地方で暮らしていると、救急車は119番に電話すれば来るものだと考えがちです。消防署や分署が現在と同じ場所にあり、道路も大きく変わらないのであれば、30年後も救急車の到着時間は現在とそれほど変わらないようにも思えます。
しかし、救急医療を人口減少という側面から見ると、この前提は必ずしも成り立ちません。
むしろ地方では、人口が減るほど救急車が暇になるのではなく、人口密度の低下、高齢化、消防職員の不足、救急需要の増加、医療機関の再編が同時に進むことで、現在の救急体制を維持すること自体が難しくなる可能性があります。
30年後の問題は「救急車がなくなるか」という単純な話ではありません。
重要なのは、119番通報から患者が治療を受けられるまでの時間を、現在と同じ水準で維持できるのかという問題です。
全国平均では、すでに救急車の到着時間は長くなっている
消防庁の「令和7年版 救急・救助の現況」によると、2024年の救急自動車による救急出動件数は約771万8千件で、統計開始以来最多となりました。現場到着までの平均時間は約9.8分です。2019年と比較すると約1.1分長くなっています。さらに、119番通報から医師へ患者を引き継ぐまでの病院収容所要時間は平均約44.6分で、2019年より約5.1分延びています。
ここで注意したいのは、救急医療の時間には大きく二つの段階があることです。
119番通報を受けてから救急車が現場に到着するまでの時間と、そこから搬送先を決め、患者を病院へ運び、医師へ引き継ぐまでの時間です。
したがって、
「救急車が10分で来たから救急医療は維持されている」
とは限りません。
救急車が早く来ても、受け入れる病院まで30分、40分とかかれば、患者にとって重要なのは後者を含めた総時間だからです。
そして地方の将来を考える場合、この二つの時間の両方に人口減少の影響が及びます。
人口が減れば救急需要も減る、とは限らない
人口10万人の地域が将来6万人になれば、単純に考えると救急車を呼ぶ人数も4割減りそうに見えます。
ところが、人口構成が変わります。
厚生労働省が示している2040年の人口構造では、2025年から2040年にかけて15~64歳の生産年齢人口は約15%減少する一方、85歳以上人口は約42%増加すると推計されています。地方都市型地域でも、生産年齢人口が平均19.1%減少する一方、高齢人口は2.4%増えるという構造です。
救急需要を考える場合、この人口構成の変化は非常に重要です。
若い人と85歳以上の人では、救急車を必要とする確率が同じではありません。心疾患、脳血管疾患、転倒、骨折、呼吸器疾患など、年齢が高くなるほど救急搬送につながる病態は増えていきます。
つまり地方では、
総人口は減少しているのに救急需要はそれほど減らない
という時期が発生する可能性があります。
さらに問題なのは、救急サービスを提供する側の人口です。
救急需要を支える消防職員、救急救命士、看護師、医師などは主として生産年齢人口から供給されます。
したがって地方では、
救急サービスを利用する高齢者の割合が上がる一方、それを支える働き手が減る
という非対称な人口構造が生まれます。
救急医療の将来を考えるうえでは、総人口だけを見るのではなく、この比率を見る必要があります。
人口密度が下がっても、地域の面積は小さくならない
地方の救急でさらに重要なのが「面積」です。
例えば、ある自治体の人口が3万人から1万5千人に半減したとしても、市町村の面積が半分になるわけではありません。
道路の長さも大きくは変わりません。
集落間の距離も変わりません。
山間部や海岸部まで救急車が走らなければならないことも変わりません。
この点を消防庁自身も問題として認識しています。
消防庁の「市町村の消防の広域化に関する基本指針」では、人口減少によって消防本部の管轄人口が減少し、生産年齢人口の減少を通じて財政面や人材確保が厳しくなる一方、人口密度が低下しても消防活動に必要な消防署や出張所などの数は大きく変化しないため、消防力の維持が難しくなる可能性があるとしています。特に小規模な消防本部ほど影響が深刻になるとしています。
