リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 誰かについて「あの人は仕事ができる」「文章はうまいが内容が浅い」「この作家は昔ほど面白くない」と語るとき、私たちはごく自然に他人を評価している。映画を見れば星を付け、本を読めば感想を書き、店に行けば口コミを残す。インターネットとSNS(Social Networking Service・社会的ネットワークを形成するサービス)の普及によって、私たちは以前よりもはるかに多く、商品や作品だけでなく、人間そのものまで数値や短い言葉で評価し、その評価を他人と共有するようになった。

 そのため「批評」という言葉にも、どこか採点に似た響きがまとわりついている。優れているか劣っているか、正しいか間違っているか、見る価値があるかないかを判定することが批評なのだと思われやすい。しかし、小林秀雄の文章を読んでいると、批評という仕事はそのような単純な採点とはかなり違うことに気づかされる。むしろ、他人を簡単に評価してしまう態度から離れ、目の前にある人物や作品が本当はどのようなものなのかを見続けるところに、批評の核心があるのではないかと思えてくる。

評価することは、案外簡単である

 人を評価するためには、何らかの物差しが必要になる。文章なら分かりやすさ、映画なら面白さ、政治家なら政策や実績、料理なら味や価格というように、私たちは意識するかどうかにかかわらず、何らかの基準を持ち出して対象を測っている。その基準そのものが悪いわけではない。試験に採点基準がなければ点数は付けられないし、商品を比較するときにも価格や性能という尺度は必要である。

 問題は、物差しを持った瞬間に、その物差しで測れる範囲だけを対象そのものだと思ってしまうことである。たとえば、ある小説を「展開が遅い」という理由で低く評価するとする。その判断自体は間違いとは言えない。しかし、なぜその小説は遅く書かれているのか、その遅さによって作者は何を感じさせようとしているのか、さらに考えれば、自分はいつから「展開が速い作品ほど面白い」という基準を持つようになったのかという問いまで現れてくる。

 ここまで来ると、対象を測っていたはずの物差しそのものが、今度は問いの対象になる。評価は対象を物差しの上に置くが、批評はときとして、その物差しを握っている自分の手まで見ようとするのである。

小林秀雄にとって、批評は欠点探しではなかった

 文春文庫版『考えるヒント』に収められた「批評」で、小林秀雄は、対象を正しく評価することを、その対象に固有の性質を明らかにすることとして考えている。ここでいう評価は、現在よく見かける「5点満点で3.8」といった意味とはかなり異なる。対象を外側から序列に並べるのではなく、「これはいったい何なのか」と、そのものにしかない性質へ近づいていこうとするのである。

 これは、今日の感覚からすれば少し不思議な批評観かもしれない。一般に批評家という言葉から想像するのは、作品の弱点を鋭く指摘し、作者も気づかなかった矛盾を暴き出す人物ではないだろうか。しかし小林の考えでは、単に貶すことそのものには、それほど大きな批評性はない。欠点なら比較的簡単に挙げることができるからである。文章が長い、説明が足りない、論理が弱い、古臭いといった言葉を並べれば、それらしい批評文は作れるが、その言葉だけでは対象の固有性についてほとんど何も発見していないこともある。

 他人の欠点を指摘しているとき、私たちはしばしば安全な場所に立っている。自分は観察する側であり、相手は観察される側である。その距離が保たれているかぎり、自分自身の価値観が揺さぶられることは少ない。ところが、本当に強い作品や人物に出会うと、その安全な距離が崩れることがある。理解できないのに無視できず、嫌いなのに気になり、間違っていると思うのに、そこには自分の知らない何かがあるように感じる。そのような抵抗のある対象に出会ったときこそ、批評は始まるのかもしれない。

「分からないもの」をすぐ裁かない

 人間には、曖昧な状態を長く抱えるよりも、何らかの結論を得て不確実性を小さくしたいという傾向がある。心理学でも、曖昧さに耐えながら判断を保留することには個人差があり、はっきりした答えを早く求めようとする傾向が研究されている。

 そのため、分からないものに出会ったとき、評価によってひとまず結論を与えてしまうことは、不確実さから逃れる一つの方法になる。「つまらない」「時代遅れだ」「難しいだけだ」と名前を付ければ、その対象について考え続けなくても済む。しかし、名前を付けたことと、理解したことは同じではない。

 小林秀雄の文章を読んでいると、一つの作品、一人の人物、一つの思想の前で長い時間立ち止まっているような感覚を覚えることがある。それは結論を出せないからではなく、簡単な結論によって対象を処理してしまうことを警戒しているからだろう。考えるとは、すぐに答えを出すことではなく、答えが出ない状態にも一定の時間とどまることなのかもしれない。

