リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

~ 本が売られる街ではなく、知識が出会う街だった

東京・神保町を歩いていると、ときどき不思議な感覚に襲われる。

店先に並んでいるのは、誰かが一度手放した本である。新刊書店の棚のように、いま売れているものが整然と並んでいるわけではない。刊行から半世紀を過ぎた評論集の隣に、少し日に焼けた文庫本があり、その下には戦前の雑誌が積まれている。さらに数軒歩けば、映画のパンフレット、古地図、哲学書、浮世絵、洋書、自然科学の専門書に出会う。

一冊一冊には、もともと何の関係もない。

ところが、それらが同じ街に集められると、そこには図書館とも書店とも違う奇妙な知的空間が生まれる。目的の本を探しに来た人が、目的ではなかった本を買って帰る。文学を探していた学生が思想書を見つけ、歴史を調べていた人が古地図に足を止める。その偶然が何十年、何百年と繰り返されることで、街そのものが巨大な編集者のようになっていく。

古本屋街が文化を生み出した理由を考えるとき、重要なのは「たくさんの本が売られていたから」という説明だけでは足りない。

古本屋街には、本と人、人と人、過去と現在を予定外の形で結びつける力があったのである。

大学のそばに本屋ができ、本屋のそばに知識が集まった

神保町が本の街になった背景には、この地域と教育機関との深い関係がある。

明治初期、現在の神田・一ツ橋周辺には近代日本の教育機関が集まり、その後も周辺には多くの大学や学校が置かれていった。千代田区観光協会も、この地域に学生を相手とする書店が生まれ、そこから出版、印刷、製本などの関連産業が発展していったことを神保町書店街形成の背景として説明している。

これは考えてみれば自然な流れだった。

学生がいれば教科書が必要になる。研究者がいれば専門書が必要になる。しかし当時、本はいまほど安価でも大量でもなかった。明治期には印刷技術や流通も現在ほど整っておらず、古書そのものが貴重な知識資源だった。1881年創業の三省堂書店についても、当時この周辺に大学が次々と生まれる一方、新刊だけでなく古書も高価で貴重だったことが伝えられている。

ここで興味深い循環が始まる。

学生がいるから本屋ができる。本屋が増えるから学生や研究者が集まる。学生や研究者が集まれば、出版社や印刷会社も仕事をしやすくなる。出版社が集まれば、編集者や著者や翻訳者が街を訪れる。そして本を必要とする人がさらに増える。

つまり神保町は、単に需要に応じて書店が増えた街ではなかった。

需要が店を生み、その店が新しい需要を生むという自己増殖的な循環によって、「知識を必要とする人間が集まりやすい場所」そのものになっていったのである。

現在でも神保町にはおよそ130店の古書店があり、文学、歴史、思想、自然科学、美術、映画、武道、洋書など、店ごとに異なる専門分野を持つ。そこには新刊書店、出版社、取次、編集関連の仕事も共存している。

街が本を売っているのではない。

本を中心にした生態系が、街をつくっているのである。

古本屋では「探していなかった本」に出会う

インターネットで本を買うことは便利である。

書名が分かっていれば、数秒で検索できる。著者名も分からなければ、キーワードから候補を探せる。おすすめ機能を使えば、自分が過去に読んだ本に近い本まで提示してくれる。

それでも古本屋を歩く体験とは、どこか根本的に違う。

検索には、基本的に「探したいもの」が先に存在するからである。

古本屋では、それが逆転する。

何を探しているのか自分でもよく分からないまま棚を眺め、背表紙に引かれて一冊を抜く。題名を見て戻そうとしたとき、その隣の一冊が目に入る。そこから別の棚へ移り、気がつけば最初の目的とはまったく関係のない本を持ってレジに立っている。

この一見すると無駄な迂回こそ、文化にとって重要だった。

効率のよい検索は、自分が知っている言葉の世界を深くしてくれる。しかし偶然の出会いは、自分がまだ名前すら知らなかった世界へ連れていく。

経済学を学んでいる学生がマルクスを探しに行き、その隣に並んでいた大正期の文学雑誌を手にするかもしれない。近代文学を研究する人が古書店の棚で当時の広告や旅行案内を見つければ、作品だけを読んでいたときには見えなかった時代の空気に触れるかもしれない。

文化は、専門分野の内部だけで成熟するわけではない。

むしろ異なる分野が偶然接触する場所で、新しい解釈や表現が生まれる。

古本屋街は、その偶然を大量に発生させる装置だったのである。

古本には「前の読者」がいる

新刊書店から買った本と古本屋から買った本には、内容そのものに違いはない。

しかし古本には、ときどき別のものが付着している。

鉛筆の線が引かれている。欄外に小さな書き込みがある。古い新聞の切り抜きが挟まっている。大学名の入った蔵書印が押されていることもある。昭和四十年代の日付とともに、誰かの名前が記されていることさえある。

本来なら、それらは商品の傷なのかもしれない。

けれども、その痕跡を見つけた瞬間、本は奇妙に立体的になる。

ここに自分より前の読者がいた。

その人も、この文章のところで立ち止まった。

同じ一文に線を引いたのか、それとも自分とはまったく違う意味で重要だと思ったのか。

古本を読むという行為には、著者と読者だけではなく、過去の読者まで入り込んでくる。

こうして一冊の本が、世代を越えた小さな対話の場所になる。

本とは本来、時間を越えて思想を保存する媒体である。しかし古本になると、そこには著者の思想だけでなく、その本が実際に社会を通過してきた時間まで残る。

だから古本屋の棚には、単なる情報ではなく「時間」が並んでいる。

古地図を開けば失われた町並みがあり、古雑誌を開けば当時の広告や流行語があり、文学全集の奥付を見れば、その本がどの時代にどれほど読まれていたかがうかがえる。

歴史とは教科書の中だけにあるものではない。

古本屋では、歴史が値札を付けて棚に立っている。

本を売る商売が、記憶を保存する仕事になった

古書店のもう一つの役割は、市場から消えそうになった本を拾い上げることにある。

新刊市場にはどうしても時間の制約がある。新しい本が刊行されれば棚は入れ替わり、売れ行きの弱い本は姿を消していく。それは商業として当然のことであり、新刊書店が悪いわけではない。

しかし文化の価値と、その時点での売上は一致しない。

刊行時にはほとんど注目されなかった本が、数十年後に重要な資料となることがある。ある作家の無名時代の作品、地方でわずかに発行された雑誌、すでに存在しない会社の社史、古い鉄道時刻表、昔の映画パンフレット。発行された当時には日用品に近かったものが、時間を経ることで歴史資料へ変わっていく。

その変化を支えてきたのが古書市場だった。

古書業者には業者間で本を売買する交換会という仕組みもあり、東京では大正期からそのための施設が整えられていった。現在の東京古書会館につながる東京図書倶楽部は1916年に落成し、その後も古書市場の拠点として機能してきた。関東大震災や東京空襲によって会館が失われても、古書市場そのものは再建されている。

ここには、少し面白い逆説がある。

古本屋は本を保存するための博物館ではない。本を売らなければ商売にならない。

ところが、本を商品として何度も市場へ戻すからこそ、結果的に本が捨てられず、別の読者へ渡っていく。

売買という経済活動が、文化保存の仕組みとして働いてきたのである。

専門店があるから、知識は深くなる

神保町の面白さは、古書店が大量に存在することだけではない。

それぞれの店に癖がある。

文学、美術、思想、宗教、歴史、自然科学、映画、演劇、洋書、浮世絵、古典籍。現在の公式古書店地図を見ても、店はさまざまな専門分野に分類されている。

専門店が成立するということは、その分野についてかなり細かな需要が存在するということである。

そして専門店があると、今度はその分野の本が全国からそこへ集まってくる。

たとえば映画関係の資料を扱う店があれば、映画研究者や収集家が訪れるようになる。彼らが本を買う一方、不要になった資料を売る。店にはさらに専門的な資料が集まり、それを求めて別の研究者が訪れる。

