地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 1989年7月23日の夜、日本の政治で、それまで容易には動かないと思われていたものが大きく揺れた。第15回参議院議員通常選挙で、日本社会党は改選議席のうち46議席を獲得し、自由民主党の36議席を上回った。自民党は非改選議席を含む参議院全体でも単独過半数を失い、1955年の結党以来、日本政治の中心にあり続けてきた自民党優位の政治構造に、明らかな亀裂が走ったのである。

 もっとも、この選挙で社会党が参議院全体の第一党になったわけではない。参議院は議員の任期が6年で、3年ごとに半数を改選する仕組みであり、選挙後も自民党は非改選議員を含めれば最大勢力だった。それでも、参議院における与野党の勢力関係が変わったことは、その後の国会運営に大きな影響を与える出来事だった。

 その中心にいたのが、日本社会党委員長の土井たか子である。選挙後の土井を象徴する言葉は、やがて「山が動いた」という短い表現に凝縮され、人々の記憶に残ることになった。政治家の言葉の多くは、選挙が終われば時代の記憶から薄れていく。しかし、この言葉は1989年という年を説明する象徴として、その後も語り継がれた。そこには社会党が一度の選挙に勝ったというだけでは説明できないものがあり、昭和が終わり平成が始まったばかりの日本で、それまで政治の中心から遠いと感じていた人々が、自分たちにも政治を変えられるのではないかと期待するような時代の空気があった。

 ただし、そうした期待が社会全体にどこまで広がっていたのか、また土井個人の人気がどれほど票を動かしたのかは、選挙結果だけから正確に測定できるものではない。それでも土井たか子という政治家が、この時期の政治的な期待や不満を象徴する存在になったことは、当時の選挙結果と報道の双方から読み取ることができる。

政治家になる予定ではなかった憲法学者

 土井たか子は、最初から職業政治家として人生を設計していた人物ではなかった。1928年に神戸で生まれ、同志社大学で法律を学び、大学院を経て憲法学の教育に携わった。1969年の衆議院議員総選挙で日本社会党から立候補して初当選するまで、彼女の主な活動の場は永田町ではなく、法律を研究し、学生に教える教室だった。政治家になる前には神戸市の人事委員も務め、行政の公平性や女性の就業機会といった問題にも関わった。つまり、土井が政治家として掲げるようになる憲法、平等、女性の権利、生活者の立場といった問題意識は、選挙で人気を得るために突然つくられたものではなく、政治家になる以前の研究や社会的な活動ともつながっていたのである。

 土井の政治思想の中心には、日本国憲法を重視し、その理念を現実の政治や社会制度に反映させようとする姿勢があった。安全保障政策や原子力政策を含め、彼女の立場には当然ながら賛否があるが、少なくとも時代の風向きに合わせて政治的立場を頻繁に変えることを得意とする政治家ではなかった。原則を重視する姿勢は支持者には信頼として映り、反対する人々には現実への対応力を欠く硬直性として映った。こうした特徴は、後に土井が社会党を率いることになったとき、その強さであると同時に限界にもつながっていく。憲法や政治理念を一貫して主張することと、多様な利害を調整しながら政権を運営することは、必ずしも同じ能力ではないからである。

 ところが、憲法学者出身の土井は、難しい法律用語や長い政策説明よりも、短く分かりやすい言葉で国民の関心を集める政治家として知られるようになった。「やるっきゃない」「ダメなものはダメ」という言葉は、どちらも政策の詳細を説明するものではなく、それだけでは現実の政策をどう実現するのか分からない。しかし、何を重視し、何に反対し、どこに譲れない一線を引いているのかを、有権者へ直感的に伝える力があった。

 もっとも、本人はこうした言葉が独り歩きすることを必ずしも歓迎していなかった。後年、土井を取材した記者の回想によれば、本人が望んでいた政治家としての評価と、報道がつくり上げる分かりやすい人物像との間には、一定の距離があったという。憲法を教えていた大学講師が、法律の専門知識だけでなく、誰にでも覚えられる短い日本語によって国民的人気を得たことは、土井の政治人生における興味深い特徴だった。

敗北した社会党が選んだ女性党首

 1986年、土井は日本社会党の委員長に就任した。この人事は、勢いに乗る政党が新しい時代を先取りして女性党首を選んだという、華やかな成功物語ではなかった。むしろ社会党が同年の衆参同日選挙で大敗し、戦後長く自民党と対峙してきた最大野党としての存在感を失いつつあるなかで、党の再建を託されたという性格が強かった。

 社会党は労働組合を中心とした組織的な支持基盤を持ち、戦後日本の労働運動や平和運動と深い関係を築いてきた。しかし、高度経済成長とその後の産業構造の変化によって、就業形態、生活水準、地域社会の構造、有権者の関心は大きく変わっていた。従来の階級対立や保守対革新という枠組みだけでは説明できない生活上の問題が増えるなかで、社会党が新しい有権者へ十分に支持を広げられていたとはいえなかった。

