リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 平野啓一郎と三島由紀夫を並べると、最初に目につくのは文体である。平野が1998年に『日蝕』で文壇に登場したとき、その古風で濃密な文章は三島を連想させ、「三島由紀夫の再来」と評されることもあった。平野自身も、中学2年生のときに『金閣寺』を読んで強い衝撃を受け、文学に向かう大きな契機になったことを語っている。2023年には大部の『三島由紀夫論』を刊行し、三島の作品と思想を本格的に論じているのだから、両者を比較することには十分な根拠がある。

 しかし、二人を「華麗な文章を書く純文学作家」として並べるだけでは、文学的な影響関係の表面しか見えてこない。むしろ興味深いのは、三島から強い刺激を受けた平野が、人間の自己とは何かという問題について、独自の考え方を展開していったことである。二人の距離を測るには、文体の類似だけでなく、「私は誰なのか」という問いがそれぞれの作品の中でどのように扱われているかを考える必要がある。

 三島には『仮面の告白』があり、平野には「分人主義」がある。この二つを比較すると、社会の中で演じられる自己、他者との関係によって変化する人格、身体と行為によって確かめようとする自己など、人間の同一性をめぐる複数の問題が浮かび上がってくる。ただし、三島の「仮面」がそのまま平野の「分人」へ発展したと考えることはできない。両者には共通する問題意識がある一方、成立した時代も、作品の構造も、自己を理解する方法も異なっているからである。

『仮面の告白』の仮面は、単なる社会的な演技ではない

 1949年に刊行された三島の『仮面の告白』という題名からは、本当の自分を隠すために人が仮面をつけ、その仮面を外すことで素顔が現れるという構図を想像しやすい。しかし、この作品を単純な「本音と建前」の物語として理解すると、重要な部分を見落としてしまう。

 物語の中心にあるのは、語り手である「私」の欲望や恋愛感情と、社会が当然のものとして求める生き方との葛藤である。同性の身体に向かう欲望と、異性との恋愛や結婚をめぐる感情や期待が複雑に絡み合い、語り手は自分自身の欲望を理解しようとしながら、それを社会の中でどのように扱えばよいのか苦しむ。ここでの仮面は、単に他人に対して礼儀正しく振る舞うといった日常的な役割の違いではない。自分の欲望をどのように認識し、どのような人物として生きることが許されるのかという、より深刻な問題と結びついている。

 この作品が発表された1949年という時代も無視できない。戦後間もない日本では、同性への欲望や性の多様性について、現在とは異なる社会規範や医学的な理解が存在していた。『仮面の告白』をめぐる文学研究でも、当時の性科学や同性愛をめぐる言説、作品が社会に受け止められた過程が検討されている。したがって、現代の職場や家庭で人格を使い分けることと、作品の語り手が抱える葛藤を、そのまま同じ問題として扱うことは適切ではない。

 さらに、この作品には「告白」そのものの難しさがある。自分の内面を正直に語ろうとしても、その語りは言葉によって構成され、読者に向けて提示される。語り手が仮面を外したつもりでも、告白するために選ばれた言葉や物語の形式が、別の仮面として働く可能性がある。つまり、『仮面の告白』には、隠されていた本当の自分を明らかにすることへの欲望と、そもそも言葉によって自己を完全に明らかにできるのかという疑問が、同時に存在している。

 ただし、ここから三島が「唯一の本当の自分は存在しない」と考えていたと結論づけることはできない。作品の中で複数の欲望が葛藤することと、自己の中心という考えを哲学的に否定することは、同じではないからである。三島は自己の内部にある矛盾を鋭く描いたが、それを平野の分人主義と同一の人間観として理解するのは慎重でなければならない。

平野の分人主義は、仮面の奥に素顔を探さない

 平野啓一郎の「分人主義」は、唯一の本当の自分があり、それ以外の人格は社会生活のために演じられる仮面であるという考え方を問い直すものである。平野は、人間が相手や環境との関係によって異なる人格を持つことに注目し、それぞれを「分人」と呼ぶ。職場の同僚と接するときの自分、親しい友人と過ごすときの自分、家族といるときの自分は、振る舞いも感情も異なる場合があるが、そのうちの一つだけが本物で、ほかは偽物だと考える必要はない。

 例えば、職場では冷静で慎重な人物が、親しい友人の前では冗談を好む人物になることがある。ある相手と話しているときには積極的になり、別の相手といるときには控えめになることもある。一般的な考え方では、こうした違いを本来の人格と社会的な仮面との関係として説明しがちだが、分人主義では、異なる関係の中で現れる人格のそれぞれが、その人自身を構成していると考える。

 重要なのは、分人が単なる気分の変化や、その場限りの演技ではないことである。ある相手との継続的な関係によって形づくられる人格は、その関係の中で一定の特徴を持ち、本人の感情や行動にも影響を与える。したがって、分人主義は人間を無数の独立した人格に分解する理論ではなく、他者との関係を通じて成立する複数の自己のあり方を捉えようとする考え方だと理解できる。

 もっとも、複数の分人がすべて本当の自分であるとしても、それらが常に調和しているわけではない。仕事上の責任を優先する自分と、家族との時間を大切にしたい自分が対立することもあれば、ある人といるときの自分を好ましく感じ、別の関係の中で現れる自分に苦痛を覚えることもある。分人主義は人格の葛藤を消し去る思想ではなく、そうした葛藤を唯一の本当の自分と偽物の自分との対立として決めつけずに考えるための枠組みでもある。

 平野がこの考え方に至った過程も重要である。平野自身は、『決壊』で自己の問題を深く追究した後、一つの人格を中心に据える自己理解の限界を考え、分人という概念へ進んだことを説明している。その構想は2009年の『ドーン』で本格的に展開され、後に『私とは何か~「個人」から「分人」へ』で、より明確な形で論じられた。

