リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

現代文化とサブカルチャー

現代文化とサブカルチャー

 アニメの画面に映った駅へ行く。登場人物が歩いた坂道に立ち、何気ない交差点を写真に撮り、作品の一場面と同じ角度になるようスマートフォンを少し傾ける。その場所に世界遺産があるわけでも、誰もが驚く絶景が広がっているわけでもなく、地元の人にとっては毎朝通り過ぎるだけの道であり、作品を知らなければ旅行者がわざわざ降り立つ理由さえ見つからない場所かもしれない。それでも、ある作品を愛する人にとっては、そこへ行くこと自体が旅の目的になる。

 アニメの舞台やモデルになった場所を訪ねる行為は、いつしか「聖地巡礼」と呼ばれるようになった。本来は宗教的な意味を持つ言葉だが、現在では作品と結びついた現実の土地をファンが訪ねる行為にも広く用いられている。しかし、考えてみれば不思議な現象である。作品の映像なら自宅で何度でも見ることができ、背景になった場所も写真や動画、地図を使えばかなり詳しく調べられる。それでも人は列車や自動車に乗り、ときには数百キロを移動して、「画面ですでに見た場所」を自分の目で見ようとする。

 なぜなのだろう。

 単に「好きなアニメの場所を見たいから」と答えることもできるが、それだけでは、人が時間と費用を使ってまで現地へ向かい、さらに同じ町を何度も訪れることまで説明できない。聖地巡礼を詳しく見ていくと、その背後には作品への没入、場所に与えられた意味、ファン同士の情報共有、現地で生まれる地域への愛着といういくつもの過程があり、そこからは私たちがそもそも「場所を好きになる」とはどういうことなのかという、観光だけでは収まらない問題まで見えてくる。

「ただの場所」が突然、代わりのない場所になる

 一般的な観光地には、旅行者が訪れる理由があらかじめ存在していることが多い。海が美しい、寺院が古い、温泉が湧く、料理がおいしいといった特徴があり、その価値を知った旅行者が現地へ向かう。ところがアニメの聖地では、ときにこの順序が反対になる。最初から観光地として価値が認識されていたのではなく、作品によって物語が重なった結果、それまで普通だった場所が特別な場所へ変わるのである。

 駅前のベンチは全国に無数にあり、学校へ続く坂道も珍しくない。それでも、主人公がそこで誰かを待ち、物語を左右する会話を交わし、最後にもう一度その場所へ戻ってきたとなれば、そのベンチや坂道は、ファンにとってほかの場所では代用できなくなる。同じ形のベンチを別の町に置いても意味はなく、もっと美しい坂道を見つけたとしても代わりにはならない。「あの場面の場所」という物語上の意味が加わった瞬間、ありふれた風景に交換不可能な価値が生まれるからである。

 ここには、観光資源についての興味深い逆転がある。一般には、魅力的な場所だから人が物語を語ると考えがちだが、聖地巡礼では、物語があるから場所が魅力的になることがある。海そのものが変わったわけでも、駅舎が豪華になったわけでもないのに、作品を知った人の目には、それまでとは違う風景として映り始める。

 もちろん、アニメの登場人物が現実にその場所を歩いたわけではない。登場人物そのものが架空の存在であり、作品の背景も現実の景色を忠実に写したとは限らない。それでもファンが現地に立ち、作品の記憶と実際の風景が重なった瞬間、画面の中にしかなかった世界と現実の土地との間に、自分なりの接点が生まれる。現実の場所が作品を「本物」にするというより、現実の場所を見ることで、自分の中にあった物語が立体的になっていくのである。

作品を見ることと、作品の場所を歩くことは違う

 アニメを見る行為を単純に「受動的」と考えるのは正確ではない。視聴している人は登場人物の意図を推測し、過去の場面を思い出し、次の展開を予想し、人物に感情移入しながら物語を理解しているため、心理的にはかなり能動的に作品へ参加している。ただし、どれほど深く作品へ入り込んでも、自分の身体まで画面の中へ置くことはできない。

