地域分析記事

地域の暮らしと地域課題を数学とデータで考える

 住宅地を歩いていると、地域というものは、行政だけでも市場だけでも動いていないことに気づく。決められた曜日になればごみ集積所にごみが集まり、その周囲はいつの間にか掃除され、夏になれば道路脇の草が刈られ、台風や大雨が近づけば防災情報が伝えられるが、こうした仕事のすべてを市町村の職員が行っているわけではなく、その間には、長いあいだ町内会や自治会と呼ばれる組織を通じて住民が担ってきた、目に見えにくい仕事が存在している。普段、それらは生活の背景に溶け込んでいるため意識されることが少ないが、担い手が減り始めると、それまで自然に存在しているように見えた地域の秩序が、実は誰かの時間と体力と善意によって維持されていたことが、少しずつ姿を現してくる。

 その一方で、町内会に加入しないという選択も、いまや特別なものではなくなりつつある。総務省の調査を基にした自治会等に関する全国的な集計では、2010年度から2020年度まで継続して加入率を把握できた600市区町村について、平均加入率は78.0%から71.7%へと10年間で6.3ポイント低下しており、これは全国すべての自治会を合算した加入率ではないものの、「自治会に入ることが当然」という社会的前提が弱まりつつあることを示す1つの材料にはなる。仕事が忙しく役員を引き受けられない人、地域行事に強い関心を持たない人、定年後に移り住んできた人、単身者、共働き世帯など、地域との距離の取り方が多様になった現在、「町内会には入らないが、この地域では暮らしている」という住民が増えること自体は、それほど不思議な現象ではない。

 問題は、その人たちを地域意識が低いと批判することではなく、住民の生活様式が変わったにもかかわらず、ごみ、防災、草刈り、清掃、情報伝達などの仕組みだけが、全世帯が町内会に参加することを前提とした時代の姿を引きずっていることにある。加入する人が減っても、仕事そのものが同じ量だけ残れば、当然ながら残った人の負担は増えるが、だからといって加入率の低下が必ず地域機能の低下を引き起こすわけでもなく、仕事を減らした地域、外部に委託した地域、町内会以外の組織へ移した地域では、違った結果になる可能性がある。町内会問題を考えるうえで最も重要なのは、この条件の違いを無視して「入らない人が増えたから地域が壊れた」と単純化しないことである。

「町内会に入ること」と「地域で暮らすこと」が一致しなくなった

 町内会の難しさは、それが会員だけに便益を提供する趣味の団体ではなく、長い年月をかけて地域生活の基盤の一部を引き受けてきたことにある。祭りや旅行であれば参加する人だけで行うことができるが、ごみ集積所が清潔に保たれれば周辺住民全体が恩恵を受け、道路沿いの草が刈られて見通しがよくなれば、作業した人だけではなく歩行者も自転車も自動車も利益を受け、災害時に避難経路や危険箇所について情報が共有されれば、その効果を町内会員だけのものにすることは難しい。

 経済学では、こうした状況を考えるときに「集合行為」の問題が使われる。自分1人が負担しなくても他の住民が活動を続けてくれるなら、その利益だけを受けることは個人にとって合理的に見えるが、多くの人が同じ判断をすれば、やがてサービスを提供する側そのものが維持できなくなるという構造であり、地域防災や環境美化のように利益が広く周囲へ及ぶ活動では、特にこの問題が生じやすい。

 しかし、ここで非加入者を単純に「ただ乗り」と呼んでしまえば、本質から遠ざかる。従来の町内会には、ごみ管理や防災だけでなく、親睦行事、各種募金、役員会、回覧、祭りなど性格の異なる活動がまとめて組み込まれている場合が多く、「防災には協力したいが行事には出たくない」「清掃費なら払えるが休日の作業には参加できない」という住民に対して、加入か非加入かという2つの選択肢しか用意されていないこと自体が、現在の生活様式と合わなくなっている可能性がある。

