リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

森鴎外の『舞姫』を読み終えたとき、主人公の太田豊太郎に強い反感を持つ人は少なくないでしょう。

ドイツで若い女性エリスと恋に落ち、彼女が自分の子を身ごもっているにもかかわらず、最後には日本へ帰る道を選ぶ。結果としてエリスは精神を病み、豊太郎は彼女を残して帰国します。

現代の感覚から読めば、「あまりにも無責任ではないか」「結局、出世のために女性を捨てただけではないか」と感じるのも当然です。

しかし、『舞姫』を単純な「ひどい男の物語」として読んでしまうと、この作品の重要な部分を取り落としてしまいます。

豊太郎は確かにエリスを傷つけました。その責任は消えません。しかし同時に、彼自身もまた、自分の人生を自分で選択することのできない人間として描かれています。

『舞姫』が現在まで読み継がれてきた理由の一つは、豊太郎が善人でも悪人でもなく、自分で決断できない弱さを持った人間として描かれていることにあるのではないでしょうか。

『舞姫』はどんな物語だったのか

『舞姫』は森鴎外が明治23年(1890年)に発表した小説で、鴎外の代表作の一つです。文京区立森鴎外記念館によれば、鴎外が発表した創作小説の第一作でもあり、1957年以降、高等学校の国語教科書にも取り上げられてきました。

主人公の太田豊太郎は、優秀な青年官僚としてドイツへ留学します。

ところがベルリンで暮らすうち、豊太郎はそれまで当然のものとして受け入れてきた国家や官僚組織の価値観に疑問を持つようになります。その結果、上司との関係が悪化し、官職を失います。

そんな豊太郎が出会うのが、貧しい踊り子エリスです。

父を亡くし、経済的にも苦しい状況に置かれていたエリスを豊太郎は助けます。やがて二人は恋愛関係になり、一緒に暮らすようになります。

ここまでは、国家や組織から離れた一人の青年が、自分自身の人生と愛を見つける物語にも見えます。

ところが、日本からやって来た友人の相沢謙吉によって状況が変わります。

相沢は豊太郎に、もう一度社会的地位を取り戻す道を示します。さらに天方大臣の仕事を手伝うようになった豊太郎には、日本へ帰り、再び国家の中で生きる可能性が開かれていきます。

その一方で、エリスは豊太郎の子を身ごもっていました。青空文庫で公開されている本文でも、エリスは生まれてくる子どもについて幸福そうに語っています。

つまり豊太郎の前には、

「エリスと子どもとともにドイツで生きる人生」

と、

「日本へ帰り、社会的地位を回復する人生」

という二つの道が現れることになります。

『舞姫』とは、実はこの二つの人生の間で決断できない男の物語なのです。

豊太郎が「ひどい男」に見える最大の理由

豊太郎を批判するなら、最も大きな問題はエリスと別れることそのものよりも、重大な決断を自分自身で引き受けなかったことにあります。

相沢は豊太郎とエリスの関係を断つよう勧めます。

それに対して豊太郎は、エリスへの愛情を完全に失っていたわけではありません。むしろ本文では、貧しくてもエリスと暮らす現在の生活を楽しいと感じ、彼女への愛を捨てがたいと思っています。

それにもかかわらず、豊太郎は相沢の意見に従います。

青空文庫の本文には、豊太郎自身が「友に対して否とはえ対へぬが常なり」と語る部分があります。つまり豊太郎自身が、自分は相手に強く言われると拒否できない人間であることを認識しているのです。

ここに豊太郎の最大の問題があります。

「日本に帰る」と自分で決断したのであれば、少なくともその選択について自分で責任を負うことができます。

しかし豊太郎はそうではありません。

相沢に勧められ、大臣に評価され、周囲の状況が日本へ帰る方向へ動いていく中で、結果としてその流れに乗っていきます。

つまり彼は人生で最も重大な選択を、自分の意思で選ぶというよりも、周囲に選ばせてしまうのです。

その代償を最も大きく支払ったのがエリスでした。

この意味では、「豊太郎はひどい男なのか」という問いに対して、かなり厳しい評価をすることができます。

豊太郎は悪意のある男ではありません。

しかし、悪意がないことと、他人を傷つけないことは同じではありません。

優柔不断な人間もまた、場合によっては誰かの人生を決定的に壊してしまいます。

『舞姫』はそのことを非常に冷酷に描いています。

では豊太郎は出世のためにエリスを捨てたのか

ただし、「豊太郎は出世欲に負けてエリスを捨てた」とだけ説明するのも少し単純です。

豊太郎自身は、一度は官僚としての出世コースから外れています。

エリスと暮らし始めた後も、彼は必ずしも以前の地位へ戻ることだけを願っていたわけではありません。

相沢から将来の道を示されたときにも、本文ではエリスとの生活を「棄て難き」と感じています。

それでは、なぜ日本へ帰る方向へ動いてしまったのでしょうか。

ここで重要なのが、豊太郎の生い立ちです。

豊太郎は幼いころから学問に励み、国家から選ばれ、官僚として生きてきた人物です。つまり「社会から評価されること」が、ほとんど彼の人格そのものになっています。

現代の私たちは、仕事を辞めて別の人生を選ぶことを少なくとも理念上は個人の自由として考えることができます。

しかし豊太郎にとって、官僚としての人生を捨てるということは、単に職業を変える程度の問題ではありません。

それまで築いてきた自分自身の存在理由を失うことでもありました。

ベルリンでエリスと暮らしている豊太郎は、国家から離れて初めて個人として生きようとします。

ところが、その自由を最後まで引き受けることができません。

だから豊太郎の選択は、

「愛か出世か」

という単純な二者択一ではありません。

より正確には、

「一人の個人として生きるのか、それとも社会から与えられた自分へ戻るのか」

という選択だったと考えた方がよいでしょう。

エリスから見れば、事情など関係ない

ここで注意しなければならないことがあります。

豊太郎の置かれていた社会的事情を理解することと、豊太郎の行動を正当化することは別問題です。

エリスから見れば、豊太郎がどれほど悩んでいたとしても結果は同じです。

エリスは豊太郎を愛し、彼との子どもを身ごもり、二人の将来を信じています。

大臣に会いに行く豊太郎の服を整えながら、エリスは彼が成功しても自分を捨てないだろうと信じています。本文では、豊太郎のために服を選び、襟飾りまで結びながら、「われをば見棄て玉はじ」と語っています。

読者にとってこの場面がつらいのは、すでに豊太郎が相沢との間でエリスとの関係を断つ方向へ動いていることを知っているからです。

エリスは知らない。

豊太郎は知っている。

それでも豊太郎は何も話しません。

ここでは、彼の弱さはかなり明確に「無責任」と呼べるものになります。

本当にエリスを捨てるのであれば、自分の口からその事実を伝えるべきでした。

反対にエリスを選ぶのであれば、相沢や大臣に対して日本へ戻らないと言うべきでした。

しかし豊太郎はどちらもできません。

その意味で彼の悲劇は、「選択を間違えたこと」以上に、選択する責任から逃げ続けたことにあります。

相沢だけを悪者にすることもできない

『舞姫』を読むと、友人の相沢に腹が立つ人もいるでしょう。

豊太郎とエリスを別れさせるよう働きかけ、豊太郎を日本へ連れ戻す方向へ動いた人物だからです。

実際、『舞姫』研究には相沢を批判的に読み直す論考も存在しており、この人物をどう評価するかは作品研究の一つの論点になっています。

しかし、すべての責任を相沢に負わせるのも適切ではありません。

相沢が何を言おうと、最終的にエリスとの関係を続けるかどうかを決めるのは豊太郎だからです。

むしろ相沢という人物は、豊太郎の内側に存在していた「日本社会へ戻りたい自分」を外から言葉にした人物とも考えられます。

もし豊太郎が本当にエリスとの生活を選ぶ覚悟を持っていたなら、相沢に反対することもできたはずです。

しかし豊太郎にはそれができません。

だから相沢が現れた瞬間、豊太郎がそれまで押さえ込んでいた社会的な自分が再び表面に出てきます。

そう考えると、相沢は豊太郎の人生を破壊した悪人というより、豊太郎自身の弱さを露出させる存在だったとも読めます。

豊太郎はエリスを愛していなかったのか

では、豊太郎のエリスへの愛情そのものが偽物だったのでしょうか。

私は、そう読む必要はないと思います。

もし豊太郎が最初からエリスを一時的な恋愛相手としてしか考えていなかったのであれば、『舞姫』はもっと単純な物語になっていたでしょう。

豊太郎はエリスとの生活に幸福を感じていますし、別れることにも苦しんでいます。

だからこそ、この作品は読者を苛立たせます。

愛していないから捨てたのではない。

愛しているのに、その愛を守るために必要な決断ができないのです。

人を愛する感情と、その人に対して責任を負う能力は同じではありません。

豊太郎には前者はあっても、後者が決定的に不足していました。

これは現代にも十分通じる問題ではないでしょうか。

「好きだ」と言うことはできます。

「大切だ」と思うこともできます。

しかし、その人の人生に関わる決断を迫られたとき、自分の利益を失ってでも責任を取れるかとなると話は違います。

『舞姫』が描いている恋愛の厳しさは、まさにそこにあります。

豊太郎自身もまた被害者なのか

一方で、豊太郎を完全な加害者として見ることにも違和感が残ります。

なぜなら豊太郎自身も、明治という時代の国家と社会によって作られた人間だからです。

森鴎外自身も陸軍軍医としてドイツへ留学し、帰国後は軍医として国家組織の中を生きました。国立国会図書館系のジャパンサーチによれば、鴎外は1884年にドイツへ留学し、1888年に帰国しています。『舞姫』はその後の1890年に発表されました。

