リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

「嫌い」と言うことは悪いことなのか

現代社会では、多様性を尊重することが強く求められている。

性別。

年齢。

文化。

宗教。

家族の形。

働き方。

趣味。

価値観。

生き方。

人はそれぞれ違っていて、その違いを理由に排除したり、不当に扱ったりしてはいけない。

これは重要な原則である。

しかし、ここで一つ難しい問題が生まれる。

他者を尊重することと、「嫌い」と思わないことは同じなのか。

ある音楽が嫌い。

ある服装が苦手。

ある話し方が好きではない。

ある考え方には共感できない。

ある人とはどうしても相性が合わない。

こうした感情まで、多様性の名のもとに否定すべきなのだろうか。

もし、

「すべての違いを尊重するためには、好き嫌いを持ってはいけない」

となれば、それは現実の人間感情からかなり離れてしまう。

人間には好みがある。

快・不快がある。

美しいと思うものがある。

見苦しいと思うものもある。

千年以上前に書かれた『枕草子』は、まさにそうした人間の好き嫌いを驚くほど率直に書いた作品である。

清少納言は、

美しいもの。

心ときめくもの。

ありがたいもの。

うれしいもの。

に心を動かす。

その一方で、

にくいもの。

すさまじいもの。

興ざめするもの。

見苦しいもの。

にも敏感である。

現代から読むと、

「そんなことまで嫌うのか」

と思う箇所もある。

しかし、この率直さこそ『枕草子』の特徴でもある。

本稿では、

『枕草子』の好き嫌いを、多様性社会における「寛容」と「個人的評価」の違いから考えてみたい。

結論を先に言えば、

多様性を尊重することは、

すべてを好きになることではない。

しかし同時に、

嫌いだから排除してよい、

という意味でもない。

『枕草子』を読むと、この二つの間にある難しい境界が見えてくる。

1 『枕草子』は「好き嫌い」を隠さない文学である

『枕草子』は平安時代中期、清少納言によって書かれた随筆である。

作品には、

季節の風景。

宮廷生活。

人間関係。

衣服。

恋愛。

手紙。

儀礼。

宗教行事。

動植物。

日常の失敗。

など、非常に多くの話題が登場する。

そして特徴的なのが、

「私はこれが好き」「これは嫌い」

という評価がはっきりしていることである。

例えば「春はあけぼの」に代表される季節の美しさ。

「うつくしきもの」

「心ときめきするもの」

などには、清少納言が何に魅力を感じていたのかが表れる。

一方、

「にくきもの」

「すさまじきもの」

などでは、日常の小さな不快や、人の振る舞いへの厳しい評価が並ぶ。

つまり『枕草子』には、

客観的な百科事典のような視点ではなく、

強い主観

がある。

清少納言は世界を、

「これは良い」

「これは嫌だ」

と選びながら見ている。

そこが『枕草子』の魅力でもある。

2 「をかし」は単なる「おもしろい」ではない

『枕草子』を理解するうえで重要なのが、

「をかし」

という美意識である。

現代語の「おかしい」と同じではない。

場面によって、

趣がある。

美しい。

興味深い。

心ひかれる。

印象的である。

など複数の意味を持つ。

清少納言は、

季節。

色。

光。

衣服。

言葉。

人の振る舞い。

の中から「をかし」と感じる瞬間を拾い上げる。

ここで重要なのは、

世界を均等に見るのではなく、差を付けて見る

ということである。

すべての景色が同じではない。

すべての言葉が同じではない。

すべての行動が同じでもない。

「これは特に良い」

と選び取る。

美意識とは本来、差を付ける行為でもある。

だから、

好き嫌いを完全になくしてしまえば、

美意識そのものも成立しにくくなる。

3 清少納言は「嫌い」をかなり細かく言語化する

『枕草子』のおもしろさは、美しいものだけではない。

不快なものについても非常に具体的である。

「にくきもの」のような章段では、

日常の中で腹立たしいこと、

気に障る人の行動、

タイミングの悪さ、

気配りの不足、

などが次々に挙げられる。

現代的に言えば、

「あるある」

に近い感覚もある。

たとえば、

忙しい時に邪魔される。

期待していたのに外される。

相手が状況を読まない。

気の利かない行動をされる。

こうした不快感は、千年後の人間にも理解できる。

つまり『枕草子』は、

嫌いという感情を否定せず、むしろ細かく観察して言葉へ変換する。

ここには一つの文学的価値がある。

感情をただぶつけるのではなく、

「なぜ嫌なのか」

を言葉にするからである。

4 「嫌い」と「相手を傷つける」は同じではない

ここから現代社会へ考えを進めてみよう。

あるものを嫌いだと思うことと、

嫌いな相手を攻撃することは別である。

例えば、

ある音楽が嫌い。

ある食べ物が苦手。

ある服装が好みではない。

これは個人的な感覚である。

しかし、

その音楽を好む人を見下す。

その文化を禁止しようとする。

その人を排除する。

となれば話が変わる。

つまり、

内面の評価と、他者への行為を分ける必要がある。

多様性社会で重要なのは、

「嫌いという感情を持ってはいけない」

ことではない。

むしろ、

嫌いという感情を理由に、不当に相手の権利を奪わないこと

である。

この区別が重要になる。

5 多様性とは「何でも好きになること」ではない

多様性という言葉は、ときどき誤解される。

異なる価値観を尊重する。

異なる生活様式を認める。

異なる文化と共存する。

こうした考え方が、

「すべてを肯定しなければならない」

という意味に変わることがある。

しかし、それでは現実的ではない。

人は、

共感できない考え方を持つことがある。

苦手な文化もある。

理解できない生活習慣もある。

それでも、

相手が存在する権利まで否定しない。

これが寛容の基本的な形である。

寛容とは、

賛成すること

ではない。

好きになること

でもない。

違うと思いながら共存すること

である。

6 『枕草子』には「差別的」に見える部分もある

ただし、『枕草子』の好き嫌いをそのまま現代の多様性論へ利用することはできない。

なぜなら作品には、

身分。

年齢。

職業。

容姿。

男女関係。

などについて、現代から見れば厳しい評価や固定観念に見える部分もあるからである。

清少納言は平安宮廷社会の人物である。

身分秩序が存在する。

