リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 平野啓一郎と三島由紀夫を並べると、最初に目につくのは文体である。平野が『日蝕』によって文壇に登場したとき、その古風で濃密な文章から三島由紀夫を連想する読者は少なくなく、実際に平野自身も、十代で『金閣寺』を読んだ経験が文学へ向かう大きな契機になったことを繰り返し語っている。後年には大部の『三島由紀夫論』を書き上げているから、両者を比較すること自体に無理はない。

 しかし、二人を「華麗な文章を書く純文学作家」として並べるだけでは、あまり面白くない。むしろ興味深いのは、三島から強い文学的刺激を受けた平野が、自己とは何かという問題について、最終的には三島とはかなり違う場所へ進んだように見えることである。二人の距離を測るためには、文体よりも「私は誰なのか」という問いを見る方がよい。

 三島には「仮面」があり、平野には「分人」がある。この二つの言葉を並べると、戦後文学から現代文学へ、人間の「自己」をめぐる考え方がどのように変化したのかまで見えてくる。

仮面の下に「本当の自分」はいるのか

 『仮面の告白』という題名からは、本当の自分を隠すために人が仮面をつけているという単純な構図を想像しやすい。ところが三島が描いた世界は、それほど単純ではない。社会に適応するために始めた演技が長く続けば、演じている人格そのものが自分の一部になっていく。仮面を外せば、その下から純粋な「本当の私」が現れるとは限らないのである。

 ここには、今日から見ても古びない自己の問題がある。仕事をしているときの自分、家族といるときの自分、親しい友人といるときの自分、一人でいるときの自分は、必ずしも同じではない。だからといって、会社で礼儀正しく振る舞う自分が偽物で、家で冗談を言っている自分だけが本物だということにもならない。それぞれの場面で現れる人格は違っていても、すべて同じ一人の人間から生じている。

 平野啓一郎の「分人主義」は、この問題をさらに押し進める。平野は、人間の中心に唯一の「本当の自分」があり、その周囲で複数の人格を演じているとは考えない。相手や環境との関係によって生まれる人格を「分人」と捉え、それらをすべて本当の自分だと考える。恋人といるときに現れる自分も、仕事をしているときに現れる自分も、昔の友人と再会したときに現れる自分も、それぞれがその人自身なのである。

 この点だけを見ると、三島の「仮面」と平野の「分人」は意外なほど近い。二人とも、人格の奥深くに一つだけ純粋で透明な「本当の私」が存在するという素朴な自己観に疑問を投げかけているからである。ただし、ここから先で二人の方向は大きく分かれていく。

三島は「一致」を求め、平野は「複数性」を受け入れる

 三島の文学をたどると、内面と外面、思想と行為、言葉と身体のあいだに生じるずれを、そのまま放置できない作家だったことが見えてくる。平野自身も三島論の中で、三島が肉体の一回性や個体性を重視し、認識と行動、思想と人生を一致させようとした問題を論じている。

 この観点から『金閣寺』を読むと、主人公の溝口が金閣について考え続けるだけでは終われず、最後には放火という行為へ進むことにも、一つの筋が見えてくる。美について認識するだけでは世界は変わらず、言葉によって考えたことを行為へ変換しなければならない。もちろん、これは放火という行為を肯定するという意味ではない。重要なのは、三島文学の内部で「考えること」と「行うこと」の距離そのものが重大な問題になっていることである。

 平野は、この地点から別の方向へ進んだように見える。平野の分人主義では、人間が一つの矛盾のない人格へ収束することは必ずしも理想ではない。仕事場の自分と家庭での自分が違っていても、それだけで人格が破綻しているわけではなく、むしろ人間が複数の関係の中で生きている以上、その違いは自然に生じる。

 ここで「三島は一つの自己を完成させようとした」と断定してしまうと、三島文学を単純化しすぎる。より慎重に言えば、三島には、内面と外面、認識と行為、思想と人生の乖離を克服し、それらを一つの生の中で一致させようとする強い志向があった。それに対して平野は、人間が複数の関係の中で異なる人格を持つこと自体を否定せず、むしろその複数性を自己の構造として引き受けようとしているのである。

 同じ「私は誰なのか」という問いから出発しながら、三島は自己の不一致に緊張し、平野は自己の複数性に居場所を与えた。この対照こそ、二人を比較する最も面白い地点の一つだろう。

三島が身体へ向かったとき、平野は関係へ向かった

 三島にとって、言葉だけでは自己を保証できないという問題は次第に大きくなっていった。小説家は勇気について書くことも、美について語ることも、死を描くこともできる。しかし文章を書いている身体は、その間も安全な椅子に座って生きている。言葉で語る自分と、現実の身体として存在する自分との距離は消えない。

