リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 愛する人の美しい顔が傷つけられたとき、その人の昔の姿を守るために、自分の目を失うことを選ぶ人間がいるだろうか。谷崎潤一郎の『春琴抄』には、まさにそのような出来事が描かれている。盲目の琴三味線の師匠、春琴に長年仕えてきた佐助は、何者かに熱湯を浴びせられた春琴の顔が大きく傷ついた後、自ら縫い針で両眼を突き、視力を失う。それは春琴と同じ盲目の世界に入ろうとする行為であると同時に、傷つく以前の美しい春琴の姿を、自分の記憶の中にとどめようとする選択でもあった。

 普通なら、記憶とは過ぎ去った出来事を保存するものであり、欲望とはまだ手に入れていないものを求める働きだと考えるだろう。しかし、谷崎の小説では、この2つを明確に分けることが難しい。人はかつて愛したものを思い出すだけでは満足せず、その面影を現在の現実よりも美しいものとして育て、時には現実そのものを記憶に従わせようとする。さらに不思議なのは、実際にはほとんど知らない相手や、まだ経験していない未来の生活にまで、どこか懐かしいものを感じ取ることである。

 なぜ谷崎の登場人物たちは、目の前にある現実よりも、心の奥に残された面影に強く引き寄せられるのだろうか。その疑問を追っていくと、谷崎文学に描かれる欲望とは、単に異性の肉体や美貌を求めることではなく、失われた時間を取り戻し、自分が望む形に作り替えようとする、人間のもっと根深い営みであることが見えてくる。

夢の中の母親は、なぜ2つの顔を持っていたのか

 1919年に発表された『母を恋うる記』は、記憶と欲望の関係を考えるうえで重要な作品である。物語は、幼い少年となった語り手が、不思議な明るさに包まれた松並木の道を歩いていく幻想的な場面から始まる。湿った潮風が吹き、遠くから海鳴りが重く響き、道の周囲には暗い沼や枯れかかった蓮が広がっている。少年は日本橋での豊かな生活を失い、家族とともに貧しい暮らしへ移ったと思い込んでいるが、その道をどこまで歩いても、安心して帰れる場所にはたどり着かない。

 やがて少年は、明かりのともる農家を見つける。そこには、かまどの前で火を吹く年老いた女性がいた。少年はその後ろ姿を自分の母親だと思い、喜んで声をかける。しかし、女性は少年を自分の息子とは認めない。長い間、帰ってくる息子を待っているものの、目の前の少年は自分の息子ではないと言うのである。少年は戸惑いながらも、こんなに年を取った女性が自分の母親であるはずはないと考え、再び道を歩き始める。

 この場面は、単に人違いをしたという出来事では片づけられない。少年は温かな食事と母親のいたわりを期待して農家へ近づいたが、そこにいた女性は老いと貧しさを身にまとい、少年が思い描く母親の姿とは一致しなかった。さらに、女性の側からも息子であることを否定されるため、母を求める願いは、満たされるどころか、いっそう切実なものになっていく。自分を受け入れてくれるはずの母親が、自分を知らないと言うのである。

 その後、少年は月明かりの浜辺に近い道で、三味線を弾きながら歩く若い女性を見つける。どこからともなく聞こえてくる三味線の音は、かつて日本橋で暮らしていた頃、乳母に抱かれて耳にした新内節の記憶を呼び起こす。少年は若い女性の美しい後ろ姿に引き寄せられ、やがてその女性が自分の母親であることを知る。そして物語の最後で目を覚ました語り手は、すでに34歳になっており、母親が一昨年の夏に亡くなっていることを明らかにする。

 ここで重要なのは、夢の中に老いた母親のような女性と、若く美しい母親という、対照的な2つの姿が現れることである。年老いた女性は少年を拒み、若い母親との再会は失われた親密さへの憧れを満たす方向へ物語を導く。もっとも、この2人を単純に現実の母親と理想の母親に対応させることはできない。どちらも夢の内部に現れる存在であり、語り手の喪失感や不安が、異なる姿によって表現されていると考える方が自然である。

 この夢では、年齢や時間の順序も通常の現実とは異なっている。少年自身は幼い姿に戻っているのに、母親らしい女性は年老いており、さらにその後には若い母親が現れる。時間が一方向に流れていく現実の世界とは違い、夢の中では老いと若さ、喪失と再会が、語り手の感情に従うかのように配置されている。母親がすでに亡くなっているという現在の事実が、夢の中では、母親を探し続けるという行動に変わっているのである。

 ただし、この物語を、母親への思慕がそのまま性的欲望へ変わった作品と説明するのは適切ではない。少年が求めているものには、親から受け入れられる安心感、失われた生活への郷愁、美しいものへの憧れなど、異なる感情が重なっている。それらを明確に切り分けられないところに、むしろ作品の独自性がある。語り手は過去を正確に再現するために母親を探しているのではなく、現在では取り戻せない何かを、夢の中でもう一度経験しようとしているように見える。

吉野の山奥で、亡き母の面影が未来の妻へと変わる

 『母を恋うる記』で夢として描かれた母親への憧れは、1931年発表の『吉野葛』では、古い手紙や写真、土地の伝承を通じて、現実の人間関係へと入り込んでいく。物語の語り手は、もともと南朝の歴史に関心を持ち、吉野の山奥を訪れる。しかし、歴史上の人物を題材とする小説の構想は次第に後景へ退き、同行する友人の津村が抱いてきた、亡き母への思慕が物語の中心になっていく。

 津村は幼い頃に母を失い、成長するにつれて母の故郷を知りたいという思いを強めていった。彼にとって母親とは、日常生活の中で長年接してきた人というより、わずかな記憶と残された品々を通じて、その姿を想像し続ける存在だった。写真に写る顔、若い頃に書いた琴唄の稽古本、父親との間で交わした手紙などが、すでにこの世にいない母親の人生を知る手掛かりとなっている。

 とりわけ印象的なのは、津村が祖母の遺品の中から、母の故郷である大和の国栖から送られた手紙を見つける場面である。その手紙には、寒さの中で紙をすく家族の暮らしや、遠く離れた娘を気遣う言葉が記されていた。津村は古びた紙の文字を読み、手紙そのものの感触を確かめながら、母が生まれ育った土地と、そこに暮らした人々の姿を思い描く。さらに、母が使っていたと思われる琴爪を自分の指に当てる場面では、物に触れるという行為によって、失われた母親との距離を縮めようとする心情がうかがえる。

 しかし、これらの品々は、母親の人生を完全に再現してくれるわけではない。手紙には書き手の意図があり、写真には撮影された瞬間しか残らず、琴爪から母の演奏する姿が直接見えてくることもない。津村は資料に記されている事実を知ると同時に、その資料が語っていない部分を想像によって補っている。つまり、彼の母の記憶には、実際に経験した過去と、後から知った事実と、それらを結びつける想像とが混ざり合っているのである。

 その津村が吉野で出会うのが、母方の親戚にあたる若い女性、お和佐である。彼女は紙すきの仕事を手伝っており、その手は冷たい水を使う労働によって赤く荒れている。津村は彼女の手を見て、母の故郷から届いた手紙に記されていた人々の苦労を思い出し、さらに彼女の顔立ちには写真で見た母親と共通するところがあると感じる。やがて津村は、この女性を妻に迎えたいと語り手に打ち明ける。

 この展開には、記憶と欲望の結びつきがはっきりと表れている。津村はお和佐と幼い頃から親しかったわけではなく、彼女の手を以前から知っていたわけでもない。それにもかかわらず、初めて接した女性の姿に、すでに失われた母親の面影を見いだす。母について知りたいという長年の願いが、目の前の女性の容姿や暮らしを特別なものとして感じさせ、やがて結婚という未来の選択へとつながっていくのである。

 しかも津村は、母と妻の関係について、作品の中で自ら考えを述べている。彼にとって母親も、まだ出会っていない将来の妻も、ともに十分には知らない女性であり、想像の中で母の姿と妻の姿が重なっていたことが語られる。したがって、津村がお和佐に惹かれる理由を、母の面影への思慕と結びつけることは、単に後世の読者が持ち込んだ心理学的な推測ではない。物語の内部に、そう読むための明確な根拠が置かれているのである。

 しかし、ここで考えなければならない問題がある。津村はお和佐の顔に母親との共通点を見いだすだけでなく、工夫によってもっと母親らしくなるかもしれないとも考えている。これは、現実の女性をあるがままに愛することと、自分の記憶にある理想像へ近づけようとすることが、必ずしも一致しないことを示している。相手の中に自分が大切にしてきた面影を見つけることは、親密さの始まりにもなりうるが、その面影だけを求め続ければ、相手自身の個性を十分に見なくなる危険も生じる。

 さらに『吉野葛』では、語り手自身が歴史資料を集め、過去の人物を小説の中によみがえらせようとしている点も見逃せない。語り手は南朝の歴史を物語へと再構成しようとし、津村は母の残した断片的な資料から、失われた母の姿を組み立てようとする。対象は異なっていても、残された手掛かりによって不在のものを想像し、自分にとって意味のある物語へと変えていく点では、2人の営みはよく似ている。

 物語の最後、語り手は吉野の川に架かる吊り橋を渡ってくる津村とお和佐の姿を目にする。歴史小説を書こうとした語り手の計画は実現しなかったが、津村の方は母の故郷を訪ねる旅を通じて結婚相手を見つけることになる。過去を求めて山奥へ向かった旅が、1人の男にとっては未来の生活を決める旅になったのである。

ナオミを愛した男は、最初から彼女を正しく見ていたのか

 母の面影から未来の妻を求める『吉野葛』に対して、『痴人の愛』では、欲望が現在の相手の見え方を変え、その経験が後から過去の物語として語り直される。1924年から1925年にかけて発表されたこの作品は、河合譲治が自分とナオミとの関係を振り返り、その始まりから現在に至るまでを説明する形式を取っている。

 譲治がナオミに関心を持った理由の1つは、彼女の名前だった。浅草のカフェーで働いていた少女の本名が奈緒美であると知った譲治は、その名前を西洋風に感じ、さらに名前の印象に引きずられるように、彼女の顔立ちまで西洋人らしく見えるようになる。ナオミという響きは、譲治にとって単なる名前ではなく、自分が憧れていた西洋的な美しさを連想させる手掛かりになっていた。

 ここで起きているのは、まず記憶の変化ではなく、期待や欲望による知覚と評価の変化である。人は同じ対象を見ていても、先に与えられた情報や抱いている期待によって、その対象のどこに注意を向けるかが変わることがある。譲治の場合、ナオミという名前が西洋的な美への憧れを呼び起こし、その憧れに合う特徴を少女の中に見つけるようになったと考えられる。彼がナオミを知ったから好きになったというだけでなく、最初から求めていた美しさが、ナオミを特別な存在に見せたという側面があるのである。

 その後、譲治はナオミを引き取って教育し、自分が理想とする女性に育てようとする。ところが、成長したナオミは譲治の思いどおりにはならず、自分自身の欲望や意思に従って行動するようになる。譲治は嫉妬や苦悩を経験しながらも、彼女から離れられない。ここにあるのは、自分の理想を現実の女性に重ねようとした男が、その女性の現実の姿に振り回されるという逆転である。

 さらに『痴人の愛』が興味深いのは、これらの出来事が、譲治自身の回想として読者に語られていることである。譲治は自分の経験を正直に伝えようとする姿勢を示しているが、現在の立場から過去を振り返る以上、どの出来事を重要なものとして取り上げ、どのような理由を与えるかは、現在の感情と無関係ではない。最初にナオミの名前が気に入ったという説明にも、その後の関係を知っている語り手が、過去に意味のある始まりを見つけ出しているという側面が考えられる。

 もっとも、過去を現在の立場から語り直すことと、記憶そのものが書き換わったことは同一ではない。譲治が事実を誤って記憶しているのか、それとも事実を覚えていながら解釈を変えているのかは、物語の記述だけから完全には区別できない。重要なのは、彼の回想が客観的な記録として保証されているわけではなく、愛した女性を理解しようとする現在の欲望を含んだ語りになっているということである。

 この点で、津村と譲治は似ているようで異なっている。津村は十分には知らない母親の姿を想像し、その面影を将来の妻に求めた。一方の譲治は、自分が理想とした女性を現実の中で育てようとし、思いどおりにならなかった経験を後から語り直している。前者では記憶と想像が未来の選択に影響し、後者では欲望によって形作られた経験が回想の中で意味づけられる。どちらにも欲望と過去の結びつきはあるが、その働き方まで同じではないのである。

日記は過去を保存するのか、それとも未来を操るのか

 1956年に発表された『鍵』では、過去を記録するという行為そのものが、人間の欲望によって複雑なものになる。作品は夫と妻がそれぞれ書いた日記を交互に示す形式を取り、互いに相手がその内容を読む可能性を意識している。日記といえば、普通はその日に起きた出来事や心情を記しておく私的な文章を思い浮かべるが、この作品では、その前提が最初から揺らいでいる。

 夫は、自分の日記が妻に読まれることを期待しており、その期待を利用して妻の感情や行動に影響を与えようとする。妻もまた、自分の書く内容が夫に読まれる可能性を意識している。こうして日記は、誰にも知られない心の内側を記録する場所ではなく、直接には言えない願望を相手に伝えたり、相手の反応を探ったりするための手段となる。

 この構造を考えると、過去の記録とは何かという問題が浮かび上がる。人が日記を書くとき、1日の出来事をすべて同じ重さで記録することはできない。何を書き、何を省き、何に詳しい説明を加えるかという選択が必要になる。まして、その文章を特定の相手が読むと分かっていれば、記録する内容には相手の感情を動かそうとする意図が入り込む可能性がある。出来事を保存するはずの文章が、次の出来事を引き起こす働きを持つのである。

 ただし、ここで扱われる日記を、人間の頭の中にある記憶とそのまま同一視することはできない。記憶とは経験を保持し、後から想起する心の働きであるのに対して、日記は経験を言葉にして外部へ残した記録である。書き手が覚えていることと、日記に書いたことが一致するとは限らず、そもそも記憶している事実を意図的に伏せたり、異なる印象を与える順序で書いたりすることもできる。『鍵』の面白さは、記憶の誤りを描くことだけにあるのではなく、過去を伝える文章が、人間関係の駆け引きに利用される点にある。

 この作品を『痴人の愛』と比較すると、谷崎が扱う過去の語り方の違いがよく分かる。『痴人の愛』では、譲治がすでに経験した出来事を現在の立場から振り返り、その意味を説明する。一方、『鍵』では、日記が書かれる時点から、将来それを読む相手の反応が意識されている。前者では過去の回想に現在の欲望が入り込み、後者では現在の記録が未来の出来事を動かす。文章にされた過去は、ただ保存されるだけでなく、その後の現実と関係を結び続けるのである。

 さらに、互いの日記を読んで相手の内面を理解しようとする夫婦の姿には、別の皮肉もある。人は親しい相手の本当の気持ちを知りたいと願うが、相手が自分に読ませることを意識して文章を書いている場合、その内容がどこまで率直な告白であるかを判断することは難しい。しかも、読み手自身も、信じたい内容を信じ、疑いたい部分を疑う可能性がある。こうして『鍵』では、書き手の欲望だけでなく、読み手の欲望までもが、記録の意味を左右することになる。

 人間は過去を正確に知れば、相手を理解できると考えがちである。しかし谷崎の描く日記の世界では、過去について多くの言葉が与えられるほど、かえって相手の真意が分からなくなっていく。そこにあるのは、記録の量が増えれば真実に近づけるとは限らないという、今日の私たちにも通じる問題である。

