リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 部屋の壁一面に本棚がある人を見ると、それだけで少し賢そうに見えることがある。哲学書や歴史書が並んでいればなおさらで、まだ話をしていないのに、「この人は物事を深く考える人なのだろう」と想像してしまう。一方で、家にほとんど本がなく、「本はあまり読みません」と言う人に対して、私たちは同じ種類の知性を期待するだろうか。もちろん、本を読まなくても鋭い判断力を持つ人はいるし、大量に読書をしていても思い込みの激しい人はいる。それでも「読書家」という言葉には、単に本をよく読む人という以上に、教養があり、語彙が豊富で、思考が深いという人物像がまとわりついている。

 しかし、ここには一つの飛躍がある。本をたくさん読むという行動と、その人が賢いという評価は本来なら別のものだからだ。年間百冊読む人が年間一冊しか読まない人より優れた判断をするとは限らないし、文学全集を読破した人が金銭管理や機械修理にも強いとは限らない。それにもかかわらず、読書と知性は長いあいだ、ほとんど当然のように結びつけられてきた。

 では、「読書家は知的」というイメージは単なる文化的な思い込みなのだろうか。心理学や読書研究を見ていくと、答えは意外に複雑である。このイメージには一定の実証的な根拠がある。しかし、それは「本をたくさん読めば、その分だけ頭がよくなる」という単純な話ではない。

本を読む人は、なぜ「知的」に見えるのか

 そもそも「知的」という言葉そのものがかなり曖昧である。数学の難問を素早く解ける人、豊かな語彙を持つ人、歴史や科学について多くを知っている人、複雑な問題を筋道立てて考えられる人、他人とは違う視点から物事を眺められる人を、私たちはまとめて「頭がいい」と表現することがある。しかし心理学的には、これらは必ずしも同じ能力ではない。

 知的能力を考える際には、未知の問題に対処し、規則性を見つけたり推論したりする能力と、長年の学習や経験を通じて蓄積された語彙や一般知識とを区別する考え方がある。前者は流動性知能、後者は結晶性知能と呼ばれる。読書経験と特に強く関連するのは、語彙、言語知識、一般知識など、後者に近い能力であると考えられている。

 これは日常感覚とも一致する。読書量の多い人は、会話の途中で少し珍しい言葉を自然に使ったり、ある事件について歴史上の似た出来事を思い出したり、小説の一場面を例に出したりする。その瞬間、私たちはその人の頭の中に、自分には見えない巨大な倉庫があるように感じる。知識そのものだけでなく、知識を言葉として取り出し、説明できることが、「知的に見える」という印象を強くするのである。

 実際、心理学者キース・スタノヴィッチらによる一連の研究では、印刷物への接触量が多い人ほど、語彙や一般知識などで高い成績を示す傾向が確認されている。一般的な認知能力や教育歴などを統計的に考慮しても、読書経験と語彙や知識との関連が残る研究もある。その一方で、推論力や作業記憶のような能力については、語彙や一般知識ほど一貫して強い関連が示されるわけではない。

 つまり、読書家が「知的に見える」のは、完全な錯覚ではない。読書経験と強く結びつく能力そのものが、私たちが日常生活の中で「知性」と認識しやすい形をしているのである。

本を読むから賢くなるのか、読むのが得意だから本を読むのか

 ただし、ここで話は一段難しくなる。読書家の語彙が豊かだったとしても、それだけでは「読書によって語彙が豊かになった」とは言えない。本をよく読む人は、そもそも文字を読むことが得意だった可能性があるからである。

 背の高い人ほどバスケットボールをしているからといって、「バスケットボールをすれば背が高くなる」とは言えないのと少し似ている。活動の結果として能力が伸びることはあっても、その活動を選ぶ人の側にも、もともとの特徴がある。読書でも、文字を速く処理でき、文章を比較的容易に理解できる子どもほど本を読むことを楽しみやすく、読むことが楽しいからさらに読むという循環が生まれる可能性がある。

 スタノヴィッチはこうした現象を「マタイ効果」という考え方で説明した。読むことが得意な子どもは読む機会を増やし、その経験を通じて語彙や知識をさらに増やす一方、読むことに苦労する子どもは本を避けやすくなり、結果として経験の差まで広がっていくという考え方である。ただし、この差がすべての子どもで必ず同じように拡大するわけではない。重要なのは、能力と経験が互いに関係しながら長期間にわたって差を形づくる可能性があるという点である。

 大規模な双生児研究でも、読書量と読書能力の因果方向が検討されている。そこでは、少なくとも研究対象となった年齢では、「多く読むから読書能力が高くなる」という方向だけでなく、「読書能力が高いから自主的に多く読む」という方向が強く示された。つまり、読書量そのものだけを見て「この人は読んだから能力が高くなった」と考えるのは単純すぎるのである。

 他方で、別の長期的な研究では、読書能力と自主的な読書経験が相互に影響し合う可能性も示されている。読むことが得意だから読む。読むから語彙や知識が増える。語彙や知識が増えることで、さらに難しい文章が読めるようになり、読むことそのものが楽しくなる。この循環が何年も続いた結果を、私たちは大人になった一人の「読書家」として見ているのかもしれない。

読書能力は、その後の知的発達とも関係する

 では、読書は単に「もともと読むのが得意な人の趣味」にすぎないのだろうか。そう言い切ることもできない。

 英国の長期追跡調査を用いた研究では、子どものころに楽しみとして本を読んでいた人ほど、その後の語彙の伸びと関連するだけでなく、数学の成績の伸びとも一定の関連が見られた。家庭の社会的背景や親の教育歴などを考慮しても、その関係が残ったとされている。

 ただし、ここは慎重に読む必要がある。このような研究は観察研究であり、「読書だけが数学や認知能力を向上させた」と断定することはできない。読書を好む家庭には、親子の会話が多い、教育への関心が高い、知的刺激を受けやすいといった別の特徴があるかもしれず、それらを完全に切り離すことは難しいからである。

 さらに、一卵性双生児を長期的に追跡した研究では、遺伝的にはほぼ同じ双生児の間でも、早い時期に読書能力が高かった側が、その後の知能検査で高い成績を示す傾向が報告された。この結果は、読書能力がその後の認知発達と関係している可能性を示すものとして注目された。

 しかし、その後に同じデータを別の統計モデルで再分析した研究では、この関係が読書そのものの因果効果だけで説明できるとは限らず、読書能力と知能の双方に長期的に影響する安定した環境要因が存在する可能性も指摘された。つまり、「早く読めるようになれば知能そのものが高くなる」とまで言い切るのは、現在の研究から見れば慎重さを欠く。

 ここで分かるのは、科学が私たちの期待するほど単純な答えを与えてくれないということである。読書能力と知的発達には確かに関係がある。しかし、その関係の中には、遺伝、家庭環境、学校教育、本人の興味、読書経験そのものが複雑に入り込んでいる。一本の矢印で説明するより、相互作用する循環として考えた方が現実に近い。

それでも本を読む行為は、頭の中ではかなり忙しい

 因果関係を慎重に考えることと、読書という行為そのものの認知的な複雑さを過小評価することは別問題である。文章を理解するためには、直前まで読んだ内容を保持し、新しい情報と結びつけ、曖昧な部分を推測し、自分が持っている知識と照合しながら意味を構成し続けなければならない。

 小説であれば、登場人物の感情や動機を想像し、過去の出来事を記憶しながら現在の行動を理解する必要がある。歴史書であれば、複数の出来事の因果関係を整理しなければならない。評論であれば、筆者の主張と根拠を区別しながら、自分が同意できる部分と疑うべき部分を見極める必要がある。

