環させる「小規模分散型水循環システム」は、同じ段階にある技術ではない。

 現在の分散型水道として現実的に想定されているのは、集落の近くにある地下水や河川水などを小規模施設で処理して給水する方法や、別の浄水場で処理した水を車両などで運び、集落内の配水池から供給する方法である。長い管路を維持する代わりに、水をつくる場所や運ぶ方法を変えるのであり、この考え方はすでに導入検討の対象になっている。

 一方、さらにその先には、住宅や数戸の単位で水を循環させる仕組みが考えられている。雨水を集め、生活排水を処理して再利用し、外部から供給される水の量そのものを少なくする。従来の水道が「遠くにある水源から水を送り続けるシステム」だとすれば、こちらは「使う場所の近くで水を回すシステム」であり、発想としては水道の歴史をかなり大きく変える可能性を持っている。

 実際、国土交通省は石川県珠洲市などで住宅向け小規模分散型水循環システムの実規模実証を進めている。ただし、これはすでに全国どこでも導入できる完成技術になったという意味ではない。年間を通した運転、水質の安定性、設備の保守、交換部品、故障時の対応、そして長期間使用した場合の総費用について、まだ検証すべき課題が残っている。2026年3月の分散型システム導入手引きでも、各戸型浄水装置などについては技術実証中であることなどから本格的な対象には含められていない。

 したがって、地方の水道が明日から家庭内循環型へ変わると考えるのは早すぎる。しかし、長大な管路を当然の前提とせず、「水を運ぶ距離そのものを減らす」という考え方が技術開発の方向として現れていることは確かである。

地震に強いのは集中型か、分散型か

 分散化にはもう一つ魅力的に見える点がある。災害時の強さである。2024年の能登半島地震では、水道施設や基幹管路が被災し、広い範囲で断水が発生した。大きなネットワークでは、重要な浄水場、送水管、配水池などが損傷すると、その先に暮らす多数の住民へ影響が広がることがある。

 だからといって、「集中型水道は災害に弱く、分散型なら強い」と結論づけることもできない。集中型水道でも、複数の水源を持ち、管路を環状につなぎ、耐震管や緊急連絡管を整備することで、一か所が壊れても別経路から供給できるようにすることは可能である。反対に分散型では、小さな設備が多数存在するため、それぞれの設備の故障、水源汚染、停電、部品不足、保守人員不足という別のリスクが生まれる。

 重要なのは、災害リスクの種類が変わることである。大規模集中型では一つの重要施設の障害が広域へ波及する危険があり、分散型では被害を小さな区域に限定できる可能性がある一方、設備数が増えることで管理対象も増える。さらに山間部の小規模水源が土砂災害危険区域にあれば、その水源そのものが集中型より危険になる場合すらある。どちらが安全かという問いにも、全国共通の答えはない。

 ただし、人口が少なく、一本の長い管路に集落全体が依存している地域では、その管路を短くできること自体が災害時の復旧を容易にする可能性はある。何十キロメートルもの管路のどこが壊れているのか探すより、小さな給水区域の設備を修復する方が早い場合もあるからである。分散化の価値は「絶対に壊れないこと」ではなく、壊れたときの影響範囲を小さくできる可能性にある。

設備を分散させても、管理まで分散させる必要はない

 しかし、小規模施設を山間部にいくつも設置すれば、別の現実が待っている。水道は設備を置けば終わるものではない。フィルターを交換し、ポンプを整備し、水質を検査し、異常があれば原因を調べなければならない。飲料水では「だいたい安全」という管理は許されず、水源によって水質も異なれば、降雨や季節によって条件も変化する。

 しかも人口減少地域では、水道施設だけでなく、それを管理する技術者も減っていく。十数人しか住んでいない集落ごとに専門技術者を常駐させることなど現実的ではない。分散型水道が広がるほど、「小さな施設を大量に誰が管理するのか」という問題が大きくなる。

 そこで興味深い考え方が、「施設は分散しても、管理は統合する」という方法である。水道技術研究センターなどでも、小規模水道を物理的には地域ごとに残しながら、運転情報や水質情報を一か所へ集約し、専門職員が複数地域を管理する分散ネットワーク型の考え方が検討されている。

 各集落に小さな浄水設備があり、その流量、水質、ポンプの状態を遠隔監視する。異常がなければ人間は常駐せず、必要なときだけ専門技術者が巡回する。そうなれば、水道施設そのものは地域に分散していても、技術力まで小さな集落へ分散させる必要はない。人口減少時代には、設備を大きく集約するよりも、情報と専門人材だけを集約する方が合理的な地域が現れるかもしれない。

水道を残すことと、水道管を残すことは同じではない

 ここまで考えると、人口減少地域の水道問題は、従来型か分散型かという二者択一ではないことが分かる。町の中心部には人口がある程度集中しており、既存の浄水場や管路を多くの住民が共有できるため、従来型の大規模水道を維持する方が合理的かもしれない。しかし、そこから山を越えた十数戸の集落まで数キロメートルの管を更新し続けるのであれば、小規模浄水施設や運搬送水の方が安くなる可能性がある。そのさらに外側に数戸しか住宅がなければ、将来は各戸型の浄水や水循環技術が選択肢になるかもしれない。

 つまり、一つの自治体のなかでも水道の姿が一種類である必要はない。中心部には従来型水道があり、周辺集落には小規模水道があり、さらに遠隔地では別の給水方式が使われるという組み合わせの方が合理的になる可能性がある。国土交通省が「集約型・分散型のベストミックス」と表現しているのは、まさにこの考え方である。

 人口が増え続けた時代、日本の社会基盤は「つなぐこと」によって豊かになった。道路を延ばし、電線を延ばし、電話線を延ばし、水道管や下水管を延ばした。ネットワークへ接続される人が増えるほど、一人当たりの負担は小さくなり、全国の小さな集落まで都市と同じサービスを届けることができた。

 ところが人口が減り始めると、同じネットワークが反対方向へ動き始める。人が減るほど、一人のために維持しなければならない道路、水道管、電線、公共施設の量が増えていく。人口減少とは、単に利用者が少なくなる現象ではなく、過去につくった巨大なネットワークを、より少ない人間で支える社会へ移行することである。

 そう考えると、水道政策で守るべきものも少し違って見えてくる。守るべきなのは、何十年前に敷設した水道管そのものではない。住民が蛇口をひねったとき、安全な水を必要な量だけ使える生活である。その生活を維持する方法が長い管路である必要はない。

2050年、地図から消えるのは「水道」ではなく「管路」かもしれない

 2050年の山間集落を想像してみよう。住民は30人しかいないが、集落そのものは残っている。数十年前なら、遠くの浄水場から何キロメートルもの管を延ばすことが近代化だった。しかしその頃には、集落の近くに小型浄水設備が置かれ、設備の状態は遠隔監視され、専門技術者が複数の地域を巡回しているかもしれない。ある住宅では雨水や再生水が生活用水の一部として利用され、外部から供給する水の量そのものが小さくなっている可能性もある。

 もちろん、全国がこの形になるわけではない。水源が乏しい地域では大規模水道を残す方が安全かもしれず、人口が比較的密集している地域なら管路を更新した方が安い。逆に、水源に恵まれ、住宅が点在し、管路だけが異様に長い地域では、分散型への転換が合理的になるかもしれない。正解は技術思想から決まるのではなく、地域ごとの数字から決まる。

 だから人口減少時代の水道に必要なのは、「集中型を守るか、分散型へ変えるか」という思想的な対立ではない。何人が暮らし、何キロメートルの管を維持し、いつ更新が必要になり、別の方法ならどの程度の費用とリスクになるのかを、一つの給水区域ごとに計算することである。その計算を重ねていけば、ある場所では長い管路が残り、別の場所では消えていく。

 将来、地方の地図から少しずつ姿を消していくものは、水道そのものではないのかもしれない。消えていくのは、人の少なくなった土地を何キロメートルも走る「長い水道管」であり、その代わりに水を使う場所の近くでつくり、必要に応じて運び、やがては一部を循環させる小さな仕組みが増えていく可能性がある。

 人口増加時代の水道は、遠く離れた人々を一本のネットワークへつなぐことによって発展した。しかし人口減少時代には、その一本をどこまで短くできるかが、水道を守る条件になるのかもしれない。

 私たちが本当に守りたいのは、水道管なのではない。蛇口から安全な水が出るという生活である。その目的を守るためなら、むしろ水道管を減らすことが必要になる地域が、これから日本のあちこちに現れる可能性がある。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 山あいの細い道路を、一台の軽バンがゆっくり登っていく。荷室にはいくつもの段ボール箱が積まれているが、山の上の集落で降ろす荷物は二つか三つしかない。谷に沿って曲がる道路を走り、橋を渡り、さらに支道へ入り、一軒の家の前で停車して荷物を渡せば、配送員はまた同じ道を戻らなければならない。この光景を物流という仕組みから眺めると、人口減少地域が抱える問題の輪郭が見えてくる。困っているのは荷物が多すぎるからではなく、むしろ少なすぎるからなのである。

 ドローン配送という言葉から、多くの人が最初に思い浮かべるのは離島だろう。海によって道路が完全に途切れている以上、空を飛ぶ機械との相性はいかにもよさそうに見える。しかし、物流の効率を決めるのは、単純に道路があるかないかではない。むしろ重要なのは、一個の荷物を届けるために、車両と人間を何分間拘束しなければならないかという問題である。その観点から考えると、ドローンが社会的な意味を先に持つ場所は、海の向こうの島ではなく、道路ではつながっているはずなのに、少量の荷物を届けるため長い時間を必要とする中山間地域なのかもしれない。

荷物が減れば、物流も小さくできるとは限らない

 人口が半分になれば宅配便の荷物も減るのだから、配送に必要な労力も半分になりそうに思える。しかし、物流には規模の縮小がそのまま効率化につながらないという厄介な性質がある。百軒の住宅が密集する市街地なら、一台の車が短い距離を移動しながら次々に荷物を降ろせるため、一個の荷物に必要な走行時間は小さい。これに対して、十軒の家が谷の向こうや山腹に離れて存在している地域では、荷物の数が十分の一になったとしても、道路そのものの長さまで十分の一になるわけではなく、むしろ一個を届けるための移動時間は大きくなっていく。

 国土交通省も、過疎地域では貨物量の減少と積載効率の低下によって物流サービスを持続的に提供することが難しくなっていると認識しており、2025年には「ラストマイル配送の効率化等に向けた検討会」が設置された。2024年度の宅配便取扱個数は約50億個に達しているが、全国で荷物が多いことと、人口の薄い地域で一件一件を効率よく届けられることは別問題であり、地方物流ではむしろ「何個運ぶか」より「一個を届けるため何分使うか」の比重が大きくなっている。

 この構造を象徴する事例として、北海道上士幌町について国土交通省の検討資料に示された数字は興味深い。市街地では荷物全体のおよそ8割を配送するのに配送時間の約2割しか使わないのに対し、農村部では荷物の約2割を届けるために配送時間の約8割を費やすという。これは上士幌町という特定地域の事例であり、全国の過疎地域にそのまま当てはまる法則ではないが、人口密度が低くなると配送量より配送時間の方が問題になるという構造をよく示している。

 もし地方物流の本質がここにあるのなら、ドローンの性能を見るときにも視点を変える必要がある。何キログラム積めるか、時速何キロメートルで飛べるかだけではなく、一個の荷物を届けるために失われていた配送員の時間を何分取り戻せるかという尺度で評価しなければ、本当の価値は見えてこない。

地図では近い家を、道路は遠くする

 山間部では、二つの地点が直線で2キロメートルしか離れていなくても、川や尾根が間にあれば、自動車は5キロメートル、場合によっては10キロメートル以上走らなければならない。道路とは地形に沿って引かれた一本の線であり、車はその線から外れることができないのに対し、ドローンは条件が整えば二地点をより直接的に結ぶことができるため、中山間地域ではこの差が時間差として表れやすい。

 日本郵便が東京都奥多摩町で行った実証では、山間部の直線距離約2キロメートルをドローンで結び、自動車で移動する場合のおよそ半分の時間で到着したと報告されている。もちろん一回の実証から全国の山村について同じ割合の時間短縮が可能だとはいえないが、谷沿いに遠回りする道路と直線的に飛行できる航空経路の違いは、中山間地域においてドローンが比較優位を持ち得る理由を端的に示している。

 ここで離島との違いを考えると、ドローン配送についての直感が少し変わってくる。離島は確かに海によって道路から切り離されているものの、既存の定期船が十分な積載率で機能している地域では、食品、飲料、日用品、建材などをまとめて大量に運ぶことができる。数キログラムの荷物をドローンで何往復もするより、一度に大量の物資を運べる船舶の方が単位重量当たりの輸送効率で有利になる場合が多く、日本郵便も離島では一定規模の輸配送量をまとめる必要があることから、まず既存物流ネットワークの活用を考えるという趣旨の見方を示している。

 もっとも、これは離島にドローンが向かないという意味ではない。船便が少ない島、港から集落までさらに長い陸上輸送が必要な島、緊急性の高い医薬品を少量だけ運ぶ場合などでは、ドローンが極めて有効になる可能性がある。重要なのは「離島か山村か」という地理区分そのものではなく、大量輸送ができる既存手段があるか、一個の荷物のためにどれだけ遠回りしなければならないかという物流条件なのである。

ドローンが置き換えるのはトラックではなく、最も長い寄り道かもしれない

 山梨県小菅村で進められてきた物流の仕組みは、この問題を考えるうえで示唆に富む。村外から届いた荷物を地域内の配送拠点へいったん集め、すべてをドローンで運ぶのではなく、住宅がまとまっている区域では陸上輸送を使い、地理的条件から配送効率の悪い区間にドローンを組み合わせる。そこには宅配便だけでなく、買い物代行や地域内配送なども組み込まれ、2021年から社会実装へ進んだのち、周辺自治体との共同配送へも展開してきた。

 この仕組みが興味深いのは、「トラック対ドローン」という対立になっていないことである。一度に多くの荷物を積み、住宅がまとまった区域を順番に回る仕事では、現在でも自動車は極めて優秀な輸送手段である。一方、数キログラムしかない荷物一つを積んで山道を何十分も往復する仕事になると、人間が運転する車両の長所である大量輸送能力がほとんど生かされない。

 地域物流を一本の木に例えるなら、都市から地域まで荷物を運ぶ太い幹には大型トラックが必要であり、集落を結ぶ太い枝には軽貨物車が適している。その先で山の向こうへ細く長く延び、数軒の家のためだけに存在する枝にまで同じ車両を走らせるから非効率が生まれるのであり、その部分だけをドローンへ受け渡すことができれば、物流網の大部分を変えなくても、人間の時間を最も多く奪っていた場所だけを改良できる。

 ドローン配送の未来というと、空を無数の機体が飛び交い、玄関先へ荷物が自動的に降りてくる光景が想像されがちだが、人口減少地域で先に実用性を持つのは、むしろこのような地味な仕組みではないだろうか。トラックをなくすのではなく、トラックが最も苦手とする仕事だけを空へ逃がすのである。

「一機に一人」では物流革命にならない

 ただし、ドローンが空を飛べるというだけでは、物流費は安くならない。一台のドローンを飛ばすたびに一人の操縦者が付き続けなければならないなら、配送員を操縦者へ置き換えただけになり、機体購入費、整備費、電池、通信、保険などを加えれば、かえって従来配送より高くなる可能性すらある。この問題はドローン物流の採算性を考えるうえで極めて重要であり、近年の制度整備も機体性能だけでなく、人間一人がどれだけ多くの機体を安全に管理できるかという方向へ移り始めている。