ここでも循環が起きる。

客が専門店を育て、専門店が客を育てるのである。

その結果、普通なら全国に散らばっているはずの知識が、一つの小さな地区に高密度で蓄積される。

これは図書館とは少し違う。

図書館では分類体系に従って本が整理されるが、古本屋では店主の経験や価値判断が棚をつくる。ある意味では、それぞれの古本屋が一つの思想を持っている。

棚を見るということは、その店主が数十年かけて行ってきた巨大な選書を見ることでもある。

だから良い古本屋に入ると、こちらが本を探しているのか、店に本を選ばされているのか分からなくなる。

本の街には、なぜ喫茶店が似合うのか

神保町を語るとき、古本屋だけを見ていると、街の半分しか見たことにならない。

古書店街の周辺には、昔から喫茶店や飲食店が多い。現在の千代田区観光協会の紹介でも、神保町は古書店だけでなく喫茶やカレーの街として案内されている。

これは単なる観光上の組み合わせではない。

本を買った人間には、その本をすぐに開きたくなる習性があるからだ。

古本屋を出て数十メートル歩き、喫茶店に入り、コーヒーを注文する。紙袋から本を取り出す。「少しだけ読む」つもりが、気がつけば三十分たっている。

街の中に、本を探す場所と読む場所が連続して存在する。

さらに大学があり、出版社があり、編集者がいて、作家がいる。その人々が同じ喫茶店の椅子に座れば、本をめぐる会話が始まる。

文化というものは、大きな会議室だけで生まれるわけではない。

むしろ原稿の相談や、新しい企画や、思想をめぐる議論の多くは、こうした半私的な場所から生まれてきた。

古本屋が知識を集め、喫茶店が時間を与える。

街はその二つを徒歩でつないでいた。

古本屋街は、巨大な「知識の交差点」だった

ここまで考えてくると、古本屋街が文化を生んだ理由が少し見えてくる。

本が多かったからではない。

本を求める学生がいた。研究者がいた。大学があった。出版社と印刷会社が集まり、古書商が専門性を磨き、読み終えられた本が再び市場へ戻った。そこへ別の読者がやってきて、予定していなかった一冊を見つけた。そして街角の喫茶店でその本を開いた。

一つ一つは小さな出来事である。

しかし、それらが狭い地域で毎日繰り返されると、文化が蓄積していく。

言い換えるなら、古本屋街とは「知識の密度」が異常に高い場所だったのである。

しかも、その知識は閉じた倉庫に保存されているわけではない。

売られ、買われ、読まれ、語られ、また売られていく。

動いている。

だから文化になる。

検索の時代に、古本屋街が残しているもの

現在では、欲しい本を探すだけなら古本屋街へ出かける必要はなくなった。

東京都古書籍商業協同組合自身も1996年に古書検索サイト「日本の古本屋」を開設し、古書の流通は早くからインターネットへ広がってきた。

これは古本屋にとって大きな変化だった。

全国の在庫を検索できるようになり、かつて何日も歩かなければ見つからなかった一冊が、数分で見つかることもある。

それでも神保町から古本屋が消えたわけではない。

現在も古書店が集まり、古本まつりが続き、新しい形の書店まで生まれている。棚の一部を個人が借り、自分の選んだ本を販売する「シェア型書店」のような試みまで登場している。

おそらくこれは、本というものが情報だけではないからだろう。

検索は目的地へ最短距離で連れていってくれる。

しかし文化は、ときに寄り道から生まれる。

何となく入った店で知らない作家を知る。目的の本を見つけられない代わりに、もっと面白い本を見つける。隣の棚から自分とは違う思想が顔を出す。

アルゴリズムなら、その人の好みに合わないとして表示しなかったかもしれない本が、古本屋では平然と目の前に立っている。

その無秩序さには価値がある。

人間の世界そのものが、本来そうだからである。

街そのものが、一冊の本になる

古本屋街を歩くとき、私たちは本だけを見ているのではない。

店の看板を見る。昔から残る建物を見る。店主と客の短い会話を聞く。学生が店頭の百円均一の棚をのぞき込んでいる。誰かが大量の専門書を抱えて出てくる。

その風景の中には、百年以上続いてきた本と人との関係が重なっている。

だから神保町という街は、一冊の巨大な本のようにも見える。

古書店の一軒一軒が章であり、棚がページであり、そこを歩く人間が読者である。

ただし、この本には読む順番がない。

どこから入ってもいい。

途中で喫茶店に寄ってもいい。

一冊も買わずに帰る日があってもいい。

それでも何度か歩いているうちに、ある日、思いがけない一冊に出会う。

おそらく古本屋街が長いあいだ文化を生み出してきた秘密は、そこにある。

人は、自分が何を探しているのかを、いつも知っているわけではない。

知らないものと出会う場所があるから、新しい興味が生まれる。

新しい興味が生まれるから、新しい文章が書かれ、新しい研究が始まり、新しい思想が育つ。

文化とは、完成した知識の集積ではない。

知らなかったものに偶然出会い、その人の中で何かが少し動くことの積み重ねなのだろう。

古本屋街は、本を売ることでそれを続けてきた。

そして今日も棚のどこかで、一冊の古い本が、自分をまだ知らない次の読者を待っている。

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本屋に入ると、ときどき一冊の本だけが妙に明るく見えることがある。平積みされた本の帯には、「○○賞受賞」と大きな文字が印刷されている。その文字は、まだその作家を知らない読者に向かって、「これは読む価値のある本です」と静かに保証しているようにも見える。

文学賞には不思議な力がある。

無名だった作家の名前が一夜にして新聞やテレビに現れ、それまで数千人しか知らなかった作品を、何十万人もの人が手に取ることがある。昨日まで書店の棚の一角に置かれていた本が、翌日には入口近くの台を占領する。文学という、本来ならばひどく個人的で静かな営みが、賞の発表された瞬間だけ社会的な事件になる。

しかし、そこで一つ疑問が生まれる。

その本は、十年後にも読まれているのだろうか。五十年後にも書店に並んでいるのだろうか。

文学賞を取ることと、文学として残ることは、本当に同じなのだろうか。

賞を取った瞬間と、本が生き残る時間

文学賞について考えるとき、私たちはつい「受賞作=優れた作品」と一本の線で結びたくなる。もちろん、選考委員が読み、議論し、一定の評価を与えた作品なのだから、受賞にはそれなりの意味がある。

だが、ここには時間の問題がある。

文学賞が選んでいるのは、基本的には「いま」の作品である。その時代の言葉、その時代の問題意識、その時代の文学観の中で、どの作品に新しさがあるのか、どの作家に可能性があるのかを判断する。

たとえば芥川龍之介賞は、そもそも完成された大家を顕彰する賞というより、新しい文学を担う新人を見いだす性格を持つ。日本文学振興会も、芥川龍之介賞について「日本文学に新風を送る作品を著した有為の新人」を選ぶ賞として位置づけている。

ここが重要である。

文学賞は未来から作品を眺めることができない。

選考委員にも、ある作品が五十年後に高校の教科書へ載るのか、文庫として読み継がれるのか、あるいは古書店でしか見つからない本になるのかは分からない。賞が判断できるのは、その作品が発表された時点で持っている価値までである。

ところが、読者はそこから先を生きる。

そして文学の本当の選考は、受賞式が終わってから始まる。

文学史には、受賞者より有名になった「落選者」もいる

文学賞の歴史を振り返ると、少し奇妙なことに気づく。

過去の受賞者一覧を眺めていると、現代の一般読者にはほとんど知られていない作家や作品が少なからず並んでいる。第1回芥川龍之介賞は1935年、石川達三の『蒼氓』に与えられた。その後も多くの作家が受賞してきたが、すべての作品が現在まで同じように読まれているわけではない。公式の歴代一覧を見れば、それだけでも文学賞と文学的寿命が別物であることが分かる。

それは賞の失敗というより、むしろ当然のことである。

文学史そのものが、賞の選考よりはるかに長い時間をかけて行われる巨大な選考だからだ。

ある作品は受賞した年には鮮烈に新しく見える。しかし、その「新しさ」が時代に依存していた場合、社会が変われば輝きも弱くなる。一方、その年には目立たなかった作品が、人間の孤独や愛情、死、嫉妬、貧困、家族といった時代を越える問題を抱えていたために、何十年も後になって読み返されることもある。

文学というものは、発表された瞬間の順位表だけでは決まらないのである。

競馬ならばゴール板を通過した瞬間に着順が決まる。

文学には、そのゴール板がない。

十年後に順位が変わり、三十年後にも変わり、作者が亡くなった後にさらに変わる。生前には評価されなかった作家が後世に巨大な存在となることさえあるのだから、文学史という競技は、参加者自身がいなくなっても続いていることになる。

賞には「読まれるきっかけ」を作る力がある

だからといって、文学賞に意味がないわけではない。

むしろ文学賞の最大の力は、作品を永遠に残すことではなく、作品と読者が出会う確率を劇的に高めるところにある。

国立国会図書館が紹介している日本のベストセラー史を見ると、この作用がよく分かる。石原慎太郎の『太陽の季節』、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、綿矢りさの『蹴りたい背中』などは、芥川龍之介賞受賞を契機として社会的な注目を集め、大きな販売部数につながった代表的な例である。『限りなく透明に近いブルー』は1976年末までに130万部、『蹴りたい背中』も130万部を超えたとされる。

ここには文学賞のもう一つの顔が見えてくる。

賞は評価制度であると同時に、巨大な読書案内でもある。

実際、芥川龍之介賞と直木三十五賞を創設した菊池寛自身、賞に宣伝的な性格があることを早くから認めていた。

考えてみれば当然でもある。

世の中には毎年、数え切れないほどの小説が出版される。読者はそのすべてを読むことなどできない。本屋で一冊を選ぶためには、何らかの手掛かりが必要になる。好きな作家の名前、書店員の推薦、新聞の書評、友人の口コミ、表紙の美しさ。そしてその中でも、「文学賞受賞」という表示は非常に強い情報になる。

