リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

タモリ倶楽部が教えてくれた役に立たない知識の面白さ

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 世の中には、知っていても人生がそれほど便利にはならない知識がある。鉄道の線路のわずかな違い、専門業者しか使わない道具の名称、街角に残された妙な設備、外国の歌が偶然日本語のように聞こえる一瞬。試験には出ないし、履歴書にも書けない。それを知ったからといって給料が上がるわけでもなければ、仕事が速くなるわけでもない。それなのに人間は、そういう知識に出会ったとき、なぜか少し嬉しくなる。

 『タモリ倶楽部』という番組は、40年以上にわたって、その不思議な喜びをテレビの中に残していた。

 1982年10月に始まり、2023年3月に終了したこの番組を振り返ると、普通のテレビ番組とは少し違った場所に立っていたことに気づく。世間で話題になっているものを急いで追いかけるわけでもなければ、社会的に重要な問題を真正面から論じるわけでもない。むしろ、普通なら企画会議で「それを誰が見るのだろう」と心配されそうな題材を、面白そうだからという理由で拾い上げ、そこに時間を費やしていた。

 鉄道、地図、地形、楽器、機械、工具、道路、建築物。ある分野では知られていても、世間一般にはほとんど名前の通っていない専門家や愛好家が現れ、普通の人には見分けのつかない違いについて熱心に語る。するとタモリも、その細部へ面白がって入っていく。そこでは「この知識は何の役に立つのですか」という問いが、ほとんど必要とされていなかった。

 いま考えると、それこそがこの番組の珍しさであり、同時に知識というものの本来の面白さを映していたのかもしれない。

「何の役に立つのか」と聞かない世界

 私たちは子どものころから、知識には何か目的が必要だと教えられることが多い。学校で勉強するのは試験のため、資格を取るのは仕事のため、外国語を学ぶのは海外で使うため、情報を集めるのは判断のためというように、知ることにはいつの間にか「その先」が要求される。

 もちろん、それ自体は間違っていない。知識が生活を便利にし、仕事を助け、社会の問題を解決してきたことは疑いようがない。しかし、知識の価値を役に立つかどうかだけで測り始めると、まだ用途の分からないもの、あるいはそもそも用途を必要としないものは、知らなくてもよいものとして扱われやすくなる。

 ところが人間の好奇心は、それほど実用一点張りにはできていないらしい。心理学や行動科学では、直接的な報酬や意思決定に役立たなくても、人が情報を知りたがる行動が研究されている。例えば、結果を事前に知っても当選確率や受け取る金額を変えられないくじについて、それでも結果を早く知るために対価を支払う人がいることが実験で確認されている。情報を知ること自体に、何らかの主観的な価値があると考えられるのである。

 もっとも、これは情報が何の利益ももたらさないという意味ではない。不確実なことが分かる安心感や、知らなかったことを知る満足感も、人間にとっては利益になり得る。経済学的に考えても、ある知識が収入や仕事の効率を高めないからといって、その知識の価値がゼロになるわけではない。実用的な利益と、知ることによって得られる楽しさや満足感は、区別して考える必要がある。

 『タモリ倶楽部』は、その人間の性質を番組の形式にしていたように思える。

 何かを知る理由は、それが面白いからでもよい。道路の片隅にあるものの名前を知りたくなったら調べればよく、普通の人には見分けのつかない機械の違いを見分けられる人がいるなら、その人の話を聞いてみればよい。その世界に入ったところで明日から人生が変わらなくても、昨日まで存在すら意識していなかったものが、今日から少し違って見えるなら、それだけでも知る価値はある。

 考えてみれば、子どもの学びにはそのような場面がいくつもある。将来何かに使えるからという理由ではなく、ただ気になるから質問し、石を拾い、雲を眺め、乗り物の名前を覚え、同じことを何度も確かめる。もちろん子どもの好奇心にも個人差はあるが、少なくとも人間には、外から目的を与えられなくても「知りたい」と感じる力がある。