 ある人物について「私はこの人が嫌いだ」と感じる場合も同じである。嫌いという感情を否定する必要はない。しかし批評するのであれば、「嫌いだから価値がない」というところで止まることはできない。なぜ自分はその人を嫌うのか、その人物のどのような性質が自分に抵抗を感じさせるのか、その抵抗の中に自分自身の価値観がどのように現れているのかまで考え始めれば、批評の矢印はいつの間にか対象だけでなく自分にも向かっている。

 批評とは、他人を裁くために高い場所へ上ることではなく、対象と自分との間に何が起きているのかを注意深く見ることなのではないだろうか。

星の数では見えなくなるもの

 インターネット以後、私たちは対象そのものに触れる前から、その対象についての評価を目にすることが増えた。本を買えば星が並び、映画を選べば点数が表示され、飲食店を探せば口コミの平均値が先に目に入る。数字は便利である。知らない店が100軒並んでいれば、一軒ずつ確かめることなどできないから、評価は大量の情報を圧縮してくれる。

 しかし、その便利さには代償もある。心理学や行動研究では、事前に示された他者の評価が、その後の判断に影響することがあると知られている。つまり、星が高いと知らされてから作品を見る場合と、評判が悪いと知らされてから見る場合では、私たちは必ずしも完全に同じ条件で対象を見ているわけではない。

 「これは傑作なのだ」と思って見れば、傑作らしい理由を探しやすくなり、「評判が悪い」と聞いて見れば、欠点へ注意が向きやすくなる可能性がある。もちろん、人間が完全な白紙の状態で何かを見ることは難しい。だからこそ、自分が何を見ているのかだけでなく、どのような先入観を通して見ているのかまで意識する必要がある。

 SNSでは、この問題がさらに分かりやすい形で現れる。ある人物が発言したとき、その内容を十分に読む前に、「この人は信用できる側か」「信用できない側か」と分類してしまうことがある。一度そのような人物像を作ると、その後の発言も、その人物像に沿って解釈されやすくなることがある。批評しているように見えながら、実際には目の前の発言ではなく、自分の中ですでに完成している人物像を批判しているのである。

 評価があふれる時代だからこそ、小林秀雄的な意味での批評、すなわち評価より先に対象そのものを見ようとする態度は、むしろ以前より難しくなっているのかもしれない。

「褒める」とは、お世辞を言うことではない

 小林秀雄は批評について、「人をほめる特殊の技術」とまで表現している。これは一見すると奇妙に聞こえる。批評家が何でも褒めてしまったら、批評ではなくなるようにも思えるからである。しかし、ここでいう「褒める」は、お世辞を言うことではない。

 本当に誰かを褒めようとすると、それは意外に難しい。「すごいですね」「素晴らしいですね」と言うだけなら簡単だが、何がどのように優れているのかを正確に言葉にしようとすれば、その人物や作品をかなり注意深く見なければならない。他人にはない特徴を見つけ、それがどのように働いているのかを理解しなければならないからである。

 反対に、人を貶す言葉には、対象を取り替えてもそのまま使えるものが少なくない。「能力がない」「浅い」「古い」「分かっていない」といった言葉である。もちろん、褒めることが常に貶すことより難しいという科学的法則があるわけではない。しかし、小林秀雄のいう批評という観点から見れば、対象の固有性を発見するためには、単に欠点を並べるよりも、その対象がなぜそのような形をしているのかを丁寧に見なければならないということなのだろう。

 優れた批評とは対象を無条件に称賛することではなく、その対象が「それである理由」を探し当てることなのである。その過程で欠点が見えることもある。しかし欠点を見つけること自体が目的なのではなく、一つの人間、一つの作品、一つの思想がなぜそのような形になったのかを理解しようとした結果として、その限界も見えてくるのである。

批評されるのは、実は自分でもある

 ここまで考えると、批評という行為には奇妙な反転が起きる。他人を批評していたはずなのに、最後には批評している自分自身の姿が見えてくるのである。

 なぜ自分はこの小説を退屈だと感じたのか。なぜこの人物の言葉には腹が立つのか。なぜこの音楽には心を動かされ、この絵には何も感じなかったのか。対象について真剣に考えれば考えるほど、自分が当然だと思っていた感覚や価値観が姿を現してくる。

 これは、小林秀雄が「批評とは自分自身を批評することである」と単純に定義しているという意味ではない。ただ、小林の批評観を押し広げて考えるならば、対象を正確に見ようとする行為は、同時に、その対象を見ている自分の判断基準を浮かび上がらせる行為にもなる。

