水路は、造っただけでは水路であり続けない
田舎を歩いていると、道路の脇や田畑の間を細い水路が走っている。雨が降れば水を逃がし、田植えの季節には農地へ水を運び、普段は何事もなかったように風景の一部へ溶け込んでいるため、それを維持するために毎年どれほどの人手が費やされているのかを意識する機会は少ない。しかし、水路はコンクリートで造った瞬間から半永久的に働き続ける設備ではなく、落ち葉が入り、土砂がたまり、草が伸び、枝が落ち、年月がたてば壁面が劣化し、大雨が来れば一度の出水で流れが変わることさえある。
それでも日本の農村や郊外では、長いあいだ多くの水路が機能してきた。その理由は、水路そのものが特別に壊れにくかったからではなく、春になれば草を刈り、梅雨の前には泥を上げ、大雨の後には詰まりを見に行く人がいたからである。行政の資料には水路の延長や施設数は記録されても、毎年そこへ長靴で入り、スコップを持って泥を上げてきた人の労働までは、同じようには数字に残らない。
地域の水路を支えてきたものは、コンクリートだけではなく、人間の手だったのである。
「誰の水路なのか」と「誰が掃除してきたのか」は、必ずしも同じではない
水路の問題を複雑にしているのは、私たちが日常的に「水路」と一括して呼んでいるものが、制度上は一種類ではないことである。農地へ水を送る農業用水路もあれば、田畑や住宅地から雨水を逃がす排水路もあり、市町村が管理するもの、土地改良区が管理するもの、地域で共同管理されてきた末端水路、昔からの公共物を起源とする水路など、その位置付けと管理主体は場所によって異なっている。
ところが現場では、法律上の管理区分とは別の論理で水路が守られてきた地域も少なくない。「この水路は誰の所有物か」と毎回確認してから草を刈るのではなく、「昔からここはみんなでやっているから」という地域の慣行によって手入れが続けられてきたため、制度上の管理者と日常的に維持作業をする人とが一致しない場合がある。
この仕組みは、地域に十分な人口と共同作業の担い手がいた時代には合理的だった。数十人が少しずつ労力を出せば一人当たりの負担は大きくならず、農業者にとっては農業施設を守る作業となり、農業をしていない住民にとっても雨水排水や地域環境の維持につながるため、水路清掃は農業と生活の境界にある地域共同体の仕事として成り立ってきた。
しかし、その前提となっていた人の数と年齢構成が変わり始めている。
人口が減っても、水路の長さまで同じ割合で減るわけではない
人口減少社会には、インフラ維持の面で厄介な特徴がある。住民が半分になったからといって道路が半分になるわけではなく、水路も半分にはならないため、同じ延長、同じ作業量をより少ない人数で支えることになれば、一人当たりの負担は増えていく。
必要な年間作業量が変わらないと仮定すれば、一人当たりの作業負担は単純に「総作業量を参加人数で割った値」になる。たとえば三十人で行っていた作業を十五人で行えば一人当たりの負担は二倍になり、人口が二五%減って参加者も同じ割合で減れば、一人当たりの負担は約三三%増える計算になる。
現実には、さらに高齢化が重なるため、居住人口と実際に草刈りや泥上げをできる人数は同じようには減らない。住民数が三分の二になっても、重い作業のできる人が半分以下になれば、現場の負担は人口減少率以上に増える可能性がある。
この問題は印象論だけではない。農林水産省の分析では、農業用用排水路を集落で保全・管理している割合は、集落人口一人から九人では四〇・七%であるのに対し、百人から百四十九人では八二・九%となっており、極めて小規模な集落では保全割合が大きく低下している。また、高齢化率が高い集落ほど保全割合が低くなる傾向も確認されている。
ただし、ここで一つ注意しなければならないことがある。こうした数字は、「人口が減れば必ず水路管理が崩壊する」と証明する実験結果ではなく、小規模化や高齢化と保全活動との間に強い関連が見られるという観察統計である。山間部か平地か、水路の長さや地形、土地改良区の体制、農業者数など他の要因も関係するため、人口減少だけを唯一の原因と断定することはできない。
それでも、地域の人数が一定規模を下回るほど共同管理が難しくなるという構造そのものは、複数の統計からかなり明瞭に見えている。
全国一律に崩れているわけではない。それでも構造的な弱さは残る
人口減少と高齢化が進んでいると聞くと、全国で水路の保全活動が年々低下しているように思えるかもしれない。しかし、全国集計を見ると事情はもう少し複雑であり、農業用用排水路を保全している農業集落の割合は二〇一五年から二〇二〇年にかけてむしろ上昇しており、二〇二五年農林業センサスでも、保全に取り組んでいない集落の割合は五年前より低下している。