これは地方公共サービスに共通する重要な問題です。
人口を (P)、管轄面積を (A) とすると、人口密度は
[ D=\frac{P}{A} ]
です。
人口だけが半分になれば、
[ D'=\frac{0.5P}{A}=0.5D ]
となります。
ところが救急車が走らなければならない最大距離は、人口が半分になったからといって半分にはなりません。
つまり人口1人当たりで考えると、広い地域を維持するための消防・救急インフラ負担は相対的に大きくなります。
この構造こそが、人口減少地域で公共サービスを維持する難しさです。
「人口が減ったから消防署を半分にする」ができない理由
仮に人口4万人の地域に消防署や分署が4か所あったとします。
30年後に人口が2万人になったから、人口に比例して2か所に減らせばよいでしょうか。
財政だけを考えれば合理的に見えます。
しかし消防署を統合すると、残された署所から地域の端までの距離が長くなります。
救急車の平均速度を時速40キロメートルと仮定した場合、出動地点までの距離が5キロメートル伸びれば、単純計算だけでも、
[ \frac{5}{40}\times60=7.5 ]
となり、約7.5分余計に必要になります。
実際には信号、交差点、狭い道路、山道、救急車への乗車準備などがあるため、距離と時間は完全な比例関係ではありません。それでも、署所の配置が救急車の到着時間を左右することは明らかです。
したがって人口減少地域では、
利用者は減るが、地理的なサービス範囲はほとんど減らない
という公共サービス特有の問題が生じます。
水道、道路、路線バスなどでも見られる構造ですが、人命に直結する救急ではサービス水準を簡単に下げることができません。
もう一つの問題は「救急車が出払っている時間」である
救急車の到着時間を決めるのは消防署までの距離だけではありません。
近くの救急車がすでに別の患者を搬送していれば、より遠い消防署から別の救急車を向かわせなければならない場合があります。
ここで重要になるのが、一件の救急搬送に救急車が拘束される時間です。
全国平均では、119番通報から病院へ患者を引き継ぐまで約44.6分かかっています。
仮に一件の救急搬送で救急隊が約45分拘束されると考えれば、救急件数が増えるほど同時出動の可能性は高まります。
地方の場合、搬送先の病院までの距離が長ければ、この拘束時間はさらに長くなることがあります。
例えば近隣病院まで20分だった地域で救急対応病院が集約され、40分離れた病院へ搬送するようになれば、一件の搬送が地域の救急車を占有する時間も増えます。
すると問題は、
「救急車が何台あるか」
ではなく、
「必要な瞬間に何台が地域内で利用可能なのか」
へ変わります。
この違いは非常に大きな意味を持ちます。
病院の再編は救急車の問題でもある
人口減少時代の救急を消防だけの問題として考えることはできません。
厚生労働省は2040年以降を見据え、新たな地域医療構想を進めています。そこでは人口減少や85歳以上人口の増加を踏まえ、急性期医療、高齢者救急、在宅医療などについて医療機関間の役割分担を進めるとともに、病院や病床の連携、再編、集約化を進める方向が示されています。
医療資源が限られる以上、すべての地域に現在と同じ病院機能を残すことは難しくなります。
高度な救急医療については、一定規模の病院へ患者を集めたほうが医師や設備を効率的に配置でき、医療の質を維持しやすくなります。
これは医療政策として合理性があります。
しかし住民側から見ると別の問題が生じます。
病院が集約されれば、救急車の搬送距離が延びる地域が出てくるからです。
したがって人口減少時代には、
病院を集約して医療の質を維持する合理性
と、
病院までの距離が延びることで救急搬送時間が長くなる問題
を同時に考えなければなりません。
どちらか一方だけを最適化すればよい問題ではありません。
2050年までの人口減少は、すでに市町村単位で推計されている
30年後の話というと、非常に遠い未来の予測のように感じます。
