リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

三島由紀夫の『金閣寺』を読み終えたとき、もっとも大きな疑問として残るのは、主人公・溝口がなぜ金閣を燃やしたのかということである。

金閣が嫌いだったからではない。むしろ逆である。

溝口にとって金閣は、幼いころから憧れ続けた、この世でもっとも美しいものだった。それほど愛し、崇拝した存在を、なぜ最後には自らの手で焼き払わなければならなかったのか。

この矛盾を理解するには、『金閣寺』を単なる放火事件の小説として読むのではなく、「美に支配された人間が、その支配から逃れようとする物語」として読む必要がある。

金閣は最初から現実の建物ではなかった

溝口にとって金閣は、実物を見る以前から特別な存在だった。

父親から金閣の美しさについて繰り返し聞かされるうちに、少年の心の中には現実の建築物とは別の「理想の金閣」が作られていく。

ここが重要である。

普通であれば、人は美しいものを見て感動する。しかし溝口の場合、順序が逆だった。実物を見る前に、頭の中ですでに絶対的な美が完成していたのである。

そのため、実際の金閣を初めて見たとき、現実の建物は想像していたほど圧倒的ではない。

ところが、それによって金閣への信仰が消えるわけではない。むしろ時間が経つにつれて、現実の金閣と心の中の金閣が再び重なり、彼にとって金閣は単なる寺院ではなくなっていく。