春琴の顔を見なくなった佐助は、何を見続けていたのか

 ここでもう一度、1933年に発表された『春琴抄』に戻ると、佐助の行動が持つ意味は、単なる献身という言葉では捉えきれないものになる。春琴は幼い頃に視力を失い、その後、琴と三味線の技芸を身につけた女性である。佐助は長年にわたって彼女に仕え、弟子として教えを受けながら、生活の細部に至るまで世話を続ける。2人の関係には愛情だけでなく、師弟の上下関係や支配と服従の要素も深く入り込んでいる。

 春琴が何者かに襲われ、顔に大きな火傷を負うと、それまでの関係は重大な危機を迎える。春琴は自分の変わってしまった顔を佐助に見られることを恐れ、佐助自身も、その顔を見ることに苦しみを感じていたと語られる。やがて佐助は自ら両眼を傷つけて視力を失い、春琴に対して、これからは彼女の顔を見ることがないと告げる。

 佐助の行為には、いくつかの異なる意味を読み取ることができる。春琴と同じ盲目の世界に入ることで彼女の苦しみに近づこうとしたとも考えられるし、災難を防げなかったことへの負い目が働いたとも考えられる。また、自分だけが春琴の変化を見てしまうという状況を終わらせ、傷つく以前の美しい姿を記憶の中に保とうとしたという解釈も成立する。これらは互いに排他的な理由ではなく、佐助の行動には複数の感情や欲望が重なっていたと考える方が、作品の複雑さにふさわしい。

 その中でも、記憶の問題は特に重要である。人間の外見は時間とともに変化し、若い頃の美しさも同じ形では続かない。しかし、記憶の中では、ある年齢の顔や特定の表情が、強い印象として残り続けることがある。佐助が視力を失った後、彼にとっての春琴は、現実の身体としてそこにいる女性であると同時に、自分の内側に保存された美しい姿を持つ存在となった。彼は春琴を見ることができなくなったが、かつて見た春琴の姿を思い浮かべることはできるのである。

 もっとも、記憶に残った美しさを守るという行為は、必ずしも相手をそのまま愛することと一致しない。春琴自身もまた、年齢を重ね、周囲の人間との関係を変えながら生きていく存在である。もし佐助が過去の春琴像に強く結びついているならば、彼が守ろうとしているのは、現実の春琴だけでなく、自分が長い時間をかけて作り上げてきた理想の春琴でもあるということになる。

 さらに佐助は、失明した後も春琴を師匠として敬い、それまでの上下関係を保とうとする。これは、春琴の美貌だけでなく、気位の高さや厳格さまで含めた、長年の関係そのものを維持するためだったとも読める。相手の姿が変わってしまったとき、人は新しい関係を作ろうとすることもあれば、以前の関係をできるだけ変えずに守ろうとすることもある。佐助は後者を極端な形で選んだ人物として捉えられるのである。

 ただし、佐助の行動を、視力を失うことで愛情が深まるという一般的な教訓へ置き換えるべきではない。自ら視力を失うという行為は、現実において肯定されるべき愛情表現ではなく、作品内に置かれた極端な出来事である。また、視覚障害のある人の経験を、記憶や想像だけで生きる世界として単純化することも適切ではない。ここで問題となっているのは障害そのものではなく、佐助という特定の人物が、愛する対象の変化とどう向き合おうとしたかということである。

 もう1つ見逃せないのは、『春琴抄』の物語自体が、確実な事実の記録として書かれているわけではないという点である。作品は、春琴と佐助の墓や、春琴について記された伝記、関係者の証言などを手掛かりに、2人の人生を再構成する形式を取っている。春琴を襲った人物についても複数の可能性が示され、その動機や事件の経緯がすべて明らかになるわけではない。作中に登場する伝記や証言は、物語を現実の記録のように見せる文学的な仕組みであり、実在の人物について確認された歴史資料ではない。

 そう考えると、佐助が春琴の美しい姿を記憶にとどめようとすることと、語り手が残された資料によって2人の人生を描き直すことは、どこか似ている。佐助は過去の春琴の姿を保存し、語り手は過去の佐助と春琴の関係を物語として再構成する。そして読者もまた、その物語を通じて2人の愛情を理解しようとするが、そこには語り手の推測が含まれている。記憶や記録によって過去をよみがえらせることの魅力と、その不確かさが、作品の内側と外側の両方に置かれているのである。

記憶は保存されるだけではなく、思い出すたびに意味が変わる

 谷崎の作品を読んでいると、人間の記憶は、過去の出来事を正確に保存しておく倉庫のようなものではないのではないかという疑問が生まれる。『母を恋うる記』では亡き母への思慕が夢の中の人物像となり、『吉野葛』では断片的な手掛かりが母親の姿を想像する材料となる。『痴人の愛』では現在の欲望を抱えた譲治が過去の経験を語り直し、『春琴抄』では過去の美しさを守ろうとする欲望が、佐助の極端な行動と結びつく。さらに『鍵』では、過去について書かれた記録そのものが、他人の欲望を動かす働きを持つ。

 これらの作品を現代の認知心理学と照らして考えることには、一定の意味がある。記憶の研究では、過去の経験を思い出す際に、現在の感情や目的、周囲の手掛かりなどが影響することが知られている。特に、自分自身の人生についての記憶は、出来事の事実関係だけでなく、その出来事が現在の自分にとってどのような意味を持つかという理解とも結びついている。人は過去の経験を思い出すとき、単に出来事を再生しているのではなく、現在の立場からその経験を解釈し直す場合があるのである。

 また、過去の経験を想起する働きと、まだ起きていない未来の出来事を想像する働きには、共通する認知過程があることも研究されている。人は未来を思い描くとき、過去の経験から得たさまざまな要素を組み合わせることがある。このことは、『吉野葛』の津村が母の面影を将来の妻へと重ねていく場面を考えるうえで、興味深い視点を与えてくれる。彼は過去に実際に見た母の姿だけを思い出しているのではなく、写真や手紙から形成した母のイメージを、まだ始まっていない結婚生活への期待と結びつけているからである。

 ただし、こうした心理学の知見によって、谷崎の登場人物の行動が科学的に証明されたと考えることはできない。心理学の研究が扱うのは、現実の人間について観察や実験によって検討される認知過程であり、小説の登場人物は作者が構成した存在である。津村が母の記憶をどの程度正確に保持していたのか、譲治が実際に過去の記憶を変化させたのか、佐助の行動をどの心理的要因が決定したのかについて、作品だけから実証的な結論を出すことはできない。

 加えて、人間の記憶が現在の感情によって影響されるとしても、その変化が常に美化の方向へ進むわけではない。幸福だった経験が以前より美しく感じられることもあれば、不快な出来事の印象が強まり、過去をより苦しいものとして思い出す場合もある。谷崎の作品で注目すべきなのは、人間の記憶一般が必ず理想化されるということではなく、美を求める登場人物たちが、記憶や想像を通じて自分の欲望を形作っているという、文学上の特徴である。

 その意味で、これらの作品を、記憶が欲望を生み出すという1つの因果関係だけで説明するのは不十分である。過去の記憶によって欲望が生まれる場合もあれば、すでに存在している欲望が、過去のどの部分を思い出すかに影響する場合もある。さらに、欲望によって作られた理想像が、後の現実の経験を変え、その経験が新しい記憶となって残ることも考えられる。ここには、単純な一方向の関係ではなく、現在と過去が互いに意味を与え合う循環が認められるのである。

懐かしさは、まだ経験していない未来にも向けられる

 ここまで見てきた作品に共通するのは、過去を思い出すことが、必ずしも過去へ戻りたいという願いだけでは終わらないという点である。津村は母の故郷を求めて吉野へ向かい、その旅を通じて将来の妻を見つける。譲治は自分の憧れる西洋的な女性像をナオミに重ね、その理想に近い女性へ育てようとする。佐助は過去の春琴の美貌を守ろうとすることで、その後の春琴との生き方まで変えてしまう。過去の面影は、現在の感じ方を左右するだけでなく、未来を選び取るための基準にもなっているのである。

 特に『吉野葛』の津村にとって、母の面影とは、すでに経験した出来事の記録だけではなかった。幼い頃に亡くした母親のことを、津村は限られた資料から想像し続けていたため、彼が懐かしんでいる母の姿には、最初から知らなかった部分が数多く含まれている。それでも彼は、その面影を自分にとって最も親しい女性の理想像として抱き続ける。ここでは、懐かしさが必ずしも十分な経験の蓄積から生まれるわけではなく、経験できなかったことへの思いによっても強められる可能性が示されている。

 もっとも、知らないものを懐かしむという現象を、過去の記憶が存在しないところから突然生まれると考える必要はない。津村の場合、母の写真や遺品、周囲の人々から聞いた話、芝居の中で描かれる母子の物語など、想像を支える手掛かりが存在している。彼はそれらを組み合わせることによって、実際に接した時間よりもはるかに豊かな母の姿を心の中に育ててきたのである。知らなかった部分が多いからこそ、そこには想像の入り込む余地も大きかったと考えられる。

 この仕組みは、文学作品を読む私たちの経験とも無縁ではない。実際には訪れたことのない土地を、古い写真や家族の話によって懐かしく感じることがある。自分が生まれる前の町並みや、会ったことのない先祖の暮らしに、なぜか親しみを覚えることもある。その感情は、本人が直接経験した過去の記憶とは異なるが、断片的な知識と想像によって、過去とのつながりを感じている点では、津村の経験と通じるところがある。

 ただし、谷崎が描く懐かしさには、美しさだけでなく危うさも潜んでいる。自分が思い描く過去を理想化すればするほど、現実がその理想に従わないことを受け入れにくくなる可能性があるからである。津村がお和佐の中に母の面影を見つけることは、彼女への親しみを深めるきっかけになるかもしれない。しかし、お和佐が年齢を重ね、母とは異なる考えや望みを示すようになったとき、津村がその変化をどのように受け入れるかは、作品から確実に判断できる問題ではない。

 同じことは『春琴抄』にも当てはまる。佐助が記憶の中の春琴を美しいまま保存し続けたとしても、現実の春琴がそれによって時間の流れから自由になるわけではない。彼女は生きている人間として変化し続けるのであり、佐助の内側にある春琴の姿と、現実の春琴との間には、完全には埋められない距離が残る。谷崎は、その距離を埋めようとする人間の願いが、どれほど強い行動へつながりうるのかを描いているのである。

愛することと、相手を記憶の中に閉じ込めることの境界

 谷崎文学の記憶と欲望を考えると、最後に避けて通れない問いが残る。それは、愛する人の昔の姿を大切にすることと、現在の相手をそのまま受け入れることは、どこまで両立するのかという問題である。

 誰でも、親しい人との幸福だった時間を忘れたくないと思うだろう。長く暮らした町の風景、若い頃に出会った人の笑顔、もう聞くことのできない声が、ある日の光や音によって突然よみがえることもある。そうした記憶は、現在を生きる人間にとって慰めとなり、失われたものとのつながりを保つ力にもなる。『母を恋うる記』の語り手が夢の中で母親を求める姿には、そのような喪失の悲しみと、もう一度親しい人に会いたいという切実な願いが認められる。

 しかし、過去の姿を大切にする気持ちが強くなるほど、目の前の現実との間に距離が生まれることもある。長い年月を経て再会した相手が、自分の覚えている姿とは違っていたとしても、それは相手が間違っているからではない。人間は経験を重ねることで変化し、その変化によって以前とは異なる人格や価値観を持つようになる。にもかかわらず、自分の記憶の中にある相手こそが本当の姿だと考え続ければ、現実の相手の変化を十分に理解できなくなる可能性がある。

 『春琴抄』の佐助は、その問題が極端な形で表れた人物である。彼は春琴の顔が変わったという現実を、自らの視覚を失うことによって見なくなる道を選んだ。その選択は、春琴の苦しみを思いやる献身としても、記憶の中の美を失うことへの恐れとしても読むことができる。さらに、春琴との関係を以前の形のまま保とうとする強い執着があったと考えることもできる。こうした複数の意味が重なっているからこそ、佐助の行動は感動的であると同時に、容易には理解しきれないものとなっている。

 『吉野葛』の津村もまた、失われた母の姿を求め続け、その面影を新しい女性との関係に結びつける。しかし、津村と佐助をまったく同じ欲望の持ち主として扱うことはできない。津村は母を求める旅を通じて現実の女性と出会い、新しい生活へ向かっていくのに対し、佐助は現実の変化を見ることを拒むことで、過去の美しさを保とうとしたと解釈できる。前者では記憶が未来への出発点となり、後者では記憶が変化を受け入れないための拠り所となるのである。

 ここに、谷崎文学の記憶と欲望を一括して論じる際の難しさがある。登場人物たちはいずれも過去の面影と深く関わっているが、その面影に導かれて新しい現実へ踏み出す者もいれば、反対に、現実の変化を避けようとする者もいる。したがって、谷崎が描く記憶を、単なる現実逃避として片づけることはできない。記憶は人を過去へ引き戻すこともあれば、まだ経験していない未来へ向かわせることもあるからである。

 そして、こうした違いを認めたうえで考えると、谷崎の作品に記憶と欲望が繰り返し現れる理由も、より明確になる。人間は現在の現実だけを材料にして、自分の望みを作るわけではない。幼い頃に見たもの、失った人の面影、他人から聞いた話、写真に残された姿、物語を通じて知った美しさなどが、現在の好みや憧れの一部となっている。人が何かを美しいと感じるとき、その判断には、すでに積み重ねられた経験や想像が関わっている場合がある。

 ただし、記憶が欲望を形成するという説明だけでは、まだ半分しか捉えていない。現在の欲望もまた、過去のどの場面に心を向け、そこへどのような意味を与えるかに影響する。津村が母の写真の中に将来の妻の理想を見いだし、譲治がナオミとの出会いを自分の人生の特別な始まりとして語り、佐助が春琴の美しい姿を記憶の中で守ろうとするのは、その異なる表れである。彼らの記憶は過去の事実だけで構成されているのではなく、現在の願望と結びつくことで、それぞれに特別な意味を持つようになっている。

 もちろん、これらは作品の描写から導かれる文学的な解釈であり、谷崎本人の心理を直接証明するものではない。また、取り上げた5作品には明確な共通点があるものの、谷崎の全作品が同じ仕組みで書かれていると結論づけることもできない。それでも、1919年の『母を恋うる記』から1956年の『鍵』に至るまで、長い創作活動の異なる時期に、過去の面影や記録と、人間の現在の欲望との関係が、さまざまな形で描かれていることは注目に値する。

 結局、谷崎潤一郎の作品で記憶と欲望が強く結びつくのは、人間が欲するものの中に、現在の現実だけでは満たせない、失われた時間や理想の姿が含まれているからではないだろうか。記憶はその理想に形を与え、欲望は記憶を呼び起こして、そこに新しい意味を加えていく。しかも、過去を取り戻そうとする願いが強いほど、人は現実の相手に過去の面影を求め、現実と記憶の境界を曖昧にしてしまうことがある。

 『春琴抄』の佐助が視力を失った後も見続けようとしたものは、単に傷つく以前の春琴の顔だけではなかったのかもしれない。長年にわたる師弟関係の中で育てられ、憧れと畏れを含みながら形作られてきた、佐助にとってかけがえのない春琴の姿だったとも考えられる。現実の春琴は変化しても、佐助が心の中で見つめ続ける春琴は、ある美しい姿のままとどまることができるのである。

 谷崎文学の美しさと恐ろしさは、まさにそこにある。人は愛するから思い出す。しかし、思い出の中にある美しい姿を失いたくないからこそ、さらに深く愛してしまうこともある。そして、その愛情が現実の相手を理解する力になる場合もあれば、相手を自分の理想像の中に閉じ込める力になってしまう場合もある。