したがって賞とは、作品の価値を最終決定する判決ではない。

むしろ、「この作品を一度読んでみませんか」と大量の読者に差し出す招待状なのである。

売れた本と、残る本もまた違う

さらに話を複雑にするのが、ベストセラーとロングセラーの違いである。

ある年に百万人が読んだ本が、そのまま百年後まで残るとは限らない。反対に、刊行当初には爆発的に売れなかった本が、世代から世代へ細く長く読み継がれることもある。

本には「高さ」と「長さ」がある、と考えると分かりやすい。

発売直後に一気に売れる本は、グラフにすれば高い山を描くだろう。しかし、その山が急激に下がれば、累積された読書の時間は意外に短い。一方、一年あたりの読者数はそれほど多くなくても、五十年、百年と読み継がれる本は、低いながらも長い線を描く。

文学史に残るのは、必ずしも最も高い山ではない。

長い線を描いた作品なのである。

国立国会図書館が戦後出版史を紹介する中でも、文庫や文学全集が作品を継続的に読者へ届ける重要な仕組みになってきたことが分かる。 一度話題になっただけでは本は残らない。文庫に入り、全集に収録され、書店に置かれ、図書館に入り、誰かが誰かに薦める。その繰り返しによって、作品は世代を越えていく。

文学賞はその長い旅の出発駅にはなれる。

しかし、終着駅を決めることまではできない。

時代の問題を書いた作品ほど、時代とともに苦しくなることもある

受賞当時にはきわめて鮮烈だった作品が、その後あまり読まれなくなる理由の一つは、「時代との結びつき」が強すぎる場合である。

これは少し皮肉である。

文学賞ではしばしば、その時代を鋭く捉えた作品が評価される。新しい若者像、新しい家族像、新しい社会問題、新しい性意識、新しい言語感覚。それらを最も早く文学に取り込んだ作品は、発表時には強烈な印象を与える。

だが、「新しい」という言葉ほど早く古くなるものもない。

新しかった風俗は普通の風俗となり、衝撃的だった言葉は誰も驚かない言葉になる。社会制度が変われば、作品の前提そのものが説明なしには分からなくなることさえある。

それでも残る作品は、その時代固有の出来事の奥に、人間そのものを描いている。

舞台になった社会が消えても、その人物が感じる羞恥や嫉妬や孤独だけは消えない。服装も街並みも制度も古くなったのに、登場人物の心だけが妙に現在の自分に似ている。

読者がそこで時間を越える。

古典とは、おそらく「古い本」のことではない。

何度時代が変わっても、新しい読者の現在形に入り込んでくる本のことである。

作品を残す最後の審査員は、名前のない読者たちである

文学賞には選考委員がいる。

しかし文学史には、正式な選考委員会がない。

そこにいるのは、何百万人という名前のない読者である。

ある人は高校生のときに一冊を読み、二十年後に子どもへ薦める。ある教師は授業で取り上げ、ある評論家は論文を書き、ある出版社は文庫を再刊する。図書館員が棚から除籍せず、古書店主が本を捨てず、誰かがSNS(Social Networking Service・インターネット上で人々が交流するサービス)で突然話題にする。

そうした無数の小さな判断が積み重なって、一冊の本の寿命が決まっていく。

ここには文学賞とはまったく違う選考原理がある。

文学賞の選考は数人で行われ、数時間あるいは数日の議論によって結論が出る。しかし読者による選考には百年かかることがある。

しかも投票用紙はない。

読むという行為そのものが一票なのである。

読み終えて誰かに薦めれば、もう一票増える。新しい版が出版されれば、作品は次の選挙に立候補する。そして誰にも読まれなくなったとき、その作品は静かに文学史の表舞台から退いていく。

だから、文学作品にとって本当に厳しい審査は、賞の選考会ではないのかもしれない。

受賞後の長い時間なのである。

文学賞は「正解」ではなく、その時代から届いた手紙である

では、文学賞受賞作を私たちはどう読めばよいのだろう。

「賞を取ったのだから名作に違いない」と読む必要はない。また、「受賞作など権威が決めたものだから信用できない」と反発する必要もない。

もっと面白い読み方がある。

なぜ、この作品はこの時代に選ばれたのだろう、と考えて読むのである。

すると文学賞は、一冊の作品だけではなく、その背後にある時代まで見せてくれる。

何を新しいと感じたのか。何に社会が驚いたのか。どのような文章が文学的だと考えられていたのか。何を人間の重要な問題としていたのか。

そう考えると、現在ほとんど読まれていない受賞作にも意味が生まれる。

後世まで残らなかったから価値がなかったのではない。その作品は、その時代の文学が何を見ていたかを記録している。

文学賞の受賞作一覧とは、名作ランキングではない。

文学が時代ごとに残してきた足跡なのである。

百年後に残る一冊を、私たちはまだ知らない

今年の文学賞受賞作の中に、百年後にも読まれている作品があるかもしれない。

ないかもしれない。

それを現在の私たちは知ることができない。

いま書店の中央に山積みされている一冊より、棚の隅に一冊だけ差し込まれている小説のほうが、百年後には有名になっている可能性さえある。

文学にはその逆転がある。

だから面白い。

文学賞は一晩で作家の運命を変えることができる。しかし、一冊の本の寿命を決めることはできない。

賞が与えるのは「選ばれた」という事実であり、「残る」という保証ではない。

作品を残すのは、結局のところ時間と読者である。

何十年という歳月の中で社会が変わり、価値観が変わり、言葉が変わっても、それでも誰かが本を開く。その人物に笑い、その孤独に胸を締めつけられ、自分が生まれる前に書かれた一行の中に自分自身を見つける。

その瞬間、文学賞の肩書はもう必要ない。

表紙の帯がなくなっても、作者が亡くなっても、受賞した年を誰も覚えていなくても、その物語だけが読者の前でもう一度生き始める。

おそらく、それが文学作品にとって最も長く、最も厳しく、そして最も公平な「賞」なのだろう。

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いま映画を見ようと思えば、スマートフォンを取り出して検索すればいい。上映中の作品も、映画館の場所も、開始時刻も、空席も、その場で分かる。コンサートに行きたければアーティスト名を検索し、演劇を見たければ劇団の公式サイトを開けばいい。便利になったというより、私たちは「情報を探している」という感覚さえ持たなくなった。

けれども、かつて東京で映画を見ようと思った若者は、そう簡単には目的の映画へたどり着けなかった。ロードショーが終わった作品が、どこの二番館に移ったのか。小さな劇場で面白そうな芝居をやっていないか。名前だけ聞いたバンドは、今月どこでライブをするのか。情報は確かに存在していたが、それぞれ別の場所に散らばっていた。

その散らばった文化情報を、一冊の雑誌の中に集めてしまったのが『ぴあ』だった。

1972年7月、当時大学生だった矢内廣らによって創刊された『ぴあ』は、映画、演劇、コンサートなどの情報をまとめた月刊誌として出発した。当時は「情報誌」という言葉そのものが一般的ではなかったという。ぴあ株式会社自身が後に『ぴあ』を「文化・街歩きの道しるべ」と表現しているのは、この雑誌が果たした役割をよく表している。

しかし、『ぴあ』が若者の必需品になった理由は、単に情報量が多かったからではない。

そこには、インターネットが存在しなかった時代ならではの、「自分で文化を探す」という行動の形があった。

見たいものがあっても、どこで見られるか分からなかった

『ぴあ』誕生の原点には、ひどく実用的な不便があった。

創刊者の矢内廣は映画好きの学生だったが、ロードショー料金は学生には高かった。そのため、ロードショーが終わった映画を二番館、三番館で安く見る。しかし問題は、その映画が次に「いつ、どこの映画館にかかるのか」を簡単に知る方法がなかったことだったという。そこで映画情報を一冊にまとめ、さらに演劇や音楽、美術展なども加えれば便利なのではないかという発想が生まれた。

この話は、現代から見ると意外なほど重要である。

現在なら、私たちは作品名から場所を探す。しかし当時は、作品を知っていても場所が分からないことがあり、逆に町を歩いて初めて面白そうな映画や芝居に出会うこともあった。

つまり文化と人との間に、いまよりはるかに大きな「情報の距離」が存在していた。

『ぴあ』は、その距離を縮めた。

しかし、距離を完全になくしたわけではない。むしろ、この中途半端さこそが面白かった。

ページをめくっていると、目的だった映画の隣に知らない映画が載っている。その下には小劇場の公演があり、さらにページを進めれば聞いたことのないミュージシャンのライブがある。

検索ではない。

一覧するのである。

ここに、現在のインターネットとの決定的な違いがある。

『ぴあ』を読むことは、予定を立てることだった

『ぴあ』は、一般的な雑誌のように文章を順番に読むものではなかった。

買ったらページをめくりながら、映画のタイトルを見る。上映館を確かめ、上映時間を見る。コンサートの日程を調べ、劇場の場所を確認する。そして、「土曜日はここへ行こう」と考える。