性別による社会的役割も現代とは大きく異なる。

宮廷文化には、

服装。

言葉遣い。

振る舞い。

教養。

に関する細かな規範があった。

だから、

『枕草子』に書かれた好き嫌い

現代にも通用する正しい価値判断

ではない。

重要なのは、

好き嫌いを持つこと自体と、その好き嫌いを社会的評価へ変換することを分けて読む

ことである。

7 清少納言の評価には「宮廷文化の基準」がある

清少納言の好き嫌いは、完全に個人的なものでもない。

その背後には、

宮廷社会の美意識。

身分秩序。

教養。

儀礼。

言葉遣い。

があります。

つまり、

「これは美しい」

「これは見苦しい」

という判断には、

社会的なルール

も含まれている。

例えば服装。

当時の宮廷社会では、

色の組み合わせ。

季節。

場面。

身分。

によって「ふさわしさ」が存在した。

そのため、

「好き嫌い」

と、

「社会規範」

が混ざっている。

ここが現代との違いである。

8 現代にも「好き嫌い」と社会規範は混ざっている

しかし、この問題は平安時代だけではない。

現代でも、

「私は嫌い」

と思っているだけなのか、

「社会的に間違っている」

と判断しているのか、

自分自身でも区別できていないことがある。

例えば、

若者の言葉遣いが嫌い。

新しい服装が嫌い。

特定の音楽が嫌い。

SNSの使い方が嫌い。

ここまでは個人的好みかもしれない。

しかし、

「こんな文化はなくなるべきだ」

「こういう人は社会的に劣っている」

となれば、

個人的な好みが社会的な序列へ変わっている。

つまり人間はしばしば、

自分の好みを普遍的な正しさだと錯覚する。

ここに注意が必要である。

9 「私は嫌い」と「これは悪い」は違う

多様性社会では、この区別が非常に重要になる。

「私は嫌いです」

と、

「これは悪いものです」

は同じではない。

前者は主観である。

後者は、より一般的な判断を含む。

例えば、

私は納豆が嫌いだ。

これは個人の好みである。

しかし、

納豆を食べる人は間違っている。

となれば論理が飛躍している。

価値観についても同じである。

私はある生き方を選ばない。

これは自由である。

しかし、

その生き方を選ぶ人は劣っている。

となれば、他者への評価に変わる。

自分の好みを自分の範囲にとどめられるか。

これは現代の寛容において重要な能力である。

10 清少納言は「好みを言語化する力」が非常に強い

『枕草子』のおもしろさは、

好き嫌いが強いことだけではない。

その感覚を細かく言葉にできるところにある。

単に、

「嫌い」

で終わらない。

どの瞬間が嫌なのか。

どの振る舞いが興ざめなのか。

何と何の組み合わせが美しいのか。

どんなタイミングが心地よいのか。

これを具体的に書く。

ここには現代にも参考になるものがある。

感情を言葉にすることができれば、

他人を直接攻撃せずに、自分の好みを表現できる。

「あなたが嫌い」

ではなく、

「私はこういう場面が苦手だ」

と言える。

この差は大きい。

11 好き嫌いを分析すると「自分」が見えてくる

人が何を好きかを見ると、

その人の価値観が見える。

何を嫌うかを見ても同じである。

清少納言が何を美しいと感じ、

何を興ざめだと感じたかを見ることで、

彼女がどのような世界を理想としていたのかが見えてくる。

例えば、

季節感。

細やかな配慮。

機転。

言葉の美しさ。

場面に合った振る舞い。

こうしたものに高い価値を置いている。

逆に、

鈍感さ。

場違いな振る舞い。

気の利かなさ。

期待外れ。

などに厳しい。

つまり、

嫌いなものの一覧は、裏返せば理想の一覧でもある。

これは現代人にも当てはまる。

自分が何を嫌うのかを分析すると、

自分が何を大切にしているのかが見えてくる。

12 しかし「嫌い」は自己理解だけでは終わらない

問題は、

自分の嫌悪感をどのように他人へ向けるかである。

例えば、

私は時間にルーズな人が嫌い。

という場合、

その背景には、

時間を守ることを大切にしている

という価値観がある。

ここまでは自己理解になる。

しかし、

時間にルーズな人は人間として劣っている。

となると、

評価が人格全体へ拡大している。

つまり、

一つの行動への嫌悪と、人間全体への否定を分ける必要がある。

これはSNS時代には特に重要である。

13 SNSでは「嫌い」が増幅されやすい

SNSでは、

短い言葉。

強い表現。

明確な賛否。

が広がりやすい。

「私は苦手です」

より、

「最悪だ」

「あり得ない」

「こんな人間は駄目だ」

という表現の方が注目を集めることもある。

すると、

個人的な好き嫌いが、

社会的な善悪判定へ変化しやすい。

さらに他の人が賛同すると、

「自分の嫌いは正しい」

と確信しやすくなる。

ここで、

好みの集団化

が起きる。

個人の不快感が、

集団的な攻撃へ変わる場合もある。

14 清少納言の「嫌い」は炎上とは違う

ここで『枕草子』と現代SNSを単純に同じものとしてはいけない。

清少納言が「にくきもの」を書くことと、

現代で特定の個人を名指しして集団攻撃することは違う。

作品の多くは、

日常の類型。

一般的な場面。

人間の振る舞い。

への観察である。

もちろん実在の宮廷社会や人物を背景に持つ箇所もあるが、

現代のSNSのように、

不特定多数が即座に一人の人間へ反応を集中させる構造とは違う。

したがって現代に応用するなら、

『枕草子』から学ぶべきなのは、

「嫌いな人を言葉で攻撃してよい」

ということではない。

むしろ、

嫌悪感を観察し、一般化し、文学へ変える能力

である。

15 「にくい」と感じること自体を否定しない

現代のコミュニケーションでは、

「そんなことを嫌いと言ってはいけない」

という圧力が生じる場合がある。

しかし、感情そのものを禁止することは難しい。

嫌いなものは嫌い。

苦手なものは苦手。

問題は、

その感情をどう扱うかである。

感情を否定すると、

表面では寛容でも、

内側では不満が蓄積することがある。

だから、

嫌いと感じること自体を認める

ことは重要である。

ただし、

嫌いだから攻撃する。

嫌いだから排除する。

嫌いだから権利を認めない。

とはしない。

ここが境界である。

16 寛容とは「我慢」だけでもない

寛容という言葉には、

嫌だけれど我慢する

という印象もある。

しかし、それだけでは長続きしない。

より現実的なのは、

