リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 北倉が古民家を借りたという話を、真鍋が最初に聞いたのは、第一章の終わりから十日ほど経ったころだった。  地域戦略課の朝は相変わらず雑然としていて、電話と回覧と印刷機の音が途切れない。真鍋が移住関係の書類をまとめていると、野添課長が席の脇に立って言った。 「北倉さん、家、決めたらしいよ」 「家?」 「旧市街の坂の途中にある古い家。空き家バンク経由じゃなくて、地元の不動産屋の紹介で」  野添は、ちょっと面白いものでも見つけたような顔で続けた。 「かなり本気みたい。奥さんと子ども二人も、いずれ呼ぶつもりだって」  真鍋は顔を上げた。 「家族ごと、ですか」 「そう。学期の区切りを見てって話らしい。ほら、こういうのって地元の人、安心するでしょ」  確かにそうだった。  単身で来る人間と、家族ごと根を下ろそうとする人間とでは、町の受け止め方はまるで違う。地方の小さな町では、暮らしを置く意思そのものが、信用の一部になる。 「確認も兼ねて、一度見に行ってみる?」 野添が軽く言った。 「移住相談の延長で、不便なところがないか聞くくらいなら自然だし」 「分かりました」  真鍋はそう答えたが、内心では少しだけ前向きな気持ちになっていた。

 履歴書の空白のことは、完全に消えたわけではない。堂本の言葉も、桐生の言い方も、記憶の底に残っている。  だが、それでも家族ごと移るつもりだという話は、真鍋の中で小さく効いた。そこまで言うなら、一時の顔出しではないのかもしれない、と。

 古民家は、駅前から海とは逆の方角へ少し上がった、旧市街の外れにあった。昔は宿屋か商家だったのか、道に面した間口は狭いが奥行きのある造りで、黒ずんだ木の格子戸と、低い石垣の上に延びた小さな庭木が、まだかろうじて形を保っていた。軒は少し傷んでいるが、柱や梁はしっかりして見える。

 格子戸の前で声をかけると、中から北倉が出てきた。  袖を軽くまくったシャツ姿で、右手には軍手、左肩にはカメラのストラップがかかっている。 「真鍋さん。どうぞ、上がってください」 「お邪魔します」

 土間には、掃除の途中らしい箒とバケツが置かれていた。畳は張り替えればまだ使えそうで、障子は一部破れているが、陽の入り方は悪くない。縁側の向こうに、手入れされなくなって久しい庭が見える。古い灯籠と、伸びすぎた椿と、倒れかけた物干し台。そのどれもが、少し整えれば画になりそうだった。

「いい家ですね」  真鍋が言うと、北倉はうれしそうに笑った。 「でしょう。最初に見たとき、これは残した方がいい家だなと思って」 言いながら、北倉は縁側の木枠を指先で軽く叩いた。 「新しいものを入れるのも大事ですけど、古いものを全部壊してしまうと、町の記憶まで薄くなりますから」 うまいことを言う、と真鍋は思った。

 うまいが、それだけではないとも思った。北倉は、こういう言葉が相手にどう響くかを、よく知っている。 「ここに、ご家族も?」 「ええ。今はまだ向こうですけど」  北倉は縁側に立ち、庭の向こうの空を見た。海は見えないが、風に塩気が混じっている。

「妻も海のある町が好きでして。子どもは上が中学一年で、下がまだ小学生なんです。だから、学期の区切りを見てって話にはなってますけど、こちらに呼ぶ前提で考えています」 「永住、という形で?」  北倉は自然にうなずいた。 「できれば、そのつもりです。短く使い捨てるみたいな関わり方は、したくないんです」  その言葉は、役所の人間にも、地元の人間にも、よく効くだろうと真鍋は思った。

 実際、真鍋自身にも少し効いた。  北倉はカメラを手に取ると、障子越しの光が落ちる縁側の角度を変えて数枚撮った。次に、土間の上から柱の傷を撮り、低い位置から庭を切り取る。高級な一眼レフだった。黒いボディは使い込まれていて、趣味の持ち物というより、仕事道具の顔をしている。 「写真、お好きなんですか」 「好きですね。動画もやりますけど、結局、写真の方が性格が出る気がして」 北倉はモニターをちらりと見せた。  真鍋が見慣れているこの家の内側が、そこには少し違って映っていた。古びているのに、みすぼらしくはない。傷んでいるのに、終わった感じがしない。 「同じものでも、残し方で印象は変わるんです」  北倉は軽く言った。 「町も、たぶん同じで」  真鍋はその言葉を聞きながら、相手が町を見ているというより、町から使える表情を選んでいるようにも感じた。だがその感覚は、まだ言葉になるほどはっきりしなかった。

 北倉が駅前の商店街で買い物をしているのを見たのは、その数日後だった。  真鍋は昼休みに姉の店の前を通りかかり、入口脇の看板を拭いているゆかに声をかけようとしたところで、通りの向こうの魚屋の軒先に北倉の姿を見つけた。片手に買い物かご、肩には例のカメラ。店先に並んだ鯵と小さなイカを前に、店主と何やら楽しそうに話している。 「珍しい人と知り合ったんだね」  ゆかが真鍋の視線の先を見て言った。 「もう顔なじみ?」 「二回目じゃないかな。でも、ああいう人は二回で十分なのかもね」  魚屋の店主は、地元の人間に対しても無愛想なことで知られている。だが北倉の前では、今日は少し機嫌がよさそうだった。魚の並べ方のこと、今朝の港の水揚げのこと、観光客がどの魚に目を留めるかという話まで、店主が自分から口を開いている。

 北倉は決して知ったふうには言わない。 「これはどう食べるのがいちばんですか」 「この時期は、こっちの方がいいんですか」 と、相手に教えさせる。それでいて、ただのおべっかにも見えない。  やがて北倉は魚を買い、会計のあとで店先の木箱と氷の上の銀色の魚体を、二、三枚だけ手早く撮った。断ってから撮っているのが見て取れた。

 魚屋を出ると、今度は乾物屋へ入った。続けて酒屋にも寄る。どの店でも長居はしない。  だが、短時間で相手の警戒を解く。通りの空気に、自分をそっと混ぜる。 「スーパーの方が安いのにね」  ゆかが言った。 「商店街で買う方が、顔は売れる」 「顔だけ?」  姉の言い方に、真鍋は少し笑った。 「……まあ、地元でやっていくなら大事だろ」 「そうだね」 ゆかはそう言いながらも、どこか観察する目をしていた。

 北倉は酒屋から出ると、そのまま姉の店の方へ歩いてきた。真鍋に気づくと、いかにも偶然というふうに手を上げた。 「真鍋さん。お昼ですか」 「ええ。たまたま通って」 「いい商店街ですね」 そう言って、北倉は振り返った。

「みんな、死んだ死んだって言うんですけど」  ゆかが、ほう、とでも言いたげに眉を上げる。 「死んでますよ、この辺は」 「そう見えるように撮られてきただけかもしれません」  北倉は穏やかに返した。 「駅前は死んでるんじゃなくて、まだ顔を持ってるのに、見せ方を知らないだけです」

 その場にいた誰も、すぐには言い返せなかった。 真鍋は、その言葉に少しだけ胸を突かれた。姉は口を閉じたまま、北倉の顔を数秒見てから、小さく笑った。 「その見せ方ってやつ、ほんとに分かるなら、うちの駅前にも教えてくださいよ」 「ぜひ」  北倉は冗談めかして頭を下げた。 「その代わり、まずは美味しいものを教えてください」 ゆかは少し肩の力を抜いたように、「じゃあ今度ね」と言った。

 そのやりとりを見ながら、真鍋は感心していた。 この人は、本当にやり方を分かっている。  そう思う一方で、どの相手にも短時間で『ちょうどいい顔』を作れることに、わずかな速さも感じていた。

 観光協会の安積恵子から、真鍋のところへ連絡が来たのは、その週の金曜日だった。 「今、港の方に来られる?」 「何かあったんですか」 「北倉さんが撮ってるんだけど、ちょっと見てほしいの」

 行ってみると、港の一角で北倉がカメラを構えていた。 ただ風景を撮っているのではなかった。船溜まりに並ぶ漁船の全景よりも、網を直す老人の指先、濡れた防波堤の質感、使われなくなった古い看板の文字の剥げ方、朝の作業を終えて一服している男たちの横顔。そういうものを拾っていた。

 鍋は少し離れたところからその様子を見た。 北倉は被写体との距離の取り方がうまい。近づきすぎず、だが他人行儀にもならない。必要なら声をかけ、断り、ほんの少し話してから撮る。そうすると、撮られる側も悪い気はしないらしい。 「こんなふうに撮れるんですね」  安積が感心したように言った。 「うちでパンフレット用に撮るのと、全然違う」 「パンフレットは説明の写真だから」  北倉はモニターを見せながら言った。 「人に見てもらう写真は、説明だけじゃ弱いんです。先に匂いとか温度とか、そういうものが来ないと」 「匂い」 「ええ。海の町なら、なおさら」  その言葉に、真鍋は一章の題を思い出しかけたが、声には出さなかった。

 北倉は港を撮り終えると、今度は坂のある路地へ移った。空き店舗の軒先に置かれた鉢植え、赤錆びた郵便受け、石段の途中から見える海。水城海斗が荷物持ちのように付き従いながら、すっかり感心しきった顔で話を聞いている。 「北倉さん、これ動画でも撮るんですか」 「撮るよ。静止画と動画は役割が違うから」 「どう違うんです?」  北倉は歩きながら答えた。 「写真は、一枚で足を止めさせる。動画は、その先へ連れていく。どっちも必要だけど、順番を間違えると弱い」 水城は目を輝かせてうなずいていた。

 撮影が一段落すると、北倉は観光協会の事務所へ戻り、ノートパソコンを開いた。  その場で取り込んだ素材をざっと並べ、簡単な色味の調整までしてみせる。さらに、以前撮っておいた海沿いの映像や商店街の短いカットを合わせて、数十秒のラフ動画を作った。

 そこに映っている汐崎市は、真鍋が毎日見ている町より、少しだけ美しかった。  現実そのものではない。だが嘘でもない。  夕陽はちゃんと夕陽で、商店街はちゃんと商店街なのに、切り取られた順番のせいで、町全体が何かを待っている場所のように見える。 「すごい……」 安積が思わず漏らした。 「こんなの、うちで今まで作れたことない」 「素材がいいんです」 北倉は当然のように言った。 「この町は、映る顔を持ってる。皆さん、それを一枚に集めてこなかっただけで」

 真鍋はその動画から目を離せなかった。 自分の知っている町が、自分の知らない顔をしている。 感動に近いものがあった。だが同時に、それが『選ばれた顔』であることも感じていた。

 安積はすでに仕事のことを考え始めているようだった。 「これ、正式にお願いできないかな」 その言葉に、北倉は少しだけ間を置いた。 「必要なら、形は相談しましょう」 無料の協力が、仕事の入口に変わる瞬間を、真鍋は見た気がした。        北倉の提案で、高齢者向けのスマホ相談会が開かれたのは、その翌月の初めだった。  会場は社会福祉協議会の会議室で、机を島にして椅子を並べ、職員とボランティアが付き添う形だった。発端は、観光協会の動画の話とは別に、北倉が「まずは小さくやった方がいい」と言い出したことだった。 「大きな事業より、困りごとの見えるところから始める方がいいです」 市役所での打合せで、北倉はそう言った。 「高齢者の方のスマホの困りごとは、福祉でも、行政でも、生活でも、全部につながる。しかも成果が見えやすい」