 だから三島にとって身体は単なる健康や美貌の問題ではなかった。身体を鍛え、自らを写真にさらし、肉体を一つの表現として提示したことは、言葉の世界だけに存在する作家から、現実の肉体を持つ主体へ近づこうとした試みとして読むことができる。『太陽と鉄』において言葉と肉体の関係が正面から問題になるのも、その延長線上にある。

 一方、平野が自己を考えるときに前面へ出てくるのは、身体そのものよりも他者との関係である。『マチネの終わりに』では、一人の相手と出会ったことによって、それ以前とは異なる自分が生まれる。『ある男』では、名前や戸籍や過去の物語が揺らいだとき、それでもその人物を同じ一人として愛せるのかが問われる。『本心』では、死んだ母を技術によって再現しようとする試みを通じて、最も親しい相手でさえ、その「本心」を完全には知ることができないという他者性が浮かび上がる。

 三島が自己の一貫性を支える場所を、より身体や行為の側へ求めたとすれば、平野はより関係の側から人間を考えている。この違いは決して小さくない。身体は原則として一人に一つしかなく、その人生には取り返すことのできない一回性があるが、関係は複数存在し、新しい関係の中では新しい分人が生まれる可能性があるからである。

「人生の決定版」を求める文学と、過去を書き換える文学

 三島の作品にはしばしば、一回的で決定的な瞬間への強い関心が現れる。美が最も美しく見える瞬間、認識が行為へ転化する瞬間、人間が後戻りできない決断をする瞬間である。そのため三島文学では、「一度きりであること」が独特の緊張を生み出す。

 ただし、三島を「瞬間だけを愛した作家」と決めつけることはできない。『豊饒の海』のように、長い時間、記憶、老い、転生を扱った作品もあり、三島の時間意識はもっと複雑である。それでも、取り返しのつかない行為や人生の一回性が、三島文学で重要な位置を占めていることは否定しにくい。

 これに対して平野の小説では、ある出来事が起きた「あと」で、その意味がどう変化するのかが大きな問題になることが多い。恋愛が思い通りに終わらなかったあと、かつて愛した相手について知らなかった事実を知ったあと、死者の言葉を別の角度から理解したあと、過去そのものは変わらなくても、現在の自分が変化することで過去の意味は書き換えられていく。

 この違いを、「三島は決定的瞬間を愛し、平野はその後を考える」と完全に二分してしまうのは乱暴だろう。しかし、三島が人生の一回性や取り返しのつかない行為に強く引き寄せられたのに対して、平野は出来事の意味がその後の人生によって変化し続けることに、より大きな関心を寄せていると読むことはできる。

 そう考えると、二人の人間観の違いは時間の捉え方にも表れている。三島の作品では、ある瞬間が人生全体を決定してしまうことがあるが、平野の作品では、一度決まったはずの人生の意味が後から変わっていく。人生には最終稿がなく、現在が変われば過去の読み方も変わるという感覚が、平野の小説には強く流れている。

二人とも「私は誰か」を考えすぎる作家である

 ここまで相違点を追ってくると、三島と平野は正反対の作家のように見えてくる。しかし、不思議なことに、正反対だからこそ二人はよく似ている。

 そもそも、人間は日常生活を送るだけなら、「私は誰なのか」をここまで執拗に考える必要はない。朝起きて仕事をし、人と話し、食事をし、眠るだけなら、自己とは何かという問題を毎日問い直さなくても生活は成立する。ところが三島も平野も、その問いからなかなか離れない。

 『仮面の告白』では、社会の中で演じている自己と内面の自己との関係が問題となり、『金閣寺』では、美を認識する自己と現実へ働きかける自己との裂け目が描かれる。さらに『豊饒の海』まで進めば、同じ人物であることを保証するものは身体なのか、記憶なのか、それとも別の何かなのかという、自己同一性そのものの問題が姿を現す。

 平野の場合も、『ドーン』『マチネの終わりに』『ある男』『本心』と作品を追っていけば、別の角度から同じ問いが繰り返されていることに気づく。人は他者との関係によって変化する。それでも同じ人物なのか。過去が嘘だったと分かったとき、その人は別人になるのか。最も愛している人についてさえ理解できない部分が残るのなら、そもそも「本当のその人」とは何なのか。

 二人とも、安定した一つの自己という考えを簡単には信用していない。しかし、そこから導く答えが違う。三島は不一致を強く意識し、その裂け目を身体や行為によって埋めようとする方向へ進んだ。平野は裂け目を消すよりも、人間そのものが複数の関係によって成り立っていると考えることで、その複数性を引き受けようとする。

「仮面」は「分人」になったのか

 三島の「仮面」から平野の「分人主義」が直接生まれた、と考えることには慎重でなければならない。平野の思想には三島だけでは説明できないさまざまな背景があり、両者の間に単純な思想的継承関係を設定する資料的根拠も十分ではない。