自分には自分の好みがある。

相手には相手の好みがある。

その違いが、

重大な権利侵害や危険を生まない限り、

互いに違ったまま存在する。

という考え方である。

つまり、

多様性社会で必要なのは、

「好きになる努力」

より、

「嫌いでも共存できる技術」

なのかもしれない。

17 嫌いなら距離を取ってもよい

多様性を尊重することは、

すべての人と親しく付き合うことでもない。

人間には相性がある。

ある人とはよく合う。

ある人とは合わない。

だから、

無理に友達になる必要はない。

距離を取ることもできる。

重要なのは、

その人を排除することと、

自分が距離を取ることを分けることだ。

例えば、

ある人とは価値観が合わない。

だから個人的には深く付き合わない。

しかしその人が社会で生活する権利は尊重する。

これは十分に両立する。

共存と親密さは別である。

18 職場では「好き嫌い」と公平性を分ける必要がある

この区別は、職場や学校ではさらに重要になる。

上司が、

この部下は好き。

この部下は嫌い。

という感情を持つこと自体は完全には防げない。

しかし、

評価。

昇進。

仕事の配分。

給与。

にその感情を直接反映すれば問題になる。

つまり、

個人的評価と制度的判断を分ける必要がある。

多様性社会では、

「嫌いにならないこと」より、「嫌いでも公平に扱えること」

の方が重要である。

これは非常に実務的な考え方でもある。

19 民主主義も「嫌いな相手と共存する制度」である

この問題を社会全体へ広げると、民主主義にもつながる。

民主主義とは、

全員が同じ価値観になる制度ではない。

むしろ、

自分とは違う考えの人がいる。

嫌いな政治思想がある。

納得できない政策がある。

それでも、

選挙。

法律。

議会。

言論。

によって共存する制度である。

つまり民主主義は、

好きな人同士だけで社会を作る仕組みではない。

嫌いな人、

反対意見を持つ人、

理解しにくい人、

とも同じ社会を構成する。

ここに寛容の本当の難しさがある。

20 「嫌い」と言えない社会も危険である

一方で、

「嫌いと言ってはいけない」

という社会にも問題がある。

何でも肯定する。

批判しない。

不快感を表明しない。

それが「多様性」だとすれば、

議論そのものができなくなる。

ある考え方には反対する。

ある作品はつまらないと思う。

ある政策は嫌いだ。

ある文化は自分には合わない。

こうした発言まで禁止されれば、

表面的には穏やかでも、

思想や文化を評価する自由が失われる。

多様性とは、

評価しないことではない。

評価が複数存在することでもある。

21 文学批評は「好き嫌い」から始まってもよい

文学を読むときも同じである。

すべての名作を好きになる必要はない。

夏目漱石が苦手。

芥川龍之介が好き。

古典文学が好き。

現代小説は苦手。

それでよい。

重要なのは、

なぜそう感じるのか

を考えることだ。

「嫌い」で終わると感想である。

しかし、

文章のリズムが合わない。

人物描写が苦手。

世界観に共感できない。

語り方が好きではない。

と分析すれば、批評になる。

清少納言の強さは、

感覚を言葉へ変えるところ

にある。

22 「好き嫌いを持つ自由」と「他者の自由」は両立する

ここまでを整理すると、

多様性社会には二つの自由がある。

一つは、

自分が好き嫌いを持つ自由。

もう一つは、

相手が自分と違う生き方をする自由。

この二つが衝突する場合がある。

例えば、

自分はある文化が嫌い。

しかしその文化を楽しむ人には自由がある。

自分はある服装が好きではない。

しかし他人には着る自由がある。

つまり、

自分の感情と、

相手の権利、

を切り分ける。

これが重要になる。

23 ただし「何でも許される」わけではない

ここで、多様性をもう一方向からも整理しておく必要がある。

嫌いでも認める。

違っていても共存する。

だからといって、

すべての行為を認めなければならないわけではない。

暴力。

詐欺。

差別。

脅迫。

権利侵害。

こうした行為は、

単なる「多様な価値観」として扱うことはできない。

つまり多様性には、

共通のルール

が必要である。

価値観は違ってよい。

しかし他人の基本的な権利を侵害してはいけない。

ここが共存の土台になる。

24 清少納言の「主観」は、現代ではむしろ重要かもしれない

現代社会では、

客観的であること。

公平であること。

中立であること。

が重視される。

もちろん公共政策や報道では重要である。

しかし文学は必ずしも中立である必要はない。

むしろ、

一人の人間がどう世界を感じたか

を書く。

だから面白い。

『枕草子』から千年以上たった今でも、

清少納言の声が聞こえるように感じるのは、

彼女が無理に中立を装っていないからだろう。

好きなものは好き。

嫌いなものは嫌い。

その代わり、

なぜそう感じるのかを具体的に描く。

この態度は、

現代の文章にも重要な示唆を持つ。

25 主観を持つことと、独善的であることは違う

「私はこう思う」

という主観と、

「私がそう思うのだから正しい」

という独善は違う。

清少納言的な主観を現代へ応用するなら、

自分の感覚を隠さない。

しかし、

それを普遍的真理だとは思わない。

という姿勢が必要になる。

つまり、

強い主観と、弱い断定

を組み合わせる。

「私は嫌いだ」

とは言う。

しかし、

「だから全員が嫌うべきだ」

とは言わない。

この区別は、多様性社会にかなり重要である。

26 「あなたが嫌い」と「あなたのこの行動が嫌い」を分ける

人間関係では、もう一つ有効な区別がある。

人物全体への評価と、

特定の行動への評価を分けることである。

「あなたが嫌い」

ではなく、

「その言い方は苦手だ」

「その行動は困る」

と言う。

人間全体を否定するのではなく、

問題となっている行動を限定する。

これはコミュニケーション上、大きな違いになる。

嫌悪を具体化することで、

修正可能な問題へ変えられる場合がある。

ここでも、

『枕草子』の具体的な観察力は参考になる。

27 嫌いな理由を説明できないこともある

ただし、すべての好き嫌いを論理的に説明できるわけではない。

なぜか好き。

なぜか苦手。

ということもある。

美意識には、

合理的説明だけでは捉えられない部分がある。

清少納言の「をかし」も、

完全な論理体系ではない。

瞬間的な感覚。

