地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 地方の人口減少対策という言葉から、多くの人がまず思い浮かべるのは「人を呼ぶこと」だろう。移住相談会を開き、住宅取得に補助金を出し、空き家を改修し、子育て世帯を歓迎する。自治体の広報には、都会から移り住んできた家族が笑顔で写り、「この地域を選びました」と語る。そうした姿は確かに明るいニュースであり、新しい住民を迎えること自体に意味がないわけではない。

 しかし、自治体庁舎の正面玄関から新しい住民を迎えているあいだにも、別の出口から、これまでそこで暮らしてきた住民が静かに出て行っているとしたらどうだろう。大学へ進学したいから地域を離れる若者もいれば、もっと大きな仕事に挑戦したいから都会へ出る人もいる。それは人生の選択であって、自治体が止めるべきものではない。

 問題は、それとは別の転出である。本当はここに住んでいたいのに、車を運転できなくなれば買い物が難しくなり、子どもが高校生になると通学が負担になり、診療所では対応できない病気になれば遠くの病院まで通わなければならない。配偶者を亡くして一人になった途端、それまで何とか成り立っていた日常生活が急に難しくなることもある。

 こうした人たちは、必ずしも地域が嫌いになったわけではない。ただ、その地域で暮らし続けるための条件が少しずつ失われたのである。人口減少時代の地域政策を考えるなら、ここにはかなり重要な問いが隠れているのではないだろうか。「どうしたら人に来てもらえるか」を考える前に、「なぜ今ここにいる人が、出て行かなければならないのか」を調べる。人口問題を見る方向を、ほんの少し反対側へ向けてみるのである。

人口は「来た人」だけで決まるわけではない

 人口の変化そのものは、実はそれほど複雑な話ではない。出生した人が加わり、死亡した人が減り、転入した人が加わり、転出した人が減る。その結果として、ある年の人口が決まる。ところが地域政策の世界では、この四つの要素のうち「転入」だけが妙に目立つことがある。

 年間百人が移住した地域は成果を説明しやすい。だが、百人が移住してきても百二十人が転出すれば、社会移動だけを見れば人口は二十人減る。一方で、移住者が三十人しかいなくても、これまで毎年百人出ていた地域から七十人しか出なくなれば、同じ三十人分だけ人口減少は緩和される。算数としてはごく当たり前の話だが、政治や広報の世界になると、この二つは同じようには扱われない。

 その理由の一つは、新しく来た人には「物語」があるからだろう。東京から移住してカフェを始めた夫婦、海の近くで子育てを始めた家族、古民家を改修して事業を始めた若者には、写真があり、言葉があり、「地方創生」という言葉によく似合う印象的な場面がある。

 ところが、七十八歳の住民が今年も転居しなかったことには、ニュースらしい出来事がない。買い物の送迎サービスができたので、免許を返納したあとも同じ家で暮らせた。診療所へ行く方法が確保されたので、自治体外に住む子どもの家へ移らなくて済んだ。統計上、その人にはほとんど何も起きていないように見えるが、人口減少社会では、その「何も起きなかった」という事実こそ、政策の成果なのかもしれない。

「住みたい地域」と「住み続けられる地域」は同じではない

 人口政策を考えるうえで、もう一つ大切な区別がある。「この地域に住みたいか」と「この地域に住み続けられるか」は、同じ問いではない。人はある地域を気に入っていても、交通、仕事、教育、医療などの条件によって、その地域から離れざるを得ないことがある。

 考えてみれば、これは不思議なことではない。海が好きだと感じている人でも、病院へ通えなくなれば海を離れるかもしれない。近所付き合いが心地よくても、子どもが学校へ通えなければ家族は転居を考える。地域への愛着がどれほど強くても、それだけでスーパーまでの距離が縮まるわけではなく、運転できなくなった高齢者の足が自動的に確保されるわけでもない。

 つまり転出には、少なくとも性質の異なる二つの形がある。もっと別の場所で暮らしたいから出て行く移動と、ここで暮らしたいのに生活条件のために出て行く移動である。前者は人生上の選択に近く、後者は生活上の制約に近い。

 自治体が人口政策として減らすべきなのは、人が地域を出る自由ではない。減らすべきなのは、「出たくないのに出なければならない理由」なのではないだろうか。地域の居住意向を扱った調査や研究でも、買い物、医療・福祉、仕事や学校、移動の利便性といった生活そのものに関わる条件が、住み続けたいという意向や転出の判断と結び付くことが指摘されている。

