リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 古本屋で昭和の中公文庫を眺めていると、ときどき時間の感覚がおかしくなる。少し黄ばんだ紙、小さな活字、いまより地味な装幀、その背表紙の中に三島由紀夫の名前を見つけると、三島という作家が昔からずっと「中公文庫の作家」であったように思えてくる。しかし年代を確認してみると、この印象には一つ大きな錯覚が含まれている。

 現在につながる中公文庫が創刊されたのは1973年6月10日、昭和48年のことである。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したのは1970年11月25日だから、三島は現在の中公文庫を見ることなく亡くなっている。自分の本に中公文庫のカバーが掛かり、本屋の文庫棚に並び、電車の中で読まれる光景を、三島本人は一度も見ることがなかった。

 つまり三島由紀夫は中公文庫に何冊もの本を残しているのに、「中公文庫の時代」を一日も生きていないのである。

 この小さな時間のねじれから、中公文庫と三島由紀夫という組み合わせを眺めてみると、単なる出版社と作家の関係とは少し違ったものが見えてくる。中公文庫は三島という現役作家とともに歩いた文庫ではない。すでに死者となった三島の文章を選び直し、形を変え、昭和後期の読者へ渡していった文庫だったのである。

三島が死んだあと、中公文庫が始まった

 1973年の創刊時、中公文庫には谷崎潤一郎訳『源氏物語』、司馬遼太郎『豊臣家の人々』、安部公房『榎本武揚』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』などが並んでいた。日本の古典から現代文学、外国思想までが同じ文庫の棚に収まっているところを見ると、特定のジャンルだけを集めるのではなく、文学や思想を広く読者へ届けようとする志向を読み取ることができる。

 その中公文庫に三島由紀夫が登場したのは早かった。創刊からわずか二か月後の1973年8月、『文章読本』が中公文庫になっている。

 ここで興味深いのは、最初に文庫になったものが三島の代表的小説ではなかったことである。『仮面の告白』でも『金閣寺』でも『潮騒』でもなく、文章とは何か、文体とは何か、文学作品をどう読むのかについて三島自身が論じた『文章読本』だった。

 現在、三島由紀夫という名前を聞けば、小説とともに1970年11月25日の出来事を思い浮かべる人は少なくない。しかし『文章読本』を開いたときに現れる三島は、そのような後世のイメージとはかなり違う。文章の構造を考え、散文と韻文について論じ、美しい文章とは何なのかを分類し、優れた文章をどのように読めばよいかを執拗なほど考えている。

 そこにいるのは、劇的な死を選んだ思想家というより、文章という精密機械の構造を一つずつ分解して確かめようとしている職業作家である。

 中公文庫から三島へ入ると、こんな三島が最初に現れてくる。そのこと自体が、三島由紀夫という作家を考えるうえで案外大きな意味を持っているのではないだろうか。

しかし、三島と「中公」の関係はもっと古い

 もっとも、三島と中央公論社との関係が1973年に突然始まったわけではない。ここには少しややこしい出版史がある。

 現在の中公文庫以前に、中央公論社には「中央公論文庫」という別のシリーズが存在していた。その中央公論文庫から1962年、三島由紀夫の『不道徳教育講座』が刊行されている。

 名前が似ているので古書を眺めていると同じシリーズのように見えることがあるが、書誌上は1973年創刊の中公文庫とは区別した方がよい。それでも三島と中央公論社との関係を考えるうえでは、この古い中央公論文庫の存在は無視できない。

 さらにさかのぼれば、『不道徳教育講座』は1959年に中央公論社から刊行され、翌1960年には続編が出ている。同じ1959年には『文章読本』も中央公論社から刊行されている。つまり三島がまだ三十代で、文壇の第一線を猛烈な速度で走っていたころから、中央公論社は三島の小説とは少し違った顔を本にしていたことになる。

 これはなかなか面白い。

 『不道徳教育講座』にいる三島は、後世に作られた重苦しい三島像とはかなり違う。世間一般の道徳をわざと裏返し、「本当にそれは正しいのか」と読者をからかいながら問い直す。もちろん単なる冗談を書いているわけではなく、常識というものを反対側から照らすことで、その不自然さや偽善性をあぶり出しているのだが、そこには軽妙さとサービス精神がある。

 『文章読本』へ行けば、また違った三島がいる。こちらでは文章というものを感覚だけで語るのではなく、文体や構造や表現の働きを分類しながら、自分が文学の何を美しいと思うのかを説明していく。

 今日の私たちは三島由紀夫を、その最期を知ったうえで読む。しかし1959年の読者は違った。彼らにとって三島は死者でも伝説でもなく、次々と新しい文章を書く同時代の人気作家だったのである。

 中央公論社が刊行していた本を年代順にたどると、後世の巨大な三島像の奥から、その時々の「現在を生きていた三島」が少しずつ見えてくる。

中公文庫に残ったのは「小説家だけではない三島」だった

 1973年の『文章読本』に続き、中公文庫では1974年に『作家論』、1975年には『荒野より』や戯曲『癩王のテラス』などが刊行されていく。

 ここから見えてくるのは、単純に「小説ではない三島」ではない。三島はもちろん小説家であり、戯曲も書いた。しかし中公文庫の書目を眺めていると、代表的な長編小説だけでは捉えることのできない三島の輪郭が次第に現れてくるのである。

 たとえば『作家論』で三島が見つめているのは自分自身ではなく、森鴎外や谷崎潤一郎、川端康成をはじめとする先行作家たちである。しかし他人について書いた文章ほど、意外に書き手自身をさらけ出すものはない。誰を高く評価するのか、作品のどこに執着するのか、何を美しいと考え、何を退屈だと考えるのか。その選択を追っていけば、批評されている作家と同時に、批評している三島自身の文学観まで浮かび上がってくる。

 『荒野より』になると境界はさらに曖昧になる。小説だけではなく評論や随筆などさまざまな文章が収められ、作家の日常、社会を見る目、文学についての思考が一冊の中で入り混じる。こうした本を続けて読んでいると、三島由紀夫という人物の輪郭が、代表作の中心からではなく、その周囲から浮かび上がってくる感覚がある。

 これは『金閣寺』一冊を読む経験とはかなり違う。

 小説を読んでいるとき、読者は基本的に作品世界の中にいる。しかし『文章読本』や『作家論』へ移ると、突然その舞台裏へ連れていかれる。さっきまで絢爛たる文章を生み出していた作家本人が机の向こう側へ座り、「文章というものはこうできている」「この作家のここが面白い」と語り始める。

 いわば魔術を見せていた人間が、その魔術の仕掛けまで説明し始めるのである。

 ところが不思議なことに、説明を読んでも魔術は消えない。それどころか、三島がどれほど意識的に言葉を扱っていたかを知ることで、小説へ戻ったとき以前には見えなかったものが見えてくる。

 中公文庫で三島を読む面白さは、この往復運動の中にある。

1970年11月25日から三島を読むという誘惑

 三島由紀夫について考えるとき、どうしても一つの日付が巨大な重力を持つ。1970年11月25日である。

 あの日の出来事があまりに劇的だったため、それ以前の三島の文章まで、すべてが最後の日へ向かって書かれていたように読まれてしまうことがある。『太陽と鉄』を読んでも死への予兆を探し、小説の中に肉体や美や滅びが現れれば、そこから市ヶ谷を逆算したくなる。