 椅子に座ってページをめくるという外見だけを見ると、読書は非常に静かな行為に見える。しかし、その内部では記憶、予測、推論、語彙処理、意味理解が絶えず動いている。読書が長期的な知識形成と関係しやすい理由は、このような認知活動が何度も繰り返されることとも無関係ではないだろう。

本を百冊読んでも「賢明な人」になるとは限らない

 ここで、もう一度「知的」という言葉を疑う必要がある。語彙が豊かであることと、正しい判断ができることは同じではない。歴史に詳しいことと、自分に都合の悪い事実を公平に検討できることも違う。

 心理学研究では、人は自分がもともと持っている立場に有利な情報を高く評価し、反対する情報を低く評価しやすいことが知られている。これはマイサイド・バイアスと呼ばれるが、興味深いことに、この偏りは一般的な認知能力が高ければ自動的に小さくなるとは限らないことが示されている。

 つまり、頭の回転が速い人だから、自分の思い込みから自由になれるとは限らないのである。知識や認知能力が高くても、それだけで自分の立場を公平に疑えるようになるわけではない。

 この点は読書について考えるときにも重要である。本を読むことによって知識を増やすことはできても、自分と同じ考えの本ばかり選び続ければ、世界観そのものは狭いままかもしれない。百冊読んだ人が一冊しか読まなかった人より偏見が少ないとは限らないし、難解な哲学書を読み通した人が、反対意見に寛容であるとも限らない。

 結局、問題は「何冊読んだか」だけではなく、「読んだものによって自分の考えを修正できるか」に移っていく。本は知識を与えてくれるが、その知識をどのように扱うかまでは決めてくれない。

「読書家」という肩書きが作る、もう一つの錯覚

 それでも私たちが読書家を知的だと感じやすいのには、もう一つ理由があるのではないだろうか。読書によって得られる知識は、他人から見えやすいのである。

 たとえば、数学的な直感に優れた職人が、仕事の中で複雑な角度や寸法を瞬時に判断しても、その能力は本棚には並ばない。長年商売をしてきた人が客の表情から微妙な心理を読み取っても、それを難しい言葉で説明するとは限らない。機械の音を聞いただけで故障箇所を推測できる技術者にも高度な知識体系があるが、それはしばしば「教養」とは別のものとして扱われる。

 一方、読書によって得た知識は言葉として表れやすい。会話の中で引用でき、文章として説明でき、本棚という物理的な形で他人に見せることもできる。だから読書によって形成された知識は、ほかの種類の知識より「知性」として発見されやすい可能性がある。

 これは、読書家だけが知的だという意味ではない。むしろ、私たちが知性として見つけやすいものに偏りがある、という話である。社会は、言葉で説明できる知識を評価しやすい。そのため、本を読む人が持つ能力は「知的」として認識されやすく、経験や身体技能の中に埋め込まれた知性は見落とされやすいのかもしれない。

「本を読む人ほど賢い」ではなく

 結局、「読書家は知的」というイメージを完全に否定する必要はない。読書経験の多さが語彙や一般知識と関係し、その蓄積が長期的な知的発達と結びつく可能性を示す研究は多く存在する。その意味では、本を読むことと知的能力の間には確かに関係がある。

 しかし、「読書家だから賢い」と言った瞬間、その関係は粗雑になる。もともとの読書能力が高いから本を好む人もいる。家庭環境や教育によって本に触れる機会が多かった人もいる。読書と強く関連するのは、とりわけ語彙や知識のような能力であって、人間のあらゆる知的能力が一様に高くなるわけでもない。まして、合理性や判断力、人格まで本の冊数から推測することはできない。

 より正確に言うなら、「本を読む人ほど賢い」のではなく、「長期間にわたって読書を続けてきた人は、語彙や一般知識など、社会から知的だと認識されやすい能力を豊富に持っていることが多い」ということである。

 それでも読書には、数字では測りにくい奇妙な力が残る。本を開けば、自分より賢い人だけでなく、自分とはまったく違う時代を生きた人、間違った人、愚かな人、嫌いな人の頭の中にまで入ることができる。そこで何を受け取り、何を疑い、何を捨てるかは読者自身に委ねられている。

 知性とは、本棚の長さではないのだろう。何冊読んだかでもない。むしろ、自分が知らなかったことに気づき、自分が正しいと思っていた考えを疑い、それまでより少し複雑な世界を複雑なまま受け止められるようになることの方が、知性という言葉には近い。

 本は人を自動的に賢くしてくれる機械ではない。しかし、考える材料をこれほど大量に、しかも他人の人生や経験ごと運んでくる道具は珍しい。だから読書家が知的なのではなく、読書には知性が育つための条件を何度も作り直す力がある、と考えた方が正確なのかもしれない。