色。

音。

季節。

人の気配。

によって心が動く。

現代社会ではデータや論理が重要である。

しかし、

人間のすべての価値判断が論理だけで作られているわけではない。

文学は、その部分を残している。

28 多様性社会に必要なのは「感情の統一」ではない

ここまで考えると、

多様性社会とは、

全員が同じ感情を持つ社会

ではないことが分かる。

むしろ、

好き。

嫌い。

興味がある。

興味がない。

理解できる。

理解できない。

さまざまな感情が存在する。

そのうえで、

基本的な権利。

公共ルール。

公平性。

を守る。

つまり、

感情の多様性まで認めること

が、本当の意味での多様性なのかもしれない。

29 令和の私たちが『枕草子』から考えられる五つのこと

『枕草子』を現代の多様性論へそのまま教科書として使うことはできない。

しかし、考える材料として整理するなら、五つの視点がある。

第一に、

好き嫌いを持つこと自体は悪ではない。

人間には好みがある。

第二に、

好き嫌いと他者の権利を分ける。

嫌いだから排除してよいわけではない。

第三に、

自分の好みを普遍的な正しさにしない。

「私は嫌い」と「これは悪い」は違う。

第四に、

感情を具体的な言葉へ変える。

単なる攻撃ではなく、なぜ嫌なのかを考える。

第五に、

嫌いな相手とも必要な範囲で公平に共存する。

親しくなる必要はない。

しかし不当に扱わない。

30 『枕草子』を現代の多様性思想にしてはいけない

最後に、最も重要な注意を確認しておきたい。

清少納言は、

現代の人権思想。

多様性政策。

社会的包摂。

を考えて『枕草子』を書いたわけではない。

平安時代の宮廷女性である。

その価値観には、

当時の身分社会。

男女関係。

教養観。

美意識。

社会規範。

が反映されている。

したがって、

「清少納言は現代的な多様性を理解していた」

と書くのは正確ではない。

現代へ応用できるのは、

作品に描かれた具体的な価値判断そのものではなく、

人間が好き嫌いを持ちながら世界を見るという事実

である。

結論~多様性とは「嫌いにならないこと」ではない

『枕草子』は、

非常に好き嫌いの多い文学である。

春の曙は美しい。

夏の夜はよい。

あるものは心ときめく。

あるものはかわいらしい。

そして、

あるものはにくい。

あるものは興ざめである。

清少納言は、そうした感情を隠さない。

この率直さを現代から読むと、

一つの問いが生まれる。

多様性を尊重する社会では、

「嫌い」

と言ってはいけないのだろうか。

答えは、おそらくそうではない。

人間は、

すべての文化を好きになる必要はない。

すべての人と親しくなる必要もない。

すべての価値観へ共感する必要もない。

好き嫌いは残る。

むしろ人間から好き嫌いを完全に取り除けば、

美意識も、

趣味も、

批評も、

個性も、

かなり失われてしまう。

問題は、

嫌いという感情を、そのまま他者の価値の否定へ変換すること

である。

私は嫌い。

だからあなたは間違っている。

私は不快だ。

だから存在してはいけない。

この飛躍をしないことが重要になる。

多様性社会とは、

全員が互いを好きになる社会ではない。

むしろ、

好きになれない人や、理解しにくい価値観が存在することを前提に、それでも共存できる社会

である。

そして寛容とは、

何でも賛成することではない。

我慢して黙ることでもない。

自分の好き嫌いを持ちながら、

相手にも相手の自由があることを認めることである。

清少納言の『枕草子』から現代へ引き出せるものがあるとすれば、

「嫌いと言ってよい」

という単純な許可ではない。

もっと重要なのは、

嫌いという感情を、自分の感情として引き受けること

なのだろう。

「私はこれが嫌いだ」

と言う。

しかし、

「だからあなたも嫌うべきだ」

とは言わない。

「私はこの人とは合わない」

と言う。

しかし、

「だからこの人には価値がない」

とは言わない。

「私はこの文化が苦手だ」

と言う。

しかし、

「だから存在してはいけない」

とは言わない。

その距離を保つ。

これは簡単ではない。

しかし、おそらく多様性社会に必要なのは、

好き嫌いをなくすことではなく、

好き嫌いを持ったまま、他者を不当に傷つけずに生きる技術

なのではないだろうか。

『枕草子』は千年前の宮廷社会を描いた作品である。

それでも私たちがそこに親近感を覚えるのは、

清少納言が、

美しいと思い、

腹を立て、

心をときめかせ、

興ざめし、

人を観察する、

極めて人間的な存在だからである。

多様性の時代だからこそ、

人間に好き嫌いがあるという現実から出発した方がよい。

そのうえで問うべきなのは、

「嫌いと思ってはいけないのか」ではなく、「嫌いと思ったあと、私はその感情をどう扱うのか」

なのである。

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地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

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変わりゆく世界をどう生きるか

現代社会では、「多様性」という言葉を耳にする機会が増えた。

年齢、性別、国籍、文化、言語、価値観、家族のあり方、働き方、障害の有無、生活歴――人間にはさまざまな違いがある。それらを一つの標準だけで評価するのではなく、異なる人々が共存できる社会をつくることが、現代における重要な課題の一つになっている。

国際連合は文化的多様性を、単に文化の種類が多いという問題としてではなく、人間の知的・感情的・道徳的・精神的生活を豊かにし、持続可能な発展にも関係する価値として位置づけている。

日本の文化庁の日本語教育に関する資料でも、人の移動とダイバーシティ、言語的・文化的背景の多様性、多文化・多言語主義、社会的包摂などが、現代社会を理解する重要な項目として扱われている。

一方、日本では千年以上前から、人間や社会が変化し続けることを表現する思想が知られてきた。

それが仏教における「諸行無常」である。

諸行無常とは、極めて簡潔に言えば、あらゆる形成されたものは固定された状態を永遠に保つことがなく、変化していくという考え方である。国立国会図書館デジタルコレクションに収録された仏教研究でも、諸行無常は「すべての事物が常に変化することが常態である」という意味として整理されている。

