リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

難しい本を最後まで読むことに本当に意味はあるのか

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 難しい本を読み始めると、ときどき読書とは別の何かが始まる。最初の十数ページではまだ余裕があり、分からない言葉が出てきても「そのうち分かるだろう」と先へ進めるのだが、三十ページ、五十ページと進むにつれて知らない概念が増え、同じ段落を二度、三度と読み返しても意味がつかめず、気がつけば目だけが文字の上を移動している。それでも本を閉じることには、なぜか敗北に似た後ろめたさがつきまとう。せっかく買ったのだから、ここまで読んだのだから、名著と呼ばれているのだから、最後まで読まなければならないという声が、本の中からではなく、自分の中から聞こえてくるのである。

 しかし考えてみると、これは少し奇妙である。本を読む目的が理解することにあるのなら、理解できないまま最後の一ページへ到達することに、どれほどの意味があるのだろう。反対に、一冊の三分の一しか読んでいなかったとしても、その中の一節が何年も頭に残り、その後の考え方や物の見方に影響を与えたなら、それを「読書として失敗した」と言い切ることはできない。私たちはいつの間にか、「本を読む」という行為と「本を読み終える」という行為を、ほとんど同じものとして扱うようになっている。

 読書には、ときに、始めたものは最後まで終えなければならないという完走主義が入り込むことがある。もちろん、映画やゲーム、学習講座などにも同じような心理は働くため、読書だけに特有の現象ではない。それでも、本を途中で閉じたときに「読むのをやめた」ではなく「読めなかった」と表現することには、どこか独特の響きがある。作品との相性や、その時点での関心、必要な背景知識の不足など、理由はいくつも考えられるのに、その言葉は読者自身の能力が足りなかったかのような印象を与える。

 しかも、その感覚は、読む本によって変わることがある。娯楽小説を途中でやめることには、それほど抵抗を感じない人でも、哲学書、思想書、古典文学のように「教養のある人が読む本」という印象を持つ作品では、「自分にはまだ早かったのではないか」「本当に頭のよい人なら理解できるのではないか」という不安を抱くかもしれない。もちろん、難しい本を読む人が必ずそう考えるわけではない。しかし、読書が自分の知的能力を確認する行為に変わったとき、理解することよりも、最後まで到達することが目的になってしまう可能性がある。

「最後まで読んだ」という事実の誘惑

 難しい本を読み終えたときには、確かに独特の満足感がある。内容のすべてを理解できていなくても、何百ページもの本を閉じた瞬間には、「とうとう読んだ」という達成感が残る。その感覚そのものを否定する必要はない。険しい道を歩き切った経験が人に自信を与えるように、一冊を最後まで読み通した経験も、自分の忍耐力や集中力を確認し、次の読書へ向かう意欲を生み出すことがある。読了による達成感は、それ自体が一つの心理的な価値を持ち得るのである。

 しかし問題は、その達成感が理解の代用品になったときである。たとえば五百ページの思想書を三週間かけて読み終えたとしても、「結局この本は何を問題にしていたのか」と尋ねられた途端、うまく説明できないことがある。途中では何度も分かったような気になっていたのに、最後まで来たころには冒頭の議論をほとんど忘れており、それでも「読了した」という事実だけは確かな記憶として残っている。読み終えたという経験と、何を理解したのかという成果は、必ずしも一致しない。

 認知心理学や学習科学の研究では、教材を読んだことと、その内容を理解し、後から思い出したり応用したりできることとは区別されている。文章を繰り返し読むだけでなく、何が書かれていたのかを自分の言葉で思い出す練習は、一定期間が経過した後の記憶保持に有効であることが確認されている。また、学習内容を時間を置いて復習する方法にも、多くの研究で有効性が認められている。したがって、読んだページ数や読書に費やした時間だけでは、学習の成果を十分に評価することはできない。

 ただし、こうした研究結果をそのまま文学や思想書の読書全般に当てはめることには注意が必要である。実験で測定される記憶や学習成果と、文学作品から受け取る感動、思想に触れて生じる疑問、人生経験と結びついた解釈の変化は、同じものではない。また、文章の内容を正確に思い出せることと、その意味を深く理解していることも完全には一致しない。学んだ知識を説明できる能力、別の問題へ応用する能力、作品を多面的に解釈する能力などは、互いに関係していても区別して考える必要がある。