 しかし、影響関係を証明するのではなく、二つの人間観を比較するという意味ならば、「仮面」と「分人」を並べることには大きな意味がある。三島の『仮面の告白』では、社会のために始めた演技が本人の一部になってしまうという逆説が描かれる。そこからさらに一歩進めて、「そもそも仮面の奥に唯一の素顔があると考える必要があるのか」と問うたところに、平野の分人主義を置いてみることができる。

 恋人といる自分、仕事をしている自分、親といる自分、昔の友人といる自分を、一枚ずつ偽物の仮面として剥がしていっても、最後に誰にも影響されていない純粋な「本当の私」が現れる保証はない。むしろ人間は、そうした複数の関係によって作られているのではないかというのが、平野の側から見た自己の姿である。

 この地点から振り返ると、三島と平野は同じ問いに対して異なる回答を出した作家として見えてくる。三島は、内面と外面、思想と行為、言葉と身体がばらばらであることに耐え難い緊張を感じ、その一致を求め続けた。平野は、人間がそもそも複数であることを前提に、その複数性のまま生きる方法を考えようとした。

 だから、平野啓一郎が三島由紀夫から受け取った最も重要なものを一つ挙げるとすれば、それは必ずしも華麗な文体でも、美に対する感覚でもなかったのかもしれない。「人間とは、いったい誰なのか」という問いそのものだった、と考えてみることができる。

 三島は、その問いに対して、人生を一つの形へ近づけようとした。平野は、その問いに対して、一つの形に収まらないことこそ人間なのだと考えた。ここに単純な継承関係があるわけではなく、むしろ一方の問いが、別の時代に別の答えを引き出したと見る方が自然である。

 そう考えて『仮面の告白』と『ある男』を並べてみると、時代も物語もまったく違う二つの小説が、遠い場所で同じ問いを交わしているように思えてくる。

 「本当の自分は、どこにいるのか」。

 その問いに対して三島は、一生をかけて一つの答えを形にしようとした。そして平野は、その問いの立て方そのものを変えようとしているのかもしれない。本当の自分を一人だけ探すのではなく、誰かといるときに生まれるいくつもの自分を、そのまま自分として引き受ければよいのではないか、と。

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三島由紀夫について論じるとき、その政治的な言動や晩年の行動が大きく取り上げられることは少なくない。しかし、それらの事柄が強い印象を残しているために、三島が小説家として何を描き、どのような言葉によって文学作品を構築したのかが、十分に検討されないままになることもある。

本稿では、三島由紀夫の政治的な主張や行動、またその最期については扱わない。

それらを軽視するためではなく、考察の対象を意識的に文学作品の内部へ限定するためである。三島由紀夫の小説において、美しいものはどのように描かれているのか。美は登場人物を幸福にするのか、それとも現実から遠ざけるのか。また、人物の容貌や肉体、自然、建築物、季節、恋愛といった要素は、三島の文体によってどのような美へと組み替えられているのか。

こうした問題を、小説の描写、人物造形、物語構造、文体表現に即して考えてみたい。

三島由紀夫を「美の作家」と呼ぶことは難しくない。だが、その言葉だけでは、三島文学の特徴を明らかにしたことにはならない。

三島の小説に現れる美は、必ずしも人を慰めるものではない。人を幸福に導くとも限らない。ときには見る者を圧倒し、劣等感を刺激し、現実との間に越えがたい隔たりを生じさせる。

一方で、『潮騒』のように、肉体、自然、労働、恋愛が一つの調和を形成する作品もある。

三島由紀夫の文学における美は、単純な一つの原理によって説明できるものではない。それは幸福であると同時に不安であり、調和であると同時に緊張であり、現実に存在しながら、現実を超えた観念にもなる。

本稿では、『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』を中心に、三島由紀夫が美をどのように小説の中へ組み込み、その美によって人物の内面や人間関係をどのように描き出したのかを考察する。


第一章 三島由紀夫は本当に「美の作家」なのか

三島由紀夫は、しばしば「美の作家」と評される。

その評価には、いくつかの異なる意味が含まれている。

第一に、三島の小説には、美しい人物、美しい肉体、美しい建築物、美しい自然が数多く登場する。

第二に、その文章自体が、華麗で視覚的であり、精密に構築されている。

第三に、美とは何か、美しいものを前にした人間がどのように変化するのかという問題が、物語の中心に置かれることがある。

したがって、三島を「美の作家」と呼ぶ場合、美しい題材を扱った作家という意味だけでは不十分である。

三島文学において重要なのは、美しいものそのものだけではない。それを見た人間が何を感じ、どのような行動を取り、現実との関係をどのように変化させるかという問題である。

一般に、美しいものは人を喜ばせ、慰め、生活を豊かにすると考えられている。

美術館で絵画を見ること、美しい音楽を聴くこと、自然の風景を眺めることは、人間に安らぎや感動を与える。美は、人間にとって肯定的な価値を持つものとして理解されることが多い。