 野添課長はすぐに乗った。 社会福祉協議会の佐伯邦彦も、慎重ながら反対はしなかった。現場で困りごとがあるのは事実だからだ。真鍋は会場調整や参加者募集のチラシ作成を手伝った。

 当日、参加者は想像以上に集まった。 写真の送り方が分からない、病院からの連絡が見られない、地図の開き方が分からない、詐欺っぽい表示が出る。困りごとは細かく、だが切実だった。北倉は自分が前へ出すぎず、水城や若いボランティアをうまく動かしながら、全体を回した。 「皆さん、できてないんじゃないんです」  途中、少し緊張している参加者に向かって、北倉は柔らかく言った。 「使い方を誰にも習っていないだけです。恥ずかしいことじゃありません」

 その言い方がよかった。  上から教えるのではなく、困っていることを一度ほどくような言い方だった。  相談会が終わるころには、参加者の顔つきが少し明るくなっていた。  佐伯も「これは続けてもいいかもしれませんね」と控えめに言った。野添課長は露骨に満足そうだった。 「こういうの、必要だったんだよな」 帰り際、野添が真鍋にそう言った。 「北倉さん、やっぱり現場感覚あるわ」

 会場の片づけをしているとき、真鍋はテーブルの端に置かれたカメラに気づいた。北倉が途中で、参加者が笑顔になる瞬間や、ボランティアが寄り添う場面をきちんと撮っている。しかも撮りすぎない。必要なカットだけを押さえている。

 後日、市長への報告用にまとめられた簡易レポートには、その相談会の写真が使われた。  明るい表情。丁寧な支援。町に必要な小さな一歩。 どこから見ても、よくできた実績だった。

 真鍋は、そのレポートを見て感心した。 感心しながら、少しだけ別のことも思った。 この人は、何をやっても『報告書映えする形』へ整えてしまうのだ、と。

 その晩、小さな打ち上げのような流れで、真鍋は北倉たちと港近くのスナックへ流れた。断るほどの理由もなく、野添課長も途中までは一緒だった。店は古く、紫色のソファはところどころ擦り切れている。カウンターの奥には古いウイスキーの瓶が並び、壁には何年も前のカレンダーの風景写真がそのまま掛かっていた。

 ママは五十代後半くらいの女性で、北倉を見るなり「あら、もう来てくれたの」と笑った。  もう、という言葉に、真鍋は内心で少し驚いた。いつの間に、ここまで顔をつないでいるのか。 「この前はありがとうございました」 北倉は自然に頭を下げた。 「こちらこそ。北倉さん、話しやすいからねえ」 ママはそう言いながら、真鍋たちを席へ案内した。

 店の奥には、観光関係者や商工会寄りの顔ぶれがすでに数人いる。藤代茂雄も来ていた。北倉は誰に対しても出しゃばらず、だが場を冷やさない位置へ座った。酒を勧める相手、話を振る相手、聞き役に回る相手を、迷わず選んでいる。

 途中、港湾関係の古参らしい男が、昔の観光キャンペーンの失敗談を大声で話し始めた。場が少し白けかけたところで、北倉がうまく笑いを返した。 「でも、失敗したってことは、やろうとした人がいたってことですからね。何もしてない町より、ずっといいですよ」  男は満更でもない顔になり、そのまま機嫌を持ち直した。 そういう細かい場の立て直しが、いちいちうまい。

 さらに、別の席では観光協会の人間と、顔見知りの手配師らしい男が小声で話していた。宴席の二次会や、町の寄り合いで人を回す筋の人間だろう。北倉はその輪にも、必要以上に踏み込まず、だが話の流れだけは理解しているふうだった。

「この辺の夜は、思ってたより奥が深いですね」 真鍋が何気なく言うと、北倉はグラスを軽く回しながら笑った。 「昼の会議より、夜の方が本音が早いことがありますから」 「そういうものですか」 「地方は特に。会議で決まる前に、空気が決まることがあるでしょう」  その言葉に、真鍋は返事をしなかった。 否定しにくい。実際、そういう場面を見たことはある。

 北倉は酒に呑まれる様子もなく、誰の前でも下品にならなかった。 だからこそ、こういう古い宴席の文化に理解があることが、逆に怖いといえば怖かった。露骨に浸るのではなく、必要なときだけ使える人間の顔をしている。  帰り道、店を出て港の方へ歩くと、藤代が少し酔った声で言った。 「北倉さんは、先生って感じじゃないな」 「どういう意味ですか」 「商売人だよ。悪い意味じゃなくてな。何が動けば人が動くか、よう分かっとる」 藤代はそれだけ言って、先に細い路地へ曲がっていった。

 真鍋は夜の港を見た。 漁船の灯りが黒い水に揺れている。 この町に馴染むのが、早すぎる。 そんな感覚が、胸の奥に小さく残った。  その頃にはもう、町のあちこちで呼び方が変わっていた。 最初は「北倉先生」だの「外から来た人」だのと言っていた者たちが、いつの間にか自然に「北倉さん」と言うようになっていた。  観光協会では「北倉さん、あの動画の件なんですが」。商店街では「北倉さん、この前の写真、ちょっと使わせてもらっていいですか」。市役所でも、地域戦略課を訪ねてきた誰かが「北倉さん、いらっしゃいます?」と口にすることが増えた。  相談の窓口が、少しずつ北倉へ集まり始めていた。 真鍋はそれを見て、この町に必要なのはこういう人なのかもしれない、と思いかけていた。 誰と誰をつなぎ、何をどう見せれば通りやすいかが分かる人。 町の内と外の言葉を、行き来できる人。

 ある夕方、真鍋が市役所を出ようとしたとき、庁舎前の植え込みの脇に堂本忍が立っていた。新聞社の車は少し先に停まっている。 「お疲れさまです」  真鍋が声をかけると、堂本は軽くうなずいた。 「北倉さん、忙しそうですね」 「ええ、まあ。あちこちで頼りにされてるみたいで」 「そうでしょうね」  堂本はそれ以上うなずきもせず、汐崎の夕方の空を見た。 港の上に、薄く雲が伸びている。 「便利な人は、たいてい便利すぎる時期があります」  それだけ言って、堂本は車の方へ歩き出した。

 真鍋は呼び止めなかった。 意味は分かるようで、まだ分からない。 ただ、その言い方だけが耳に残った。

 その夜、真鍋は自席のパソコンで、北倉が仮に編集した町の映像をもう一度見た。  港。商店街。坂道。古い家並み。波止場の光。魚を並べる手元。窓辺の花。  見慣れた町の断片が、ゆるやかな音楽とともに順番を与えられ、別の表情を持ち始める。  たしかに美しかった。 たしかに、この町の一面だった。  だが、映っていない場所もまた、この町なのだということを、真鍋は見ているうちに思い出した。シャッターの閉まったままの駅前も、空き地になったままの角地も、誰にも撮られないまま夕方を迎える路地も。  北倉の撮った汐崎は、真鍋の知っている町より少しだけ美しかった。そして、その少しが、なぜか気になった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 観光協会で北倉の動画が流れてから、町の空気が少しだけ変わったように真鍋には思えた。  それは目に見える変化ではない。駅前のシャッターが急に開くわけでもなく、海沿いに新しい店ができるわけでもない。けれど、市役所の廊下で交わされる雑談や、観光協会から入る電話の声色に、どこか前のめりなものが混じり始めていた。

 地域戦略課の会議机の上には、その日も観光パンフレットと補助金要綱と市長ヒアリング用のメモが雑然と積まれていた。  真鍋が前日に修正した移住定住関係の資料を綴じていると、野添課長が向かいの席に腰を下ろし、机の上に観光協会の簡易報告書を置いた。 「これ、見た?」 表紙には、北倉が撮った港の写真が使われていた。

 朝の斜めの光を受ける防波堤、船の影、網を持つ男の背中。見慣れているはずの風景が、少しだけ別の町のように見える。 「見ました」 「安積さんのとこ、かなり手応えあるみたいだね」 野添は報告書をめくりながら言った。 「問い合わせも、想定より反応がいいらしい。観光だけじゃなくて、移住の窓口にも少し流れてるって」

 真鍋は軽くうなずいた。 たしかに、動画の公開後、地域戦略課にも二件ほど、観光をきっかけにした長期滞在や二地域居住に関する問い合わせが入っていた。数字として誇れるほどではない。  だが、何も起きないよりずっといい。 「単発で終わらせるの、もったいないな」 野添がそう言ったところで、課の入口から安積恵子が顔を出した。  観光協会からわざわざ庁舎まで来るのは、たいてい何か話を前へ進めたい時だ。 「お忙しいところすみません」 「どうぞどうぞ」

 安積は真鍋と野添の向かいに座ると、少し息を整えてから言った。 「北倉さんの件なんですけど、あのまま単発の発信協力で終わらせるの、やっぱり惜しいと思っていて」 「うちも今その話をしてたところ」 野添が答える。 「やるなら事業化かな、って」 「ですよね」  安積はすぐに身を乗り出した。 「動画も写真も、単体で出して終わりじゃ弱いんです。商店街とか、港とか、古民家とか、もっと回遊とか滞在とかにつなげたい。だけど、うちだけじゃそこまで組み立てられなくて」  真鍋は安積の言葉を聞きながら、机上のパンフレットを一枚引き寄せた。

 観光をどう移住につなぐか。移住をどう町内の回遊へ戻すか。課の中でも何度も出ては散ってきた話だった。  観光は観光、移住は移住、空き家は空き家、と担当が分かれれば分かれるほど、どれも一枚の紙の上で切れてしまう。 「観光だけのPR事業だと弱いかもしれません」  真鍋は言った。 「移住とか、関係人口とか、もう少し接続できる形の方が——」

 そこで、廊下側の扉が軽くノックされた。 「失礼します」  北倉恒一郎が、いつもの穏やかな調子で顔を見せた。 安積が呼んでいたのだろう。地域戦略課の職員でも外部委員でもないはずの男が、今ではもう、こういう場にいても誰も不自然には思わなくなっていた。 「ちょうどいいところに」 野添が手を上げる。 「今、事業化の話をしてたんですよ」 「そうですか」

 北倉は一礼して、真鍋の斜め向かいに腰を下ろした。 前に出たがっている様子はない。だが、その座り方には、必要なときに口を開く準備だけは整っている感じがあった。 「観光だけだと一過性になりやすいので」  北倉は誰かを押しのけるでもなく話し始めた。 「もしやるなら、『人を呼ぶ』じゃなくて、『関わり続ける入口を作る』という組み方の方が自然かもしれません」 「関わり続ける入口」  真鍋が復唱すると、北倉はうなずいた。 「ええ。来て終わり、見て終わり、でなくて、次の接点が残るようにする。そういう設計なら、観光と移住をわざわざ分けなくても同じ線に乗せられる」

 安積が「それです」と小さく言った。 「こっちが言いたかったの、たぶんそこなんです」 「関係人口、ってことですか」  真鍋が訊くと、北倉は穏やかに笑った。

「そうです。観光客でも移住者でもなく、何度も関わりたくなる人を増やす。その方が、今の制度にも乗せやすい」  野添が机の上の要綱集をめくりながら言った。 「実証枠で取れる可能性はあるかもしれないな」  北倉は少しだけ間を置き、いかにも補足のような声で言った。 「必要なら、叩き台くらいは整理しますよ」  その言い方は控えめだった。 だが真鍋には、その一言で場の議論がすっと前へ滑ったのが分かった。