 その危機のなかで委員長になった土井は、国政で大きな役割を担う主要政党として、日本政治史上初の女性党首となった。後に女性初の衆議院議長にも就任する土井だったが、最初の歴史的な役割は、安定した組織の頂点というよりも、立て直しを迫られた政党の指導者として始まったのである。この経緯には、組織が行き詰まったとき、従来とは異なる属性や経歴を持つ指導者が選ばれるという構図を見いだすこともできる。ただし、女性であることが委員長選出の決定的な理由だったと断定するには、党内の人事過程や候補者間の比較を詳しく検証する必要がある。土井は長年の国会活動を通じて政治経験を積み、憲法問題や女性の権利について一定の実績を持っていたのであり、単に女性という目新しさだけで選ばれたと考えるのは適切ではない。

 委員長就任後、土井は社会党の看板を変えるだけでなく、政治的な課題の示し方にも変化をもたらした。その象徴的な発言として知られるのが、衆議院本会議での代表質問における「女は三つの老後を生きなければなりません」という言葉である。これは、親の老後を支え、夫の老後を支えた後に、自分自身の老後を迎えるという、当時の女性が置かれていた生活上の負担を表現したものだった。2000年に介護保険制度が始まる以前、家族による介護、とりわけ女性に偏りがちだった介護負担は、社会保障制度の問題であると同時に、家庭内部の責任として扱われやすかった。

 土井は、その問題を単なる個別家庭の事情としてではなく、社会保障、男女平等、労働、家族政策に関わる政治課題として国会で取り上げたのである。女性だから女性の問題を扱ったという説明だけでは不十分であり、それまで私的な領域に置かれがちだった問題を、公的な政策の対象として明確に位置づけたことに意味があった。

1989年、政治への不満が重なった

 1989年の社会党躍進を理解するには、土井個人の人気だけでなく、当時の自民党政権が置かれていた政治状況を見る必要がある。自民党は前年から続くリクルート事件によって政界と企業の癒着を厳しく批判され、竹下登首相は1989年に退陣した。同年4月には税率3%の消費税が導入され、家計への負担や税制の公平性をめぐる不満が広がっていた。さらに、竹下の後を継いだ宇野宗佑首相には女性問題が報じられ、政権の信頼を回復するどころか、政治家の倫理に対する不信を強める結果となった。政治と金、税負担、政治家の資質という性質の異なる問題が同時期に重なり、有権者の不満が特定の政策分野だけにとどまらなくなっていたのである。

 ただし、1989年の自民党敗北を説明するうえでは、もう一つ重要な問題を忘れてはならない。それが農産物の輸入自由化をめぐる農政問題である。当時の自民党に対する逆風は、リクルート事件、消費税、農産物輸入自由化という三つの問題を中心に語られることも多く、農業政策に対する不満は地方の生産者や農村部の有権者の政治的判断に関係していた。

 農業は自民党が長年にわたって支持を得てきた重要な分野であり、輸入自由化によって国内農業の経営や将来がどうなるのかという懸念は、都市部の消費者とは異なる利害を持つ有権者にも影響する問題だった。社会党の躍進を都市部の政治不信や女性有権者の期待だけで説明すると、こうした地方の政治的変化を十分に捉えられなくなる。

 そのため、1989年の選挙結果は、政治腐敗への怒り、消費税への反発、農政への不満、長期政権への倦怠感、社会党への期待、土井個人の人気などが重なって生まれたものと考えるのが妥当である。それぞれの要因が何議席分の効果を持っていたのかを正確に区別することは難しいが、土井がこうした複合的な不満を受け止める象徴的な存在になっていたことは確かだろう。

数字が示す社会党躍進の実態

 1989年の参議院選挙で、日本社会党は46議席を獲得し、自民党の36議席を上回った。ただし、これは改選された126議席の獲得数であり、非改選議員を含む参議院全体では自民党が引き続き最大勢力だった。重要なのは、単に社会党が自民党を上回ったという順位だけではなく、自民党が参議院の単独過半数を失い、野党の協力なしには国会運営が難しくなる場面が増えたことである。

 この選挙では、女性候補の躍進も大きな話題となった。女性当選者は22人で、1986年の10人から12人増加し、人数では2.2倍となった。改選議席に占める女性当選者の割合は、1986年の約7.94%から1989年には約17.46%へ上昇し、9.52ポイント増加した。もっとも、17.46%という数字は、あくまでこの選挙で改選された議席に占める女性当選者の割合である。非改選議員を含む参議院全体の女性議員割合は、1989年の選挙後でも約13.1%にとどまっており、女性の進出が大きく進んだとはいえ、議員構成全体では依然として男性が圧倒的多数を占めていた。