 大人になるにつれて、仕事や生活の中で、目の前の目的とは関係のないことに関心を向ける機会は少なくなるのかもしれない。しかし、好奇心そのものが年齢とともに単純に衰えるわけではない。心理学の研究では、普段から幅広い情報を探求する傾向と、具体的な情報に出会ったときに生じる好奇心は、年齢との関係が異なることも報告されている。新しい知識に触れたことで、それまで意識していなかった関心が呼び起こされることは、大人になってからも十分にあり得る。

 『タモリ倶楽部』は、大人がそうした好奇心を遠慮なく表に出せる場所でもあった。

世界には、自分の知らない専門家がいる

 『タモリ倶楽部』を見ていると、もう一つ不思議なことに気づかされた。世の中には、こちらが存在さえ知らなかった世界について、驚くほど詳しい人がいるということである。

 テレビ番組には、有名な俳優や歌手、芸人の知名度を中心に構成されるものも多い。しかし『タモリ倶楽部』では、取り上げる題材によって、専門家や愛好家が話の中心になることがあった。ある専門分野について話し始めれば、その瞬間だけは芸能人の知名度よりも、その世界を長年観察し続けてきた人の知識や経験の方が、番組を面白くする力を持つ。

 そこには、知識についての小さな民主主義のようなものがあった。

 世間的な地位や知名度と、ある分野について深く知っていることは、必ずしも一致しない。一見すれば狭すぎる趣味であっても、長い時間をかけて観察し続ければ、そこには固有の知識と見方が生まれる。もちろん、専門的な知識の獲得には教育や経験、時間、資料へのアクセスなどの条件も必要になるが、社会的な知名度が低いからといって、その知識まで価値が低いわけではない。

 面白いのは、知識そのものだけではなく、その知識を語る人の熱意が伝わってくることである。こちらにはまったく興味のなかった分野なのに、詳しい人が嬉しそうに話しているのを聞いているうちに、なぜかこちらまで面白くなってくる。それは単に新しい情報を受け取っているのではなく、「こんなふうに世界を見ることができるのか」という別の視点を教えられているからだろう。

 同じ道路を歩いていても、建築に詳しい人は建物の形や構造を見るかもしれず、道路設備に詳しい人は標識やガードレールを見るかもしれない。鉄道好きなら線路の分岐や構造に目が向き、電気設備に関心があれば電柱や配線が気になる。私たちは同じ景色を見ていても、知識や経験によって、そこから受け取る情報が異なっているのである。

 心理学では、経験や訓練によって知覚や識別の能力が変化する現象を、知覚学習と呼ぶ。繰り返し対象を観察し、その違いを見分ける経験を重ねることで、それまで同じように見えていたものの差異に気づけるようになる場合がある。ただし、名称や説明を一度覚えただけで、直ちに専門家と同じように識別できるわけではない。知識と実際の観察経験が結びつくことで、世界の見え方が変わっていくのである。

 つまり知識とは、頭の中に情報を蓄えることだけではない。何に注意を向け、どのような違いを見つけ、何を面白いと感じるかにも関係している。知らなかったものが見えるようになるという意味で、知識は世界の解像度を少し上げるものなのかもしれない。

 『タモリ倶楽部』の専門家や愛好家たちは、そのことを理屈ではなく、自分たちの話しぶりによって示していた。

「空耳アワー」が見せた、間違えることの豊かさ

 その意味では、長く親しまれた「空耳アワー」も、この番組を象徴する存在だった。

 外国語の歌詞が偶然日本語のように聞こえる。冷静に考えれば、それは本来の歌詞とは異なる聞き取りである。外国語の学習なら訂正すべき対象になるし、正確な情報伝達なら誤りとして扱われる。

 ところが『タモリ倶楽部』は、その間違いを捨てなかった。むしろ「そう聞こえてしまう」という人間の耳の曖昧さを面白がり、そこへ映像まで付けて一つの作品にしてしまった。正しい歌詞を確認すれば数秒で終わる話を、わざわざ遠回りして遊び、その無駄の中から笑いを作ったのである。