つまり『ぴあ』は、読む雑誌であると同時に、行動を組み立てる道具だった。

これは旅行における時刻表に少し似ている。

鉄道時刻表を読む人が、列車の発車時刻だけを見ているわけではないように、『ぴあ』を開く若者も、単に上映時間だけを調べていたのではない。その情報を組み合わせながら、自分の一日を設計していた。

午後から映画を一本見る。そのあと新宿を歩き、夕方からライブを見る。途中で喫茶店に入るかもしれない。本屋にも寄るかもしれない。

『ぴあ』に載っていたのはイベント情報だったが、その向こう側にあったのは「自分は今度の休日をどう過ごすか」という生活そのものだった。

だから、一冊の雑誌が若者のバッグの中に入った。

読み終えれば捨ててしまう雑誌ではなく、何度も開く必要があったからである。

若者は『ぴあ』によって東京を覚えていった

情報を調べることと、街を知ることもまた、当時は切り離せなかった。

1979年、『ぴあ』誌上に「ぴあMAP」が登場する。最初に扱われたのは新宿東口だった。映画館、劇場、ライブハウス、美術館などを載せる一方、一般的な地図に必要な行政界などは省き、実際に歩いて道路を確認して作られたという。その後、この地図は若者から支持され、1982年にはムックとして刊行された。

ここには、『ぴあ』という雑誌の性格がよく表れている。

普通の地図が「街そのもの」を描くのだとすれば、『ぴあ』の地図は「遊ぶための街」を描いていた。

新宿、渋谷、池袋、銀座、下北沢。

街の名前は単なる地名ではなく、「映画を見る街」「ライブへ行く街」「芝居を見る街」という文化的な意味を持つようになる。

地方から東京へ出てきた学生にとってはなおさらだっただろう。東京という巨大な都市は、最初から理解できる場所ではない。しかし『ぴあ』を開き、映画館へ行き、劇場へ行き、その間を歩くうちに、街の位置関係が身体の中に入ってくる。

そう考えると、『ぴあ』は情報誌であると同時に、一種の都市案内書でもあった。

東京という街の使い方を教える雑誌だったのである。

有名なものと無名なものが、同じページに並んでいた

『ぴあ』にはもう一つ、当時としては特徴的な思想があった。

ぴあ株式会社が振り返っている創刊当時の編集方針には、客観情報を中心として批評性をできるだけ排し、情報を選ぶのは読者自身であるという考え方があった。さらに、メジャーなものとマイナーなものを平等に扱うことも掲げられていた。

この思想は、『ぴあ』が若者に支持された理由を考えるうえで非常に重要である。

評論家が「この映画を見るべきだ」と決めるのではない。編集者が「今年はこれが流行する」と教えるのでもない。

情報を並べる。

そして、自分で選ぶ。

いまでは当たり前に見える考え方だが、これは1970年代という時代の空気ともつながっていた。学園紛争の熱が冷め、従来の権威への距離感が生まれる一方で、フォークソングやミニコミ誌など、それまでの大手メディアとは異なる若者文化が広がっていた。矢内自身も、そうした時代背景の中で『ぴあ』が生まれたことを語っている。

だから『ぴあ』には、どこか民主的なところがあった。

大スターの公演も、小さな劇団の芝居も、名画座の古い映画も、ページの中では「今日見ることのできるもの」として並ぶ。

若者はその中から自分で選ぶ。

その選択の積み重ねによって、「自分の趣味」が出来上がっていったのである。

表紙を見るだけで『ぴあ』だと分かった

そして忘れてはならないのが、及川正通による表紙である。

1975年から始まった独特の似顔絵風イラストは、長く『ぴあ』の顔になった。書店や駅の売店で並んでいても、タイトルを確認する前に「あ、ぴあだ」と分かるほど強い個性を持っていた。ぴあの資料によれば、情報誌『ぴあ』は最盛期に発行部数約80万部に達し、最終的には通巻1341号まで続いた。

中身は徹底して実用的なのに、表紙は遊んでいる。

この組み合わせも『ぴあ』らしかった。

時刻や場所や料金という無機質なデータだけを詰め込めば、単なる情報一覧になってしまう。しかし、あの表紙が付くことで、『ぴあ』そのものが若者文化の一部になった。

バッグから取り出したとき、それが何の雑誌であるかを説明する必要はなかった。

『ぴあ』を持っていることそのものが、「映画や音楽や芝居に関心のある人」という小さな自己表現にもなっていたのである。

そして「情報」と「チケット」がつながった

『ぴあ』の発展を考えると、1984年の「チケットぴあ」開始は自然な出来事だったようにも見える。

映画やコンサートの情報を知れば、次に必要になるのはチケットである。それまで情報を提供していた会社が、コンピュータのオンラインネットワークを使ったチケット販売へ進む。ぴあはこの時期、自らを単なる出版社ではなく「情報流通業」と捉えるようになっていった。

これはかなり先進的な発想だった。

雑誌を売ることが目的なのではない。

人が「何かを見たい」と思い、その情報を知り、実際に会場へ行く。その一連の流れを支えることが事業だった。

だから『ぴあ』という雑誌は、最初から普通の雑誌とは少し違っていたのかもしれない。

記事そのものを読むために買うというより、その先にある現実の体験へ行くために買う。

紙面は目的地ではなく、入口だったのである。

『ぴあ』の最大の魅力は、知らないものが目に入ることだった

ところが、この仕組みを現在のインターネットと比較すると、意外な逆転が見えてくる。

情報量では、もちろんインターネットの方が圧倒的に多い。

映画一本を調べるだけでも、上映時間だけでなく、予告編、出演者、レビュー、座席状況まで分かる。『ぴあ』の時代には想像できなかったほど便利である。

しかし便利になった結果、私たちは「自分が探していない情報」に出会いにくくなった。

検索窓に映画名を入れれば、その映画の情報が出る。

音楽配信サービスを使えば、これまでの視聴履歴から自分が好きそうな曲が推薦される。

つまり現代の情報環境は、自分の好みを知れば知るほど、自分の好みに合ったものを見せてくれる。

『ぴあ』は逆だった。

必要な映画の上映時間を探しているだけなのに、隣に知らない映画が載っている。

その下を見ると、聞いたこともない劇団の名前がある。

さらにページをめくれば、美術展がある。

情報が整理されているのに、そこには偶然が残っていた。

この「予定していなかった出会い」が、『ぴあ』を読む楽しさのかなり大きな部分だったのではないだろうか。

お金のない若者ほど『ぴあ』を必要とした

もう一つ、当時の若者文化を考えるときに重要なのは、若者には今も昔も、それほどお金がないという単純な事実である。

だからこそ、安く映画を見る方法を探す。

どこかで自主映画を上映していないか調べる。

小劇場へ行く。

まだ有名になる前のミュージシャンを見る。

限られたお金で、できるだけ面白いものに出会いたい。

『ぴあ』は、そのための道具として非常に合理的だった。

これは高級な文化を紹介する雑誌ではない。

むしろ、財布の中身が乏しい若者が、それでも映画を見たい、音楽を聴きたい、芝居を見たいと思ったときに役に立つ雑誌だった。

創刊そのものが「ロードショーは高いから、安くなった映画を見たい」という学生の感覚から始まっているのだから、当然なのかもしれない。

『ぴあ』には、文化を楽しむためには大金が必要だという発想がなかった。

必要なのは、少しの金と時間と情報だった。

その情報を提供したのである。

インターネットが『ぴあ』の役割を引き継いだ

『ぴあ』は2011年7月、39年の歴史を経て休刊した。

しかし、それを単純に「雑誌がインターネットに負けた」と考えると、本質を見失う。

なぜなら、『ぴあ』が目指していたものとインターネットには、よく似たところがあるからだ。

情報を集める。

できるだけ広く提供する。

権威が選んだものだけではなく、多様な選択肢を並べる。

そして、最終的に何を見るかは利用者自身が決める。

ぴあ株式会社自身も、創刊時の「送り手と受け手がフラットである」という思想を、後のインターネットの考え方と重なるものとして振り返っている。

そう考えると、『ぴあ』はインターネットによって否定された雑誌というより、インターネット以前にインターネット的なことを紙でやっていた雑誌だった、と考えた方が正確なのかもしれない。

