リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

なぜ太宰治は誰でも知っているのに、同じ無頼派の織田作之助は知られていないのか

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 「太宰治を知っていますか」と尋ねれば、小説をほとんど読まない人でも、その名前くらいは聞いたことがあるだろう。『人間失格』を思い浮かべる人もいれば、中学校の国語で読んだ『走れメロス』を思い出す人もいる。作品を一冊も読んでいなくても、「心中した作家」「暗い作家」「破滅的な人生を送った人」といった断片的な人物像まで知っている人は珍しくない。

 もちろん、「誰でも知っている」という言い方を文字どおり受け取ることはできない。日本人全体を対象に太宰治と織田作之助の知名度を比較した大規模な無作為調査があるわけではないからである。それでも、現在の出版状況や作品へのアクセス数、教科書への掲載状況などを見るかぎり、太宰治と織田作之助の社会的な知名度にかなり大きな差があること自体は否定しにくい。

 では、「織田作之助を知っていますか」と尋ねたらどうだろう。

 文学好きなら、『夫婦善哉』の作者としてすぐに名前が出るかもしれない。しかし一般には、作品名を聞いたことはあっても作者までは知らないという人もいるだろう。ところが文学史の本を開けば、太宰治と織田作之助は、坂口安吾や石川淳らとともに「無頼派」と呼ばれる戦後文学の作家として近い位置に並べられている。

 そもそも無頼派とは、同じ綱領を掲げ、同じ雑誌を中心に活動した正式な文学結社の名称ではない。敗戦後の既成道徳や文学的権威に背を向けるような姿勢を見せた作家たちを、後世の文学史が一つのまとまりとして呼んだ言葉である。したがって太宰と織田が同じ無頼派だからといって、その作風や人生、読者層まで似ていたわけではない。

 それでも文学史上では近い場所にいる二人が、八十年近く後の社会ではこれほど異なる知名度を持っている。この差を単純に「太宰の方が優れた作家だったから」と説明してしまえば話は簡単だが、おそらくそれでは重要なものを見落としてしまう。文学作品が後世に残るかどうかは、その文学的価値だけで決まるわけではなく、学校教育、出版、映画やテレビ、地域文化、さらには作者自身の人生の語られ方まで含めた巨大な仕組みの中で決まっていくからである。

太宰治には、人生の違う時期に何度も出会う

 太宰治の知名度を考えるうえで、まず見逃せないのが『走れメロス』である。

 現在の中高年世代にとっても若い世代にとっても、『走れメロス』は国語教材として非常に馴染みの深い作品であり、その教科書採録の歴史は1950年代までさかのぼる。つまり日本では何十年にもわたり、中学生になると一定数の子どもたちが学校という制度を通して「太宰治」という名前に出会う仕組みが続いてきた。

 ここで重要なのは、『走れメロス』そのものが太宰治を有名にしたと単純に考えないことである。太宰がすでに重要な作家だったから教材として選ばれ、その教材化によって次の世代が太宰を知り、その知名度がさらに出版や研究を支えるという循環が起きたと考える方が自然である。人気が教科書掲載を生み、教科書掲載がさらに人気を強化するという相互作用であり、この循環が数十年続けば、一回限りのベストセラーとはまったく違う文化的な強さを持つことになる。

 しかも太宰との出会いは、中学校で終わらない。

 『走れメロス』で知った太宰が、数年後には『人間失格』の作者として再び現れるからである。友情と信頼を描く『走れメロス』と、「恥の多い生涯を送って来ました」という言葉から始まる『人間失格』を比べれば、同じ作家の作品とは思えないほど印象が違う。しかしその違いこそが、太宰の知名度を支える強みになっている。

 中学生のころには友情を描く作家として太宰に出会い、その後、自意識や孤独、人間関係の息苦しさといった問題に向き合う年代になると、『人間失格』や『斜陽』を通してもう一度太宰に出会う読者もいる。一人の作家が、人生の異なる時期に異なる作品によって何度も読者の前へ戻ってくるのである。

