リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

人文・文化論

人文・文化論

 1929年に刊行された小林多喜二の『蟹工船』には、国家と文学の関係を考えるうえで見過ごせない記録が残されている。国立国会図書館が紹介する「内務省検閲発禁図書」に含まれる『蟹工船』の資料には、表紙に「削除処分モノ」という書き込みがあり、戦前の日本において、この作品が出版物に対する検閲の対象となっていたことを確認できる。ただし、この書き込みだけで、どの部分が実際に削除され、どの版がどのような形で流通したのかまで確定することはできない。それでも、北洋の船で働く労働者の生活を描いた文学作品が、国家の出版統制と衝突していたことは確かである。作家が想像力によって生み出した物語が、なぜ政治権力による審査の対象になったのだろうか。

 この疑問をさらに興味深いものにしているのは、『蟹工船』が発表から約80年を経た2008年にも、再び大きな注目を集めたことである。新潮社の公式な沿革によれば、同年には『蟹工船・党生活者』が60万部の大増刷となり、従来の古典文学としての販売規模を大幅に超える動きが生じた。政治制度も労働環境も大きく異なる時代に、かつて国家の検閲対象となった作品が新しい読者を獲得したという事実は、政治的な主張を持つ文学が、必ずしも誕生した時代の対立に閉じ込められるわけではないことを示している。しかし、その再評価が政治思想の力によって生じたのか、作品そのものの表現が優れていたからなのか、あるいは出版や社会の状況が偶然重なった結果なのかについては、改めて検討する必要がある。

 政治的な主張を強く持つ作家は、社会の矛盾や人間の苦しみを鋭く捉えられる一方、自分の思想に合わない現実を描きにくくなる可能性もある。さらに、作家自身が政治活動に関わることによって創作上の視野が広がる場合と、国家や社会からの圧力によって作品の発表が妨げられる場合とでは、文学に生じる変化の原因が根本的に異なっている。この違いを考えるため、小林多喜二、ジョージ・オーウェル、大江健三郎、三島由紀夫、アレクサンドル・ソルジェニーツィンという5人の作家について、確認できる刊行記録、政治活動、本人の発言、作品の表現方法を照合してみたい。ただし、政治と深く関わった作家を意図的に選んだ比較であるため、そこから文学全体に当てはまる統計的な法則を導くことはできない。目指すのは政治思想の優劣を判定することではなく、思想が文学の可能性を広げる場合と狭める場合に、どのような違いが存在するのかを具体的に考えることである。

主人公を1人にしなかった小説は、何を描こうとしたのか

 『蟹工船』の舞台は、北洋で蟹を捕獲し、船内で缶詰に加工する船である。船の外側には広大な海が広がっているにもかかわらず、船内の労働者には自由に立ち去る場所がなく、日々の生活は仕事の命令と厳しい労働条件によって支配されている。小林多喜二は、この閉ざされた空間で生じる抑圧と抵抗を描くにあたり、特定の英雄的人物を物語の中心には据えず、複数の労働者が置かれた共通の状況と、その関係の変化を小説の中心に置いた。通常の小説であれば、1人の主人公が何を考え、何を選択し、どのような運命をたどるのかが読者を導くことも多いが、『蟹工船』では、個人の性格や運命だけでは説明できない労働の仕組みや集団の行動が物語を動かしている。

 このような表現方法を理解するには、小林が関わったプロレタリア文学運動の思想的な背景を見る必要がある。小林は北海道拓殖銀行に勤務しながら創作活動を続け、1927年には労農芸術家連盟に参加し、1928年に『一九二八年三月十五日』、1929年に『蟹工船』を発表した。彼が注目したのは、個々の労働者が貧しい生活を送っているという現象だけではなく、その背後にある労働と資本の関係であり、個人の努力や経営者の善意だけでは解決できない社会的な仕組みだった。こうした視点が、個人の内面を中心とする物語とは異なる構成を選ぶことにつながったと解釈できるが、政治思想がなければその表現方法が生まれなかったとまで断定できるわけではない。集団を中心に描く方法には文学史上の先例もあり、社会思想だけでなく、当時の文学運動や表現技法の影響も考慮しなければならないからである。

 それでも、『蟹工船』において政治的な問題意識と集団描写が密接に結びついていることは、作品を読むことで確認できる。貧困や労働災害を特定の人物の不幸として描くだけでは、個人を取り巻く制度や労働条件が十分に見えない場合があるが、同じ環境に置かれた複数の労働者を描くことで、苦しみが個人の性格や努力とは別の要因によって生じている可能性が浮かび上がる。一方で、集団全体を描くことを優先すれば、個々の人物が抱える固有の感情や生活史が十分に表現されなくなる可能性もあり、そのことが文学的な制約として評価される余地もある。つまり、政治思想は描写の対象を広げる契機となる一方、何を中心に描き、何を後景に置くかという選択にも影響しうるのである。

 しかし、小林の文学活動を最後に制約したのは、こうした創作上の選択だけではなかった。日本共産党の活動にも関わった小林は、1933年2月20日に特別高等警察に逮捕され、拷問によって死亡した。29歳で創作活動を断たれたという事実は、文学内部の表現方法をめぐる問題と、政治権力による外部からの強制を区別する必要性を示している。集団描写を選んだ結果として個人描写が少なくなることと、国家の弾圧によって作品を書く機会そのものが奪われることは、同じ意味での制約ではない。前者は作家が何を表現しようとするかという創作上の問題であるのに対し、後者は表現の自由と人間の生命に関わる問題であり、両者を混同すれば、政治思想そのものが文学を狭めたのか、政治権力が文学を抑え込んだのかを判断できなくなってしまう。

理想を信じた作家が、理想の裏切りを描いた理由

 小林多喜二が労働者の集団を描くことで社会の仕組みを明らかにしようとしたのに対し、ジョージ・オーウェルは、社会を変えようとする理想が、なぜ新しい支配や抑圧を生み出してしまうのかという問題に向き合った。オーウェルは1936年末にスペインへ渡り、フランコ側と戦う勢力に加わったが、そこで経験したのは、共通の敵と戦う人々の団結だけではなく、共和派内部の政治的な対立や弾圧でもあった。彼は戦線で負傷し、さらに政治的な混乱を経験した後、1938年に『カタロニア讃歌』を刊行している。この作品の背景を考えるうえで重要なのは、彼が社会主義への共感を失ったから全体主義を批判するようになったのではなく、むしろ自らが支持する理念と、その理念を掲げる組織の行動が矛盾する現実を経験したことである。

 その問題意識は、1945年の『動物農場』と1949年の『一九八四年』に、異なる文学的な形式として表れている。『動物農場』では、人間の支配から解放されるはずだった動物たちの社会に新しい支配者が現れ、当初の理想が変質していく過程が寓話として描かれる。一方、『一九八四年』では、権力による監視と強制に加え、言葉や歴史の記録、記憶のあり方まで操作される社会が構想され、人間が現実を判断する能力そのものを支配される危険が浮かび上がる。いずれの作品も政治的な主張と深い関係を持っているが、読者に与える印象は、政治制度を解説する評論や政策への賛否を述べる文章とは異なっている。動物たちの行動や架空の社会における生活を通じて、読者が権力の働きを具体的に想像できることに、小説という形式を選んだ意味がある。

 オーウェルは1946年の随筆『なぜ書くか』で、1936年以降の本格的な著作が、直接的にも間接的にも全体主義への反対と、彼自身が理解する民主的社会主義への支持に向けられてきたと説明している。さらに『動物農場』については、政治的な目的と芸術的な目的を意識的に結びつけようとした作品であることも明らかにしており、政治思想が創作の重要な動機であったことは、作家本人の文章から確認できる。ただし、本人が政治的な目的を持っていたという事実は、その目的によって文学的な質が向上したことを証明するものではない。作品の独創性を評価するためには、寓話の構造、人物や動物の描写、物語の展開、読者の解釈を生む仕組みなどを、政治的な主張とは区別して検討する必要がある。

 オーウェルの経験が示唆しているのは、強い政治思想を持つことと、その思想を掲げる勢力の行動を無条件に肯定することが、必ずしも一致しないという点である。彼は自らが支持する理想を持ちながら、その理想の名の下で行われる権力の集中や反対者への抑圧を批判し、その矛盾を文学の主題へ変えていった。しかし、こうした姿勢が出版上の困難をなくしたわけではなく、『カタロニア讃歌』は従来の出版社が刊行を見送り、別の出版社から発表されている。また、『動物農場』も刊行に至るまで複数の出版社から拒まれており、作品の政治的な内容が出版環境と無関係ではなかったことがうかがえる。政治思想は作品の題材や形式を生み出す力となりながら、同時にその作品が社会へ届く経路を難しくする場合もあったのである。

57年間書籍化されなかった小説は、何を物語っているのか

 政治的な作品が発表されるまでの困難は、戦前の日本やソ連のような国家による強い統制が存在した社会だけに生じたわけではない。戦後日本の文学にも、政治的な題材を扱った作品が社会的な反発を招き、長期間にわたって通常の書籍として流通しなかった例がある。大江健三郎が1961年2月に『文學界』で発表した『政治少年死す』は、その代表的な事例であり、1960年に発生した浅沼稲次郎日本社会党委員長刺殺事件を背景として、政治的な熱狂に傾いていく青年を描いた『セヴンティーン』の第2部にあたる。ただし、現実の事件と小説の関係については文学研究上の議論があり、作中人物や出来事を現実の事件に単純に対応させる読み方には慎重でなければならない。

 『政治少年死す』は、雑誌への掲載後、長く書籍化されなかったが、2018年7月10日に講談社から刊行された『大江健三郎全小説』第3巻に収録された。講談社の公式な刊行情報には、1961年の雑誌発表以来、一度も書籍化されていなかったことが明記されており、初出から初めての書籍化まで約57年5か月を要したことになる。この期間の長さは出版史上注目すべき事実であるものの、作品が完全に消滅していたことを意味するわけではなく、雑誌の掲載資料を通じて読むことや、研究対象として扱うことは可能だった。また、発表当時には政治的な抗議や脅迫が問題となったものの、57年間にわたる未書籍化の全期間を、そうした圧力だけで説明できるとは限らない。出版社の判断、作家の意向、社会的な状況などについて、時期ごとの記録を確認しなければ、長期にわたって書籍化されなかった原因を1つに確定することはできないのである。

 この違いは、文学と政治の関係を制度面から考える場合に重要である。戦前日本の内務省による出版統制と、戦後日本において生じた脅迫や抗議、出版社による刊行判断は、同じ制度の下で行われたものではない。日本国憲法第21条は表現の自由を保障し、その第2項では検閲を禁止しており、最高裁判所も1984年12月12日の大法廷判決において、憲法上の検閲について、行政権が主体となって表現物の内容を事前に審査し、不適当と判断したものの発表を禁止するという特徴を示している。民間からの抗議や脅迫、出版社の自主的な判断は、そのまま憲法上の検閲に該当するわけではないが、脅迫などによって作家や出版社が発表を控える場合には、表現活動が萎縮するという別の問題が生じる。したがって、『政治少年死す』の出版経緯を考える際には、国家による検閲という言葉で一括するのではなく、社会的圧力と出版上の判断がどのように関係したのかを区別する必要がある。

 それでも、大江の文学活動が政治的な問題を避ける方向へ転じたわけではなかった。1965年には『ヒロシマ・ノート』、1970年には『沖縄ノート』を刊行し、戦争の記憶、国家と個人の関係、戦後日本が抱える問題を問い続けている。一方、1964年の小説『個人的な体験』では、障害を持って生まれた子供に直面する父親の葛藤を描き、社会制度への批判よりも、逃れたいという欲望と責任を引き受けることの間で揺れる人間の姿を中心に据えた。これらの作品はジャンルも主題も異なり、直接に同じ基準で優劣を比較できるものではないが、他者の存在をどこまで尊重し、その存在に対してどのような責任を持つのかという倫理的な問題には、共通する部分が認められる。1994年のノーベル文学賞受賞記念講演『あいまいな日本の私』でも、大江は日本の近代化や戦争の経験が抱える矛盾を問題にしており、政治的な立場を持ちながら、単純な善悪の区別では捉えきれない現実を考え続けた作家として読むことができる。

三島由紀夫の最後を知ると、過去の文学まで変わって見える

 大江健三郎と同じ戦後日本を生きながら、政治的な思想と活動において大きく異なる方向へ進んだ作家が三島由紀夫である。三島は1956年に『金閣寺』を発表し、美への執着と破壊を結びつけた独自の文学世界を描いたが、この作品の中心にあるのは、特定の政治的な政策への賛否ではなく、美しいものに対する劣等感や欲望、それを完全に所有することも理解することもできない人間の葛藤だった。しかし、1960年代後半になると三島の政治的な発言と行動は目立つようになり、1968年7月には『文化防衛論』を発表し、同年10月には「楯の会」を結成した。1969年5月には東京大学の全共闘の学生たちと討論を行い、1970年11月25日には自衛隊市ヶ谷駐屯地で隊員らに決起を呼びかけた後、自決している。

 この最後の行動は非常に劇的だったため、その後の読者が三島の作品を読む際にも、政治的な結末を前提として意味を探そうとする傾向が生まれやすい。特に晩年の長編『豊饒の海』は、輪廻転生や歴史、記憶、美と死の問題を重ね合わせた作品であり、作者の政治的な思想や最後の行動と結びつけた解釈が可能である。しかし、作品の内部には単一の政治的な主張へ還元できない問題も残されており、物語の終盤では、それまで確かなものと思われていた記憶や存在の認識そのものが揺さぶられる。政治活動では自らの立場を明確に示そうとした作家が、小説の中では確実な答えに到達できない人間の問題を描いていたとすれば、政治活動と文学作品の意味を単純に一致させることは適切ではない。

 さらに注意すべきなのは、作家の生涯を最後の出来事から逆向きに説明してしまうことである。1970年の自決を知っている現代の読者には、1956年の『金閣寺』も最初からその結末へ向かう過程として見えるかもしれないが、作品が発表された時点の読者は、当然ながら三島の将来を知らなかった。後に起きた政治的な事件から過去の作品の意味をすべて説明しようとすれば、作品が当初から持っていた複数の解釈の可能性や、作家の思想と表現が時間の経過とともに変化していった過程を見失うことになる。これは歴史研究における結果からの逆算という問題にも通じており、作品の刊行時点と政治活動の時期を区別しながら、当時の作家が何を考え、どのような資料や経験に接していたのかを確認しなければならない。

 この点から大江と三島を比較すると、政治的な立場が大きく異なる作家であっても、作品の意味が作者の政治的主張と完全に一致するとは限らないことがわかる。大江の文学には個人の倫理や人間の曖昧さが残り、三島の文学には美と存在をめぐる解釈の広がりが残されているが、それらを政治思想の違いだけで説明することは難しい。もっとも、この比較は大江と三島の文学的な価値が同程度であることを証明するものでもなければ、政治活動への関わり方が文学的な完成度に影響しなかったことを示すものでもない。政治的な立場とは別に、作品の構成や人物描写、表現方法を検討する必要があるという、評価方法上の重要な問題を示しているのである。

