リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 1970年代後半から1980年代にかけて、「角川映画」という言葉には、単なる映画の製作ブランドを超えた特別な響きがあった。映画館では新作が話題となり、書店には原作となった角川文庫が並び、テレビでは印象的な宣伝が繰り返された。ラジオやレコード店からは映画の主題歌が流れ、作品に出演した若い俳優が新しいスターとして注目を集める。映画、出版、音楽、広告が互いに結びつくことで、角川映画は当時の大衆文化の中で独特の存在感を持つようになったのである。

 現在の視点から見れば、こうした仕組みは「メディアミックス」と呼ばれる販売戦略として説明できる。一つの作品や企画を複数の媒体で展開し、それぞれの認知度や販売機会を高める方法である。しかし、当時の若者にとって角川映画が持っていた意味は、必ずしも企業の販売戦略だけでは説明できない。映画を見ること、本を読むこと、音楽を聴くこと、新しいスターに憧れることが重なり合い、一つの文化体験として記憶されていったからである。

 もっとも、角川映画の観客が若者ばかりだったわけではない。初期の作品には幅広い年齢層を対象とした大作も多く、若者の支持が他の映画より際立って高かったかどうかを判断するには、当時の観客の年齢構成などを確認する必要がある。それでも、1980年代に若い俳優を中心とした作品が相次いで登場し、音楽や出版とともに注目されたことは、角川映画と青春文化の関係を考えるうえで重要な歴史的事実である。

『犬神家の一族』から始まった角川映画

 角川映画の出発点は、1976年11月に公開された市川崑監督の『犬神家の一族』である。横溝正史の推理小説を原作とするこの作品は、角川映画の第1作として位置づけられており、出版社が映画事業へ本格的に進出する象徴的な出来事となった。1975年に角川書店の社長となった角川春樹は、書籍の出版だけに事業を限定せず、映画を通じて原作や作家の知名度をさらに高める方法を推し進めたのである。

 当時の映画製作と配給の仕組みを正確に見ると、『犬神家の一族』を製作したのは角川春樹事務所であり、配給を担当したのは東宝だった。翌1977年の『人間の証明』も角川春樹事務所が製作し、東映が配給している。つまり、角川書店が映画の製作から配給、上映までを単独で担っていたわけではなく、既存の映画会社が持つ配給網を活用しながら、出版と映画を結びつける事業を展開したのである。

 その戦略を象徴するのが、「読んでから見るか、見てから読むか。」という有名な宣伝コピーだった。原作小説を読んだ人に映画館へ足を運んでもらうだけでなく、映画を見た人にも原作小説への関心を持ってもらう。映画と書籍のどちらを先に楽しんでもよいという発想は、読者と観客の双方に働きかけるものだった。小説の映画化自体は以前から存在していたが、出版社が映画製作に積極的に関与し、大規模な宣伝と文庫販売を継続的に連動させたことに、角川映画の大きな特徴があった。

 この戦略は商業的にも成果を収めた。『犬神家の一族』の配給収入は15億6,000万円に達し、角川書店が展開した横溝正史作品の販売促進では、文庫40点で1,800万部を超える販売実績が記録されている。ただし、これは複数の横溝作品を対象とする実績であり、すべてが『犬神家の一族』という映画一本の効果だったと解釈することはできない。作家自身の人気や書店での販売促進なども影響したと考えられるが、映画と出版を組み合わせた事業が大きな成果を上げたことは確かである。

 重要なのは、映画と本が互いの存在を知らせる役割を果たすようになったことである。横溝正史の小説を読んでいた人は映像化された作品に関心を持ち、映画から横溝作品に出会った人は、ほかの小説にも手を伸ばす可能性が生まれた。映画館と書店が別々の娯楽や文化の場所でありながら、一つの作品を通じて結びつくようになったのである。

映画そのものだけでなく、公開を待つことも楽しみになった

 『犬神家の一族』の成功後、角川映画は次々と大作を送り出した。1977年には『人間の証明』、1978年には『野性の証明』、1979年には『戦国自衛隊』と『蘇える金狼』、1980年には『復活の日』が公開された。推理映画、社会派サスペンス、アクション、科学的な想像を取り入れた作品など、そのジャンルは幅広く、角川映画が特定の種類の映画だけを製作していたわけではなかったことが分かる。

 これらの作品に共通していたのは、内容や出演者だけでなく、公開前から作品の存在を広く知らせようとする積極的な宣伝だった。テレビのコマーシャル、新聞広告、映画雑誌、書店のポスターなどを通じて作品の題名や印象的な場面が紹介され、観客は実際に映画を見る前から、その作品について何らかのイメージを持つことができた。角川映画の宣伝は、映画そのものを知らせるだけでなく、公開までの期待感を高める役割も果たしていたと考えられる。

 現在では映画の予告編や出演者の情報をインターネットで容易に確認でき、公開前の評判も短時間で調べられる。しかし、1970年代から1980年代前半の一般的な観客にとって、映画の情報に接する機会はテレビ、新聞、雑誌、ラジオなどに大きく依存していた。そのため、テレビで偶然見た宣伝や、書店に掲示されたポスター、映画雑誌の特集などが、新作を知る重要なきっかけになっていた。

