リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

いま映画を見ようと思えば、スマートフォンを取り出して検索すればいい。上映中の作品も、映画館の場所も、開始時刻も、空席も、その場で分かる。コンサートに行きたければアーティスト名を検索し、演劇を見たければ劇団の公式サイトを開けばいい。便利になったというより、私たちは「情報を探している」という感覚さえ持たなくなった。

けれども、かつて東京で映画を見ようと思った若者は、そう簡単には目的の映画へたどり着けなかった。ロードショーが終わった作品が、どこの二番館に移ったのか。小さな劇場で面白そうな芝居をやっていないか。名前だけ聞いたバンドは、今月どこでライブをするのか。情報は確かに存在していたが、それぞれ別の場所に散らばっていた。

その散らばった文化情報を、一冊の雑誌の中に集めてしまったのが『ぴあ』だった。

1972年7月、当時大学生だった矢内廣らによって創刊された『ぴあ』は、映画、演劇、コンサートなどの情報をまとめた月刊誌として出発した。当時は「情報誌」という言葉そのものが一般的ではなかったという。ぴあ株式会社自身が後に『ぴあ』を「文化・街歩きの道しるべ」と表現しているのは、この雑誌が果たした役割をよく表している。

しかし、『ぴあ』が若者の必需品になった理由は、単に情報量が多かったからではない。

そこには、インターネットが存在しなかった時代ならではの、「自分で文化を探す」という行動の形があった。

見たいものがあっても、どこで見られるか分からなかった

『ぴあ』誕生の原点には、ひどく実用的な不便があった。

創刊者の矢内廣は映画好きの学生だったが、ロードショー料金は学生には高かった。そのため、ロードショーが終わった映画を二番館、三番館で安く見る。しかし問題は、その映画が次に「いつ、どこの映画館にかかるのか」を簡単に知る方法がなかったことだったという。そこで映画情報を一冊にまとめ、さらに演劇や音楽、美術展なども加えれば便利なのではないかという発想が生まれた。

この話は、現代から見ると意外なほど重要である。

現在なら、私たちは作品名から場所を探す。しかし当時は、作品を知っていても場所が分からないことがあり、逆に町を歩いて初めて面白そうな映画や芝居に出会うこともあった。

つまり文化と人との間に、いまよりはるかに大きな「情報の距離」が存在していた。

『ぴあ』は、その距離を縮めた。

しかし、距離を完全になくしたわけではない。むしろ、この中途半端さこそが面白かった。

ページをめくっていると、目的だった映画の隣に知らない映画が載っている。その下には小劇場の公演があり、さらにページを進めれば聞いたことのないミュージシャンのライブがある。

検索ではない。

一覧するのである。

ここに、現在のインターネットとの決定的な違いがある。

『ぴあ』を読むことは、予定を立てることだった

『ぴあ』は、一般的な雑誌のように文章を順番に読むものではなかった。

買ったらページをめくりながら、映画のタイトルを見る。上映館を確かめ、上映時間を見る。コンサートの日程を調べ、劇場の場所を確認する。そして、「土曜日はここへ行こう」と考える。

つまり『ぴあ』は、読む雑誌であると同時に、行動を組み立てる道具だった。

これは旅行における時刻表に少し似ている。

鉄道時刻表を読む人が、列車の発車時刻だけを見ているわけではないように、『ぴあ』を開く若者も、単に上映時間だけを調べていたのではない。その情報を組み合わせながら、自分の一日を設計していた。

午後から映画を一本見る。そのあと新宿を歩き、夕方からライブを見る。途中で喫茶店に入るかもしれない。本屋にも寄るかもしれない。

『ぴあ』に載っていたのはイベント情報だったが、その向こう側にあったのは「自分は今度の休日をどう過ごすか」という生活そのものだった。

だから、一冊の雑誌が若者のバッグの中に入った。

読み終えれば捨ててしまう雑誌ではなく、何度も開く必要があったからである。

若者は『ぴあ』によって東京を覚えていった

情報を調べることと、街を知ることもまた、当時は切り離せなかった。

1979年、『ぴあ』誌上に「ぴあMAP」が登場する。最初に扱われたのは新宿東口だった。映画館、劇場、ライブハウス、美術館などを載せる一方、一般的な地図に必要な行政界などは省き、実際に歩いて道路を確認して作られたという。その後、この地図は若者から支持され、1982年にはムックとして刊行された。

ここには、『ぴあ』という雑誌の性格がよく表れている。

普通の地図が「街そのもの」を描くのだとすれば、『ぴあ』の地図は「遊ぶための街」を描いていた。

新宿、渋谷、池袋、銀座、下北沢。

街の名前は単なる地名ではなく、「映画を見る街」「ライブへ行く街」「芝居を見る街」という文化的な意味を持つようになる。

地方から東京へ出てきた学生にとってはなおさらだっただろう。東京という巨大な都市は、最初から理解できる場所ではない。しかし『ぴあ』を開き、映画館へ行き、劇場へ行き、その間を歩くうちに、街の位置関係が身体の中に入ってくる。

そう考えると、『ぴあ』は情報誌であると同時に、一種の都市案内書でもあった。

東京という街の使い方を教える雑誌だったのである。

有名なものと無名なものが、同じページに並んでいた

『ぴあ』にはもう一つ、当時としては特徴的な思想があった。

ぴあ株式会社が振り返っている創刊当時の編集方針には、客観情報を中心として批評性をできるだけ排し、情報を選ぶのは読者自身であるという考え方があった。さらに、メジャーなものとマイナーなものを平等に扱うことも掲げられていた。