紙という限界の中で、都市に存在する文化情報をできるだけ集め、一冊の中から利用者自身が選ぶ。

その仕組みそのものが新しかったのである。

若者が失ったのは『ぴあ』ではなく、「探す時間」なのかもしれない

それでも、『ぴあ』がなくなったことに、どこか寂しさを感じる人は少なくないだろう。

それは紙の雑誌が一冊なくなったからだけではない。

文化との出会い方が変わったからである。

かつては『ぴあ』を買い、ページをめくり、丸を付ける。友人と相談する。地図を見る。電車に乗る。駅を出て、少し迷いながら映画館やライブハウスを探す。

その一連の行動全部が、映画を見ることや音楽を聴くことの一部だった。

現在なら数分で終わる情報収集に、昔はずいぶん時間がかかった。

けれども、その不便な時間の途中で、知らない映画を知り、知らない街を歩き、知らない店に入り、予定していなかったものに出会った。

便利になるとは、目的地へ早く到着できることである。

しかし目的地へ早く到着できるようになればなるほど、途中で何かに出会う機会は減っていく。

『ぴあ』が若者の必需品だった理由は、そこに必要な情報が載っていたからである。

けれども、長い時間を経て振り返ってみれば、それだけではなかったことに気づく。

あの小さな文字が並んだページを眺めながら、

「今度の日曜日、どこへ行こうか」

と考える。

その瞬間、まだ行ったことのない映画館も、知らないバンドも、歩いたことのない街も、自分の未来の選択肢になった。

『ぴあ』が売っていたのは、映画情報でも、コンサート情報でもなかったのかもしれない。

若者が自分自身で休日を選び、自分自身で街へ出て、自分自身の好きなものを見つけていくための、無数の入口だったのである。

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伊丹十三について語ろうとすると、いつも一つの困難にぶつかる。俳優、映画監督、エッセイスト、商業デザイナー、テレビ制作者、雑誌編集者、イラストレーター。肩書を並べれば並べるほど、かえって彼が何者だったのか分からなくなるのである。多才だった、という言葉でまとめることもできる。しかし、それでは伊丹十三という人物の輪郭を十分に捉えたことにはならない。

むしろ彼の仕事を長い時間軸で眺めてみると、そこには一つの共通した姿勢が見えてくる。伊丹十三は、生涯にわたって「人間が日常をどのように生きているか」を見続けた人だったのではないか。

食べること、着ること、買うこと、車を運転すること、人と話すこと、子どもを育てること、病院へ行くこと、葬式を出すこと。私たちの生活は、そのような無数の行為によってできている。しかし普通、それらについて深く考えることはない。毎朝コーヒーを飲むとき、なぜこの器を使うのかとは考えない。店で物を買うとき、売る側と買う側との間にどのような心理が働いているかを分析したりもしない。葬式に参列すれば周囲に合わせて頭を下げ、決められた順序に従って動く。それで日常生活は問題なく進んでいく。

伊丹十三は、そこで立ち止まることのできる人だった。

なぜ人間は、この場面でこのように振る舞うのだろう。なぜこちらの国では自然に見える仕草が、別の国では不自然に見えるのだろう。なぜ便利なはずの道具が、使い方ひとつでみっともなく見えるのだろう。なぜ誰もが当然だと思っている習慣に、これほど妙なところがあるのだろう。

この「なぜ」が、伊丹十三の文章と映画を貫いている。

彼の初期のエッセイを読むと、そのことがよく分かる。外国へ出かけても、彼の関心は名所旧跡だけに向かわない。むしろレストランで人がどのように注文するのか、料理をどう食べるのか、車をどう扱うのか、服をどう着るのかといった、ごく普通の生活の細部へ向かっていく。そこで彼は、日本と外国の違いを大上段から論じるのではなく、目の前で起きている小さな出来事から考え始める。

一見すると、それは趣味や生活作法の話に見える。けれども、読み進めていくと、その向こう側から社会が姿を現す。食べ方には階級意識や家庭教育が現れ、服装には身体に対する感覚が現れ、サービスの仕方には人間関係についての社会的な考え方が現れる。車の扱い方一つをとっても、その国の道具観や公共意識が透けて見える。

伊丹十三が優れていたのは、こうした細部を単なる雑学として終わらせなかったことである。小さな生活習慣から、その背後にある大きな構造を感じ取っていた。

おそらく彼にとって、文化とは美術館や劇場の中だけにあるものではなかった。文化は食卓にもあり、商店にもあり、台所にもあり、道路にもあり、家族の会話にもある。人間が長い時間をかけて身につけてきた振る舞いそのものが文化なのである。

だから伊丹十三の文章には、独特の「見る速度」がある。

多くの人が何も考えず通り過ぎるところで、彼だけが速度を落とす。そして眺める。少し角度を変えて見る。外国と比べてみる。過去と比べてみる。自分の感覚を疑いながら、それでももう一度見る。そのうち、それまで平凡だった風景の中から妙なものが浮かび上がってくる。

この力は、後年の映画にそのまま受け継がれていった。

『お葬式』という題名を改めて考えてみれば、それだけでも伊丹十三の映画が普通ではなかったことが分かる。葬式は誰にでも関係する。しかし、映画の題材として考えれば華やかではない。主人公が世界を救うわけでもなければ、壮大な歴史が展開するわけでもない。親族が集まり、僧侶を迎え、慣れない儀礼を行い、周囲に気を遣いながら故人を送り出す。

ところが、そこには驚くほど多くの人間の姿がある。悲しみながらも段取りを気にする人がいる。作法を知らず戸惑う人がいる。世間体を考える人がいる。専門家に任せるしかないこともある。厳粛であるはずの場に、どこか滑稽さも入り込んでくる。

伊丹十三は、その矛盾を見逃さなかった。

人間は、悲しいときでさえ完全に悲しみだけの中にはいられない。お腹も減るし、電話も鳴るし、金のことも考えなければならない。人生の重大事のすぐ隣に、どうでもよい日常が存在している。そこに人間のおかしさがある。

伊丹映画のユーモアは、人を上から笑うものではない。むしろ、人間という存在そのものが持っている不格好さを見つめるところから生まれている。

『タンポポ』も同じである。ラーメン一杯という極めて日常的な対象から、伊丹十三は一つの世界を作り出した。食べることは誰もが毎日繰り返している。それにもかかわらず、いざ真正面から眺めてみると、そこには欲望も技術も美意識も競争もある。料理する者と食べる者がいて、上手な者と下手な者がいて、知識を誇る者もいれば、ただ純粋においしいものを食べたい者もいる。

ラーメンを描きながら、結局は人間を描いているのである。

『マルサの女』では税金という、普通なら映画から最も遠そうな世界を題材にした。『スーパーの女』では食品スーパーの売り場が物語の舞台になる。伊丹十三にかかると、税務署もスーパーも、一つの社会として見えてくる。そこには独自の言葉があり、慣習があり、専門知識があり、権力関係があり、善意も悪意も欲望もある。

彼が特別だったのは、非日常的な出来事を見つける能力ではなく、日常そのものの中に劇を見つける能力だったのだろう。

では、なぜ伊丹十三にはそれができたのか。

一つには、彼が「編集する人」だったことが大きいように思う。

編集という仕事は、何もないところからすべてを生み出す仕事ではない。すでに存在しているものを見つけ、選び、順序を与え、並べ直すことによって、新しい意味を生み出す仕事である。写真を一枚選ぶ。文章の位置を変える。余計なものを捨てる。二つの出来事を隣に置く。ただそれだけで、世界の見え方が変わる。

伊丹十三は商業デザインや編集の仕事を経験していた。その感覚は、後の文章にも映画にも深く残っている。

彼は、生活の中から素材を拾ってくる。食事を拾う。服装を拾う。車を拾う。葬式を拾う。税金を拾う。スーパーを拾う。そして、それらをいつもとは少し違う場所に置いてみせる。

すると読者や観客は、「こんなものが面白いのか」と驚く。

けれども伊丹十三が面白いものを発明したわけではない。もともとそこにあったものを、私たちが面白いと気づく位置まで動かしたのである。

ここに、彼が日常生活を「文化」に変えることができた理由がある。

文化という言葉には、ときとして大げさな響きがある。文学、絵画、音楽、思想。長い歴史を持つ作品だけが文化であるかのようにも感じられる。しかし、文化をもう少し広く捉えるならば、人間が繰り返してきた生活の型もまた文化である。

家族がどこに座って食事をするか。人前で何を恥ずかしいと思うか。祝い事のときに何を食べるか。客にどう接するか。死者をどのように送るか。

そうしたものは、誰か一人が決めたわけではない。無数の人間が長い時間をかけて作り、次の世代へ渡してきたものである。

伊丹十三は、それを見ていた。

だから彼が洋服について書けば、それは単なるファッションの話ではなくなる。料理について書けば、単なるグルメ談義ではなくなる。外国について書いても、単なる旅行記にはならない。

伊丹十三の文章には、美意識と同時に倫理があるからである。

どの服が格好いいかということだけではなく、人間は物をどう扱えばよいのか。どの料理がおいしいかということだけではなく、食べるという行為をどのように楽しむべきなのか。どこの国が優れているかということではなく、自分たちはなぜこのような振る舞いをしているのか。