では、

多様性と諸行無常には、何か共通するものがあるのだろうか。

ここで注意しなければならない。

多様性は現代社会における社会的・倫理的概念であり、諸行無常は仏教思想である。

両者は同じものではない。

しかし、

人間や社会を固定された存在として考えない

という一点では、興味深い接点が存在する。

この視点から考えると、「多様性」と「諸行無常」は、変化の激しい令和時代を生きるための二つの異なる視座として読むことができる。


1 多様性とは「何でも認めること」ではない

まず、多様性という言葉を整理する必要がある。

英語の Diversity は一般に、「異なる要素から構成されている状態」「さまざまな種類が存在すること」を意味する。

人間社会に当てはめれば、

文化が違う。

言語が違う。

年齢が違う。

能力が違う。

経験が違う。

価値観が違う。

生き方が違う。

という現実を意味する。

したがって、多様性は本来、

「違いを作り出す思想」

ではない。

すでに存在している違いを認識すること

から始まる。

ここは非常に重要である。

現実の社会には、最初から完全に同じ人間など存在しない。

同じ日本人でも、

生まれた地域、

世代、

家庭環境、

教育、

仕事、

所得、

身体条件、

人生経験、

政治観、

宗教観、

趣味、

家族構成、

などは異なる。

多様性とは、その違いを消すのではなく、

「違いが存在することを前提に社会をどう設計するか」

という問題なのである。


2 多様性は「すべての価値観が正しい」という意味ではない

ここには、よくある誤解がある。

多様性を尊重することは、

「どのような考え方も無条件に認めなければならない」

という意味ではない。

たとえば、

他人を暴力によって支配する自由。

他人を差別する自由。

他人の権利を奪う自由。

これらまで「多様な価値観だから尊重すべきだ」とすれば、多様性そのものが成立しなくなる。

国際連合も、多様な人々の権利を考える際、人間の尊厳や差別・暴力から自由である権利を基礎に置いている。

つまり、多様性とは、

無制限な相対主義ではない。

社会には一定の共通ルールが必要である。

法の下の平等。

基本的人権。

他者の尊厳。

暴力を用いないこと。

こうした共通基盤の上で、それ以外の違いを可能な限り認める。

これが現実的な多様性社会である。


3 「諸行無常」とは、世界はすべて消えるという話ではない

次に諸行無常を考える。

日本では『平家物語』冒頭の、

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

という表現によって広く知られている。

そのため、諸行無常には、

「栄えているものもいずれ滅びる」

「人生ははかない」

という印象が強い。

確かに『平家物語』では、盛者必衰の思想と結びついている。

しかし、仏教思想としての無常は、それだけではない。

無常とは、

存在するものが固定的ではなく、条件によって変化すること

を示している。

花が散る。

人が老いる。

建物が古くなる。

組織が変わる。

社会制度が変わる。

価値観が変わる。

人間関係が変わる。

重要なのは、

「最後には全部なくなる」

という結論ではなく、

現在の状態を永久不変だと思わない

という認識である。


4 多様性は「横の違い」、無常は「時間の変化」と考える

多様性と諸行無常の関係を整理するために、一つのモデルを考えてみたい。

多様性とは、

同じ時点に存在する違い

と考えることができる。

AさんとBさんは違う。

日本とフランスでは文化が違う。

二十歳と七十歳では経験が違う。

都市部と農村部では生活環境が違う。

これは、いわば空間的な違いである。

一方、諸行無常は、

同じものが時間によって変化すること

に注目する。

二十歳の自分と六十歳の自分は違う。

昨日の社会と今日の社会は違う。

成長期の企業と衰退期の企業は違う。

人口増加期の町と人口減少期の町は違う。

こちらは時間的な変化である。

したがって、簡略化すれば、

多様性=横方向の差異

諸行無常=縦方向の変化

と考えることができる。

そして現実の人間は、この二つを同時に生きている。


5 実は「自分自身」も多様である

多様性というと、しばしば、

「自分と違う人を理解すること」

として説明される。

しかし諸行無常の視点を加えると、もう一段深く考えることができる。

それは、

過去の自分と現在の自分も違う

ということである。

十代の自分。

二十代の自分。

四十代の自分。

六十代の自分。

それぞれ、

考え方、

体力、

所得、

知識、

人間関係、

将来への期待、

恐怖、

関心、

は変わっている。

つまり人間は、他者と違うだけではない。

一人の人間の内部にも、時間的な多様性がある。

これは非常に重要である。

「昔の私はこうだった」

という自己像に過度に縛られると、現在の自分との矛盾が苦しくなる。

無常の立場から考えれば、

変わったこと自体は異常ではない。

むしろ、

変化することが普通なのである。


6 令和社会で対立が起きる理由の一つは、「固定された人間像」にある

社会的対立では、しばしば人間がカテゴリー化される。

若者はこうだ。

高齢者はこうだ。

都会の人はこうだ。

地方の人はこうだ。

男性はこうだ。

