リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

表紙だけで本を買う「ジャケ買い」は浅い読書なのか

 書店を歩いていると、ときどき妙なことが起こる。買う予定などなかった一冊が、こちらを見ているように感じるのである。作者の名前に覚えはなく、書評を読んだ記憶もなく、話題になっている本でもない。それなのに棚の前を通り過ぎようとした足が止まり、気がつけばその本を手に取っている。なぜ気になったのかと尋ねられても、うまく説明できない。ただ表紙が気になった。それだけである。

 こうして本を買うことを俗に「ジャケ買い」という。もともとはレコードやCDのジャケットだけを見て購入する行為から広がった言葉だが、本についてもすっかり定着した。ただし読書の世界では、この買い方にはどこか後ろめたい響きがつきまとう。「内容も知らずに買うのは浅い」「本は中身で選ぶものだ」「デザインに釣られているだけではないか」と言われれば、たしかにもっともらしく聞こえる。

 しかし、その批判には一つ奇妙な前提が隠れている。それは、本の「中身」と「外見」は完全に別のものであり、優れた読者ほど外見を無視して中身だけを判断するはずだ、という考え方である。ところが実際の読書という行為を少し丁寧に眺めてみると、私たちは本文だけを読んでいるわけではないことが分かってくる。

本は、一行目より前から始まっている

 一冊の本を手に取った読者はいきなり本文の第一行へ到達するわけではない。最初に目に入るのは表紙であり、そこに題名があり、作者名があり、書体があり、色があり、場合によっては帯や推薦文がある。それらを眺めたあとでようやくページを開き、本文へ入っていく。

 フランスの文学理論家ジェラール・ジュネットは、題名、序文、著者名、表紙など、本文そのものではないように見えながら作品を読者へ提示する周辺的な要素を「パラテクスト」として論じた。パラテクストとは単なる飾りではなく、読者が作品へ入っていく入口でもある。この考え方に立てば、表紙は本を保護する包装紙ではなく、本文を読む以前に「これはどのような本なのだろう」と読者に予想させる装置でもあることになる。

 しかも、こうした考え方は文学理論だけにとどまらない。物語を読む前に、それが事実として書かれた文章なのか、それともフィクションとして書かれた文章なのかという情報を与えると、同じような文章を読んでいても認知処理の仕方が変化することを示した研究がある。つまり、人間は文章だけを真空状態で読んでいるのではなく、「これはどのような文章なのか」という事前情報を持った状態で本文へ入り、その枠組みを使いながら理解している。

 そう考えると、「本は一行目から始まる」という言い方さえ、少し正確ではないのかもしれない。本は読者が表紙を見た瞬間から、すでに始まりかけている。

表紙は中身を教えているのか

 もちろん、表紙だけを見て小説の内容を正確に知ることはできない。しかし、それは表紙にまったく情報がないことを意味しない。

 文学研究者のピーター・ディクソン、マリサ・ボルトルッシ、ブレイン・マリンズらは、サイエンス・フィクションやミステリーの表紙を使い、読者がそこからジャンルをどのように読み取るかを調べている。その研究では、ジャンルに慣れた読者ほど表紙から一定の特徴を読み取り、どの種類の本なのかをある程度判断できることが示された。つまり表紙には、出版社やデザイナーが意図するか否かにかかわらず、読者にジャンルや雰囲気を伝える情報が含まれている。

 たとえば、暗い色調の中に一つだけ人物の影が描かれていれば、読者はサスペンスや犯罪小説を連想するかもしれない。余白の多い白い表紙に小さな題名だけが置かれていれば、静かな文学作品を想像するかもしれないし、鮮やかなイラストと大きな文字が並べられていれば、軽快な物語を予想するかもしれない。それらの推測が正しいとは限らないが、人は何も感じずに表紙を見るわけではない。

 ここで重要なのは、「表紙には内容についての手がかりがある」ということと、「表紙を見れば作品の文学的価値まで分かる」ということを区別することである。前者には一定の実証的な裏付けがあるが、後者まで証明されているわけではない。美しい表紙だから優れた小説であるとも、地味な表紙だから退屈な本であるとも言えない。表紙が教えてくれるのは、作品そのものの価値というより、作品へ入る前に形成される予想なのである。