しかし人口については、かなり具体的な推計がすでに存在します。
国立社会保障・人口問題研究所は2020年国勢調査を基に、全国の市区町村について2050年まで5年ごとの人口を推計しています。しかも総人口だけでなく、年齢階級別の人口まで市町村単位で公表されています。
したがって地域ごとに、
現在の人口、
2050年人口、
65歳以上人口、
75歳以上人口、
生産年齢人口、
消防署の所在地、
救急車の配置台数、
救急対応病院の所在地
を重ねれば、将来の救急体制にどの程度の負荷がかかるのかをある程度分析できます。
これは単なる将来予想ではありません。
人口統計と地理データを組み合わせれば、地域ごとに異なる問題として可視化できるテーマです。
30年後も現在と同じ時間で来る可能性はある
ここまで見ると救急車の到着時間は必ず長くなるようにも見えますが、そう断定するのも適切ではありません。
消防庁は小規模消防本部の課題に対応するため消防の広域化を進めており、広域化した消防本部では人員配置の効率化や消防体制の強化といった成果が確認されているとしています。
複数自治体の消防本部を一体化すれば、市町村境に縛られず最も近い救急車を出動させる運用もしやすくなります。
さらに、救急車の配置最適化、通信指令システムの高度化、デジタル技術による搬送先検索、ドクターヘリなどを組み合わせれば、人口が減っても到着時間を維持できる可能性があります。
つまり将来は、
消防署を現在と同じ数だけ残すこと
と、
現在と同じ救急サービスを維持すること
が必ずしも同じ意味ではなくなります。
署所を再編しながら広域的に救急車を運用し、情報技術によって配車を最適化するという方向も考えられます。
地方で本当に見るべき数字は「救急車が来るまでの時間」だけではない
住民にとって最も分かりやすい数字は救急車の到着時間です。
しかし将来の地域医療を評価するのであれば、それだけでは不十分です。
重要なのは、
[ T=T_{119}+T_{出動}+T_{走行}+T_{現場}+T_{搬送}+T_{受入} ]
という患者が治療につながるまでの時間全体です。
ここで、消防署が近くても搬送先病院が遠ければ総時間は長くなります。
逆に消防署が多少遠くなっても、広域的な救急車配置や病院との連携が改善されれば、総時間を短くできる可能性もあります。
したがって地方の救急医療を考えるときには、
「消防署を残すか」
ではなく、
「119番から治療開始までの時間をどのように維持するか」
という視点に変える必要があります。
30年後の地方で問われるのは、人口ではなく「距離を支える能力」である
人口減少について議論すると、「人が減れば公共サービスも小さくすればよい」という考え方が出てきます。
しかし救急ではその考え方が簡単には成立しません。
住民が半分になっても地域の面積は半分にならず、道路も集落間距離もほとんど変わらないからです。
しかも住民の高齢化が進めば、人口減少ほど救急需要が減らない可能性があります。
その一方で、消防職員や医療従事者を供給する生産年齢人口は減少します。
つまり地方の救急医療では、
人口減少、人口密度低下、高齢化、人材不足、病院再編
という五つの変化が同時に進みます。
消防庁自身も、人口減少と低密度化が進む一方で必要な消防署所の数は大きく変化しにくく、特に小規模消防本部では消防力の維持が難しくなる可能性を指摘しています。
したがって、
「地方では30年後も、救急車は今と同じ時間で来るのか」
という問いに対する答えは、
「何もしなくても現在と同じ時間で来るとは考えにくい。しかし、必ず遅くなるとも決まっていない」
となります。
消防の広域化、救急車の配置最適化、医療機関との連携、救急需要そのものを減らす地域医療、そして人口密度を考慮した地域構造を今から設計できるかによって結果は変わります。
30年後の救急体制は、30年後になってから考えても間に合いません。
人口構造の変化はすでに予測されています。
問われているのは未来を予測できるかではなく、予測できている未来に対して、現在のうちから公共サービスの配置を変えられるかどうかなのです。