もちろん豊太郎と鴎外本人をそのまま同一人物と考えることはできません。

しかし、国家から選ばれてドイツへ渡った日本人青年が、西洋社会の中で個人というものを意識し、日本へ戻るときに再び国家との関係を問われるという構造には、鴎外自身の時代経験が深く関係していると考えることはできます。

豊太郎は自由を知ってしまった人間です。

しかし自由に生きる訓練を受けていません。

それまでの彼は、勉強し、試験に合格し、上から評価されることで人生を進んできました。

自分で人生の目的を決める必要がなかったのです。

ところがベルリンで初めて、

「自分は何を望むのか」

という問題に直面します。

そして結局、その問いに最後まで答えることができませんでした。

そう考えると、『舞姫』は恋愛の悲劇であると同時に、近代日本で初めて「個人」になろうとした人間の失敗の物語として読むこともできます。

最後に豊太郎が憎んだのは相沢だった

作品の最後で、豊太郎は相沢について、親友ではあるものの、心のどこかに彼を憎む気持ちが今も残っていると語ります。

文京区立森鴎外記念館が紹介する自筆草稿でも、最後は「我が脳裏に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」という趣旨の一文で閉じられています。

この結末は非常に興味深いところです。

豊太郎はエリスを捨てる決断について、完全には自分自身の責任として引き受けていません。

どこかで相沢のせいにしている。

しかし本当は、相沢の言葉に従うことを選んだのも豊太郎自身です。

だからこの最後の恨みは、相沢に向けられているようでいて、実は自分自身に向けるべきものだったのかもしれません。

もしそう考えるなら、『舞姫』の最後はかなり残酷です。

豊太郎は日本へ帰り、社会的には人生を立て直すでしょう。

しかし、自分が本当は何を選ぶべきだったのかという問いだけは、一生消えない。

エリスを失っただけではありません。

豊太郎は、自分自身の意思で人生を選ぶ可能性も同時に失ったのです。

結局、豊太郎は「ひどい男」なのか

では最初の問いに戻りましょう。

豊太郎は本当にひどい男なのでしょうか。

エリスに対して行ったことだけを見れば、批判されて当然です。

妊娠している女性に将来を期待させながら、自分では別離を伝えることさえできず、最終的には彼女を残して日本へ帰る。その責任を、時代や相沢だけに負わせることはできません。

その意味では、豊太郎は確かに「ひどい男」です。

しかし彼は、冷酷だからエリスを捨てたわけではありません。

むしろ人を傷つけたくない、自分も傷つきたくない、社会からも外れたくない、エリスも失いたくないという思いのすべてを抱えたまま、何一つ捨てる覚悟を持てませんでした。

そして結局、最も弱い立場にいたエリスが、その代償を引き受けることになります。

だから豊太郎の本当の問題は「悪人だったこと」ではありません。

自分の人生を自分で決める勇気がなかったことです。

『舞姫』を学生時代に読むと、「エリスを捨てたひどい男の話」という印象が残るかもしれません。

しかし年齢を重ねて読むと、少し違って見えてきます。

仕事か家庭か。

組織か個人か。

安定か自由か。

周囲の期待か、自分が本当に望む人生か。

私たちも程度の差こそあれ、同じような選択を何度も迫られます。

そして誰もが常に、自分の意思だけで決断できるわけではありません。

だから豊太郎を簡単に許す必要はありません。

同時に、簡単に笑うこともできない。

『舞姫』が発表されて130年以上たっても読まれているのは、豊太郎の弱さが明治時代だけのものではなく、現代の私たちの中にも残っているからなのかもしれません。

豊太郎は「ひどい男」だった。

しかし、それだけでは終わらない。

『舞姫』が描いたのは、悪人の物語ではなく、人生を自分で選ぶことができなかった人間の悲劇だったのではないでしょうか。

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1970年代後半から1980年代にかけて、「角川映画」という言葉には、単なる映画会社の名前以上の響きがあった。

映画館へ行けば角川映画があり、書店へ行けば角川文庫が積まれている。テレビでは映画の宣伝が流れ、ラジオからは主題歌が聞こえてくる。そして映画に出演した若い俳優が、そのまま時代を象徴するスターになっていった。

現在から振り返れば、これは「メディアミックス」と呼ばれる販売戦略として説明できる。しかし、当時の若者が感じていたものは、もう少し大きかったのではないだろうか。

角川映画は、本を読むこと、映画を見ること、音楽を聴くこと、そして新しいスターに憧れることを、一つの青春文化へまとめてしまったのである。

『犬神家の一族』から始まった角川映画

角川映画の出発点とされるのは、1976年に公開された市川崑監督の『犬神家の一族』である。KADOKAWA自身も、この作品を角川映画の第1作として位置づけている。

原作は横溝正史だった。

角川書店は映画を公開するだけではなく、原作となる文庫本も大規模に販売した。そして有名になったのが、

「読んでから見るか、見てから読むか。」

という宣伝だった。

この発想は、現在では珍しくない。小説が映画化され、映画の公開に合わせて書店に原作本が並ぶことは、ごく普通に行われている。

しかし1970年代半ばには、出版社が自ら映画製作へ本格的に進出し、映画と出版を一体として売っていく方法は画期的だった。国立国会図書館も、1975年に角川書店社長となった角川春樹が映画と文庫本を組み合わせた戦略によってベストセラーを生み、出版界に大きな影響を与えたと整理している。

重要なのは、本が映画の「原作」にとどまらなくなったことである。

映画を見て横溝正史を読み始める人がいる。横溝正史を読んでいた人が映画館へ行く。書店と映画館の間を、読者と観客が往復するようになった。

角川映画は、映画ファンだけを相手にしていたのではなかったのである。

映画そのものより「角川映画を見ること」がイベントになった

その後、角川映画は急速に存在感を強めていく。

『人間の証明』が1977年、『野性の証明』が1978年、『戦国自衛隊』と『蘇える金狼』が1979年、『復活の日』が1980年に公開された。さらに1981年には『セーラー服と機関銃』、1983年には『探偵物語』『時をかける少女』『里見八犬伝』、1984年には『Wの悲劇』などが続いた。現在KADOKAWAが角川映画50周年企画で代表作として並べている作品を見るだけでも、その集中ぶりが分かる。

もちろん作品の内容はまったく違う。

ミステリーがあり、青春映画があり、アクションがあり、SF(Science Fiction・科学的想像を基礎とするフィクション)がある。

それでも、そこには共通する雰囲気があった。

大きな広告、印象的なコピー、耳に残る音楽、華やかな出演者。そして「今度の角川映画は何だろう」という期待感である。

映画を見るという行為そのものに、お祭りのような性格が加わっていた。

現在なら、大作映画の予告編はインターネットで何度でも見ることができる。出演者の情報も、作品の評判も公開前から大量に手に入る。

しかし当時は違った。

テレビのコマーシャル、映画雑誌、書店のポスター、新聞広告などから断片的な情報を受け取りながら公開を待つ。その時間そのものが映画体験の一部だった。

角川映画は、この「待つ時間」を非常にうまく演出したのである。

薬師丸ひろ子が象徴した新しいスターの誕生

角川映画を若者文化として考えるうえで、薬師丸ひろ子の存在は欠かせない。

薬師丸ひろ子は『野性の証明』のオーディションをきっかけに映画デビューし、1981年の『セーラー服と機関銃』で人気を決定的なものにした。KADOKAWAも同作品について、主演だけでなく薬師丸が歌った同名主題歌も大ヒットし、社会現象となったと説明している。

ここに角川映画の特徴がよく表れている。

映画がヒットする。

主演俳優が人気になる。

主題歌も売れる。

原作小説も読まれる。

これらが別々の出来事ではなく、一つの大きな流れとして動いていた。

『セーラー服と機関銃』という題名を聞けば、映画の場面だけではなく、薬師丸ひろ子の姿や歌声まで一緒に思い出す人は少なくないだろう。

映画と音楽とスターの記憶が分離していないのである。

その後、原田知世が主演した大林宣彦監督の『時をかける少女』も、角川映画を象徴する青春映画となった。現在でもKADOKAWAは同作品を「青春SF映画の金字塔」と位置づけている。

角川映画は完成したスターを映画に出演させるだけではなかった。

映画そのものがスターを誕生させる場所になっていたのである。

角川文庫を持つことも若者文化だった

角川映画を映画だけから考えると、その魅力の半分しか見えてこない。

当時の角川書店には「文庫」というもう一つの強力なメディアがあったからである。

1970年代には文庫市場の競争が激しくなり、講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで登場した。そうした環境の中で角川書店は、映画と文庫を結び付けることで独自の位置を築いていった。