 ここには、本という物体の持つ少し厄介な性質が関係しているのかもしれない。本には最初のページと最後のページがあり、残りの厚さを見れば、自分がどこまで進んだかが一目で分かる。百ページ読めば、確実に百ページ進んだことになる。しかし、本来は理解や経験の変化によって評価されるべき読書が、ページ数という目に見える数字へ置き換えられてしまうと、読者はいつの間にか、その数字を増やすこと自体に満足するようになるかもしれない。

 人間は、ときに、数値化しやすい成果を目標として重視することがある。一冊読んだ、十冊読んだ、年間百冊読んだという数字は分かりやすく、読書習慣を継続する励みにもなる。一方で、「ある一冊について三年間考え続けた」という経験は数量として表現しにくい。だからといって、多読より精読が必ず優れているわけでもない。多くの本を読むことで知識の幅が広がることもあれば、一冊を繰り返し考えることで特定の問題への理解が深まることもある。読書の量と深さは単純な対立関係にはなく、どちらにも異なる価値があるのである。

「難しい」という一言の中には、いくつもの理由がある

 ただし、「理解できない本は途中でやめればよい」と単純に結論づけてしまうのも適切ではない。難しさにはいくつもの原因があり、文章の構成や表現が分かりにくい場合もあれば、語彙や背景知識が不足している場合もある。さらに、それまで使ったことのない考え方を要求されるために難しいこともあれば、著者の主張そのものが複雑で、十分な知識を持つ読者の間でも解釈が分かれる場合もある。これらをすべて、読者の理解力の不足として片づけることはできない。

 読解研究では、文章を理解するとき、読者がすでに持っている知識が重要な役割を果たすことが知られている。たとえば、ある分野について十分な背景知識を持っている人は、文章中で省略されている前提を補い、複数の情報を関連づけながら読むことができる。反対に、その分野に初めて触れる人は、一つひとつの用語を理解することに多くの注意を向けなければならず、文章全体の論理を把握する余裕が小さくなることがある。本の難しさは文章だけに固定された性質ではなく、文章の構造、読者の知識、読書の目的などが組み合わさって生じるものでもある。

 だから、十年前には退屈にしか感じられなかった本を読み返したとき、「こんなに面白い本だったのか」と驚くことがある。本そのものは一文字も変わっていないのに、その間に別の本を読み、知識を増やし、さまざまな経験を重ねたことで、以前には理解できなかった議論が分かるようになることがある。文学作品であれば、年齢や生活環境の変化によって、登場人物の判断や感情を以前とは違った角度から受け止めることもあるだろう。こうした変化が必ず起こるわけではないが、同じ本から受け取るものが読む時期によって異なることは、十分に考えられる。

 これは読書の不思議なところである。本は同じ場所に置かれているのに、読む側が変われば、その姿まで変わって見えることがある。若いころには理解できなかった一節が、年齢を重ねてから意味を持つこともあれば、以前には素晴らしいと思った主張に、後になって疑問を抱くこともある。読書経験の変化は、必ずしも理解が深まる方向だけに進むわけではない。知識が増えたからこそ、以前には気づかなかった問題点が見えるようになる場合もある。

 したがって、分からないという感覚は必ずしも読書の失敗を意味しない。むしろ、自分がまだ持っていない知識や慣れていない思考の方法に出会ったことを示している場合もある。ただし、難しい本を読み続ければ自動的に知的成長が生じるわけではない。知らない言葉を調べ、すでに知っている内容と関連づけ、著者の論理を確かめるような働きかけがあって初めて、難しさが理解を深める契機になることも多い。分からない状態に耐えることと、分からない理由を考えることは、似ているようで異なるのである。

 普段とは違う地図を渡され、最初は現在地さえ分からなかったのに、しばらく歩いているうちに、離れて見えていた道と道が突然つながることがある。それに似た瞬間が読書にもあり、だからこそ「分からない」という理由だけであまり早く本を閉じてしまえば、その先にあった理解の変化に出会えないこともある。一方で、地図を読むための基本的な知識が不足しているなら、無理に先へ進むより、いったん立ち止まって別の資料を調べるほうが有効な場合もあるだろう。

分かった「気がする」という罠

 難しい本を読むとき、もう一つ気をつけたいのは、「理解したこと」と「理解した気になったこと」は必ずしも同じではないという問題である。人間には、自分自身の知識や理解の状態を把握し、それに応じて学習方法を調整するメタ認知と呼ばれる働きがある。しかし、その判断は常に正確とは限らず、内容を十分に理解していなくても、よく分かったと感じてしまうことがある。