 そしておそらく、本当に知的な読書家とは、自分が何冊読んだかを誇る人ではない。一冊読むたびに、「自分はまだ知らないことの方が多い」と気づける人なのである。

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本当に日本人は「読まなくなった」のか

「最近の人は長い文章を読まない」

「若者は本を読まなくなった」

「SNSの短文ばかり読んでいるから読解力が落ちた」

こうした言葉を耳にすることがある。

確かに、書籍を読む習慣について見ると、変化は大きい。

文化庁が2024年に公表した令和5年度「国語に関する世論調査」では、1か月に本を何冊読むかという質問に対し、

「読まない」62.6%

という結果になった。

1冊以上読む人は合計36.9%だった。

さらに、

「以前と比べて読書量は減っている」

と答えた人は69.1%に達している。

この数字だけを見れば、

「日本人は本を読まなくなった」

という説明は間違っていないように見える。

しかし、同じ調査には興味深い結果がある。

本を1冊も読まないと答えた人のうち、

SNS、

インターネット上の記事、

その他の文字情報、

を「ほぼ毎日読む」と答えた人は75.3%だった。

つまり、

本を読まない人の多くも、文字そのものを読んでいないわけではない。

むしろ私たちは毎日、

ニュース。

SNS。

メール。

メッセージ。

検索結果。

商品説明。

口コミ。

仕事上の資料。

など大量の文字を読んでいる。

ここから問題を少し変えてみる必要がある。

「日本人はなぜ文章を読まなくなったのか」

ではない。

「なぜ一つの文章を長時間読み続けることが少なくなったのか」

と問うのである。

この違いは大きい。

本稿では、

総合誌。

新聞。

テレビ。

インターネット。

検索エンジン。

スマートフォン。

SNS。

というメディア環境の変化から、

日本人の「読む能力」ではなく、

読むために使う時間の構造

がどう変化したのかを考えてみたい。


1 かつて「読むこと」にはまとまった時間が必要だった

昭和の情報環境を考えてみよう。

政治について知りたい。

国際問題について知りたい。

文学について考えたい。

社会問題について詳しく知りたい。

そう思った場合、

新聞を読む。

本を読む。

新書を読む。

総合誌を読む。

という方法が大きな位置を占めていた。

もちろんラジオやテレビもあった。

しかし詳しい議論になると、

文章

が重要だった。

総合誌には、

数千字。

時には数万字。

という論考が掲載される。

一冊の新書なら200ページ前後ある。

小説ならさらに長い。

つまり情報を得ることと、

ある程度まとまった時間を一つの文章へ投入すること

が結び付いていた。


2 総合誌は読者に「長く読むこと」を要求した

『世界』

『中央公論』

『文藝春秋』

などの総合誌には、

政治。

経済。

外交。

歴史。

思想。

文学。

科学。

社会問題。

などが同じ一冊に掲載されてきた。

現在でも総合誌は存在するが、かつては知識人や専門家の長い論考に触れる重要な入口だった。

総合誌の文章には、

前提。

歴史的背景。

論点。

反論。

結論。

がある。

そのため、

途中だけ読んでも理解しにくい。

つまり総合誌という媒体そのものが、

読者に一定時間の集中を要求する構造

を持っていた。


3 「長文を読む能力」が高かったというより、他の選択肢が少なかった

ここで昭和を美化してはいけない。

昔の人が現代人より忍耐強かった、

とは限らない。

当時にも、

長い本を読まない人。

雑誌を読まない人。

娯楽だけを楽しむ人。

は当然いた。

重要なのは、

情報を得たい場合の選択肢が現在より少なかったことである。

ある事件について詳しく知りたい。

すると、

新聞を読む。

雑誌を読む。

本を読む。

という方法が中心になる。

だから長文読解は、

特別な精神力というより、

情報を得るために必要だった行動

でもあった。


4 新聞には「途中を飛ばせない情報」があった

紙の新聞にも特徴がある。

新聞を開く。

すると、

自分が関心を持つ記事だけではなく、

政治。

経済。

国際。

社会。

文化。

書評。

が同じ紙面に並ぶ。

目的の記事へ行く途中で、

別の記事の見出しが目に入る。

これは現在の検索とはかなり違う。

検索では、

知りたいものへ直接行く。

新聞では、

知りたいもの以外も視界に入る。

この構造は、

一つ一つの記事を長く読むことだけでなく、

社会の複数の問題を同じ時間の中で読む習慣にもつながっていた。


5 テレビは「読む時間」の最初の大きな競争相手だった

戦後、テレビが普及すると、

情報を得るために文章を読む必要は少しずつ低下する。

ニュースを見る。

討論番組を見る。

ドキュメンタリーを見る。

歴史番組を見る。

文章を読まなくても、

政治や社会について一定の情報を得られる。

これは教養の衰退とは限らない。

むしろ映像によって、

本を読まない人にも知識へ接触する機会が広がった。

しかし、

読書時間とテレビ視聴時間は同じ一日の中で競争する。

一日は24時間しかない。

新しいメディアが増えれば、

既存のメディアへ使える時間は減る。

この単純な原理は、後のインターネット時代にさらに強くなる。


6 読書量が減った最大理由は「読めなくなったから」ではない

文化庁の調査は、この点について興味深い。

読書量が以前より減った人へ理由を尋ねたところ、

最も多かったのは、

「情報機器で時間が取られる」43.6%

だった。

次が、

「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」38.9%。

さらに、

「視力など健康上の理由」31.2%、

「テレビの方が魅力的」19.8%

と続く。

つまり少なくともこの調査からは、

「長文を理解できないから読まない」

が中心原因だとは言えない。

むしろ、

時間の奪い合い

が中心にある。


7 若い世代ほど「情報機器に時間を取られる」

この傾向は年齢別に見るとさらに明確になる。

文化庁調査では、

読書量が減った理由として「情報機器で時間が取られる」を挙げた割合は、

16~19歳で70.9%、

20~30代でも6割台だった。

ここで重要なのは、

若者は文章が嫌いだ、

と考えることではない。

若い世代ほど、

スマートフォン。

動画。

ゲーム。

SNS。

メッセージ。

検索。

など、

読書以外の情報活動の選択肢が圧倒的に多い

ということである。


8 スマートフォンは「一つの媒体」ではない

テレビはテレビを見るための機械だった。

新聞は新聞を読むものだった。

本は本を読むものだった。

しかしスマートフォンは違う。

一台の中に、

新聞。

雑誌。

本。

テレビ。

ラジオ。

音楽。

ゲーム。

SNS。

電話。

カメラ。

地図。

買い物。

銀行。

仕事。

が入っている。

つまりスマートフォンは、

新しい一つのメディアではない。

過去のほぼすべてのメディアを一台に集めた競争空間

である。

そこで長文は、

動画。

メッセージ。

ゲーム。

ニュース速報。

通知。

音楽。

と同じ画面上で時間を奪い合う。


9 本を読む時、ライバルは本だけだった

書店で本を買う。

自宅で開く。

すると、その瞬間の選択肢は比較的少ない。

読む。

読むのをやめる。

テレビを見る。

くらいだった時代もある。

スマートフォンで長文を読む場合は違う。

文章を読んでいる途中に、

通知が来る。

メッセージが来る。

別の記事へのリンクがある。

動画のおすすめが出る。

検索できる。

つまり、

一つの文章に留まり続けること自体に競争が発生する。