「中身で選ぶ人」は、本当に中身だけを見ているのか

 それでも、「私は表紙では本を選ばない」と言う人はいるだろう。書評を読み、あらすじを確認し、文学賞を調べ、作者の経歴を見たうえで本を選ぶ方が、ずっと慎重で知的な行為に思える。

 だが、ここには少し厄介な問題がある。まだ読んでいない本の中身を、購入する前に完全に知ることはできないからである。もし本文を最後まで読んでしまえば、その時点ではもう「買う前の判断」ではない。したがって本を選ぶという行為そのものが、必ず何らかの外部情報から未知の内容を推測する作業になる。

 ある人は表紙を使い、ある人は作者名を使い、ある人は書評を使う。芥川賞を受賞したから読む人もいれば、好きな評論家が推薦したから読む人もいるし、新聞の書評欄で高く評価されていたから手を伸ばす人もいる。しかし文学賞、批評、推薦文もまた、本文そのものではない。

 しかも実験研究では、文学作品を読む前後に与えられた批評情報によって、その作品に対する評価が変化することも示されている。つまり読者は本文だけを完全に独立して評価しているわけではなく、誰がどのように評価した作品なのかという情報からも影響を受ける。

 そうなると、表紙の色に惹かれて本を買う人だけを「外見に左右されている」と批判するのは少し不公平である。文学賞に左右される人も、評論家に左右される人も、ベストセラーランキングを参考にする人もいる。違うのは、判断に利用している手がかりの種類なのである。

美しい表紙は、文章まで美しく見せるのか

 もっとも、表紙には明らかに販売戦略という側面がある。本は文学作品であると同時に商品でもあり、出版社は読者に手に取ってもらうために装丁を考える。色、写真、イラスト、書体、紙の質感、題名の位置までが、本を売るための設計の一部になり得る。

 心理学には、対象の目立った特徴に対する評価が別の特徴の判断にまで影響する「ハロー効果」と呼ばれる現象が知られている。人間や商品について、美しい、信頼できそうだ、洗練されているといった第一印象が、その対象についての別の評価へ波及することがある。

 ここから考えれば、美しい装丁を見た読者が、文章にもどこか洗練された印象を抱く可能性はある。ただし、この部分は慎重に考えなければならない。一般的なハロー効果の研究があるからといって、「美しい本の表紙を見せれば、その小説の文章評価が必ず上がる」とまで直接証明されたことにはならない。外見と中身の情報が食い違った場合には、単純な好印象の波及とは異なる判断が生じることもある。

 したがって問題は、「表紙に影響される読者は愚かだ」ということではない。人間の認知そのものが、第一印象や周辺情報からある程度の影響を受ける。その事実を知ったうえで、自分がいま何を根拠に作品を評価しているのかを考え直せるかどうかの方が重要なのである。

 美しい表紙に惹かれ、「なぜ自分はこの本を文学的だと感じたのだろう」と振り返る読者と、有名作家の新刊だから優れているに違いないと考える読者のどちらが深く読んでいるかは、表紙を見たかどうかだけでは決められない。

ジャケ買いに残されている「偶然」

 ジャケ買いにはもう一つ、現代の読書環境だからこそ興味深く見える側面がある。それは、本との出会いに偶然を残していることである。

 現在、本を選ぶ方法は驚くほど合理化されている。インターネットで題名を検索すれば感想が並び、購入履歴をもとに次の本が薦められ、SNS(Social Networking Service・交流型ソーシャルメディア)を開けば「今年読んでよかった本」や「絶対に読むべき十冊」が次々と流れてくる。失敗を避けたい読者にとって、これほど便利な時代はない。

 しかし推薦という仕組みには、別の問題もある。過去の好みとの類似性ばかりを強く重視すれば、ミステリーを読む人にはミステリーが、歴史書を読む人には歴史書が薦められ続けることになり、推薦が過度に専門化する可能性がある。そのため推薦システムの研究では、単に利用者の好みに合うかどうかだけではなく、新しさ、多様性、そして「予想していなかったが価値のある発見」を意味するセレンディピティも重要な評価対象になっている。

 もっとも、推薦アルゴリズムそのものが必ず偶然を奪うわけではない。現在では意外性や多様性を意図的に取り入れる推薦も研究されているため、「アルゴリズムがあるほど読書の世界は狭くなる」と単純に言い切ることはできない。

