リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

昭和40年代から50年代に青春時代を過ごした人にとって、「深夜ラジオ」という言葉は、単なる放送番組のジャンルを意味するものではないだろう。

家族が眠ったあとの部屋で、音量を絞ったラジオに耳を傾ける。勉強机の上には教科書や参考書が開かれているけれど、本当に待っているのは午前零時、あるいは午前一時から始まる番組だった。少し雑音の混じった声の向こうに、自分と同じ時間を起きている誰かがいる。

テレビが家族で共有することの多いメディアだった時代、小型化したラジオは、若者が自分の部屋で一人で聴くことのできる、より個人的なメディアになっていった。なかでも深夜放送は、親や学校とは少し違った世界を若者に見せてくれた。

だから昭和の深夜ラジオを振り返ることは、懐かしい番組を思い出すだけではない。それは、インターネットもスマートフォンもなかった時代に、若者たちがどのように自分だけの時間を持ち、自分たちの文化をつくっていったのかを考えることでもある。

深夜に「若者の時間」が生まれた

日本の深夜放送が若者文化として大きく広がっていったのは、1960年代後半だった。

TBSラジオの『パック・イン・ミュージック』は1967年に始まり、1982年まで15年間放送された。放送番組センターの放送ライブラリーも、この番組を当時の若者を強く引きつけた代表的な深夜番組として位置づけている。

同じ1967年10月2日深夜25時、すなわち10月3日午前1時には、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が放送を開始した。半世紀以上にわたり続くことになる、若者向け深夜放送を代表する番組の誕生だった。

さらに文化放送では、1969年6月2日深夜に『セイ!ヤング』が始まった。当時、深夜放送を聴く人々は「みみずく族」と呼ばれることもあったという。『セイ!ヤング』は、そうした夜更かしをする若い聴取者と結びつきながら人気を広げていった。

こうして1960年代末には、主要なラジオ局で若者を強く意識した深夜番組が相次いで登場した。

重要なのは、単に放送時間が夜遅くなったということではない。

深夜という、それまで社会的には目立たなかった時間帯に、「若者のための時間」が生まれたことである。

テレビは家族のもの、深夜ラジオは自分のものだった

昭和の家庭では、テレビは茶の間や居間に置かれ、一台を家族で見ることが多かった。

何を見るかは必ずしも自分一人では決められない。チャンネルを誰が選ぶかという小さな争いさえ、当時の家庭の日常の一つだった。

それに対して、小型のラジオなら自分の部屋へ持っていくことができた。イヤホンを使えば、家族が眠ったあとでも一人で聴くことができる。

この違いは大きい。

昼間の若者は、学校では生徒であり、家庭では子どもだった。しかし深夜になり、周囲が眠りにつくと、その役割から一時的に離れることができる。

そこへラジオから聞こえてくるのは、昼間のテレビ番組とは少し違う言葉だった。

くだらない冗談を延々と話すこともあれば、恋愛について語ることもある。音楽の話、学校への不満、若者自身の悩みが取り上げられることもあった。

当時の深夜放送が若者にどのように受け止められていたかを示す興味深い記録も残っている。文化放送のアーカイブには、1969年に高校生が制作した「深夜放送をさぐる」という番組があり、同世代の若者がなぜ深夜放送を聴くのかを調べている。つまり、深夜ラジオが若者の生活文化として意識される現象は、すでに1960年代末には起きていたのである。