 この「入口の多さ」は数字にも表れている。青空文庫の2022年年間アクセスを見ると、テキスト版では『人間失格』が約41,000、『走れメロス』が約20,000であるのに対し、『夫婦善哉』は約2,000にとどまる。閲覧形式によって数字は変わるものの、『人間失格』と『夫婦善哉』の間には十倍を大きく超える差が見られる。

 もちろん、青空文庫の利用者は日本国民全体を無作為に抽出した標本ではないから、この数字から「太宰の知名度は織田の二十倍だ」と結論することはできない。しかし少なくとも、現在のオンライン上で古典文学に接触する人々のあいだで、太宰作品への接触量が圧倒的に多いことは分かる。

 しかも太宰には一冊だけが突出しているのではなく、『人間失格』『斜陽』『走れメロス』という性格の異なる作品が、それぞれ独立した入口として存在している。ここに織田作之助との大きな違いがある。

太宰治は、作者自身まで「物語」になった

 さらに太宰には、作品とは別のもう一つの強力な入口がある。それが「太宰治という人物」である。

 文学研究として作品を読むなら、主人公と作者本人を単純に同一視するべきではない。『人間失格』の大庭葉蔵を、そのまま太宰治本人だと考えるのは乱暴である。しかし社会の中で作家のイメージが形成される過程では、作品と作者の人生はしばしば混ざり合う。

 自殺未遂、薬物への依存、女性関係、文学者との対立、そして最後の入水という太宰の人生へ、『斜陽』や『人間失格』の世界を重ねると、作者自身の人生まで一つの文学作品のように見えてくる。とりわけ1947年の『斜陽』は「斜陽族」という言葉まで社会に生み出し、その翌年には『人間失格』が発表され、その直後に太宰自身が亡くなる。

 この出来事の並びには、偶然とはいえ強烈な物語性がある。作品を書き終えた作家が、その作品の余韻の中へ自ら消えていったように見えてしまうからである。

 人は小説の細部を忘れても、物語を覚えている。そして太宰治の場合、その物語は作品の中だけではなく作者自身の人生にも存在した。死後の知名度を考えるなら、この「作者そのものが語られ続ける構造」は無視できないだろう。

 ただし、ここにも注意が必要である。太宰の人生が劇的だったから現在まで人気が続いた、と直接証明できる研究があるわけではない。より慎重に言えば、太宰の人生が作品と結びついて繰り返し語られてきたことが、彼の名前を忘れにくくする一つの要因になった可能性が高い、というところまでである。

織田作之助は、有名になる前に死んだわけではない

 これに対して、織田作之助についてしばしば生まれやすい誤解がある。それは、「有名になる前に若くして死んだ作家」というイメージである。

 実際にはそうではない。

 織田は1913年に大阪で生まれ、1947年1月10日、33歳で亡くなったが、その前年には『世相』などによってすでに売れっ子作家となっていた。したがって、織田は無名のまま死んだのではなく、戦後文学の表舞台へ出たところで急死したのである。

 そして、この「出たところ」という時間が重要だった。

 織田が亡くなった1947年に、太宰は『斜陽』を発表し、翌1948年には『人間失格』を残して亡くなる。現在の私たちが「太宰治」と聞いて思い浮かべる代表作と作者像のかなりの部分が、この最後の一年半ほどのあいだに集中して形成されたのである。

 織田作之助にも、その後さらに十年、あるいは二十年の執筆時間があったなら、別の代表作が生まれた可能性も、新しい読者層を獲得した可能性もある。しかしこれは反実仮想であり、証明することはできない。確実に言えるのは、織田が売れっ子になった直後に亡くなったため、その人気を複数の代表作や長期的な作家像へ展開する時間をほとんど持てなかったということである。

 太宰も38歳という若さで亡くなっているから、単純に「長生きした太宰と早死にした織田」という比較にはならない。むしろ重要なのは、二人が死ぬまでの数年間に何を残したかというタイミングの違いなのである。