これは人口減少の影響が存在しないことを意味するのではない。むしろ、多面的機能支払交付金による支援、活動組織の広域化、農業者以外の参加、外部委託などによって、従来の地域共同作業だけでは維持しにくくなった部分を制度的に補っていると考えた方が実態に近い。
したがって、現在起きていることを「日本中の水路管理が一斉に崩壊している」と表現するのは正確ではない。より正確なのは、従来型の住民共同管理が小規模集落ほど不安定になり、その弱さを別の制度や広域的な仕組みで補う時代へ移っている、ということである。
最後の一人が辞めた瞬間、「無料だった仕事」に値段がつく
地域共同作業には、会計数字から見えにくい特徴がある。住民二十人が四時間ずつ水路を掃除すれば、合計八十時間の労働が投入されているが、住民が無償で行えば行政の歳出にはその八十時間分の費用が現れない。しかし労働そのものが存在しなかったわけではなく、その仕事を住民ができなくなれば、誰かが代わって同じ作業をしなければならない。
ここに人口減少社会のインフラ問題の核心がある。これまで安く維持できていたように見えたものの中には、本当に費用が安かったのではなく、地域住民の無償労働によって費用が表面化していなかったものがある。
草刈りや泥上げを民間業者へ委託すれば、単なる作業者の人件費だけでなく、機械、車両、燃料、運搬、処分、安全管理、保険、現場管理などの費用が発生する。これまで自治会や集落の共同作業として処理されていた仕事が、外部委託へ切り替わった瞬間、初めて明確な金額として見えるようになるのである。
最後の一人がスコップを置いた日、水路に新しい費用が突然生まれるわけではない。それまで人々の善意と慣行の中に隠れていた費用が、請求書という形で姿を現すのである。
では、市町村が全部やればよいのか
地域住民ができなくなったのなら、市町村が維持すればよいと考えるのは自然である。しかし、現実にはすべての水路が市町村管理ではなく、農業用施設であれば土地改良区などが関わる場合もあり、末端では地域共同管理が組み込まれていることもあるため、「水路だから市役所」という一本の線では整理できない。
さらに自治体自身も人口減少の影響を受けている。市区町村の土木部門職員数は、一九九六年の約十二万四千人から二〇二五年には約九万一千人へ減少しており、約四分の一が減った計算になる。全国の市区町村の中には技術系職員がごく少数しかいない自治体も多く、技術系職員が一人もいない自治体も存在している。
その一方で、自治体が維持しなければならない対象は水路だけではない。道路、橋、公園、上下水道、公共施設など大量の社会資本が老朽化しており、大雨や災害への対応も求められるため、地域が担えなくなった作業をすべて行政へそのまま移す方法には、人的にも財政的にも明確な制約がある。
問題は、「行政がやるか、住民がやるか」という二者択一ではない。人口が多かった時代につくられた役割分担を、人口の少ない時代にどう組み替えるかという問題なのである。
水路は、農家だけのものではなくなっている
農業用水路という言葉を聞けば、農業をしていない住民には関係がないように感じられるかもしれない。しかし現実には、農業水利施設の中には農業生産だけでなく、雨水排水や地域の防災、生活環境の維持に関わっているものがある。
かつて田畑の間だけを流れていた排水路の周囲に住宅が建ち、その水路が住宅地から流れ込む雨水を受けている場所もある。農業者が減っても、雨が降らなくなるわけではなく、周囲に住宅が残っていれば排水機能の必要性は続くため、「農業者が減ったから農業者だけで管理すればよい」という考え方は次第に現実と合わなくなる。
ここに新しい不均衡が生まれる。農業者数が減少して農業上の直接的な受益者が少なくなっても、水路の排水、防災、環境保全といった機能まで同じ割合で縮小するとは限らないからである。
農業のためにつくられた水路が、長い年月の中で地域全体の生活を守る水路にもなっているのであれば、その維持管理を農家だけの問題として扱い続けることには限界がある。
国も「従来の役割分担だけでは続かない」と考え始めた
こうした状況を背景として、国の制度も変わり始めている。これまでも地域住民が水路や農道を共同で維持する活動への支援は行われてきたが、人口減少や高齢化が進む中で、基幹的な農業水利施設は土地改良区が管理し、末端水路は集落や地域住民が管理するという従来型の役割分担だけでは持続が難しい地域があることが、政策上の課題として明確に意識されるようになった。
二〇二五年四月に施行された改正土地改良法では、「連携管理保全計画」という仕組みが設けられ、土地改良区、市町村、その他の関係者が将来の農業水利施設の管理について連携し、役割分担を考える制度が整えられた。