ごみ集積所は、町内会問題を最も小さく映す場所である

 この矛盾が最も分かりやすく現れる場所が、ごみ集積所である。家庭から出たごみそのものは市町村が収集していても、集積所の清掃、ネットや設備の管理、分別されずに残されたごみへの対応、ごみ当番の調整などを自治会や住民が担っている地域は少なくなく、そこでは行政サービスと住民自治が1つの場所でつながっている。

 国立環境研究所の研究者らがつくば市の自治会長を対象に行った調査では、ごみ集積所の管理方法と自治会規模、自治会加入率、高齢化などの関係が調べられ、自治会未加入世帯などが多い集積所では管理上の問題が多くなる傾向が確認された一方、小規模な自治会では、自治会ではなく住民グループが設備を所有したり、非加入者から利用料を受け取ったりする形も確認された。この研究が示しているのは、「自治会に入らない人が悪い」という単純な結論ではなく、従来の自治会だけにごみ集積所管理を依存する方法とは別の仕組みが、実際の地域でもすでに生まれているということである。

 数字で考えると問題はさらに分かりやすい。20世帯で同じ仕事を均等に負担していたものを、参加世帯が10世帯になっても仕事量を変えずに続ければ、1世帯あたりの平均負担は単純計算で2倍になる。ただし、これは「仕事量も運営方法も変えない」という条件の下で成立する話であり、加入者が減ったことを機に当番を減らす、集積所の形を変える、行政や業者に一部を任せるといった変更を行えば、必ずしも2倍にはならない。したがって、本当の問題は加入者数そのものより、「人が減ったのに仕事の設計を変えないこと」にある。

 ごみ集積所をめぐっては、法律上も単純に「町内会員だけのもの」とはいえない場合がある。2025年4月の福井地方裁判所判決では、町内会が管理するごみステーションについて、非会員が一定の使用料を支払って利用すること自体は否定されなかった一方、地域の制度や集積所の公共的性格を踏まえれば、町内会側が使用料を無制限に設定できるわけではないと判断された。全国どの地域でも同じ扱いになるわけではなく、集積所の所有関係や自治体の収集方式によって事情は変わるが、少なくとも「町内会に入らないなら、ごみの問題もすべて自己責任」と単純には割り切れないことを示している。

 だからこそ、ごみ集積所については町内会への加入そのものと、生活インフラの維持管理を分けて考える余地がある。自治体の制度や地域の実情に応じて、利用世帯が清掃や維持費を負担する、作業が難しい世帯は費用で補う、住民グループが管理するなど複数の形を認めれば、「町内会に入るか、何もしないか」という2択から抜け出すことができる。

防災では、会員と非会員を分けることがさらに難しくなる

 ごみ集積所は毎日の生活の中にあるため負担が見えやすいが、防災は大きな災害が起きない限り、その価値が見えにくい。ところが地震や豪雨が起きた瞬間には、誰がどこに住んでいるのか、どの道路が通れるのか、どこに高齢者や支援を必要とする住民がいるのか、避難場所までどう移動するのかといった情報が、それまでの近所付き合いとは別の意味を持ち始める。

 総務省消防庁の2025年版消防白書によれば、2025年4月1日時点で全国1,741市区町村のうち1,697市区町村に、合計16万7,722の自主防災組織が設置されている。これは地域防災が町内会だけで成立しているという意味ではなく、むしろ消防団、自治体、自主防災組織、学校、地域住民など複数の主体によって支えられていることを示しており、消防庁も地域住民による情報伝達、避難、防災訓練などを地域防災力の重要な要素として位置付けている。

 火災が起これば火は町内会の境界で止まらず、道路が倒木で塞がれれば会員も非会員も通れず、津波や豪雨から避難するときに、住民を会費の支払いの有無で分けることも現実的ではないため、防災は町内会活動の中でも特に会員制になじみにくい。だから、町内会加入率が低下したときに考えるべきなのは「非加入者をどう参加させるか」だけではなく、防災という機能そのものを町内会だけに依存させてよいのかという問題である。