 記憶は過去を保存し、欲望は未来へ向かう。そう考えれば、2つは反対方向に働くように見える。しかし谷崎の小説では、過去を求めることが未来の選択となり、未来を望むことが過去の面影を呼び起こす。人間は失われた時間をそのまま取り戻すことはできない。それでも、その時間に新たな意味を与えながら、現在を生きていくことはできる。谷崎潤一郎が描いた記憶と欲望の結びつきは、過ぎ去ったものを忘れられず、同時に、まだ手に入れていないものを求め続ける人間の、矛盾に満ちた心のあり方を浮かび上がらせているのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

【注記】

 本記事では、夏目漱石の小説に描かれた交通機関や人々の生活を、明治期の歴史資料と照合しながら、社会の変化と人間の時間感覚との関係を考察する。記事中の「電車」は、明治時代に実際に使用されていた呼称であり、1903年に東京で営業を開始した路面電車を指す。漱石自身も1909年発表の『それから』で「電車」という言葉を使用している。なお、小説に描かれた人物の心理は文学的な解釈の対象であり、当時の日本人全体の時間感覚を実証するものではない。歴史的事実と作品の解釈を区別したうえで、明治という時代の特徴を考える。

 椿の花が畳に落ちる音を聞いただけで、自分の心臓の鼓動が気になり始める男がいる。夏目漱石の『それから』に登場する長井代助である。物語の冒頭、代助は昨夜落ちた八重の椿を眺めながら、胸に手を当て、自分の体の内側で刻まれる時間を確かめている。彼には差し迫った仕事があるわけではなく、生活費を稼ぐために毎朝決まった時刻に出勤する必要もない。それにもかかわらず、心臓の鼓動を意識するうちに、自分の生命が刻一刻と終わりへ近づいていることを考えずにはいられなくなる。

 やがて物語の終盤、代助は東京の電車に乗り込み、窓の外を流れていく街の景色を眺めながら「世の中が動く」と口にする。静かな部屋で自分の心臓の音に耳を澄ませていた男が、今度は自分の意思とは関係なく動き続ける都市の中に身を置いている。この2つの場面を結びつけると、近代化が進む明治の東京で、人間は時間をどのように感じていたのだろうかという疑問が浮かんでくる。

 明治時代と聞けば、文明開化、鉄道、電灯、工場、洋服といった風景が思い浮かぶ。新しい技術が導入され、遠くの土地へ短時間で移動できるようになり、人々の生活はそれまでとは大きく変わっていった。しかし、便利な社会になることと、人間がその変化を心地よく受け入れられることは同じではない。昨日まで当然だった暮らし方が、次の日には古いものとして扱われる社会では、変化すること自体が人間に新しい負担を与える場合もある。

 もちろん、小説に描かれた人物を、明治時代の日本人全体の代表と考えることはできない。漱石の主人公には、高い教育を受け、比較的恵まれた社会環境で暮らす人物が多く、農村や漁村、工場で働く人々とは生活条件が異なっている。それでも、鉄道や電車が走り、新聞が毎日届き、手紙によって遠く離れた人間の運命が変わる時代に、人の心がどのような戸惑いを抱えていたのかを考えるうえで、漱石の作品は興味深い手がかりになる。

53分の汽車が運んできたのは、人間だけではなかった

 1872年10月14日、日本で最初の鉄道が新橋と横浜の間に開業した。国立公文書館や国立国会図書館などに残る資料によれば、開業当初の営業距離は約29キロメートル、所要時間は53分だった。距離を所要時間で割ると、停車時間を含む表定速度は約32.8キロメートル毎時となる。現在の鉄道と比較すれば速いとはいえないが、徒歩での移動を基準にすると、その意味は大きく変わってくる。

 仮に29キロメートルを時速4キロメートルで歩くとすれば、所要時間は7時間15分となり、鉄道の53分と比較すると約8.2倍の時間を必要とする。もっとも、これは同じ距離を一定速度で移動するという仮定に基づく計算であり、当時の実際の徒歩経路や道路状況、駅までの移動時間、列車の待ち時間を考慮したものではない。それでも、鉄道が人間の移動に必要な時間を大幅に短縮する可能性を持っていたことは、この単純な比較からも理解できる。

 さらに重要なのは、鉄道の登場によって人々の行動に新しい時間の規則が加わったことである。江戸時代にも、商取引や職人の仕事、寺社の行事などには時刻を守る必要があり、明治以前の人々が時間を意識せずに生活していたわけではない。しかし鉄道では、乗客の都合に合わせて発車時刻を自由に変更することはできず、車両の運行と駅の業務を共通の時間に従って管理する必要があった。

 国立国会図書館が紹介する開業当初の時刻表には、すでに分単位の発車時刻が記されている。さらに、発車時刻の5分前には駅への立ち入りを禁じる注意書きも確認できる。当時の人々にとって、何時何分までに駅へ行かなければならないという規則は、鉄道を利用するための新しい生活習慣だったと考えられる。目的地へ早く到着できるようになった反面、乗り遅れないためには、自分の行動を列車の時刻に合わせなければならなかったのである。

 時間の数え方そのものも変化した。1873年には太陽暦と1日24時間の定時法が採用され、従来の季節によって昼夜の時間区分が変わる不定時法から、一定の長さで時刻を数える仕組みへの転換が進んだ。さらに1886年には東経135度を基準とする日本標準時が定められ、1888年1月1日から実施された。国立天文台の資料が示すように、これは暦を新しくしただけの問題ではなく、地域や季節によって異なっていた時間の扱いを、より広い範囲で共通化していく制度上の変化だった。

 ただし、新しい時刻制度が導入されたからといって、全国の人々が一斉に同じ生活を始めたわけではない。農作業には日照や季節に左右される時間があり、漁業には潮汐や海況によって決まる時間があり、商店や工場にはそれぞれの労働条件に応じた時間がある。明治の近代化とは、古くから存在する多様な生活の時間を一度に消し去ることではなく、その上に交通や通信、行政、産業が必要とする共通の時間を重ねていく過程だったと考えられる。

20時間の旅が13時間40分になったとき、社会はどう変わったのか

 鉄道の発達を1872年の開業だけで考えると、漱石が小説を書いていた時代との距離が見えにくくなる。漱石の代表的な長編小説が発表されたのは主に1900年代以降であり、その頃には鉄道は東京と横浜を結ぶ珍しい乗り物ではなく、各地の都市を結び、広い範囲に人や物を運ぶ交通網へと発展していた。

 1889年には新橋から神戸までの鉄道路線が全通し、直通列車による所要時間は約20時間だった。国立国会図書館の鉄道史資料によれば、1896年には急行列車が設定され、同区間の所要時間は約17時間となり、1906年には13時間40分まで短縮されている。1889年の約20時間と1906年の13時間40分を比較すると、所要時間の短縮は約6時間20分、短縮率は約31.7%に相当する。

 この数字には注意も必要である。比較した時代には列車種別や運行条件に違いがあり、所要時間の変化をすべて機関車の性能向上によるものと考えることはできない。路線の整備、運行方法、停車駅なども所要時間に影響するため、約31.7%という数字は同じ区間を移動するために必要だった時間の変化を示すものであり、鉄道技術そのものの進歩率ではない。

 それでも、鉄道が各地を結び、移動時間を短縮していったことは確かである。時間の短縮によって、これまで容易には往復できなかった都市の間を移動する可能性が広がり、人の往来や商品の流通、情報の伝達にも変化が生じた。こうした変化がどの地域で、どの程度の経済効果を持ったのかを明らかにするには、運賃、輸送量、人口移動、産業構造などを含めた別の検証が必要になるが、人々が行動できる地理的な範囲と、それに必要な時間との関係が変わっていったことは理解できる。

 ここで1つの疑問が生まれる。移動時間が短くなれば、人間はそれだけ時間的な余裕を持てるようになるのだろうか。確かに交通に費やす時間が減れば、他の活動に使える時間が生まれる可能性はある。しかし、移動が容易になったために、以前より遠くまで出かける機会が増えたり、短い期間に多くの用事を済ませることが求められたりする場合もある。移動の効率が高くなることと、個人が自由に使える時間が増えることは、必ずしも一致しないのである。

 この問題を考えるとき、漱石の小説に登場する汽車や電車は、単なる時代背景以上の意味を持ち始める。鉄道は登場人物を目的地へ運ぶ一方で、それまでとは異なる生活や人間関係の中へ送り込み、時には自分の意思では止められない社会の動きを意識させる存在にもなっている。

東京へ着いた三四郎は、なぜ新しい世界に追いつけなかったのか

 1908年に朝日新聞へ連載された『三四郎』は、熊本の第五高等学校を出た青年が、東京帝国大学へ進学するために上京する物語である。小説は大学の教室でも東京の街角でもなく、三四郎が乗っている汽車の中から始まる。窓の外を流れていく景色や、車内で出会う人々との会話を通して、彼が慣れ親しんだ故郷の外側へ運ばれていく様子が描かれている。

 汽車に乗れば東京へ到着することはできるが、そこで暮らす人々の価値観や行動の意味まで、すぐに理解できるわけではない。東京の大学には新しい学問があり、街には電車が走り、多様な人間が行き交っている。三四郎はそうした世界に強い関心を持ちながらも、そこで出会う人々の言葉や振る舞いに戸惑い、自分がどのように行動すべきなのかをつかみきれずにいる。

 物語の中で三四郎は、自分の前に3つの世界が存在すると感じる。母親と故郷につながる懐かしい世界、大学の学問や研究者たちの世界、そして美禰子に象徴される華やかで近づきがたい世界である。これらは原作に描かれた三四郎の認識に基づくものであり、漱石が社会全体を3つの時間に分類したという意味ではない。しかし、時間という観点から読み直すと、それぞれの世界が異なる生活のリズムや価値観を持っているように見えてくる。

 故郷の世界は、三四郎がこれまで生きてきた時間と結びついており、母親から届く手紙は、遠く離れた土地の生活を東京の現在へ呼び戻す。一方、大学の世界では、長い時間をかけて知識を蓄積し、物事を考える姿勢が重視される。そして美禰子をめぐる人間関係では、相手の言葉の意味を十分に理解できないまま、状況だけが変化していくように感じられる場面がある。

 東京に到着した三四郎の身体は、すでに故郷から遠く離れている。しかし、彼の心の中には、それまでの生活から受け継いだものが残っており、新しい環境に対する理解や感情が、移動に要した時間と同じ速さで変わることはない。ここには、交通機関が人間を運ぶ速度と、人間が新しい社会に適応する速度との違いを読み取ることができる。

 その違いを考えるうえで興味深いのが、東京帝国大学の池のほとりに広がる静かな風景である。現在の東京大学本郷キャンパスに残る三四郎池は、江戸時代の加賀藩前田家の庭園に由来する池であり、近代的な大学の敷地の中に、さらに古い時代の景観が受け継がれている。小説の中でも、池の周辺は都市の活動的な風景とは異なる静けさを持った場所として描かれ、三四郎が人間関係や自分自身について考える舞台となっている。

 明治の東京は、すべてが新しく、すべてが同じ速さで動く都市ではなかった。江戸時代から残る風景の中に大学があり、その外側には新しい交通や商業の世界が広がっている。『三四郎』に描かれているのは、近代化によって古い時間が消えていく様子だけではなく、新旧の異なる世界が同じ都市の中に存在し、その間で青年が自分の生き方を探していく姿なのである。

電車が走り始めても、代助の人生は動かなかった

 『三四郎』の翌年、1909年に発表された『それから』では、時間の問題がさらに複雑になる。主人公の長井代助は裕福な家庭の援助を受け、定職に就かずに暮らしている。生活費を稼ぐために毎日働く必要がないという点では、時間に恵まれた人物であり、社会的な労働時間に直接拘束されない高等遊民的な生活を送っている。

 しかし、代助が自由に使える時間を多く持っているからといって、人生の選択まで自由にできるわけではない。彼の生活は父や兄の経済的支援によって成り立っており、家族からは結婚や社会的な自立を期待されている。かつて友人の平岡と結婚した三千代への感情が再び強まるにつれ、代助は、それまで決断を避けてきた問題と向き合わざるを得なくなっていく。

 代助の姿を考えると、時間的な余裕と心理的な自由が必ずしも一致しないことに気づかされる。働かずに過ごせる1日があっても、その時間をどのように使い、どのような人生を選ぶのかという問題から逃れることはできない。自分が決断を先延ばしにしている間にも、他人の生活は変わり、家族の期待や社会的な立場も変化していく。何もしなければ現在の状態が保存されるわけではなく、決断しないこと自体が将来の選択肢を変えてしまう場合があるのである。

 そのような代助の心理が、物語の終盤に登場する電車の場面で鮮やかに表現される。代助が電車に乗ると、赤い看板や郵便ポストなどの街の景色が次々に視界へ入り、動いていく都市の色彩が彼の意識を圧倒するように描かれる。そこで彼が口にする「世の中が動く」という言葉には、目の前の街が移動して見えるという感覚だけでなく、自分の生活が大きく変わろうとしていることへの切迫した意識が重なっているように読める。

 この場面が描かれた1909年には、東京の路面電車はすでに都市交通の一部となっていた。東京都交通局の沿革によれば、1903年8月22日に東京電車鉄道が品川と新橋の間で路面電車の営業を開始しており、その後、東京の電車網は拡大していった。なお、当時の路面電車は主として民間会社によって運営されており、東京市が事業を引き継ぎ、東京市電気局による路面電車事業を開始したのは1911年8月1日である。

 『それから』の電車を、東京市が運営する市電として当然のように理解すると、作品の時代設定と制度史の間にずれが生じる。漱石が描いたのは、民間の電気鉄道が発達しつつある明治末期の東京であり、電車という新しい移動手段が都市生活に入り込んでいた時代だった。

 ただし、代助の心理的な混乱を、電車の速さや都市の近代化だけによって説明するのは適切ではない。彼は三千代との関係をめぐって重大な決断を下し、家族との対立や経済的な支援を失う可能性にも直面している。電車の場面には、こうした個人的な危機が重なっているのであり、都市の動きが直接的に代助の不安を生み出したと断定することはできない。

 むしろ重要なのは、個人の内面で起こっている変化と、街の外側で続いている動きが、同じ場面に描かれていることである。電車は代助の意思に関係なく進み、街の風景も彼の事情を考慮して止まることはない。その動きの中で、自分の人生をもう元には戻せないかもしれないという感覚が強まっていく。漱石は交通機関の走行速度そのものを描きたかったというよりも、人間が変化の中に置かれたときに生じる心理的な動揺を、都市の風景と結びつけて表現したのではないだろうか。

暇を持つ人間と、時間に追われる人間の違いはどこにあるのか

 代助の生活を見ていると、現代にも通じる別の疑問が生まれる。自由に使える時間が増えれば、人間は本当に幸福になるのだろうか。技術の発達によって作業時間が短縮され、交通や通信が便利になれば、その分だけ生活に余裕が生まれるようにも思える。しかし、余った時間を誰が自由に使えるのかという問題を考えると、時間の量だけでは説明できない社会的な違いが見えてくる。

 『それから』の代助は、家族の資産に支えられて生活しているからこそ、職業に拘束されない時間を持つことができる。一方、友人の平岡は仕事や生活上の問題に直面しており、代助とは異なる条件の中で生きている。両者の違いは、単に性格や勤勉さによるものではなく、経済的な立場や家族関係によって、時間の使い方にどの程度の選択肢があるのかという問題とも結びついている。