また当時の文化放送には、『セイ!ヤング』とは別に、若者を取り巻く社会問題などを本音で語る深夜番組も存在した。

深夜という時間帯そのものが、昼間とは違う言葉を許す場所になっていたと考えることができる。

パーソナリティは「遠い芸能人」ではなかった

深夜放送を特徴づけたもう一つの存在が、パーソナリティだった。

テレビのスターは、画面の向こう側にいる華やかな存在だった。しかしラジオから聞こえてくる人間は、それとは少し違った距離に感じられる。

姿が見えないからこそ、聞き手は声や話し方から人物像を想像する。

しかも深夜である。

周囲が静まり返った部屋で一人で聴いていると、スタジオから発せられた言葉が、自分一人に向けて語られているように感じられることがある。

もちろん実際には、多くのリスナーが同じ番組を聴いている。

それでも、聴取体験そのものは一人である。

この「大勢が聴いているのに、一対一のように感じる」という距離感が、深夜ラジオ独特の親密さを生んだのではないだろうか。

『セイ!ヤング』の初期には、みのもんた、なかにし礼、土居まさるらが曜日ごとのパーソナリティを務めていたことが文化放送の記録から確認できる。

その後も各局の深夜番組には、アナウンサー、音楽家、タレント、文化人などさまざまな人物が登場した。

ラジオのパーソナリティは、テレビのスターとは別の意味で、「自分のことを分かってくれる少し年上の人」のような位置にいたのかもしれない。

ハガキを出せば、自分が番組の一部になれた

昭和の深夜ラジオを考えるうえで欠かせないのが、ハガキによる投稿文化である。

電子メールもSNS(Social Networking Service・インターネット上で利用者同士が交流するサービス)もない。

リスナーが番組へ言葉を届ける代表的な方法の一つが、ハガキだった。

番組を聴きながら思いついたことを書く。宛名を書き、切手を貼り、ポストへ入れる。そして次の放送を待つ。

採用される保証はない。

それでも、自分の書いたハガキが読まれるかもしれないと思ってラジオを聴く。

そして自分の名前やペンネームが突然ラジオから聞こえてくる。

それは当時の若者にとって、かなり特別な経験だっただろう。

放送史の研究でも、1960年代から1970年代にかけて、リスナーから届いたハガキをパーソナリティが読み、それに応じる番組が数多く生まれたことが指摘されている。電話リクエストなども含め、番組をつくる側と聴く側との距離が近づいていった時代だった。

つまりリスナーは、番組を受動的に聴いていただけではない。

ハガキを送り、それが読まれ、その言葉にパーソナリティが反応し、さらに別のリスナーがそれを聴く。

現在のインターネット上のコミュニティーとは技術的にまったく異なるが、聞き手自身が番組を構成する一員になる仕組みが、すでに存在していたのである。

それは、一方向に情報を受け取るだけのメディアとは少し違っていた。

深夜ラジオは音楽への入口でもあった

もう一つ忘れてはならないのが音楽である。

現在なら、気になる曲があれば検索して、その場で聴くことができる。

しかし昭和の若者に、そのような環境はなかった。

レコードを買わなければ聴けない曲も多い。しかも若者にとって、何枚ものレコードを自由に購入できるほど安価な商品ではなかった。

だからこそ、ラジオから流れてくる音楽そのものに大きな価値があった。

知らない外国の曲が流れる。

まだ買っていない歌手の新曲がかかる。

好きな曲を偶然耳にする。

そして、その数分間が終われば、次にいつ聴けるか分からない。

『オールナイトニッポン』も、長い歴史の中で新しい才能や文化を発信してきた番組として位置づけられている。

1970年代以降になると、ラジオから好きな曲をカセットテープへ録音することも、若者の音楽生活の一部になっていった。

深夜ラジオ、レコード、カセットテープ、雑誌、文庫本。

昭和の若者文化は、それぞれが完全に独立していたわけではない。

ラジオから曲を知り、その歌手について雑誌で読み、レコード店へ行く。番組で紹介された本を読んだり、映画を見たりする。

一つのメディアとの出会いが、別のメディアへつながっていく。

現在のように一瞬で検索結果が表示されるわけではない。しかし時間をかけながら、一人の若者の世界は少しずつ広がっていった。

「全国で自分だけが起きている」ような感覚

深夜ラジオには、昼間の放送にはない奇妙な感覚があった。

午前一時。

外を走る車も少なくなり、家族は眠っている。

その静けさの中でラジオをつける。

すると東京のスタジオから声が聞こえてくる。

そして、その声を日本のどこかで、同じように布団の中や勉強机の前で聴いている若者がいる。

実際には一人ではない。

けれども、一人で聴いている。

この「孤独なのに孤独ではない」という感覚こそ、深夜ラジオの魅力の一つだったのではないだろうか。

学校で友達とうまく話せない若者もいただろう。

受験勉強をしている若者もいた。

恋愛で悩んでいる人も、将来を考えて眠れない人もいたはずだ。

深夜ラジオは彼らの問題を解決してくれたわけではない。

ただ、同じ時間に誰かが起きていて、話していた。

それだけでも夜は少し違った。

放送史研究の中で、当時の深夜ラジオが「若者たちの解放区」と表現されていることは、この独特の位置づけをよく示している。昼間の社会とは少し違う価値観や言葉が許される場所が、夜のラジオの中に形成されていたのである。