 町内会の加入率が下がれば自動的に防災力が下がると断定することはできないが、防災情報の伝達や訓練、安否確認を町内会だけに依存している地域では、加入者の減少が連絡網の縮小につながる可能性がある。逆に、町内会とは別に自主防災組織を整備し、会員であるかどうかに関係なく地域住民へ情報が届く仕組みを持っていれば、町内会が小さくなっても防災機能を維持できる可能性がある。

草刈りの問題は、加入率より年齢構成の方が深刻かもしれない

 草刈りになると、ごみや防災とは別の問題が見えてくる。炎天下で道路沿いや空き地の草を刈り、刈った草を集めて運び、機械を扱う仕事は、若い人にとっても軽い作業ではなく、その地域の中心的な担い手が60代であれば、10年後には70代になっている。人数だけを見れば同じ住民が残っていたとしても、同じ作業量を安全に続けられるとは限らない。

 国土交通省も、人口減少によって町内会や自治会など住民組織の担い手が不足し、地域の共助機能が低下する懸念を指摘している。また、ごみ集積所管理について行われた研究でも、自治会の担い手不足が一部住民への負担集中を強める可能性が示されており、高齢化した地域では「人がいるかどうか」だけではなく、「その仕事を安全にできる人が何人いるか」を考えなければならない。

 ここでも、解決策を「もっと参加してもらうこと」だけに求めると無理が生じる。草刈りの回数そのものを減らす、機械を共同利用する、危険な場所だけ業者に委託する、行政との役割分担を見直す、作業に参加する住民へ一定の謝礼を支払うなど、仕事の側を変える方法もある。外注すれば必ず安くなるわけでも、地域活動が必ず長続きするわけでもないが、住民の無償労働を「費用がかかっていない」と考えることも正しくない。お金が動いていないだけで、住民の休日、体力、時間という資源が使われており、それを経済的な費用として認識しなければ、本当の負担は見えてこない。

人が減ると必ず地域が壊れる、というほど単純ではない

 ここまでを見ると、町内会加入率が下がることによって地域活動が衰退するように思えるが、科学的にはもう1段慎重に考えた方がよい。加入者の減少と地域機能の低下には関連が考えられるものの、全国の地域について「加入者が減ったことが原因で地域機能が低下した」と一方向の因果関係が証明されているわけではなく、地域によっては加入者が減ったことをきっかけに行事を整理して負担そのものを減らした例もあれば、外部団体や行政と連携して従来より効率的な運営に変えられる可能性もある。

 つまり、「加入者減少→負担増加→退会者増加→さらに加入率低下」という悪循環は十分に起こり得るが、それは固定された運命ではなく、仕事量を変えない、役割を分けない、外部の力を使わないという条件が重なったときに起こりやすい構造だと考えた方がよい。逆に考えれば、加入者が減ることそのものより、加入者が減っているにもかかわらず昔と同じ活動量を守ろうとする方が、地域運営にとって危険な場合さえある。

町内会を守るのではなく、仕事をいったん分解してみる

 町内会問題が感情的な対立になりやすい理由の1つは、「町内会を守るべきか、なくしてよいか」という大きな問いから議論を始めてしまうことにある。しかし、ごみ集積所の管理、防災、草刈り、道路清掃、祭り、親睦行事、募金、行政文書の配布では、必要性も公共性もまったく違うのだから、本来は1つずつ別々に考える方が合理的である。

 災害情報は可能な限り全住民へ届ける必要があり、ごみ集積所は利用者を中心に維持方法を考え、草刈りは住民の年齢や作業能力を見ながら外注を含めて判断し、祭りや親睦行事は参加したい人が中心になるというように仕事を分解すれば、「町内会員でなければ何も利用できない」「町内会員になったら全部の仕事をしなければならない」という極端な構造を弱めることができる。