作品を書く自由と、読者に届ける自由は同じではない

 政治思想が文学に与える影響を、国家による出版統制という観点から考えるとき、ソ連の作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの経験は重要な事例となる。彼は1945年、スターリンを批判する内容を私的な書簡に記したことなどを理由に逮捕され、8年間の強制収容所生活を送ったが、その経験は後の創作活動に深く関係した。1962年にソ連の文芸誌『ノーヴイ・ミール』で発表された『イワン・デニーソヴィチの一日』では、強制収容所という政治制度の下で暮らす人間の1日が描かれている。そこでは国家権力の構造を抽象的に説明するのではなく、寒さの中で働き、食事を取り、わずかな時間や物を大切にしながら生きる人間の行動を積み重ねることで、制度による抑圧が日常生活の細部にまで及ぶ現実を読者に感じさせている。

 この作品が1962年に公表された背景には、フルシチョフ政権によるスターリン批判と、当時の政治的な緩和があった。しかし、その後の政治状況の変化によって、ソルジェニーツィンが国内で作品を自由に発表することは難しくなり、1970年にノーベル文学賞を受賞した後も、当局との対立が続いた。1973年12月には強制収容所制度を扱った『収容所群島』がパリで刊行され、1974年2月にはソ連国籍を剥奪されて国外へ追放されている。1962年には公表できた政治的な題材の作品が、その後の政治状況では同じように刊行できなくなったという変化は、文学の自由が作家の能力や意欲だけで決まるものではなく、政治制度や出版環境によって大きく左右されることを示している。

 ソルジェニーツィンの事例を小林多喜二や大江健三郎の経験と比較すると、文学を制約する仕組みの違いがより明確になる。小林の場合は国家による検閲と弾圧が創作活動を直接脅かし、ソルジェニーツィンの場合は政治体制の変化によって国内での発表可能性が左右された。一方、大江の『政治少年死す』については、社会的な抗議や脅迫が存在したことと、作品が長期間書籍化されなかったことを確認できても、それらの間の因果関係を確定するには追加の資料が必要である。こうした制度上の違いを無視して、すべてを政治思想による文学の制約と呼んでしまえば、作家自身の信念が表現を方向づけた問題と、国家や社会が表現の自由を制限した問題を混同することになる。

 ただし、国家が作品を規制したという事実を、その作品の文学的な優秀さの証拠として扱うこともできない。政治的な迫害を受けた作品が必ず文学として優れているわけではなく、自由に刊行された作品が政治的な現実を捉える力に欠けているわけでもない。検閲や出版禁止を検証することは表現の自由と政治制度の問題であり、作品の文学的な価値を判断することは表現方法や構成、読者に与える意味を評価する問題である。両者には関係があるとしても、同じものとして扱うべきではなく、むしろその違いを明確にすることによって、政治が文学に及ぼした具体的な影響を検討できるようになる。

60万部という数字は、文学の何を証明するのか

 ここで『蟹工船』が2008年に再び注目された事実に戻ると、政治と文学の関係を数量的に考える際の限界が見えてくる。新潮社の公式な沿革では、同年の『蟹工船・党生活者』について60万部の大増刷が記録されており、当時の新潮文庫編集部への取材では、それ以前の年間増刷部数がおおむね5,000部程度だったことが説明されている。この2つの数字を単純に割ると、60万部÷5,000部=120となり、2008年の増刷規模は通常年のおよそ120倍に相当する。ただし、通常年の数字は概数であり、2008年の数字は特定の出版物について記録された増刷部数であるため、この120倍という値も概算的な規模比較にとどまる。また、増刷部数は出版社が追加して印刷した冊数であって、実際の販売部数や読者数を直接示す数字ではなく、文学的な評価が120倍になったことを意味するものでもない。

 この増刷規模の急増を説明するには、作品の内容だけでなく、当時の雇用環境や出版市場の状況を考える必要がある。2008年1月には現代の労働問題と『蟹工船』を結びつける作家同士の対談が新聞に掲載され、その後も報道や書店での紹介を通じて作品への関心が広がったことが、当時の出版社関係者の説明からうかがえる。しかし、話題になったことと売れ行きが増加したことが時間的に重なっているからといって、その対談だけが増刷の原因だったとは断定できない。労働環境への社会的な関心、書店の販売促進、関連する報道、作品の価格や入手のしやすさなど、複数の要因が関係していた可能性がある。また、2008年の再評価は同年秋の世界金融危機が深刻化する以前から始まっていたため、その後の金融危機を再評価の直接的な発端として説明することも、出来事の時間的な順序から適切ではない。

 こうした事情を考慮すると、『蟹工船』の増刷部数から確認できるのは、特定の時期に作品への出版需要が著しく増加したという事実までであり、その増加が政治思想によってどの程度説明できるかを数量的に示すことは難しい。実際の読者が作品のどの部分に共感したのか、政治的な主張に賛同したのか、それとも労働者の生活描写に現実感を覚えたのかを知るには、当時の読者調査や購買動機に関する資料が必要になる。仮にそうした調査が存在しても、調査対象の年齢構成や抽出方法、質問の仕方によって結果が変わる可能性があるため、出版社の増刷記録と読者調査の結果をそのまま同じ指標として比較することはできない。文学が社会的な注目を集めたという現象と、その作品がどのような理由で評価されたのかという問題は、関連していても異なる分析対象なのである。

5人の作家を比較して、因果関係はどこまでわかるのか

 ここまでの事例をまとめると、小林多喜二は労働者の集団的な経験を描き、オーウェルは政治的な理想が権力によって変質する問題を寓話や近未来小説へ変換した。大江健三郎は社会的な問題と個人の倫理を往復し、三島由紀夫は政治活動を強めながらも、作品の内部には美や存在をめぐる多様な解釈の可能性を残した。ソルジェニーツィンは国家による抑圧の経験を文学の重要な題材としたが、その作品が読者へ届く条件は政治体制によって左右された。この比較から、それぞれの作家において政治的な経験と文学的な表現が関係していることは認められるものの、政治思想が文学の質を向上させたのか、それとも低下させたのかを、同じ基準で判定できるわけではない。

 実証的な分析を行うには、まず文学の豊かさという言葉が何を意味するのかを定義しなければならない。作品数の多さを採用するのか、表現方法の独創性を重視するのか、人物描写の複雑さや後世の評価を基準にするのかによって、同じ作家に対する判断は変わる。例えば、政治活動への参加前後で発表作品数を比較することは可能だが、長編小説1作と短い評論1編を同じ1件として数えることが適切かどうかを検討する必要があり、政治的な主題を持つ作品の割合を調べる場合にも、どのような内容を政治的と分類するのかという基準が必要になる。さらに、文学的な評価を複数の研究者によって行う場合には、評価者の間で判断がどの程度一致するかを確認しなければ、数値化した結果に客観性があるとはいえない。

 因果関係を考える場合には、さらに難しい問題が生じる。ある作家が政治活動を始めた後に作品の内容が変化したとしても、その変化が政治活動そのものによって生じたとは限らず、年齢による経験の蓄積、戦争や社会情勢の変化、健康状態、出版社との関係などが同時に影響していた可能性がある。また、政治的な関心の強い人ほど社会問題を題材にした文学を書きやすいという関係があるなら、政治思想が文学を変えたという説明とは逆に、もともとの関心や性格が政治活動と創作活動の両方に影響していたことも考えられる。このような交絡要因を考慮せずに、政治活動への参加と作品の変化が同じ時期に起きたという事実だけから因果関係を断定することはできない。

 さらに、今回取り上げた5人は、政治と文学の関係が目立つ作家として意図的に選ばれており、無作為に抽出された比較対象ではない。政治活動をほとんど行わなかった作家や、政治的な作品を書いても広く評価されなかった作家、政治活動によって長期間執筆できなくなった作家などが含まれていないため、この5人の共通点を文学者全体の傾向として一般化することはできない。本格的な比較研究を行うのであれば、国や時代、文学ジャンル、活動期間などが可能な限り近い作家を対象に、政治活動への関与の程度と作品の変化を同じ基準で調べる必要がある。ただし、そのような比較を実施したとしても、作家の政治的な活動を実験のように無作為に割り当てることはできず、政治活動に関わらなかった場合に同じ作家がどのような作品を書いたかという反事実も直接観測できないため、因果関係の推定には限界が残る。

 したがって、今回の5人の比較から導けるのは、政治思想が文学に及ぼす平均的な効果を統計的に確定したという結論ではなく、政治思想と文学的な表現の関係には、複数の異なる仕組みが存在するという知見である。政治的な経験が新しい題材を発見する契機になった場合もあれば、思想を明確にすることが描写の対象を限定する可能性もあり、国家や社会の圧力が創作や出版を妨げる場合もある。史実として確認できる刊行年や政治活動の記録と、作品の意味についての文学的な解釈を区別し、それぞれの根拠を明確にすることが、数量的な分析を安易に付け加えること以上に重要なのである。

政治が答えを求めるとき、文学は何を問い続けるのか

 政治活動では、社会に存在する問題について立場を明らかにし、何を変えるべきかを示し、人々の行動を一定の方向へまとめることが求められる。実際の政策決定や社会運動では、複雑な事情を検討しながらも、最終的には何を支持し、何に反対するのかを選ばなければならず、そこには決定と責任が伴っている。しかし、文学の中に登場する人間は、必ずしもそのような明確な選択に従って行動するわけではない。正しいと理解していることを実行できない人もいれば、善意から行動した結果として他人を傷つける人もおり、ある思想を信じている人物が、その思想では説明できない感情を抱くこともある。そうした矛盾を簡単に整理せず、登場人物の行動や内面を通じて描くことができる点に、文学が政治的な演説や政策文書とは異なる表現の可能性を持つ理由がある。

 もっとも、政治に関する言葉が常に単純で、文学だけが複雑な現実を描くという区別も正確ではない。政治思想の中には人間や社会の矛盾を深く考察するものがあり、政治的な文章であっても、複数の価値の対立を慎重に検討することはできる。一方、文学作品の中にも、登場人物を特定の思想の正しさを説明するためだけに配置し、反対する人物には愚かさや悪意しか与えず、物語の結末を最初から用意された主張の確認にしてしまうものがありうる。したがって、政治的な文章と文学作品の違いを単純な優劣として捉えるのではなく、それぞれの文章が何を目的とし、どのような方法で読者に働きかけるのかを考える必要がある。

 政治思想が文学を制約するのは、必ずしも作家が強い信念を持っている場合ではなく、その信念に合わない現実を作品の中から排除してしまう場合だと考えられる。反対に、作家が自らの信念を持ちながら、その信念では十分に説明できない人間の行動や社会の矛盾に向き合うなら、政治思想は新しい題材や表現方法を生み出す力になりうる。小林多喜二が個人の運命だけでは描ききれない労働者の集団的な経験を中心に置いたことも、オーウェルが自分の支持する理念と、その理念を掲げる権力の行動との矛盾を描いたことも、政治的な問題意識が文学の表現と結びついた例として理解できる。ただし、そうした関係が認められることと、政治思想によって文学の質が必ず向上することは別であり、個々の作品について具体的な検討を続けなければならない。

 また、政治的な問題を扱わない文学だけが自由であるという考え方にも限界がある。貧困、戦争、差別、労働、国家権力による暴力などは、人間の生活に深く関わっており、それらを政治的な問題だからという理由で避けることも、現実の一部を描かないという選択につながる。小林が労働者の集団を描き、ソルジェニーツィンが収容所の生活を描いたことは、政治的な問題意識を通じて、それまで十分に表現されてこなかった人間の経験を読者に見える形にした例と考えることができる。政治思想が文学を豊かにする可能性は、その思想がどの立場に属するかだけで決まるのではなく、作家が何を発見し、何を描き、どのような人間の姿を作品の中に残すことができたかによって評価されるべきなのだろう。

時代を超えて読み継がれる作品は、何を残しているのか

 2008年に『蟹工船』が再び注目されたという事実を考えると、文学と政治の関係は、作品が発表された時代だけでは完結しないことがわかる。1929年の北洋漁業と現代の労働環境は、労働法制も産業構造も大きく異なっており、当時の労働者と現代の非正規雇用者を同じ条件に置かれた存在として扱うことはできない。しかし、働く人間が組織の中でどのような立場に置かれ、命令する側と従う側の関係がどのように形成されるのかという問題には、異なる時代の読者が自分たちの経験と照らし合わせて考える余地がある。作品が生まれた歴史的な背景を理解することと、その作品から新しい時代の問題を考えることは対立するものではなく、むしろ両者を区別することで、文学が持つ意味の広がりを検討できるようになる。

 オーウェルの『動物農場』についても、作品の背景にある政治的な対立を理解することは重要だが、読者が受け取る意味は特定の政治体制への批判だけに限られない。解放を約束した者が新たな支配者へ変わっていく過程は、権力の集中や組織の変質という、より広い問題を考える材料になる。ソルジェニーツィンが描いた収容所の1日も、ソ連の政治史を理解する資料であると同時に、自由を奪われた環境で人間が何を大切にし、どのように生活を続けるのかという問いを読者に残している。こうした文学の意味の広がりは、政治的な問題が抽象的な主張としてだけではなく、具体的な人間の行動や生活として表現されていることと関係していると考えられる。

 ただし、作品が長く読み継がれているという事実だけを根拠に、政治思想がその作品を生き残らせたと結論することはできない。文学作品の継承には、文章の魅力や物語の構成だけでなく、翻訳、学校教育、出版社の活動、批評家による紹介、社会的な関心の変化など、多くの要因が関わっている。ある時代に評価されなかった作品が後に再評価されることもあれば、かつて広く読まれた作品が、社会の変化とともに読者を失うこともある。こうした変化を考えれば、文学の価値を売上や刊行部数だけで測ることも、作品の政治的な主張の強さだけで説明することも適切ではない。政治思想は作品が生まれる条件の1つであり、その後に読者が作品を受け取る過程にも関係することがあるが、それだけで文学の価値や寿命を決定するものではないのである。

 今回の5人の比較から確認できるのは、政治思想が文学を豊かにするとも、必ず制約するとも、一律には結論できないということである。思想は、それまで見過ごされていた社会の現実や人間の生活を発見する視点になる一方、その思想に合わない人間の姿を描きにくくする可能性も持っている。さらに、国家による検閲や弾圧、社会的な脅迫、出版上の判断などは、作家の思想が創作に与える影響とは別に、作品が読者へ届く条件を左右する。これらの異なる現象を区別しなければ、政治思想が文学をどのように変えたのかという問いに、正確に答えることはできない。

 政治は社会をどのように変えるべきかという答えを求めるが、文学は、その答えを求める人間自身が、どのような矛盾や欲望、恐れや迷いを抱えているのかを描くことができる。作家が政治的な信念を守るために人間の複雑さを切り捨てれば、その信念は表現の制約になりうるが、信念を通じて新しい現実を発見し、さらに自分の信じる答えだけでは説明できない人間の姿にも向き合うなら、政治思想は文学的な探究の重要な出発点となりうる。これは統計的に証明された普遍的な法則ではなく、異なる時代と制度の下で活動した作家たちの作品から考えられる、文学と政治の関係についての1つの解釈である。