 同じ文章を繰り返し読むと、文字列そのものには次第に親しみが生まれる。二度目には見覚えがあり、三度目には文章の展開も予想できるようになるため、読みやすくなったという感覚が生じる。この親しみが実際の理解につながる場合もある一方で、文章を見れば意味が分かるように感じても、本を閉じて内容を説明しようとすると、思ったほど言葉が出てこない場合もある。文章に慣れたことと、その内容を自分の知識として使えることは、必ずしも同じではない。

 ただし、再読そのものが無意味なのではない。研究によっては、再読によって理解が進んだり、自分の理解度をより正確に判断できるようになったりする場合も報告されている。重要なのは、ただ文字を繰り返し眺めることと、新しい問いを持って読み直すことを区別することである。たとえば、「なぜ著者はここでこの言葉を使ったのか」「前の章の議論とどのようにつながるのか」「反対の立場から考えれば、どこに問題があるのか」と問いながら戻る場合、同じ文章でも読書の働きは変わってくる。

 また、学習内容を後から思い出す練習は記憶の保持に有効だが、文学や思想の理解を、内容の暗記だけで測ることもできない。重要な一節を正確に覚えていることと、その一節の意味をさまざまな立場から考えられることは異なるからである。読書で何を得たいのかによって、適切な読み方も変わる。知識を習得したいのであれば内容を再構成する練習が役立ち、著者の議論を批判的に理解したいのであれば、その前提や論証を検討することが重要になる。

 だから、同じページを何度読んでもよい。ただし、それは必ずしも同じ道を何の目的もなく往復するという意味ではなく、一度目とは違う問いを持って戻ってくるという意味でもある。一度読んだだけでは見えなかった構造に気づくこともあれば、以前は正しいと思った解釈を修正することもある。読書の進歩は、ページを前へ進めることだけでなく、同じ場所へ戻ったときに何が見えるようになったかによっても確かめられるのである。

途中でやめることは敗北なのか

 それでも、すべての難しい本を最後まで読む必要はない。ここで区別したいのは、「読めなかった」と「いまは読まないと判断した」という二つの状態である。前提知識が足りないと感じていったん閉じる場合もあれば、何十ページか読んだ結果、今の自分がこの本から得たいものは十分に得たと判断することもある。また、世間で名著とされていても、自分の関心や目的にとっては、それほど重要ではないと分かることもある。それらをすべて敗北と呼ぶ必要はない。

 むしろ本を途中で閉じるという行為には、ときに慎重な判断が含まれている。何を読むかだけではなく、何を読まないかを決めなければ、一人の人間に与えられた読書時間はすぐに尽きてしまう。人生の時間には限りがあり、世界には一生を費やしても読み切れないほど多くの本がある以上、「読み始めた本は必ず最後まで」という規則を無条件に守ることは、必ずしも合理的ではない。

 経済学や行動科学には、すでに費やして回収できなくなった時間や費用が、その後の判断に影響を与えるサンクコスト効果という考え方がある。本を買った代金や、すでに読んだ二百ページに使った時間は、残りを読むかどうかにかかわらず取り戻すことができない。それにもかかわらず、「ここまで読んだのだから、やめるのはもったいない」という理由だけで読み続けるなら、過去の支出や努力が、これから使う時間の判断を不必要に左右している可能性がある。

 たとえば五百ページの本を二百ページまで読み、残り三百ページを読むのに十時間かかるとする。このとき考えるべきなのは、すでに費やした時間を無駄にしないことだけではなく、これからの十時間を使うことで、どのような理解や満足が得られると期待できるかということである。その十時間を別の本に使うほうが有益な場合もあれば、今の本を読み続けることで、それまで理解できなかった議論がつながり、より大きな成果が得られる場合もある。したがって、残りを読むかどうかは、今後得られる価値と必要な時間や負担を比較して判断するのが合理的である。

 もちろん、読書の価値は単純な計算だけで決められるものではない。知識の習得、感動、楽しさ、達成感、将来の読書への影響など、価値を構成する要素はさまざまであり、それらを一つの数字に置き換えることは難しい。また、これまでに読んだ部分が次の理解に役立つこともあるため、過去の読書経験そのものが無意味になるわけでもない。重要なのは、過去に費やした時間を取り戻すために読み続けることと、これまでの知識を生かして新しい理解を得るために読み続けることを区別することである。