 もっとも、当時の人々が角川映画の公開をどの程度楽しみにしていたのか、ほかの映画と比べて期待感がどれほど高かったのかについて、十分な統計資料があるわけではない。それでも、繰り返し行われる宣伝と、書籍や音楽を組み合わせた販売促進が、新作への関心を継続させる仕組みになっていたことは合理的に説明できる。角川映画は、映画を見終えた後だけでなく、公開を知ってから映画館へ足を運ぶまでの時間にも、商品としての価値を生み出そうとしていたのである。

大作映画から若いスターを中心とする時代へ

 角川映画の歴史を考えるとき、1970年代後半の作品と1980年代前半の作品を、まったく同じ性格のものとして扱うことは適切ではない。初期には『犬神家の一族』『人間の証明』『野性の証明』など、幅広い観客を想定した大作が中心だったが、1980年代に入ると、若い俳優の魅力を前面に出した作品が存在感を増していった。もちろん、両者の間に明確な境界線があったわけではないものの、角川映画の性格が変化していったことは重要である。

 その変化を象徴する存在が、薬師丸ひろ子だった。1978年の『野性の証明』のオーディションをきっかけに映画デビューした薬師丸は、1981年の『セーラー服と機関銃』で主演を務め、大きな人気を獲得した。同作品では薬師丸自身が歌った同名の主題歌もヒットし、映画の成功と出演者の人気、音楽の売上が重なり合う現象が注目された。

 『セーラー服と機関銃』が興味深いのは、映画の題名を聞いたとき、物語だけでなく、薬師丸ひろ子の姿や歌声まで一緒に思い出す人がいることである。映画の出演者が主題歌を歌い、その音楽が映画館以外の場所でも繰り返し流れることで、作品に接する機会は広がっていく。映画を見ていない人でも主題歌を知っている場合があり、音楽をきっかけに映画への関心を持つことも考えられる。映画と音楽が別々の商品でありながら、同じ作品の印象を強める役割を果たしていたのである。

 1983年には、原田知世が主演した大林宣彦監督の『時をかける少女』が公開された。筒井康隆の小説を原作とするこの作品も、映画、原作、主題歌、若い主演俳優の魅力が結びついた角川映画の代表例となった。同じ年には薬師丸ひろ子主演の『探偵物語』や『里見八犬伝』も公開され、翌1984年には『Wの悲劇』が登場する。これらの作品は、それぞれ内容や表現方法が異なりながらも、1980年代前半の角川映画を印象づける存在となった。

 角川映画は、すでに人気を確立した俳優を出演させるだけではなく、映画を通じて新しいスターを世に送り出す役割も担った。もっとも、スターの誕生をすべて映画会社の販売戦略の成果と考えることはできない。俳優自身の演技力や個性、監督の演出、作品の内容、当時の社会的な流行などが組み合わさって人気が形成されたと考える方が自然である。角川映画の特徴は、そうして生まれた人気を映画だけに閉じ込めず、音楽や出版などへ広げる仕組みを持っていたことだった。

角川文庫が映画と日常生活を結びつけた

 角川映画を文化現象として理解するには、映画館だけでなく、当時の書店や文庫市場にも目を向ける必要がある。1970年代の出版業界では文庫本の競争が活発になり、講談社文庫、中公文庫、文春文庫などが相次いで創刊された。文庫本は単行本に比べて比較的安価で、持ち運びやすく、限られた小遣いや生活費の中で本を購入する学生や若い社会人にも利用しやすい商品だった。

 角川書店は、こうした文庫市場の中で映画との連動を強め、作品の認知度を高める方法を展開した。映画を見た後で原作に興味を持ち、書店で文庫本を探す人がいた一方、先に原作を読んだ人が映画化をきっかけに映画館へ足を運ぶこともあったと考えられる。映画の公開に合わせて原作本を目立つ場所へ並べることは、映画に関心を持った人が書籍を見つけやすくなるという点で、販売上も合理的な方法だった。

 映画館で作品を見る体験と、文庫本を読む体験には違いがある。映画は決められた上映時間の中で映像と音楽を受け取るが、本は読む場所や時間を自分で選べる。通学や通勤の電車の中、学校や大学、喫茶店、自宅など、さまざまな場所で作品の世界に触れることができる。映画館で数時間楽しんだ物語を、文庫本という形で日常生活の中へ持ち帰ることができたのである。

 ただし、当時の若者の何%が角川文庫を購入していたのか、映画を見た人のうち何%が原作も読んでいたのかについては、個別の調査が必要である。そのため、角川文庫を持つこと自体が若者全体の流行だったと断定することは難しい。それでも、映画と文庫本を結びつけた販売戦略によって、作品が映画館の外でも人々の生活に接する機会を増やしたことは、角川映画の文化的な広がりを考えるうえで見逃せない。

商業的成功を支えた仕組みと、その限界

 角川映画の販売戦略には、経営上の合理性があった。一つの作品を映画だけで販売するのではなく、原作小説、主題歌、出演者の人気、広告などを結びつけることで、複数の商品や媒体が互いの認知度を高める可能性が生まれる。映画の宣伝が原作本の販売を後押しし、書籍の読者が映画に関心を持つようになれば、企業はそれぞれの商品を独立して販売する場合とは異なる効果を期待できる。