 ここには三島から受けた文学的影響だけでは説明できない、平野自身の創作と思索の過程がある。『仮面の告白』の仮面と分人主義を比較することには意味があるが、分人主義が三島の思想から直接生まれたと断定する資料的な根拠は十分ではない。

複数の自己という考え方は、平野だけの発見ではない

 人間が他者との関係によって異なる自己を持つという考え方は、心理学や社会学にも以前から存在している。19世紀末の心理学者ウィリアム・ジェームズは、人間が他者からどのように認識されるかによって、複数の社会的な自己を持つことを論じていた。また、20世紀の社会学者アーヴィング・ゴフマンは、日常生活の対人関係を演劇になぞらえ、人間が状況や相手に応じて自己を呈示する仕組みを分析した。

 したがって、人間が複数の自己を持つという考え方自体を、平野が初めて発見したと説明することはできない。しかし、分人主義の特徴は、その複数性を社会的な演技として説明するだけでなく、それぞれを本当の自分として肯定し、人間がどのように生きるかという問題へ結びつけた点にある。

 一方、心理学では、人が自分を仕事、家族、趣味、対人関係などの複数の側面から捉えることについて、「自己複雑性」という概念を用いた研究が行われている。複数の自己側面を持つことが心理的な負担を緩和する可能性も検討されてきたが、研究結果は一様ではなく、自己の複数性が高ければ必ず精神的に健康になると証明されているわけではない。

 ここで区別すべきなのは、人間の振る舞いや自己認識が状況によって変化するという経験的な事実と、そうした複数の自己をどのように理解し、受け入れるべきかという哲学的な主張である。分人主義は現代の心理学と接点を持つものの、その思想全体が科学的に証明された人格理論であるわけではない。むしろ、心理学や社会学が明らかにしてきた人間の多面性を踏まえながら、唯一の本当の自分という考え方を問い直す、文学的かつ哲学的な試みとして評価する方が正確である。

 この点でも三島と平野の比較は興味深い。三島は自己の内部に存在する欲望や社会的な役割の葛藤を文学として表現し、平野は関係によって異なる自己を積極的に認める概念を提示した。両者は同じ理論を述べているのではないが、人間を一つの単純な人格として捉えることの難しさを、異なる方法で浮かび上がらせている。

三島は自己の一致を求め、平野は複数性を受け入れたのか

 三島の文学や思想をたどると、内面と外面、認識と行為、言葉と身体の間に生じる隔たりが、繰り返し問題になっていることに気づく。人は頭の中で勇気について考えることができるが、そのことと実際に勇敢に行動することは同じではない。美を理解することと、美しいものを現実に所有したり変化させたりすることも異なる。三島は、こうした認識と行為の距離を意識し、とりわけ後期の思想において、言葉と身体、思想と行動の関係を強く問い続けた。

 平野自身も『三島由紀夫論』において、三島が身体の個体性や人生の一回性を重視し、認識と行動、思想と人生をどのように結びつけようとしたのかを論じている。この観点からすると、三島には自己の不一致をそのまま放置するのではなく、何らかの形で克服しようとする志向があったと考えることができる。

 これに対して平野の分人主義では、人間が矛盾のない一つの人格に収束することは、必ずしも理想ではない。異なる対人関係の中で別々の人格が現れることは、統一されるべき欠陥というよりも、人間が社会的な存在であることから生じる自然な特徴として捉えられる。すべての場面で同じ考え方や態度を保てないからといって、それだけで自己を偽っていることにはならないのである。

 ただし、ここで「三島は一つの自己を求め、平野は複数の自己を求めた」と単純に結論づけることはできない。三島は、人格の不一致を克服しようとする志向を持つ一方、その不一致そのものを文学の重要な主題として描いていた。1959年の『鏡子の家』では、異なる生き方や価値観を持つ登場人物たちが、それぞれの方法で現実と向き合おうとする。そこには、一つの理想的な人格へ収束しない、人間の生き方の複数性も現れている。

 また、『豊饒の海』では、転生という構想を通して、身体が変わり、記憶や人格も変化するなかで、何をもって同じ存在とみなすことができるのかが問われる。身体や行為によって自己を確かめようとする志向だけでは、この作品における自己同一性の問題を説明しきれない。

 一方、平野の分人主義も、複数の自己を無条件に放置すればよいという考え方ではない。複数の分人が互いに影響を及ぼす以上、人間はその関係の中で葛藤し、選択し、生活を成り立たせていかなければならない。人格の複数性を認めることと、自分の人生に一定の整合性を求めることは、必ずしも矛盾しないのである。

 したがって、二人の違いは、統一された自己と分裂した自己のどちらを信じるかという単純な対立ではない。三島は自己の内部にある不一致に強い緊張を感じ、それを身体や行為の問題と結びつけて追究した。一方、平野は人間の複数性を自己の基本的な構造として捉え、それを否定することなく生きる可能性を考えた。この重点の違いに、両者を比較する意味がある。

『金閣寺』は認識から行為への移行を描いたのか

 三島の『金閣寺』では、主人公の溝口が金閣という美の存在に強くとらわれ、最終的に放火という取り返しのつかない行為へ進む。そこには、美について考えることと、美しいものに対して現実に働きかけることとの間にある、深刻な隔たりが描かれている。

 この作品を認識と行為の関係から読むことには、十分な根拠がある。溝口にとって金閣は、単に鑑賞の対象となる建築物ではなく、自分の人生や世界の理解を左右する存在になっている。美を認識するだけでは、その支配から逃れることができない。そうした状況の中で、放火という行為は、認識の世界に閉じ込められた主人公が現実へ介入する、極端な選択として理解することができる。

 しかし、放火を思想と行為が一致した瞬間としてのみ理解すると、作品の結末にある重要な意味を見落とすことになる。溝口は金閣を焼いた後、自らの死を選ぶのではなく、生きようとする。絶対的な美の存在を破壊したことによって、かえって現実の人生へ向かう可能性が開かれたとも読めるのである。