 途中で本を閉じることは、その本を否定することでもない。数年後にもう一度開けば、以前とは違う本に見えるかもしれないし、別の本を読んでから戻れば、それまで理解できなかった一節が急に意味を持ち始めることもある。未読のページを残したまま本棚へ戻すことは、本との関係を完全に終わらせることではなく、読む時期や方法を選び直すことでもある。

それでも、最後まで読まなければ見えない本がある

 一方で、途中でやめる自由ばかりを強調すれば、読書のもう一つの大切な側面を見失う。本によっては、最後まで読まなければ十分に姿を現さないものがある。小説では、冒頭では何気なく見えた場面が、終盤になって突然別の意味を帯びることがある。思想書でも、最初に提示された問いが何百ページもの議論の中で少しずつ形を変え、最後に至って初めて、著者が何を問題にしていたのかが見えてくることがある。文章の一部分を理解することと、一冊の構造を理解することは同じではない。

 本は単なる情報の容器ではない。もし本の価値が個々の情報だけにあるなら、目的によっては要約や必要な章を読むだけで十分な場合もある。しかし一冊の本には、著者がどの順序で問いを立て、どのような根拠を示し、どこで立ち止まり、何を繰り返し、どのような結論へ向かうのかという構造がある。結論だけを知ることはできても、そこに至る論証や表現の積み重ねを十分に理解するには、途中の過程を読む必要がある場合もある。

 たとえば哲学書では、ある主張を最初から結論として示してしまえば、かえってその意味が理解しにくくなることがある。著者がなぜ従来の考え方を疑い、どのような反論を検討し、何を根拠に新しい立場を示したのかを追うことで、初めて結論の意義が見えてくるからである。文学作品でも同じように、結末の事実だけを知ることと、そこに至る人物の変化や物語の構造を経験することは異なる。

 ただし、これもすべての本に当てはまるわけではない。辞典や実用書、独立性の高い論考を収めた本などは、必要な部分を読むだけで目的を達成できる場合がある。また、思想書であっても、特定の論点を調べるために読むのであれば、全体を読破する必要がないこともある。最後まで読むことの重要性は、その本の構造と読者の目的によって変わるのである。

 難しい本を最後まで読むことに意味があるとすれば、その理由の一つは、著者が組み立てた思考の過程を、読者自身がたどれることにあるだろう。読了とは、単に答えを受け取ることではなく、一人の他人が長い時間をかけて考えた道筋を、自分の足でも歩いてみることなのである。そして、その道筋をたどった結果として著者の結論に納得することもあれば、むしろ納得できない理由が明確になることもある。読了の価値は、著者に同意することだけにあるのではない。

読書の目的によって、正しい読み方は変わる

 ここで見落としてはならないのは、すべての読書が同じ目的で行われるわけではないということである。知識を身につけるために読む人もいれば、仕事上の問題を解決するために読む人もいる。資格試験のために必要な範囲を学ぶ人もいれば、物語を楽しむことや、日常生活から一時的に離れることを目的とする人もいる。そのため、読了することの必要性や、理解の深さを確かめる方法も、読書の目的によって変わってくる。

 学校教育では、指定された課題図書を最後まで読むことが学習活動の一部になる場合がある。また、資格試験や専門教育では、本人の好みにかかわらず、必要な範囲を体系的に学ぶことが求められる。学術研究においても、ある著者の理論を批判的に検討するのであれば、結論だけではなく論証全体を把握しなければ、公正な評価ができない場合がある。こうした読書では、途中でやめる自由があるかどうかという問題と、学習や研究の目的を達成できるかどうかという問題を分けて考える必要がある。

 一方、趣味として読む本については、事情が異なる。娯楽小説を読む目的が楽しむことであるなら、細かな内容を後から説明できなくても、その時間に満足していれば十分な価値があったと言える。詩や随筆であれば、全文の論理構造を理解することより、一つの表現に心を動かされることが重要な場合もある。読書を知識の習得だけで評価すれば、こうした経験を過小評価してしまうだろう。

 つまり、難しい本を最後まで読むべきかという問いには、最初に「何のために読むのか」という別の問いが含まれている。目的が明確になれば、読み続けることが必要なのか、別の本を読むべきなのか、いったん中断して知識を補うべきなのかも判断しやすくなる。読了はさまざまな読書目的を実現するための一つの方法であって、すべての目的に共通する唯一の到達点ではないのである。