 国土交通省が2025年に策定した多数機同時運航のガイドラインでは、当初、一人の操縦者が最大5機を管理することが想定されていたが、2026年6月の改訂では、段階的な検証と安全対策を条件として同時運航機数の一律上限が撤廃された。その目的には運航効率と事業採算性の向上が明確に掲げられており、ドローン物流が「飛行できるか」という技術実証の段階から、「何機を何人で動かせば事業になるか」という経営と運航設計の段階へ移りつつあることが分かる。

 日本郵便も2026年に兵庫県豊岡市で複数機の同時運航を用いた物流実証を進め、使用機体には最大5.5キログラムを積載し、荷物搭載時でも40キロメートル以上飛行できる仕様のものが採用されている。兵庫県、豊岡市、日本郵便は同年、中山間地域の物流機能維持を目的とした連携協定も締結しており、ここでも目的は未来的な飛行技術の披露ではなく、人口減少地域で物流そのものを維持できるかという現実的な課題に置かれている。

人が少ない地域だからこそ使いやすいという逆説

 もう一つ興味深いのは、人口の少なさが従来物流には不利である一方、一定の条件下ではドローン運航には有利に働く可能性があることである。日本では2022年から、人がいる地域の上空を操縦者の目の届かない状態で飛行する、いわゆるレベル4飛行が制度上可能になったが、市街地のように歩行者や住宅が多い場所では、第三者に対する安全確保の要求も当然高くなる。

 一方、中山間地域などで利用されるレベル3.5飛行では、機上カメラなどによって飛行経路下の安全を確認することで、従来必要だった補助者や看板などの配置を簡素化できる。したがって、「人口が少ないから簡単に飛ばせる」と一般化することはできないものの、人口密度が低く、山林や農地など第三者が飛行経路下へ立ち入る可能性の低い場所では、従来の配送を不利にしていた地理的条件の一部が、逆にドローン運航上の利点へ変わる場合がある。

 人が少ないため宅配車一台を効率よく使えなくなった地域が、その人の少なさゆえに新しい輸送手段を導入しやすくなるとすれば、これは人口減少地域を考えるうえで象徴的な逆転である。地方の弱点をすべて都市と同じ条件へ戻そうとするのではなく、その弱点を別の技術の長所へ変換できるかという発想が必要になる。

それでも、空だけでは暮らしは支えられない

 もちろん、ドローンが地方物流の万能薬になるわけではない。現在想定されている配送用ドローンが得意なのは、主として軽量で比較的小さな荷物であり、米袋を何十袋も運んだり、飲料水、家具、灯油、建材といった重量物を日常的に大量輸送したりする用途では、依然として自動車や船舶の方が適している。風雨、気温、視界などによって飛行できない場合もあり、機体ごとに積載量や飛行距離、降雨や風に対する運用限界も存在する。

 したがって、過疎地域で必要なのは「ドローンだけで完結する物流網」ではなく、飛べない日は車両へ戻すことができる冗長性を備えた物流網である。国土交通省が進めるドローン配送拠点への支援でも、地方公共団体や物流事業者が連携し、トラックなどの陸上輸送とドローンを組み合わせることが前提となっており、政策的にも全面的な空輸への転換ではなく、既存物流の弱い部分を補完する技術として位置づけられている。

 将来、山間部を走る宅配車が消えるとは考えにくい。むしろ変わるのは、一台の車が必ずすべての家を訪問しなければならないという現在の配送方法だろう。朝、地域の物流拠点へトラックがまとめて荷物を運び、住宅が比較的密集する区域は軽貨物車が回り、軽くて急ぎで道路では大きく遠回りしなければならない荷物だけがドローンへ移される。悪天候の日や大きな荷物は従来通り車で運び、宅配便、買い物代行、地域商店の商品、条件によっては医薬品なども同じ配送基盤へ載せることができれば、人口が減っても複数の物流サービスを別々に維持する必要は小さくなる。

問題は「店があるか」ではなく「暮らしが届くか」

 地方の買い物問題は、スーパーが閉店した日に突然始まるわけではない。最初は店が少し遠くなり、次にバスの便が減り、自動車を運転できなくなった高齢者が買い物へ行きにくくなり、その後、宅配便の維持が難しくなって配送日数が延び、一部の商品を届けてもらいにくくなる。そのような小さな不便が一つずつ積み重なった末に、住民の中で「ここではもう普通に暮らせない」という判断が生まれる。

 そう考えれば、日用品物流は単なる民間の宅配サービスではない。水道や道路ほど目立つ存在ではなくても、牛乳や洗剤、紙おむつ、食品や薬が必要なときに届くということ自体が、地域で生活を続けるための基礎条件である。

 ドローン配送による作業時間削減については、2025年に国土交通省の検討会へ提出された事業者側資料で、一定割合の荷物をドローンへ移すことで全国的に大きなドライバー作業時間を削減できるという試算も示されている。ただし、これは約170自治体への導入やドローン配送可能率など複数の仮定に基づいた推計であり、将来確実に実現する数字として扱うべきものではない。それでも、その試算が示している考え方は重要で、ドローンの価値を「何個運んだか」ではなく、「人間が運転する必要のなくなった時間が何時間生まれたか」で測ろうとしている。

 過疎地域の物流で本当に問うべきなのは、ドローン一便とトラック一便の料金を単純に比べてどちらが安いかという問題ではないのだろう。一人の配送員が一日に回れる家が減り続けたとき、その人が最も時間を奪われる十軒をドローンに任せることで、残りの百軒への配送を維持できるのか。もしその十軒のためだけに別の配送員を確保せずに済むなら、ドローンそのものが単独で利益を生まなくても、地域物流網全体としては経済的な意味を持つ可能性がある。

 その意味で、ドローンは赤字の配送路線を突然黒字へ変える魔法の機械ではなく、採算限界へ近づいている物流網から最も負担の大きい部分を取り除き、その仕組み全体をもう少し長く維持するための装置として考えた方が現実に近い。

離島より先に「普通の山村」で始まる未来

 では、ドローン配送は本当に離島より先に過疎地域の日用品物流を救うのだろうか。現在までの実証や物流理論からは、少量配送が中心で、住宅が分散し、道路の迂回が大きく、第三者が飛行経路へ立ち入る可能性も比較的低い中山間地域では、ドローンの比較優位が先に現れる可能性をかなり合理的に説明することができる。ただし、それが全国的な採算データによって証明された段階にはまだ達しておらず、「離島より中山間地域が必ず先になる」と断定することはできない。

 おそらく最初に起きるのは、無数のドローンが住宅地の上空を飛び交うような劇的な変化ではない。物流会社ごとに別々だった荷物が地域の一つの拠点へ集まり、住宅密度の高い場所はこれまで通り車で配送され、その中から軽く、急ぎで、道路では遠回りになり、配送員の時間を大きく奪う荷物だけが選ばれて空を飛ぶという、かなり地味な変化だろう。

 既存の定期船が大量輸送を効率的に担える離島では、船という強力な輸送手段がすでに存在している。一方、人口の薄い山村には、数個の荷物のために数十分の山道を走るという、大型トラックにも軽貨物車にも効率の悪い仕事が毎日のように残されており、ドローンはその空白に入り込むことができる。

 そう考えると、ドローン配送の本当の競争相手はトラックでも船でもないのかもしれない。山道を三十分走って一個の荷物を届け、さらに三十分かけて元の道を戻る、その一時間こそが競争相手なのである。

 人口が減る町で最後まで守らなければならないのは、人口という数字そのものではない。食品を買えること、薬が届くこと、荷物を送れること、必要な物が必要なときに手に入り、ここに住んでいても普通の生活を続けられると思えることである。山の上を飛ぶ小さな機体が本当に価値を持つとすれば、それは未来的な乗り物だからではなく、人口減少社会の物流網からこぼれ落ちようとしている最後の細い枝を、地上の仕組みとともにつなぎ止めることができるからなのである。

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 市町村の将来について話し合う会議では、しばしば一枚の人口グラフが議論の空気を決める。現在一万人の町が十年後には八千人になり、その先には六千人になるという右肩下がりの線を見せられると、この線を何とか上向かせなければならないという感覚が生まれる。移住者を呼び込み、若い世帯に住んでもらい、出生数を増やし、企業を誘致して働く場所をつくる。人口が減ることが問題なら、人口を増やすことが解決策になるという考え方は、確かに分かりやすい。

 もちろん、実際の自治体が文字どおり「人口最大化」だけを目的として動いているわけではない。近年は国の地方創生政策でも、人口減少を前提として地域社会をどう維持するかという考え方が強くなり、住民の幸福や暮らしやすさを政策評価に取り込もうとする動きも広がっている。それでも、人口の増減が自治体の将来を語る際の非常に強い指標であり続けていることも事実である。「人口が増えた町」は成功しているように見え、「人口が減った町」は何かに失敗したように見える。この感覚は、自治体政策を考える私たちの中にかなり深く入り込んでいる。

 そこで、一度だけ評価の物差しを入れ替えてみたい。人口をできるだけ減らさないことを中心に据えるのではなく、「その町で暮らす住民一人一人が得られる生活上の価値を、持続可能な範囲でできるだけ高くすること」を自治体経営の中心目標に置いたら、町の姿はどのように変わるのだろうか。

人口一万人の町は、人口八千人の町より豊かなのか

 仮に二つの町があるとする。一方は人口一万人を維持しているが、病院まで車で四十分かかり、買い物にも自動車が欠かせず、高齢者が運転免許を返納すると日常生活そのものが難しくなる。空き家は増え続けているのに住宅地は広く分散し、道路、水道、公共施設を少ない利用者で支えている。

 もう一方の町では人口が八千人まで減っているものの、住宅や商業、医療、行政機能がある程度まとまり、日常の買い物には十五分程度で行くことができ、公共交通や乗合サービスによって自動車を運転できなくなっても生活を続けられる。医療へのアクセスも改善し、老朽化した公共施設は整理され、自治体財政にも一定の余裕が残っている。

 人口だけで評価すれば、一万人の町の方が優れている。しかし、そこに暮らす人間から見たとき、本当にそう言い切れるだろうか。この疑問から見えてくるのは、人口には確かに重要な意味があるものの、それ自体が住民生活の最終目的ではないということである。

 人口が多ければ税収を確保しやすくなり、スーパーや飲食店も営業しやすくなる。学校、病院、公共交通なども一定数の利用者がいるから成立するのであり、人口が減り過ぎればそれらを維持できなくなる。この意味で人口は極めて重要である。しかし、その重要性は「人が多いほど無条件に良い」から生じているのではなく、人口が地域のサービスや経済や人間関係を支える基盤になっているから生じている。

 そう考えると、人口は自治体の最終目的というより、良い生活を成立させるための重要な条件の一つだと考えた方が自然になる。

人口を目的から「制約条件」へ移してみる

 この考え方を採用すると、人口政策をやめる必要はない。むしろ人口が持つ意味を、より正確に考えられるようになる。

 病院を維持するためには一定の診療圏人口が必要であり、商店にも一定の購買人口が必要になる。公共交通にも利用者が必要で、地域産業を維持するには働く人がいなければならない。したがって、自治体には生活サービスを成立させるために必要な人口規模や人口構成が存在する。

 しかし、その必要水準を超えて人口を増やすことが、常に同じ大きさの利益を住民にもたらすとは限らない。人口を一万人から一万一千人に増やすための政策よりも、現在住んでいる一万人の通院時間を短くしたり、交通費を下げたり、生活必需品を買える場所を維持したりする政策の方が、住民生活に大きな効果を及ぼす場合もあり得る。

 人口をこうした「制約条件」として見ると、政策の問いも変わる。「人口を何人まで増やすか」ではなく、「医療、商業、交通、教育、地域経済を成立させるためには、どのような人口構成が必要なのか」を考えるようになるからである。

自治体の成績表が変わる

 自治体の目標が変われば、政策の成績を測る方法も変わる。転入者が何人増えたか、出生数がどれだけ増えたか、人口減少率がどれだけ改善したかという数字は引き続き重要だが、それだけでは自治体の成果を十分に説明できなくなる。

 代わりに重要になるのは、住民の日常生活そのものに近い数字である。病院まで到達するために必要な時間がどれだけ短くなったのか、高齢者が自動車を使わずに買い物できる割合がどれだけ増えたのか、子どもが保護者の送迎なしに学校や公共施設へ移動できる範囲がどれだけ広がったのか、住宅費と交通費を支払った後に手元へ残る所得がどう変化したのか、といった指標である。

 近年、こうした考え方に近い政策評価はすでに現れ始めている。地域の豊かさを所得や人口だけで測るのではなく、健康、住宅、教育、安全、環境、行政サービスへのアクセス、人とのつながり、生活満足度など複数の側面から評価するWell-Being(ウェルビーイング・身体的、精神的、社会的に良好な状態)の考え方が、国や国際機関でも使われるようになっている。

 ここで重要なのは、「幸福度」という曖昧な感覚だけに政策を置き換えることではない。所得、時間、交通、医療、住宅、安全性など、実際に測定可能な生活条件と、住民自身が感じる満足度の両方を見ることで、人口という一つの数字では捉えられなかった地域の実像を測ろうとすることである。

「移住者百人」の意味まで変わる

 政策の評価軸が変われば、移住政策にも別の姿が見えてくる。

 人口を主な成果指標にすれば、二十人の移住者は基本的に二十人である。しかし地域生活の維持という視点に立つと、その二十人が地域にどのような機能を加えるのかによって意味は異なる。地域に医師が不足しているなら医師一人の移住が医療アクセスを変えるかもしれず、電気工事業者がいなくなる地域なら一人の技術者が生活インフラの維持に大きく貢献する可能性がある。スーパーや飲食店を引き継ぐ人、介護や福祉を担う人、地域交通を運営する人も同様である。

 これは人間そのものに価値の高低をつける話ではない。政策が見るべきなのは人間の価値ではなく、その地域で不足している機能に対して、どの政策がどの程度の効果を与えるかということである。

 その意味では、人口千人を増やす政策より、地域唯一の食品店一軒を存続させる政策の方が、ある町では多くの住民の日常生活を支えることもある。人口という数字では小さく見える変化が、生活価値という視点では非常に大きな変化として現れるのである。

町を小さくすることが、生活を大きくする場合もある

 生活価値を中心に置いた自治体経営では、町の空間的な形も変わる可能性がある。

 人口が減少しているにもかかわらず、住宅地、道路、水道管、公共施設などが人口の多かった時代と同じ範囲に広がったままであれば、少ない人数で広大な都市設備を支えることになる。人口密度が低くなれば、一人当たりに必要なインフラ維持費が高くなり、公共交通も利用者を集めにくくなる。

 そこで住宅、医療、買い物、行政サービス、交通拠点などを一定の地域へ少しずつ集めることができれば、住民の移動距離を短縮しながら、公共交通や商業サービスを成立させやすくできる場合がある。国が進めてきた「コンパクト・プラス・ネットワーク」も、人口減少のなかで都市機能と居住をある程度集約し、それらを交通で結ぶという方向性を持っている。

 もちろん、集約すれば必ず行政費が下がり、住民生活が良くなるわけではない。地形、歴史的な集落構造、土地価格、住民の移転負担などによって結果は変わる。それでも、人口が減る地域で「すべての場所を以前と同じ形で維持すること」が無条件に最善だとは考えにくくなっている。