 聖地巡礼では、この最後の境界が少しだけ動く。駅に降り、坂道を上り、作品と似た風景を探して歩くとき、ファンは作品について考えるだけでなく、自分の身体を使って作品世界をなぞることになる。画面では数秒だった道が実際には思いのほか長かったり、静かな場面として描かれた海岸では波の音や自動車の音が聞こえたり、夏の物語なら強い日差しや潮の匂いまで感じたりすることで、視覚と聴覚だけで知っていた物語へ、温度、匂い、距離、疲労といった身体感覚が加わっていく。

 作品舞台を訪れた人を対象にした研究でも、場所に対する「知っている感じ」や懐かしさ、現地での感動と作品への没入との関連が確認されている。ここから直ちに「作品に没入すれば必ず聖地へ行く」とまでは言えないが、作品と現実の場所が結びつくことが旅行体験を特別なものにするという説明には、一定の実証的な裏付けがある。

 情報だけなら現地へ行かなくても手に入る時代に、それでも巡礼がなくならない理由もここにある。インターネット上の写真は「その場所がどう見えるか」を教えてくれるが、「自分がそこへ行った」という経験までは与えてくれないからである。旅の価値は、未知の情報を手に入れることだけではなく、自分自身の記憶に新しい出来事を加えることにもある。

なぜ作品と同じ構図で写真を撮るのか

 聖地を訪れた人がよく行う行為の一つに、アニメの画面と同じ角度から現実の風景を撮影する「構図合わせ」がある。純粋に美しい写真を撮りたいのであれば、もっと自由に構図を選べばよいはずだが、巡礼者は電柱の位置や道路の曲がり方、建物の角度まで確かめながら、自分が立つべき位置を探すことがある。

 そこで行われているのは、単なる記念撮影というより、虚構と現実の照合に近い。

 作品の画面と目の前の景色が重なる場所を見つけ、「確かにここだ」と感じる瞬間には、他人から教えられた観光名所を見るのとは少し違う発見の喜びがある。作品の舞台を探し出す行為そのものが一種のゲームのようになり、場所を見つけた人が写真や情報を公開すると、その情報を手掛かりに別のファンが訪れ、再び写真を撮り、その体験を共有する。この連鎖によって、制作側や自治体が最初から観光地として指定したわけではない場所でも、ファンの間で徐々に「聖地」として認識されるようになる。

 だから聖地は、作品だけによって生まれるものではない。作品が最初の意味を与え、ファンが現実の場所を探し出し、訪問と情報共有を繰り返し、さらに地域の人々がその訪問者を受け入れることで、一つの場所に新しい意味が積み重なっていく。聖地とは地図上の点ではなく、作品、ファン、地域の関係によって育っていく場所だと考えた方が実態に近い。

「なぜ最初に行くのか」と「なぜまた行くのか」は同じではない

 ここで重要なのは、聖地巡礼を一つの心理だけで説明しないことである。初めてその土地へ行こうと思う理由と、一度訪れた土地へ再び行きたくなる理由は、必ずしも同じではない。

 初回の訪問では、作品への強い興味、画面と現実を照合したい好奇心、ほかのファンが投稿した写真や旅行記などが動機になりやすい。ところが実際に現地へ行ったあとは、作品には登場しなかった店で食事をし、地元の人と話し、作品とは直接関係のない風景を見るため、旅行者の中に「作品の舞台」とは別の「実際に訪れた町」としての記憶が生まれる。

 この二つが重なると、巡礼は少しずつ性質を変える。

 最初は作品を確かめるために訪れたはずなのに、二度目には前回入った店へ行きたいと思い、三度目には季節の違う風景を見たくなり、やがて作品に登場しない場所まで歩くようになる。ここまで来れば、旅行者を引きつけているものは作品だけではない。