 かつて検閲の対象となった『蟹工船』が、約80年後にも新しい読者を獲得したという事実は、特定の政治的な立場の正しさを証明するものではない。しかし、そこで描かれた人間の生活や社会の仕組みが、作品の誕生した時代を知らない読者にも新しい問いを生み出したことは、文学の可能性を考えるうえで重要な意味を持っている。政治思想が文学を豊かにするかどうかは、作家がどの思想を信じたかという事実だけではなく、その思想を通じて何を発見し、どのような現実を描き、そして自分の信念では説明しきれない人間の姿をどこまで作品の中に残せたのかによって、問い直されるべきなのだろう。

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【注記】

 本記事では、夏目漱石の小説に描かれた交通機関や人々の生活を、明治期の歴史資料と照合しながら、社会の変化と人間の時間感覚との関係を考察する。記事中の「電車」は、明治時代に実際に使用されていた呼称であり、1903年に東京で営業を開始した路面電車を指す。漱石自身も1909年発表の『それから』で「電車」という言葉を使用している。なお、小説に描かれた人物の心理は文学的な解釈の対象であり、当時の日本人全体の時間感覚を実証するものではない。歴史的事実と作品の解釈を区別したうえで、明治という時代の特徴を考える。

 椿の花が畳に落ちる音を聞いただけで、自分の心臓の鼓動が気になり始める男がいる。夏目漱石の『それから』に登場する長井代助である。物語の冒頭、代助は昨夜落ちた八重の椿を眺めながら、胸に手を当て、自分の体の内側で刻まれる時間を確かめている。彼には差し迫った仕事があるわけではなく、生活費を稼ぐために毎朝決まった時刻に出勤する必要もない。それにもかかわらず、心臓の鼓動を意識するうちに、自分の生命が刻一刻と終わりへ近づいていることを考えずにはいられなくなる。

 やがて物語の終盤、代助は東京の電車に乗り込み、窓の外を流れていく街の景色を眺めながら「世の中が動く」と口にする。静かな部屋で自分の心臓の音に耳を澄ませていた男が、今度は自分の意思とは関係なく動き続ける都市の中に身を置いている。この2つの場面を結びつけると、近代化が進む明治の東京で、人間は時間をどのように感じていたのだろうかという疑問が浮かんでくる。

 明治時代と聞けば、文明開化、鉄道、電灯、工場、洋服といった風景が思い浮かぶ。新しい技術が導入され、遠くの土地へ短時間で移動できるようになり、人々の生活はそれまでとは大きく変わっていった。しかし、便利な社会になることと、人間がその変化を心地よく受け入れられることは同じではない。昨日まで当然だった暮らし方が、次の日には古いものとして扱われる社会では、変化すること自体が人間に新しい負担を与える場合もある。

 もちろん、小説に描かれた人物を、明治時代の日本人全体の代表と考えることはできない。漱石の主人公には、高い教育を受け、比較的恵まれた社会環境で暮らす人物が多く、農村や漁村、工場で働く人々とは生活条件が異なっている。それでも、鉄道や電車が走り、新聞が毎日届き、手紙によって遠く離れた人間の運命が変わる時代に、人の心がどのような戸惑いを抱えていたのかを考えるうえで、漱石の作品は興味深い手がかりになる。

53分の汽車が運んできたのは、人間だけではなかった

 1872年10月14日、日本で最初の鉄道が新橋と横浜の間に開業した。国立公文書館や国立国会図書館などに残る資料によれば、開業当初の営業距離は約29キロメートル、所要時間は53分だった。距離を所要時間で割ると、停車時間を含む表定速度は約32.8キロメートル毎時となる。現在の鉄道と比較すれば速いとはいえないが、徒歩での移動を基準にすると、その意味は大きく変わってくる。

 仮に29キロメートルを時速4キロメートルで歩くとすれば、所要時間は7時間15分となり、鉄道の53分と比較すると約8.2倍の時間を必要とする。もっとも、これは同じ距離を一定速度で移動するという仮定に基づく計算であり、当時の実際の徒歩経路や道路状況、駅までの移動時間、列車の待ち時間を考慮したものではない。それでも、鉄道が人間の移動に必要な時間を大幅に短縮する可能性を持っていたことは、この単純な比較からも理解できる。

 さらに重要なのは、鉄道の登場によって人々の行動に新しい時間の規則が加わったことである。江戸時代にも、商取引や職人の仕事、寺社の行事などには時刻を守る必要があり、明治以前の人々が時間を意識せずに生活していたわけではない。しかし鉄道では、乗客の都合に合わせて発車時刻を自由に変更することはできず、車両の運行と駅の業務を共通の時間に従って管理する必要があった。

 国立国会図書館が紹介する開業当初の時刻表には、すでに分単位の発車時刻が記されている。さらに、発車時刻の5分前には駅への立ち入りを禁じる注意書きも確認できる。当時の人々にとって、何時何分までに駅へ行かなければならないという規則は、鉄道を利用するための新しい生活習慣だったと考えられる。目的地へ早く到着できるようになった反面、乗り遅れないためには、自分の行動を列車の時刻に合わせなければならなかったのである。

 時間の数え方そのものも変化した。1873年には太陽暦と1日24時間の定時法が採用され、従来の季節によって昼夜の時間区分が変わる不定時法から、一定の長さで時刻を数える仕組みへの転換が進んだ。さらに1886年には東経135度を基準とする日本標準時が定められ、1888年1月1日から実施された。国立天文台の資料が示すように、これは暦を新しくしただけの問題ではなく、地域や季節によって異なっていた時間の扱いを、より広い範囲で共通化していく制度上の変化だった。

 ただし、新しい時刻制度が導入されたからといって、全国の人々が一斉に同じ生活を始めたわけではない。農作業には日照や季節に左右される時間があり、漁業には潮汐や海況によって決まる時間があり、商店や工場にはそれぞれの労働条件に応じた時間がある。明治の近代化とは、古くから存在する多様な生活の時間を一度に消し去ることではなく、その上に交通や通信、行政、産業が必要とする共通の時間を重ねていく過程だったと考えられる。

20時間の旅が13時間40分になったとき、社会はどう変わったのか

 鉄道の発達を1872年の開業だけで考えると、漱石が小説を書いていた時代との距離が見えにくくなる。漱石の代表的な長編小説が発表されたのは主に1900年代以降であり、その頃には鉄道は東京と横浜を結ぶ珍しい乗り物ではなく、各地の都市を結び、広い範囲に人や物を運ぶ交通網へと発展していた。

 1889年には新橋から神戸までの鉄道路線が全通し、直通列車による所要時間は約20時間だった。国立国会図書館の鉄道史資料によれば、1896年には急行列車が設定され、同区間の所要時間は約17時間となり、1906年には13時間40分まで短縮されている。1889年の約20時間と1906年の13時間40分を比較すると、所要時間の短縮は約6時間20分、短縮率は約31.7%に相当する。

 この数字には注意も必要である。比較した時代には列車種別や運行条件に違いがあり、所要時間の変化をすべて機関車の性能向上によるものと考えることはできない。路線の整備、運行方法、停車駅なども所要時間に影響するため、約31.7%という数字は同じ区間を移動するために必要だった時間の変化を示すものであり、鉄道技術そのものの進歩率ではない。

 それでも、鉄道が各地を結び、移動時間を短縮していったことは確かである。時間の短縮によって、これまで容易には往復できなかった都市の間を移動する可能性が広がり、人の往来や商品の流通、情報の伝達にも変化が生じた。こうした変化がどの地域で、どの程度の経済効果を持ったのかを明らかにするには、運賃、輸送量、人口移動、産業構造などを含めた別の検証が必要になるが、人々が行動できる地理的な範囲と、それに必要な時間との関係が変わっていったことは理解できる。

 ここで1つの疑問が生まれる。移動時間が短くなれば、人間はそれだけ時間的な余裕を持てるようになるのだろうか。確かに交通に費やす時間が減れば、他の活動に使える時間が生まれる可能性はある。しかし、移動が容易になったために、以前より遠くまで出かける機会が増えたり、短い期間に多くの用事を済ませることが求められたりする場合もある。移動の効率が高くなることと、個人が自由に使える時間が増えることは、必ずしも一致しないのである。

 この問題を考えるとき、漱石の小説に登場する汽車や電車は、単なる時代背景以上の意味を持ち始める。鉄道は登場人物を目的地へ運ぶ一方で、それまでとは異なる生活や人間関係の中へ送り込み、時には自分の意思では止められない社会の動きを意識させる存在にもなっている。

東京へ着いた三四郎は、なぜ新しい世界に追いつけなかったのか

 1908年に朝日新聞へ連載された『三四郎』は、熊本の第五高等学校を出た青年が、東京帝国大学へ進学するために上京する物語である。小説は大学の教室でも東京の街角でもなく、三四郎が乗っている汽車の中から始まる。窓の外を流れていく景色や、車内で出会う人々との会話を通して、彼が慣れ親しんだ故郷の外側へ運ばれていく様子が描かれている。

 汽車に乗れば東京へ到着することはできるが、そこで暮らす人々の価値観や行動の意味まで、すぐに理解できるわけではない。東京の大学には新しい学問があり、街には電車が走り、多様な人間が行き交っている。三四郎はそうした世界に強い関心を持ちながらも、そこで出会う人々の言葉や振る舞いに戸惑い、自分がどのように行動すべきなのかをつかみきれずにいる。

 物語の中で三四郎は、自分の前に3つの世界が存在すると感じる。母親と故郷につながる懐かしい世界、大学の学問や研究者たちの世界、そして美禰子に象徴される華やかで近づきがたい世界である。これらは原作に描かれた三四郎の認識に基づくものであり、漱石が社会全体を3つの時間に分類したという意味ではない。しかし、時間という観点から読み直すと、それぞれの世界が異なる生活のリズムや価値観を持っているように見えてくる。

 故郷の世界は、三四郎がこれまで生きてきた時間と結びついており、母親から届く手紙は、遠く離れた土地の生活を東京の現在へ呼び戻す。一方、大学の世界では、長い時間をかけて知識を蓄積し、物事を考える姿勢が重視される。そして美禰子をめぐる人間関係では、相手の言葉の意味を十分に理解できないまま、状況だけが変化していくように感じられる場面がある。

 東京に到着した三四郎の身体は、すでに故郷から遠く離れている。しかし、彼の心の中には、それまでの生活から受け継いだものが残っており、新しい環境に対する理解や感情が、移動に要した時間と同じ速さで変わることはない。ここには、交通機関が人間を運ぶ速度と、人間が新しい社会に適応する速度との違いを読み取ることができる。

 その違いを考えるうえで興味深いのが、東京帝国大学の池のほとりに広がる静かな風景である。現在の東京大学本郷キャンパスに残る三四郎池は、江戸時代の加賀藩前田家の庭園に由来する池であり、近代的な大学の敷地の中に、さらに古い時代の景観が受け継がれている。小説の中でも、池の周辺は都市の活動的な風景とは異なる静けさを持った場所として描かれ、三四郎が人間関係や自分自身について考える舞台となっている。

 明治の東京は、すべてが新しく、すべてが同じ速さで動く都市ではなかった。江戸時代から残る風景の中に大学があり、その外側には新しい交通や商業の世界が広がっている。『三四郎』に描かれているのは、近代化によって古い時間が消えていく様子だけではなく、新旧の異なる世界が同じ都市の中に存在し、その間で青年が自分の生き方を探していく姿なのである。

電車が走り始めても、代助の人生は動かなかった

 『三四郎』の翌年、1909年に発表された『それから』では、時間の問題がさらに複雑になる。主人公の長井代助は裕福な家庭の援助を受け、定職に就かずに暮らしている。生活費を稼ぐために毎日働く必要がないという点では、時間に恵まれた人物であり、社会的な労働時間に直接拘束されない高等遊民的な生活を送っている。

 しかし、代助が自由に使える時間を多く持っているからといって、人生の選択まで自由にできるわけではない。彼の生活は父や兄の経済的支援によって成り立っており、家族からは結婚や社会的な自立を期待されている。かつて友人の平岡と結婚した三千代への感情が再び強まるにつれ、代助は、それまで決断を避けてきた問題と向き合わざるを得なくなっていく。

 代助の姿を考えると、時間的な余裕と心理的な自由が必ずしも一致しないことに気づかされる。働かずに過ごせる1日があっても、その時間をどのように使い、どのような人生を選ぶのかという問題から逃れることはできない。自分が決断を先延ばしにしている間にも、他人の生活は変わり、家族の期待や社会的な立場も変化していく。何もしなければ現在の状態が保存されるわけではなく、決断しないこと自体が将来の選択肢を変えてしまう場合があるのである。

 そのような代助の心理が、物語の終盤に登場する電車の場面で鮮やかに表現される。代助が電車に乗ると、赤い看板や郵便ポストなどの街の景色が次々に視界へ入り、動いていく都市の色彩が彼の意識を圧倒するように描かれる。そこで彼が口にする「世の中が動く」という言葉には、目の前の街が移動して見えるという感覚だけでなく、自分の生活が大きく変わろうとしていることへの切迫した意識が重なっているように読める。

 この場面が描かれた1909年には、東京の路面電車はすでに都市交通の一部となっていた。東京都交通局の沿革によれば、1903年8月22日に東京電車鉄道が品川と新橋の間で路面電車の営業を開始しており、その後、東京の電車網は拡大していった。なお、当時の路面電車は主として民間会社によって運営されており、東京市が事業を引き継ぎ、東京市電気局による路面電車事業を開始したのは1911年8月1日である。

 『それから』の電車を、東京市が運営する市電として当然のように理解すると、作品の時代設定と制度史の間にずれが生じる。漱石が描いたのは、民間の電気鉄道が発達しつつある明治末期の東京であり、電車という新しい移動手段が都市生活に入り込んでいた時代だった。

 ただし、代助の心理的な混乱を、電車の速さや都市の近代化だけによって説明するのは適切ではない。彼は三千代との関係をめぐって重大な決断を下し、家族との対立や経済的な支援を失う可能性にも直面している。電車の場面には、こうした個人的な危機が重なっているのであり、都市の動きが直接的に代助の不安を生み出したと断定することはできない。

 むしろ重要なのは、個人の内面で起こっている変化と、街の外側で続いている動きが、同じ場面に描かれていることである。電車は代助の意思に関係なく進み、街の風景も彼の事情を考慮して止まることはない。その動きの中で、自分の人生をもう元には戻せないかもしれないという感覚が強まっていく。漱石は交通機関の走行速度そのものを描きたかったというよりも、人間が変化の中に置かれたときに生じる心理的な動揺を、都市の風景と結びつけて表現したのではないだろうか。

暇を持つ人間と、時間に追われる人間の違いはどこにあるのか

 代助の生活を見ていると、現代にも通じる別の疑問が生まれる。自由に使える時間が増えれば、人間は本当に幸福になるのだろうか。技術の発達によって作業時間が短縮され、交通や通信が便利になれば、その分だけ生活に余裕が生まれるようにも思える。しかし、余った時間を誰が自由に使えるのかという問題を考えると、時間の量だけでは説明できない社会的な違いが見えてくる。