 時間を提供できる人は作業で参加し、仕事や育児で時間のない人は費用で参加し、高齢者は重労働ではなく見守りや連絡を担当し、情報共有が得意な人はオンラインの連絡手段を担うという形も考えられる。全員が同じ作業を同じ回数こなすことだけが公平なのではなく、それぞれの能力と生活条件が違うことを前提として、特定の少数者に負担を集中させないこともまた公平なのである。

見るべき数字は「加入率」だけではない

 自治会について考えるとき、行政も住民も加入率という分かりやすい数字に目を向けがちだが、仮に加入率が90%あったとしても、実際の草刈りには毎回10人しか来ず、役員を引き受ける人が2人しかいないなら、その地域が強いとは言い切れない。反対に、加入率が以前より低くても、ごみ集積所の管理方法が決まり、防災情報が全世帯に届き、草刈りの一部が外注され、必要な費用が安定的に確保されているなら、生活機能そのものは維持できる。

 したがって、地域を評価するときには、加入率だけではなく、1つの仕事を何人で担っているのか、1人あたり年間何時間を使っているのか、役員の平均年齢がどう変化しているのか、外注した場合はいくら必要なのか、5年後や10年後にも同じ人数で続けられるのかという指標を見た方が、本当の持続可能性を把握しやすい。町内会加入率は重要な数字ではあるが、それは地域の健康状態を測る1つの指標にすぎず、それだけで地域の強さを判断することはできない。

地域は「仲が良いから助け合う」だけでは維持できなくなる

 かつての町内会には、隣近所がお互いを知り、同じ地域に長く暮らし、困ったときには助け合うという人間関係を土台にした仕組みがあり、その価値はいまも失われてはいない。しかし、転入や転出があり、共働き世帯や単身世帯が増え、定年後に知らない土地へ移り住む人もいる社会では、「近所なのだから当然協力する」という暗黙の了解だけに、ごみや防災や草刈りを預け続けることは難しくなっている。

 これから必要になるのは、住民全員が仲良くなる仕組みより、仲良くなくても地域に必要なことだけは一緒に維持できる仕組みなのかもしれない。名前を知らない隣人であっても同じ道路を使い、同じ台風を経験し、同じごみ収集制度の中で暮らしている以上、人間関係の濃さとは別に、必要最低限の地域運営を成立させる制度があった方が、古くからの住民にとっても新しく移り住んだ人にとっても暮らしやすい。

 町内会に入らない住民が増えることは、地域社会の終わりそのものを意味しているわけではない。しかし、加入者だけが減り、仕事の量も方法も何十年も前と同じなら、残った人への負担が重くなり、やがてごみ、防災、草刈りといった生活に直結する部分にも影響が及ぶ可能性がある。だから問うべきなのは、「なぜ入らないのか」という住民への不満ではなく、「この仕事は本当に町内会でなければできないのか」「誰が利益を受け、誰がどのように負担するのか」「人が半分になっても続けられるのか」という、もっと具体的な問いである。

 守るべきものは、町内会という名前でも、昔から続いてきた方法そのものでもない。ごみが片づき、災害時には必要な情報が届き、道路脇の草が危険な状態まで伸びず、そして地域を維持するために一部の人だけが疲れ果てないという、暮らしの基本的な機能である。そのためには、「昔からこうしてきた」という言葉よりも、「10年後、ここに何人がいて、この仕事を誰が担うのか」と静かに問い直すことの方が、これからの町内会にははるかに重要になってくる。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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雨が増えたから水害が増えた、それだけでは説明できない

 近年、短時間に猛烈な雨が降る場面が珍しくなくなった。気象庁の統計でも、1時間に50mm以上の雨が降る回数は、1976年から1985年までの平均と比べて、2015年から2024年には約1.5倍に増えている。1時間80mm以上では約1.7倍、100mm以上では約1.8倍となっており、短時間強雨そのものが増えているという認識には、統計的な裏付けがある。