 町の地図が少し小さくなったとしても、その中で病院、商店、交通、行政サービスが以前より近くなるのであれば、地図上の縮小をそのまま生活上の衰退と呼ぶことはできない。人口減少社会では、「町が小さくなること」と「暮らしが悪くなること」を別の問題として考える必要がある。

しかし「一人当たり最大化」には危険な罠がある

 ここまで読むと、人口の代わりに住民一人当たり生活価値を最大化すれば、ほとんど問題が解決するようにも見える。しかし、この考え方には重大な弱点がある。「一人当たり」という言葉には、平均値によって社会の一部を見えなくしてしまう危険があるからである。

 例えば中心市街地の千人に対するサービスを改善する政策と、山間部に住む十人を支援する政策を比較すれば、一人当たりの行政効率では前者が有利になる場合が多い。障害のある人への支援や、医療・介護を大量に必要とする高齢者へのサービスも、単純な費用対効果だけで評価すれば不利になりやすい。

 もし住民全体の平均的な生活価値だけを最大化すれば、多数派の生活を少し便利にする代わりに、少数の住民の生活を大幅に悪化させても、平均値だけは改善するという事態が起こり得る。その町を「良い町」と呼ぶことには大きな問題がある。

 したがって自治体政策に必要なのは、単純な平均値の最大化ではない。平均的な生活条件を改善すると同時に、もっとも条件の悪い住民が一定水準以下に落ちないようにする仕組みが必要になる。医療、交通、教育、買い物などについて最低限保障する水準を定め、その水準を守ったうえで全体の生活価値を高めるという考え方である。

 ここまで来ると、自治体経営は単なる効率化ではなくなる。効率性を求めながら、公平性をどこまで保障するのかという、政治そのものの問題になる。

そもそも「生活価値」は一つの数字にできるのか

 さらに難しい問題がある。生活価値というものを、本当に一つの数字として測ることができるのかという問題である。

 例えば、平均所得が五%上昇した一方で通院時間が十分長くなった町と、所得は変わらないが医療へのアクセスが大きく改善した町を比較するとき、どちらの生活価値が高くなったと判断すればよいのだろうか。住宅費、健康、教育、自然環境、安全性、人とのつながりなどを一つの指数にまとめようとすれば、それぞれにどの程度の重みを置くか決めなければならない。

 しかし「健康は所得の何倍重要なのか」という問いに、統計だけで唯一の答えを出すことはできない。そこには必ず価値判断が入り込む。

 したがって「生活価値最大化」という言葉は、一つの万能指数をつくり、その数字だけを上げればよいという意味に理解すべきではない。むしろ人口だけでは見えなかった複数の生活指標を並べ、住民や議会が何を重視するのかを明らかにしながら政策を判断するための考え方として使った方がよい。

 人口一万人という数字は誰が見ても一万人だが、「良い暮らし」とは何かについては社会的な議論が必要になる。その意味では、生活価値を中心に据える自治体経営は、人口目標よりも簡単になるのではなく、むしろ難しくなる。

現在の住民だけ幸せなら、それでよいのか

 さらに時間という視点を加えると、もう一つの問題が現れる。

 例えば自治体が積み立ててきた基金を大きく取り崩し、交通を無料にし、公共施設を増やし、行政サービスを充実させれば、現在暮らしている住民の生活満足度を短期間で高められるかもしれない。しかし十年後に財政余力を失い、道路や上下水道の更新費を負担できなくなれば、その政策を成功と呼ぶことはできない。

 したがって最大化すべきものは「現在の住民一人当たり生活価値」だけではない。現在の住民の暮らしを改善しながら、将来世代にも同程度の生活基盤を残せるかどうかを見る必要がある。

 人口、財政、インフラ、自然環境、地域産業、人材は、現在だけのために存在しているわけではない。生活価値という考え方に持続可能性を組み込まなければ、未来から資源を借りて現在を豊かに見せる政策まで高く評価してしまうことになる。

人口減少そのものに問題がないわけではない

 ここで一つ誤解してはいけないのは、生活価値を重視すれば人口減少を気にしなくてよいということではない。

 人口が急激に減れば、税収、労働力、商業需要、医療、交通、教育など多くの分野に負担が生じる。年齢構成が大きく偏れば、人口総数以上に地域サービスの維持が難しくなる場合もある。研究でも、人口減少は生活満足度などに負の圧力を与える可能性が示されており、人口減少そのものを無害な現象と考えることはできない。

 それでも重要なのは、「人口が減少した」という事実と、「町が悪くなった」という評価を完全に同一視しないことである。

 人口八千人の町が十年後に七千人になったとしても、その間に救急医療への到達時間が短縮され、高齢者が自動車なしで生活できるようになり、空き家が減少し、子どもが移動しやすくなり、住民の可処分所得が増え、自治体の将来負担も軽くなったのであれば、その十年間を単純な失敗と呼ぶことは難しい。

 人口は減った。しかし町は暮らしやすくなった。この二つは十分に両立し得る。

「人数を増やす自治体」から「暮らしを設計する自治体」へ

 人口減少が長期的に続く地域では、人口を増やす政策と同時に、人口が減った場合にも暮らしを維持できる設計を進めなければならない。人口が再び増加することだけを前提に道路、学校、病院、住宅、公共交通を考えるのではなく、人口が減少しても必要な機能を維持できる形に町そのものを組み替えていくのである。

 そのとき自治体間の競争も少し違ったものになる。人口十万人の自治体が人口九万人の自治体より優れているとは限らず、人口を何人獲得したかだけで政策の巧拙を判断することもできなくなる。むしろ住民一人が日常生活でどれだけ多くの選択肢を持てるのか、病気や老化によって生活条件が変化してもその町に住み続けられるのか、行政サービスを将来世代まで維持できるのかという点が自治体の本当の実力として見えてくる。

 人口という数字には強い視覚的な力がある。一万人より九千人、九千人より八千人の方が町そのものが小さくなったように感じられる。しかし人間は人口表の中で暮らしているわけではない。朝起きて家を出て、仕事へ行き、買い物をし、病院へ行き、誰かと話し、家へ帰る。その一日の連続の中に自治体が存在している。

 スーパーまで十五分なのか四十分なのか、病気になったときに治療へたどり着けるのか、運転免許を返納した後も自分の家で生活できるのか、子どもがこの町から出ていったとしても、ここで過ごした時間を良いものだったと思えるのか。自治体の価値とは、本来そうした日常の小さな条件が積み重なったところにある。

 だから自治体の目標を人口から生活価値へ移すということは、人口問題を無視することではない。人口を王様の座から降ろし、財政、交通、医療、住宅、教育、地域経済と並ぶ重要な変数の一つとして扱うことである。

 そして最終的に目指すものも、単純な「住民一人当たり生活価値の最大化」だけでは足りない。より正確には、人口構成、財政、インフラ、環境などの制約の中で住民の生活価値を高めながら、条件の悪い住民の最低生活水準を守り、さらに将来世代にも暮らしを維持できる基盤を残すことになる。

 効率性だけでもなく、公平性だけでもなく、現在だけでも未来だけでもない。その三つを同時に考える自治体経営である。

 人口減少時代に必要なのは、「どうすれば町をもっと大きくできるか」という問いだけではない。

 小さくなっていく町の中で、一人の暮らしをどこまで豊かにできるのか。

 自治体の本当の成績表は、人口グラフの向こう側にあるのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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 午前八時、町の端にある住宅の前で一台の車が止まる。乗り込むのは病院へ向かう高齢者である。診察が終わるまで車は病院の駐車場で待っているわけではない。別の利用者を送り、その途中でスーパーに立ち寄り、前日に注文された食料品を積む。二軒の家へ商品を届けるころには、最初の患者から診察が終わったという連絡が入る。病院へ戻って自宅まで送り、午後には駅へ向かう住民を乗せる。条件が整えば、薬局側が必要な服薬指導や品質管理を行った調剤済みの薬を運ぶ仕事まで、この一日のどこかへ組み込めるかもしれない。

 この車を、何と呼べばよいのだろう。

 タクシーと言えばタクシーである。しかし荷物も運んでいる。配送車と言えばそうなのだが、人も乗せる。通院送迎車でもあるが、病院へ行く人だけのために走っているわけではない。

 人口の多い都市なら、こうした仕事を分けても困らない。タクシー会社が人を運び、配送事業者が商品を運び、病院や福祉事業者が送迎車を走らせる。それぞれの仕事に十分な需要があるなら、分業した方が効率的だからである。

 しかし人口が減っていく地域では、事情が逆転する。

 病院へ行きたい人がいなくなるわけではない。食料を必要とする人が消えるわけでもない。駅へ行く人もいる。ただ、一つ一つの需要が、一台の車と一人の運転手を一日働かせるほど大きくなくなる。

 人口減少地域で失われているのは、需要そのものというより、需要の「密度」なのである。

地方交通を壊すのは「少ない客」だけではない

 車を一台維持するには、走っているときだけでなく、止まっているときにも費用がかかる。車両費、保険、整備、車検、営業所、運行管理、そして運転手の人件費は、乗客が乗っていない時間にも消えない。

 だから地方交通の採算を考えるとき、一回の乗車で何キロ走ったかだけを見ても本質は分からない。

 一人を十キロ先の病院まで送ることより、その人を降ろしたあと次の利用者が現れるまで一時間待つことの方が、経営上は重大になることがある。人口の多い場所では、ある客を降ろした先で別の客を乗せられる。病院から駅へ行き、駅から住宅地へ向かい、住宅地から商業施設へ向かうというように、小さな需要が連続して一日の仕事になる。

 人口が薄くなると、その鎖が切れる。

 午前九時に病院へ一人を送ったあと、十一時まで仕事がない。午後二時には一人だけ買い物へ行きたい人がいる。夕方には駅から一件の依頼がある。しかし、その三件だけのために車両と運転手を一日確保し続けなければならない。

 OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development・経済協力開発機構)とITF(International Transport Forum・国際交通フォーラム)も、需要応答型交通を低密度地域に適した選択肢として評価する一方、一回の利用当たりでは従来型交通より高価になる場合があり、それだけで地方交通問題を解決するものではないと指摘している。地方交通では、単に「小さい車へ替える」だけではなく、地域に散在している需要そのものをどう束ねるかが重要になる。

 そこで、人を待っている時間には荷物を運び、荷物のない時間には人を運ぶという発想が出てくる。

 これは、一台の車に無理やり仕事を詰め込むことではない。

 一日の中に散らばっている小さな需要を、一台の車の時間軸の上へ並べ直すことなのである。

ところが、需要は少なければ少ないほど統合しやすいわけではない

 ここで一つ、直感に反することが起こる。

 貨客混載は人口の少ない地域ほど有効に思えるが、需要が少なすぎても成立しない。

 たとえば、一日にタクシー利用が一件、配送が一件、通院が一件しかなく、それぞれの目的地が町の三方向に二十キロずつ離れているとする。この三件を一台へまとめても、走らなければならない距離そのものはほとんど減らない。仕事が少ないため車両の空き時間は増えるが、その空き時間を埋めるだけの別の需要も存在しない。

 反対に、需要が十分に多ければ、やはり統合する必要性は小さくなる。

 朝から晩までタクシーの予約が続く地域なら、その車へ配送を追加するより、タクシーとして動かし続けた方がよい。配送だけで一台が終日稼働するなら、配送車を独立させた方が運行しやすい。

 つまり貨客混載が最も効果を発揮するのは、需要が極端に少ない場所でも、十分に多い場所でもない。

 それぞれ単独では一台を維持できないが、合わせれば一台分程度の仕事になる地域である。

 ここに、地方交通を考えるうえで重要な「中間領域」がある。

 人口だけを見て「三千人以下なら貨客混載」と決めることはできない。同じ人口三千人の町でも、住宅が中心部にまとまっている町と、山間部の広大な範囲に集落が点在している町では条件がまるで違う。住民数より、何時に、どこから、どこへ、どれだけの移動が発生しているかを見る必要がある。

 交通政策を人口表だけで考える時代から、需要の時刻と位置を見る時代へ移らなければならないのである。

本当に重要なのは「同じ車に載るか」ではなく「時間と方向が重なるか」

 一台三役を成功させる条件をもう少し細かく見ると、さらに重要なものが見えてくる。

 仮に、午前八時から十時に通院需要があり、十一時から午後一時に配送需要があり、午後三時以降に駅との往復需要がある地域なら、一台の車を順番に使いやすい。三種類の需要が存在することより、三種類の需要のピークがずれていることに価値がある。

 ところが午前九時に通院予約が三件あり、同じ時間にスーパーから十件の配送依頼が入り、九時十五分着の列車からタクシー利用者が降りてくれば、一台三役は一瞬で「一台不足」になる。

 さらに時間だけでなく、方向も重要である。

 病院へ向かう途中に配送先があるなら、多少の寄り道で済む。しかし病院が町の北、配送先が南、次の利用者が東にいるなら、仕事を統合した結果として空車距離を増やすことさえある。

 したがって貨客混載による経済効果は、「仕事を何種類まとめたか」では測れない。

 統合によって減る空車距離や待機時間、共有できる車両費や運転手の時間が、逆に増える迂回距離、積み下ろし時間、予約調整、運行管理、システム費用を上回るかどうかで決まる。

 ここまで考えると、地方交通の問題はかなり数理的な姿を現す。

 人にも荷物にも、出発地点と目的地がある。さらに「九時までに病院へ着きたい」「午後四時までなら商品を受け取れる」といった時間条件がある。車には定員と積載量があり、運転手には労働時間の限界がある。それらを同時に満たしながら、総走行距離や総労働時間を小さくする経路を探すことになる。

 実際、鳥取県若桜町のタクシー運行履歴を利用した2023年の研究では、旅客と貨物を統合した場合について、混合整数計画法を使って運行を再現し、利益だけではなく、限られた運転手で全需要を処理できるかまで検討している。貨客混載は理念ではなく、すでに「どの条件なら成立するか」を計算する対象になっているのである。

稼働率は高ければ高いほどよい、という誤解

 もう一つ、地方交通を考えるときに陥りやすい罠がある。

 止まっている車を減らせば効率が良くなるのだから、できるだけ車を休ませずに働かせればよいように思える。しかし現実の運行システムでは、稼働率を限界まで上げると別の問題が起こる。

 午前中の予定がすべて隙間なく埋まっている車を考えてみる。一人目の診察が十分遅れただけで、その後の配送が遅れ、次の利用者の迎車が遅れ、午後の予約までずれていく。

 空き時間は、一見すると無駄に見える。

 しかし、その一部は「遅れを吸収する余白」でもある。

 待ち行列理論で考えても、処理能力ぎりぎりまで需要を詰め込んだシステムでは、わずかな変動によって待ち時間が急激に増えやすい。病院の診察時間、道路状況、乗降に必要な時間は毎日一定ではないため、一台を百パーセント働かせることを目標にすると、利用者から見た信頼性を犠牲にしかねない。

 地方交通に必要なのは最大稼働率ではない。

 必要なときに使える余裕を残しながら、過剰な空車を減らすことなのである。

 2026年に公表された日本の複数地域を比較する研究でも、旅客と貨物の統合を継続できる条件として、車両の余剰能力と運行の柔軟性が重要であることが指摘されている。これは「空いている能力を使う」ことと「能力を限界まで使う」ことが違うという意味でもある。