金閣は「美そのもの」に近い存在になっていった。

そして、この美が次第に溝口の人生を支配する。

溝口は自分自身を「美の反対側」に置いている

溝口には吃音がある。

彼にとって吃音は単なる話しにくさではない。自分と他人との間にある壁として意識されている。

言葉を自由に発することができないため、他者との関係に自信を持てない。そこから、自分は周囲の人間とは違うという意識が強くなっていく。

さらに溝口は、自分自身を美しい人間だとは考えていない。

つまり彼の世界には、

完全な美としての金閣

と、

不完全な存在としての自分

という対立がある。

この距離が大きければ大きいほど、金閣は美しくなる。

しかし同時に、自分自身は惨めになる。

金閣を愛することと、自分を否定することが、溝口の中ではほとんど同じことになってしまうのである。

この構造が、『金閣寺』の悲劇の中心にある。

金閣は溝口が現実へ進むことを妨げる

さらに重要なのは、金閣が単に眺める対象ではなく、溝口の行動を阻む存在として描かれていくことである。

溝口は女性との関係を持とうとする。しかし現実の世界に踏み込もうとする重要な場面になると、彼の意識の中に金閣が現れる。

本来、美しいものは人生を豊かにするはずである。

ところが溝口の場合は逆だった。

金閣の美しさがあまりに完全であるため、現実の恋愛や欲望、人間関係がすべて不完全なものに見えてしまう。

現実の女性より金閣のほうが美しい。

現実の経験より、頭の中にある美のほうが完全である。

そうなると、人は現実を生きられなくなる。

金閣は溝口にとって憧れであると同時に、現実世界へ出ていくことを妨げる巨大な壁になっていった。

戦争中、溝口は金閣が焼けることを期待していた

『金閣寺』を理解するうえで見逃せないのが、戦争である。

太平洋戦争末期、京都も空襲を受ける可能性があった。金閣もいつ焼失するかわからない。

この状況は、溝口に奇妙な感覚を与える。

永遠に存在するように思われた金閣が、戦争によって失われるかもしれない。

つまり、自分と金閣が同じ「滅びる世界」に存在することになる。

それまで金閣は、自分とは別の次元にある絶対的な美だった。しかし焼失する可能性を持った瞬間、金閣もまた有限な存在になる。

溝口にとって、それはある意味で救いだった。

ところが戦争は終わり、金閣は焼けなかった。

人間が死に、都市が焼かれ、社会が大きく変わったにもかかわらず、金閣は以前と同じ姿で残った。

ここで金閣は再び、溝口の前に圧倒的な存在として立ちはだかる。

自分の人生は変化する。

人間は老い、失敗し、死ぬ。

しかし金閣は変わらない。

この不均衡が、溝口にとって次第に耐え難いものになっていく。

「美しいから壊したい」という逆説

普通に考えれば、美しいものは保存したいと思う。

しかし『金閣寺』では、美が完全であればあるほど、それを破壊したいという逆説が生まれる。

なぜか。

金閣が存在し続ける限り、溝口は金閣と比較され続けるからである。

もちろん、実際に誰かが彼と金閣を比較しているわけではない。比較しているのは溝口自身である。

金閣を見るたびに、自分の不完全さが意識される。

金閣が美しければ美しいほど、自分の人生が貧弱に感じられる。

つまり溝口にとって、

金閣の存在=自分の劣等感を永続させる装置

になってしまった。

そう考えると、彼に残された選択肢は極端なものになる。

自分自身を変えるか。

金閣を消すか。

現実の人間関係を通じて自分を変えていくことができなかった溝口は、後者を選ぶ。

それが放火だった。

金閣を燃やすことは「美を所有する」ことでもあった

しかし、単に金閣が邪魔だから燃やしたと考えるだけでは、『金閣寺』の複雑さは十分に説明できない。

放火には、もう一つの意味がある。

それは、金閣を自分の行為の中へ取り込むことである。

それまで金閣は、溝口とは関係なく存在していた。

彼が苦しんでも、恋愛に失敗しても、人生に絶望しても、金閣は変わらない。

その意味で、金閣は溝口を必要としていない。

しかし自分が火をつければ事情は変わる。

金閣の運命を決めるのは溝口になる。

崇拝するだけだった人間が、美しいものの生死を決定する側へ回るのである。

これは非常に歪んだ形ではあるが、金閣を自分のものにしようとする行為とも解釈できる。

手に入らないものを破壊することで、初めてその存在に決定的に関与する。

溝口にとって放火は、美から逃げる行為であると同時に、美をもっとも強烈な形で自分と結び付ける行為でもあった。

柏木は「現実を生きる別の方法」を見せる

作品の中で溝口と対照的な人物が柏木である。

柏木もまた、自分の身体に強いコンプレックスを持っている。

しかし、そのコンプレックスへの向き合い方が溝口とは違う。

溝口が自分の劣等感によって現実から遠ざかっていくのに対し、柏木はむしろそれを利用しながら現実の人間関係の中へ入っていく。

倫理的に好ましい人物として描かれているわけではない。

それでも、柏木は「不完全な自分のまま現実を生きる」ことができる。

溝口には、それができない。

彼は完全な美にこだわり続ける。

ここに二人の決定的な違いがある。

人間は本来、不完全な存在である。

恋愛も友情も身体も人生も、不完全である。

柏木はその不完全さの中で生きる。

溝口はそれを受け入れられない。

だから最後には、不完全な自分ではなく、完全な美のほうを破壊することになる。

金閣放火は自殺ではなかった

物語の終盤で重要なのは、溝口が金閣とともに死ななかったことである。

放火という行為だけを見れば、破滅へ向かう物語のようにも見える。

しかし最後に残るのは、むしろ「生きる」という方向である。

ここに『金閣寺』の大きな転換がある。

溝口は金閣を燃やすことで、自分を支配していた絶対的な美を消した。

その結果、彼の前には不完全な現実だけが残る。

しかし、それこそが人間が生きる世界なのである。

美しくないかもしれない。

理想的でもない。

失敗するかもしれない。

それでも、自分自身が行動できる世界である。

したがって、金閣放火は単純な破滅ではない。

溝口にとっては、極端で犯罪的な方法ではあるものの、現実の人生へ戻ろうとする行為でもあったと考えることができる。

なぜ溝口は金閣を燃やしたのか

結局、溝口が金閣を燃やした理由を一つだけに絞ることはできない。

金閣への憎しみだけでもなければ、単純な劣等感だけでもない。

彼は金閣を愛していた。

しかし、その美しさに支配されていた。

金閣が完全であるほど、自分が不完全に見えた。

金閣が永遠であるほど、自分の人生が無意味に感じられた。

そして金閣が存在する限り、自分は現実の世界へ踏み出すことができないと考えるようになった。

だから彼は、美を手に入れようとするのではなく、美そのものを消すことを選んだ。

『金閣寺』の放火を理解する鍵は、ここにある。

溝口は金閣が醜かったから燃やしたのではない。美しすぎたから燃やしたのである。

そして、その美を破壊した先で初めて、完全ではない自分自身の人生を生きようとした。

『金閣寺』は、美とは何かを描いた小説であると同時に、さらに逆説的な問いを私たちに突きつける。

人間は、あまりにも完全な美を前にして、それでも自由に生きることができるのだろうか。

金閣を燃やした溝口の行動は決して肯定できない。

しかし、三島由紀夫が描こうとしたのは犯罪の是非だけではない。

人間が理想を絶対化したとき、その理想は憧れから支配へ変わることがある。

そして『金閣寺』は、その支配から逃れるために「美そのものを破壊する」という極端な地点まで追い詰められた一人の青年を描いた小説なのである。

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三島由紀夫について論じるとき、その政治的な言動や晩年の行動が大きく取り上げられることは少なくない。しかし、それらの事柄が強い印象を残しているために、三島が小説家として何を描き、どのような言葉によって文学作品を構築したのかが、十分に検討されないままになることもある。