 そのため豪雨による浸水が起きると、もっと太い排水管を造るべきだ、地下に大きな貯留施設を設けるべきだ、強力なポンプを増設すべきだという議論が出てくる。もちろん、既存の排水能力そのものを超える雨が降っているなら、こうした設備増強は不可欠になる。

 しかし、浸水が起きた場所を詳しく見ていくと、問題は必ずしも設備の大きさだけではない。道路脇の側溝に泥がたまり、集水ますが落ち葉で覆われ、草が流入口を塞いでいることで、地下に十分な排水管があっても雨水がそこへ入れない場合があるからである。

 つまり豪雨対策では、地下に何があるかだけではなく、地表の水がそこへきちんと入れる状態になっているかも同じくらい重要になる。巨大な設備があっても入口が塞がっていれば、その能力は十分に使われない。

排水能力は、最も弱い場所で決まる

 排水システムの仕組みは、難しい計算をしなくても概念的には理解できる。道路の側溝や集水ますから水を取り込む能力、地下の排水管が水を流す能力、さらにその先でポンプや河川へ放流する能力があり、実際の排水能力は、その中で最も小さい能力に制約される。

 たとえば、側溝や集水ますから毎秒40の水しか取り込めないのに、地下管路が毎秒100、下流施設が毎秒120を処理できるとする。この場合、実際に流せる量は毎秒40にすぎないため、地下管を100から150へ拡張しても、入口が40のままなら排水能力はほとんど改善しない。

 反対に、側溝や集水ますが毎秒120を取り込めても、地下管路が毎秒50しか流せないなら、この地域では側溝をいくら清掃しても実効能力は50を超えないため、管路や貯留施設の増強が必要になる。

 豪雨対策で最初に考えるべきことは、「大型設備か清掃か」という二者択一ではなく、排水システムのどこが最も弱い部分になっているのかということである。水理学的にいえば、ボトルネックがどこにあるのかを確かめなければ、対策費をかけても期待した効果が得られない可能性がある。

側溝や集水ますの詰まりは、実際に排水能力を大きく落とす

 側溝や集水ますの清掃が重要だという話は、単なる経験論ではない。近年の研究では、雨水流入口の閉塞によって水を取り込む能力が実際に低下することが確認されている。

 ある都市規模の研究では、多数の流入口を調査した結果、閉塞が軽い場合でも雨水の捕捉量が約7%低下し、深刻な閉塞では約50%低下する場合が示された。これは、地下の排水管に余力があったとしても、地表からそこへ入る経路が塞がれていれば、実際に利用できる排水能力が大きく低下することを意味している。

 別の研究でも、流入口や管路の閉塞が大きくなるほど、浸水範囲や浸水深が増加する傾向が確認されている。したがって、落ち葉や泥、ごみ、草による閉塞が浸水を悪化させるという考え方そのものには、十分な科学的根拠がある。

 もっとも、ここで注意しなければならないのは、閉塞を除けば浸水がすべて解決するわけではないということである。流入口をきれいにして大量の水を地下へ送れるようになっても、その先の排水管がすでに限界なら、水はそこで詰まる。

 清掃によって大きな効果が出るのは、側溝や集水ますの閉塞が実際のボトルネックになっている場所である。逆に、管路容量やポンプ能力そのものが不足している場所では、大型施設の増強が必要になる。

豪雨の日に突然、排水能力が失われるわけではない

 側溝や集水ますの詰まりは、一晩で起きるわけではない。晴れた日が続く間に少しずつ砂がたまり、落ち葉が重なり、草が伸び、その上にごみが引っかかる。普段は雨が少ないため、その変化に誰も気付かず、道路も普通に使えている。

 ところが短時間に強い雨が降ると、それまで見えなかった小さな変化が一気に表面化する。道路に降った水が集水ますへ入れなくなれば、地形の低い方向へ流れ始め、交差点や住宅地のくぼ地に集まることで、住民から見れば突然の浸水として現れる。