しかし、三島の小説では、美は必ずしも穏やかなものではない。

美しいものを前にした人物は、しばしば自分自身の醜さ、弱さ、未熟さを意識させられる。美は人間を励ますどころか、現実の自分を否定する力として働くことさえある。

この構造が最も明確に現れる作品が『金閣寺』である。

『金閣寺』では、美しい建築物が主人公を救済するのではなく、次第に主人公の現実生活を圧迫する存在となっていく。

一方、『仮面の告白』では、美しい肉体が、見る者の憧れや欲望を喚起すると同時に、見る者と見られる者との距離を明らかにする。

『春の雪』では、美しい人物や恋愛が、日常生活の中に安定して存在するのではなく、距離、身分、時間、失われていく季節によって強調される。

これに対し、『潮騒』では、美しい肉体と自然と労働が比較的調和した関係を形成している。新潮社も同作を、太陽や海、若い男女の肉体と恋愛が結びついた「恩寵的な世界」を描く作品として紹介している。

この違いを見ると、三島文学の美は、単に暗いものでも、破壊的なものでもないことが分かる。

美が人物を苦しめるか、人物の生活と調和するかは、その美が現実から切り離されているか、それとも労働や生活の中に置かれているかによって変わる。

三島由紀夫が描いたのは、美そのものの定義というよりも、美と人間との関係だったのではないだろうか。

美しいものは、そこに存在しているだけでは文学にならない。

それを見る人間がいる。

憧れる人間がいる。

所有しようとする人間がいる。

拒絶される人間がいる。

美にふさわしい自分になろうとする人間もいれば、美を前にして自分の価値を失ったように感じる人間もいる。

三島文学における美は、このような人間の感情や欲望を映し出す鏡として働いている。


第二章 『金閣寺』――美は人間を幸福にするのか

『金閣寺』は、三島由紀夫の美の問題を考えるうえで、最も重要な作品の一つである。

主人公の溝口は、吃音と自らの容貌に強い劣等感を抱いている青年である。彼にとって金閣は、単なる歴史的建造物ではない。

それは父から語り聞かされた、世界で最も美しいものだった。

新潮社の作品紹介でも、溝口にとって金閣は「世界を超脱した美そのもの」であったと説明されている。

重要なのは、溝口が最初から現実の金閣を見て、その美しさに感動したわけではないことである。

金閣は、実物を見る前から、父の言葉や溝口自身の想像によって作り上げられていた。

つまり、金閣の美は、現実の建築物として存在する以前に、溝口の内面に観念として形成されている。

この順序は、『金閣寺』を理解するうえで重要である。

現実の金閣と、溝口の想像の中の金閣は、同じものではない。

現実の建築物には、物質的な古さや傷みがあり、見る位置や天候によって印象も変わる。しかし、観念の中の金閣は完全であり、変化せず、溝口の日常生活を超越している。

そのため、溝口は金閣を自由に見ることができない。

金閣は目の前に存在しているにもかかわらず、溝口にとっては決して日常的な建物にならない。それは常に、現実を超えた美として立ち現れる。

ここに、美と人間との不均衡が生まれる。

溝口は、自分の吃音や外見に悩み、他者との円滑な関係を築くことができない。現実の世界では、自分が不完全な存在であることを意識させられる。

それに対し、金閣は完全な美として存在する。

溝口の不完全さと、金閣の完全さが対比されるほど、金閣の美は彼を幸福にするのではなく、圧迫するものになる。

美しいものは、自分もまた美しくなれるという希望を与えるとは限らない。

むしろ、自分がその美から遠く隔てられた存在であることを、残酷なほど明確に示すことがある。

溝口にとって金閣は、憧れの対象であると同時に、自分の劣等感を絶えず確認させる存在でもある。

また、金閣の美は、溝口が現実の行動を起こすことを妨げる。

溝口が女性と関係を持とうとするときにも、金閣の像が彼の意識に現れ、目の前の現実を遮る。

ここでは、美が現実を豊かにするのではなく、現実への参加を困難にしている。

美しいものを想像することによって、現実の人間関係が色鮮やかになるのではない。反対に、観念として完成された美が、現実の人間や出来事を価値の低いものに見せてしまう。

その意味で、『金閣寺』における美は、一種の絶対的な基準である。

完全な美を基準にすれば、現実の人間も、日常生活も、身体も、恋愛も、すべてが不完全に見える。

だが、人間が生きるのは、完全な観念の世界ではない。

不完全で変化し続ける現実の中である。

溝口の苦しみは、美を愛したことだけから生じているのではない。美を現実とは異なる絶対的なものとして捉え、その美と自分との間に関係を築けなかったことから生じている。