映画館で見た作品の原作を、帰りに書店で買う。

あるいは文庫を先に読み、その映像を想像しながら映画館へ行く。

この往復が成立したことは大きい。

文庫本は比較的安く、小さく、学生でも持ち歩けた。

電車の中で読める。学校や大学へ持っていける。喫茶店でも読める。

映画は数時間で終わるが、本は自分の手元に残る。

したがって角川映画の文化は、映画館の中だけで完結しなかった。

映画を見た後も、文庫本という形で日常生活の中へ持ち帰ることができたのである。

現在の若者文化がスマートフォンの中に存在するとすれば、当時の若者文化の一部は文庫本やレコード、カセットテープの中に存在していたと言ってもよいだろう。

なぜ角川映画には「青春」の記憶が残るのか

興味深いのは、角川映画のすべてが青春映画だったわけではないことである。

『犬神家の一族』はミステリーであり、『人間の証明』は社会派サスペンス、『戦国自衛隊』は異色のアクション映画、『復活の日』は壮大なSF作品だった。

それにもかかわらず、角川映画そのものを「青春時代の記憶」として語る人がいる。

おそらく、作品の中に青春が描かれていたからだけではない。

角川映画を見ていた側が若かったからである。

中学生や高校生だった人もいる。

大学生だった人もいる。

就職したばかりだった人もいるだろう。

映画を見るために友人と街へ出かけ、映画が終わればレコード店や書店へ寄る。喫茶店で映画について話すこともあったかもしれない。

その一連の行動まで含めて、一つの記憶になっている。

だから数十年後に映画の題名を目にすると、物語だけではなく、その映画を見た頃の自分まで思い出す。

文化の記憶とは、作品だけからできているのではない。

作品に接した場所や、一緒にいた人、その頃聞いていた音楽、自分が何歳だったかという個人的な記憶が重なってできている。

角川映画には、その力が特に強かったのではないだろうか。

「メディアミックス」という言葉だけでは説明できない

角川映画は、日本における本格的なメディアミックスの先駆けとして語られることが多い。KADOKAWA自身も、初期10年間について、小説・映画・主題歌を連動させ、ベストセラー作家やスターを生み出していった時代として説明している。

確かにビジネスとして見れば、それは非常に合理的な仕組みだった。

一つの作品を、本だけで売らない。

映画だけでも売らない。

音楽、俳優、広告まで含めて、一つの大きな市場を作る。

現在の映画、アニメ、ゲーム、音楽などで当たり前になった仕組みの原型を見ることができる。

しかし、角川映画が人々の記憶に残った理由を販売戦略だけで説明するのも不十分だろう。

戦略が優れているだけなら、ここまで作品名が世代の記憶として残るとは限らない。

そこには市川崑、佐藤純彌、深作欣二、相米慎二、大林宣彦といった監督たちが作った映画そのものの力があり、薬師丸ひろ子や原田知世のような新しいスターの魅力があり、主題歌があり、そして角川文庫があった。

それぞれが独立した商品でありながら、全体として一つの時代の空気を作った。

これこそが角川映画の強さだった。

私たちは映画だけを見ていたのではなかった

1976年の『犬神家の一族』から始まった初期角川映画の黄金期について、KADOKAWAは1976年から1986年までの10年間を一つの時代として振り返っている。

わずか10年ほどである。

しかし、その10年間に作られた作品の題名を並べると、日本の1970年代後半から1980年代前半の文化史そのものを見ているようにも感じられる。

なぜ角川映画は若者を惹きつけたのか。

映画が面白かったから。

スターが魅力的だったから。

広告がうまかったから。

原作小説と映画を結び付けたから。

どれも正しい。

しかし、もう一つ理由を付け加えるなら、角川映画は若者に「次の作品を待つ楽しみ」を与えたからではないだろうか。

次はどんな映画なのか。

誰が主演するのか。

どんな音楽が流れるのか。

原作はどんな小説なのか。

その期待が、映画館、書店、レコード店、テレビ、ラジオをつないでいた。

今では一台のスマートフォンの中で完結してしまう情報や娯楽を、私たちは街のいくつもの場所を歩きながら探していた。

だから角川映画を思い出すとき、映画のスクリーンだけではなく、当時の書店や映画館、レコード店、街の風景まで一緒に浮かんでくる。

角川映画が若者を惹きつけた時代とは、映画が若者文化の中心にあり、本と音楽と街がまだ強く結び付いていた時代でもあったのである。

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田中康夫の『なんとなく、クリスタル』という題名を聞くと、1980年代のブランド文化を思い浮かべる人は多いだろう。

高価な洋服、洒落たレストラン、輸入車、洋楽、東京の街。若者たちが、何を着て、どこで食事をし、どんな音楽を聴くのかによって、自分自身を表現し始めた時代である。

しかし、この小説を単なる「1980年代の流行を並べた作品」と考えると、その重要な部分を見落としてしまう。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、ブランドそのものではない。

それまでとは違う「豊かさの中で生きる人間」の姿だった。

バブル経済より前に現れた新しい若者

『なんとなく、クリスタル』は1980年に第17回文藝賞を受賞した田中康夫のデビュー作である。当時、田中康夫は一橋大学の学生だった。作品は大きな反響を呼び、のちに発行部数100万部に達した。

重要なのは、この作品が書かれた1980年という時期である。

日本で一般に「バブル経済」と呼ばれる時代が本格化するのは、もう少し後になる。つまり『なんとなく、クリスタル』は、バブル時代を後から振り返って描いた作品ではない。

日本社会がこれから一段と消費社会へ向かっていこうとしていた、その入口に立って書かれた小説だった。河出書房新社も新装版を「日本がバブル経済に沸く直前の東京」を描いた作品として紹介している。

主人公の由利は、東京で暮らす女子大生であり、モデルでもある。

彼女の生活には大きな事件が起こるわけではない。恋愛をし、友人と会い、食事をし、音楽を聴き、服を選び、東京の街を移動する。

従来の小説から見れば、「何も起きない」とさえ言える生活である。

ところが田中康夫は、その何気ない日常そのものを小説の中心に置いた。

そこに、この作品の新しさがあった。

「何を考えるか」より「何を選ぶか」

それ以前の若者を描いた文学では、思想や政治、社会との対立、家族との葛藤、貧困、恋愛などが物語を動かす大きな要素になっていた。

ところが『なんとなく、クリスタル』の世界では、人間を形づくるものが少し違っている。

どのブランドを選ぶのか。

どの店へ行くのか。

どんな音楽を聴くのか。

どの街に住むのか。

つまり「何を考えている人間なのか」だけではなく、「何を選んでいる人間なのか」によって、その人の輪郭が作られていく。

これは1980年代以降の日本社会を考えるうえで、非常に象徴的な変化だった。

大量生産された同じ商品を多くの人が所有することが豊かさだった時代から、自分の感覚に合った商品や店や音楽を選び、それによって他人との差異を示す時代へ移ろうとしていたのである。

だから、この小説に登場する商品名や店名は単なる背景ではない。

それ自体が登場人物を説明する言葉になっている。

膨大な「註」は何のためにあったのか

『なんとなく、クリスタル』を特徴づけているものとして、本文以上に有名なのが膨大な註である。

作品には実在するブランド、レストラン、学校、地名、音楽などが次々と登場し、それらに442もの註が付けられている。

普通の小説なら、

「彼女は高級な服を着ていた」

と書けばよいところを、この作品では具体的なブランド名が出てくる。

しかし、そのブランドを知らない読者には、そこに込められた意味が分からない。

だから註が必要になる。

言い換えれば、この作品では商品や店についての「知識」そのものが、一種の文化的な暗号になっている。

知っている人には説明しなくても分かる。

知らない人には註釈が必要になる。

そして、その「知っている/知らない」という境界そのものが、当時の都市文化の一部分だった。

この構造は現在にも通じる。

今日なら、どのスマートフォンを使い、どのSNS(インターネット上で人間関係や情報を共有するサービス)を使い、どのカフェへ行き、どの動画配信サービスを見ているのかによって、ある程度その人の生活や価値観を想像できる。

『なんとなく、クリスタル』は、そのような社会が日本に現れ始めた瞬間を記録した作品でもあった。

「クリスタル」とは何だったのか

では、題名にある「クリスタル」とは何なのだろう。

もちろん、何か特定の商品を意味しているわけではない。

むしろ重要なのは「なんとなく」という言葉である。

絶対的な思想や信念によって行動するのではなく、「なんとなく気分がいい」「なんとなくこちらの方が好き」という感覚によって物や生活を選んでいく。

朝日新聞の田中康夫への取材記事でも、この作品は「なんとなく気分がいい」ことを買い物や行動の尺度にする若者の生き方を描いた作品として整理されている。

それまでの日本では、何かを選ぶときに「役に立つ」「長持ちする」「安い」といった実用的な価値が重視されてきた。

ところが経済的な豊かさが広がるにつれて、「自分の感覚に合う」「雰囲気がいい」「格好いい」といった価値が重要になっていく。

クリスタルとは、その新しい感覚を象徴する言葉だったと考えると分かりやすい。

実は「豊かな日本」を礼賛した小説ではない

この作品は、しばしばブランド志向の若者を描いた小説として語られる。

しかし、田中康夫がその生活を全面的に肯定していると読むのも少し違う。

作品を読んでいると、華やかな都市生活に対する奇妙な距離感がある。

ブランドを詳しく紹介しながら、そのブランドを選ぶ人間を観察している。

流行を知り尽くしているようでありながら、その流行そのものを少し離れた場所から眺めてもいる。

そのため、『なんとなく、クリスタル』は消費文化の内側から書かれた小説であると同時に、消費文化を観察した小説でもある。

ここが、この作品を単なる風俗小説にしなかった重要な部分だろう。

最後に突然現れる「人口」の話

そして『なんとなく、クリスタル』を現在から読み返したとき、最も興味深いのが作品の終わり方である。

華やかな東京の若者たちを描いた物語の最後に、突然、人口問題に関する公的資料が登場する。

そこでは、出生力の低下や高齢化に関する将来予測が示されている。作品末尾に人口問題審議会の報告や当時の厚生白書から人口動向を示す資料が置かれていたことは、後年の解説でも確認できる。