 ただし、この仕組みがどの程度の売上増加を生んだのかを数値で確定することは容易ではない。例えば、ある映画の公開時期に原作本の売上が増えたとしても、その増加が映画の影響によるものなのか、広告費の増加によるものなのか、作家の人気や社会的な流行によるものなのかを区別する必要がある。厳密な分析には、映画が公開されなかった場合の売上を推定し、実際の売上と比較するような方法が求められる。

 さらに、角川映画の成功を日本の映画市場全体の成長と同一視することにも注意が必要である。日本映画製作者連盟の統計によると、国内の映画館入場者数は1976年の約1億7,100万人から、1986年には約1億6,100万人へと減少している。この間には入場者数が増加した年もあったが、映画市場が一貫して拡大していたわけではなかった。したがって、角川映画のヒット作品が相次いだことは、日本の映画市場全体が成長していたことを意味しない。

 むしろ、映画館への入場者数が長期的には伸び悩む環境の中で、出版、音楽、広告などを組み合わせた事業を展開した点に、角川映画の経営上の特徴があったと考えられる。個々の作品の採算性や宣伝費の回収状況まで検証しなければ、すべての映画が事業として成功したとは言えないものの、映画と出版を組み合わせるという発想が、その後の日本の娯楽産業を考えるうえで重要な先例となったことは確かである。

なぜ角川映画には青春の記憶が残るのか

 角川映画を振り返るとき、興味深いのは、作品のすべてが青春映画だったわけではないことである。『犬神家の一族』は推理映画であり、『人間の証明』は社会派サスペンス、『戦国自衛隊』は異色のアクション映画、『復活の日』は人類規模の危機を描いた作品だった。それにもかかわらず、これらの作品を含めた角川映画の時代そのものを、自分の青春時代と重ね合わせて語る人がいる。

 その理由を考えるうえで重要なのは、映画の中で青春が描かれていたかどうかだけではなく、その映画に接していた人自身が何歳だったかということである。中学生や高校生として映画を見た人もいれば、大学生や就職したばかりの社会人として角川映画に親しんだ人もいただろう。映画を見るために友人と街へ出かけ、上映後に喫茶店で感想を話し、帰りに書店やレコード店へ寄る。そのような経験があった人にとって、映画の記憶は作品の内容だけでなく、当時の人間関係や生活環境とも結びついている。

 こうした現象は、認知心理学の研究とも整合する。自分自身の人生経験に関する記憶を調べると、青年期から成人初期に経験した出来事が、後年になって比較的多く思い出される傾向があることが知られている。これはレミニセンス・バンプと呼ばれる現象であり、研究によって年齢範囲に違いはあるものの、おおむね10代から20代頃の経験が、長期的な自伝的記憶の中で重要な位置を占めることが示されている。

 さらに、音楽や映画が過去の個人的な記憶を呼び起こすことも、心理学の研究対象となっている。若い頃に繰り返し聴いた曲や見た映像に接すると、その作品だけでなく、当時の場所や人間関係、感情まで思い出される場合がある。角川映画の場合、映画の題名、出演者の姿、主題歌、原作の表紙などが同じ作品に結びついていたため、後年になってそれらの一つに接することが、当時の生活を思い出すきっかけになった可能性がある。

 ただし、こうした心理学的な現象は角川映画だけに特有のものではない。同じ時代に親しんだ音楽やテレビ番組、ほかの映画についても同様の記憶が生まれると考えられる。したがって、角川映画が他の作品以上に青春の記憶を呼び起こすとまでは断定できない。それでも、映画、音楽、出版、スターの人気が重なっていたことが、一つの作品から複数の記憶へとつながる機会を生み出していたという見方には、十分な合理性がある。

「メディアミックス」という言葉だけでは説明できない魅力

 角川映画は、日本のメディアミックスを語るうえで重要な事例である。しかし、映画と原作小説を結びつけたり、映画の主題歌を販売したりする方法そのものを角川映画が初めて考案したわけではない。以前から存在していた複数の販売方法を、出版社が中心となって大規模かつ継続的に組み合わせ、作品の宣伝と販売を一体化させた点に、その独自性があった。

 こうした仕組みは、現在の映画、アニメーション、ゲーム、音楽などの事業にも通じる。一つの作品を複数の媒体で展開することによって、作品との接点を増やし、長期間にわたって関心を維持するという考え方である。ただし、現在のメディアミックスには多様な方式があり、そのすべてが角川映画から直接生まれたと説明するのは適切ではない。角川映画は、その後に広く発展していく事業手法の重要な先行例の一つとして位置づけることができる。

 一方、映画が人々の記憶に残る理由を販売戦略だけで説明することにも限界がある。宣伝がどれほど大規模であっても、それだけで長く語り継がれる作品が生まれるとは限らない。市川崑、佐藤純彌、深作欣二、相米慎二、大林宣彦といった監督たちが、それぞれ異なる表現方法で作品を作り上げ、出演者たちが人物の魅力を映像の中で伝えたことも重要だった。映画そのものに観客を引きつける力があったからこそ、宣伝や主題歌、原作小説との連動も意味を持ったのである。

 薬師丸ひろ子や原田知世の人気についても、映画会社が宣伝によって生み出したという説明だけでは不十分だろう。二人の個性や演技、歌声、出演した作品の魅力などが組み合わさり、当時の観客に受け入れられていったと考える必要がある。角川映画の事業戦略は、その魅力を多くの人へ届ける仕組みとして機能したのであって、作品や出演者が持つ価値そのものに代わるものではなかった。