 それでも書店を歩いていて、普段なら検索すらしなかった一冊の表紙に突然引っかかるという経験には、推薦とは違う種類の偶然がある。これまで詩集を買ったことのない人が、奇妙な表紙だけを理由に詩集を買うこともあれば、名前さえ知らなかった海外作家の小説を持ち帰ることもある。その選択は合理的とは言いにくいかもしれないが、本を読む価値の一つが「自分では選ばなかった世界に連れていかれること」にあるなら、この非合理性は必ずしも欠点とは言えない。

 よく調べなかったからこそ出会える本がある。これは、情報不足というジャケ買いの弱点が、そのまま偶然性という長所へ反転する瞬間でもある。

期待は読書を邪魔するのか

 表紙だけでなく、書評や帯や口コミも読者に期待を与える。「感動する小説」「最後に驚く結末が待っている」「人生観が変わる一冊」と先に知らされれば、読者はその情報を持った状態で本文を読むことになる。

 認知心理学的に考えれば、これは不思議なことではない。人間は先に持った知識や期待を利用しながら、新しい情報を理解するからである。物語について事前に与えられた情報が読み方や評価に影響する研究もあり、読書とは文章をただ受動的に受け取る作業ではなく、予想し、修正し、意味を組み立てながら進んでいく行為だと考える方が自然である。

 ただし、期待を与えられれば必ず作品がつまらなくなるわけでもない。物語の結末を事前に知らされた場合でも、条件によっては楽しさが失われず、むしろ評価が高くなることを示した実験さえある。つまり事前情報は読書を単純に「悪くする」のではなく、注意の向け方や物語の理解の仕方そのものを変える可能性があると考える方が適切である。

 その意味では、表紙という事前情報には少し独特なところがある。書評のように「ここが素晴らしい」と具体的な答えを示すのではなく、色や形や雰囲気によって漠然とした予感を与えるからである。表紙を見た読者は何かを期待するが、その期待にはまだ多くの余白が残っている。

表紙と中身が違ったとき、読書は失敗なのか

 もちろん、ジャケ買いには失敗がある。表紙は素晴らしかったのに、読み始めるとまったく好みに合わないこともあれば、静かな文学作品だと思って買ったら想像とはまるで違う物語だったということもある。

 しかし、その失望さえ少し面白い。なぜ自分はこの表紙からこんな物語を想像したのか、出版社はなぜこの作品にこの装丁を選んだのか、表紙が予感させた世界と本文が作る世界はなぜずれたのか。そこまで考え始めれば、失敗だったはずのジャケ買いが、読者の期待と作品との関係を考える材料へ変わる。

 そもそも読書とは、予想が何度も修正される行為でもある。最初は嫌な人物だと思った主人公に途中から共感することがあり、軽い物語だと思った小説が思いがけず重い問題へ踏み込むこともある。第一印象が間違っていたという経験そのものが、作品を読む面白さになることさえある。

 だから表紙から受けた印象と本文が一致しないことを、ただ「装丁にだまされた」と片づける必要はない。そのずれに気づくこと自体が、すでに読書なのである。

「浅い入口」から深く入ることはできる

 ここまで考えてくると、そもそも「ジャケ買いは浅い読書なのか」という問いの中に、少し不自然な飛躍があることが分かる。

 本を購入するときに持っている情報の量と、その本を読んだあとにどこまで深く考えるかは、本来別の問題だからである。

 表紙だけを見て買った人が作品を何度も読み返し、作者のほかの作品へ進み、その時代背景まで調べることはあり得る。一方で、書評を読み、文学賞を確認し、作品研究まで調べて慎重に選んだ本を、数ページ読んだところで本棚へ戻すこともある。

 つまり、「購入時の情報が少ない」という事実だけから、「読後の理解も浅い」と結論することはできない。

 むしろ私たちは、読書という行為に知らないうちに妙な道徳を持ち込んでいるのかもしれない。名作を読む方が知的であり、難しい本を読む方が立派であり、流行している本より古典を選ぶ方が深く、表紙ではなく書評を読んで選ぶ方が正しい。そのような価値観が強くなればなるほど、本を読むことは楽しみではなく、自分がどれほど文化的な人間であるかを証明する行為へ近づいてしまう。