文章の質とは別の問題である。


10 「長文を読む時間」は細切れ時間へ変わった

現代人は文字を読んでいないわけではない。

むしろ非常に多く読んでいる可能性がある。

朝、

ニュース通知を見る。

電車でSNSを見る。

仕事でメールを読む。

昼休みに検索する。

帰宅途中にニュースを見る。

夜にメッセージを読む。

しかし一つ一つは短い。

つまり、

文字を読む総時間と、長文を連続して読む時間は別

なのである。

ここを区別しなければならない。

一日に一時間文字を読んでいても、

それが、

2分+3分+30秒+5分……

と分割されていれば、

一冊の本を一時間読むのとは違う認知活動になる。


11 検索は「全文を読む必要」を減らした

インターネット以前、

ある問題を知るには本の一章を読む必要があった。

現在は検索できる。

「○○とは」

と入力する。

必要な答えがすぐ出る。

これは巨大な進歩である。

しかし同時に、

答えへ到達するまでの文章を読まなくてもよくなった。

本では、

問題設定。

歴史。

議論。

例。

を読んでから結論へ進む。

検索では、

結論だけ取り出せる。

この違いが読む習慣を変える。


12 検索は「問い」に強く、本は「問いの背景」に強い

検索には大きな利点がある。

質問が明確なら非常に効率がよい。

「日本国憲法施行日はいつか」

と知りたいなら、

一冊の本を読む必要はない。

しかし、

「なぜ戦後日本でこの憲法が成立したのか」

を理解するには、

歴史的背景が必要になる。

つまり、

検索は、

すでに持っている問いへの答え

に強い。

長文は、

自分がまだ知らなかった問いを作ること

に強い。

この違いは、長文を読む意味を考える上で重要である。


13 SNSは文章を短くしたというより「単位」を小さくした

SNSでは、

一つの投稿。

一つのコメント。

一つの画像。

一つの動画。

が情報単位になる。

長い論考も投稿できる場合はある。

しかし基本的な利用体験は、

次へ、

次へ、

次へ、

と進む構造になりやすい。

つまりSNSが変えたのは、

文章の文字数だけではない。

情報を一つずつ完結した小さな単位として受け取る習慣

である。


14 総合誌は「一人の論者に付き合う」メディアだった

総合誌の長文論考を読む場合、

読者は一人の筆者へ付き合う。

この人は、

なぜこう考えるのか。

どんな前提を置いているのか。

どこで論理が変わるのか。

を追う。

時には、

「この部分は納得できない」

と思いながら先を読む。

つまり長文には、

相手の思考を一定時間、自分の頭の中に置いておく

という作業がある。

SNSでは、

合わなければ次へ行くことが容易である。

ここに大きな違いがある。


15 長文とは「情報量の多い文章」ではない

ここで長文の価値を誤解しないようにしたい。

長ければ良いわけではない。

冗長な文章もある。

同じことを繰り返す文章もある。

短い文章で十分な問題もある。

長文が必要になるのは、

問題そのものが複雑な場合

である。

複数の原因がある。

歴史がある。

例外がある。

反対意見がある。

こうした問題は、

短い結論へすると何かを削らなければならない。


16 短文は悪いメディアではない

SNSの短文を否定する必要もない。

速報。

連絡。

要点。

簡潔な意見。

には短文が適している。

短い文章で正確に説明する能力も重要である。

問題は、

すべての問題を短文だけで理解できると思うこと

である。

人口減少。

戦争。

社会保障。

経済政策。

文学。

歴史。

こうした問題には、

一つの原因だけでは説明できないものが多い。

短文は入口にはなれる。

しかし入口だけで建物全体を理解したことにはならない。


17 「結論を先に」が当たり前になった

現代の文章では、

「最初に結論を書いてください」

と言われることが多い。

ビジネスでは合理的である。

時間を節約できる。

しかし文学や思想、社会分析では、

結論までの過程そのものに意味がある。

なぜその結論になるのか。

反対の可能性はないのか。

途中で何が検討されたのか。

これを読むことで、

結論ではなく考え方を学ぶ。

長文読解の価値の一つはここにある。


18 動画は長くても見ることができるのに、文章は長いと嫌われるのか

興味深い現象がある。

30分の動画を見る人が、

10分で読める文章を「長い」と感じることがある。

これは必ずしも矛盾ではない。

動画は基本的に、

流れてくる。

文章は、

自分で進めなければならない。

理解できなければ戻る。

集中する。

つまり文章の方が、

読者側へ能動的な処理を要求する。

時間の長さだけでは、負担を比較できない。


19 長文読解には「何もしない時間」が必要になる

本を読む場合、

数十分間、

画面を切り替えない。

通知を見ない。

別の記事へ行かない。

一人の文章を追う。

この状態は、

現在では意外に特殊である。

つまり長文読解は、

読む技術だけではなく、

他の情報を一時的に遮断する技術

を必要とするようになった。

昭和には、この遮断が環境によってある程度自動的に成立した。

令和では、自分で作らなければならない。


20 「読む能力」が落ちたのか、「集中の環境」が変わったのか

ここで重要な区別がある。

人間の読解能力そのもの。

長文へ集中する環境。

この二つは別である。

スマートフォンを置いて、

静かな場所で、

関心のある本を読む。

すると普通に長時間読める人も多い。

つまり、

長文を読まなくなったことから、直ちに長文を読めなくなったとは言えない。

行動と能力を混同してはいけない。


21 読書時間は「余った時間」では作りにくい

現代では、

時間があったら本を読もう、

と思う人も多い。

しかし時間が余ると、

スマートフォンを開ける。

数分の空き時間でも使えるからである。

本の場合、

ある程度まとまった時間が欲しい。

すると、

スマートフォンは、

5分。

10分。

15分。

という細かな空き時間を吸収する。

結果として、

まとまった読書時間へ成長するはずだった小さな時間が先に使われる。

これは読書にとって非常に大きな変化である。


22 「暇」が消えたことは大きい

昔の電車の中では、

外を見る。

新聞を読む。

本を読む。

眠る。

という選択肢だった。

現在は、

何もすることがない、

という時間がほとんどなくなった。

スマートフォンを開けば必ず何かある。

つまり現代社会では、

退屈そのものが減った。

しかし読書は、しばしば退屈から始まる。

何となく本を開く。

そのまま読み続ける。

この入口が失われやすくなった。


23 書店で「偶然本に出会う」機会も変わった

文化庁調査では、本を読む人の選書方法として、

「書店で実際に手に取って選ぶ」が57.9%で最も多い一方、

「インターネットの情報を利用して選ぶ」が33.4%だった。

また、過去の参考値では、書店で選ぶ割合は減少傾向、インターネット利用は増加傾向にあった。

インターネットで本を選ぶと、

検索した本。

似た本。

売れている本。

が表示される。

非常に便利である。

しかし書店では、

目的外の本が目に入る。

この違いも、

読む内容の広がりに影響する可能性がある。


24 電子書籍が長文を破壊したわけではない

紙か電子かという問題も単純ではない。

文化庁調査では、

電子書籍を「よく利用する」「たまに利用する」を合わせると40.3%だった。

電子書籍でも小説や専門書は読める。

つまり、

電子化=短文化

ではない。

問題は、

同じ端末の中に別の誘惑が存在するかどうか

である。

専用の電子書籍端末と、

通知が次々届くスマートフォンでは、

同じ電子文章でも読書環境が異なる。


