リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

昭和の時代の中公文庫と三島由紀夫の関係を考えてみた

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 古本屋で昭和の中公文庫を眺めていると、ときどき時間の感覚がおかしくなる。少し黄ばんだ紙、小さな活字、いまより地味な装幀。その背表紙の中に三島由紀夫の名前を見つけると、三島という作家が昔からずっと「中公文庫の作家」であったように思えてくる。しかし出版年を確認してみると、この印象には一つ大きな錯覚が含まれている。

 現在につながる中公文庫が創刊されたのは1973年6月10日、昭和48年のことである。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したのは1970年11月25日だから、三島は現在の中公文庫を見ることなく亡くなっている。自分の本に中公文庫のカバーが掛かり、本屋の文庫棚に並び、電車の中で読まれる光景を、三島本人は一度も見ることがなかった。

 つまり三島由紀夫は中公文庫に何冊もの著作を残しているのに、1973年から始まる「中公文庫の時代」を一日も生きていないのである。

 この小さな時間のねじれから、中公文庫と三島由紀夫という組み合わせを眺めてみると、単なる出版社と作家の関係とは少し違ったものが見えてくる。中公文庫は三島という現役作家とともに歩いた文庫ではない。すでに亡くなっていた三島の文章を新しい形で刊行し、昭和後期の読者へ渡していった文庫だったのである。

 もちろん、三島と中央公論社との関係そのものは、彼の生前から存在していた。むしろそこにこそ、この出版史の面白さがある。生きている作家として中央公論社と関係を築いた三島が、死後には中公文庫の中で別の読者と出会っていく。その変化を、昭和の文庫本という小さな出版物から考えてみたい。

三島が死んだあと、中公文庫が始まった

 1973年6月10日に創刊された中公文庫の第1回配本には、谷崎潤一郎訳『源氏物語』、司馬遼太郎『豊臣家の人々』、安部公房『榎本武揚』、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』など、全部で十作品が並んでいた。日本の古典から現代文学、外国文学、思想書までを同じ文庫の棚に収めようとする構成であり、特定のジャンルだけではなく、時代や国境を越えた幅広い読書の機会を提供しようとする姿勢がうかがえる。

 その中公文庫に三島由紀夫が登場したのは早かった。創刊からわずか二か月後の1973年8月、『文章読本』が中公文庫になっている。三島が亡くなってから三年にも満たない時期であり、この文庫化は、彼の死後に新たな出版の形で著作が読者へ届けられていく過程の一つだった。

 ここで興味深いのは、中公文庫に最初に登場した三島の著作が、代表的な長編小説ではなかったことである。『仮面の告白』でも『金閣寺』でも『潮騒』でもなく、文章とは何か、文体とは何か、文学作品をどのように読めばよいのかについて三島自身が論じた『文章読本』だった。

 現在、三島由紀夫という名前を聞けば、小説とともに1970年11月25日の出来事を思い浮かべる人もいるだろう。しかし『文章読本』を開いたときに現れる三島は、そのような後世のイメージだけでは捉えられない。文章の種類や構造を考え、小説と戯曲、評論や翻訳における表現の違いを論じ、優れた文章の技巧や美しさを豊富な実例から分析している。

 そこにいるのは、劇的な死を選んだ思想家としての三島というより、文章という精密機械の構造を一つずつ分解して確かめようとしている職業作家である。文章の美しさを単なる感覚として称賛するのではなく、それがどのような仕組みによって成立しているのかを考え、読者にもその働きを見せようとしている。

 中公文庫から三島へ入る読者は、まずこのような三島に出会うことができた。もちろん、それが出版社の意図した読書の順序だったかどうかは分からない。しかし、1973年の中公文庫における三島の出発点が『文章読本』だったという事実は、三島由紀夫という作家の多面性を考えるうえで、なかなか示唆的なのである。