 今まで各自がばらばらに持っていた考えの輪郭が、北倉の置いた言葉の上で、急に一本の線になり始めていた。  北倉が何気なく置いた言葉の上に、その場の議論は驚くほど素直に形を取り始めていた。        その日の午後にはもう、事業の叩き台を作る打合せが始まっていた。  会議室のホワイトボードには、野添が書いた単語がいくつも並んでいた。  観光PR。商店街回遊。空き家活用。移住促進。動画発信。地域資源。滞在導線。体験プログラム。  どれも間違ってはいない。だが、どれもよくある。 それぞれが必要で、それぞれに意味はあるが、一枚の事業名と説明文に落とした瞬間に、急に力を失いそうな言葉たちだった。 「観光情報発信強化事業、だと弱いですね」  真鍋が言うと、野添も困ったように笑った。 「弱い。古い感じもする」 「移住促進を入れると、逆に散る気もします」 「商店街活性化まで入れると、なおさらね」  安積も腕を組んだまま首をひねっていた。 「やりたいことはあるんです。でも、並べると急に普通になる」  北倉はそのやり取りを聞きながら、手元のメモ用紙に何かを書いていた。しばらくしてから、彼はホワイトボードの前に立った。 「散ってるんじゃなくて、まだ束ねる言葉がないだけです」 「束ねる言葉?」  真鍋が訊く。 「はい。観光PRは手段ですよね。移住促進も結果の一部。だったら、何を起こしたいのかを先に置いた方がいい」  北倉はボードの中央に、はっきりした字で書いた。 関係人口創出  その下に、少し小さく書き足す。 港町魅力発信  そして最後に、右側へ線を引いて、 実証事業 と置いた。 「これだと、観光も移住も商店街も全部、同じ線の上に置けます」  安積がメモをのぞき込み、野添がうなずく。 「実証、か」 「はい。今は『PRをやります』より、『実証します』の方が通りやすい。試して、測って、次につなげる。行政も説明しやすいです」  真鍋は自分でも驚くほど素直に、その骨格の強さを理解していた。 これは、ただの語彙の置き換えではない。何を目的に見せるか、誰にどう説明するか、その順番まで含めて整理されている。 「港町魅力発信・関係人口創出実証事業……」  真鍋がゆっくりと読み上げると、北倉は笑った。 「長いですけど、こういう世界では長い方がむしろ親切だったりします」 「成果指標はどうします?」  真鍋が訊くと、北倉はためらいなく答えた。 「視聴数、問い合わせ件数、商店街・港エリアの回遊、体験参加者数。あと、『継続接点』の数字も置けるといいですね。再訪とか、二回目の問い合わせとか」

 真鍋はノートに書き留めながら、内心で感心していた。 実務に関わる人間ほど分かる。こういう整理は、頭の回転だけではできない。どこに何を置けば書類が立つか、経験で知っていなければ出てこない。 「そこまで整理できるんですね」  思わず口にすると、北倉は少しだけ肩をすくめた。 「皆さんがやりたいことを、通る言葉に直してるだけですよ」  その時、資料を届けに来た桐生道子が会議室の扉を開けた。 机の上のラフ案とホワイトボードを一瞥し、彼女は中に入らないまま言った。 「通す前に、誰が実施主体で、誰が責任を持つかだけは、最初に曖昧にしないでください」  野添が「分かってる」と苦笑すると、桐生はそれ以上何も言わずに去っていった。  その一言だけが、会議室の熱をほんの少し冷ました。 けれど、流れは止まらなかった。  会議が終わるころには、事業名も目的も指標も、だいたいの骨ができていた。真鍋は打合せメモを整理しながら、気づいていた。企画書の骨格は、ほとんど北倉の言葉で組まれている。  そのことを分かりながら、真鍋はまず先に、助かったと思ってしまっていた。        翌週、北倉は観光協会の事務所にノートパソコンと外付けドライブを持ち込み、資料用の写真と映像を並べ始めた。  安積は朝から落ち着かない様子で、何度も机とプリンターの間を往復している。水城はすっかり助手のような顔で、ケーブルや機材の箱を運んでいた。真鍋も市役所から持ち出した資料を抱えて同席することになった。  北倉は机の上に写真をプリントアウトして広げた。 港の朝。防波堤。網を持つ手元。商店街の魚屋の軒先。乾物屋の木箱。坂のある路地。古民家の縁側。窓辺の花。古びた看板。海へ開ける石段。  どれも見覚えのある景色だ。 だが、こうして一枚ずつ切り取られると、町は急に『意味のある顔』を持ち始める。 「ここ、最初は港の引きでいいと思います」  北倉はそう言いながら、広がりのある一枚を先頭に置いた。 「その次に、人の手元です。風景だけだと距離があるから」  次に、網を直す老人の手、魚を並べる店主の指先、コーヒーカップを洗う女将の横顔を置く。 「それから路地と古民家。生活があるって感じさせた方が、観光で終わらない」 「順番まで、そんなに大事なんですか」  真鍋が訊くと、北倉は当然のように答えた。 「企画は中身で決まるんじゃない。中身が届く順番で決まるんです」  その言葉に、水城が目を輝かせる。 「なるほど……」 「最初に何を見せるかで、その後の数字の読み方まで変わります。港の広がりを先に見せるのか、人の表情を先に見せるのかで、読む側の温度が違う」  北倉は写真を少しずつ動かしながら続けた。 「町も同じです。どの顔から見せるかで、受け取られ方が決まる」 真鍋はその手元を見ていた。  北倉は写真を選んでいるのではなく、町に貼るべき表情を選んでいるように見えた。  採択される町の顔。関わりたくなる町の顔。来る価値のある町の顔。 そこに、映っていないものもある。 シャッターの下りたままの駅前の列。空き地になったままの角地。夜になる前に人影の消える通り。  だが、それをここで出せとは真鍋にも言えなかった。出せば通らないだろうとも思うからだ。 「すごいな……同じ町なのに、全然違って見える」  水城が素直に言った。 安積も同じようにうなずいた。 「説明資料なのに、パンフレットより伝わる感じがする」  北倉は軽く笑った。 「資料って、数字だけでは読まれないんです。先に『関わりたくなる顔』が見えないと」  そのあと北倉は、以前撮った海沿いの映像と新しく撮り足した商店街のカットをつなぎ、短いラフ動画も作ってみせた。  数十秒しかないその映像には、町の断片が、まるで最初から一つの物語だったかのようにつながっていた。  真鍋は、そこでふと分からなくなった。 自分たちが企画を作っているのか。 それとも北倉が、採択される町の顔を先に選んで、そのあとから企画をはめ込んでいるのか。  真鍋には、自分たちが企画を作っているというより、北倉が採択される町の顔を先に選んでいるように見え始めていた。        市長への説明は、三日後の午後に設定された。 市長室に近い小会議室には、秘書課の職員が先に湯呑みを並べていた。黒瀬市長は、こうした事前説明の場では「忙しいから手短に」と言いながら、面白そうな案件ほど思ったより長く座る癖がある。  真鍋は資料の束を揃えながら、口の中で要点を反芻していた。 観光と移住の接続。関係人口。実証枠。回遊。滞在後の接点。  説明すべきことは分かっている。だが、市長が何に反応するかまでは、こちらでは制御しきれない。  黒瀬は時間ぴったりではなく、少し遅れて入ってきた。 「ごめんごめん。で、今日は例の件だね」  席に着くなり、資料の表紙に使われた港の写真に目を止める。 「お、これはいいね」  その一言で、真鍋はもう半分分かった気がした。 野添が先に概要を説明する。 「港町魅力発信・関係人口創出実証事業として——」  黒瀬はうなずきながらも、視線は説明文より写真の方へ落ちている。 「単なる観光PRではなく、観光・商店街・移住導線を一体で扱う形で」  真鍋が続ける。 「実証の中で、映像発信だけでなく、現地回遊や継続接点の指標も取りたいと考えて——」  そこで黒瀬の反応が少しだけ鈍くなった。 数字の必要性は理解する。だが、それだけでは刺さらない。そういう表情だった。  横に座っていた北倉が、そのタイミングを測っていたように口を開いた。 「一言で言うと、汐崎に『また関わりたくなる入口』を作る事業です」  黒瀬が顔を上げた。 「なるほど。それは分かりやすい」 「来て終わり、見て終わり、ではなくて、次の接点が残る設計です。観光客でも移住者でもない、その間にいる人たちに、もう一度関わりたくなるきっかけを作る」 「うん、今っぽいね」  黒瀬はページをめくりながら言った。 「これなら、先進事例っぽく見せられるかもしれない」  真鍋はその言葉を聞きながら、北倉の横顔を見た。 この人は、市長が何に反応するかを最初から知っていたのだ、と思った。  先進事例。見せられる形。今っぽい。黒瀬が自分の言葉として使いたがる単語が、最初から資料の中に埋め込まれていた。 「映像も、かなりいいよね」  黒瀬がラフ動画の再生画面を見ながら言う。 「町の雰囲気が出てる」 「事実を誇張するのではなく、町の顔が見える順番を整えています」  北倉が落ち着いた声で答える。 「そうすると、来た人が『次に何へつながるか』まで想像しやすくなるので」 「いいね」  黒瀬は資料を閉じた。 「これ、前向きに進めよう。実証でやるならうちの色も出せるし」 短いが、それで十分だった。  説明を終えて会議室を出たあと、真鍋は廊下の窓から港の方を見た。 市長の前で事業が形を得た瞬間、真鍋には北倉が補足しているのではなく、この場そのものの勝ち筋を最初から握っていたように見えた。        採択通知が届いたのは、それから二週間後の午前だった。 地域戦略課の共有メールに先に入り、そのあと正式文書が庁内回覧に載った。 真鍋は最初、件名を二度見した。  港町魅力発信・関係人口創出実証事業 採択決定 「……通った」  自分でも驚くほど小さな声でつぶやくと、向かいの野添がすぐに反応した。 「ほんとに?」  真鍋が画面を回して見せると、野添は目を細め、それから大きく息をついた。 「通ったか」  その言い方には、喜びと安堵が半分ずつ混じっていた。 課の空気が少しだけ浮き立つ。近くの席の職員も、「よかったですね」と声をかけてくる。  すぐに観光協会へ電話を入れると、安積は露骨にほっとした声を出した。 『本当ですか?』 「ええ、今通知が入りました」 『よかった……これでやっと始められる』  しばらくして、北倉も課へ顔を出した。 水城がそのあとから転がり込むようについてきて、開口一番言った。 「やっぱり北倉さんだよ。あの企画、北倉さんがいなかったら、絶対ここまでまとまってないです」  北倉は少し困ったように笑った。 「皆さんが動いた結果ですよ」 「でも、通る形にしたのは北倉さんじゃないですか」  水城は本気でそう思っている顔だった。 たぶん、それは半分くらい本当なのだろうと真鍋も思った。 「北倉さんは驚かないんですね」  真鍋が何気ないふうに言うと、北倉は軽く首を振った。 「驚いてますよ。ただ、通ったなら次を考えないと」 「次、ですか」 「実証って、採択された時点で半分は見せ方の勝負が始まってますから」  その言葉に、真鍋は少しだけ寒気に似たものを覚えた。 課の中ではまだ採択の余韻が広がっている。通知を印刷し、関係部署へ回し、安積には正式文書を送って、市長ヒアリングの準備をしなければならない。そんな実務のざわめきの中で、北倉だけがすでに採択の『次』を見ているように見えた。  採択の知らせに庁内が少しだけ浮き立つなかで、北倉だけが最初からその先に立っているように見えた。        採択の二日後、地元紙・北浜新報に小さな記事が載った。 見出しは前向きだった。 「汐崎市 港町の魅力発信実証へ」  本文には、観光と関係人口創出をつなぐ新しい試みとして、事業の狙いが手短にまとめられている。写真は、北倉が撮った港の一枚ではなかったが、同じ方向を向いた紙面だった。  その記事が出ると、庁内でも商店街でも、北倉の名前がさらに自然に出るようになった。 「北倉さんが入ってから、流れが変わったね」 「やっぱり外の人がいると違うな」 「今度の件も、北倉さんに聞けば早いんでしょう?」  真鍋は、そういう言葉を聞くたびに、うまく説明しにくい重さを感じた。  間違ってはいない。北倉が流れを作ったのは事実だ。  けれど、それが事業の評価なのか、北倉という人物への依存の始まりなのか、境目が見えにくくなっている気がした。