 つまり、『金閣寺』は決定的な行為への志向を描くと同時に、その行為によって何が終わり、何が始まるのかという問題も含んでいる。美を破壊することが本当に自己の完成につながったのか、それとも、それまでの自己を支配していた価値観から離れる契機になったのか。この問いに対する解釈は一つではない。

 もちろん、放火という行為を思想的に理解することは、現実の放火や暴力を肯定することではない。重要なのは、三島の文学において、認識が行為へ変わる瞬間だけでなく、その行為の後に生きることの意味までが問われている点である。

 このように考えると、三島を決定的な行為だけに引き寄せられた作家として捉えることも不十分になる。『金閣寺』の結末には、後に平野が重視する、ある出来事によって人生の意味が変化していくという問題と比較できる側面も存在している。

三島が身体を問い、平野が関係を問うという違い

 三島にとって、身体は単なる健康や美貌の問題ではなかった。文学者は言葉によって勇気や美、死について語ることができるが、言葉で表現したものを身体によって経験することは、まったく別の問題である。三島は身体を鍛え、自らの肉体を写真や舞台的な表現にさらし、言葉によって構成された自己と、現実に存在する身体との関係を問い続けた。

 『太陽と鉄』では、言葉と肉体、精神と行為の関係が正面から扱われている。三島の身体への関心は、単純な肉体礼賛ではなく、言葉によって世界を理解し表現する作家が、言葉だけでは捉えきれない現実の存在をどのように経験するのかという問題と結びついていた。

 一方、平野が分人主義を通じて自己を考えるとき、中心となるのは他者との関係である。人間は孤立した存在として完成しているのではなく、誰と出会い、どのような関係を持つかによって変化する。他者との関係が変われば、自分自身の感情や行動、さらには過去の理解まで変化する可能性がある。

 『マチネの終わりに』では、ある人物との出会いや恋愛によって、それまでとは異なる自己のあり方が生まれる。恋愛は単に相手を好きになることではなく、その人といるときの自分を新たに発見する経験でもある。関係が失われた後にも、その相手とともに生きた時間の意味は残り、人生の理解に影響を与え続ける。

 『ある男』では、ある人物の名前や経歴について信じられていた事実が揺らいだとき、他者との関係の中で成立していたその人物の意味まで変わってしまうのかが問われる。ここで区別する必要があるのは、戸籍や身分関係を確認する制度上の同一性と、家族や愛する人との関係によって形成される人格的な同一性である。法的な身分を明らかにすることと、その人がどのような人物として生き、誰に愛されてきたのかを理解することは、必ずしも同じではない。

 また、『本心』では、亡くなった母を人工知能や仮想現実の技術によって再現しようとする試みを通じて、人間が他者の内面をどこまで理解できるのかが問われる。外見や言葉遣い、過去の情報を再現できたとしても、それによって本人の心を完全に再現したことになるのか。最も親しい相手についてさえ、その本心をすべて知ることはできないという他者性が浮かび上がる。

 ただし、ここでも「三島は身体、平野は関係」と完全に二分することはできない。平野は『かたちだけの愛』において、義足の制作や身体と技術の関係を扱っている。『本心』もまた、身体の再現と人格の同一性を考える作品であり、平野が身体性に無関心であるわけではない。一方、三島の作品にも、恋愛、社会的な承認、共同体への帰属、他者との葛藤といった関係性の問題が広く描かれている。

 したがって、二人の違いは身体か関係かという排他的な選択ではなく、自己を捉える際の重点の置き方にある。三島は、とりわけ後期の思想において、身体と行為を通じて自己を問い直した。平野は、他者との関係によって変化する人格を自己理解の中心に据えた。この違いは、両者が人間の同一性をどこに見いだそうとしたのかを考えるうえで重要である。

人生の決定的瞬間と、後から変わる過去の意味

 三島の作品には、人生を大きく変えてしまう一回的な瞬間への強い関心が見られる。美しいものが破壊される瞬間、認識が行為へ変わる瞬間、人間が後戻りできない選択をする瞬間である。『金閣寺』の放火はその代表的な例だが、三島の文学には、取り返しのつかない行為によって、それ以前とは異なる人生が始まってしまうという緊張が繰り返し現れる。

 しかし、三島を決定的瞬間だけを重視した作家と考えることはできない。『豊饒の海』では、長い時間の経過、記憶、老い、転生が物語の中心を占める。異なる身体や人生の中に何らかの同一性を見いだそうとする構想は、一人の人間が一度きりの人生を完成させるという考え方では説明しきれない。三島の時間意識には、一回性への関心と、それを超えて持続するものへの問いが共存している。

 一方、平野の小説では、出来事が起きた後に、その意味がどのように変化するのかが重要な問題になる。かつての恋愛を後から振り返るとき、当時は理解できなかった相手の行動に別の意味を見いだすことがある。愛する人について新たな事実を知ったとき、それまで幸福だと思っていた記憶が揺らぐこともあれば、逆に苦い経験だった出来事が、別の意味を持ち始めることもある。

 この問題は『マチネの終わりに』において、「過去は変えられる」という主題として現れている。もちろん、過去に起きた事実を物理的に変更できるという意味ではない。ある出来事についての理解や評価は、その後に生きた時間や新しい経験によって変化する。過去の事実が同じでも、現在の自分が変われば、その事実を人生の中でどのように位置づけるかは変わり得るのである。

 『ある男』も、この問題を別の角度から扱っている。愛していた相手の過去が、信じていたものとは異なっていたとき、その人と過ごした時間の価値まで失われるのか。名前や経歴という情報が変わったとしても、実際にともに過ごした経験が消えるわけではない。過去についての知識が変化することで、記憶や愛情の意味を改めて考える必要が生じる。