しかし、三島と「中公」の関係はもっと古い

 もっとも、三島と中央公論社との関係が1973年に突然始まったわけではない。ここには少しややこしい出版史がある。

 現在の中公文庫以前に、中央公論社には「中央公論文庫」という別のシリーズが存在していた。その中央公論文庫から1962年、三島由紀夫の『不道徳教育講座』が刊行されている。名前が似ているため、古書を眺めていると同じシリーズのように見えることもあるが、書誌上は1973年創刊の中公文庫と区別する必要がある。

 したがって、三島が「中公文庫の時代」を生きていないというのは、あくまで1973年に創刊された現在の中公文庫についての話である。三島が生前、中央公論社の文庫出版と無縁だったという意味ではない。この違いを押さえておかないと、中央公論社と三島との関係を実際より短く考えてしまうことになる。

 さらにさかのぼると、中央公論社は1955年4月に三島の長編小説『沈める滝』を刊行している。つまり中央公論社は、三島の評論や随筆だけを出版していたわけではなく、小説家としての活動とも早くから関係を持っていたのである。

 その後、1959年には『不道徳教育講座』と『文章読本』が中央公論社から刊行され、翌1960年には『続 不道徳教育講座』も刊行された。1959年の三島は三十四歳であり、すでに著名な作家として旺盛な執筆活動を続けていた。中央公論社の刊行物をたどるだけでも、小説を書く三島、文章を論じる三島、社会の常識を批評する三島という、いくつもの顔が現れてくる。

 『不道徳教育講座』にいる三島は、後世に形成された重苦しい三島像とはかなり違う。世間一般の道徳をわざと裏返し、本当にそれは正しいのかと読者をからかいながら問い直していく。もちろん単なる冗談を書いているわけではなく、常識というものを反対側から照らすことで、その不自然さや偽善性を浮かび上がらせようとしているのだが、そこには軽妙さと読者を楽しませる技術がある。

 一方、『文章読本』へ行けば、また違った三島が現れる。こちらでは文章というものを感覚だけで語るのではなく、さまざまな作家の文章を取り上げながら、文体や構造、表現の働きを分析し、自分が文学の何を美しいと考えているのかを説明していく。言葉の扱い方に対する強い意識は両者に共通しているが、読者への向き合い方はかなり異なっている。

 今日の私たちは三島由紀夫を、その最期を知ったうえで読む。しかし1959年の読者は違った。彼らにとって三島は死者でも伝説でもなく、次々と新しい文章を書く同時代の人気作家だったのである。その文章が将来どのような歴史的事件と結びつけて読まれることになるのか、当時の読者には知る由もなかった。

 中央公論社が刊行した本を年代順にたどると、後世に形成された巨大な三島像の奥から、その時々の「現在を生きていた三島」が少しずつ見えてくる。1973年以降の中公文庫は、その生前の活動から生まれた著作を、別の時代の読者へ受け渡す役割を果たしたのである。

中公文庫に残ったのは「小説家だけではない三島」だった

 1973年の『文章読本』に続き、中公文庫では1974年に『作家論』、1975年には『荒野より』や戯曲『癩王のテラス』、さらに『椿説弓張月』などが刊行されていく。

 ここから見えてくるのは、単純に「小説ではない三島」という分類ではない。三島はもちろん小説家であり、優れた戯曲も数多く書いた。しかし中公文庫の書目を眺めていると、代表的な長編小説だけでは捉えることのできない三島の輪郭が、次第に現れてくるのである。

 たとえば『作家論』で三島が見つめているのは、森鴎外や谷崎潤一郎、川端康成をはじめとする文学者たちである。しかし他人について書いた文章ほど、意外に書き手自身の文学観を明らかにするものはない。誰を高く評価するのか、作品のどこに注目するのか、どのような表現に美しさを見いだすのか。その選択を追っていけば、批評されている作家と同時に、批評している三島自身の考え方まで浮かび上がってくる。