この思想は、『ぴあ』が若者に支持された理由を考えるうえで非常に重要である。

評論家が「この映画を見るべきだ」と決めるのではない。編集者が「今年はこれが流行する」と教えるのでもない。

情報を並べる。

そして、自分で選ぶ。

いまでは当たり前に見える考え方だが、これは1970年代という時代の空気ともつながっていた。学園紛争の熱が冷め、従来の権威への距離感が生まれる一方で、フォークソングやミニコミ誌など、それまでの大手メディアとは異なる若者文化が広がっていた。矢内自身も、そうした時代背景の中で『ぴあ』が生まれたことを語っている。

だから『ぴあ』には、どこか民主的なところがあった。

大スターの公演も、小さな劇団の芝居も、名画座の古い映画も、ページの中では「今日見ることのできるもの」として並ぶ。

若者はその中から自分で選ぶ。

その選択の積み重ねによって、「自分の趣味」が出来上がっていったのである。

表紙を見るだけで『ぴあ』だと分かった

そして忘れてはならないのが、及川正通による表紙である。

1975年から始まった独特の似顔絵風イラストは、長く『ぴあ』の顔になった。書店や駅の売店で並んでいても、タイトルを確認する前に「あ、ぴあだ」と分かるほど強い個性を持っていた。ぴあの資料によれば、情報誌『ぴあ』は最盛期に発行部数約80万部に達し、最終的には通巻1341号まで続いた。

中身は徹底して実用的なのに、表紙は遊んでいる。

この組み合わせも『ぴあ』らしかった。

時刻や場所や料金という無機質なデータだけを詰め込めば、単なる情報一覧になってしまう。しかし、あの表紙が付くことで、『ぴあ』そのものが若者文化の一部になった。

バッグから取り出したとき、それが何の雑誌であるかを説明する必要はなかった。

『ぴあ』を持っていることそのものが、「映画や音楽や芝居に関心のある人」という小さな自己表現にもなっていたのである。

そして「情報」と「チケット」がつながった

『ぴあ』の発展を考えると、1984年の「チケットぴあ」開始は自然な出来事だったようにも見える。

映画やコンサートの情報を知れば、次に必要になるのはチケットである。それまで情報を提供していた会社が、コンピュータのオンラインネットワークを使ったチケット販売へ進む。ぴあはこの時期、自らを単なる出版社ではなく「情報流通業」と捉えるようになっていった。

これはかなり先進的な発想だった。

雑誌を売ることが目的なのではない。

人が「何かを見たい」と思い、その情報を知り、実際に会場へ行く。その一連の流れを支えることが事業だった。

だから『ぴあ』という雑誌は、最初から普通の雑誌とは少し違っていたのかもしれない。

記事そのものを読むために買うというより、その先にある現実の体験へ行くために買う。

紙面は目的地ではなく、入口だったのである。

『ぴあ』の最大の魅力は、知らないものが目に入ることだった

ところが、この仕組みを現在のインターネットと比較すると、意外な逆転が見えてくる。

情報量では、もちろんインターネットの方が圧倒的に多い。

映画一本を調べるだけでも、上映時間だけでなく、予告編、出演者、レビュー、座席状況まで分かる。『ぴあ』の時代には想像できなかったほど便利である。

しかし便利になった結果、私たちは「自分が探していない情報」に出会いにくくなった。

検索窓に映画名を入れれば、その映画の情報が出る。

音楽配信サービスを使えば、これまでの視聴履歴から自分が好きそうな曲が推薦される。

つまり現代の情報環境は、自分の好みを知れば知るほど、自分の好みに合ったものを見せてくれる。

『ぴあ』は逆だった。

必要な映画の上映時間を探しているだけなのに、隣に知らない映画が載っている。

その下を見ると、聞いたこともない劇団の名前がある。

さらにページをめくれば、美術展がある。

情報が整理されているのに、そこには偶然が残っていた。

この「予定していなかった出会い」が、『ぴあ』を読む楽しさのかなり大きな部分だったのではないだろうか。

お金のない若者ほど『ぴあ』を必要とした

もう一つ、当時の若者文化を考えるときに重要なのは、若者には今も昔も、それほどお金がないという単純な事実である。

だからこそ、安く映画を見る方法を探す。

どこかで自主映画を上映していないか調べる。

小劇場へ行く。

まだ有名になる前のミュージシャンを見る。

限られたお金で、できるだけ面白いものに出会いたい。

『ぴあ』は、そのための道具として非常に合理的だった。

これは高級な文化を紹介する雑誌ではない。

むしろ、財布の中身が乏しい若者が、それでも映画を見たい、音楽を聴きたい、芝居を見たいと思ったときに役に立つ雑誌だった。

創刊そのものが「ロードショーは高いから、安くなった映画を見たい」という学生の感覚から始まっているのだから、当然なのかもしれない。

『ぴあ』には、文化を楽しむためには大金が必要だという発想がなかった。

必要なのは、少しの金と時間と情報だった。

その情報を提供したのである。

インターネットが『ぴあ』の役割を引き継いだ

『ぴあ』は2011年7月、39年の歴史を経て休刊した。

しかし、それを単純に「雑誌がインターネットに負けた」と考えると、本質を見失う。

なぜなら、『ぴあ』が目指していたものとインターネットには、よく似たところがあるからだ。

情報を集める。

できるだけ広く提供する。

権威が選んだものだけではなく、多様な選択肢を並べる。

そして、最終的に何を見るかは利用者自身が決める。

ぴあ株式会社自身も、創刊時の「送り手と受け手がフラットである」という思想を、後のインターネットの考え方と重なるものとして振り返っている。

そう考えると、『ぴあ』はインターネットによって否定された雑誌というより、インターネット以前にインターネット的なことを紙でやっていた雑誌だった、と考えた方が正確なのかもしれない。