 また、1989年の投票率は65.02%で、1986年の71.36%を下回った。ただし、1986年は衆参同日選挙であり、投票率を単純に比較するだけで有権者の政治的関心が高まった、あるいは低下したと結論づけることはできない。1989年に起きた変化は、投票に行く人が一律に増えたというより、投票先の選択や政党間の支持配分が大きく変わった現象として理解する必要がある。

 政治学の選挙研究でも、1989年の社会党への得票増加は特定の大都市だけに限られず、全国の多くの市町村に広がっていたことが示されている。一方、社会党の得票増がそのまま長期的で安定した社会党支持層の拡大を意味するわけではなかった。自民党への不満から一時的に社会党へ投票した有権者と、社会党の基本政策を積極的に支持していた有権者とを区別する必要があるからである。つまり、この選挙では社会党の組織的な支持基盤だけでは説明できない幅広い投票行動の変化が起きたものの、その支持を持続的な政権基盤に転換できるかどうかは、また別の問題だったのである。

「マドンナ旋風」が映した日本社会

 1989年の参議院選挙は、後に「マドンナ旋風」と呼ばれるようになった。社会党が女性候補を積極的に擁立し、多くの女性が当選したことは、男性中心だった日本の国政において大きな変化として受け止められた。しかし、この呼び名そのものにも、当時の社会の価値観が表れている。女性候補の躍進を歓迎する一方で、政策や政治思想を持った個々の政治家としてではなく、女性という共通の属性によって一つの特別な集団として扱う視線があったからこそ、この言葉は成立した。

 男性候補が多数当選しても、その現象を男性であること自体に注目して呼ぶことは通常ない。女性が政治家として選ばれることが特別な出来事とみなされた背景には、それまで女性が国政の中心的な地位に進出する機会が限られていた現実があった。土井たか子は、女性政治家の進出を象徴した人物であると同時に、女性政治家がまだ珍しい存在として扱われていた日本社会の姿を映し出す人物でもあった。

 土井が注目された理由を女性だったからという一点に還元することはできないが、女性党首であることが報道上の注目や政治的な象徴性を高めた可能性も否定できない。重要なのは、女性という属性が注目を集めたことと、政治家として支持を集める能力を持っていたことを区別して考えることである。珍しさだけでは一時的な関心を集めることはできても、複数回の選挙を通じて政治的な影響力を維持することは難しい。土井が1980年代後半の日本政治で特別な存在になった背景には、その属性だけでは説明しきれない政治経験、発信力、政策姿勢があった。

なぜ土井たか子は国民的スターになれたのか

 土井人気が広がった1980年代後半は、テレビと新聞が政治情報を全国へ届ける中心的な役割を担っていた時代だった。現在のようにインターネット上で政治家が自分の考えを直接発信し、有権者が多様な媒体から情報を得る環境はまだ存在していなかった。多くの人が同じニュース番組を見て、同じ政治家の発言を知り、それを職場や家庭で話題にすることができたのである。

 この情報環境では、短い映像や発言から人物像が伝わる政治家が注目されやすかった。土井にはよく通る声があり、言葉には歯切れのよさがあり、男性政治家が大多数を占める国会の映像のなかで際立つ存在感があった。一般のクイズ番組などにも出演し、政治ニュースを日常的に見ない人々にも顔を知られるようになった。しかし、テレビに出演して知名度を高めたことだけでは、土井の人気を説明することはできない。知名度と政治的支持は同じものではなく、テレビで頻繁に見かける政治家が必ずしも選挙で支持されるとは限らないからである。土井の場合、メディアでの露出と政治的な発信内容が結びつき、自民党政治への不満や社会党への期待を表現する人物として受け止められた点が重要だった。

 もう一つ注目すべきなのは、土井が政治経験の豊富な人物でありながら、既存の権力政治から一定の距離を置く政治家として見られたことである。1989年の時点で初当選から約20年が経過しており、土井は決して政治経験の浅い新人ではなかった。それにもかかわらず、永田町の内部で生きる政治家というより、永田町へ普通の人々の感覚を持ち込む人物として受け取られる面があった。

 もちろん、政治家が実際に権力構造の外側にいることと、有権者から外側の人物に見えることは異なる。土井は最大野党の党首であり、国会政治の中心にいた。それでも、政治家としての長い経験が既存政治への同化としてではなく、既存政治を批判する能力として評価されたところに、土井の特徴があったと考えられる。人々は彼女を親しみを込めて「おたかさん」と呼んだ。最大野党の党首でありながら、遠い権力者としてだけではなく、身近な人物として受け止められていたことが、この呼び名からもうかがえる。

 ただし、土井個人への好感、社会党の政策への賛同、自民党への抗議という三つの要因が、実際の投票行動のなかでどのような割合を占めていたのかは明確ではない。土井人気の大きさを考える際には、こうした要因を一体のものとして扱わず、区別して評価する必要がある。