女性はこうだ。

外国人はこうだ。

富裕層はこうだ。

低所得者はこうだ。

こうした分類は、統計分析では一定の意味を持つ。

集団ごとの平均値や傾向を調べることによって、社会政策を考えることもできる。

しかし問題は、

集団の平均を、個人そのものだと考えてしまうこと

である。

統計的傾向と個人の性質は同じではない。

さらに諸行無常の視点から見れば、その個人自身も変化する。

現在二十五歳の人は、四十年後には六十五歳になる。

現在健康な人も、将来医療を必要とする可能性がある。

現在働く側にいる人も、介護される側になる可能性がある。

現在多数派にいる人も、別の条件では少数派になることがある。

つまり、

社会的カテゴリーは固定された身分ではない。

この認識は、多様性を考えるうえで非常に有用である。


7 「多数派」と「少数派」も固定しているとは限らない

現代の多様性政策では、多数派と少数派という区分が使われる。

これは社会的不平等を分析するために必要な場合がある。

しかし、人は一つの属性だけを持っているわけではない。

ある場面では多数派であり、

別の場面では少数派になる。

たとえば、

母語では多数派。

年齢では少数派。

職業では多数派。

身体条件では少数派。

地域では多数派。

価値観では少数派。

ということが普通に起こる。

したがって、

「多数派の人」と「少数派の人」

という二種類の人間が存在するわけではない。

人間は複数の属性が重なった存在である。

そして、その属性自体も時間によって変化する。

ここでも、多様性と無常は接続する。


8 違いを「異常」と考えないこと

人間には、未知のものを警戒する傾向がある。

自分と違う言語。

服装。

文化。

生活習慣。

価値観。

こうしたものに違和感を覚えること自体は、必ずしも悪意とは限らない。

問題は、

違う=間違っている

違う=危険である

と即座に結論づけることである。

多様性の考え方は、

「違いそのものは存在して当然である」

と考える。

諸行無常の考え方も、

「変化することは異常ではない」

と考える。

両者の共通点は、

今の自分が知っている状態だけを、世界の標準と考えないこと

にある。


9 しかし「変化はすべて良い」という意味でもない

ここでも注意が必要である。

諸行無常を、

「変化することは良いことだ」

と解釈するのは正確ではない。

無常は、変化に価値判断を付けていない。

良い方向にも変わる。

悪い方向にも変わる。

健康になることも変化。

病気になることも変化。

平和になることも変化。

戦争になることも変化。

所得が増えることも変化。

減ることも変化。

したがって、

変化そのものを肯定する思想ではない。

同様に、多様性も、

「違っていれば何でもよい」

という思想ではない。

ここは両者に共通する重要な注意点である。

多様性も無常も、

まず現実を認識するための視点であり、

その現実をどう評価し、どの方向へ動かすかは別の問題なのである。


10 多様性社会に必要なのは「寛容」だけではない

「違う人を認めよう」

という言葉は重要である。

しかし、現実社会ではそれだけでは足りない。

異なる価値観が同じ空間に存在すれば、利害対立も起きる。

たとえば、

静かに暮らしたい人と、

夜間活動をしたい人。

公共施設へ予算を使ってほしい人と、

税負担を減らしてほしい人。

自動車を必要とする人と、

自動車中心の都市設計を変えたい人。

こうした対立は、

「お互いを尊重しましょう」

だけでは解決しない。

必要なのは、

ルール、

交渉、

優先順位、

費用負担、

妥協、

である。

つまり多様性社会では、

違いを認める力と、違いを調整する力の両方

が必要になる。


11 無常を理解すると「自分の正しさ」から少し距離を置ける

人間は、自分の考えを正しいと思うから行動する。

これは当然である。

しかし問題は、

「現在正しいと思っていることが、永遠に正しい」

と考えてしまうことである。

歴史を振り返れば、

社会の常識は大きく変わっている。

家族観。

働き方。

教育。

職業。

男女の役割。

障害への考え方。

外国文化への態度。

これらの多くは時代によって変化した。

したがって、

「現在の常識」

も未来から見れば変化している可能性が高い。

これは、

「正解は存在しない」

という意味ではない。

むしろ、

現在得られる情報のなかで最善を考えながら、修正可能性を残す

という態度につながる。

科学的方法にも、これに近い性格がある。

科学理論は、証拠によって支持されるが、新しい証拠が現れれば修正される。

「絶対に変えないこと」ではなく、

よりよい説明があれば更新すること

によって知識は進歩する。

無常を現代的に読むなら、この「修正可能性」と非常に相性がよい。


12 多様性は社会の「選択肢」を増やす

多様性には倫理的側面だけでなく、機能的側面もある。

同じ考え方しか存在しない組織では、一つの環境には強くても、環境変化に弱くなる可能性がある。

異なる経験を持つ人がいれば、

同じ問題を違う角度から見ることができる。

国際連合も文化的多様性について、人間の選択肢を広げ、能力や価値を育てるものとして位置づけている。

この構造は、生物多様性にも部分的に似ている。