 このように見ると、三島が人生の一回性や取り返しのつかない行為に強く関心を寄せたのに対し、平野は出来事の意味が、その後の人生によって変化し続けることを重視していると読むことができる。ただし、これは二人の時間観を完全に区別するものではない。『金閣寺』にも決定的行為の後を生きる問題があり、『豊饒の海』にも時間を超えた同一性への問いがあるからである。

 むしろ、二人はともに、時間の中で人間が同じ自己であり続けるとはどういうことなのかを問い、その中で異なる側面に強い関心を寄せたと考える方が適切だろう。三島の作品では、ある行為が人生を決定的に変えてしまうことがある。平野の作品では、一度決まったと思われた人生の意味が、その後の経験によって読み替えられていく。ここには、人生の一回性と、人生の解釈の変化可能性という、異なる問題が現れている。

二人とも、安定した自己を簡単には信用していない

 ここまで相違点を見てくると、三島と平野は対照的な作家のように思える。しかし、二人の文学を結びつけているのは、人間を一つの安定した人格として簡単には理解できないという問題意識である。

 人は日常生活の中で、自分が昨日と同じ人物であることを通常は疑わない。名前があり、過去の記憶があり、社会的な立場があり、それらが継続していることで、自分は同じ一人の人間だと考えている。しかし、身体が大きく変化したとき、記憶が失われたとき、他者から見た人物像と本人の自己理解が食い違ったとき、それでも同じ人物であると判断する根拠は何なのだろうか。

 三島の『仮面の告白』では、内面の欲望と社会的に生きようとする自己との関係が問題となる。『金閣寺』では、美を認識する自己と現実に行為する自己との隔たりが描かれ、『太陽と鉄』では、言葉によって表現された自己と身体として存在する自己との関係が問われる。さらに『豊饒の海』では、身体や記憶の変化を超えて同一性が成立するのかという問題が現れる。

 平野の場合も、『ドーン』『マチネの終わりに』『ある男』『本心』と作品を追っていけば、別の角度から自己の問題が繰り返されていることが分かる。人は他者との関係によって変化するが、それでも同じ人物なのか。過去について信じていたことが間違っていたと分かったとき、その人物をどう理解すればよいのか。人工知能によって人間の言動を再現できたとして、それを本人と同じ存在だと考えられるのか。こうした問いは、いずれも自己や人格の同一性が何によって成り立つのかという問題に結びついている。

 ただし、作品中の登場人物が抱える問題を、そのまま作者本人の信念と同一視することには注意が必要である。小説は作家が自分の思想を直接説明する文章ではなく、異なる立場や矛盾した感情を持つ人物を通じて、人間の複雑さを表現するものである。三島の登場人物が統一された自己を求めているからといって、三島自身が常にそれを唯一の理想としていたとは限らない。同様に、平野の小説に分人主義と整合する人物が登場しても、その人物の生き方が作者によって全面的に肯定されているとは限らない。

 この区別を踏まえると、二人の文学の共通性はさらに明確になる。三島も平野も、人間が自分自身を完全に理解し、一つの矛盾のない物語として説明できるとは考えていないように見える。人間は自分の欲望を把握しきれず、他者との関係によって変化し、過去についての理解さえ変えていく。二人は、そうした不安定な存在としての人間を、それぞれ異なる文学的方法によって描いているのである。

「仮面」は「分人」になったのか

 三島の『仮面の告白』から平野の分人主義が直接生まれたと考えることには慎重でなければならない。平野の思想には、三島から受けた文学的影響だけでは説明できない、長年の創作と思索の積み重ねがある。また、人間が社会的な関係によって異なる自己を持つという考え方には、心理学や社会学の先行する議論も存在している。

 さらに、三島の「仮面」と平野の「分人」は、そもそも同じ種類の概念ではない。『仮面の告白』の仮面は、性的な欲望や社会的な期待、自分自身について語ることの困難さなどを含んだ文学的な表現である。一方、分人は、対人関係によって形成される複数の人格を説明するために、平野が明示的に提示した概念である。両者を同じ人格理論として扱えば、作品の意味も思想の特徴も単純化してしまう。

 しかし、直接の継承関係を証明するのではなく、自己という共通の問題を異なる角度から比較するのであれば、「仮面」と「分人」を並べることには大きな意味がある。

 人は他者の前で、いつも同じ自分でいられるわけではない。親しい友人といるときには自然に話せることが、職場では言えなくなる場合がある。恋人といるときには優しく振る舞えるのに、家族に対しては不機嫌になってしまうこともある。こうした違いをすべて仮面として剥がしていったところで、最後に誰にも影響されていない純粋な自分が現れるとは限らない。

 平野の分人主義は、むしろ、そうした異なる関係の中で生じる自己を、人間の自然なあり方として捉え直そうとする。一つの本当の自分を探すのではなく、複数の分人を通じて自分自身を理解するという考え方である。その意味では、従来の仮面と素顔という構図を問い直す試みとして評価できる。

 一方、三島の文学が提示する問題は、複数の自己を認めれば解決するというものでもない。社会の中で生きる自己と、内面の欲望や理想との間に深刻な葛藤があるとき、その葛藤をどのように引き受けるのか。言葉によって理解したことを、現実の身体や行為とどのように結びつけるのか。自分が複数の側面を持つことを認めたとしても、そうした問題が消えるわけではない。

 ここに、両者を比較する本当の面白さがある。三島の文学が明らかにした自己の矛盾や不一致は、平野の分人主義によってすべて解消されるわけではない。しかし、平野の考え方に立てば、それまで克服すべき矛盾と思われていたものの一部を、複数の関係の中で成立する自己の特徴として捉え直すことができる。

 つまり、「仮面」がそのまま「分人」に変わったのではない。同じ人間の複雑さを理解するために、異なる時代の作家が、それぞれ異なる文学的な表現と思想的な枠組みを用いたのである。