重要なのは制度名そのものではない。「誰かがこれまでどおり掃除してくれる」という前提から離れ、十年後、二十年後に誰が管理するのかを、まだ人がいるうちに考えなければならない段階へ入ったということである。
水路の草刈りという一見小さな問題は、人口減少社会における公共サービスを誰が担い、費用をどう分けるのかという、はるかに大きな問題の縮図になっている。
「全部を昔のまま守る」ことが最適とは限らない
人口が増え続けた時代には、新しい道路を造り、水路を延ばし、住宅地を広げることが地域の発展と考えられてきた。しかし人口が減る時代には、造ることよりも、すでに存在する施設のうち何を残し、誰が、どこまで維持するのかを決めることの方が難しくなる。
すべての水路を従来と同じ頻度、同じ方法、同じ組織で維持し続けることが合理的とは限らない。農地利用が大きく変わった場所なら水路網そのものを見直す余地があり、開水路を管路化したり、草刈りの負担を減らすよう法面を改修したり、複数の小さな管理組織を広域化したりする方法も考えられる。ICT(Information and Communication Technology・情報通信技術)や遠隔監視を活用し、見回りの負担を減らす方法も今後は増えていくだろう。
ただし、技術を導入すれば人間が不要になるわけではない。カメラが詰まりを発見しても泥を取り除く人は必要であり、機械で草を刈っても機械を動かす人は必要になる。人口減少への対応とは、人間を完全に機械へ置き換えることではなく、少なくなった人間でも維持できるように、施設と作業方法と役割分担を同時に作り直すことである。
水路の底にたまっているのは、泥だけではない
毎年の水路清掃は、一見すると単純な地域行事である。長靴を履き、スコップを持ち、草を刈り、泥を上げ、終われば家へ帰るという作業が毎年繰り返されてきたため、それを「地域インフラを支える社会システム」と考える人は多くなかっただろう。
しかし、その何気ない共同作業の中には、長い時間をかけて蓄積された地域の知識が存在している。どこに泥がたまりやすいか、どの雨量になると水があふれるか、どの場所の草を先に刈らなければならないか、どの水門をどの順番で確認するかといった知識は、必ずしも設計図や台帳の中に記録されているとは限らない。
統計上は「共同管理されている」と分類されていても、現場の協力関係が実際には弱くなっている地域が存在することを示した研究もある。数字だけを見て「管理されているから大丈夫」と考えることには危険があり、管理の有無だけでなく、実際に誰が、何人で、どの頻度で、どこまで作業しているのかを見る必要がある。
人が一人ずついなくなるとき、失われるのは単なる労働力だけではない。「この水路はここが危ない」という地域の記憶も同時に消えていくのである。
「誰かがやるだろう」が通用しなくなる前に
地域のインフラは、壊れた日に突然問題になるように見える。しかし実際には、そのずっと前から静かに維持能力が失われ始めている。水路の場合、その最初の兆候はコンクリートのひび割れではなく、水路清掃の日に集まる人が一人減ることなのかもしれない。
昨年まで十二人だった作業が今年は九人になり、その数年後には六人になる。それでも水は流れているため、表面上は何も起きていないように見えるが、同じ長さの水路を六人で守るなら、一人当たりの負担は確実に増えている。負担が重くなれば参加できない人が増え、参加者が減れば残った人の負担がさらに増えるため、共同管理にはある段階から急速に維持が難しくなる危険がある。
ただし、日本全国が同じ速度でそこへ向かっているわけではない。外部支援によって維持できている地域もあれば、複数集落で協力している地域もあり、非農業者や民間事業者が参加して新しい形を作っている地域もある。だからこそ必要なのは、「もう無理だ」と諦めることでも、「昔どおり頑張ればよい」と精神論で押し切ることでもなく、地域ごとの現実を数字と現場の両方から見極めることである。
地域の水路を掃除する人がいなくなったら、誰が維持するのか。その答えは、「自治体」「土地改良区」「農家」「住民」のどれか一つではないだろう。水路が農業、排水、防災、生活環境のどの機能を担っているのかを確認し、その重要度と必要な作業量を把握した上で、地域住民、農業者、土地改良区、自治体、民間事業者などの間で、費用と労力を現実的に組み直していく必要がある。
そして、その議論を始めるべき時期は、水路が詰まり、大雨の夜に初めて困ってからではない。まだ地域の中に、「昔はここから先を先に掃除したんだ」と教えてくれる人が残っている今なのである。