私たちは映画だけを見ていたのではなかった

 1976年の『犬神家の一族』から1986年頃までの約10年間は、初期角川映画の発展を振り返るうえで、一つの重要な時期として捉えることができる。中川右介の著書『角川映画 1976-1986 日本を変えた10年』も、この期間を対象に角川映画の歴史を整理している。実際には、その後も角川映画の製作は続いており、事業の歴史が1986年で終わったわけではない。それでも、この約10年間に数多くの代表作が集中していることは、日本の映画史や出版史を考えるうえで注目に値する。

 では、なぜ角川映画は当時の若者を惹きつけ、現在も一部の世代に強い印象を残しているのだろうか。映画そのものが面白かったこと、出演者に魅力があったこと、主題歌が親しまれたこと、広告によって作品が広く知られたこと、原作小説を通じて作品の世界に触れる機会が増えたことなど、複数の要因が考えられる。ただし、どの要因が最も重要だったかを統計的に順位づけるだけの資料があるわけではなく、世代や個人によっても、その受け止め方は異なっていたはずである。

 それでも、角川映画の時代を振り返るとき、もう一つ考えてみたいことがある。それは、次の作品が公開されるまでの期待そのものが、楽しみの一部になっていたのではないかということである。今度はどんな映画が作られるのか、誰が主演するのか、どのような主題歌が流れるのか、原作はどんな小説なのか。そうした関心がテレビや雑誌、書店、レコード店を通じて少しずつ広がり、人々が映画館へ向かう理由の一つになっていたと考えられる。

 現在では、映画の情報を調べることも、原作を購入することも、音楽を聴くことも、一台のスマートフォンから行えるようになった。もちろん、今でも映画館や書店、音楽を扱う店は存在しており、街の中で文化を楽しむ行動がなくなったわけではない。しかし、1970年代後半から1980年代にかけては、それぞれの文化に接するために、異なる場所や媒体を利用する機会が現在より多かった。映画館で作品を見て、書店で原作を探し、レコード店で主題歌を手に取るという行動には、街を移動しながら作品との接点を増やしていく楽しみもあったのだろう。

 数十年後に角川映画の題名を目にしたとき、映画の場面だけでなく、当時の書店や映画館、レコード店、友人と歩いた街並みまで思い出す人がいるとすれば、それは映画が個人の生活経験と深く結びついていたからではないだろうか。映画の記憶とは、映像の中に描かれた物語だけで成立するものではない。その作品を何歳のときに見たのか、誰と一緒にいたのか、どのような暮らしをしていたのかという、自分自身の人生の記憶とも重なり合っている。

 角川映画が若者を惹きつけた時代とは、映画、出版、音楽、広告が大規模に結びついた時代であると同時に、それらが人々の日常生活の中で、さまざまな場所や経験を通じて受け止められていた時代でもあった。角川映画が現在も語られる理由は、商業的な成功や話題性だけにあるのではない。映画をきっかけに本を読み、音楽を聴き、友人と語り合った経験が、それぞれの人生のある時期と結びついていることにもあるのだろう。

 私たちは、映画だけを見ていたのではなかった。映画を通じて新しい物語や音楽、人々の姿に触れ、その時代の空気を感じながら、自分自身の青春を過ごしていたのである。

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本を読む人間として始まったわけではなかった

振り返ってみると、私は幼い頃から本ばかり読んでいた子どもではない。

小学生の頃に読んだ本といえば、学校から指定された課題図書が中心だった。夏休みになると、感想文を書くために本を読む。自分から書店へ行き、棚の中から一冊を探し出して読むというより、まず読むべき本が先に決められていた。

課題図書には、子どもが自分では選ばない本に触れられるという意味がある。しかし、当時の私にとって、読書はまだ自発的な楽しみというより、学校生活の一部だった。

本を読めば、読書感想文を書かなければならない。

何を感じたのか、どこが印象に残ったのかを、原稿用紙の升目に合わせて書く。実際に深い感動があったかどうかより、感想として成立する文章を作ることの方が先にあったようにも思う。

私は、最初から読書家だったわけではない。

後年の自分から過去を振り返り、幼い頃から文学に親しんでいたように話を整えることもできる。しかし、それは正確ではない。

私の読書は、課題として与えられた本を読むところから始まった。

文学は、まだ遠くにあった。

中学生の私が読んだ『天声人語』

中学生になると、新聞の『天声人語』を読むようになった。

『天声人語』は、朝日新聞の朝刊に掲載されてきたコラムで、その起源は1904年にさかのぼる。掲載が中断された時期や名称の変遷はあるものの、長く日本の新聞コラムを代表する存在の一つとして読まれてきた。

中学生の私は、その長い歴史を意識して読んでいたわけではない。

一回の文章は長すぎず、時事問題、社会、歴史、文化、季節の話題などが、限られた文字数の中でまとめられていた。学校の教科書とは違い、その時に社会で起きていることが文章の題材になっていた。

一つの出来事から別の話題へ移り、最後には最初の話へ戻ってくる。短い文章の中に引用や比喩が置かれ、時事的な事実と書き手の見方が組み合わされる。

その論調にいつも賛成していたわけではない。

当時は、賛成や反対を明確に判断できるほど、政治や社会を理解してもいなかった。それでも、出来事をただ知らせる新聞記事とは異なり、出来事をどう読み、どのような言葉で捉えるかという文章の働きを知った。