地方交通は「車を配る仕事」から「時間を編集する仕事」へ変わる

 そう考えると、未来の地方交通を左右するのは車両そのものより、運行を組み立てる能力かもしれない。

 午前九時の診察予約は動かしにくい。その予定を中心に置く。翌日までに届けばよい日用品なら、配送時刻を一時間ずらしても問題がないかもしれない。病院へ利用者を送り届けた車が、迎えまでの時間を使って近隣の配送を行う。大きく迂回する配送ならその時間には入れない。

 つまり、すべての需要を同じ重要度として扱うのではなく、「時間を動かせない需要」と「動かせる需要」を組み合わせるのである。

 ここで情報技術が効いてくる。

 OECDは、需要応答型交通について、予約情報を集め、経路をその都度調整する技術の発達によって、地方での運用可能性が高まっていると整理している。日本でも、需要に応じて経路や配車を計算する交通はすでに多数の自治体で導入されている。

 しかし重要なのは、スマートフォンのアプリを導入することではない。

 地域に存在している移動需要を一つのデータとして見ることである。

 病院の送迎予約は病院だけが持ち、スーパーの配送情報はスーパーだけが持ち、タクシー予約はタクシー会社だけが持つ。そのままでは、一台の車が三つの需要を合理的に組み合わせることはできない。

 一台多役を成立させるために、本当に統合しなければならないのは車より先に情報なのである。

そして、最大の難問は「誰を先に乗せるか」になる

 ここまで来ると、単なる効率化では解けない問題が現れる。

 午前九時に病院へ行かなければならない人と、九時十五分の列車に乗らなければならない人が同時に予約してきたとする。車は一台しかなく、両方には間に合わない。

 どちらを優先すべきだろう。

 料金を多く払う人なのか。予約が早かった人なのか。医療目的を優先するのか。あるいは、遠隔地に住む人を優先するのか。

 これは経路計算では解けない。

 地方交通を統合すればするほど、これまで別々の事業者の中に隠れていた「誰を優先するのか」という公共政策上の問題が、一つの配車システムの中へ現れてくる。

 単純に総走行距離を最小にするよう設計すれば、中心部に住む人ばかりを順番に乗せた方が効率的になるかもしれない。山間部の一軒へ迎えに行くには往復一時間かかるため、その利用者を後回しにすれば数字は改善する。

 しかし、その人こそ自家用車を運転できず、代替交通を最も必要としている可能性がある。

 交通政策で最小化すべきものは費用だけではないのである。

 地方交通研究では、交通そのものを増やすことより、医療、買い物、仕事、社会活動へ到達できる「アクセシビリティ」、つまり生活上必要な機会へ到達できる程度を政策目標として考える方向が強まっている。地方で交通が不足すると、移動の不便だけでなく、医療や社会参加からの排除へつながり得ることも長く研究されてきた。

 日本の地方部を対象とした研究でも、需要に応じて走る交通が、高齢者などを含む交通アクセスの不平等を改善し得ることが示されている。

 地方交通を「一人を一キロ運ぶ費用」だけで評価すると、この価値を見落とす。

人を運ぶのか、それとも物を運ぶのか

 ここからさらに一歩進めると、地方交通とは本当に人間を運ぶ仕事なのか、という問いに行き着く。

 住民が必要としているのは、タクシーそのものではない。

 病院にかかれることなのである。

 スーパーへ行くことそのものが目的でなければ、食料が家へ届いてもよい。薬局まで行けなくても、必要な服薬指導や本人確認、品質管理が適切に行われる仕組みがあれば、調剤済みの薬を届けてもらえる場合もある。

 つまり生活を維持する方法には、「人をサービスへ運ぶ方法」と「サービスを人へ運ぶ方法」がある。

 十人を一人ずつスーパーへ往復させるより、一台が十軒へ商品を届ける方が効率的な地域もある。一方、住宅が極端に散らばっていれば、一台の配送車が十軒を巡回するより、住民を一定の時間にまとめて店舗へ送る方が合理的かもしれない。

 最初から人を動かすと決める理由はないのである。

 人口減少社会の交通政策は、「どうやって住民を目的地へ連れていくか」から、「人と物のどちらを動かせば、より少ない資源で生活を成立させられるか」へ広がっていく。

本当に共有すべきなのは車だけではなく、運転手である

 さらに厳しい制約がある。

 運転手である。

 人口減少地域では、移動支援を必要とする高齢者が増える一方、それを仕事として担える現役世代は減っていく。車両なら予算を付けて購入できても、運転手は購入できない。

 タクシー用に一人、病院送迎に一人、配送に一人を配置すれば、三つの事業がそれぞれ人手不足になる。一人の運転手が、需要の重ならない時間に複数の役割を担当できるなら、同じ労働力から提供できるサービス量を増やせる可能性がある。

 しかし、ここでも「兼務すれば効率化」という単純な話ではない。

 荷物を積めば荷役時間が生じる。高齢者の乗降を手伝えば時間がかかる。利用者の予約変更があれば経路を変更しなければならない。荷物の誤配防止まで運転手へ任せれば、仕事は複雑になる。

 人口減少地域で不足している人材へ、効率化という名前でさらに多くの仕事を載せれば、制度そのものが長続きしない。

 一人の運転手に複数の仕事を任せるなら、その代わりに運転手が行う判断は減らさなければならない。配車、配送順、利用者情報、受け渡し手順などを後方で整理し、運転手が安全運行と利用者対応に集中できる仕組みが必要になる。

「一台にまとめる」と「一台しか持たない」は違う

 一台多役の議論には、もう一つ見落としてはならない危険がある。

 一台を効率よく使えるからといって、本当に一台だけにしてよいとは限らない。

 もし通院送迎、買い物配送、一般タクシーを一台へ完全に依存した状態で、その車が故障したら何が起きるだろう。三つのサービスが同時に止まる。

 これは、一台多役が生み出す新しい脆弱性である。

 従来は病院送迎車が故障しても配送車は走れた。統合すれば車両数を減らせる一方、一台の故障が地域生活の複数部分へ波及しやすくなる。

 だから合理的な設計は、「町に一台しか置かないこと」ではない。

 複数台ある車から用途の固定を外し、その日の需要によって役割を組み替えることかもしれない。

 たとえば二台ある車を、一台はタクシー、一台は配送と固定するのではなく、午前中は二台とも通院需要へ回し、昼には一台を配送へ、もう一台を一般利用へ回す。どちらかが故障しても、もう一台で最低限のサービスを維持できる。

 ここまで来ると、「一台三役」という言葉の意味も変わる。

 本当に目指すべきなのは車両数を一台まで削ることではなく、一台一役という固定観念をやめることなのである。

「タクシーが赤字か」だけでは答えを間違える

 さらに難しいのは、この仕組みを何の収支で評価するかである。

 一台多役を導入しても、タクシー事業だけを見れば赤字のままかもしれない。しかし、その車があることで病院の送迎車を減らせたらどうだろう。自治体が別に契約している買い物支援車両を減らせたらどうだろう。家族が仕事を休んで高齢の親を病院へ送る回数が減ったらどうだろう。

 タクシー会社の決算書には、家族が半日仕事を休んだ時間は載らない。病院の送迎車の費用も、スーパーの配送費も載らない。

 しかし町全体から見れば、どれも住民の生活を維持するために投入されている資源である。

 だから地方交通の評価単位を、一つの事業者から地域全体へ広げなければならない。

 さらに、交通がなくなったことで病院へ行くのを諦める人や、買い物の回数を減らす人が出れば、それは単なる交通費の問題ではなくなる。OECDの国際比較でも、距離や交通手段を理由に必要な医療を遅らせたり断念したりする問題は、都市部より地方部で生じやすいことが示されている。

 つまり公共交通の価値には、「今日何人乗ったか」だけでは測れない部分がある。

 普段は利用しなくても、車を運転できなくなったときに移動手段が存在すること自体が、住み続けられるかどうかを左右する。

 地方交通は、利用者数の少ない日に価値がゼロになるインフラではないのである。

制度上できることと、地域で回ることは別問題である

 貨客混載そのものは、もはや制度上の空想ではない。

 国土交通省は2023年、一定の許可と地域関係者の協議を条件として、従来より広い地域でバスやタクシーを利用した貨物運送を可能にした。さらに2026年4月には、旅客事業者と貨物事業者が相互の事業を行う場合の許可や運行管理に関する取扱いも改正されている。

 しかし、制度が許すことと、経営として続くことは同じではない。

 2026年の日本の事例比較研究が示しているのも、この点である。統合交通には継続している事例がある一方、停止・終了したものもあり、車両の余剰能力、運行の柔軟性、荷物の量、配送先、地域関係者の協力などが成否を分けている。

 したがって、一台多役を導入する前に自治体が調べるべきなのは、「全国に成功事例があるか」ではない。

 自分の町で、どの時間帯に何人がどこへ行き、どの店から何個の荷物がどこへ運ばれ、何台の車が何時間止まり、何人の運転手が何時間空いているかである。

 成功事例をコピーするのではなく、町の一日を測る。

 地方交通の再設計は、そこから始まる。

一台の車が救えるのは、町ではなく「分断された時間」なのかもしれない

 結局、「タクシー・買い物配送・通院送迎を一台で兼ねれば、地方交通を維持できるのか」という問いに、全国共通の答えはない。

 需要があまりに少なければ、統合しても一台を支えられない。需要が多ければ、それぞれを専門化した方がよい。その中間で、異なる需要の時間帯がずれ、移動方向がある程度重なり、運転手と車両に適度な余白がある地域では、統合によって維持可能性を高められる余地が大きくなる。

 しかも、効率化を追いすぎて車両と運転手を限界まで働かせれば、少しの遅れで一日の運行が崩れる。逆に安全のために余裕を持ちすぎれば、従来と同じ高コスト構造に戻ってしまう。

 必要なのは、最大効率ではない。

 必要なサービスを失わない範囲で、重複している余白を共有することである。

 人口が増えていた時代には、需要が増えるたびに車を増やすことができた。病院は病院の車を持ち、スーパーはスーパーの車を持ち、自治体は自治体のバスを持ち、タクシー会社はタクシーを持った。一つの仕事に一台を割り当てることが、豊かな社会の合理性だった。

 人口が減る時代には、その逆を考えなければならない。

 車を減らす前に役割の壁を減らす。人だけでなく物も動かす。住民をサービスの場所へ運ぶだけでなく、サービスの方を住民へ運ぶ。そして組織ごとに交通を所有するのではなく、一つの地域の「移動能力」として考え直す。

 朝、昨日と同じ車が車庫を出る。

 病院へ行く人を乗せ、その次には食料を運び、午後には駅から帰る人を迎える。仕事の名前はそのたびに変わる。しかし車から見れば、やっていることは一日中ほとんど同じである。

 人か物を積み、必要としている場所へ運んでいるだけだ。

 私たちの制度と事業の方が、それをタクシー、配送、通院送迎という別々の仕事に分けてきたのである。

 一台の車が地方を救うわけではない。

 けれども、人口が減ったあとにも同じ分業を守り続けなければならない理由もない。

 地方交通の未来を決めるのは、何台の車を残せるかだけではなく、限られた車と限られた運転手の時間を、どれだけ上手に重ねられるかである。

 そして最終的に残すべきなのは、タクシーという業種でも、バスという制度でもない。

 車を運転できなくなった日にも、病院へ行ける。食料が届く。必要なら駅へ行ける。そして、その仕組みを地域が無理なく支え続けられる。

 維持すべきなのは交通機関の名前ではなく、そうした「移動できる暮らし」なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 地方の人口減少対策という言葉から、多くの人がまず思い浮かべるのは「人を呼ぶこと」だろう。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、空き家を改修し、子育て世帯を歓迎する。自治体の広報には、都会から移り住んできた家族が笑顔で写り、「この地域を選びました」と語る。そうした姿は確かに明るいニュースであり、新しい住民を迎えること自体に意味がないわけではない。

 しかし、自治体庁舎の正面玄関から新しい住民を迎えているあいだにも、別の出口から、これまでそこで暮らしてきた住民が静かに出て行っているとしたらどうだろう。大学へ進学したいから地域を離れる若者もいれば、もっと大きな仕事に挑戦したいから都会へ出る人もいる。それは人生の選択であって、自治体が止めるべきものではない。

 問題は、それとは別の転出である。本当はここに住んでいたいのに、車を運転できなくなれば買い物が難しくなり、子どもが高校生になると通学が負担になり、診療所では対応できない病気になれば遠くの病院まで通わなければならない。配偶者を亡くして一人になった途端、それまで何とか成り立っていた日常生活が急に難しくなることもある。

 こうした人たちは、必ずしも地域が嫌いになったわけではない。ただ、その地域で暮らし続けるための条件が少しずつ失われたのである。人口減少時代の地域政策を考えるなら、ここにはかなり重要な問いが隠れているのではないだろうか。「どうしたら人に来てもらえるか」を考える前に、「なぜ今ここにいる人が、出て行かなければならないのか」を調べる。人口問題を見る方向を、ほんの少し反対側へ向けてみるのである。

人口は「来た人」だけで決まるわけではない

 人口の変化そのものは、実はそれほど複雑な話ではない。出生した人が加わり、死亡した人が減り、転入した人が加わり、転出した人が減る。その結果として、ある年の人口が決まる。ところが地域政策の世界では、この四つの要素のうち「転入」だけが妙に目立つことがある。

 年間百人が移住した地域は成果を説明しやすい。だが、百人が移住してきても百二十人が転出すれば、社会移動だけを見れば人口は二十人減る。一方で、移住者が三十人しかいなくても、これまで毎年百人出ていた地域から七十人しか出なくなれば、同じ三十人分だけ人口減少は緩和される。算数としてはごく当たり前の話だが、政治や広報の世界になると、この二つは同じようには扱われない。

 その理由の一つは、新しく来た人には「物語」があるからだろう。東京から移住してカフェを始めた夫婦、海の近くで子育てを始めた家族、古民家を改修して事業を始めた若者には、写真があり、言葉があり、「地方創生」という言葉によく似合う印象的な場面がある。

 ところが、七十八歳の住民が今年も転居しなかったことには、ニュースらしい出来事がない。買い物の送迎サービスができたので、免許を返納したあとも同じ家で暮らせた。診療所へ行く方法が確保されたので、自治体外に住む子どもの家へ移らなくて済んだ。統計上、その人にはほとんど何も起きていないように見えるが、人口減少社会では、その「何も起きなかった」という事実こそ、政策の成果なのかもしれない。

「住みたい地域」と「住み続けられる地域」は同じではない

 人口政策を考えるうえで、もう一つ大切な区別がある。「この地域に住みたいか」と「この地域に住み続けられるか」は、同じ問いではない。人はある地域を気に入っていても、交通、仕事、教育、医療などの条件によって、その地域から離れざるを得ないことがある。

 考えてみれば、これは不思議なことではない。海が好きだと感じている人でも、病院へ通えなくなれば海を離れるかもしれない。近所付き合いが心地よくても、子どもが学校へ通えなければ家族は転居を考える。地域への愛着がどれほど強くても、それだけでスーパーまでの距離が縮まるわけではなく、運転できなくなった高齢者の足が自動的に確保されるわけでもない。

 つまり転出には、少なくとも性質の異なる二つの形がある。もっと別の場所で暮らしたいから出て行く移動と、ここで暮らしたいのに生活条件のために出て行く移動である。前者は人生上の選択に近く、後者は生活上の制約に近い。