なぜ、ブランドと恋愛と音楽に囲まれた若者の物語の最後に、人口統計が出てくるのか。

ここに、この作品のもう一つの顔がある。

1980年の日本は、まだ「これからもっと豊かになる国」に見えていた。

しかし、その同じ時代に、出生率の低下と高齢化はすでに始まっていた。

目の前には新しい服があり、新しいレストランがあり、新しい音楽があり、消費社会は華やかになっていく。

その一方で、長期的に見れば日本社会の人口構造は静かに変化し始めている。

この二つを同じ作品の中に置いたことが重要なのである。

『なんとなく、クリスタル』が本当に描いたもの

そう考えると、この作品が描いたものは「1980年代のブランド生活」だけではない。

より正確に言えば、

日本人が「生きるために物を買う社会」から、「自分らしくあるために物を選ぶ社会」へ移っていく瞬間

だったのではないだろうか。

高度経済成長を経て、若者たちは親の世代より豊かになった。

海外の商品や音楽に触れ、自分の趣味で生活を組み立てることができるようになった。

自由になったのである。

しかし、その自由を何に使うのかという問いには、必ずしも明確な答えがない。

だから「なんとなく」なのである。

この言葉には、豊かさと同時に、どこか頼りなさも含まれている。

40年以上たった今だから分かること

1980年から40年以上が過ぎた現在、この小説に登場する店や商品を知らない読者も増えた。

その意味では、『なんとなく、クリスタル』は確かに時代を映した作品である。

しかし不思議なことに、その基本構造はそれほど古びていない。

ブランドが別のものに置き換わっただけで、私たちは今も「何を選ぶか」によって自分自身を表現しているからである。

服だけではない。

スマートフォン、クルマ、旅行先、食事、音楽、動画、SNS。

私たちは無数の選択を通じて、「自分はこういう人間である」という像を作っている。

その意味では、現在の私たちもまた、形を変えた「クリスタル」の時代を生きているのかもしれない。

ただし、1980年と現在には大きな違いがある。

当時の若者たちの背後には、「明日は今日より豊かになる」という日本社会全体の空気があった。

現在の私たちは、人口減少、高齢化、社会保障、地方の衰退といった問題が現実になった社会に生きている。

『なんとなく、クリスタル』の最後に置かれていた人口の話は、もはや未来予測ではない。

私たちが現在暮らしている社会そのものになった。

だからこそ、この小説は懐かしいだけでは終わらない。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、1980年の若者たちの華やかな生活であると同時に、豊かさの頂上へ向かって歩きながら、その先にある黄昏にはまだ気づいていなかった日本社会の姿だったのである。

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日本の戦後文学を読んでいると、実際には日本を舞台にしているにもかかわらず、その向こう側にアメリカが見えてくる作品がある。登場人物がアメリカへ行くわけでもなく、物語そのものがアメリカ社会を描いているわけでもない。それでも、自動車、オートバイ、道路、音楽、コーヒー、服装、会話の仕方、男女の距離といった細部を通して、日本とは少し違う生活の感覚が伝わってくる。

そのことを考えるとき、私には片岡義男と村上春樹という二人の作家が思い浮かぶ。

二人を「アメリカの影響を受けた日本人作家」という一言でまとめることはできる。しかし、それではあまりにも大ざっぱである。二人の作品に現れるアメリカは、同じものではないからだ。

片岡義男の小説に感じられるアメリカは、道路の向こう側にあり、オートバイや自動車とともに移動する。それに対して村上春樹の文学では、アメリカは必ずしも遠くにある国として登場しない。音楽や小説や言葉のリズムを通して、日本で暮らしている人物の内側にまで入り込んでいる。

同じアメリカを見ていながら、片岡義男はそこへ向かって走り、村上春樹はそこから言葉を取り込み、日本語の文学そのものを組み替えていったように見える。

この違いを考えると、戦後の日本人にとって「アメリカ」とは何だったのかも、少し違って見えてくる。

高校生だった私に片岡義男が運んできたアメリカ

私は高校生の頃、太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成といった作家とともに片岡義男を読んでいた。

現在から考えると、この組み合わせは少し不思議に見えるかもしれない。しかし当時の高校生にとって、文学史上の作家と同時代の人気作家が明確に別々の棚に存在していたわけではない。書店の文庫本の棚には過去と現在が同時に並んでいて、こちらもそれほど厳密に区別せずに読んでいた。

そのなかで片岡義男は、太宰や三島とは明らかに違った方向へ私を連れていった。

そこにあったのは、自分の内面を掘り下げていく文学というより、外へ向かって移動していく感覚だった。道路があり、オートバイがあり、自動車があり、海があり、音楽があり、男女が出会う。人間の心理を長く説明するよりも、人物がどこにいて、何をして、何を身につけ、何に乗っているのかによって、その人の生き方が伝わってくる。

以前の記事「片岡義男の小説が運んできた、昭和のアメリカ」でも考えたように、そこにあったのは現実のアメリカそのものというより、昭和の日本人がアメリカに重ねていたイメージだった。

自由、移動、乾いた風景、個人主義、男女の対等な距離、そして日本の生活とは少し違う軽さ。

もちろん、現実のアメリカ社会がそのような単純な場所でなかったことは言うまでもない。人種問題も貧困も政治的対立もあり、アメリカを自由な社会としてのみ捉えることはできない。

しかし文化は、必ずしも外国の現実をそのまま輸入するわけではない。外国について断片的に得た情報から、その時代の人々が自分たちなりの外国像を作り上げることがある。

片岡義男の作品に現れるアメリカは、そのような「日本から見たアメリカ」の一つだったのだと思う。

片岡義男のアメリカは「風景」として見える

片岡義男を考えるとき、私が特に重要だと思うのは、アメリカ的なものが目に見える形で現れやすいことである。

オートバイ、自動車、ジーンズ、道路、海岸、飲み物、音楽、カメラといったものが、単なる小道具ではなく人物の生き方と結びつく。

たとえばオートバイは、ある地点から別の地点へ移動するためだけの機械ではない。それに乗るという行為そのものが、一人でいること、自分で行き先を決めること、都市から離れること、誰かと出会い、また別れることとつながっていく。

自動車も同じである。

日本の文学では、家や学校や会社といった固定された場所が人間関係の舞台になることが多かった。しかし自動車の中では、人は家庭にも会社にも完全には属していない。

移動している途中にいる。

この「途中にいる」という感覚は、片岡義男の文学に感じるアメリカを理解するうえで重要なのではないかと思う。

そこでは人間は共同体から少し離れ、自分自身の意思で動くことができる。

だから片岡義男が描いたアメリカ的世界は、思想として説明される前に風景として見える。

道路の向こうへ行けそうだという感覚そのものが、一つの自由を表していた。

村上春樹のアメリカは、少し違う場所にある

村上春樹にも、アメリカ文化との深い関係がある。

村上は1979年に『風の歌を聴け』でデビューし、その後、小説を書く一方で翻訳を継続してきた。新潮社の著者紹介でも、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラーなど、多くの英語圏作家を翻訳してきたことが確認できる。

本人も翻訳について「主として現代アメリカ小説」を長年訳してきたと述べており、アメリカ文学との関係は単なる読書上の趣味ではなく、作家活動のもう一つの大きな柱になっている。

ここからすでに、片岡義男との違いが見えてくる。

片岡義男の作品では、アメリカ的なものが外側の世界として見えやすい。それに対して村上春樹の場合、アメリカ文学は日本語の文章を書く行為そのものにまで入り込んでいる。

『パリ・レビュー』のインタビューでも、村上文学とアメリカのポピュラー文化との強い関係が論じられ、村上自身がフィッツジェラルド、カポーティ、カーヴァーなどを翻訳してきたことが語られている。