小学生の頃、文章は課題図書の感想を書くためのものだった。

中学生になると、文章は社会について考えるためのものになった。

文学を読む前に、私は新聞の短いコラムを通じて、文章の形に触れていたのである。

後になってブログで政治、経済、地域社会、文化について書くようになったことを考えると、この時期の経験は小さくなかったのかもしれない。

一つの出来事だけを孤立させず、その背景や別の問題とのつながりを考える。短い話題から、より大きな社会を見ようとする。

その方法を、十分に自覚しないまま『天声人語』から学んでいたように思う。

高校生になって、ようやく文学へ入った

私が本格的に文学を読むようになったのは、高校生になってからである。

太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成。

日本文学の名著と呼ばれる作品を、少しずつ読むようになった。

学校の授業や文学史の中では、彼らはすでに評価の定まった作家だった。しかし、高校生の私は文学史上の位置づけを確認するためだけに読んでいたのではない。

むしろ、なぜこれほど多くの人が読み続けているのかを知りたかった。

太宰治の作品には、人間の弱さや自己嫌悪、他人からどう見られるかという不安が、隠されずに書かれていた。

三島由紀夫の文章には、美しさと緊張感があり、その思想や人生を十分に理解できなくても、言葉そのものに強い力を感じた。

芥川龍之介の作品は比較的短いものが多かったが、その短さの中に、人間の利己心、矛盾、不安、残酷さが凝縮されていた。

川端康成の作品では、説明し尽くされない感情や、情景の背後に残る沈黙が印象に残った。

もちろん、高校生の私が、これらの作品を深く理解していたとは思わない。

年齢を重ねてから読み返せば、当時は見えていなかったものが多くあるはずだ。

しかし、文学はすべてを理解してから読むものではない。

よく分からない部分があっても、言葉や場面だけが記憶に残ることがある。作品全体の意味はつかめなくても、そこに自分の日常とは違う世界が存在することは感じられる。

高校生の私にとって文学は、知識として理解する対象というより、まだ自分では言葉にできない感情に触れる場所だった。

新潮文庫と角川文庫の棚

当時の読書を思い出すと、個々の作家だけでなく、新潮文庫や角川文庫の存在を抜きにすることはできない。

新潮文庫の歴史は古く、最初の創刊は1914年で、ドイツのレクラム文庫にならい、海外の名著を一般読者へ普及させる意図を持って始められた。戦後には昭和文学を中心とする文庫として再出発している。

角川文庫は1949年に創刊され、第1回配本にはドストエフスキーの『罪と罰』が含まれていた。1950年には現在につながる小型の判型へ改められ、戦後の文庫本普及に大きな役割を果たした。