『夫婦善哉』は織田作之助を有名にし、同時に「大阪の作家」にした

 織田作之助には、『夫婦善哉』という強烈な代表作がある。

 1940年に発表されたこの作品は織田の出世作となり、1955年には豊田四郎監督、森繁久彌と淡島千景主演で映画化された。映画『夫婦善哉』は日本映画史でも高く評価され、出演した二人の代表作として語られるほどの作品になった。

 普通に考えれば、これほど強い代表作を持つ作家なら、その名も太宰と同じくらい知られていてよさそうに思える。

 しかし、ここに少し皮肉なことが起きる。

 『夫婦善哉』は、あまりにも見事に「大阪の物語」だった。

 大阪大学の斎藤理生による研究でも、『夫婦善哉』が織田作之助を「大阪の作家」として印象づけ、そのイメージが後世まで強く残ったことが論じられている。もちろん、大阪を書いたこと自体が文学的な弱点なのではない。むしろ織田文学の魅力は、法善寺や道頓堀、上町台地、食べ物、商売、男女関係、金銭感覚といった具体的な土地の感触が作品の中に染み込んでいるところにある。

 人物たちは人生の意味について大仰な哲学を語るより、食べ、働き、惚れ、金に困り、それでも翌日を生きている。

 太宰の人物が「なぜ自分は人間とうまく生きられないのか」と内側へ沈んでいくとすれば、織田の人物は「それでも明日は腹が減る」と街へ出ていく。その違いは文学として非常に面白い。

 ところが文化の記憶という面では、具体性の強さが別の作用を持つことがある。太宰が描いた孤独、自意識、自己嫌悪は、東京でも大阪でも北海道でも、あるいはインターネット社会に生きる若者でも自分自身の問題として読み替えやすい。一方、織田作之助の大阪は具体的であるがゆえに、「大阪文学」「大阪もの」という棚へ分類されやすい。

 本来なら、織田は大阪という場所を通して普遍的な人間を書いた作家である。それでも受容する側が作品を「大阪の話」として整理してしまえば、作家のイメージまで地域に限定される可能性がある。

 ただし、これも「大阪の作家と見なされたから全国的な知名度が低くなった」と因果関係を断定することはできない。言えるのは、「大阪の作家」という強いイメージが、織田作之助の受容の仕方を長く規定してきたというところまでである。

『夫婦善哉』という作品だけが歩いていったのか

 もう一つ、織田作之助には興味深い現象がある。

 『夫婦善哉』という言葉そのものが、作者を離れて一人歩きできるほど強いのである。

 映画として知った人もいれば、大阪の法善寺周辺の文化からその名前を知った人もいる。しかし「夫婦善哉」という言葉を知った人が、必ずそこから「織田作之助」まで戻ってくるとは限らない。

 これに対して、『人間失格』と聞けば太宰治、『走れメロス』と聞いても太宰治という結びつきはかなり強い。しかも一つの作品から作者へ戻ると、その先に『斜陽』や『女生徒』など別の作品があり、そこから再び「太宰治」という作家像が強化されていく。

 『夫婦善哉』は織田作之助という作家を世に出した作品でありながら、あまりに作品自体の生命力が強かったため、その題名だけが作者から離れて文化の中を歩いてきたようにも見える。

 ただし、これを事実として断定するには、「『夫婦善哉』を知っているが織田作之助を知らない人がどれほどいるか」という知名度調査が必要になる。現段階では、これはあくまで文化的な現象を説明する仮説である。しかし少なくとも、代表作が有名になれば作者も同じ割合で有名になるとは限らない、という問題を考えるきっかけにはなる。

有名な作家ほど優れた作家なのか

 ここまで考えてくると、太宰治と織田作之助の話は、二人だけの問題ではなくなってくる。

 私たちは文学史を眺めるとき、現在でも有名な作家ほど「昔から特別に優れた作家だった」と無意識に考えがちである。しかし知名度は文学的価値だけから生まれるわけではない。学校の教科書に載るか、安価な文庫として何十年も流通するか、映画やテレビで繰り返し作品が紹介されるか、代表作が複数存在するか、作者本人の人生に語りやすい物語があるかといった条件が重なり、その結果として私たちはある名前を「誰でも知っている作家」と感じるようになる。