 だが、本との出会いの理由など、もっと雑然としていてよいのではないだろうか。題名がおかしかったから、友人が読んでいたから、装丁が美しかったから、書店の隅に一冊だけ残っていたから、好きな人が読んでいたから、あるいは何となく気になったから。そんな偶然の入口から、一生忘れられない一冊に出会うこともある。

浅いのは「ジャケ買い」ではなく、そこで判断を止めること

 では、表紙だけで本を買うジャケ買いは浅い読書なのだろうか。

 買う瞬間だけを見れば、たしかに持っている情報は少ない。表紙しか見ていないのだから当然である。しかし、それは「情報が少ない」ということであって、「読書が浅い」ということとは同じではない。

 本当に浅いと呼ぶべきなのは、むしろ最初の印象を最後まで修正しない態度なのかもしれない。おしゃれな表紙だから文学的に優れていると決めつけ、難しそうな装丁だから自分には理解できないと避け、かわいらしいイラストだから軽い作品に違いないと片づける。そこで判断を止めてしまえば、たしかに表紙しか見ていない。

 反対に、表紙に惹かれて本を買い、読み進めながら「思っていた本とは違う」と気づき、その違いによって最初の印象を書き換えていくなら、ジャケ買いは立派な読書の入口になる。

 考えてみれば、人との出会いにも少し似ている。最初は顔や服装や声に惹かれることがあるが、付き合いが始まれば、その人の考え方や弱さや意外な一面を知り、第一印象は何度も修正されていく。入口が外見だったからといって、その関係全体まで浅いとは限らない。

 本も同じなのだろう。

 書店の棚の前で、知らない一冊が妙に気になることがある。その理由をうまく説明できなくてもよい。表紙が美しいからでも、色が好きだからでも、題名との組み合わせが不思議だからでもいい。その本を手に取った瞬間、私たちはまだ作品についてほとんど何も知らない。

 けれども、読書とはもともと「まだ知らないもの」に手を伸ばす行為である。表紙という薄い一枚の向こう側に何があるのか分からないからこそページを開き、予想し、裏切られ、考え直しながら先へ進む。そう考えるなら、ジャケ買いとは読書から最も遠い行為なのではなく、知っている情報の少なさを承知のうえで未知の世界へ入っていくという意味で、むしろ読書という行為の原型に意外なほど近いのかもしれない。

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 難しい本を読み始めると、ときどき読書とは別の何かが始まる。最初の十数ページではまだ余裕があり、分からない言葉が出てきても「そのうち分かるだろう」と先へ進めるのだが、三十ページ、五十ページと進むにつれて知らない概念が増え、同じ段落を二度、三度と読み返しても意味がつかめず、気がつけば目だけが文字の上を移動している。それでも本を閉じることには、なぜか敗北に似た後ろめたさがつきまとう。せっかく買ったのだから、ここまで読んだのだから、名著と呼ばれているのだから、最後まで読まなければならないという声が、本の中からではなく、自分の中から聞こえてくるのである。

 しかし考えてみると、これは少し奇妙である。本を読む目的が理解することにあるのなら、理解できないまま最後の一ページへ到達することに、どれほどの意味があるのだろう。反対に、一冊の三分の一しか読んでいなかったとしても、その中の一節が何年も頭に残り、その後の考え方や物の見方に影響を与えたなら、それを「読書として失敗した」と言い切ることはできない。私たちはいつの間にか、「本を読む」という行為と「本を読み終える」という行為を、ほとんど同じものとして扱うようになっている。

 読書には、ほかの娯楽や学習にはあまり見られない、奇妙な完走主義がある。映画なら途中で退屈になれば見るのをやめることがあり、料理なら口に合わなければ残すこともあるのに、本だけは途中で閉じると「読めなかった」という言葉を使うことが多い。この言い方には、作品との相性やタイミングではなく、読者の能力に問題があったかのような響きがある。

 しかも、その感覚は本が難しくなるほど強くなる。娯楽小説を途中でやめても、それほど自尊心は傷つかないが、哲学書、思想書、古典文学のように「教養のある人が読む本」という雰囲気をまとった本になると話が変わり、「自分にはまだ早かったのではないか」「本当に頭のよい人なら理解できるのではないか」という不安が入り込む。その瞬間、読書は本との対話ではなく、自分自身の知性を測る試験へと姿を変え、理解することよりも最後まで到達することが目的になり始める。