 夕方、真鍋が庁舎を出ると、植え込みの脇に堂本忍が立っていた。新聞社の白い車が、少し先の路肩に停まっている。 「お疲れさまです」  声をかけると、堂本は軽くうなずいた。 「採択、おめでとうございます」 「ありがとうございます。町としては、いい流れだと思います」 「そうでしょうね」

 堂本はそれ以上うなずきもせず、港の上の空を見た。薄い雲が夕方の色を引き延ばしている。 「何か気になることでもあるんですか」  真鍋が訊くと、堂本は少しだけ口元を動かした。 「採択は始まりであって、証明ではありませんよ」 「証明?」 「通る企画と、残る仕事は別です」  それだけ言って、堂本は車の方へ歩き出した。 引き止めるほど長い言葉ではない。だが、その短さのせいで、かえって耳に残った。        その夜、真鍋は自席のパソコンで、採択通知と地元紙の記事、それに企画説明資料を順に開いた。  事業名。説明文。成果指標。ラフ動画の静止画。港の写真。商店街。古民家。  どれも整っている。読みやすい。筋も通っている。 この町が前へ進もうとしているのだと、紙の上ではちゃんと見える。 それは事実だった。  観光協会の現場も、安積の焦りも、野添の調整も、自分の書類仕事も、確かにここへつながっている。 北倉一人が全部を作ったわけではない。

 だが同時に、それらを『通る形』へ整えたのが北倉であることも、否定しがたかった。  そして、その整え方がうますぎることが、真鍋には少しだけ怖かった。

 採択の通知はたしかに町の前進だった。だが真鍋には、その紙一枚の向こうで、別の何かも静かに通ってしまった気がした。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 採択が決まったあとの会議は、喜びより先に疲労を連れてきた。 港町魅力発信・関係人口創出実証事業。  紙の上では、町の未来へ向けた前向きな一歩だった。地元紙にも載り、市長も手応えのある案件として口にし、観光協会はようやく何かが始められると安堵していた。真鍋自身も、そのこと自体を疑ってはいなかった。

 問題は、その一歩を誰が現実に変えるのかだった。 採択後最初の合同打合せは、市役所の会議室で行われた。長机をコの字に並べた真ん中に、印刷された事業概要、予算の概算表、役割分担の叩き台が置かれている。  野添課長、観光協会の安積恵子、地域戦略課の真鍋、それに必要に応じて福祉側と商工会側にも声をかけていた。  北倉恒一郎は、いつものように少し遅れて入ってきたが、その遅れ方まで、このところは場に自然に馴染んでいた。

 会議は最初の十五分ほど、前向きな確認で進んだ。 採択の共有。スケジュールの確認。広報のタイミング。市長報告。  だがそこから先は、案の定、重くなった。 「で、実施の窓口をどこに置くかなんですけど」  野添が資料をめくりながら言った。 「市が制度の管理を持つのは当然として、現場の実務をどこまで抱えるかですよね」  安積がほとんど間を置かずに応じた。 「観光協会もやります。でも、正直に言うと、広報、現場調整、参加者対応、写真や動画の素材確認、それに終わったあとの報告書まで全部は難しいです」 「分かります」  真鍋は言った。 「市も、窓口機能や契約整理までは持てても、現場の細かい運営まで入ると、他の案件が止まります」  会議室に、誰も責めてはいないのに責められているような沈黙が落ちた。  人が足りない。  その事実は誰も知っていたし、誰も解決策を持っていなかった。  佐伯邦彦が福祉側の資料を閉じながら、控えめに言った。 「高齢者向けの接点や参加支援なら協力できます。ただ、事業全体の事務局をどこか一つが持つという話だと、うちも簡単ではありませんね」  それで議論は止まった。  誰も「できません」とは言わない。だが誰も、真正面から「やります」とも言えない。

 その沈黙のあとで、北倉が口を開いた。 「既存の団体を否定するつもりはないんです」 あくまで抑えた声だった。 「観光協会にも商工会にも、それぞれに役割がある。ただ、事務局機能だけは別に持たないと、回るものも回らなくなると思います」 野添が顔を上げた。 「事務局機能……」 「はい。市役所と観光協会の間に、実施調整の受け皿が一つあるとかなり違うはずです」 「受け皿」 真鍋がその言葉を復唱すると、北倉はうなずいた。 「一時的でもいいんです。実施体制を柔らかく持つ器が必要なんです。市が全部抱えると硬くなるし、観光協会だけだと負荷が集中する」 言っていることは、よく分かった。 というより、分かりすぎるほど分かった。  真鍋もこの数日、採択後の工程表を見ながら、誰かが実施調整を持たないと確実に止まると感じていた。

 北倉の言葉は、その予感を誰にでも分かる形に直しただけだった。 だから反論しにくかった。 「じゃあ、その受け皿って、どういう形になりますか」  真鍋が訊くと、北倉は少し考えるそぶりを見せた。 「まだ決め打ちする段階じゃないですが、少なくとも既存団体をそのまま一枚かぶせる形よりは、中間に柔らかい実施体制を置いた方が自然だと思います」

 柔らかい実施体制。 また、便利な言い方だと真鍋は思った。 便利で、間違っていないからこそ、少しだけ気になった。  採択のあとに待っていたのは、夢の広がりではなく、誰がその夢の実務を引き受けるのかという、乾いた問いだった。        次の打合せでは、その「受け皿」が、曖昧な必要性ではなく、具体的な形を持ち始めた。  場所は同じ会議室だったが、前回より参加者が少なかった。野添、真鍋、安積、北倉。それに途中から藤代茂雄が顔を出すくらいだ。人数が少ないぶん、話は早く進む。早く進むということは、誰かが方向を決めやすいということでもある。

  ホワイトボードの上部に、真鍋がとりあえず書いた。  実行委員会案  任意の連絡会案  協議会案

「実行委員会だと、一時的すぎるかな」  野添が言う。 「事業が終わったら解散、という感じが強いですね」  安積も腕を組んでうなずいた。 「観光協会の中に置く形だと、うちが全部背負うみたいに見えるんですよね。実際そこまで背負えないし」 「任意団体だと柔らかいけど、逆に曖昧にもなります」  真鍋が言うと、北倉がすぐに拾った。 「曖昧にする必要はないです。ただ、硬すぎると人が入りにくい」 「たとえば?」 「『推進協議会』くらいがちょうどいいかもしれません」  北倉はそう言って、ボードの脇にいくつか名前を書いた。 汐崎関係人口推進協議会 港町編集室 みなと未来デザイン会議  どれも、いかにもありそうな名前だった。 ありそうで、少しずつ意味が違う。 「編集室、はちょっと民間色が強いかもしれませんね」  安積が言う。 「観光協会としては嫌いじゃないですけど」 「会議、だと逆に弱いかな」  野添が首をひねる。 「推進協議会、がいちばん役所的には通しやすいかもしれない」  真鍋も同じことを考えていた。 協議会。 行政が関わっていても不自然ではない。  だが、市の内部組織ほど責任主体が固定されない。 柔らかく、広げやすく、曖昧にもできる。

「名前って、何をするかだけじゃなく、誰が安心するかでも決まりますから」  北倉がさらりと言った。 その言葉に、真鍋はふと顔を上げた。 誰が安心するか。 市役所か。観光協会か。市長か。地元紙か。町の人か。 あるいは、その全部か。 「汐崎関係人口推進協議会……」  野添が口にしてみる。 「これなら、市長にも説明しやすいな」 「観光だけじゃなくて、移住や商店街も巻き込みやすいですし」  安積が続ける。 そのまま、名前はほとんど決まった。 正式な決裁はまだ先だ。 それでも、誰ももう別案へ戻ろうとはしなかった。  真鍋はボードを見た。 つい数分前までは、ただの受け皿だったものが、名前を得た瞬間に実体を持ち始めている。 そしてその命名は、いつのまにか北倉の手の中で行われていた。  名前が決まった瞬間、受け皿はただの方便ではなくなり、事業の重心を少しだけ市役所の外へ移したように真鍋には思えた。        受け皿に名前がつくと、次は中に誰を入れるかの話になる。 その段階で、北倉の古民家が打合せ場所として使われ始めたのは、いかにも自然な流れのようでいて、真鍋には少しだけ出来すぎているようにも見えた。  市役所でも観光協会でもなく、北倉の借りたあの古民家。 縁側があり、土間があり、古い建具と少し整えられた庭があって、町の資産のように見える場所。 そこで話すと、たいていのことが「新しい取り組み」に見えやすい。

 水城海斗は、もう半分スタッフのような顔をしていた。  ノートパソコンを開き、スマートフォンで連絡を取り、必要ならすぐに車を出せる。若くて動ける。それは本当だ。  三崎聡子も、観光協会と移住者コミュニティの間を行き来しながら、資料整理や参加者対応を苦にしない性格だった。彼女もまた、実務を回す人材としてはたしかに使える。

「事務局補佐は、現場で動ける人じゃないと厳しいですね」 北倉が座卓の向こうで言った。 「会議に出るだけじゃなくて、連絡も、参加者対応も、現場判断もできる人」 「僕、動けます」 城がすぐに言う。 「SNSも手伝えるし、現場調整もできます」 「資料整理や参加者対応なら私も入れます」 三崎も落ち着いた調子で続けた。 「そういうの、嫌いじゃないので」  安積は明らかに助かった顔をしていた。 「うちの職員だけだと、通常業務がどうしても優先になるから……若い人が入ってくれるのは本当に助かる」 野添も同じようにうなずいた。 「だよな。現場で拾える人がいると全然違う」

 真鍋はメモを取りながら、あえて事務的なことを口にした。 「立場上はどう整理します? 事務局補佐、運営補助、連絡調整……」 北倉は、そこだけ少し肩の力を抜いて答えた。 「そこは柔らかくていいと思います。最初から厳密に線を引きすぎると、逆に動けなくなるので」 「でも、最低限の整理は必要ですよね」 「もちろん」 北倉はうなずいた。 「ただ、まずは回る形を作るのが先です」 まずは回る形。  理屈としては正しい。 だが、その『まずは』が、どこまで続くのかは分からない。

 真鍋は、水城が机の端で北倉のカメラバッグを何気なくよけ、三崎がすでに連絡先一覧の下書きを作り始めているのを見た。 不自然だとは言い切れない。 むしろ自然に見える。動ける人が入るのだから。 だからこそ言いにくい。  北倉の周辺が、そのまま受け皿の実務になっていく。 それは合理的で、合理的すぎた。 不自然だと言い切れない人選ほど、あとで振り返るといちばん深く入り込んでいるのではないかと、真鍋は初めて思った。        受け皿が形を持ち始めると、今度は小さな金が動き始めた。 最初は本当に小さかった。  撮影の追加分。動画編集の手間。チラシや告知画像のデザイン補助。会場設営の補助。事務局運営の交通費。SNS更新の謝金。  どれも一つ一つは、会計上は特別目立つものではない。だが真鍋が伺い書と支出整理の紙を並べて見ていると、別のことが気になってきた。

「この撮影分、北倉さん個人への謝金ですか?」 真鍋は野添の机に書類を持っていって訊いた。 「それとも協議会側の業務整理に入れます?」 野添はペンを持ったまま、少し困った顔をした。 「そこ、まだ整理しきれてないんだよな」 「事務局補助費も、誰にどの立場で払うか見えないと、あとで説明が難しくなります」 「分かってるんだけど」