25 長文を読む人が「少数派」になると何が起こるのか

社会全体で長文を読む人が減った場合、

個人の趣味だけでは済まない可能性がある。

政治家の説明。

企業の説明。

政策議論。

研究結果。

社会問題。

これらについて、

「長いから読まない」

となれば、

短いキャッチコピーの力が強くなる。

賛成。

反対。

成功。

失敗。

善。

悪。

という単純な分類が有利になる。

つまり長文を読む文化は、

複雑な問題を複雑なまま議論できる社会の基盤

でもある。


26 総合誌が衰退すると「長い議論の共通場所」も弱くなる

かつて総合誌は、

意見が異なる論者の長文を、

同じ読者が読む場所だった。

全員が同じ結論へ行く必要はない。

しかし、

同じ問題について数千字の議論を読む。

それによって、

「なぜ相手はそう考えるのか」

がある程度分かる。

現在は、

自分に近い意見だけを選ぶことが容易である。

すると問題は、

文章の長さだけではなく、

異なる論理へ付き合う時間が減ること

になる。


27 SNSの問題は「短いこと」より「次があること」

SNSには短文だけでなく長文もある。

それでも長く読み続けにくい場合がある。

理由の一つは、

必ず次の情報が待っているからである。

この文章を最後まで読むより、

次にもっと面白いものがあるかもしれない。

この状態では、

一つの文章へ留まることに機会費用が生まれる。

つまり、

「長文が長すぎる」のではなく、「次へ行く誘惑が強すぎる」

のである。


28 現代人は情報を「読む」より「選別」している

毎日、大量の情報が届く。

すべて読むことは不可能である。

そこで現代人は、

見出しを見る。

冒頭を見る。

必要か判断する。

不要なら閉じる。

という行動を繰り返す。

これは合理的である。

つまり現代の読者には、

読解能力だけでなく、

高速な情報選別能力

が求められている。

これは昭和型読者とは別の能力である。


29 だから現代人を「読書能力が低い」と決めつけるべきではない

昭和と令和では、

必要とされる情報処理が違う。

昭和~

少ない情報を比較的長く読む。

令和~

大量の情報から必要なものを素早く選ぶ。

という違いがある。

どちらかが上位とは限らない。

問題は、

後者だけになった場合、

複雑な問題へ長時間集中する能力を使う機会が減る

ことである。

使わない能力は、使いにくくなる可能性がある。

だから両方必要になる。


30 長文を読む意味は「情報収集」から変わりつつある

インターネット以前、

本には情報を得るという大きな役割があった。

現在、単純な情報なら検索の方が速い。

すると長文の役割は変わる。

長文を読む目的は、

事実を一つ知ること

だけではない。

一人の思考を追う。

因果関係を見る。

矛盾を見る。

歴史を知る。

複数の論点を同時に持つ。

つまり、

情報を得るためではなく、思考の構造を学ぶために読む

という価値が相対的に大きくなる。


31 AI時代にはさらに「読む必要がない」と感じやすくなる

AI(Artificial Intelligence・人工知能)が普及すると、

長い文章を要約できる。

論文を要約する。

本の内容を説明する。

議事録をまとめる。

これによって時間は大幅に節約できる。

しかし、

要約を読むこと

と、

原文を読むこと

は同じではない。

要約では、

何が削られたかが見えない。

論理の微妙な変化。

筆者の迷い。

反論。

具体例。

文体。

は消えやすい。

AI時代には、

何を要約で済ませ、何を原文まで読むか

を判断する能力が重要になる。


32 すべての長文を読む必要はない

ここで昔の読書習慣へ戻ろうとする必要はない。

すべての記事を最後まで読む必要はない。

すべての本を読破する必要もない。

現代の情報量では不可能である。

重要なのは、

何に長い時間を使う価値があるかを選ぶこと

である。

速報は短文。

事実確認は検索。

概要は要約。

しかし、

自分にとって重要な問題。

専門分野。

価値観に関わる問題。

については長文まで読む。

媒体ごとに役割を分ければよい。


33 長文を読む習慣を取り戻すには精神論より環境設計が必要

「もっと集中しよう」

「スマホに負けるな」

だけでは続きにくい。

問題が環境にあるなら、

環境を変える方が合理的である。

例えば、

通知を切る。

スマートフォンを別の場所へ置く。

電子書籍専用端末を使う。

一日20分だけ読む。

通勤時間の一部を本へ固定する。

読む時間を予定表へ入れる。

つまり、

読書を余暇ではなく予定として確保する。

これが現代的な方法になる。


34 「一冊読む」より「30分同じ文章に留まる」

読書目標として、

月10冊読む。

年間100冊読む。

という方法もある。

しかし冊数を競うと、

短い本を急いで読む

方向にもなり得る。

長文読解を維持するという目的なら、

冊数より、

一つの文章へ連続して滞在した時間

を見る方がよい。

30分間、

別の情報へ移らず読む。

これは現代ではかなり高度な情報行動になっている。


35 長文を読むことは「遅く考えること」でもある

短文は判断を速くする。

賛成か。

反対か。

面白いか。

面白くないか。

長文では、判断を保留する時間が長くなる。

最初は反対だった。

しかし途中で納得する。

最後まで読んでも反対だが、理由は理解できる。

こうした変化が起こる。

つまり長文には、

結論を急がずに考える訓練

という側面がある。


36 民主社会では「最後まで読む人」が一定数必要になる

政治や社会問題では、

短い言葉ほど広がりやすい。

しかし制度は複雑である。

税。

年金。

医療。

外交。

安全保障。

教育。

人口問題。

どれも数十文字では説明できない。

社会全体が長文を嫌うようになれば、

政策を詳しく説明する側にも、

「どうせ読まれない」

という誘因が生まれる。

だから長文読解は、

個人的教養だけではなく、

民主社会の情報基盤

でもある。


37 それでも昔へ戻る必要はない

総合誌の時代へ戻ることはできない。

戻る必要もない。

現在には大きな利点がある。

専門家の文章を直接読める。

公的資料を検索できる。

海外の情報へ届く。

電子書籍を持ち歩ける。

多様な人が発信できる。

問題は、

昔と今のどちらが優れているか

ではない。

速く読む環境の中に、遅く読む時間をどう残すか

なのである。


38 日本人は「読まなくなった」のではなく「読み方を変えた」

文化庁の数字をもう一度見る。

本を1か月に一冊も読まない人は62.6%。

しかしその人の75.3%は、本以外の文字・活字情報をほぼ毎日読んでいる。

これは非常に象徴的である。

日本人が文字文化から離れた、

というより、

文章との接触単位が、本から記事や投稿へ移った

と考えることができる。

そして、

長時間・連続・一方向だった読書が、

短時間・断続・多方向の読書へ変わった。

これが現在の大きな変化なのではないだろうか。


結論~失われたのは「読む能力」より「一つの文章に使う時間」なのかもしれない

なぜ日本人は長文を読まなくなったのか。

一つの原因だけで説明することはできない。

忙しくなった。

テレビが登場した。

インターネットが登場した。

検索が便利になった。

スマートフォンが普及した。

SNSが登場した。

動画が増えた。

こうした変化が積み重なっている。

しかし、それらを一つの観点から整理することはできる。

それは、

一日の中で「読む時間」を奪い合う相手が劇的に増えた

ということである。

昭和の読者が一冊の総合誌を開いた時、

最大の競争相手は、

別の本、

新聞、

テレビ、

くらいだった。