『金閣寺』が示しているのは、美しいものが必ず人間を善い方向へ導くわけではないという事実である。

美は人間を高めることもあるが、人間を現実から遠ざけることもある。

美を前にした人間は、感動するだけではない。嫉妬し、恐れ、支配され、ときにはその美が存在すること自体を重荷に感じる。

三島由紀夫は、金閣の美しさを説明するだけではなく、その美に耐えられなくなる人間の内面を描いた。

そこに、『金閣寺』が単なる建築美の小説ではなく、人間と美との緊張関係を描いた文学作品である理由がある。


第三章 『仮面の告白』――美しい肉体はなぜ遠いのか

『仮面の告白』では、美の対象が建築物から人間の肉体へと移る。

この作品の語り手である「私」は、自らの内面を他者に知られないようにしながら、社会の中で生きている。

題名にある「仮面」とは、単なる嘘や演技を意味するものではない。

人間が社会の中で求められる役割を演じ、自分の内面と外部に示す姿との間に距離を作ることを表している。

新潮社の作品紹介では、この小説は、少年である「私」が自らの性的指向に煩悶し、級友の妹との関係を通して、自分が一般的な幸福に適合できないことを認識していく物語として紹介されている。

『仮面の告白』に登場する美しい肉体は、「私」が自然に近づき、触れ合い、日常を共有できる対象ではない。

それは、遠くから見つめられる対象である。

ここに、『金閣寺』と共通する構造がある。

金閣が溝口にとって所有できない美であったように、美しい男性の肉体は、「私」にとって自由に近づくことのできない美である。

ただし、『仮面の告白』における距離は、物理的な距離だけではない。

社会的な距離であり、心理的な距離であり、言葉にすることのできない内面と、他者に見せている自分との距離でもある。

美しい肉体を見つめる「私」は、その肉体を純粋な自然物として見ているわけではない。

肉体は、想像、物語、絵画、宗教的な図像などと結びつき、現実以上の意味を与えられる。

そのため、肉体の美は、単なる健康や均整だけでは説明できない。

「私」の想像力によって、肉体は現実の身体でありながら、象徴的な像へと変化する。

ここでも、美は見る者の内面によって作られている。

美しい人物が客観的に存在し、その美しさがそのまま語り手へ伝わるのではない。

語り手の欲望、記憶、不安、孤独が、美しい肉体の意味を変える。

同じ人物を見ても、別の人間には同じ美が見えるとは限らない。

美とは対象だけに属するものではなく、対象と見る者との関係の中に成立する。

さらに、『仮面の告白』では、美しい肉体と、語り手自身の身体感覚との間にも大きな差がある。

「私」は、美しい肉体を外側から見つめる。その視線には憧れがあるが、同時に、自分はその美の側にはいないという感覚も含まれている。

美を見るという行為は、自分と対象との違いを確認する行為でもある。

自分が持っていないもの、自分がなることのできないもの、自分が近づくことを許されないものほど、強く美しく見える場合がある。

この意味で、『仮面の告白』における美は、距離によって成立している。

完全に理解し、日常的に接し、自由に所有できるものは、観念的な美を維持しにくい。

遠く、禁じられ、言葉にできないからこそ、美は強くなる。

しかし、距離によって成立する美は、見る者を幸福にするとは限らない。

美が強くなるほど、それに近づけない自分の孤独も強くなるからである。

三島由紀夫は、美しい肉体を描くことによって、単に官能的な世界を作ったのではない。

美を見つめる人間が、なぜ自分を隠さなければならないのか。

なぜ美しいものを欲望することと、社会の中で普通に生きることの間に緊張が生じるのか。

そして、なぜ人間は他者に見せる自分と、自分だけが知る自分との間に仮面を必要とするのか。

美しい肉体は、こうした問いを引き出す装置として機能している。

『仮面の告白』の美は、人間を外部へ導くよりも、自己の内面へと深く沈める。

美しいものを見たために、自分自身が何者であるかを問わざるを得なくなる。

その点に、この作品における美の厳しさがある。


第四章 『潮騒』――生活と調和する美

『金閣寺』と『仮面の告白』では、美は人物と現実との間に距離を生じさせていた。

しかし、三島由紀夫の小説に登場する美が、常に人間を孤独にし、現実から遠ざけるわけではない。

そのことを示す作品が『潮騒』である。

『潮騒』の舞台は、伊勢湾の小島である。

若い漁師の新治と、島へ戻ってきた少女・初江との恋愛を中心に物語が展開する。二人の周囲には、海、太陽、風、星、漁、船、島の共同体が存在する。新潮社の紹介でも、同作は海の若者と少女の恋を中心に、若い肉体と自然が結びついた澄明な作品として位置づけられている。