紙という限界の中で、都市に存在する文化情報をできるだけ集め、一冊の中から利用者自身が選ぶ。

その仕組みそのものが新しかったのである。

若者が失ったのは『ぴあ』ではなく、「探す時間」なのかもしれない

それでも、『ぴあ』がなくなったことに、どこか寂しさを感じる人は少なくないだろう。

それは紙の雑誌が一冊なくなったからだけではない。

文化との出会い方が変わったからである。

かつては『ぴあ』を買い、ページをめくり、丸を付ける。友人と相談する。地図を見る。電車に乗る。駅を出て、少し迷いながら映画館やライブハウスを探す。

その一連の行動全部が、映画を見ることや音楽を聴くことの一部だった。

現在なら数分で終わる情報収集に、昔はずいぶん時間がかかった。

けれども、その不便な時間の途中で、知らない映画を知り、知らない街を歩き、知らない店に入り、予定していなかったものに出会った。

便利になるとは、目的地へ早く到着できることである。

しかし目的地へ早く到着できるようになればなるほど、途中で何かに出会う機会は減っていく。

『ぴあ』が若者の必需品だった理由は、そこに必要な情報が載っていたからである。

けれども、長い時間を経て振り返ってみれば、それだけではなかったことに気づく。

あの小さな文字が並んだページを眺めながら、

「今度の日曜日、どこへ行こうか」

と考える。

その瞬間、まだ行ったことのない映画館も、知らないバンドも、歩いたことのない街も、自分の未来の選択肢になった。

『ぴあ』が売っていたのは、映画情報でも、コンサート情報でもなかったのかもしれない。

若者が自分自身で休日を選び、自分自身で街へ出て、自分自身の好きなものを見つけていくための、無数の入口だったのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

1970年代後半から1980年代にかけて、「角川映画」という言葉には、単なる映画会社の名前以上の響きがあった。

映画館へ行けば角川映画があり、書店へ行けば角川文庫が積まれている。テレビでは映画の宣伝が流れ、ラジオからは主題歌が聞こえてくる。そして映画に出演した若い俳優が、そのまま時代を象徴するスターになっていった。

現在から振り返れば、これは「メディアミックス」と呼ばれる販売戦略として説明できる。しかし、当時の若者が感じていたものは、もう少し大きかったのではないだろうか。

角川映画は、本を読むこと、映画を見ること、音楽を聴くこと、そして新しいスターに憧れることを、一つの青春文化へまとめてしまったのである。

『犬神家の一族』から始まった角川映画

角川映画の出発点とされるのは、1976年に公開された市川崑監督の『犬神家の一族』である。KADOKAWA自身も、この作品を角川映画の第1作として位置づけている。

原作は横溝正史だった。

角川書店は映画を公開するだけではなく、原作となる文庫本も大規模に販売した。そして有名になったのが、

「読んでから見るか、見てから読むか。」

という宣伝だった。

この発想は、現在では珍しくない。小説が映画化され、映画の公開に合わせて書店に原作本が並ぶことは、ごく普通に行われている。

しかし1970年代半ばには、出版社が自ら映画製作へ本格的に進出し、映画と出版を一体として売っていく方法は画期的だった。国立国会図書館も、1975年に角川書店社長となった角川春樹が映画と文庫本を組み合わせた戦略によってベストセラーを生み、出版界に大きな影響を与えたと整理している。

重要なのは、本が映画の「原作」にとどまらなくなったことである。

映画を見て横溝正史を読み始める人がいる。横溝正史を読んでいた人が映画館へ行く。書店と映画館の間を、読者と観客が往復するようになった。

角川映画は、映画ファンだけを相手にしていたのではなかったのである。

映画そのものより「角川映画を見ること」がイベントになった

その後、角川映画は急速に存在感を強めていく。

『人間の証明』が1977年、『野性の証明』が1978年、『戦国自衛隊』と『蘇える金狼』が1979年、『復活の日』が1980年に公開された。さらに1981年には『セーラー服と機関銃』、1983年には『探偵物語』『時をかける少女』『里見八犬伝』、1984年には『Wの悲劇』などが続いた。現在KADOKAWAが角川映画50周年企画で代表作として並べている作品を見るだけでも、その集中ぶりが分かる。

もちろん作品の内容はまったく違う。

ミステリーがあり、青春映画があり、アクションがあり、SF(Science Fiction・科学的想像を基礎とするフィクション)がある。

それでも、そこには共通する雰囲気があった。

大きな広告、印象的なコピー、耳に残る音楽、華やかな出演者。そして「今度の角川映画は何だろう」という期待感である。

映画を見るという行為そのものに、お祭りのような性格が加わっていた。

現在なら、大作映画の予告編はインターネットで何度でも見ることができる。出演者の情報も、作品の評判も公開前から大量に手に入る。

しかし当時は違った。

テレビのコマーシャル、映画雑誌、書店のポスター、新聞広告などから断片的な情報を受け取りながら公開を待つ。その時間そのものが映画体験の一部だった。

角川映画は、この「待つ時間」を非常にうまく演出したのである。

薬師丸ひろ子が象徴した新しいスターの誕生

角川映画を若者文化として考えるうえで、薬師丸ひろ子の存在は欠かせない。

薬師丸ひろ子は『野性の証明』のオーディションをきっかけに映画デビューし、1981年の『セーラー服と機関銃』で人気を決定的なものにした。KADOKAWAも同作品について、主演だけでなく薬師丸が歌った同名主題歌も大ヒットし、社会現象となったと説明している。

ここに角川映画の特徴がよく表れている。

映画がヒットする。

主演俳優が人気になる。

主題歌も売れる。

原作小説も読まれる。

これらが別々の出来事ではなく、一つの大きな流れとして動いていた。

『セーラー服と機関銃』という題名を聞けば、映画の場面だけではなく、薬師丸ひろ子の姿や歌声まで一緒に思い出す人は少なくないだろう。

映画と音楽とスターの記憶が分離していないのである。

その後、原田知世が主演した大林宣彦監督の『時をかける少女』も、角川映画を象徴する青春映画となった。現在でもKADOKAWAは同作品を「青春SF映画の金字塔」と位置づけている。