 ここから見えてくるのは、地域の人口流出が、必ずしも地域そのものの魅力不足だけで起きるわけではないということである。観光地として美しく、住民同士の関係も良好で、それでも暮らしのどこかに小さな「行き止まり」ができれば、人はその地域から出て行かざるを得なくなる。

人を呼ぶ政策は長所を探し、人が残れる政策は欠点を探す

 移住政策をつくるとき、自治体は地域の良いところを探す。海があります、山があります、魚がおいしい、土地が安い、都会まで二時間です、子育て環境が充実しています、といった具合に、「この地域を選ぶ理由」を一つずつ見つけていく。

 ところが、住民が出て行かなくてもよい地域をつくろうとすると、行政が見る景色はほとんど反対になる。なぜ七十五歳になると暮らしにくくなるのか。なぜ子どもが高校生になると家族まで地域を離れるのか。なぜ配偶者を亡くした高齢者は自治体外の子どもの近くへ移るのか。なぜ仕事を続けたい世代が残れないのか。こちらは地域の長所を集めるのではなく、地域の弱点を一つずつ見つけていく作業になる。

 この作業は、移住パンフレットほど華やかではない。しかし、人口減少地域に本当に必要なのはこちらかもしれない。一日に数本しかない路線バスを昔と同じ形で維持することが難しいなら、乗り合い交通という別の方法を考える。スーパーそのものを残せないなら、配送や移動販売によって買い物の機能を残す。すべての診療科を自治体内に置けないなら、オンライン診療や広域病院への移動手段を組み合わせる。

 大切なのは、過去に存在したサービスをそっくりそのまま残すことではない。住民の生活が途中で行き止まりにならないように、必要な機能を別の形で残すことである。

人口減少時代には「便利な地域」より「詰まない地域」が重要になる

 大都市と地方を、店の数や鉄道の本数、病院の数で競わせれば、地方が勝つことは難しい。地方都市に百貨店を何軒も置くことはできず、鉄道を十分間隔で走らせることもできない。すべての地域に総合病院を置くことも現実的ではない。

 しかし、便利さが少ないことと、暮らせないことは同じではない。スーパーが一軒しかなくても、その店へ行く方法があれば生活はできる。病院が自治体外にあっても、必要なときに無理なく到達できればよい。高校が自治体内になくても、安定した通学手段が確保されていれば、それだけを理由に家族全員が引っ越す必要はない。

 反対に、車を運転できなくなった瞬間に、買い物、通院、銀行、行政窓口への移動が一斉に難しくなる地域は脆い。一つの条件が崩れただけで、生活全体が成立しなくなるからである。これは地域を一つのシステムとして見ると、より分かりやすい。

 丈夫なシステムには、何かが失われたときの代わりの経路がある。路線バスが維持できなくても乗り合い交通があり、自分で店へ行けなくても配送があり、診療所だけで完結できなければ遠隔診療や広域医療との接続がある。人口減少や高齢化が進む地域では、従来と同じ形の公共サービスを無理に残すより、複数のサービスを柔軟に組み合わせる方が合理的になる場合がある。

 人口減少時代の地域に求められるのは、何もかもそろった豪華な地域ではない。一つを失っても、別の道がまだ残っている地域である。言い換えるなら、「便利な地域」を競う前に、「詰まない地域」をつくる。この発想は、これからの地域政策を考えるうえで、かなり重要になってくるのではないだろうか。

では、一人を呼ぶより一人を残す方が安いのか

 ここまで読むと、「それなら移住者を呼ぶより、転出を防ぐ方が効率的なのだ」と結論づけたくなる。しかし、この点については少し慎重になった方がよい。

 人口の算術だけを見れば、転入を一人増やすことと、転出を一人減らすことは、人口に対して同じ一人分の効果を持つ。しかし、そのために必要な費用まで同じとは限らない。ある地域では、年間数十万円程度の買い物支援や交通支援によって何世帯もの居住継続を支えられるかもしれず、その場合には、全国から移住希望者を探し、住宅補助や広報費を投じるより効率的である可能性がある。

 反対に、山間部のごく少数の住民のために長い道路、水道、公共交通を維持し続ければ、一人当たりの社会的費用が非常に大きくなることもある。そのような地域では、現在地に住み続けてもらうことだけを政策目標にするのが合理的とは限らず、居住地の集約や近隣地域への移動支援を含めて考えた方がよい場合もある。