 『それから』の代助は、家族の資産に支えられて生活しているからこそ、職業に拘束されない時間を持つことができる。一方、友人の平岡は仕事や生活上の問題に直面しており、代助とは異なる条件の中で生きている。両者の違いは、単に性格や勤勉さによるものではなく、経済的な立場や家族関係によって、時間の使い方にどの程度の選択肢があるのかという問題とも結びついている。

 さらに、代助と三千代の置かれた条件も同じではない。明治期の婚姻や家族関係には、1898年に施行された民法の家制度を含む法律上の規律が存在し、それに加えて経済力や社会慣行による制約もあった。法律上の権利、実際の財産管理、職業に就く機会、周囲の期待などはそれぞれ区別して検討する必要があるが、代助と三千代が同じ程度の自由を持って人生を選択できたと考えることは難しい。

 時間を自由に使えるという状態は、時計の上で何時間空いているかという数字だけでは決まらない。その時間を使って何を選べるのか、選択の結果を誰が引き受けるのか、生活を維持するための経済的な条件が整っているのかによって、自由の意味は変わってくる。

 これは明治という時代を、単に現代よりゆっくりした社会だったと考えることの危うさにもつながる。農業や漁業に従事する人々の生活は、季節や天候、自然条件の影響を受けており、都市の工場で働く人々には労働時間や賃金の問題があり、官吏や学生には職務や学校制度による時間の拘束があった。どのような人々が、どれほど長く働き、どの程度の余暇を持っていたのかを明らかにするには、職業別の労働実態や家計、生活時間などを示す歴史資料が必要である。

 漱石の小説に登場する限られた人物から、明治の日本人全体の時間の使い方を推定することはできない。しかし、文学には統計では捉えにくい問いを浮かび上がらせる働きがある。代助が時間に恵まれながらも不安を抱えているという事実は、自由時間の長さと人生の充実が必ずしも比例しない可能性を考えさせる。そこに描かれているのは、近代化の速度だけでなく、社会の中で人間がどのような自由と制約を持って生きているのかという問題なのである。

新聞の続きを待つ読者も、明治の時間を生きていた

 明治の時間を考えるときには、漱石の小説がどのような形で読者に届けられていたのかにも目を向けたい。現在では『三四郎』『それから』『こころ』を、それぞれ1冊の本として読むことが一般的であり、読者は好きなところまで読み進め、必要ならば前のページへ戻ることもできる。しかし、初めて作品に触れた当時の読者にとって、物語は最初から最後まで一度に与えられるものではなかった。

 東北大学附属図書館に残る漱石関係の書誌資料によれば、『三四郎』は1908年9月1日から12月29日まで、『それから』は1909年6月27日から10月14日まで朝日新聞に連載された。『こころ』については、東京朝日新聞で1914年4月20日から8月11日まで、大阪朝日新聞では同年8月17日まで掲載されたとされている。これらの作品は、現在のように完成した1冊の本を購入して読むという形だけでなく、新聞の掲載に合わせて物語を読み進めるという形で、多くの読者に届けられていたのである。

 新聞連載では、その日に掲載された部分を読み終えても、続きをすぐに知ることはできない。物語の登場人物が決断を迷っている場面で掲載が終われば、読者も次の掲載を待つことになる。その間には自分自身の日常生活があり、仕事や家庭の出来事があり、新聞の別の紙面には政治や経済、社会で起こった事件が掲載されている。架空の人物の人生と、現実の世の中で進む出来事が、同じ新聞という媒体を通して、一定の時間間隔を置きながら読者のもとへ届いていた。

 『それから』が連載された1909年6月27日から10月14日までという期間は、暦の上では約3か月半に及ぶ。ただし、連載日数と期間中のすべての日付が一致するわけではなく、東北大学附属図書館の資料では110回の連載とされている。作品を1日で読み終える現代の読者と、約3か月半にわたって新聞を読み続けた当時の読者とでは、登場人物の迷いや決断を受け止める時間的な条件が異なっていたと考えられる。

 もちろん、新聞連載を読んだ人々が全員同じ心理状態になったわけではなく、掲載形式が作品理解にどのような影響を与えたかを実証するには、当時の読者の手紙や日記、書評などを調べる必要がある。それでも、物語の進行が読者個人の意思だけではなく、新聞の発行周期によって規定されていたという点は重要である。

 鉄道が人々の移動を時刻表に合わせる仕組みを広げたように、新聞は物語や情報を一定の周期で届ける仕組みを持っていた。明治の近代化によって変わった時間とは、目的地へ早く到着するための時間だけではなく、人々が情報を受け取り、物語の続きを待ち、遠くで起きた出来事を知るまでの時間でもあったのである。

『こころ』では、終わったはずの明治が終わらない

 『三四郎』では故郷から新しい世界へ向かう青年の戸惑いが描かれ、『それから』では社会の中で決断を迫られる男の危機が描かれた。ところが、1914年に発表された『こころ』では、時間は未来へ向かって進むだけではなく、過去から現在へ戻ってくるものとしても重要な意味を持っている。

 『こころ』は大正時代に発表された作品であり、その中には1912年の明治天皇の崩御と乃木希典の死が取り込まれている。したがって、この作品を明治時代の人間の心理を直接描いた資料として扱うのは正確ではない。むしろ、すでに終わった明治という時代を、その後に生きる人間がどのように振り返るのかという視点が含まれていることに特徴がある。

 作中の先生は、過去に起こした出来事への罪悪感を長く抱え続けている。年月が経過し、生活環境が変わり、社会の暦が明治から大正へ移っても、その記憶から自由になることができない。外側の世界では時間が前へ進んでいるのに、先生の心の中では過去の出来事が終わっていないのである。

 人間が過去をどのように感じるのかという問題は、時計や暦だけでは測定できない。同じ10年前の出来事であっても、ある人には遠い昔のこととして感じられ、別の人には今も現在の生活を左右する記憶として残ることがある。ただし、このような主観的な時間経験について、文学作品の描写から一般的な心理法則を導き出すことはできない。『こころ』の先生が示しているのは、特定の物語の中で構成された1人の人物の経験である。

 先生は明治天皇の崩御や乃木の死を契機として、自分自身が生きてきた時代と人生の関係を考えるようになり、「明治の精神」という言葉を用いる。ここに描かれた認識を、当時の国民全体が共有していたものと理解することはできないが、社会にとって1つの時代が終わることと、個人にとってその時代が終わることは必ずしも同じではないという問題を読み取ることができる。

 この作品の終盤では、先生から届いた長い手紙を携えて、語り手である「私」が東京へ向かう汽車に乗る。故郷では父親の病状が深刻になっており、家族との関係にも気を配らなければならない。その一方で、先生の手紙には過去の出来事と現在の決断に至るまでの経緯が記されている。「私」は進行する汽車の中で、すでに過ぎ去った先生の長い時間を読み続けることになる。

 この場面では、汽車の運行という客観的な時間、手紙が届けられるまでの通信の時間、父親や先生の生命に関わる切迫した時間、そして過去を振り返る記憶の時間が重なり合っている。交通機関によって遠くへ移動できるようになっても、離れた場所で進行している出来事を自由に止められるわけではなく、過去に起きたことを取り消すこともできない。

 『こころ』が示しているのは、近代社会の時間が速くなったという単純な図式ではない。暦が変わり、社会制度が変わり、人間の生活が新しい時代へ進んでいく一方で、個人の記憶や後悔がそれと同じ速度で変化するわけではないという問題である。明治が終わった後にも、人間の内側では明治が終わっていない。この時間のずれこそが、『こころ』を読むうえで見逃せない要素なのである。

漱石が恐れていたのは、文明そのものではなく変化の速さだったのか

 ここまでの解釈が、現代の感覚を作品に持ち込みすぎたものではないかを考えるためには、漱石自身が近代化をどのように論じていたのかを確認する必要がある。その手がかりとなるのが、1911年8月に和歌山で行われた講演『現代日本の開化』である。

 この講演で漱石は、西洋の文明の発展を「内発的」、明治以後の日本の開化を「外発的」という言葉で区別した。彼の議論では、西洋の文明は社会の内部でさまざまな変化が積み重なることによって発展してきたのに対し、日本の近代化は、西洋との接触によって外側から強い影響を受け、短期間に大きな変化を求められるという事情を持っていた。

 漱石は、日本の開化が外から押されるように進まざるを得ない状況を論じ、その中で人々が十分な時間をかけて新しいものを自分たちの生活に取り込むことの難しさを問題にしている。ただし、彼が西洋の文明や科学技術の導入そのものを全面的に否定していたと理解するのは適切ではない。講演では、外からの影響を受けることが避けられないという現実も認められており、単純に過去の社会へ戻るべきだと主張しているわけではないからである。

 この講演が興味深いのは、社会の変化と人間の適応との関係が論じられていることである。鉄道を建設し、法律を改め、学校制度を整備し、新しい機械を工場へ導入することは、政治的な意思決定や資本の投入によって比較的短期間で進められる場合がある。しかし、新しい制度や技術を人々がどのように理解し、自分たちの価値観や生活習慣の中へ取り込んでいくのかは、それらとは別の過程である。

 もっとも、社会制度の変更が必ず人間の適応より速く進むという一般法則が実証されているわけではない。地域や分野、社会階層によって、制度への対応が速い場合も遅い場合もあり、技術の導入が生活上の負担を軽減することもある。漱石の講演は、そうした多様な変化を統計的に分析した研究ではなく、明治日本の近代化をめぐる思想的な考察として位置づける必要がある。

 それでも、『三四郎』で新しい世界に戸惑う青年、『それから』で社会との関係を決められずにいる男、『こころ』で過去から離れられない人物を読むと、講演で論じられた問題意識との共通点が見えてくる。作品の登場人物の言動が講演の思想をそのまま説明していると断定することはできないが、社会の変化と人間の内面が必ずしも一致しないという問題は、漱石の文学と文明論を結びつけて考えるための有力な視点になる。

時間を短縮できる社会ほど、人間は忙しくなるのだろうか

 ここまで考えてくると、明治の人々が現代よりゆっくり生活していたという印象についても、改めて検討する必要がある。現在の交通機関は明治の鉄道よりもはるかに速く、遠方への移動や情報の伝達に必要な時間は大幅に短縮されている。しかし、それだけで明治の人間には精神的な余裕があり、現代の人間は時間に追われていると結論づけることはできない。

 この問題を数理的に考えるには、少なくとも移動や通信に必要な時間、一定期間内に行う作業や判断の量、そして個人が感じる時間的な余裕を区別しなければならない。移動時間であれば、同じ区間の所要時間を調べることができるが、生活上の負担を調べるには労働時間や家事時間、移動回数、職業ごとの活動内容など、別の資料が必要になる。さらに心理的な余裕については、本人の主観的な評価も関係するため、交通速度の変化だけで説明することはできない。

 たとえば、ある作業に必要な時間が半分になったとしても、同じ期間に処理しなければならない仕事の量が2倍になれば、総作業時間が減るとは限らない。逆に、作業量が変わらなければ、その技術によって自由に使える時間を増やせる可能性がある。これは時間と作業量の関係を示す単純な計算例であり、明治時代に実際に仕事量が2倍になったことを意味するものではない。

 同じことは通信についても考えられる。手紙の返事を待つ生活では、情報が届くまでに長い時間を必要とするが、その間に返答を催促される機会は限られていたかもしれない。一方、短時間で連絡できる社会では、遠くの人と容易に意思疎通できる半面、短い時間で何度も判断や返答を求められる場合がある。どちらが心理的に忙しいかは、通信の速度だけでなく、人間関係や社会的な期待、仕事の内容によって変わってくる。

 ただし、このような比較を明治と現代の実証的な結論として扱うには、慎重さが必要である。明治の通信事情と現代の通信事情は、利用できる人々の範囲も、社会的な役割も、情報の量も異なっている。異なる条件で得られた数値を単純に比較すれば、技術の影響と社会構造の違いが混同されてしまう。

 特に重要なのは、時間の速さが地域や職業によって異なることである。都市の官吏や会社員は勤務時間や交通機関の時刻に行動を合わせる必要があっても、農家は季節や天候を基準に作業を進める場合があり、漁師は潮や海況の変化を考慮しなければならない。もちろん、農村や漁村にも市場や交通の時間が入り込んでくるため、都市と地方を単純に速い社会と遅い社会へ分けることはできない。

 漱石の小説を通じて明治の時間を考える場合にも、このような社会的な違いを忘れてはならない。『三四郎』の大学生と『それから』の高等遊民、あるいは『こころ』の先生の時間経験は、教育や財産、家庭環境に恵まれた比較的限られた人々の生活を通して描かれている。その作品から明治社会の全体像を直接導き出すことはできないが、そこに現れた戸惑いを出発点として、時代や地域によって異なる生活の時間を考えることには意味がある。

時計で測れる時間と、文学にしか描けない時間

 私たちは時間を数字で測ることに慣れている。鉄道の所要時間が53分だったという記録や、20時間の旅が13時間40分になったという記録は、当時の交通の変化を知るための客観的な資料となる。しかし、同じ53分を過ごしていても、それが短く感じられるか長く感じられるかは、人間の置かれた状況によって異なる。

 汽車で初めて東京へ向かう青年にとって、移動の時間は未知の世界への期待や不安と結びつく。生活上の決断を迫られる男にとって、電車が街を走り抜ける時間は、自分では止められない社会の動きと重なって感じられる。そして過去に取り返しのつかない出来事を抱えた人間にとって、長い年月は必ずしも記憶を遠ざけるものにはならない。

 これらは作品の描写から読み取ることのできる意味であって、明治の人々が実際にどの程度の心理的な圧迫を感じていたかを示す統計ではない。文学に描かれた時間の感覚と、歴史資料から測定できる時間の変化を同じものとして扱えば、解釈の自由が事実の誇張に変わってしまう。だからこそ、両者を区別したうえで、その間にどのような関係があったのかを考えることが重要になる。

 漱石の小説には、近代化によって社会が変わっていく様子がさまざまな形で描かれているが、その変化を単純な進歩としても、失われた昔への郷愁としても説明しきってはいない。新しい世界に期待を抱く人物もいれば、社会の要求に反発する人物もいる。自分の将来を選ぼうとする人間もいれば、過去の決断から離れられない人間もいる。そして同じ人物の内面に、前へ進もうとする気持ちと、立ち止まりたい気持ちが同時に存在している。

 そのような複雑さを描くことは、交通統計や制度史だけでは難しい。統計は社会の変化を測定するために必要であり、制度史は人々の行動を規定していた仕組みを明らかにする。しかし、制度や技術の変化が1人の人間にどのような意味を持つのかについては、文学が独自の問いを投げかけることができる。

 明治という時代の時間を知るには、数字と文学のどちらか一方を選べばよいというわけではない。鉄道の所要時間や時刻制度の変化によって、社会の外側で何が起こっていたのかを確認しながら、小説の中では、その時代を生きる人物がどのような迷いや不安を抱えていたのかを読み取る。その2つの視点を重ねることで、時代の速さを単純な交通速度とは異なる問題として考えられるようになる。