 しかしこれは、伝記を読む人間が陥りやすい一種の錯覚でもある。

 人生を最後まで知っている後世の読者と、その途中を生きている本人では時間の見え方が違う。1959年に『文章読本』を書いていた三十四歳の三島は、その文章を1970年11月25日の説明書として書いていたわけではない。そのときの三島には、そのときの仕事があり、締切があり、読んでいる本があり、会っている人があり、次に書こうとしている作品があった。

 だから三島を最後の日から逆向きに読むだけでは、その途中に存在していた多くの三島を取り落としてしまう。

 文庫という形式には、その時間を少しだけ取り戻す働きがあるのかもしれない。文庫本を開けば、歴史的大事件も作者の伝説も、とりあえず表紙の外側に置かれる。そこにあるのは数百ページの活字であり、読者は文章そのものと向き合わなければならない。

 ただし、中公文庫が意図的に「三島を事件から文学へ引き戻した」とまで言うことはできない。そのような編集方針があったことを裏付ける資料や、文庫化によって読者の三島像が実際に変化したことを示すデータがなければ、そこまでの因果関係は証明できないからである。

 それでも、中公文庫に残された書目を眺めれば、少なくとも一つのことは言える。そこには1970年11月25日だけでは説明できない三島由紀夫が、かなり豊富に残されている。

『太陽と鉄』を加えると、話はもっと複雑になる

 そして昭和の中公文庫と三島の関係を考えるとき、見逃せない一冊が1987年、昭和62年に中公文庫となった『太陽と鉄』である。この文庫には『私の遍歴時代』も収録された。

 この本まで視野に入れると、「中公文庫は三島を事件から切り離した」という単純な説明が成り立たないことがよく分かる。

 『太陽と鉄』で三島が考えているのは、言葉と身体、精神と肉体、文学と行動という問題である。それらは晩年の三島を理解するうえで避けて通ることのできない主題であり、1970年の行動とも無関係ではない。

 つまり中公文庫に残った三島は、政治や肉体や死を取り除いた「純粋な文学者三島」ではないのである。

 むしろ逆なのではないか。

 文章について考える三島がいて、他の文学者を批評する三島がいて、世間の道徳をからかう三島がいて、戯曲を書く三島がいて、肉体と言葉の関係を考える三島がいる。それらを読み重ねていくことで、1970年の出来事もまた、それだけが孤立した異常な事件なのではなく、一人の作家が長年考えてきた問題の延長線上から読み直すことができる。

 事件を消すのではない。

 事件だけで作家を説明しないのである。

 この違いは大きい。

昭和の終わりには「三島を覚えている人」の本まで並んだ

 さらに1986年、昭和61年には、澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』が中公文庫になっている。

 ここまで来ると、中公文庫の中の三島は新しい段階へ入る。三島本人が書いた文章を読むだけではなく、「三島を知っていた人が三島について書いた文章」まで文庫棚に加わるからである。

 三島が亡くなってから十六年が経過している。1970年には生々しい現在だった出来事が、少しずつ文学史や記憶の領域へ移り始めていた。

 しかし澁澤龍彦が書く三島は、教科書に載っている「昭和を代表する文学者」ではない。実際に会い、話し、同じ時代の空気を吸った人間が記憶している三島である。死後に巨大化した三島像とは違い、一人の知人としての手触りがそこには残っている。

 ここまで中公文庫の書棚を歩いてくると、文庫というものが単に名作を安価に再刊する仕組みではないことが見えてくる。

 一人の作家が書いた本が残る。その作家が他人について書いた文章が残る。その作家自身について考えた文章が残る。そしてその作家を知っていた人間の記憶まで残る。

 こうして一人の作家は、一冊の代表作ではなく、複数の本の関係として保存されていく。

 三島由紀夫ほど、その仕組みがよく見える作家も珍しいのではないだろうか。

文庫本になると、三島は少し小さくなる

 三島由紀夫という人物には、どうしても巨大な映像がつきまとう。

 鍛えられた肉体、写真、制服、演説、市ヶ谷、割腹、そして死の直前に完成した『豊饒の海』。一つ一つの像があまりに強いため、普通に机へ座り、原稿用紙に文章を書いていた職業作家としての三島が、その陰に隠れてしまうことがある。

 ところが昭和の古い中公文庫を一冊手に取ると、その巨大な三島が不思議なほど小さくなる。

 もちろん価値が小さくなるという意味ではない。手のひらに収まるのである。

 『文章読本』を電車で読み、『作家論』を寝る前に数ページ読み、『荒野より』を喫茶店で開き、『太陽と鉄』を鞄に入れて持ち歩くことができる。歴史映像の中にいた人物が文庫本になると、突然、読者のすぐ隣へやってくる。

 そこには演説の声も制服もない。ページを開けば、活字だけがある。

 文庫というものは、作家を小さくすることによって、かえって長く生かす装置なのかもしれない。

 全集は作家を大きく保存する。何巻も並んだ立派な全集は、その人物が文学史上の重要人物であることを物理的な重さによって示している。しかし文庫本は反対である。作家を小さくして鞄に入れ、電車へ乗せ、旅先へ連れていき、枕元へ置く。

 全集が作家を記念碑にするものだとすれば、文庫は作家を再び読者の生活へ戻すものなのだろう。

中公文庫の棚には「複数の三島」が残った

 考えてみれば、三島由紀夫本人は1973年に生まれた現在の中公文庫を知らない。鳥を図案化したマークを見ることも、自分の『文章読本』が小さな文庫本になって書店へ並ぶところを見ることもなかった。

 それでも昭和48年以降、中公文庫の棚には三島がいた。

 しかも、そこに残ったのは一人の三島ではない。

 文章について考えている三島がいる。他の作家を論じている三島がいる。道徳をひっくり返して読者を挑発する三島がいる。戯曲を書く三島がいる。自分の身体について考えている三島がいる。そして、その三島を覚えている澁澤龍彦のような同時代人までいる。

 こうして昭和後期の中公文庫を年代順に眺めていくと、三島由紀夫という作家が一枚の有名な写真や一日の歴史的事件へ収束するのではなく、反対にいくつもの方向へ広がっていく。

 おそらく、そこが中公文庫と三島由紀夫の関係を考えるとき最も面白いところなのだと思う。

 三島を「事件から文学へ戻した」とまで断言することはできない。しかし中公文庫に残された本を読み継いでいけば、1970年11月25日だけでは到底説明できない三島由紀夫が見えてくる。

 一人の人間について私たちは、どうしても最も劇的だった一場面で記憶してしまう。しかし文学者の場合、その人が死んだあとにも文章は残る。そして文章が読み続けられる限り、その人物についての理解は一つに固定されることがない。

 文庫は、そのための小さな装置なのだろう。

 事件によって作家を記憶することもできる。写真によって記憶することもできるし、伝説によって記憶することもできる。しかし文庫には、それらとはまったく違う方法がある。

 何十年たっても、もう一度その人の文章を読ませるのである。

 三島由紀夫が中公文庫を見ることなく亡くなってから半世紀以上が過ぎた。それでも古本屋の棚から一冊を抜き出してページを開けば、そこにいる三島はまだ過去の人物になりきっていない。

 読者が文章を読み始めた瞬間だけ、作家は再び現在形になる。

 昭和の中公文庫が残したものを考えていると、結局そこへ行き着く。文学者を長く生かすのは巨大な記念碑ではなく、誰かが何気なく手に取ることのできる、小さな一冊なのかもしれない。