本が「知性の証明書」になったとき

 読書には、もう一つ厄介な誘惑がある。難しい本は、ときに知性や教養を象徴するものとして扱われるため、哲学書や古典文学、大部の思想書を読んでいるという事実そのものが、「自分はこういう人間である」という自己像と結びつくことがある。本の所有や読書習慣が文化的な自己表現になることはあり、本棚は単なる保存場所ではなく、そこに何を置くかによって、自分自身の知的な関心や価値観を示す場所にもなり得る。

 もちろん、難しい本を読む人が、他人に知的に見られたいから読んでいると決めつけることはできない。純粋な好奇心から読む人もいれば、長年関心を抱いてきた問題を考えるために読む人もいるし、難しい議論に取り組む過程そのものを楽しむ人もいる。しかし、読書が自分の知性を証明するための行為に近づいたとき、本と読者の関係が少しずつ変化することは考えられる。

 本来、本は読者の考え方を揺さぶることもある存在なのに、いつの間にか読者が自分のイメージを守るために本を利用し始める。難しくて退屈なのに閉じられず、意味が分からないままページだけを進め、最後まで読み終えたあとで「難しかったが勉強になった」と言いながら、具体的に何を学んだのかは自分でも分からないとすれば、その読了は知的経験というより、自己確認のための儀式に近づいているのかもしれない。

 もっとも、儀式のような読書にも、必ずしも意味がないわけではない。苦労して一冊を読み切った経験が自信につながり、その後さらに難しい本へ向かう入口になることもある。読書を続ける習慣を形成するうえでは、読了という分かりやすい目標が役立つ場合もあるだろう。しかし、完走そのものが目的になり、なぜ読んでいるのかを考える機会が失われてしまえば、読書は内容を理解する活動ではなく、忍耐力を確認する活動へ変わってしまう可能性がある。

 読むことと耐えることは、重なる部分があっても同じではない。難しい問題について粘り強く考え続けることには価値があるが、その価値は苦痛を長く耐えたという事実だけから生まれるわけではない。困難を通じて何を理解し、どのような問いを持つようになったのかという点も、同じように重要なのである。

読み続けるか、いったん閉じるか

 では、実際に難しい本を前にしたとき、読み続けるか、いったん閉じるかをどのように判断すればよいのだろう。ここで有効なのは、単に面白いか退屈かだけではなく、なぜ理解できないのかを確かめることである。用語が分からないのであれば調べることで改善するかもしれないし、背景知識が不足しているのであれば入門書に戻るほうが効率的かもしれない。また、議論の一部分は分からなくても、著者の問いそのものに強い関心が残っているなら、その先を読む意義はあるだろう。

 反対に、何十ページか読み進めても、現在の自分の目的との関連が見いだせず、別の本を読むほうが必要な理解に近づけると判断できるなら、途中で閉じることにも合理性がある。ここで大切なのは、難しいという感覚だけを理由に中断することでも、読了していないという事実だけを理由に継続することでもない。読み進めることで何が得られる可能性があるのか、そのために何を補う必要があるのかを考えることである。

 また、判断を一度で確定する必要もない。しばらく読み進めてから考え直してもよいし、前提となる知識を学んでから戻ってもよい。分からなかった箇所に印を付けて先へ進む方法もあれば、章ごとに内容を整理しながら読む方法もある。本によっては通読するほうが全体像を把握しやすく、別の本では必要な章から読み始めるほうが適切な場合もある。読書の方法は一つではなく、その本の性質と読者の目的に合わせて選ぶことができる。

 このように考えると、読書を途中でやめることと、難しい本から逃げることは必ずしも同じではない。むしろ、自分に何が必要で、何がまだ不足しているのかを把握することは、学習を進めるうえで重要な能力の一つである。ただし、何度も難しい箇所を避けているうちに、本来必要な知識へ到達できなくなる可能性もあるため、中断という判断にも振り返りは必要だろう。読み続けることにも、閉じることにも、それぞれ適切な理由が求められるのである。

読書の意味は、読み終えた日に決まらない

 昔読んだ本を思い出そうとすると、不思議なことに気づく。最後まできちんと読んだはずなのに、題名以外はほとんど何も覚えていない本がある一方、途中で読むのをやめた本の一節だけが、何年たっても突然頭に浮かぶことがある。もちろん、これは個々人の読書経験についての観察であって、途中でやめた本のほうが記憶に残りやすいという一般的な法則を意味するものではない。それでも、読書の価値が読了した瞬間の記憶や理解だけでは決まらないことを考えるきっかけにはなる。