 しかし、浸水が突然起きたとしても、原因のすべてがその日に生まれたわけではない。何か月もかけて蓄積していた泥や落ち葉が、豪雨によって初めて問題として見えるようになっただけかもしれない。

 防災の難しさはここにある。災害が発生している時間は数時間でも、災害への備えは1年中続いているため、豪雨対策とは雨が降っている最中の仕事だけではなく、雨が降っていない日に排水機能を維持する仕事でもある。

すべての側溝を同じ頻度で掃除する必要はない

 側溝や集水ますを清掃すればよいといっても、地域内のすべての場所を同じ頻度で管理するのは現実的ではない。人員にも予算にも限界があり、高齢化が進む地域では、住民が重い側溝のふたを持ち上げて泥をすくうこと自体が難しくなっている。

 そこで重要になるのが、どこを優先して管理するかという考え方である。研究の中には、都市内の流入口を分析した結果、重要度の高い上位約25%の流入口が、表面を流れる雨水の約70%を処理していたという結果もある。

 もちろん、この70%と25%という数字をそのまま日本全国の自治体に当てはめることはできない。地形や土地利用、道路勾配、降雨特性が違えば結果も変わるが、それでも「すべての流入口が同じ役割を持っているわけではない」という考え方は重要である。

 過去に何度も水がたまった交差点、周囲より低い道路、落ち葉が集まりやすい場所、道路勾配の変化する場所、広い集水域から雨水が集中する場所を先に点検すれば、限られた人員でも防災効果を高められる可能性がある。

 つまり、必要なのは単純な側溝清掃の回数を増やすことではなく、危険度の高い場所を特定し、重点的に維持管理することである。

問題は「誰が掃除するのか」というところに移っていく

 側溝や集水ますの維持が重要だとしても、それを住民任せにすればよいわけではない。高齢者が多い地域では、側溝のふたを持ち上げることや、泥を運び出すことには危険が伴い、交通量の多い道路での作業はさらに危険になる。

 そのため本当に必要なのは、「地域で掃除しましょう」という呼びかけだけではなく、誰が点検し、誰が作業し、どの場所をどの頻度で見て、異常を見つけた場合にどこへ連絡するのかという仕組みをつくることである。

 この問題は、日本の地方自治体にとってすでに現実の課題になっている。国の資料では、地方公共団体の下水道担当職員はピーク時と比べて約6割まで減少しており、特に人口規模の小さい自治体では、少人数で多くの施設を維持している場合が少なくない。

 市区町村の土木部門全体を見ても、職員数は長期的に減少傾向にあり、技術系職員が5人以下しかいない自治体も多い。施設そのものが残っていても、それを点検し、異常を見つけ、補修する人が不足すれば、地域全体の防災力は低下していく。

 これまで社会基盤といえば、道路、橋、河川、下水道といった構造物そのものを指すことが多かったが、人口減少社会では、その構造物を維持する人材まで含めて社会基盤と考える必要がある。

大きな設備と日常管理は競争相手ではない

 ここまで読むと、巨大な排水施設を造るより、側溝を掃除する人を増やした方がよいように感じるかもしれないが、科学的にはそこまで単純ではない。

 大型施設と維持管理は、どちらか一方を選ぶものではない。大型施設は排水能力の上限を引き上げ、維持管理はその能力を現実に使える状態に保つという、異なる役割を持っている。

 たとえば、自動車に高性能なエンジンを積んでも、タイヤの空気が抜け、オイルも交換されていなければ十分に走れない。しかし、整備さえすれば小さなエンジンでも高速道路を速く走れるということにはならない。

 排水設備も同じである。側溝や集水ますを清掃することで本来の能力を回復できる地域もあれば、管路やポンプの能力そのものが不足しているため、大規模な設備増強が避けられない地域もある。