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 平野啓一郎と三島由紀夫を並べると、最初に目につくのは文体である。平野が『日蝕』によって文壇に登場したとき、その古風で濃密な文章から三島由紀夫を連想する読者は少なくなく、実際に平野自身も、十代で『金閣寺』を読んだ経験が文学へ向かう大きな契機になったことを繰り返し語っている。後年には大部の『三島由紀夫論』を書き上げているから、両者を比較すること自体に無理はない。

 しかし、二人を「華麗な文章を書く純文学作家」として並べるだけでは、あまり面白くない。むしろ興味深いのは、三島から強い文学的刺激を受けた平野が、自己とは何かという問題について、最終的には三島とはかなり違う場所へ進んだように見えることである。二人の距離を測るためには、文体よりも「私は誰なのか」という問いを見る方がよい。

 三島には「仮面」があり、平野には「分人」がある。この二つの言葉を並べると、戦後文学から現代文学へ、人間の「自己」をめぐる考え方がどのように変化したのかまで見えてくる。

仮面の下に「本当の自分」はいるのか

 『仮面の告白』という題名からは、本当の自分を隠すために人が仮面をつけているという単純な構図を想像しやすい。ところが三島が描いた世界は、それほど単純ではない。社会に適応するために始めた演技が長く続けば、演じている人格そのものが自分の一部になっていく。仮面を外せば、その下から純粋な「本当の私」が現れるとは限らないのである。

 ここには、今日から見ても古びない自己の問題がある。仕事をしているときの自分、家族といるときの自分、親しい友人といるときの自分、一人でいるときの自分は、必ずしも同じではない。だからといって、会社で礼儀正しく振る舞う自分が偽物で、家で冗談を言っている自分だけが本物だということにもならない。それぞれの場面で現れる人格は違っていても、すべて同じ一人の人間から生じている。

 平野啓一郎の「分人主義」は、この問題をさらに押し進める。平野は、人間の中心に唯一の「本当の自分」があり、その周囲で複数の人格を演じているとは考えない。相手や環境との関係によって生まれる人格を「分人」と捉え、それらをすべて本当の自分だと考える。恋人といるときに現れる自分も、仕事をしているときに現れる自分も、昔の友人と再会したときに現れる自分も、それぞれがその人自身なのである。

 この点だけを見ると、三島の「仮面」と平野の「分人」は意外なほど近い。二人とも、人格の奥深くに一つだけ純粋で透明な「本当の私」が存在するという素朴な自己観に疑問を投げかけているからである。ただし、ここから先で二人の方向は大きく分かれていく。

三島は「一致」を求め、平野は「複数性」を受け入れる

 三島の文学をたどると、内面と外面、思想と行為、言葉と身体のあいだに生じるずれを、そのまま放置できない作家だったことが見えてくる。平野自身も三島論の中で、三島が肉体の一回性や個体性を重視し、認識と行動、思想と人生を一致させようとした問題を論じている。

 この観点から『金閣寺』を読むと、主人公の溝口が金閣について考え続けるだけでは終われず、最後には放火という行為へ進むことにも、一つの筋が見えてくる。美について認識するだけでは世界は変わらず、言葉によって考えたことを行為へ変換しなければならない。もちろん、これは放火という行為を肯定するという意味ではない。重要なのは、三島文学の内部で「考えること」と「行うこと」の距離そのものが重大な問題になっていることである。

 平野は、この地点から別の方向へ進んだように見える。平野の分人主義では、人間が一つの矛盾のない人格へ収束することは必ずしも理想ではない。仕事場の自分と家庭での自分が違っていても、それだけで人格が破綻しているわけではなく、むしろ人間が複数の関係の中で生きている以上、その違いは自然に生じる。

 ここで「三島は一つの自己を完成させようとした」と断定してしまうと、三島文学を単純化しすぎる。より慎重に言えば、三島には、内面と外面、認識と行為、思想と人生の乖離を克服し、それらを一つの生の中で一致させようとする強い志向があった。それに対して平野は、人間が複数の関係の中で異なる人格を持つこと自体を否定せず、むしろその複数性を自己の構造として引き受けようとしているのである。

 同じ「私は誰なのか」という問いから出発しながら、三島は自己の不一致に緊張し、平野は自己の複数性に居場所を与えた。この対照こそ、二人を比較する最も面白い地点の一つだろう。

三島が身体へ向かったとき、平野は関係へ向かった

 三島にとって、言葉だけでは自己を保証できないという問題は次第に大きくなっていった。小説家は勇気について書くことも、美について語ることも、死を描くこともできる。しかし文章を書いている身体は、その間も安全な椅子に座って生きている。言葉で語る自分と、現実の身体として存在する自分との距離は消えない。

 だから三島にとって身体は単なる健康や美貌の問題ではなかった。身体を鍛え、自らを写真にさらし、肉体を一つの表現として提示したことは、言葉の世界だけに存在する作家から、現実の肉体を持つ主体へ近づこうとした試みとして読むことができる。『太陽と鉄』において言葉と肉体の関係が正面から問題になるのも、その延長線上にある。

 一方、平野が自己を考えるときに前面へ出てくるのは、身体そのものよりも他者との関係である。『マチネの終わりに』では、一人の相手と出会ったことによって、それ以前とは異なる自分が生まれる。『ある男』では、名前や戸籍や過去の物語が揺らいだとき、それでもその人物を同じ一人として愛せるのかが問われる。『本心』では、死んだ母を技術によって再現しようとする試みを通じて、最も親しい相手でさえ、その「本心」を完全には知ることができないという他者性が浮かび上がる。

 三島が自己の一貫性を支える場所を、より身体や行為の側へ求めたとすれば、平野はより関係の側から人間を考えている。この違いは決して小さくない。身体は原則として一人に一つしかなく、その人生には取り返すことのできない一回性があるが、関係は複数存在し、新しい関係の中では新しい分人が生まれる可能性があるからである。

「人生の決定版」を求める文学と、過去を書き換える文学

 三島の作品にはしばしば、一回的で決定的な瞬間への強い関心が現れる。美が最も美しく見える瞬間、認識が行為へ転化する瞬間、人間が後戻りできない決断をする瞬間である。そのため三島文学では、「一度きりであること」が独特の緊張を生み出す。

 ただし、三島を「瞬間だけを愛した作家」と決めつけることはできない。『豊饒の海』のように、長い時間、記憶、老い、転生を扱った作品もあり、三島の時間意識はもっと複雑である。それでも、取り返しのつかない行為や人生の一回性が、三島文学で重要な位置を占めていることは否定しにくい。

 これに対して平野の小説では、ある出来事が起きた「あと」で、その意味がどう変化するのかが大きな問題になることが多い。恋愛が思い通りに終わらなかったあと、かつて愛した相手について知らなかった事実を知ったあと、死者の言葉を別の角度から理解したあと、過去そのものは変わらなくても、現在の自分が変化することで過去の意味は書き換えられていく。

 この違いを、「三島は決定的瞬間を愛し、平野はその後を考える」と完全に二分してしまうのは乱暴だろう。しかし、三島が人生の一回性や取り返しのつかない行為に強く引き寄せられたのに対して、平野は出来事の意味がその後の人生によって変化し続けることに、より大きな関心を寄せていると読むことはできる。

 そう考えると、二人の人間観の違いは時間の捉え方にも表れている。三島の作品では、ある瞬間が人生全体を決定してしまうことがあるが、平野の作品では、一度決まったはずの人生の意味が後から変わっていく。人生には最終稿がなく、現在が変われば過去の読み方も変わるという感覚が、平野の小説には強く流れている。