『潮騒』における美は、現実から切り離された観念ではない。

新治の肉体は、鑑賞されるためだけの肉体ではなく、働くための肉体である。

漁に出て、船を動かし、海の危険に対応する。

初江の美しさも、遠くから眺められるだけの人工的な美ではない。島の自然や日常生活の中に存在し、労働や共同体との関係を持っている。

ここでは、肉体の美しさと、肉体の有用性が分離していない。

現代社会では、美しい肉体は、しばしば日常的な労働から切り離されて表現される。

鍛えられた身体、美しい容貌、若さなどが、それ自体の価値として提示される。

しかし、『潮騒』の肉体美は、海で働き、困難に耐え、他者を守る力と結びついている。

そのため、新治の肉体は観念的な像になりすぎない。

彼は美しい若者である以前に、生活する人間である。

この点が、『仮面の告白』に登場する、遠くから見つめられる肉体との大きな違いである。

『潮騒』では、美しいものが生活の外部に置かれていない。

太陽は人物を照らし、海は人物の生活を支える。

同時に、海は危険をもたらし、若者の力量を試す場所でもある。

自然は単なる背景ではなく、人物の身体、感情、成長に関わる現実の環境である。

また、新治と初江の恋愛は、二人だけの観念的な世界に閉じこもるものではない。

島の噂や家族、経済的な立場、結婚といった現実的な条件にさらされる。

それでも二人は、現実を拒絶して自分たちの世界へ逃げるのではなく、困難を乗り越えながら共同体の中で関係を成立させようとする。

ここでは、美と幸福が比較的近い位置にある。

美しい人物が、美しい自然の中で、互いを愛し、労働し、将来の生活へ向かっていく。

これは三島文学の中では、きわめて明るい美の形である。

ただし、『潮騒』の美を単純な楽観主義と見るべきではない。

二人の恋愛は、最初から無条件に認められているわけではない。嫉妬、噂、身分や経済的な違い、自然の危険が存在する。

それでも美と現実が決定的に分裂しないのは、新治と初江が、観念の中に閉じこもらず、行動によって現実との関係を築いていくからである。

『金閣寺』の溝口は、美を見つめ続ける。

『仮面の告白』の「私」も、美しい対象を見つめ、その意味を内面で増幅させる。

これに対し、『潮騒』の新治は、美しいものを見つめるだけではない。

働き、選択し、危険に立ち向かい、人間関係の中で責任を引き受ける。

『潮騒』が示すのは、美が生活と結びつくためには、美を観念として所有するのではなく、現実の行動の中で経験する必要があるということではないだろうか。

美が日常生活を超越した絶対的なものになるとき、人間は美に支配される。

しかし、美が労働や自然や人間関係の中に存在するとき、それは生活を肯定する力になり得る。

『潮騒』は、三島由紀夫が美を苦悩や孤独だけでなく、人間と世界との調和としても描くことのできた作家であることを示している。


第五章 『春の雪』――美はなぜ失われるときに強くなるのか

『春の雪』は、『豊饒の海』四部作の第一巻である。

物語の中心となるのは、華族の家に生まれた松枝清顕と綾倉聡子である。

二人は互いに惹かれ合いながらも、清顕の自尊心やためらいによって関係を素直に進めることができない。清顕が聡子を遠ざけた後、聡子は皇族との婚約を受け入れる。その後、二人の関係は、許されないものとなったことによって、かえって激しさを増していく。