 『荒野より』になると、作品の種類の境界はさらに曖昧になる。表題作の短編小説に加え、東京オリンピックをめぐる文章など、随筆や評論を含む多様な文章が収められている。そこでは、作家の日常、社会を見る目、文学についての思考が一冊の中で入り混じり、三島由紀夫という人物の輪郭が、代表作の中心からではなく、その周囲から浮かび上がってくる感覚がある。

 そして『癩王のテラス』や『椿説弓張月』まで視野を広げれば、舞台のために言葉を書く三島が現れる。戯曲は、小説とは異なり、登場人物の台詞や舞台上の行動によって世界を構成する文学である。とりわけ『椿説弓張月』は、曲亭馬琴の世界を踏まえながら歌舞伎の舞台を構想した作品であり、伝統的な演劇表現と現代作家としての創作意識が交わる場所に位置している。

 こうした本を続けて読んでいると、三島という作家が一つの表現形式にとどまっていなかったことを改めて実感する。小説を書く人間であると同時に、小説を分析する人間であり、他の作家を批評する人間であり、舞台の言葉を考える人間でもあった。

 これは『金閣寺』一冊を読む経験とはかなり違う。小説を読んでいるとき、読者は基本的に作品世界の中にいる。しかし『文章読本』や『作家論』へ移ると、突然その舞台裏へ連れていかれる。さっきまで絢爛たる文章を生み出していた作家本人が机の向こう側に座り、文章とはどのようなものか、この作家の何が面白いのかを語り始めるのである。

 いわば魔術を見せていた人間が、その魔術の仕掛けまで説明し始めるようなものだ。ところが不思議なことに、説明を読んでも魔術は消えない。それどころか、三島がどれほど意識的に言葉を扱っていたかを知ることで、小説へ戻ったとき、それまで気づかなかった表現の仕組みが見えてくる。

 中公文庫で三島を読む面白さの一つは、この往復運動の中にあるのではないだろうか。

それは中公文庫だけの特色だったのだろうか

 ただし、ここで一つ注意しておきたいことがある。中公文庫に評論や随筆、戯曲などが収められていたという事実から、ただちに中公文庫が他社とは異なる特別な編集方針を採っていたと結論づけることはできない。

 三島の著作は中央公論社以外からも数多く出版され、死後にはさまざまな出版社から文庫化されている。新潮文庫や角川文庫など、他の出版社における三島作品の刊行状況と比較しなければ、中公文庫が評論や戯曲を特に重視していたのか、それとも三島の膨大な著作活動を各社がそれぞれの形で紹介していた結果なのかは判断できない。

 その違いを確かめるには、各出版社が昭和後期に刊行した三島作品を年代順に並べ、小説、評論、随筆、戯曲などの分類ごとに作品数や構成比率を比較する必要がある。さらに、なぜその作品がその時期に文庫化されたのかを知るためには、当時の出版広告や編集者の証言、刊行計画なども確認しなければならないだろう。

 しかし、こうした比較がまだ十分に行われていないとしても、中公文庫に残された書目の意味が失われるわけではない。少なくとも『文章読本』『作家論』『荒野より』『癩王のテラス』『椿説弓張月』という作品群を通じて、読者が三島の多様な表現活動に触れられるようになっていたことは確かである。

 重要なのは、中公文庫だけが三島の多面性を発見したと考えることではない。むしろ、戦後の出版文化の中で多くの出版社が三島の著作を保存し、再刊していく過程に、中公文庫も独自の書目を通じて参加していたと捉える方が、出版史としては自然なのである。

1970年11月25日から三島を読むという誘惑

 三島由紀夫について考えるとき、どうしても一つの日付が巨大な重力を持つ。1970年11月25日である。

 あの日の出来事があまりに劇的だったため、それ以前の三島の文章まで、すべてが最後の日へ向かって書かれていたように読まれてしまうことがある。『太陽と鉄』を読んでも死への予兆を探し、小説の中に肉体や美や滅びが現れれば、そこから市ヶ谷での出来事を逆算したくなる。