 自治体が人口政策として減らすべきなのは、人が地域を出る自由ではない。減らすべきなのは、「出たくないのに出なければならない理由」なのではないだろうか。地域の居住意向を扱った調査や研究でも、買い物、医療・福祉、仕事や学校、移動の利便性といった生活そのものに関わる条件が、住み続けたいという意向や転出の判断と結び付くことが指摘されている。

 ここから見えてくるのは、地域の人口流出が、必ずしも地域そのものの魅力不足だけで起きるわけではないということである。観光地として美しく、住民同士の関係も良好で、それでも暮らしのどこかに小さな「行き止まり」ができれば、人はその地域から出て行かざるを得なくなる。

人を呼ぶ政策は長所を探し、人が残れる政策は欠点を探す

 移住政策をつくるとき、自治体は地域の良いところを探す。海があります、山があります、魚がおいしい、土地が安い、都会まで二時間です、子育て環境が充実しています、といった具合に、「この地域を選ぶ理由」を一つずつ見つけていく。

 ところが、住民が出て行かなくてもよい地域をつくろうとすると、行政が見る景色はほとんど反対になる。なぜ七十五歳になると暮らしにくくなるのか。なぜ子どもが高校生になると家族まで地域を離れるのか。なぜ配偶者を亡くした高齢者は自治体外の子どもの近くへ移るのか。なぜ仕事を続けたい世代が残れないのか。こちらは地域の長所を集めるのではなく、地域の弱点を一つずつ見つけていく作業になる。

 この作業は、移住パンフレットほど華やかではない。しかし、人口減少地域に本当に必要なのはこちらかもしれない。一日に数本しかない路線バスを昔と同じ形で維持することが難しいなら、乗り合い交通という別の方法を考える。スーパーそのものを残せないなら、配送や移動販売によって買い物の機能を残す。すべての診療科を自治体内に置けないなら、オンライン診療や広域病院への移動手段を組み合わせる。

 大切なのは、過去に存在したサービスをそっくりそのまま残すことではない。住民の生活が途中で行き止まりにならないように、必要な機能を別の形で残すことである。

人口減少時代には「便利な地域」より「詰まない地域」が重要になる

 大都市と地方を、店の数や鉄道の本数、病院の数で競わせれば、地方が勝つことは難しい。地方都市に百貨店を何軒も置くことはできず、鉄道を十分間隔で走らせることもできない。すべての地域に総合病院を置くことも現実的ではない。

 しかし、便利さが少ないことと、暮らせないことは同じではない。スーパーが一軒しかなくても、その店へ行く方法があれば生活はできる。病院が自治体外にあっても、必要なときに無理なく到達できればよい。高校が自治体内になくても、安定した通学手段が確保されていれば、それだけを理由に家族全員が引っ越す必要はない。

 反対に、車を運転できなくなった瞬間に、買い物、通院、銀行、行政窓口への移動が一斉に難しくなる地域は脆い。一つの条件が崩れただけで、生活全体が成立しなくなるからである。これは地域を一つのシステムとして見ると、より分かりやすい。

 丈夫なシステムには、何かが失われたときの代わりの経路がある。路線バスが維持できなくても乗り合い交通があり、自分で店へ行けなくても配送があり、診療所だけで完結できなければ遠隔診療や広域医療との接続がある。人口減少や高齢化が進む地域では、従来と同じ形の公共サービスを無理に残すより、複数のサービスを柔軟に組み合わせる方が合理的になる場合がある。

 人口減少時代の地域に求められるのは、何もかもそろった豪華な地域ではない。一つを失っても、別の道がまだ残っている地域である。言い換えるなら、「便利な地域」を競う前に、「詰まない地域」をつくる。この発想は、これからの地域政策を考えるうえで、かなり重要になってくるのではないだろうか。

では、一人を呼ぶより一人を残す方が安いのか

 ここまで読むと、「それなら移住者を呼ぶより、転出を防ぐ方が効率的なのだ」と結論づけたくなる。しかし、この点については少し慎重になった方がよい。

 人口の算術だけを見れば、転入を一人増やすことと、転出を一人減らすことは、人口に対して同じ一人分の効果を持つ。しかし、そのために必要な費用まで同じとは限らない。ある地域では、年間数十万円程度の買い物支援や交通支援によって何世帯もの居住継続を支えられるかもしれず、その場合には、全国から移住希望者を探し、住宅補助や広報費を投じるより効率的である可能性がある。

 反対に、山間部のごく少数の住民のために長い道路、水道、公共交通を維持し続ければ、一人当たりの社会的費用が非常に大きくなることもある。そのような地域では、現在地に住み続けてもらうことだけを政策目標にするのが合理的とは限らず、居住地の集約や近隣地域への移動支援を含めて考えた方がよい場合もある。

 したがって、「転出を防ぐ方が必ず安い」という一般法則を置くことはできない。必要なのは、一人の移住者を増やすために自治体がいくら使っているのか、一人の住民が本人の希望に反して転出しなくても済むようにするにはいくら必要なのかを、同じ物差しで比較することである。

 考えてみれば当然の比較なのだが、移住者数だけが成果として注目されると、この視点は意外に抜け落ちやすい。人口減少時代の政策評価では、「何人呼んだか」に加えて、「何人が生活上の理由で出て行かずに済んだのか」という数字も、同じ程度に重視されてよいのではないだろうか。

ただし「住み続けること」そのものを善にしてはいけない

 もう一つ注意しなければならないことがある。住民が地域に残ることを政策目標にすると、いつの間にか「転出しないことが望ましい」という価値観に変わりかねない。

 しかし、住み続けることそのものが幸福とは限らない。高齢者の地域居住をめぐる研究には、「Aging in Place(住み慣れた地域で老いること)」という考え方がある一方で、「Stuck in Place(移動したくても移動できず、その場所にとどまること)」という問題もある。同じ「地域に残った」という結果でも、自分の意思で残ったのか、それとも経済的事情や移動手段の不足によって動けなかったのかでは、意味がまったく違う。

 したがって、この地域が好きだから残った人と、引っ越す資金もなく、他に行く場所もなく残った人を、同じ政策上の成功として数えてはいけない。目標は「住民を引き留めること」ではなく、住みたい人が住み続けられ、出たい人は自由に出られることにある。

 地域に人を縛り付けるのではなく、居住することを一つの現実的な選択肢として残しておく。この違いは言葉の上では小さく見えるが、地域政策の目的を考えるうえでは決定的に重要である。

人口減少そのものを止められなくてもよい

 地方の人口問題を考えると、どうしても「人口を増やすか、少なくとも維持する」という結論へ向かいやすい。しかし、多くの自治体では、今後数十年間に人口そのものが減ることを完全に避けるのは容易ではない。

 理由は転出だけではなく、高齢化した地域では、仮に転入と転出が同数になったとしても、出生数より死亡数が多ければ人口は自然に減っていくからである。そうであるなら、人口が減ったという一点だけをもって地域政策を失敗と評価することが、本当に適切なのかを考え直す必要がある。

 たとえば人口八千人だった自治体が七千人になったとする。それだけを見れば明らかな縮小である。しかし同じ期間に、高齢者が車を運転できなくなっても買い物や通院を続けられるようになり、子育て世帯が高校進学を理由に家族ごと転居する必要がなくなり、一人暮らしになった高齢者も安心して生活できるようになったとしたら、その地域は単純に「悪くなった」と言えるのだろうか。

 人口は減っていても、「ここで暮らし続けることができる人」は増えているかもしれない。ここには、人口という一つの数字だけでは捉えきれない地域の価値がある。

一軒の閉店から始まる連鎖

 人口減少地域で怖いのは、人が毎年少しずつ減ることだけではない。ある瞬間から、暮らしの条件そのものが連鎖的に失われる可能性があることだ。

 たとえば地域から一軒の店がなくなったとする。車を使える人は少し遠くの大型店へ行くようになり、その結果、残った地元商店の客まで減るかもしれない。別の店も経営が難しくなり、そこまで閉店すると、車を持たない高齢者の生活はさらに不便になる。そのため自治体外の子どもの近くへ転居する人が増えれば、人口が減り、地域サービスの利用者も減り、さらに別のサービスの維持が難しくなる可能性がある。

 もちろん、現実の地域では、これほど一直線に物事が進むわけではない。人口減少が店舗閉鎖を引き起こす場合もあれば、雇用の減少が人口流出と店舗閉鎖の双方を生む場合もあり、原因と結果は複雑に絡み合っている。

 それでも重要なのは、地域のサービスが互いに独立して存在しているわけではないという点である。一つの機能が失われることで別の機能の需要が減り、さらに次の撤退につながることがある。人口そのものは毎年ゆっくり減っているのに、暮らしの条件だけはある時点で急に悪化することがあるとすれば、地方の衰退の本当の怖さは、この非連続性にあるのかもしれない。

「何人いる地域か」ではなく「何歳まで暮らせる地域か」

 そこで、人口とは別の数字を考えてみたくなる。その地域では、人は何歳まで普通に暮らせるのか。車を運転できなくなっても生活できるのか、配偶者を失って一人になっても暮らせるのか、慢性疾患を抱えても通院できるのか、子どもが高校生になっても家族で住み続けられるのか。

 もし七十歳になると暮らしが難しくなる地域を、八十歳まで無理なく暮らせる地域にできたなら、それはかなり大きな政策成果である。人口統計にはほとんど表れないかもしれないが、百人の住民がそれぞれ五年間長く自分の望む地域で暮らせるようになったなら、考え方によっては、自治体は住民に合計五百年分の「居住可能な時間」を生み出したとも言える。

 もちろん、「居住可能な時間」は公的に確立された統計指標ではない。しかし人口減少時代には、人口そのものとは別に、「この地域で無理なく普通の生活を続けられる期間」を測る発想があってもよいのではないだろうか。

 地域の成功を、人間の頭数だけで測る必要はない。むしろ人口そのものを簡単には増やせない時代だからこそ、一人ひとりがどれだけ長く、自分の望む暮らしを続けられるかという別の尺度が必要になる。

そして、住民が出て行かなくてもよい地域は、移住者にも選ばれる

 興味深いのは、こうした政策が移住促進と対立しないことである。むしろ住民が長く暮らせる地域をつくることは、結果としてかなり強い移住政策になる可能性がある。

 移住希望者が本当に知りたいのは、美しい海や安い土地だけではない。子どもが大きくなったらどうなるのか、親が高齢になったらどうなるのか、自分自身が七十歳になったときに車なしで暮らせるのかといった、その土地で過ごす将来の生活条件も重要である。

 移住とは、現在の風景だけを選ぶ行為ではない。その土地で過ごす十年後、二十年後の生活まで含めて選ぶことである。自治体の観光パンフレットにどれほど美しい夕日が載っていても、そこに暮らす高齢者が生活上の理由で次々と地域を離れているなら、その事実は移住希望者にとって無視できない情報になる。

 反対に、人口そのものは減っていても、「ここなら歳を取っても暮らせる」と既存住民が感じている地域には、一種の信用が生まれる。そう考えると、住民の転出理由を減らすことは決して内向きの政策ではなく、長い時間軸で見れば、最も説得力のある移住政策の一つにもなり得る。

人を増やすことから、人の選択肢を守ることへ

 地方創生という言葉には、どこか成長の響きがある。人口を増やし、観光客を増やし、企業を増やし、税収を増やすことが成功として語られやすい。

 しかし人口そのものが減っていく時代に、増加だけを成功の基準にしてしまえば、多くの地域はどれほど暮らしやすくなっても、人口統計の上では永遠に「失敗した地域」になってしまう。

 そこで、もう一つの尺度を持ってみる。この地域では、どれだけの人が自分の意思に反して出て行かずに済んだのか。車に乗れなくなっても暮らせるのか、病気になっても暮らせるのか、一人になっても暮らせるのか、子どもが成長しても同じ地域で生活を続けられるのかを見るのである。

 もちろん、別の場所へ行きたい人は行けばよい。大学へ進学したい若者を地域に閉じ込める必要はなく、新しい仕事に挑戦したい人を引き留める理由もない。目指すべきなのは、人を囲い込む地域ではなく、出て行く自由を持ちながら、それでも出て行かなくてよい地域である。

 この視点に立てば、人口減少という現象そのものを消すことができなくても、人口減少によって住民の人生の選択肢まで狭くなることは防げるかもしれない。

 地域の価値とは、何人を新しく集めたかだけで決まるものではない。そこに暮らしたいと思った人が、その願いを交通や買い物、医療や教育といった生活上の事情だけで諦めずに済むことにも、確かな価値がある。

 これからの地方が競うべき数字は、ひょっとすると人口だけではないのだろう。「この地域には何人いるのか」という問いだけではなく、「この地域なら、あと何年、自分らしく暮らせるのか」と尋ねてみる。

 人口が減る時代だからこそ、その問いの方が、そこに暮らしている住民にとっては、ずっと切実なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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数字で比較するサービスを見る

 人口2万人の海辺の市がある。

 冬の平日に歩けば、数字のとおりの市に見えるかもしれない。駅前にはそれなりの人通りがあり、スーパーも病院も学校も動いている。ただ、かつてに比べれば商店街の空き店舗が増え、郊外では空き家が目立ち始め、毎年公表される人口統計には前年より数百人少ない数字が並ぶ。折れ線グラフは緩やかに右下へ伸び、この市も人口減少の例外ではないことを静かに告げている。

 ところが八月の日曜日になると、同じ市の姿が変わる。

 海岸へ向かう幹線道路には車が連なり、スーパーの駐車場は埋まり、飲食店には行列ができる。普段は静かな別荘地にも明かりがつき、コンビニには観光客が増え、海岸周辺ではごみ箱や公衆トイレの利用が一気に増える。宿泊施設には県外ナンバーの車が並び、市内の人口が数万人単位で膨らんだように感じる日さえある。

 しかし、行政上の人口は2万人のままである。

 市役所の統計では2万人なのに、その日の市内には明らかにそれ以上の人がいる。

 では、この市の「本当の人口」は何人なのだろう。

 この問いから、「実効人口」という考え方を試してみたい。

 ただし、最初に重要なことを確認しておく必要がある。ここでいう実効人口は、国勢調査人口や昼間人口のように国が統一的な定義で公表している既成の統計指標ではない。本稿では、観光客や別荘居住者、二地域居住者が多い地域を分析するための仮説的な指標として、この言葉を用いる。

 そして、この指標の価値は、新しい人口の数字を一つ作ることよりも、「人口とは、そもそも何を数えているのか」という問いを私たちに返してくるところにある。

人口統計が市の実態を間違えているわけではない

 人口統計を批判するのは簡単である。

 国勢調査に観光客が含まれていないのだから、市の本当の姿が分からない、と言いたくなる。しかし、それは少し違う。

 国勢調査が基本的に把握しているのは、その地域を生活の本拠として暮らしている人である。住民票だけを機械的に数えているわけではなく、一定期間そこに常住しているかどうかを基準としている。

 行政を考えるうえでは、この数字は欠かせない。

 学校を何校維持するのか、介護や福祉の需要がどれほどあるのか、住宅政策をどう考えるのか。あるいは選挙や行政サービスの基礎をどこに置くのか。そのような問題について、三時間だけ海水浴に来た観光客と、市内に三十年間暮らしている住民を同じ一人として扱うことはできない。

 国勢調査には昼間人口という考え方もある。市外へ通勤・通学する人を差し引き、市外から通勤・通学してくる人を加えることで、昼間に市内で活動している人口を捉えようとする指標である。