スマートフォンの時代には再現しにくいもの

現在の若者には、昭和の若者とは比較にならないほど多くの情報がある。

好きな音楽は好きな時間に聴ける。動画も映画も見ることができる。誰かと話したければ、インターネットを通じてすぐにつながることもできる。

便利さだけを比較すれば、昭和の深夜ラジオより現在のメディア環境の方が圧倒的に優れている。

それでも、失われたものがあるとすれば、それは「待つ時間」なのかもしれない。

好きな番組が始まる時刻まで待つ。

好きな曲が流れるのを待つ。

送ったハガキが読まれるかどうか、次の放送まで待つ。

そして聞き逃せば、その言葉にもう一度出会えるとは限らない。

現在では、情報は保存され、検索され、繰り返し再生されることを前提としている。

しかし、かつてのラジオ放送は基本的に、その時間に流れていくものだった。

だからこそ、その瞬間に耳を澄ませた。

不便だったからこそ、一つの番組との関係が濃くなったという側面もあったのではないだろうか。

深夜ラジオがつくった「自分だけの青春」

昭和という時代を振り返るとき、ついヒット曲やテレビ番組、流行した商品などを並べてしまう。

しかし青春の記憶は、そうした大きな歴史だけでできているわけではない。

夜中の一時にラジオのスイッチを入れたこと。

雑音の向こうから聞こえてきた声。

眠くなりながら聴いた知らない曲。

読まれるかどうかも分からない一枚のハガキを書いたこと。

翌朝、学校で友達と昨夜の放送について話したこと。

そうした小さな記憶の積み重ねも、昭和という時代をつくっている。

深夜ラジオは若者に何かを教えるための学校ではなかった。

けれども学校や家庭だけでは知ることのできない音楽、言葉、大人の世界、そして価値観に触れる場所の一つだった。

何よりそこには、自分で選んで聴いているという感覚があった。

昼間は親や教師によって予定を決められていた少年や少女が、家族が眠ったあと、自分の意思でラジオのスイッチを入れ、ダイヤルを合わせる。

その瞬間だけは、誰にも選ばされていない。

おそらく昭和の深夜ラジオが若者をあれほど惹きつけた理由は、番組そのものの面白さだけではなかった。

深夜ラジオとは、若者が自分の意思で選ぶことのできた「自分だけの時間」だったのである。

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『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化

1980年代の若者文化を振り返ろうとすると、音楽なら松田聖子やサザンオールスターズ、YMO(Yellow Magic Orchestra・日本のテクノポップを代表する音楽グループ)、自動車ならソアラやプレリュード、ファッションならDCブランド(Designer and Character Brands・デザイナーやブランドの個性を前面に出したファッションブランド群)といった名前が次々に出てくる。

しかし、その時代を実際に生きた若者が、何を格好いいと思い、どんな服を着て、どんな店へ行き、どんな音楽を聴き、異性とどう付き合えばいいと考えていたのかを知ろうとすると、個々の商品や流行だけを並べても十分ではない。

そこには、若者に向かって「いまはこれが格好いい」「こういうものを知っている男になったほうがいい」と教える媒体が存在していた。

その一つが、講談社の『Hot-Dog PRESS』だった。

『Hot-Dog PRESS』は1979年に創刊された若年男性向けの情報誌である。ファッション、音楽、商品、遊び、恋愛など、若い男性の生活に関わるさまざまなテーマを扱い、1980年代から1990年代にかけて大きな存在感を持った。とりわけ後年まで語られるのが、「デート・マニュアル」としての側面である。

だが、『Hot-Dog PRESS』を単なる恋愛指南雑誌として片づけてしまうと、この雑誌が1980年代の若者文化に果たした役割のかなりの部分を見失う。

この雑誌が若者に教えていたのは、女の子との付き合い方だけではなかった。

むしろ重要だったのは、若い男性に対して「青年としての生活様式」そのものを提示したことである。

若者が自分で情報を探さなければならなかった時代

現在なら、服を買おうと思えばインターネットで検索できる。レストランを探すことも、映画の評判を調べることも、知らないブランドについて調べることも難しくない。

SNS(Social Networking Service・インターネット上で情報を発信し交流するサービス)を開けば、他人が何を着て、何を食べ、どこへ出かけているのかまで大量に流れてくる。