三島が平野に残したものは、答えよりも問いだったのか

 平野啓一郎が三島由紀夫から受けた影響を考えるとき、華麗な文体や美意識だけに注目するのは不十分だろう。三島の作品を読んだ若い平野が強く引きつけられたものの一つには、人間が自分自身をどのように理解し、社会の中でどのように存在するのかという、容易には解決できない問題があったと考えられる。

 ただし、平野の分人主義が三島の問題意識をそのまま受け継いだ結果だと断定することもできない。分人主義の成立には、平野自身の創作活動や社会への考察が関係しており、三島はその思想形成を考えるうえで重要な存在の一人ではあっても、唯一の起源とは言えないからである。

 それでも、二人を比較すると、人間の自己をめぐる問いが、時代によって異なる形を取ることが見えてくる。三島が活動した戦後の日本と、平野が活動する現代とでは、社会的な規範や対人関係を取り巻く環境が大きく異なる。現代では、職場、家庭、地域社会に加えて、インターネット上の交流など、人が他者と関係を持つ場面も多様化している。その中で、一人の人間が異なる相手に対して異なる人格を示すことは、以前にも増して意識されやすくなっている。

 もっとも、人間の自己が現代になって初めて複数になったわけではない。人は昔から、家族の前と社会の中で異なる振る舞いをし、ときには自分自身の欲望や感情を理解できずに生きてきた。変わったのは、人間の複雑さそのものだけではなく、それをどのような言葉で説明し、どのような生き方として受け入れようとするかという点でもある。

 三島は、自己の内部に生じる矛盾や不一致を強く意識し、その問題を言葉、身体、行為、時間といったさまざまな角度から追究した。平野は、他者との関係によって異なる人格が成立することを積極的に捉え、唯一の本当の自分を探し続けなくてもよいのではないかという考え方を示した。

 しかし、どちらが正しく、どちらが古いという単純な関係ではない。三島の文学には、分人主義だけでは説明しきれない自己の葛藤があり、平野の文学には、三島の時代とは異なる社会的条件の中で生まれた人格の問題がある。二人を比較することの意義は、一方の思想によって他方を乗り越えたと説明することではなく、どちらの文学も人間の複雑さを考えるための異なる視点を提供していることを理解する点にある。

 そう考えて『仮面の告白』と『ある男』を並べてみると、時代も物語も異なる二つの小説が、遠く離れた場所で共通する問いを交わしているように思えてくる。人は何によってその人自身であると認められるのか。社会的な立場や名前、身体、記憶、他者との関係が変化しても、その人は同じ人物であり続けるのか。そして、自分自身について語るとき、私たちはどこまで本当の自分を理解しているのだろうか。

 三島の文学は、そうした問いが人間の内部に深刻な葛藤を生み、ときには身体や行為の問題へと発展することを描いた。平野の分人主義は、その問いに対して、唯一の素顔を探すという前提そのものを見直す可能性を示している。

 人間には、誰に対しても変わらない一つの本当の自分があるのだろうか。それとも、異なる人々との関係の中で生まれる複数の自分こそが、その人の姿なのだろうか。さらに、そうした複数性を認めたとしても、なお自分の人生を一つのものとして引き受ける必要があるのではないだろうか。

 「仮面」は「分人」になったのかという問いに、単純な肯定や否定で答えることは難しい。むしろ、三島が文学によって追究した自己の葛藤と、平野が分人主義によって提示した自己の複数性は、互いを照らし合わせることで、それぞれの意味をより深く理解できる関係にある。

 三島から平野へと受け継がれたものがあるとすれば、それは一つの完成された答えではなく、人間とは何かを問い続ける文学の姿勢だったのかもしれない。そして、その問いに最終的な答えが存在しないことこそ、二人の作品が異なる時代の読者に読み継がれる理由の一つなのだろう。

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 三島由紀夫について論じるとき、その政治的な言動や晩年の行動が大きく取り上げられることは少なくない。しかし、それらが強い印象を残しているために、小説家として三島が何を描き、どのような言葉によって文学世界を構築したのかが、十分に検討されないままになることもある。

 本稿では、三島の政治的主張や行動、その最期については扱わない。それらを軽視するためではなく、考察の対象を意識的に小説作品の内部へ限定するためである。三島の小説では、美しいものはどのように描かれているのか。美は登場人物を幸福にするのか、それとも現実との距離を広げるのか。また、人物の容貌や肉体、自然、建築物、季節、恋愛といったものが、三島の言葉によってどのような「美」へと組み替えられているのかを考えてみたい。

 三島を「美の作家」と呼ぶことは難しくない。しかし、その一言だけでは三島文学の特徴を明らかにしたことにはならない。三島の小説に現れる美は、必ずしも人を慰めたり、幸福へ導いたりするものではない。ときには見る者を圧倒し、自分の不完全さを意識させ、現実との間に越えがたい隔たりを作る。一方で、『潮騒』のように、肉体、自然、労働、恋愛が比較的調和した作品も存在する。

 したがって、三島文学における美を単純な一つの原理だけで説明することは難しい。本稿では、『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』という性格の異なる四作品を中心に、美と人間との関係を比較する。ただし、この四作品だけから三島文学全体について普遍的な法則を導くことはできない。ここで示すのは、あくまで四作品を比較することによって浮かび上がる一つの読み方である。

三島由紀夫は本当に「美の作家」なのか

 三島由紀夫は、しばしば「美の作家」と評される。その評価には、少なくとも三つの意味を区別する必要がある。第一に、美しい人物、美しい肉体、美しい建築物、美しい自然が数多く描かれていること。第二に、その文章自体が視覚的で、比喩や語彙を精密に組み合わせて構築されていること。そして第三に、美とは何か、美しいものに接した人間がどのように変化するのかという問題そのものが、小説の重要な主題になっていることである。

 したがって、三島を「美しいものを描いた作家」と理解するだけでは不十分である。重要なのは、美そのものだけではなく、それを見た人物が何を感じ、何を欲望し、どのように行動し、現実との関係をどのように変化させていくのかという点にある。