「最後まで読んだ」という事実の誘惑

 難しい本を読み終えたときには、確かに独特の満足感がある。内容のすべてを理解できていなくても、何百ページもの本を閉じた瞬間には、「とうとう読んだ」という達成感が残る。その感覚そのものを否定する必要はなく、険しい道を歩き切った経験が人に自信を与えるように、一冊を最後まで読み通した経験も、次の読書に向かう力になることがある。

 しかし問題は、その達成感が理解の代用品になったときである。たとえば五百ページの思想書を三週間かけて読み終えたとしても、「結局この本は何を問題にしていたのか」と尋ねられた途端、うまく説明できないことがある。途中では何度も分かったような気になっていたのに、最後まで来たころには冒頭の議論をほとんど忘れており、それでも「読了した」という事実だけは確かな記憶として残っている。

 認知心理学の研究が繰り返し示してきたのは、教材を読んだことと、それを理解し、後から取り出せることとは同じではないということである。文章を何度も眺めるだけではなく、何が書かれていたのかを自分の言葉で思い出したり、説明したり、問い直したりする過程を伴ったほうが、長期的な記憶や理解につながりやすいことが知られている。つまり、ページを進めた距離は簡単に測れても、理解の深さまではページ数から分からない。

 ここには、本という物体の持つ少し厄介な性質が関係しているのかもしれない。本には最初のページと最後のページがあり、残りの厚さを見れば自分がどこまで進んだかが一目で分かる。百ページ読めば、確実に百ページ進んだことになるため、本来は理解の変化によって測るべき読書が、ページ数という目に見える数字へ置き換えられやすい。

 人間は、測れるものを目標にしやすい。一冊読んだ、十冊読んだ、年間百冊読んだという数字は分かりやすいが、「ある一冊について三年間考え続けた」という読書経験は数字にしにくい。それでも文学や思想との関係では、後者のほうがはるかに深い場合がある。百冊を通過した人よりも、一冊につまずき、その問いをいつまでも手放せなかった人のほうが、その本から多くを受け取っていることさえあるのである。

「難しい」という一言の中には、いくつもの理由がある

 ただし、「理解できない本は途中でやめればいい」と単純に結論づけてしまうのも危険である。難しさには少なくともいくつかの顔があり、文章が自分に合わないために難しい場合もあれば、語彙や背景知識が足りないために難しい場合もあり、さらに、それまで使ったことのない考え方を要求されるために難しいこともある。

 読解研究では、文章を理解するとき、読者がすでに持っている知識が大きな役割を果たすことが知られている。同じ文章でも、その分野について前提知識のある人とない人では、そこから読み取れるものが大きく変わる。本の難しさは文章だけの性質ではなく、本と読者との間に生まれる関係でもある。

 だから、十年前には退屈にしか感じられなかった本を読み返したとき、「こんなに面白い本だったのか」と驚くことがある。本そのものは一文字も変わっていないのに、読者が経験を重ね、別の本を読み、人生の中でいくつかの失敗や喪失を経験した結果、以前には見えなかった文章が突然こちらを向いてくる。

 これは読書の不思議なところである。本は同じ場所に置かれているのに、読む側が変われば、本の姿まで変わって見える。

 したがって、分からないという感覚は必ずしも読書の失敗を意味しない。むしろ自分がまだ持っていない知識や、慣れていない思考の型に触れたとき、人は「分からない」と感じることがある。難しい本を読む経験には、ときに知識を増やすだけではなく、知識を整理する枠組みそのものを見直させる働きがある。

 普段とは違う地図を渡され、最初は現在地さえ分からなかったのに、しばらく歩いているうちに、離れて見えていた道と道が突然つながることがある。それに似た瞬間が読書にもあり、だからこそ「分からない」という理由だけであまり早く本を閉じてしまえば、その先にあった理解の変化に出会えないこともある。