 アニメ聖地巡礼に関する複数の研究でも、作品への興味を出発点とした訪問が、その後の地域への関心や愛着と結びつくことが報告されている。熊本県人吉市を舞台の一つとする『夏目友人帳』についても、作品への関心から始まった行動が地域そのものへの関心へ広がり、再訪につながる可能性が指摘されている。また、静岡県沼津市を舞台とする『ラブライブ!サンシャイン!!』を対象とした調査でも、訪問回数や旅行満足度、地域住民との交流などと地域への愛着との関連が確認されている。

 ただし、「地域を好きになったから何度も訪れる」のか、「何度も訪れたから地域を好きになった」のかを完全に切り分けるのは簡単ではない。旅行好きで人との交流を好む人ほど巡礼や再訪をしやすいという第三の要因も考えられるため、研究から分かるのは、作品への関心、現地での経験、地域への愛着、再訪が互いに関連しているというところまでである。

 それでも、この区別をした方が聖地巡礼という現象はむしろ面白くなる。アニメには人を初めてその町へ連れてくる力があり、町には一度来た人をもう一度呼び戻す力があるのかもしれないからだ。

作品を見に来た人が、町を好きになって帰る

 近年の数量的な研究でも、この変化を支持する結果が報告されている。日本国内でアニメ聖地巡礼を経験した人を対象とした研究では、作品世界を感じられる目的地としての魅力が、場所への愛着と関係し、その愛着が再訪意向などの目的地へのロイヤルティーと結びつく経路が統計的に検討されている。

 この結果を「作品が地域愛着を生み、それが必ず再訪を引き起こす」と断定することはできない。調査研究では、無作為化された実験のように因果関係を完全に統制できるわけではなく、モデルの適合度にも限界がある。それでも、作品世界を追体験できるという魅力だけでなく、訪問後に形成される「この場所が好きだ」という感情が、その土地との長期的な関係に関わっているという考えには、数量的な裏付けが積み重なりつつある。

 これは地域観光にとって興味深い現象である。一般的な観光宣伝では、地域が先に自分の魅力を旅行者へ説明しようとする。「美しい自然があります」「歴史があります」「おいしい料理があります」と知らせ、その魅力を理解した人に来てもらうわけだが、聖地巡礼では旅行者がその町についてほとんど知らない状態でも、作品が最初の訪問理由を作ることがある。

 言ってみれば、作品がとりあえず人を町まで連れてくるのである。

 そこから先は現実の町の仕事になる。作品には登場しなかった料理を食べ、商店の人と話し、季節によって変わる海や山を見て、「この町にはこんな場所もあったのか」と気づけば、作品と地域の関係は逆転し始める。最初はアニメを見るために町を訪れた人が、やがて町を訪れる理由の一つとしてアニメを持つようになるのである。

「何を見るか」より「どんな記憶を持って見るか」

 聖地巡礼は、観光地の価値とは何かという問いにもつながっている。

 作品を知らない人と熱心なファンが同じ踏切を見れば、物理的にはまったく同じ踏切を見ている。しかし、二人が経験しているものは同じではない。片方にとっては単なる交通設備でも、もう片方には登場人物の表情、台詞、音楽、その場面を初めて見た日の記憶まで重なって見えることがある。

 風景そのものには、そこまで多くの情報が含まれているわけではない。見る人が持ってきた記憶が風景へ重なることで、その場所の意味が増えていく。

 これはアニメだけに起こる特殊な現象でもない。小説を読んだあとで作家ゆかりの土地を歩いたり、映画のロケ地を訪ねたり、歴史上の人物が歩いた道に立ったりするときにも、似た経験が生じる。何も知らずに見る風景と物語を知ったうえで見る風景が違って見えるのは、人が土地そのものだけでなく、自分が知っている物語や記憶を通して場所を経験しているからである。