 だから本当の批評には、どこか危険なところがある。相手を評価して終わるつもりだったのに、自分の考えの狭さを発見してしまうかもしれない。間違っていると思っていた人物の中に、自分にはなかった視点を見つけることもあるだろう。嫌っていた作品を読み続けるうちに、自分の方が変わってしまうことさえある。

 採点なら、採点者は変わらなくてもよい。しかし批評は、ときに批評する側まで変えてしまう。

他人を評価する前に、もう少し見てみる

 私たちは評価から逃れて生きることはできない。仕事では判断が必要であり、選挙では候補者を選び、買い物では商品を比較しなければならない。何も評価しないことが知的に優れた態度なのではない。問題は、評価した瞬間に考えることまで終えてしまうことである。

 「あの人はこういう人だ」と言ったあとに、本当にそうだろうかともう一度見る。「この作品はつまらない」と感じたあとに、なぜ自分にはつまらなかったのかを考える。「間違っている」と判断した相手についても、なぜその人にはその考えが必要なのかを考えてみる。そのわずかな余白に、単なる評価から批評へ移る入口がある。

 批評とは、他人に点数を付ける技術ではないのだろう。むしろ、点数を付けたくなる自分を少し疑いながら、目の前の対象が本当は何であるのかを見続ける技術なのである。

 人を見ることと、人を評価することは同じではない。評価は一瞬でできることがあるが、見ることには時間がかかる。そして小林秀雄が私たちに残した「考えるヒント」の一つは、おそらくその時間を惜しまないことにある。誰かを理解したと思ったところから、もう一度その人を見る。作品について結論を出したところから、もう一度読み始める。そうして見直すたびに、対象についての理解だけでなく、自分が何を基準に世界を見ていたのかまで少しずつ変わっていく。

 批評の終わりに残るものは、他人について下した判決ではないのかもしれない。むしろ、「分かった」と思っていた相手が以前より複雑に見え、自分自身についても以前より簡単には説明できなくなったという感覚ではないだろうか。もしそうだとすれば、批評とは他人を評価するための技術である以上に、世界を簡単に決めつけないための技術なのである。

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 私たちは小説を読むとき、表紙に記された作家の名前を見て、その人がこの作品を作ったのだと自然に考える。夏目漱石の小説は夏目漱石が、ヘミングウェイの小説はヘミングウェイが書いたのであり、それ自体は間違っていない。物語を発想し、人物を生み出し、言葉を選び、何百枚もの原稿を書いた中心人物は作家であり、著作権や文学史の上でも作品の作者は基本的に明確である。

 しかし、本が実際に出来上がるまでの過程を少し覗いてみると、「作家が書いたものが、そのまま本になる」という素朴なイメージは崩れ始める。原稿は編集者に読まれ、長すぎる部分を削るよう勧められ、説明不足を指摘され、章の順序を変えるよう提案され、ときには題名や結末にまで意見が及ぶ。作家がその提案を拒むこともあれば、受け入れることもあり、さらに互いの意見をぶつけながら第三の形へ原稿が変わっていくこともある。

 そう考えると、一冊の本とは、一人の人間が頭の中に思い描いた完成形をそのまま紙に移したものとは限らない。むしろ、最初に書かれた文章が他人の視線を通過し、書き直され、削られ、選び直された末に読者の前へ現れたものだと考えた方が、実際の出版という営みに近い。

 では、名作を作ったのは本当に作家一人なのだろうか。ここで姿を現すのが、完成した本からはほとんど痕跡を消してしまう編集者という存在である。

原稿を書いた人と、作品を完成へ近づけた人

 編集者は、通常は作家に代わって物語を書く人ではない。何も書かれていない白紙に登場人物を生み出し、物語を始めるのは作家である。しかし文学作品の印象は、素材だけで決まるものでもない。同じ出来事が書かれていても、どこまで説明するか、どこで文章を切るか、どの場面を先に置くかによって読者が受け取るものは変わる。

 映画を考えてみれば分かりやすい。撮影された映像が同じでも、どの場面を残し、何秒で切り替え、どの順序につなぐかによって作品の速度も緊張も変わる。文学における編集も、それに似た働きをすることがある。文章を一から生み出すのではなく、すでに存在する文章の中から何を残し、何を取り除き、どこを際立たせるかによって作品の姿を変えるのである。

 しかも作家には、自分の原稿だからこそ見えにくいものがある。作者の頭の中には人物の過去や情景や感情が存在するため、原稿に十分書かれていなくても無意識に補って読むことができる。逆に、思い入れが強すぎるため、読者には必要のない説明を残してしまうこともある。