二人とも「私は誰か」を考えすぎる作家である

 ここまで相違点を追ってくると、三島と平野は正反対の作家のように見えてくる。しかし、不思議なことに、正反対だからこそ二人はよく似ている。

 そもそも、人間は日常生活を送るだけなら、「私は誰なのか」をここまで執拗に考える必要はない。朝起きて仕事をし、人と話し、食事をし、眠るだけなら、自己とは何かという問題を毎日問い直さなくても生活は成立する。ところが三島も平野も、その問いからなかなか離れない。

 『仮面の告白』では、社会の中で演じている自己と内面の自己との関係が問題となり、『金閣寺』では、美を認識する自己と現実へ働きかける自己との裂け目が描かれる。さらに『豊饒の海』まで進めば、同じ人物であることを保証するものは身体なのか、記憶なのか、それとも別の何かなのかという、自己同一性そのものの問題が姿を現す。

 平野の場合も、『ドーン』『マチネの終わりに』『ある男』『本心』と作品を追っていけば、別の角度から同じ問いが繰り返されていることに気づく。人は他者との関係によって変化する。それでも同じ人物なのか。過去が嘘だったと分かったとき、その人は別人になるのか。最も愛している人についてさえ理解できない部分が残るのなら、そもそも「本当のその人」とは何なのか。

 二人とも、安定した一つの自己という考えを簡単には信用していない。しかし、そこから導く答えが違う。三島は不一致を強く意識し、その裂け目を身体や行為によって埋めようとする方向へ進んだ。平野は裂け目を消すよりも、人間そのものが複数の関係によって成り立っていると考えることで、その複数性を引き受けようとする。

「仮面」は「分人」になったのか

 三島の「仮面」から平野の「分人主義」が直接生まれた、と考えることには慎重でなければならない。平野の思想には三島だけでは説明できないさまざまな背景があり、両者の間に単純な思想的継承関係を設定する資料的根拠も十分ではない。

 しかし、影響関係を証明するのではなく、二つの人間観を比較するという意味ならば、「仮面」と「分人」を並べることには大きな意味がある。三島の『仮面の告白』では、社会のために始めた演技が本人の一部になってしまうという逆説が描かれる。そこからさらに一歩進めて、「そもそも仮面の奥に唯一の素顔があると考える必要があるのか」と問うたところに、平野の分人主義を置いてみることができる。

 恋人といる自分、仕事をしている自分、親といる自分、昔の友人といる自分を、一枚ずつ偽物の仮面として剥がしていっても、最後に誰にも影響されていない純粋な「本当の私」が現れる保証はない。むしろ人間は、そうした複数の関係によって作られているのではないかというのが、平野の側から見た自己の姿である。

 この地点から振り返ると、三島と平野は同じ問いに対して異なる回答を出した作家として見えてくる。三島は、内面と外面、思想と行為、言葉と身体がばらばらであることに耐え難い緊張を感じ、その一致を求め続けた。平野は、人間がそもそも複数であることを前提に、その複数性のまま生きる方法を考えようとした。

 だから、平野啓一郎が三島由紀夫から受け取った最も重要なものを一つ挙げるとすれば、それは必ずしも華麗な文体でも、美に対する感覚でもなかったのかもしれない。「人間とは、いったい誰なのか」という問いそのものだった、と考えてみることができる。

 三島は、その問いに対して、人生を一つの形へ近づけようとした。平野は、その問いに対して、一つの形に収まらないことこそ人間なのだと考えた。ここに単純な継承関係があるわけではなく、むしろ一方の問いが、別の時代に別の答えを引き出したと見る方が自然である。

 そう考えて『仮面の告白』と『ある男』を並べてみると、時代も物語もまったく違う二つの小説が、遠い場所で同じ問いを交わしているように思えてくる。

 「本当の自分は、どこにいるのか」。

 その問いに対して三島は、一生をかけて一つの答えを形にしようとした。そして平野は、その問いの立て方そのものを変えようとしているのかもしれない。本当の自分を一人だけ探すのではなく、誰かといるときに生まれるいくつもの自分を、そのまま自分として引き受ければよいのではないか、と。

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三島由紀夫の『金閣寺』を読み終えたとき、もっとも大きな疑問として残るのは、主人公・溝口がなぜ金閣を燃やしたのかということである。

金閣が嫌いだったからではない。むしろ逆である。

溝口にとって金閣は、幼いころから憧れ続けた、この世でもっとも美しいものだった。それほど愛し、崇拝した存在を、なぜ最後には自らの手で焼き払わなければならなかったのか。

この矛盾を理解するには、『金閣寺』を単なる放火事件の小説として読むのではなく、「美に支配された人間が、その支配から逃れようとする物語」として読む必要がある。

金閣は最初から現実の建物ではなかった

溝口にとって金閣は、実物を見る以前から特別な存在だった。

父親から金閣の美しさについて繰り返し聞かされるうちに、少年の心の中には現実の建築物とは別の「理想の金閣」が作られていく。

ここが重要である。

普通であれば、人は美しいものを見て感動する。しかし溝口の場合、順序が逆だった。実物を見る前に、頭の中ですでに絶対的な美が完成していたのである。

そのため、実際の金閣を初めて見たとき、現実の建物は想像していたほど圧倒的ではない。

ところが、それによって金閣への信仰が消えるわけではない。むしろ時間が経つにつれて、現実の金閣と心の中の金閣が再び重なり、彼にとって金閣は単なる寺院ではなくなっていく。