 そこには、心理学でいう反復接触の問題も関係している。人間は同じ対象に繰り返し接触すると、その対象を認識しやすくなり、親近感を持ちやすくなることが知られている。文学でも、学校で名前を見て、書店で再び見て、映画やテレビでまた見れば、その作家は文化の中でますます「知っていて当然の存在」になっていく。

 そして一度その状態になると、人気はさらに人気を呼ぶ。

 売れているから文庫が残り、文庫が残っているから新しい読者が読み、読者が多いから映像化され、映像化されるからさらに名前が知られる。文学的価値とは別に、「記憶されやすい作家がさらに記憶されやすくなる」という自己増殖的な循環が生まれるのである。

 太宰治はまさにこの循環に入った作家だったと考えることができる。

 もともとの文学的人気が教科書や文庫を支え、教科書や文庫が次世代の読者を生み、その巨大な読者層が『人間失格』『斜陽』『走れメロス』という複数の代表作を維持し、その上に太宰本人の劇的な人生まで重なった。

 一方の織田作之助も、決して忘れ去られた作家ではない。作品は現在も刊行され、研究も続いている。1024年にも新しい傑作選が刊行され、2026年7月にも新たな作品集が出版されている。大阪では文学碑や顕彰活動もあり、『夫婦善哉』も読み継がれている。

 したがって、「太宰は残り、織田は消えた」と考えるのは正確ではない。

 太宰は日本社会全体の共有記憶に深く入り込み、織田は文学史と大阪文化の中に濃く残ったのである。

作家の知名度とは、名前を呼ばれた回数なのかもしれない

 そう考えると、太宰治と織田作之助の知名度差は、文学作品の優劣を示す成績表には見えなくなってくる。

 むしろそれは、一つの社会がその作家の名前を何度思い出す仕組みを持っていたかという「文化的記憶の履歴」なのではないだろうか。

 太宰治という名前は、中学校の教室で呼ばれ、書店の文庫棚で呼ばれ、映画や舞台で呼ばれ、若者の孤独を語る文章の中で呼ばれ、作家の破滅的な人生を語るたびにまた呼ばれてきた。一度呼ばれた名前が次の機会を生み、その機会がさらに次の世代へ名前を渡していく。

 織田作之助という名前も大阪では何度も呼ばれてきた。しかし、日本全国で、しかも十代から大人になるまで何度も同じ名前に出会う仕組みという点では、太宰ほど巨大な反復回路を持たなかった。

 その小さな差が、一年や十年ではなく、八十年近く積み重なった。

 だから現在の知名度は、文学者に対して後世が与えた最終成績ではない。優れた作品だから残った部分もあれば、残る仕組みに入ったからさらに評価された部分もある。その二つを完全に切り分けることは難しい。

 そして、そこまで考えたとき、織田作之助は急に面白い作家になる。

 私たちはそこで、「知られていない作家」を発見するだけではないからである。

 なぜ自分は太宰治を知っていて、織田作之助を知らなかったのか。

 その問いをたどっていくと、教科書、出版社、映画、地域、文学史、読者の記憶という巨大な仕組みが見えてくる。そして最後には、私たちが「名作」や「有名な作家」と呼んでいるものが、作品そのものだけで作られているわけではないことにも気づかされる。

 文学史とは、優れた作品を順番に並べた一覧表ではない。

 そこには、何度も名前を呼ばれた作家と、同じ時代に確かに読まれていたのに、次第に呼ばれる回数が減っていった作家がいる。

 太宰治と織田作之助のあいだにあるのは、単なる人気の差ではない。

 それは、社会が文学をどのように記憶し、どのように忘れていくのかという、もっと大きな問題なのである。

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