 さらに、代助と三千代の置かれた条件も同じではない。明治期の婚姻や家族関係には、1898年に施行された民法の家制度を含む法律上の規律が存在し、それに加えて経済力や社会慣行による制約もあった。法律上の権利、実際の財産管理、職業に就く機会、周囲の期待などはそれぞれ区別して検討する必要があるが、代助と三千代が同じ程度の自由を持って人生を選択できたと考えることは難しい。

 時間を自由に使えるという状態は、時計の上で何時間空いているかという数字だけでは決まらない。その時間を使って何を選べるのか、選択の結果を誰が引き受けるのか、生活を維持するための経済的な条件が整っているのかによって、自由の意味は変わってくる。

 これは明治という時代を、単に現代よりゆっくりした社会だったと考えることの危うさにもつながる。農業や漁業に従事する人々の生活は、季節や天候、自然条件の影響を受けており、都市の工場で働く人々には労働時間や賃金の問題があり、官吏や学生には職務や学校制度による時間の拘束があった。どのような人々が、どれほど長く働き、どの程度の余暇を持っていたのかを明らかにするには、職業別の労働実態や家計、生活時間などを示す歴史資料が必要である。

 漱石の小説に登場する限られた人物から、明治の日本人全体の時間の使い方を推定することはできない。しかし、文学には統計では捉えにくい問いを浮かび上がらせる働きがある。代助が時間に恵まれながらも不安を抱えているという事実は、自由時間の長さと人生の充実が必ずしも比例しない可能性を考えさせる。そこに描かれているのは、近代化の速度だけでなく、社会の中で人間がどのような自由と制約を持って生きているのかという問題なのである。

新聞の続きを待つ読者も、明治の時間を生きていた

 明治の時間を考えるときには、漱石の小説がどのような形で読者に届けられていたのかにも目を向けたい。現在では『三四郎』『それから』『こころ』を、それぞれ1冊の本として読むことが一般的であり、読者は好きなところまで読み進め、必要ならば前のページへ戻ることもできる。しかし、初めて作品に触れた当時の読者にとって、物語は最初から最後まで一度に与えられるものではなかった。

 東北大学附属図書館に残る漱石関係の書誌資料によれば、『三四郎』は1908年9月1日から12月29日まで、『それから』は1909年6月27日から10月14日まで朝日新聞に連載された。『こころ』については、東京朝日新聞で1914年4月20日から8月11日まで、大阪朝日新聞では同年8月17日まで掲載されたとされている。これらの作品は、現在のように完成した1冊の本を購入して読むという形だけでなく、新聞の掲載に合わせて物語を読み進めるという形で、多くの読者に届けられていたのである。

 新聞連載では、その日に掲載された部分を読み終えても、続きをすぐに知ることはできない。物語の登場人物が決断を迷っている場面で掲載が終われば、読者も次の掲載を待つことになる。その間には自分自身の日常生活があり、仕事や家庭の出来事があり、新聞の別の紙面には政治や経済、社会で起こった事件が掲載されている。架空の人物の人生と、現実の世の中で進む出来事が、同じ新聞という媒体を通して、一定の時間間隔を置きながら読者のもとへ届いていた。

 『それから』が連載された1909年6月27日から10月14日までという期間は、暦の上では約3か月半に及ぶ。ただし、連載日数と期間中のすべての日付が一致するわけではなく、東北大学附属図書館の資料では110回の連載とされている。作品を1日で読み終える現代の読者と、約3か月半にわたって新聞を読み続けた当時の読者とでは、登場人物の迷いや決断を受け止める時間的な条件が異なっていたと考えられる。

 もちろん、新聞連載を読んだ人々が全員同じ心理状態になったわけではなく、掲載形式が作品理解にどのような影響を与えたかを実証するには、当時の読者の手紙や日記、書評などを調べる必要がある。それでも、物語の進行が読者個人の意思だけではなく、新聞の発行周期によって規定されていたという点は重要である。

 鉄道が人々の移動を時刻表に合わせる仕組みを広げたように、新聞は物語や情報を一定の周期で届ける仕組みを持っていた。明治の近代化によって変わった時間とは、目的地へ早く到着するための時間だけではなく、人々が情報を受け取り、物語の続きを待ち、遠くで起きた出来事を知るまでの時間でもあったのである。

『こころ』では、終わったはずの明治が終わらない

 『三四郎』では故郷から新しい世界へ向かう青年の戸惑いが描かれ、『それから』では社会の中で決断を迫られる男の危機が描かれた。ところが、1914年に発表された『こころ』では、時間は未来へ向かって進むだけではなく、過去から現在へ戻ってくるものとしても重要な意味を持っている。

 『こころ』は大正時代に発表された作品であり、その中には1912年の明治天皇の崩御と乃木希典の死が取り込まれている。したがって、この作品を明治時代の人間の心理を直接描いた資料として扱うのは正確ではない。むしろ、すでに終わった明治という時代を、その後に生きる人間がどのように振り返るのかという視点が含まれていることに特徴がある。

 作中の先生は、過去に起こした出来事への罪悪感を長く抱え続けている。年月が経過し、生活環境が変わり、社会の暦が明治から大正へ移っても、その記憶から自由になることができない。外側の世界では時間が前へ進んでいるのに、先生の心の中では過去の出来事が終わっていないのである。

 人間が過去をどのように感じるのかという問題は、時計や暦だけでは測定できない。同じ10年前の出来事であっても、ある人には遠い昔のこととして感じられ、別の人には今も現在の生活を左右する記憶として残ることがある。ただし、このような主観的な時間経験について、文学作品の描写から一般的な心理法則を導き出すことはできない。『こころ』の先生が示しているのは、特定の物語の中で構成された1人の人物の経験である。

 先生は明治天皇の崩御や乃木の死を契機として、自分自身が生きてきた時代と人生の関係を考えるようになり、「明治の精神」という言葉を用いる。ここに描かれた認識を、当時の国民全体が共有していたものと理解することはできないが、社会にとって1つの時代が終わることと、個人にとってその時代が終わることは必ずしも同じではないという問題を読み取ることができる。

 この作品の終盤では、先生から届いた長い手紙を携えて、語り手である「私」が東京へ向かう汽車に乗る。故郷では父親の病状が深刻になっており、家族との関係にも気を配らなければならない。その一方で、先生の手紙には過去の出来事と現在の決断に至るまでの経緯が記されている。「私」は進行する汽車の中で、すでに過ぎ去った先生の長い時間を読み続けることになる。

 この場面では、汽車の運行という客観的な時間、手紙が届けられるまでの通信の時間、父親や先生の生命に関わる切迫した時間、そして過去を振り返る記憶の時間が重なり合っている。交通機関によって遠くへ移動できるようになっても、離れた場所で進行している出来事を自由に止められるわけではなく、過去に起きたことを取り消すこともできない。

 『こころ』が示しているのは、近代社会の時間が速くなったという単純な図式ではない。暦が変わり、社会制度が変わり、人間の生活が新しい時代へ進んでいく一方で、個人の記憶や後悔がそれと同じ速度で変化するわけではないという問題である。明治が終わった後にも、人間の内側では明治が終わっていない。この時間のずれこそが、『こころ』を読むうえで見逃せない要素なのである。

漱石が恐れていたのは、文明そのものではなく変化の速さだったのか

 ここまでの解釈が、現代の感覚を作品に持ち込みすぎたものではないかを考えるためには、漱石自身が近代化をどのように論じていたのかを確認する必要がある。その手がかりとなるのが、1911年8月に和歌山で行われた講演『現代日本の開化』である。

 この講演で漱石は、西洋の文明の発展を「内発的」、明治以後の日本の開化を「外発的」という言葉で区別した。彼の議論では、西洋の文明は社会の内部でさまざまな変化が積み重なることによって発展してきたのに対し、日本の近代化は、西洋との接触によって外側から強い影響を受け、短期間に大きな変化を求められるという事情を持っていた。

 漱石は、日本の開化が外から押されるように進まざるを得ない状況を論じ、その中で人々が十分な時間をかけて新しいものを自分たちの生活に取り込むことの難しさを問題にしている。ただし、彼が西洋の文明や科学技術の導入そのものを全面的に否定していたと理解するのは適切ではない。講演では、外からの影響を受けることが避けられないという現実も認められており、単純に過去の社会へ戻るべきだと主張しているわけではないからである。

 この講演が興味深いのは、社会の変化と人間の適応との関係が論じられていることである。鉄道を建設し、法律を改め、学校制度を整備し、新しい機械を工場へ導入することは、政治的な意思決定や資本の投入によって比較的短期間で進められる場合がある。しかし、新しい制度や技術を人々がどのように理解し、自分たちの価値観や生活習慣の中へ取り込んでいくのかは、それらとは別の過程である。

 もっとも、社会制度の変更が必ず人間の適応より速く進むという一般法則が実証されているわけではない。地域や分野、社会階層によって、制度への対応が速い場合も遅い場合もあり、技術の導入が生活上の負担を軽減することもある。漱石の講演は、そうした多様な変化を統計的に分析した研究ではなく、明治日本の近代化をめぐる思想的な考察として位置づける必要がある。

 それでも、『三四郎』で新しい世界に戸惑う青年、『それから』で社会との関係を決められずにいる男、『こころ』で過去から離れられない人物を読むと、講演で論じられた問題意識との共通点が見えてくる。作品の登場人物の言動が講演の思想をそのまま説明していると断定することはできないが、社会の変化と人間の内面が必ずしも一致しないという問題は、漱石の文学と文明論を結びつけて考えるための有力な視点になる。

時間を短縮できる社会ほど、人間は忙しくなるのだろうか

 ここまで考えてくると、明治の人々が現代よりゆっくり生活していたという印象についても、改めて検討する必要がある。現在の交通機関は明治の鉄道よりもはるかに速く、遠方への移動や情報の伝達に必要な時間は大幅に短縮されている。しかし、それだけで明治の人間には精神的な余裕があり、現代の人間は時間に追われていると結論づけることはできない。

 この問題を数理的に考えるには、少なくとも移動や通信に必要な時間、一定期間内に行う作業や判断の量、そして個人が感じる時間的な余裕を区別しなければならない。移動時間であれば、同じ区間の所要時間を調べることができるが、生活上の負担を調べるには労働時間や家事時間、移動回数、職業ごとの活動内容など、別の資料が必要になる。さらに心理的な余裕については、本人の主観的な評価も関係するため、交通速度の変化だけで説明することはできない。

 たとえば、ある作業に必要な時間が半分になったとしても、同じ期間に処理しなければならない仕事の量が2倍になれば、総作業時間が減るとは限らない。逆に、作業量が変わらなければ、その技術によって自由に使える時間を増やせる可能性がある。これは時間と作業量の関係を示す単純な計算例であり、明治時代に実際に仕事量が2倍になったことを意味するものではない。

 同じことは通信についても考えられる。手紙の返事を待つ生活では、情報が届くまでに長い時間を必要とするが、その間に返答を催促される機会は限られていたかもしれない。一方、短時間で連絡できる社会では、遠くの人と容易に意思疎通できる半面、短い時間で何度も判断や返答を求められる場合がある。どちらが心理的に忙しいかは、通信の速度だけでなく、人間関係や社会的な期待、仕事の内容によって変わってくる。

 ただし、このような比較を明治と現代の実証的な結論として扱うには、慎重さが必要である。明治の通信事情と現代の通信事情は、利用できる人々の範囲も、社会的な役割も、情報の量も異なっている。異なる条件で得られた数値を単純に比較すれば、技術の影響と社会構造の違いが混同されてしまう。

 特に重要なのは、時間の速さが地域や職業によって異なることである。都市の官吏や会社員は勤務時間や交通機関の時刻に行動を合わせる必要があっても、農家は季節や天候を基準に作業を進める場合があり、漁師は潮や海況の変化を考慮しなければならない。もちろん、農村や漁村にも市場や交通の時間が入り込んでくるため、都市と地方を単純に速い社会と遅い社会へ分けることはできない。

 漱石の小説を通じて明治の時間を考える場合にも、このような社会的な違いを忘れてはならない。『三四郎』の大学生と『それから』の高等遊民、あるいは『こころ』の先生の時間経験は、教育や財産、家庭環境に恵まれた比較的限られた人々の生活を通して描かれている。その作品から明治社会の全体像を直接導き出すことはできないが、そこに現れた戸惑いを出発点として、時代や地域によって異なる生活の時間を考えることには意味がある。

時計で測れる時間と、文学にしか描けない時間

 私たちは時間を数字で測ることに慣れている。鉄道の所要時間が53分だったという記録や、20時間の旅が13時間40分になったという記録は、当時の交通の変化を知るための客観的な資料となる。しかし、同じ53分を過ごしていても、それが短く感じられるか長く感じられるかは、人間の置かれた状況によって異なる。

 汽車で初めて東京へ向かう青年にとって、移動の時間は未知の世界への期待や不安と結びつく。生活上の決断を迫られる男にとって、電車が街を走り抜ける時間は、自分では止められない社会の動きと重なって感じられる。そして過去に取り返しのつかない出来事を抱えた人間にとって、長い年月は必ずしも記憶を遠ざけるものにはならない。

 これらは作品の描写から読み取ることのできる意味であって、明治の人々が実際にどの程度の心理的な圧迫を感じていたかを示す統計ではない。文学に描かれた時間の感覚と、歴史資料から測定できる時間の変化を同じものとして扱えば、解釈の自由が事実の誇張に変わってしまう。だからこそ、両者を区別したうえで、その間にどのような関係があったのかを考えることが重要になる。

 漱石の小説には、近代化によって社会が変わっていく様子がさまざまな形で描かれているが、その変化を単純な進歩としても、失われた昔への郷愁としても説明しきってはいない。新しい世界に期待を抱く人物もいれば、社会の要求に反発する人物もいる。自分の将来を選ぼうとする人間もいれば、過去の決断から離れられない人間もいる。そして同じ人物の内面に、前へ進もうとする気持ちと、立ち止まりたい気持ちが同時に存在している。

 そのような複雑さを描くことは、交通統計や制度史だけでは難しい。統計は社会の変化を測定するために必要であり、制度史は人々の行動を規定していた仕組みを明らかにする。しかし、制度や技術の変化が1人の人間にどのような意味を持つのかについては、文学が独自の問いを投げかけることができる。

 明治という時代の時間を知るには、数字と文学のどちらか一方を選べばよいというわけではない。鉄道の所要時間や時刻制度の変化によって、社会の外側で何が起こっていたのかを確認しながら、小説の中では、その時代を生きる人物がどのような迷いや不安を抱えていたのかを読み取る。その2つの視点を重ねることで、時代の速さを単純な交通速度とは異なる問題として考えられるようになる。

明治の電車は遅かったのに、なぜ人間の心は追いつかなかったのか

 もし現在の私たちが明治末期の東京を歩くことができたなら、電車の速度や街の明るさ、交通機関の本数など、さまざまな点に不便さを感じるかもしれない。遠方へ連絡するために手紙を書き、返事が届くまで待たなければならない生活にも、現代とは大きく異なる時間の流れを感じるだろう。しかし、そこに暮らしていた人々が、現在の私たちよりもゆっくりと人生を生きていたかどうかは、交通や通信の速度だけからは判断できない。

 むしろ、鉄道が急速に普及し、街に電車が走り、学校や職業の制度が変わり、家族や社会における生き方が新しい条件に置かれていく時代には、人々はそれぞれの立場で変化に対応することを求められていたと考えられる。その変化を歓迎する人もいれば、困惑する人もいただろうし、同じ人間が期待と不安の両方を感じることもあったはずである。ただし、その感情の広がりや程度については、小説だけで確定できるものではない。