角川映画は完成したスターを映画に出演させるだけではなかった。

映画そのものがスターを誕生させる場所になっていたのである。

角川文庫を持つことも若者文化だった

角川映画を映画だけから考えると、その魅力の半分しか見えてこない。

当時の角川書店には「文庫」というもう一つの強力なメディアがあったからである。

1970年代には文庫市場の競争が激しくなり、講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで登場した。そうした環境の中で角川書店は、映画と文庫を結び付けることで独自の位置を築いていった。

映画館で見た作品の原作を、帰りに書店で買う。

あるいは文庫を先に読み、その映像を想像しながら映画館へ行く。

この往復が成立したことは大きい。

文庫本は比較的安く、小さく、学生でも持ち歩けた。

電車の中で読める。学校や大学へ持っていける。喫茶店でも読める。

映画は数時間で終わるが、本は自分の手元に残る。

したがって角川映画の文化は、映画館の中だけで完結しなかった。

映画を見た後も、文庫本という形で日常生活の中へ持ち帰ることができたのである。

現在の若者文化がスマートフォンの中に存在するとすれば、当時の若者文化の一部は文庫本やレコード、カセットテープの中に存在していたと言ってもよいだろう。

なぜ角川映画には「青春」の記憶が残るのか

興味深いのは、角川映画のすべてが青春映画だったわけではないことである。

『犬神家の一族』はミステリーであり、『人間の証明』は社会派サスペンス、『戦国自衛隊』は異色のアクション映画、『復活の日』は壮大なSF作品だった。

それにもかかわらず、角川映画そのものを「青春時代の記憶」として語る人がいる。

おそらく、作品の中に青春が描かれていたからだけではない。

角川映画を見ていた側が若かったからである。

中学生や高校生だった人もいる。

大学生だった人もいる。

就職したばかりだった人もいるだろう。

映画を見るために友人と街へ出かけ、映画が終わればレコード店や書店へ寄る。喫茶店で映画について話すこともあったかもしれない。

その一連の行動まで含めて、一つの記憶になっている。

だから数十年後に映画の題名を目にすると、物語だけではなく、その映画を見た頃の自分まで思い出す。

文化の記憶とは、作品だけからできているのではない。

作品に接した場所や、一緒にいた人、その頃聞いていた音楽、自分が何歳だったかという個人的な記憶が重なってできている。

角川映画には、その力が特に強かったのではないだろうか。

「メディアミックス」という言葉だけでは説明できない

角川映画は、日本における本格的なメディアミックスの先駆けとして語られることが多い。KADOKAWA自身も、初期10年間について、小説・映画・主題歌を連動させ、ベストセラー作家やスターを生み出していった時代として説明している。

確かにビジネスとして見れば、それは非常に合理的な仕組みだった。

一つの作品を、本だけで売らない。

映画だけでも売らない。

音楽、俳優、広告まで含めて、一つの大きな市場を作る。

現在の映画、アニメ、ゲーム、音楽などで当たり前になった仕組みの原型を見ることができる。

しかし、角川映画が人々の記憶に残った理由を販売戦略だけで説明するのも不十分だろう。

戦略が優れているだけなら、ここまで作品名が世代の記憶として残るとは限らない。

そこには市川崑、佐藤純彌、深作欣二、相米慎二、大林宣彦といった監督たちが作った映画そのものの力があり、薬師丸ひろ子や原田知世のような新しいスターの魅力があり、主題歌があり、そして角川文庫があった。

それぞれが独立した商品でありながら、全体として一つの時代の空気を作った。

これこそが角川映画の強さだった。

私たちは映画だけを見ていたのではなかった

1976年の『犬神家の一族』から始まった初期角川映画の黄金期について、KADOKAWAは1976年から1986年までの10年間を一つの時代として振り返っている。

わずか10年ほどである。

しかし、その10年間に作られた作品の題名を並べると、日本の1970年代後半から1980年代前半の文化史そのものを見ているようにも感じられる。

なぜ角川映画は若者を惹きつけたのか。

映画が面白かったから。

スターが魅力的だったから。

広告がうまかったから。

原作小説と映画を結び付けたから。

どれも正しい。

しかし、もう一つ理由を付け加えるなら、角川映画は若者に「次の作品を待つ楽しみ」を与えたからではないだろうか。

次はどんな映画なのか。

誰が主演するのか。

どんな音楽が流れるのか。

原作はどんな小説なのか。

その期待が、映画館、書店、レコード店、テレビ、ラジオをつないでいた。

今では一台のスマートフォンの中で完結してしまう情報や娯楽を、私たちは街のいくつもの場所を歩きながら探していた。

だから角川映画を思い出すとき、映画のスクリーンだけではなく、当時の書店や映画館、レコード店、街の風景まで一緒に浮かんでくる。

角川映画が若者を惹きつけた時代とは、映画が若者文化の中心にあり、本と音楽と街がまだ強く結び付いていた時代でもあったのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』という題名を聞くと、1980年代のブランド文化を思い浮かべる人は多いだろう。

高価な洋服、洒落たレストラン、輸入車、洋楽、東京の街。若者たちが、何を着て、どこで食事をし、どんな音楽を聴くのかによって、自分自身を表現し始めた時代である。

しかし、この小説を単なる「1980年代の流行を並べた作品」と考えると、その重要な部分を見落としてしまう。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、ブランドそのものではない。