 そこで編集者は、作者ではない目で原稿を読む。まだ世に出ていない作品を読む最初の職業的な読者の一人として、「ここでは読者が迷うのではないか」「この説明はなくても伝わるのではないか」「この場面はもっと後に置いた方が効くのではないか」と問いかける。編集とは、正しい文章に直す仕事というより、作品とまだ存在していない読者との間に橋を架ける仕事なのかもしれない。

『荒地』には、エズラ・パウンドの鉛筆の跡がある

 20世紀を代表する詩の一つであるT・S・エリオットの『荒地』は、作品が一人だけで現在の姿に到達するとは限らないことを示す有名な例である。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、エズラ・パウンドを現代の出版社にいる担当編集者と同じ意味で「編集者」と呼ぶのは正確ではないということである。パウンドは詩人であり、エリオットの友人であり、作品に対する強力な助言者、あるいは編集協力者として『荒地』の形成に関与した人物だった。

 残されている草稿を見ると、その関与が単なる感想の域を越えていたことが分かる。パウンドは長い箇所を削り、表現や構成に手を入れ、作品を現在知られている姿へ近づける重要な役割を果たした。エリオット自身も、その貢献を高く評価していた。

 もちろん、このことによって『荒地』がエリオットとパウンドの共同著作になるわけではない。詩の世界を構想し、その言葉を生み出した中心人物はあくまでエリオットである。しかし、もしパウンドによる助言と編集がなかったなら、現在私たちが読む『荒地』とはかなり異なる形で世に出ていた可能性がある。

 この「可能性」という言葉は重要である。歴史に存在しなかった作品を実験的に比較することはできないため、パウンドがいなければ『荒地』がどうなったかを証明することはできない。それでも草稿と完成稿を比較すれば、完成した作品の形にパウンドの判断が深く関わっていたことだけは確認できる。

 表紙にはエリオットの名前がある。しかし、その作品の内部には、名前のない別の判断が残っているのである。

カーヴァーの「余白」は誰が作ったのか

 作家と編集者の関係を考えるうえで、さらに刺激的なのがアメリカの短編作家レイモンド・カーヴァーと編集者ゴードン・リッシュの関係である。

 カーヴァーは、説明を極端に抑えた簡潔な文章と、日常生活の中に突然現れる不穏な空白によって知られるようになった。ところが後に原稿や書簡が詳しく検討されるようになると、初期作品の切り詰められた印象にはリッシュによる非常に大きな編集が加わっていたことが明らかになった。

 特に短編集『愛について語るときに我々の語ること』では、リッシュは単に誤字を直したわけではない。文章を削り、題名を変え、心理描写を減らし、場面の構成や結末にまで大きく手を入れている。研究によれば、二度にわたる編集を経て、作品集全体では原稿の語数のおよそ55%が削られたとされる。

 半分以上である。

 もっとも、そこから「カーヴァーの文体はリッシュが作った」と結論づけるのは行き過ぎだろう。カーヴァー自身にも簡潔な表現を好む傾向があり、リッシュと出会う以前からその萌芽は存在していた。したがって、より慎重に言えば、リッシュの編集はカーヴァーの初期作品に見られる簡潔で切り詰められた印象を大きく強化した、と考えるのが妥当である。

 それでも問題は残る。私たちが長い間「これこそカーヴァーだ」と感じてきた文章の一部が、編集者による削除の結果でもあったとすれば、作家の文体とは一体どこまでを指すのだろうか。

 さらに興味深いことに、カーヴァーとリッシュの関係は「作家が編集者に作品を壊された」という単純な物語でもない。カーヴァーはリッシュの編集能力を高く評価し、その洞察に感謝していた時期がある一方、編集があまりにも大きくなったことに強い不安を感じ、出版を止めてほしいと訴えた書簡も残している。

 つまり、同じ作家が編集者の才能に感謝しながら、その力を恐れていたのである。

 ここに文学編集の最も難しい境界が現れる。編集者が文章を削れば、作品は鋭くなるかもしれない。しかし削りすぎれば、作者が書こうとしたものまで消えてしまう。説明を減らせば余韻が生まれることがあるが、その余韻が作者自身の美学なのか、編集者によって作られた美学なのかは簡単には切り分けられない。

編集とは、作品を良くすることなのか

 編集について語るとき、私たちはつい「悪い原稿を編集者が良くする」という単純な図を想像してしまう。しかし現実はそれほど分かりやすくない。

 そもそも文学作品の「良さ」を客観的な一つの尺度で測ることは難しい。短くすれば必ず良くなるわけでもなく、分かりやすくすれば文学的価値が高まるわけでもない。ある読者にとって冗長に見える説明が、別の読者には人物の厚みとして感じられるかもしれず、編集前と編集後のどちらを優れていると判断するかは、文学観によって変わりうる。