 これは考えてみれば、少し不思議な態度である。

 そもそも、人間は音を耳から受け取ったとおりに、機械的に認識しているわけではない。私たちの脳は、聞こえてきた音の特徴だけでなく、それまでに知っている言葉や文脈、次に何が聞こえるかという予測などを手掛かりにして、音声を解釈している。そのため、同じ音を聞いていても、あらかじめどのような言葉が聞こえると言われたかによって、聞こえ方が変わることがある。

 実際に、歌曲の歌詞が別の言語の言葉として聞こえる現象を調べた心理学の実験では、別の歌詞の解釈を事前に知っていることが、そのような聞こえ方に影響することが報告されている。空耳は単に外国語が分からないために生じるものではなく、人間の知覚が過去の知識や期待によって影響を受けることを示す現象でもある。

 「空耳アワー」で一度紹介された日本語の歌詞を覚えてしまうと、次に同じ曲を聞いたとき、どうしてもその言葉が頭に浮かんでしまうことがある。本来の歌詞を知っていても、別の言葉に聞こえる感覚が簡単には消えない。そうした経験には、私たちの耳がいかに柔軟で、同時に思い込みの影響を受けやすいかが表れている。

 現代では、情報へ到達する速度は以前よりはるかに速くなった。検索すれば短時間で大量の情報に触れることができ、人工知能も質問に素早く回答する。しかし、情報を得る速さと、その情報が正しいかどうかは別の問題であり、正確さを確かめる作業は依然として必要である。そして、仮に正解へ早く到達できたとしても、途中に現れた間違いや偶然を面白がることとは、また違う価値がある。

 人間の文化を振り返れば、勘違い、聞き間違い、言葉遊び、偶然の連想から、新しい冗談や表現や物語が生まれることもある。もちろん、医療や交通、災害情報のように、間違いを放置してはならない場面もある。誤りはどのような場合でも歓迎されるものではないが、正確さが求められる場面と、間違いを創造的に楽しめる場面は区別できるはずである。

 「空耳アワー」が面白かったのは、誤った認識を正解に置き換えるのではなく、その認識が生み出す別の可能性を楽しんだからだろう。そこには、正解を見つける能力とは異なる、言葉や知覚の曖昧さを遊びに変える人間の知性があった。

検索できる時代ほど、偶然に出会うことが重要になる

 インターネットが普及してから、「知識を覚える必要は以前ほどない」という考えを耳にすることが増えた。分からなければ検索すればよいというわけで、必要な情報を素早く参照できる環境には、確かに大きな利点がある。

 しかし、検索という行為には構造上の特徴がある。検索は、すでに言葉になっている疑問を調べることには非常に強いが、そもそも自分が存在を知らないものについては、検索語を思いつくことさえ難しい。

 街の片隅に奇妙な設備があったとして、その存在に気づかなければ調べようとは思わない。誰かが鉄道について楽しそうに話しているのを見なければ、自分が鉄道の構造を面白いと思う人間だったことに、いつまでも気づかなかったかもしれない。

 情報を得るためには、何を知りたいのかが最初から分かっていなければならないわけではない。むしろ、まだ自分の中に問いが存在していない段階で、予想外の情報に出会うことがある。その情報が気になって調べ始め、初めて自分が何を知りたかったのかに気づくことさえある。

 情報学では、このように明確な探索目的がないときや、別の情報を探している途中に、偶然興味深い情報を見つける現象が研究されている。情報との偶然の出会いは、情報探索の失敗や脱線としてだけでなく、新しい関心や知識を生み出す契機として捉えられている。

 もちろん、偶然見つけた情報が必ず有益だとは限らない。誤った情報や、関心を引くだけで内容に乏しい情報に出会うこともある。偶然の発見が知識の広がりにつながるためには、その情報の正確さや意味を考え、必要に応じてさらに確かめることも大切になる。

 また、現代のインターネットには、検索だけではなく、関連情報や推薦システムを通じて未知のものに出会う仕組みも存在する。動画の推薦から知らなかった音楽に出会ったり、興味のなかった学問の解説に触れたりすることもある。デジタル化によって偶然の発見が失われたという単純な話ではなく、偶然の出会いが生まれる場所や仕組みが変化しているのである。