『春の雪』における美は、若さ、季節、身分、恋愛、距離、時間と密接に結びついている。

題名にある「春の雪」は、その性質を象徴している。

春の雪は美しい。

しかし、長く残ることはない。

降り積もったとしても、季節の暖かさによって間もなく消えてしまう。

その美しさは、永続することではなく、消えてしまうことと結びついている。

清顕と聡子の関係も、安定した日常の中で少しずつ育つ恋愛ではない。

二人が自由に結ばれる可能性があるとき、清顕は自分の感情を十分に受け入れることができない。

ところが、聡子が他者との婚約によって遠い存在になると、清顕の感情は強くなる。

ここには、美と距離の関係がある。

身近にあり、手に入れることのできるものよりも、失われようとしているものの方が美しく見える。

自由に会えるときよりも、会うことを禁じられた後の方が、相手の存在が強く感じられる。

人間は、対象そのものを愛しているのか。

それとも、その対象を失う可能性によって、自分の感情を強めているのか。

『春の雪』は、この判別しにくい問題を描いている。

清顕は、聡子を愛している。

しかし、その愛は、聡子が遠ざかるほど強くなる。

もし聡子がいつでも会える身近な存在であり続けたならば、清顕は同じように彼女を求めただろうか。

この問いに、簡単な答えは出せない。

ただし、三島は、愛や美が対象との距離によって変化することを、物語の構造として明確に描いている。

また、『春の雪』では、若さそのものが美として表現されている。

若さは、永続する性質ではない。

若者は、自分の若さが失われることを十分には理解していない。清顕の繊細さ、傲慢さ、ためらい、気まぐれは、若さの魅力であると同時に、若さの未熟さでもある。

三島は、清顕を道徳的に完全な人物として描いてはいない。

清顕は、自分の感情を扱いきれず、相手を傷つけ、決断を遅らせる。

それでも、その未熟さを含んだ存在全体が、美しいものとして描かれる。

ここでの美は、人格的な善良さと一致しない。

人は善良であるから美しいとは限らず、正しい判断をするから美しいとも限らない。

矛盾や欠点を持ちながら、二度と戻らない若い時間の中に存在していること自体が、美を生み出している。

『春の雪』の自然描写や室内描写も、この失われる時間を強く意識させる。

季節、光、庭園、衣服、建物、儀礼などが細かく描かれ、人物たちは美しく整えられた世界の中に置かれる。

しかし、その世界は安定していない。

旧い貴族社会の秩序と、新しい時代の動きが重なり、登場人物たちが属する世界そのものも変化しようとしている。

美しい形式が存在しているからこそ、それが長くは続かないという予感が生まれる。

三島文学において、美はしばしば、変化しない完全なものとして求められる。

しかし、『春の雪』の美は、変化を拒むことで成立するのではない。

むしろ、失われていくことが、美を強くしている。

雪は溶けるから美しい。

春は過ぎるから美しい。

若さは失われるから美しい。

自由に結ばれない恋愛は、その不可能性によって、日常的な恋愛よりも鮮烈なものになる。

ただし、このような美は、人を幸福にする美ではない。

失われるから美しいものを愛するならば、その美を感じることは、同時に喪失を経験することでもある。

『春の雪』における美は、所有や安定ではなく、時間と距離の中で成立する。

それは完成された幸福の美ではなく、幸福になり得た可能性が失われていく美である。


第六章 三島由紀夫の文体はどのように美を作るのか

三島由紀夫は、美しい建築物、肉体、自然、恋愛を題材にした。

しかし、題材そのものが美しいだけで、文学作品が自動的に美しくなるわけではない。

同じ海、同じ庭園、同じ若者、同じ建築物を描いても、文章の選び方によって、読者が受け取る印象は大きく変わる。

三島文学の美を考えるためには、何が描かれているかだけではなく、どのように描かれているかを見る必要がある。

1 視覚的に構成される文章

三島の文章は、視覚的な印象が強い。

色、光、影、形、輪郭、表面の質感などが細かく描かれ、読者は場面を頭の中に映像として想像しやすい。

ただし、それは写真のように現実をそのまま写す描写ではない。

三島は、現実の風景から特定の要素を選び取り、強調し、配置し直す。

光をどこに当てるか。

何を暗い影の中に置くか。

人物の身体のどの部分を描くか。

背景をどの程度まで説明するか。

こうした選択によって、現実の場面が一つの構図へ変えられる。

三島の自然描写が、単なる写生とは異なるのはそのためである。

海や庭園や雪は、自然のままに存在しているのではなく、文章の中で造形された美として読者の前に現れる。

2 比喩によって現実を変形する

三島の文体では、比喩が重要な役割を持つ。

比喩は、あるものを別のものにたとえる表現である。

しかし、三島の比喩は、単に説明を分かりやすくするためだけに用いられているのではない。

比喩によって、現実のものが別の意味を持ち始める。

身体が彫刻のように見える。

水面が金属や宝石のように見える。

雲や光が布や紙のように見える。

自然物が人工物のように描かれ、人工物が生き物のように描かれる。

この変換によって、読者は日常的な対象を、普段とは異なる角度から見ることになる。

比喩は現実を忠実に再現するのではなく、現実に新しい形を与える。

その意味で、三島の文章は、世界を説明する文章というよりも、世界を作り直す文章である。

3 感覚と観念を結びつける

三島の文章には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚などの具体的な感覚が多く現れる。

一方で、美、時間、孤独、欲望、幸福といった抽象的な観念も頻繁に語られる。

三島の特徴は、感覚と観念を別々に書くのではなく、両者を一つの文章の中で結びつける点にある。

たとえば、ある光景が美しく描かれた後、その光景が人物にとって何を意味するかが考察される。