 ところが観光地では、ここに大きな空白が残る。

 通勤や通学は捉えられても、観光、買い物、海水浴、レジャー、イベント参加といった不規則な移動は、通常の昼間人口では十分には表れない。

 別荘も同じである。

 別荘という建物が何戸存在するかは統計に現れる。しかし、その住宅に一年のうち十日しか人が来ないのか、毎週末二人が暮らしているのかでは、市への影響はまったく違う。

 つまり、既存統計が現実を誤って描いているわけではない。

 それぞれ別の現実を、別の目的で測っている。

 問題は、それらを重ね合わせたときに現れる「市全体が実際にどの程度使われているのか」を示す物差しが弱いことなのである。

人を数えるのではなく、市内で過ごされた時間を数えてみる

 そこで人口を、人間の頭数だけではなく、市内で過ごされた時間として考えてみる。

 人口2万人の市を想定する。

 単純化して、2万人全員が一年中市内で生活しているとすれば、一年間には730万「人日」の滞在が発生する。一人が一日その市にいれば、一人日である。

 もちろん実際には、住民も毎日24時間市内にいるわけではない。市外へ通勤する人もいれば、買い物に出る人も、旅行する人もいる。したがって、この730万人日という数字は厳密な実測値ではなく、考え方を示すための第一次近似である。

 そこへ別荘居住者が加わる。

 仮に市内に2000戸の別荘や二次的住宅があり、一戸につき平均二人が年間60日利用するとすれば、年間24万人日の滞在が発生する。

 さらに、宿泊観光客が年間100万人泊いると仮定する。

 一人泊は厳密には24時間の滞在を意味しないが、簡便な分析では一人泊を一人日程度の滞在量として近似することができる。

 加えて、年間150万人の日帰り観光客が平均6時間市内に滞在するとする。24時間を一日として換算すれば、約37万5000人日に相当する。

 すると、この市で一年間に発生する滞在量は、

 定住者による約730万人日、別荘居住者による約24万人日、宿泊客による約100万人日、日帰り客による約37万5000人日を合わせ、約891万5000人日になる。

 365日で割れば、およそ2万4400人である。

 行政上の人口は2万人だが、市内で実際に過ごされている時間量を一年平均に直せば、約2万4400人が常時存在しているのに近い人間活動を市が受け止めていることになる。

 ただし、この2万4400人を「本当の人口」と呼ぶべきではない。

 大切なのは数字そのものではなく、人口2万人という一枚の静止画を、年間約892万人日という一本の動画へ置き換えることである。

 すると、市の見え方が変わってくる。

別荘居住者は観光客なのか、それとも半分住民なのか

 実効人口を考え始めると、最も興味深い存在は観光客よりむしろ別荘居住者や二地域居住者である。

 年に一度だけ、市内のホテルに二泊する旅行者がいる。

 一方で、毎週金曜日の夜に別荘へ来て、日曜日の夕方まで生活する人もいる。夏には一か月近く滞在し、年間では100日以上を市内で過ごす人もいるだろう。

 住民票が別の自治体にあれば、どちらもその市の定住人口には入らない。

 しかし地域との関係はまるで違う。

 後者はスーパーで日用品を買い、水道を使い、ごみを出し、道路を走る。飲食店を利用し、病院を使うこともあるかもしれない。近隣住民と顔見知りになり、市内の催しに参加することさえある。

 市のインフラから見れば、その人がどこに住民票を置いているかより、年間何日市内に滞在し、どれだけサービスを利用しているかの方が重要な場面がある。

 ここで「関係人口」との違いもはっきりしてくる。

 関係人口は、定住者でも一回限りの観光客でもない、地域と継続的に関わる人々を捉えようとする概念である。二地域居住者もその典型である。

 しかし、関係人口と実効人口が測ろうとしているものは同じではない。

 関係人口が問うのは、その人と地域との関係の継続性や深さである。

 実効人口が問うのは、その人が地域の空間やサービスをどれだけ実際に使用しているかである。

 市外に住みながら、毎月その地域の商品を購入し、オンラインで地域活動を手伝っている人は、重要な関係人口になり得る。しかし、その人は市内の水道を使わず、ごみを出さず、道路渋滞にも加わらない。

 反対に、市との長期的な関係を持たない観光客でも、三万人が同じ日に訪れれば、道路、駐車場、公衆トイレ、ごみ処理には大きな負荷を与える。

 地域との「関係の深さ」と、地域内に「存在した量」は別の問題なのである。

平均2万4400人でも、夏には5万人いるかもしれない

 実効人口を考えるとき、もう一つ注意しなければならないことがある。

 先ほどの仮定では、年間平均の実効人口を約2万4400人とした。

 では、市役所は2万4400人を基準に道路や駐車場、水道、ごみ処理施設を整備すればよいのだろうか。

 おそらく、それでも足りない。

 冬の平日の昼間には、市内に1万7000人しかいないかもしれない。

 反対に、夏休みの日曜日には4万人、海水浴大会や花火大会の日には5万人、6万人が市内に滞在することもあり得る。

 年間平均が2万4400人でも、その市が実際に対応しなければならない最大人口は、その倍以上になる可能性がある。

 観光都市では、平均値より振幅の方が重要な場合がある。

 市には人口の呼吸がある。

 平日の午前には縮み、週末の午後には膨らむ。冬には小さくなり、夏には大きくなる。大きなイベントがある夜には一時的に中規模都市ほどの人を抱え、翌朝には再び人口2万人の市へ戻る。

 もし行政が年間平均だけを見れば、繁忙期には道路も駐車場もごみ処理能力も不足する。

 かといって、最大時の5万人を基準にすべての施設を造れば、一年の大半は過剰設備になる。

 したがって実効人口を政策に使うなら、年間平均だけでは足りない。

 通常期、繁忙期、最大時、そして季節変動まで見る必要がある。

 人口は一本の数字ではなく、時間とともに膨らんだり縮んだりする波なのである。

一つの市に、いくつもの人口が存在している

 さらに厳密に考えると、滞在時間だけでも十分ではない。

 同じ六時間市内にいた人でも、市への影響は違う。

 自動車で来た日帰り観光客は、道路と駐車場への負荷が大きい。ホテルに泊まる観光客は、宿泊業や飲食業に多くの需要を生む。別荘居住者は水道を使い、家庭ごみを出し、スーパーで食料品や日用品を買う。高齢の定住者は、医療や介護の利用頻度が高い可能性がある。

 したがって、単純な滞在時間だけで全員を同じように扱うと、政策判断には粗すぎる。

 そこで実効人口は、用途ごとに分けて考えた方がよい。

 道路について考えるなら交通実効人口。

 水道なら水道実効人口。

 ごみ処理なら廃棄物実効人口。

 商業市場なら消費実効人口。

 同じ人口2万人の市であっても、それぞれ違う数字になってよいのである。

 定住者、別荘居住者、宿泊客、日帰り客の人数に、それぞれの滞在時間と用途ごとの負荷の違いを重ねる。

 そこまでして初めて、実効人口は単に観光客を人口へ足して市を大きく見せるための数字ではなく、地域運営のための分析指標へ近づいていく。

人口2万人なのに、なぜ大きなスーパーが成立するのか

 この考え方は、地域経済を見るときにも役立つ。

 地方都市を歩いていると、人口規模から考えると不思議に見える市がある。

 人口2万人程度なのに大型スーパーが複数あり、飲食店が多く、ホームセンターやドラッグストアまで成り立っている。

 逆に、人口が同程度でも商業施設がほとんど残っていない市もある。

 もちろん原因は一つではない。

 周辺自治体からの流入、所得水準、道路網、競合店、年齢構成などが影響する。しかし観光地や別荘地では、定住人口だけから市場規模を推測すると、大きく外れることがある。

 人口2万人でも、週末には数千人の別荘居住者が加わり、年間250万人規模の宿泊客・日帰り客が訪れるなら、市内の商業は「2万人だけを相手にした市場」ではない。

 ただし、ここで一つ注意しなければならない。

 人が二倍滞在したからといって、地域経済への効果が二倍になるわけではない。

 観光客が地域外資本のホテルを利用し、全国チェーン店で買い物をすれば、支出の一部は市外へ流出する。別荘居住者が食料を自宅近くで購入して持ち込めば、長期間市内にいても地域消費は小さいかもしれない。

 つまり、

 人がいることと、お金が地域に残ることは同じではない。

 地域経済を正確に見るなら、まず滞在量を測り、次に消費額を見て、そのうちどれだけが市内企業や市民の所得として残ったのかを調べる必要がある。

 実効人口は地域経済そのものを示す数字ではない。

 しかし、市場を生み出す人間活動の大きさを測る入口にはなる。

「住民を100人増やす」以外の地域政策が見えてくる

 こう考えると、地方創生の見方も変わってくる。

 地方自治体では長い間、「移住者を何人増やしたか」が成果として重視されてきた。

 人口2万人の市で人口が毎年300人減るなら、行政として人口減少に危機感を持つのは当然である。

 しかし、300人の移住者を新たに獲得することは簡単ではない。

 移住は仕事、住宅、家族関係、学校、人間関係まで変える大きな決断だからである。

 そこで別の問いを置いてみる。

 すでに年間250万人の観光客や来訪者がいるなら、その人たちに平均してもう一時間長く市内にいてもらう方が現実的ではないか。

 1000人が一日長く滞在すれば、1000人日の人間活動が増える。

 別荘を年間30日しか利用していなかった世帯が60日利用するようになれば、新しい住宅を建てなくても、市内で生活が営まれる時間は増える。

 日帰り客の一部が一泊するようになれば、昼食だけで帰っていた人が夕食を食べ、宿泊し、翌朝も地域で消費する。

 人口一人を自治体同士で奪い合う地方創生から、人が地域で過ごす時間を増やす地方創生へ。

 これは移住政策を否定する話ではない。

 定住という一つの関係だけで地域の力を測らず、人と地域との間に存在する多様な関わりを政策資源として見るということである。

それでも観光客を人口として数えてはいけない

 一方で、実効人口には危険な使い方もある。

 人口2万人まで減った市が、

 「観光客を含めれば実効人口は2万5000人だから人口減少は大した問題ではない」

 と言い始めたら、それは統計による現実逃避である。

 定住者と観光客は同じ存在ではない。

 住民はその市で年を取り、子どもを育て、税を負担し、災害が起きても生活を続ける。

 観光客は地域経済を支える重要な存在だが、旅行先を変えれば翌年から来なくなる。

 別荘居住者も同じである。

 年間100日市内にいる人を、滞在時間の分析では100日分として数えることができる。しかし、その人を住民の約0.27人と考えることには意味がない。

 地域との関係は、時間だけでは表せないからである。

 したがって実効人口は、定住人口を置き換える数字ではない。

 二つを並べて見るべきである。

 「この市には何人が生活の本拠を置いているのか」。

 そして、

 「この市では年間どれだけの人間活動が行われているのか」。

 この二つを分けて見ることで、観光都市や別荘都市の姿が初めて立体的になる。

スマートフォンの時代だから測れる人口がある

 かつて、このような分析を行うのは簡単ではなかった。

 宿泊者数、道路交通量、鉄道利用者数、別荘戸数といった統計はあっても、人が何時に市へ入り、どこで過ごし、何時間後に出ていったのかを把握することは難しかった。

 しかし現在は状況が変わった。

 携帯電話の基地局情報やスマートフォンの位置情報などを匿名化し、統計処理することで、時間帯ごとの滞在人口や人の移動を推定できるようになっている。

 午前十時の市内には何人いるのか。

 午後三時にはどこへ人が集中するのか。

 海岸から駅へ人が移動する時間帯はいつなのか。

 平日と休日では滞在人口が何倍違うのか。

 冬と夏では、市の人口の波がどれほど変化するのか。

 以前なら感覚でしか語れなかったことを、数字として捉えられるようになりつつある。

 実効人口という発想が単なる空想で終わらない理由はここにある。

 国勢調査をやめる必要もなければ、住民票制度を変える必要もない。

 従来の人口統計の上に、人流というもう一つの層を重ねればよいのである。

人口2万人の市は、本当に2万人だけで動いているのか

 人口減少を語るとき、私たちは長い間、市から消えていく人を数えてきた。

 2万1000人が2万人になる。

 2万人が1万9000人になる。

 グラフの線が右下へ伸びるにつれて、市そのものが少しずつ小さくなっていくように見える。

 しかし現実の市を歩けば、そのグラフには描かれていない人たちがいる。

 金曜日の夕方に別荘へ向かう車がある。

 毎年同じ宿に泊まる家族がいる。

 夏休みの一か月を海辺で過ごす人がいる。

 都市部とこの市を往復しながら仕事をする人もいる。

 朝に来て、夕方には帰る観光客もいる。

 彼らは市民ではない。

 だからといって、市に存在していないわけではない。

 水道は彼らに水を供給し、道路は彼らの車を受け止める。店は商品を売り、ごみ処理施設は彼らが残したものを処理する。

 市というものを行政区域ではなく一つの生活システムとして見るなら、重要なのは「誰が住民票を持っているか」だけではない。

 「誰が、いつ、どれくらい、この市を使っているのか」。

 その問いが必要になる。

 もちろん、実効人口を計算しても人口減少は止まらない。

 出生数が増えるわけではなく、高齢化が解消するわけでもない。

 観光客の数字を加えて、定住人口の減少を見えなくしてはいけない。

 それでも、人口2万人という数字だけでは説明できない地域の現実がある。

 人口2万人の市を、本当に2万人だけが使っているのか。

 その問いを置くだけで、道路の価値も、水道の規模も、ごみ処理施設の能力も、小売市場の大きさも、観光政策の評価も違って見えてくる。

 人口減少時代の地域政策に必要なのは、人を数えることをやめることではない。

 定住人口、昼間人口、関係人口、交流人口、そして滞在時間から見た実効人口。

 それぞれを別の指標として並べ、同じ市を違う角度から見ることである。

 人口2万人という数字は正しい。

 しかし、その数字だけが市のすべてではない。

 夏の日曜日、道路を埋める車も、別荘にともる灯りも、ホテルの窓の明かりも、人口統計の外側にある現実である。

 実効人口という考え方が役立つとすれば、観光客を住民として数えるためではない。

 人口2万人という一つの数字の向こう側に、実際にはどれほど多くの「人間の時間」が流れているのかを見えるようにするためなのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る

 地方創生について語るとき、人口ほど分かりやすい数字はない。転入者が何人増えたのか、社会増減がプラスになったのか、若い世帯が何世帯移住してきたのか。自治体の成果を説明するときにも、町の将来を予測するときにも、人口はほとんど共通通貨のように使われている。

 それは当然でもある。人がいなければ町は成り立たないし、人口が減れば税収、消費、労働力、学校の児童数、公共交通の利用者まで、多くのものが縮小していく。だから人口を重視すること自体は間違っていない。

 しかし、人口3000人の町が3100人になったとき、その町は本当に100人分だけ強くなったと言えるのだろうか。反対に人口が3000人のままだとしても、買い物を支える店が一軒増え、住宅修繕を頼める事業者が残り、訪問介護を担う人が現れ、地域外から仕事を受注する小さな会社が数社生まれたなら、その町は以前より暮らしやすく、経済的にも持続しやすい場所になっている可能性がある。

 ここから、人口減少時代の地方について少し違った問いが生まれる。移住者を100人増やすことと、地域を支える事業者を10人増やすことでは、どちらが町にとって大きな効果を持つのだろうか。