 しかし、これは伝記や歴史を読む人間が陥りやすい錯覚でもある。私たちはある人物の人生の結末を知っていると、過去の出来事をその結末へ向かう一連の過程として理解しやすい。心理学でいう後知恵バイアスに通じる問題であり、結果が分かったあとでは、その結果が以前から予測可能だったかのように感じられることがある。

 もちろん、三島の文学と最期の行動との関係を考察すること自体が間違っているわけではない。実際、言葉と身体、精神と行動、美と死など、三島が繰り返し考えてきた主題には、晩年の思想や行動を理解するうえで重要なものがある。ただし、作品にそうした主題が現れていることと、後年の行動が必然的に導かれたこととは別の問題である。

 人生を最後まで知っている後世の読者と、その途中を生きている本人では、時間の見え方が違う。1959年に『文章読本』を書いていた三十四歳の三島には、その時点で取り組んでいる仕事があり、締切があり、読んでいる本があり、会っている人があり、次に書こうとしている作品があった。私たちはその文章を1970年11月25日の出来事と関連づけて読むこともできるが、それだけを唯一の解釈としてしまえば、当時の三島が向き合っていた文学上の問題を取り落としてしまう。

 三島を最後の日から逆向きに読むことには、確かに一つの意味がある。しかし、それだけでは人生の途中に存在していた多くの三島を十分に理解できないのである。

 文庫という形式には、その途中の時間を少しだけ取り戻す働きがあるのかもしれない。文庫本を開けば、歴史的大事件も作者の伝説も、とりあえず表紙の外側に置かれる。そこにあるのは数百ページの活字であり、読者は文章そのものと向き合うことができる。

 ただし、中公文庫が意図的に「三島を事件から文学へ引き戻した」とまで言うことはできない。そのような編集方針があったことを裏付ける資料や、文庫化によって読者の三島像が実際に変化したことを示す記録がなければ、そこまでの因果関係を確かめることはできないからである。

 それでも、中公文庫に残された書目を眺めれば、少なくとも一つのことは言える。そこには1970年11月25日だけでは説明できない三島由紀夫が、さまざまな文章の形で残されている。

昭和の終わりには「三島を覚えている人」の本まで並んだ

 さらに1986年、昭和61年には、澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』が中公文庫になっている。この本はもともと1983年12月に立風書房から単行本として刊行されたものであり、中公文庫版が登場したのは1986年11月10日のことである。三島が亡くなってから、ほぼ十六年が経過していた。

 ここまで来ると、中公文庫の中の三島は新しい段階へ入る。三島本人が書いた文章を読むだけではなく、「三島を知っていた人が三島について書いた文章」まで文庫棚に加わるからである。

 澁澤龍彦は三島と親交があり、文学や芸術をめぐって交流を重ねた人物だった。その澁澤が書く三島は、教科書に載っている「昭和を代表する文学者」という抽象的な存在だけではない。実際に会い、話し、同じ時代の文学的な空気を共有した人間の記憶の中にいる三島である。

 もちろん、親しい同時代人が書いた回想だからといって、その内容のすべてが客観的な事実として保証されるわけではない。記憶には選択や解釈が入り込み、書き手自身の価値観も反映される。しかし、だからこそ回想には、年譜や作品解説だけでは見えてこないものがある。澁澤がどのような三島を覚えていたのか、どのような言葉や振る舞いに注目していたのかを読むことで、私たちは三島自身の文章とは異なる角度から、その人物像へ近づくことができる。

 1970年には生々しい現在だった出来事が、1986年には次第に文学史や記憶の領域へ移り始めていた。しかし、それは単純に過去の出来事になったということではない。三島を直接知っている人々がまだ文章を書き、その体験を新しい読者へ伝えることのできる時代でもあった。

 ここまで中公文庫の書棚を歩いてくると、文庫というものが単に名作を安価に再刊する仕組みではないことが見えてくる。一人の作家が書いた本が残り、その作家が他人について論じた文章が残り、さらにその作家を知っていた人間が書いた記憶まで残る。こうして一人の文学者は、一冊の代表作や一つの事件だけではなく、複数の本の関係として保存されていく。