しかし、高校生だった私が、そのような出版史を考えて文庫本を選んでいたわけではない。

書店の棚に並んでいる本を見て、題名、作家名、表紙、裏表紙の紹介文などを手掛かりに選んだ。

文庫本は単行本よりも小さく、比較的購入しやすかった。

一冊を鞄に入れて持ち歩くことができる。読んだ本を本棚に並べれば、自分がどのような本を読んできたのかが背表紙によって見える。

現在では、検索すれば作品のあらすじも評価もすぐに分かる。読者の感想を読み、内容を比較してから購入できる。

当時は、店頭で偶然目に入った本を手に取ることが多かった。

よく知らない作品を買い、読み始めてから、自分に合うかどうかを知る。

外れることもあった。

最後まで読めない本もあった。

それでも、書店の棚には、自分がまだ知らない考え方や人生が無数に並んでいるように見えた。

名著と同時代の文学を一緒に読む

高校生の頃に読んだのは、近代日本文学の名著だけではなかった。

当時読まれていた片岡義男や三田誠広の作品も手に取った。

文学の読書歴を語るとき、後世に評価された名作だけを並べると、実際の読書生活とは違うものになる。

現実の読書は、文学史の順番には進まない。

太宰治を読んだ次に、片岡義男を読む。

芥川龍之介の短編を読んだ後で、当時書店に並んでいた現代小説を読む。

古典的な作品と流行している作品が、同じ読者の中で混ざり合う。

片岡義男の小説には、車やオートバイ、音楽、男女の関係、都市的な生活など、当時の若者にとって新しく見える世界があった。

日本を舞台にしながら、どこかアメリカ文化の影響を感じさせる軽さや映像的な感覚があった。

太宰や三島とは違う。

しかし、違うからこそ読んだ。

文学には重い人生論や苦悩だけでなく、時代の空気、生活様式、会話、服装、乗り物、音楽なども含まれる。

三田誠広は、1977年に『僕って何』で第77回芥川賞を受賞している。自己とは何かという問いを題名そのものに掲げた作品が、当時の若い世代の感覚と重なる時代だった。

私は、後世に残る作品だけを選別して読んでいたのではない。

その時代に生きながら、その時代に売られ、その時代に話題になっている本を読んでいた。

それは、昭和という時代を、文学を通じて同時進行で読むことでもあった。

フランス文学とロシア文学で立ち止まる

日本文学を読むようになると、次第に海外文学にも関心が向いた。

フランス文学やロシア文学にも挑戦した。

しかし、ここで私の読書が順調に広がったわけではない。

途中で挫折した作品も少なくなかった。

海外の名作は、題名も作家名もよく知られている。文学を読むのであれば、一度は通らなければならないようにも感じられた。

ところが、実際にページを開いてみると、簡単には入っていけない。

国の歴史、社会階級、宗教、政治、家族制度、恋愛観など、日本の高校生にはなじみの薄い背景がある。

登場人物の名前を覚えるだけでも苦労することがある。特にロシア文学では、一人の人物が複数の呼び名で呼ばれることがあり、物語の関係を追うだけでも集中力を要した。

長編作品では、物語がすぐに動くとは限らない。

人物の思想や社会状況について長い記述が続く。読んでいる間は理解したつもりでも、少し間を置くと誰が誰だったのか分からなくなる。

文学史上の名作であることと、当時の自分が読み通せることは別問題だった。

フランス文学にも同じ難しさがあった。

洗練された恋愛や心理を描いた作品であっても、その背後には階級社会や当時の道徳、宗教、結婚制度がある。

言葉だけを追っても、人物がなぜそのように行動するのかを十分に理解できない。

私は、名作だから読めるのではなく、読む側にも経験や背景知識が必要なのだと知った。

最後まで読めなかった本は、読書歴の失敗として忘れられがちである。

しかし、挫折したこともまた読書の一部である。

本には、読むのに適した時期がある。

高校生の自分には難しかった本が、成人してから読むと理解できることもある。反対に、若い時に強く響いた作品が、後年にはそれほど響かないこともある。

読書は、作品だけで決まるものではない。

読む人間の年齢、経験、知識、生活状況によって変わる。

高校生には難しかったスタンダール『恋愛論』

フランス文学の中でも、特に記憶に残っているのが、スタンダールの『恋愛論』である。

スタンダールは『赤と黒』『パルムの僧院』などで知られるフランスの作家である。『恋愛論』は1822年に刊行され、恋愛を心理、社会、文化、階級など複数の面から考察した作品である。恋愛によって相手を理想化していく精神の働きを「結晶作用」と表現したことでも知られている。

私は、この本を高校生の頃に読もうとした。

題名だけを見れば、恋愛について説明した本である。

高校生にも身近な題材のように思える。

しかし、実際には簡単な恋愛指南書ではなかった。

人はなぜ恋をするのか、恋する相手をどのように理想化するのか、恋愛と虚栄、社会、身分、習慣がどのように結びついているのか。

その分析は抽象的で、歴史的・社会的背景も含んでいた。

当時の私には難しかった。

文章を追っても、スタンダールが何を分類し、何を証明しようとしているのか、十分には理解できなかった。

恋愛という題材を扱っているのだから、感情的に分かりやすい本だろうと思っていた。しかし、そこで論じられていたのは、単純な恋の喜びや悲しみではない。

恋愛を観察し、分類し、心理の働きとして分析する文章だった。

高校生の私は、恋愛についての経験も、当時のヨーロッパ社会についての知識も乏しかった。

恋愛における理想化や虚栄といわれても、それを自分の経験と結びつけることができない。

名著とされる本を手に取ったものの、読み進めるほど、自分の理解が追いついていないことを感じた。

私は途中で挫折した。

しかし、『恋愛論』を読み通せなかったことは、不思議に記憶に残っている。

容易に読めた本よりも、歯が立たなかった本の方が、後になって思い出されることがある。

それは、自分の外側に、まだ理解できない広い世界があることを知らせるからだろう。

高校生の私には、『恋愛論』は早すぎた。

けれども、早すぎる本に出会ったこと自体には意味があった。

本は、いつでも読者に合わせて分かりやすく書かれているわけではない。

理解できない文章に出会い、自分の知識や経験の不足を知ることも読書なのである。

雑誌によって社会へ出ていく

小説や文庫本とともに、『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』などの雑誌も読んだ。

これらは性格の異なる媒体だった。

『朝日ジャーナル』は1959年に創刊され、1992年まで発行された週刊誌で、報道、解説、評論を掲げ、戦後日本の政治、社会、思想を論じる媒体の一つだった。

『文藝春秋』は菊池寛が1923年に創刊した月刊総合誌で、文学だけでなく政治、社会、人物論、座談会などを広く扱ってきた。創刊号には芥川龍之介や川端康成らも寄稿している。