本稿では、三島由紀夫の政治的な主張や行動、またその最期については扱わない。

それらを軽視するためではなく、考察の対象を意識的に文学作品の内部へ限定するためである。三島由紀夫の小説において、美しいものはどのように描かれているのか。美は登場人物を幸福にするのか、それとも現実から遠ざけるのか。また、人物の容貌や肉体、自然、建築物、季節、恋愛といった要素は、三島の文体によってどのような美へと組み替えられているのか。

こうした問題を、小説の描写、人物造形、物語構造、文体表現に即して考えてみたい。

三島由紀夫を「美の作家」と呼ぶことは難しくない。だが、その言葉だけでは、三島文学の特徴を明らかにしたことにはならない。

三島の小説に現れる美は、必ずしも人を慰めるものではない。人を幸福に導くとも限らない。ときには見る者を圧倒し、劣等感を刺激し、現実との間に越えがたい隔たりを生じさせる。

一方で、『潮騒』のように、肉体、自然、労働、恋愛が一つの調和を形成する作品もある。

三島由紀夫の文学における美は、単純な一つの原理によって説明できるものではない。それは幸福であると同時に不安であり、調和であると同時に緊張であり、現実に存在しながら、現実を超えた観念にもなる。

本稿では、『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』を中心に、三島由紀夫が美をどのように小説の中へ組み込み、その美によって人物の内面や人間関係をどのように描き出したのかを考察する。


第一章 三島由紀夫は本当に「美の作家」なのか

三島由紀夫は、しばしば「美の作家」と評される。

その評価には、いくつかの異なる意味が含まれている。

第一に、三島の小説には、美しい人物、美しい肉体、美しい建築物、美しい自然が数多く登場する。

第二に、その文章自体が、華麗で視覚的であり、精密に構築されている。

第三に、美とは何か、美しいものを前にした人間がどのように変化するのかという問題が、物語の中心に置かれることがある。

したがって、三島を「美の作家」と呼ぶ場合、美しい題材を扱った作家という意味だけでは不十分である。

三島文学において重要なのは、美しいものそのものだけではない。それを見た人間が何を感じ、どのような行動を取り、現実との関係をどのように変化させるかという問題である。

一般に、美しいものは人を喜ばせ、慰め、生活を豊かにすると考えられている。

美術館で絵画を見ること、美しい音楽を聴くこと、自然の風景を眺めることは、人間に安らぎや感動を与える。美は、人間にとって肯定的な価値を持つものとして理解されることが多い。

しかし、三島の小説では、美は必ずしも穏やかなものではない。

美しいものを前にした人物は、しばしば自分自身の醜さ、弱さ、未熟さを意識させられる。美は人間を励ますどころか、現実の自分を否定する力として働くことさえある。

この構造が最も明確に現れる作品が『金閣寺』である。

『金閣寺』では、美しい建築物が主人公を救済するのではなく、次第に主人公の現実生活を圧迫する存在となっていく。

一方、『仮面の告白』では、美しい肉体が、見る者の憧れや欲望を喚起すると同時に、見る者と見られる者との距離を明らかにする。

『春の雪』では、美しい人物や恋愛が、日常生活の中に安定して存在するのではなく、距離、身分、時間、失われていく季節によって強調される。

これに対し、『潮騒』では、美しい肉体と自然と労働が比較的調和した関係を形成している。新潮社も同作を、太陽や海、若い男女の肉体と恋愛が結びついた「恩寵的な世界」を描く作品として紹介している。