 三島由紀夫ほど、その仕組みを考える材料が豊富な作家も、そう多くはないのではないだろうか。

『太陽と鉄』を加えると、話はもっと複雑になる

 そして昭和の中公文庫と三島の関係を考えるとき、見逃せない一冊が1987年11月、昭和62年に中公文庫となった『太陽と鉄』である。この文庫には『私の遍歴時代』も収録されていた。

 この本まで視野に入れると、「中公文庫は三島を事件から切り離した」という単純な説明が成り立たないことが分かる。

 『太陽と鉄』で三島が考えているのは、言葉と身体、精神と肉体、文学と行動という問題である。文章を書くことと身体を鍛えること、精神の内部で形成される世界と、身体によって外部へ働きかける世界との関係が、一人の作家の自己認識を通じて論じられている。それらは晩年の三島を理解するうえで避けて通ることのできない主題であり、1970年の行動との関係を考える余地もある。

 ただし、『太陽と鉄』に肉体や行動への強い関心が表れているからといって、それが1970年の事件を直接引き起こしたと結論づけることはできない。文学作品の主題と作者の現実の行動との間には複雑な関係があり、作品に書かれていることだけから、後の行動の原因や必然性を証明することはできないからである。

 一方、同じ文庫に収められた『私の遍歴時代』は、三島が自らの文学的な歩みを振り返る文章である。『太陽と鉄』が言葉と肉体の関係を考える作品だとすれば、『私の遍歴時代』は、作家としての形成過程に目を向ける機会を与えてくれる。両者を併せて読むことで、読者は晩年の三島が何を考えていたのかという問題と、そこへ至るまでにどのような文学的経験を重ねてきたのかという問題を、行き来しながら考えることができる。

 つまり中公文庫に残った三島は、政治や肉体や死を取り除いた「純粋な文学者三島」ではないのである。文章について考える三島がいて、他の文学者を批評する三島がいて、世間の道徳をからかう三島がいて、戯曲を書く三島がいて、肉体と言葉の関係を考える三島がいる。その複数の姿を読み重ねることによって、1970年の出来事についても、一人の作家が長年考えてきた問題と照らし合わせながら、多面的に考察することができる。

 事件を無視する必要はない。しかし、事件だけで作家の全体を説明しようとすれば、そこからこぼれ落ちるものが必ず出てくる。その違いを意識することが、三島を読むうえでは重要なのだと思う。

文庫という形式は、読者をどのように変えるのか

 ここで少し視点を変えて、文庫という出版形式そのものについて考えてみたい。

 単行本として刊行された作品が文庫になると、一般には判型が小さくなり、持ち運びやすくなり、価格も比較的抑えられる。すでに刊行された作品を新しい読者へ届けるうえで、文庫化が重要な役割を果たしてきたことは間違いない。

 しかし、文庫になったという事実だけで、その作品の読者数が増えたとか、読者の理解が変わったとか、社会的な評価が高まったとまで言うことはできない。そうした影響を確かめるには、発行部数や増刷回数、販売状況、書評や読者の反応など、別の資料が必要になる。

 それでも、出版形式が読書体験に影響する可能性は十分に考えられる。立派な装幀の単行本を机の上で読む場合と、文庫本を鞄に入れて電車の中で読む場合とでは、同じ文章であっても、その文章と読者との距離感は少し違ってくるのではないだろうか。

 作家の全集も、文庫とは異なる形で文学作品を保存する。全集は著作を体系的に収め、作家の活動全体を見渡すための重要な資料となる。一方、文庫は一冊ずつ選んで購入し、必要な作品から読み始められるという特徴を持つ。どちらが優れているという問題ではなく、同じ文学者を保存するうえでも、それぞれ異なる役割を担っているのである。

