六十歳で住まいを決め、その家で九十歳まで暮らすと考えてみる。
三十年という時間は長い。住宅ローンを払い終えるには十分な長さである一方、屋根や外壁を傷ませ、給湯器を何度か交換し、自動車を何台か乗り継ぎ、人間自身の足腰まで変えてしまう長さでもある。
都市の駅に近いマンションなら、玄関の鍵を閉めれば、共用廊下の照明もエレベーターも、ごみ置き場も植栽も、基本的には管理の仕組みの中に置かれている。その代わり、毎月決まった管理費と修繕積立金を払い続けなければならない。
地方の戸建てでは、その引き落としがない。今月何も壊れなければ、住宅維持にほとんどお金を使わないことさえある。駐車場も自宅の敷地にあれば、月極駐車場代は必要ない。
こうして月々の請求額だけを見ると、地方戸建ての方が圧倒的に安いように思える。
しかし、老後三十年間という長さで考えると、話は少し違ってくる。マンションでは将来の修繕費の一部が毎月小分けにされて請求されるのに対し、戸建てでは屋根、外壁、給湯器、水回りなどの形になって、ときどきまとまって現れる。そして地方生活には、住宅の帳簿には記載されないにもかかわらず、生活を成立させるために必要な大きな設備がある。
自動車である。
「安い家」と「安く暮らせる家」は、必ずしも同じではない。
比べるべきなのは建物ではなく、そこで暮らす仕組みである
都市マンションと地方戸建ての比較を難しくしているのは、マンションと戸建てという建物形式だけが違うのではないことである。
駅に近い都市マンションを選べば、多くの場合、その価格の中には都市の密度も含まれている。徒歩圏や公共交通圏にスーパー、病院、薬局、金融機関などが集まっていれば、自分で長い距離を移動する必要が小さい。
地方戸建てでは、同じ購入予算でも広い住宅や土地を得やすい。その代わり、病院まで十キロ、スーパーまで五キロという距離が生活の中に入り込むことがある。
六十歳のとき、その十キロは大きな問題ではないかもしれない。自動車に乗れば十数分だからである。
ところが七十歳、八十歳、九十歳へと年齢が進むにつれて、同じ十キロの意味が変わっていく。
国土交通省の全国都市交通特性調査は、三大都市圏と地方都市圏では交通行動が異なり、地方都市圏ほど自動車の役割が大きいことを示してきた。最新の全国都市交通特性調査も、地域別、年齢別、交通手段別の移動実態を把握することを目的としている。地方生活を考えるとき、自動車は単なる趣味やぜいたく品ではなく、場合によっては住宅と生活サービスを結びつける装置になる。
だから老後の住居費を比べるなら、建物に直接支払うお金だけでなく、「その家に住み続けるために必要になるお金」まで含めなければならない。
マンションでは、住宅ローンが終わっても時計は止まらない
国土交通省が五年に一度実施している「令和5年度マンション総合調査」では、駐車場使用料などからの充当額を除いた一戸当たりの管理費は月平均11,503円、修繕積立金は月平均13,054円とされている。国土交通省はこの調査をマンション管理の実態を把握する基礎調査として公表している。
二つを合わせると月24,557円になる。
この金額が三十年間まったく変わらないという単純な条件なら、
24,557円 × 12か月 × 30年 = 8,840,520円
となり、約884万円である。
ここで注意したいのは、これは「三十年後まで約884万円しかかからない」という予測ではないことである。あくまで現在の平均額を三十年間そのまま置いた基準値にすぎない。
国土交通省の長期修繕計画に関する基準では、計画期間を三十年以上とし、その期間に大規模修繕工事が二回以上含まれることなどが求められている。工事費や建物の状態は将来変わるため、現在の修繕積立金が三十年間固定されるとは限らない。
さらに修繕積立金で直すのは主として共用部分である。自分の住戸内の給湯器、キッチン、浴室、エアコン、床、壁紙などについては、原則として別の費用を考えなければならない。
マンションには修繕費がかからないのではない。
大きな建物を共同で維持する費用を毎月払いながら、自分の住戸内部については自分でも維持する構造なのである。
戸建ての「管理費ゼロ」は、修繕費ゼロを意味しない
地方戸建てには通常、マンションのような管理費や修繕積立金はない。
その自由は大きい。
外壁を今年塗るか、もう数年使うか。古いキッチンを交換するか、そのまま使うか。庭木を業者に頼むか、自分で切るか。安全性に問題がない範囲なら、支出の時期を所有者自身が決められる。
しかし自由であることと、費用が存在しないことは別である。
三十年間には、給湯設備、水回り、エアコン、外壁、屋根、雨どい、建具などの何らかの補修や交換が発生する可能性が高い。ただし、その総額には巨大なばらつきがある。
築年数が違えば違う。木造か鉄骨造かでも違う。屋根材や外壁材によっても違い、延床面積、施工状態、海からの距離、台風や塩害などの環境条件にも左右される。