 『タモリ倶楽部』が毎週のように差し出していたものも、答えというより、そのような入口だったのではないだろうか。

 知らなくても困らない。しかし、知ってしまえば少し気になる。その小さな気掛かりから別の知識へ進み、さらに別の世界へ横道をそれていく。そこには、最短距離で答えを得ることとは違う、知識との付き合い方があった。

好奇心は、記憶にも影響する

 役に立つ知識には、多くの場合、学ぶ理由が外側から与えられている。試験に合格するため、仕事をするため、収入を得るため、生活を便利にするためである。それに対して、すぐには何の役に立つか分からない知識の場合、そうした外側の目的が弱くても、人はただ知りたいという理由だけで調べることがある。

 心理学では、報酬や評価のためではなく、活動そのものへの興味や楽しさによって行動することを、内発的動機づけと呼ぶ。好奇心はこうした動機づけと深く関係しており、知りたいという気持ちが情報探索や学習を促すことがある。ただし、好奇心と内発的動機づけはまったく同じ概念ではない。好奇心は未知の情報を知りたいという心理的な状態や傾向であり、その好奇心が行動の動機となることがあると考える方が正確である。

 興味深いのは、好奇心が学習の意欲だけでなく、実際の記憶成績にも関係することである。雑学問題を利用した心理学の実験では、答えに対する好奇心が高いときの方が、低いときよりも、その答えを記憶しやすいことが報告されている。さらに、答えを待っている間に偶然示された人物の顔についても、好奇心が高い状態では記憶が促進される場合が確認されている。

 その後、複数の研究結果を統合した分析でも、好奇心の高さと記憶成績の間には一定の関連が認められている。ただし、知りたかった情報そのものに対する効果と、周辺で偶然触れた情報に対する効果は同じではなく、後者の効果は比較的小さい。また、好奇心が高ければ、どのような情報でも必ず記憶に残るという意味ではない。

 それでも、「面白いから知りたい」という状態が、単なる気分の問題ではなく、学習の結果にも関係するという点は重要である。

 そう考えると、「誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう」という経験にも、少し説明がつく。試験のために覚えた用語は忘れてしまったのに、何年も前にテレビで聞いた奇妙な道具の名前は、なぜか今でも覚えている。興味を持って知ったことは、自分の経験や感情と結びつき、後になって思い出しやすくなる場合がある。

 もちろん、役に立たない知識だから記憶に残るわけではない。大切なのは、その情報にどれだけ関心を持ち、どのように接し、その後どれだけ思い出したり使ったりしたかということである。番組を見ることで視聴者全員の記憶力が高まったという証拠があるわけでもないし、もともと好奇心の強い人が『タモリ倶楽部』を好んで見ていた可能性もある。番組の視聴と知識への関心の間に関係があったとしても、それだけで因果関係を断定することはできない。

 しかし、少なくとも私たちの経験として、誰にも求められず、何の目的もなく覚えてしまったことが、長い年月を経ても残っている場合はある。そして、そのような知識こそ、妙に自分らしい。

無駄だからこそ、自分で選んだものになる

 誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう。試験に出ないのに調べてしまう。人に話せば「それを知ってどうするの」と言われそうなのに、なぜか気になる。そうした知識には、実用性とは別の魅力がある。

 もちろん、趣味の知識であっても、仲間との交流や社会的評価、将来の仕事など、外側の目的と結びつくことはある。好きなことを続けた結果、専門家として活動するようになる人もいれば、趣味を通じて新しい人間関係を築く人もいる。趣味と実用、楽しみと利益の間に、はっきりした境界線があるわけではない。

 それでも、少なくとも始まりのところでは、「面白いから」という理由だけで十分な場合がある。

 趣味というものも、おそらくそのような場所から育っていく。

 効率だけを考えれば、模型を作る必要も、古いレコードを集める必要も、廃線跡を歩く必要も、珍しい道具を調べる必要もない。しかし人生からそうした「必要ではないこと」をすべて取り除けば、残るのは生活を維持するための行動ばかりになってしまうだろう。