つまり村上春樹にとってアメリカとは、物語のなかに登場させる外国文化である以前に、文章を作るための一つの言語的経験でもあったと考えることができる。

「アメリカを見る」のと「アメリカを通して日本語を書く」の違い

ここに二人を比較するうえで最も興味深い違いがある。

片岡義男の場合、日本の若者がアメリカ文化を見る。

村上春樹の場合、アメリカ文学を通して日本語そのものを見る。

もちろん、この区別は完全なものではない。片岡義男にも言葉への鋭い感覚があり、村上春樹の作品にも自動車、音楽、服装、食べ物など具体的な生活文化が数多く登場する。

それでも、重心は違うように思える。

片岡義男を読むと、人物が何に乗り、どこへ行き、どのように人と関わるのかという外側の動きが印象に残る。

村上春樹を読むと、日常生活のなかに音楽や外国文学や料理や酒が自然に入り込み、それらが人物の孤独や記憶や喪失と結びついている。

アメリカが「向こう側」にあるのではない。

すでにこちら側の生活に入り込んでいる。

これが二人の大きな違いではないだろうか。

片岡義男には道路があり、村上春樹には部屋がある

二人の違いをかなり単純化するなら、片岡義男には道路があり、村上春樹には部屋がある、と表現することもできる。

ただし、これは作品を二分するための分類ではない。二人の文学に漂う方向性を考えるための比喩である。

片岡義男の人物は移動する。

道路を走り、都市を離れ、海へ向かい、別の場所へ行く。その移動のなかで男女が出会い、関係が生まれ、やがてそれぞれの方向へ進んでいく。

一方、村上春樹の人物には、部屋で音楽を聴き、料理をし、本を読み、電話を受け、何かを考えている姿がよく似合う。

そこにもアメリカ文化は存在する。

しかしそれは巨大な星条旗のように目立って存在するわけではない。レコードや小説やウイスキーの名前として、あるいは文章の呼吸として、静かに日常へ埋め込まれている。

この違いは、戦後日本におけるアメリカ文化の受け入れ方の変化とも重なっているように思う。

アメリカが「憧れ」から「日常」へ変わっていく

戦後しばらくの日本にとって、アメリカは圧倒的に大きな存在だった。

政治や軍事だけではなく、映画、音楽、ファッション、家電、自動車、食生活などを通して、アメリカ式の生活は豊かさや新しさと結びついて見えることがあった。

しかし高度経済成長を経て日本が豊かになり、1970年代から1980年代へ進むにつれ、アメリカ文化との距離は少しずつ変化していく。

外国映画を見ることも、ロックやジャズを聴くことも、ジーンズを履くことも、コーヒーを飲むことも、特別な行為ではなくなっていった。

アメリカ文化は、遠くから眺めるものだけではなく、日本の日常生活の一部になっていく。

片岡義男と村上春樹の違いは、この変化を考える材料にもなる。

片岡義男の世界では、まだアメリカ的な生活様式そのものに新鮮さがある。

オートバイで移動すること、男女が互いに自立していること、乾いた会話を交わすこと、持ち物や服装によって個人のスタイルを示すことが、それまでの日本的生活とは違うものとして見える。

ところが村上春樹になると、それらの文化はすでに説明する必要さえないほど生活の内部へ入っている。

ジャズを聴く人物が出てきても、それだけで「アメリカ人のような人物」を意味するわけではない。

アメリカ文化を取り入れているという意識さえ薄くなり、日本の日常のなかに異文化が普通に存在している。

それは日本がアメリカ化したという単純な話ではなく、文化の境界そのものが曖昧になったということなのだろう。

音楽の役割も二人では少し違う

音楽は、二人を比較するときにも興味深い。

片岡義男の世界では、音楽はオートバイや自動車や服装と同じように、生活のスタイルを構成する要素として見えてくる。

何を聴いているかは、その人物がどのような世界に属しているかを示す。

これに対して村上春樹の作品では、音楽は人物の記憶や時間とより深く結びついていく。

一つの曲を聴くことによって過去が戻り、失われた人物や時間が現在へ入り込んでくる。

したがって同じアメリカ音楽であっても、それが物語の中で果たす役割は必ずしも同じではない。

片岡義男では音楽が「どのように生きるか」というスタイルに近づき、村上春樹では「どのように記憶するか」という内面に近づいていく。

こう考えると、外側と内側という二人の違いが、音楽の扱いにも現れているように見える。

二人とも「日本から逃げた作家」ではない

アメリカとの関係を強調しすぎると、もう一つの誤解が生まれる。

片岡義男も村上春樹も、日本的なものを嫌い、アメリカへ逃げようとした作家だったという見方である。

これは単純すぎると思う。

むしろ二人が行ったのは、外国文化を利用して日本を違う角度から見ることだったのではないだろうか。

外国を見ることによって、自分が暮らしている社会の特徴が見えてくることがある。

日本の家族、日本の男女関係、日本の会社、日本の集団、日本語の文章。

そのなかにずっといると当たり前に見えるものでも、別の文化と比較すると急に輪郭が現れる。

片岡義男が描く男女の距離や移動の自由さが新鮮に感じられたのは、それを読む側が同時に日本社会の人間関係を知っていたからである。

村上春樹の文章が従来の日本文学と違って感じられたのも、それ以前の日本語小説の文体が読者の中に存在していたからだろう。

アメリカは日本を消すために使われたのではなく、日本を別の角度から見るための鏡になったのである。

片岡義男の「軽さ」と村上春樹の「軽さ」

二人には、もう一つ共通して語られやすい言葉がある。

それが「軽さ」である。

片岡義男の文章や人物関係には、従来の日本文学にあった重苦しい心理説明とは違う軽さを感じることがある。

村上春樹も、デビュー当時から、それまでの純文学とは異なる会話や文章のリズムを持った作家として受け止められてきた。

しかし、この二つの軽さも同じものではない。

片岡義男の軽さは、人物を過度に共同体へ縛りつけないところから生まれているように思う。

人は出会うが、永遠に相手を所有しようとはしない。

場所を離れれば、関係も変化する。

その軽さは、移動することのできる身体の軽さでもある。

一方で村上春樹の軽さは、深刻な問題を深刻な言葉だけで語らないことにある。

孤独や喪失や死といった重い題材があっても、文章そのものが必要以上に感情を説明しない。

日常的な行動や音楽や食事の描写の間から、少しずつ重いものが現れてくる。

だから表面が軽いからといって、内容まで軽いとは限らない。

この点でも二人は似ているようで違っている。

アメリカを描きながら、二人が描いていたのは日本だった

結局のところ、片岡義男と村上春樹が描いてきたものを「アメリカ文学的」とだけ呼ぶと、大切なものが抜け落ちてしまう。

二人が書いていたのは日本語であり、その読者の多くも日本で暮らしていた。

だから作品に現れるアメリカ的なものは、常に日本との関係のなかで意味を持つ。

片岡義男の道路が魅力的に見えるのは、日本社会の固定された人間関係から離れられる可能性を感じさせるからである。

村上春樹の人物が一人で音楽を聴き、料理をし、自分の時間を守る姿が印象に残るのも、日本社会における集団と個人の関係を私たちが知っているからだろう。

アメリカを描くことによって、二人はむしろ「日本人が個人として生きるとはどういうことなのか」を別々の方法で考えていた、と見ることもできる。

ここで二人は意外なところで近づく。

片岡義男の人物も、村上春樹の人物も、集団の中心で大声を上げる人物ではない。

自分の好きなものを持ち、自分の時間を持ち、必要以上に他人へ入り込まない。

その人物像には、戦後日本が少しずつ発見していった「個人」というものが映っているように思える。

道路の向こうにあったアメリカと、すでに自分の中にあるアメリカ

高校生だった私に、片岡義男の小説はそれまでとは違う方向の風景を見せた。

そこには道路があり、オートバイや自動車があり、音楽があり、海があった。

それはアメリカそのものではなかった。

昭和の日本から見たアメリカだった。

しかし若い読者にとって、現実のアメリカと完全に一致している必要はなかったのだと思う。

重要だったのは、自分が暮らしている場所とは違う生き方があるかもしれない、と想像できることだった。

村上春樹になると、そのアメリカはさらに近くなる。

外国へ向かって走る必要さえない。

アメリカ文学を読み、翻訳し、ジャズやロックを聴き、その感覚を日本語の文章へ持ち込むことで、国境は文学の内部で越えられていく。

だから二人が描いた「アメリカ」の違いを一言で表すなら、片岡義男のアメリカは道路の向こう側に見えるアメリカであり、村上春樹のアメリカはすでに自分の内側に入り込んでいるアメリカなのかもしれない。

前者には、まだ知らない世界へ出ていく魅力がある。

後者には、外国文化と日本文化を分けること自体が次第に難しくなっていく時代の感覚がある。

そして二人のあいだにあるこの違いは、単なる作家の個性だけではなく、戦後の日本人とアメリカ文化との距離が変化していった過程とも重なっている。

かつてアメリカは、海の向こうにある巨大な外国だった。

やがて映画や音楽や商品を通して身近になり、さらに文学や言葉の中へ入り込んでいった。

片岡義男と村上春樹を続けて読むと、その変化が二人の作品の向こう側に見えてくる。

文学とは、作家が物語を作るだけのものではない。

一つの時代が外国をどのように見ていたのか、そして外国を見ることによって自分たち自身をどのように見直したのかを残すものでもある。

片岡義男と村上春樹が描いた二つの「アメリカ」の間には、昭和から平成へと移っていった日本人の感覚の変化も、静かに記録されているように思う。

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『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化

1980年代の若者文化を振り返ろうとすると、音楽なら松田聖子やサザンオールスターズ、YMO(Yellow Magic Orchestra・日本のテクノポップを代表する音楽グループ)、自動車ならソアラやプレリュード、ファッションならDCブランド(Designer and Character Brands・デザイナーやブランドの個性を前面に出したファッションブランド群)といった名前が次々に出てくる。

しかし、その時代を実際に生きた若者が、何を格好いいと思い、どんな服を着て、どんな店へ行き、どんな音楽を聴き、異性とどう付き合えばいいと考えていたのかを知ろうとすると、個々の商品や流行だけを並べても十分ではない。

そこには、若者に向かって「いまはこれが格好いい」「こういうものを知っている男になったほうがいい」と教える媒体が存在していた。

その一つが、講談社の『Hot-Dog PRESS』だった。

『Hot-Dog PRESS』は1979年に創刊された若年男性向けの情報誌である。ファッション、音楽、商品、遊び、恋愛など、若い男性の生活に関わるさまざまなテーマを扱い、1980年代から1990年代にかけて大きな存在感を持った。とりわけ後年まで語られるのが、「デート・マニュアル」としての側面である。