 とくに三島のように、生前から著名であり、死後にはその最期まで大きな社会的関心を集めた作家の場合、全集によって作品の全体を確認することと、文庫によって一つの著作を日常の読書に取り入れることには、それぞれ違った意味がある。

 全集を開くとき、私たちは三島由紀夫という大きな作家の全体像を意識しやすい。しかし文庫本を一冊だけ手に取るときには、必ずしも三島の全生涯を考える必要はない。文章について知りたければ『文章読本』を読み、文学批評に興味があれば『作家論』を読み、戯曲に関心があれば『椿説弓張月』を読むことができる。

 そのような読み方の自由こそ、文庫という形式が持つ魅力の一つなのかもしれない。

文庫本になると、三島は少し小さくなる

 三島由紀夫という人物には、どうしても巨大な映像がつきまとう。

 鍛えられた肉体、写真、制服、演説、市ヶ谷、割腹、そして死の直前に完成した『豊饒の海』。一つ一つの像があまりに強いため、普通に机へ座り、原稿用紙に文章を書いていた職業作家としての三島が、その陰に隠れてしまうことがある。

 ところが昭和の古い中公文庫を一冊手に取ると、その巨大な三島が不思議なほど小さくなる。もちろん価値が小さくなるという意味ではない。手のひらに収まるのである。

 『文章読本』を電車で読み、『作家論』を寝る前に数ページ読み、『荒野より』を喫茶店で開き、『太陽と鉄』を鞄に入れて持ち歩くことができる。歴史映像の中にいた人物が文庫本になると、突然、読者のすぐ隣へやってくる。そこには演説の声も制服もなく、ページを開けば、言葉を選び、組み立て、何かを伝えようとした一人の作家の文章がある。

 文庫というものは、作家を小さくすることによって、かえって長く生かす装置なのかもしれない。

 全集は作家を大きく保存する。何巻も並んだ立派な全集は、その人物が文学史上の重要人物であることを、物理的な存在感によって示している。一方、文庫本は作家を小さくして鞄に入れ、電車へ乗せ、旅先へ連れていき、枕元へ置く。全集が作家を記念碑のように保存するものだとすれば、文庫は作家を再び読者の日常生活へ戻すものだとも言えるだろう。

 もちろん、全集も日常的に読み継がれることがあるし、文庫本が書棚に並べられたまま読まれないこともある。出版形式だけで読者の行動が決まるわけではない。それでも、文庫が作品への接近を容易にし、読者にさまざまな入り口を用意してきたことには、文学の継承という点から考える価値がある。

 こう考えると、三島由紀夫と中公文庫の関係は、一人の作家がどの出版社から何冊の本を出したかという問題だけではなくなる。作家が亡くなったあと、その著作がどのような形で残され、どのような読者に再び開かれていくのかという、より大きな問題につながっていくのである。

中公文庫の棚には「複数の三島」が残った

 考えてみれば、三島由紀夫本人は1973年に生まれた現在の中公文庫を知らない。創刊当初から用いられてきた鳥を図案化したマークを見ることも、自分の『文章読本』が小さな文庫本になって書店へ並ぶところを見ることもなかった。

 それでも昭和48年以降、中公文庫の棚には三島がいた。しかも、そこに残ったのは一つの姿に固定された三島ではない。

 文章について考えている三島がいる。他の作家を論じている三島がいる。道徳をひっくり返して読者を挑発する三島がいる。戯曲を書き、舞台の表現を考える三島がいる。自分の身体や精神について考えている三島がいる。そして、その三島を覚えている澁澤龍彦のような同時代人の文章まである。

 これらの書物は、すべて同じ役割を持つわけではない。三島自身の著作と、三島について他人が書いた回想では、資料としての性格が異なる。小説と評論と戯曲では、作者の考えが表れる方法も違う。だからこそ、それらを同じ作家の周囲に並べて読むことには意味がある。一つの作品からは見えなかったものが、別の作品を読むことで見えてくる場合があるからである。