 そう考えると、観光資源とは必ずしも巨大な建築物や絶景だけではない。「その場所をどのように見るか」という意味の枠組みも、観光資源になり得る。

地域が「聖地」を作り過ぎるという難しさ

 ここまで読むと、「それならアニメに町を登場させ、自治体が聖地として宣伝すれば地域活性化になる」と考えたくなるが、話はそれほど単純ではない。

 すべての作品で大規模な巡礼が起こるわけではなく、巡礼が始まっても長期間続くとは限らない。作品の人気だけでなく、風景の印象、場所を発見する楽しさ、交通の利便性、ファン同士の情報共有、地域住民の受け入れ方など多くの条件が絡み合ううえ、人気作品が終了したあとまで同じ人数が訪れ続ける保証もない。

 しかも、地域側が熱心になればなるほど成功するとも限らない。ファン自身が作品の場面を手掛かりに場所を探し、「ここではないか」と発見することも聖地巡礼の楽しみの一部であり、近年の研究では、巡礼を通常の商品化された観光とは異なるファン活動として捉える議論もある。行政や観光事業者が最初からあらゆる場所を「公式の聖地」として定義してしまえば、ファン自身が場所に意味を与える余地を狭める可能性はある。

 ただし、ここでも「整備すれば必ず失敗する」と考えるべきではない。案内表示や交通情報、地域との交流機会が巡礼者の満足度を高める場合もあるため、重要なのは整備するかしないかという二択ではなく、ファンが発見する余白と地域側が受け入れる仕組みとのバランスなのだろう。

 観光地に仕立て上げることより、すでに生まれているファンと場所との関係を壊さず育てることの方が難しいのである。

数字で見るときに忘れてはいけないこと

 聖地巡礼についての調査を見るときには、もう一つ注意が必要になる。研究の多くは、実際に聖地を訪れた人を対象としているため、「なぜ巡礼した人がその場所を好きになるのか」は比較的調べやすいが、「作品を見た人の中で、なぜ一部の人だけが現地へ向かうのか」という問題は、それほど単純ではない。

 たとえば一万人のファンのうち千人だけが聖地を訪れ、その千人の半数が地域へ強い愛着を持ったとする。巡礼者だけを見れば「半数が地域を好きになった」と言えるが、ファン全体で考えれば五%である。現地に来なかった九千人を除いて調査すれば、聖地巡礼の力を実際より大きく見積もってしまう可能性がある。

 これは聖地巡礼の価値を否定する話ではなく、むしろ現象を正確に見るために必要な区別である。作品を見る人、実際に初めて訪れる人、再訪する人、長期的に地域との関係を持つ人は同じ集団ではなく、その段階ごとに働く心理も違うと考えた方が自然だからだ。

 最初の一歩では作品への興味や好奇心が働き、現地では作品世界との照合や発見が満足感を生み、その後には地域での経験や人との交流が愛着と結びつく。聖地巡礼を一本の矢印で説明するのではなく、このようないくつかの段階からなる行動として見る方が、実際の姿に近い。

人は場所へ旅をするのではなく、意味へ旅をする

 アニメの聖地巡礼がなぜ人を現地へ向かわせるのかを考えてきたが、最後に残るのは、意外に単純なことなのかもしれない。

 人は美しい場所だから旅をすることもあれば、有名だから旅をすることもある。しかし、それだけではない。自分にとって意味のある場所になったから旅をすることもある。

 アニメは、本来なら旅行者が通り過ぎていた駅や商店街、踏切、坂道、海岸に物語を重ねる。作品を見た人は、画面の中で知っていた風景を自分の身体で確かめたくなり、現地へ着けば今度は作品にはなかった音や匂い、店、人との出会いまで記憶に加わる。その結果として必ず地域愛着が生まれるわけではないが、少なくとも一部の巡礼者にとっては、作品への愛着と現実の土地への愛着が少しずつ重なっていく。

 最初に好きだったのはアニメだったはずなのに、いつの間にかその町の店が閉店しないか気になり、祭りの日程を調べ、季節が変わればまた行きたいと思うようになる。そこまで来れば、その人にとって聖地はもうアニメの背景ではなく、自分自身の記憶が置かれた場所になっている。