また、人物の感情が抽象的に説明されるだけでなく、身体感覚や風景の変化として表現される。

そのため、読者は単に場面を見るだけではなく、その場面に与えられた思想的な意味まで同時に読むことになる。

『金閣寺』における金閣は、建築物であると同時に、溝口にとっての絶対的な美の観念である。

『仮面の告白』の肉体は、身体であると同時に、欲望、孤独、自己認識を引き出す象徴である。

『潮騒』の海は、自然環境であると同時に、新治の労働能力や勇気を試す場所である。

『春の雪』の雪は、自然現象であると同時に、若さや恋愛のはかなさを表している。

三島の文体は、物と意味を結びつける。

物を物のまま放置せず、その背後に観念を生じさせる。

4 人物を一つの造形物として描く

三島の人物描写では、人間の内面だけでなく、外見、姿勢、衣服、動作、周囲の光景が重視される。

人物は心理だけで作られているのではない。

身体の形、歩き方、視線、服装、置かれている空間によって、一つの視覚的な像として構成される。

この方法によって、登場人物は単なる現実の人間以上の存在感を持つ。

清顕や聡子は、一人の若者、一人の女性であると同時に、失われていく時代や若さを表す美しい像にもなる。

新治と初江は、個人であると同時に、海と太陽の下で生きる若い男女の象徴的な姿としても描かれる。

ただし、人物を美しい像として描くことには危うさもある。

人物が造形的に完成するほど、日常生活を送る普通の人間から遠ざかる可能性があるからである。

三島文学の人物には、ときに現実の人間以上に整いすぎている印象がある。

しかし、その人工性こそが三島の文体の特徴でもある。

三島は、現実の人物をそのまま写すのではなく、言葉によって人物を造形する。

小説の人物を、彫刻や絵画のように配置し、光を当て、輪郭を与える。

5 自然美ではなく、構築された美

三島の文章は、自然に流れ出た感情をそのまま記したような文章ではない。

語句、比喩、文の長さ、場面の配置が強く意識され、人工的に構築されている。

ここでいう人工的とは、不自然で価値が低いという意味ではない。

庭園、建築、彫刻、舞台などと同じように、人間の意志によって形を整えられた美という意味である。

三島の文体は、感情を無加工で表に出すのではなく、感情に形式を与える。

苦悩をそのまま叫ぶのではなく、比喩や構図の中に置く。

恋愛を直接的な感情表現だけで描くのではなく、季節や衣服や建物と結びつける。

人物の孤独を説明するだけでなく、その人物と美しい対象との距離として表現する。

そのため、三島の文章には、感情の激しさと、形式の冷静さが同時に存在する。

内容は激しくても、文章は制御されている。

人物は混乱していても、場面の構成は整っている。

この緊張関係が、三島の文体に独特の美しさを与えている。


おわりに――美は人を救うのか

三島由紀夫の文学における美は、一つの意味に固定することができない。

『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざけ、その劣等感を強める。

金閣の完全な美は、溝口に幸福を与えるのではなく、自分の不完全さを意識させる。

『仮面の告白』では、美しい肉体は、欲望の対象であると同時に、語り手が自分自身の孤独を知るきっかけとなる。

美しいものは近くにあるのではなく、距離や禁忌によって、いっそう強い美となる。

『潮騒』では、美は現実の生活と調和している。

若い肉体は労働する身体であり、海は美しい背景であると同時に、人間の力を試す生活の場である。

ここでは、美が人間を現実から遠ざけるのではなく、現実の行動や共同体の中で成立している。

『春の雪』では、美は時間と喪失によって強められる。

若さ、恋愛、季節、旧い社会の形式は、永遠に続くから美しいのではない。

失われていくことが避けられないからこそ、強い美として感じられる。

これらの作品を比較すると、三島文学における美は、対象そのものに固定された性質ではないことが分かる。

美は、見る者との関係によって変わる。

近づけるか、近づけないか。

生活の中に置かれているか、現実を超越した観念になっているか。

所有できるか、失われようとしているか。

美を前にした人物が行動するか、ただ見つめ続けるか。

こうした条件によって、美は幸福にもなり、苦悩にもなる。

三島由紀夫は、美しいものを数多く描いた。

しかし、三島文学の本質は、美しい対象を並べたことにはない。

美しいものを前にした人間が、どのように自分を知り、どのように現実との距離を測り、どのように欲望し、ためらい、行動するかを描いたことにある。

また、その美は、文章の外部に最初から存在しているわけではない。

光、色彩、比喩、身体、季節、建築、自然を精密に配置する文体によって、美は小説の中に作り出される。

三島由紀夫は、美を説明した作家というよりも、言葉によって美が成立する瞬間を構築した作家だったと言える。

美は人を救うのか。

三島の小説は、この問いに一つの答えを与えない。

美は人を幸福にすることもあれば、自分の不完全さを意識させることもある。

現実の生活を肯定することもあれば、現実を価値のないものに見せることもある。

美しいものが人間に何をもたらすかは、美そのものによって決まるのではない。

人間がその美と、どのような関係を結ぶかによって決まる。

三島由紀夫の文学が今も読者を引きつける理由の一つは、美を単なる慰めや装飾として扱わなかった点にある。

三島が描いた美は、人間を静かに満足させるだけのものではない。

見る者の内面を照らし、その欲望、劣等感、孤独、若さ、幸福、時間への恐れを浮かび上がらせる。

だからこそ、三島由紀夫の小説における美は、美しいだけでは終わらない。

それは、人間が現実をどのように生きるのかを問い返す、文学の力そのものなのである。

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