1980年代には、そのような情報環境は存在しなかった。

もちろんテレビも新聞もラジオもあった。しかし、それらは若者一人ひとりに向かって、「今度のデートではどこへ行けばいいのか」「どんな服を着ればいいのか」「どんな時計を持つと格好いいのか」まで教えてくれる媒体ではない。

そこで大きな役割を果たしたのが雑誌だった。

『POPEYE』『MEN'S CLUB』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』など、それぞれ性格の異なる雑誌が若者に情報を届けていた。そのなかで『Hot-Dog PRESS』は、商品情報とファッションと恋愛と遊びを比較的近い場所に置いた。

ここが重要だったと思う。

服は服、音楽は音楽、自動車は自動車、恋愛は恋愛というように、それぞれを独立した趣味として扱うのではない。それらを一つに組み合わせて、「こういう生活をする若者が格好いい」というモデルを作ったのである。

つまり雑誌を一冊読むことによって、自分がまだ知らない世界の輪郭を見ることができた。

その意味で雑誌は情報源であると同時に、若者にとって一種の教科書でもあった。

『Hot-Dog PRESS』は「青年になる方法」を教えていた

少年から青年へ移るとき、人は急に大人になるわけではない。

高校生や大学生になったからといって、どんな服を選べばいいのかが突然分かるわけでもなければ、女性との付き合い方が分かるわけでもない。レストランの選び方も、自動車の知識も、時計やオーディオや酒についての知識も、最初から持っているわけではない。

家庭や学校が教えてくれる範囲にも限界がある。

学校は数学や国語を教えてくれるが、デートでどこへ行けばよいのかまでは教えてくれない。

親から受け継ぐ生活文化もあるが、1980年代の若者が求めた新しいファッションや音楽や都市文化について、親世代が必ずしも詳しかったわけではない。

その空白を雑誌が埋めた。

『Hot-Dog PRESS』を読むという行為には、単に新商品を知ること以上の意味があったのではないか。

そこには「大人になる前の予習」という側面があった。

何を着るのか。

何を持つのか。

どこへ行くのか。

何を聴くのか。

そして女性とどう付き合うのか。

現在から見ると奇妙に思えるほど、1980年代にはこうした事柄を雑誌から学ぶ文化が成立していた。

「モノを知っていること」が青年の教養だった

1980年代の青年文化を考えるうえで、もう一つ見逃せないものがある。

それは商品について知っていることそのものが、一種の教養になっていたことである。

時計、スニーカー、ジーンズ、ジャケット、オーディオ、自動車、バイク、カメラ。

ブランドや型番を知り、違いを説明できることには、それなりの意味があった。

現在から見ると単なる消費文化のようにも見える。

実際、批判的に考えれば、『Hot-Dog PRESS』を含む若者雑誌が消費を刺激する役割を果たしていたことは否定できない。格好いい若者になるためには、この服、この時計、この店、この自動車が必要だというメッセージは、企業の商品販売とも極めて相性がよかった。

しかし、そこだけで評価すると1980年代の青年文化を単純化しすぎる。

雑誌を読んだからといって、紹介された商品をすべて買えるわけではなかった。

むしろ、多くの若者にとって雑誌に載っている商品は「見るもの」でもあった。

高校生ならなおさらである。

高価な時計や自動車を購入できるわけではない。それでも写真を眺め、メーカー名を覚え、いつか欲しいと思う。その過程で、自分なりの好みが形成されていく。

消費とは、必ずしも購入だけではない。

何を欲しいと思うかもまた文化なのである。

『Hot-Dog PRESS』は、その「欲しいと思うもの」の体系を作る雑誌でもあった。

ファッションは服ではなく、自己紹介だった

1980年代の若者向け雑誌にとって、ファッションは重要なテーマだった。

しかし、そこで扱われていたファッションは単に防寒のための衣服ではない。

どんな服を選ぶかによって、その人がどんな人物なのかを表現する。

現在ならごく普通の考え方に見えるが、若者が自分自身のアイデンティティーを商品やブランドによって表現する文化が急速に広がった時代として1980年代を見ると、その意味はかなり大きい。