明治の電車は遅かったのに、なぜ人間の心は追いつかなかったのか

 もし現在の私たちが明治末期の東京を歩くことができたなら、電車の速度や街の明るさ、交通機関の本数など、さまざまな点に不便さを感じるかもしれない。遠方へ連絡するために手紙を書き、返事が届くまで待たなければならない生活にも、現代とは大きく異なる時間の流れを感じるだろう。しかし、そこに暮らしていた人々が、現在の私たちよりもゆっくりと人生を生きていたかどうかは、交通や通信の速度だけからは判断できない。

 むしろ、鉄道が急速に普及し、街に電車が走り、学校や職業の制度が変わり、家族や社会における生き方が新しい条件に置かれていく時代には、人々はそれぞれの立場で変化に対応することを求められていたと考えられる。その変化を歓迎する人もいれば、困惑する人もいただろうし、同じ人間が期待と不安の両方を感じることもあったはずである。ただし、その感情の広がりや程度については、小説だけで確定できるものではない。

 『三四郎』の青年は、汽車によって熊本から東京へ運ばれたが、新しい世界を理解するまでには時間が必要だった。『それから』の代助は、自由に使える時間を持ちながらも、自分の人生を決断することから逃れられなくなっていった。『こころ』の先生は、社会の暦が新しい時代へ移った後も、過去に残された記憶と向き合い続けていた。

 3つの作品は、それぞれ異なる人物と問題を描いているため、時間という主題だけですべてを説明することはできない。それでも、社会の動きと人間の内面が必ずしも同じ速度で変化するわけではないという視点から読み直すと、そこには共通する問題が浮かび上がってくる。

 鉄道が速くなれば、目的地へ早く到着することはできる。通信が発達すれば、遠く離れた相手へ短時間で知らせを届けることができる。時間の制度を統一すれば、多くの人々が同じ時刻を基準に行動できるようになる。しかし、それらの変化によって、人間が過去を忘れる速度や、他人を理解する速度、自分の生き方を決断する速度まで同じになるわけではない。

 『それから』の終盤、代助を乗せた電車は街の中を走り続け、窓の外の景色は次々と彼の目の前を通り過ぎていく。その走行速度は、現在の交通機関と比較すれば決して速いものではなかっただろう。それでも彼にとって、その動きは自分の頭の中を焼き尽くすかのような激しさを持って描かれている。そこには個人的な危機があり、社会との関係を失うかもしれない恐れがあり、自分の人生がもはや以前と同じ状態には戻らないという感覚が重なっている。

 夏目漱石の小説を読むと、明治という時代の「時間の速さ」が見えてくるのか。その答えは、鉄道が何キロメートル毎時で走っていたかという数字の中だけにはない。数字から確かめられるのは、移動に必要な時間が短縮され、共通の時刻に従って社会が動く仕組みが整えられていったという歴史的な変化である。一方、漱石の小説から読み取ることができるのは、そのような社会に生きる人物たちが、新しい世界への期待や不安を抱き、過去と現在の間で迷いながら、自分自身の時間を生きようとする姿である。

 その2つを重ねて考えたとき、明治の時間は、現代より遅かったという単純な印象とは異なる姿を見せ始める。社会が変化する速度と、人間がそれを受け止める速度の間には、埋めることのできない距離が生じる場合がある。その問題は、技術が進み、以前より多くのことを短時間でできるようになった現在にも通じている。

 漱石の小説を読み終えたとき、私たちの前に残るのは、昔の人々がどれほど忙しかったのかという問いだけではない。社会がこれほど速く変化する中で、自分の心はどのような時間を生きているのか。100年以上前の東京を走る電車の音が、遠くから聞こえてくるように、その問いは今も私たちの日常へ静かにつながっているのである。

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本棚に並んだ百科事典は、家庭の風景の一部だった

 昭和の家庭を写した古い写真を眺めていると、居間や応接間の本棚に、同じ装丁の分厚い本が何十冊も並んでいる光景に出会うことがあるが、それは特別な研究者や読書家の家に限ったものではなく、会社員や商店を営む家庭などにも見られた百科事典であり、現在ではほとんど目にすることがなくなったこの大きな本の集合体が、かつては家庭で知識を得るための重要な道具だった。

 もちろん、昭和のすべての家庭に百科事典が置かれていたわけではないが、百科事典が決して一部の富裕層だけの商品ではなかったことは販売実績からも分かり、平凡社が1961年に刊行した『国民百科事典』は「一家庭一百科」を掲げて販売され、当初の予想を大きく超えて4年間で約100万セットが売れたとされているため、少なくとも高度経済成長期の日本で、家庭向け百科事典という商品が大きな市場を持っていたことは確かである。

 それほど多くの家庭が百科事典を購入した背景には、単なる読書需要だけではなく、「子どもが何かを知りたくなったとき、自宅で調べられる環境を用意しておきたい」という教育への期待があり、本棚いっぱいに並んだ百科事典は、その家がどれほど頻繁に利用していたかとは別に、知識や教育を大切にしたいという家族の意識を目に見える形にした存在でもあったと考えることができる。

分からないことがあれば、本棚へ向かう時代だった

 インターネットが存在しなかった時代、テレビを見ていて知らない外国の名前が出てきたり、新聞に聞いたことのない歴史上の人物が登場したりしても、その場ですぐ詳しい説明を得る方法は限られており、図書館へ出かけるか、学校の先生や詳しい人に尋ねるか、あるいは家庭にある辞書や百科事典を開くしかなかったため、百科事典を家に置くことには、膨大な知識を所有するという以上に、「疑問を持った瞬間に、自宅の中で答えを探し始めることができる」という実用的な意味があった。

 子どもが「月はなぜ光っているのか」と尋ね、親も正確な答えを知らなかったとしても、一緒に百科事典を開いて「月」や「太陽」の項目を探すことができ、その途中で宇宙飛行や惑星、重力といった別の記事が目に入れば、本来調べようとしていた疑問から別の興味へ進んでいくこともあったため、百科事典は単に正解を取り出すための道具ではなく、ページをめくる途中で知らなかった世界へ入り込む装置でもあった。

 現在の検索では、自分が知りたい言葉を入力すれば、その言葉に関係する情報が瞬時に表示されるため、目的の答えへ到達するという点では圧倒的に効率がよいが、百科事典をめくる行為には、目的の記事へ向かう途中で別の項目が視界に入り、その寄り道から新しい関心が生まれるという独特の性質があり、効率という尺度だけでは測りにくい知識との付き合い方がそこには存在していた。

高価な本を買うことが「教育への投資」と考えられた

 百科事典は決して安価な商品ではなく、1961年に刊行された『国民百科事典』全7巻は1万円で販売されていたが、当時の平均的な給与水準と比較すると家計にとって決して軽い支出ではなかったため、それでも大量に売れたという事実は、百科事典が単なる本としてではなく、長期間使える教育用品として受け止められていたことを示している。

 その後に刊行された大型百科事典にはさらに高価なものもあり、何十巻にも及ぶ百科事典一式は、現在の感覚でいえば気軽に購入する本というより、家庭が一度決断して買う耐久消費財に近い存在であり、学習机やピアノなどと全く同じものだったとは言えないものの、「子どもの将来のために家に置いておく」という意味では、教育環境を整えるための支出という性格を持っていた。

 こうした高額商品を家庭に販売するため、訪問販売や分割払いも広く用いられ、百科事典の販売方法をめぐるトラブルが社会問題になったことから、1970年代には行政による対応も進められ、訪問販売や割賦販売に対する消費者保護制度が整備されていったため、百科事典は出版文化だけではなく、戦後日本の消費社会や消費者保護制度の歴史とも意外なところで結び付いている。

百科事典は、インターネットの登場と同時に消えたわけではない

 百科事典が家庭から姿を消した理由として最も分かりやすいのはインターネットの普及だが、実際の変化はもう少し段階的であり、紙の百科事典が突然インターネットに置き換えられたのではなく、その途中にはCD-ROM(読み出し専用光ディスク)などを使った電子百科事典の時代が存在していた。

 1990年代には、それまで何十冊もの本に収められていた百科事典が電子媒体に収録されるようになり、平凡社『世界大百科事典』などでもCD-ROM版が登場したことで、紙の百科事典を棚から取り出して索引を引く代わりに、パソコンから言葉を入力して検索するという新しい利用方法が生まれたが、この段階ではまだ百科事典そのものを購入し、自分の手元に置いて利用するという基本構造は残っていた。

 その後、日本では1990年代後半からインターネットが急速に家庭へ広がり、世帯のインターネット利用率は1997年にはまだ1割未満だったものが、2000年代初めには大幅に上昇していったため、家庭で何かを調べる行為そのものが、本棚や電子百科事典の中から情報を探す方式から、外部の巨大な情報空間へ接続して必要な情報を取り出す方式へ急速に変わっていった。

大きく変わったのは「知識を持つ」ことの意味だった

 紙の百科事典の時代には、家庭で必要になるかもしれない知識をあらかじめ本として購入し、家の中に保管しておくことに合理性があり、百科事典だけではなく、国語辞典、漢和辞典、英和辞典、地図帳、家庭医学事典、料理全集など、さまざまな情報を本という形で所有することが、ごく自然な生活習慣として成立していた。

 ところがインターネットが普及すると、知りたいことが生じた瞬間に外部の情報へ接続できるようになったため、「いつ使うか分からない情報をあらかじめ自宅に置いておく」という必要性が急速に低下し、これは音楽を聴くためにレコードやCDを何枚も所有していた時代から、配信サービスを通じて必要な曲へその都度アクセスする時代へ移った変化と似ている。

 この違いは単なる媒体の変化ではなく、知識の価値の置き場所そのものを変えたものであり、以前は「どれだけ多くの情報を自宅に持っているか」に意味があったのに対し、現在は「必要になった情報へどれだけ早く到達できるか」が重要になったため、何十冊もの百科事典を所有する価値は相対的に小さくなった。

紙に固定された知識は、更新速度の競争で不利になった

 百科事典には、もう一つ避けることのできない弱点があり、それは一度印刷されると内容を書き換えることができないことで、歴史上の出来事や数学、古典文学のように短期間では大きく変化しない分野では問題になりにくいものの、政治、企業、科学技術、医療、スポーツ記録、社会制度など、数年で状況が変わる分野では、刊行された瞬間から少しずつ情報が古くなり始める。

 紙の百科事典でも改訂版を刊行することはできたが、何十巻もの内容を編集し直して印刷し、再び販売するには長い時間と大きな費用が必要だったのに対し、デジタル化された百科事典では内容を継続的に修正することが可能になり、現在のオンライン百科事典には定期的に項目が更新されるものもあるため、百科事典そのものが完全に消滅したというより、「一度完成した本を長期間使うもの」から「継続的に更新される情報サービス」へ姿を変えたと考えたほうが実態に近い。

 さらに一般のウェブ検索では、その日に起きた出来事についても短時間で情報を得られるようになったため、最新情報を必要とする場面では紙の百科事典が対抗することは難しくなり、この更新速度の差が、家庭に大型百科事典を置く必要性を大きく低下させたことは、百科事典衰退の中でも比較的はっきりした要因だと考えられる。

「家が狭くなったから百科事典が消えた」とは言えない

 大型百科事典が場所を取ることも、現在の家庭で敬遠される理由としてよく挙げられるが、ここには注意が必要であり、日本の住宅全体を統計的に見ると、1住宅当たりの延べ面積は1970年代以降、長期的にはむしろ増えているため、「昔より住宅が狭くなったので百科事典を置けなくなった」と単純に説明することはできない。

 ただし、一戸建てと都市部の共同住宅では事情が大きく異なり、限られた収納空間の中で何十冊もの百科事典を置くには相当な場所が必要になるうえ、デジタル情報ならほとんど物理的な空間を使わずに膨大な情報を利用できるため、問題は住宅が全国的に狭くなったかどうかではなく、「同じ収納空間を使うなら、年に数回しか開かない可能性のある百科事典に大きな場所を割く必要があるのか」という相対的な価値の変化にあったと考えたほうが合理的である。

 さらに、大型百科事典は重量もあり、引っ越しの際には運搬の負担になり、情報が古くなってから古書として売ろうとしても購入時のような価値が残っているとは限らないため、購入した当時には「長く使える知識の財産」と考えられたものが、何十年か後には処分しにくい大量の本になってしまう場合もあり、このような物理的な負担とデジタル情報の利便性との差も、百科事典を新たに購入する動機を弱くしたと考えられる。

教育も、情報を「探す」だけでは足りない時代になった

 学校教育の変化も、百科事典をめぐる環境の変化と深く関係しており、以前の調べ学習では図書館や百科事典から必要な項目を見つけ、その内容を整理することが中心だったのに対し、現在では検索によって膨大な情報を得られるようになったため、複数の資料を比較し、誰が発信した情報なのか、いつ作成されたものなのか、根拠が示されているのかを確認しながら、情報の信頼性そのものを評価する能力が重要になっている。

 これは百科事典が衰退した直接の原因というより、情報環境が変化したことによって教育も変化したと考えるほうが自然であり、出版社や編集者が内容を整理した百科事典を読む時代には、読者はある程度整理された情報を受け取ることができたが、インターネットでは政府機関や大学、専門家による資料と、個人の意見、広告、誤った情報などが同じ画面に現れることもあるため、情報を見つける能力以上に、その情報を選別する能力が求められるようになった。

 したがって、検索が便利になったから学ぶことが簡単になったとは必ずしも言えず、答えに到達する速度は速くなった一方で、その答えを信用してよいのかを自分で判断する責任は以前より大きくなったと見ることもできる。

百科事典のページをめくる「寄り道」は、本当に失われたのか

 紙の百科事典を懐かしむとき、よく語られるのが、目的の項目を探している途中で全く別の知識に出会う楽しさであり、たとえば恐竜について調べようとした子どもが、近くに載っていた古代文明の写真に興味を持ち、そこからエジプトやメソポタミアの歴史を読み始めるというような経験は、百科事典を順番にめくる構造だからこそ起こりやすいものであった。

 情報科学では、このように探していなかった有益な情報へ偶然出会うことは、セレンディピティ、つまり偶然から生まれる有益な発見の一つとして研究されているが、この現象は紙の本だけに存在するわけではなく、インターネットでも検索結果の関連項目、リンク、動画の推薦、オンライン図書館などから予想外の情報に出会うことがあるため、「紙の百科事典では偶然の発見があり、インターネットでは失われた」と単純に結論付けることはできない。

 それでも両者には性質の違いがあり、百科事典では隣り合うページという物理的な配置によって、自分の過去の関心とは無関係な情報が突然視界に入ることがあるのに対し、現在のデジタルサービスでは利用者の検索履歴や閲覧傾向に近い情報が提示される場合も多いため、偶然の発見そのものが消えたのではなく、その仕組みが変化したと考えるほうが適切なのだろう。

百科事典が消えたのではなく、百科事典という形が消えた

 ここまで考えてくると、家庭から百科事典が消えたという現象を、「人々が知識を求めなくなった」と解釈するのは明らかに間違っており、実際には私たちが日常的に接している情報量は百科事典全盛期とは比較にならないほど増え、かつてなら図書館まで行かなければ確認できなかったことを、現在では自宅や外出先から数秒で調べられるようになっている。