それまでとは違う「豊かさの中で生きる人間」の姿だった。

バブル経済より前に現れた新しい若者

『なんとなく、クリスタル』は1980年に第17回文藝賞を受賞した田中康夫のデビュー作である。当時、田中康夫は一橋大学の学生だった。作品は大きな反響を呼び、のちに発行部数100万部に達した。

重要なのは、この作品が書かれた1980年という時期である。

日本で一般に「バブル経済」と呼ばれる時代が本格化するのは、もう少し後になる。つまり『なんとなく、クリスタル』は、バブル時代を後から振り返って描いた作品ではない。

日本社会がこれから一段と消費社会へ向かっていこうとしていた、その入口に立って書かれた小説だった。河出書房新社も新装版を「日本がバブル経済に沸く直前の東京」を描いた作品として紹介している。

主人公の由利は、東京で暮らす女子大生であり、モデルでもある。

彼女の生活には大きな事件が起こるわけではない。恋愛をし、友人と会い、食事をし、音楽を聴き、服を選び、東京の街を移動する。

従来の小説から見れば、「何も起きない」とさえ言える生活である。

ところが田中康夫は、その何気ない日常そのものを小説の中心に置いた。

そこに、この作品の新しさがあった。

「何を考えるか」より「何を選ぶか」

それ以前の若者を描いた文学では、思想や政治、社会との対立、家族との葛藤、貧困、恋愛などが物語を動かす大きな要素になっていた。

ところが『なんとなく、クリスタル』の世界では、人間を形づくるものが少し違っている。

どのブランドを選ぶのか。

どの店へ行くのか。

どんな音楽を聴くのか。

どの街に住むのか。

つまり「何を考えている人間なのか」だけではなく、「何を選んでいる人間なのか」によって、その人の輪郭が作られていく。

これは1980年代以降の日本社会を考えるうえで、非常に象徴的な変化だった。

大量生産された同じ商品を多くの人が所有することが豊かさだった時代から、自分の感覚に合った商品や店や音楽を選び、それによって他人との差異を示す時代へ移ろうとしていたのである。

だから、この小説に登場する商品名や店名は単なる背景ではない。

それ自体が登場人物を説明する言葉になっている。

膨大な「註」は何のためにあったのか

『なんとなく、クリスタル』を特徴づけているものとして、本文以上に有名なのが膨大な註である。

作品には実在するブランド、レストラン、学校、地名、音楽などが次々と登場し、それらに442もの註が付けられている。

普通の小説なら、

「彼女は高級な服を着ていた」

と書けばよいところを、この作品では具体的なブランド名が出てくる。

しかし、そのブランドを知らない読者には、そこに込められた意味が分からない。

だから註が必要になる。

言い換えれば、この作品では商品や店についての「知識」そのものが、一種の文化的な暗号になっている。

知っている人には説明しなくても分かる。

知らない人には註釈が必要になる。

そして、その「知っている/知らない」という境界そのものが、当時の都市文化の一部分だった。

この構造は現在にも通じる。

今日なら、どのスマートフォンを使い、どのSNS(インターネット上で人間関係や情報を共有するサービス)を使い、どのカフェへ行き、どの動画配信サービスを見ているのかによって、ある程度その人の生活や価値観を想像できる。

『なんとなく、クリスタル』は、そのような社会が日本に現れ始めた瞬間を記録した作品でもあった。

「クリスタル」とは何だったのか

では、題名にある「クリスタル」とは何なのだろう。

もちろん、何か特定の商品を意味しているわけではない。

むしろ重要なのは「なんとなく」という言葉である。

絶対的な思想や信念によって行動するのではなく、「なんとなく気分がいい」「なんとなくこちらの方が好き」という感覚によって物や生活を選んでいく。

朝日新聞の田中康夫への取材記事でも、この作品は「なんとなく気分がいい」ことを買い物や行動の尺度にする若者の生き方を描いた作品として整理されている。

それまでの日本では、何かを選ぶときに「役に立つ」「長持ちする」「安い」といった実用的な価値が重視されてきた。

ところが経済的な豊かさが広がるにつれて、「自分の感覚に合う」「雰囲気がいい」「格好いい」といった価値が重要になっていく。

クリスタルとは、その新しい感覚を象徴する言葉だったと考えると分かりやすい。

実は「豊かな日本」を礼賛した小説ではない

この作品は、しばしばブランド志向の若者を描いた小説として語られる。

しかし、田中康夫がその生活を全面的に肯定していると読むのも少し違う。

作品を読んでいると、華やかな都市生活に対する奇妙な距離感がある。

ブランドを詳しく紹介しながら、そのブランドを選ぶ人間を観察している。

流行を知り尽くしているようでありながら、その流行そのものを少し離れた場所から眺めてもいる。

そのため、『なんとなく、クリスタル』は消費文化の内側から書かれた小説であると同時に、消費文化を観察した小説でもある。

ここが、この作品を単なる風俗小説にしなかった重要な部分だろう。

最後に突然現れる「人口」の話

そして『なんとなく、クリスタル』を現在から読み返したとき、最も興味深いのが作品の終わり方である。

華やかな東京の若者たちを描いた物語の最後に、突然、人口問題に関する公的資料が登場する。

そこでは、出生力の低下や高齢化に関する将来予測が示されている。作品末尾に人口問題審議会の報告や当時の厚生白書から人口動向を示す資料が置かれていたことは、後年の解説でも確認できる。