この違いを見ると、三島文学の美は、単に暗いものでも、破壊的なものでもないことが分かる。

美が人物を苦しめるか、人物の生活と調和するかは、その美が現実から切り離されているか、それとも労働や生活の中に置かれているかによって変わる。

三島由紀夫が描いたのは、美そのものの定義というよりも、美と人間との関係だったのではないだろうか。

美しいものは、そこに存在しているだけでは文学にならない。

それを見る人間がいる。

憧れる人間がいる。

所有しようとする人間がいる。

拒絶される人間がいる。

美にふさわしい自分になろうとする人間もいれば、美を前にして自分の価値を失ったように感じる人間もいる。

三島文学における美は、このような人間の感情や欲望を映し出す鏡として働いている。


第二章 『金閣寺』――美は人間を幸福にするのか

『金閣寺』は、三島由紀夫の美の問題を考えるうえで、最も重要な作品の一つである。

主人公の溝口は、吃音と自らの容貌に強い劣等感を抱いている青年である。彼にとって金閣は、単なる歴史的建造物ではない。

それは父から語り聞かされた、世界で最も美しいものだった。

新潮社の作品紹介でも、溝口にとって金閣は「世界を超脱した美そのもの」であったと説明されている。

重要なのは、溝口が最初から現実の金閣を見て、その美しさに感動したわけではないことである。

金閣は、実物を見る前から、父の言葉や溝口自身の想像によって作り上げられていた。

つまり、金閣の美は、現実の建築物として存在する以前に、溝口の内面に観念として形成されている。

この順序は、『金閣寺』を理解するうえで重要である。

現実の金閣と、溝口の想像の中の金閣は、同じものではない。

現実の建築物には、物質的な古さや傷みがあり、見る位置や天候によって印象も変わる。しかし、観念の中の金閣は完全であり、変化せず、溝口の日常生活を超越している。

そのため、溝口は金閣を自由に見ることができない。

金閣は目の前に存在しているにもかかわらず、溝口にとっては決して日常的な建物にならない。それは常に、現実を超えた美として立ち現れる。

ここに、美と人間との不均衡が生まれる。

溝口は、自分の吃音や外見に悩み、他者との円滑な関係を築くことができない。現実の世界では、自分が不完全な存在であることを意識させられる。

それに対し、金閣は完全な美として存在する。

溝口の不完全さと、金閣の完全さが対比されるほど、金閣の美は彼を幸福にするのではなく、圧迫するものになる。

美しいものは、自分もまた美しくなれるという希望を与えるとは限らない。

むしろ、自分がその美から遠く隔てられた存在であることを、残酷なほど明確に示すことがある。

溝口にとって金閣は、憧れの対象であると同時に、自分の劣等感を絶えず確認させる存在でもある。

また、金閣の美は、溝口が現実の行動を起こすことを妨げる。

溝口が女性と関係を持とうとするときにも、金閣の像が彼の意識に現れ、目の前の現実を遮る。

ここでは、美が現実を豊かにするのではなく、現実への参加を困難にしている。

美しいものを想像することによって、現実の人間関係が色鮮やかになるのではない。反対に、観念として完成された美が、現実の人間や出来事を価値の低いものに見せてしまう。

その意味で、『金閣寺』における美は、一種の絶対的な基準である。

完全な美を基準にすれば、現実の人間も、日常生活も、身体も、恋愛も、すべてが不完全に見える。

だが、人間が生きるのは、完全な観念の世界ではない。

不完全で変化し続ける現実の中である。

溝口の苦しみは、美を愛したことだけから生じているのではない。美を現実とは異なる絶対的なものとして捉え、その美と自分との間に関係を築けなかったことから生じている。

『金閣寺』が示しているのは、美しいものが必ず人間を善い方向へ導くわけではないという事実である。

美は人間を高めることもあるが、人間を現実から遠ざけることもある。

美を前にした人間は、感動するだけではない。嫉妬し、恐れ、支配され、ときにはその美が存在すること自体を重荷に感じる。

三島由紀夫は、金閣の美しさを説明するだけではなく、その美に耐えられなくなる人間の内面を描いた。

そこに、『金閣寺』が単なる建築美の小説ではなく、人間と美との緊張関係を描いた文学作品である理由がある。


第三章 『仮面の告白』――美しい肉体はなぜ遠いのか

『仮面の告白』では、美の対象が建築物から人間の肉体へと移る。

この作品の語り手である「私」は、自らの内面を他者に知られないようにしながら、社会の中で生きている。

題名にある「仮面」とは、単なる嘘や演技を意味するものではない。

人間が社会の中で求められる役割を演じ、自分の内面と外部に示す姿との間に距離を作ることを表している。

新潮社の作品紹介では、この小説は、少年である「私」が自らの性的指向に煩悶し、級友の妹との関係を通して、自分が一般的な幸福に適合できないことを認識していく物語として紹介されている。