したがって「戸建ては三十年間で700万円かかる」と全国平均のように断定することはできない。
この記事でこれから使う700万円という数字は、統計的な全国平均ではなく、比較の仕組みを見るためのシミュレーション上の仮定である。
ここを区別しなければ、数理的な比較は数字が細かいだけの印象論になってしまう。
30年間を一度、同じ物差しに載せてみる
そこで、住宅ローンをすでに完済している六十歳の人が、その家に九十歳まで住むというモデルを考えてみる。
ここでは将来の物価上昇率を予測しない。すべてを現在の価格水準で考えた「実質額の単純累計」とする。
これは金融理論上の「現在価値」ではない。
厳密な現在価値を求めるなら、二十年後や三十年後に発生する費用を一定の割引率で現在の価値へ割り戻す必要がある。しかし、そこまで行うと住宅比較そのものより割引率の仮定によって結果が大きく変わるため、ここではまず構造を見ることを優先する。
都市マンションについて、先ほどの管理費・修繕積立金を三十年間で約884万円とする。さらに試算上、固定資産税などを年間12万円、住戸内部の設備更新を三十年間で300万円、火災保険などを年間2万円、鉄道やバスなどの日常交通費を年間12万円と仮定する。
すると三十年間の累計は、
管理費・修繕積立金 約884万円 固定資産税など 360万円 住戸内部の修繕・設備更新 300万円 保険など 60万円 公共交通 360万円
となり、合計は約1,964万円となる。
ただし、ここで置いた固定資産税、保険、内部修繕費、公共交通費は全国平均を示したものではない。比較のためのモデル条件である。
同じように地方戸建てについて、固定資産税などを年間6万円、建物と設備の修繕を三十年間で700万円、火災保険などを年間3万円と仮定する。
すると、自動車を除いた三十年間の住宅関連支出は、
180万円 + 700万円 + 90万円 = 970万円
となる。
この段階では地方戸建ての方が約994万円安い。
ここだけを見れば、地方戸建ての経済性は非常に高い。
しかし、その家で暮らすために自動車一台が不可欠だと仮定した瞬間、計算は違った姿を見せる。
自動車はいくらかかるとマンション側が逆転するのか
例えば200万円程度の自動車を十年ごとに買い替え、三十年間で三台所有するとする。
車両購入費だけで600万円である。
さらに燃料、税金、任意保険、車検、点検、タイヤ、バッテリーなどの費用を平均して年間30万円と仮定すれば、
30万円 × 30年 = 900万円
となる。
車両代600万円と合わせて、自動車関連支出は1,500万円になる。
地方戸建ての住宅関連費970万円にこれを加えると、
970万円 + 1,500万円 = 2,470万円
となる。
先ほどの都市マンションは約1,964万円なので、このモデルでは地方戸建ての方が約506万円高くなる。
しかし重要なのは、この「506万円」という結果そのものではない。
これは全国の都市マンションと地方戸建てを調査して平均値を求めた結果ではなく、一組の条件を置いたシミュレーションだからである。
本当に見るべき数字は、どこで結果が逆転するかという境界である。
都市マンション約1,964万円に対し、自動車を除いた地方戸建ては約970万円なので、差は約994万円ある。
したがって、このモデルでは地方生活に必要な自動車の三十年間総費用が約994万円を超えると、都市マンション側の総支出が少なくなる。
仮に三十年間の車両購入費を600万円とすれば、残りは394万円である。
394万円を三十年で割ると、年間約13万1,000円になる。
つまりこの条件では、車両購入費600万円に加え、燃料、税金、保険、車検、整備などの合計が平均年間約13万円を超えたところで、都市マンションと地方戸建ての優劣が逆転する計算になる。
自動車を所有する人なら、この年間13万円という水準が決して大きな数字ではないことは分かるだろう。
だからこそ、「地方戸建ては住宅費が安い」という事実と、「地方戸建て生活の総費用が安い」という結論は分けて考えなければならない。
数字を一つ変えるだけで、結論はどこまで動くのか
もっとも、戸建て修繕費を700万円と置いた時点で結論が決まっているのではないか、という疑問は当然生じる。
そこで数字を動かしてみる。
戸建ての三十年間の修繕・設備更新費を700万円ではなく400万円と仮定すると、自動車を除く地方戸建ての費用は670万円になる。都市マンションとの差は約1,294万円に広がる。
この場合、車両購入費600万円を差し引いても694万円の余裕があるため、自動車の維持費が年間約23万円になるまでは地方戸建て側が安い。
反対に、戸建て修繕費が三十年間で1,000万円になれば、自動車を除いた費用は1,270万円となる。都市マンションとの差は約694万円まで縮まり、車両購入費600万円を引けば残るのは94万円でしかない。