 『三四郎』の青年は、汽車によって熊本から東京へ運ばれたが、新しい世界を理解するまでには時間が必要だった。『それから』の代助は、自由に使える時間を持ちながらも、自分の人生を決断することから逃れられなくなっていった。『こころ』の先生は、社会の暦が新しい時代へ移った後も、過去に残された記憶と向き合い続けていた。

 3つの作品は、それぞれ異なる人物と問題を描いているため、時間という主題だけですべてを説明することはできない。それでも、社会の動きと人間の内面が必ずしも同じ速度で変化するわけではないという視点から読み直すと、そこには共通する問題が浮かび上がってくる。

 鉄道が速くなれば、目的地へ早く到着することはできる。通信が発達すれば、遠く離れた相手へ短時間で知らせを届けることができる。時間の制度を統一すれば、多くの人々が同じ時刻を基準に行動できるようになる。しかし、それらの変化によって、人間が過去を忘れる速度や、他人を理解する速度、自分の生き方を決断する速度まで同じになるわけではない。

 『それから』の終盤、代助を乗せた電車は街の中を走り続け、窓の外の景色は次々と彼の目の前を通り過ぎていく。その走行速度は、現在の交通機関と比較すれば決して速いものではなかっただろう。それでも彼にとって、その動きは自分の頭の中を焼き尽くすかのような激しさを持って描かれている。そこには個人的な危機があり、社会との関係を失うかもしれない恐れがあり、自分の人生がもはや以前と同じ状態には戻らないという感覚が重なっている。

 夏目漱石の小説を読むと、明治という時代の「時間の速さ」が見えてくるのか。その答えは、鉄道が何キロメートル毎時で走っていたかという数字の中だけにはない。数字から確かめられるのは、移動に必要な時間が短縮され、共通の時刻に従って社会が動く仕組みが整えられていったという歴史的な変化である。一方、漱石の小説から読み取ることができるのは、そのような社会に生きる人物たちが、新しい世界への期待や不安を抱き、過去と現在の間で迷いながら、自分自身の時間を生きようとする姿である。

 その2つを重ねて考えたとき、明治の時間は、現代より遅かったという単純な印象とは異なる姿を見せ始める。社会が変化する速度と、人間がそれを受け止める速度の間には、埋めることのできない距離が生じる場合がある。その問題は、技術が進み、以前より多くのことを短時間でできるようになった現在にも通じている。

 漱石の小説を読み終えたとき、私たちの前に残るのは、昔の人々がどれほど忙しかったのかという問いだけではない。社会がこれほど速く変化する中で、自分の心はどのような時間を生きているのか。100年以上前の東京を走る電車の音が、遠くから聞こえてくるように、その問いは今も私たちの日常へ静かにつながっているのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 五木寛之の『青春の門』を、私は第3部「放浪篇」まで読んだ。第1部「筑豊篇」で伊吹信介の少年時代に引き込まれ、第2部「自立篇」で筑豊から東京へ出た信介を追い、そのまま北海道へ向かう「放浪篇」まで進んだのだが、そこでいつの間にか本を閉じてしまった。作品が急につまらなくなったという記憶があるわけではなく、「続きを読まない」と決めたわけでもないのに、何か別の本を読み、別のことに関心を持ち、気がつけば『青春の門』そのものから遠ざかっていたのである。

 ところが、あらためて調べてみると、私が本を閉じた「放浪篇」は、この長大な物語から見ればまだ前半だった。その後には第4部「堕落篇」、第5部「望郷篇」、第6部「再起篇」、第7部「挑戦篇」、第8部「風雲篇」が続き、2019年には第9部「漂流篇」の単行本まで刊行されている。私の記憶の中では北海道をさまよっていた青年・伊吹信介が、その後も何十年という現実の時間を超えて歩き続けていたことになるのであり、そう考えると、累計2200万部という巨大な数字を持つこの大河小説を、実際の読者たちはいったい何篇まで読んでいるのかが急に気になってくる。

 果たして第1部「筑豊篇」だけを読んだ人が圧倒的に多いのか、それとも一度物語に入り込んだ人は、第5部、第6部と意外なほど遠くまで信介についていったのか。そして私のように第3部あたりで、特別な理由もなく離れてしまった人は、この巨大な読者の流れの中で、どのあたりに位置しているのだろうか。

2200万部売れたからといって、2200万人が読んだわけではない

 『青春の門』は累計2200万部に達した大ベストセラーである。しかし、2200万部という数字から「何人が読んだのか」や「何人が最後まで読んだのか」を知ることはできない。第1部から第6部まで1人が購入すれば、それだけで6冊として数えられるうえ、単行本、文庫本、改訂版などを買い直した読者もいるため、シリーズ累計部数と実際の読者数は、似ているようでまったく違う数字なのである。

 もっと知りたいのは、「第1部を読んだ人のうち何%が第2部へ進み、そのうち何%が第3部まで読んだのか」という数字だが、出版社が個々の読者を追跡した調査を公表しているわけではない。そのため、『青春の門』の本当の読了率や途中離脱率を正確に計算することは、現在公開されている資料だけではできない。

 それでも、まったく手掛かりがないわけではなく、読書記録サービス「読書メーター」には各巻を登録した人数が残っているため、同じ講談社文庫の系列を比較すれば、読者がどのあたりまで作品に関心を持っているのか、その痕跡を見ることはできる。ただし、この数字は「その巻を最後まで読み終えた人数」ではなく、第1部を登録した同じ人が第2部、第3部へ進んだことを追跡した数字でもないため、これから示す数字は読了率ではなく、あくまで「同じ作品の各篇にどの程度の登録が残っているか」を比較した参考値として扱う必要がある。

 数字は便利だが、意味を取り違えると、いかにも科学的に見える誤解を生んでしまう。だからこそ、どこまでが観察された事実で、どこからが推測なのかを分けながら見ていくことが重要になる。

第1部855、第2部503、第3部445という数字が示すもの

 同じ系統の講談社文庫について読書メーターの登録数を調べると、第1部「筑豊篇」は855、第2部「自立篇」は503、第3部「放浪篇」は445、第4部「堕落篇」は405、第5部「望郷篇」は382、第6部「再起篇」は364、第7部「挑戦篇」は322となっている。

 第1部を100とする単純な指数に直せば、第2部は約59、第3部は約52、第4部は約47、第5部は約45、第6部は約43、第7部は約38となる。これをそのまま「第1部を読んだ100人のうち38人が第7部まで読んだ」と解釈することはできないが、少なくとも各篇の登録数がどのような形で減少しているかは分かる。

 そして、この並びには1つ際立った特徴があり、最も大きく数字が落ちるのは、第1部「筑豊篇」から第2部「自立篇」へ移るところである。第1部855から第2部503への減少率は約41%に達する一方、第2部503から第3部445への減少は約12%、第3部445から第4部405へは約9%、第4部405から第5部382へは約6%、第5部382から第6部364へは約5%にすぎない。

 形だけを眺めれば、なだらかな坂道が続いているというより、最初に大きな段差を1度下り、その後は比較的緩い坂が続いているように見える。つまり『青春の門』には、第1部から第2部へ進むところに、作品名そのままの「もう1つの門」が存在しているようにも見えるのである。

なぜ「筑豊篇」だけで本を閉じる人が多く見えるのか

 第1部「筑豊篇」に特別な力があることを考えれば、この大きな差はそれほど不思議ではない。筑豊の炭鉱町に生まれた伊吹信介が、父・重蔵の伝説を背負い、母や周囲の大人たちに育てられ、牧織江への思いを抱きながら成長し、やがて故郷を離れて東京へ向かうという物語には、少年の誕生から旅立ちまでという明瞭な円環があり、第1部だけでも1つの長編小説としてかなり強く完結している。

 しかも「筑豊篇」は1975年と1981年に映画化されているため、作品全体を読んでいなくても、「青春の門といえば筑豊」というイメージを持つ人は少なくないだろう。シリーズの入口でありながら、それだけで大きな満足を得られる作品であることが、第2部以降との登録数の差を生んでいる可能性は十分に考えられる。

 ただし、ここで「第1部読者の41%が脱落した」と結論づけるのは早い。読書メーターが普及した時代は、『青春の門』が最も盛んに読まれた1970年代よりはるかに後であり、当時第1部から第6部まで読んだ人でも、現在その記録を読書メーターに登録していなければ数字には現れない。一方で、後年になって有名作品だからという理由で「筑豊篇」だけを読んだ新しい読者は登録されるため、その結果、第1部だけが相対的に大きくなる可能性もある。

 統計の世界では、こうした現象を選択バイアスと考えることができる。観察できる集団そのものが、日本中の『青春の門』読者を無作為に抽出した集団ではない以上、そこから全読者の行動をそのまま推定することはできないのである。

 したがって正確に言えるのは、「第1部から第2部へ進むところで登録数が大きく減っている」という事実までであり、「なぜ減ったのか」については、作品の完結感、映画化、後世の新規読者など、いくつもの理由を重ね合わせて考える必要がある。

私が離れた「放浪篇」は、実はまだ読者が大勢歩いている場所だった

 私は第3部「放浪篇」で『青春の門』から離れたので、長い間、何となく「かなり先まで読んだ」という感覚を持っていた。しかし数字を見てみると少し印象が変わり、第3部「放浪篇」の登録数445を100とすると、第4部「堕落篇」の405は約91、第5部「望郷篇」の382は約86、第6部「再起篇」の364でさえ約82に相当する。

 もちろん、これも同じ445人を追跡した数字ではないため、「放浪篇を読んだ人の82%が再起篇まで読んだ」とは言えない。しかし各篇の登録規模を見る限り、第3部から第6部にかけて急激な崩れは起きておらず、私は「放浪篇」という場所で1人、道を外れたような気分でいたけれど、実際にはそこはまだ長い読者の列が続いている場所だったらしい。

 第1部から第2部へ進むところでは登録数が大きく落ちたのに、その門を越えた人々の痕跡は、第3部、第4部、第5部、第6部と意外なほどしぶとく残っている。言い換えれば、『青春の門』は誰も彼も最後まで引っ張っていく小説というより、最初の段階で読者を大きく選別し、そこを越えた人には長く付き合われる小説だった可能性がある。

 多くの長編シリーズでは、巻を重ねるごとに少しずつ読者が減っていく姿を想像するが、『青春の門』の登録数を見る限り、最初に大きな落差があり、その後は比較的緩やかに減少している。厳密な統計調査ではないものの、「どこで読者が離れるのか」を考える材料としては、十分に興味深い形である。

本当なら「生存分析」をしたくなるデータである

 この問題を数理的に考えると、本来は生存分析に近い方法で調べたくなる。生存分析とは、ある状態がどれくらいの期間続き、どの時点で終わるのかを調べる統計的方法で、医学なら治療後の生存期間、工学なら機械が故障するまでの時間などを分析するが、これを読書に置き換えれば、「第1部から読み始めた人が何篇まで読み続けたのか」という問題になる。

 理想的には、第1部を読んだ人を100人集め、その同じ100人について、第2部へ進んだか、第3部へ進んだか、どの篇で読むのをやめたかを追跡すればよい。そうすれば、本当の意味で「読者がどこで離れたのか」を計算できるが、今回使える登録数は個人を追跡したデータではないため、生存分析そのものを行うことはできず、「第1部から第2部への登録数の減少が大きい」「第3部から第6部までは比較的安定している」という探索的な観察にとどめるべきである。

 数字を使う記事では、計算すること以上に、どこまで計算してよいのかを見極めることのほうが難しく、その境界を守ることが、記事全体の信頼性を支えることになる。

第7部から先では、作品の面白さだけでは説明できない壁が現れる

 さらに『青春の門』を複雑にしているのが、刊行された時間である。第7部「挑戦篇」は1993年6月に単行本化され、第8部「風雲篇」は1993年7月から1994年4月にかけて『週刊現代』に連載されているため、第7部のあと物語そのものが23年間完全に止まっていた、と書くのは正確ではない。

 しかし、第8部がまとまった書籍として刊行されたのは2016年12月であり、雑誌連載を追わず、単行本や文庫本だけで『青春の門』を読んできた人にとっては、第7部の書籍刊行から第8部の書籍化まで約23年という時間が流れたことになる。この23年は単なる「長い刊行間隔」と書いて済ませるにはあまりにも長く、43歳の人が66歳になるほどの時間である。

 その間には、小学生だった子供が社会人になっていても不思議ではなく、仕事の立場も、家族構成も、住んでいる場所も変わるだろうし、健康状態が変わる人もいれば、小説を読む習慣そのものを失う人もいる。読者は本棚の前で23年間静止して待っているわけではないのだから、ここまで時間が空けば、続きを買わなかった理由を「作品に飽きたから」とだけ説明するのは無理がある。

 作品から読者が離れたというより、現実の時間そのものが、作品と読者の間をゆっくり引き離していった人も少なくなかったのではないだろうか。

第8部の登録数が減るのは、本当に「読者離れ」なのか

 第7部「挑戦篇」の読書メーター登録数は322、第8部「風雲篇」の講談社文庫は205となっており、単純に割れば第8部は第7部の約64%の規模である。しかし、この差をそのまま「第7部を読んだ人の36%が第8部へ進まなかった」と解釈することはできない。

 第7部と第8部では刊行された年代が大きく違い、単行本と文庫本の刊行事情も異なるうえ、第8部は1993~1994年に雑誌で読んだ人もいる。さらに後年になれば、同じ作品でも単行本、文庫本、電子書籍などに読者が分散するため、特定の1冊だけの登録数は小さくなりやすい。

 第9部「漂流篇」になると問題はさらに複雑で、2017~2018年に雑誌連載され、2019年に『新 青春の門 第九部 漂流篇』として単行本が刊行され、2021年には文庫化されているため、同じ第9部の読者であっても、どの版で読んだかによって読書記録が別々に残る。したがって、第1部から第6部までと同じように登録数を一直線に並べ、減少率だけで読者離れを説明するのは危険である。

 だから第7部以降については、数字だけで読者離れを語るよりも、「長い刊行時間そのものが読者行動を変えてしまった」と考えるほうが、現実に近いのではないかと思う。

伊吹信介は青年のままなのに、読者だけが年を取っていった

 『青春の門』について考えていると、統計以上に奇妙な事実に気づく。第1部「筑豊篇」の単行本が刊行されたのは1970年11月であり、仮に当時20歳だった読者が、その年に伊吹信介と出会ったとすれば、その人は第8部が書籍化された2016年には66歳になり、第9部が単行本になった2019年には69歳、2026年の現在なら76歳である。

 小説の中では、信介は青年として悩み、恋をし、世界を見ようともがいている。しかし、その青年を追い続けた読者の側では、就職があり、結婚があり、子育てがあり、定年があり、親との別れがあり、場合によっては自分自身の老いと向き合う時間まで流れている。

 1970年に20歳で「青春の門」をくぐった読者が、第9部を手に取るころには70歳を目前にしているというのは、普通のシリーズ小説とはかなり違う読書体験だろう。青年の物語を青年として読み始め、その続きを老年になって読むという現象は、作者が作り出した時間とは別に、読者自身の人生というもう1本の時間が作品の横を流れ続けているからこそ生まれる。

 そう考えると、『青春の門』を途中で読むのをやめた人を、単純に「脱落した読者」と呼ぶこと自体が、少し違って見えてくる。

「途中でやめた」のではなく、人生のどこかで別れたのかもしれない

 長い小説を最後まで読めなかったと言うと、どうしても「挫折した」という感じがつきまとうが、『青春の門』ほど長い時間をかけて書かれた作品の場合、その言葉は必ずしもふさわしくない。