現代の読者がスマートフォンで長文を開くと、

その同じ画面の中に、

SNS。

動画。

ゲーム。

メッセージ。

ニュース。

買い物。

音楽。

仕事。

が存在する。

だから長文は、

昔より魅力がなくなった、

というより、

昔とは比較にならない数の情報と競争するようになった。

文化庁調査で、読書量が減った理由の第一位が「情報機器で時間が取られる」だったことは、この構造と整合する。

そして重要なのは、

本を読まない人の多くも、

毎日文字を読んでいる

という事実である。

だから、

「現代人は文字を読めなくなった」

という結論は単純すぎる。

むしろ、

読む行為そのものが変わった。

一冊を読む。

一つの論考を読む。

一人の思想へ付き合う。

という読書から、

大量の情報を高速で選別する読書へ変わった。

これは能力の低下だけではない。

新しい情報社会に適応した結果でもある。

しかし適応には代償がある。

短い文章だけでは、

複雑な問題を複雑なまま理解しにくい。

歴史的背景。

例外。

反対意見。

因果関係。

こうしたものを保持するには、

ある程度長い文章が必要になる。

だから現代社会で必要なのは、

昭和のように長文だけを読む生活へ戻ることではない。

速報は短く読む。

検索で答えを得る。

要約を利用する。

動画で理解する。

その便利さを使いながら、

重要な問題だけは、意識的に長い文章まで読む。

これが現代的な読み方になる。

長文読解とは、

懐古的な文化ではない。

情報が多すぎる現代だからこそ、

一つの問題へ長く留まり、

簡単に次へ移らず、

結論を急がず、

相手の論理を最後まで追う能力には価値がある。

つまり、

失われつつあるのは、

「日本人の読む能力」

ではないのかもしれない。

失われつつあるのは、

一つの文章へ時間を渡す習慣

なのである。

もしそうなら、

長文文化を守るために必要なのは、

「最近の人は本を読まない」と嘆くことではない。

一日の中に、

通知も検索も次の記事もない、

30分間を作ること。

現代における長文読解とは、

本を読む技術以上に、

自分の時間を一つの思考へ預ける技術

になっているのではないだろうか。

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出版社は本を売っているだけなのか

本屋の棚には、出版社の名前が並んでいる。

岩波書店。

文藝春秋。

新潮社。

講談社。

中央公論新社。

筑摩書房。

河出書房新社。

私たちは通常、本を著者名や題名で選ぶ。

しかし長い読書生活を続けていると、

「岩波らしい本」

「文春らしい本」

という感覚を持つことがある。

もちろん、出版社が出している本をすべて一つの思想でまとめることはできない。

岩波書店にも多様な著者がいる。

文藝春秋にも政治的・思想的に異なる執筆者がいる。

それでも、

どんな本を出すか。

誰に書かせるか。

どの作品を古典として残すか。

どの問題を社会へ提示するか。

どの程度の難しさを読者に要求するか。

という編集上の選択が何十年も積み重なると、出版社そのものが一種の文化的性格を持ち始める。

本稿では、この違いを便宜的に、

「岩波文化」と「文春文化」

と呼んでみたい。

ただし、これは正式な学術概念ではない。

両社の出版活動を比較するための分析上の言葉である。

そして問いたいのは、

どちらが正しいか、

どちらが優れているか、

ではない。

出版社は、日本人が社会を考えるときの「入口」や「考え方の型」をどのように作ってきたのか。

そこを見ていきたい。

1 岩波書店は「知識を社会へ普及する出版社」として始まった

岩波書店は1913年、岩波茂雄によって創業された。

現在の岩波書店自身も、創業以来、学術研究、思想、芸術の成果を社会へ伝えてきた出版社として自社の歴史を位置付けている。

ここには、岩波書店の一つの重要な性格がある。

単に売れる本を作るというより、

価値のある知識を、社会へ残し、広く届ける

という発想である。

もちろん出版社である以上、経営は必要である。

売れなければ出版活動を続けられない。

しかし岩波文化には、

「市場で人気があるか」

とは別に、

「読む価値があるか」

「残す価値があるか」

という基準が強く存在してきたように見える。

その象徴が岩波文庫である。

2 岩波文庫~出版社が「古典」を選ぶということ

岩波文庫は1927年に創刊された。

創刊時には、古今東西の古典と価値ある良書を、廉価で普及させることが明確に掲げられていた。

岩波書店自身の資料によれば、学生用・携帯用の廉価版として、古典・良書を厳選し、読者が自由に選んで購入できる形を目指していた。

ここで重要なのは、

文庫とは単なる小型本ではない、

ということである。

出版社が、

「この本は読む価値がある」

と判断し、

古典として読者へ差し出す。

つまり文庫の編集には、

文化の選択

という機能がある。

プラトン。

カント。

夏目漱石。

万葉集。

海外文学。

哲学。

歴史。

社会科学。

こうしたものを一つのシリーズへ並べることで、

「教養とは何を読むことなのか」

という見取り図が作られる。

岩波文庫は長年にわたり、その見取り図の一つを日本社会へ提供してきた。

3 岩波文庫は「読者に少し背伸びを要求する」

岩波文庫の特徴の一つは、

読者に必ずしも分かりやすさだけを要求しないことにある。

古典は難しい。

思想書も難しい。

哲学書も簡単ではない。

古い日本語もある。

注釈が必要な作品も多い。

それでも出版する。

つまり、

「読者が読みやすいものを出す」

だけではなく、

「読む価値があるから、読者側にも努力してもらう」

という発想がある。

これは一種の教養主義である。

読者を消費者としてだけではなく、

学ぶ人

として見る。

ここに岩波文化の重要な特徴がある。

4 岩波新書~専門知を一般社会へ翻訳する

岩波文化を考える上で、岩波新書も重要である。

岩波新書は1938年に創刊された。

新書という形式は、

専門書ほど難しくない。

しかし新聞記事よりは深い。

一般読者が、あるテーマについて体系的に学ぶための中間的な形式である。

政治。

歴史。

科学。

社会問題。

経済。

教育。

文化。

こうした分野について、

研究者や専門家が一般読者へ説明する。

つまり岩波新書は、

専門知を公共知へ翻訳する装置

として機能してきた。

ここでは、

「面白い話を読む」

というより、

「知らなかったことを理解する」

という読書体験が中心になる。

5 『世界』~岩波文化が社会問題へ向かう

1946年には総合雑誌『世界』が創刊される。

岩波書店は現在も『世界』を、良質な情報と深い学識による評論を通して戦後史に関わってきた雑誌として位置付けている。

『世界』の誕生には、敗戦という歴史的背景がある。

戦前日本には高い教育を受けた人々も研究者も存在した。

それでも戦争を止められなかった。

その反省から、

知識を社会へ結び付けなければならない、

という問題意識が生まれた。

ここで岩波文化は、

古典や学問を読むことから、

社会そのものをどう考えるか

へ広がる。

平和。

民主主義。

憲法。

外交。

人権。

教育。

こうした問題について、研究者や知識人が長文で論じる。

岩波文化の一つの典型がここにある。

6 岩波文化は「理念から現実を見る」

岩波書店の出版物をすべて一つにまとめることはできない。

しかしあえて編集文化として整理するなら、

岩波文化には、

理念や原理から現実を見る

という傾向が比較的強い。

民主主義とは何か。

人権とは何か。

科学とは何か。

歴史をどう理解するか。

社会制度はどうあるべきか。

まず概念や原理を考える。

そのうえで現実を評価する。

この方法には強みがある。

