地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

畑をやめても、土地の仕事まで消えるわけではない

 春になれば草が伸び、夏になればさらに勢いを増し、秋には種を落とし、雨が降れば水は高いところから低いところへ流れ、イノシシやシカは人間が引いた境界線とは無関係に、身を隠せる場所と食べ物のある場所を探して移動するため、農地で作物を作ることをやめても、その土地を取り巻く自然の動きまで止まるわけではない。

 ここに、耕作放棄地を考えるときの大きな錯覚がある。耕作をやめるという行為は、その土地にかかっていた仕事そのものを消滅させることではなく、田畑を耕し、草を刈り、水路をさらい、畦を補修し、害獣を近づけないよう人が歩いていた時代には、農業という生産活動の中に土地を管理する仕事が組み込まれていたが、耕作がなくなれば、その管理の必要性だけが別の場所に残される。

 したがって、耕作放棄地の増加を単純に「農家が農業をやめた問題」と見ると、本質を見誤る。実際に問題となるのは、その土地がこれまで無言のうちに担っていた草刈り、水管理、見通しの確保、害獣との境界づくりといった仕事を、これから誰が引き受けるのかという点にある。

「耕作放棄地」という言葉だけでは、現在の農地問題を十分には表せない

 一般には、長期間作付けされなくなった農地を広く「耕作放棄地」と呼ぶことが多いが、行政上は「遊休農地」や「荒廃農地」といった言葉も使われており、それぞれ意味は完全には同じではないため、この問題を統計的に見る場合には少し注意が必要である。

 かつて農林業センサスでは、「過去1年以上作付けせず、この数年の間に再び作付けする意思のない土地」を耕作放棄地として集計していたが、現在はその調査項目自体がなくなり、農地の利用状況を示す際には遊休農地や荒廃農地といった別の指標が使われている。この違いを知らずに年代の異なる統計を単純比較すると、実際には定義の変化を含んでいる数字を、農地荒廃そのものの増減と誤解する可能性がある。

 それでも、一般読者が感じている「使われなくなり、管理が薄れていく農地」という問題意識そのものは現実に存在しているため、この記事では分かりやすさを優先して「耕作放棄地」という言葉を使いながら、その背後には複数の行政上の区分があることを前提として考えていく。

最初に負担を感じるのは、隣で農業を続けている人たちである

 ある田んぼが耕作されなくなった翌日に、周囲の環境が突然変わるわけではないが、1年、2年と管理されない状態が続けば、草丈は高くなり、低木が入り込み、農地と山林の境界が次第に曖昧になっていくため、その変化を最も早く感じるのは、役所でも土地の所有者でもなく、隣の田畑で農業を続けている人であることが多い。

 隣の土地から伸びてきた草が農地に入り込めば、境界付近を余分に刈る必要が生じ、雑草の種が飛んでくれば除草の手間が増え、害獣が身を隠せる場所が近くにできれば、防護柵の点検や侵入経路への警戒にも余分な時間が必要になるため、管理不足による負担は土地の所有境界だけで完結しにくい。

 つまり、耕作放棄地が生み出す最初の負担は、きれいに「その土地の中」にとどまるとは限らず、草も水も動物も人間の境界線を認識しない以上、管理の不足による影響の一部は、周辺で農業を続けている人の労働時間や費用として現れることがある。

 ここには少し皮肉な構造があり、地域で最後まで農業を続けようとする人ほど、周囲の離農によって仕事が軽くなるのではなく、むしろ自分の田畑以外の環境まで気にしなければならなくなる場合があるため、耕作者が減れば1人当たりの経営面積を広げられるという単純な話にはならず、同時に「見えない管理面積」まで広がっていく可能性がある。

害獣被害と耕作放棄地には関係があるが、原因は1つではない

 人間から見れば、背丈ほどの草が茂った土地は単に荒れた農地に見えるが、イノシシやシカなどの側から見れば、そこは身を隠しながら移動できる場所になることがあり、山から集落まで見通しのよい場所を横切らなければならなかった動物が、藪や草地を利用して農地の近くまで接近できるようになれば、人間と野生動物との距離は物理的にも縮まりやすくなる。