『仮面の告白』に登場する美しい肉体は、「私」が自然に近づき、触れ合い、日常を共有できる対象ではない。

それは、遠くから見つめられる対象である。

ここに、『金閣寺』と共通する構造がある。

金閣が溝口にとって所有できない美であったように、美しい男性の肉体は、「私」にとって自由に近づくことのできない美である。

ただし、『仮面の告白』における距離は、物理的な距離だけではない。

社会的な距離であり、心理的な距離であり、言葉にすることのできない内面と、他者に見せている自分との距離でもある。

美しい肉体を見つめる「私」は、その肉体を純粋な自然物として見ているわけではない。

肉体は、想像、物語、絵画、宗教的な図像などと結びつき、現実以上の意味を与えられる。

そのため、肉体の美は、単なる健康や均整だけでは説明できない。

「私」の想像力によって、肉体は現実の身体でありながら、象徴的な像へと変化する。

ここでも、美は見る者の内面によって作られている。

美しい人物が客観的に存在し、その美しさがそのまま語り手へ伝わるのではない。

語り手の欲望、記憶、不安、孤独が、美しい肉体の意味を変える。

同じ人物を見ても、別の人間には同じ美が見えるとは限らない。

美とは対象だけに属するものではなく、対象と見る者との関係の中に成立する。

さらに、『仮面の告白』では、美しい肉体と、語り手自身の身体感覚との間にも大きな差がある。

「私」は、美しい肉体を外側から見つめる。その視線には憧れがあるが、同時に、自分はその美の側にはいないという感覚も含まれている。

美を見るという行為は、自分と対象との違いを確認する行為でもある。

自分が持っていないもの、自分がなることのできないもの、自分が近づくことを許されないものほど、強く美しく見える場合がある。

この意味で、『仮面の告白』における美は、距離によって成立している。

完全に理解し、日常的に接し、自由に所有できるものは、観念的な美を維持しにくい。

遠く、禁じられ、言葉にできないからこそ、美は強くなる。

しかし、距離によって成立する美は、見る者を幸福にするとは限らない。

美が強くなるほど、それに近づけない自分の孤独も強くなるからである。

三島由紀夫は、美しい肉体を描くことによって、単に官能的な世界を作ったのではない。

美を見つめる人間が、なぜ自分を隠さなければならないのか。

なぜ美しいものを欲望することと、社会の中で普通に生きることの間に緊張が生じるのか。

そして、なぜ人間は他者に見せる自分と、自分だけが知る自分との間に仮面を必要とするのか。

美しい肉体は、こうした問いを引き出す装置として機能している。

『仮面の告白』の美は、人間を外部へ導くよりも、自己の内面へと深く沈める。

美しいものを見たために、自分自身が何者であるかを問わざるを得なくなる。

その点に、この作品における美の厳しさがある。


第四章 『潮騒』――生活と調和する美

『金閣寺』と『仮面の告白』では、美は人物と現実との間に距離を生じさせていた。

しかし、三島由紀夫の小説に登場する美が、常に人間を孤独にし、現実から遠ざけるわけではない。

そのことを示す作品が『潮騒』である。

『潮騒』の舞台は、伊勢湾の小島である。

若い漁師の新治と、島へ戻ってきた少女・初江との恋愛を中心に物語が展開する。二人の周囲には、海、太陽、風、星、漁、船、島の共同体が存在する。新潮社の紹介でも、同作は海の若者と少女の恋を中心に、若い肉体と自然が結びついた澄明な作品として位置づけられている。