金閣は「美そのもの」に近い存在になっていった。

そして、この美が次第に溝口の人生を支配する。

溝口は自分自身を「美の反対側」に置いている

溝口には吃音がある。

彼にとって吃音は単なる話しにくさではない。自分と他人との間にある壁として意識されている。

言葉を自由に発することができないため、他者との関係に自信を持てない。そこから、自分は周囲の人間とは違うという意識が強くなっていく。

さらに溝口は、自分自身を美しい人間だとは考えていない。

つまり彼の世界には、

完全な美としての金閣

と、

不完全な存在としての自分

という対立がある。

この距離が大きければ大きいほど、金閣は美しくなる。

しかし同時に、自分自身は惨めになる。

金閣を愛することと、自分を否定することが、溝口の中ではほとんど同じことになってしまうのである。

この構造が、『金閣寺』の悲劇の中心にある。

金閣は溝口が現実へ進むことを妨げる

さらに重要なのは、金閣が単に眺める対象ではなく、溝口の行動を阻む存在として描かれていくことである。

溝口は女性との関係を持とうとする。しかし現実の世界に踏み込もうとする重要な場面になると、彼の意識の中に金閣が現れる。

本来、美しいものは人生を豊かにするはずである。

ところが溝口の場合は逆だった。

金閣の美しさがあまりに完全であるため、現実の恋愛や欲望、人間関係がすべて不完全なものに見えてしまう。

現実の女性より金閣のほうが美しい。

現実の経験より、頭の中にある美のほうが完全である。

そうなると、人は現実を生きられなくなる。

金閣は溝口にとって憧れであると同時に、現実世界へ出ていくことを妨げる巨大な壁になっていった。

戦争中、溝口は金閣が焼けることを期待していた

『金閣寺』を理解するうえで見逃せないのが、戦争である。

太平洋戦争末期、京都も空襲を受ける可能性があった。金閣もいつ焼失するかわからない。

この状況は、溝口に奇妙な感覚を与える。

永遠に存在するように思われた金閣が、戦争によって失われるかもしれない。

つまり、自分と金閣が同じ「滅びる世界」に存在することになる。

それまで金閣は、自分とは別の次元にある絶対的な美だった。しかし焼失する可能性を持った瞬間、金閣もまた有限な存在になる。

溝口にとって、それはある意味で救いだった。

ところが戦争は終わり、金閣は焼けなかった。

人間が死に、都市が焼かれ、社会が大きく変わったにもかかわらず、金閣は以前と同じ姿で残った。

ここで金閣は再び、溝口の前に圧倒的な存在として立ちはだかる。

自分の人生は変化する。

人間は老い、失敗し、死ぬ。

しかし金閣は変わらない。

この不均衡が、溝口にとって次第に耐え難いものになっていく。

「美しいから壊したい」という逆説

普通に考えれば、美しいものは保存したいと思う。

しかし『金閣寺』では、美が完全であればあるほど、それを破壊したいという逆説が生まれる。

なぜか。

金閣が存在し続ける限り、溝口は金閣と比較され続けるからである。

もちろん、実際に誰かが彼と金閣を比較しているわけではない。比較しているのは溝口自身である。

金閣を見るたびに、自分の不完全さが意識される。

金閣が美しければ美しいほど、自分の人生が貧弱に感じられる。

つまり溝口にとって、

金閣の存在=自分の劣等感を永続させる装置

になってしまった。

そう考えると、彼に残された選択肢は極端なものになる。

自分自身を変えるか。

金閣を消すか。

現実の人間関係を通じて自分を変えていくことができなかった溝口は、後者を選ぶ。

それが放火だった。

金閣を燃やすことは「美を所有する」ことでもあった

しかし、単に金閣が邪魔だから燃やしたと考えるだけでは、『金閣寺』の複雑さは十分に説明できない。

放火には、もう一つの意味がある。

それは、金閣を自分の行為の中へ取り込むことである。

それまで金閣は、溝口とは関係なく存在していた。

彼が苦しんでも、恋愛に失敗しても、人生に絶望しても、金閣は変わらない。

その意味で、金閣は溝口を必要としていない。

しかし自分が火をつければ事情は変わる。

金閣の運命を決めるのは溝口になる。

崇拝するだけだった人間が、美しいものの生死を決定する側へ回るのである。

これは非常に歪んだ形ではあるが、金閣を自分のものにしようとする行為とも解釈できる。

手に入らないものを破壊することで、初めてその存在に決定的に関与する。

溝口にとって放火は、美から逃げる行為であると同時に、美をもっとも強烈な形で自分と結び付ける行為でもあった。

柏木は「現実を生きる別の方法」を見せる

作品の中で溝口と対照的な人物が柏木である。

柏木もまた、自分の身体に強いコンプレックスを持っている。

しかし、そのコンプレックスへの向き合い方が溝口とは違う。

溝口が自分の劣等感によって現実から遠ざかっていくのに対し、柏木はむしろそれを利用しながら現実の人間関係の中へ入っていく。

倫理的に好ましい人物として描かれているわけではない。

それでも、柏木は「不完全な自分のまま現実を生きる」ことができる。

溝口には、それができない。

彼は完全な美にこだわり続ける。

ここに二人の決定的な違いがある。

人間は本来、不完全な存在である。

恋愛も友情も身体も人生も、不完全である。

柏木はその不完全さの中で生きる。

溝口はそれを受け入れられない。

だから最後には、不完全な自分ではなく、完全な美のほうを破壊することになる。

金閣放火は自殺ではなかった

物語の終盤で重要なのは、溝口が金閣とともに死ななかったことである。

放火という行為だけを見れば、破滅へ向かう物語のようにも見える。

しかし最後に残るのは、むしろ「生きる」という方向である。

ここに『金閣寺』の大きな転換がある。

溝口は金閣を燃やすことで、自分を支配していた絶対的な美を消した。

その結果、彼の前には不完全な現実だけが残る。

しかし、それこそが人間が生きる世界なのである。

美しくないかもしれない。

理想的でもない。

失敗するかもしれない。

それでも、自分自身が行動できる世界である。

したがって、金閣放火は単純な破滅ではない。

溝口にとっては、極端で犯罪的な方法ではあるものの、現実の人生へ戻ろうとする行為でもあったと考えることができる。

なぜ溝口は金閣を燃やしたのか

結局、溝口が金閣を燃やした理由を一つだけに絞ることはできない。

金閣への憎しみだけでもなければ、単純な劣等感だけでもない。

彼は金閣を愛していた。

しかし、その美しさに支配されていた。

金閣が完全であるほど、自分が不完全に見えた。

金閣が永遠であるほど、自分の人生が無意味に感じられた。

そして金閣が存在する限り、自分は現実の世界へ踏み出すことができないと考えるようになった。

だから彼は、美を手に入れようとするのではなく、美そのものを消すことを選んだ。

『金閣寺』の放火を理解する鍵は、ここにある。

溝口は金閣が醜かったから燃やしたのではない。美しすぎたから燃やしたのである。

そして、その美を破壊した先で初めて、完全ではない自分自身の人生を生きようとした。

『金閣寺』は、美とは何かを描いた小説であると同時に、さらに逆説的な問いを私たちに突きつける。

人間は、あまりにも完全な美を前にして、それでも自由に生きることができるのだろうか。

金閣を燃やした溝口の行動は決して肯定できない。

しかし、三島由紀夫が描こうとしたのは犯罪の是非だけではない。

人間が理想を絶対化したとき、その理想は憧れから支配へ変わることがある。

そして『金閣寺』は、その支配から逃れるために「美そのものを破壊する」という極端な地点まで追い詰められた一人の青年を描いた小説なのである。

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三島は右、大江は左。それだけで二人を理解できるのか

三島由紀夫と大江健三郎。

戦後日本文学を代表する作家として、この二人ほど対照的に語られやすい人物も少ない。

三島由紀夫。

天皇。

日本文化。

自衛隊。

楯の会。

1970年11月25日の市ヶ谷での行動と自決。

一方、大江健三郎。

戦後民主主義。

広島。

核兵器。

平和。

憲法。

1994年のノーベル文学賞。

このように並べれば、

三島=保守・右翼 大江=リベラル・左派

という構図が成立するように見える。

政治的位置を大きく整理するなら、この違いを無視することはできない。

しかし、それだけで二人を比較すると、非常に重要な部分が見えなくなる。

なぜなら二人とも、

「敗戦後の日本とは何なのか」

という同じ巨大な問題から出発しているからである。

三島は、戦後日本によって失われたものを見ようとした。

大江は、敗戦後に獲得されたものを守り、さらに徹底しようとした。

三島は、

日本文化、

天皇、

歴史、

身体、

死、

国家、

へ向かった。

大江は、

民主主義、

個人、

核、

広島、

沖縄、

少数者、

へ向かった。

方向は大きく異なる。

しかし二人とも、

経済的に豊かになれば、それで戦後日本は完成する、

とは考えなかった。

だからこの二人を比較する意味は、

どちらが正しかったかを決めることではない。

同じ戦後日本を見ながら、なぜこれほど異なる答えへ到達したのか。

そこを考えることにある。

1 二人は同じ「戦後作家」でも世代が少し違う

三島由紀夫は1925年生まれである。

大江健三郎は1935年生まれである。大江は1994年にノーベル文学賞を受賞し、2023年に87歳で亡くなった。ノーベル財団も1935年1月31日生まれ、2023年3月3日没としている。