 実際、国内の複数の研究では、耕作放棄地率が高い集落ほどイノシシ被害が多い傾向や、被害を受けた農地が耕作放棄地に近いほど被害が発生しやすい傾向が確認されており、耕作放棄地が野生動物の移動や潜伏に利用される可能性は、単なる印象論ではなく統計的にも一定の裏づけを持っている。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、「耕作放棄地があるから害獣被害が起きる」という単純な因果関係ではないことである。害獣被害には、森林の広さ、林縁までの距離、標高、地形、捕獲圧、餌の量、農家数の減少、集落活動の弱まりなど複数の要因が関係しており、耕作放棄地はその中の1つとして作用していると考える方が科学的には正確である。

 中山間地域では、森林が多く、人口減少が進み、農家が減少し、耕作放棄地も増えやすいという条件が同時に存在するため、「耕作放棄地が多い地域ほど害獣被害も多い」という相関が確認されても、それだけで耕作放棄地だけを直接原因と断定することはできず、この点を区別して考えることが、科学的にこの問題を見るうえで重要になる。

実際には「害獣が増えるから耕作をやめる」という逆方向もある

 さらに現場では、「耕作放棄地が増えるから害獣被害が増える」という一方向の流れだけではなく、「害獣被害が増えたために農業を続ける意欲が失われ、その結果として耕作放棄地が増える」という逆方向の因果も起こり得る。

 何度作付けしてもイノシシやシカに荒らされ、電気柵や防護柵の設置費用と維持労力ばかりが増えれば、高齢の農家ほど「ここまでして続ける意味があるのか」と考えるようになり、その土地の耕作をやめる判断につながることがあるため、害獣被害は耕作放棄地の結果であると同時に、耕作放棄地を増やす原因にもなり得る。

 この関係を数理的に考えるなら、問題は一直線ではなく、農家減少によって管理が弱まり、管理が弱まることで耕作放棄地が増え、耕作放棄地や集落活動の低下によって野生動物が接近しやすくなり、被害増加によって営農意欲が低下し、さらに離農が進むという、変化が自分自身を強める循環として理解した方が実態に近く、つまり耕作放棄地は原因でもあり、結果でもある場合があり、この循環が始まると、1つの田畑の問題が集落全体の問題へ広がっていくことがある。

水路は、使わなくなった田んぼのところだけ止めることができない

 耕作放棄地の問題でもう1つ見落とされやすいのが、水である。田園地帯の水路は、それぞれの田畑が独立した配管を持っているわけではなく、上流から下流へつながる1つの系として存在していることが多いため、途中の田んぼが耕作をやめても、その先に現役の田んぼが残っていれば、水はそこを通って流れ続けなければならない。

 水路に泥がたまり、草が生え、落ち葉や枝が詰まれば水の流れは悪くなり、豪雨時には排水能力の低下につながることもあれば、農業用水として使う季節には必要な水が下流へ届きにくくなることもあるため、耕作面積が減っても水路管理の必要性が同じ割合で減るとは限らない。

 従来なら、その仕事は地域で農業を営む多くの人が少しずつ分担できたが、耕作者が減れば、水路の延長や構造物の数が急に減るわけではないのに、それを管理する人数だけが減るため、残った人の負担は相対的に重くなる。

 仮に1,000メートルの水路を10人で管理していたとすれば、単純化すれば1人当たり100メートル程度を分担していたことになるが、管理人数が5人に減って水路延長が変わらなければ、1人当たりの対象は200メートル相当となる。実際には機械化、外注、共同作業、土地改良区や行政による支援があるため、労働量が厳密に2倍になるわけではないが、「管理対象があまり減らないまま管理人数だけが減れば、1人当たり負担が増える」という構造自体は変わらない。

草刈りという小さな仕事が、地域社会の限界を映し出す

 草刈りという言葉には、どこか軽い響きがあるが、真夏の農村で草刈り機を持って何時間も歩けば、それが決して小さな仕事ではないことが分かり、斜面や水路沿いでは転倒の危険があり、高齢者にとっては暑さそのものが大きな負担となる。

 しかも草は1度刈れば終わりではなく、土地を使わなくなったからといって翌年から生えなくなることもないため、農業生産なら収穫した米や野菜を販売することで労働の対価を得ることができる一方、耕作をやめた土地の草刈りには基本的に収穫物がなく、収益を生まない管理だけが残るという違いがある。