 もちろん、「100人」と「10人」をそのまま比較して答えを出すことはできない。これは実証研究によって確定している比率ではなく、地域経済の構造を考えるための思考実験である。重要なのは人数そのものではなく、その人たちが地域の中でどのような所得、雇用、消費、生活サービスを生み出すのかという点にある。

人口が増えても、そのお金が町に残るとは限らない

 移住者100人には、当然ながら経済効果がある。住宅を借りたり購入したりし、食料を買い、車を利用し、医療を受け、電気や水道を使い、税金を払う。子育て世帯なら学校や保育サービスを利用し、働く世代なら地域企業の人手不足を補うこともある。

 かつて政府が日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community・継続的ケア付き高齢者居住共同体)構想を検討した際には、単身高齢者100人が一人当たり月約15万円を消費すると仮定した場合、年間約1億8000万円の消費需要が生じるという試算も示された。

 ただし、これは高齢者移住を想定した当時の政策上のモデルであり、現在の一般的な移住者100人にそのまま当てはめられる数字ではない。それでも、100人という人口増加が一定規模の需要を生み出すこと自体は理解できる。

 問題は、その1億8000万円がそのまま地域所得になるわけではないことである。町内のスーパーで食品を購入しても、商品が町外の卸売会社から仕入れられていれば、売上の多くは町外へ流れる。住宅ローンの利息は都市部の金融機関へ支払われ、電気通信料金は全国企業へ送られ、日用品をインターネット通販で購入すれば、その支出も町の外へ出ていく。休日には隣の市の大型商業施設へ出掛けるかもしれない。

 そうすると、その人は人口統計上では確かに町民であっても、消費のかなりの部分は町の経済を通過して外へ流れていく。ここで人口とは別の数字が重要になる。それは、「地域に入った所得のうち、どれだけが地域の中に残るのか」という数字である。

地域経済は「人口の数」だけではなく「お金の流れ」でできている

 環境省が行っている地域経済循環分析では、地域経済を生産、分配、支出という流れで捉える。地域の企業がどれだけ付加価値を生み、その所得が住民や企業へどのように分配され、それがどこで使われるのかを見ることで、地域から所得が流出しているのか、それとも地域内で循環しているのかを分析する。

 この視点に立つと、地方創生の見え方は大きく変わる。人口100人を増やすことは、町という器に新しい水を注ぐことに似ている。しかし器の底に大きな穴が開いていれば、水を注ぎ続けても十分にはたまらない。地域内に商店がなく、住宅修繕を担う企業もなく、仕事もなく、日常生活の多くを町外の企業に依存しているなら、住民の所得は地域外へ流れ続ける。

 一方、地域で必要とされる商品やサービスを供給する事業者が増えれば、その穴の一部を塞ぐことができる。さらに地域外へ商品やサービスを販売する企業が生まれれば、今度は町の外から所得を引き込む管ができる。

 ここに、人口と事業者の決定的な違いがある。人口は主として需要を生み出すが、事業者はその需要を所得や雇用へ変換し、場合によっては地域外から新しい所得を持ち込む装置にもなる。

一軒の店がなくなっても、人口統計には何も起きない

 海辺の小さな町を想像してみる。そこで唯一の鮮魚店が閉店したとしても、翌日の住民基本台帳には何の変化もない。町の人口は昨日と同じ3000人である。

 しかし暮らしは確実に変わる。魚を買うために隣町まで車を走らせる住民が増えるかもしれないし、せっかく隣町まで来たのだから、野菜も酒も日用品もそこで買うようになる場合もある。つまり、一軒の鮮魚店がなくなったことで、魚以外の消費まで町外へ移動する可能性が生まれる。

 さらに、高齢になって自動車を運転できなくなった人にとっては、これは単なる店の閉鎖ではなくなる。「魚をどこで買うか」という問題が、やがて「この町で生活を続けられるか」という問題へ変わるからである。

 もっとも、鮮魚店が一軒閉店すれば必ず他の消費まで町外へ流れる、と科学的に断言できるわけではない。住民の行動は交通条件、年齢、通販利用、他店舗の存在などによって変わる。ここで重要なのは、店舗一軒が持っている価値が、その店の売上高だけでは測れないということであり、人口統計には表れない生活機能が地域には存在しているという点である。

事業者一人は、必ずしも「一人分」ではない

 住民一人が基本的には一人分の生活需要を持って町に加わるのに対し、事業者は複数の住民の需要を束ね、それを所得や雇用へ変えることがある。

 例えば、小さなパン屋が開業したとする。経営者一人が移住してきただけなら、人口は一人増えただけである。しかし、そのパン屋が二人を雇い、近隣農家から食材を仕入れ、町内の電気工事店に設備修理を依頼し、近くの宿泊施設へパンを納めるようになれば、一つの事業が複数の経済関係を作る。

 さらに観光客がそのパンを買えば、地域外から所得が入ってくる。一人の事業者が地域の中に作るものは、一人分の消費だけではなく、人と企業を結び付ける取引関係である。そして、その取引関係が別の取引関係とつながることで、町の中に経済の網ができていく。

 中小企業庁の小規模企業白書でも、小規模事業者は単に雇用や付加価値を生み出す主体としてだけではなく、人口の少ない地域で商業や生活サービスを維持する存在として位置づけられている。これは人口減少地域では特に重要であり、大きな売上がなければ成立しない事業よりも、小さな需要で成り立つ事業の方が、小さな町に残ることができる場合があるからだ。

 ただし、ここには逆の側面もある。小規模事業者は売上規模が小さいため地方に立地できる一方、売上が少し減っただけでも経営が苦しくなる場合がある。人口減少によって顧客数そのものが減れば、小さな店ほどその影響を強く受ける可能性があるため、小規模事業者が地方を無条件に救うわけではない。人口と事業は、互いに支え合う関係にある。

では、10人の事業者なら何でもよいのか

 ここが最も重要なところである。事業者を10人増やせば、それだけで移住者100人より地域に大きな効果を生むわけではない。

 人口3000人の町に似たようなカフェが10軒増えたとしても、町民が飲むコーヒーの量が突然10倍になるわけではない。新しい店に客が移れば既存店の売上が減り、地域全体の需要が増えていないのであれば、売上が事業者間で移動しただけで、町全体としての所得はほとんど増えないこともあり得る。

 経済学では、こうした現象を置換効果として考える。特に人口減少地域では市場そのものが縮小しているため、新規事業者が増えたことと地域経済が成長したことを同一視することはできない。

 では、どのような事業者なら意味が大きいのだろうか。例えば、それまで町外の事業者へ支払っていた住宅修繕を引き受ける会社ができれば、外へ流れていた支出の一部を町内に残すことができる。地域の農産物を加工し、都市部へ販売する会社が生まれれば、町の外から所得を獲得できる。

 さらに、高齢者の買い物配送、空き家管理、移送サービス、訪問介護など、これまで十分に存在しなかったサービスを提供する企業が生まれれば、単なる経済活動を超えて地域の生活機能そのものを維持できる。つまり、事業者の価値は数ではなく、その事業がどこから所得を得て、どこへ所得を流し、どの生活機能を支えているかによって変わるのである。

「経済効果」と「生活を支える効果」は同じではない

 ここで、もう一つ区別しておかなければならないことがある。地域にとっての「効果」とは、そもそも何を意味するのかという問題である。

 地域内総生産が増えることを効果と考えることもできるし、住民所得や雇用、自治体税収が増えることを重視する考え方もある。しかし人口減少地域では、それだけでは十分ではない。高齢になっても買い物や通院ができ、家が壊れたときには直してもらえ、日常生活を続けられるという「暮らしの維持」もまた、地域にとって重要な効果だからである。

 同じ事業者でも、この物差しによって評価は変わる。地域外へ製品を年間数億円販売する会社は、地域所得や雇用への影響が大きいかもしれないが、高齢者の日常生活を直接支えるわけではない。一方、小さな移動販売事業は地域内総生産への影響こそ小さいかもしれないが、自動車を運転できない高齢者にとっては、その町で生活し続けるための重要な基盤になる。

 つまり、地域を強くすることと、暮らしを守ることは重なり合いながらも完全には同じではない。人口減少地域では、この二つを同じ物差しだけで評価すると、金額には表れにくい重要なサービスを見落としてしまう。

 したがって、事業者10人と移住者100人を比べる場合も、単純な経済波及効果だけでは不十分である。所得、雇用、地域内循環を見ると同時に、買い物、医療、介護、交通、住宅維持といった生活維持効果まで含めて考えなければ、本当の地域への影響は見えてこない。

それでも移住者100人には大きな価値がある

 ここまで読むと、「人口政策より事業者支援の方が優れている」という話に見えるかもしれない。しかし、そう単純ではない。事業には顧客が必要であり、人口が減り続ければ、地域住民を主な顧客とする商売は市場そのものを失っていく。

 若い世帯を中心に100人が移住してくれば、住宅、飲食、小売、教育、保育、交通、修繕など、多くの需要が長期間にわたって生まれる可能性がある。町内企業で働けば人手不足の改善にもなるし、テレワークなどによって地域外から所得を得ている人が移住すれば、その所得を地域へ持ち込み、町内で消費することにもなる。

 この場合、移住者は単なる消費者ではない。地域外所得を持ち込む存在でもあり、場合によっては新たな事業を起こす人になることさえある。だから、「移住者」と「事業者」を完全に別のものとして比べることにも限界があるのであり、両者は本来、一つの地域経済循環の中に存在している。

「人口を増やせば店が増える」という順序を疑ってみる

 従来の地方創生には、暗黙のうちに一つの順序が想定されてきた。人を呼べば消費が増え、消費が増えれば店が増え、その店が雇用を生み、さらに町の魅力が高まるという流れである。

 理屈としては自然である。しかし人口減少が急速に進む小さな自治体では、この順序が成立するまで待つことができない場合がある。人口が十分に増える前にスーパーが撤退し、ガソリンスタンドがなくなり、建設業者が廃業し、交通事業者まで撤退すれば、町は生活する場所として少しずつ不便になっていく。

 「人口が少ないから店がなくなる」という関係だけなら、人口を増やせば解決できるように見える。しかし現実には、生活サービスが減ったことで町の利便性が低下し、その結果として移住先に選ばれにくくなるという逆方向の力も働き得る。もっとも、移住先の選択は仕事、住宅価格、自然環境、教育、医療、家族関係など多くの条件によって決まるため、店舗数だけで移住者数が決まるわけではない。それでも、生活に必要なサービスが存在することが、移住先として選ばれる条件の一つになることは十分に考えられる。

 さらに問題なのは、人口減少とサービス縮小が互いを強める循環が生まれることである。人口が減れば店を維持する需要が小さくなり、店が減れば暮らしの利便性が下がり、それがさらに人口流出を促す可能性がある。こうして人口減少が単なる人数の変化ではなく、生活サービスの連鎖的縮小へ移行すると、町の衰退は徐々にではなく、ある段階から急に深くなることも考えられる。

 そうであるなら、人口を増やしてから店を増やすのではなく、人口がまだ一定程度残っているうちに生活を支える事業を維持するという政策にも合理性が生まれる。それは移住政策を諦めることではなく、むしろ将来の移住者が選ぶことのできる町を先につくっておくという発想である。

100人と10人を比較するなら、人数ではなく機能を見る

 最初の問いに戻ろう。移住者100人より地域を支える事業者10人を増やした方が効果は大きいのか。

 科学的に言えば、この問いに一般的な答えは存在しない。100人の所得、年齢、職業、消費行動が異なるのと同じように、10事業者についても業種、売上、雇用人数、仕入先、顧客構成は大きく異なるからである。

 例えば100人の移住者が、一人平均年間300万円の所得を地域外から得ているなら、単純計算では年間3億円の所得が地域へ持ち込まれる。その多くが地域内で使われるなら、町への影響はかなり大きい。

 反対に、10の事業者がそれぞれ地域外へ年間5000万円の商品やサービスを販売しているなら、売上規模だけでも合計5億円になる。さらに地域内で人を雇い、地元企業から仕入れ、そこで得た所得が再び町内で消費されるなら、その経済的影響は最初の5億円だけでは終わらない。

 したがって、どちらが大きいかは100と10という人数では決まらない。決めるのは、地域の外からどれだけ所得を持ち込み、その所得が地域の中にどれだけ残り、さらにどれだけ次の取引へつながるのかという構造である。

 しかも生活サービスについて考えれば、金額だけでも結論は出ない。一人の医師、一軒のスーパー、一人の介護事業者、一軒のガソリンスタンドが失われたことで、人口数千人の暮らしが変わることもある。この意味では、一人の事業者が一人分をはるかに超える地域機能を担うことは十分にあり得るのである。

地方創生の成績表を変えてみる

 経済産業省と内閣官房が提供するRESAS(Regional Economy Society Analyzing System・地域経済分析システム)でも、地域を見るための数字は人口だけではない。産業構造、事業所、従業者、消費、観光など、複数の指標を組み合わせて地域経済を見ることができる。

 2026年には市区町村単位の状況をまとめて確認する地域経済総合分析も追加され、地方を人口だけで評価しないためのデータ環境は以前より整ってきた。そうであるなら、地方創生の成績表そのものも変えてよいのではないだろうか。

 人口が20人増えた町を成功とし、20人減った町を失敗とするだけでは、町の実態を十分には表せない。人口が減っていても、地域外から所得を獲得する事業が育ち、町外へ流れていた修繕費が町内企業へ回り、買い物や交通を支える新しいサービスが成立しているなら、地域の持続可能性は以前より高くなっているかもしれない。

 逆に人口が増えていても、仕事、買い物、医療、教育の大部分を町外に依存し、所得がほとんど地域内に残らないなら、人口統計ほど地域経済は強くなっていない可能性がある。つまり、これからの地方創生では「何人増えたか」という数字だけでなく、その人口によって、あるいは事業によって「町の中で何ができるようになったのか」を見る必要がある。

地域を支える10人とは誰なのか

 結局、移住者100人より事業者10人の方が大きな効果を持つ条件は、かなり限定して考える必要がある。地域内の既存需要を奪い合うだけの10事業者なら、100人の移住者がもたらす新しい需要の方が大きい可能性がある。

 しかし、地域外から所得を獲得する事業者、これまで町外へ流れていた支出を地域内へ戻す事業者、地域住民を雇用する事業者、地元企業から仕入れる事業者、そして生活に欠かせないサービスを担う事業者が10人増えるのであれば、その影響は単純な10人分にはとどまらない。その10人によって、数百人の暮らしや複数の地域企業が支えられる場合もあるからである。

 さらに、「この町なら高齢になっても買い物ができる」「家が壊れても直してもらえる」「働く場所がある」という安心が生まれれば、それは既存住民の転出を抑える要因の一つになるかもしれない。そして、その生活環境が次の移住者にとって町を選ぶ理由の一つになる可能性もある。

 そう考えると、事業者政策と移住政策は競争相手ではなくなる。事業者を育てることが移住できる環境をつくり、移住者が増えることが事業の顧客や働き手を増やす。人口と事業が互いを支える循環が生まれたとき、初めて「人口増」と「地域経済の強化」が同じ方向を向く。

 地方創生で本当に増やすべきものは、人口だけではないのかもしれない。町の中で誰かが困ったとき、「それなら、ここでできます」と答えられる人が何人いるのか。食べること、移動すること、働くこと、家を直すこと、老いることを、地域の中でどこまで支えられるのか。