だが、『Hot-Dog PRESS』を単なる恋愛指南雑誌として片づけてしまうと、この雑誌が1980年代の若者文化に果たした役割のかなりの部分を見失う。

この雑誌が若者に教えていたのは、女の子との付き合い方だけではなかった。

むしろ重要だったのは、若い男性に対して「青年としての生活様式」そのものを提示したことである。

若者が自分で情報を探さなければならなかった時代

現在なら、服を買おうと思えばインターネットで検索できる。レストランを探すことも、映画の評判を調べることも、知らないブランドについて調べることも難しくない。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で情報を発信し交流するサービス)を開けば、他人が何を着て、何を食べ、どこへ出かけているのかまで大量に流れてくる。

1980年代には、そのような情報環境は存在しなかった。

もちろんテレビも新聞もラジオもあった。しかし、それらは若者一人ひとりに向かって、「今度のデートではどこへ行けばいいのか」「どんな服を着ればいいのか」「どんな時計を持つと格好いいのか」まで教えてくれる媒体ではない。

そこで大きな役割を果たしたのが雑誌だった。

『POPEYE』『MEN'S CLUB』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』など、それぞれ性格の異なる雑誌が若者に情報を届けていた。そのなかで『Hot-Dog PRESS』は、商品情報とファッションと恋愛と遊びを比較的近い場所に置いた。

ここが重要だったと思う。

服は服、音楽は音楽、自動車は自動車、恋愛は恋愛というように、それぞれを独立した趣味として扱うのではない。それらを一つに組み合わせて、「こういう生活をする若者が格好いい」というモデルを作ったのである。

つまり雑誌を一冊読むことによって、自分がまだ知らない世界の輪郭を見ることができた。

その意味で雑誌は情報源であると同時に、若者にとって一種の教科書でもあった。

『Hot-Dog PRESS』は「青年になる方法」を教えていた

少年から青年へ移るとき、人は急に大人になるわけではない。

高校生や大学生になったからといって、どんな服を選べばいいのかが突然分かるわけでもなければ、女性との付き合い方が分かるわけでもない。レストランの選び方も、自動車の知識も、時計やオーディオや酒についての知識も、最初から持っているわけではない。

家庭や学校が教えてくれる範囲にも限界がある。

学校は数学や国語を教えてくれるが、デートでどこへ行けばよいのかまでは教えてくれない。

親から受け継ぐ生活文化もあるが、1980年代の若者が求めた新しいファッションや音楽や都市文化について、親世代が必ずしも詳しかったわけではない。

その空白を雑誌が埋めた。

『Hot-Dog PRESS』を読むという行為には、単に新商品を知ること以上の意味があったのではないか。

そこには「大人になる前の予習」という側面があった。

何を着るのか。

何を持つのか。

どこへ行くのか。

何を聴くのか。

そして女性とどう付き合うのか。

現在から見ると奇妙に思えるほど、1980年代にはこうした事柄を雑誌から学ぶ文化が成立していた。

「モノを知っていること」が青年の教養だった

1980年代の青年文化を考えるうえで、もう一つ見逃せないものがある。

それは商品について知っていることそのものが、一種の教養になっていたことである。

時計、スニーカー、ジーンズ、ジャケット、オーディオ、自動車、バイク、カメラ。

ブランドや型番を知り、違いを説明できることには、それなりの意味があった。

現在から見ると単なる消費文化のようにも見える。

実際、批判的に考えれば、『Hot-Dog PRESS』を含む若者雑誌が消費を刺激する役割を果たしていたことは否定できない。格好いい若者になるためには、この服、この時計、この店、この自動車が必要だというメッセージは、企業の商品販売とも極めて相性がよかった。

しかし、そこだけで評価すると1980年代の青年文化を単純化しすぎる。

雑誌を読んだからといって、紹介された商品をすべて買えるわけではなかった。

むしろ、多くの若者にとって雑誌に載っている商品は「見るもの」でもあった。

高校生ならなおさらである。

高価な時計や自動車を購入できるわけではない。それでも写真を眺め、メーカー名を覚え、いつか欲しいと思う。その過程で、自分なりの好みが形成されていく。

消費とは、必ずしも購入だけではない。

何を欲しいと思うかもまた文化なのである。

『Hot-Dog PRESS』は、その「欲しいと思うもの」の体系を作る雑誌でもあった。

ファッションは服ではなく、自己紹介だった

1980年代の若者向け雑誌にとって、ファッションは重要なテーマだった。

しかし、そこで扱われていたファッションは単に防寒のための衣服ではない。

どんな服を選ぶかによって、その人がどんな人物なのかを表現する。

現在ならごく普通の考え方に見えるが、若者が自分自身のアイデンティティーを商品やブランドによって表現する文化が急速に広がった時代として1980年代を見ると、その意味はかなり大きい。

雑誌は商品を紹介しながら、同時に人物像を提示する。

この服を着る男。

この靴を履く男。

この音楽を聴く男。

この自動車に乗る男。

そこから、一つの青年像が作られていく。

そして読者は、それをそのまま真似する場合もあれば、自分には合わないと思う場合もあっただろう。

重要なのは、比較する対象が与えられたことである。

人は何もないところから自分のスタイルを作ることは難しい。

誰かが示した型を見て、それを真似したり、少し変えたり、ときには拒否したりしながら、自分の好みを作っていく。

雑誌は、そのための巨大な見本帳だった。

デートまで「方法」が必要になった

『Hot-Dog PRESS』について現在まで最も強く記憶されているのは、やはり恋愛やデートを扱った記事だろう。同誌が若者の「デート・マニュアル」として一時代を築いたことは、後年の紹介でも繰り返し言及されている。

なぜ恋愛にマニュアルが必要だったのだろう。

考えてみれば不思議である。

好きな人がいれば話しかければよい。二人で行きたい場所へ行けばよい。それだけなら、雑誌が教える必要はない。

しかし1980年代になると、デートは単に男女が会う行為ではなくなっていた。

どこで待ち合わせるのか。

どんな店へ行くのか。

何を着ていくのか。

どのように誘うのか。

どんな話題を選ぶのか。

都市化と消費社会の発達によって選択肢が増えた結果、逆に「正解が分からない」という状況が生まれた。

選択肢が少なければ、人はそれほど迷わない。

選択肢が増えると、選ぶための情報が必要になる。

『Hot-Dog PRESS』が支持された背景には、この構造があったのではないかと思う。

携帯電話のなかったデート

ここには現在との決定的な違いもある。

携帯電話もスマートフォンも普及していない時代のデートでは、待ち合わせそのものが現在より重い意味を持った。

約束した場所へ決められた時間に行かなければならない。

相手が遅れても、外出してしまえば簡単には連絡できない。

現在のように「10分遅れます」とメッセージを送ることもできない。

後年、『Hot-Dog PRESS』のデート文化を振り返る記事でも、こうした携帯電話以前の待ち合わせ事情が紹介されている。

この違いは単なる技術の差ではない。

人間関係の作り方そのものが違っていた。

相手の行動がリアルタイムで見えない。

既読もない。

位置情報もない。

だから雑誌が提供する「どう振る舞えばいいのか」という情報には、現在とは違う切実さがあった。

都市を知らない若者に、都市を教えた

もう一つ、『Hot-Dog PRESS』のような雑誌の重要な役割として考えたいのが、東京を中心とする都市文化を全国へ運んだことである。

これは1980年代の雑誌文化全体にいえることでもある。

地方に住んでいても雑誌は買える。

東京の店へすぐ行くことはできなくても、その店が存在することは知ることができる。

原宿、渋谷、青山、六本木といった地名が、単なる地理上の名称ではなく、ファッションや音楽や遊びと結びついた文化的記号になっていく。

これは、片岡義男の小説を通して昭和の若者が「アメリカ」を想像したことと、どこか似ている。

実際のアメリカへ行かなくても、小説、映画、音楽、雑誌を通してアメリカを想像できる。

同じように地方の若者は、東京に住んでいなくても雑誌を通して東京を想像することができた。

その東京が現実の東京と完全に一致していたかどうかは、それほど重要ではない。

重要なのは、雑誌のなかに「行ってみたい世界」が存在していたことである。

北方謙三という、もう一つの顔

『Hot-Dog PRESS』の文化を考えるとき、商品やデートだけでは語れない人物がいる。

作家の北方謙三である。

北方は1980年代から長期間にわたり『Hot-Dog PRESS』で若者の人生相談を担当した。後年、新潮社も北方の若者へのメッセージを語る際、この連載を代表的な仕事の一つとして振り返っている。