 農村の高齢化が進むほど、この矛盾は重くなり、若い頃なら半日で終えられた草刈りが、年齢を重ねるにつれて大仕事となり、やがて自分の農地を管理するだけで精いっぱいになれば、共同作業に参加できる人が減り、残った人の負担が増え、その負担の重さがさらに離農を促すという循環につながることがあるため、耕作放棄地の本当の怖さは、草が伸びることそのものではなく、こうした循環が静かに始まり、しばらくしてから地域全体の問題として姿を現すところにある。

所有者の責任が消えるわけではない

 農地を所有している人の責任が、耕作をやめた瞬間に周囲へ移転するわけではなく、農地について権利を持つ人には、その農地を農業上適正かつ効率的に利用するよう努めることが求められているため、耕作をやめたからといって所有者の関係がなくなるわけではない。

 また、遊休農地については農業委員会が利用状況を調べ、所有者に今後の利用意向を確認する制度もあり、周辺農地の営農条件に大きな支障を与えるような場合には、行政上の対応が行われる仕組みも存在している。

 しかし現実の地域社会では、所有者が遠方に住んでいたり、高齢になって管理できなかったり、相続後に農地との関係そのものが薄くなっていたりする場合があり、制度上の責任主体と、実際に草を刈り、水路を掃除し、害獣対策に動く人が一致しないことも少なくない。

 そこで起きるのが、「責任」と「実際の作業」の分離であり、登記上の所有者は別の場所にいるのに、伸びてきた草への対応は隣の農家が行い、水路の詰まりは地域の共同作業で解消し、害獣対策には自治体が関与するといった形で、管理不足による実際の負担が周囲へ漏れ出していく。

負担は消えるのではなく、別の主体へ再配分される

 この問題を経済学的に見ると、耕作放棄地の重要な特徴は「管理負担が消えるのではなく、別の主体へ再配分される」という点にある。

 ある農地について、耕作していた農家が草刈り、水管理、害獣への警戒、境界管理などを行っていたとすれば、離農によってそれらの仕事の必要性が完全にゼロになるわけではないため、その一部は所有者自身が引き続き担い、別の一部は周辺農家や地域組織が負担し、さらに対応しきれない部分について行政が関与するという形に変わる。

 これは経済学でいう外部不経済に近い構造を持っており、ある土地の管理水準が低下した結果、その土地の所有者だけではなく、周囲の農家や住民が追加的な費用や労働を負担するなら、その影響の一部は第三者へ波及していることになる。

 ただし、すべての耕作放棄地が必ず周囲へ大きな負担を発生させるわけではなく、山間部の孤立した農地と住宅地近くの農地では影響が異なり、地形、水路の接続状況、周辺の土地利用、管理組織の有無などによって外部への影響は大きく変わるため、地域ごとの差を考えることが必要である。

最後に必ず自治体が負担するわけではない

 地域の農家や所有者だけでは対応できなくなった場合、鳥獣被害対策、農地保全、水路や農道の維持、地域共同活動への支援などに行政が関わる場面は増えるが、その費用を最終的にすべて自治体が負担するわけではない。

 農地や農業用施設の管理には、農家、農地所有者、土地改良区、水利組合、集落組織、市町村、都道府県、国など複数の主体が関わっており、場所や施設の種類によって負担構造は異なるため、「耕作放棄地が増えれば、最後は必ず税金で処理される」と考えるのは正確ではなく、より現実に近いのは、地域内だけで処理できる範囲を超え、公的事業による対応が増えるほど、その一部が税を財源とする社会的な負担へ移っていくと考えることである。

 これは必ずしも不合理なことではなく、農地や水路は食料生産だけでなく、地域によっては排水、防災、景観、生態系の維持などにも関係しているため、その機能を守るために公費が使われることには公共政策としての意味がある。

 ただし重要なのは、「農家が減ったのだから農業にかかる社会的な費用も同じように減る」とは限らないことであり、これまで農家自身が無償または低コストで担っていた管理作業を別の方法で代替する必要が生じれば、むしろ地域全体として新しい費用が発生することもある。