 第1部「筑豊篇」だけを読んだ人には、筑豊から東京へ旅立つ信介で終わる『青春の門』があり、第3部「放浪篇」で離れた私には、北海道の冷たい風の中で自分の生き方を探す信介が残っている。第6部「再起篇」まで読んだ人には、挫折から立ち上がろうとする信介がいて、第8部まで行った人には、ついに日本を離れシベリアへ向かう信介がいる。

 どこまで読んだかによって、それぞれの読者の中に存在する伊吹信介は少しずつ違う。それは不完全な読書というより、長大な作品だからこそ生まれる現象なのかもしれない。

 人間は1冊の本を読む間にも年を取るが、『青春の門』の場合は、その続きを待つ間に人生そのものが変わってしまうほどの時間が流れた。読む側が作品を捨てたのではなく、仕事、家族、別の本、別の興味、そして時間そのものに連れられて、いつの間にか信介とは違う道を歩き始めていた人も多かったのではないだろうか。

それでも「筑豊篇」を越えた読者は意外に遠くまで歩いている

 結局、『青春の門』の読者が平均して何篇まで読んだのかという問いに、正確な数字で答えることはできない。累計2200万部という販売部数からも分からず、読書メーターの登録数から厳密な読了率を計算することもできないが、そこから何も分からないわけではない。

 第1部「筑豊篇」の登録数855に対して、第2部「自立篇」は503まで大きく減っている一方、第3部445、第4部405、第5部382、第6部364と、その後の減少はかなり緩やかである。この数字が示しているのは、「第1部を読んだ人の何%が脱落した」という確定的な答えではなく、最初の門を越えた人々が、意外なほど長く伊吹信介について歩いた痕跡である。

 そして私が離れた第3部「放浪篇」は、その長い行列がまだかなり続いている地点だった。あのとき私は、自分ではかなり深いところまで『青春の門』を読んだつもりでいたが、実際には信介の旅はまだずっと先まで続いており、多くの読者の痕跡もその先に残っていたのである。

 何十年も前に本を閉じた読者が、ある日突然、「そういえば伊吹信介は、あのあとどうなったのだろう」と思い出すことがある。物語から離れたつもりだったのに、登場人物だけは心のどこかで年を取らずに待っているというのは、長編小説ならではの不思議さなのだろう。

読者が『青春の門』を離れたのか、それとも時間が2人を引き離したのか

 『青春の門』という題名をあらためて眺めると、少し不思議な気持ちになる。作品を読み始めたころ、「青春の門」をくぐるのは伊吹信介だと思っていたはずなのに、50年以上という時間の中で、門を通り過ぎてしまったのは読者のほうでもあった。

 信介は小説の中で青年であり続ける。しかし、1970年代に彼と出会った読者は青年から中年となり、やがて老年へ向かった。その途中で本を閉じた人もいれば、何十年ぶりに続きを手に取った人もいるだろう。

 だから、『青春の門』の読者は何篇まで読んでいるのだろうか、という問いに対する最も正確な答えは「分からない」である。しかし、その「分からない」の中身を調べていくと、第1部で本を閉じた人が多くいるように見え、その最初の門を越えた人々は意外なほど遠くまで信介についていき、第7部以降になると、物語の魅力だけでは説明できないほど長い現実の時間が、作品と読者の間に流れ込んでくるという、かなり面白い景色が見えてくる。

 私自身は第3部「放浪篇」で『青春の門』から遠ざかったが、この記事を書くために第4部「堕落篇」、第5部「望郷篇」、第6部「再起篇」と、その先に続く題名をあらためて眺めているうちに、「あのあと信介はどうなったのだろう」という気持ちが少し戻ってきた。何十年も続きを読まなかった小説なのに、主人公の名前を見れば記憶がよみがえるのだから、それだけでも大した小説なのだろう。

 読者のほうはとっくに青春の門を通り過ぎてしまったのに、本の中では今も伊吹信介が、その門の向こうを歩き続けている。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

坊っちゃんを「正義の人」と呼んでよいのだろうか

 夏目漱石の『坊っちゃん』を読み終えたとき、この小説の結末に痛快さを感じる人は少なくないだろう。陰で人間関係を動かしているように見える赤シャツと、その周囲で調子よく振る舞う野だいこ、作中で「野だ」と呼ばれる人物に対して、坊っちゃんと山嵐が最後に直接行動へ出るため、それまで物語の中に積み重ねられてきた鬱屈が一気に解消されるような構造になっており、その意味では『坊っちゃん』を、不正を嫌う青年が卑怯な大人たちに立ち向かう「正義の物語」として読むことは十分に可能である。

 しかし、物語を冒頭から丁寧に読み返してみると、坊っちゃんは決して冷静沈着な正義の味方ではなく、彼自身が「親譲りの無鉄砲」と語るように、子どものころから後先を十分に考えず行動し、教師になってからも生徒の悪戯に本気で腹を立て、同僚についても事情がすべて分かる前に判断を下すことがあるため、彼の行動をすべて「正義」という一語で説明してしまうと、坊っちゃんという人物が持つ危うさや未熟さが見えなくなってしまう。

 では、『坊っちゃん』は正義を貫く青年の物語なのか、それとも短気な青年が周囲と衝突し続ける物語なのかと考えると、実はこの2つを完全に切り離そうとすること自体が適切ではなく、むしろ坊っちゃんという人物の面白さは、正義感と短気さが別々に存在しているのではなく、目の前の出来事に対して理屈より先に「これはおかしい」と反応してしまう同じ気質から生まれているところにある。

考える前に反応してしまう青年

 坊っちゃんの大きな特徴は、何かがおかしいと感じたときの反応が非常に速いことであり、事情を整理し、証拠を集め、相手の立場まで理解したうえで判断するよりも、まず自分の中に生じた不快感や不信感に従って動くため、生徒にからかわれれば腹を立て、宿屋で不愉快な思いをすれば反発し、同僚の言動に裏があると感じれば、十分な確認をする前から警戒心を強めてしまう。

 そのため坊っちゃんの判断は常に正しいわけではなく、後になって考えを改めることもあり、とりわけ山嵐については、他人の言葉から一度疑いを持ちながら、その後の経験によって判断を修正していることからも分かるように、坊っちゃんは真実を最初から正確に見抜く英雄ではなく、思い違いもすれば、誤った相手を疑うこともある普通の青年として描かれている。

 もっとも、だからといって坊っちゃんを「社会に適応できない人物」とまで考えるのも正確ではなく、彼は学生時代に下宿生活を送り、東京へ戻った後には仕事にも就いているので、社会生活そのものができないわけではない。むしろ彼が苦手なのは、組織の中で曖昧な言葉を使い分け、相手によって本音と建前を切り替え、多少納得できないことがあっても人間関係を優先して受け流すような処世術であり、坊っちゃんは社会不適応者というより、損得のために自分の態度を器用に変える生き方になじめない人物と考えた方が、原作の姿に近い。

 そして、その不器用さこそが『坊っちゃん』という小説を動かす力になっており、もし坊っちゃんが何事にも慎重で、周囲の意向を読みながら円満な着地点を探す人物だったなら、赤シャツたちとの対立もここまで鮮明にはならなかっただろう。坊っちゃんは精密な測定器のように社会を正確に分析する人物ではないものの、少し感度が高すぎる警報装置のように、周囲が受け流してしまう違和感にすぐ反応し、その反応が間違うこともある一方で、本当に存在する不誠実さまで表面へ引きずり出してしまうのである。

赤シャツはなぜ坊っちゃんより「大人」に見えるのか

 坊っちゃんと最も鮮やかな対照をなしているのが赤シャツであり、赤シャツは感情をむき出しにせず、言葉遣いも柔らかく、立ち居振る舞いも坊っちゃんより洗練されているため、外から見れば、怒りをすぐ態度に出す坊っちゃんよりもはるかに社会的に成熟した人物に見える。

 ただし、この作品は坊っちゃんの一人称によって語られているため、赤シャツの内面を客観的にすべて知ることはできず、その人物像については坊っちゃんの視点を通した評価であることに注意しなければならない。それでも作中では、少なくとも坊っちゃんの目に、赤シャツは直接敵意を表すのではなく、言葉や立場を使いながら人間関係を動かす人物として映っており、実際に赤シャツの発言を受けた坊っちゃんが山嵐を疑うようになる場面を見ると、その言葉が周囲の関係に影響を与えていることは確かである。

 ここに描かれているのは、単純な善人と悪人の対立というより、率直すぎる人間と、社会的な言葉を巧みに使う人間との対立であり、坊っちゃんが世渡りを苦手とする一方で、赤シャツは世渡りがうまく見えるものの、作品はその「うまさ」が必ずしも人間的な誠実さと一致するわけではないことを、両者の対比を通して次第に浮かび上がらせていく。

 だから坊っちゃんの魅力は、彼がいつも正しいところにあるのではなく、思い違いをすることがあっても、自分が不自然だと感じたことを簡単には飲み込まず、利益のために昨日までの態度を都合よく変えることも少ないという、その不器用な一貫性にある。

坊っちゃんの正義は思想より感覚に近い

 坊っちゃんが持っている正義感は、高度な倫理思想や社会哲学から生まれたものではなく、彼は正義とは何かを体系的に論じる人物でもなければ、社会制度の中で正しさを実現する方法を慎重に考える人物でもない。それよりも、正直であること、単純であること、真率であることを重んじ、それに反するものを直感的に嫌う人物として描かれており、彼の倫理観は頭で組み立てられた思想というより、腹の中で感じる好き嫌いに近いところから始まっている。

 その感覚は未熟に見える一方で、かなり強固でもあり、自分に利益があるから態度を変える、上の立場の人間だから黙って従う、周囲も同じことをしているから受け入れるといった発想が彼には乏しいため、社会の中では損をすることも多いが、逆にいえば、その損得への鈍感さこそが彼の倫理感を支えている。

 普通の人間は、不正や不誠実さを感じたからといって、そのたびに正面から衝突するわけではなく、職場であれば人間関係を考え、将来への影響を考え、ときには黙ることもあるが、それは必ずしも卑怯なのではなく、社会生活を続けるために必要な判断でもある。ところが坊っちゃんには、そのような調整能力が十分ではないため、自分の感覚をほとんど加工しないまま行動へ移してしまい、その結果、相手を十分理解する前に疑ったり、言葉で解決できたかもしれない問題を感情によって大きくしたりする一方で、同じ性格が、周囲が見て見ぬふりをしていることに対して「おかしい」と反応する力にもなっている。

山嵐との関係が示す判断の修正

 坊っちゃんと山嵐の関係を見ると、主人公が最初から正しい人物判断をしているわけではないことがよく分かり、坊っちゃんは周囲の言葉に影響されて一度は山嵐を疑ってしまうものの、その後、実際の言動を見ながら自分の判断を変えていくため、この変化を大きな人格的成長と呼ぶのは少し言い過ぎであるにしても、少なくとも坊っちゃんが、一度下した判断を経験によって修正できる人物であることは確かである。

 物語の後半になると、坊っちゃんは山嵐の考えを認め、その判断に従う場面も見せるようになるが、それでも最後まで世間巧者になるわけではなく、人間関係を器用に調整する術を身につけるわけでもない。しかし、自分の最初の印象だけで人間を決めつけ続けるのでもなく、経験を通して相手を見直すことはできるという点で、山嵐との関係は、坊っちゃんの正義が完全な独善だけでできているわけではないことを示している。

赤シャツたちは本当に「現場」を押さえられたのか

 物語の終盤では、坊っちゃんと山嵐が赤シャツと野だいこの行動を確かめるために張り込みを行い、そこで実際に確認したのは、芸者が角屋へ入った後に赤シャツと野だいこもそこへ入り、翌朝になって2人が外へ出てくるところまでである。

 ここは物語を考えるうえで非常に重要であり、坊っちゃんたちは赤シャツが芸者と同席している現場そのものを直接見たわけではないため、現代的な意味で不正行為を完全に立証したとはいえず、赤シャツ自身も、自分がそこへ入ったことと芸者がいたことは別の問題だという趣旨の反論をしている。それにもかかわらず、坊っちゃんと山嵐はその反論を受け入れず、最後には赤シャツと野だいこへ直接的な制裁を加えるのであり、この点を正確に見れば、『坊っちゃん』の結末は単純な「悪事を確認して悪人を懲らしめた」という話ではなく、かなり強い状況証拠を前にした2人が、自分たちの確信によって正義を実行してしまう場面だと分かる。

 だからこそ、この結末には独特の面白さがあり、坊っちゃんたちの行為には痛快さを感じやすい物語的構造がある一方で、その正義の手続きは決して厳密ではなく、しかも暴力による私的制裁であるため、「正しいから爽快なのだ」と単純に理解することはできない。むしろ坊っちゃんの正義とは、正しいと思った瞬間に身体まで動いてしまう危うさを含んだ正義であり、その危うさが最も鮮明に表れるのが、この終盤の場面なのである。

坊っちゃんは制度をまったく使わなかったわけではない

 坊っちゃんという人物を、制度を嫌って何でも腕力で解決する青年と考えるのも正確ではなく、山嵐だけが辞職することになった際には、それを不公平だと考えて校長室へ行き、自分も辞職すると申し出ているので、少なくとも学校という組織の中で正式に意思を伝えようとする行動は取っている。

 ところが赤シャツの件になると、学校内部で正式に告発し、組織的な手続きを通じて責任を問う方法を選ぶのではなく、最終的には山嵐とともに私的な制裁へ向かうため、ここには坊っちゃんという人物の限界がはっきりと見えてくる。彼は制度というものを全面的に拒んでいるわけではないものの、制度が自分の期待どおりに正義を実現してくれると信じているわけでもなく、最後には自分自身の確信を優先するため、『坊っちゃん』の正義は現代的な法や手続きに基づく正義とは異なり、きわめて個人的で感情的な性質を持っているのである。

清は坊っちゃんの何を信じていたのか

 坊っちゃんを理解するうえで、赤シャツや山嵐と同じくらい重要なのが清であり、清は坊っちゃんを子どものころから特別にかわいがり、将来は立身出世して立派な人物になると信じているため、彼の社会的な成功に期待していなかったわけではないが、その期待の根底には、坊っちゃんの才能や能力だけではなく、彼の性格そのものへの強い信頼がある。

 家族から問題児のように扱われる坊っちゃんに対して、清はその真っすぐさを認め、欲の少なささえ好意的に受け止めており、この価値観は赤シャツたちが生きている世界とは鮮やかな対照をなしている。赤シャツの周囲では、言葉を使い分け、相手との関係を読み、立場を計算する能力が力を持つのに対して、清が価値を認めるのは、そのような器用さとはほとんど反対の性質だからである。

 もちろん坊っちゃんは、清が期待するほど完成された人物ではなく、短気で、乱暴で、思い込みによって人を疑うこともあるが、それでも清は、その欠点の奥にある真っすぐさを信じ続けるため、清という存在は、坊っちゃんの性格を単なる無鉄砲として終わらせず、その無鉄砲の中にある誠実さを照らし出す役割を果たしている。

「正義の物語」と「短気な青年の物語」は矛盾しない

 『坊っちゃん』を「正義の物語」とだけ読めば、主人公の思い込みや乱暴さを説明しにくくなる一方で、「短気な青年の物語」とだけ読めば、なぜ作品の中心に正直、真率、卑怯への反発といった倫理的な問題が繰り返し現れるのかを十分に説明できないため、実際にはこの2つを対立させるより、同じ人物の異なる側面として考えた方が自然である。