 だから編集者の仕事は、正解を知っている人が間違いを直す作業ではない。それよりも、作品が何を目指しているのかを読み取り、その方向を邪魔しているものを見つける仕事と考えた方が近い。

 ここで編集者に必要になるのは、自分ならどう書くかという能力だけではない。むしろ、自分ならこう書くという誘惑を抑えながら、この作家ならどう書くべきなのかを考える能力である。

 作家の文章を編集者自身の好みに染めてしまえば、編集者の存在は強くなるかもしれないが、作家の声は弱くなる。反対に、作家自身にも見えていなかった作品の可能性を発見し、それを邪魔するものだけを取り除くことができれば、編集者は自分の姿を消しながら作品を強くすることができる。

 この違いは小さいようで決定的である。

マクスウェル・パーキンズが残したもの

 アメリカ出版史で名編集者として知られるマクスウェル・パーキンズは、この問題を考えるうえで象徴的な人物である。彼はF・スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、トマス・ウルフなど、20世紀アメリカ文学を代表する作家たちに関わった。

 パーキンズについて語られる逸話には後世の英雄化が混じっている可能性もあるため、編集者一人が作家を「作った」と考えるべきではない。しかし作家との往復書簡や草稿が残っていることから、作品の構成や出版の方向について継続的に意見を交わしていたことは確認できる。

 その姿から見えてくるのは、名編集者とは必ずしも文章を大量に書き換える人物ではないということである。作家ごとに異なる才能を見つけ、その作品がどこへ向かおうとしているのかを読み取り、必要なときには削ることを勧め、別のときには書き続けるよう励ます。

 もし編集という仕事に理想形があるとすれば、それは自分の文章を作品に残すことではなく、作家自身の文章が以前よりはっきり見える状態を作ることなのかもしれない。

編集者が成功すると、編集者は消える

 完成した本には、制作途中で交わされた膨大なやり取りのほとんどが残らない。原稿の余白に書かれた疑問、削除された数十ページ、何度も変更された題名、章の順序をめぐる議論、作家が怒って拒絶した助言、翌日になって受け入れた修正案などは、多くの場合、読者の目には触れない。

 最後に残るのは、整然と印刷された一冊の本である。

 そのため私たちは、完成した作品を見ると、最初からこの形で存在したように感じてしまう。しかし草稿や書簡を読めば、文学作品がそれほど整然と生まれてくるわけではないことが分かる。そこには迷いがあり、書きすぎた文章があり、説明不足の場面があり、作者自身にも作品の向かう先が見えていない時間がある。

 編集者は、その不安定な段階に立ち会う。

 作家ほど作品の内側にはおらず、一般の読者ほど遠くにもいない。その中間に立っているからこそ、「ここで読者は止まるだろう」「この説明はなくても分かる」「この場面を残せば作品の中心がぼやける」といった判断ができる。

 そして皮肉なことに、その判断が成功するほど、完成した本から編集者の存在は見えなくなる。

 削られた文章を読者は読むことができない。しかし削られたことで生まれた速度は感じることができる。変更前の章立てを見ることはなくても、変更された構成が生んだ緊張は味わうことができる。編集者の文章そのものは印刷されていなくても、その判断が作った沈黙を、読者は作品として読んでいるのである。

編集者は共同作者なのか

 ここまで考えると、編集者を「共同作者」と呼びたくなる。しかし、この言葉にも注意が必要である。

 どれほど優秀な編集者でも、何も書かれていない白紙を編集することはできない。人物を生み、世界を構想し、文章を書き、失敗を重ねながら作品を前へ進める中心的な創作行為は作家が担っている。したがって、編集者の影響力が大きいという理由だけで、作家と編集者を完全に同等の作者とみなすのは適切ではない。

 しかし逆に、完成した作品を作者一人の完全に孤立した創造物と考えることも、出版の実態とは一致しない。

 現代の本文研究や書誌学には、文学作品を作者だけではなく、編集者、出版社、印刷者、装丁家など複数の人間と制度を通して成立する「社会的なテクスト」として捉える考え方がある。これは、作者の重要性を否定する理論ではない。むしろ、一つの作品が社会へ出て読者に届くまでには、作者以外の判断も重なっていることを明らかにする考え方である。