「山の動く日」は女性たちの目覚めを歌った言葉だった

 土井たか子が残した「山が動いた」という言葉には、選挙の勝利だけでは説明できない文学的な背景がある。土井が若いころから愛唱していたとされるのが、与謝野晶子が1911年9月1日発行の『青鞜』創刊号に寄せた「そぞろごと」である。この作品の冒頭は「山の動く日来る」で始まり、長く眠っていた女性たちが目覚め、動き始める姿を山に重ねて表現している。

 現在、この冒頭の詩は「山の動く日」という題で広く知られているが、初出時には「そぞろごと」という作品の一部として掲載されたもので、後年になって各詩に個別の題が付された。この区別は文学史的に重要であり、土井の言葉を理解するためにも、与謝野晶子の作品が持つ本来の意味を押さえておく必要がある。土井が社会党委員長だったころ、東京・三宅坂の社会党本部にあった委員長室には、「山の動く日」と書かれた額が掲げられていたという。この事実からも、土井が1989年の選挙結果に合わせて突然この言葉を思いついたのではなく、それ以前から大切にしていた表現だったことが分かる。

 したがって、土井にとっての「山」は、もともと自民党そのものを意味していたわけではなかったと考えられる。与謝野晶子の詩では、女性が長く置かれてきた社会的な立場や、その変化への期待が中心的な意味を持っていた。土井がこの詩に親しんでいた背景にも、女性の権利や社会参加に対する問題意識があったと解釈することができる。

 ところが1989年の参議院選挙で社会党が大勝したことによって、この言葉には新たな政治的意味が重なった。長い間眠っていた女性たちが動くという与謝野晶子の山と、容易には変わらないと考えられていた自民党優位の政治構造が動くという山が、一つの象徴として結びついたのである。ここには、文学的な言葉が政治的な状況のなかで意味を広げていく興味深い過程がある。土井自身がそのすべての意味を意図していたかどうかは分からないが、報道と有権者によって「山が動いた」という表現は選挙の勝利を超えた時代の象徴になった。

女性が参議院で首相に指名された日

 参議院選挙から半月ほど後、その政治的な変化を象徴する出来事が起きた。1989年8月9日の内閣総理大臣指名選挙で、参議院は土井たか子を内閣総理大臣に指名したのである。一方、衆議院では自民党の海部俊樹が指名され、衆参両院の議決が異なることになった。日本国憲法第67条第2項では、両院で異なる指名が行われ、両院協議会でも一致しない場合、一定の手続きを経て衆議院の議決が国会の議決となる仕組みが定められている。このため、最終的には海部俊樹の指名が国会の議決となり、土井たか子内閣が成立したわけではなかった。

 制度上の意味を正確に考えれば、参議院による指名と、国会としての指名の確定、そして実際の首相就任は区別しなければならない。それでも、一方の議院が女性政治家を内閣総理大臣として正式に指名したことには、当時の日本政治において大きな歴史的意味があった。女性が主要政党の党首になること自体が異例だった時代に、参議院がその女性を首相候補として正式に選んだのである。これは女性首相の誕生そのものではなかったが、女性が国の行政権の最高責任者となる可能性を、国会の正式な手続きのなかで具体的に示した出来事だった。

 しかも、社会党はわずか3年前には深刻な選挙敗北を経験していた。その政党の委員長が参議院で首相指名を受けるまでになったことを考えると、1989年の政治的変化が当時の人々に強い印象を与えた理由も理解できる。

それでも山は動き続けなかった

 1989年の参議院選挙での躍進は、その後の衆議院選挙にもつながった。1990年2月の衆議院議員総選挙で、社会党は136議席を獲得し、議席を大幅に増やした。しかし自民党も275議席を獲得して単独過半数を維持し、社会党は政権交代を実現することができなかった。この結果は、土井人気の影響力と、その限界を同時に示していた。参議院では自民党の単独過半数を崩すことができても、政権選択に直結する衆議院では自民党がなお強い支持基盤を持っていたのである。当時の衆議院では中選挙区制が採用されており、政党の支持率が変化しても、候補者の擁立状況や地域ごとの得票配分によって議席への転換のされ方は異なった。

 さらに、1989年に社会党へ向かった票が、一枚岩の社会党支持だったとは考えにくい。政治腐敗への怒りから自民党に反対した人、消費税や農政への不満を持った人、社会党の政策を支持した人、女性政治家の活躍に期待した人、土井本人を好意的に評価した人など、異なる動機を持つ有権者が同じ政党へ投票していた可能性がある。こうした支持は、選挙の時点では大きな政治的な力になる一方、政権を継続的に支える基盤としては不安定になりやすい。特定の政権に対する不満によって集まった票は、不満の対象が変化したり、別の政治的な選択肢が登場したりすると、再び分散する可能性があるからである。