 人口表には、その数字は載っていない。しかし人口が減っていく時代には、その見えない数字こそが、町があと何年「普通に暮らせる場所」であり続けられるかを決めていくのではないだろうか。

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家は、売れなくなっても消えてはくれない

 人がいなくなったあとにも、家は残る。屋根は雨を受け、雨樋には落ち葉が詰まり、締め切られた部屋では湿気が壁紙の裏へ入り込んでいく。持ち主が亡くなったからといって住宅まで一緒に消えてくれるわけではなく、むしろ人の生活が終わったところから、建物だけの長い余生が始まることがある。

 日本の空き家政策では、これまで「どう使うか」が重要な問いになってきた。空き家バンクへ登録し、移住者へ売る。中古住宅として流通させる。賃貸住宅にしたり、店舗や地域施設へ転用したりする。まだ十分に使える住宅を取り壊すより、次の利用者へ渡す方が経済的にも環境的にも合理的であり、この方向自体を否定する理由はない。

 しかし人口が減り、世帯数の増加もいずれ止まる社会では、「使いたい家」より「残される家」の方が多くなる地域が現れる。そこで空き家問題を売買の仕組みだけで解決しようとすると、どうしても答えの出ない住宅が残ってしまう。

 総務省統計局の「令和5年住宅・土地統計調査」の確報によれば、2023年10月時点の全国の空き家は900万2千戸に達し、総住宅数に占める空き家率は13.8%となった。どちらも過去最高である。さらに、賃貸用、売却用、二次的住宅などを除いた空き家だけでも385万6千戸あり、2018年から36万9千戸増えている。

 900万という数字の大きさだけを見れば、空き家を市場へ戻せばよいようにも思える。しかし、この数字が意味しているのは、単に「中古住宅が大量に売れ残っている」ということではない。住宅を欲しがる人と、住宅を手放したい人との数そのものが、地域によっては次第に合わなくなってきているということである。

売るための制度には、買う人が必要である

 住宅市場が市場である以上、売却政策には必ず買い手が必要になる。人口が増えている都市なら、売りに出された住宅へ次の世帯が入る循環を期待できる。しかし、空き家が増えている原因そのものが人口減少や世帯減少にある地域では、空き家情報を充実させただけで住宅需要まで増えるわけではない。

 単純化して考えてみよう。ある地域に、今後住宅として使える空き家が100戸あり、その地域で新たに住宅を求める世帯が10世帯しかなければ、仲介制度を改善し、写真を美しく撮影し、空き家バンクの検索機能をどれほど便利にしても、100戸すべてを住宅として流通させることはできない。実際の市場には地元住民の住み替えや別荘需要、事業利用などもあるため現実はこれほど単純ではないが、住宅需要そのものが縮小する地域では、流通政策だけでは処理できない住宅が生まれるという基本構造は変わらない。

 しかも、その空き家の多くは、不動産投資の失敗によって突然市場へ現れた住宅ではない。

 国土交通省が2025年8月に公表した「令和6年空き家所有者実態調査」によれば、調査対象となった空き家の57.9%は相続によって取得されたものであり、その相続空き家の7割超が1980年以前に建築されていた。また、住宅が空き家になった契機についても、所有者の死亡が約6割を占めている。

 つまり、日本の空き家問題のかなりの部分は、「売りたい中古住宅が売れない問題」というより、親が住んでいた古い住宅が、親の死とともに子どもの所有物へ移り、その子どもにはすでに別の生活と別の住宅があるという問題なのである。

 人は相続によって財産を受け取る。しかし住宅の場合、その財産には、屋根の補修、庭木の管理、固定資産税、そしていつか訪れる解体という未来の支出まで一緒についてくる。

 家だけが、家族の世代交代についていけずに、その場所へ残されるのである。

本当の負担は、住宅価格の後ろに隠れている

 住宅を一つの長寿命の商品として考えれば、本来そこには建築、使用、修繕、そして最後の解体までが含まれているはずである。それでも私たちは家を買うとき、建築費や住宅ローンについては何十年先まで計算する一方で、その住宅を最後に誰が壊し、その費用を誰が払うのかについてはほとんど考えない。

 30歳で建てた家に90歳まで住めば、その建物を処分する人は所有者本人ではないかもしれない。子どもが相続するかもしれず、中古住宅として購入した別の所有者かもしれない。誰も引き受けず、建物が危険な状態まで残れば、最終的には近隣住民や自治体まで対応を迫られる可能性がある。

 しかも、解体費用が現実に住宅処分の障壁となっていることは、所有者自身の回答からも確認できる。令和6年空き家所有者実態調査では、今後5年間程度、空き家として所有し続ける意向を持つ世帯について、その理由の第1位として「解体費用をかけたくない」と答えた割合が14.2%に達し、第2位の理由としても13.7%だった。第1位の理由では「物置として必要」が30.4%で最も多いため、解体費だけが空き家発生の原因だと考えるべきではないが、少なくとも住宅を処分しない判断の一つの重要な障壁になっていることは確かである。

 ここに現在の住宅制度が抱える時間的なねじれがある。

 家を使った時代と、家を処分する時代が違う。住宅から便益を得た世代と、その最後の費用を支払う世代が一致しないのである。

住宅にも「最後の日」の費用を準備できないか

 そこで考えられるのが、「住宅解体積立制度」である。

 これは現時点で全国的に実施され、効果が実証された制度ではない。したがって、「この制度を導入すれば空き家問題が解決する」と結論づけることはできず、ここから先は統計から直接導かれる事実ではなく、空き家の発生構造を踏まえた政策仮説として考える必要がある。

 それでも発想そのものは単純である。住宅の所有期間中に、将来必要になる除却費の一部を少しずつ積み立てておき、その住宅を取り壊す段階で使えるようにする。住宅が売却された場合には積立残高を建物とともに次の所有者へ承継し、相続された場合にも相続人へ引き継ぐ。住宅の所有者個人にひも付けるのではなく、住宅そのものにひも付いた資金として設計するのである。

 積立額を仮に年間3万円とすれば40年間で120万円、年間5万円なら200万円になる。実際には物価変動や運用、建物ごとの解体費の違いを考慮する必要があるため、この単純計算がそのまま制度になるわけではない。それでも、空き家になった日に突然まとまった解体費を要求される社会と、住宅を利用していた数十年間に少しずつ費用を準備してきた社会とでは、所有者が取り得る選択肢は違ってくる。

 売れるなら売る。貸せるなら貸す。地域施設として利用価値があるなら使う。しかし、それらがどれも成立せず、住宅としての役割も終わっているなら、安全に除却する。

 積立制度の目的は住宅を壊すことではなく、この最後の選択肢だけが「お金がないから実行できない」という状態を減らすことにある。

現在の制度も、すでに「しまう」方向へ動いている

 もちろん、現在の日本に住宅を除却する仕組みがないわけではない。

 2023年12月13日に施行された改正空家法では、放置すれば「特定空家等」になるおそれのある住宅について、市区町村が「管理不全空家等」として指導や勧告を行えるようになった。勧告を受けた管理不全空家等の敷地については、固定資産税の住宅用地特例も解除される。これは、住宅が周囲へ深刻な危険を及ぼす段階まで待つのではなく、その前から適切な管理や処分を促そうという制度変更である。

 国土交通省自身も、現在の空き家対策を「活かす」だけでなく「しまう」という言葉で説明している。空き家の将来を考えるとき、売却、賃貸、利用だけでなく、除却も正式な選択肢として位置づけられ始めているのである。

 除却への公的支援も存在する。2026年度の国土交通省関係資料では、空家等対策計画が対象とする地区で、不良住宅の除却や、跡地を地域活性化のため計画的に利用する除却などについて、所有者が実施する場合に国が5分の2、地方公共団体が5分の2、所有者が5分の1を負担する仕組みが示されている。

 ただし、ここは誤解してはいけない。一般の空き家なら全国どこでも所有者が費用の5分の1だけを払えば解体できる、という制度ではない。対象となる地区や建物、事業内容には要件があり、市区町村側にも制度の整備が必要になる。既存の公的支援は、あくまで政策上支援する必要性が認められた除却を助ける仕組みなのである。

 そこが、解体積立という発想との違いでもある。現在の補助制度が空き家になった後に発生した問題へ公費を投入する仕組みだとすれば、積立制度は住宅を利用している時期から将来の処分費を準備しておく。

 前者が問題発生後の支援なら、後者は問題が起こる前から費用を時間の中へ分散させる仕組みなのである。

公費だけで壊す制度には、別の不公平が生まれる

 危険になった住宅をすべて税金で取り壊せばよいという考え方も、一見すれば分かりやすい。しかし、そこには公平性の問題が残る。

 住宅を長年きちんと管理し、最後には自費で取り壊した人がいる一方で、何十年も放置した住宅だけ公費で解体されるなら、適切に処分した人より放置した人の方が経済的に有利になる場合がある。それが一般化すれば、「自分で壊すより、行政が対応せざるを得なくなるまで待つ」という望ましくない誘因を生む可能性も否定できない。

 住宅を所有するということは、その価値を利用する権利だけを意味しない。住むことができ、貸すことができ、売ることができ、相続することができるという利益の裏側には、建物を安全に管理する責任も存在する。

 そう考えれば、解体積立は新たな罰金を課すという発想とは異なる。

 住宅の価格表には書かれてこなかった「最後の費用」を、住宅所有の期間の中へ戻していく仕組みなのである。

それでも積立制度は、簡単には作れない

 もっとも、この制度にも難しい問題がある。

 第一に、家を壊す費用は一律ではない。住宅の延べ床面積や構造だけでなく、重機が入れる道路があるか、隣家との距離がどの程度か、廃材をどこまで運ぶ必要があるかによって費用は変わる。吹き付けアスベストなどが見つかれば費用はさらに増える可能性があり、国の補助制度でも、崖地、狭小敷地、無接道敷地、離島、アスベストなどについて通常より高い除却費が生じる場合が想定されている。

 したがって、すべての住宅について月額いくらと全国一律に定めればよいというほど簡単ではない。積立額が少なすぎれば解体時に不足し、多すぎれば住宅所有者から必要以上の資金を長期間拘束することになる。

 さらに難しいのは、すでに存在している古い住宅をどう扱うかである。新築住宅なら完成時から40年、50年かけて準備できるが、築50年の住宅を所有する高齢者へ突然高額の積立義務を課せば、住宅を処分できない人に別の負担を加えるだけになる。制度を作るなら、新築住宅から段階的に始めるのか、既存住宅には公的補助と組み合わせた別制度を設けるのかという移行設計が避けられない。

 災害で住宅が失われたときは積立金をどうするのか、住宅を大規模改修してさらに数十年使う場合はどうするのか、建物を売却したとき積立残高を価格へどう反映させるのかという問題もある。

 だから、解体積立制度は「思いついたから導入すればよい制度」ではない。

 むしろこれほど長期間にわたる制度だからこそ、小規模な地域や新築住宅などから試行し、積立額、利用率、除却費との差額、所有者の行動変化を検証しながら制度設計を調整する必要がある。政策として提案するなら、理論上の合理性と実際の効果を区別して考えなければならない。

相続する前に考えなければ、家は突然「問題」になる

 空き家問題が難しいもう一つの理由は、多くの家庭で住宅の将来について話す時期が遅いことである。

 令和6年空き家所有者実態調査では、相続空き家について、相続前に何らかの対策を行っていた世帯は23.0%にとどまった。反対に77.0%では相続前の対策が行われていない。さらに、事前対策をしていなかった住宅では、対策をしていた住宅よりも、その後も特に活用や解体をせず空き家として所有され続ける割合が高かった。

 ただし、ここから「事前に話し合えば必ず空き家にならない」と因果関係まで断定することはできない。もともと住宅処分への意識が高い家庭ほど事前対策も行う可能性があるからである。それでも、相続が発生してから初めて家の将来を考えるより、所有者が元気なうちに家族で考えておく方が合理的であることは理解しやすい。

 国土交通省が日本司法書士会連合会などと共同で「住まいのエンディングノート」を作成したのも、そのためである。そこでは所有する土地や建物の情報だけでなく、将来その住宅をどうしてほしいかを記録し、家族が元気なうちから「活かし方」と「しまい方」を話し合うことが勧められている。

 話し合いによって住宅の行き先を決めるなら、その隣には、行き先を実行するためのお金の準備があってもよい。

 住宅のエンディングノートと住宅のエンディング資金は、本来それほど遠い発想ではない。

「売るか、壊すか」ではなく、住宅に出口をつくる

 ここまで考えると、本当に必要なのは「空き家を売る政策をやめて、壊す政策へ変えること」ではないことが分かる。

 まだ十分な価値があり、買いたい人が存在する住宅なら、できるだけ市場へ戻した方がよい。賃貸住宅として必要なら貸し、店舗や福祉施設、仕事場、地域拠点として価値があるなら利用する。それを無理に壊せば、利用可能な資産と建築時に投入された資源を失うことになる。

 一方で、需要がなく、老朽化が進み、将来も住宅として利用される可能性が低い建物まで、何十年も「いつか誰かが買うかもしれない」という前提で残しておくことも合理的とは言いにくい。

 つまり、売却政策と除却政策は競争相手ではない。

 住宅として生き続けられるものを市場へ戻す仕組みと、住宅としての役割を終えたものを安全に市場から退出させる仕組みは、人口減少社会ではむしろ一組の政策として考えるべきなのである。

 空き家バンクは、家に次の住人を探す制度である。

 しかし、すべての家に次の住人が現れるわけではない。

 そのとき必要なのが、「次の住人が最後まで現れなかった家をどうするか」という制度であり、解体積立はその答えの一候補になる。

家を建てる時代から、家を終わらせる時代へ

 日本では長い間、「家を持つ」ということには、財産を持つという意味が付いていた。

 住宅ローンを払い終えれば自分の資産になり、土地は残り、最後には子どもへ渡せる。人口が増え、住宅需要も増えていた時代には、この物語はかなり現実と一致していた。

 しかし人口が減る社会では、すべての家が同じ意味で資産になるとは限らない。

 売却価格がほとんど付かず、管理費と固定資産税がかかり、最後には解体費まで必要になる住宅であれば、それは財産であると同時に将来の支出でもある。

 だからこそ住宅政策も、家を建てるところだけで終わるわけにはいかない。

 人口が増えていた時代の町づくりでは、道路を延ばし、宅地を造成し、住宅を建てることが発展だった。しかし人口が減る時代には、町づくりの一部は「何を残すか」を選ぶ仕事へ変わっていく。そして残さないものについても、荒れるまで放置するのではなく、安全に役割を終わらせなければならない。

 誰も住まなくなった住宅の屋根に、何十年も雨を降らせ続けることが地域を守ることではない。

 売れる家は次の人へ渡す。使える家は使い続ける。新しい役割を持てる家は用途を変える。そして、それでも役割を見つけられなかった家には、安全に終わるための資金と制度を用意する。

 900万2千戸という空き家の数字が問いかけているのは、「どうすればもっと家が売れるのか」ということだけではない。

 私たちは長い間、家の誕生には住宅ローンを用意し、家の暮らしには保険を用意し、家の修繕には積立を考えてきた。

 それなのに、家の最後の日についてだけは、未来の誰かに任せてきた。

 人口が減っていくこれからの日本で必要なのは、空き家を売る制度を捨てることではない。その制度の先に、どうしても売れなかった住宅を安全に社会から退出させる出口をつくることである。

 家にも始まりがあるように、終わりがある。

 その最後の日の費用まで、家を所有するということのに含めて考える時代が来ているのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

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