 ある言葉が数年後になって、自分の経験と結びつくことがある。若いころには理解できなかった登場人物の気持ちが、年齢を重ねた後になって初めて分かることもある。一度読んだ本を何年か後に開き、「こんなことが書いてあったのか」と驚く経験もあるだろう。読書によって得られた知識や解釈が、その後の経験によって変化することは十分に考えられる。ただし、すべての読書にこうした長期的な影響が生じるわけではなく、読書が人生観をどの程度変化させたのかを客観的に測定することも容易ではない。

 それでも、本を閉じたからといって、その本との関係まで必ず終わるわけではない。読んでいる最中には十分に理解できなかったものが、後になって別の意味を持つこともある。以前は納得していた主張に疑問を感じるようになることもあれば、忘れかけていた一節を思い出し、それまでの経験を考え直すこともある。読書とは、最後のページで完結する場合もあれば、本を閉じた後も読者の中で解釈が変化していく経験になる場合もあるのだろう。

 そう考えると、「何冊読んだか」という問いだけで読書経験を評価するのは、少し粗すぎる。「どの本が自分の中に残ったのか」「どの本によって以前とは違う問いを持つようになったのか」「どの本について、いまも考え続けているのか」という問いにも意味がある。ただし、読書の価値を思考の変化だけに限定する必要もない。一時の楽しさや安らぎを与えてくれた本にも、必要な情報を提供してくれた本にも、それぞれの価値がある。読書の豊かさは、単一の尺度では測り切れないのである。

難しい本は、征服するものではない

 では結局、難しい本を最後まで読むことには意味があるのだろうか。おそらく答えは、「意味はある。しかし最後まで読むこと自体が、常にその意味なのではない」という少し面倒なものになる。最初には理解できなかったものが、読み続けることでつながり、自分の見方が少し変わったなら、読了には大きな意味がある。一方で、理解することよりページを進めることが目的になり、読書を続ける理由が過去に費やした時間だけになっているなら、途中で立ち止まることにも意味がある。

 大切なのは、本に勝つことではない。難しい本を前にすると、私たちはつい「理解してやろう」「読み切ってやろう」と考える。しかし本は山ではなく、最後のページは山頂でもない。読了したからといって、その本を完全に理解したことにはならず、むしろ読み終わった後になって、初めて新しい疑問が生まれることもある。その疑問は、理解が不十分だったことを示す場合もあれば、それまで考えていなかった問題に気づいたことを示す場合もある。

 読む前には単純だった問いが、読み終えた後には複雑になることがある。正しいと思っていたことに迷いが生まれ、自分には関係ないと思っていた問題が気になり始め、それまで一つしかないと思っていた世界に別の見方があることを知る。もし一冊の本がそんな変化を残したのなら、たとえ内容のすべてを理解できなかったとしても、その読書には十分な意味があったのではないだろうか。

 反対に、理解を深めることを目的として読み始めたにもかかわらず、最後の一ページまでたどり着いたという事実だけが残ったとすれば、その読了を十分な学びの証明とすることは難しい。もちろん、楽しみや休息のための読書であれば、それでもかまわない。問題は、自分が何のために読んでいるのかを見失ったまま、読了という形式だけで読書の成果を判断してしまうことである。

 難しい本を最後まで読むべきかどうかを決める基準は、単に読了できるかどうかではなく、その本を読む目的がまだ残っているか、その先に理解や発見の可能性を見いだせるかという点にあるのかもしれない。問いが残っているなら、ゆっくり読めばよく、同じページへ何度戻ってもよく、別の本を読んでから帰ってきてもよい。そして、いまの自分にとって読む理由がなくなったなら、そのときはいったん本を閉じればよい。

 読書とは、最後のページまで到達する競技ではない。もちろん、最後まで歩かなければ見えない景色もあり、困難な道を進むことでしか得られない理解もある。しかし、途中で立ち止まった場所から見える景色にも、意味がある場合がある。一冊の本と出会ったことで、それまでとは少し違う問いを持つようになり、その問いが本を閉じた後にも残り続けるのなら、たとえ栞が本の途中に挟まれたままであっても、その読書はすでに読者の中で何かを始めているのである。

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