ここにも、この雑誌の性格がよく表れている。

若者が知りたかったのは服や自動車だけではなかった。

恋愛、仕事、将来、自信のなさ、人間関係。

青年期には、いくらでも悩みが生まれる。

その相談に対して作家が答える。

雑誌は商品カタログであると同時に、人生について考える場所でもあった。

もちろん、そこで示される男性像には明らかに時代性がある。

強い男、決断する男、女性をリードする男。

現在の価値観から見れば違和感を持つ部分もあるだろう。

しかし、それも含めて1980年代なのである。

文化を振り返るということは、現在の価値観に合う部分だけを選んで懐かしむことではない。

当時どのような男性像が支持されていたのかを見ることも、時代を理解するためには必要だ。

『Hot-Dog PRESS』は本当に若者文化を「作った」のか

ここまで書いてくると、一つ疑問が生じる。

本当に『Hot-Dog PRESS』が若者文化を作ったのだろうか。

雑誌が若者に命令し、その通りに若者が行動していたという説明なら単純すぎる。

若者文化は雑誌だけから生まれたものではない。

テレビ、ラジオ、映画、レコード、ファッションブランド、自動車メーカー、百貨店、広告、大学、繁華街、ディスコなど、無数の要素が相互に影響していた。

雑誌はその一部である。

しかし、雑誌にはそれらを一つの誌面に集める力があった。

音楽を聴き、自動車に乗り、服を選び、女性とデートする。

本来別々だった行為を一つのライフスタイルとして編集する。

ここに雑誌の大きな力があった。

だから「作った」という言葉を、何もないところから文化を発明したという意味で使うのは適切ではない。

むしろ社会のなかに生まれていたさまざまな欲望や流行を集め、それを「これが現在の若者だ」という形に編集し、再び若者へ返した。

その循環によって文化を強めた。

それが『Hot-Dog PRESS』の役割だったのではないかと思う。

情報が少なかったから、雑誌の影響力が大きかった

現在は情報が多すぎる時代である。

検索すれば何万件もの情報が出てくる。

動画を見れば誰かが商品を紹介している。

SNSを開けば無数のファッションを見ることができる。

その代わり、一つの媒体が若者全体の価値観に強い影響を与えることは難しくなった。

1980年代は逆だった。

情報源が現在より限られていたため、一冊の雑誌が持つ影響力は大きかった。

本屋へ行き、雑誌を買い、最初のページから最後のページまでめくる。

興味のない記事まで目に入る。

これはインターネット検索との大きな違いである。

検索では、自分が知りたい情報を探す。

雑誌では、自分が知ろうとも思っていなかった情報に出会う。

ファッションの記事を読むつもりだったのに自動車の記事を読み、音楽の記事を読み、作家の文章を読む。

その偶然性が、一人の若者の興味を広げていく。

雑誌文化には、そのような力があった。

1980年代を美化する必要はない

だからといって、雑誌の時代が現在より優れていたと結論づける必要はない。

情報を得る方法についていえば、現在のほうが圧倒的に便利である。

地方に住んでいても海外の情報を直接調べることができる。商品価格を比較し、利用者の評価を読み、自分に合ったものを選択できる。

1980年代の雑誌が示した価値観には、商業主義もあった。

高価な商品を持つことが格好よさと結びつきやすく、男性と女性の役割にも固定的な考え方が残っていた。

誰もが雑誌の提示する青年像に当てはまったわけでもない。

そこを忘れて1980年代を「良い時代だった」とだけ語れば、単なる懐古趣味になってしまう。

それでも『Hot-Dog PRESS』を振り返る意味があるとすれば、そこには現在とは違う「青年になる仕組み」が見えるからである。

一冊の雑誌のなかに、青年の世界があった

1979年に創刊された『Hot-Dog PRESS』は、2004年にいったん休刊した。その後2014年にデジタル媒体として復活したとき、想定された読者の中心は、かつて若者として雑誌を読んでいた世代だった。

この事実は象徴的である。

若者のための雑誌だったものが、年月を経て、その若者たち自身の過去を呼び戻す媒体になった。

雑誌のページに載っていた服の多くはもう流行ではない。

紹介された店も、自動車も、オーディオも変わった。

デートの方法も変わった。

待ち合わせ場所で相手を30分待つような経験さえ、スマートフォンの時代には少なくなった。

それでも雑誌を開いた経験が消えるわけではない。

なぜなら、そこに載っていたのは商品だけではなかったからだ。

「大人になったらこんな生活をしてみたい」

「こんな服を着てみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

という、まだ経験していない未来が載っていた。

若者向け雑誌とは、未来の生活を先に見るための媒体でもあったのである。

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化とは、特定のファッションやデート方法だけではない。

情報を集め、モノを選び、都市に憧れ、異性との関係に悩みながら、自分がどんな大人になりたいのかを考える文化だった。

一冊の雑誌のなかに、青年になるための世界がほとんど丸ごと入っていた。

いま同じ役割を一冊の雑誌に求めることは、おそらく難しい。

だからこそ『Hot-Dog PRESS』を振り返ることは、一つの雑誌を懐かしむだけではなく、若者が雑誌によって自分の未来を想像することのできた時代そのものを振り返ることになるのだと思う。

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~日本文学でありながら、国境を越えて読まれる理由を考える~

日本の作家でありながら、世界の多くの国で名前を知られている作家がいる。村上春樹である。

村上春樹の作品は、現在では50を超える言語に翻訳され、アジア、ヨーロッパ、北米をはじめ、さまざまな地域で読まれている。日本で人気のある作家が外国語に翻訳されること自体は珍しくないが、村上春樹の場合は、単に「日本の有名作家が海外でも紹介されている」という段階を越えている。国によって読者層は異なり、作品の受け止め方も違う。それでも長く読み継がれ、新作が出れば世界各地で話題になる作家になっている。

なぜなのだろう。

日本文化への関心が高いからなのか。翻訳に恵まれたからなのか。文章が読みやすいからなのか。それとも、世界の読者が共感できる何かが作品の中にあるからなのか。

おそらく、そのどれか一つでは説明できない。

村上春樹の小説には、日本で書かれた文学でありながら、日本社会について詳しい知識を持たなくても作品の中へ入っていける特徴がある。その一方で、物語の中心には孤独や喪失、自分が自分であることへの違和感、他人との距離といった、人間が国籍に関係なく抱きうる感情が置かれている。

そして、そこには音楽があり、食事があり、仕事があり、恋愛があり、都市生活がある。極めて日常的な生活が続いていると思うと、そのすぐ隣に説明のつかない世界が開く。

この現実と非現実の混ざり方に、村上春樹が世界で読まれる理由の一つがあるのではないかと思う。

日本を説明しなくても読める日本文学

外国文学を読むとき、その国の歴史や宗教、社会制度についての知識がないために、作品へ入りにくいことがある。

私自身、高校生のころにフランス文学やロシア文学へ挑戦したことがあるが、作品そのものの難しさに加えて、そこに描かれている社会の仕組みや階級、宗教観、人物の複数の呼び名などが理解を難しくした。

その経験から考えると、村上春樹の小説には、外国人読者にとって比較的入りやすい部分があるように思う。

登場人物は音楽を聴く。食事を作る。コーヒーを飲む。本を読む。仕事をする。誰かからの電話を待つ。失われた人を思い出す。

もちろん舞台は日本であり、日本社会の中で人物は生活している。しかし、それらの日常は、日本にしか存在しないものではない。

ニューヨークでもロンドンでもパリでも、あるいは上海でもソウルでも、人は一人で食事をし、音楽を聴き、誰かを思い出す。

つまり、村上作品には、読者が自分の生活から物語へ入っていける入口がある。

外国文学を読むときに必要になることのある「まずその国を理解しなければならない」という壁が、比較的低いのである。

だからといって、村上春樹の文学が日本的でないということではない。

むしろ重要なのは、日本社会の中にいる人物を描きながら、そこに普遍的な生活感覚が存在していることではないだろうか。

西洋文化の影響だけでは説明できない

村上春樹については、しばしば「西洋的な作家」という評価がなされる。

実際、作品の中にはジャズやクラシック音楽、ロックなどが頻繁に登場する。外国文学への言及も多く、本人自身が英語圏文学から強い影響を受けてきたことも知られている。

しかし、「西洋的だから西洋でも読まれた」と考えるだけでは、説明としては不十分である。

もし外国文化を取り入れるだけで世界的な作家になれるのであれば、同じことをしている作家は世界中に数多く存在するはずだからである。

村上春樹の場合に興味深いのは、西洋文化を異物として描くのではなく、日本の日常生活の中へ自然に置いているところだと思う。

登場人物がジャズを聴いていても、それは外国文化を紹介するためではない。クラシック音楽について語っていても、教養を示すためだけに登場するわけではない。それらは人物の生活の一部として存在している。

考えてみれば、現在の私たちの生活そのものがそうである。

日本人がアメリカの音楽を聴き、ヨーロッパの映画を見て、外国製のコンピューターを使い、海外の情報に日常的に接する。

同時に、外国の人々も日本のアニメや小説に触れ、韓国の音楽を聴き、世界中の文化を混ぜながら生活している。

現代社会では、文化はすでに国境できれいに分かれてはいない。

村上春樹の小説は、そうした時代の生活感覚をかなり早い段階から文学の中に取り込んでいたのではないかと思う。

孤独は国境を越える

しかし、文化的に入りやすいというだけなら、村上作品がこれほど長く世界で読まれている理由にはならない。

もっと重要なのは、物語の中心に置かれている人間の問題である。

村上春樹の小説には、孤独な人物がしばしば登場する。

ただし、その孤独は社会から完全に排除された人間の孤独とは限らない。

仕事を持っている。住む場所もある。恋人や配偶者がいることもある。日常生活も送っている。それでも、どこか世界と完全にはつながっていない。

周囲と普通に会話をしながら、自分だけが少し別の場所にいるように感じる。

誰かを失った記憶が残っている。

過去の出来事から完全には離れられない。

自分は何者なのかと考える。

この感覚は、日本人だけのものではない。

むしろ、都市化が進み、人間関係が複雑になった現代社会では、多くの国の読者が理解できる感情ではないだろうか。

大勢の人に囲まれていても孤独を感じることがある。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と交流し情報を発信するサービス)で多くの人と接続していても、心の距離が縮まるとは限らない。