『潮騒』における美は、現実から切り離された観念ではない。

新治の肉体は、鑑賞されるためだけの肉体ではなく、働くための肉体である。

漁に出て、船を動かし、海の危険に対応する。

初江の美しさも、遠くから眺められるだけの人工的な美ではない。島の自然や日常生活の中に存在し、労働や共同体との関係を持っている。

ここでは、肉体の美しさと、肉体の有用性が分離していない。

現代社会では、美しい肉体は、しばしば日常的な労働から切り離されて表現される。

鍛えられた身体、美しい容貌、若さなどが、それ自体の価値として提示される。

しかし、『潮騒』の肉体美は、海で働き、困難に耐え、他者を守る力と結びついている。

そのため、新治の肉体は観念的な像になりすぎない。

彼は美しい若者である以前に、生活する人間である。

この点が、『仮面の告白』に登場する、遠くから見つめられる肉体との大きな違いである。

『潮騒』では、美しいものが生活の外部に置かれていない。

太陽は人物を照らし、海は人物の生活を支える。

同時に、海は危険をもたらし、若者の力量を試す場所でもある。

自然は単なる背景ではなく、人物の身体、感情、成長に関わる現実の環境である。

また、新治と初江の恋愛は、二人だけの観念的な世界に閉じこもるものではない。

島の噂や家族、経済的な立場、結婚といった現実的な条件にさらされる。

それでも二人は、現実を拒絶して自分たちの世界へ逃げるのではなく、困難を乗り越えながら共同体の中で関係を成立させようとする。

ここでは、美と幸福が比較的近い位置にある。

美しい人物が、美しい自然の中で、互いを愛し、労働し、将来の生活へ向かっていく。

これは三島文学の中では、きわめて明るい美の形である。

ただし、『潮騒』の美を単純な楽観主義と見るべきではない。

二人の恋愛は、最初から無条件に認められているわけではない。嫉妬、噂、身分や経済的な違い、自然の危険が存在する。

それでも美と現実が決定的に分裂しないのは、新治と初江が、観念の中に閉じこもらず、行動によって現実との関係を築いていくからである。

『金閣寺』の溝口は、美を見つめ続ける。

『仮面の告白』の「私」も、美しい対象を見つめ、その意味を内面で増幅させる。

これに対し、『潮騒』の新治は、美しいものを見つめるだけではない。

働き、選択し、危険に立ち向かい、人間関係の中で責任を引き受ける。

『潮騒』が示すのは、美が生活と結びつくためには、美を観念として所有するのではなく、現実の行動の中で経験する必要があるということではないだろうか。

美が日常生活を超越した絶対的なものになるとき、人間は美に支配される。

しかし、美が労働や自然や人間関係の中に存在するとき、それは生活を肯定する力になり得る。

『潮騒』は、三島由紀夫が美を苦悩や孤独だけでなく、人間と世界との調和としても描くことのできた作家であることを示している。


第五章 『春の雪』――美はなぜ失われるときに強くなるのか

『春の雪』は、『豊饒の海』四部作の第一巻である。

物語の中心となるのは、華族の家に生まれた松枝清顕と綾倉聡子である。

二人は互いに惹かれ合いながらも、清顕の自尊心やためらいによって関係を素直に進めることができない。清顕が聡子を遠ざけた後、聡子は皇族との婚約を受け入れる。その後、二人の関係は、許されないものとなったことによって、かえって激しさを増していく。