その問いは、最後には自分自身へ戻ってくる。

彼は外国を使って日本を見た。そして日本を語りながら、人間そのものを見ていたのである。

そこには、伊丹十三特有の距離感がある。

完全に外側へ出るのではない。しかし、中に埋没もしない。

日本人として日本の生活を知りながら、ほんの少しだけ外側へ立ってみる。その半歩ほどの距離から眺めると、日常の奇妙さがよく見える。

考えてみれば、優れたエッセイストにはこの距離感が必要なのだろう。

生活に近すぎれば、すべてが当たり前になってしまう。遠すぎれば、生活の温度が失われる。

伊丹十三は、その中間に立っていた。

だから彼の文章を読んでいると、「自分も見たことがある」と思うのに、「そんなふうに考えたことはなかった」と感じる。

これは、非常に不思議な読書体験である。

未知の世界を教えられたのではない。むしろ、自分が毎日暮らしてきた世界を改めて見せられている。

本当の意味での観察とは、そこにあるものを発見することだけではないのかもしれない。見慣れすぎて見えなくなったものを、もう一度見えるようにすることである。

伊丹十三は、それができた。

そして、その能力は単なる知識の豊富さから生まれたのではない。彼には、自分自身の感覚を信用する強さがあったのだと思う。

世間では普通とされている。しかし、自分には何となくおかしく見える。

多くの人が気にしていない。しかし、自分には気になる。

普通なら、そこで自分の感覚を引っ込めてしまう。みんなが何も言わないのだから、たぶん自分の方がおかしいのだろう、と考える。

伊丹十三は、そこで考えることをやめなかった。

この違和感はどこから来るのだろう、と掘り下げていった。

その姿勢が、彼の文章に独自の切れ味を与えた。

文化を見るということは、結局、違いを見ることでもある。

美しいものと美しくないもの。自然な振る舞いと不自然な振る舞い。合理的な仕組みと不合理な仕組み。品のある態度と品のない態度。

伊丹十三は、その境界線に敏感だった。

もちろん、その判断には彼自身の好みもあった。すべてが普遍的な基準だったわけではない。それでも彼の文章が今なお魅力を失わないのは、結論そのものよりも、物事を見る過程が面白いからである。

何となく感じる。

よく見る。

比較する。

考える。

言葉にする。

この繰り返しによって、日常の風景に意味が生まれていく。

伊丹十三が教えてくれるのは、文化とは最初から立派な姿で存在しているものではないということなのかもしれない。

文化は、生活の中に沈んでいる。

食卓にも、道路にも、衣服にも、店にも、家族の会話にも、人間の癖にも沈んでいる。

しかし、それはあまりにも近くにあるため、普通は見えない。

伊丹十三は、その沈んでいるものを一つずつ拾い上げた。

そして文章にし、映像にした。

すると、それまで何でもなかった行為が、急に興味深いものに見えてくる。

自分が箸を持つ手まで気になってくる。店員との会話まで気になってくる。スーパーの商品棚の並び方まで気になってくる。葬式の席で人々がどのように振る舞うのかまで見えてくる。

世界が少しだけ濃くなるのである。

だから伊丹十三の仕事を「生活文化」と呼ぶだけでも、まだ十分ではないように思う。

彼は、生活を文化へ格上げしたわけではなかった。

もともと生活の中に文化があることを発見し、それを私たちにも見えるようにした。

おそらく、そこに伊丹十三という人のもっとも大きな才能があった。

特別な場所へ出かけなくても、人間について考える材料は目の前にある。大事件が起こらなくても、社会は毎日の暮らしの中に現れている。難しい思想書を開かなくても、人間が何を大切にしているかは、その人の食べ方や話し方や物の扱い方に現れる。

伊丹十三は、そうした小さな事実を軽く扱わなかった。

それどころか、小さな事実の方が人間について多くを語ることを知っていた。

伊丹十三が見ていたのは、遠いところにある「文化」ではない。

毎朝起きてから夜眠るまで、私たちが無意識のうちに繰り返している、その生活そのものだった。

そして彼の文章や映画に触れたあと、私たちは少しだけ以前とは違う目で、自分の暮らしを見るようになる。

それこそが、伊丹十三が日常生活を「文化」に変えたように見える、本当の理由なのだろう。

彼は日常を別のものに変えたのではない。

日常の中に、最初から文化があったことを見つけたのである。

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「文豪」と呼ばれる作家と呼ばれない作家の違いは何か

夏目漱石を「文豪」と呼んでも、ほとんど違和感はない。森鴎外にも、芥川龍之介にも、その言葉はよく似合う。川端康成や谷崎潤一郎についても、おそらく多くの人が同じように感じるだろう。

ところが、時代を少し下ってみると事情が変わってくる。

松本清張を文豪と呼ぶ人はいるだろうが、「社会派推理小説の巨匠」と呼ぶ方が普通かもしれない。星新一なら「ショートショートの神様」、司馬遼太郎なら「国民的作家」、赤川次郎なら「ベストセラー作家」という言葉が先に浮かぶ。村上春樹ほど世界的に読まれている日本人作家であっても、「文豪・村上春樹」と書けば、どこか少し大げさな響きを感じる人は少なくないだろう。

この違いは、単純に作品の質だけで説明できるものではない。

そもそも「文豪」とは文学上の資格ではない。国家試験があるわけでもなければ、文学賞のように選考委員会が認定するものでもない。ある作家が何冊売れば文豪になるという基準もなく、芥川賞を取れば文豪になれるわけでもない。それなのに私たちは、ある作家については自然に「文豪」という言葉を使い、別の作家についてはほとんど使わない。

そこには、日本人が文学をどのように記憶し、後世へ残してきたのかという、作品そのものとは別の仕組みが隠れている。

「文豪」は生前の人気だけでは生まれない

作家にとって、売れることは重要である。しかし、売れた作家がそのまま文豪になるわけではない。

日本文学史を振り返れば、生前に圧倒的な人気を得た作家は数え切れないほどいる。その時代の新聞や雑誌を賑わせ、多くの読者を熱狂させたにもかかわらず、現在では文学史の専門書を開かなければ名前に出会わない作家もいる。その一方で、生前の販売部数だけを見れば必ずしも最大級ではなかった作家が、百年後には「日本を代表する作家」として語られていることもある。

つまり、人気と文学史上の地位は、同じものではない。

ベストセラーは「その時代にどれだけ読まれたか」を示すが、文豪という評価には「その時代が終わったあとにも読まれたか」という、もう一つの時間軸が加わる。

ここに文豪という言葉の面白さがある。

作家本人が亡くなったあと、新刊が出なくなり、新聞にもテレビにも本人が登場しなくなる。それでも作品だけが残り、新しい世代の読者に読み直される。社会の価値観が変わってもなお、そこに別の意味が見いだされる。その繰り返しのなかで、作家は少しずつ「同時代の人気作家」から「文学史上の人物」へ変わっていく。

文豪とは、ある意味では時間によってつくられる称号なのである。

教科書に載ると、作家は「国民の記憶」になる

夏目漱石を読んだことがない人でも、夏目漱石という名前は知っている。

芥川龍之介の作品を一冊も買ったことがない人でも、『羅生門』や『蜘蛛の糸』という題名を聞いたことがあるかもしれない。森鴎外なら『舞姫』、太宰治なら『走れメロス』が学校教育を通して記憶されている。

ここで重要なのが国語教科書である。

文学作品が教科書に採用されるということは、単に作品が教材になるというだけではない。毎年、何十万人、何百万人という子どもたちが、その作家の名前を見ることになる。それが何十年も続けば、実際にその作家の本を読む人よりはるかに多くの人が、その名前だけは知っているという状態が生まれる。

これは非常に大きな力を持つ。

文学は本来、読もうとした人が書店や図書館で出会うものである。しかし教科書に入った作品だけは違う。本人の意思とは関係なく、ほぼ全国民が一度はその作家と出会うことになる。

こうして漱石や芥川は、「読書をする人が知っている作家」から、「日本人なら名前を知っている作家」へと変わっていく。

文豪というイメージには、この国民的共有記憶がかなり深く関係している。

「全集が出る」という特別な出来事

かつて日本の家庭の本棚には、文学全集が並んでいることが珍しくなかった。

世界文学全集、日本文学全集、現代文学全集。革張り風の装丁を施された重厚な本が、応接間の本棚を一段まるごと占領している。全部読んだ家庭がどれほどあったかは別として、それを所有すること自体が、ある種の教養の象徴でもあった。

そこで名前を連ねる作家は、単に「面白い小説を書いた人」ではなくなっていく。

全集とは、その作家の仕事を保存する装置だからである。

一冊の小説なら絶版になることがある。流行作家なら、時代が変われば書店から姿を消す。しかし全集が編まれ、研究者が作品を整理し、書簡や日記まで収録されるようになると、作家は個々の作品を超えた「研究対象」になる。

夏目漱石全集、森鴎外全集、芥川龍之介全集という言葉には、どこか文化財のような響きがある。

作家本人の原稿だけではない。年譜が作られ、書簡が集められ、作品の初出が調べられ、研究論文が書かれる。それらが積み重なることで、一人の作家を中心に巨大な知識の体系が形成されていく。

文豪とは作品を書いた人であると同時に、死後も読み解かれ続ける人なのだ。

作家の人生まで「物語」になる

文豪と呼ばれる作家には、奇妙なほど強い人物像が付随していることが多い。

漱石には神経衰弱や英国留学の孤独があり、鴎外には軍医としての顔がある。芥川龍之介には若くして死を選んだ知識人という像があり、太宰治には破滅的な人生そのものが作品と重なるような印象がある。三島由紀夫に至っては、その最期を文学から完全に切り離して語ることが難しい。