社会が便利になれば、人間の孤独が自動的に消えるわけでもない。

むしろ、社会との接続が増えるほど、自分自身の内側にある孤独がはっきり見える場合もある。

村上春樹の小説には、そのような現代人の感覚が繰り返し現れる。

だから読者は、作品の舞台が日本であっても、自分自身の問題として読むことができるのだと思う。

日常のすぐ隣に、別の世界がある

村上春樹の小説を特徴づけるものの一つが、現実と非現実の境界の曖昧さである。

主人公は普通に生活している。

朝起きて、食事をし、音楽を聴き、仕事をする。

ところが、その日常の中に突然、説明のできない出来事が入り込んでくる。

現実には存在しないような場所へ行くこともある。夢と現実の境界が曖昧になり、不可解な人物と出会うこともある。

しかし、それらは完全なファンタジー世界として切り離されてはいない。

あくまでも現実の続きとして現れる。

昨日まで普通だった世界の床板が一枚外れ、その下に別の世界があることに気づくような感覚である。

この構造もまた、国境を越えやすい。

特定の宗教や神話について詳しい知識を持っていなくても、「今、自分が見ている世界だけが本当なのだろうか」という感覚は理解できるからである。

人間は現実の中で生きているが、頭の中では常に記憶や想像、夢と一緒に生きている。

過去に起きたことを現在の出来事のように思い出すこともある。

存在しない未来について不安になることもある。

現実だけで人間の内面を説明することはできない。

村上春樹の小説は、その内面を異世界や夢のような形にして見せているとも考えられる。

音楽が作品の中に流れている

村上春樹の作品について語るとき、音楽を無視することはできない。

ジャズ、クラシック、ロックなど、多くの音楽が作品の中に登場する。

興味深いのは、この音楽が世界の読者をつなぐ共通の記号になることである。

日本語の文章は、外国の読者が読むためには翻訳されなければならない。

しかし、作品の中に登場する音楽そのものは翻訳する必要がない。

日本の登場人物が聴いている曲を、アメリカの読者も知っているかもしれない。ヨーロッパの読者も同じ演奏家を聴いているかもしれない。

すると、日本語で書かれた小説の中に、読者がすでに知っている世界が現れる。

これは作品への距離をかなり縮める。

また、音楽は単なる固有名詞ではなく、作品の時間や感情を作る役割も持っている。

文章を読みながら、読者の頭の中では音が鳴る。

本来、文字だけで作られている小説の中に、音楽によるもう一つの層が生まれる。

この感覚も、村上作品の独特な読みやすさと世界性に関係しているように思う。

翻訳されても残りやすい文章

世界文学として広がるためには、当然ながら翻訳が必要になる。

村上春樹の作品が多くの言語で読まれているということは、作品そのものの魅力だけでなく、それを別の言語へ移した翻訳者の仕事があって初めて成立する。

ただ、それと同時に、村上春樹の文章には、他言語に移しても一定の骨格を保ちやすい特徴があるのではないかとも思う。

文章は比較的明確で、過度に古典的な日本語表現に依存していない。

難しい修辞を幾重にも重ねるというより、比較的平明な文章を積み上げながら独特のリズムを作る。

もちろん、日本語で読む場合と英語やフランス語で読む場合とが同じであるはずはない。

翻訳は必ず何かを変える。

しかし、孤独や喪失という主題、人物の会話、音楽、食事、都市生活、現実と異世界の境界といった作品の大きな構造は、言語が変わっても比較的残りやすい。

さらに、村上春樹自身が長く翻訳を行ってきた作家であることも興味深い。

自分の文章を書く一方で、別の言語で書かれた文学を日本語へ移す仕事を続けてきた。

一つの言葉を別の言葉に移すと何が残り、何が失われるのかを、作家自身が経験してきた。

それが自分の文章にも何らかの影響を与えていると考えるのは、不自然ではないだろう。

本当に「無国籍」なのか

村上春樹については、「無国籍的な文学」という表現が使われることがある。

確かに、世界中の読者が入りやすいという意味では理解できる。

しかし、完全に国籍のない文学というものが本当に存在するのだろうか。

村上春樹は日本語で書いている。

日本社会の中で生きてきた。

東京をはじめ日本の都市も作品に登場する。

日本の歴史や社会と関係する作品もある。

したがって、日本性がないから世界で読まれると考えるのは適切ではない。

むしろ、村上作品の特徴は、日本の中にいながら世界と接続しているところにあるのではないか。

その姿は、現在の日本人の生活そのものにも近い。

私たちは日本語で暮らし、日本の社会制度の中で生活している。しかし同時に、外国の音楽を聴き、海外の映画を見て、世界中の情報に接している。

完全に日本だけで閉じた生活でもなければ、国籍を失った生活でもない。

村上春樹の文学は、その中間にある現代人の感覚を早い時期から描いていたのだと思う。

説明されないことが残る

村上春樹の作品を読んでいると、最後まで説明されないことが残る。

なぜあの出来事が起きたのか。

あの人物は何を意味していたのか。

なぜあの場所へ行かなければならなかったのか。

すべてが論理的に整理され、読者に答えとして提示されるとは限らない。

この点は評価が分かれる。

余韻と考える読者もいる。

曖昧だと感じる読者もいる。

謎が残ることで作品について考え続ける人もいれば、結末がはっきりしないことに不満を持つ人もいる。

世界で読まれている作家だからといって、すべての読者が同じように高く評価しているわけではない。

これは当然のことである。

世界的人気と文学的評価は別であるし、販売部数と作品の完成度も同じではない。

村上作品には、同じような人物設定やモチーフが繰り返されるという批判もある。

孤独な人物、失われた誰か、音楽、料理、猫、井戸、地下空間、夢、別世界。

長く読み続けている読者から見れば、また同じ世界が現れたと感じることもあるだろう。

しかし、その反復そのものが「村上春樹らしさ」を作っているとも言える。

音楽家が新しい曲を作っても、その人の音だと分かるように、文学にも作者固有の世界がある。

数ページ読めば村上春樹だと分かる。

それほど明確な作家性を持つことは、世界中に固定読者を作るうえでも大きな力になる。

世界で読まれるのは、世界を書いているからではない

村上春樹が世界で読まれる理由を考えていくと、少し逆説的なことに気づく。

世界を説明しているから世界で読まれるのではない。

国際政治を書いているからでもない。

世界各地を舞台にするからでもない。

むしろ、一人の人間の内側を書いているから世界へ広がっているのではないかと思う。

誰かを失った記憶。

自分は何者なのかという問い。

他人と完全には理解し合えない感覚。

社会の中に居場所を持ちながら、どこか違和感が残ること。

過去から離れたつもりでも、突然その記憶が戻ってくること。

これらは国籍を問わない。

人間であることそのものに関係する。

文学が国境を越えるとき、本当に読者をつなぐものは異国情緒だけではない。

「この感覚は自分にも分かる」

という瞬間である。

日本人の登場人物が感じている孤独を、別の国の読者が自分自身の孤独として読む。

日本の都市で起きた物語が、外国の読者の人生と重なる。

そのとき小説は、日本文学でありながら日本だけのものではなくなる。

世界文学とは何なのか

村上春樹について考えていると、最後には「世界文学とは何か」という問いに行き着く。

世界文学とは、国籍を失った文学ではない。

どこの国のものでもなくなることでもない。

むしろ、一つの土地、一つの言語、一人の作家から生まれた物語が、別の土地にいる人間にも届くことなのではないだろうか。

村上春樹は日本語で書く。

翻訳者がそれを別の言語へ移す。

アメリカの読者が読む。

中国の読者が読む。

ヨーロッパの読者が読む。

しかし、それぞれの読者がまったく同じ村上春樹を読んでいるわけではない。

日本人には当たり前に見える場面が、外国の読者には強い日本性として感じられるかもしれない。

逆に、日本人には特別ではない音楽や生活の描写が、外国の読者にとって親近感を生むこともある。

同じ文章でも、読者の経験によって意味は変わる。

文学は、作者が一つの正解を世界へ配るものではない。

読者が自分自身の人生を持ち込むことで、一つの作品が何通りもの意味を持つ。

そこに文学が国境を越える本当の力があるのだと思う。

日本から世界へではなく、人間から人間へ

では、村上春樹はなぜ世界で読まれるのか。

日本文化への関心もあるだろう。

翻訳の力も大きい。

文章の読みやすさも関係している。

音楽や都市生活の描写が国境を越えやすいことも理由の一つである。

しかし、その中心にあるのは、人間の孤独と喪失、自分自身への違和感ではないだろうか。

誰かを失うこと。

誰かを求めること。

世界とうまくつながれないこと。

それでも日常を続けていくこと。

その感覚を、日本の作家が日本語で書き、それを別の国の読者が自分の問題として読む。

そのとき文学は、日本から外国へ輸出される商品というだけではなくなる。

一人の人間から、別の一人の人間へ言葉が届く。

それが翻訳文学なのだと思う。

村上春樹が世界で読まれているという事実は、文学というものが、国境や言語の違いを越えて人間の内側へ入っていくことができることを示している。

世界のどこかで、一人の読者が本を開く。

そこには日本で書かれた物語がある。

けれども読み進めるうちに、その人が見ているのは遠い日本だけではなくなる。

いつの間にか、自分自身の孤独や記憶や喪失を読んでいる。

おそらく、村上春樹が世界で読まれる最大の理由は、そこにあるのだと思う。

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