 したがって、「転出を防ぐ方が必ず安い」という一般法則を置くことはできない。必要なのは、一人の移住者を増やすために自治体がいくら使っているのか、一人の住民が本人の希望に反して転出しなくても済むようにするにはいくら必要なのかを、同じ物差しで比較することである。

 考えてみれば当然の比較なのだが、移住者数だけが成果として注目されると、この視点は意外に抜け落ちやすい。人口減少時代の政策評価では、「何人呼んだか」に加えて、「何人が生活上の理由で出て行かずに済んだのか」という数字も、同じ程度に重視されてよいのではないだろうか。

ただし「住み続けること」そのものを善にしてはいけない

 もう一つ注意しなければならないことがある。住民が地域に残ることを政策目標にすると、いつの間にか「転出しないことが望ましい」という価値観に変わりかねない。

 しかし、住み続けることそのものが幸福とは限らない。高齢者の地域居住をめぐる研究には、「Aging in Place(住み慣れた地域で老いること)」という考え方がある一方で、「Stuck in Place(移動したくても移動できず、その場所にとどまること)」という問題もある。同じ「地域に残った」という結果でも、自分の意思で残ったのか、それとも経済的事情や移動手段の不足によって動けなかったのかでは、意味がまったく違う。

 したがって、この地域が好きだから残った人と、引っ越す資金もなく、他に行く場所もなく残った人を、同じ政策上の成功として数えてはいけない。目標は「住民を引き留めること」ではなく、住みたい人が住み続けられ、出たい人は自由に出られることにある。

 地域に人を縛り付けるのではなく、居住することを一つの現実的な選択肢として残しておく。この違いは言葉の上では小さく見えるが、地域政策の目的を考えるうえでは決定的に重要である。

人口減少そのものを止められなくてもよい

 地方の人口問題を考えると、どうしても「人口を増やすか、少なくとも維持する」という結論へ向かいやすい。しかし、多くの自治体では、今後数十年間に人口そのものが減ることを完全に避けるのは容易ではない。

 理由は転出だけではなく、高齢化した地域では、仮に転入と転出が同数になったとしても、出生数より死亡数が多ければ人口は自然に減っていくからである。そうであるなら、人口が減ったという一点だけをもって地域政策を失敗と評価することが、本当に適切なのかを考え直す必要がある。

 たとえば人口八千人だった自治体が七千人になったとする。それだけを見れば明らかな縮小である。しかし同じ期間に、高齢者が車を運転できなくなっても買い物や通院を続けられるようになり、子育て世帯が高校進学を理由に家族ごと転居する必要がなくなり、一人暮らしになった高齢者も安心して生活できるようになったとしたら、その地域は単純に「悪くなった」と言えるのだろうか。

 人口は減っていても、「ここで暮らし続けることができる人」は増えているかもしれない。ここには、人口という一つの数字だけでは捉えきれない地域の価値がある。

一軒の閉店から始まる連鎖

 人口減少地域で怖いのは、人が毎年少しずつ減ることだけではない。ある瞬間から、暮らしの条件そのものが連鎖的に失われる可能性があることだ。

 たとえば地域から一軒の店がなくなったとする。車を使える人は少し遠くの大型店へ行くようになり、その結果、残った地元商店の客まで減るかもしれない。別の店も経営が難しくなり、そこまで閉店すると、車を持たない高齢者の生活はさらに不便になる。そのため自治体外の子どもの近くへ転居する人が増えれば、人口が減り、地域サービスの利用者も減り、さらに別のサービスの維持が難しくなる可能性がある。

 もちろん、現実の地域では、これほど一直線に物事が進むわけではない。人口減少が店舗閉鎖を引き起こす場合もあれば、雇用の減少が人口流出と店舗閉鎖の双方を生む場合もあり、原因と結果は複雑に絡み合っている。

 それでも重要なのは、地域のサービスが互いに独立して存在しているわけではないという点である。一つの機能が失われることで別の機能の需要が減り、さらに次の撤退につながることがある。人口そのものは毎年ゆっくり減っているのに、暮らしの条件だけはある時点で急に悪化することがあるとすれば、地方の衰退の本当の怖さは、この非連続性にあるのかもしれない。