もちろん、本来なら作品と作家本人の人生は別のものである。

しかし文学史は、必ずしも作品だけを保存しない。

「この人はどんな人生を送り、なぜこの作品を書いたのか」という物語まで一緒に保存する。その結果、作家自身が一つの文化的キャラクターになっていく。

学校で名前を覚え、写真を見る。年表には出生と死去が記され、文学館には書斎が再現され、愛用の万年筆まで展示される。かつて生身の人間だった作家は、少しずつ歴史的人物へ変わっていく。

この変化が十分に進んだところで、「作家」という呼び名の前に「文豪」という二文字が置かれるようになる。

文豪という言葉には、作品への敬意だけではなく、その人物がすでに「歴史の側」に移ったことを示す響きも含まれているのである。

なぜ現代作家は文豪と呼ばれにくいのか

そう考えると、現在活躍している作家が文豪と呼ばれにくい理由も見えてくる。

たとえば村上春樹は、日本国外でも極めて広く読まれ、多数の言語に翻訳されている。日本文学史に残る可能性という意味では、すでに重要な作家であることを否定するのは難しい。それでも「文豪」という呼称には、まだ微妙な距離がある。

その理由の一つは、私たちと同じ時間を生きているからだろう。

新刊が出れば書評が掲載され、インタビューも行われ、読者は作品について賛否を語る。その作家はまだ「評価が確定していない現在の人物」である。

文豪には、どこか銅像のようなところがある。

現在進行形の人間には似合いにくい。

文学史という長い廊下の奥に立ち、何世代もの読者がその作品を読み終えたあとでもなお名前が残っている。そんな時間的距離が生じたとき、初めて文豪という言葉が違和感なく馴染んでくる。

だから、今日「人気作家」と呼ばれている人のなかから、百年後の文豪が生まれる可能性は十分にある。ただし、それを現在の私たちが確定することはできない。

純文学だから文豪になるわけではない

もう一つ興味深い問題がある。

文豪という言葉には、どうしても純文学的な響きがまとわりつく。しかし、文学史に残るために純文学でなければならないという決まりはどこにもない。

江戸川乱歩は探偵小説を書いた。松本清張は推理小説を通して社会を描いた。司馬遼太郎は歴史小説によって、多くの日本人の歴史観にまで影響を与えた。星新一は短い物語のなかに未来社会の構造を閉じ込めた。

彼らの影響力は決して小さくない。

それでも「文豪」という呼称の中心には、長い間、近代文学史と学校教育が置いてきた正統的な文学の系譜がある。

つまり、文豪は純粋に作品の文学的価値だけで決まるのではなく、「文学史という物語のなかで、どの位置に置かれたか」にも左右される。

文学史そのものが一つの編集作業なのである。

無数に存在した作家のなかから何人かを選び、近代文学の始まりを語り、自然主義を説明し、白樺派、新思潮派、無頼派、戦後文学へと線を引いていく。その線の上に何度も名前が登場する人ほど、後世から見ると巨大な存在に見える。

反対に、膨大な読者を持ちながら、その文学史の線から少し外れている作家は、「大作家」にはなっても「文豪」と呼ばれにくい。

ここには評価というものの、少し不思議な性質が表れている。

売れた作家と残った作家

文学の世界には、「売れた」という評価と「残った」という評価がある。

二つは重なることもあるが、同じではない。

ある時代に百万人が読んだ作品が、五十年後にはほとんど読まれなくなることがある。一方、発表当時には限られた読者しか持たなかった作品が、何十年もかけて評価を高めることもある。

文学には、出版された瞬間には分からない価値がある。

社会が変わると、作品の意味まで変わるからだ。

たとえば、ある時代には恋愛小説として読まれていた作品が、後世には女性の社会的立場を描いた作品として読み直されることがある。家族小説が、当時の家制度を記録した社会史的資料に見えてくることもある。未来を描いた小説が、数十年後には驚くほど現実的な社会批評として読めることさえある。

優れた文学は、読者が変わるたびに別の顔を見せる。

文豪になる作家とは、その再読に耐え続けた作家だとも言えるだろう。

「文豪」は出版社と書店にもつくられる

もちろん、作品が残るためには、それを読める状態にしておかなければならない。

文学史に残った作家の作品が現在でも容易に読めるのは、出版社が何十年にもわたって文庫を再版しているからである。旧字体を新字体に直し、注釈を加え、解説を付け、新装版を作る。著作権が切れれば電子化され、無料で読める作品も増えていく。

つまり名作は、自然に残っているわけではない。

誰かが残しているのである。

出版社、編集者、研究者、書店、図書館、教師、評論家、そして読者。その無数の人々が「これは次の世代にも読む価値がある」と判断し続けた結果として、作品は百年後まで運ばれていく。

この仕組みを考えると、「文豪とは誰か」という問いは、そのまま「私たちはどの文学を残してきたのか」という問いに変わる。

文豪ではないから、文学的価値が低いわけではない

ここで最も注意したいことがある。

文豪と呼ばれない作家が、文豪より劣っているわけではない。

むしろ「文豪」という言葉は、文学作品の価値を測る精密な物差しとしてはかなり曖昧である。

大量に読まれた作家、特定のジャンルを完成させた作家、若者文化を変えた作家、文章表現に革命を起こした作家。その重要性は、それぞれ違う尺度で測らなければならない。

赤川次郎を漱石と同じ物差しで測る必要はないし、星新一を鴎外と同じ方法で評価する必要もない。

むしろ文学史を面白くするのは、その違いである。

数十ページを費やして人間の内面を描く作家もいれば、数ページの物語で文明そのものを風刺する作家もいる。歴史を巨大な物語として描く人もいれば、家庭の食卓に置かれた小さな茶碗から一つの時代を描く人もいる。

文学は一種類ではない。

だから文豪という称号も、文学の頂点を示すランキングだと考えない方がよい。

百年後、誰が文豪になっているのだろう

結局のところ、文豪と呼ばれる作家と呼ばれない作家を分けているのは、作品の質だけではない。

作品が長期間読まれたこと、学校教育に取り込まれたこと、文学史のなかに位置づけられたこと、全集や文庫として保存されたこと、研究の対象になったこと、そして作家自身の人生まで含めて後世に語り継がれたこと。そうしたいくつもの条件が重なったところに、「文豪」という存在が生まれる。

だから文豪とは、作家が自分一人でなるものではない。

作家が作品を書き、読者が読み、批評家が論じ、出版社が残し、教師が教え、次の世代がもう一度読み直す。その長い共同作業の果てに、いつの間にか一人の作家の名前の前へ「文豪」という二文字が置かれる。

そう考えると、文学史は少し違って見えてくる。

私たちがいま何気なく読んでいる作家のなかにも、まだ「文豪」と呼ばれていない未来の文豪がいるかもしれない。そして反対に、現在は巨大に見える作家が、百年後にはほとんど読まれていない可能性もある。

その判定を下すのは、文学賞の選考委員でも、出版社でも、評論家でもない。

最後に決めるのは、時間である。

本棚から本棚へ、世代から世代へと作品が渡され、それでもなお誰かがページを開く。その小さな行為が百年ほど積み重なったとき、一人の「作家」は、いつしか「文豪」になっているのである。

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向田邦子の文章を読んでいると、ときどき不思議な気持ちになる。

そこに書かれているものは、決して特別なものではない。食卓があり、父親がいて、母親がいて、姉妹がいる。台所から匂いがして、誰かが機嫌を損ね、誰かが黙り込み、また何事もなかったように夕飯が始まる。

世界を揺るがすような事件が起きるわけではない。

それなのに、何十年も前に書かれた文章の一節が、妙に鮮やかにこちらへ届いてくる。

古い写真を見ているのとは少し違う。写真なら、そこに写っている髪型や服装や家具を見て、「昔だな」と思う。しかし向田邦子の文章を読んでいると、昔を見ているはずなのに、いつの間にか自分の家のことを考えている。