三十年間で94万円だから、年間にすると約3万円である。
つまりこのケースでは、自動車を所有する時点で都市マンション側が容易に逆転する。
この三つの数字は戸建て修繕費の実測平均を示すものではない。
400万円、700万円、1,000万円と意図的に条件を動かし、結論がどれだけ変化するかを見る感度分析である。
そして、この分析から分かるのは「絶対にマンションが得だ」といった単純な結論ではない。
建物の修繕状態と、自動車にいくらかかるかという二つの変数が、三十年間の結果を大きく左右するということである。
都市でも車を持つなら、マンションの優位性は消えていく
ここまでのモデルには、もう一つ重要な条件がある。
都市マンション側では自動車を所有していない。
したがって、この計算から「マンションは戸建てより安い」と結論することはできない。
比較しているのは正確には、
「自動車なしで生活できる都市マンション」
と、
「自動車一台を必要とする地方戸建て」
である。
都市マンションに住みながら自動車も所有すれば、車両費、保険、税金、車検、燃料費に加えて、地域によっては高額な駐車場代まで必要になる。
例えば月2万円の駐車場なら、
2万円 × 12か月 × 30年 = 720万円
である。
駐車場だけで720万円になる。
こうなれば都市マンションの経済的優位性は大幅に縮小し、条件によっては地方戸建ての方が明確に安くなる。
したがって本当の分岐点は、「マンションか戸建てか」だけにはない。
自動車を持たずに生活できる立地かどうかが、老後三十年間では非常に大きな変数になるのである。
戸建てには「払わない自由」がある
それでも戸建てには、マンションにはない強さがある。
支出の時期を自分で調整しやすいことである。
安全や建物の保存上必要な工事を無期限に放置するわけにはいかないが、外壁を今年塗るか二年後にするか、古いキッチンを交換するか使い続けるかといった判断には所有者の裁量がある。
マンションの管理費はそうはいかない。
今月は収入が少ないから管理費を半分にする、エレベーターを使わないからその分を払わない、といった選択は原則としてできない。
この違いは、年金生活では小さくない。
マンションでは大きな建物の維持リスクを住民全体で分散する代わりに、毎月の固定負担を引き受ける。
戸建てでは毎月の固定負担が小さい代わりに、大きな修繕が発生したときのリスクを一世帯で引き受ける。
これは単純な「どちらが高いか」の問題ではなく、将来の不確実な支出をどのように負担するかというリスク配分の違いなのである。
八十歳を過ぎると、「自分でやる」が無料ではなくなる
さらに老後三十年間を考えるとき、住宅より先に変化するものがある。
住んでいる人間である。
六十歳なら、庭木を切り、草を刈り、電球を交換し、自動車でスーパーへ行くことを負担だと感じないかもしれない。
しかし八十歳でも同じことができるとは限らない。
七十五歳で脚立に乗ることをやめるかもしれない。八十歳で草刈りを業者に頼むようになるかもしれない。八十五歳で自動車の運転をやめれば、買い物、通院、役所、銀行への移動を別の手段に置き換えなければならない。
若いころには自分の労働によってゼロ円に見えていたものが、高齢になるにつれて外注費へ変わっていく。
地方戸建ての経済性を考えるとき、この変化は意外に重要である。
都市マンションでも加齢による負担は当然生じるが、エレベーターがあり、徒歩圏に店舗や医療機関があり、公共交通を使える地域であれば、身体能力の低下によって生活システム全体を作り直す必要は比較的小さい。
老後の住居を六十歳で選ぶなら、六十歳の身体で便利かどうかを見るだけでは足りない。
八十五歳の自分でも暮らせるかという視点が必要になる。
ただしマンションにも「二つの老い」がある
ここまで読むと、老後には都市マンションが常に安全で便利であるように見えるかもしれない。
しかしマンションも老いる。
コンクリートの建物であっても、外壁、防水、給排水設備、エレベーターなどには維持更新が必要である。そして時間が経てば、建物だけでなく住民も高齢化する。
国土交通省のマンション政策でも、建物の老朽化と区分所有者の高齢化が重なる問題は重要な課題として扱われている。
修繕積立金が十分でなければ負担増が必要になる可能性があり、大規模修繕の内容や管理の方針について住民間の合意形成が難しくなる場合もある。
戸建てなら、自分の資金と判断によって修繕方針を決めやすい。
マンションでは、自分一人に十分な資金があっても、建物全体を一人の意思だけで動かすことはできない。
「管理を一人で背負わなくてよい」というマンションの長所は、そのまま「管理を一人では決められない」という短所にもなる。
三十年間という時間では、この違いも無視できない。
これから家を買うなら、購入価格を無視してはいけない