 人間の生活を豊かにしているもののかなりの部分は、生命を維持するという基準だけで考えれば、必須とはいえない。音楽も、小説も、旅行も、趣味も、それがなければ生きていけないというものではない。それでも私たちは、それらのために時間やお金を使う。人間はただ生き延びるだけではなく、世界に意味や面白さを見つけながら生きているからだろう。

 「役に立たない」という言葉は、ときに「価値がない」という意味で使われる。しかし、役に立つことと価値があることは、本来同じではない。仕事に役立つという価値もあれば、心が満たされるという価値もある。仲間との会話が生まれることも、日常の風景が違って見えることも、本人にとっては大切な価値になり得る。

 そして、自分で面白いと思ったものを、自分の意思で追いかけることには、他人から決められた目標に従うこととは違う意味がある。何かを達成するためではなく、そのこと自体を楽しめる時間は、生活の中で自分の関心を自由に選べる時間でもある。

 『タモリ倶楽部』が大切にしていたように見えるのは、そのような自由だった。

「無駄」を許せる場所は残っているか

 そのように考えると、『タモリ倶楽部』が40年以上続いたこと自体が、少し不思議に思えてくる。

 テレビ番組にも視聴率があり、広告には効果が求められ、インターネットの記事には閲覧数があり、動画には再生回数が表示される。何かを作れば、その成果が数字になって返ってくる場面は、現在の情報環境の中に数多く存在している。

 数字が悪ければ改善し、成果の出ないものを見直す。それは組織を運営するうえで合理的な判断であり、効率を求めること自体が悪いわけではない。番組や記事を継続するには費用がかかり、それを支える収入や人員も必要になる。どれほど面白い企画であっても、経済的な条件から完全に自由であることは難しい。

 ただし、数字による評価が必ずしも小さな趣味や専門的な関心を排除するわけではない。インターネットでは、従来の大衆向け番組では取り上げにくかった非常に専門的な話題でも、少数の熱心な愛好者に届けられることがある。閲覧数や視聴データによって、これまで見えなかった関心の存在が明らかになる場合もある。

 問題は数字そのものではなく、何を成果とみなし、どのくらいの時間をかけて評価するかということなのだろう。短期的な閲覧数や視聴率だけを重視すれば、すぐに大勢の関心を集める企画が有利になる。一方、最初は注目されなくても、時間をかけて支持される内容や、少数の人に深い満足を与える内容を評価するなら、違った選択も可能になる。

 もともと放送には、報道や教育、教養とともに娯楽という役割がある。娯楽が存在するために、必ずしも直接的な実用性や大きな社会的意義を証明しなければならないわけではない。しかし、商業放送として番組を継続するには、制作費、広告収入、編成方針、視聴者の支持など、さまざまな条件を満たす必要がある。『タモリ倶楽部』も、そうした現実の中で40年以上続いてきた番組だった。

 それでも、この番組には、数字だけでは説明しきれない面白さがあったように思える。

 大げさな感動を作る必要もなく、社会的意義を宣言する必要もなく、人生の教訓へ結びつける必要もない。ある世界について異様に詳しい人がいて、タモリが興味を示し、周囲の人間も面白がる。それだけで番組になる。

 そこには、知的好奇心を急いで成果へ変換しない自由があった。

 もちろん、この番組が続いた理由を、自由な企画だけに求めることはできない。タモリ自身の存在感、出演者とのやり取り、制作スタッフの工夫、長年の視聴者の支持など、さまざまな要因が重なっていたはずである。けれども、そうした条件のもとで、実用性を簡単には説明できない題材に時間をかける番組が長く存在したことには、やはり特別な意味があったように感じる。