 美は快や喜びと結びつけられることが多い。しかし、人間が美しいものを経験したときに生じる感情は、単純な幸福だけではない。感動、畏れ、悲しみ、懐かしさ、不安、劣等感などが同時に生じることもある。美的経験は、対象そのものだけによって決定されるのではなく、それを見る人の経験、記憶、欲望、価値観や置かれた状況にも左右される。

 三島の作品には、こうした美の複雑さが繰り返し現れる。『金閣寺』では建築物としての美が主人公を圧迫し、『仮面の告白』では美しい肉体が欲望と自己認識を引き起こす。『春の雪』では、美は若さや時間、距離、喪失と強く結びつき、『潮騒』では肉体や自然の美が労働や共同体の中に置かれている。

 本稿で扱う四作品を比較する限り、美は対象だけに固定された性質としてではなく、対象とそれを見る人間との関係の中で変化するものとして描かれているように見える。美しいものそのものだけでなく、美しいものを前にした人間こそが、三島文学を読むうえで重要なのである。

『金閣寺』~完全な美は人間を幸福にするのか

 『金閣寺』は、三島文学における美を考えるうえで最も重要な作品の一つである。主人公の溝口は吃音を抱え、自らの容貌や他者との関係について強い劣等感を持っている。彼にとって金閣は単なる歴史的建築物ではない。父から「この世で最も美しいもの」として語り聞かされ、実物を見る以前から、すでに想像の中で特別な存在となっている。

 この点は重要である。溝口は、実物の金閣を見てから美の観念を形成したのではない。言葉と想像によって作られた「完全な金閣」が先に存在し、その後に現実の金閣を見る。したがって、現実の建築物としての金閣と、溝口の内面に存在する金閣とは完全には一致しない。

 現実の建築物には古さも傷みもあり、天候や光、見る位置によって姿が変わる。しかし、観念の中の金閣は変化しない。そこには人間の日常生活を超えた、完全な美が与えられている。この完全性と、溝口自身が感じている不完全さとの間に、強い緊張が生まれる。

 美しいものを見ることは、自分もまた美しくなれるという希望を与えるとは限らない。むしろ、自分がそこからどれほど遠い存在であるかを意識させる場合がある。溝口にとって金閣は憧れの対象であると同時に、自分自身の不完全さを繰り返し確認させる存在にもなっていく。

 さらに、金閣の像は溝口の現実生活へ侵入してくる。女性との関係を築こうとする場面でも金閣が意識に現れ、目の前の現実と向き合うことを妨げる。ここでは、美が現実を豊かにするというよりも、観念として完成された美が現実の人間や出来事を価値の低いものに見せるように働いている。

 ただし、ここから「美は人を不幸にする」という一般的な結論を出すことはできない。『金閣寺』で問題となっているのは、美そのものよりも、溝口が美とどのような関係を結んだかである。彼は金閣を変化する現実の一部として受け入れることができず、絶対的な美として自らの内面に固定していく。

 したがって、『金閣寺』は「美しいものは人間を善い方向へ導く」という単純な考えを揺さぶる作品として読むことができる。美は人を高めることもあれば、自分の不完全さを意識させ、現実との距離を広げることもある。三島が描いたのは建築物の美しさだけではなく、その美に圧倒され、ついには耐えられなくなっていく人間の内面なのである。

『仮面の告白』~美しい肉体と、見る者との距離

 『仮面の告白』では、美の中心が建築物から人間の身体へ移る。この作品の語り手である「私」は、自らの欲望や内面を他者から隠しながら、社会の中で求められる姿を演じようとする。題名にある「仮面」は、単純な嘘というより、自分の内面と社会に見せる自己との間に生じる距離を象徴していると読むことができる。

 作品に登場する美しい男性の肉体は、「私」が自然に近づき、触れ、日常を共有できる対象として描かれるとは限らない。むしろ、多くの場合、それは見る対象である。ここには『金閣寺』との共通点がある。金閣が溝口にとって自由に所有することのできない美であったように、美しい肉体もまた、「私」にとって距離を伴う存在として立ち現れる。

 しかし、『仮面の告白』の距離は物理的な距離だけではない。社会的な距離であり、心理的な距離であり、自分の内面と他者に示す自己との距離でもある。しかも、「私」が美しいと感じる肉体は、単なる健康な身体や均整の取れた身体として描かれるのではない。絵画や宗教的図像、物語、死のイメージなどと結びつき、現実の身体以上の意味を帯びていく。

 ここから、美が対象だけによって成立しているのではないことが分かる。同じ人物や同じ身体を見ても、すべての人間が同じ美を感じるわけではない。「私」の記憶、欲望、孤独、想像力が、その肉体に与えられる意味を変化させる。

 また、美しい肉体を見ることは、自分自身を意識することでもある。自分が持っていないもの、自分とは異なるもの、自分が簡単には近づけないものほど、強い美として感じられる場合がある。『仮面の告白』では、距離や禁忌が美を増幅していると読むことができるが、それを人間一般に成立する法則と考えるべきではない。

 この作品で重要なのは、美を見つめることによって、語り手が自分自身について考えざるを得なくなることである。美しい対象は単なる鑑賞物ではなく、欲望、社会規範、孤独、自己認識を浮かび上がらせる装置として働いている。その意味で、『仮面の告白』における美は、人間を外の世界へ解放するというより、自分自身の内面へ深く向かわせる美だと言える。

『潮騒』~生活の中に置かれた美

 『金閣寺』と『仮面の告白』では、美は人物と現実との間に距離を生み出す方向へ働く。しかし、三島の作品に登場する美が、常に人間を孤独にし、現実から遠ざけるわけではない。その対照として重要なのが『潮騒』である。

 『潮騒』の舞台は伊勢湾の小島であり、若い漁師の新治と島へ戻ってきた初江との恋愛を中心に物語が進む。周囲には海、太陽、風、星、漁船、漁業、家族、島の共同体が存在し、人物の身体や恋愛はそれらから切り離されていない。