 坊っちゃんは完成された倫理観を持っているから正義を行うのではなく、考えるより先に「これはおかしい」と感じてしまう性格を持っているため、その感覚が不正への反発となることもあれば、単なる早合点や感情的な衝突へ転ぶこともあり、その意味で彼は英雄というより、正義感と未熟さがまだ分離していない青年といえる。正しいことだけをするわけではなく、間違えることもあるが、間違う可能性があるからといって目の前の違和感を黙って受け入れることもできないという、その不安定さこそが、坊っちゃんという人物を単純な勧善懲悪の主人公とは違う存在にしている。

坊っちゃんが今も面白い理由

 もし坊っちゃんが何事にも正しい完全無欠の人物であったなら、『坊っちゃん』はこれほど面白い小説にはならなかっただろうし、反対に、単に怒りっぽく乱暴なだけの青年だったなら、これほど長く読み継がれる人物にもならなかっただろう。坊っちゃんの中には、社会の中で生きていくための知恵が十分に備わっていない一方で、その知恵を身につける過程で失われがちな感覚が残っており、世間では事情を理解し、相手の立場を考え、簡単に人を裁かないことが成熟とされるものの、その成熟が進みすぎれば、筋の通らないことまで「仕方がない」と受け入れてしまう危険もある。

 『坊っちゃん』という作品が浮かび上がらせているのは、まさにその境界であり、世間とうまく付き合うことと誠実であることは同じではなく、反対に、誠実であることと常に正しいことも同じではないという、単純には割り切れない問題である。坊っちゃんはそのどちらにも完全には収まらない人物だからこそ面白く、世渡りのうまさを持たないから不誠実さに敏感である一方、その敏感さゆえに早合点し、自分の正義を他人に押しつけてしまう危うさまで抱えている。

 『坊っちゃん』は正義の物語なのか、それとも短気な青年の物語なのかという問いに対しては、単純に「どちらでもある」と答えるよりも、短気だからこそ正義がむき出しの形で表れてしまう青年の物語、と考えた方が作品の姿に近いだろう。

 坊っちゃんの正義は洗練されておらず、手続き的でもなく、ときには判断を誤り、最後には暴力にまで向かう危うさを持っているが、その奥には、世間に合わせることだけを覚えてしまえば失われかねない真っすぐさが残っている。『坊っちゃん』は、その真っすぐさを無条件に称賛するのでも、その未熟さを単純に笑うのでもなく、魅力と危険性を同じ人物の中に置くことによって、正義とは何か、成熟とは何か、そして社会とうまく付き合いながら自分の誠実さを失わずに生きるとはどういうことなのかを、今なお読者に問いかけているのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

 谷崎潤一郎と川端康成の作品を続けて読んでいると、どちらも女性を描き、身体を描き、季節や光や風景を描いているにもかかわらず、読み終えたあとに残る感触が驚くほど違うことに気づく。谷崎の小説では、着物の布地や髪の艶、肌に落ちる影、室内に漂う気配までが身体的な記憶として残り、読者は物語を「見た」というより、その世界の湿度や匂いまで感じたような気持ちになることがあるのに対し、川端の小説では、雪山、窓ガラス、夕暮れ、水面、遠くの灯といった一瞬の映像が、手を伸ばせば消えてしまいそうな記憶として残り、人物そのものよりも、人物と風景が重なった一場面のほうが長く心にとどまることさえある。

 この違いを、谷崎は官能的で川端は叙情的だという言葉だけで片づけてしまうと、2人の文学のもっと深いところにある差を見落としてしまう。少なくとも『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』と、『雪国』をはじめとする川端の代表的な作品群を比較してみると、谷崎の美は人間を引き寄せ、近づくほどその力から逃れにくくなる方向へ向かうことが多いのに対し、川端の美は目の前に現れながら、同時に距離や別れや消失を感じさせる方向へ向かう傾向が見えてくるのであり、もちろん谷崎にも喪失や死はあり、川端にも身体や官能や欲望はあるため、これは2人の全作品を単純に分割する法則ではないが、それでも女性、身体、風景という3つの視点から比べると、それぞれの美意識の違いを読み解くための有力な軸になる。

谷崎の女性は「見られる人」でありながら、見る者を支配していく

 谷崎潤一郎の作品には、男性の視線を強く引きつけ、その視線そのものを次第に拘束していく女性が繰り返し登場し、『痴人の愛』のナオミは、その代表的な存在だろう。主人公の譲治は、自分の理想に近い女性を育てようとし、最初はナオミを自分の側から眺め、評価し、教育しているつもりでいるが、物語が進むにつれてその関係は少しずつ反転し、彼がナオミを自分の理想へ近づけようとしていたはずなのに、いつの間にか彼自身のほうがナオミの美と欲望に振り回され、そこから離れられなくなっていく。

 この関係を興味深くしているのは、ナオミの美が人格全体だけによって成立しているのではなく、髪、肌、脚、声、歩き方、衣服といった身体の細部を通して具体的に感じられることであり、谷崎は女性を抽象的な「美人」として置くのではなく、その身体の一部一部を執拗に見つめることで、美を感覚的な力へ変え、見る者の感覚を刺激し、判断を狂わせ、ときには生き方まで変えてしまう作用として描いている。

 その意味では、谷崎文学における女性は単純に「男性から見られる存在」だけではなく、見られることによってむしろ力を持ち、見る側の男性のほうを拘束していく存在でもあり、『痴人の愛』を男性が女性を所有しようとする物語としてだけ読むのではなく、見る者が見られる対象の美に逆に支配されていく物語として読むことができるのは、そのためである。

『春琴抄』では、美を見ることそのものが問題になる

 『春琴抄』では、この関係がさらに特異な形へ進み、佐助は春琴を愛するだけでなく、彼女に仕え、その美を崇拝し、自分の人生そのものをそこへ差し出していくが、ここで重要になるのは、単に美しい女性を所有したいという欲望ではなく、美の前で自己を失うことにさえ意味を見いだす感情である。

 佐助が自ら視覚を閉ざすという極端な行為は、谷崎における「見る」という行為を考えるうえで象徴的であり、美しいものをもっと見たいという欲望が、最後には美を現実の視覚から切り離し、記憶や幻想の中に守ろうとする方向へ反転していくため、『春琴抄』は美に服従する人間の物語として読むことができる一方、美というものが現実の視覚によってそのまま保持できるのかという問題を描いた作品としても読むことができる。

 この点から考えると、谷崎の美は単純な官能性だけでは説明できず、身体に強く執着しながら、その身体を現実以上に美しくしようとする想像力が働いており、実在する女性と、見る者の心の中で作られた女性像との境界はしだいに曖昧になっていくため、谷崎の美はきわめて身体的でありながら、同時に幻想的でもある。

川端の女性は、近くにいるのに最後まで遠い

 川端康成の女性もまた美しく描かれるが、そこには谷崎の女性に見られるような、相手を身体的に圧倒し、欲望の中へ引き込む強さとは少し違った魅力があり、彼女たちはすぐ近くにいるにもかかわらず、どこか最後まで届かない存在として描かれることが多く、その埋まらない距離そのものが美しさを生み出している。

 『雪国』の駒子を考えると、そのことがよく分かり、駒子は島村の近くにいて、酒を飲み、話し、笑い、怒り、感情を率直に表すほど現実的で生身の存在として描かれているにもかかわらず、島村は彼女の人生そのものへ完全に入ることができず、身体の距離は縮まっても精神の距離が完全には埋まらないという不均衡が、物語に独特の緊張を与えている。

 しかも川端の作品では、女性がしばしば直接そのまま見られるのではなく、窓ガラス、鏡、雪、水面、夕暮れの光といったものを介して現れ、『雪国』で汽車の窓ガラスに映る女性の顔と外の夕景色が重なって見える描写が強く印象に残るのは、女性が単なる登場人物としてではなく、現実と風景の境界に一瞬だけ現れる像として描かれているからである。

 顔はそこに存在しているのに、窓ガラスを通した瞬間、風景と重なり、現実の身体であると同時に幻のような像へ変わってしまうため、川端の美を考えるうえでは、この「そこにいるのに完全にはつかめない」という感覚が非常に重要になり、谷崎が対象へ近づくことで美を濃くしていく作家だとすれば、川端は対象との間にわずかな距離を残すことで、美を持続させる作家として読むことができる。

谷崎の身体は、細部に近づくほど濃くなる

 この違いは、身体の描き方にもはっきり表れており、谷崎にとって身体は美がもっとも強く現れる場所の一つで、人間全体よりも身体の一部分が異様なほど大きな意味を持つことさえあり、足、髪、指、肌、声といった細部が人物の性格以上に読者の記憶へ残るのは、谷崎が人間の美しさを抽象的な人格ではなく、感覚を刺激する具体的な細部の中に見いだす傾向が強かったからである。

 ただし、谷崎の身体は決して裸の身体だけではなく、着物、化粧、室内の暗さ、障子越しの光、漆器の艶、古い家屋の奥行きといった周囲の環境と結びつくことで、身体はさらに美しく見えるようになり、『陰翳礼讃』に示される美意識を考えれば、すべてを均一な明るさの下にさらしてしまうのではなく、暗がりの中で一部だけが浮かび上がるほうが、対象はかえって強い印象を与えるという感覚を理解しやすい。

 したがって谷崎の美は、身体それ自体に閉じ込められたものではなく、身体と布、光と影、木や紙や漆といった素材、そして人間が暮らす空間との関係の中で成立しており、その世界は非常に物質的で、読者はそれを頭の中だけで理解するのではなく、視覚や触覚、時には匂いまで想像しながら読むことになる。

川端では、身体が風景へ溶ける瞬間に美が生まれる

 川端も女性の顔や手や肌を描くが、その身体は谷崎ほど重く物質的にとどまらないことが多く、むしろ光や風景の中へ溶け、輪郭が不確かになった瞬間にかえって強い美しさを帯び、人の顔が窓に映るとき、その顔は実在する身体であると同時に光の反射が作り出した像でもあるため、「実在しているもの」と「消えてしまいそうなもの」が同時に存在することになる。

 川端はそうした境界の瞬間に強く惹かれていたと考えることができ、そのため川端作品では、美しいものの中にしばしば不安定さが入り込み、若さはいつか失われ、恋愛は形を変え、季節は移り、光は消えるが、それを単純に「川端は喪失だけを描いた」と言い切るのは適切ではなく、川端にも身体への強い関心や官能的な描写があり、美と欲望が切り離されているわけではない。

 それでも、谷崎が存在する身体へ近づき、その細部を濃密に見つめる方向へ進むことが多いのに対し、川端は身体が風景や光の中へ溶けていく瞬間をとらえることが多く、その違いは2人の作品を比較するうえで、かなり有効な手がかりになる。

『細雪』では、風景は単なる背景ではない

 谷崎の作品には、庭、古い家屋、京都や大阪の街、季節の移り変わりといった風景が数多く登場するが、少なくとも『細雪』では、風景や季節は人物から切り離された背景として置かれているわけではなく、花見、着物、食事、家族の習慣、土地の空気が互いに結びつき、その中で人物の姿や生活が描かれていくため、春の桜の中で見る人物と冬の室内で見る人物では、同じ女性でも印象が変わる。

 周囲の光や気温、衣服、行事が人物の見え方を変え、それらが積み重なることで『細雪』独特の美的世界が作られているのであり、その意味では、風景や季節が人物の美を際立たせる働きをしていると読むことができるが、それと同時に、『細雪』を「失われゆく古き日本の美を描いた作品」とだけ理解すると、この作品の複雑さを見失うことにもなる。

 そこには昭和という時代の現実があり、結婚、家制度、都市生活、社会の変化、戦争へ向かう時代の影も存在しているため、優雅に見える生活の中にも不安やずれがあり、その複雑さが作品を単なる伝統美の展示にはしていないのであって、谷崎の風景を「人間を美しく見せる額縁」と考えることは一つの有効な読み方ではあるものの、それだけで作品全体を説明することはできず、風景は人物を美しく見せると同時に、その人物が生きている時代や社会の変化を静かに映すものでもある。

川端では、人間が風景の中へ吸収されていく

 一方、川端では、風景が人物以上の大きさを持つように感じられる場面が少なくなく、『雪国』を読み終えたあと、島村や駒子の顔だけではなく、雪、山、夜、汽車、火事、そして空に広がる天の川が強く記憶に残るのは、人間が風景を眺めているだけではなく、人間そのものが風景の一部へ吸収されていくように描かれているからだろう。

 ただし、川端の自然を単純な感情の象徴として理解するのも十分ではなく、人物が悲しいから雪が降るのではなく、雪は人物の感情とは無関係に降り続け、恋愛が終わっても山はあり、誰かの人生が変わっても季節は巡るという、人間とは無関係に存在する自然の大きさが、かえって人間の感情や時間の短さを際立たせている。

 ここでは、風景は人間を慰めるものでも、人間の感情を単純に代弁するものでもなく、人間の生とは別の時間を持つものとして存在し、その中に一瞬だけ人物の姿が浮かび上がるため、その構図が川端の作品に独特の静けさと冷たさを与えている。

「谷崎=欲望、川端=喪失」は法則ではなく、比較のための軸である

 ここまで女性、身体、風景という3つの方向から見てくると、谷崎潤一郎と川端康成の美意識には明らかな違いが見えてくるが、その違いを単純に「谷崎は欲望、川端は喪失」と言い切ると、それぞれの作品が持つ幅を狭めてしまい、谷崎にも老い、記憶、死、失われるものへの意識があり、川端にも性愛や身体的欲望が存在することを見落としてしまう。

 それでも主要な作品を比較してみると、谷崎では美しいものを見たい、近づきたい、触れたい、あるいは美に支配されたいという方向へ感情が進むことが多いのに対し、川端では美しいものを見つめる行為の中に、距離や時間や消失の感覚が入り込むことが多いため、「谷崎は美しいから離れられないと描き、川端は失われるから美しいと描いた」という言葉は、2人の文学を完全に説明する結論ではなく、両者の違いを際立たせるための要約として受け取るのが適切だろう。

 この程度の距離を置いて考えれば、2人の作品の多様さを保ちながら、それぞれの特徴を見失わずに比較することができ、単純な二分法に陥ることなく、なぜ同じ「美」を扱いながら読後感がこれほど異なるのかという問いにも答えやすくなる。

同じ日本の風景を見ても、2人の視線は同じではなかった

 谷崎潤一郎と川端康成は、ともに日本の美を論じる際に名前を挙げられることの多い作家だが、その「日本の美」という言葉だけで2人を一つにまとめてしまうと、むしろ重要な違いが見えなくなり、谷崎が見つめたのは、暗い室内の中で着物や髪や肌がどのように光を受け、素材や影との関係の中で美がどのように生まれるかという世界であり、その視線は対象へ近づき、細部へ入り込み、美を触覚的な経験へ近づけていく。

 一方、川端の視線は、窓越しの顔、雪山、夕暮れ、遠くの灯のように、人間と風景の境界が曖昧になる瞬間へ向かい、対象へ近づこうとしながらも完全には触れない距離を残すため、そこに現れる美には、見ることの喜びと同時に、いつか消えてしまうものを見つめているような感覚が入り込む。

 谷崎の世界を象徴するものを一つ選ぶなら、暗がりの中でわずかな光を受ける女性の肌を思い浮かべることができるだろうし、川端の世界を象徴するものを一つ選ぶなら、汽車の窓ガラスに映り、外の風景と重なりながら一瞬だけ現れる女性の顔が浮かぶだろうが、どちらも美しいにもかかわらず、その美しさが成立する場所と、その美しさを見つめる視線の方向は大きく異なっている。