本当に減っているのは、農地ではなく「土地を見ている人」なのかもしれない

 耕作放棄地を航空写真で見れば、色の違う区画として数えることができ、何ヘクタール増えた、何%になったという数字も重要ではあるが、集落を実際に歩いてみると、統計表だけでは見えない別の変化が起きている。

 以前は毎朝のように田んぼを見に来る人がいて、水の量を確かめ、畦の崩れを見つけ、獣の足跡に気づき、ついでに水路に引っかかった枝をどけて帰るという行動を繰り返していたが、その一つ一つは統計に記録されなくても、地域を維持する小さな監視網として働いていた。

 その人が農業をやめると、米の収穫量が減るだけではなく、土地を見る目が1つ減り、さらにもう1人やめれば、もう1つ減り、やがて日常的に土地の変化へ気づく人がいなくなれば、何かが起きてから初めて人がそこへ行くようになるため、この変化こそ、耕作放棄地問題の深い部分にあり、単なる農地面積の減少よりも、地域社会が持っていた「気づく力」の低下として捉えた方が、問題の本質をよく表しているのかもしれない。

耕作放棄地問題とは「誰が農業をするか」だけではなく「誰が地域を管理するか」という問題である

 耕作放棄地が増えれば、直ちにすべての地域で害獣被害が増え、水路が壊れ、行政支出が膨らむという単純な因果関係が成立するわけではなく、地形も農地の集まり方も管理組織も異なるため、実際の影響は地域ごとに大きく違う。

 それでも大きな方向性として見れば、農地を管理する人が減っても、草は伸び、水は流れ、野生動物は移動するという事実は変わらず、そこで必要だった仕事は完全に消えるのではなく、所有者、周辺農家、集落組織、土地改良区、水利組合、自治体などへ形を変えながら再配分されていく。

 さらに問題を難しくしているのは、耕作放棄地が害獣被害の一因になり得る一方で、害獣被害そのものが離農を促し、さらに耕作放棄地を増やすこともあるという循環であり、この連鎖が進めば、最初は1枚の田畑だった問題が、やがて地域全体の維持可能性の問題へ変わっていく。

 だから耕作放棄地について本当に問うべきなのは、「この土地で誰が作物を作るのか」だけではなく、「この土地をこれから誰が見続けるのか」ということであり、田んぼから人が1人いなくなったとき、その人が背負っていた草刈り、水路管理、害獣への警戒まで一緒に消えてくれるなら問題はそれほど難しくないが、自然は人間の都合に合わせて仕事をなくしてはくれないため、残された仕事は別の誰かへ流れていく。

 耕作放棄地の問題とは、土地が使われなくなることだけではなく、これまで誰かが静かに引き受けていた管理という仕事の行き先が失われる問題でもあり、その行き先を決めないまま耕作放棄地だけが増えていけば、最後に重くなるのは荒れた土地そのものではなく、それを支え続ける地域社会の肩なのである。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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 午後7時を過ぎるころから、町の景色が少しずつ変わっていく。スーパーの駐車場から車が減り、ドラッグストアの看板が暗くなり、個人商店のシャッターが下りる。午後8時ともなれば、昼間にはそれなりに生活の気配があった通りが、驚くほど静かになる地域もある。都会から移り住んだ人なら、最初はその静けさを「地方らしい落ち着き」と感じるかもしれないが、牛乳を買い忘れた、翌朝のパンがない、帰宅が遅れて夕食を用意できなかった、子どもに必要な日用品が突然切れた、という瞬間に、その静けさは風情ではなく生活上の制約へ姿を変える。

 この問題を単に「地方には店が少ない」と考えるだけでは、本質の半分しか見えてこない。人口減少地域では店舗数だけでなく、住民が商品を必要とする時間と、商品を購入できる時間との間にずれが生まれている場合があるからである。言い換えれば、地理的な買物空白だけでなく、時間的な買物空白が存在する可能性がある。

 ただし、ここで慎重でなければならない。午後8時以降に店が閉まっているからといって、その時間帯に十分な購買需要が必ず存在するとは限らない。「買えない人がいる」ということと、「事業として採算が取れるほど買いたい人がいる」ということはまったく別だからである。