 新治の肉体は、単なる鑑賞の対象ではない。船を動かし、海で働き、危険に対応する身体である。初江の美しさも、現実から切り離された人工的な美として存在するのではなく、島の日常生活や共同体の中に置かれている。ここでは、身体の美しさと、その身体が現実の生活の中で果たす働きとが分離していない。

 海についても同じことが言える。海は美しい風景であると同時に、人間の生活を支える場所であり、危険をもたらす場所でもある。自然は単なる背景ではなく、人間の身体、労働、勇気、成長に直接関わる現実の環境なのである。

 新治と初江の恋愛も、二人だけの観念的な世界で完結しない。島の噂、家族、経済的立場、嫉妬、結婚など、現実的な条件にさらされる。それでも二人は現実を拒否して逃げるのではなく、行動することによって関係を成立させようとする。

 ここには『金閣寺』との興味深い対照がある。溝口は美を見つめ、その意味を内面で増幅していく。『仮面の告白』の「私」も、美しい対象を見ながら自己の内側へ向かう。それに対して新治は、見るだけではなく、働き、判断し、危険に立ち向かい、他者との関係の中で責任を引き受ける。

 本稿で扱う四作品を比較する限り、『潮騒』では美と幸福との距離が比較的近い。しかし、それを単純に「労働と結びついた美は幸福を生む」という因果関係として一般化することはできない。むしろ、『潮騒』では、美が自然、身体、労働、人間関係など現実の生活の複数の要素と分離せずに存在しているため、美と人間との間に『金閣寺』ほど深刻な断絶が生じていない、と考える方が適切だろう。

 『潮騒』は、三島が美を苦悩や孤独だけでなく、人間と世界との調和としても描くことのできた作家であることを示している。

『春の雪』~美はなぜ失われると強く感じられるのか

 『春の雪』は『豊饒の海』四部作の第一巻であり、華族の家に生まれた松枝清顕と綾倉聡子の関係を中心に物語が展開する。二人は互いに惹かれながらも、清顕の自尊心やためらいによって関係を素直に進めることができない。清顕が聡子を遠ざけた後、聡子は皇族との婚約を受け入れ、それによって二人の関係は社会的、制度的にも許されないものになっていく。

 『春の雪』では、美は若さ、季節、身分、恋愛、距離、時間と密接に結びついている。題名の「春の雪」は、この作品の性質を象徴するものとして読むことができる。春の雪は美しいが、長くとどまることはできない。季節の暖かさによって消えていく存在であり、その美しさには最初から消滅の予感が含まれている。

 清顕と聡子の関係にも同じような構造を見ることができる。自由に結ばれる可能性が残されているとき、清顕は自分の感情を十分に受け入れることができない。ところが聡子が皇族との婚約によって遠い存在となると、その感情は激しさを増す。

 ここには、対象との距離と感情の強さとの関係が描かれている。身近で失う可能性の少ないものより、失われようとしているものの方が強く意識されることはある。しかし、『春の雪』から直ちに「人は失うものほど美しく感じる」という普遍的な心理法則を導くことはできない。あくまで、この作品の物語構造の中で、距離と禁忌、喪失の可能性が、美と恋愛の強度を高めていると読むべきである。

 さらに、『春の雪』を単なる「はかない恋愛の物語」に限定することも適切ではない。聡子の皇族との婚約には、個人の恋愛を超えた身分制度や皇室との関係が存在する。清顕と聡子の恋愛は、二人の感情だけではなく、華族社会の秩序、家同士の関係、制度的な禁忌によって形を変えていく。

 また、この作品では若さそのものも美の一部として描かれている。清顕の繊細さ、傲慢さ、ためらい、気まぐれは、若さの魅力であると同時に未熟さでもある。三島は清顕を道徳的に完全な人物として描いてはいない。彼は判断を誤り、相手を傷つけ、自分の感情を扱いきれない。それでも、二度と戻らない時間の中に存在する若者として、その人物全体が美しく造形されている。

 この作品では、美と善は一致しない。善良であるから美しいわけでも、正しい判断をするから美しいわけでもない。矛盾や欠点を含みながら、失われていく時間の中に存在することそのものが、美を作り出している。

 自然、庭園、衣服、建物、儀礼などの描写も、失われていく時間を意識させる。登場人物が属する旧い貴族社会の形式も永続するものではなく、時代の変化の中にある。美しく整えられた世界であるからこそ、それが長く続かないことへの予感が強くなる。

 その意味では、「雪は溶けるから美しい」「春は過ぎるから美しい」「若さは失われるから美しい」という表現は、『春の雪』の一つの読みを簡潔に示している。ただし、作品全体をこの原理だけに還元するべきではない。『春の雪』には、美と喪失だけでなく、禁忌、身分、制度、時代の変化、そして後の『豊饒の海』全体へつながる生と死や輪廻の問題も存在しているからである。

三島由紀夫の文体はどのように美を作るのか

 三島文学について考えるとき、美しい人物や建築物、自然、恋愛といった「何が描かれているか」だけを見るのでは不十分である。同じ海や庭園、人物を扱っても、文章の選び方によって読者が受け取る印象は大きく変わるからだ。三島文学の美を理解するためには、「何を描くか」と同時に「どのように描くか」を見る必要がある。

 三島の文章には、色、光、影、輪郭、表面の質感など、視覚的な要素が多く現れる。ただし、それは写真のように現実をそのまま複写する描写ではない。現実の風景から特定の部分を選び、強調し、配置し直すことによって、一つの構図を作り出している。海や庭園、建築、身体は、単なる現実の対象ではなく、文章によって造形された対象として読者の前に現れる。

 比喩も重要な役割を果たす。比喩とは単に説明を分かりやすくするための道具ではない。ある対象を別のものに重ねることによって、その対象に新しい意味を与えることができる。身体が彫刻のように見え、自然物が人工物のように描かれ、人工物が生き物のように感じられるとき、現実そのものが別の形へ組み替えられる。