WHO(World Health Organization・世界保健機関)は、生物多様性を、種の内部、種の間、生態系にわたる生命の多様性として説明している。

ただし、人間社会の多様性と生物多様性を同一視することはできない。

ここで参考になるのは、

一種類だけで構成されるシステムより、複数の特性が存在するシステムの方が、異なる環境へ対応する可能性を持つ

という一般的な考え方である。


13 令和時代は「一つの正解」で生きにくい時代になった

かつての日本社会には、比較的標準化された人生モデルが存在した。

学校を卒業する。

会社へ入る。

結婚する。

住宅を購入する。

定年まで勤める。

退職後は年金生活をする。

もちろん、実際には昔から多様な人生があった。

しかし社会の標準モデルとしては、比較的強い影響を持っていた。

現在では、

働き方、

家族構成、

居住地、

教育、

退職時期、

老後、

などの選択肢が増えている。

これは自由が増えたともいえる。

一方で、

「どの道を選べば正解なのか」

が分かりにくくなったともいえる。

多様性社会とは、自由な社会であると同時に、

自分で判断する責任が増える社会

でもある。


14 人生設計も「一度決めたら終わり」ではない

諸行無常を人生設計へ応用すると、一つの重要な考え方が出てくる。

それは、

計画を変更することを失敗と考えない

ことである。

二十歳で作った人生計画が、

五十歳でも最適である保証はない。

収入が変わる。

健康が変わる。

家族が変わる。

社会制度が変わる。

技術が変わる。

本人の価値観も変わる。

にもかかわらず、

「一度決めたのだから最後まで続ける」

ことだけを正解とすると、環境変化に対応できなくなる。

重要なのは、

計画を持たないことではない。

計画を更新できること

である。


15 仕事でも「一つの自分」に固定しない

職業も同じである。

会社員。

医療職。

経営者。

教師。

技術者。

こうした職業は社会的役割である。

しかし、それが人間全体ではない。

仕事を失ったときに、

「自分には何も残っていない」

と感じるとすれば、職業と自己を強く結び付けすぎている可能性がある。

諸行無常の視点では、

職業も変化する。

役職も変わる。

能力も変わる。

だからこそ、

仕事以外の関心、

学習、

人間関係、

地域活動、

趣味、

を持つことは、単なる余暇ではない。

人生の多様性を増やすこと

でもある。


16 「多様な自分」を持つことはリスク分散にもなる

これは経済的な考え方にも似ている。

投資では、一つの資産だけに集中すると、その資産が大きく下落した場合の影響も大きくなる。

人生も完全に同じではないが、似た構造を持つ。

自分の価値を、

勤務先だけ、

所得だけ、

家族だけ、

社会的地位だけ、

に集中させると、その一つが失われたときの心理的損失が大きくなる。

一方、

仕事もある。

趣味もある。

友人もいる。

学習もある。

地域との関係もある。

という状態なら、一つが変化しても人生全体が失われにくい。

これを、

人生のポートフォリオ化

と考えることもできる。

もちろん人生を金融商品と同じように扱うべきではない。

しかし、

「依存先を一つに集中させない」

という構造的発想は有用である。


17 年を取ることも「多様性」と「無常」の問題である

高齢化社会では、年齢による違いをどう考えるかが重要になる。

若者と高齢者では、

身体能力、

経験、

情報環境、

将来時間、

所得構造、

が異なる。

これは多様性の問題である。

同時に、

若者はいずれ高齢者になる。

これは無常の問題である。

この二つを同時に考えると、

世代対立の見方も変わる。

「高齢者対若者」

という固定的な二項対立ではなく、

同じ人間が時間によって異なる立場を経験する

と理解できる。

現在若い人も、

将来医療、

介護、

年金、

公共交通、

を必要とする可能性がある。

逆に現在の高齢者も、かつては若い労働者だった。

時間軸を入れることで、社会問題の見え方は変わる。


18 地域社会にも多様性と無常がある

地方の町も変化する。

人口が減る。

商店がなくなる。

学校が統合される。

外国人住民が増える。

移住者が来る。

高齢化する。

産業が変わる。

この変化に対して、

「昔の町をそのまま取り戻そう」

という発想だけでは、現実に対応できないことがある。

一方、

「古いものは全部捨てればよい」

という考えも極端である。

重要なのは、

何を残し、何を変えるかを選択すること

である。

無常とは、伝統を捨てる思想ではない。

変化を前提として、

残すべきものを考える思想としても読むことができる。


19 変わることを恐れず、変えなくてよいものまで壊さない

多様性と無常を合わせて考えると、一つの危険にも気づく。

変化を肯定しすぎることである。

新しいもの。

新しい価値観。

新しい制度。

それらが古いものより必ず優れているとは限らない。

逆も同じである。

昔から続いているから正しいとも限らない。

したがって必要なのは、

新しいか古いか、

多数派か少数派か、

ではなく、

その仕組みが人間の生活にどのような結果をもたらしているか

を検討することである。

ここに論理的判断が必要になる。


20 寛容とは「賛成すること」ではない

多様性社会では、