『サンデー毎日』は1922年4月2日に創刊され、『週刊朝日』と並ぶ日本の初期の週刊誌の一つである。

私は、それぞれの雑誌を体系的に比較研究していたわけではない。

小説とは異なる文章を読みたかった。

政治、社会、文化、事件、教育、人間について、新聞記事よりも長く、書籍よりも早く論じる文章が雑誌にはあった。

雑誌には、その時代の熱があった。

後から歴史書を読めば、出来事の原因と結果が整理されている。しかし、その時代に発行された雑誌では、まだ結論が出ていない問題が扱われている。

何が正しいのか分からない。

社会がどこへ向かうのかも分からない。

書き手の主張には偏りもある。

しかし、未確定な時代の中で、人々が何を問題だと考えていたのかが見える。

文学が人間の内面を読むものだとすれば、雑誌は、その人間が生きている社会を読むものだった。

私は、小説から社会へ、社会からまた小説へと行き来するようになった。

学生時代には理系雑誌へ

学生時代になると、読むものは理系雑誌へ広がった。

文学から理系へ転向したというより、関心の対象が増えたといった方が正確だろう。

文学は、人間の感情や行動を言葉によって描く。

理系雑誌は、自然、技術、医学、数学、機械などの仕組みを説明する。

一見すると、この二つは遠く離れている。

しかし、私にとっては、どちらも知らない世界を文章によって理解しようとする行為だった。

文学作品を読むときには、登場人物がなぜそのように考え、行動したのかを追う。

科学や技術の記事を読むときには、現象がなぜ起こり、どのような仕組みで成り立っているのかを追う。

対象は違っても、「なぜ」を考えることは共通している。

学生時代の読書では、楽しみだけでなく、学習や専門知識の獲得という性格が強くなった。

分からない用語を調べる。

図や数式を読み直す。

一度では理解できない説明を、前のページへ戻って確認する。

フランス文学やロシア文学で感じた「分からなさ」と、理系雑誌で感じる「分からなさ」は性質が違う。

しかし、理解できない文章の前で立ち止まるという経験は同じだった。

文学での挫折も、無駄ではなかったのかもしれない。

成人してから、ジャンルの境界がなくなった

成人してからは、特定のジャンルに限らず、あらゆる分野の本を広く読むようになった。

文学、政治、経済、歴史、科学、医学、宗教、社会問題、資格、技術、実用書。

仕事や生活の中で必要になった本もあれば、純粋な関心から読んだ本もある。

高校生の頃には、文学を読むことに、一種の背伸びがあった。

名著を読まなければならない。

有名作家を理解しなければならない。

難しい本を最後まで読まなければならない。

成人後は、そのような義務感が少し薄れた。

必要な本を読む。

関心を持った本を読む。

難しければ、関連する入門書を先に読む。

途中で読むのをやめることもある。

一冊の本をすべて理解しなくても、必要な部分から何かを得ることができる。

読書に対する考え方が柔軟になった。

一方で、広いジャンルを読むことには問題もある。

一つの作家を長く追い続けることが難しくなる。

次々に別の分野へ関心が移り、知識が断片化する。

文学作品をゆっくり味わうより、必要な情報を探す読み方が増える。

多くの本を読んでも、それぞれの内容が深く残るとは限らない。

広く読むことと深く読むことは、必ずしも両立しない。

それでも、さまざまな分野を横断して読むことで、一つの問題を一つの視点だけで見ない習慣が生まれた。

医療の問題には、医学だけでなく、経済、倫理、家族、制度が関係する。

地域社会の問題には、人口、交通、産業、行政、教育、文化が関係する。

人間の生活は、学問の分類どおりには分かれていない。

文学、科学、社会、実用の本を分けずに読んできたことは、複数の視点を結びつける基礎になったと思う。

昭和の読書は、書店と紙の中にあった

昭和の読書を思い返すと、本に出会う場所は限られていた。

書店、図書館、学校、新聞広告、雑誌の書評、友人や教師の紹介。

自分が知らない本は、存在しないのと同じだった。

現在のように、作家名を検索すれば著作一覧が出てくるわけではない。読者の感想や評価をすぐに読めるわけでもない。

地方では、書店に置かれる本の種類にも限界があった。

取り寄せには時間がかかる。

外国文学の背景を知りたいと思っても、関連資料を簡単に集めることはできない。

その不便さを美化する必要はない。

情報が少ないために、理解できないまま終わった本もあったはずである。

スタンダールの『恋愛論』も、現在なら作品解説、時代背景、「結晶作用」の意味などを調べながら読むことができる。

高校生だった当時は、難しいと感じても、その難しさを解くための手掛かりを簡単には得られなかった。

しかし、情報が少なかったからこそ、一冊の本を長く手元に置くこともあった。

分からなくてもページをめくる。

途中でやめても、本棚に残しておく。

何年か後に、もう一度開く。

本は、すぐに答えを出す道具ではなく、理解できないまま自分のそばに存在するものでもあった。

平成、本を探す方法が変わった

平成になると、読書を取り巻く環境は大きく変化した。

大型書店が増え、書店の品ぞろえは広がった。

やがてインターネットが普及し、書名や作家名を検索して本を探せるようになった。オンライン書店を使えば、近くの書店にない本も購入できる。

昭和には「本が見つからない」ことが問題だった。

平成以降は、「本が多すぎて選べない」ことが問題になった。

書評や読者の感想を読んでから購入できるようになったことは便利だった。

一方で、他人の評価を先に知ることによって、自分だけの印象で作品と出会う機会は減ったかもしれない。

作品のあらすじを詳しく知りすぎれば、読む前から理解したような気持ちになることもある。

情報が増えれば、読書が必ず深くなるわけではない。

選択肢の増加は、一冊の本へ集中する時間を奪うこともある。

平成の読書は、入手の自由を広げると同時に、注意を分散させる時代でもあった。

令和、読む側から書く側へ

令和の現在、文章を読む環境はさらに変わった。

紙の本だけでなく、電子書籍、ウェブ記事、電子資料、個人ブログなど、さまざまな形で文章を読める。

スマートフォン一台で、多くの文章へ接続できる。

そして、読むだけでなく、個人が文章を公開することも容易になった。

私はいま、自分が読んできた本、使ってきた機械、聴いてきたラジオ、暮らしてきた時代について文章を書いている。

小学生の頃、課題図書を読んで感想文を書くことから始まった。

中学生では『天声人語』を読んだ。

高校生では太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介、川端康成を読み、片岡義男や三田誠広を読んだ。