 1991年の統一地方選挙で社会党は敗北し、土井は委員長を辞任した。1986年に低迷していた社会党を率い、1989年の参議院選挙で大勝し、1990年の衆議院選挙でも議席を増やした人物が、わずか数年で党首の座を去ることになったのである。この経過を土井個人の人気の衰えだけで説明することはできない。社会党の組織や政策が、1989年に一時的に集まった多様な支持を、どこまで継続的な支持基盤へ変えることができたのかという問題があった。

冷戦の終結と社会党が抱えていた構造的な問題

 土井人気が高まっていた時期、世界の政治構造も急速に変わっていた。1989年にはベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国の社会主義体制が次々と転換した。1991年にはソビエト連邦が解体し、第二次世界大戦後の国際政治を特徴づけてきた東西冷戦の構造が大きく変わった。

 日本社会党がソ連型の政治体制をそのまま目指していたわけではないが、戦後の保守対革新という対立構造は、冷戦期の国際環境とも深く関係していた。社会党は日本国憲法第9条を重視し、自衛隊や日米安全保障条約について自民党とは異なる立場を取ってきたが、冷戦の終結によって安全保障をめぐる国際環境は大きく変化し、従来の政策をどのように再構成するかという課題に直面した。

 社会党が政権を目指すうえでは、単に自民党の政策に反対するだけでは足りなかった。国の安全保障をどう担うのか、財政と社会保障の負担をどう配分するのか、外交政策をどう運営するのか、経済成長と分配をどう両立させるのかという問題について、現実の政府を運営できる政策体系を示す必要があった。また、社会党の内部には、安全保障政策や社会主義のあり方、労働組合との関係などをめぐる路線の違いが存在していた。支持基盤だった労働運動も一枚岩ではなく、産業構造や雇用形態の変化によって、従来の組織的な支持を維持することが容易ではなくなっていた。

 こうした問題の多くは、土井が委員長になる以前から社会党が抱えていたものである。土井は党の知名度や選挙での支持を高めることには成功したが、党の政策的・組織的な問題を短期間ですべて解決することはできなかった。むしろ重要なのは、土井の政治的な発信力によって、社会党が一時的に衰退傾向から抜け出し、政権をうかがう位置まで回復した一方、その勢いを恒常的な支持へ転換するための制度的・政策的な改革が十分には進まなかったことである。

土井たか子の長所は、そのまま弱点でもあったのか

 土井たか子は、派閥間の調整や密室での駆け引きを得意とする権力政治の職人という印象を与える人物ではなかった。原則を重視し、生活者の立場から政治を批判し、曖昧な言葉で争点をぼかさない姿勢は、当時の有権者に強い印象を与えた。しかし、野党の指導者として支持を集める能力と、政権を運営するための能力は完全には一致しない。政府を担う立場になれば、異なる政策を支持する人々と合意を形成し、財源や行政上の制約のなかで政策に優先順位を付け、時には支持者が望まない妥協を行う必要がある。

 「ダメなものはダメ」という表現は、反対する理由や政治的な原則を端的に示す言葉として効果的だった。一方、政権を担う場合には、何に反対するかだけでなく、その代わりに何を実現するのか、そのために必要な費用や制度変更をどう負担するのかまで説明しなければならない。ただし、短い言葉を用いたこと自体が、土井に政策立案能力や調整能力がなかったことを証明するわけではない。国会での質疑や政治活動を総合的に検証しなければ、政治家としての能力を適切に評価することはできないからである。

 また、土井は憲法や社会保障だけでなく、外交や国際問題にも積極的に関わっていた。1990年から1991年にかけての湾岸危機ではイラクを訪問し、サダム・フセイン大統領との会談を通じて戦争回避を働きかけた。この活動によって戦争を阻止することはできなかったものの、土井の政治活動が国内の女性問題や社会保障に限定されていなかったことを示している。したがって、土井の政治的な限界を単純に「原則にこだわったから政権を取れなかった」と説明するのは適切ではない。政権交代を実現できなかった背景には、社会党の政策と組織、選挙制度、他党との協力関係、当時の国際環境など、複数の要因が存在していたのである。

女性初の衆議院議長へ

 土井の政治人生は、1991年の社会党委員長辞任で終わったわけではなかった。1993年の衆議院議員総選挙で自民党が単独過半数を失い、細川護煕を首相とする非自民連立政権が成立すると、その新しい国会で土井たか子は第68代衆議院議長に選ばれた。女性として初めての衆議院議長であり、在任期間は1993年8月6日から1996年9月27日までだった。かつて最大野党の委員長として自民党と激しく対立した政治家が、今度は衆議院全体を代表し、議事を公平に運営することを求められる立場になったのである。

 衆議院議長は、与党や野党のいずれか一方を代表して政策を主張する役職ではない。議院の秩序を維持し、議事を進行させ、少数派の権利にも配慮しながら国会の機能を支える役割を担う。その意味で、社会党委員長時代とは異なる政治的な能力を求められる地位だった。