なぜ、ブランドと恋愛と音楽に囲まれた若者の物語の最後に、人口統計が出てくるのか。

ここに、この作品のもう一つの顔がある。

1980年の日本は、まだ「これからもっと豊かになる国」に見えていた。

しかし、その同じ時代に、出生率の低下と高齢化はすでに始まっていた。

目の前には新しい服があり、新しいレストランがあり、新しい音楽があり、消費社会は華やかになっていく。

その一方で、長期的に見れば日本社会の人口構造は静かに変化し始めている。

この二つを同じ作品の中に置いたことが重要なのである。

『なんとなく、クリスタル』が本当に描いたもの

そう考えると、この作品が描いたものは「1980年代のブランド生活」だけではない。

より正確に言えば、

日本人が「生きるために物を買う社会」から、「自分らしくあるために物を選ぶ社会」へ移っていく瞬間

だったのではないだろうか。

高度経済成長を経て、若者たちは親の世代より豊かになった。

海外の商品や音楽に触れ、自分の趣味で生活を組み立てることができるようになった。

自由になったのである。

しかし、その自由を何に使うのかという問いには、必ずしも明確な答えがない。

だから「なんとなく」なのである。

この言葉には、豊かさと同時に、どこか頼りなさも含まれている。

40年以上たった今だから分かること

1980年から40年以上が過ぎた現在、この小説に登場する店や商品を知らない読者も増えた。

その意味では、『なんとなく、クリスタル』は確かに時代を映した作品である。

しかし不思議なことに、その基本構造はそれほど古びていない。

ブランドが別のものに置き換わっただけで、私たちは今も「何を選ぶか」によって自分自身を表現しているからである。

服だけではない。

スマートフォン、クルマ、旅行先、食事、音楽、動画、SNS。

私たちは無数の選択を通じて、「自分はこういう人間である」という像を作っている。

その意味では、現在の私たちもまた、形を変えた「クリスタル」の時代を生きているのかもしれない。

ただし、1980年と現在には大きな違いがある。

当時の若者たちの背後には、「明日は今日より豊かになる」という日本社会全体の空気があった。

現在の私たちは、人口減少、高齢化、社会保障、地方の衰退といった問題が現実になった社会に生きている。

『なんとなく、クリスタル』の最後に置かれていた人口の話は、もはや未来予測ではない。

私たちが現在暮らしている社会そのものになった。

だからこそ、この小説は懐かしいだけでは終わらない。

『なんとなく、クリスタル』が描いたのは、1980年の若者たちの華やかな生活であると同時に、豊かさの頂上へ向かって歩きながら、その先にある黄昏にはまだ気づいていなかった日本社会の姿だったのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化

1980年代の若者文化を振り返ろうとすると、音楽なら松田聖子やサザンオールスターズ、YMO(Yellow Magic Orchestra・日本のテクノポップを代表する音楽グループ)、自動車ならソアラやプレリュード、ファッションならDCブランド(Designer and Character Brands・デザイナーやブランドの個性を前面に出したファッションブランド群)といった名前が次々に出てくる。

しかし、その時代を実際に生きた若者が、何を格好いいと思い、どんな服を着て、どんな店へ行き、どんな音楽を聴き、異性とどう付き合えばいいと考えていたのかを知ろうとすると、個々の商品や流行だけを並べても十分ではない。

そこには、若者に向かって「いまはこれが格好いい」「こういうものを知っている男になったほうがいい」と教える媒体が存在していた。

その一つが、講談社の『Hot-Dog PRESS』だった。

『Hot-Dog PRESS』は1979年に創刊された若年男性向けの情報誌である。ファッション、音楽、商品、遊び、恋愛など、若い男性の生活に関わるさまざまなテーマを扱い、1980年代から1990年代にかけて大きな存在感を持った。とりわけ後年まで語られるのが、「デート・マニュアル」としての側面である。

だが、『Hot-Dog PRESS』を単なる恋愛指南雑誌として片づけてしまうと、この雑誌が1980年代の若者文化に果たした役割のかなりの部分を見失う。

この雑誌が若者に教えていたのは、女の子との付き合い方だけではなかった。

むしろ重要だったのは、若い男性に対して「青年としての生活様式」そのものを提示したことである。

若者が自分で情報を探さなければならなかった時代

現在なら、服を買おうと思えばインターネットで検索できる。レストランを探すことも、映画の評判を調べることも、知らないブランドについて調べることも難しくない。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で情報を発信し交流するサービス)を開けば、他人が何を着て、何を食べ、どこへ出かけているのかまで大量に流れてくる。

1980年代には、そのような情報環境は存在しなかった。

もちろんテレビも新聞もラジオもあった。しかし、それらは若者一人ひとりに向かって、「今度のデートではどこへ行けばいいのか」「どんな服を着ればいいのか」「どんな時計を持つと格好いいのか」まで教えてくれる媒体ではない。

そこで大きな役割を果たしたのが雑誌だった。

『POPEYE』『MEN'S CLUB』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』など、それぞれ性格の異なる雑誌が若者に情報を届けていた。そのなかで『Hot-Dog PRESS』は、商品情報とファッションと恋愛と遊びを比較的近い場所に置いた。

ここが重要だったと思う。

服は服、音楽は音楽、自動車は自動車、恋愛は恋愛というように、それぞれを独立した趣味として扱うのではない。それらを一つに組み合わせて、「こういう生活をする若者が格好いい」というモデルを作ったのである。

つまり雑誌を一冊読むことによって、自分がまだ知らない世界の輪郭を見ることができた。

その意味で雑誌は情報源であると同時に、若者にとって一種の教科書でもあった。

『Hot-Dog PRESS』は「青年になる方法」を教えていた

少年から青年へ移るとき、人は急に大人になるわけではない。

高校生や大学生になったからといって、どんな服を選べばいいのかが突然分かるわけでもなければ、女性との付き合い方が分かるわけでもない。レストランの選び方も、自動車の知識も、時計やオーディオや酒についての知識も、最初から持っているわけではない。