 だから、インターネットでどれほど鮮明な写真を見ることができ、映像の中で何度その風景を確認できるようになっても、聖地巡礼そのものは簡単には消えないのだろう。場所の情報を見ることと、自分がその場所まで行き、「ここにいた」と記憶することは同じではないからである。

 アニメが人を遠くの町へ向かわせる力とは、架空の世界を現実にしてしまう魔法ではない。それはむしろ、誰かにとって何でもなかった現実の場所へ物語を重ね、その場所を「自分にとって意味のある場所」に変えてしまう力なのかもしれない。そして人は、ときに場所そのものではなく、そこに生まれた意味を確かめるために旅をするのである。

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 世の中には、知っていても人生がそれほど便利にはならない知識がある。鉄道の線路のわずかな違い、専門業者しか使わない道具の名称、街角に残された妙な設備、外国の歌が偶然日本語のように聞こえる一瞬。試験には出ないし、履歴書にも書けない。それを知ったからといって給料が上がるわけでもなければ、仕事が速くなるわけでもない。それなのに人間は、そういう知識に出会ったとき、なぜか少し嬉しくなる。

 『タモリ倶楽部』という番組は、40年以上にわたって、その不思議な喜びをテレビの中に残していた。

 1982年に始まり、2023年に終了したこの番組を振り返ると、普通のテレビ番組とは少し違った場所に立っていたことに気づく。世間で話題になっているものを急いで追いかけるわけでもなければ、社会的に重要な問題を真正面から論じるわけでもない。むしろ、普通なら企画会議で「それを誰が見るのだろう」と心配されそうな題材を、面白そうだからという理由で拾い上げ、そこに時間を費やしていた。

 鉄道、地図、地形、楽器、機械、工具、道路、建築物。ある分野では知られていても、世間一般にはほとんど名前の通っていない専門家が現れ、普通の人には見分けのつかない違いについて熱心に語る。するとタモリも、その細部へ面白がって入っていく。そこでは「この知識は何の役に立つのですか」という問いが、ほとんど必要とされていなかった。

 いま考えると、それこそがこの番組の珍しさであり、同時に知識というものの本来の面白さを映していたのかもしれない。

「何の役に立つのか」と聞かない世界

 私たちは子どものころから、知識には何か目的が必要だと教えられている。学校で勉強するのは試験のため、資格を取るのは仕事のため、外国語を学ぶのは海外で使うため、情報を集めるのは判断のためというように、知ることにはいつの間にか「その先」が要求される。

 もちろん、それ自体は間違っていない。知識が生活を便利にし、仕事を助け、社会の問題を解決してきたことは疑いようがない。しかし、知識の価値を役に立つかどうかだけで測り始めると、まだ用途の分からないもの、あるいはそもそも用途を必要としないものは、知らなくてもよいものとして扱われやすくなる。

 ところが人間の好奇心は、それほど実用一点張りにはできていないらしい。心理学では、直接的な報酬や意思決定に役立たなくても情報を知りたがる行動が研究されている。すぐに得になるわけでもないのに、人は結果を知りたがり、答えを確かめたがり、知らなかったことを知った瞬間に満足を感じる。こうした性質は、知識を単なる道具として考えるだけでは説明しきれない。

 『タモリ倶楽部』は、その人間の性質を番組の形式にしていたように思える。

 何かを知る理由は、それが面白いからでもよい。道路の片隅にあるものの名前を知りたくなったら調べればよく、普通の人には見分けのつかない機械の違いを見分けられる人がいるなら、その人の話を聞いてみればよい。その世界に入ったところで明日から人生が変わらなくても、昨日まで存在すら意識していなかったものが、今日から少し違って見えるなら、それだけでも知る価値はある。

 考えてみれば、子どもの学びにはそのような場面がいくつもある。将来何かに使えるからという理由ではなく、ただ気になるから質問し、石を拾い、雲を眺め、乗り物の名前を覚え、同じことを何度も確かめる。もちろん子どもの好奇心にも個人差はあるが、少なくとも人間には、外から目的を与えられなくても「知りたい」と感じる力がある。