分かった「気がする」という罠

 難しい本を読むとき、もう一つ気をつけたいのは、「理解したこと」と「理解した気になったこと」は必ずしも同じではないという問題である。

 同じ文章を繰り返し読むと、文字列そのものには次第に親しみが生まれる。二度目には見覚えがあり、三度目には文章の展開も予想できるようになるため、人はそれを「理解が深まった」と感じることがある。しかし、いざ本を閉じて「何が書いてあったのか」を説明しようとすると、思ったほど言葉が出てこないことがある。

 読解や学習についての研究では、人間は自分自身の理解度を必ずしも正確に判断できないことが知られている。再読が役に立つ場面はもちろんあるが、ただ同じ文章を何度も目で追うことと、理解を深めることは同じではない。むしろ読み返しながら、「なぜ著者はここでこの言葉を使ったのか」「前の章との関係は何か」「この主張を自分の言葉で説明できるか」と考えるほうが、読書はずっと能動的になる。

 だから、同じページを何度読んでもよい。ただし、それは同じ道をただ往復するという意味ではなく、一度目とは違う問いを持って戻ってくるという意味である。

途中でやめることは敗北なのか

 それでも、すべての難しい本を最後まで読む必要はない。

 ここで区別したいのは、「読めなかった」と「いまは読まないと判断した」という二つの状態である。前提知識が足りないと感じていったん閉じる場合もあれば、何十ページか読んだ結果、今の自分がこの本から得たいものは十分得たと判断することもあるし、世間で名著とされていても自分にはそれほど重要ではないと分かることもある。

 それらをすべて敗北と呼ぶ必要はない。

 むしろ本を途中で閉じるという行為には、ときにかなり高度な判断が含まれている。何を読むかだけではなく、何を読まないかを決めなければ、一人の人間に与えられた読書時間はすぐに尽きてしまう。人生の時間には限りがあり、世界には一生を費やしても読み切れないほど多くの本がある以上、「読み始めた本は必ず最後まで」という規則を守ることは、必ずしも合理的ではない。

 それなのに、一度読み始めた本には最後まで付き合わなければならないと思い込むと、奇妙なことが起こる。本を買って最初の十ページを読んだ過去の自分が、まだ読んでもいない残り四百九十ページに使う未来の時間まで決定してしまうのである。

 途中で本を閉じることは、その本を否定することでもない。数年後にもう一度開けば、以前とは違う本に見えるかもしれないし、別の本を読んでから戻れば、それまで理解できなかった一節が急に意味を持ち始めることもある。未読のページを残したまま本棚へ戻すことは、本との関係を終わらせることではなく、「この本を読む時期はまだ来ていない」と判断することでもある。

それでも、最後まで読まなければ見えない本がある

 一方で、途中でやめる自由ばかりを強調すれば、読書のもう一つの大切な側面を見失う。

 本によっては、最後まで読まなければ姿を現さないものがある。

 小説では、冒頭では何気なく見えた場面が、終盤になって突然別の意味を帯びることがある。思想書でも、最初に提示された問いが何百ページもの議論の中で少しずつ形を変え、最後に至って初めて、著者が何を問題にしていたのかが見えることがある。文章の一部分を理解することと、一冊の構造を理解することは同じではない。

 本は単なる情報の容器ではない。

 もし本の価値が情報だけにあるなら、要約を読めば十分だということになる。しかし一冊の本には、著者がどの順序で問いを立て、どこで立ち止まり、何を繰り返し、どの地点まで読者を連れていくのかという時間の構造がある。途中を飛ばせば結論だけを知ることはできても、その結論にたどり着くまでの思考の運動を経験することはできない。

 難しい本を最後まで読むことに意味があるとすれば、その大きな理由の一つはここにある。読了とは答えを受け取ることではなく、一人の他人が長い時間をかけて考えた道筋を、自分の足でも一度歩いてみることなのである。

本が「知性の証明書」になったとき

 読書には、もう一つ厄介な誘惑がある。難しい本は、ときに知性や教養を象徴するものとして扱われるため、哲学書や古典文学、大部の思想書を読んでいるという事実そのものが、「自分はこういう人間である」という自己像と結びつくことがある。

 本の所有や読書習慣が文化的な自己表現になることは珍しくない。本棚は単なる保存場所ではなく、そこに何を置くかによって、自分自身の知的な姿を外へ示す場所にもなり得る。