 そのとき、たまたま通りかかった桐生道子が書類の束を見て足を止めた。 「見せて」 真鍋が渡すと、桐生は数秒で目を通した。 「立場の線を先に引かないと、あとで全部混ざるわよ」 「ですよね」 「人が足りないときほど、『とりあえず』で払ったものが一番残るから」 桐生はそれだけ言って返した。  真鍋はうなずきながらも、その『とりあえず』の力をよく知っていた。地方の小さな現場では、たいていのことが『まず回すため』に少しだけ柔らかく処理される。問題は、その柔らかさがいつ線を越えるかだ。

 後で北倉に確認すると、彼はまったく動じなかった。 「最初から硬くしすぎると、現場が止まりますよ」 それは、以前も聞いた調子だった。 「もちろん整理は必要ですけど」 「整理しながら回す、ということですか」 真鍋が言うと、北倉は自然にうなずいた。 「ええ。そのくらいの柔らかさは必要です」  その柔らかさが、紙の上では曖昧さになる。 真鍋にはそれが分かる。  分かるが、反論の言葉は弱い。なぜなら実際、現場は止められないからだ。  真鍋が怖いと思ったのは金額ではなかった。誰がどの立場で金を受け取るのか、その線が紙の上で少しずつにじみ始めていることだった。        昼の会議で決まったことの多くが、すでに前夜に決まっていたのではないか。 そう思わせたのは、一度きりではなかった。

 その日も、昼の実施会議では役割分担がきれいに整理された。 「では、事務局の一次窓口は協議会側で整理して」 野添が言う。 「観光協会は現地対応と素材提供を中心に」 「商工会はイベント時の店側調整なら出せます」 藤代が言う。 「福祉側は高齢者接点に絞った協力ということで」  会議は滑らかだった。 異論は少なく、確認事項も少ない。  だが真鍋は、どこかで既視感を覚えていた。 前夜、港近くのスナックで交わされた会話。 北倉が藤代に「全部背負ってもらう気はない」と言っていたこと。 安積に「現場の顔が見える方が強い」と言っていたこと。 誰にどこまで負担をかけずに、どこからこちら側に引き取るか。 それが、夜の空気の中で先に整えられていた。

 その晩も、会議のあと流れで同じ店へ行くことになった。 真鍋は断る理由を見つけられず、結局また一緒に座っていた。  ママはすでに北倉の好きな酒の薄さまで知っているらしかった。 店の奥では、手配師らしい男が地元の有力者と声を潜めて話している。宴席や顔つなぎの筋を持っている人間だろう。北倉はそこへ踏み込みすぎず、だが必要なところでは一言だけ入れる。

「藤代さん、店側は無理のない範囲で十分です」 北倉がグラスを置きながら言う。 「全部背負ってもらう気はありません」 「そう言ってくれると助かるな」 藤代は肩を落とした。 「こっちも店を抱えてるからな」  北倉は今度は安積の方を向く。 「観光協会は現場の顔が見える方が強いです。細かい事務局調整は、こちらで持った方がむしろ動きやすいと思います」 「その方がありがたいです、正直」 安積も疲れを隠さなかった。  真鍋はそのやりとりを聞きながら、何気ないふうに言った。 「もう、だいたい決まってるんですね」 北倉は笑った。 「昼の会議で揉めない方がいいでしょう」 「……そうですね」 「会議は大事ですよ。ただ、地方は会議の前に空気が整ってるかどうかの方が大きいこともありますから」  否定しにくい。 真鍋も、それを何度も見てきた。  だが、こうして自覚的に整えられていくのを見ると、どこか居心地が悪い。自分もその場にいて、何も止めていない。  むしろ、昼の会議でそれを正式な形へ整える側にいる。 そのことが、真鍋の中で小さな共犯性のように沈んだ。  会議で決まったのではなく、決まっていたことが会議の形を取っただけなのかもしれないと、真鍋はその日初めてはっきり思った。        受け皿となる汐崎関係人口推進協議会の初会合は、表向きには無難に終わった。

名簿も整った。 役割表もできた。 連絡体制も、支出予定も、一応は筋が通っている。  野添は会議が終わるなり、「これでようやく回せるな」と息をついた。安積も「現場も助かります、本当に」と言った。  水城はやる気に満ちた顔で次の動きを話し、三崎は「細かい運営は私の方で拾います」と自然にメモを取っていた。  北倉は、あくまで『まとめ役』だった。 議長でもない。責任者という顔もしていない。  だが、会議の流れも、言葉の置き方も、誰がどこを持つかのバランスも、すべて北倉の手が入っているように見えた。

 夜、市役所に戻った真鍋は、自席の明かりだけを点けて、協議会の名簿と役割表、連絡先一覧、支出予定表をもう一度見返した。 どれも合理的だった。  市役所だけでは抱えきれない。観光協会だけでも無理だ。若い人材が入り、事務局補佐がいて、撮影や発信や現場対応がそれぞれ分担される。  たしかに、この形なら回る。 だからこそ不安だった。 市と外部の境界。 助言者と受託者の境界。 個人と団体の境界。  どれも消えてはいない。だが、じわじわと混ざり始めている。しかも、それが合理性と善意の名で進んでいる。

 真鍋は支出予定の欄に目を止めた。 撮影関連。編集補助。運営調整。事務局補助。 金額は小さい。

 だが、そこへ流れ込む人と役割の線が、もう簡単には一本で引けなくなっている。

 受け皿ができたことで事業は回り始めた。けれど真鍋には、何が受け止められ、何がそこへ流れ込み始めているのか、もう簡単には見分けがつかなくなっていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

事業は、動き出してからのほうが忙しかった。

 採択までの時間は、まだ紙の上で考える余地があった。企画の名前を整え、写真の順番を決め、言葉を置き換えれば、前へ進んでいるように見えた。だが実施に入ると、前へ進むとは、誰かが何かを実際にやることなのだと嫌でも思い知らされる。

 地域戦略課の机の上には、ここ数日で急に紙が増えた。 参加申込の一覧。日程調整表。撮影カットの希望メモ。観光協会から回ってきた確認事項。商店街の店主から出た要望の書きつけ。  真鍋はそれらを一つずつ束ねながら、最初に想定していたより、事業というものは細かい雑務の集合なのだと思った。雑務という言い方は正しくないかもしれない。どれも誰かにとっては本題で、どれも落とせばその場が回らなくなる。

 協議会の実施打合せでも、その現実ははっきりと見えていた。 「撮って終わりじゃないんですよね」  観光協会の安積恵子が、資料に赤で書き込みを入れながら言った。 「素材の整理もあるし、公開後の更新もあるし、参加者対応もある。現地の案内も、終わったあとの記録も、全部こちらに戻ってくる」 「イベント当日の動線整理と、報告書用の写真選定も必要ですね」 真鍋が補う。 「あと商店街と港側の連絡。撮影の許可確認も細かく出てきます」 野添課長が手元の進行表を見て、露骨に顔をしかめた。 「市で全部持つのは無理だな……」 「観光協会も、今の人数では抱えきれません」 安積は隠さなかった。 会議室の空気が少しだけ重くなる。

 そこへ北倉が、いかにもその重さを前提にしていたような口調で入ってきた。 「この業務、まとめて考えるから重く見えるんです」 言いながら、机の中央に置かれた一覧表へ手を伸ばす。 「切り出せば、そこまで大きくないものもあります」 「切り出す?」 真鍋が訊くと、北倉はうなずいた。 「撮影は撮影、編集は編集、現地調整は現地調整、参加者管理は事務局補助。業務を分けた方が責任も見えやすいし、内部で抱えなくていいものは外へ出した方がむしろ透明です」 透明。  その言葉が、真鍋の耳に引っかかった。 だが反論はしにくかった。  たしかに、まとまりとして持つから何もかも重く見えるのだ。業務が細かく分かれれば、外へ出せる部分もあるし、内部で持つべきものも見える。実務の理屈としては、北倉の説明は正しかった。 「たとえば、どこまで切り出せますか」 野添が訊く。 「追加撮影、編集差し替え、告知画像、SNS更新、参加者管理の補助、当日の現地調整、報告書素材の整理。この辺は分けられます。内部で持つべきなのは、市の判断を含むところと、契約・支出の管理ですね」 真鍋はメモを取りながら、いつのまにか北倉が『何を仕事として数えるか』まで決めていることに気づいた。  最初からそこにあった仕事ではない。北倉が切り分けることで、仕事の形を持ち始めるものもある。 それはたぶん必要なことだ。  必要であることと、誰がその線を引くかが別の問題であることを、真鍋はまだうまく言い分けられなかった。  真鍋には、業務が整理されているというより、仕事の流れそのものが北倉の手で小さく切り分けられていくように見えた。

 外へ出す仕事が見えてくると、次は「誰に頼むか」という話になる。 その段階になると、会議はたいてい人数が少なくなる。 大きな方向性を決める場には人が集まり、具体的に人と金の名前が乗り始めると、関わる人間だけが残る。

 その日の打合せもそうだった。市役所の一角で始まった話は、なぜか夕方には北倉の古民家へ場所を移していた。理由は簡単で、観光協会も市役所も来客や通常業務が重なり、静かに話せる場所がそこしかないからだった。たしかにそのとおりだった。たしかにそのとおりなのに、真鍋にはそれすら北倉の都合のいい流れに見えることがあった。  座卓の上に、切り出された業務の一覧が並ぶ。 追加編集。 告知物制作。 参加者対応。 SNS更新。 現地調整。 事務局補助。

「で、外に出すとして、誰に頼むかですよね」 真鍋が言うと、野添が腕を組んだ。 「そこなんだよな。すぐ動ける人がいればいいけど」 北倉はそこで、自分の手柄にするでもなく、あくまで選択肢を出す人の顔で口を開いた。 「三崎さんなら、参加者対応と事務局補助はかなり向いてると思います」 三崎聡子は、少し驚いたように顔を上げたが、すぐに落ち着いてうなずいた。 「私でよければやります」 「水城くんはSNS更新と現地調整が合ってる。若い層との接点もあるし、動きも軽い」 「やれます」 水城は前のめりに言った。 「むしろそこは任せてほしいです」 安積はほっとしたような表情になった。 「その二つだけでも引き取ってくれるなら、かなり助かる」 「告知物はどうします?」 真鍋が訊くと、北倉はすぐ答えた。 「以前、沿岸部の案件で使ったデザイナーがいます。速いし、地方案件の温度感も分かってる」 「見積はすぐ取れますか」 「ええ、すぐ動けると思います」 編集の話になると、北倉はまた別の名前を出した。 「映像差し替えなら、前に使った編集者の方が早いです。一から説明しなくて済むので」

 真鍋はそのやりとりを聞きながら、北倉の『すぐ動ける人脈』の広さに感心していた。  同時に、それが感心だけで済まない理由も感じていた。 外へ出す仕事も北倉が切り分け、頼む先も北倉が知っている。 では、誰がこの流れを比較し、誰が選び直すのか。 「他に候補は当たれますか」 真鍋はあえて訊いてみた。  北倉は否定もせず、軽く笑った。 「当たれます。ただ、時間はかかるでしょうね」 「時間、ですか」 「ええ。小さい案件ほど、動ける人に直接振った方が回るんです。比較のために比較している間に、現場の熱が冷めることもありますから」 正論だった。  少なくとも、その場ではそう聞こえた。 不自然な人選ではなかった。だからこそ真鍋は、その自然さの中心にいつも北倉がいることを、かえって気味悪く感じた。