 つまり、失われたのは百科事典が担っていた機能そのものではなく、その機能を何十冊もの本として家庭の中に置いておくという形式であり、1960年代には「一家庭一百科」という言葉が成立したほど価値のあった知識の所有が、電子百科事典を経て、インターネット上の検索やオンライン情報サービスへ移動した結果として、本棚に並ぶ百科事典は役割を終えていった。

 その変化は技術の進歩として見れば合理的であり、検索速度、情報量、更新性、収納効率のどれを比べてもデジタル情報は非常に優れているが、その一方で、かつては子どもが疑問を持つと本棚へ歩いて行き、重い1冊を引き抜き、家族の目の前でページをめくりながら答えを探すという、知識を得る行為そのものが家庭の中で目に見える光景として存在していた。

消えたのは、知識が置かれていた「風景」なのかもしれない

 現在では、誰かがスマートフォンを見ていても、その人が歴史について調べているのか、地図を確認しているのか、買い物をしているのか、あるいは動画を見ているのかは外からほとんど分からないが、百科事典が本棚に並んでいた時代には、「この棚の中には、自分たちがまだ知らないことが入っている」という事実が家族の目に見える形で存在していた。

 情報量だけを比較すれば、現在のほうが圧倒的に豊かであり、数十巻の百科事典では到底収録できなかった膨大な知識にいつでも接続できるため、百科事典がなくなったことを単純に文化の衰退として語ることはできないが、それでも昔の百科事典を懐かしく感じる人がいるのは、紙の手触りや豪華な装丁だけではなく、「分からないことがあれば調べてみる」という家庭の姿勢が、本棚いっぱいの背表紙となって目に見えていたからなのかもしれない。

 百科事典の歴史を振り返ると、そこには高度経済成長期の教育熱、訪問販売を中心とした消費社会、電子化の始まり、インターネットの急速な普及、そして情報を所有する社会から必要なときにアクセスする社会への移行が重なっており、そう考えると、百科事典のある家をほとんど見なくなったという身近な変化は、単に1種類の本が売れなくなったという話ではなく、日本の家庭が「知る」という行為をどのように変えてきたのかを映し出す、小さな社会史として見ることができる。

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 駅で人を待つという行為は、いつの間にかずいぶん正確なものになった。電車を降りたらスマートフォンを取り出して「今着いた」と送ればよく、相手がまだ移動中なら「あと5分」、すでに駅にいるのなら「改札の右側にいる」と返事が来るので、昔のように相手が本当に来るのか、どこで待てばよいのか、あるいは何かあって来られなくなったのかと考えながら、時計と改札口を交互に見つめ続ける必要はほとんどなくなった。

 連絡手段として考えるなら、これは明らかな進歩であり、駅の伝言板が姿を消したことで不便になったとは言いにくい。現在の方が速く、確実で、予定変更にも対応しやすく、すれ違いや長時間の待ちぼうけも減らせるのだから、伝言板などなくても困らないという結論になるのが自然である。しかし、待ち合わせを単なる情報交換ではなく、誰かが現れるまでの時間を含めた一つの経験として考えると、失われたものは伝言板という設備そのものではなく、その周囲に存在していた独特の時間だったのではないかと思えてくる。

伝言板は、スマートフォンが突然消したものではなかった

 駅の伝言板という仕組みは、日本では20世紀初めから使われていたとされ、同じ駅で会う約束をした人どうしが、直接連絡できない場合に情報を残すための簡単な通信手段として長く機能してきた。しかし、その役割が弱まり始めたのはスマートフォンの登場後ではなく、もっと早い時期であり、家庭の電話や公衆電話が広く普及し、さらに1980年代から1990年代にかけてポケットベルや携帯電話などの個人向け通信手段が広がっていく過程で、伝言板に頼らなければならない場面そのものが少しずつ減っていった。

 それに加えて、伝言板が本来の待ち合わせ連絡以外の落書きに使われたり、大きな駅では伝言板の前に人が滞留することで通行の妨げになったりするなど、管理や旅客動線の面での問題も生じていたため、伝言板の撤去を単純に「携帯電話が普及したから」と一つの原因だけで説明することはできない。電話、公衆電話、ポケットベル、携帯電話、PHS(簡易型携帯電話システム)へと通信手段が増え、駅自体も人が長く滞在する場所から効率よく通過する場所へと性格を変え、その中で利用価値が低下した伝言板が少しずつ姿を消し、やがてスマートフォンが待ち合わせの方法そのものを大きく変えた、と考える方が実態に近い。

 つまり、伝言板の消滅は一つの新技術によって古い道具が駆逐されたという単純な話ではなく、通信技術、都市の混雑、駅の管理、そして人々の生活習慣が何十年もかけて変化した結果だったのである。

「会えるかどうか」が少しだけ分からなかった時代

 携帯電話が一般的になる以前の待ち合わせには、現在よりはるかに多くの不確実さが含まれていた。午後2時に駅の改札口で会うと約束していても、相手が予定の電車に乗れたのか、家を何時に出たのか、途中で何か起きたのかをすぐに知る方法はなく、約束の時間を10分過ぎれば「少し遅れているだけだろう」と考え、20分を過ぎれば「何かあったのだろうか」と気になり、30分を過ぎるころには「今日は来ないのかもしれない」とまで考えることになるが、その判断を裏づける情報はほとんどなかった。

 そこで駅の伝言板が役に立ち、「先に行きます」「30分ほど遅れます」「駅前の喫茶店にいます」と書き残しておけば、本人どうしが直接つながっていなくても、駅という公共の場所を経由して意思を伝えることができた。考えてみれば不思議な仕組みであり、電話回線も電波も使わず、同じ場所を訪れるという約束だけを前提に、情報を時間差で受け渡していたのである。

 もっとも、その方法は決して確実ではなく、相手が伝言板を見るとは限らず、名前だけでは誰に宛てたものか分からない場合もあり、書かれた文字が消されたり、別の書き込みに紛れたりすることもあった。それでも人々は、その程度の不確かさを含んだまま待ち合わせをしており、いまから振り返れば頼りなく見える仕組みでも、当時はそれが普通の待ち合わせの一部だった。

待つ人は、駅そのものを見ていた

 不確かな待ち合わせには不便も多かったが、その不便さゆえに、待つ時間には現在とは少し違う質感があった。相手がまだ来ないと分かっても、現在のように到着時刻を確認する手段は限られているため、改札口から出てくる人の顔を眺め、電車が到着するたびに人の流れへ目を向け、時計を確認してから再び階段やホームの方向を見るということを繰り返すことになる。

 そのため、誰かを待っている人は、自然に駅そのものを見ていた。旅行鞄を持って歩く人、仕事帰りの会社員、友人を見つけて手を振る学生、何度も腕時計を確認する人、急ぎ足で改札を抜けていく人などを、観察しようと思っていなくても目にすることになり、待ち合わせは一人の人物を待つ時間でありながら、同時に多くの知らない人々が行き交う社会の中に身を置く時間でもあった。

 現在では、待ち合わせ場所に着いた瞬間からスマートフォンを見ることが多く、相手が遅れていると分かれば、ニュースを読んだり、動画を見たり、SNS(インターネット上で人同士が交流するサービス)を眺めたりして時間を使えるため、待つこと自体をあまり意識せずに済む。これは退屈や不安を減らすという意味では大きな利点だが、その一方で、待っている場所を見続ける必要もなくした。

 待合空間を使った行動実験では、スマートフォンを使用できる人の方が、使用できない人より周囲の知らない人との交流が少なくなる傾向が確認されており、別の研究でもスマートフォンの存在によって他者への視線や自然な笑顔が減る可能性が示されている。もちろん、これらの研究をそのまま昔の駅の待ち合わせへ当てはめることはできないが、個人端末が目の前の公共空間への注意を弱める可能性があるという点では、記事の中で描かれる変化とよく一致している。

伝言板には、知らない人の事情まで見えていた

 駅の伝言板には、現在の通信手段とは大きく異なる特徴があり、それは本来なら個人的な連絡である文章が、誰にでも読める公共の場所に書かれていたことである。「先に映画館へ行っています」「急用ができたので帰ります」「いつもの店で待っています」といった言葉を読んでも、書いた人も宛てられた人も知らないため、その事情を正確に理解することはできないが、それでも、その短い文章の向こう側に誰かの約束があり、遅刻があり、予定変更があり、ときにはすれ違いがあることだけは想像できた。

 もちろん、個人的な連絡が第三者の目に触れる仕組みは、現在の感覚からすれば決して理想的とはいえず、個人宛ての情報が本人の端末へ直接届くようになったことは、確実性やプライバシーの面から見ても大きな進歩である。しかし、その進歩によって、私たちは他人の生活の断片を偶然目にする機会まで少なくした。

 現在のメッセージは送り手と受け手を最短距離で結び、その途中にいる人には見えないように設計されているが、駅の伝言板は送り手と受け手の間に公共空間を挟み、そこを通る無関係な人々にも、そのやり取りの痕跡を少しだけ見せていた。通信技術として比べれば現在の方が圧倒的に優れているが、人の生活が公共空間へどれだけにじみ出していたかという点では、伝言板には現在とは異なる性格があった。

待つ時間は、本当に無駄だったのか

 現代の技術は、待ち時間をできるだけ減らし、あるいは待っている間にも別のことができるようにする方向へ進んできた。電車の遅れはスマートフォンで確認でき、店の順番待ちは通知で知らせてもらえ、荷物がどこまで届いているのかも分かり、待ち合わせの相手が遅れているなら、その理由や到着予定時刻まで数秒で知ることができるので、昔よりも予定を調整しやすくなったことは間違いない。

 行動科学の研究でも、リアルタイムの到着情報を与えられた人は、情報を持たない人より待ち時間を短く感じたり、不安や苛立ちが小さくなったりする傾向が確認されている。これは交通機関の待ち時間を調べた研究であり、人との待ち合わせを直接測定したものではないが、「あとどのくらい待つのか分からない状態」と「あと5分と分かっている状態」では、同じ5分でも心理的な負担が異なるという考え方を支持している。

 数理的に考えても、待ち合わせの負担は単純な待ち時間だけで決まるものではなく、すれ違う可能性、予定変更による損失、何分待つのか分からない不確実性などが組み合わさって生じる。携帯電話やスマートフォンは、このうち待ち時間そのものを必ずしもゼロにはしないが、相手の状態を知らせることで不確実性を大きく減らし、結果として待つ人の心理的負担を小さくする。

 それでも、効率の悪い時間がすべて無価値だったのかと考えると、少し違うようにも思える。人を待ちながら考え事をしたり、駅前の店を眺めたり、知らない街を少し歩いたり、次の電車から相手が現れるかもしれないと思いながら改札口を見つめたりする時間は、何かを生産する時間ではなかったが、だからこそ予定の間に偶然入り込んだ余白として存在していた。

 現在なら、その余白はすぐにスマートフォンによって埋められることが多いが、以前は埋めるものが少なかったからこそ、待つ時間そのものを過ごしていた。便利さとは時間を短縮するだけではなく、ときには時間の感じ方や、その時間の中で人が何を見るのかまで変えるものであり、待ち合わせはその変化が表れやすい日常行動の一つなのである。

「着いたよ」という連絡が変えた再会の瞬間

 現在の待ち合わせでは、駅に着けば「着いたよ」と送り、相手から「あと3分」と返事が来れば、互いの状況はほぼ分かってしまう。さらに「改札を出た」「右側にいる」「赤い看板の前にいる」とやり取りを続ければ、実際に顔を合わせる前から相手との距離は少しずつ縮まっているため、再会の瞬間は、長い不確かさが突然終わる場面というより、すでに予告されていた出来事の最終確認に近くなる。

 携帯電話が一般的でなかった時代には、約束の時間が近づくにつれて、本当に来るだろうかという小さな緊張が生じ、改札口から相手が現れた瞬間に、その不確かさが一気に消えるという経験があった。単に知人と合流しただけでも、「ちゃんと会えた」と感じることが現在より少し強かった可能性はあるが、この点について、昔と現在の待ち合わせを直接比較し、再会時の喜びや達成感を数量的に測定した研究が十分にあるわけではないため、事実として断定するより、日常経験から考えられる一つの仮説として扱う方が適切である。

 それでも、不確実性が小さくなれば、それが解消される瞬間の心理的変化も小さくなるという考え方自体は不自然ではない。待ち合わせから失われたものがあるとすれば、それは不便さそのものではなく、相手が現れるまで残っていた小さな不確実性と、それが一瞬で消える感覚だったのかもしれない。

伝言板が消えたことは、駅の役割が変わったことでもある

 駅は本来、列車に乗り降りするための場所だが、かつての駅には、それ以外のさまざまな役割が重なっていた。人を待ち、新聞を買い、大きな時刻表を見て、駅員に道を尋ね、ときには伝言板に文字を残すというように、移動だけではなく、情報を得たり、人と連絡したりする行為まで駅という公共空間に集まっていた。

 しかし、家庭の電話や公衆電話、ポケットベル、携帯電話を経てスマートフォンが普及すると、それらの機能の多くが少しずつ個人の手の中へ移っていった。ニュースは画面で読み、地図も画面で確認し、時刻表も乗換案内も表示され、待ち合わせの連絡まで画面の中で完結するようになったことで、駅が情報の拠点として果たしていた役割の一部は小さくなった。

 鉄道の制度上も、駅には利用者に必要な情報を提供する設備が求められているが、その手段が伝言板でなければならないわけではなく、時代に応じて案内表示、放送、電光掲示、通信サービスなどへ置き換わることに問題はない。したがって伝言板の消滅は、制度によって一斉に廃止されたというより、利用価値や管理上の必要性が変化した結果として理解する方が自然である。

 これは単に駅が昔より味気なくなったという話ではなく、社会の機能の一部が公共空間から個人端末へ移動したという、より大きな変化の一部でもある。私たちは以前より多くの情報を持つようになったが、その情報の多くは自分だけの画面に表示されるため、同じ場所にいる知らない人と共有するものは逆に少なくなった。

 同じ駅に大勢の人が集まっていても、それぞれが別々のニュースを読み、別々の相手と連絡を取り、別々の画面を見ているという光景は、物理的には近くにいながら、情報の上では互いに独立している現代の公共空間の姿を、そのまま表しているようにも見える。

便利になったのに、なぜ少し懐かしいのか

 それでも、駅の伝言板を知っている世代が古い駅の写真を見ると、妙に懐かしい気持ちになることがあるが、それは黒板やチョークそのものが恋しいからではないのだろう。伝言板を見ることによって、その周囲にあった時間の流れまで同時に思い出すからではないだろうか。

 相手が来るのか分からず時計を何度も見た時間、電車が着くたびに人の流れを眺めた時間、伝言板に自分の名前がないか確認した時間、そしてようやく相手を見つけてほっとした瞬間までが、一枚の黒板の記憶と結びついているため、伝言板そのものが消えたというより、その時代特有の待ち方まで一緒に消えたように感じられる。

 技術は不便を取り除いていくが、不便を取り除いたとき、その不便の周囲に偶然存在していた経験まで一緒に消えることがある。固定電話しかなかった時代には電話をかける時間を考え、手紙が主要な連絡手段だった時代には返事を何日も待ち、写真がフィルムだった時代には撮った写真がうまく写っているか現像するまで分からなかったが、それぞれの不便さの中には、現在では短くなった期待や不安や想像の時間が存在していた。