 土井は議長時代、それまで議員を呼ぶ際に慣例として用いられていた「君」ではなく、「さん」という呼称を使用したことでも知られる。この変更は法律の改正を伴うものではなかったが、男性議員が大多数を占めていた時代に形成された議会の慣習を問い直す行動として注目された。呼称を変えただけで男女平等が実現するわけではなく、議員構成や政策決定過程における男女の格差が解消されるわけでもない。それでも、制度の中で当然のように続けられてきた慣習を見直すことには、その制度がどのような歴史的な前提の上につくられてきたのかを考え直す意味がある。

 土井の政治には、大きな理念を掲げるだけでなく、政治や行政のなかにある身近な不合理を問題にする側面があった。衆議院議長としてのこうした行動も、女性の権利や平等を政治の問題として扱ってきた彼女の姿勢とつながっていたと考えられる。

社会党は政権を担った~1994年の村山政権という転換点

 土井人気の限界と社会党の衰退を考えるうえで、見落としてはならない重要な事実がある。それは、社会党がその後、実際に政権に参加し、1994年には自党の委員長を首相として送り出したことである。1993年に細川護煕を首相とする非自民連立政権が成立した際、社会党も連立政権に参加した。しかし、連立政権内部には政策や政権運営をめぐる対立があり、細川内閣の退陣後も政治的な再編が続いた。

 そして1994年6月30日、日本社会党委員長の村山富市が内閣総理大臣に就任した。自民党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権が成立し、かつて戦後政治の主要な対立勢力だった自民党と社会党が、同じ政権を支えるという異例の政治状況が生まれたのである。

 この事実は、土井時代の社会党を評価するうえでも重要である。社会党は1989年の躍進後、一度も政権を担うことができなかったわけではない。実際には1993年に非自民連立政権に参加し、翌1994年には社会党委員長を首相とする連立政権が成立した。しかし、そのことが社会党の持続的な党勢拡大や、独自の政策に基づく安定した政権運営につながったわけではなかった。

 村山政権では、安全保障政策をめぐる重要な転換も起きた。従来、社会党は自衛隊の違憲性を主張し、日米安全保障条約にも批判的な立場を取ってきたが、村山首相は自衛隊を合憲とする立場を示し、日米安全保障条約を堅持する方針を表明した。その後、党としても従来の政策を見直すことになった。この変化には、冷戦終結後の国際情勢への対応と、現実の政府を運営する責任という二つの側面があった。安全保障をめぐる社会党の従来の考え方を修正することは、連立政権の運営にとって重要な意味を持っていた一方、長年その立場を支持してきた人々にとっては、党の基本理念が変わったように映った可能性がある。

 もちろん、安全保障政策を現実に合わせて変更したこと自体が間違いだったと断定することはできない。国家の安全保障を担う政府には、それまで野党として主張していた政策を現実の行政制度や国際関係に照らして再検討する必要がある。問題は、その変更をどのような原則に基づいて説明し、従来の支持者と新たな支持者の双方に納得できる政策体系として示せたかどうかだった。

 社会党が政権参加後も長期的に支持を維持できなかった背景には、政策転換に伴う支持者の離反、党内対立、政党再編、労働組合との関係の変化など、さまざまな要因があったと考えられる。したがって、1989年の土井人気から1994年の村山政権を経て、その後の党勢縮小へと至る過程は、単なる人気政治家の成功と失敗ではなく、戦後日本の革新政党が政権担当能力と基本理念をどのように両立させようとしたのかという問題として見る必要がある。

土井たか子の再登板と社会党の終わり

 1996年、日本社会党は社会民主党へと改称した。同年9月、土井たか子は社会民主党の党首に就任し、再び党の指導者として活動することになった。しかし、このときの政治環境は1986年とは大きく異なっていた。冷戦は終結し、1993年には自民党の一党優位体制がいったん崩れ、1994年には自民党と社会党の連立政権が成立した。1990年代には選挙制度改革と政党再編が進み、それまでの社会党支持者にも新たな投票先の選択肢が生まれていた。

 社会民主党は、かつての日本社会党と同じ規模や組織的な影響力を維持することが難しくなっていた。土井は1996年から2003年まで党首を務めたが、1989年のような大規模な選挙での躍進を再現することはできなかった。もっとも、この結果を土井個人の指導力だけに帰することはできない。政党の支持基盤が縮小する過程では、社会構造の変化、他党への支持移動、政策上の対立、組織の再編などが同時に進むため、一人の党首が交代するだけで状況を逆転させられるとは限らない。

 2005年の衆議院議員総選挙で土井は落選し、1969年の初当選から続いた国会議員としての活動に終止符を打った。2014年9月20日、85歳で亡くなった。1989年の絶大な人気だけを見ると、土井は社会党を復活させた英雄のようにも見える。しかし、1990年代後半以降の政治活動まで含めて考えると、彼女は社会党と社会民主党が直面した構造的な変化を最後まで引き受けた政治家でもあった。