 その意味で「共同制作者」という言葉は、編集者を第二の作者に格上げするためのものではない。それは、私たちが完成した本だけを見て忘れてしまいがちな、創作の途中に存在した他者の知性を思い出すための言葉なのである。

名作は、一人の天才が作るという物語

 文学史は作家の名前で整理される。漱石、鴎外、太宰、川端、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドという具合に、人の名前によって時代や作品を覚える。その方法は便利であり、間違っているわけでもない。

 しかし、その整理の仕方には一つの副作用がある。文学作品が一人の人間から完全な形で生まれたように感じさせることである。

 私たちは天才の物語を好む。孤独な作家が部屋にこもり、苦悩し、ある瞬間に何かをつかみ、名作を書き上げる。その物語は美しく、理解しやすい。しかし実際の創作はもっと雑然としている。原稿を誰かに読ませ、批判され、反論し、書き直し、ときには助言を捨て、ときには自分では思いつかなかった方向へ進んでいく。

 文学は孤独な営みであると同時に、他人の目によって変化する営みでもある。

 もちろん、編集によって作品が必ず良くなると科学的に証明できるわけではない。文章の長さや構成、情報量の違いが読者の理解や印象に影響することは実証的に研究できるとしても、どちらの版が文学的に優れているのかを実験だけで決めることはできない。カーヴァーの編集前と編集後の作品について、どちらを好むかが読者によって異なるのは当然である。

 だからこそ、編集者について考えることは面白い。

 編集とは作品を「正解」にする仕事ではない。まだ完成していない作品に対し、別の人間が一つの可能性を示す仕事である。その可能性を受け入れるかどうかを最後に決めるのは本来作家であり、そこに作家と編集者の緊張関係が生まれる。

 名作を作ったのは誰なのかと尋ねられれば、最も正確な第一の答えは、やはり作家である。

 しかし、そこで話を終えてしまえば、文学が本になるまでの重要な部分が見えなくなる。名作とは、一人の人間が書いた作品であると同時に、その文章を誰かが読み、疑い、問い返し、削ることを提案し、ときには削りすぎ、またあるときには作者自身にも見えていなかった作品の姿を発見した結果でもある。

 私たちが一冊の本を開いたとき、目に見えるのは作家の言葉である。しかし、その言葉と言葉の間には、ときどき別の人間の判断が潜んでいる。

 その人の名前は表紙にはない。

 けれども、消された文章が作った余白の中に、編集者は確かにいる。

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国語の教科書を久しぶりに開いてみると、不思議な再会がある。

芥川龍之介、夏目漱石、宮沢賢治、森鴎外、中島敦。使われている作品や教科書会社、学校段階によって顔ぶれは異なるが、何十年分かの国語教科書を眺めていると、同じ作家や同じ作品が驚くほど長く読み継がれていることに気づく。何十年も前に学校を卒業した人が現在の教科書を見ても、「これは自分も習った」と感じることが珍しくない。

文学の世界には毎年、新しい小説が生まれている。昭和から平成、令和へと社会が変わり、私たちが日常で読む文章も大きく変化した。それなのに、教科書の中では百年以上前に生まれた文学作品がなかなか席を立たない。

いったいなぜなのだろう。

そこには「名作だから」という一言では説明できない、教科書という本に特有の事情がある。

文部科学省が「芥川龍之介を載せなさい」と決めているわけではない

まず知っておきたいのは、国語教科書に掲載する作家や作品を、文部科学省が一つ一つ指定しているわけではないということである。

日本の教科書制度では、基本的に民間の教科書発行者が学習指導要領や教科用図書検定基準などをもとに教科書を著作・編集し、文部科学大臣の検定を受ける。検定に合格した教科書の中から、教育委員会や学校などが実際に使用するものを採択する仕組みになっている。したがって出版社には教材を選ぶ余地がある一方、どんな文章でも自由に掲載できるという意味ではない。教科書として教育上適切であり、学習指導要領との整合性を持っていることが求められる。

ここが、一般の文学全集と教科書との決定的な違いである。

文学全集なら、「文学史上重要な作品だから」という理由で収録することができる。しかし教科書の場合、作品そのものの価値だけでは十分ではない。その文章を使って何を学ばせるのか、どの年齢の生徒にどのような思考を促すことができるのか、限られた授業時間の中で教材として成立するのかまで問われる。

教科書に載っている文学作品は、文学であると同時に「教材」なのである。

ここに、同じ作家や作品が長く教科書に残り続ける理由を解く鍵がある。

「良い小説」と「良い教材」は必ずしも同じではない

世の中には傑作と呼ばれる小説が数多くある。しかし、そのすべてが国語の授業に向いているわけではない。

長大な小説を一冊丸ごと扱うには授業時間が足りない。高度な背景知識がなければ理解しにくい作品もある。文学作品として魅力的であっても、授業の中で文章を手掛かりに考えを深めていくことが難しい場合もある。