 駅の伝言板もまた、そのような不便さの周囲に生まれていた経験の一つだったのだろう。

失われたのは伝言板ではなく、「分からない時間」なのかもしれない

 駅の伝言板がなくなったことで、待ち合わせは間違いなく便利になり、すれ違いは減り、急な予定変更にも対応しやすくなったのだから、社会全体として見れば昔の仕組みに戻る理由はほとんどない。それでも、何も失われなかったと言い切るのは少し違うように思える。

 失われたのはチョークで書かれた文字でも黒板でもなく、相手が来るのかどうか分からないまま、その場所に立って待つという時間だったのではないか。情報がないから周囲を見渡し、知らない人々の流れを眺め、ときには伝言板に残された誰かの事情を想像しながら、約束した相手が現れるまでの時間そのものを過ごしていたが、その曖昧な時間は、常に誰かとつながり、すぐに答えが届くようになった現在では、ほとんど必要とされなくなった。

 ただし、その変化を「昔の方が良かった」と考える必要はない。昔の待ち合わせには、長時間待たされる不便も、すれ違って会えない危険も、相手に何かあったのではないかと心配し続ける時間もあり、現在の通信技術はそれらを大きく減らしたのであるから、得られたものの方が実用上ははるかに大きい。

 それでも、便利になることと、何一つ失わないことは同じではない。駅の伝言板が消えた歴史を振り返ると、技術が一つの不便を解決するとき、その不便と結びついていた行動や感覚まで静かに変えていくことがあり、待ち合わせの場合、それは「何分後に来るか分からない人を、その場所で待つ」という時間だったことが見えてくる。

 いま駅で人を待っている人の多くはスマートフォンを見ており、その画面には相手があと何分で到着するのかまで表示されることがあるが、それは安心でき、合理的で、昔よりはるかに便利である。一方で、ときには画面から目を上げて改札口を眺めてみると、何十人もの人が通り過ぎる中から、自分が待っていた一人が現れるという出来事が、本来は少し特別なものであったことに気づくかもしれない。

 駅の伝言板があった時代も、スマートフォンの時代も、人が誰かを待つという行為そのものは変わっていないが、その間に流れている時間の質だけは、技術と社会の変化に合わせて静かに変わってきたのである。

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いつの間にか、街で時計を探さなくなった

 駅へ急いで入り、改札を抜けたところで顔を上げ、ホームの時計を見て「あと3分ある」と確認するという行動は、かつてはごく普通のものだった。腕時計をしている人でさえ駅では駅の時計を見たし、商店街や銀行、公園、学校、役所などにも大きな時計があり、人は自分の時計を持っているかどうかにかかわらず、街の中に置かれた時計を使いながら1日を過ごしていたが、現在では時間を知りたいと思った瞬間に、多くの人が頭上の時計を探すのではなく、無意識のうちにポケットや鞄からスマートフォンを取り出すようになっている。

 もっとも、日本中の街から時計が一斉に減っていることを示す全国的な統計があるわけではないため、「街から時計が消えている」という言葉を、そのまま数量的な事実として受け取ることはできない。しかし、少なくとも鉄道駅では象徴的な変化が現れており、東日本旅客鉄道は2021年11月から、一部の駅で利用者向け時計の撤去を始め、約500駅を対象として長期的に時計の数を見直す方針を示しているが、その理由として挙げられているのは、老朽化、保守や更新にかかる費用、利用状況の変化などであり、その背景の1つとして携帯電話やスマートフォンの普及も位置づけられている。

 鉄道は時刻によって動くものなのだから、駅から時計を減らすという話には一見すると矛盾があるようにも思えるが、制度面から見ると、駅に掲示すべき運賃表や列車時刻表については法令上の位置づけがある一方、利用者が見る壁掛け時計そのものをすべての駅に設置しなければならないという義務はなく、つまり駅時計は、鉄道運行そのものを成立させる設備というより、利用者が時間を確認するための補助的な設備であり、利用者の多くが自分の端末で正確な時刻を知ることができるようになれば、維持費をかけて多数設置する必要性は相対的に低下する。

 この変化を見ていると、私たちは、いったいいつから腕時計や街の時計ではなく、携帯電話やスマートフォンで時間を見るようになったのだろうかという1つの疑問が浮かんでくる。

腕時計を最初に追いやったのはスマートフォンではなかった

 現在の感覚から考えると、腕時計を見なくなったのはスマートフォンが急速に普及した2010年代からだと思いたくなるが、実際には変化はそれよりかなり前から始まっており、腕時計に最初の大きな影響を与えたのはスマートフォンではなく、折り畳み式を中心とした従来型の携帯電話だった。

 2004年に携帯電話利用者を対象として行われた大規模な調査では、普段時間を確認する方法として携帯電話を挙げた人が85.8%に達した一方、腕時計を挙げた人は33%で、さらに2005年に行われた別の調査でも、携帯電話を挙げた人は87.1%、腕時計を挙げた人は33.8%となっており、2つの調査はほぼ同じ傾向を示している。

 ただし、これらの数字を「2004年には日本人の85.8%が携帯電話で時間を見ていた」と解釈するのは正しくなく、調査対象は日本人全体から無作為に選ばれた人々ではなく、携帯電話向けサービスを利用していた人たちであり、携帯電話の利用に慣れた人が多く含まれている可能性が高いため、統計学的には選択の偏りを考慮する必要がある。それでも、2004年と2005年という近接した2つの時点で、1万人を超える規模の調査がほぼ同じ結果を示していることから、少なくとも当時の携帯電話利用者の間では「時間を確認するときには携帯電話を見る」という行動がすでに広く定着していたと考えるのは妥当である。

 したがって、歴史の流れを単純に「腕時計からスマートフォンへ」と考えると、重要な中間段階を飛ばしてしまうことになり、実際には、2000年代前半に「腕時計から携帯電話へ」という最初の変化が起こり、その後2010年代に「携帯電話からスマートフォンへ」という2つ目の変化が重なったと考えたほうが、実際の統計とよく一致する。

2000年代、時間は腕からポケットへ移った

 20世紀の後半まで、外出中に好きな瞬間に時間を知るためには、腕時計には明確な意味があった。駅や学校、役所、公園などには時計があったものの、それはその場所まで行かなければ見ることができず、どこにいても手首を見るだけで時刻を確認できる腕時計は、文字どおり「時間を持ち歩くための道具」だった。

 しかし携帯電話が生活必需品になると、この前提が崩れ始め、人は電話をするために携帯電話を持ち歩くようになったが、その端末には時計も付いており、目覚まし、予定表、カレンダーなどの機能まで備わっていたため、それまで腕時計、目覚まし時計、手帳などに分かれていた時間管理の役割が、少しずつ1台の機械に集まり始めたのである。

 経済的に考えても、この変化には合理性があり、腕時計の主要な役割を「外出先で現在時刻を知ること」と考えれば、すでに毎日持ち歩いている携帯電話が同じ機能を果たすようになった時点で、時間を知るだけのためにもう1つ道具を持つ必要性は低下するため、携帯電話は腕時計の機能を部分的に代替する存在になった。

 ただし、人々が腕時計そのものを嫌うようになったわけではなく、必要性が変わったのであり、時刻確認のための必需品だった腕時計は、徐々に服装の一部、仕事上の身だしなみ、趣味や収集の対象、高級品としての価値を持つものへと役割を広げていったのであって、技術の変化とは、古い道具を完全に消し去るだけではなく、その道具が持つ意味を変えることでもある。

2010年代、スマートフォンが時間の意味を変えた

 2000年代には携帯電話が腕時計の役割を部分的に代替したが、2010年代にスマートフォンが急速に普及すると、その変化はさらに大きくなった。全国の15歳から79歳を対象として人口構成を考慮して行われた継続調査では、携帯電話所有者のうちスマートフォンを使用する割合は2010年には約4%だったものの、2015年には5割を超え、2019年には8割を超え、2021年には9割を超えるまでになった。

 この数字の推移を見ると、スマートフォンが特殊な機器から社会の標準的な携帯端末へ変わったのは、おおむね2010年代だったことが分かるが、重要なのは、スマートフォンが単に従来型携帯電話を高性能化しただけの道具ではなかったということであり、画面を見ると現在時刻だけでなく、電車の発車時刻、乗換方法、目的地までの所要時間、予定、天気、地図、店の営業時間、家族や友人からの連絡まで同時に確認できるようになり、「今何時なのか」という情報が、それだけでは独立して完結しなくなった。

 たとえば午前10時25分に駅へ向かっている人がいるとすると、以前なら時計を見て10時25分だと確認し、乗る予定の電車が10時30分発なら「あと5分ある」と頭の中で計算したが、現在では乗換案内を開けば、どの電車に乗ればよいのか、何分後に発車するのか、何番線なのか、目的地には何時に着くのかまで一度に表示され、遅延が起きていればその情報まで更新されることがある。

 この変化によって、人は単に時計を見る回数を減らしたのではなく、「現在時刻を確認したあと、自分で予定と照合し、残り時間を計算する」という作業の一部まで機械に任せるようになり、腕時計が主として「現在」を示す道具だったのに対し、スマートフォンは「現在」と「次の行動」を結びつけて示す道具になったのである。

「今、何時?」という質問はなぜ聞かれなくなったのか

 以前は街中で知らない人に「すみません、今何時ですか」と尋ねることも珍しくなかったが、現在ではそうした場面を見かける機会はかなり少なくなったと感じる人が多いだろう。ただし、「人々が時間を尋ねる回数が何年間で何%減少した」という全国的な長期統計があるわけではないため、この変化を数量的な事実として断定することはできない。

 それでも、ほとんどの人が時刻を確認できる端末を持ち歩く社会では、他人に時間を尋ねる必要が減ること自体は合理的に説明でき、これは、時間を知る行為が公共空間や他人に依存するものから、個人が自分の端末で完結できるものへ移ったという変化でもあり、かつて街の時計や他人の腕時計から得ていた情報が、個人の手の中に移ったとも言える。

 待ち合わせの方法も同じように変わり、以前なら「午後3時に駅前の時計台の下で」と決め、午後3時になっても相手が現れなければ、時計を見ながら5分、10分と待つしかなかったが、現在では「今着いた」「あと5分」「反対側の改札にいる」と互いに連絡できるため、待ち合わせ時刻を1分単位で厳密に決めなくても成立する場面が増えている。

 ここで興味深いのは、私たちが「午後3時」という絶対的な時刻だけを見るのではなく、「あと5分」「到着まで12分」「次の電車まで3分」という相対的な時間を直接知らされる機会が増えたことであり、これを人間の時間感覚そのものが完全に変化したとまで言うには心理学的な検証が必要だが、少なくともスマートフォンによって、現在時刻から残り時間を自分で計算する必要のある場面が減ったことは確かである。

それでも腕時計は消えていない

 携帯電話とスマートフォンがこれほど普及しても、腕時計は消滅しなかった。2026年に全国の20歳から69歳、1,100人を対象として行われたインターネット調査では、腕時計またはスマートウォッチを所有している人は64.5%、普段使用している人は45.5%となっており、時刻確認のために腕時計が絶対に必要ではなくなった現在でも、およそ半数近くが日常的に使用している。

 ただし、この数字も日本人全体を完全に代表する数字として扱うべきではなく、調査対象に20歳未満と70歳以上は含まれておらず、インターネット調査でもあるため、統計学的には一定の偏りが存在する可能性があるが、それでも「スマートフォンが普及したから腕時計はほとんど使われなくなった」という単純な説明が成り立たないことは分かる。

 さらに年代による違いも大きく、60歳代では腕時計を使う人の割合が比較的高い一方、20歳代や30歳代では腕時計を持っていない人も少なくなく、この差には、現在の年齢だけでなく、外出時には腕時計を着けるという習慣をどの時代に身につけたのかという世代経験の違いも影響している可能性がある。

 そして現在では、腕時計をめぐって興味深い逆転も起きており、かつて携帯電話によって腕から追い出された情報端末が、スマートウォッチという形で再び手首へ戻り、時刻だけでなく歩数、心拍数、運動量、睡眠、電子決済、メッセージ通知などを表示するようになったため、腕時計が携帯電話に負けたというより、時計そのものが情報端末へ変化しながら生き残ったと考えたほうがよい。

駅の時計は、なぜ減らすことができるのか

 駅時計の変化を考えるとき、制度面から見た位置づけも興味深く、鉄道では列車時刻表など利用者に必要な情報を掲示することが求められているが、利用者向けの時計をすべての駅に設置することまでは法令で義務づけられていないため、駅時計は運行上絶対に必要な設備というより、利用者が時刻を確認するための補助的な役割を持つ設備と考えることができる。

 そうであれば、ほぼすべての利用者が自分で時刻を確認できる端末を持つようになった社会では、利用頻度の低い時計を修理し、更新し、電源設備を維持し続けるよりも、その数を減らすという経営判断が生まれることは不自然ではなく、つまり駅時計の減少は、単なる技術変化だけではなく、利用者行動の変化と維持管理費の問題が重なった結果でもあり、「スマートフォンが普及したから時計が不要になった」という単純な1対1の因果関係では説明できない。

 ここは重要であり、古くなった設備を更新するには費用がかかり、その設備を利用する人が以前より少なくなれば、同じ数を維持する経済的な合理性は下がっていくため、技術の普及は時計撤去の直接的な唯一の原因ではなく、「撤去しても利用者への影響が以前ほど大きくない」という環境を作った要因の1つと見るのが最も客観的である。

街から消えているのは「共有された時間」なのかもしれない

 ここまでの話は統計や制度によってある程度確認できる事実だが、そこから先にはもう1つ別の見方があり、それは、街から失われつつあるのは時計そのものではなく、多くの人が同じ時計を見るという経験なのではないか、という見方である。

 かつて駅のホームでは何十人、何百人という人が同じ時計を見て電車を待ち、学校の教室では先生も生徒も壁に掛かった1つの時計を見ながら授業の終わりを待ち、商店街や公園でも、その場所にいる人々が同じ針の位置から時刻を知っていたのであり、そこでは時計は単なる機械ではなく、その場にいる人全員に共通する時間を示す存在でもあった。

 これに対してスマートフォンの時刻は完全に個人的なものであり、同じ駅に立っていても、人々は同じ時計を見るのではなく、それぞれの画面を見ており、しかも画面に表示されるのは時刻だけではなく、ある人には乗換案内、ある人には仕事の予定、ある人には家族からの連絡というように、同じ場所、同じ時刻にいながら、別々の情報の世界を見ている。

 この意味で、公共時計が減るという現象は、社会全体の情報の受け取り方が変化したことを象徴しているようにも見え、以前は駅や街が人に情報を与えていたが、現在では人が自分の端末を通じて必要な情報を取得するようになり、時間もまた公共空間に掲げられたものから、個人が持ち歩く情報へ変わったのである。

人はいつからスマートフォンで時間を見るようになったのか

 最初の問いに戻ると、「何年から日本人は腕時計ではなくスマートフォンを見るようになった」と1つの年を特定することはできないが、それでも複数の調査と普及の推移を重ねると、大きな流れはかなり明確に見えてくる。