雑誌は商品を紹介しながら、同時に人物像を提示する。

この服を着る男。

この靴を履く男。

この音楽を聴く男。

この自動車に乗る男。

そこから、一つの青年像が作られていく。

そして読者は、それをそのまま真似する場合もあれば、自分には合わないと思う場合もあっただろう。

重要なのは、比較する対象が与えられたことである。

人は何もないところから自分のスタイルを作ることは難しい。

誰かが示した型を見て、それを真似したり、少し変えたり、ときには拒否したりしながら、自分の好みを作っていく。

雑誌は、そのための巨大な見本帳だった。

デートまで「方法」が必要になった

『Hot-Dog PRESS』について現在まで最も強く記憶されているのは、やはり恋愛やデートを扱った記事だろう。同誌が若者の「デート・マニュアル」として一時代を築いたことは、後年の紹介でも繰り返し言及されている。

なぜ恋愛にマニュアルが必要だったのだろう。

考えてみれば不思議である。

好きな人がいれば話しかければよい。二人で行きたい場所へ行けばよい。それだけなら、雑誌が教える必要はない。

しかし1980年代になると、デートは単に男女が会う行為ではなくなっていた。

どこで待ち合わせるのか。

どんな店へ行くのか。

何を着ていくのか。

どのように誘うのか。

どんな話題を選ぶのか。

都市化と消費社会の発達によって選択肢が増えた結果、逆に「正解が分からない」という状況が生まれた。

選択肢が少なければ、人はそれほど迷わない。

選択肢が増えると、選ぶための情報が必要になる。

『Hot-Dog PRESS』が支持された背景には、この構造があったのではないかと思う。

携帯電話のなかったデート

ここには現在との決定的な違いもある。

携帯電話もスマートフォンも普及していない時代のデートでは、待ち合わせそのものが現在より重い意味を持った。

約束した場所へ決められた時間に行かなければならない。

相手が遅れても、外出してしまえば簡単には連絡できない。

現在のように「10分遅れます」とメッセージを送ることもできない。

後年、『Hot-Dog PRESS』のデート文化を振り返る記事でも、こうした携帯電話以前の待ち合わせ事情が紹介されている。

この違いは単なる技術の差ではない。

人間関係の作り方そのものが違っていた。

相手の行動がリアルタイムで見えない。

既読もない。

位置情報もない。

だから雑誌が提供する「どう振る舞えばいいのか」という情報には、現在とは違う切実さがあった。

都市を知らない若者に、都市を教えた

もう一つ、『Hot-Dog PRESS』のような雑誌の重要な役割として考えたいのが、東京を中心とする都市文化を全国へ運んだことである。

これは1980年代の雑誌文化全体にいえることでもある。

地方に住んでいても雑誌は買える。

東京の店へすぐ行くことはできなくても、その店が存在することは知ることができる。

原宿、渋谷、青山、六本木といった地名が、単なる地理上の名称ではなく、ファッションや音楽や遊びと結びついた文化的記号になっていく。

これは、片岡義男の小説を通して昭和の若者が「アメリカ」を想像したことと、どこか似ている。

実際のアメリカへ行かなくても、小説、映画、音楽、雑誌を通してアメリカを想像できる。

同じように地方の若者は、東京に住んでいなくても雑誌を通して東京を想像することができた。

その東京が現実の東京と完全に一致していたかどうかは、それほど重要ではない。

重要なのは、雑誌のなかに「行ってみたい世界」が存在していたことである。

北方謙三という、もう一つの顔

『Hot-Dog PRESS』の文化を考えるとき、商品やデートだけでは語れない人物がいる。

作家の北方謙三である。

北方は1980年代から長期間にわたり『Hot-Dog PRESS』で若者の人生相談を担当した。後年、新潮社も北方の若者へのメッセージを語る際、この連載を代表的な仕事の一つとして振り返っている。