新潮文庫と角川文庫の棚を眺めた。

フランス文学やロシア文学に挑み、途中で挫折した。

スタンダールの『恋愛論』は難しく、最後まで十分には理解できなかった。

『朝日ジャーナル』『文藝春秋』『サンデー毎日』から社会を読んだ。

学生時代には理系雑誌を読み、成人してからは、ジャンルを限定せず幅広い本を読んだ。

そして今度は、自分が文章を書く側にいる。

もちろん、読むことと書くことは同じではない。

多くの本を読んだからといって、優れた文章を書けるとは限らない。

しかし、これまで読んだ文章は、自分の中に残っている。

文章のリズム。

場面の始め方。

一つの事実から考えを広げる方法。

人間を簡単に善悪で決めつけない視点。

理解できないものを、理解できないまま抱えておく姿勢。

それらは、一冊の本から直接教えられたものではない。

長い読書の中で、少しずつ形づくられたものだと思う。

読み通せなかった本も、読書遍歴に含まれる

読書歴を語るとき、人は読み終えた本を並べたくなる。

何を読破したか。

どの作家を理解したか。

どれほど難しい本を読んだか。

しかし、本当の読書遍歴は、もっと不完全なものである。

読み始めたまま、途中でやめた本がある。

内容をほとんど覚えていない本がある。

当時は感動したのに、なぜ感動したのか説明できない本がある。

難しくて理解できなかった本がある。

読み終えたつもりでも、実際にはほとんど分かっていなかった本もある。

フランス文学やロシア文学での挫折も、スタンダールの『恋愛論』を読み通せなかったことも、私の読書遍歴から除く必要はない。

むしろ、そこで初めて、本には自分の理解を超えるものがあると知った。

すべてを理解できると思うことの方が危うい。

文学は、簡単に答えを与えるものではない。

人間の感情や社会は複雑で、一度読んだだけでは理解できない。

年齢を重ねても、完全に理解できるとは限らない。

だからこそ、もう一度読む意味がある。

三つの時代を通じて残ったもの

昭和、平成、令和を通じて、読書の環境は大きく変わった。

昭和には書店の棚から本を選び、紙の文庫本を持ち歩いた。

平成にはインターネットで本を探し、遠くの書店やオンライン書店から購入できるようになった。

令和には電子書籍やウェブ上の文章を読み、自分自身もブログや電子書籍を通じて文章を発表できる。

本の形は変わった。

本を探す方法も変わった。

読む速度や、文章へ向き合う時間も変わった。

それでも、人が文章を読む理由の根本は、それほど変わっていないのかもしれない。

自分とは違う人生を知りたい。

自分の中にある感情を言葉にしたい。

世界がどのようにできているのかを知りたい。

過去の人が何を考えていたのかを知りたい。

自分が一人ではないことを確かめたい。

文学は、人生の問題を解決してくれるわけではない。

病気、仕事、家族、孤独、老いといった現実は、本を読んだだけで消えるものではない。

しかし文学は、自分だけが抱えていると思っていた感情が、別の時代、別の国、別の人間にも存在していたことを教えてくれる。

答えを与えるというより、問いに言葉を与えてくれる。

それが文学の役割なのだと思う。

課題として始まった読書が、人生の一部になるまで

小学生の頃、私は課題図書を読む程度だった。

その時点では、読書がその後の人生にこれほど長く関わるとは思っていなかった。

中学生で新聞のコラムを読み、高校生で文学に出会った。

名著を読み、流行作家を読み、文庫本を買った。

外国文学に挑み、挫折した。

雑誌を読み、社会へ関心を広げた。

理系雑誌を読み、自然や技術の仕組みを知ろうとした。

成人してからは、ジャンルを越えて本を読んだ。

振り返れば、読書の対象は変わり続けている。

しかし、知らないものを文章によって知ろうとする姿勢は変わっていない。

読み終えた本だけが、自分を作ったのではない。

理解できなかった本も、途中で閉じた本も、書店で手に取っただけの本も、自分の中に何らかの痕跡を残している。

高校生には難しかったスタンダールの『恋愛論』も、その一冊である。

内容を十分に理解できなかった。

それでも、理解できない本が世界には存在することを教えてくれた。

そして、いつかもう一度開けば、当時とは違うものが見えるかもしれないと思わせた。

課題として始まった読書は、やがて自分から本を選ぶ読書になり、社会を知る読書になり、専門を学ぶ読書になった。

そして令和の今、それは、自分が生きてきた時代を文章として残すための読書へつながっている。

昭和に開いた一冊の文庫本も、平成に探した専門書も、令和に読む電子書籍も、すべてが同じ形で記憶に残るわけではない。

けれども、読み終えて本を閉じた後、自分の人生や社会について少し考える時間が残るなら、その読書は無駄ではなかった。

本を読む人間として始まったわけではない私が、長い時間をかけて本を読む人間になった。

それが、昭和、平成、令和を通じた、私の読書遍歴である。

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