二人の年齢差は10歳である。

この10年は大きい。

三島は敗戦時に20歳だった。

大江は10歳だった。

つまり三島には、

戦前から戦後へ、自分自身の青年期の途中で世界が断絶した

という経験がある。

一方、大江の場合には、

敗戦後の新しい日本で青年期を形成した

という側面が強い。

大江自身も1994年のノーベル賞講演で、第二次世界大戦中、四国の山村で少年時代を送っていたことから語り始めている。

この世代差は、二人の戦後観を考える重要な前提になる。

2 三島にとっての戦後~「何かが失われた」という感覚

三島の文学や評論を読むと、

戦後日本に対する強い違和感が繰り返し現れる。

もちろん三島を、

「昔の日本へ戻りたかっただけの作家」

と整理することはできない。

三島自身は西欧文学を深く読み、非常に近代的な小説技法を使った作家でもある。

しかし政治・文化論では、

日本の歴史と文化が、

戦後の社会の中でどのように連続するのか、

という問題を強く意識した。

その代表的な文章の一つが『文化防衛論』である。

同書は1969年に刊行され、戦後文化が成熟し学生運動も激しかった時期に、「最後に護られねばならぬ日本」をめぐって展開された評論・対談などを収録している。

三島にとって重要だったのは、

日本が経済成長することだけではない。

日本が日本であり続けるとはどういうことなのか

という問題だった。

3 大江にとっての戦後~「新しく始めることのできる日本」

一方、大江にとって戦後は違う意味を持った。

大江は戦後日本の民主主義を、自分自身の思想形成に深く関係するものとして受け止めた。

その背景には、

敗戦、

戦争体験、

広島・長崎、

日本国憲法、

といった問題がある。

大江は1994年のノーベル賞講演を「Japan, the Ambiguous, and Myself」、日本語では一般に『あいまいな日本の私』として知られる題で行った。そこでは、日本が近代化の中で西洋との関係に引き裂かれ、戦後には民主主義と非軍事化を新しい方向として選んだことについて論じている。

つまり大江にとって戦後は、

失われた伝統を回復する時代

というより、

戦前とは異なる原理によって日本を作り直す可能性

を持った時代だった。

ここに三島との大きな分岐がある。

4 しかし二人とも「戦後日本はこれでよい」とは考えなかった

この違いだけを見ると、

三島は戦後を否定し、

大江は戦後を肯定した、

と整理したくなる。

しかし、それも単純すぎる。

大江は戦後日本の現実を無条件に肯定したわけではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

国家。

少数者。

こうした問題について、戦後日本が掲げた民主主義や平和主義を本当に実現しているのかを繰り返し問うた。

東京大学の大江健三郎文庫には、原稿・関連資料・書誌情報が保存されており、大江の文学と公共的活動を研究する基盤になっている。 つまり大江も、

現実の戦後日本

と、

戦後日本が掲げた理念

の間に大きな距離を見ていた。

その点では三島と共通している。

二人とも、

現実の日本に満足していなかった。

違ったのは、

何を基準に現実を批判したのか

なのである。

5 三島は「失われた連続性」から戦後を批判した

三島の戦後批判を大きく整理すれば、

戦後によって、

歴史、

文化、

天皇、

国家、

身体、

死、

といったものの意味が切断されたのではないか、

という問題になる。

三島の天皇論は、単純に戦前の政治制度をそのまま復活させようという議論と同一ではない。

『文化防衛論』を中心とする三島の天皇論については、天皇を文化概念として捉える側面が研究されている。

三島にとって天皇は、

単なる行政権力者というより、

日本文化の歴史的連続性を象徴する存在

として重要だった。

ここを理解しないと、

三島=天皇制支持

という政治ラベルだけになってしまう。

6 大江は「戦後民主主義の未完成」から日本を批判した

大江の場合は逆方向である。

大江が基準にしたのは、

民主主義、

個人の尊厳、

平和、

核への抵抗、

などだった。

戦後日本がそうした理念を掲げた以上、

現実の日本もその原理へ近づくべきだ、

と考える。

だから大江にとって問題なのは、

戦後によって伝統が失われたこと

というより、

戦後が掲げた理念が十分に実現されていないこと

だった。

つまり二人の批判は、

三島~

「戦後によって何を失ったのか」

大江~

「戦後が約束したものを本当に実現したのか」

という違いとして考えることができる。

7 三島にとって「天皇」は何だったのか

三島を語る場合、天皇の問題を避けることはできない。

しかし、

三島は天皇を政治的独裁者にしようとした、

と単純化するのも適切ではない。

三島の政治・文化論における天皇は、

日本の歴史、

祭祀、

文化、

共同体、

と結び付いた存在として考えられている。

彼が問題視したのは、

戦後日本が、

経済、

消費、

生活水準、

という方向では豊かになる一方、

自分たちが何を共有する国家なのかを説明できなくなること

だった。

ここで天皇が、

文化的な統合原理として現れる。

もちろん、この考え方には多くの批判があり得る。

日本文化を一つの原理へまとめることが可能なのか。

文化的多様性をどう扱うのか。

天皇を共有しない人々はどう位置付けられるのか。

こうした問題は残る。

8 大江にとって「民主主義」は何だったのか

大江にとって民主主義は、

単なる政治制度ではなかった。

戦後を生きる人間の基本的な価値に近い。

大江はノーベル賞講演でも、日本が戦後に民主主義と非軍事化を自らの新しい道として選んだことを重視している。

ここには三島との鮮明な違いがある。

三島は、

戦後制度だけでは日本の文化的根拠を支えられない、

と考える。

大江は、

戦後民主主義こそ、過去の破局を繰り返さないための重要な原理だ、

と考える。

二人は同じ「戦後」を、

ほぼ逆方向から評価したのである。

9 文化勲章辞退に表れた大江の立場

1994年、大江はノーベル文学賞を受賞した。

同じ年、日本国内では文化勲章の授与を辞退したことでも大きく注目された。

当時報じられた理由は、自分は戦後民主主義の人間であり、民主主義に勝る権威や価値観を認めないという趣旨のものだった。

この行動は、

大江が単に政治について発言する作家だったのではなく、

自分自身の公的な立場についても、戦後民主主義との整合性を意識していた

ことを象徴する出来事として読むことができる。

三島が天皇を文化的な中心として考えたのに対し、

大江は国家的・天皇的権威より民主主義の価値を優先した。

ここでは両者の違いが極めて鮮明になる。

10 しかし三島も単純な「国家権力礼賛」ではない

ここで三島についても注意が必要である。

三島を、

国家権力を無条件に支持した作家

とするのは正確ではない。

三島は戦後日本の国家そのものに強い不満を持っていた。

その不満の対象には、

日本国憲法、

安全保障、

自衛隊の位置付け、

対米関係、

などがあった。

つまり三島は、

当時の日本国家を守ろうとしたというより、

当時の日本国家を不完全なものとして批判していた

のである。

だから三島の国家観は、

現状維持型の保守主義

とも少し違う。

11 三島事件~文学と政治が最終的に重なった瞬間

1970年11月25日、三島は楯の会の会員4人とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ入り、東部方面総監を拘束し、自衛隊員に向けて演説した後、自決した。毎日新聞の写真資料にも同日の事件が記録されている。