 それでも、この時間の空白を市場として測ってみる価値はある。

店が早く閉まるのには合理的な理由がある

 地方の店が早く閉店するのは、経営者の努力不足でも、サービス精神が足りないからでもない。午後8時、午後9時まで営業したとしても、その時間帯に来店する客が数人しかいなければ、人件費、照明、冷暖房、レジ管理、防犯、在庫管理などの追加費用を回収できない。人口が減少すれば商圏そのものが小さくなり、高齢化が進めば買物時間が昼間に集中する傾向も強くなるため、「夜は客が少ないから閉める」という判断には経済合理性がある。

 その一方で、店が早く閉まるようになると、住民も「夜には買えない」という前提で生活するようになる。昼間に買い物を済ませ、夜に必要なものが出ても我慢するようになり、やがて夜間の購買実績そのものが消えていく。その結果、店側には「夜には売れない」という数字だけが残るが、それが本当に需要の不存在を意味するのか、それとも供給がないため購買行動として観測されなくなったのかは分からない。

 ここには、地方の小さな市場を分析するとき特有の難しさがある。

「売れていない」と「欲しくない」は同じではない

 たとえば午後9時に牛乳が必要になった人がいるとする。しかし、町の店がすべて閉まっていれば、その人は商品を購入できない。翌朝まで我慢するか、別の商品で代用するか、遠方の店まで車を走らせることになるが、地域内の夜間売上として記録される数字はゼロである。

 このときゼロなのは、需要そのものではなく「観測された販売量」である。人が欲しいと思ったこと、買いたいと思ったこと、しかし買えなかったことは通常の販売データには残らない。

 この違いは重要である。

 しかし逆に、「売上が記録されていないのだから、隠れた巨大需要がある」と考えるのも誤りである。潜在需要が存在する可能性と、その需要が事業として十分な大きさを持っていることは別問題だからだ。

 したがって、「夜間需要は確実に存在する」と結論づけるのではなく、「供給されていないため観測できていない需要が存在する可能性があり、その規模を測定する必要がある」と考える方が科学的である。

商機になるかどうかは、客数だけでは決まらない

 夜間に数人の需要が存在すると分かったとしても、それだけで店を夜10時まで開けるべきだという結論にはならない。むしろ人口の少ない地域では、「何人来るか」と同じくらい、「何人来れば採算が合うのか」という損益分岐点の方が重要になる。

 仮に、夜間の客一人が千円の商品を購入し、その販売によって実際に事業者の手元に残る金額が二百円だったとする。夜間営業を維持する追加費用が一日五千円なら、二十五人ほどの利用客が必要になる。一方、人を配置せず、既存店舗の商品を無人受取設備で渡す仕組みにして追加費用を一日千五百円まで下げられれば、必要な利用客は八人程度になる。

 もちろん、これは実際の事業費を示した数字ではなく、構造を説明するための単純な例にすぎない。しかし、ここから重要なことが分かる。人口減少地域では、需要を大きくすること以上に、少ない需要でも成立するように固定費を下げることが事業成立の鍵になるのである。

 つまり、商機は「夜まで開いている店を作ること」ではなく、「夜まで人を置かなくても商品を受け取れる仕組みを作ること」にあるかもしれない。

営業時間を延ばすのではなく、販売と受取を分ける

 この考え方を進めると、夜間営業そのものを行う必要がなくなる。昼間にスーパーや商店で商品を準備し、夕方までに注文を確定し、住民が夜になってから指定場所で受け取る仕組みにすればよい。冷蔵品や冷凍品であれば適切な設備が必要になるが、店舗全体を夜まで営業させるより固定費を抑えられる可能性がある。

 重要なのは、商品の販売時間と受取時間を分離することである。

 従来の小売業では、客が店に来る時間に店員もいなければならなかった。しかし、注文、決済、商品の準備、受け取りを別々の時間に分ければ、人を常駐させる必要はなくなる。人口密度の低い地域では、この時間分離が採算性を大きく左右する。

 これなら既存商店とも競争しにくい。新規事業者が商品を大量に仕入れて在庫を抱えるのではなく、既存店舗の商品を夜でも受け取れるようにする仕組みを提供すれば、地域内の売上を奪い合うのではなく、これまで売上になっていなかった時間帯の需要を拾える可能性がある。