 見積書や伺い書を前にすると、違和感はもっと静かな形になる。 真鍋はもともと、数字や書類を雑に扱う方ではなかった。  どちらかといえば、文章の癖や書き方の揃い方の中に、その案件の危うさがにじむことの方を信じていた。だから委託関係の書類を整理し始めてから、気になるのは金額そのものより、理由の書き方だった。 告知物制作一式。 追加編集一式。 参加者対応補助若干名。 SNS更新支援一式。

 一件ごとは小さい。 少額案件として処理できる範囲で、急ぎの理由もつく。専門性が必要だと言えば、それも通る。 形式上は、何も大きく間違っていない。

「このデザイン案件、他に候補は当たってますか」 真鍋が野添の机に書類を持っていって訊くと、野添はペンを回しながら少し目をそらした。 「いや、急ぎだからまずは北倉さん経由で話を聞いた形だな」 「この編集分も、比較は取ってないですよね」 「金額的には少額だし、前に使った人の方が早いって話で……」 そこへ、ちょうど資料を抱えた桐生道子が通りかかった。真鍋の手元の書類を見て、彼女は立ち止まる。 「見せて」 真鍋が差し出すと、桐生は数秒で目を通した。 「小さい案件ほど、決め方が顔で流れるのよ」 「顔、ですか」 「ええ。額が小さいから、みんな『まあいいか』で済ませる。でも積み上がると形になる」 「形式上は問題ないように見えるんですけど」 「形式上、ね」 桐生は書類を返した。 「形式が整ってることと、健全であることは別だから」 その言葉を聞いて、真鍋は胸の内側で小さく息をついた。 同じところを見ている人間がもう一人いる。  それだけで少し救われる気もしたし、逆に逃げ場がなくなる気もした。  後で北倉にも、なるべく軽い調子で確認してみた。 「この委託先、かなり事情をご存じなんですね」 北倉は特に構える様子もなかった。 「以前一緒にやったことがあるので」 「比較の余地は?」 真鍋が訊くと、北倉は苦笑した。 「比較のための比較をしている時間、今の汐崎にはないと思いますよ」 「でも、選んだ理由は必要です」 「もちろん。だから、動けること、地方案件に慣れてること、継続案件として引き継ぎやすいこと、その辺で十分説明できるはずです」 説明はできる。 たしかに、できる。  問題は、その説明がいつも北倉の側から出てくることだった。 書類の上ではどこにも大きな傷はなかった。だが真鍋には、その滑らかさそのものが、決め方の曖昧さを覆っているように思えた。  困るのは、成果物がちゃんとしていることだった。 動画は見栄えがした。  告知物も、これまで汐崎で見てきたどのチラシより洗練されていた。港の光と商店街の店先の色味が抑えられ、余白の取り方まで都会的だった。SNSの投稿も、文句なく上手かった。言葉は軽すぎず、写真は映えすぎず、町の温度感だけを少し持ち上げる。  小さな体験イベントも、一見するとにぎわっていた。参加人数は爆発的ではないが、写真に切り取られれば十分に前向きに見える。むしろ、その「十分さ」が現実的で厄介だった。

「正直、ここまで形になると思ってなかったです」 観光協会の安積が、出来上がったチラシ束を机に置きながら言った。 「ちゃんと『やってる感』じゃなくて、やってるものになってる」 水城はスマートフォンの画面を見せた。 「反応も悪くないですよ。フォロワーも増えてるし、保存数も結構いってます」 「参加者対応も前よりだいぶ回しやすくなりました」 三崎も淡々と報告した。 「問い合わせの流れが整理されてるので、現場で詰まりにくいです」  真鍋は、その報告を聞きながら否定の言葉を持てなかった。 実際、悪くないのだ。 いや、悪くないどころか、今までの汐崎の事業に比べればかなり良く見える。

 市長への途中報告でも、黒瀬は満足そうだった。 「いいじゃないか。ちゃんと動いてる感じが出てる」 その言い方に、真鍋は少しだけ顔をしかめた。 動いてる感じ。 だが、この市長にとっては、それが本質なのだろうとも思った。 北倉は控えめな声で言った。 「町の素材がいいんです。見せ方を整えただけですよ」 整えただけ。 たしかに整っている。  そして、整っているほど、真鍋には自分の引っかかりを説明しにくくなった。 成果物がまともであるほど、真鍋は逆に、自分が何に引っかかっているのかを言葉にしにくくなっていった。

 堂本忍が支出先の名前に目を止めたのは、事業の途中経過を取材に来たときだった。 庁舎前の植え込みの脇で、堂本はいつものように無愛想に立っていた。記事のための取材だと言いながら、その手元の手帳は、成果物の見た目よりも、協議会の名簿や委託先の欄に長く止まっていた。

「今回、動きは早いですね」 堂本が言う。 「ええ。体制が柔らかい分、回しやすいところはあります」 真鍋が答えると、堂本は少しだけ目を細めた。 「柔らかい、ですか」 「……悪く言えば、曖昧でもありますけど」 真鍋は、自分でも意外なほど素直にそう言っていた。 堂本の前では、少しだけ本音が出やすいのかもしれなかった。 堂本は手帳を開いた。 「委託先、ずいぶんきれいに並んでますね」 「きれいに?」 「知ってる名前が、ちゃんと知ってる並びで出てくる」 その言い方に、真鍋は一瞬、何も返せなかった。 「成果物は悪くないですよ」 ようやくそう言うと、堂本はすぐにうなずいた。 「でしょうね。成果物が立派なときほど、決め方は見えにくいんですよ」 真鍋は黙ったままだった。 「委託って便利な言葉です」 堂本は淡々と続けた。 「責任を残したまま、手だけ外へ出せる」 それは、いかにも記者らしい言い方だった。 だが、うまく言えないまま真鍋が感じていたものを、一言で輪郭にしてしまう言い方でもあった。  堂本はさらに委託先の名前を二、三、手帳に書き留めた。 それだけの動作なのに、真鍋には、それまで気配だけだった違和感に薄い輪郭が与えられたように思えた。  その夜、真鍋は一人で協議会の体制図を見ていた。 市役所。 観光協会。 協議会。 事務局補佐。 運営補助。 撮影。 編集。 告知物制作。 SNS更新。 現地調整。

 矢印でつながれたそれぞれの項目は、図の上では整然としていた。支出一覧もそうだ。どこへ、何の名目で、いくら動いたか。少額の線が何本も走っているだけで、一見すれば普通の事業運営に見える。

 成果物も整っていた。 SNSの反応も悪くない。 参加者数も、極端ではないぶん自然だ。 誰かがあからさまに損をしているようにも見えない。

 だから余計に、真鍋には分からなくなった。 これは町のために動いているのか。 それとも、北倉という回路を通すことでしか成立しない形へ変わってしまったのか。

 北倉一人が悪い、とまではまだ言えない。 観光協会も助かっている。 野添も、現場が回るならそれでいいと思っている。 水城や三崎も、本気で町のために動いているのだろう。 だからこそ厄介だった。

 問題は、一件ごとの支出ではない。 仕事がどこへ集まり、誰の手の中で『当然』になっていくのか、その流れそのものに、真鍋は気味悪さを覚えていた。 町のために動いているはずの事業が、いつのまにか北倉という回路を太くすることでしか前に進まなくなっているように、真鍋には見え始めていた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 北倉が外部のままでいることに、不便を感じる人間が増えてきたのは、事業がようやく形になり始めたころだった。

 最初のうちは、それでも何とか回っていた。 協議会があり、観光協会があり、市役所があり、必要に応じて北倉が間に入る。動線は遠回りでも、誰かが補えば進む。だが、仕事が増え、判断が細かくなり、委託先も支出項目も増えてくると、その遠回りが目につくようになった。  会議のたびに、同じ説明を二度する。 現場で決めたいことが庁内資料の扱いに引っかかって半日遅れる。  観光協会で出た案が市役所へ戻り、市役所の確認が北倉へ渡り、北倉の修正がまた観光協会に戻る。  その一つ一つは大したことのない遅れでも、積み重なると、現場では妙に重くなる。

 協議会の実務打合せでも、その苛立ちは隠れなくなっていた。 「この資料、北倉さんに見せられるのが翌日になるの、やっぱり遅いですよ」  安積恵子が言った。 目の前の資料を叩くでもなく、ただ机の上に指を置いたまま言うところに、疲れがにじんでいた。 「庁内資料の扱いがあるので、どうしても手順を踏まないと……」 真鍋はそう答えたが、自分でも言い訳じみて聞こえるのが分かった。  水城海斗がすぐに口を挟む。 「でも、現場はその日のうちに判断ほしいこと多いじゃないですか。撮影の差し替えとか、参加者対応とか、待ってくれないですよ」 「実際、二度手間になってるのは事実なんだよな」  野添課長が、珍しく率直に言った。 資料の束を見ながら、少しだけ眉を寄せる。 「こっちで判断できないことは戻すしかないし、戻したら戻したで北倉さんには庁内で共有しづらいものもあるし」 「そのたびに真鍋さんが間に入ってるのも、正直しんどいですよね」 安積の言葉に、真鍋は苦笑するしかなかった。 しんどいのは事実だった。  だが、それを認めることは、別の何かを認めることにもつながりそうで、簡単にはうなずけなかった。  北倉はそのやりとりを静かに聞いていた。 いつものように、すぐに主導権を取るでもなく、相手が言うべきことを言い終わるまで待っている。その待ち方がうまい。誰かが不満を口にし、それが個人の愚痴ではなく『現場の課題』として聞こえる位置まで待つ。

「外部のままでも、やれなくはありません」 北倉はそう言った。 「ただ、庁内との接続がもう少し早ければ、無駄は減らせると思います」 「無駄、ですか」 真鍋が訊くと、北倉は穏やかにうなずいた。 「同じ説明を何度もすることとか、判断の順番が一つずれることとか。その積み重ねは、現場では結構大きいので」

 安積がため息まじりに言った。 「正直、もう少し中に入ってもらえたら助かるんですけどね」 その一言で、会議室の空気が変わった。 誰もすぐには続かなかった。  だが、全員がその可能性を一度頭の中に置いたことだけは分かった。 真鍋はその沈黙の重さを感じた。話題が出た瞬間に、元へは戻れない種類の沈黙だった。  野添が、机の上のペンを転がしながら言った。 「……いっそ正式な立場で入ってもらった方が早いのかもしれないな」 真鍋は顔を上げた。 ついに、その言葉が出た。  北倉が望んだわけではないという形のまま、その席の話だけが、会議室の空気の中で先に輪郭を持ちはじめていた。

 それが会議の勢いだけで出た話ではないと分かったのは、その日の夕方だった。

 野添は、いつものように軽い調子で真鍋の机の脇に来た。 軽い調子のときほど、本気の話をしていることがあるのを、真鍋はもう知っていた。 「さっきの件だけど」 野添は声を落とした。 「本気なんですか」 真鍋が先に訊いた。 「本気、というか……現実的な選択肢として、だね」 野添は、いかにも言葉を選んでいる顔をしていた。 「任期付きの民間人採用枠もあるし、外部人材登用の名目もいくつかある。地域再生アドバイザーでも、DX推進補佐でも、政策参与に近い置き方でも、やり方はある」 真鍋はしばらく黙っていた。 『やり方はある』。  その言い方が、たまらなく嫌だった。穴があるから通せる、と言われているように聞こえたからだ。

「でも北倉さん、すでに協議会と委託先にかなり関わってますよ」 ようやくそう言うと、野添は小さく息を吐いた。 「分かってる。でも、だからこそ中にいた方が早いんだよ」 「それ、逆じゃないですか」 思ったより強い口調になってしまった。  野添が目を細める。 「逆?」 「外部でそこまで関わってる人を、さらに中へ入れるのは……」 真鍋は言い切れなかった。  何がどう危ういのか、自分の中では分かっている気がするのに、制度の言葉へうまく直せない。