三島の最後の声明文「檄」は全集にも収録されている。国立国会図書館のレファレンス事例でも、その所在が確認されている。

ここでは三島の文学、

身体、

死、

国家、

政治、

が一つの行為へ重なった。

だから三島を読む場合、

文学作品と政治行動を完全に切り離すことも難しい。

しかし逆に、

すべての小説を1970年の自決から逆算して読むことも危険

である。

三島文学は政治思想だけでは説明できないからである。

12 大江は「行動する文学者」だったが、方法は三島と正反対だった

大江も文学だけに閉じこもった作家ではない。

核兵器。

広島。

沖縄。

憲法。

社会問題。

などについて長期間公的発言を続けた。

しかし方法は三島と大きく異なる。

大江が選んだのは、

文章。

講演。

市民運動。

社会的発言。

といった方法だった。

三島の場合には、

最終的に身体そのものを政治的表現へ変えた。

大江の場合には、

言葉と市民社会の中で主張し続けること

を選んだ。

この対照は非常に大きい。

13 「身体」の三島と「言葉」の大江

三島文学を考える上で身体は重要である。

三島自身、肉体鍛錬を行い、

身体、

美、

死、

行為、

を結び付けていった。

彼には、

言葉だけでは現実へ到達できない、

という感覚が強くなっていったと読むことができる。

一方、大江は極めて言語的な作家である。

複雑な文章。

自己検証。

引用。

歴史。

政治。

文学。

を通して問題を考える。

大きく整理すれば、

三島は、

言葉を身体と行動へ近づけようとした作家

であり、

大江は、

言葉によって世界の複雑さを引き受け続けようとした作家

と見ることもできる。

ただしこれは比較のための整理であり、二人の全作品をこの一点へ還元することはできない。

14 三島の「明晰さ」と大江の「あいまいさ」

文章の方向にも興味深い違いがある。

三島は、

美。

死。

天皇。

文化。

国家。

といった概念を、

非常に強い輪郭を持たせて提示する傾向がある。

大江は逆に、

矛盾。

曖昧さ。

複数の声。

弱さ。

周縁。

を残そうとする。

1994年のノーベル賞講演で、大江が自ら選んだ言葉が、

「ambiguous」~あいまいな

だったことは象徴的である。

大江は、日本を一つの明確な本質によって定義することそのものへ慎重だった。

ここにも三島との差が見える。

15 三島は「日本とは何か」を一つの中心から考えようとした

三島にとって、

日本文化には何らかの中心が存在する。

歴史。

伝統。

天皇。

古典芸能。

武士的倫理。

そうしたものを通して日本を考える。

だから三島の思考は、

中心を探す思考

だと言える。

日本とは何か。

何を守れば日本なのか。

何が失われれば日本ではなくなるのか。

という問いである。

『文化防衛論』という題名そのものが、

守るべき文化が存在する

という前提に立っている。

16 大江は「中心から外された人」から日本を考えた

大江の文学には、

周縁に置かれた存在が繰り返し現れる。

社会から外れた人。

弱い人。

障害を持つ人。

地方。

広島の被爆者。

国家の中心的物語から外れる人々。

大江は、

日本の中心とは何か

という問いより、

中心から見えなくなっている人間は誰か

という方向へ向かう。

ここに三島との根本的な違いがある。

三島は中心を回復しようとする。

大江は中心によって消されるものを見ようとする。

17 広島~大江が戦後日本を見る重要な場所

大江の思想と文学を考える上で、広島は極めて重要である。

『ヒロシマ・ノート』などを通じて、大江は被爆者や核兵器の問題を長期間考え続けた。

大江にとって広島は、

過去の一事件

ではない。

近代国家。

戦争。

科学。

核。

人間の尊厳。

を問い続ける場所である。

ここから大江の平和・核に関する社会的発言もつながっていく。

三島が、

日本文化の断絶

を戦後の核心問題として見るとすれば、

大江は、

戦争と核の経験を経た国家が、どうすれば再び人間を犠牲にしない社会になれるのか

を重要な問題とした。

18 二人の「日本」はどちらも単純な現状肯定ではない

ここまでを見ると、

三島は日本を愛した。

大江は日本を批判した。

という対立に見えるかもしれない。

しかしこれも違う。

三島は現実の日本を激しく批判した。

大江も日本社会を批判しながら、日本語で日本社会について書き続けた。

つまり二人とも、

現実の日本と、自分が望む日本との距離

に苦しんだ作家である。

違うのは理想像だった。

三島~

文化的連続性を回復した日本。

大江~

戦後民主主義をより徹底した日本。

という方向である。

19 二人とも「経済成長だけでは人間は満たされない」と考えた

戦後日本は高度経済成長によって急速に豊かになった。

生活水準が向上する。

消費社会が拡大する。

都市化が進む。

しかし三島も大江も、

経済成長だけで日本社会の問題が解決した

とは考えなかった。

三島には、

豊かさの中で文化的中心が失われる、

という危機感があった。

大江には、

経済的繁栄の背後に、

広島、

沖縄、

核、

社会的弱者、

などの問題が残されるという意識があった。

したがって二人は、

政治思想は反対でも、

高度成長社会への違和感

という点では意外に近い。

20 三島は「強さ」を、大江は「弱さ」をどう見たか

二人の文学を比較すると、

人間の強さと弱さに対する視線にも違いがある。

三島の作品では、

美しい身体。

意志。

決断。

死。

英雄性。

といったものが強い魅力を持つ。

もちろん三島文学には弱い人間も多く登場するが、その弱さと理想的な美との緊張が作品を生む。

一方、大江文学では、

弱さ。

傷。

障害。

失敗。

周縁。

を抱えた人間が重要になる。

大江は、

弱さを克服して完全な人間になる、

という方向だけではなく、

弱さを抱えたまま他者と生きる可能性

を探る。

ここにも二人の戦後的人間像の違いがある。

21 「個人」を重視する点では意外に共通している

それでも二人には重要な共通点がある。

どちらも、

国家や社会の中へ完全に溶け込んだ人間

を描いた作家ではない。

三島の登場人物も、

社会から孤立する。

欲望を抱える。

美への執着を持つ。

自分だけの世界を作る。

大江の登場人物も、

社会の中で葛藤し、

個人として選択を迫られる。

二人とも、

近代的な「個人」の孤独を描いた作家

なのである。

ここを見ると、

三島=集団主義、

大江=個人主義、

と単純には分けられない。

22 なぜ作家が政治について語ったのか

現在では、

小説家は文学だけを書けばよい。

政治は政治学者へ任せればよい。

という考え方もある。

しかし三島と大江の時代には、

文学者が社会問題について公に語ることは現在ほど珍しくなかった。

それは、

戦後日本において作家が、

人間、

社会、

国家、

歴史、

について考える公共的知識人でもあったからである。

三島と大江は、その意味で二人とも、

戦後型知識人としての作家

だった。

思想は反対でも、

「作家は社会について語る資格と責任を持つ」

という点では共通していたと見ることができる。

23 三島の行動は文学によって正当化されるのか

三島について語る場合、一つ慎重に区別しなければならない。

優れた文学を書いたこと

と、

政治行動が正しかったこと

は別である。

文学的価値によって、

1970年の行動を政治的に正当化することはできない。

逆に、

政治的立場に反対だから文学作品にも価値がない、

ということにもならない。

ここは重要である。

作品の評価と政治行動の評価は、関連させながらも区別する必要がある。

それをしなければ、

三島支持=文学評価、

三島批判=文学否定、

という不毛な二択になってしまう。

24 大江の政治的発言も文学的権威だけで正しいとは言えない

これは大江についても同じである。

ノーベル文学賞を受賞したからといって、

大江の政治的主張が自動的に正しいわけではない。