 それゆえ、土井たか子を「社会党を救えなかった政治家」と評価することも、「社会党を復活させた政治家」と評価することも、それだけでは不十分である。社会党がなお広い有権者の支持を集められる可能性を示した一方、その支持を持続的な政治的基盤に転換することの難しさを、長い政治人生のなかで体現した人物だったと考える方が、歴史的な実態に近いだろう。

女性政治家が珍しかった時代のスターだったのか

 土井たか子が国民的人気を得た理由を、「女性だったから」という説明だけに求めることはできない。女性党首としての新鮮さや、男性政治家が大多数を占める政治の世界で目立つ存在だったことは確かだが、それだけでは長期間にわたる政治的な影響力を説明できない。土井は大学で憲法を教え、国会で長年活動し、女性の権利、労働、社会保障、外交、安全保障などの問題に取り組んできた。そうした経験を持ちながら、専門的な政策を短い言葉で表現し、既存政治への批判を有権者に伝えることができた点に特徴があった。

 また、土井が注目されることによって、それまで当たり前だと思われていた政治の姿が、改めて問い直されるようになった側面もある。男性が多数を占める国会、派閥を中心とする自民党政治、労働組合などの組織に依存する社会党、女性が家庭内で担っていた介護や家事の負担を十分に政治課題として扱ってこなかった社会など、従来の政治と社会の構造が、土井という人物との対比によって見えやすくなったのである。

 ただし、こうした社会の変化が土井によって初めて生み出されたわけではない。女性の社会進出や男女平等を求める運動は、それ以前から多くの人々によって進められていた。土井はその長い歴史の上に登場した政治家であり、それまでの社会運動や女性政治家の活動を一人で代表する存在だったと考えるべきではない。それでも、社会の変化が進んでいるにもかかわらず、制度や政治文化が十分に対応していないとき、そのずれを象徴する人物が大きな注目を集めることがある。1989年の土井たか子は、まさにそうした位置にいた政治家の一人だったのではないだろうか。

「山が動いた」から36年後、日本に女性首相が誕生した

 1989年から36年後の2025年10月21日、高市早苗が衆参両院の内閣総理大臣指名選挙で指名され、第104代内閣総理大臣に就任した。日本で初めて女性が実際に内閣総理大臣となった歴史的な日だった。もちろん、土井たか子と高市早苗の政治思想は大きく異なる。土井は護憲を中心に据え、戦後の革新政治を代表する立場にいた。一方、高市は自民党の政治家として保守的な政策を掲げてきた人物であり、女性という共通点だけで両者の政治思想や政策を連続したものとして扱うことは適切ではない。

 しかし、政治制度における女性の地位という観点から見ると、二人の間には一つの歴史的なつながりがある。1989年、参議院は土井たか子を首相に指名したが、国会としての指名には至らなかった。それから36年を経て、2025年には女性政治家が衆参両院の指名を受け、実際に内閣総理大臣に就任したのである。

 女性が国政に参加できるようになってからの歴史を振り返ると、この変化には長い時間が必要だったことが分かる。日本で女性の国政参政権が制度上認められたのは、1945年12月17日の衆議院議員選挙法改正によるものであり、翌1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙で、女性は初めて選挙権と被選挙権を実際に行使した。この選挙では39人の女性衆議院議員が誕生している。したがって、女性の国政参政権が制度上認められてから80年に当たるのは2025年であり、女性が実際の国政選挙で投票し、立候補してから80年に当たるのは2026年である。

 1946年に初めて女性が国政選挙に参加し、1986年に土井が主要政党の女性党首となり、1989年に参議院で首相指名を受け、1993年に女性初の衆議院議長となった。そして2025年、日本で初めて女性が内閣総理大臣に就任した。こうして並べると、制度上の参政権が認められることと、実際に政治の最高責任者となる機会が開かれることとの間には、大きな時間的な隔たりがあったことが分かる。

 もっとも、女性首相が誕生したことだけで、政治分野における男女平等が完成したわけではない。政治家の候補者選定、議会の女性割合、政府の政策決定過程、家庭や職場での男女の役割分担など、検討すべき問題は残っている。また、女性政治家であっても政策や思想はさまざまであり、女性であるという理由だけで特定の政策を代表するわけではない。その意味で、土井と高市を結ぶ歴史は、同じ政治思想の継承ではなく、女性が政治の中心的な地位へ進出する可能性が段階的に広がってきた歴史として理解する方が適切である。

土井たか子は何を変え、何を変えられなかったのか

 土井たか子の政治人生を評価するとき、1989年の選挙結果だけを取り上げると、その人物像は単純になりすぎる。確かに土井は社会党を選挙で躍進させ、参議院の首相指名選挙で指名を受け、女性初の衆議院議長にも就任した。しかし、社会党はその後、独自の安定した政権基盤を築くことができず、政党再編のなかで勢力を縮小させていった。