 もちろん、難しい本を読む人が人に知的に見られたいから読んでいる、と単純に決めつけることはできない。しかし読書が自己証明に近づいたとき、本と読者の関係は少しずつ逆転する。

 本来、本は読者の考え方を揺さぶるものだったはずなのに、いつの間にか読者が自分のイメージを守るために本を利用し始める。難しくて退屈なのに閉じられず、意味が分からないままページだけを進め、最後まで読み終えたあとで「難しかったが勉強になった」と言いながら、具体的に何が変わったのかは自分でも分からないとすれば、その読了は知的経験というより、少し儀式に近づいている。

 儀式にも意味はある。苦労して一冊を読み切った経験が自信につながり、その後さらに難しい本へ向かう入口になることもある。しかし、完走そのものが目的になれば、読書は本との対話ではなく忍耐力の測定に変わってしまう。

 読むことと耐えることは、似ているようで同じではない。

読書の意味は、読み終えた日に決まらない

 昔読んだ本を思い出そうとすると、不思議なことに気づく。最後まできちんと読んだはずなのに、題名以外はほとんど何も覚えていない本がある一方、途中で読むのをやめた本の一節だけが、何年たっても突然頭に浮かぶことがある。

 読書の価値は、読了した瞬間には決まらないのかもしれない。

 ある言葉が数年後になって、自分の経験と突然結びつくことがある。若いころには理解できなかった登場人物の気持ちが、年齢を重ねた後になって初めて分かることもある。一度読んだ本を何年か後に開き、「こんなことが書いてあったのか」と驚くのも珍しいことではない。

 本を閉じたからといって、その本の働きまで終わるわけではない。

 読んでいる最中には理解できなかったものが、人生のどこかで遅れて意味を持つこともある。そう考えると、読書とは本の最後のページで完結する行為ではなく、本を閉じた後も読者の中で静かに続いていく長い作用なのだろう。

 だから「何冊読んだか」という問いは、読書を語るには少し粗すぎる。「どの本が自分の中に残ったのか」「どの本によって以前とは違う問いを持つようになったのか」「どの本について、いまも結論が出ていないのか」と尋ねたほうが、本当の読書経験には近い。

難しい本は、征服するものではない

 では結局、難しい本を最後まで読むことには意味があるのだろうか。

 おそらく答えは、「意味はある。しかし最後まで読むこと自体が、その意味なのではない」という少し面倒なものになる。

 最初には理解できなかったものが、最後まで読み続けることでつながり、自分の見方が少し変わったなら、読了には大きな意味がある。一方で、理解することよりページを進めることが目的になり、本との対話がすでに途切れているのなら、途中で立ち止まることにも意味がある。

 大切なのは、本に勝つことではない。

 難しい本を前にすると、私たちはつい「理解してやろう」「読み切ってやろう」と考える。しかし本は山ではなく、最後のページは山頂でもない。読了したからといって、その本を征服したことにはならず、むしろ本当に面白い本ほど、読み終わった後になって分からないことが増えていく。

 読む前には単純だった問いが、読み終えた後には複雑になる。正しいと思っていたことに迷いが生まれ、自分には関係ないと思っていた問題が気になり始め、それまで一つしかないと思っていた世界に別の見方があることを知る。もし一冊の本がそんな変化を残したのなら、たとえ内容のすべてを理解できなかったとしても、その読書には十分な意味があったのではないだろうか。

 反対に、最後の一ページまできちんとたどり着きながら、何も疑わず、何も迷わず、何も残らなかったとすれば、「読み終えた」という事実ほど頼りないものもない。

 難しい本を最後まで読むべきかどうかを決める基準は、読了できるかどうかではなく、その本がまだ自分に何かを問いかけているかどうかにあるのかもしれない。問いかけが残っているなら、ゆっくり読めばよく、同じページへ何度戻ってもよく、別の本を読んでから帰ってきてもよい。そして問いかけが完全に消えてしまったなら、そのときはいったん本を閉じればよい。

 読書とは、最後のページまで到達する競技ではない。一冊の本と出会ったことで、それまでとは少し違う問いを持つようになり、その問いが本を閉じた後にも残り続けるのなら、たとえ栞が本の途中に挟まれたままであっても、その読書はすでに読者の中で何かを始めているのである。

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