「今は、人がいないんだよ」 野添ははっきり言った。 「きれいな原則だけじゃ、町は回らない」 真鍋はその言葉を聞きながら、胸の奥が少し冷えるのを感じた。 人がいない。 それは事実だ。 助かっている。 それも事実だ。  その二つが並べられた時、自分の違和感は『きれいごと』の側へ押しやられる。 さらに悪いことに、市長もどうやら前向きらしかった。

 後日、黒瀬市長が廊下で野添と立ち話をしているのを、真鍋は少し離れた場所から聞いてしまった。 「せっかく流れが出てるんだから、止めない方がいい」 黒瀬はそう言った。 「動ける人には、動ける席を用意すればいいんだよ」 その言い方には、いつもの軽さがあった。  だが軽い言葉ほど、たいていはあとで重く効く。 席はまだ置かれていないのに、真鍋にはすでに、その席の分だけ庁舎の内側が静かに空けられていくように思えた。

 北倉自身は、その話にすぐ飛びつかなかった。

 むしろ一度、引いた。 その引き方がうますぎると真鍋が思ったのは、港へ下る坂の途中で、二人きりになったときだった。  打合せの帰りだった。夕方の光が海の方から斜めに入り、港のクレーンが影になっていた。真鍋は思い切って訊いた。

「この前の話、もし本当に出たらどうしますか」 北倉は少しだけ目を細めた。 「席の話ですか」 「ええ」

 北倉はすぐには答えなかった。 港の方へ一度視線をやってから、軽く笑った。 「外部の方が自由に動ける面もありますからね。中に入れば、逆にやりにくくなることもあるでしょう」 「でも、不便も多いですよね」 「それはあります。ただ」  北倉は、そこで言葉を切った。 「僕が席を欲しがっているように見えるのは、本意ではありません」

真鍋は、その台詞に一瞬返事ができなかった。 欲しがっていないように見せる台詞として、あまりに整いすぎている。  だが、北倉の表情は本当にそう思っている人間のそれにも見えた。 「欲しがっているようには、見えませんよ」 真鍋が言うと、北倉は少しだけ肩をすくめた。 「そうならいいんですが」 数歩歩いてから、北倉は続けた。 「僕が必要なんじゃなくて、機能が必要なんです。今の体制だと、判断と実務の距離が少し遠い」 真鍋は黙って聞いた。 「町のために最短を選ぶなら、形にはこだわらない方がいいのかもしれません」 正論に聞こえた。 そして、正論に聞こえること自体が怖かった。  北倉が演技しているのか、本当にそう思っているのか、真鍋には分からなかった。ただ一つ分かるのは、こうして一度引かれると、周囲は余計に「こちらからお願いする形」にしたがるだろうということだった。  北倉は席を求めていないように見えた。だからこそ、その席はますます彼のために用意されるもののように真鍋には思えた。

真鍋が初めて、はっきり止めたいと思ったのは、その翌週だった。

 夜の庁舎は静かで、昼間は何でもない蛍光灯の白さが、妙に冷たく見える。  資料室の前で野添を捕まえたとき、真鍋は自分でも驚くほど真っ直ぐに言っていた。

「北倉さん、もう十分深く入ってますよね」 野添は立ち止まり、真鍋を見た。 「それはそうだな」 「協議会、委託、事務局、人脈、全部に関わってる。その人が今度は役所の席まで持つのは……」 「危ういって?」  真鍋はうなずきかけて、少しだけためらった。 だがもう、言わなければ同じだと思った。 「線がなくなります」 野添は少しだけ口元を引き締めたが、怒りはしなかった。

「今さら線をきれいに引いたって、回らないものは回らないよ」 「でも」 「真鍋くん」 野添の声は低かった。 「助かることと、原則を守ることが、きれいに両立するなら、みんな苦労してない」 その言葉は、真鍋の反論を正面から潰すというより、もっと深いところで封じた。  真鍋自身、それが分かってしまうからだった。 北倉がいなければ、いま回っているものの何割かは止まるだろう。 自分も、それを知っている。 だからこそ苦しい。

 別の日、堂本忍にも、遠回しにそれらしいことを漏らしてしまった。 「席ってのは、便利な人への謝礼じゃありません」  堂本は庁舎前の自販機の横で、缶コーヒーも買わずに言った。 「分かってます」 真鍋が答えると、堂本はすぐに返した。 「分かっていて止められないなら、もっと厄介ですね」 真鍋は何も言えなかった。 「町が誰かに席を与えるとき、一緒に見ないふりするものも増えるんですよ」 堂本はそう言って去った。  その背中を見ながら、真鍋は初めて、反対の言葉が北倉に向かうだけでなく、自分のここまでの判断や沈黙にも向かうことを思い知った。 反対の言葉を口にしかけるたびに、真鍋にはその言葉が北倉ではなく、自分自身のここまでをも否定するもののように思えた。

 席は、考え方ではなく、手続きとして用意された。

 そのことの怖さを真鍋は、総務から回ってきた簡単な確認メールで最初に知った。 件名はそっけない。  外部人材受入れに係る肩書き等確認 本文を開くと、業務内容、所属、任期、メールアドレス発行、入館証、机の配置。  ただの事務処理に見える。 だが、それぞれが確実に『内側の人間』のための手続きだった。

「肩書きは『地域再生推進アドバイザー』でいきますか」 総務の職員が言う。 「それで通るならそれで」 野添はあっさり答える。 「所属は地域戦略課付け、ですか」 真鍋が確認すると、野添はうなずいた。 「実務上はそこが一番扱いやすい」 「庁内メールと入館証も必要ですね」  総務職員が事務的に続ける。 真鍋は思わず訊いた。

「……名札も作るんですか」  総務の職員は、少し不思議そうに真鍋を見た。 「当然でしょう」 当然。  その一言の重さを、たぶんこの場で真鍋だけが妙に強く感じていた。 名札。 机。 庁内メール。 入館証。  それらはどれも、紙の上の役職よりはるかに強く、その人間を『中の人』にしてしまう。

 さらに数日後、庁舎の一角に本当に机が置かれた。 真鍋の席から少し離れた窓際で、以前は資料置き場になっていた場所だった。  パソコンが入り、電話が引かれ、名札が立つ。 白いプレートに黒い文字で、北倉恒一郎と印字されていた。 席とは考え方ではなかった。名札であり、机であり、入館証であり、その一つ一つが北倉を町の内側へ固定していった。

 北倉がその席に座った朝、庁舎の空気は思ったより普通だった。

 誰かが特別に拍手をするわけでもなく、庁内放送が流れるでもない。 観光協会の安積は「これで話が早くなりますね」と安堵のように笑い、水城は少し誇らしげにその様子を見ていた。野添は肩の力を抜いた顔で、「まあ、ここまで来たらこの方が自然だろう」と言った。  全員にとって、それは合理化だった。 少なくとも表向きは。

 北倉本人は、最初からそこにいた人間のように自然に椅子を引いた。 ぎこちなさがない。  だから余計に真鍋には不気味だった。 「ご迷惑をおかけしないようにします」 北倉はそう言って、周囲に軽く頭を下げた。 「……よろしくお願いします」 真鍋も、そう返すしかなかった。

 最初の庁内会議で、北倉はすでに『中の人』の言葉で話していた。 「では、次回以降の委託整理と現地側調整を並行して進めます。内部の確認フローも少し短くできると思います」 内部。  その言葉が、ごく自然に口から出ていた。 協議会も、委託も、現場も、人脈も知っている人間が、今度は庁内の資料と判断の流れにも触れている。 それが何を意味するのか、真鍋にはもう十分すぎるほど分かっていた。

 安積にとっては助かるのだろう。 水城にとっては希望なのだろう。 野添にとっては合理化だろう。 市長にとっては成果を早く出すための近道だろう。  だが真鍋には、それが効率のための椅子には見えなかった。 これまで何とか外に残っていたはずの線が、そこで静かに消えていく場所に見えた。  席はただの机ではなかった。そこに座ることを町が認めた瞬間、北倉は外から関わる人ではなく、町の線を内側から動かせる人になった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

成功だったはずの反省会は、思ったより静かに終わった。

 会議室の窓は閉まっているのに、どこか風通しが悪い。空調は動いているはずなのに、空気だけが机の上に滞っているような感じがした。 真鍋は最初、その感覚を単なる疲れのせいだと思った。 事業はまだ立ち上がったばかりで、協議会の調整、委託先とのやりとり、庁内資料の整理、途中経過の取りまとめと、市役所の机の上から仕事が減る気配はない。  疲れているのは自分だけではないはずだった。野添課長も、観光協会の安積も、水城も三崎も、それぞれに目の下へ薄い影を作っている。皆、少しずつ寝不足の顔をしていた。  だから、空気が重いのは、ただ皆が疲れているからだ。 そう思ってしまえば、それで済む。 だが会議が進むほど、真鍋にはそれだけではない気がしてきた。

 中間報告の資料は、よくできていた。 参加者数は目標に近い。 SNSの反応も一定数ある。  写真は見栄えがして、報告書のページをめくると、港も商店街も古民家も、どれも以前より少しだけ明るく見える。  光の拾い方も、人の表情の切り取り方も、町の空気を悪く見せないよう整えられていた。市長へ上げる途中報告としては、むしろ十分すぎるくらいだった。

「数字だけ見れば、立ち上がりとしては悪くないですね」  野添が言った。 その一言は会議の冒頭にふさわしい、前向きな整理だった。 誰も反対しないだろう言い方であり、実際、資料の上では反対のしようがなかった。  北倉もすぐにそれを拾った。 「はい。初年度の実証としては十分に意味のある反応です。接点ができて、再来訪の可能性も見えています」  その言い方も整っていた。 真鍋は、資料の上ではたしかにそうだと思った。  だが、会議室にいる全員が同じ温度でうなずいていないことにも気づいていた。数字を追う側と、現場を回している側とで、資料のページの重さが微妙に違っているように見えた。  安積が、手元の資料に視線を落としたまま言った。 「反応は、たしかにありました」 そこで言葉が切れた。 真鍋はその間の長さに、報告書には入らないものがあるのだと感じた。 「でも?」  真鍋が何気ないふうに訊くと、安積は困ったように笑った。 「でも、何て言うんでしょう。うまく言えないんですけど、ちゃんとやったのに、手応えが数字のわりに薄いんです」  その言い方は、真鍋にはよく分かった。 分かるが、それをどう報告書の言葉に直せばいいのかは分からない。 『薄い』は行政文書の言葉ではない。  だが、現場の実感を表すには、むしろそれ以上に正確な語がない気もした。  商工会寄りの立場で呼ばれていた藤代茂雄も、腕を組んだまま低く言った。 「人は来た。来たが、町に何が残ったかと言われるとな」  藤代は、感想を言うときも決めつけた口調にならない人だった。その言い方の曖昧さが、かえって真鍋には重かった。はっきり「駄目だ」と言われるなら、まだ反論もできる。  だが、「何かが残ったと言い切れない」と言われると、その曖昧さ自体が現実のように思えた。  水城が少し前のめりになる。 「でも、最初から完璧は無理じゃないですか。今はまず、動かしてみる段階でしょう」 「その通りです」  北倉は落ち着いてうなずいた。 「試行段階で『残り方』まで求めすぎると、何も始まりません。最初は接点を作ること自体に意味がありますから」  それもまた、間違ってはいなかった。 真鍋も理屈ではそう思う。  地方の小さな施策は、たいてい最初から完成形ではない。まずは試し、形を作り、少しずつ回していくしかない。  だが、理屈の整い方と、会議室に残る小さな引っかかりが、どうにも噛み合わない。