「役に立たない」という言葉を疑ってみる

 しかし、ここまで考えてくると、そもそも「役に立たない知識」という言い方自体が少し怪しくなってくる。

 知ったことで仕事の能率が上がるわけではない。収入も増えない。資格も取れない。しかし、それまで見えていなかったものが見えるようになるなら、その知識はまったく役に立っていないのだろうか。

 道路を歩いているとき、それまで単なる鉄の箱にしか見えなかったものの意味が分かる。電車に乗ったとき、線路の分岐や形が少し気になる。音楽を聞いていると、妙な聞こえ方に気づく。それだけで、昨日とまったく同じ街が少し違って見える。

 知識には、問題を解決するための道具としての役割だけではなく、世界の見え方そのものを変える役割もある。何かを知ることで注意を向ける場所が変わり、今まで見過ごしていた違いに気づくことがある。それは新しい道具を手に入れることとは違うが、自分と世界との関係が少し変わる経験といえるだろう。

 さらに、その知識がいつ、どのような形で役に立つかは、最初から分かるとは限らない。趣味で覚えた地形の知識が地域の歴史への関心につながることもあれば、何となく調べた機械の仕組みが、別の分野を理解する手掛かりになることもある。ただし、こうした可能性を理由に、あらゆる雑学が将来必ず役立つと考えるのも適切ではない。後になって具体的な用途が生まれない知識も、当然ある。

 それでも、その知識を得る過程が楽しかったという事実まで消えるわけではない。知識の価値は、将来の利益だけでなく、知るという経験そのものにも存在し得るからである。

 そう考えるなら、「役に立たない知識」とは、本当に何の価値もない知識ではなく、役立ち方を仕事の成果や収入といった数字に簡単には置き換えられない知識なのかもしれない。

知識とは、世界を少し面白くするもの

 『タモリ倶楽部』が2023年に終了したとき、テレビ朝日は、1982年の放送開始以来40年という節目を迎え、番組としての役割を十分に果たしたという趣旨の説明をした。終了については総合的な判断があったとされ、その理由を一つに特定することはできない。長年続いた番組にも、さまざまな事情の中で終わりが訪れる。

 しかし、番組が残した見方まで終わったわけではない。

 街を歩いているとき、誰も気にしていない看板が気になる。電車に乗っているとき、線路の分岐を眺めてしまう。知らない専門用語を見つけると意味を調べたくなる。外国の歌を聞いて、妙な日本語が聞こえたような気がして、一人で笑ってしまう。

 その瞬間、私たちは少しだけ『タモリ倶楽部』の視聴者に戻っている。

 役に立つかどうかを決める前に、まず面白がってみる。知らないものに出会ったとき、それをすぐ自分には関係のないものとして閉じるのではなく、もう少し眺めてみる。詳しい人がいるなら、その人の話を聞いてみる。すぐには理解できなくても、何がそんなに面白いのかを知ろうとしてみる。

 すると世界は、思っていたよりずっと細かくできていることに気づく。道路には道路の事情があり、鉄道には鉄道の事情があり、工具には工具の事情があり、歌には聞き間違える余地があり、それぞれについて驚くほど詳しい誰かがどこかにいる。

 人生に本当に必要なのは、すぐに役に立つ知識だけなのだろうか。

 「こんなことを知っていて何になるのだろう」と笑いながら覚えたことの方が、何十年も記憶に残っていることがある。その知識は仕事を助けなかったかもしれないし、お金にもならなかったかもしれない。しかし、それを知ったことで世界の一部分が昨日より面白く見えたのなら、それを完全に「役に立たなかった」と呼ぶことは難しい。

 『タモリ倶楽部』が長い時間をかけて見せてくれたのは、知識にはもう一つの使い道があるということだったのかもしれない。問題を解くためでも、誰かに勝つためでも、効率よく目的へ到達するためでもなく、知らなかった世界に一歩だけ入り込み、その世界を昨日より少し面白く見るために知るのである。

 知ることが楽しいから知る。誰かが面白がっている世界を、自分も少しのぞいてみる。その先に具体的な利益が待っているかどうかは、最初から分かっていなくてもかまわない。

 役に立つかどうかは、そのあとで考えればいい。

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