ここまでの比較は、すでに住宅を所有し、住宅ローンを完済している人が、今後三十年間どちらの生活を維持しやすいかを見るモデルだった。
ところが、六十歳から新たに住宅を購入するなら、話は大きく変わる。
例えば都市マンションが4,000万円、地方戸建てが2,000万円なら、購入時点で2,000万円の差がある。
その後の管理費や自動車費だけを比べても、その差を三十年間で取り戻せるとは限らない。
この場合、本来比較すべきなのは単純な維持費ではない。
おおまかには、
「購入価格と購入諸費用 + 三十年間の保有費・修繕費・移動費 - 三十年後に残る住宅や土地の価値」
という形で考える必要がある。
さらに借入金を使えば利息も加わり、厳密な経済評価をするなら将来の支出と売却価値を現在価値へ割り引く必要も出てくる。
ここで重要なのは、都市マンションの方が三十年後にも必ず高く売れるとも、地方戸建ては必ず無価値になるとも言えないことである。
駅からの距離、人口動態、建物管理の状態、土地需要、災害リスクなどによって資産価値は大きく変わる。
したがって「これから買う人」と「すでに持っている人」を同じ計算式で論じるべきではない。
老後住宅の比較では、この二つを分けることが必要なのである。
結局、どちらが安いのか
ここまで考えると、単純な答えが消えてしまったように見える。
しかし、むしろ答えは最初より明確になっている。
今回の試算条件では、住宅そのものの維持費だけを見るなら地方戸建ての方が安い。
管理費がなく、土地や建物の評価額が低ければ税負担も抑えやすく、修繕時期にも一定の裁量があるからである。
ただし、「地方戸建てなら必ず住宅費が安い」と一般化することはできない。築年数が古く、大規模な修繕が続く住宅なら結果は変わる。
一方、自動車なしで生活できる都市マンションと、自動車一台が不可欠な地方戸建てを比較すると、今回の条件では都市マンションが約506万円安くなる。
さらに重要なのは、この試算では自動車の三十年間総費用が約994万円を超えたところに逆転点があることである。
つまり老後の住宅を選ぶとき、「マンションの管理費が高い」という数字だけを見るのは不十分なのである。
その管理費を払う代わりに車を持たなくて済むのか。
逆に、地方戸建ての管理費がゼロである代わりに、自動車を何十年間維持しなければならないのか。
この交換関係を見る必要がある。
最後に残るのは、九十歳の自分がその家で暮らせるかという問題である
夕方、都市マンションの窓から駅前の灯りを見る生活と、地方戸建ての縁側から静かな庭を見る生活では、そもそも得ているものが違う。
静けさ、庭、広さ、隣家との距離には価値がある。
一方で、駅まで歩けること、病院やスーパーが近いことにも確かな価値がある。
したがって、老後の住まいを単純に金額だけで決める必要はない。
しかし、経済性を比較するのであれば、「家そのものが安い」という一点から「老後も安く暮らせる」と結論することだけは避けた方がよい。
地方戸建てには管理費がない。
しかし屋根があり、庭があり、家の前から病院までの距離があり、その距離を埋める自動車がある。
都市マンションには自分だけの庭も屋根もない。その代わり、管理費と修繕積立金という固定費を払いながら、都市の密度を利用して暮らすことができる。
どちらが安いかを決める最大の要因は、「マンションか戸建てか」という建物の種類だけではない。
これから買うなら取得価格はいくら違うのか。すでに所有しているなら建物はどの程度傷んでいるのか。自動車を何台持ち、何歳まで運転するのか。八十歳を超えたあと、買い物や通院や家の管理を自分で続けられるのか。そして三十年後、その住宅と土地にどれだけの価値が残るのか。
その条件をすべて置いて初めて、老後住宅の本当の価格が見えてくる。
六十歳で住まいを選ぶとき、つい六十歳の自分を基準にしてしまう。
しかし三十年間住む家なら、本当に問いかけるべき相手は九十歳の自分なのかもしれない。
その人が玄関を開けたあと、買い物へ行けるのか。病院へ行けるのか。壊れた家を直せるのか。そして無理のない支出で、そこに住み続けられるのか。
老後の住まいで「安い」という言葉の意味は、住宅価格だけでは決まらない。
最後まで生活を続けるために必要な費用まで数えて、初めてその家の本当の値段が分かるのである。
参考にした主な公的資料
国土交通省「令和5年度マンション総合調査」、国土交通省「長期修繕計画標準様式・長期修繕計画作成ガイドライン」、国土交通省「マンション管理計画認定制度」、国土交通省「全国都市交通特性調査」を基礎資料として確認した。
なお、本文中の30年間の固定資産税、戸建て修繕費、マンション専有部分修繕費、自動車購入・維持費、公共交通費などは、全国平均を示す統計値ではなく、費用構造と損益分岐点を検討するために設定したシミュレーション条件である。