家庭や学校が教えてくれる範囲にも限界がある。

学校は数学や国語を教えてくれるが、デートでどこへ行けばよいのかまでは教えてくれない。

親から受け継ぐ生活文化もあるが、1980年代の若者が求めた新しいファッションや音楽や都市文化について、親世代が必ずしも詳しかったわけではない。

その空白を雑誌が埋めた。

『Hot-Dog PRESS』を読むという行為には、単に新商品を知ること以上の意味があったのではないか。

そこには「大人になる前の予習」という側面があった。

何を着るのか。

何を持つのか。

どこへ行くのか。

何を聴くのか。

そして女性とどう付き合うのか。

現在から見ると奇妙に思えるほど、1980年代にはこうした事柄を雑誌から学ぶ文化が成立していた。

「モノを知っていること」が青年の教養だった

1980年代の青年文化を考えるうえで、もう一つ見逃せないものがある。

それは商品について知っていることそのものが、一種の教養になっていたことである。

時計、スニーカー、ジーンズ、ジャケット、オーディオ、自動車、バイク、カメラ。

ブランドや型番を知り、違いを説明できることには、それなりの意味があった。

現在から見ると単なる消費文化のようにも見える。

実際、批判的に考えれば、『Hot-Dog PRESS』を含む若者雑誌が消費を刺激する役割を果たしていたことは否定できない。格好いい若者になるためには、この服、この時計、この店、この自動車が必要だというメッセージは、企業の商品販売とも極めて相性がよかった。

しかし、そこだけで評価すると1980年代の青年文化を単純化しすぎる。

雑誌を読んだからといって、紹介された商品をすべて買えるわけではなかった。

むしろ、多くの若者にとって雑誌に載っている商品は「見るもの」でもあった。

高校生ならなおさらである。

高価な時計や自動車を購入できるわけではない。それでも写真を眺め、メーカー名を覚え、いつか欲しいと思う。その過程で、自分なりの好みが形成されていく。

消費とは、必ずしも購入だけではない。

何を欲しいと思うかもまた文化なのである。

『Hot-Dog PRESS』は、その「欲しいと思うもの」の体系を作る雑誌でもあった。

ファッションは服ではなく、自己紹介だった

1980年代の若者向け雑誌にとって、ファッションは重要なテーマだった。

しかし、そこで扱われていたファッションは単に防寒のための衣服ではない。

どんな服を選ぶかによって、その人がどんな人物なのかを表現する。

現在ならごく普通の考え方に見えるが、若者が自分自身のアイデンティティーを商品やブランドによって表現する文化が急速に広がった時代として1980年代を見ると、その意味はかなり大きい。

雑誌は商品を紹介しながら、同時に人物像を提示する。

この服を着る男。

この靴を履く男。

この音楽を聴く男。

この自動車に乗る男。

そこから、一つの青年像が作られていく。

そして読者は、それをそのまま真似する場合もあれば、自分には合わないと思う場合もあっただろう。

重要なのは、比較する対象が与えられたことである。

人は何もないところから自分のスタイルを作ることは難しい。

誰かが示した型を見て、それを真似したり、少し変えたり、ときには拒否したりしながら、自分の好みを作っていく。

雑誌は、そのための巨大な見本帳だった。

デートまで「方法」が必要になった

『Hot-Dog PRESS』について現在まで最も強く記憶されているのは、やはり恋愛やデートを扱った記事だろう。同誌が若者の「デート・マニュアル」として一時代を築いたことは、後年の紹介でも繰り返し言及されている。

なぜ恋愛にマニュアルが必要だったのだろう。

考えてみれば不思議である。

好きな人がいれば話しかければよい。二人で行きたい場所へ行けばよい。それだけなら、雑誌が教える必要はない。

しかし1980年代になると、デートは単に男女が会う行為ではなくなっていた。

どこで待ち合わせるのか。

どんな店へ行くのか。

何を着ていくのか。

どのように誘うのか。

どんな話題を選ぶのか。

都市化と消費社会の発達によって選択肢が増えた結果、逆に「正解が分からない」という状況が生まれた。

選択肢が少なければ、人はそれほど迷わない。

選択肢が増えると、選ぶための情報が必要になる。

『Hot-Dog PRESS』が支持された背景には、この構造があったのではないかと思う。

携帯電話のなかったデート

ここには現在との決定的な違いもある。

携帯電話もスマートフォンも普及していない時代のデートでは、待ち合わせそのものが現在より重い意味を持った。

約束した場所へ決められた時間に行かなければならない。

相手が遅れても、外出してしまえば簡単には連絡できない。

現在のように「10分遅れます」とメッセージを送ることもできない。

後年、『Hot-Dog PRESS』のデート文化を振り返る記事でも、こうした携帯電話以前の待ち合わせ事情が紹介されている。

この違いは単なる技術の差ではない。

人間関係の作り方そのものが違っていた。

相手の行動がリアルタイムで見えない。

既読もない。

位置情報もない。

だから雑誌が提供する「どう振る舞えばいいのか」という情報には、現在とは違う切実さがあった。

都市を知らない若者に、都市を教えた

もう一つ、『Hot-Dog PRESS』のような雑誌の重要な役割として考えたいのが、東京を中心とする都市文化を全国へ運んだことである。

これは1980年代の雑誌文化全体にいえることでもある。

地方に住んでいても雑誌は買える。

東京の店へすぐ行くことはできなくても、その店が存在することは知ることができる。

原宿、渋谷、青山、六本木といった地名が、単なる地理上の名称ではなく、ファッションや音楽や遊びと結びついた文化的記号になっていく。

これは、片岡義男の小説を通して昭和の若者が「アメリカ」を想像したことと、どこか似ている。

実際のアメリカへ行かなくても、小説、映画、音楽、雑誌を通してアメリカを想像できる。

同じように地方の若者は、東京に住んでいなくても雑誌を通して東京を想像することができた。

その東京が現実の東京と完全に一致していたかどうかは、それほど重要ではない。

重要なのは、雑誌のなかに「行ってみたい世界」が存在していたことである。

北方謙三という、もう一つの顔

『Hot-Dog PRESS』の文化を考えるとき、商品やデートだけでは語れない人物がいる。

作家の北方謙三である。

北方は1980年代から長期間にわたり『Hot-Dog PRESS』で若者の人生相談を担当した。後年、新潮社も北方の若者へのメッセージを語る際、この連載を代表的な仕事の一つとして振り返っている。