 土井が変えたものの一つは、女性が政党の最高指導者となり、国政の主要な議論を担うことについての社会的な認識だったと考えられる。女性政治家は女性問題だけを扱うものではなく、外交、安全保障、税制、社会保障、憲法を含む国政全般について判断し、政党を率いることができる。そのことを国民に強く印象づけた人物だった。

 一方、土井の人気が社会党の構造的な問題を解決したわけではなかった。組織的な支持基盤の変化、安全保障政策の再構築、冷戦後の政治環境への対応、他党との連立のあり方など、土井個人の人気だけでは克服できない課題が残った。1994年の村山政権は、社会党が現実の政権運営に参加し、自党の委員長を首相として送り出すところまで到達したことを示した。しかし同時に、長年掲げてきた政策と政権運営の現実を調整することの難しさも明らかにした。社会党のその後の衰退を理解するためには、この成功と困難の両方を見る必要がある。

 土井は社会党を救えなかった人物だったのか、それとも衰退していた社会党を一時的に復活させた人物だったのか。この問いに単純な答えはない。政治家個人の能力と政党の組織的な条件を区別し、選挙での成功と長期的な政権運営を別の問題として評価するならば、土井の功績と限界は矛盾するものではなく、同じ政治過程の異なる側面だったと考えられる。

山とは何だったのか

 結局、1989年に動いた「山」とは何だったのだろうか。社会党の議席数だったのか、自民党の長期的な優位だったのか、女性の政治進出だったのか。それとも、普通の有権者が政治に対して抱いていた諦めや、変わらないものだと考えていた常識だったのだろうか。

 実際に確認できる事実としては、社会党が参議院の改選議席で自民党を上回り、自民党が参議院の単独過半数を失い、女性当選者が大幅に増えた。また、土井たか子は参議院で首相に指名され、その後、女性初の衆議院議長となった。これらは政治制度と選挙結果に記録された具体的な変化である。

 一方、国民の意識がどこまで変わったのか、その変化がどの程度持続したのかという問題は、より慎重に考える必要がある。1989年の社会党への投票増加は、直ちに有権者の価値観そのものが恒久的に変化したことを意味しないし、女性当選者の増加が、そのまま男女平等の達成を意味するわけでもない。それでも、政治の歴史には、制度や議席の変化が社会の可能性に対する見方を変える瞬間がある。それまで実現しないと思われていたことが一度現実になれば、たとえその変化が短期間で後退したとしても、以前と同じ意味で不可能だとは言い切れなくなる。

 1989年の参議院選挙は、自民党の長期的な政治的優位が絶対的なものではないことを示した。社会党がその勢いを長期間維持することはできなかったが、1993年には実際に自民党が政権から離れ、その翌年には社会党委員長が首相となった。これらの出来事は1989年の選挙だけで引き起こされたわけではないものの、戦後政治の構造が変化する過程に位置づけられる。

 女性の政治参加についても同様である。土井の登場によって女性が直ちに政治の中心を占めるようになったわけではなく、女性議員の増加も一定の時期には停滞した。それでも、女性が主要政党の党首となり、首相指名を受け、衆議院議長に就任するという前例が生まれたことは、それまでの政治の可能性を広げる意味を持っていた。

 土井たか子という政治家を振り返ることは、彼女の政策を無条件に肯定することでも、かつての社会党を美化することでもない。憲法や安全保障についての評価、政権担当能力についての評価、女性政治家として果たした役割についての評価は、それぞれ分けて考える必要がある。それでも、土井が1989年の日本政治を象徴する存在だったことには、重要な意味がある。彼女は政治経験の豊富な野党指導者でありながら、既存政治への不満を代弁する人物として支持を集め、女性が政治の中心に立つことの可能性を広く印象づけた。その一方で、個人への人気だけでは政党の長期的な課題を解決できないことも、その後の政治人生を通じて示すことになった。

 「山が動いた」という言葉が今も残っているのは、社会党の選挙での勝利だけでなく、それまで当然と思われていた政治の姿が変わり得ることを表現していたからではないだろうか。与謝野晶子が描いた山は、長く眠っていた女性たちの目覚めを象徴するものだった。土井たか子が1989年に語った山は、選挙によって揺らいだ戦後政治の構造と重なり、さらに有権者が政治の変化へ寄せる期待を表す言葉になった。

 山が動いたからといって、その後の道が必ず開けるわけではない。変化が後退することもあれば、新たな問題が生まれることもある。しかし、動かないと思われていたものが一度動いたという事実は、次の時代に別の可能性を示すことがある。1989年の夏、その歴史的な瞬間を象徴する場所に立っていたのが、土井たか子だったのである。

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