 大人になるにつれて、私たちはその感覚を少しずつ忘れてしまうのかもしれない。

世界には、自分の知らない専門家がいる

 『タモリ倶楽部』を見ていると、もう一つ不思議なことに気づかされた。世の中には、こちらが存在さえ知らなかった世界について、驚くほど詳しい人がいるということである。

 普通のテレビでは、出演者の価値は知名度によって左右されやすい。有名な俳優、有名な歌手、有名な芸人が画面の中心になる。しかし『タモリ倶楽部』では、題材によって主役が簡単に入れ替わった。ある専門分野について話し始めれば、その瞬間だけは芸能人よりも、その世界を何十年も見続けてきた人の方が圧倒的に面白くなる。

 そこには、知識についての小さな民主主義のようなものがあった。

 世間的な地位や知名度とは別に、人は誰でも何かについて詳しくなることができる。一見すれば狭すぎる趣味であっても、長い時間をかけて観察し続ければ、そこには固有の知識と見方が生まれる。そして、その世界を本当に好きな人の話には独特の熱がある。

 面白いのは、知識そのものより、その熱が伝染することである。こちらにはまったく興味のなかった分野なのに、詳しい人が嬉しそうに話しているのを聞いているうちに、なぜかこちらまで面白くなってくる。それは単に新しい情報を受け取っているのではなく、「こんなふうに世界を見ることができるのか」という別の視点を教えられているからだろう。

 同じ道路を歩いていても、建築に詳しい人は建物の形を見るかもしれず、道路設備に詳しい人は標識やガードレールを見るかもしれない。鉄道好きなら線路の構造に目が向き、電気設備に関心があれば電柱や配線が気になる。人間の注意や識別能力は経験によって変化し、知識を持つことで、それまで一つにしか見えなかったものの違いが見えるようになることがある。心理学では、こうした経験による知覚や識別の変化は知覚学習という考え方から研究されてきた。

 知識とは、頭の中に情報を蓄えることだけではなく、世界の解像度を少し上げるものなのかもしれない。

「空耳アワー」が見せた、間違えることの豊かさ

 その意味では、長く親しまれた「空耳アワー」も、この番組を象徴する存在だった。

 外国語の歌詞が偶然日本語のように聞こえる。冷静に考えれば、それは聞き間違いである。外国語の学習なら訂正すべき対象になるし、正確な情報伝達なら誤りとして扱われる。

 ところが『タモリ倶楽部』は、その間違いを捨てなかった。むしろ「そう聞こえてしまう」という人間の耳の曖昧さを面白がり、そこへ映像まで付けて一つの作品にしてしまった。正しい歌詞を確認すれば数秒で終わる話を、わざわざ遠回りして遊び、その無駄の中から笑いを作ったのである。

 これは考えてみれば、少し不思議な態度である。

 現代では、情報へ到達する速度は以前よりはるかに速くなった。検索すれば短時間で大量の情報に触れることができ、機械は誤字を訂正し、人工知能は質問に即座に回答する。しかし、正解へ早く到着できることと、途中に現れた間違いや偶然を面白がることは同じではない。

 人間の文化を振り返れば、勘違い、聞き間違い、言葉遊び、偶然の連想から、新しい冗談や表現や物語が生まれることもある。だからといって間違いそのものが価値を持つわけではないが、間違いをただ捨てるのではなく、そこから何かを見つける能力は、正解へ到達する能力とは別の種類の知性なのだろう。

 「空耳アワー」は、そのことを難しい理屈ではなく、笑いとして見せていた。

検索できる時代ほど、偶然に出会うことが重要になる

 インターネットが普及してから、「知識を覚える必要は以前ほどない」という考えを耳にすることが増えた。分からなければ検索すればよいというわけで、実用という観点だけなら、その考えには十分な合理性がある。

 しかし、検索という行為には構造上の特徴がある。検索は、すでに言葉になっている疑問を調べることには非常に強いが、そもそも自分が存在を知らないものについては、検索語を思いつくことさえ難しい。