『春の雪』における美は、若さ、季節、身分、恋愛、距離、時間と密接に結びついている。

題名にある「春の雪」は、その性質を象徴している。

春の雪は美しい。

しかし、長く残ることはない。

降り積もったとしても、季節の暖かさによって間もなく消えてしまう。

その美しさは、永続することではなく、消えてしまうことと結びついている。

清顕と聡子の関係も、安定した日常の中で少しずつ育つ恋愛ではない。

二人が自由に結ばれる可能性があるとき、清顕は自分の感情を十分に受け入れることができない。

ところが、聡子が他者との婚約によって遠い存在になると、清顕の感情は強くなる。

ここには、美と距離の関係がある。

身近にあり、手に入れることのできるものよりも、失われようとしているものの方が美しく見える。

自由に会えるときよりも、会うことを禁じられた後の方が、相手の存在が強く感じられる。

人間は、対象そのものを愛しているのか。

それとも、その対象を失う可能性によって、自分の感情を強めているのか。

『春の雪』は、この判別しにくい問題を描いている。

清顕は、聡子を愛している。

しかし、その愛は、聡子が遠ざかるほど強くなる。

もし聡子がいつでも会える身近な存在であり続けたならば、清顕は同じように彼女を求めただろうか。

この問いに、簡単な答えは出せない。

ただし、三島は、愛や美が対象との距離によって変化することを、物語の構造として明確に描いている。

また、『春の雪』では、若さそのものが美として表現されている。

若さは、永続する性質ではない。

若者は、自分の若さが失われることを十分には理解していない。清顕の繊細さ、傲慢さ、ためらい、気まぐれは、若さの魅力であると同時に、若さの未熟さでもある。

三島は、清顕を道徳的に完全な人物として描いてはいない。

清顕は、自分の感情を扱いきれず、相手を傷つけ、決断を遅らせる。

それでも、その未熟さを含んだ存在全体が、美しいものとして描かれる。

ここでの美は、人格的な善良さと一致しない。

人は善良であるから美しいとは限らず、正しい判断をするから美しいとも限らない。

矛盾や欠点を持ちながら、二度と戻らない若い時間の中に存在していること自体が、美を生み出している。

『春の雪』の自然描写や室内描写も、この失われる時間を強く意識させる。

季節、光、庭園、衣服、建物、儀礼などが細かく描かれ、人物たちは美しく整えられた世界の中に置かれる。

しかし、その世界は安定していない。

旧い貴族社会の秩序と、新しい時代の動きが重なり、登場人物たちが属する世界そのものも変化しようとしている。

美しい形式が存在しているからこそ、それが長くは続かないという予感が生まれる。

三島文学において、美はしばしば、変化しない完全なものとして求められる。

しかし、『春の雪』の美は、変化を拒むことで成立するのではない。

むしろ、失われていくことが、美を強くしている。

雪は溶けるから美しい。

春は過ぎるから美しい。

若さは失われるから美しい。

自由に結ばれない恋愛は、その不可能性によって、日常的な恋愛よりも鮮烈なものになる。

ただし、このような美は、人を幸福にする美ではない。

失われるから美しいものを愛するならば、その美を感じることは、同時に喪失を経験することでもある。

『春の雪』における美は、所有や安定ではなく、時間と距離の中で成立する。

それは完成された幸福の美ではなく、幸福になり得た可能性が失われていく美である。


第六章 三島由紀夫の文体はどのように美を作るのか

三島由紀夫は、美しい建築物、肉体、自然、恋愛を題材にした。

しかし、題材そのものが美しいだけで、文学作品が自動的に美しくなるわけではない。

同じ海、同じ庭園、同じ若者、同じ建築物を描いても、文章の選び方によって、読者が受け取る印象は大きく変わる。

三島文学の美を考えるためには、何が描かれているかだけではなく、どのように描かれているかを見る必要がある。

1 視覚的に構成される文章

三島の文章は、視覚的な印象が強い。

色、光、影、形、輪郭、表面の質感などが細かく描かれ、読者は場面を頭の中に映像として想像しやすい。

ただし、それは写真のように現実をそのまま写す描写ではない。

三島は、現実の風景から特定の要素を選び取り、強調し、配置し直す。

光をどこに当てるか。

何を暗い影の中に置くか。

人物の身体のどの部分を描くか。

背景をどの程度まで説明するか。

こうした選択によって、現実の場面が一つの構図へ変えられる。

三島の自然描写が、単なる写生とは異なるのはそのためである。

海や庭園や雪は、自然のままに存在しているのではなく、文章の中で造形された美として読者の前に現れる。

2 比喩によって現実を変形する

三島の文体では、比喩が重要な役割を持つ。

比喩は、あるものを別のものにたとえる表現である。

しかし、三島の比喩は、単に説明を分かりやすくするためだけに用いられているのではない。

比喩によって、現実のものが別の意味を持ち始める。

身体が彫刻のように見える。

水面が金属や宝石のように見える。

雲や光が布や紙のように見える。

自然物が人工物のように描かれ、人工物が生き物のように描かれる。

この変換によって、読者は日常的な対象を、普段とは異なる角度から見ることになる。

比喩は現実を忠実に再現するのではなく、現実に新しい形を与える。

その意味で、三島の文章は、世界を説明する文章というよりも、世界を作り直す文章である。

3 感覚と観念を結びつける

三島の文章には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚などの具体的な感覚が多く現れる。

一方で、美、時間、孤独、欲望、幸福といった抽象的な観念も頻繁に語られる。

三島の特徴は、感覚と観念を別々に書くのではなく、両者を一つの文章の中で結びつける点にある。

たとえば、ある光景が美しく描かれた後、その光景が人物にとって何を意味するかが考察される。