目の前の出来事だけに流されず、

長期的・構造的に考えられる。

一方で弱点もある。

現実の人間は、

理念どおりには動かない。

利害。

感情。

嫉妬。

欲望。

恐怖。

偶然。

こうしたものが社会を動かす。

そこで、文春文化との違いが見えてくる。

7 文藝春秋は「自由にものを言う雑誌」から始まった

文藝春秋は1923年、菊池寛による雑誌『文藝春秋』の創刊から始まった。

菊池寛は創刊に際し、依頼されて発言することに飽き、自分が考えていることを読者や編集者に気兼ねせず語りたいという趣旨を書いた。

創刊号には芥川龍之介、川端康成、横光利一らが参加し、3000部が短期間で売り切れた。

ここには、岩波とは少し違う出発点がある。

「価値ある知識を普及する」

というより、

「面白い人間が、自分の言葉でものを言う」

ことから始まっている。

文藝春秋自身も、現在まで明文化された社是をあえて持たず、菊池寛の「自由な心持」を編集精神の根に置いている。

8 文春文化は「人間」から社会を見る

文藝春秋の特徴を考えると、

政治思想より前に、

人間への関心

がある。

作家。

政治家。

経営者。

官僚。

芸能人。

スポーツ選手。

犯罪者。

歴史上の人物。

こうした具体的な人間を通じて社会を見る。

文藝春秋の採用サイトでも、創業者菊池寛の雑誌作りの原点を、人間への強い関心として語っている。

これは編集方法として非常に重要である。

例えば政治問題を扱う場合でも、

制度そのものを説明するだけではなく、

誰が動いたのか。

誰が失敗したのか。

誰と誰が対立したのか。

本人は何を語ったのか。

という形で読ませる。

文春文化では、

制度より人物、理念より物語

が入口になりやすい。

9 『文藝春秋』~文学と政治が同じ場所にある

『文藝春秋』は、文芸雑誌として出発しながら、次第に政治、社会、歴史、人物論まで扱う総合誌へ成長した。

これは興味深い。

文学と政治を完全に分けない。

作家の文章の隣に政治家の回想がある。

歴史論の隣に人物評がある。

経済人の証言が掲載される。

つまり、

社会とは抽象的制度だけではなく、人間の集合である

という編集感覚がある。

ここが岩波文化との大きな違いである。

10 芥川賞・直木賞が作った「文春文化」

文藝春秋は1935年に芥川龍之介賞と直木三十五賞の制定を発表した。

両賞は、菊池寛が亡くなった友人である芥川龍之介、直木三十五を記念して作ったものである。

これは単なる文学賞ではない。

出版社が、

新人作家を発見し、

作品を社会へ紹介し、

読者へ「いま読むべき文学」を提示する、

という仕組みである。

つまり文藝春秋もまた、

読者の読書習慣を作っている。

ただし岩波文庫とは方向が違う。

岩波文庫が、

過去から何を残すか

を選ぶ装置だとすれば、

芥川賞や直木賞は、

現在から誰を未来へ送り出すか

を選ぶ装置である。

11 岩波文化は「古典化」、文春文化は「人物化」

ここまでを見ると、両社の違いを一つの対比として整理できる。

岩波は、

本を古典化する。

文春は、

人を物語化する。

もちろんこれは単純化である。

しかし編集文化として見ると分かりやすい。

岩波文化は、

「この本を読めば、社会や思想の背景が分かる」

という方向に向かう。

文春文化は、

「この人を知れば、時代が見える」

という方向に向かう。

同じ社会問題でも入口が違う。

12 岩波は「読者を学習者として扱う」

岩波書店の本を読むと、

読者に一定の努力を要求する場合がある。

用語を調べる。

背景を理解する。

原典を読む。

注釈を読む。

前提知識を身につける。

つまり読者は、

情報を受け取る消費者

というより、

知識を獲得する学習者

として想定される。

岩波文庫の創刊時にも、学生用・普及用という意識が明示されていた。

ここには、

読書を自己形成と結び付ける発想がある。

13 文春は「読者を好奇心のある観察者として扱う」

文春文化では少し違う。

読者は、

人間を知りたい。

事件の裏側を知りたい。

当事者の証言を読みたい。

著名人の人生を知りたい。

社会の表面からは見えない部分を知りたい。

そうした好奇心を持つ存在として扱われる。

文藝春秋自身も、現在の編集文化について「面白がる力」を重視していると説明している。

つまり、

岩波文化が、

「理解したい」

という読者の欲求に応えるとすれば、

文春文化は、

「知りたい」

という欲求に応える。

この二つは似ているようで違う。

14 「正しさ」と「面白さ」の違い

出版社にとって、

正確であること

と、

読ませること

は両方重要である。

しかし両社は、重点の置き方が違うように見える。

岩波文化では、

論理。

資料。

学問。

歴史的背景。

概念。

が前面に出やすい。

文春文化では、

人物。

証言。

事件。

対立。

人生。

が前面に出やすい。

つまり便宜的に言えば、

岩波文化は、

「正しく考える」

ことを重視し、

文春文化は、

「人間を通して考える」

ことを重視する。

ただし、どちらにも限界がある。

15 岩波文化の弱点~理念が現実から離れる危険

理念を重視すると、

社会の構造を長期的に見ることができる。

しかし、

理念が強すぎると、

現実の複雑さを見落とす場合がある。

例えば、

民主主義は重要だ。

平和は重要だ。

人権は重要だ。

という原則が正しくても、

実際の政策では、

安全保障。

財政。

雇用。

地域差。

外交。

など複数の条件が絡む。

理念だけで解けない問題もある。

また、特定の思想的枠組みが強くなると、

現実をその枠組みに合わせて解釈する危険もある。

これは岩波だけの問題ではなく、

理念中心の言論一般が持つ弱点である。

16 文春文化の弱点~人物が制度を隠す危険

一方、人物中心の編集にも弱点がある。

誰が悪いのか。

誰が裏切ったのか。

誰が失敗したのか。

という話は分かりやすい。

しかし社会問題の原因が、

制度、

構造、

人口、

経済、

歴史、

にある場合、

個人だけを見ても解決できない。

「悪い政治家がいたから」

「無能な経営者がいたから」

という説明だけでは不十分な問題も多い。

つまり文春文化には、

社会問題を人間ドラマへ縮小してしまう危険

がある。

17 岩波は「体系」、文春は「エピソード」

両社の違いをもう少し抽象化すると、

岩波文化は、

体系

を作ろうとする。

文春文化は、

エピソード

を集める。

岩波新書を数冊読むと、

ある分野の全体像が見えてくる。

文春系の人物記事やノンフィクションを読むと、

ある時代の人間の生々しさが見えてくる。

体系だけでは人間は見えない。

エピソードだけでは構造が見えない。

つまり両者は、本来補完関係にある。

18 戦後日本では「岩波を読むこと」が教養の記号になった

戦後日本では、

岩波書店の本を読むことそのものが、

一定の教養イメージと結び付いた時期があった。

岩波文庫。

岩波新書。

『世界』。

『思想』。

こうした出版物は、

大学。

研究者。

学生。

教員。

知識人。

との関係が強かった。

岩波書店自身も、現在なお学術、思想、科学などの雑誌を継続して刊行している。

ここで出版社名が、

単なる企業名ではなく、

教養のブランド

になる。

岩波の本を読むことは、

ある種の文化的所属を示すこともあった。

19 文春は「社会の裏側を見る」というブランドを作った

文藝春秋もまた、独自の文化的ブランドを作った。

『文藝春秋』。

『オール讀物』。

『週刊文春』。

文春文庫。

さらに文学賞やノンフィクション賞。

会社の沿革を見ると、1930年に『オール讀物』の前身を出し、1959年に『週刊文春』、1969年に大宅壮一ノンフィクション賞、1974年に文春文庫を創刊している。