 街の片隅に奇妙な設備があったとして、その存在に気づかなければ調べようとは思わない。誰かが鉄道について楽しそうに話しているのを見なければ、自分が鉄道の構造を面白いと思う人間だったことに、一生気づかなかったかもしれない。

 もちろん現代のインターネットには、検索だけではなく、関連情報や推薦などを通じて偶然未知のものに出会う仕組みも存在する。そのため、デジタル化によって偶然の発見が消えたと考えるのは正確ではない。それでも、自分が探していなかった情報に偶然出会い、そこから新しい関心が生まれる現象が、知識を広げるうえで重要であることに変わりはない。

 情報研究の世界では、こうした偶然の情報との出会いそのものが研究対象になっている。人間は必ずしも、最初から明確な目的を持って情報を探しているわけではない。別のものを探している途中に気になるものを見つけたり、偶然目にした話題から新しい関心を持ったりする。その寄り道から、自分でも予想していなかった知識の領域が開くことがある。

 『タモリ倶楽部』が毎週のように差し出していたものも、答えというより、そのような入口だったのではないだろうか。

 知らなくても困らない。しかし、知ってしまえば少し気になる。その小さな気掛かりから別の知識へ進み、さらに別の世界へ横道をそれていく。そこには、最短距離で答えを得ることとは違う、知識との付き合い方があった。

好奇心は、記憶にも影響する

 役に立つ知識には、多くの場合、学ぶ理由が外側から与えられている。試験に合格するため、仕事をするため、収入を得るため、生活を便利にするためである。それに対して、すぐには何の役に立つか分からない知識の場合、そうした外側の目的が弱くても、人はただ知りたいという理由だけで調べることがある。

 心理学では、活動そのものを面白いと感じて行動することを内発的動機づけとして捉えてきた。好奇心もその一つとして考えることができ、興味を持って知ろうとしているときには、情報の記憶が促されることを示した研究もある。

 興味深いのは、好奇心を抱いている状態では、知りたかった情報だけでなく、その周辺で偶然触れた情報まで記憶されやすくなる場合が報告されていることである。つまり「面白いから知りたい」という状態は、単なる気分ではなく、学習そのものにも影響する可能性がある。

 そう考えると、「誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう」という経験にも、少し説明がつく。

 もちろん、役に立たない知識だから記憶に残るわけではない。重要なのは、その情報に対してどれだけ好奇心や関心を持ったかである。それでも、試験にも仕事にも関係のないことを何十年も覚えているという経験は、多くの人にあるのではないだろうか。

 そして、そのような知識こそ妙に自分らしい。

無駄だからこそ、自分で選んだものになる

 誰にも覚えろと言われていないのに覚えてしまう。試験に出ないのに調べてしまう。人に話せば「それを知ってどうするの」と言われそうなのに、なぜか気になる。

 もちろん、趣味の知識であっても、仲間との交流や社会的評価など外側の目的と結びつくことはある。それでも、少なくとも始まりのところでは、「面白いから」という理由だけで十分な場合がある。

 趣味というものも、おそらくそのような場所から育っていく。

 効率だけを考えれば、模型を作る必要も、古いレコードを集める必要も、廃線を歩く必要も、珍しい道具を調べる必要もない。しかし人生からそうした「必要ではないこと」をすべて取り除けば、残るのは食事と睡眠と仕事と事務手続きばかりになってしまう。

 人間の生活を豊かにしているもののかなりの部分は、生存だけを基準にすれば不要である。音楽も、小説も、旅行も、趣味も、それがなければ生命を維持できないという意味では必要不可欠ではない。それでも私たちは、それらのために時間を使う。人間はただ生き延びるだけではなく、世界に意味や面白さを見つけながら生きているからだろう。