また、人物の感情が抽象的に説明されるだけでなく、身体感覚や風景の変化として表現される。

そのため、読者は単に場面を見るだけではなく、その場面に与えられた思想的な意味まで同時に読むことになる。

『金閣寺』における金閣は、建築物であると同時に、溝口にとっての絶対的な美の観念である。

『仮面の告白』の肉体は、身体であると同時に、欲望、孤独、自己認識を引き出す象徴である。

『潮騒』の海は、自然環境であると同時に、新治の労働能力や勇気を試す場所である。

『春の雪』の雪は、自然現象であると同時に、若さや恋愛のはかなさを表している。

三島の文体は、物と意味を結びつける。

物を物のまま放置せず、その背後に観念を生じさせる。

4 人物を一つの造形物として描く

三島の人物描写では、人間の内面だけでなく、外見、姿勢、衣服、動作、周囲の光景が重視される。

人物は心理だけで作られているのではない。

身体の形、歩き方、視線、服装、置かれている空間によって、一つの視覚的な像として構成される。

この方法によって、登場人物は単なる現実の人間以上の存在感を持つ。

清顕や聡子は、一人の若者、一人の女性であると同時に、失われていく時代や若さを表す美しい像にもなる。

新治と初江は、個人であると同時に、海と太陽の下で生きる若い男女の象徴的な姿としても描かれる。

ただし、人物を美しい像として描くことには危うさもある。

人物が造形的に完成するほど、日常生活を送る普通の人間から遠ざかる可能性があるからである。

三島文学の人物には、ときに現実の人間以上に整いすぎている印象がある。

しかし、その人工性こそが三島の文体の特徴でもある。

三島は、現実の人物をそのまま写すのではなく、言葉によって人物を造形する。

小説の人物を、彫刻や絵画のように配置し、光を当て、輪郭を与える。

5 自然美ではなく、構築された美

三島の文章は、自然に流れ出た感情をそのまま記したような文章ではない。

語句、比喩、文の長さ、場面の配置が強く意識され、人工的に構築されている。

ここでいう人工的とは、不自然で価値が低いという意味ではない。

庭園、建築、彫刻、舞台などと同じように、人間の意志によって形を整えられた美という意味である。

三島の文体は、感情を無加工で表に出すのではなく、感情に形式を与える。

苦悩をそのまま叫ぶのではなく、比喩や構図の中に置く。

恋愛を直接的な感情表現だけで描くのではなく、季節や衣服や建物と結びつける。

人物の孤独を説明するだけでなく、その人物と美しい対象との距離として表現する。

そのため、三島の文章には、感情の激しさと、形式の冷静さが同時に存在する。

内容は激しくても、文章は制御されている。

人物は混乱していても、場面の構成は整っている。

この緊張関係が、三島の文体に独特の美しさを与えている。


おわりに――美は人を救うのか

三島由紀夫の文学における美は、一つの意味に固定することができない。

『金閣寺』では、美は溝口を現実から遠ざけ、その劣等感を強める。

金閣の完全な美は、溝口に幸福を与えるのではなく、自分の不完全さを意識させる。

『仮面の告白』では、美しい肉体は、欲望の対象であると同時に、語り手が自分自身の孤独を知るきっかけとなる。

美しいものは近くにあるのではなく、距離や禁忌によって、いっそう強い美となる。

『潮騒』では、美は現実の生活と調和している。

若い肉体は労働する身体であり、海は美しい背景であると同時に、人間の力を試す生活の場である。

ここでは、美が人間を現実から遠ざけるのではなく、現実の行動や共同体の中で成立している。

『春の雪』では、美は時間と喪失によって強められる。

若さ、恋愛、季節、旧い社会の形式は、永遠に続くから美しいのではない。

失われていくことが避けられないからこそ、強い美として感じられる。

これらの作品を比較すると、三島文学における美は、対象そのものに固定された性質ではないことが分かる。

美は、見る者との関係によって変わる。

近づけるか、近づけないか。

生活の中に置かれているか、現実を超越した観念になっているか。

所有できるか、失われようとしているか。

美を前にした人物が行動するか、ただ見つめ続けるか。

こうした条件によって、美は幸福にもなり、苦悩にもなる。

三島由紀夫は、美しいものを数多く描いた。

しかし、三島文学の本質は、美しい対象を並べたことにはない。

美しいものを前にした人間が、どのように自分を知り、どのように現実との距離を測り、どのように欲望し、ためらい、行動するかを描いたことにある。

また、その美は、文章の外部に最初から存在しているわけではない。

光、色彩、比喩、身体、季節、建築、自然を精密に配置する文体によって、美は小説の中に作り出される。

三島由紀夫は、美を説明した作家というよりも、言葉によって美が成立する瞬間を構築した作家だったと言える。

美は人を救うのか。

三島の小説は、この問いに一つの答えを与えない。

美は人を幸福にすることもあれば、自分の不完全さを意識させることもある。

現実の生活を肯定することもあれば、現実を価値のないものに見せることもある。

美しいものが人間に何をもたらすかは、美そのものによって決まるのではない。

人間がその美と、どのような関係を結ぶかによって決まる。

三島由紀夫の文学が今も読者を引きつける理由の一つは、美を単なる慰めや装飾として扱わなかった点にある。

三島が描いた美は、人間を静かに満足させるだけのものではない。

見る者の内面を照らし、その欲望、劣等感、孤独、若さ、幸福、時間への恐れを浮かび上がらせる。

だからこそ、三島由紀夫の小説における美は、美しいだけでは終わらない。

それは、人間が現実をどのように生きるのかを問い返す、文学の力そのものなのである。

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