「何人いる地域か」ではなく「何歳まで暮らせる地域か」

 そこで、人口とは別の数字を考えてみたくなる。その地域では、人は何歳まで普通に暮らせるのか。車を運転できなくなっても生活できるのか、配偶者を失って一人になっても暮らせるのか、慢性疾患を抱えても通院できるのか、子どもが高校生になっても家族で住み続けられるのか。

 もし七十歳になると暮らしが難しくなる地域を、八十歳まで無理なく暮らせる地域にできたなら、それはかなり大きな政策成果である。人口統計にはほとんど表れないかもしれないが、百人の住民がそれぞれ五年間長く自分の望む地域で暮らせるようになったなら、考え方によっては、自治体は住民に合計五百年分の「居住可能な時間」を生み出したとも言える。

 もちろん、「居住可能な時間」は公的に確立された統計指標ではない。しかし人口減少時代には、人口そのものとは別に、「この地域で無理なく普通の生活を続けられる期間」を測る発想があってもよいのではないだろうか。

 地域の成功を、人間の頭数だけで測る必要はない。むしろ人口そのものを簡単には増やせない時代だからこそ、一人ひとりがどれだけ長く、自分の望む暮らしを続けられるかという別の尺度が必要になる。

そして、住民が出て行かなくてもよい地域は、移住者にも選ばれる

 興味深いのは、こうした政策が移住促進と対立しないことである。むしろ住民が長く暮らせる地域をつくることは、結果としてかなり強い移住政策になる可能性がある。

 移住希望者が本当に知りたいのは、美しい海や安い土地だけではない。子どもが大きくなったらどうなるのか、親が高齢になったらどうなるのか、自分自身が七十歳になったときに車なしで暮らせるのかといった、その土地で過ごす将来の生活条件も重要である。

 移住とは、現在の風景だけを選ぶ行為ではない。その土地で過ごす十年後、二十年後の生活まで含めて選ぶことである。自治体の観光パンフレットにどれほど美しい夕日が載っていても、そこに暮らす高齢者が生活上の理由で次々と地域を離れているなら、その事実は移住希望者にとって無視できない情報になる。

 反対に、人口そのものは減っていても、「ここなら歳を取っても暮らせる」と既存住民が感じている地域には、一種の信用が生まれる。そう考えると、住民の転出理由を減らすことは決して内向きの政策ではなく、長い時間軸で見れば、最も説得力のある移住政策の一つにもなり得る。

人を増やすことから、人の選択肢を守ることへ

 地方創生という言葉には、どこか成長の響きがある。人口を増やし、観光客を増やし、企業を増やし、税収を増やすことが成功として語られやすい。

 しかし人口そのものが減っていく時代に、増加だけを成功の基準にしてしまえば、多くの地域はどれほど暮らしやすくなっても、人口統計の上では永遠に「失敗した地域」になってしまう。

 そこで、もう一つの尺度を持ってみる。この地域では、どれだけの人が自分の意思に反して出て行かずに済んだのか。車に乗れなくなっても暮らせるのか、病気になっても暮らせるのか、一人になっても暮らせるのか、子どもが成長しても同じ地域で生活を続けられるのかを見るのである。

 もちろん、別の場所へ行きたい人は行けばよい。大学へ進学したい若者を地域に閉じ込める必要はなく、新しい仕事に挑戦したい人を引き留める理由もない。目指すべきなのは、人を囲い込む地域ではなく、出て行く自由を持ちながら、それでも出て行かなくてよい地域である。

 この視点に立てば、人口減少という現象そのものを消すことができなくても、人口減少によって住民の人生の選択肢まで狭くなることは防げるかもしれない。

 地域の価値とは、何人を新しく集めたかだけで決まるものではない。そこに暮らしたいと思った人が、その願いを交通や買い物、医療や教育といった生活上の事情だけで諦めずに済むことにも、確かな価値がある。

 これからの地方が競うべき数字は、ひょっとすると人口だけではないのだろう。「この地域には何人いるのか」という問いだけではなく、「この地域なら、あと何年、自分らしく暮らせるのか」と尋ねてみる。

 人口が減る時代だからこそ、その問いの方が、そこに暮らしている住民にとっては、ずっと切実なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

有限会社アードレでは、住まい・車・移住などの大きな選択を、 費用や将来条件をもとに数字で比較し、判断できる形に整理しています。

数字で比較するサービスを見る