ここにも、この雑誌の性格がよく表れている。

若者が知りたかったのは服や自動車だけではなかった。

恋愛、仕事、将来、自信のなさ、人間関係。

青年期には、いくらでも悩みが生まれる。

その相談に対して作家が答える。

雑誌は商品カタログであると同時に、人生について考える場所でもあった。

もちろん、そこで示される男性像には明らかに時代性がある。

強い男、決断する男、女性をリードする男。

現在の価値観から見れば違和感を持つ部分もあるだろう。

しかし、それも含めて1980年代なのである。

文化を振り返るということは、現在の価値観に合う部分だけを選んで懐かしむことではない。

当時どのような男性像が支持されていたのかを見ることも、時代を理解するためには必要だ。

『Hot-Dog PRESS』は本当に若者文化を「作った」のか

ここまで書いてくると、一つ疑問が生じる。

本当に『Hot-Dog PRESS』が若者文化を作ったのだろうか。

雑誌が若者に命令し、その通りに若者が行動していたという説明なら単純すぎる。

若者文化は雑誌だけから生まれたものではない。

テレビ、ラジオ、映画、レコード、ファッションブランド、自動車メーカー、百貨店、広告、大学、繁華街、ディスコなど、無数の要素が相互に影響していた。

雑誌はその一部である。

しかし、雑誌にはそれらを一つの誌面に集める力があった。

音楽を聴き、自動車に乗り、服を選び、女性とデートする。

本来別々だった行為を一つのライフスタイルとして編集する。

ここに雑誌の大きな力があった。

だから「作った」という言葉を、何もないところから文化を発明したという意味で使うのは適切ではない。

むしろ社会のなかに生まれていたさまざまな欲望や流行を集め、それを「これが現在の若者だ」という形に編集し、再び若者へ返した。

その循環によって文化を強めた。

それが『Hot-Dog PRESS』の役割だったのではないかと思う。

情報が少なかったから、雑誌の影響力が大きかった

現在は情報が多すぎる時代である。

検索すれば何万件もの情報が出てくる。

動画を見れば誰かが商品を紹介している。

SNSを開けば無数のファッションを見ることができる。

その代わり、一つの媒体が若者全体の価値観に強い影響を与えることは難しくなった。

1980年代は逆だった。

情報源が現在より限られていたため、一冊の雑誌が持つ影響力は大きかった。

本屋へ行き、雑誌を買い、最初のページから最後のページまでめくる。

興味のない記事まで目に入る。

これはインターネット検索との大きな違いである。

検索では、自分が知りたい情報を探す。

雑誌では、自分が知ろうとも思っていなかった情報に出会う。

ファッションの記事を読むつもりだったのに自動車の記事を読み、音楽の記事を読み、作家の文章を読む。

その偶然性が、一人の若者の興味を広げていく。

雑誌文化には、そのような力があった。

1980年代を美化する必要はない

だからといって、雑誌の時代が現在より優れていたと結論づける必要はない。

情報を得る方法についていえば、現在のほうが圧倒的に便利である。

地方に住んでいても海外の情報を直接調べることができる。商品価格を比較し、利用者の評価を読み、自分に合ったものを選択できる。

1980年代の雑誌が示した価値観には、商業主義もあった。

高価な商品を持つことが格好よさと結びつきやすく、男性と女性の役割にも固定的な考え方が残っていた。

誰もが雑誌の提示する青年像に当てはまったわけでもない。

そこを忘れて1980年代を「良い時代だった」とだけ語れば、単なる懐古趣味になってしまう。

それでも『Hot-Dog PRESS』を振り返る意味があるとすれば、そこには現在とは違う「青年になる仕組み」が見えるからである。

一冊の雑誌のなかに、青年の世界があった

1979年に創刊された『Hot-Dog PRESS』は、2004年にいったん休刊した。その後2014年にデジタル媒体として復活したとき、想定された読者の中心は、かつて若者として雑誌を読んでいた世代だった。

この事実は象徴的である。

若者のための雑誌だったものが、年月を経て、その若者たち自身の過去を呼び戻す媒体になった。

雑誌のページに載っていた服の多くはもう流行ではない。

紹介された店も、自動車も、オーディオも変わった。

デートの方法も変わった。

待ち合わせ場所で相手を30分待つような経験さえ、スマートフォンの時代には少なくなった。

それでも雑誌を開いた経験が消えるわけではない。

なぜなら、そこに載っていたのは商品だけではなかったからだ。

「大人になったらこんな生活をしてみたい」

「こんな服を着てみたい」

「こんな場所へ行ってみたい」

という、まだ経験していない未来が載っていた。

若者向け雑誌とは、未来の生活を先に見るための媒体でもあったのである。

『Hot-Dog PRESS』が作った1980年代の青年文化とは、特定のファッションやデート方法だけではない。

情報を集め、モノを選び、都市に憧れ、異性との関係に悩みながら、自分がどんな大人になりたいのかを考える文化だった。

一冊の雑誌のなかに、青年になるための世界がほとんど丸ごと入っていた。

いま同じ役割を一冊の雑誌に求めることは、おそらく難しい。

だからこそ『Hot-Dog PRESS』を振り返ることは、一つの雑誌を懐かしむだけではなく、若者が雑誌によって自分の未来を想像することのできた時代そのものを振り返ることになるのだと思う。

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