文学的才能。

社会分析。

政治判断。

は別の能力である。

したがって大江の、

核。

憲法。

沖縄。

国家。

についての主張も、

内容それ自体によって検討されるべき

である。

この区別をしなければ、

ノーベル賞作家だから正しい、

という権威主義になってしまう。

二人を公平に比較するためには、

三島についても大江についても、

作家としての評価と政治的評価を分ける必要がある。

25 二人は本当に「正反対」だったのか

ここで記事の題名へ戻ろう。

三島と大江は、

戦後日本を正反対の方向から考えた二人

なのか。

大きな政治的方向としては、

確かに非常に遠い。

天皇。

憲法。

軍事。

戦後民主主義。

国家。

について、二人の立場には大きな隔たりがある。

しかし、

問題意識の深い部分では共通点もある。

二人とも、

戦後日本とは何か

を問い続けた。

二人とも、

経済成長だけでは社会を評価しなかった。

二人とも、

文学を社会から隔離しなかった。

二人とも、

国家と個人の関係を考えた。

二人とも、

戦後日本に何らかの「欠落」を感じていた。

ただし、その欠落の名前が違った。

26 三島が見た欠落、大江が見た欠落

整理すると分かりやすい。

三島が見た欠落は、

歴史的連続性。

文化的中心。

天皇。

国家としての自立。

身体と行為。

だった。

大江が見た欠落は、

民主主義の徹底。

戦争責任。

被爆者への視線。

核への抵抗。

少数者や周縁への視線。

だった。

つまり、

二人は違う日本を見ていた、

というより、

同じ日本の中で、違う欠落を見ていた

と考える方がよい。

27 三島は過去から未来を作ろうとした

三島の方向を簡潔に表すなら、

過去との連続性を取り戻すことで未来を作ろうとした

と言える。

古典。

伝統。

天皇。

武士。

身体。

そうした歴史的・文化的資源を現代へ取り戻す。

もちろん単純な復古ではない。

三島自身は極めて近代的な作家だったからである。

むしろ、

近代化した日本が、

それでも日本として何を保持できるのか

を問う。

これは、

過去を使って未来を考える方法だった。

28 大江は戦後の理念を徹底することで未来を作ろうとした

大江の場合は違う。

敗戦後に日本が掲げた、

民主主義。

平和。

個人の尊厳。

を、

不十分だから捨てるのではなく、

不十分だからこそ徹底する

方向へ向かう。

過去の日本へ戻るのではない。

戦後日本が始めたものを完成に近づける。

だから大江の未来像は、

戦後の否定

ではなく、

戦後民主主義の自己修正

に近い。

ここが二人の決定的な分岐である。

29 現代から見ると、どちらの問いもまだ終わっていない

三島が問いかけた、

日本文化とは何か。

国家として自立するとは何か。

歴史と現代をどう接続するのか。

という問題は、現在も消えていない。

一方、大江が問い続けた、

核兵器。

戦争。

民主主義。

個人の尊厳。

少数者。

という問題も消えていない。

つまり二人の「答え」は違っても、

二人が設定した問いそのものは現在にも残っている。

これが、二人が今も読まれる大きな理由の一つだろう。

30 二人の対立を「右対左」に閉じ込めない

三島と大江を比較するとき、最も簡単なのは、

右翼対左翼。

保守対リベラル。

天皇対民主主義。

という図式である。

しかし、それだけでは文学評論として浅い。

なぜなら、

三島の文学には個人の孤独や欲望がある。

大江の文学にも国家や共同体への強い関心がある。

二人とも西欧文学の強い影響を受けながら日本について考えた。

二人とも戦後日本を国際社会の中から見ている。

つまり、

単純な日本主義対西洋主義

でもない。

二人の思想はもっと複雑である。

31 「どちらが正しかったか」ではなく、「何が見えたか」を比較する

思想家や作家を比較すると、

最終的に、

どちらが正しいか

を決めたくなる。

しかし文学を読む場合、それだけが目的ではない。

三島の視点から見ると、

戦後日本の、

文化的断絶。

歴史。

国家。

身体。

という問題が見える。

大江の視点から見ると、

戦後日本の、

民主主義。

被爆。

弱者。

核。

周縁。

という問題が見える。

つまり、

違う思想を読むことによって、同じ社会の違う部分が見える。

ここに二人を並べる意味がある。

32 三島だけを読む危険、大江だけを読む危険

三島だけから戦後日本を見ると、

伝統や国家の問題はよく見える。

しかし、

国家によって傷つけられる人、

少数者、

戦争被害、

という問題が弱くなる危険がある。

一方、大江だけから見ると、

民主主義、

平和、

弱者、

という問題はよく見える。

しかし、

共同体の歴史、

伝統、

国家的帰属、

文化的連続性、

といった問題を十分に説明できない場合がある。

だから、

二人を並べる。

賛成するためではない。

一人の視点によって見えなくなるものを、もう一人によって補うためである。

33 現代の分断社会に二人を読む意味

現在の社会では、

自分と同じ意見だけを読むことが容易になっている。

SNSでは、

自分が賛成する人をフォローする。

反対する人を遮断する。

似た思想の情報が集まる。

その結果、

相手の考えがなぜ成立するのか

を理解する機会が減る。

三島と大江を同時に読むことには、

この問題への一つの意味がある。

二人は簡単には統合できない。

どちらか一方を選べば済むわけでもない。

だからこそ、

両方を読んで、自分の中に矛盾した問いを残す。

それ自体が教養の一つの形になる。

結論~二人は「違う日本」を望んだのではなく、「日本の違う欠落」を見ていた

三島由紀夫と大江健三郎。

政治的位置から見れば、

二人は確かに遠い。

三島は、

日本文化、

天皇、

国家、

歴史、

身体、

を通して戦後日本を問い直した。

大江は、

民主主義、

広島、

核、

個人、

弱者、

を通して戦後日本を問い直した。

三島は戦後によって失われたものを見た。

大江は戦後が約束しながら実現できていないものを見た。

この違いを一言で整理すれば、

三島は「戦後以前との断絶」を問題にし、 大江は「戦後理念と戦後現実との断絶」を問題にした

と言えるかもしれない。

三島は、

過去との連続性を取り戻そうとした。

大江は、

戦後民主主義をさらに前へ進めようとした。

一人は過去を見た。

もう一人は未来を見た。

と表現したくなる。

しかし、それも完全には正しくない。

三島も未来の日本を考えていた。

大江も過去の戦争を繰り返し振り返った。

つまり二人とも、

過去・現在・未来の関係をどう結び直すか

を考えた作家だった。

そして二人とも、

現実の戦後日本へ強い違和感を持っていた。

高度経済成長。

豊かな生活。

消費社会。

それだけでは、

人間はどう生きるのか。

国家とは何か。

日本とは何か。

という問いには答えられない。

この点では、二人はむしろ同じ場所に立っていた。

そこから、

三島は、

文化、

天皇、

身体、

死、

へ進んだ。

大江は、

民主主義、

核、

個人、

弱者、

へ進んだ。

だから二人を読む時に重要なのは、

「三島と大江のどちらを支持するか」

だけではない。

より重要なのは、

なぜ同じ戦後日本を見て、二人はこれほど違う答えへ進んだのか

を考えることである。

そしてさらに、

現代の私たちは、

三島が見た問題と、

大江が見た問題の、

どちらをすでに解決したのだろうか。

文化と歴史。

民主主義と個人。

国家の自立。

核と戦争。

共同体。

少数者。

これらの問いを見る限り、

二人が考え続けた「戦後」は、

完全に過去になったとは言いにくい。

三島由紀夫と大江健三郎を同時に読む意味は、

正反対の思想のどちらかを選ぶことではない。

互いに相手が見なかった日本を、二人の視線を重ねることで見ること。

そこにあるのではないだろうか。

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