父親の咳払い。

母親の台所仕事。

食卓で交わされる、どうでもいいような会話。

子供のころには気づかなかった、大人たちの小さな嘘。

そういうものが、文章の向こう側から静かに立ち上がってくる。

向田邦子の文章が今も美しい理由は、昭和を書いたからではない。

昭和という時代を借りながら、その奥にある、人間が家族と暮らすときの「どうにも説明できない感情」を書いたからなのだと思う。

美しい文章なのに、美しく見せようとしない

文章の美しさというと、私たちはつい華麗な比喩や、難しい言葉や、長く流れるような文体を想像する。

しかし向田邦子の文章は、そういう美しさとは少し違う。

むしろ、言葉は驚くほど普通である。

普通の言葉を普通に並べているように見える。

ところが読み終えると、一枚の絵が残っている。

それも、輪郭のはっきりした絵ではない。

夕方の台所の明かりであったり、食卓の上に置かれた皿であったり、黙って新聞を読んでいる父親の横顔であったりする。

向田邦子は、読者に「ここで感動してください」と言わない。

悲しい場面でも、悲しいと大声で言わない。

寂しい人間が出てきても、「この人は寂しい人なのです」と説明しない。

その代わり、ちょっとした仕草を書く。

返事の間を書く。

食べものを書く。

着ているものを書く。

人間というものは、本当に悲しいときほど「私は悲しい」とは言わない。

むしろ味噌汁をすすったり、窓を閉めたり、テレビをつけたりする。

向田邦子は、そのことをよく知っていた。

だから文章が芝居がからない。

読者が感動するための場所を、作者が先回りして埋めてしまわないのである。

文章の中に、少しだけ空白が残されている。

その空白に、読者自身の記憶が入り込む。

そこに、向田邦子の文章の強さがある。

食べものを書けば、人間が見えてくる

向田邦子の文章には、食べものがよく似合う。

豪華な料理である必要はない。

むしろ、家庭の中にあるごく普通の食べもののほうがいい。

汁物、煮物、漬物、御飯。

そうしたものを書いているだけなのに、家族の姿が見えてくる。

考えてみれば、家族ほど不思議な集団はない。

会社なら嫌いな人とは距離を置ける。友人なら付き合わなくなることもできる。しかし家族は、腹を立てながら同じ鍋をつつき、口をきかなくても翌朝には同じ味噌汁を飲んでいたりする。

そこには愛情もある。

しかし愛情だけではない。

鬱陶しさもある。

嫉妬もある。

諦めもある。

それでも同じ卓袱台を囲んでいる。

向田邦子の描く食卓が美しいのは、家庭を理想化していないからだ。

仲のよい家族という、きれいな額縁には入れない。

父親には父親の勝手があり、母親には母親の我慢があり、子供には子供の反抗がある。

誰も完全には善人ではない。

それでも夕飯になると、みんなが集まってくる。

人間は理屈で家族をしているわけではない。

この当たり前だが説明しにくい事実を、向田邦子は料理の湯気の向こうから見せてくる。

昭和の父親を、単純な悪役にしなかった

向田邦子の世界には、昭和の父親がいる。

今の感覚で見れば、かなり横暴な父親もいる。

家では威張り、妻や子供に厳しく、自分の都合を押し通す。今日なら到底そのまま肯定されないような人物も少なくない。

しかし向田邦子は、そういう父親を単純な悪役にしなかった。

そこが重要である。

人間は、悪いところだけを切り取れば悪人になる。

よいところだけを集めれば聖人になる。

しかし現実の人間はそんなふうにはできていない。

腹を立てるほど嫌なところがあるのに、死んでしまえば思い出す。

怖かった父親の背中に、ある日突然、小ささを感じる。

子供のころには絶対者に見えた人が、こちらが大人になって振り返ると、実は一人の不器用な男にすぎなかったことに気づく。

向田邦子は、その距離を書く。

子供から見た父。

大人になって思い出す父。

生きている父。

記憶の中の父。

同じ人物なのに、見る場所によって姿が変わる。

人を理解するということは、相手の性格を分析することではなく、その人を見る自分自身もまた変わっていくことなのだと、彼女の文章は教えてくれる。

だから向田邦子の家族像は古びない。

父権的な家族制度そのものは変わっても、「親を完全には理解できない子供」と「子供には理解されない親」という関係は、今もほとんど変わっていないからである。

記憶には、いつも少し嘘がある

子供のころの家を思い出してみる。

不思議なことに、間取りの全部は思い出せないのに、どうでもよいものだけが残っている。

柱についた傷。

食器棚の取っ手。

雨の日の玄関の匂い。

誰かが着ていたセーター。

夕食前に流れていたテレビの音。

人間の記憶とは、歴史年表のようにはできていない。

重要な出来事から順番に残っているわけではない。

むしろ、何の意味があるのか分からない断片ばかりが残る。

向田邦子の文章は、この記憶の仕組みによく似ている。

だから読んでいると、読者の中に眠っていた記憶まで引き出される。

「ああ、こういうことがあった」

と思う。

しかし実際には、向田邦子と同じ経験をしたわけではない。

時代も家も家族も違う。

それでも懐かしい。

文学の不思議はここにある。

優れた文章は、作者の記憶を書いているはずなのに、いつの間にか読者自身の記憶へ変わってしまう。

向田邦子は、その変換が驚くほどうまい。

人間のおかしさを知っている文章

向田邦子の文章には、悲しさと一緒に、どこかおかしさがある。

ここも大きな魅力だと思う。

人間は、悲劇の中でも妙なことをする。

深刻な場面なのに腹が減る。

喧嘩をしている最中に、鍋が吹きこぼれる。

泣いていた人が、突然くしゃみをする。

葬式の日にも誰かが靴を間違える。

現実の人生とは、本来そういうものなのだろう。

悲しい日だから一日中悲しい音楽が流れるわけではない。

深刻な出来事の横に、くだらない出来事が普通に置いてある。

向田邦子は、この人生の「調子の外れ方」をよく知っている。

そのため文章が湿っぽくならない。

哀しい話を書いていても、どこか乾いている。

乾いているからこそ、かえって哀しさが残る。

読者を泣かせようとする文章より、泣かせようとしない文章のほうが、人を泣かせることがある。

向田邦子の文章には、その逆説がある。

説明しすぎないから、時代を越える

現代の文章は、説明が多い。

何が問題なのか。

誰が悪いのか。

なぜそうなったのか。

どう考えるべきなのか。

情報を伝える文章なら、それは必要である。

しかし文学では、説明するほど消えてしまうものもある。

たとえば、ある夫婦の間に流れている微妙な空気を、「二人の関係は冷え切っていた」と書けば、一行で説明できる。

けれども向田邦子なら、おそらく別のものを書く。

茶碗の置き方かもしれない。

呼び方かもしれない。

夫が帰ってきたときの妻の返事かもしれない。

人間関係というものは、説明ではなく、そうした細部に現れるからだ。

文章が美しいというのは、飾られていることではない。

必要以上に言わないことで、見えないものまで見えるようにすることなのだろう。

向田邦子の文章には、その節度がある。

読者を信用している文章、と言ってもいい。

全部説明しなくても、読者は分かる。

全部言わなくても、読者には届く。

その信頼が文章を軽くし、同時に深くしている。

昭和を書いたのではなく、「失われていくもの」を書いた

向田邦子を読むと、昭和という時代への郷愁を感じる人は多いだろう。

しかし彼女の文章を単なる昭和懐古として読むと、大切なものを取り逃がす気がする。

向田邦子が書いたのは、昭和そのものではない。

失われていくものではなかったか。

家族の形。

食卓。

父親。

母親。

若かった自分。

子供だった自分。

誰かと過ごした時間。

そのときには何とも思わなかったものが、失ってから初めて意味を持つ。

これは昭和だけの話ではない。

令和を生きる私たちも、今この瞬間、何かを失いつつある。

家族と食べている夕飯も、毎日見ている部屋も、電話をかければ声を聞ける人も、永遠には続かない。

だが私たちは、続いている間はその価値に気づかない。

向田邦子の文章を読んでいると、その当たり前のことを、不意に思い知らされる。

だから懐かしいのだ。

昔が懐かしいのではない。

失ってしまったものを持っていた自分が懐かしいのである。

美しい文章とは、記憶に残る文章なのかもしれない

向田邦子の文章を読み終えたあと、難しい言葉はほとんど残らない。

思想を一文で説明しろと言われても、案外困る。

しかし、景色が残る。

人が残る。

匂いが残る。

食卓の音が残る。

そして数日後、スーパーで昔ながらの惣菜を見かけたり、古い食器を手に取ったりしたとき、突然その文章を思い出す。

これこそ文章の強さなのだと思う。

読んでいる間だけ感心させる文章はたくさんある。

しかし本当に美しい文章は、本を閉じたあとから始まる。

日常のどこかに潜み込み、何でもない瞬間にふっと戻ってくる。

向田邦子の文章は、そういう文章である。

彼女が書いた昭和の家は、もうほとんど残っていない。

卓袱台を囲む家族も減った。

父親の権威も変わった。

食生活も変わった。

電話もテレビも、家族の会話の仕方さえ変わった。

それでも、人は家族に腹を立てる。

言わなくていいことを言い、言うべきことを言わない。

愛している人に素直になれず、いなくなってから思い出す。

その部分だけは、あまり変わらない。

だから向田邦子は古くならない。

彼女が書いていたのは、昭和の茶の間ではなく、その茶の間に座っていた人間だったからである。

そして人間というものは、時代が変わっても、驚くほど同じところで笑い、同じところで腹を立て、同じように後悔する。

向田邦子の文章の美しさとは、結局そこにあるのではないだろうか。

大げさな人生を書かずに、人生そのものを書いてしまう。

特別な言葉を使わずに、忘れられない文章を残してしまう。

そうして私たちは、何十年も前の昭和の食卓を読みながら、いつの間にか自分自身の家族を思い出しているのである。

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