反対に、長く教科書に残る作品には、何度読んでも問いを生み出せるという特徴がある。

芥川龍之介の『羅生門』を読めば、下人はなぜ老婆の着物を奪う側へ回ったのかという問いが生まれる。中島敦の『山月記』なら、李徴を虎にしたものは才能への執着だったのか、臆病な自尊心だったのか、それとも社会との関係だったのかを考えることができる。夏目漱石の『こころ』では、先生とKの行動を追ううちに、友情や嫉妬、罪悪感、さらには明治という時代そのものへと問題が広がっていく。

教師が正解を一つ説明して終わるのではなく、生徒が本文の言葉へ何度も戻りながら考えることができる。

これは教材として非常に強い。

高等学校学習指導要領解説でも、文学的な文章を読むことは、単に物語の筋を理解することではなく、登場人物の考え方や生き方に共感したり疑問を持ったりしながら思索を深め、人間や社会などについての見方や考え方を広げていく学習と結び付けられている。

そう考えると、教科書会社が長い時間をかけて同じ作品へ戻ってくることは、それほど不思議ではなくなる。

優れた文学作品だから教科書に残る。それだけではない。

優れた作品の中でも、授業という場所に置いたときに、生徒に考えさせる余地を持ち続ける作品が残っていくのである。

『羅生門』は最初から「定番」だったわけではない

さらに興味深いのは、現在では定番と思われている教材も、最初から教科書の指定席を持っていたわけではないことである。

その代表が『羅生門』だろう。

国語教育研究によれば、『羅生門』が高等学校の教科書教材として初めて採録されたのは1956年とされる。その後、採録率は1973年には40%、1982年には83%へと上昇し、2003年に「国語総合」が始まった時期には100%に達したとされている。

これは重要な事実である。

『羅生門』は、ある日突然、「国民的教材」に選ばれたわけではない。

教室で使われ、研究され、次の教科書にも採用され、その積み重ねの中で少しずつ定番になっていった。

研究では、『羅生門』が定着した理由の一つとして、小説の基本的な読み方を学ばせやすく、指導すべき内容が比較的明確であることも指摘されている。

ここに、教科書という世界の興味深い性質が見える。

一度教材として定着すると、その作品について多くの授業実践が生まれる。教師用の指導資料が整い、どのような問いを立てれば生徒の読みが深まるのかという研究も蓄積していく。教師自身が学生時代に同じ作品を読んでいることもある。

昨日まで誰も歩いたことのない山道より、何十年も人が歩き続けた登山道の方が歩きやすいのと少し似ている。

道には標識が立ち、どこが急坂なのかが知られ、どこで迷いやすいのかについても情報が積み重なっている。

そうなると、「良い作品だから教科書に載る」という一方向の関係は、やがて「教科書に載り続けたことによって、さらに教材として使いやすくなる」という循環へ変わっていく。

定番は、名作だから生まれるだけではない。

使われ続けることによって、定番としての強さを増していくのである。

定番化には「出版社が外しにくくなる」という側面もある

しかし、『羅生門』が2003年に採録率100%に達した理由を、「作品が優れていたから」「授業で教えやすかったから」だけで説明すると、もう一つ重要な側面を見落とす。

国語教育の研究では、教科書市場そのものの構造にも注目されている。

少子化によって高校生の数が減れば、当然ながら教科書市場も縮小する。その中で複数の出版社が採択を競えば、すでに学校現場で広く受け入れられている教材を外して、未知の教材へ大きく入れ替えることには一定のリスクが生じる。実際、『羅生門』の採録率100%という現象については、作品固有の価値だけではなく、教科書市場の縮小や、出版社間で教材のラインナップや配列が似ていく「同質化」という側面からも説明すべきだという研究がある。

これは、教科書を考えるうえで非常に面白い視点である。

ある教材が多くの学校で使われる。教師がその教材に慣れる。指導法が蓄積する。すると次の教科書でもその教材を採用する利点が大きくなり、他社も同じ教材を残す。

こうして定番は、文学的評価だけではなく、教育現場と出版市場の双方によって強化されていく可能性がある。

「昔から名作と決まっていたから残っている」のではない。

文学的価値、教材としての使いやすさ、現場の慣れ、出版側の判断が互いに作用しながら、長い時間をかけて「教科書の定番」が形成されていくのである。

同じ作品を読む人が変われば、作品も違って見える

それでも、別の疑問は残る。

昔から読まれてきた作品ばかりを扱うくらいなら、もっと新しい作家や作品を教科書に入れた方がよいのではないか。

これはもっともな疑問である。

一方で、一度読んだ文学作品を後になって読み返すことにも、文学ならではの意味がある。

十二歳の読者と十七歳の読者では、同じ文章を読んでも見えているものが違う。さらに三十歳、五十歳になれば、学生時代には理解できなかった登場人物の弱さが突然分かることもある。