 もちろん、こうした多面性は中公文庫だけによって保存されたものではない。三島の著作を刊行してきた多くの出版社や、全集の編集、文学研究、同時代人の証言などが重なり合うことで、私たちは今日、三島由紀夫という作家をさまざまな角度から読むことができる。その中で中公文庫は、評論や随筆、戯曲などの書目を通じて、三島の多様な側面に触れる入り口の一つとなってきた。

 昭和後期の中公文庫を年代順に眺めていくと、三島由紀夫という作家が一枚の有名な写真や一日の歴史的事件へ収束するのではなく、反対にいくつもの方向へ広がっていくように感じられる。これは出版社が意図的に作り上げた像だったと断言することはできないが、実際に残された書目から読み取ることのできる、一つの文学的な風景ではある。

 三島を「事件から文学へ戻した」とまで言う必要はない。もともと三島の文学は、その事件だけに収まるものではなかったのである。

 おそらく、そこが中公文庫と三島由紀夫の関係を考えるとき、最も面白いところなのだと思う。

昭和の文庫本が、作家を現在形にする

 一人の人間について私たちは、どうしても最も劇的だった一場面で記憶してしまう。歴史上の人物であれば、その人が何を成し遂げたのか、どのように生涯を終えたのかという、分かりやすい出来事を中心に理解しようとする。

 しかし文学者の場合、その人が亡くなったあとにも文章は残る。そして文章が読み続けられる限り、その人物についての理解は一つに固定されない。新しい読者が別の作品を読み、以前とは違う問いを持ち、異なる時代の経験から文章を解釈することによって、作家の姿は少しずつ変わっていく。

 文庫は、そのための小さな装置なのだろう。

 事件によって作家を記憶することもできる。写真によって記憶することもできるし、伝説によって記憶することもできる。しかし文庫には、それらとは違う方法がある。何十年たっても、もう一度その人の文章を読ませるのである。

 1973年の中公文庫創刊から半世紀以上が過ぎ、三島由紀夫が亡くなってからも五十年以上の歳月が流れた。昭和の古い中公文庫は、いまではそれ自体が古書として扱われる存在になっている。しかし古本屋の棚から一冊を抜き出してページを開けば、そこにいる三島は、まだ完全に過去の人物になりきっていない。

 読者が『文章読本』の文章を読みながら表現の仕組みを考えるとき、あるいは『作家論』を読みながら文学についての判断に向き合うとき、そこにある言葉は単なる過去の記録ではなくなる。かつて三島が考えた問題が、いま読んでいる人間の思考の中で、もう一度動き始めるからである。

 読者が文章を読み始めた瞬間だけ、作家は再び現在形になる。

 昭和の中公文庫が残したものを考えていると、結局そこへ行き着く。文学者の著作を後世へ伝える方法は、全集や記念館、研究書など数多くある。そのどれもが重要な役割を担っているが、誰かが何気なく手に取ることのできる小さな一冊にも、それらとは異なる力がある。

 三島由紀夫は中公文庫の創刊を見ることなく亡くなった。しかし、その死後に刊行された中公文庫の中には、生前の三島がさまざまな時期に書いた文章が残されている。読者はそこから好きな一冊を選び、1970年11月25日という日付だけでは説明できない、一人の作家の思考と表現に出会うことができる。

 古い文庫本の黄ばんだ紙をめくるとき、私たちは昭和という過ぎ去った時代を眺めているだけではない。その時代に書かれた言葉を、自分が生きている現在の時間へ迎え入れているのである。

 作家が生きた時間と、読者がその作品を読む時間は、必ずしも一致しない。三島が生きていた時代にまだ存在していなかった中公文庫が、半世紀以上を経た今も、その文章を新しい読者へ届けていることは、その一例と言えるだろう。

 文学者を長く生かすものは、巨大な記念碑だけではない。古本屋の棚の片隅で、次の読者が手を伸ばすのを待っている、一冊の小さな文庫本なのかもしれない。

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