本当の競争相手は「翌朝まで我慢すること」

 夜間需要の商品を考えるとき、都会のコンビニエンスストアの品揃えをそのまま再現してはいけない。人口の少ない地域で数千種類の商品をそろえれば、販売量の少ない在庫が増え、廃棄と資金負担だけが大きくなる。

 むしろ考えるべきなのは、「夜になってから突然必要になりやすい商品」である。牛乳やパン、飲料、冷凍食品、簡単な夕食、紙おむつ、衛生用品、電池などには、計画的に購入する商品とは少し違った性格がある。昼間に買っておける商品であっても、人は買い忘れるし、予想外に消費することもある。

 こうした商品で重要なのは、競争相手が他店だけではないという点である。

 本当の競争相手は、「今日は買わずに明日まで待とう」という行動である。

 五百円の商品を買うために車で二十分走らなければならなければ、多くの人は諦めるかもしれない。しかし、家から数分の場所で受け取れるなら購入する人が出てくる可能性がある。地方では、商品価格そのものだけではなく、「今入手できること」「遠くまで行かなくてよいこと」が付加価値になる。

 ただし、その価値に住民がいくら支払うのかは実際に測らなければ分からない。

アンケートより重要なのは「本当に払うか」

 新しいサービスを考えると、「夜でも買い物ができたら利用しますか」と住民に尋ねたくなる。おそらく多くの人が好意的に答えるだろう。しかし、「利用したい」と「実際に千円を支払う」の間には大きな差がある。

 市場調査では、口頭で答えた希望よりも、実際の購買行動の方が信頼性が高い。

 そのため、この事業を検証するなら、大規模な設備投資をする前に小さな実験を行うべきである。数十世帯から百世帯程度を対象に一定期間、午後8時以降に何を必要としたかを記録し、その後、実際に予約販売や夜間受取サービスを試験的に始める。すると「利用したい人の割合」だけでなく、「実際に買った人の割合」「一人あたり購入金額」「何度繰り返し利用したか」「どの商品が売れたか」まで測定できる。

 この段階まで進んで初めて、「時間的な買物空白が商機であるか」を客観的に判断できるようになる。

配送は便利だが、必ずしも安くない

 夜間の買物問題を考えると、宅配すればよいという発想も自然に出てくる。しかし、ここには注意が必要である。

 仮に千円の商品を販売して、粗利益として二百五十円が残るとする。それを一件の家庭まで届けるために三百円の追加費用がかかれば、商品を売るほど五十円ずつ赤字になる。

 地方では住宅間の距離が長くなるため、配送コストが都市部以上に重くなることもある。したがって、夜間対応では一件ずつの個別配送より、地域ごとの受取拠点、決まった時間の巡回、複数世帯へのまとめ配送、既存配送網との共同運行などの方が経済的に成立しやすい。

 配送という言葉には便利な印象があるが、事業者から見れば、移動距離はそのまま費用になる。

 そのため「店舗を開けるより配送すれば安い」と単純化することはできない。

客が少ないなら、需要を束ねる

 人口の少ない地域で夜間の商品受取だけを事業にすると、利用回数が少なすぎる可能性がある。そこで考えられるのが、一つの設備や配送網に複数の生活サービスを載せる方法である。

 高齢者向けの日用品、共働き世帯向けの夕食、地域農産物、クリーニングの受け渡しなどを、同じ受取拠点や同じ注文システムで扱えれば、一つのサービスだけでは回収できなかった費用を複数の事業で分担できる。

 これは人口密度の低い地域に適した考え方である。

 ただし、何でも加えればよいわけではない。商品ごとに別の冷蔵設備が必要になったり、配送時間が増えたり、在庫管理が複雑になったりすれば、かえって費用が膨らむ可能性がある。

 したがって重要なのは、同じ設備、同じ車両、同じ注文システム、同じ顧客管理を共用できる需要だけを束ねることである。

 その条件を満たして初めて、複数サービスを扱うことが経営効率につながる。

「店がない」のは需要がない証拠ではない

 「もし夜間に大きな需要があるなら、すでに誰かが店を開いているはずだ」という考え方には一理ある。しかし、それだけで需要の不存在を証明することはできない。

 人口の少ない地域では、需要が存在していても、初期投資が大きい、人手を確保できない、事業者が需要の存在を知らない、採算性を測るデータがない、既存の商店が高齢化している、といった理由で新しい供給が生まれないことがある。