作品の文字は変わっていない。

変わっているのは読者である。

高等学校学習指導要領解説でも、文学作品の解釈は読む人の年齢や経験などによって異なり得ることが説明されている。文学には、作品を読むことと、読み手自身の人生経験とが切り離せない部分がある。

子どものころには、ただ奇妙だと思った登場人物が、大人になって読むと痛々しく感じられることがある。若いころには理解できなかった人物の妥協に、何十年か後には自分自身の姿を見つけることさえある。

文学には、読む人間の年齢によって、作品の方が姿を変えたように感じられる瞬間がある。

だから昔、学校で読んだ文学作品を大人になって読み返すことは、単なる復習ではない。

それは作品との再会であると同時に、その作品を読んでいた昔の自分との再会でもある。

しかし「定番」であることには危うさもある

ここまで読めば、「それなら昔からの教材を残しておけばよい」と思うかもしれない。

しかし、話はそれほど単純ではない。

定番教材が使いやすければ使いやすいほど、新しい作品が入り込みにくくなるという逆の問題が生まれるからである。

長年使われている作品には授業実践がある。教師用資料がある。生徒がどこで迷いやすいかについても経験が共有されている。一方で、新しい作品にはその蓄積がない。

すると、新しい作品が文学的には優れていても、「教材としてどう使えばよいか分からない」という理由で不利になる可能性がある。

しかも、社会そのものは変化している。

家族のあり方も、仕事も、人と人との関係も変わった。日本社会の中で暮らす人々の背景も多様になった。インターネットやスマートフォンによって言葉との付き合い方さえ変化している。

百年前の作品から人間について考える意味は失われていない。しかし、百年前の作品だけで現代社会を生きる人間のすべてを映し出せるわけでもない。

だから定番教材は、「昔から載っているから」という理由だけで残るべきではない。

なぜ今、この作品を読むのか。

この問いは、文学作品を読む生徒だけではなく、作品を選ぶ側にも向けられなければならない。

長く使われているという事実は、その作品が教材として優れてきたことを示す一つの材料になる。しかし、長く使われていること自体を、永遠に使い続ける理由にしてしまえば、教科書は少しずつ現代社会から離れてしまう。

伝統とは、おそらくそういうものなのだろう。

ただ残っているものを守ることではなく、なぜ残すのかを問い直しながら、それでも価値があると考えられるものを次の世代へ渡していくことである。

教科書は「日本文学ベスト100」ではない

国語教科書を文学史上の名作ランキングだと思って眺めると、不思議なことがたくさん起きる。

なぜ、あの大作家が載っていないのか。

なぜ、この作品は何十年も残っているのか。

なぜ、現代のベストセラー作家より百年前の作家の方が目立つのか。

しかし教科書を「優れた文学を順番に並べた本」ではなく、「言葉を通じて考えるために設計された本」と考えると、その景色は変わってくる。

そこでは作品の文学史的価値だけでなく、文章の長さや難易度、表現の豊かさ、問いを生み出す力、学習目標との関係、長年蓄積された授業実践、さらには教科書会社がどの教材を採用するかという出版上の判断までが絡み合っている。

だから、同じ作家や作品が何十年にもわたって教科書へ戻ってくる。

彼らは単に偉大だから教科書に住み続けているのではない。

何世代もの生徒を相手にしながら、それでもなお問いを生み出すことのできた作品なのである。

『羅生門』を読んだ高校生が、「自分なら下人と同じことをしないと言い切れるだろうか」と考える。

『こころ』を読んだ生徒が、「先生はなぜもっと早く誰かに話すことができなかったのだろう」と考える。

その瞬間、百年前の文章は文学史の資料ではなくなる。

教室の中で、もう一度現在形になる。

おそらく国語教科書に長く残る作品とは、古くならない作品なのではない。

古くなっても、その時代を生きている読者に新しい問いを返してくる作品なのだ。

そして何十年たっても同じ作家の名前を教科書で見つける理由も、最後にはそこへ戻ってくる。

作品は同じでも、それを読む私たちは、もう昔と同じ読者ではないのである。

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