 重要なのは、大型設備を造る前に、既存の排水システムが本来の能力を発揮しているのかを確かめることである。閉塞によって能力を失っているのなら、まずそれを回復させる方が合理的であり、それでも浸水するなら、その時点で設備能力そのものの不足を検討すればよい。

「大型設備は高い、人を置く方が安い」とは単純に言えない

 豪雨対策では、設備を造るより人を配置した方が安いと思われがちだが、これも単純には比較できない。仮に排水施設の改良に5,000万円かかったとしても、その設備を50年間使用できるなら、単純平均では年間100万円相当になる。

 一方で、維持管理要員を1人配置し、人件費や車両費、資材費を含めて年間500万円かかれば、50年間では2億5,000万円になる。実際には設備の修繕費、人件費の変化、物価上昇、金利、浸水による被害軽減額などを考慮しなければならないため、どちらが安いかは地域ごとに異なる。

 したがって、「大きな設備を造るより人を確保した方が安い」と一般化するのは適切ではない。より正確なのは、大きな設備投資をする前に、今ある排水設備が閉塞によって能力を失っていないかを確認し、その回復に必要な費用と、新しい設備を造る費用を比較することである。

 この順序で考えれば、限られた税金をどこへ使うべきかという判断も変わってくる。

これからの豪雨対策は「設備の量」より「機能しているか」を見る

 豪雨対策という言葉を聞くと、私たちはどうしても新しい排水管や地下貯留施設を想像する。しかし、地域の安全を決めるのは設備の大きさだけではなく、その設備が豪雨の瞬間に本当に機能する状態にあるかどうかである。

 大量の雨が降ったとき、道路脇の小さな集水ますが落ち葉で塞がれていれば、その先にある大きな排水管は十分に働けない。その意味では、1枚の落ち葉や数cmの泥が、数百m先の地下設備の能力を無駄にする可能性さえある。

 一方で、側溝を完璧に掃除しても地下管路の能力が足りなければ、浸水は防げない。したがって必要なのは、清掃か大型工事かを感覚で選ぶことではなく、排水経路を一つのシステムとして調べ、最も弱い場所から改善することである。

 豪雨対策で最初に問うべきことは、「何を造るか」ではない。「今ある排水設備は、本来の能力を本当に発揮できているのか」である。

豪雨対策は、雨が降っていない日に決まる

 水害が起きると、私たちは猛烈な雨やあふれる川を見て、同じように大きな対策を考えたくなる。しかし、雨水の流れをたどっていけば、その最初の入口は道路脇の小さな側溝や集水ますであり、そこで水が止まれば、その先にどれほど立派な設備があっても十分には使えない。

 だからこそ、豪雨対策で本当に必要なのは、巨大な設備か側溝清掃かという単純な選択ではなく、地域ごとに排水システムの弱点を見つけることである。入口が詰まっているなら清掃と点検体制を強化し、管路が不足しているなら増強し、下流側の能力が足りないなら貯留やポンプ設備を考える。

 その中でも、人が現場を歩き、異常を見つけ、雨が降る前に詰まりを取り除く仕事は、これから人口が減っていく地域ほど重要になる。設備だけが残り、それを維持する人がいなくなれば、社会基盤は存在していても機能しなくなるからである。

 豪雨対策は、雨が降っている日の数時間だけで決まるものではない。晴れた日に側溝をのぞき込み、泥や落ち葉を取り除き、必要な場所を記録し、その情報を次の点検につなげるという地味な作業の積み重ねによって、初めて巨大な排水設備も本来の力を発揮する。

 大きな排水施設を造る前に、まず側溝を掃除する人を確保する方が先なのか。その答えは、地域によって違う。

 しかし、どの地域にも共通する原則がある。最初に確認すべきなのは設備の大きさではなく、雨水が入口から出口まで滞りなく流れる状態になっているかどうかであり、豪雨対策の本当の出発点は、そこにある。

地域の課題を、自分の判断に置き換えて考える

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