自分が理解できない価値観に出会うことがある。

そのとき重要なのは、

必ずしも相手に賛成することではない。

理解することと賛成することは違う。

共存することと同意することも違う。

相手の意見を批判する自由も、多様な社会には必要である。

ただし、

人間そのものを否定することと、

意見を批判することは区別しなければならない。

成熟した多様性社会とは、

「誰も反対しない社会」

ではない。

異なる意見を持ったまま共存できる社会

である。


21 無常を知ることは、他者への想像力にもなる

現在健康な人が、

病気の人を完全に理解することは難しい。

若い人が、

老化した身体を完全に理解することも難しい。

しかし、

「自分も同じ状態になる可能性がある」

と考えることはできる。

現在安定した仕事を持つ人も、失業する可能性がある。

現在介護をする側の人も、介護される側になる可能性がある。

現在多数派に属する人も、環境が変われば少数派になる可能性がある。

無常という時間軸を加えると、

他者の問題が、

「自分とは関係のない人の問題」

ではなくなる。

これは多様性社会を支える重要な想像力になる。


22 令和時代に必要なのは「柔らかい自己」である

ここまでをまとめると、

多様性から学べるのは、

世界には自分とは違う存在がいる

ということ。

諸行無常から学べるのは、

自分自身も同じままではない

ということである。

この二つを受け入れると、

「私はこういう人間だ」

という自己定義にも、少し余白を持たせることができる。

自分の核となる価値観を持つことは大切である。

しかし、

過去の肩書、

成功体験、

失敗、

年齢、

職業、

などだけで自分を固定する必要はない。

人間は変化する。

そして変化した自分も、自分なのである。


23 「諸行無常」は多様性を正当化するための言葉ではない

ここは、本稿でもっとも注意しておきたい点である。

仏教の諸行無常は、

現代のダイバーシティ政策を説明するために作られた思想ではない。

また、

「仏教は昔から多様性を説いていた」

と単純に結論づけることもできない。

歴史的文脈も、思想的目的も違う。

両者を直接同一視するのは、論理的な飛躍である。

本稿で両者を結び付けているのは、

固定された世界観を疑うための二つの異なる視点

としてである。

多様性は、

「世界には複数の人間や価値観がある」

ことを教える。

諸行無常は、

「その世界も人間も変化し続ける」

ことを教える。

この二つを重ねることによって、

現代社会を見るための立体的な視点が得られる。


24 変わりゆく世界をどう生きるか

では、令和時代を生きる私たちは、具体的にどのような姿勢を持てばよいのだろう。

第一に、

違いをすぐに異常と判断しない。

第二に、

現在の常識を永久の常識だと思わない。

第三に、

自分自身も変化することを認める。

第四に、

他者の価値観を理解することと、賛成することを区別する。

第五に、

必要なら自分の考えを更新する。

第六に、

一つの肩書や価値観だけに自己を集中させない。

第七に、

変化のなかでも守るべき人間の尊厳や権利を見失わない。

この最後の点が重要である。

変化する世界だからこそ、

何を変え、

何を守るのか

を考えなければならない。


25 結論――多様であり、無常である世界を受け入れる

人間社会は多様である。

そしてその多様な人間たちも、時間とともに変化する。

現在の自分は、

過去の自分とは違う。

未来の自分とも違う。

社会も同じである。

今の常識が、

百年前の常識と違うように、

百年後の常識も現在とは違っているだろう。

多様性は、

「世界には自分とは違うものが存在する」

という現実を教える。

諸行無常は、

「今あるものも、やがて同じ姿ではなくなる」

という現実を教える。

この二つを合わせて考えると、

変化しない世界を求めることでも、

すべての変化を無条件に歓迎することでもない、

第三の生き方が見えてくる。

それは、

違いを認めながら、変化を観察し、必要に応じて自分自身を更新していく生き方である。

自分の考えを持つ。

しかし絶対視しない。

伝統を大切にする。

しかし変化を拒絶しない。

他人の違いを認める。

しかし何でも無条件に肯定するわけではない。

社会のルールを守る。

しかしそのルールが永遠に正しいとも考えない。

これは曖昧な生き方ではない。

むしろ、

変化する現実のなかで判断を続けるという、かなり厳しい生き方である。

『平家物語』が「諸行無常」を語ってから長い時間が流れた。

社会制度も、技術も、暮らしも大きく変わった。

それでも、人間が変化する世界に生きていることだけは変わらない。

令和時代の多様性を考えるとき、諸行無常は、

「すべては滅びる」という悲観論としてではなく、

人も社会も固定されていないという事実を受け入れる知恵

として読み直すことができる。

変わらない自分を守り続けることだけが、人生ではない。

違う人と出会い、

知らなかった考えを知り、

自分自身も少しずつ変わる。

その変化のなかで、

何を大切にし、

何を手放し、

何を次の時代へ残すのか。

多様性と諸行無常をともに考える意味は、その問いにある。

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