 「役に立たない」という言葉は、ときに「価値がない」という意味で使われる。しかし、役に立つことと価値があることは、本来同じではない。

「無駄」を許せる場所は残っているか

 そのように考えると、『タモリ倶楽部』が40年以上続いたこと自体が、少し不思議に思えてくる。

 テレビ番組にも視聴率があり、広告には効果が求められ、インターネットの記事には閲覧数があり、動画には再生回数が表示される。何かを作れば、その成果が数字になって返ってくる場面は増えている。

 数字が悪ければ改善し、成果の出ないものを見直す。それは組織を運営するうえで当然の判断であり、効率を求めること自体が悪いわけではない。

 ただ、その合理性をあまりに広い範囲へ押し広げていけば、「何の役に立つかは説明できないが、なぜか面白い」というものが存在できる場所は、少なくなっていくのではないだろうか。

 『タモリ倶楽部』には、その反対側にある空気があった。

 大げさな感動を作る必要もなく、社会的意義を宣言する必要もなく、人生の教訓へ結びつける必要もない。ある世界について異様に詳しい人がいて、タモリが興味を示し、周囲の人間も面白がる。それだけで番組になる。

 そこには、知的好奇心を急いで成果へ変換しない自由があった。

「役に立たない」という言葉を疑ってみる

 しかし、ここまで考えてくると、そもそも「役に立たない知識」という言い方自体が少し怪しくなってくる。

 知ったことで仕事の能率が上がるわけではない。収入も増えない。資格も取れない。しかし、それまで見えていなかったものが見えるようになるなら、その知識はまったく役に立っていないのだろうか。

 道路を歩いているとき、それまで単なる鉄の箱にしか見えなかったものの意味が分かる。電車に乗ったとき、線路の形が少し気になる。音楽を聞いていると、妙な聞こえ方に気づく。それだけで、昨日とまったく同じ街が少し違って見える。

 知識には、問題を解決するための道具としての役割だけではなく、世界の見え方そのものを変える役割もある。

 そう考えるなら、「役に立たない知識」とは本当に役に立たないのではなく、役立ち方を簡単には数字にできない知識なのかもしれない。

知識とは、世界を少し面白くするもの

 『タモリ倶楽部』が2023年に終了したとき、テレビ朝日は、1982年の放送開始以来40年という節目を迎え、番組としての役割を十分に果たしたと説明した。実際、どんな長寿番組にも終わりはある。

 しかし、番組が残した見方まで終わったわけではない。

 街を歩いているとき、誰も気にしていない看板が気になる。電車に乗っているとき、線路の分岐を眺めてしまう。知らない専門用語を見つけると意味を調べたくなる。外国の歌を聞いて、妙な日本語が聞こえたような気がして、一人で笑ってしまう。

 その瞬間、私たちは少しだけ『タモリ倶楽部』の視聴者に戻っている。

 役に立つかどうかを決める前に、まず面白がってみる。知らないものに出会ったとき、それをすぐ自分には関係のないものとして閉じるのではなく、もう少し眺めてみる。

 すると世界は、思っていたよりずっと細かくできていることに気づく。道路には道路の事情があり、鉄道には鉄道の事情があり、工具には工具の事情があり、歌には聞き間違える余地があり、それぞれについて驚くほど詳しい誰かがどこかにいる。

 人生に本当に必要なのは、すぐに役に立つ知識だけなのだろうか。

 「こんなことを知っていて何になるのだろう」と笑いながら覚えたことの方が、何十年も記憶に残っていることがある。その知識は仕事を助けなかったかもしれないし、お金にもならなかったかもしれない。しかし、それを知ったことで世界の一部分が昨日より面白く見えたのなら、それを完全に「役に立たなかった」と呼ぶことは難しい。

 『タモリ倶楽部』が長い時間をかけて見せてくれたのは、知識にはもう一つの使い道があるということだったのかもしれない。問題を解くためでも、誰かに勝つためでも、効率よく目的へ到達するためでもなく、知らなかった世界に一歩だけ入り込み、その世界を昨日より少し面白く見るために知るのである。

 役に立つかどうかは、そのあとで考えればいい。

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