 2000年代前半には、携帯電話利用者の間で携帯電話を時計代わりに使う行動がすでに広く定着しており、2010年代にスマートフォンが急速に普及すると、その行動はさらに一般化し、さらに2020年代には、東日本旅客鉄道が利用状況や保守負担などとともにスマートフォンの普及を時計見直しの背景として挙げるほど、携帯端末による時刻確認は日常的な行動になっている。

 したがって、この約20年間に起きたことを「腕時計がスマートフォンに負けた」と表現するだけでは、変化の本質を捉えきれず、時間は腕からポケットへ移っただけではなく、「今何時なのかを知るための情報」から、「次に何をすればよいのかを判断するための情報」へと役割を広げ、私たちは時計そのものを見る機会を減らしながら、以前より細かく時間に導かれる生活を送るようになった。

 いつの日か、昔の駅の写真を見た子どもが、ホームの中央に掛けられた大きな丸時計を指さして、「どうしてこんなに目立つ場所に時計があるの」と不思議そうに尋ねる時代が来るかもしれず、そのとき初めて、私たちは街の時計が持っていた意味に気づくのだろうが、それは単に何時何分かを知らせる機械ではなく、その場所にいる人々が同じ方向へ顔を上げ、同じ時刻を見ながら動くための、静かな共通点でもあったのである。

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本を選ぶとき、私たちは本だけを見ているわけではない

 読むつもりのなかった本を、なぜか買って帰ったことがある。書店を歩いていて、それまで表紙さえ知らなかった1冊の前で足が止まり、その横に置かれた小さな手書きの紙を読んだ瞬間に「少し読んでみようか」と思ってしまうことがある一方、インターネットで本を探しているときには、レビューの内容や件数を確認しながら、「自分に合う本だろうか」と慎重に判断していることも多い。

 どちらも知らない本を選ぶための手掛かりであることに違いはないが、書店員の手書きPOP(Point of Purchase Advertising・店頭で購買を促すための広告表示)とネットのレビューでは、購入へ向かう心理の働き方が同じとは限らない。手書きPOPでは、ひとりの書店員が選んだ言葉を通じて本への関心が生まれることがあるのに対し、ネットでは、多数の読者が残した評価や感想をまとめて確認することで、「自分が読んでも大きく期待を外さないだろうか」と判断する材料を増やすことができる。

 そもそも、本は購入前に品質を完全には確かめられない商品である。食品のように味見することは難しく、家電のように性能表だけを比較して価値を判断することもできず、実際に読み進めてみなければ、自分にとって面白いのか、役に立つのか、心に残るのかは分からない。そのため私たちは、本そのものだけではなく、書店員の推薦、帯の言葉、レビューの内容、読者の評価といった周辺情報を利用して、読むために時間とお金を使う価値がありそうかを判断しているのである。

手書きPOPには「誰かが選んだ」という痕跡が残る

 書店員の手書きPOPには、出版社が制作した広告とは異なる魅力がある。文章は数行しかなく、文字も必ずしも整っているわけではなく、情報量だけを比べれば出版社の帯や紹介文のほうが多いことさえあるのに、それでも手書きの言葉に目を止める人がいるのは、そこに「この本を読んだ誰かが、自分の言葉で薦めようとしている」という痕跡を感じ取るからなのかもしれない。

 たとえば、「今年読んだ中で、最後の30ページがいちばん忘れられなかった」と書かれていたとしても、そこには作品の詳しい内容も、客観的な評価基準も示されていない。それでも、その30ページに何が書かれているのかを確かめたくなるのは、POPが作品をすべて説明するのではなく、むしろ説明しきらないことによって読者の想像の中に小さな空白を残し、その先を知りたいという気持ちを呼び起こす場合があるからだろう。

 店頭広告に関する研究では、POPの設置が商品棚への注目や商品を手に取る行動などに影響することが示されており、手作りPOPについても、購買行動に一定の効果が生じる可能性が報告されている。ただし、「手書きだから書店員への信頼が必ず高まり、その結果として本が売れる」という一連の因果関係が、あらゆる書店で科学的に証明されているわけではないため、ここでは手書きPOPを万能な販売手段と考えるよりも、本への注意や関心を生み出すひとつの装置として捉えるほうが現実に近い。

 さらに書店では、POPの文章だけでなく、その本がどこに置かれているかという空間そのものが推薦として働くことがある。大量の本の中から1冊を選び、表紙が見えるように置き、その横に言葉を添えるという行為には、「この本を少し見てほしい」という店側の選択が現れるため、客は本そのものだけでなく、その本が選ばれているという状況まで含めて受け取ることになる。

ネットレビューは、多数の読者の経験を一度に見せる

 ネットのレビューには、手書きPOPとは異なる強みがある。ひとりの書店員の感想ではなく、何十人、何百人、ときにはそれ以上の読者が残した評価や感想をまとめて確認できるため、自分より先に読んだ人たちが、どこを評価し、どこに不満を感じたのかを短時間で知ることができる。

 オンラインレビューと購買行動については、多数の研究をまとめたメタ分析でも一定の関係が確認されており、レビューの肯定的・否定的な内容、レビュー件数、情報の詳しさ、投稿者への信頼などが、購入意向や商品の評価に影響することが示されている。さらに書籍そのものを対象にした研究でも、レビューの数や長さ、肯定的な評価と否定的な評価、表示される順序などが、購入意向に影響し得ることが報告されているため、「ネットレビューが本を買う判断材料になる」という記事の前提には、かなり強い実証的な裏付けがある。

 ただし、評価が高ければ必ず購入につながるわけではなく、レビュー同士の意見が大きく食い違っていたり、低い評価の中に自分にとって重要な欠点が書かれていたりすれば、むしろ購入を思いとどまることもある。この点でネットレビューは、単純に本を売るための装置ではなく、「買ってもよい理由」と「買わないほうがよい理由」を同じ画面上に並べる仕組みでもあり、レビューを読み始める前には買うつもりだった人が、読み終えたころには購入をやめているということも十分に起こり得る。

「大勢の評価」だからといって、そのまま真実とは限らない

 ネットレビューには多数の意見が集まるという利点がある一方で、その数字や文章を無条件に「世の中の本当の評価」と考えることにも注意が必要である。レビューを書く人は、すべての購入者から無作為に選ばれているわけではなく、非常に満足した人や強い不満を抱いた人ほど投稿する可能性もあり、投稿者の構成そのものに偏りが生まれることがある。

 さらに、すべてのレビューが完全に独立した自然な感想とは限らず、事業者が関与する広告や、利益関係を十分に明らかにしない投稿が問題になることもある。日本では2023年10月1日から、広告であることを隠して消費者に表示するステルスマーケティングが景品表示法の規制対象となっており、レビューだから自動的に中立な第三者の意見だと考えてよいわけではない。

 したがって、ネットレビューを見るときには、平均点だけを信じるよりも、評価件数がどの程度あるのか、極端に似た文章が並んでいないか、具体的な長所と短所が書かれているか、自分と似た目的を持つ読者がどのように評価しているかを見るほうが、判断材料としては有効である。

書店は「偶然の発見」に強いが、ネットにも発見はある

 手書きPOPとネットレビューの違いを考えるとき、「書店では発見し、ネットでは確認する」と単純に二分するのは分かりやすいが、現実はもう少し複雑である。実際の書店では、棚を歩きながら眺めるブラウジングによって、当初は探していなかった本に出会うことがあり、書店の空間構成や本の配置が、立ち止まる、触れる、手に取る、読むといった行動に影響することも研究されているため、実店舗に「偶然の発見」を生みやすい性質があることは確かである。

 しかし、ネットでも未知の本と出会うことはできる。検索結果だけではなく、「この本を見た人はこちらも見ています」「この本を買った人はこちらも読んでいます」といった推薦機能、ランキング、特集、SNS(Social Networking Service・インターネット上で人と人が交流するサービス)上での紹介などによって、存在を知らなかった本へたどり着くことがあるため、ネットを単なる「確認の場所」と考えるのも正確ではない。

 それでも両者には傾向の違いがあり、書店では棚を歩いている途中に予想外の本が視界へ飛び込んでくるという物理的な偶然が起こりやすいのに対し、ネットでは自分の検索履歴や過去の閲覧、他の利用者の行動などを基にした推薦を通じて新しい本に出会うことが多い。つまり、どちらにも発見はあるが、その発見が生まれる仕組みが異なっているのである。

手書きPOPは「関心を生む」、レビューは「判断を揺らす」

 両者の違いを、あえて単純なたとえで表すなら、手書きPOPには、それまで存在しなかった関心を生み出す働きがあり、ネットレビューには、すでに生まれている関心を強めたり弱めたりする働きがあると考えると分かりやすい。ただし、これは実際に0、1、2という尺度で測定された数理モデルではなく、購買心理の違いを説明するための比喩である。

 書店で偶然見つけた本について、「こんな本があったのか」と初めて関心を持つ場面では、POPが最初のきっかけになる可能性がある一方、すでに題名を知っている本についてネットで複数の感想を読み、「これは自分にも合いそうだ」と感じれば購入意向が強まり、逆に「期待していた内容とは違いそうだ」と分かれば購入意向が弱まる。この違いは、POPとレビューのどちらが優れているかという問題ではなく、購入までの異なる段階で、それぞれ別の役割を果たしていると理解するほうが適切だろう。

情報量が多いほど、人を動かすとは限らない

 情報量だけを比較すれば、ネットレビューは手書きPOPを圧倒している。何百人もの評価を読み、肯定的な意見と否定的な意見を比べ、自分と似た立場の読者を探すことさえできるが、それにもかかわらず、店頭で目にした数行の手書きPOPが、その場で本を手に取らせることもある。

 その理由のひとつとして考えられるのは、平均値のような集約された数字と、具体的なひとりの言葉では、人が受け取る情報の質が異なることである。100人の平均評価が4.2だと聞けば、多くの人から支持されているという情報は得られるものの、その100人がどのような場面で、どのような気持ちで本を読んだのかまでは見えてこない一方、「この本を読んで電車を乗り過ごした」と書かれた言葉からは、たった1人の経験であっても、読書に夢中になった具体的な情景を思い浮かべることができる。

 だからといって、1人の書店員の言葉が100人の評価より信頼できるという意味ではなく、両者は異なる種類の情報を与えている。多数のレビューは判断のばらつきを見渡すのに向いており、個人の推薦文は、その本を読む経験を具体的に想像させるのに向いている可能性があるため、人は状況に応じて両方を使い分けているのである。

失敗したくない本と、偶然出会いたい本

 本を選ぶ目的によっても、参考にしたい情報は変わってくる。仕事で必要な専門書や資格試験の参考書のように、「目的に合わない本を買いたくない」という気持ちが強い場合には、複数のレビューを確認し、内容の難易度や対象読者、長所と短所を比較することが合理的であり、1人の熱い推薦だけで決めるよりも、複数の情報から判断したほうが失敗を減らせる可能性が高い。

 一方、小説やエッセイのように、読む前から正解が決まっているわけではない本では、予想していなかった1冊との出会いそのものに価値がある場合があり、そこで「この本を読んでほしい」という書店員の短い言葉が、検索では起こりにくかった選択を生み出すことがある。

 つまり、手書きPOPとネットレビューの違いは、片方が感情的で片方が合理的だという単純な区別ではなく、未知の本に近づくときに、どの程度の不確実性を受け入れようとしているかという違いでもある。失敗を減らしたいときには情報を集め、思いがけない本と出会いたいときには、ある程度の偶然を受け入れるという、本を選ぶ側の目的によっても判断の仕方は変わってくる。

日本では「ネットで本の価格を比較する」とは限らない

 ネット書店について考えるときには、日本独自の制度にも注意が必要である。日本では、一定の書籍や雑誌について著作物再販制度(著作物再販売価格維持制度・出版社などが定めた価格で販売できる制度)が認められているため、一般的な新品書籍については、家電のように店ごとの本体価格を比較して最安値を探すという買い方にはなりにくい。

 そのためネットで本を選ぶ際には、価格そのものよりも、在庫の有無、配送条件、電子版の存在、中古本の価格、レビュー、関連書籍などが比較の対象になりやすい。もちろん中古本や一部の電子書籍、洋書などでは価格差が生じることもあるが、日本の新刊書籍全般について「ネットでは価格を比較して買う」と説明するのは正確ではない。

知らない本を買う瞬間には、少しだけ「賭け」が残る

 本を買う楽しさには、読んでみなければ本当には分からないという不確実性が含まれている。あらゆるレビューを読み、内容を細かく調べ、自分に合わない可能性をできる限り減らしてから購入することもできるが、情報を集めれば集めるほど、本との出会いから偶然性が少しずつ薄れていくという側面もある。

 手書きPOPが今も書店に残っている理由のひとつは、この偶然を完全には消さないところにあるのかもしれない。そこには何千件ものデータはなく、平均評価も示されていないことが多いが、ひとりの書店員が限られたスペースの中で言葉を選び、「この本には何かがある」と客に伝えようとしているため、その言葉を見た人は、情報を比較するというよりも、「そこまで薦めるなら少し読んでみよう」と判断することがある。

 それに対してネットレビューは、読んだ人の経験を数多く集めることで、不確実性を小さくする手助けをしてくれる。読む時間にも使えるお金にも限りがある以上、この仕組みには大きな価値があり、現代の本選びにとって欠かせない存在になっているが、それでもレビューを何件読んだとしても、自分がその本をどう感じるかを完全に予測することまではできない。

本を選ぶということは、最後には自分で不確実性を引き受けること

 ネット書店では大量の本を検索でき、レビューを読み、在庫や配送条件を確認し、短時間で注文することができる。それでも実際の書店へ行き、棚の前を歩き、本を手に取る人がいなくならないのは、本を選ぶという行為が、必要な情報を検索して最適解を求めることだけでは完結しないからだろう。

 検索は、知っている本を探すことには非常に強く、推薦機能は未知の本との出会いまで広げてくれる一方、実際の書店には、自分が探していなかった本が突然視界へ入り、その横に置かれた短い言葉によって立ち止まるという、物理的な空間ならではの偶然がある。そして、その偶然の出会いを家へ持ち帰るべきか迷ったときには、今度はネットレビューを調べ、多くの読者の経験を参考にすることもできる。

 書店員の手書きPOPとネットレビューは、どちらか一方が優れているのではなく、異なる種類の不確実性を埋めている。手書きPOPは「こんな本がある」という気づきを与え、レビューは「この本は自分に合うだろうか」という判断を助けることがあり、ときにはその順序が逆になることもあるため、両者を完全に分けることはできない。

 結局、知らない本を前にしたとき、私たちは本そのものだけを選んでいるのではなく、書店員の言葉、他の読者の経験、自分自身の興味を重ねながら、「この1冊に時間を使ってみる価値があるだろうか」と判断しているのである。研究や統計はその判断を助けてくれるが、最後のページまで自分がどう感じるかを保証することはできず、だからこそ本を買うという行為には、どれほど情報が増えた時代になっても、誰かの言葉を参考にしながら最後には自分でページを開いてみるという、小さな賭けが残り続けるのである。

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