 三島の文章では、具体的な感覚と抽象的な観念も密接に結びついている。光、色、音、触覚といった具体的な感覚の描写が、美、時間、孤独、欲望、幸福、死といった抽象的な問題へ結びついていく。『金閣寺』の金閣は建築物でありながら、溝口にとって美の観念となる。『仮面の告白』の肉体は身体であると同時に、欲望や自己認識を引き出す存在となる。『潮騒』の海は自然環境であると同時に、新治の能力や勇気を試す現実の場となる。『春の雪』の雪は自然現象でありながら、時間や若さ、恋愛のはかなさと結びついている。

 人物についても、心理だけで作られているわけではない。容貌、身体、衣服、姿勢、視線、動作、周囲の風景が組み合わされることによって、人物そのものが一つの造形物のように作られていく。清顕や聡子は個人であると同時に、失われていく若さや時代を象徴する像でもあり、新治と初江もまた、一人の若者と少女であると同時に、海と太陽の下に置かれた若い男女の姿として構成されている。

 この方法には、人物を現実の人間以上に整った存在として見せる作用もある。文学上の人物が造形的に完成されればされるほど、日常生活を送る普通の人間から遠ざかる可能性もある。しかし、その人工性は欠点というより、三島文学の重要な特徴の一つだろう。三島は現実の人物をそのまま文章へ移すのではなく、言葉によって人物を作り直している。

 ただし、三島の文体についてより厳密に論じるのであれば、本来は作品本文の具体的な文章を比較する必要がある。「視覚的である」「比喩が多い」「人工的に構築されている」という評価だけでは、それ自体が批評者の印象にとどまる可能性があるからだ。したがって、ここで述べた特徴は三島の文体を理解するための仮説的な整理であり、厳密な文体研究では個々の語彙、比喩、文の構造を具体的に検討する必要がある。

美と幸福を単純な因果関係で結べるのか

 ここまで四作品を見てくると、美と幸福の関係には一定の違いが見えてくる。『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざける方向へ働く。『仮面の告白』では、美しい肉体が欲望と孤独、自己認識を強める。『潮騒』では、美は身体、自然、労働、人間関係の中に置かれ、幸福との距離が比較的近い。『春の雪』では、美は距離、時間、禁忌、喪失によって強められている。

 しかし、この四作品から「美と現実が結びつけば幸福になり、現実から切り離されれば不幸になる」という法則を作ることはできない。対象となる作品は四つにすぎず、しかも無作為に選ばれたものではない。文学作品について統計的な因果関係を推定しているわけでもないため、ここで示せるのは四作品に見られる構造上の傾向である。

 より慎重に言えば、本稿で扱った作品では、美が人間の日常生活から切り離され、絶対化された観念になるほど、人物と現実との緊張が大きく描かれる傾向がある。一方、『潮騒』のように、美が身体、労働、自然、共同体の中に置かれる作品では、その緊張が比較的小さい。

 ただし、美的経験そのものも、対象だけから生まれるわけではない。美しいと感じられる対象の特徴、それを見る人の性格や経験、記憶、欲望、社会的背景、その場の状況などが相互に作用する。したがって、「美が人間を幸福にするか」という問いには、単純な「する」「しない」という答えを与えることは難しい。

おわりに~美は人を救うのか

 『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざけ、自分の不完全さを意識させる。『仮面の告白』では、美しい肉体が欲望の対象となると同時に、語り手自身の孤独や自己認識を浮かび上がらせる。『潮騒』では、美は現実の生活、労働、自然、共同体の中に存在し、人間の行動と結びついている。そして『春の雪』では、美は若さ、距離、禁忌、時間、喪失とともに強められていく。

 この四作品を比較すると、三島文学における美を、対象に固定された一つの性質として捉えることは難しいことが分かる。美は、見る者との距離、生活との関係、所有できるかどうか、失われようとしているかどうか、そして美を前にした人物がどのように行動するかによって、その意味を変えていく。

 だからといって、「美とは完全に主観的なものである」と結論することも適切ではない。人間が美を感じるためには、対象そのものの形、色、身体、自然、建築、言語表現なども重要である。美的経験は、対象だけでも、見る者だけでも成立するものではなく、対象と人間との関係の中で生じると考えた方がよい。

 三島由紀夫は、美しいものを数多く描いた。しかし、三島文学の重要性は、美しい人物や景色を並べたことだけにあるのではない。美しいものを前にした人間が、どのように自分を知り、どのように現実との距離を測り、どのように欲望し、ためらい、行動するのかを描いたところにある。

 そして、その美は作品の外部からそのまま持ち込まれるわけではない。光、色彩、身体、自然、建築、季節、比喩を選び、文章の中へ配置することによって、美は作られる。三島は、美について説明しただけの作家というより、言葉によって美が成立する瞬間そのものを小説の中に構築した作家だったと考えることができる。

 美は人を幸福にするのか。この問いに、三島の小説は一つの答えを与えない。美は人を幸福にすることもあれば、自分の不完全さを意識させることもある。現実を豊かにすることもあれば、現実を色あせて見せることもある。美しいものが人間に何をもたらすかは、美そのものだけによって決まるのではなく、人間がその美とどのような関係を結ぶかにも大きく左右される。

 三島文学の美が現在まで読者を引きつけている理由の一つは、美を単なる慰めや装飾として扱わなかったところにあるのだろう。三島が描いた美は、見る者を静かに満足させるだけのものではない。それは欲望、劣等感、孤独、若さ、幸福、時間、喪失といった、人間が生きるうえで避けることのできない問題を浮かび上がらせる。

 だからこそ、三島由紀夫の小説における美は、「美しい」という言葉だけでは終わらない。美を描きながら、その美を見ている人間そのものを問い返すところに、三島文学の大きな力があるのである。

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