ここにも、この雑誌の性格がよく表れている。

若者が知りたかったのは服や自動車だけではなかった。

恋愛、仕事、将来、自信のなさ、人間関係。

青年期には、いくらでも悩みが生まれる。

その相談に対して作家が答える。

雑誌は商品カタログであると同時に、人生について考える場所でもあった。

もちろん、そこで示される男性像には明らかに時代性がある。

強い男、決断する男、女性をリードする男。

現在の価値観から見れば違和感を持つ部分もあるだろう。

しかし、それも含めて1980年代なのである。

文化を振り返るということは、現在の価値観に合う部分だけを選んで懐かしむことではない。

当時どのような男性像が支持されていたのかを見ることも、時代を理解するためには必要だ。

『Hot-Dog PRESS』は本当に若者文化を「作った」のか

ここまで書いてくると、一つ疑問が生じる。

本当に『Hot-Dog PRESS』が若者文化を作ったのだろうか。

雑誌が若者に命令し、その通りに若者が行動していたという説明なら単純すぎる。

若者文化は雑誌だけから生まれたものではない。

テレビ、ラジオ、映画、レコード、ファッションブランド、自動車メーカー、百貨店、広告、大学、繁華街、ディスコなど、無数の要素が相互に影響していた。

雑誌はその一部である。

しかし、雑誌にはそれらを一つの誌面に集める力があった。

音楽を聴き、自動車に乗り、服を選び、女性とデートする。

本来別々だった行為を一つのライフスタイルとして編集する。

ここに雑誌の大きな力があった。

だから「作った」という言葉を、何もないところから文化を発明したという意味で使うのは適切ではない。

むしろ社会のなかに生まれていたさまざまな欲望や流行を集め、それを「これが現在の若者だ」という形に編集し、再び若者へ返した。

その循環によって文化を強めた。

それが『Hot-Dog PRESS』の役割だったのではないかと思う。

情報が少なかったから、雑誌の影響力が大きかった

現在は情報が多すぎる時代である。

検索すれば何万件もの情報が出てくる。

動画を見れば誰かが商品を紹介している。

SNSを開けば無数のファッションを見ることができる。

その代わり、一つの媒体が若者全体の価値観に強い影響を与えることは難しくなった。

1980年代は逆だった。

情報源が現在より限られていたため、一冊の雑誌が持つ影響力は大きかった。

本屋へ行き、雑誌を買い、最初のページから最後のページまでめくる。

興味のない記事まで目に入る。

これはインターネット検索との大きな違いである。

検索では、自分が知りたい情報を探す。

雑誌では、自分が知ろうとも思っていなかった情報に出会う。

ファッションの記事を読むつもりだったのに自動車の記事を読み、音楽の記事を読み、作家の文章を読む。

その偶然性が、一人の若者の興味を広げていく。

雑誌文化には、そのような力があった。

1980年代を美化する必要はない

だからといって、雑誌の時代が現在より優れていたと結論づける必要はない。

情報を得る方法についていえば、現在のほうが圧倒的に便利である。

地方に住んでいても海外の情報を直接調べることができる。商品価格を比較し、利用者の評価を読み、自分に合ったものを選択できる。

1980年代の雑誌が示した価値観には、商業主義もあった。

高価な商品を持つことが格好よさと結びつきやすく、男性と女性の役割にも固定的な考え方が残っていた。

誰もが雑誌の提示する青年像に当てはまったわけでもない。

そこを忘れて1980年代を「良い時代だった」とだけ語れば、単なる懐古趣味になってしまう。

それでも『Hot-Dog PRESS』を振り返る意味があるとすれば、そこには現在とは違う「青年になる仕組み」が見えるからである。

一冊の雑誌のなかに、青年の世界があった

1979年に創刊された『Hot-Dog PRESS』は、2004年にいったん休刊した。その後2014年にデジタル媒体として復活したとき、想定された読者の中心は、かつて若者として雑誌を読んでいた世代だった。

この事実は象徴的である。

若者のための雑誌だったものが、年月を経て、その若者たち自身の過去を呼び戻す媒体になった。

雑誌のページに載っていた服の多くはもう流行ではない。

紹介された店も、自動車も、オーディオも変わった。

デートの方法も変わった。

待ち合わせ場所で相手を30分待つような経験さえ、スマートフォンの時代には少なくなった。

それでも雑誌を開いた経験が消えるわけではない。

なぜなら、そこに載っていたのは商品だけではなかったからだ。

「大人になったらこんな生活をしてみたい」

「こんな服を着てみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

という、まだ経験していない未来が載っていた。

若者向け雑誌とは、未来の生活を先に見るための媒体でもあったのである。

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化とは、特定のファッションやデート方法だけではない。

情報を集め、モノを選び、都市に憧れ、異性との関係に悩みながら、自分がどんな大人になりたいのかを考える文化だった。

一冊の雑誌のなかに、青年になるための世界がほとんど丸ごと入っていた。

いま同じ役割を一冊の雑誌に求めることは、おそらく難しい。

だからこそ『Hot-Dog PRESS』を振り返ることは、一つの雑誌を懐かしむだけではなく、若者が雑誌によって自分の未来を想像することのできた時代そのものを振り返ることになるのだと思う。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