こうした展開によって、

文学、

人物、

事件、

ノンフィクション、

時事、

を横断する文化が形成された。

文春を読むことには、

社会の表側だけではなく、裏側まで見たい

という読書欲求が結び付いた。

20 「岩波的な知識人」と「文春的な知識人」

戦後日本では、知識人にも二つのタイプが見えてくる。

一つは、

研究者。

思想家。

評論家。

専門家。

などが、

原理や制度を論じるタイプ。

これを便宜的に、

岩波的知識人

と呼べるかもしれない。

もう一つは、

作家。

記者。

ノンフィクション作家。

人物評論家。

などが、

人間や事件から社会を描くタイプ。

こちらを、

文春的知識人

と呼ぶことができる。

もちろん実際には両方の性格を持つ人も多い。

しかし日本の言論文化には、

この二つの流れが並存してきたと考えると理解しやすい。

21 岩波は「何を読むべきか」を作った

出版社が人々の考え方へ与える影響は、

特定の政治思想だけではない。

もっと根本的なところにある。

例えば岩波文庫を何年も読む。

すると、

古典を読む。

原典を重視する。

歴史的背景を調べる。

概念を正確に理解する。

という読書習慣が形成される。

つまり岩波文化が作ったのは、

特定の答えだけではない。

考え方の作法

でもある。

22 文春は「誰が何をしたのか」を考える習慣を作った

一方、文春文化では、

人物に注目する。

証言を読む。

事件の背景を探る。

権力者の行動を見る。

人間関係を見る。

動機を考える。

こうした読書習慣が形成される。

これも一つの考え方の作法である。

社会は制度だけで動くわけではない。

最終的には人間が決定する。

だから、

「誰が、なぜ、どう動いたのか」

を見ることには意味がある。

23 日本人の考え方を作ったのは「内容」より「編集形式」だったのかもしれない

ここで重要なのは、

岩波がある思想を広め、

文春が別の思想を広めた、

という話だけではない。

もっと重要なのは、

何を重要な情報として配置したか

である。

岩波は、

古典。

学術。

思想。

制度。

歴史。

を読者の前へ並べた。

文春は、

人物。

事件。

証言。

文学。

ノンフィクション。

を並べた。

つまり両社は、

内容だけではなく、

世界を見る枠組み

を読者へ提供していた。

24 右と左では説明できない

ここまでの違いを、

岩波=左、

文春=右、

とまとめるのは不正確である。

確かに『世界』は、戦後の平和主義やリベラルな論壇と強く結び付いてきた。

しかし岩波書店には、

古典文学、

哲学、

自然科学、

数学、

歴史、

辞典、

など膨大な出版領域がある。

文藝春秋についても、

政治的に単一の立場を持つ出版社と考えることは難しい。

そもそも同社は現在も明文化された社是を置かず、「自由な心持」を編集文化の源としている。

両社の違いは、

政治的位置だけではなく、

編集思想の違い

として見る方がよい。

25 出版社は「読者像」を作る

出版社は、

存在する読者へ本を売るだけではない。

長期的には、

読者そのものを作る。

難しい本を出し続ければ、

難しい本を読む読者が育つ。

人物中心の記事を出し続ければ、

人間から社会を見る読者が育つ。

つまり出版文化とは、

本を作る文化

であると同時に、

読者を育てる文化

でもある。

岩波文化と文春文化は、

異なる読者像を日本社会に作ってきたと考えることができる。

26 岩波読者と文春読者は本当に別なのか

しかし、

岩波を読む人。

文春を読む人。

を完全に分ける必要はない。

むしろ両方読む人も多い。

それが重要である。

社会問題を考えるとき、

岩波的な視点で、

構造や歴史を理解する。

同時に文春的な視点で、

当事者や人物を見る。

この二つを組み合わせると、

社会を立体的に理解しやすい。

例えば企業不祥事を考えるなら、

制度。

企業統治。

法律。

経済構造。

だけでなく、

経営者。

社員。

内部告発者。

組織文化。

も見る必要がある。

体系と人物の両方が必要なのである。

27 インターネット時代に出版社の役割はなくなるのか

現在では、

古典も検索できる。

論文も読める。

専門家の解説も動画で見られる。

人物情報も大量にある。

それなら出版社は不要になるのだろうか。

むしろ逆の問題が出てくる。

情報が多すぎる。

何を読むべきか分からない。

何が正確なのか分からない。

どこから学べばよいのか分からない。

ここで、

出版社の編集機能

が再び重要になる。

情報を増やすのではなく、読む順番を作る。

これが出版社の新しい価値になり得る。

28 岩波も文春もデジタルへ移動している

現在、岩波書店は『世界』のウェブ版である「WEB世界」など、デジタル上でも読者へコンテンツを届けている。

文藝春秋も、雑誌や書籍に加え、デジタルメディアやオンラインサービスへ領域を広げている。

つまり、

紙の岩波。

紙の文春。

という構図はすでに変化している。

しかし、

媒体が紙から画面へ変わっても、

何を選び、どう並べるか

という編集文化は残る。

29 AI時代には編集文化がさらに重要になる

AI(人工知能)が普及すると、

文章を要約する。

質問へ答える。

情報を整理する。

といったことが容易になる。

すると出版社の役割はさらに減るように見える。

しかし、

何を読む価値があると判断するか。

どの著者を残すか。

どの論点を社会へ提示するか。

どの資料を信頼するか。

という判断は、

単純な情報処理ではない。

出版社が長年行ってきたのは、

文化的な選択

である。

岩波文庫が古典を選んできたこと。

文藝春秋が作家や人物を社会へ紹介してきたこと。

これは単なる情報処理ではない。

「何を重要だと考えるか」という価値判断である。

30 岩波文化が残したもの

岩波文化が日本社会へ残したものを整理すると、

古典を読む文化。

原典を重視する文化。

学問を一般社会へ広げる文化。

長い文章を読む文化。

社会問題を理念や制度から考える文化。

などが挙げられる。

これらは、すべての読者へ同じ影響を与えたわけではない。

しかし、

日本の教養文化の一部を形作ったことは否定しにくい。

31 文春文化が残したもの

文春文化が残したものには、

人物から時代を見る文化。

証言を重視する文化。

ノンフィクションを読む文化。

文学と社会を分けない文化。

事件の裏側を知ろうとする文化。

などがある。

文藝春秋は雑誌、書籍、文学賞、ノンフィクション賞、文庫などを通して、こうした読書文化を広げてきた。

これも日本人の社会理解に一定の影響を与えてきた。

32 両方に共通するのは「編集への信頼」

実は岩波と文春には、大きな共通点もある。

それは、

出版社が読者の代わりに選ぶ

ということである。

岩波が選ぶ。

文春が選ぶ。

読者は、

その選択にある程度の信頼を置く。

だから、

岩波文庫なら読んでみよう。

文春文庫なら読んでみよう。

という行動が生まれる。

これは出版社ブランドの本質である。

著者だけではなく、

編集者の判断まで含めて本を買う。

出版文化は、

編集への信頼

によって成立している。

33 しかし出版社を無条件に信頼してはいけない

もちろん、

岩波だから正しい。

文春だから正しい。

ということにはならない。

出版社も間違える。

編集方針には偏りがある。

時代によって判断も変わる。

特定の読者層へ合わせることもある。

だから出版社ブランドは、

判断の参考にはなるが、

正しさの保証ではない。

むしろ重要なのは、

出版社ごとの編集文化を理解したうえで読むこと

である。

岩波なら、

このテーマをなぜ理念や学問から扱っているのか。

文春なら、

なぜこの人物や事件を入口にしているのか。

そう考えると、読書が一段深くなる。

34 令和の読者には「複数の出版社を読む力」が必要になる

昔より情報が増えた現在、

一つの出版社だけを読むことには限界がある。

あるテーマについて、

岩波新書を読む。

文春新書を読む。

新聞を読む。

政府資料を見る。

専門書を見る。

当事者の証言を読む。

こうして複数の入口を使う。

それによって、

一つの編集文化に依存しすぎることを避けられる。

現代の教養とは、

大量の本を読むことだけではない。

異なる編集文化を比較しながら読むこと

でもある。

結論~出版社は「本」だけでなく「ものの見方」を出版してきた

岩波書店と文藝春秋は、どちらも百年を超える歴史を持つ出版社である。

岩波書店は1913年に創業し、岩波文庫、岩波新書、『世界』などを通じて、

古典。

学問。

思想。

専門知。

を社会へ届けてきた。

文藝春秋は1923年に菊池寛が『文藝春秋』を創刊し、その後、

文学。

人物。

事件。

ノンフィクション。

時事。

を横断する出版文化を作ってきた。

両社を単純に、

岩波=左。

文春=右。

と分けるだけでは、本質を捉えられない。

より重要なのは、

世界をどこから見るか

という違いである。

岩波文化は、

原典。

概念。

歴史。

制度。

体系。

から世界を見る。

文春文化は、

人物。

証言。

事件。

人生。

物語。

から世界を見る。

一方だけでは社会を十分に理解できない。

理念だけ見れば、人間を見失う。

人物だけ見れば、構造を見失う。

だから本当は、

岩波文化と文春文化は、

対立するものというより、

社会を見る二つのレンズ

として考える方がよい。

そして出版社が日本人へ与えてきた最も大きな影響も、

特定の政治思想だけではない。

岩波書店は、

「背景を調べ、原典を読み、体系的に考える」

という読書の型を提供した。

文藝春秋は、

「人物を見て、証言を読み、人間の行動から時代を考える」

という読書の型を提供した。

つまり出版社は、

本を作ってきただけではない。

「社会をどう見るか」という思考習慣を、読者の中に作ってきた。

インターネットとAIの時代になり、出版社の独占的な情報発信力は弱くなっている。

しかし、

何を読むか。

誰を信頼するか。

どの順番で学ぶか。

何と何を比較するか。

という問題は、むしろ難しくなっている。

だからこそ、

出版社が一世紀かけて作ってきた「編集文化」を読み解く意味は残る。

岩波を読む。

文春を読む。

そして両方を比べる。

そのとき私たちは、

本の内容だけではなく、

自分自身がどのような方法で社会を見ているのか

まで問い直すことができる。

出版社の歴史とは、

本の歴史だけではない。

それは、

日本人が何を知識と考え、何を面白いと感じ、どのような方法で社会を理解してきたのかという、思考の歴史でもある。

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