 資料のページをめくる音だけが少し長く続いた。 誰も失敗だとは言わない。 それなのに、誰も「よかった」と心からは言っていないような空気があった。  会議は前向きに終わったはずだった。だが真鍋には、報告の数字だけが先へ進み、現場の手触りだけがその場に取り残されているように思えた。

その日の帰り、真鍋は少し遠回りして駅前商店街を歩いた。

 もう夕方で、潮の匂いと揚げ物の匂いが混じり始めている。駅前のアーケードは相変わらず半分ほどが暗く、灯りの点いている店も、どこか慎重に営業しているように見える。昼間ならそれなりに人通りがある時間でも、店先の空気は昔の写真で見る商店街の賑わいとは比べようもない。  イベントや回遊企画の写真では、この通りももう少し賑やかに映る。人の立ち位置と角度を選べば、まだこの町は元気に見えるのだと、真鍋は最近よく思い知っていた。  写真の中では、閉まったシャッターの列より、開いている二、三の店先と、そこで立ち話をする人の笑顔の方が前へ出る。間違っているわけではない。だが、全部ではない。

 姉の店の前では、真鍋ゆかが立て看板をしまっているところだった。 「今日は早いね」  そう言いながら、ゆかは弟の顔を見て少し眉を上げた。 「その顔、会議うまくいかなかった?」 「うまくいかなかったわけじゃない」 「一番まずい返事じゃない、それ」  真鍋は苦笑した。 「中間報告としては悪くないんだよ。数字も出てるし」 「ふうん」  ゆかは看板を持ち上げたまま、さらりと言った。 「写真はにぎやかだったよ」  真鍋はその言葉に、少しだけ足を止めた。 会議室の空気を、姉は別の言葉で同じように言ったのかもしれないと思った。 「実際も、そこそこ人はいたろ」 「いたよ」  ゆかはすぐにうなずいた。 「でも、いつもの顔も多かったし、見に来て、そのまま流れた人も多かった」 「売上は?」 「悪くはない。でも、『町が変わる入口』ってほどではないかな」  真鍋は何も言わなかった。 それは、反論しにくい言い方だった。全否定ではなく、しかも現場の実感に足がついている。 悪くはない。  でも、変わったと言い切れるほどではない。 その曖昧さこそが、会議室で誰も上手く言えなかった感覚なのだろうと真鍋は思った。

 魚屋の店主が店じまいの途中でこちらを見つけ、会話に入ってきた。 「人は歩いてた。でも、買う人は別だよな」  乾物屋の女将も、戸口から顔を出した。 「『関係人口』ってのは、店からすると何になるんだい」  その問いに、真鍋はすぐには答えられなかった。 政策用語としてなら説明できる。  町に繰り返し関わる人、移住でも観光でもない中間的な接点、将来の来訪や滞在につながる可能性。役所の文書なら、いくらでもそれらしい書き方ができる。  だが、この通りの店先に立って、その言葉をそのまま返せる気はしなかった。  店にとっては、来た人がまた来るのか、店に金を落とすのか、通りに何か残るのか、その方がずっと切実だ。 「言葉が悪いわけじゃないんだけどね」  ゆかが助けるように言った。 「写真で見た熱と、店の中の熱がちょっと違うの」  真鍋は姉の横顔を見た。 それは数字にならない。  だが、数字にならないからといって、無視していい種類のものでもない気がした。  数値化された成果と、生活の手応え。 その間にある薄い膜のようなものを、真鍋はこのところずっと指先で触っている気がしていた。  掴めないのに、たしかにそこにあるもの。 しかも、一度気づいてしまうと、なかったことにはできないもの。

 数字にはならない声ほど、真鍋には妙に残った。にぎわいは確かにあったはずなのに、その熱が商店街の中へきちんと落ちていない気がした。

 翌日の午後、真鍋はその感覚を、なるべく感覚的にならないようにして北倉へぶつけてみた。

北倉の席は、今では庁舎の中で当たり前のようにそこにあった。  地域戦略課付けの外部人材。肩書きも入館証も庁内メールもあり、机の上には資料の束とノートパソコン、それに例の高級一眼レフがさりげなく置かれている。  最初に見たときほどの違和感は、周囲からはもう消えていた。消えていること自体が、真鍋にはいちばん怖いことのように思えた。 人は、便利なものに慣れる。 慣れた時には、その便利さが何を溶かしたのかを見なくなる。

「商店街の側には、数字のわりに手応えが薄いって声があります」  真鍋が言うと、北倉はまったく慌てなかった。 むしろ、最初からそう言われる可能性まで想定していたように見えた。 「それは自然だと思います」 「自然、ですか」 「はい。単年度の数字だけで判断すると、地方の変化は見誤ります。関係人口は売上だけでは測れませんから」  安積もその場にいた。彼女は少し考えてからうなずいた。 「まあ、それはそうですね」 北倉はさらに続ける。 「町の変化って、地元の人ほど気づきにくいこともあるんです。毎日の延長で見ているので、少しずつ起きている変化は『変わっていない』に見えやすい」  野添も資料から顔を上げて言った。 「実証事業って、そういう面はあるよな」 真鍋はすぐには引かなかった。

「でも、同じ顔ぶれが多いという話もあります」  北倉は笑みを崩さずに答えた。 「初期接触が重なるのは当然です。むしろリピーターがいるのは、接点が残っている証拠とも言えます」  その返しが嫌になるほどうまかった。 同じ現象を、失敗の兆候ではなく成功の萌芽として言い換えてしまう。 しかも、その言い換えがただの詭弁に聞こえない。 真鍋は、自分が押し返されているというより、違う方向へ話を整えられている感覚を覚えた。 「試行段階の揺れまで失敗にしてしまうと、何も始まりません」 北倉は静かに言った。 「今は、町の中に回路を作る時期ですから」  真鍋はそれ以上、返せなかった。 反論の言葉がないわけではない。  ただ、その場で出せるほど整理されていない。 そして整理されていないものは、この男の前ではたいてい負ける。  北倉は、感情的な違和感を、『まだ言語化できていないもの』として先送りするのがうまかった。

 北倉の説明は整っていた。整っていることそれ自体が、真鍋にはかえって現場の手触りから遠いもののように思えた。

夜の市役所は、資料を突き合わせるには向いている。

 電話も鳴らず、誰かに呼ばれることもなく、蛍光灯の音だけがわずかに耳につく。真鍋はその静けさの中で、初めて本格的に資料を並べ始めた。 参加者名簿。 会場写真。 SNS投稿データ。 実施報告書。 受付メモ。 支出一覧。 撮影日と開催日の記録。

 それらを机の上に広げたとき、真鍋は自分がようやく『感覚』から離れたのだと感じた。 引っかかる。 薄い。 噛み合わない。 そういう言葉ではなく、見えるもの同士を見比べる段階へ来ている。

 最初は、どこもおかしくないように見えた。 参加者数は合っている。 写真の日付も、報告書に書かれた開催日と大きくは違わない。 SNSの投稿も、それぞれのイベントの直後にきちんと上がっている。 書類だけ眺めれば、普通の事業運営にしか見えない。  だが、見比べ続けるうちに、真鍋は妙な既視感を覚えた。 同じ顔が、別の回にも写っている。  しかもただ写っているだけではなく、毎回その場の中心に近い位置にいる。 笑っている。 話を聞いている。 時には別の参加者に見える角度で。 写真の切り取りが上手いほど、その『同じ顔』は別の雰囲気の中へ自然に溶け込んでいた。

 真鍋は参加者名簿へ目を落とした。 同じ名字。 同じ名前。  最初は偶然だと思った。地方では顔ぶれが重なることも珍しくない。イベントに熱心な人間が何度か来ることもある。  だが次の資料、その次の資料と見ていくうちに、その『重なり』が妙に都合よく見え始めた。 イベントAの参加者。 イベントBの参加者。 報告書の新規接点数。 投稿文に添えられた「初参加の声」。 数字は合っている。  だが、数字が示している意味が、どうにも一枚で重ならない。 同じ人間が、別の回では別の意味を持つように扱われているのではないか。  再来訪者なのに、新しい接点として数えられているのではないか。 まだ断言はできない。 けれど、偶然で済ませるには、並び方がきれいすぎる。

 途中、資料室から戻ってきた桐生道子が、真鍋の机の上を見て一瞬だけ立ち止まった。 「突き合わせてるの」 「ええ」 「数字より先に、『同じものが別の顔で出てないか』を見ると早いわよ」 それだけ言って去っていった。  真鍋は、その言葉を受け取ったまま、もう一度写真を見た。 笑っている顔。 受付票の名前。 別のイベントで、また似た位置にいる同じ顔。  真鍋は初めて、違和感が気分ではなく資料の上に現れるものなのだと知った。数字は並んでいたが、その数字が指している中身だけが、どうにも噛み合わなかった。

堂本忍は、真鍋がそこまで言葉にする前に、すでにその手前まで来ていた。

 庁舎前、新聞社の車の脇で立ち話になったとき、真鍋はあえて細かいことは言わなかった。まだ確証と言えるものではない。確証がないまま記者に何かを渡すのは、告げ口じみていて嫌だった。 だが、黙りきるほど自分の中で整理もついていなかった。

「数字自体は、たぶん嘘じゃないんです」 真鍋が言うと、堂本はすぐにうなずいた。 「でしょうね」 「でも、見てるものが違う感じがして」  堂本は手帳を閉じたまま言った。 「数字の嘘は分かりやすい。でも定義の嘘は長持ちします」 真鍋は、その言葉の意味を一度飲み込むのに少し時間がかかった。

「定義、ですか」 「同じ人間でも、『新規接点』と呼べば数字になる。『継続接点』と呼べば実績になる。言い方で勝てるんです」  真鍋は何も返せなかった。 自分が見ていたのは、まさにそこだったのかもしれない。 水増しとまでは言い切れない。  だが、数え方の勝ち方。 その言葉はひどくしっくりきた。 「盛ってるんじゃなくて、勝てる数え方をしてるんでしょうね」 堂本はそう言った。 「地方創生の数字って、その辺りがいちばん厄介なんですよ。少しずらせば、全部きれいに見えるから」  真鍋は、堂本の横顔を見ながら思った。 この男は、最初から数字そのものではなく、何をどう数えているかを見ていたのだ。  しかも、その『ずらし』はあからさまな嘘よりずっと扱いづらい。反論すると、「見方の違いです」と返される。説明されれば、一応は通る。通るから長持ちする。

 真鍋が見ていたのは数字の乱れではなかった。堂本の言葉で、それが『数え方そのものの勝ち方』なのだと、初めてはっきり見えた。

その夜、真鍋はもう一度、参加者名簿を開いた。

会場写真を横に置く。 受付票を引き寄せる。 開催日の一覧を見る。 指先で、ある名前をなぞる。 一度目の参加。 二度目の参加。 三度目の接点。 報告書では、それぞれが別の意味を持つ数字として並んでいる。

 もちろん、説明はできるだろう。 北倉なら特に。 『接点』と『参加』は違う。 『初参加』ではなく『初回の関わり』だ。 『継続接点』も成果だ。 そう言えば、たぶん書類の上では通る。  だが真鍋には、それがあまりに都合よく見えた。 数字は壊れていない。  だが、数字に入れられている意味が少しずつずらされている。 そのずらし方が巧妙で、しかも説明可能だからこそ、余計に厄介だった。

 真鍋は名簿をもう一度見た。同じ名前が、別の意味を持つ数字として静かに並び直されているように見えた。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