 谷崎の美には近づきたいという欲望が強く働き、川端の美には近づいてもなお残る距離があり、谷崎では身体の熱が美を支え、川端では風景や時間が身体の輪郭を揺らしていくが、こうした違いは絶対的な法則ではなくても、2人の代表作を読み比べると確かに繰り返し現れてくる。

 同じ女性を見ても、同じ身体を見ても、同じ日本の風景を見ても、谷崎潤一郎と川端康成が見ていたものは完全には同じではなく、谷崎は美をこの世界の中に濃く定着させ、その力が人間をどこまで引きつけるかを描こうとしたのに対し、川端は美が世界の中に現れては揺らぎ、やがて遠ざかっていく瞬間を見つめ、その視線の違いが、日本近代文学の中に、互いに似ているようで決して重ならない2つの「美」を残したのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ

~「不易流行」から考える、変わるものと変わらないもの

 松尾芭蕉という人を考えるとき、一つの素朴な疑問が残る。なぜ彼は、あれほど旅を続けたのだろうか。江戸時代にはすでに五街道をはじめとする街道や宿場が整えられ、旅籠などの宿泊施設も存在していたため、当時の旅をすべて命懸けの冒険として描くのは正確ではない。しかし、徒歩を基本とする長距離旅行には、天候の急変、河川の増水、山越え、病気、疲労といった、現代の旅行とは比較にならない身体的負担が伴っていた。それでも芭蕉は、江戸に腰を落ち着けて俳諧を教える生活だけを選ぶことなく、何度も草鞋を履いて外へ出ていった。

 しかも、その旅は若者が未知の世界へ飛び出していく冒険旅行とは少し違っている。『おくのほそ道』の旅に出た元禄二年、一六八九年、芭蕉は数え年で四十六歳だった。それ以前にも『野ざらし紀行』や『笈の小文』につながる旅を経験しており、長い移動が身体にどれほどの負担を与えるかを知らなかったわけではない。それでも彼は、旅をやめなかったのである。

 この理由を単純に「風景が好きだったから」と考えてしまうと、芭蕉という人物の重要な部分を取り落としてしまう。芭蕉の旅には、名所を見る楽しみだけでなく、西行や能因といった古い時代の歌人たちが歩いた場所を訪ね、歌枕や歴史の痕跡に自ら触れるという明確な文学的目的があった。つまり彼にとって旅とは、見知らぬ土地を見るだけでなく、過去の文学と現在の風景を自分自身の身体を通して結び直す行為でもあったのである。

江戸にいても、芭蕉は生きていけた

 芭蕉は、生涯を通して無名の放浪者だったわけではない。江戸では俳諧師として門人を持ち、深川には後に芭蕉庵と呼ばれる拠点もあった。弟子や知人との交流を続け、俳諧を教えながら暮らすこともできたと考えられるため、生活を成立させるためだけに旅へ出なければならなかったわけではない。

 それでも彼が旅を続けたことを考えると、旅には生活上の必要とは別の意味があったと考える方が自然である。もちろん、芭蕉本人が「安定した生活では感覚が鈍るから旅をする」と明記した史料があるわけではないため、その内面を断定することはできない。しかし、旅の経験とともに作風を変化させ、晩年まで新しい表現を模索し続けた事実を見るならば、旅が彼の俳諧を更新する重要な契機となっていたと考えることには十分な根拠がある。

 同じ場所で同じ生活を続けていると、人間はしばしば、目の前の世界を見る前に、それについて何を感じるべきかを知ったつもりになる。春には桜が咲き、秋には月が美しく、旅には寂しさがあるというように、昔から積み重ねられてきた言葉が現実よりも先に立つようになるからである。芭蕉が目指した俳諧が、単に古い美辞麗句を繰り返すものではなかったとすれば、旅は既成の言葉と現実とのずれを改めて確かめる場になったと考えることができる。

 知らない土地へ行けば、天候も道も人との出会いも、自分の思いどおりにはならない。期待して訪れた名所が想像とは違うこともあれば、何気ない風景が思いがけず心に残ることもある。その予測できなさのなかで、既に知っていた言葉が通用しなくなり、新しい見方が必要になる。芭蕉の旅には、そうした自己更新の働きもあったのではないだろうか。

古池は、なぜ新しかったのか

 芭蕉の代表句として知られる、

 古池や蛙飛びこむ水の音

という句には、豪華な風景も壮大な物語も登場しない。古い池があり、蛙が飛び込み、水の音が響くという、ごく小さな出来事だけが描かれている。それにもかかわらず、三百年以上を経た現在でも、この句を読むと静寂と音との対比が鮮やかに立ち上がってくる。

 ここには、芭蕉の表現の一つの特徴がよく現れている。重要なのは、誰も見たことのない珍しいものを発見することではなく、誰もが見ているものを、それまでとは違う角度から捉え直すことである。平凡な景色であっても、見る者の感覚が変われば、まったく別の世界として立ち現れる。

 旅にも似た働きがある。普段なら気にも留めない風の冷たさが、旅先では強く意識されることがあり、毎日聞いているような鳥の声が、見知らぬ土地の夕暮れでは妙に心に残ることもある。世界そのものが突然変化したのではなく、自分と世界との関係が変わったのである。

 したがって、芭蕉にとって旅が感覚や表現を更新する契機になったと考えることはできる。ただし、それを芭蕉本人が意識的に「感覚を更新する装置」として設計していたとまで断定する必要はない。作品と生涯の変化を見る限り、そのような機能を旅が結果として果たしていた、と考えるのがより慎重である。

「不易」と「流行」は、反対のものではない

 芭蕉の思想を考えるうえで重要になる言葉が、「不易流行」である。ただし、ここでは一つ注意が必要である。今日では「芭蕉の不易流行論」と広く呼ばれているものの、芭蕉本人が「不易流行」という四字を用いて体系的な理論書を書き残したわけではない。現在知られている考え方は、向井去来や服部土芳をはじめとする門人たちの記録を通じて伝えられたものであり、その解釈にも多少の幅がある。

 一般的に「不易」は時代を超えて変わらない価値や本質を示し、「流行」は時代とともに変化し、新しく生まれていく表現や感覚を指すと説明される。この二つを単純に並べれば、変わらないものと変わるものは互いに反対の概念に見える。

 しかし芭蕉の俳諧を考えると、その二つは必ずしも対立しない。むしろ新しい表現を追い求め続けることによって、時代を超えて人間に共有されるものへ近づくことができるという逆説的な関係がある。新しいだけで中身のない表現はすぐに古びてしまう一方、永遠性だけを求めて昔の表現をそのまま繰り返せば、生きた文学にはなりにくい。

 人が夕暮れを見て寂しさを覚えたり、人を失って悲しんだり、遠く離れた土地を懐かしんだりする感情は、時代が変わっても大きくは変わらない。しかし、その感情を表す言葉や背景となる暮らしは、時代によって大きく変わる。変わらない人間の感情と、変わり続ける表現の形式が重なるところに、文学が生まれる。

 芭蕉の旅も、その構造のなかで見ると理解しやすい。彼は昔の歌人が訪れた土地を歩きながら、同じ景色が今ではどのように変わっているのかを見つめ、その変化のなかから、人間にとって変わらないものを捉えようとしたと考えることができる。

だから芭蕉は、古人の跡を訪ねた

 『おくのほそ道』を読むと、芭蕉が単に珍しい土地を探して旅行しているのではないことに気づく。彼は西行や能因をはじめとする先人たちの足跡を意識し、古い和歌や物語に登場する歌枕、名所旧跡を訪ねている。

 もし芭蕉が新奇なものだけを求めていたのであれば、誰にも知られていない土地へ向かえばよかったはずである。しかし実際には、多くの人が古くから歌に詠み、物語を重ねてきた場所へ足を運んだ。そこにこそ、芭蕉の旅の大きな意味があった。

 昔の歌人が見た山を、自分も見る。同じ川のほとりに立ち、同じ土地の名を口にする。しかし、そこに広がっている景色は決して同じではない。建物は失われ、人は死に、町の姿は変わり、戦乱の記憶が草木の下に埋もれている。場所は同じであっても、時間がその姿を変えてしまう。

 その象徴的な例が平泉である。藤原氏が栄華を極めた都市は、芭蕉が訪れたころには、かつての姿をほとんど失っていた。その地で詠まれた、

 夏草や兵どもが夢の跡

という句では、目の前にある夏草と、かつてそこに生きた武士たちの記憶が重ねられている。芭蕉が見ているのは現在の草だけではなく、その背後に消えてしまった人々の栄光や野望であり、現在と過去が一句のなかで交差している。

 ここには、「不易」と「流行」の関係を考えるための格好の材料がある。権力者は入れ替わり、都市は繁栄し、やがて滅びるというように、人間社会の形は絶えず変化する。しかし、栄華を求め、その栄華が失われ、その跡を後世の人が見つめるという人間の営みそのものには、時代を超えて繰り返される部分がある。

 芭蕉は、変わってしまった平泉を見ることによって、変わらない人間の姿を感じ取ったと読むことができるのである。

旅をしなければ、時間を見ることができなかった

 芭蕉の旅には、空間を移動するだけでなく、時間を行き来するような側面がある。古い歌に詠まれた場所へ行けば、現在の景色と過去の言葉が重なり、先人が見た風景と自分が今見ている風景との間に、長い時間の隔たりが現れるからである。

 その二つが一致することもあれば、まったく違ってしまっていることもある。しかし、むしろその違いこそが時間の存在を実感させる。建物が崩れ、町が変わり、人がいなくなり、草木だけが残っているからこそ、人間は時間の流れを目に見えるものとして感じることができる。

 その意味で、『おくのほそ道』における「奥」という言葉を、単なる地理的な東北地方だけでなく、過去や記憶の奥へ向かう比喩として読むこともできる。ただし、これは作品全体の構造から導く文学的解釈であり、「奥」という語に芭蕉が必ずその意味を込めたと断定できるわけではない。

 それでも、旅が進むにつれて遠い土地へ向かう一方、芭蕉が西行や義経、奥州藤原氏といった過去の人々へ近づいていく構造は明らかである。そこに昔の世界がそのまま残っているのではなく、残っているのは痕跡であり、その痕跡と現在の風景を重ね合わせるところに『おくのほそ道』の大きな魅力がある。

変わらないために、変わり続ける

 「不易流行」という考え方を現代の生活に引き寄せてみると、それは決して古典文学だけの問題ではない。人間は年齢とともに変化し、住む場所や仕事、家族の形、身体の状態も変わっていく。十年前の自分と現在の自分では、生活も考え方もかなり違っているかもしれない。

 それでも、その変化のなかで長く残り続けるものがある。何を美しいと感じるのか、何を大切にしたいのか、どのような生き方を好むのかという感覚は、姿を変えながらも持続することがある。

 興味深いのは、その変わらない部分が、何も変化しない生活のなかではかえって見えにくいことである。環境が変わったとき、何かを失ったとき、知らない場所へ行ったときに初めて、自分が何を大切にしていたのかに気づくことがある。

 変化することによって、変わらないものが見えてくる。この構造を、不易流行という言葉と重ねて考えることができる。

芭蕉は自らの様式に安住しなかった

 芭蕉は晩年まで作風を変化させ続けた。ある様式を完成させ、それをそのまま繰り返すという道には進まず、後年には「軽み」と呼ばれる新しい境地を模索している。

 ここから「芭蕉は完成することを恐れていた」とまで心理を断定することはできない。しかし、少なくとも作品の変遷を見る限り、一度確立した自らの表現に安住しなかったことは確かである。

 人は一度成功した方法を手に入れると、それを繰り返したくなる。仕事でも芸術でも、成功した型を守る方が安全だからである。しかし同じ型を繰り返しているうちに、それが生きた表現ではなく、単なる慣習や癖になってしまうこともある。

 芭蕉の作風が生涯を通して変化したことを考えるならば、彼は少なくとも自らの表現を固定化することを選ばなかったと言える。旅先で新しい風景や人々、古い歴史の痕跡に触れ、その経験を通じて自らの俳諧を変化させていった。

 その意味では、旅は芭蕉にとって単なる移動ではなく、表現を更新するための重要な契機だったと考えることができる。

「月日は百代の過客にして」という言葉の向こう側

 『おくのほそ道』は、

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。

という有名な一節から始まる。

 この表現を読むと、芭蕉が時間そのものを旅人として捉えていたことが分かる。ただし、この発想も芭蕉だけが完全にゼロから生み出したものではない。中国・唐代の詩人である李白の「春夜宴桃李園序」には、「光陰者百代之過客」というよく知られた表現があり、芭蕉の冒頭はこうした中国古典文学の影響を受けていると考えられている。

 ここは、不易流行というテーマを考えるうえで非常に興味深い。芭蕉は過去の言葉をそのまま保存したわけではなく、古い文学から受け継いだ表現を、自らの旅の思想に結びつけ、新しい作品の冒頭として生かした。古いものを受け継ぎながら、新しい文脈へ置き直すという行為そのものが、まさに不易と流行の交差する場所にある。

 時間そのものが旅人であるなら、人間だけが一か所に留まり、これで完成したと言い切ることの方が不自然なのかもしれない。春が来れば花が咲き、夏には草が茂り、秋には葉が落ち、冬には雪が降るという循環は昔から変わらないが、同じ春は二度と訪れない。同じ桜の木であっても枝は少しずつ伸び、見る人間も一歳ずつ年を取っていく。

 そこに、「不易」と「流行」が同時に存在する。

芭蕉が旅を続けた理由

 では、なぜ芭蕉は旅を続けたのだろうか。

 その理由を一つに限定することはできない。芭蕉本人が「これが私の旅の唯一の目的である」と書き残したわけではない以上、後世の私たちができるのは、作品、門人の記録、旅程、作風の変化を手掛かりにして、その意味を慎重に考えることだけである。

 しかし、そこから見えてくる一つの像はある。芭蕉は旅を通して古人の足跡を訪ね、過去と現在を重ね、変わってしまった風景のなかに変わらない人間の姿を見いだそうとした。また、新しい土地や経験に触れることによって、自らの俳諧を変化させ続けた。

 つまり彼の旅は、新しいものだけを探す旅でも、古いものだけを守る旅でもなかった。過去を訪ねながら現在を見る旅であり、変化を経験しながら、その奥にある普遍的なものを探す旅だったと考えることができる。

 その意味では、「不易流行」という考え方は、芭蕉の俳諧理論を説明するためだけの言葉ではない。彼の旅そのものを読み解く鍵にもなる。

 変わらないものと変わるものは、二つの別々の世界に存在するのではなく、変わり続ける現実のなかにこそ、変わらないものが姿を現す。芭蕉が古人の跡を訪ねながら新しい句を生み出し、過去の言葉を受け継ぎながら自らの文学へと作り変えていった姿を見ると、そのことがよく分かる。

 芭蕉が三百年以上前に歩いた「細道」は、その意味ではまだ終わっていない。社会も仕事も暮らしも、そして私たち自身も変わり続けているが、その変化のなかで何を残し、何を変えるのかという問題は、現在を生きる私たちにもそのまま残されている。

 変わらないものを守るためには、ときには変わらなければならない。そして、正しく変わるためには、自分にとって何が変わらないものなのかを知る必要がある。

 芭蕉の旅が今も私たちを引きつけるのは、おそらく彼が歩いた道の珍しさだけによるのではない。変化のなかで何を残すのかという、人間が時代を超えて抱え続ける問いを、その旅と俳諧が今も私たちに投げかけているからなのである。

著者の関連ブログ

地域分析や暮らし、経済に関する情報をまとめています。

九条レオンの地域分析ブログ