 したがって、供給されていない市場には二種類ある。

 本当に需要がなくて誰も参入しない市場と、需要はあるが従来の事業モデルでは採算が合わず、誰も参入できない市場である。

 新しい商機が存在するとすれば、後者である。

無人店舗にも魔法はない

 ここまで読むと、無人店舗や無人受取設備を置けば問題が解決するように見えるかもしれない。しかし、無人化しても費用がゼロになるわけではない。

 設備費、電気代、冷蔵・冷凍設備、防犯、決済手数料、補充作業、故障対応、清掃などは残る。利用者が一日に数人しかいなければ、設備費の回収に長い年月がかかる可能性もある。

 したがって、最初に調べるべきなのは「どの設備を買うか」ではない。

 午後8時以降に何人が何を必要としており、どの程度の頻度で利用し、便利さにいくらまで支払うのかを確かめることである。

 設備は、その数字が見えてから考えればよい。

全国展開より先に、一つの町で数字を取る

 営業時間の空白は、一つの町だけに存在する特殊な現象ではない。人口減少や小売店舗の撤退が進む地域では、似た問題が起きている可能性がある。

 そのため、一つの地域で成立した仕組みを別の地域へ展開できる可能性はある。

 しかし、ここでも注意が必要である。

 人口構成、車の保有率、既存店舗までの距離、高齢者の割合、観光客の数、通勤者の帰宅時間などは地域によって大きく違うため、一つの町で成功したからといって、全国どこでも同じように成立するとは限らない。

 それでも、注文、決済、受け取り、在庫連携といった仕組み自体を標準化できれば、地域ごとにすべてを一から作る必要はなくなる。

 新規事業として狙うべきなのは、全国に同じ商品を売ることではなく、「人口密度が低い地域でも成立する販売方式」を作ることなのかもしれない。

小さな不便だからこそ、大企業には入りにくい

 人口減少地域には、住民にとっては困るが、大企業には市場が小さすぎる問題が数多く存在する。

 夜間の買物も、その一つになり得る。

 一つの町で一日に十人しか利用しないサービスを、大企業が全国規模の事業として運営するのは難しい。しかし、店舗を持たず、既存商店と連携し、固定費を小さくした地域事業者であれば成立する可能性がある。

 ここでは事業規模の違いが重要になる。

 年間何十億円もの売上が必要な企業にとって魅力がなくても、地域内で月数十万円、百万円規模の売上を積み重ねる小規模事業者にとっては意味のある市場かもしれない。

 地方の新規ビジネスでは、「市場が小さい」という事実だけで可能性を否定するのではなく、「どの規模の事業者なら成立する市場なのか」を考える必要がある。

午後8時の暗さを、市場として測ってみる

 夜8時、町から店の明かりが消える。

 その景色を人口減少の象徴として眺めることもできる。商店が減り、営業時間が短くなり、生活の選択肢が少なくなっていることは事実である。

 しかし、明かりが消れたあとも、人々の暮らしは続いている。仕事から帰り、夕食を食べ、子どもを寝かせ、翌日の支度をする。その途中で牛乳がないことに気づき、明日のパンを買い忘れたことを思い出し、今日は料理を作りたくないと思うこともある。

 その一つ一つが商売になるとは限らない。

 むしろ、多くはそのまま我慢され、翌朝まで持ち越されるだろう。

 それでも、その中に一定の頻度で繰り返され、一定の金額を支払ってでも解決したい不便があるなら、そこには市場が存在する。

 重要なのは、最初から「商機がある」と信じることではない。

 どれほどの人が、どのくらい困っており、いくらなら支払うのかを小さく測定することである。そして利用者が少なくても成立するように、人を常駐させず、在庫を持ちすぎず、既存店舗を利用し、受取拠点や配送網を共用する。

 その数字が合ったときに初めて、「営業時間の空白」は商機になる。

 午後8時の暗さそのものに価値があるのではない。

 その暗さの中で、住民がどんな不便を何度も諦めているのか。それを感覚ではなく行動として測り、少ない需要でも成立する仕組みに変えられるかどうか。

 地方の新しい商売は、そこから始まるのかもしれない。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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